2011年6月11日土曜日

被災地復興 ― 「正解」探しに意義はあるか?

停止原発再稼働に手間取り、関西電力が15%節電を要請。西日本でもこの夏の電力事情が厳しくなった。大阪府の対応もあって調整に時間がかかりそうだ。また、義援金の支給が滞り、生活難を訴える人が増えている。仮設住宅の建設が遅れている。当選しても入居しない人がいる。被災で失業した人が余りに多い、ミネラルウォーターの増産はすでに限界、この先どのくらい需要が増えそうか見当がつかない・・・・。


とにかく、あらゆる側面で経済問題が拡大再生産されている。
こんな時、政府は何をするべきであるか?正解は何か?
正論と誤論を識別する勘所はなにか?


そんな風な議論が非常に増えている。


小生は、(別に不真面目な気持ちで話を混ぜ返す気持ちは毛頭ないのだが)、正しい判決とは何なのか?「正しい判決」なんてものはあるのか?正直なところ、こんな気持にかられるのであります。


そんな疑問を感じつつある小生にとって参考になった記事を紹介したい。


まず少し古い地元新聞の記事だが(日数が経ってアクセスできなくなっていたら御免なさい)


被災者嘆き、怒り 復興、原発そっちのけの政争劇 (福島民報:2011/06/03 08:50配信)

政治という場は、実行するべき政策を決める場なのだから、与党と野党が主張をぶつけあって、適切だと思われる選択肢を選びとってほしい。われわれ有権者はそう期待するものだ。しかし、こんな気持が強くなりすぎると、誤った選択はしないでほしい、正しいやり方を選んでほしい。そんな感情が表に出てくるのではないだろうか?これはよいこと(?)なんだろうか?

正しい政策って何だ?

兄弟への義援金支給に対する疑問 (佐藤健 政治ブログ)
確かに全国から被災者支援のために義援金を贈った人たちの気持ちは、困っている人の助けになりたい。その一心だ。だから、経済的に必ずしも困窮してはいない人達にまで、機械的に配分されてしまうとすれば、贈った人の一片の赤心が活かされない。確かにそうである。小生も上のブログの筆者には敬意を表する。とはいえ、敬意を表するから、上のブログの筆者の主張が「だから正しい」とも、どうしても思われないのである。

「正しい」ということは、(仮に正しい、誤りという区別が数学のようにできるとしても)最も大事なことなのだろうか?あなた達がやっていることは、「誤り」だと専門家が指摘をしたら、当事者は必ずやり方を変えなくてはならないのだろうか?たとえ、当事者たちが納得していることであっても。

小生の好きなブログにDani Rodrik's weblogがある。次の記事は5月だから相当日数が経ってしまっている。しかし内容ははっきり記憶に残っている。


上の記事の中の第1パラグラフの最後にある"Here is the result"のHereをクリックすると、Rodrik氏がProject Syndicateに寄稿した元記事が出てくる。Rodrik氏は、自由な市場には強い政府が不可欠なこと、政府の果たすべき役割の大きさを認めつつ、なぜ民主主義が最も大切なのかを議論している。そのサビの所を以下に引用したい。

Well-functioning markets are always embedded within broader mechanisms of collective governance. That is why the world’s wealthier economies, those with the most productive market systems, also have large public sectors.
Once we recognize that markets require rules, we must next ask who writes those rules. Economists who denigrate the value of democracy sometimes talk as if the alternative to democratic governance is decision-making by high-minded Platonic philosopher-kings – ideally economists!
But this scenario is neither relevant nor desirable. For one thing, the lower the political system’s transparency, representativeness, and accountability, the more likely it is that special interests will hijack the rules. Of course, democracies can be captured too. But they are still our best safeguard against arbitrary rule.


最も大事なことは、「決め方」なのである。そう言っている。
専門家が政府をハイジャックする事態は往々にして発生する。それが最も怖いことであると言っている。もちろん国民大衆一般が一人のカリスマと犬の如き取り巻きに扇動されて、集団的にとんでもない選択をしてしまうことはある。しかし権力を少数の政治家に委任してはいけない。これは危険を避ける一般原則として認めていいじゃないか。Rodrik氏の言いたいことはこれに尽きる。エリートは必ず暴走して失敗する。ま、なんども繰り返されていることではあります。
エリートは賢いから間違いに気がつく。ということは、自分が正しいと考えるわけであります。それをデータで証明する学力もある。かつ自意識が強い彼らは、相互に批判しあう。誰の意見が最も正しいのか。その決着を求める。これは普通の人にとっては、Special Interestであります。これを戒めている。

この点は小生も非常に賛成なのだ。

今日の投稿で言いたいことは、正しいか誤りかを議論するよりも、結論に至るまでの手続きが公開された民主的なものであったかどうか。それが最も重要な点である。この一点なのだ。
小泉純一郎という奇蹟 (池田信夫blog part 2)
小泉内閣が駆使した政治権力は最近ではトップクラスである。しかし、今でも元首相の採った政策が正しかったか、誤りであったかを論じる専門家が後を絶たない。ここでも正しいか、間違っていたか、である。正直なところ小生は、済んだことを再びとりあげるレバタラ論と同次元に聞こえてしまうのだ。実験ができませんからね。時間を元に戻して、違ったやり方でもう一度試してみることができない。
小泉元首相は劇場型宰相と言われたが(変人宰相とも呼ばれた)、アメリカのレーガン元大統領はGreat Communicatorと言われていた。政治の本質は、正しいか誤りかを論じることではない。説得する、信用させる、同調させることではないのか?小泉純一郎という人の奇蹟は、彼の内閣が正しい政策を奇蹟的にも選択した、ということよりも、今はそれをやろうと多数の国民に同調させた、それができたという事実の方でありましょう。
政治家の好きな「信なくば立たず」という格言は、この辺りの機微を伝えているのであって、一般国民も一緒に参加して決めている。民主主義社会の政治に本当に迫力と凄みが出てくるのは、ここからだと思うのだ ―― 現在の菅内閣から、そんな迫力が全く伝わってこないのは、政治家のトップである人が専門家の意見をききすぎること。政治家としては、端的にいって、大失敗だと感じる。あれでは国民は置き去りにされていると思うに決まっているではないか。やり方がまずい。民主主義の原理を理解していないと思う所以です。
次の記事の内容は小生と大体同じ考え方にたっている。参照元はReal-Japan.orgで、この貴重な論壇を小生はごく最近知った。


増税か国債か?専門家にとっては大事な議論ではあるが、どちらでもいいのですよ。つけを回された将来世代があるとすれば、そこでまた考えてもらえばいいではないですか。「先祖は色々と苦心したのだなあ。よし俺達も頑張ろうぜ」と言ってくれれば望外の幸せだ。
第2次世界大戦の悲惨な結末を間接的にしか知らない現在世代は、先祖たちをどう見ているか?
最も腹がたつのは、トップたちが自らの保身のために行動した時もある、という点であり、最も「感動する」のは、日本人の生存への意志が純正に現れている行動を知る時ではあるまいか?
正しいか、誤りかではなく、将来世代に今やっていることを堂々と語れるか否かが大事なのではなかろうか?

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