2011年7月31日日曜日

日曜日の話し(7/31)

大正期の日本社会に関心をもっている。明治から大正にかけて日本社会がくぐりぬけた価値尺度の転換とライフスタイルの激しい変化をもっと知りたい。それで文献を色々と漁っている。統計データになっていれば、もっと有り難い。

夏目漱石は明治末年から大正期初めにかけて、その晩年に作家活動をした。最後の大作「明暗」を読んでいると、労働運動や社会主義に向ける眼差しがほのかに伝わってくる。「吾輩は猫である」や「三四郎」のような瑞々しさとは何たる違い。そんな風にも思って、大正とは昭和へ転げ落ちる混乱の始まりと思っていたが、大正こそ近代日本国の思春期にあたる。そう思うようになった。

欧州から一世代は遅れているのかもしれない。

19世紀欧州の安定にとって普仏戦争とドイツ帝国の誕生は最初の弔鐘となった。それと前後して東洋から日本美術が流入し、埒外の美的表現がありうることを知った。美術革命は、1870年代から80年代にかけての印象主義が先ずリードしたが、続く後世代にとっても日本という国は夢の国のような存在であったと見える。「ゴッホの手紙」には日本の話しが何度登場することか。

小生、パソコンのデスクトップに、今はゴッホを使っている。


ゴッホ、夜のカフェテラス、1888年

ゴッホといえば「ひまわり」で、たとえば東京の損保ジャパン東郷青児美術館でも鑑賞することができるが、何となく上のカフェテラスが好きなのですね。ちなみにフランス、アルルにあるこのカフェは今でもゴッホが描いた時のままに営業しているらしい。

ゴッホの世代になると<写生>ではなく<表現>が主になってくる。表現とは、当然、心の表現のことである。規範を尊重する古典主義を否定し、自分の目に認識される色と形に忠実に美を創造することを良しとした印象主義は、結果として客観的存在を否定し、であるが故に、写実という観点から人間を解放した。


ルドン、パンドラ、1910年

19世紀末から20世紀初めにかけて、第一次世界大戦までの欧州は、象徴主義が時代の潮流になった。高階秀爾「フランス絵画史」には、
19世紀の思想界を支配してきた科学的実証主義に対する強い反対の機運とも大きく重なるものであろう。事実、現実世界を一つの実体としてではなく、人間の意識の中に生まれてきた「仮象」の世界であるとするショーペンハウエルの思想は当時の芸術家たちに好んで受け入れられていたし、科学的決定論に対して生涯激しい闘いを挑んだベルグソンが、その最初の記念すべき著書「意識の直接与件に関する試論」を発表するのは、まさに象徴主義の全盛期、1889年のことである。(335ページから引用)
こう述べられている。

人は、自分が解釈したいように世界を解釈するし、自分が生きるために便利なように人間世界を見るものだ。だから<世の実体>などというものを考えるのは無意味だ、とまでは言わないが、真理だと主張する権利は元々ないのだ。この割りきった哲学、かなり小生と波長があうのだ。

う~~ん、日本の大正期はもっと若く、理想主義的であったなあ・・・

それが何故に昭和軍国主義に落ちていったのか?すごく関心がある。
大体、軍国主義などというもの、日本国民の間に本当に存在した考え方なのか?
実は、官僚が勝手に唱えていた行政指導でしかなかったのではないか?

そんな印象もあるわけだが、これはまた、別稿で。

2011年7月30日土曜日

リンク集 ― アメリカ国債・エネルギー・その他諸々

このところの話題の中心は、にわかに財政問題とあいなった。

日本だけではなかったのだなあ。そんな奇妙な仲間意識というか、同病相哀れむというか、そんな気持ちを日本人は感じているはずであり、マスメディアの欧州報道、アメリカ報道を読むにつけても、「ホント、難しいんだよなあ・・・」と割と優しい気持ちで記事を読んだりするわけである。

さてロイターによると


同法案は民主党が過半数議席を握る上院での否決が確実視されているものの、下院を通過したことで8月2日の期限までに超党派の合意が得られ、米国のデフォルト(債務不履行)が回避される可能性も出てきた。
同法案は債務上限を9000億ドル引き上げるもの。今後10年間に9170億ドルの歳出削減を行うことも盛り込まれている。

最終的にアメリカの財政がどの程度の緊縮財政になるかは不確定であるが、どちらにせよ今秋から相当の緊縮財政になっていくであろうことは確実である。この点の影響をどう見るかが何より大事ではないだろうか。

そもそもアメリカ国債やギリシア国債、イタリア国債が何故に国際的関心を呼ぶのだろうか?それはこれらの国の発行する債務証書がグローバルな広がりの中で保有されているからである。


資金循環の日米欧比較(日銀、2011年6月)

上の資料の4頁に掲載されている図の通り、日本国債を保有する外国人は全体の10%程度でしかない。それに対して、アメリカ国債は外国人比率が30%(数字は2011年3月末時点)。以前よりアメリカ国債の外国人比率、随分、下がったようであるが、まだまだ日本国債よりは世界に普及している。(注を追加7/31:縦軸目盛りにある数字はパーセントではなかった。比率は目で読みとってほしい)外国の証券に余裕資金を投資する以上、明記された金利を受け取り、定められた償還期日に元本が返済されると期待するのは当然であって、それが守られないのであれば、投資家はあらかじめ高いリスクプレミアムを求める理屈になる。ドイツの10年物国債の金利が3%程度であるのに対して、ギリシア国債には18%、ポルトガル国債が11%、アイルランド国債が12%の金利を求められるのは、リスク対応のためである(以上、ロイター6月15日による)。

アメリカ国債問題については、世界がアメリカに失望するという事態は一先ず回避できそうな案配になってきた ― 当たり前、とも言えようが。しかしアメリカという国家が被った傷跡も決して無視できる程のカスリ傷ではないようだ。

Dollar hegemony has been under threat for a long time now, but whatever the outcome of this latest political charade, it will come to be seen as a watershed moment when America finally lost the plot and condemned herself to lasting decline. Can a country that puts political bickering before the interests of economic and financial stability really be trusted with the world’s major reserve currency. I think not. The spell is broken. The age of the mighty dollar is over.
According to Winston Churchill, the US can in the end always be relied on to do the right thing, but only after all other possibilities have been exhausted. I wish we could be sure it was still true.
テレグラフはイギリス紙ではあるが、過ぎゆく時代への惜別感がほのかに伝わってくるではないか。確かに20世紀はアメリカの時代でありました。

もっとも、小生、ポスト・パックス・アメリカーナを考えるのは、まだ少し時期尚早ではないのかな、と。政府の金回りだけではなく、国家全体として借金ばかりしているわけであるが、それはアメリカにカネを貸そうとする主体がそれだけ多いからである。そのカネを米国人はドブに捨てている、投資をしてはすってばかりいるのでは決してない。マイクロソフトやアップル、グーグル、アマゾンなどのニュービジネスモデル。ファイナンシャル工学の研究開発。先端医療技術への挑戦。世を切り開くイノベーションは、余りにもアメリカ発が多いではないか。幕末の志士もそうだが、借金はその人の力でもある。カネ回りだけで相手の能力を見るばかりでは、良いバンカーにはなれません。日本は金持ちになったが、国内にカネを貸したいと思う人がいないからこそ、アメリカ人に貸して使ってもらっている。この事実の方こそ、より心配するべきではなかろうか?アメリカの心配をしている場合ではないのである。

それはともかく、新時代は西ではなく東である、とはロシアも考え始めている。

Look East, Russia(Sergey Karaganov, Project Syndecate)

北海道新聞は社説で日ロ・エネルギー協議を論じている。

ロシアのプーチン首相が対日支援の策定を部下に指示したのは震災の翌日だ。その10日後、セチン副首相は当時の河野雅治駐ロ大使に対日エネルギー支援策を提案している。
その柱は▽サハリン大陸棚の天然ガスを中心にロシアから日本への資源供給を大幅に増やす▽日ロ共同での長期的な資源開発-の二つだ。
ロシア提案の背景には、現在、大半が欧州向けとなっている天然ガスの輸出先を多角化しようとの新たな戦略があるようだ。
日本の北方ビジネス展開は、東アジア戦略と並ぶ柱になりうる。10年以上も前から地元社会では、ず~っと時間と資金の投入を重ねてきている。下の講演録は大企業からみた見方だが、北海道社会で事業プロジェクトに関係している人は多く、小生の勤務先にもサハリン、中国東北、シベリアといったり来たりしている人は何人かいる。

サハリンとのビジネスチャンスについて(三井物産、上田真佐夫氏)

複数のカードを持っておくべきであると発想するのは、地元に居住する小生も同感なのだが、いかんせん戦後日本のOnly USA外交で酔生夢死の日々を送ってきた日本人は、日本海や北海道の更に北方の戦略的可能性にあまり目が向かない。実は、こんな方向感覚って、日本の歴史ではこの50年、60年だけのことなんですけどね。

エネルギーの話になってきた。となると、まずは東電の電力供給、意外とありましたなあ。余裕、あるじゃないですか。この辺から挙げておこう。


脱原発、いやゼロ原発でも<電力はある!>。あるってだけでは、ダメなんですけどね。語られつくされた観のあるドン・キホーテ宰相。

ドンキホーテ宰相とアンシャンレジーム(旧体制)(上杉隆、ダイヤモンド・オンライン)

電力産業について、基本的にどう考えていけば良いのか?この問題については、エコノミストの間では大体の合意が形成されつつあるようだ。その好例となる見解。

電力不足、東電賠償問題、増税連合(への批判)、(REAL-JAPAN、田中秀臣)
また原発問題による被災者への東電の賠償問題については、(A)東電の利用者が料金増額で負担すべきことには一定の経済合理性がある(料金増額分はすべて課税すべきである)。政府案は基本的にこの(A)案の不出来な一種である。
ただし東電の利用者(=国民の一部)が負担するにせよ、その負担はできるだけ最小化されるべきである。(A)案は東電という地域独占体を維持することが前提になっているが、東電を解体すれば国民負担がかなり削減できる。
(B)東電を解体し、電力事業を継続したうえで、100%減資や債権カットを行うことで国民負担の最小化を目指す。高橋洋一氏の『これからの日本経済の大問題がすっきり解ける本』(アスコム)によれば、仮に賠償額を10兆円にすれば、政府案だと9.9兆円の国民負担が、この(B)案を推し進めれば3.8兆円まで縮減できるという。
損害賠償費用を商品の販売価格に上乗せして顧客に転嫁するなど、これほどの社会的不正義はないと、小生は考えるし、企業会計、原価計算論において如何なる論理でそれが正当化されるのか、是非考え方をお聞きしたいと思っているので、上に示された筆者の意見には一部同感しかねる点もある。とはいえ、あとは非常にオーソドックスな正論であると思う。

エネルギーについては、上のロシア・エネルギー戦略についてもそうだが、ビジネスは政治にはるかに先行して動いている。


ビジネスでは、役に立たないことは(基本的に)やらない。役に立たないことは(基本的に)誰も求めていないので、そんな事業に力を注ぐ企業は損失を計上し、事業を継続することができない。で、市場から淘汰される。このメカニズム、基本的に信頼しています。独善ではいけませんから。その独善が、まかり通る世界。一つには政治であり、それから官僚組織。それが小生の(いまの)見方である。その意味でも、時代の潮流を決めるのは、人の暮らしであり、生産であり、その流れを追認して時代の課題を流れに沿って解決できる政治家のみが最終的には選ばれて長期政権を構築する。小生はそんな風に考えている。

日本で政治家が消耗品のように使い捨てられるのは、選出システムにも問題があるが、トドの詰まりは「政治家は自由に政治ができる」、そう信じてやまぬ<お分かりでない>人だけが政治家になっている。理由はこれ以外に考えられない。

江戸幕府最後の将軍であった徳川慶喜が「幕府に人がいるか?西郷のようなものがおるか?大久保のようなものがおるか?おるまい!」と、土壇場でそう叫んだと、読んだことがある。人はいたのですね。勝も福沢も西周もいた。明治になって実力を発揮した譜代の臣は多数いた。トップが使わなかっただけです。

さて、中国は共産党という政党が国家を支配している。政治が経済に優越している。理念が現実を抑えている。ところが


池田氏の見解には、しばしば共感しかねる時もあるのだが、上の見方は同感。本筋をついていると思います。

さて今日の最後に最近の発見。

麻木久美子のニッポン政策研究所

上の二つのいずれも(小生には)大変面白かった。
ノルウェーの惨事と日本の東日本大震災。その二つがつながる視点がある。そんな風に物事を見る人が欧州にいるのかあ、そんな印象だった。衝撃に直面した両国が世界に示した行動と魂。これまた(一つの)ボディ・ランゲージというか、言葉を超える訴求力があったということなのだろうか?




2011年7月29日金曜日

アメリカ国債問題で世界は動揺しているか?

本日の日経の1面ヘッドラインは<米債務問題、世界が緊張>であった。

8月2日の期限までに米議会が債務上限の引き上げで折り合えば緊張は和らぐ、等々の説明がある。

ただ、デッドラインについては、8月2日がリミットなのか。2日はまだいい、その場合も8月15日までに与野党が合意できないと、金融市場は混乱するとか、色々と細かな見方もあって、ややこしい。何だかレポート提出に追われている大学生のようでもある。

騒動の割には、株式市場は混乱していない。さすがにアメリカのダウ平均は、7月初めの株価を割ってきたが、日本はまだ上にある。8月1日が月曜なので、週明けの情勢は確かに要注意ではあるが、「代替の投資先が見当たらないことなどから、いまのところ米国債の金利に明確な影響は出ていない」などと日経には述べられている。

「米債務問題に世界動揺」ではないわけなのであり、しかるが故に、「世界は緊張」。プロ野球でいえば、ワンアウト満塁。観衆は一斉に緊張。そんな感じなのだな。欧州のギリシア危機に直面して「会議は踊る」という状況であったのだが、アメリカ国債デフォールト問題に際しては、ハンカチで額の汗を拭く、というかティッシュを取り出して鼻をかむ。悪い例えで申し訳ありませんが、まあ、そんな感想がグローバルに共有されているのではありますまいか?

折しも、同じ本日の日経コラム記事「大機小機」のタイトルは「国家のモラルハザード」という壮大な題目。書くは桃李氏。何事かと思うと「日本では対国内総生産(GDP)の負債比率がギリシアより悪い財政下で、米国ほどの真剣な取り組み姿勢も見えない」。その通りではありましょうが、正直、ホントよく言うわなあ、と。もし本当に国債が発行できず、アメリカ政府のキャッシュが枯渇し、金利支払いが遅延しても「アメリカ政府を見習って日本政府も真剣に財政のことを考えるべきである」とおっしゃるのであろうか?ま、ヒト様々であるから、これ以上は申し述べるつもりはない。

さらに日経記事を読む。ン?米国債の信用力は刻一刻と低下しつつある、と。米国債の信用は落ちている。これは、ご愛嬌(?)までに一言だけ挿入した語句であろうか?

そもそも余剰資金を米債に投資する時、円を先買いしてヘッジするなら、収益率は日本国内で資金を回すのと同じ理屈だ。しかし想定外にドル安になればカバーできない。ヘッジしないなら、円高リスクを直接負担する。

リーマン危機以来のアメリカ金融政策をフォローしていながら、それでもなお米国債が安全確実な投資先だと考える御人が、日本国内に、いや世界にいたのであろうか?

新興国は金地金を買っているようである。そのため石油価格はピークアウトしたが、金は歴史的高値にまで上がっている。

(出所)世界の株価より

こんな状況に至って、「機関投資家も万が一に備え始めた。日本の財務省の統計によると5月は米国の公債(国債、地方債、政府機関債)全体で2兆2194億円を売り越しており、単月の売越額としては過去最大となった」。こんな数字もある。キャピタルロスがなければよいのだが。

アメリカ国債問題も大事だろうが、それよりは、与野党が合意しようが、しなかろうが、アメリカ財政政策が非常な緊縮に向かうのは確実だという、こちらであるまいか?日本の生産は大震災復興需要が出てくることの下支え効果が期待されているが、アメリカの財政緊縮はハンパな金額ではない。既定方針通りに行けば、アメリカ経済がマイナス成長になってもおかしくない。特に自動車産業は大打撃を被るのではないか。中国もインフレ抑制に手を焼いていて、成長政策にすぐに戻るのは無理である。こちらのほうが日本語の新聞を読む日本国民にとっては大事な話題なのではないか?

そんな中でアメリカ中央銀行であるFRBには第3次量的緩和政策に期待する向きがある。しかしロイターでは
A fresh round of U.S. monetary easing may even do more harm than good for long-term investors as another flood of easy money into fast-growing emerging economies risks refueling oil and commodity price inflation, sapping consumption and growth.
Prospects for a third round of the Federal Reserve's quantitative easing program (QE3) grew this month after Chairman Ben Bernanke said the central bank was prepared to ease further if economic growth and inflation falter again.(LONDON | Wed Jul 27, 2011 6:14am EDT)


というレポートを出している。バーナンキ議長は積極的であるらしいが、金融を緩和してもアメリカ国内の需要を増やすわけではなく、結局はファンドマネージャーが資金を調達して新興国で稼ぐ図式になるだけだ。それは新興国の政府自らがインフレ防止に力を入れている折柄、現在の世界経済にとって、決して良い政策ではないだろう。そういう指摘である。

金融緩和もダメ、財政危機を招くほどまで財政を拡大してもダメ。先進国の生活水準と雇用を維持するには、何をすればよいのか?どんな選択肢があるのか?先進国が頭をつかうべき本当の経済問題はこちらの方ではなかろうか?

2011年7月27日水曜日

それでもアメリカ債を買いますか

欧州の債務危機は、土壇場でドイツがカネを出すことを承諾し、ひと先ず、混乱を回避した。もちろん問題解決には至っていない。ギリシアでは、その後も財政緊縮に抗議する暴動が起こっているし、イタリアも、スペインも債務不履行の懸念が消えたわけではない。

そもそも7月24日時点でこんな見方がある。
CDSの保証料(スプレッド)から、各国の国債のデフォルトの可能性を試算したものがあります(今年の5月現在)。今後5年間にデフォルトする確率は、ギリシアは70%です。ポルトガル、アイルランドイタリアスペインは20%から50%程度です。日本の国債のデフォルト率は8%、イギリス5%、アメリカ4%、といった具合です。(出所:川口有一郎「ギリシア国債破綻を理解する」 )
数字は5月時点の評価である。その後、ギリシアは借金の相当部分を棒引きされたが、それってやはり「債務不履行」であろう。予定通りの収入が債権者は得られなかったのだから。イタリア、スペインの状況が基本的に変わったわけではない。

というより、ギリシア単独でも2回の救済策合わせて20兆円にもなる公的資金を投入した。イタリアではいくらいるのか?スペインではいくらいるのか?こんな心配が高じてくると、いくらドイツがいても欧州単独では 自力再建は無理であろう。投資家が、そう見きった瞬間に、イタリア、スペインも国債デフォールトの瀬戸際に追い込まれるだろう。問題の本質は未解決だ。

多分こうなるだろうことは、エコノミストは予測していた、という記事が週刊エコノミスト7月5日号にある。
2008年12月に米ハーバード大学のロゴフ教授とメリーランド大学のラインハート教授は、共同で「金融危機の余波」という論文を発表した。その論点は、近年のバブル崩壊の歴史を演繹的にパターン化すると、バブル崩壊は金融危機と財政危機を合わせた3点セットで起こる、というものだった。
順序としては、まず大規模なバブル崩壊が起こる。次に、資産価格の下落が逆資産効果を生んで景気の下押し要因となり、さらに担保価値の下落が金融の機能低下をもたらして金融危機へ至る。金融危機から脱却するには、大規模な財政政策による景気対策が必要となるが、その原資は国債など借金だ。そして最後に、この借金を返済できなくなって財政危機に至る。(同誌28ページ)
ギリシアだけではなく、欧州、アメリカ、日本で進行中の財政危機は根は同じ、ということだ。債務不履行。つまりは富裕層が泣きを見るわけなのだが、問題への対応プロセスでは、大衆課税が強化されることもあるし(インフレ放置はその一種だ)、富裕層の資産切捨てを押し通す場合もある。それは、その時の政権、権力基盤のあり方によって異なる。

さて、アメリカ。財政赤字を解決しなければならないという問題意識は、そもそも与党も野党も共通して持っている。ただ方法論が違う。与党民主党は富裕層への増税を軸としたい。野党共和党は社会福祉の歳出削減を軸としたい。それで理念論争を繰り広げている。もう一つ、赤字削減のスピードも論点である。2012会計年度(11年10月~12年9月)大統領予算教書 に沿えば、財政赤字が1年で5400億ドル削減されることになる。円になおせば43兆円ですよ!経済成長率を5%程度押し下げるだろうという試算があるそうだ。

いやあ、日本では話が常にみみっちくて、公共事業予算の削減で実質経済成長率は0.3%程度押し下げられそうであるとか、そんな程度の話なら聞きなれているが、財政緊縮で成長率5%ダウン。仕方ないよね、国のためだ。これで予算教書だそうってんだから。にもかかわらず、中央銀行FRBは量的金融緩和を継続しなかった。第3次緩和(QE3)を予想する向きが多いのはそのためだ。

本当にアメリカ国債は償還停止となるのだろうか?金利支払い停止もありうるのだろうか?それはないと見ているようだ。ただリーマン危機も、不良資産救済プログラム(TARP)7千億ドルを含む「金融安定化法案」が下院で否決されるという事態を目の当たりにみて、初めて世界の市場は一斉に大暴落し、その後の混乱へつながっていった。

今のところ英誌The Economistで実施されているアンケート調査でも、アメリカ債よりはイタリア債の方がデフォールトになるだろうと見る人の方が多い。
アメリカ債がデフォールトになったとして、だからどこの国債なら買いますか?当面の締め切りである8月2日に向けて、そんなに心配する声が上がっていないというか、どことなく自信(?)というか余裕(?)というか、感じるのは、こんな事情もあるからだろう。何といってもアメリカだからなあ、今月は利払いが遅れたけど、他にないしね。ま、持ってるか。そんな心理もあるのかもしれない。

日本政府と中国政府には「何としても利子は振り込む」と財務省から連絡があったそうである。

2011年7月25日月曜日

アジア通貨安で日本は損をするのか?

本日の日経3面は、「アジア通貨安、連鎖」と題を打ち、「人民元、対円では最安値圏」。「緩やかな元連動影響、競争力維持へ為替介入」というヘッドラインである。元連動というのは、人民元の対ドル相場を指標にしながら、中国通貨当局が元の急速な上昇を避けている動きのことだ。競争力維持へ為替介入というのは、ズバリ、当局が元安誘導を行っているという趣旨だ。ま、アメリカ政府が時折口にする相場介入批判と同じ意味に受けとれる。

安値は人民元ばかりではない。ウォンやバーツなどアジア通貨は、軒並み、円に対して安くなっている。下は紙面に掲載されていたグラフである。引用させてもらおう。

日本経済新聞、2011年7月25日付け朝刊から引用

図に見るように、リーマン危機前の2007~08年に比べて、人民元は約2割安。バーツは3割安。ウォンに至っては4割安という水準である。

確かにこれでは、日本で製造した製品を海外に輸出するよりも、アジアで生産をして、そこから輸出し、本社が利益を確保したほうがよい。日経が主張する通り、製品が直接競合するウォン安、バーツ安のほうが、日本には打撃となるだろう。実際、炭素繊維のトップメーカーである東レも韓国に生産拠点を移すことを決定した。東レばかりではなく、日本の誇る製造業メーカーが今後続々とアジアに転出することになるだろう。

では、アジア通貨安は日本経済にとって酷い打撃となり続け、将来必ず<中国栄えて、日本滅ぶ>のような事態と相成っていくのだろうか?

人民元は円に対して下のような推移をたどってきている。

(出所)為替計算機(サーチナ)より

グラフは1人民元当たりの日本円である。2000年代半ばにかけては、元高が続き、その後は日経が示す通りの元安に転じているわけだ。

下の図は、日本の対中国貿易取引である。

(注)単位は千円。通関統計(財務省)。

日本は対中国ではずっと貿易赤字であり、特に2001年には最大の対中赤字3兆円余を計上した。その後、赤字が減ったのは、元高・円安のためと、一見、思われるのだが、2008年以降の元安にもかかわらず、日本の対中赤字はどんどん縮小し、最近ではほぼ対中国輸出入がバランスするようになってきている。

下は本日のロイター電である。
ただ、中国経済は減速しても巡航速度程度に減速するに過ぎず、今後も輸出は中国・アジア向けを中心に比較的堅調に推移するとの見通しだ。2010年上半期の貿易統計によると、対アジア輸出が前年比46.4%増、同地域向け貿易黒字は5兆2176億円となり過去最高だった。また、対中国貿易赤字は前年比84.5%減の1407億円で、1993年上半期に次ぐ小幅な赤字となり、前年比の赤字縮小は過去最大。対中貿易収支は改善しており、この傾向は今後も続くとの見通しが複数出ている。
第一生命経済研究所・主席エコノミストの熊野英生氏は、赤字幅縮小の背景として「従来、中国を生産基地としていた日本の現地進出企業が、経済発展とともに現地販売を増やしたことがある」と分析。これまで長期にわたり対中貿易は赤字傾向で推移してきたが、今後10年間を展望すると、中国経済の規模はさらに膨張し、日本の対中輸出もそれに応じて増加することにより、貿易黒字の拡大に寄与するとの見通しを示した。(出所:ロイター日本語ニュース 編集 石田仁志、2010年 07月 26日 18:23 JST)
円とか、元とか、ウォンという話題は、所詮はおカネに関する議論であり、つまりは紙幣の分量から決まってくることである。世の中のお金を調節することで失業が本当に減ったり(素朴なケインジアンは今でもそう信じているが)、日本経済のデフレが根治したり、高度成長が復活したり、そんな夢のようなことが叶うなら、とっくの昔にやっているのである。

人民元の対円相場も、円と人民元の交換比率にすぎない。中国のお金の量と日本のお金の量の案配で、日本と中国の実質的な経済全体が決まるという理屈は、経済学にはないのである。産業や生活がどうなるかは、科学技術の水準、労働力の質、教育の質、一人ひとりのやる気、向上心、そしてトップマネジメントの出来不出来から決まる。世の中そうなっていませんか?金回りが良いことが一時あっても、結局は、その人の、その会社の力量で、業績は決まっていませんか?天からカネをばらまいて、世の中救われる、そんなことはありません。大事なのは経営資源です。つまりヒト、モノ、技術。

そう考えると、(国内に需要がないから)海外に日本企業が溢れでて行って、現地の人達に受け入れられ、土地に馴染んで、日本人と進出先の人が文化的にも相互理解できて、交流の機会を増やすことは、いいのではないか?日本を訪れ、日本国内で売られている商品を欲しいと思う外国人が増えるのはいいのではないか?それは基本的に悪いことではないのではないか?

どんどん、やってくれなはれ。小生はそんな風に思うのであります。



2011年7月24日日曜日

日曜日の話し(7/24)

住んでいる町の近郊にスキーのシャンツェがあり、これまでは散歩する時に何となく見るだけだった。それが、岡鹿之助の「雪の発電所」を思い出して、模写してみた。行けそうだなあ、と思って、同じ構図でシャンツェを描いてみようかという気になった。

それで、F30号を2枚張って、地塗りをしたところだ。一枚は茶系、もう一枚は緑系にした。間に合えば、市展にでも出すかなあ、と。3年連続だが、出す作品はだんだんと大きくなっている。その分、額縁代がかさむのが痛い。

岡鹿之助、雪の発電所、1956年

岡は、1898(明治31)年生まれだから、前衛派、野獣派で有名な佐伯祐三と同年の生まれである。佐伯は早熟であり、1928(昭和3)年にパリで客死したのだが、岡は1978(昭和53)年まで長命した。ただ岡は、同窓とはいえ親しく交流したのは佐伯祐三、荻須高徳らではなく、藤田嗣治の方であったようだ。大学を卒業してフランスに到着して、最初に下宿先でアトリエを構えたその家は、藤田が暮らしていた家であった由。

画風が全く違う。

佐伯祐三、ラ・クロッシュ、1927年

美術史や教科書には、佐伯が死の年に描いた「郵便配達夫」がよく掲載されている。しかし、彼の本分は、上のようなパリの下町の佇まい。その表現で格闘したのは<石と文字>。西洋を特徴付ける硬質の石、そこに佐伯は、形は西洋のアルファベットであるけれど、日本文字の感性で味付けをしている。

佐伯祐三、郵便配達夫、1928年

1860年代に、日本の浮世絵が西洋絵画に与えた影響は、強く深いものだった。その日本人が、欧州の油絵という素材で、油彩画を描く。日本人画家としてのアイデンティティを定めることは、自分の仕事の存在意義にもつながるわけで、そりゃすさまじく苦しいものであったはずだ。日本の文化の根を、欧州文化の伝統のどこと調和させ、根付かせることができるか?その提案を、ヨーロッパ人にするわけですから。

身も心ももたないなあ。西洋で育ったわけじゃありませんから。

このところ読んでいるのが、千住博の「NYアトリエ日記」。大正期に青春時代を送った佐伯に比べれば、そりゃまあ、悲壮感はなくなっているが、やはり日本人の感性を世界にどう発信していけばよいのか?同じような苦労を読み取るのは小生だけだろうか。

芸を、仕事にするのは、ホント、大変なことです。
とはいえ、知識よりも創造を上に置く、学問よりも芸術を上に置く、それがニーチェ以降に発展した現代哲学の<生>というテーマ。そのテーマに沿った大きな流れである。そうとも言われますので。


2011年7月23日土曜日

リンク集 ― ギリシア債務問題、手打ちとなる

エネルギー問題が話題のトップを占めてきたが、今週に入って債務問題がやって来ました。それも欧州とアメリカ、この2頭が猛然と仕掛けてきた。まずは欧州債務問題。こちらは、クラッシュせずに何とかどうやら、走りきったか。

日本も財政破綻寸前で、欧州・アメリカと同じ血統のはずだ、来てもいいはずだがなあ・・・と、1馬身遅れている。あれっ。そんな感じですね。日本は余り話題になっていない。国債残高対GDP比率では他を圧して日本が断トツであるのに、何故に世界は日本国を無視するのか?気に入らぬ。これは日本に住む国民として、怒るべきことなのか、安堵するべきことなのか?

とはいえ、国債の世界同時デフォールトが、本気で心配されていたのである。この辺の事情は

考えたくない世界同時国債デフォールト(真壁昭夫、ダイアモンド・オンライン)

先進国政府がドミノ式に次々に倒産していくなど甚だ怖い事態である。しかし、これって、日本=ガラパゴスの反証でもあるってこと、お分かりですか?

そもそも日本がガラパゴス的空間なら、製造業海外流出などを心配することもないわけで、閉ざされた島で、今までのまま安穏かつ幸福に生きられるのであります。それは不可能でしょ?日本が、勝手に進化を止められないからこそ、色々な経済問題がこの国に発生しているわけである。日本人が有能なのか、無能なのか、それが問われている。現実は単純明快で、真っすぐそう見ておけばよい。

欧州、アメリカなど海外では、債務問題に過剰に反応するという指摘はある。債券取引の現場のビジネスマンの感覚と経済学界の大御所の意見を挙げておく。

債務問題は欧米で過敏な反応、それに対して鈍感な日本(牛さん熊さんブログ)

Debt and Delusion(Robert Shiller, Project Syndicateから引用)

シラー氏が強調しているように、債務残高対GDP比率に何故意味があるのか?なぜ1年間の国民所得を分母にとるのか?四半期の所得をとれば比率は4倍になるだろう。4年間の所得をとれば4分の1になる。債務は1年で返済するわけでないのに、何故分母を1年にするのか?1年とは、太陽の周りを地球が一周する時間である。それが人類の経済活動とどう関係するのか、等々。債務比率を算出する時に論理的に適切な分母というのはないのである。ないにも関わらず、既存の債務対GDP比率が大事な数値であるかのように思われているのは、市場参加者が非合理であるからだ、というのがシラー氏の議論である。同氏は"Animal Spirit"を最近出版されており、資本主義の非合理性にかけては超一流の研究者である。その面目躍如たるコメントだ。

さて、現実に戻る。EUによるギリシア救済策取りまとめは、文字通りの難産だった。独立した国家連合なのだから仕方がないとはいえ、この混乱にはIMFも匙を投げたようだ。
 かくしてサーカスは進む。ユーロ圏の責任者たちは21日にブリュッセルに集まり、もう1000回目かと思えるようなギリシャ危機への議論を繰り返す。
欧州連合の欧州委員会、欧州中央銀行、国際通貨基金が共同で開いたアイルランドの財政再建に関する会見の会場に貼られた、反IMFのポスター(7月14日、ダブリン)=ロイター
前回よりかなり大規模なギリシャ向けの第2次金融支援を策定する見込みのサミット(首脳会議)に至る準備期間は、悲しいかな、無秩序で複雑な欧州の政策過程の典型だった。欧州中央銀行(ECB)はギリシャのソブリン債務の減額と何がデフォルト(債務不履行)に当たるのかを巡り、ユーロ圏の財務相たちと声高だが混乱した口論を続けた。
諦めと絶望感が入り混じった気持ちでその状況を眺めているのが、2010年5月のギリシャ救済当初に戦場に飛び降りてきた国際通貨基金(IMF)だ。
(出所)日本経済新聞WEB版、2011年7月21日7:00配信)
(出典)英フィナンシャル・タイムズ、2011年7月20日付 

ファイナンシャル・タイムズといえば、トリシェ欧州中央銀行(ECB)総裁へのインタビュー記録も資料として参照する価値がある。

Jean-Claude Trichet: Interview with the Financial Times Deutschland

まあ、混乱を経て最後には手打ちとなったわけで、下のロイター報道ではお茶を入れるメルケル独首相が写っている。ドイツも最後にはカネを出してくれるだろうという予想ではあったが、ヤレヤレという雰囲気が伝わってくる。

Germany, France reach accord on Greek bailout

メルケル首相は経済専門家ではないので背後で活躍した専門家がいるのではないか?誰でもそう感じるわけで、その辺は独紙"Rheinische Post"が報じている。

メルケル首相を動かした仕掛け人


財政経済顧問であるLars Hendrik Röller氏とNikolaus Meyer-Landrut氏である。

Merkels wichtige Berater: Nikolaus Meyer-Landrut und Lars Hendrik Röller (v.l.) Foto: dapd

ドイツの保守的大手メディアであるDie Weltには早速「ドイツの納税者にとっては、いくらの負担になるのや?」という試算が紹介されていた。

ギリシア救済のためにドイツ国民が負担する金額
Die Euro-Schuldenkrise konnte die deutschen Steuerzahler bis 2015 im schlimmsten Fall 70,8 Milliarden Euro kosten. Das ist das Ergebnis neuer Berechnungen zweier Okonomen des Deutschen Instituts fur Wirtschaftsforschung (DIW), wie die "Rheinische Post“ berichtet.
上のように、最悪の場合、2015年までに70.8(10億ユーロ)。円に直せば、7兆円前後に達する金額だ。いやあ、ギリシアの放漫財政のために、ドイツ人はよくもまあ7兆円もの身銭を切るものだ。ドイツはケチだと聞いていたが、小生、正直感心している。日本人は東アジア隣邦が困った時に、これだけのカネをポンと差し出すだろうか?

もちろん単なる善意ではなく、国家生存のための戦略ではあるのだが、やることに迫力があるではないか。

こういう混乱の中、債務の円滑な返済に欠かせぬ条件として挙げられるのが、まずは経済の成長戦略。これまた日本と世界の先進国は同じ船に乗っているわけである。そこで、予想はしていたし、小生も正直強い共感を持っているものの効力はそれほど期待できないだろうなあと弱気になってもいる、それは<賃金デフレを止めよ>である。

Global Minimumu Wage Policy(Thomas I. Palley, Financial Times, Economists' Forum)

石油、食料品などの輸入価格の変動を反映する消費者物価を物価安定の指標にするのでなく、国内の名目賃金の安定性を指標とするべきであると小生は思っている。思っているのだが、しかしこれって、賃金を抑制すれば激しいインフレーションを解決できるよね、という<所得政策>のデフレ版ではないか。インフレ抑制に所得政策の効果はなかったことは、歴史が証明している。だから、賃金を上げてやっても、おそらくデフレ解決の役には立たない。それはそうだ。しかし、そういう政策意識をもつことは大事ではないかなあ、と。それが小生の見方だ。

経済状況をどう見ているかについて海外に伝え、理解してもらう努力も欠かせない。この役回りは、最近どうやら日銀総裁になっていて、かつて政府内でスポークスマンとして役割を果たしていた「官庁エコノミスト」は姿を消しつつあるようだ。これまた、どことなく寂しさを感じないでもない。

日銀総裁BIS報告(2011年6月27日)原稿

2011年7月21日木曜日

原発規制組織の独立について覚え書き

暑さのせいか(北海道の暑さに弱音をはくのも情けないが)、毎日ブログを書くのがしんどくなり、今日は休むかなあ、そう思いながら、今朝の新聞をパラパラめくっていた。と、書き留めておきたい記事に出くわした。新聞記事は、その時、何かに書いておかないと忘れてしまう。

昨日の投稿では、政治のロジックが、経済問題を解決するどころか、拡大しているのが今の世界的状況だと述べた。

それにしても酷いなあ、日本は。新聞を読んでいると、唸りたくなる時が多い。

与党民主党の執行部は、8月末までに菅首相をいかにして辞めさせるべきかで、頭を悩ませているという。集団辞任か、はたまたリコールが出来るように党規約を改正するか、あるいはまた、代表と首相を分けることにして、先ずは菅さんに代表を辞めてもらうことにするか。

集団辞任は足並みが揃わないと「ご苦労様でした」で終わりになるし、やめた後はどんな仕返しをされるか分からない。リコールありの党規約改正、代表が「やめておけ!」と言えば、決定は無理ではないか?代表だけでも辞めてくれないかなあ・・・とまあ、岡田幹事長以下、ハムレットのように悩みぬいているとの報道だ。これは日本経済新聞。

大いに悩んでください。ソ、ソ、ソ~クラテスも、プラトンもお、み~んな悩んで大きくなったあ~~。このCM、苔が生えるほど古いですけどね、大いにヒットしたものです。岡田さんも、仙石さんも、菅さんも、知っているはずです。

× × ×

日経は、明確に原発維持論に舵を切っているが、北海道新聞ははっきりと脱原発、更にはゼロ原発に舵を切りつつある。本日の社説は、<ぶれずに脱原発推進を>という題名である。

菅総理が、今月13日に久しぶりに記者を集めて、何を語るかと集まってみたら、総理は高らかに脱原発宣言をした。これは大衝撃であった。衝撃であると共に、そこには哲学があった(と思った)。これから日本国中が大騒動になって、攘夷論争に揺れた幕末もさながら、エネルギー大論争の口火がきられると予想した。小生は本ブログで菅総理はドン・キホーテだと形容した。

ところが官房長官が「総理の個人的思いです」というと、首相本人も「私の思いを述べたのです」と追認し、脱原発を言ったからといってゼロ原発にしろとは言ってないとか、脱原発というのはダツ原発依存なんですよ。屁理屈をこねて、言ったことの責任を全くとろうとしない。

道新が、「首相の発言がこれほど揺れるのは異例である」と、社の判断として断言するのも、これ自体、極めて異例である。

「首相として、いったん口にした以上、実現への道筋をつける責任がある。発言の迷走によって、政治不信はさらに増幅している・・・残された時間で、どこまで政府内で政策の具体的方向性を定め、党派を超えて賛同者を増やしていけるかだ」、これだけ言い切る地方新聞は、全国マスメディアの中でどの辺のポジションを占めているのだろう?

5月の主要国首脳会議では「最高水準の原子力安全を目指す」とアピールをしてフランス、米国を安心させたと思うと、浜岡原発を緊急停止させ、それ以外の原発再稼働にもストップをかけ、ドイツ、イタリアを喜ばせている。方針転換は、外国に向けても説明しなければならない。

一民間メディアから、箸の上げ下ろしのような、こんな基本的な事柄まで、手とり足取り助言されるなど、やはり異例の事態であるなあ。そう思っているわけだ。

まあ、とにかく現首相は似非ドン・キホーテでありましたな。右顧左眄する騎士など、いようはずもありませんから。時代錯誤な高杉晋作信奉者かと思いきや、やはりプラカードとアジ演説でのし上がった大物デマゴーグであったようだ。

× × ×

本日の道新、「電力改革の攻防」という連載記事の2回目を掲載している。今日のタイトルは「独立阻む、原子力村」。ここで「独立」というのは、原子力安全規制を担当する組織を経済産業省から独立させる、その独立である。

そもそも、現在は経済産業省内にある原子力安全・保安院だが、元々は科学技術庁原子力安全局として存在していた。科学技術庁は、文部省と統合されて、文部科学省(文科省)になっているわけであるから、文科省原子力安全局になっていても不思議はない。というより、1990年代の後半、中央省庁再編成が議論されていた時分、アメリカの原子力規制委員会に似た独立組織を設置しようという話もあったそうだ。科学技術庁は乗り気であったそうなのだが、原発推進の邪魔になると思った通産省(現・経産省)が話しをつぶして、あろうことか、自組織の内部に取り込んでしまった。ま、一口に言えば、座敷牢ですね。そんな話が紹介されている。

ちょうどその当時、動力炉・核燃料開発事業団(当時)の高速増殖炉原型炉「もんじゅ」が事故を起こしたり、東海村の再処理工場で事故があったりして、科学技術庁の信用がガタ落ちになっていたことも通産省には追い風となった。当時の橋本龍太郎首相も「科技庁には任せられない」と思っていたのでは・・・元の科技庁原子力安全局長のそんな追憶も紹介されている。当時は、省庁再編成も大事だが、不良債権もまだ未解決であり、そごうがいま倒産するか、ダイエーはいつ倒産するか、そんな時代であった。原子力安全部局を独立させるかどうかなど、細かなディテールに過ぎなかったかもしれない。

なるほどなあ、と。それで納得したわけだ。普通、推進部局と規制部局が同一組織内に共存するなど、ありえませんから。どちらの発言権が強いかで、片方の機能は死んでしまいますから。であれば、最初から片方はいらない、ということになる。道新の連載記事には「お巡りさんと泥棒が一緒にいる状態がいいんじゃないか」、これは原発推進派の官僚の弁であるとのこと。泥棒がお巡りさんを押さえこんじゃったわけだ。

× × ×

今、新たに原子力安全規制を所管する組織を立ち上げようという検討が進んでいるやに耳にする。民主党のマニフェストからして、原子力安全規制部局を経済産業省から独立させると記載している。小生も、どんどんその方向で進めてほしいのだが、原子力村というか専門家集団では余り評判は良くないらしいのだ。

某官僚の弁。「原発の検査だけをやる官庁に誰が入りますかね?」、と。そりゃあ、そうかもしれないなあ、と。小生も誠に情けない。同感したりもするのである。つまらないじゃないですか、仕事として。原子力工学なりを勉強する以上は、作りたいし、動かしたいし、開発したい、それが夢ってものだ。それが稼動している原発の検査ばかりして、一生を送る。検査でどんどん異常が出てくれば、それは面白いのだろうが、99%はOKでしょう。OKと言うために生きているようなものだ。

かと言って、経済産業省から出向してくるようじゃ世間が納得しないだろう。電力会社や原子炉メーカーから3年とか、5年で来てくれないか?そんな話になりそうでもある。

国民目線に立てば、こんな話はケシカランの一語に尽きるのであろう。公僕たるもの、与えられた職務を全うするべきなのであって、それを専門家として詰まらないとか、何を言っておるのか・・・御尤もである。しかし、世の中に<国民太郎さん>という御仁はおらぬ。いれば国民太郎さんが官僚の主人である。いるのは、全て一人の人間であり個人であり、全ての人は充実した人生を送る権利がある。生きがいのある仕事を提供できない組織には入らないという選択の権利がある。雇用する側には、送るに相応しいキャリア・パスを設計する義務がある。国民太郎さんの都合だけでは人は動かない。この事実にも、やはり目を向けなければ。そう考えた今日でありました。


2011年7月20日水曜日

先進国の債務危機について

欧州ではギリシア問題がくすぶっており、ギリシア国債デフォールト(支払い停止)もありうるとの判断が主要国首脳では話し合われている様子だ。と思っていたら、イタリアのソブリンリスク(国債の信用低下)も危険水域に入って来た。ロイターも
Alarmed by the spread of market jitters over Greece to Italy and Spain, where bond yields have surged in the past 10 days, European governments are struggling to put together a second bailout of Greece that would supplement a 110 billion euro rescue launched in May last year. (Reuters WASHINGTON | Mon Jul 18, 2011 2:01am BST)
(Reuters) - The clock is ticking inexorably towards Thursday's summit and if it does not come up with at least the framework for a second Greek bailout, markets are likely to react badly, not least because the threat of a U.S. default still hangs heavy too. (LONDON, Jul | Tue Jul 19, 2011 8:32am BST)
こんな記事を流している。火元はギリシアだが、対応に手間取るEU首脳(というか、ドイツ政府が 資金面で一肌ぬいでくれるか)の姿勢に不安を感じた投資家が、返済に不安のある国債により高いリスクプレミアムを求めているのである。混乱を招いているのは、煮え切らない政治家だ。テキパキと対策をまとめてくれないので、投資家が「イヤになった」と投げているのですね。

イタリアが燃えてくると、スペインも危なく、そうなるとアメリカ国債も買う人はいなくなる。そんな状況では、日本の国債は国内で消化している、と気楽に構えている場合ではなくなろう。発行金利を上げないと、日本でも必要な財政資金が調達できなくなろう。そうなると世界同時多発ソブリンリスクが顕在化するわけで、リーマンショック並みの経済混乱がひき起こされるわけである。世界はそれを心配している。先進国の政府が、ドミノ式に経営破たんする・・・これは怖い。店頭からミネラル・ウォーターがなくなるという次元の話ではなく、まったくモノが流通しなくなるだろう。

というか、日本では今年度の特例国債法案が、まだ国会を通っていないので、いまのままでは財政資金が秋口にも枯渇し、政府機関の玄関にはシャッターが降りるだろう・・・
こんな事態もありうべしとして、制度を設計していないので、どうなるのか。まさか警察や、自衛隊、裁判所や税務署などまで閉庁になるとは思えぬが。とはいうものの、給与支払い停止となれば、国は被用者に対して業務命令を発する権限を失うと見るべきではなかろうか。色々と思いめぐらすわけであります。年金支払いも(このままでは)危ないわけである。

日本では年度ごとに特例法案を国会が可決して赤字国債を発行するのだが、アメリカでは、債務上限を法で定めている。その債務上限引き上げ審議が民主党と共和党の間で、いま暗礁に乗り上げている。ロイターや今日の日経などによれば、共和党上院は中間案で妥協に動いているようだが、主戦派もいる。下院では「歳出削減・制限・財政均衡法案」が提出されるようだ。これが可決された場合は、大統領は拒否権を発動するだろう。そうなると両党が歩み寄って、財政危機回避策をまとめる状況ではなくなり、タイムリミットである8月2日危機を乗り越えられない。アメリカでも年金支払い停止、政府機関閉鎖が眼前に迫っている。

アメリカ、欧州、日本、どこにおいても政治に与えられた解答時間はタイムオーバーになりつつある。やるべき課題は決まっているのだ。当面とるべき正解も決まっているのだ。しかし、その正解を認めるとなると、<次々に>認めざるを得ない課題が、<後から後から>出てくるので、そんな<成り行き>には理念上絶対にしたくない。野党はそう考えるのだな。

つまりは、政党間の戦略的・理念的対立が、解決を要する当面の問題を解決させない。そんなディレンマになっている。当面の問題解決をライバルに成させることは、相手に大きなポイントを与えることになり、成り行き上、連続ポイントを与える危険がある。これでは次回の選挙に向けて不利に働く。

要するに、政治のロジックが、経済問題を解決するどころか、問題拡大の原因になっている。これがことの本質だ。

日本でも、大変スケールが小さいが、政争が進行中である。管首相のいう政治的課題を真剣に審議すると、それは首相の続投を認めることになるし、首相のポイントになる。それは政治的にまずい。だから問題を解決しないのは許されないと分かってはいるが、協力すると、政治的にあまりにも不利になるから、審議するべき課題までたなざらしになって、現状のまま放置される。アメリカと同じ症状なのである。

このように先進各国では、共通の政治力学が働いていて、ポスト・リーマン危機の大きな曲がり角を迎えている。

× × ×

民主主義+選挙+財政制度。この近代政治のトライアングルは、国家のエネルギー戦略、食料戦略と並んで、国家のグランドデザインそのものだ。

財政それ自体、歴史を通じて、国家運営の命運を常に左右してきた。西洋史、東洋史いずれにおいても「財政が破たんし」云々の文章が出てくれば、政変とか、内乱とか、王朝交代につながってきたのが常である。善政・悪政という区別があって、何が善政かというと、人によって考えの違いがあるのだが、財政を破綻させないというのは善い政治であるための必要条件であることは、歴史が証明している事実である。財政が健全であるという、そのこと自体にどれほど高い意味があるかは、これまた意見があるだろう、しかしそれは絶対に必要だ。この点は認めないといけないと思う。

では財政が破綻せずに収支バランスしている状態とはどんな状態なのか?その具体論になると、これは色々な考え方が出てくる。まず<租税国家>という言葉がある。国民から徴収する税で財政を運営するという原則だ。実は、この概念はそれほど古いものではない。中山智香子「経済戦争の理論」には、こんなことが述べられている。
(絶対王政の)君主たちは戦費調達の必要を共通の関心事として徴税を始め、これが近代国家の成立に寄与した・・・ちょうど三十年戦争の頃の租税国家の成立である。租税国家の概念は、「あらゆるイデオロギー的粉飾を取り払った国家の骨格は予算である」とする財政社会学的な考え方に基づき、・・・国家の本質と限界を租税制度から考えるだけでなく、・・・税の徴収の繰り返しや恒常化に求める。(45ページ)
私有財産を基盤としながら、その一部を国民すべてから権力をもって奪うのは、余程の国家的理由がなければ導入できるはずがないのですね。それは<戦争に勝つため>であった。この点は、大変、重要ではあるまいか?国民から金を借りるのではダメなのだ。勝ってから返さないといけない。それは相手国から奪うことによって返済すればよいのだが、それでは国家に資金を提供した富裕層が勝利の果実を独占することになる。それでは国家という戦争機械は作動しないのである。どうしても税でなければならない。

21世紀においても、同じ国家観が当てはまるのだろうか?戦争に勝利することと同じほど、国家的・国民的な絶対目的は、あるのだろうか?

江戸時代、幕府財政の危機に直面して吉宗将軍は改革を進めたのだが根本的解決には至らなかった。そこで家治将軍の下で田沼意次老中が進めようとしたのは、歳入構造の抜本改革だった。課税対象の拡大は高校の歴史でも教えていると思う。では、金銀会所はどうなのだろう?幕府と民間金融資本が共同出資して、いまでいう政府金融機関を設立し、新興産業に投資し、資産運用収益を折半しようという政策だ。鎖国政策を転換してロシア貿易まで志向していたそうだから、おそらく貿易金融にも参入したであろう。もし実現していれば、幕府の財政再建は成っていたに違いない。と同時に、封建大名の武威によって国を統治するという幕府政治もまた根底から変質しただろう。成否は歴史の闇の中にある。

× × ×

財政健全化とは、歳出・歳入改革である。増税が簡単なら財政健全化も簡単だ。国家として為すべき事業を賄うに十分な収入をどう調達するか?戦争なら税だ ― 実際には、増税にも限界があり、国債で調達し、戦後のインフレによって結果として民間の富を収奪した、この点は今日は割愛する。小生は、1980年代以降の国有事業民営化の潮流が、これから再検討されてくるのではないか。そう予想しているところだ。

2011年7月18日月曜日

私感ー佐高信 氏による原発・マスメディア批判

人は色々な文を書く。文から読みとってほしい内容も様々だ。

詩で伝えたいのは感情の流れとでも言えるのだろうか。作品と感性を同調できなければ、詩はわからない。

小生は仕事柄、統計学や数学の証明を読むことが多い。そこでは論理だけを読み取る。
AならBである、BならCである。Cでないことは明らかだ。故に、Aではない。そんな文章だ。

今日の北海道新聞に佐高信が「安全神話の責任追及を」というタイトルで寄稿している。内容は原発批判である。と言えば、同氏の立場を知っている方であれば、大体どんなことが書かれてあるか想像はつくだろう。

ロバストネス(robustness)という概念がある。頑健性と訳している。想定や前提がわずかに間違っていたときに、これまでの結論が全くオジャンになるようであれば、ロバストではない。そんな風に使う。津波の高さの想定が3メートル間違っていた。間違いがなければ損失はゼロ。間違えば損失は1兆円。1兆円の損失の原因は、最初の想定数値がわずか3メートル間違ったこと。だとすれば、そのシステムはロバストではなかったわけだ。

極論を仕掛けられたときに、自らの考え方がロバストであれば、(当初は吃驚するかもしれないが)十分ディフェンスできるはずだ。相手の批判・攻撃を恐れるのは、自分がロバストでないと自覚しているからだ。ロバストでない時、システムはヴァルネラブル(vulnerable)だという。脆弱だ、脆い、ひ弱いという語感だ。自分の脆さを意識すると、人は潜在的危険に対して非常に敏感になる。批判をする相手を敵視するようになる。

今日は、佐高氏の批判を奇襲攻撃と見なして、同氏の議論にどう対抗するかを考える。本日の投稿において、小生は<原発派>である。

× × ×

寄稿された文章全体を引用すると長くなるし、ここでは情緒でなくてロジックに注意を集中したい。そのため、文章の前後を入れ替えながら紹介させていただくことをお許し願いたいのだ。


  1. 木川田なら、安全確保のため、原発批判の急先鋒である科学者の高木仁三郎や作家の広瀬隆と、何時間でも議論しただろう。
  2. その思いを裏切る形で、東電は堕落していく。
  3. メディアもこれまでの姿勢が甘かったと贖罪の意識を持つなら、やはり徹底して固有名詞で、原発の安全神話をPRしてきた文化人を追求していかないとダメだと思う。
  4. 事故前と状況が変わっていないことの方が、深刻な事態だと思う。
  5. 福島第一原発の事故は、まぎれもなく人災であり、「企業災」、「政治災」である。
  6. 今、試されているのは、東電よりも、メディアだと思う。


骨子は上のように要約してもいいのではないかと思うが、文中、登場している木川田とは同社の元会長である木川田一隆氏のことである。

本文には実在の人物の固有名詞が幾人か挙げられており、批判の銃弾を浴びている。本気で社会評論をする覚悟が、同氏から伝わってくるように感じるのは、こんな点だ。反撃を恐れていない。発言することのリスクを率直に引き受けているのですね。

一寸整理しておこう。登場人物は以下のように扱われている。


  • 木川田一隆。東電中興の祖。戦前期、電力国家管理に松永安左エ門とともに猛反対した。戦後、原発に反対、「あんな悪魔のような代物を受け入れるべきではない」と言う。国家管理を怖れ、容認に転じ、安全第一の原則のもと故郷福島へ建設する。木川田、松永両氏とも勲章を辞退した。
  • 平岩外四。東電会長、経団連会長を歴任。勲章を受勲。
  • 湯川秀樹。最初の原子力委員に任命される。政府の意図に気が付き1年で辞任。
  • ビートたけし。地震が起きたら原発に逃げるのが一番安全と発言。
  • 弘兼憲史。原発は安全とPR。
  • 幸田真音。最近、事故未収束のまま、東電から還暦祝いをしてもらう。
  • 広瀬隆。原発批判派。新聞、雑誌のインタビューを受けているもののTVでは「上映禁止物体」。
  • 中曽根康弘。超A級戦犯。
  • 正力松太郎。初代原子力委員長。超A級戦犯。
  • 読売新聞。原子力新聞。


まあ、とにかく、すごいの一語に尽きるわけである。

ただ小生、思うわけである。たとえば上の要点1に挙げている「木川田なら何時間でも議論しただろう」。それはそうだろうが、ではそのことによって、東電は異なった行動を実際にとっていただろうか、と。それは無理ではなかったのだろうか、と。

木川田氏が、当時まだ福島県議だった天野光晴議員と肝胆相照らす間柄であり、同議員との信頼関係が背景ともなって、福島県内への原発建設を決意した動機は、確かに公益追求であり、故郷を私的利益追求に利用しようという意識はゼロであったとしても、それは木川田氏の個人的心情に過ぎない。寧ろ、木川田氏のような人が、東電の経営責任者でありながら、それでもなお同社は原発事業を始めざるを得なかった。その事実が一番重要だ。

人は自由意志を持つという。最高経営責任者であれば、経営判断を自由に下せる権限があると言われる。それでは、重要な意思決定において、人は完全な選択の自由をもっているだろうか?決して人は自由ではない。人は全て時代の子であり、社会の子であり、組織の弟子である。その人が置かれた状況をギブンとして、最も理にかなう選択が最初から与えられているのが現実である。一人の個人が、衆知を覆して、その人独自の考えに基づいて、自由に意思決定を行うのは、概ね不可能ではなかろうか?もしも時代の潮流に合致しない意思決定をしようとすれば、その人自身が組織から排除されてしまう確率が高い。これが現実ではないのだろうか?

だから、佐高氏が述べるような「このお人が、もし世にありせば・・・」という思考法は、小生には信用できないのだ。木川田氏もまた原発を導入したという事実こそ大事である。もし東電が、木川田氏とは別の人によって経営されていれば、同社はもっと早く原発事業を始め、原発依存率を高めていたかもしれないのだ。この同じ見方は、全ての電力会社が原発事業に取り組んできた経緯全体について言えることだと思っている。

東電が原発事業を始めたのは、個々の人間の思い、心情はどうであれ、原発が企業経営のロジックにかなっていたからであり、もしかなっていなければ、木川田氏は原発事業の不合理をあげて徹底的に反対していたに違いない。更に、東電が踏み出した原発事業を、広く社会が(曲りなりにも)受け入れ、継続が社会の大勢となったことも見落とすべきではない。日本の原子力発電は、戦後世界のエネルギー技術と日本の資源、日本経済の高度成長から、必然的に浮かび上がってきた一つの選択肢であった。もし本当に日本人の核アレルギーが本物であれば、止むことのない原発反対デモがずっと続いていなければならず、それが無視できない社会的勢力になっていなければならない。

あの人、この人、あの会社と指摘するのは誰しも可能である。しかし、極東軍事裁判ならいざ知らず、それは人間と企業の自由意志に期待しすぎている極論と思うのである。たとえて言えば、太平洋戦争を引き起こした戦争責任は、その職務にあった東條英機首相と宣戦布告をした東郷茂徳外務大臣の二人にある、そう断言するのと同じじゃなかろうか?そう感じるわけです。

そう考えると、日本が必要としている電力エネルギーを供給する電力会社を、サイドから支援するのは、人生意気に感じるからこそ支援するわけであって、結果として事故が起こったから、社会はその支援した人々まで断罪するべきである、そんな論法は、まるで幕末に新選組を扶けた京都市民を懲らしめろと云うのと同じではないか。そのようにも感じるわけだ。薩長藩閥政府が、いくら田舎者であったにしても、権力を奪取した後に、そんな無体な報復はしなかったわけである。

佐高氏の寄稿は、小生にとっても、非常に強い説得力をもっている。惜しむらくは、東電を「堕落」させた根本原因として、<独占>をもっと強調していない点にある。確かに以下のように言及はしているのだ。
国家に屈服し、民間企業としての誇りを捨て、官僚と野合して国家管理よりももっと始末の悪い、民間企業と役所の悪いところをアマルガム(合金)させたような、本当に無責任な会社になっていく。
それはその通りだが、法で認められた独占は、どのように理屈付けようと<公認された利権>になるのであって、利権を半永久的に保証された組織は常に堕落する。人間も堕落する。木川田氏がいてもダメなのだ。平岩氏のような方がいてもダメなのだ。立派な人がいれば会社は立派に経営できるわけではないのだ。仕組みが間違っていれば、必ず失敗するのだ。この一般原理をこそ結論として挙げてほしかった。そう思ったりもしたのである。

いずれにせよ、流石、佐高さんですね。そう感じさせる快速球。それが本日の寄稿でした。

2011年7月17日日曜日

日曜日の話し(7/17)

19世紀の絵画革命は印象派の登場だった。それはフランスの国難とも言える時代に開花した。その後、ゴッホ、セザンヌらのポスト印象派も世を去り、そこで出てきた主観主義というか、表現主導の美術の流れ。小生の好みもあり、どうしても話題にすることが多い。

写実ではなくて、自分自身の感覚に重きをおく。これはそのまま現代につながる感性であり、その感性は第一次世界大戦直前の時代に芽を出し、四年間の戦争の後、花を開き、大きな流れとなっていく。

時代が奔流する中で、色々な人が色々な人生を辿り、ある人は命を失った、ある人は功成り名を遂げて大家となった ― カンディンスキーはその一人だ。

その同じ時代に、日本人美術家はどんなことを考えながら、自らの才能と向き合っていたのだろうか?小生、とても関心があるのだ。日本画を志した人は、ある意味、割り切っているし、自分のよって立つ地点は日本の伝統の中にある。西洋画を志した人は、どんな風に自己の存在を確認したのだろうか?

この辺の事情は、芸術、学問分野を問わず、若い時は例外なく迷うと思うのですね。

しかし、1910年代の日本の西洋画の遺産というと、(小生も美術史の専門家ではないので)中々数多くは見当たらないのだ。

その頃、大御所である黒田清輝は既に晩年。有名な青木繁の「海の幸」は明治37年(1904)。藤島武二が欧州留学から帰国したのは1910年。まだ若い。一人挙げると中村彝(なかむらつね)になる。37歳で死ぬまでに存在感のある作品を残している。


中村彝、少女裸像、1914年

中村彝、エロシェンコ氏の像、1920年

麗子像で有名な岸田劉生は、黒田清輝の外光派から入り、後期印象派の影響を受けたあと、写実主義に転じていた。1910年にはまだ19歳。

岸田劉生、切通之写生、1915年

藤島が帰国してから、安井曾太郎や梅原龍三郎、はたまた佐伯祐三、荻須高徳、藤田嗣治らが続々と出てくるのは1920年代から30年代の日本だ。その意味で、日本の大正時代は、まだ近代日本が若く、日露戦争を乗り越えて訪れた平和の中、何も疑うことなく前を向いて走っていた。そんな時代である。

偉大ではあったが封建的な<明治>からモダンな<大正>への時代の移り変わり。文学では白樺派だ。

経済的にも、昭和11年まで曲がりなりにも続く、近代日本の<第一次高度成長時代>を謳歌した。

明るい時代だった。もうとっくに亡くなりましたが、祖父の青春時代にあたります。

2011年7月16日土曜日

リンク集 — エネルギー政策・原発・復興構想

管首相の脱原発宣言で大騒動になるかと思いきや、あれは首相の個人的思いであります、そうです、私の個人的思いでありました、そんな成り行きとなり、なあんだという気配。どうも言うこと、為すこと、地に足が着いていない。

エネルギー政策の中の「電力固定価格買取制度」がオーバーヒートしているが、「炭素税」の仕組みや税率も要点だ。日本では、地球温暖化対策税という呼び名で新税が石油石炭税に上乗せされる形で今年度から導入され、税収はエネルギー対策特別会計に繰り入れられている。使途は、電気自動車の支援とか、太陽光発電の支援に充てられる。余剰電力買取が台風の目のようになっているが、本来は炭素税率と表裏一体で実行される政策で、今回の再エネ法案は現行のエネルギー基本計画に基づく、後半部分にあたる。別に新しく出て来た新しい政策というわけではない。

地球温暖化対策税を東日本大震災の復興財源として転用していこうと民主党が考えているらしい、というので一寸した騒ぎになったので記憶されている方も多いだろう。

管首相が言うように、原発をゼロにするべく、再生エネルギーを現行計画よりずっと速いスピードで拡大していくのであれば、これは大変である。地球温暖化対策税率を大幅に引き上げて、財源を確保しないといけない理屈だ。早くこれを言い出さないと理屈に合わない。もし言えば、産業界との大論争に発展すること、間違いなし。

政府のエネルギー政策が、国民・産業界を振り回しているのは海外も同じ。最近ではドイツの脱原発決定が知られているが、イギリスもそうである。

電力市場改革は企業の海外流出を招く懸念(Daily Telegraph, 2011年7月16日より)

たとえば、John Cridland, director-general of the CBI, said: "Some energy-intensive industries are already on a knife-edge, and without help to shield them from new measures like the carbon floor price, they could struggle to stay in the UK." — いまでもエネルギー多消費産業は瀬戸際(knife-edge)状態にある。炭素税のこれ以上の負担からは免除してくれないと国内にとどまるのは困難だ、という趣旨。ちなみにcarbon-floor-priceとは炭素税の基本料金のようなものだが、内容だけをみると、まるで日本の報道かと思うだろう。

昨日投稿したオーストラリア事情を目にしても、今後の日本の議論の盛り上がりが想像できるのだが、以下のような記事を見ると、<地産地消>というか、自分たちの暮らしはエネルギーも含めて自分たちでまかなう気構えが伝わって来て、これは堅実な社会だなあと、小生などは正直感じたりもするのである。

市民が取り組む再生可能エネルギーの普及活動(ドイツ環境見聞録から)

「省エネこそ最良のエネルギー」、この理念に反発を感じる人は少なくないだろう。しかし、次の指摘は、日本も考えてみる価値はあると思うのだ。
さて、太陽光発電の累積導入量についてみると、日本は1997年から2004年までの8年間世界一となっていました(ソーラーパネルの生産量は2007年現在でも世界一)。しかし、2005年には、ドイツに世界一の座を明け渡してしまいました。この原因の一つとして、ドイツにおける固定価格での買い取り制度とは対照的な日本の法制度があると考えられています。
自然エネルギー拡大は、モノ作りを捨てることである。そんな風な意見がよく言われる。

製造業の役割はまだまだ大きい(Wall Street Journal, Real Time Economics)
What’s more, goods have tended to play an outsized role in the behavior of the economy. That’s because the goods portion of GDP tends to move up and down sharply as the economy enters and exits recession. Services, which account for nearly two thirds of GDP, are far more stable.
Despite its diminished role, then, the better off manufacturing is, the better off we are.
サービス業は景気・不景気でそれほど売り上げが激しく変化しない。よく言えば安定している。しかし、景気拡大の特効薬になるのは製造業の回復なのだ。その事情はアメリカも同じである。

上の記事は短期的な景気循環の中で製造業が果たす役割を見直したものだが、それ以上に製造技術を保有することの戦略的意味がある。リーマン危機直後にイギリス金融機関が経営不安に陥ったときに、EU加盟国全体が金融不安に対処する基本方針については、すべての国が合意した。しかし銀行に注入するべき資金協力についてはドイツ政府は拒否した。「ドイツの製造業が将来経営不安に陥ったときにイギリスの銀行はドイツのために経営支援をするだろうか?するはずがない。故に、我々も英国の金融機関の経営再建のために資金を拠出することはしないのだ。経営不安は資本主義のルールに沿って解決されなければならない」、当時、こんな趣旨の見解が報道されていた。ドイツが持っている自動車、化学、機械産業の生産技術はドイツの先達の血と汗が染み込んだ国家の財産であるという自覚が伝わってくる話しではないか。小生、この話し、とても好きなのだ。

そのドイツが脱原発に舵を切っている。モノ作りを諦めたはずがないのである。それは一つの国家戦略であり、民間企業はまだしも、政府は「十分勝てる」と確信している。そう見るべきだ。

売れる数を増やしたい、だから新興国が活躍する土俵が羨ましくなり、今更ながらというか日本ブランドを引っさげてローエンド市場に参入する。(ないと思うが)もしこんな発想をしたら、墓穴をほる。

低価格製品シフトは製造業を衰退させる(野口悠紀雄、東洋経済オンライン)

少し話しが固くなった。日本の自然エネルギー派と言えば河野太郎議員。これまで同議員の見解をまとまった文章で目にする機会は少なかった。下の記事を挙げておきたい。

河野太郎、原発と再生可能エネルギー(ダイアモンド・オンライン)

河野議員の核燃料サイクル不完全論を待つまでもなく、下の記事を読むと日本の原子力発電事業を担う人材そのものが枯れ果てつつあるのではないか?こんな状況では、そもそも原発を続けるのは無理じゃなかったのか、と。

原子力研究の落日、使命を見失った学者達(東洋経済オンライン)

ま、ともかくもエネルギー戦略と被災地復興、民主党だろうが、自民党だろうが、はたまた緑の党・日本が旗揚げするのでもよいから、真剣に取り組んでほしい。

最後の疑問。復興構想会議の提言は、どうなるのだろうか?新内閣が責任をもって実行するのだろうか?提言は、あまり評判がよくない。

霞ヶ関文学の羅列になった復興構想会議の提言(岸博幸、ダイアモンド・オンライン)
復興への提言—悲惨の中の希望(東日本大震災復興構想会議提言<オリジナル>、首相官邸より)

2011年7月15日金曜日

環境保護を唱える内閣を国民は常に支持するのか?

菅首相は、ミスター自然エネルギーと化してしまっているが、それは「首相の個人的思い」です。与党はそんな口調だから、民主党はそれほどまで環境問題に入れ込んでいるわけではない。

まあ、民主党は気候変動や自然エネルギー利用拡大よりは、何と言っても<子供手当て>で政権をとった政党だ。そりゃまあ、国家のエネルギー戦略よりは、みんなにお金を配ることのほうが大問題であると認識するのは、当然でもありましょう。少し嫌味がきつすぎますか?

そもそも環境をテーマにする内閣を国民は常に支持するのだろうか?
決してそんなことはない。それが現実である。

オーストラリアのギラード労働党内閣が明らかにした炭素税導入が騒動になっている。毎日新聞が要約している概要を下に引用しておこう。こんな政策だ。

国民1人当たりの二酸化炭素(CO2)排出量が世界最大のオーストラリアのギラード政権は10日、地球温暖化対策の一環として、来年7月からCO2排出量に応じて企業に負担を求める「炭素価格制度」を導入する計画を発表した。排出量の多い企業に1トン当たり23豪ドル(約2000円)を課す事実上の炭素税で、「公約違反」との反発が高まっている。
ギラード首相は昨年8月の総選挙前に任期中は導入しないと公言。しかし、首相の与党・労働党は上下両院で単独過半数に達せず、政権側は国会運営のため、炭素税導入を主張していた環境政党の「緑の党」との連携を優先した。
(出所: 毎日新聞、2011年7月12日朝刊WEB版

オーストラリアは世界の二酸化炭素排出量の1.5%を占めていて、これはイギリス、フランス、韓国とほぼ同じである。人口がこれらの国の半分か三分の一でありながら、これほど二酸化炭素排出量が多いのは、電力の80%を石炭から得ているためである。そのために、炭素税を企業に課することを決めたわけだ。

緑の党がオーストラリアでも政治的影響力を持ち始めているのだなあと、それなりの感懐を覚えるのだが、このテーマはイギリスのThe Economistでも論じている。そこで掲載している図によれば、オーストラリア国民はつい4年前には地球温暖化に相当強い関心を持っており、積極的対応策をとると訴えたラッド労働党が政権を手にする主要因ともなった。

(出所)The Economist, 2011年7月14日号

しかし上のグラフに見るように、それ以降、直ちに政策対応をとることを支持する国民は減っている。逆に、対応は必要ない、採るにしても徐々に進める政策が望ましい、そんな意見が増えてきている。明らかに地球温暖化への取り組みを求める国民世論は急速に変化してきている。そのため、炭素税導入を決めたギラード内閣の支持率は27%というワースト記録にまで落ちる結果となった。では今のオーストラリア国民は、何を政府に求めているのであろうか?


When the Lowy Institute, a think-tank, asked Australians to nominate their country’s most important foreign-policy goals in 2007, the year Mr Rudd swept to power, “tackling climate change” topped the list. In the same poll this year, that goal dropped to tenth place; first now was “protecting the jobs of Australian workers”. For a country with an envious unemployment rate of 4.9%, it seemed an odd change in priorities. But it reflected, perhaps, the shifting dynamics of climate politics.

このように国民の関心は、以前はトップを占めた環境問題から、失業問題へシフトし、かつては最優先とされた環境問題は今では重要性第10位という順位である。ズバリ、緊急性がなく、それよりも暮らしが大事である。国民はそう考えているわけであって、だから暮らしよりも環境を優先する政権は評価できない。そんな世論調査結果が出ているわけである。

炭素税を導入して、価格を高めに誘導することで化石燃料の使用を抑制し、それと同時に電力料金が急上昇する事態を回避するため、炭素税収を財源として活用する。政策としては中々良い。今後のオーストラリアの成り行きは、同じように炭素税を検討している韓国や中国の一部自治体も関心を持っているそうだ。しかし、そんな方法をとるよりも、もっと安く、同じ目的を達成できるではないか。それがThe Economist誌の意見である。

In the last months of his premiership, Tony Blair acceded to a European directive on renewables that requires Britain to generate 15% of its energy from renewables by 2020, an almost eightfold rise. It is hard to imagine the target being achieved; it is, alas, easy to imagine a lot being spent in failing to meet it. Offshore wind, many gigawatts of which the government wants to subsidise, is one of the costliest ways known to man of getting carbon out of the energy system. It will get cheaper; but not soon. If Britain wants to achieve its decarbonisation targets, it can do so—but by switching more of its energy generation from burning coal to burning gas. Trying to get there by a pell-mell fielding of the costliest renewables is pointless.

本文を一部引用させてもらったが、ブレア元首相は2020年までに自然エネルギー依存率を15%まで高めるという方針を支持した。しかしこの目標は達成困難になっている。確かに自然エネルギーはエネルギー生産による二酸化炭素排出を抑制するのに有効である。しかし、高価な太陽光発電や風力発電を増やすよりも、天然ガスの利用を拡大すれば、一層安いコストで同じ目的が達成できるだろう。自然エネルギーよりも天然ガスのほうがコスト・ベネフィットがよい。つまり効率的である。

自然エネルギー利用拡大は意義のあることである。しかし、なぜ意義があるのか?<真の目的>を明らかにする作業が欠かせないのではないか?でなければ<エネルギー戦略>の名には値しない。その真の目的とは、エネルギー利用に伴う二酸化炭素排出を抑えたい、ということではないのか?だとすれば、同じ目的は別のやり方でも達成できるし、しかもお金をかけずにできる。

何も考えずに、一気呵成に太陽光発電、その他再生エネルギーに<突っ菅攻撃>をかけるのもよいが、その前に目的を達成するのに最も国民の犠牲が少なく、速やかに達成できる手段はないのか?環境保護は誰でも重要だと思う課題であるし、是非達成したいと国民は願っているはずである。しかし、犠牲もまた大事な側面ではないのか?犠牲を省みずに、目的達成に努力することも一つの行動スタイルではあるが、まずは兵の損耗を極小にすることが総司令官の重要な使命ではないかと思うのだが、いかがであろうか?







2011年7月14日木曜日

グローバル・グリーンは21世紀の国際政治を動かすか?

やはり管首相の<脱原発>記者会見は惨憺たる報道ぶりだ。「具体策に言及なし」、「脱原発、難題ばかり」、う〜ん、やはり大都市圏大手新聞社は原発推進派なのかなあ。「管首相の脱原発依存発言は無責任だ」、「首相前のめり、延命狙う」。どうやら、日本経済新聞は反管に舵を切り、現政権との正面衝突を覚悟したか。経団連を中心とする財界本流と概ね同じ立場だねえ。ま、それも善きかな。マスメディアなる会社は、そもそもこうでないといけない。

北海道新聞はというと、「脱原発社会を目指す、具体策なく」、「泊3号機、営業運転明言せず」。その下に「帯広に太陽光発電実験場」、「ソフトバンク、年内着工表明、発電所は苫小牧有力」。次のページには「自然エネ普及へ一歩、メガソーラー建設へはずみ」。「孫構想実現に壁も」、「農地の規制緩和、再生エネ法案成立が不可欠」。日本経済新聞社とは(予想されるとはいえ)相当異なった立場に立っていることが歴然としている。

これまた当然のことであって、本来は、同一国とはいえ住んでいる地域、従事している仕事、業界、社内の地位等々によって全く違った意見、政治観を人は持つはずだ。というか、政治的立場は個人個人で違うのが当たり前だし、路線対立は社会の中に常にある、そのため社会は常に政権交代を含んだ緊張状態にある。決して均衡というか、和の状態などにはない。こうでないと民主主義社会はメリットを発揮できないのである。とんがった部分、異端分子を排除する統一化志向は社会の進化を抑制する根本原因である。小生はそう思っているわけであります。

ま、その意味でエネルギー路線闘争。どんどん、やってくれなはれ。本音はこれに尽きる。

長く顧みると、19世紀から20世紀にかけての社会内対立は、何といっても<階級闘争>だった。資本家と労働者の利害対立は埋めがたいものであり、遂には体制変革への駆動力ともなって、現実に国際共産党運動の広がりを止めることはできず、ロシア革命を引き起こした。国際的政治運動が帝国政府を倒せるなどと、どこの誰が考えたでありましょう。東ヨーロッパの共産化、中国共産党の権力奪取。第2次大戦後の社会においても、社会主義志向、階級闘争の捉え方、共産党運動は世界の人たちに訴求力をなお持ち続けた。日本でも無視できない政治勢力であり続け、今なお55年体制の残滓を見ることができる。

その共産党運動というか、階級闘争を軸とするマルクス・レーニン主義が次第に輝きを失って、奔流するマネーに漂流するバブルのようなグローバル資本主義がやって来た。市場原理主義。しかし・・・方丈記ではないが「よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」。こんな寄る辺のない社会にまた生まれてきたい、そう願う人は一人もいない(一人もいないと言っては嘘になるか)。人間、マネーのために生きるのか?そんな風にも感じさせる。そんな社会は、嫌でしょう。反動的感情と言えばその通りだが、グローバル金融資本主義は嫌だ。こう思う人が増えているのも事実なのだ。経済の現実と人々の価値観との矛盾。一言で言うと「均衡」のとれた社会ではないのですね。こんな海図なき航海のような状況が既に10数年続いている。

社会も社会組織という組織である以上は、誰もが「それはいいことだよね」と同意する価値尺度と毎日の行動原理とが、合致していなければならない。でないと、社会は不安定になる。マネーは人間個々人にとって最高善にはならないのですね。少なくとも、ここ日本では。そういうことではないでしょうか?

小生は、リーマン危機と今回の原発事故”Fukushima Crisis”が、21世紀の世界政治経済に対して、非常に長期間、無視できないモメンタムを与え続けるのではないかと予想している。リーマン危機に対しては、国際間で議論を展開する仕掛けが既にある。では国際エネルギー戦略についてはどうか?国際エネルギー機関(IEA)とか、国際原子力機関(IAEA)とか、既設の機関はあるが、フランスが旗を振り始めているように、原子力利用とその安全性確保だけをとっても、国際機関が果たしている役割と与えられている権限は非常に不十分である。国際的な制度設計のレベルアップは、原子力分野では緊急性の高い課題だ。

しかし、科学的議論とは別にエネルギー戦略の選択において、国際的に組織化された強力な政治勢力が出てくることは、小生、やはり歴史の必然ではないか、と。その中心機関としては、たとえばグローバル・グリーンがあり、日本でも緑の党・日本が既にある。ドイツ緑の党グリューネ・パルタイが、ドイツ政治に一定の政治的影響力を与え始めていることは、先日の脱原発閣議決定からも窺える。エネルギー戦略と整合した産業計画しか実現できない。このロジックには中々勝てないのですね。それもグローバルに網をかけるのが最も良い。これは、これ自体、国際的政治運動となる運命にある。

既存のこの緑の党運動が、今の形のまま規模を拡大させて、そのまま世界政治に影響力を行使するようになるだろうかと問われれば、「今の形のままでは、違うのじゃないでしょうか」と、そう感じるのだ。しかし、今回のフクシマ危機がグローバル・グリーン勢力の拡大にプラスのショック(補足:システム論で言う撹乱要因のことです)を与えたことはほぼ確実である。

今は、民主党というか、菅と反管などという茶碗の中の争いだが、そんなちっちゃな痴話喧嘩でケリのつく話題ではない。緑の党が日本で旗揚げをする絶好の機会は、ほぼ確実にやってくるだろう。民主党も自民党も新たなライバルが登場したときに、どう戦うか、検討しておかないといけない。誰が、現首相の権力を継承するにしても、脱原発・自然エネルギー拡大支持勢力とどう向き合うか?これは確実に将来の日本の政治的アジェンダになるだろう。この選択は、TPPに参加するとか、EUと自由貿易協定(FTA)を締結しようとか、そんな個別の政策よりも一段高い判断であって、だからこそ欧州では国民投票にまでもつれこむ国も出てきたわけだ。

今の日本の世情を見ると、菅と反管の勝負でグダグダのまま決着させるよりも、「一次エネルギー戦略に関する国民投票」を実施するのが、最善ではないのか?そう思われたりもするのです。

2011年7月13日水曜日

短期経済予測 ― 今後1年間の景気動向指数の急上昇

昨日の国会で菅総理が原発事業の国有化に言及したよし。マスメディアでは、またまた思いつき発言、迷走発言ではないかという報道ぶりだ。しかし、マスコミも余りに幼稚というか、読みが浅いのではないだろうか?

そもそも原発国有化など、福島第一原発事故の当初段階からして、かなりの程度で予想されていた方向である。小生も本ブログでそんなことを書いている。今になって、発言をするのは世間の風向きを見ていたからに決まっているではないか。小生などは、ついそう思ってしまうのだ。

発言が思いつきのように見えるのは、記者会見が少なく、断片的にその時々言及することが散発的に伝えられるからだ。つまり、マスメディアこそが、思いつき宰相・菅直人のイメージを作ってしまっている面がある。

しかし、一連の発言が向かうところを延長して見通すと、見事に一直線を描いていることに、誰もが気づくはずだ。首相は「経済産業省が敵である」と言い、「あそこはとんでもない組織なんだよ」と口にしているそうだが、菅内閣が実際に実行しようとしていることは、経済産業省の省益に完璧にかなう。

原発事業を電力会社から切り離し、国の責任で発電事業をするとして、必ずしも公社形態をとる必要はない。電源開発(J-Power)が事業を継承してもよい。しかし、公社にしておけば利益の大部分は国庫納付金として吸い上げることができる。自然エネルギー活用という大義名分で引き上げられる電力料金によって、原発公社の利益もまた、会計上膨らむはずだ。また、原発事故の損害賠償保険金を電力事業を行う全ての民間事業者に支払わせることにすれば、巨額の保険金支払い準備基金が積み立てられることになる。それもまた、国家資金となる。公社を運営する経営陣は官出身が6割、民間出身が4割というところだろう。更に、送電管理統一化という名目で送電事業においても国家の関与が強化されれば、送電経路を流れるインターネット情報を集中管理することまで可能となる。ここからも金をとることができるだろう。

いま進行していることの終着駅は、エネルギー政策の再検討、自然エネルギーの利用拡大、原発の安全性強化を名分とした官業拡大ではあるまいか?国家もまた、政府もまた、利益を出す必要が出てきたと考えれば良いのである。これこそシュンペーターが強調した「租税国家の危機」を乗り越える一つの解決策ではないか。

思えば、江戸幕府の財政危機を乗り越える努力が吉宗、家重と続けられた後、田沼意次が企画したことは、幕府自身が営利事業への参入を図ることだった。それは幕府エスタブリッシュメントの価値尺度と矛盾し、その倫理的障壁を乗り越えることが困難であったがゆえに失敗に終わったわけだが、税収による国家運営の危機は何らかの斬新な方法で解決されねばならない。


そんな想定をすれば、菅首相の一連の発言からは、極めて理路一貫した戦略性が認められるとすら、小生には感じられるが、そうではなく全くの阿呆が総理の座についているだけなのであろうか?小生は、黒子役を果たしているアドバイザーがいるのに違いないと思うのであるが、マスメディアは一切そんなことを考えもしないらしい。これまた不思議だよなあ・・・そう思ってしまうのですね。不思議といえば、与党の岡田幹事長が、首相にズルズルと引きずられている状態も、本当に奇妙なことである。バラバラ状態で勝手に批判しあっている与党議員達も奇妙なことである。

何もかも奇妙で不思議なのだが、事実として進行中であるのは、決して混沌と迷走ではなく、極めて計画的かつ戦略的な官主導の世論操作ではないのでしょうか?

それはさておき。

× × ×

内閣府から5月の景気動向指数(速報)が公表された。これをみると、生産状況を示す一致指数は急速に回復しつつある。5月までの数字を基に、6月以降、今後1年間の動きを予測してみた。方法は予測の定番であるARIMA(アリマ)モデルによる。下がそのグラフである。


景気動向指数は10種類以上の経済データを総合したもので、その数字自体が単一産業の生産高を表すわけではない。それに数字は全国ベースのもので、被災地での情報収集がどの程度満足に行われているのか、情報収集が不完全であるとして、その状態と大震災以前の数字がなぜ接続できるのか、色々と疑問に思う点はある。それでも、政府の責任で公表されている統計データである。まずは、そのまま受け取って、6月から来年5月までの指数の動きを予測したわけだ。

上の図に見るとおり、生産は今後上がります。顕著に上がり、間もなくリーマン危機直前のピークを抜くでしょう。そもそも3.11直前までの経済はその勢いでしたからね。結局、事前に言われていたことであり、小生はそんなにうまく行くわけがないと悲観的でもあった生産体制の復旧が、速やかに完了されたということ。この点は素晴らしいことだと思う。

もちろん何が起こるか分からない。グラフの中で色つきで示されている予想区間内で見ておいてほしい。

× × ×

2011年7月12日火曜日

高齢化社会、その光と陰を考える

人生何を求めるかと言えば<福禄寿>、特に中国ではこれに決まっている。笑いがたえず、資産もあり、寿命にも恵まれる。これで不満のあろうはずもない。三つ合わせたものが所謂<幸せ>を構成する。日本でもそう言って差し支えないのではないか。

とすれば、平均寿命が永くなる、長生きできる国というのは、幸福な国を築くための一里塚である。私たちはそう思ってきたのではないか?では、長寿社会の到来は、疑いもなく社会に光をもたらしてくれるのだろうか?正面からそう問いかけると、必ずしもそうは言い切れない、そう思うようになった、最近。長生き社会には光もあれば、陰もある。それは誰もが知っているはずなのだが、誰もが光の部分だけを語りたい。そんな心理を持っている話題でもある。

× × ×

むしろ高齢化社会の陰をリストアップするほうが容易なくらいである。

まず高齢化社会は貧富の格差を半ば自動的に拡大する。日本の所得(資産)不平等度は1980年代以降、上昇トレンドを描いているわけだが、この主要因として高齢化が挙げられていることは周知の事実だ。少し古いが総務省統計局が作った資料をみても、年齢が上がるにつれて、同じ年齢層の中で不平等が目立つようになる。ちなみに、2000年前後で日本の不平等度は、北欧諸国よりは不平等、ヨーロッパの大国並み、アメリカよりは平等。そんな位置にあった。最近時点の数字は中々ないが、規制緩和が進み、それと同時に急速な技術革新によって産業構造が大きく変わる時代には、世界共通で不平等化が進む傾向があるので、相対的ポジションはそれほど大きく変わっていないと予想してよいと思っている ― そもそも不平等度は統計の取り方で非常に違った数字になり、実態はとらえにくいものだ。

ともかくも長生きをする人が増えて、高齢の人が社会の高い割合を占めるようになると、大きな格差が自動的に目立つようになる。最初の5キロでは接戦をしているマラソン走者も、ゴール手前では大きな差がついてくる。それと同じ理屈だ。

長生きをすると、有病率が高くなる。厚生労働省の患者調査だが、30~34歳と70~74歳で10万人当たりの有病率を比較すると、(少し古いが)前者が3300人、後者が15000人。壮年期から老年期になると5倍も病人が増える。まあ、当たり前のことである。

年齢別の自殺率を見よう。最も自殺率が高い年齢層は50歳代、次に70歳以上、それから60歳代である。日本の自殺率高止まりの背景として高齢者の増加をあげても差支えはない。

但し、幸福感には各世代ごとの個性というか、特徴もある。以前、内閣府から公表されたディスカッション・ペーパーにこの点が紹介されている。その中に下のような結果がある。元データは国民選好度調査の満足度指数である。

図をクリックして拡大してご覧頂きたいのだが、青い矢印はいわゆる<団塊世代>の満足感であって、上図全体としては各年齢層の満足感がどのようであったかという中で、団塊世代の数字がどのように推移してきたかを伝えている。そんなグラフなのである。

これを見ると、時代を通して、団塊世代が生活満足感のボトムを一貫して形成している。他の世代は、団塊世代よりは高い満足を感じながら暮らしている。そんな事情が見て取れるだろう。面白くもあるが、やっぱりなあ、そんな感懐も覚えるのだ。

いま少子高齢化の中で高齢者の比率が非常に高くなりつつあるのだが、その高齢者の中で団塊世代の人たちが増えてきている。その人達が持っている低い満足感が社会全体の満足感を決定しつつある。そんな事情もあると思われる。

それでは寿命が永くなることの光の面というか、その恩恵は何であろう。実を言うと、小生、大変申し訳ないというか、小生自身がこれから高齢層への門をくぐっていく階におり、情けなくもあるのだが、正直を言うと、長寿社会のメリットを中々思いつかないのである。しいて言えば、人生経験の長い人たちが多数を占める社会は、社会的暴走をすることが少なく、平和を守り、何事にも成熟した判断ができるようになるのではないか。そんな風に考えることはある。企業経営の現場でも永年苦労をしてきた先達の意見は、決して軽んじて聞くべきではないことは、色々な場で確認されてもいる事実だ。しかし、全ての高齢者が年少の後輩に貴重な助言を提供しうるのかといえば、亀の甲より年の功とはいうものの、人数が増えてくると助言も多様になり、どれを信ずれば良いのか不確定になろう。有益なコンテンツとノイズが混じって、その分信頼性が落ちるわけだ。やはり、70歳を迎えるのは古より稀なり、というように長老的先達の実数が少なかったことが、経験知の価値を高めていたとも言えるのではなかろうか。

× × ×

小生が少年の時には55歳が定年で、平均寿命は65歳程度であったと記憶している。仕事をやめて、概ね、10年くらい悠々自適の暮らしをしたわけだ。恩給だって、まあ、10年くらいは支給してくれるかな、そんな状況である。15歳まで義務教育で、それから働き始めるとすれば、40年働いて25年は扶養してもらう。各年齢層が同じ数であっても、大体二人が老人ないし子供を養えばよい。実際には老人の数は少ないので、4人、5人が一人の扶養者を養う、そんな感覚であったろう。現在は、高学歴化しているし、若い人達の失業率も高い。定年は60歳が多いだろうか。基本的には25歳位から60歳まで働くとして35年間は生産活動を行う。平均寿命が80歳になるとすれば、残り45年間、人生の半分以上は非現役だ。土俵には立たない。そんな数字になる。こんな算数を、今日の明け方、たまたま目が覚めて、何となくやったのですね。

カミさんとも、時折、話すのだ。平均寿命が65歳から80歳になったとして、追加される66歳から80歳までの月日は人生の幸福をどの程度増やすのだろうかと。

こうして考えると、長寿社会の到来は、日本の誇るべき社会的成果だとよく引き合いに出されるのだが、その光と陰の部分を熟考しなければならないのではないだろうか?

× × ×

社会が進化していくときは、どこかで価値の転換が必要になる。その点を先日来の投稿で記してきたのだが、
生とは何ぞや?
人生の意義とは何ぞや?
日本人の死生観とは何ぞや?
この事柄について、今後ますます一層、日本人は考えることを迫られるのではないか。そう思うのであります。

野中・戸部他の「戦略の本質」は名著「失敗の本質」から20年を経過した後に発刊された続編と言える新著だ。そこで強調されていることは「戦略とは、第一に真の目的を明らかにすることである」。そこから説き起こしている。定まらぬ死生観と定まらぬ人生観。これでは、生きたいと思う人生も定まらず、送りたいと思う生活も定まらず、エネルギー戦略も定まらず、結局はお上の仰ることに盲従する結果になるのではなかろうか?お上の指示するエネルギー戦略をギブンとすれば、国民が就職するべき産業や企業も自ずから決まってくる理屈である。何を最高善として意識するか?あんな風に生きたいよねと、どのように思うか?日本の社会組織の価値尺度は、やはり日本人の死生観を基にしているのではないかと思うのだ。

戦前期、昭和10年代の軍国主義の下では、日本人の命は鴻毛の如き価値。1銭5輪の値打ちでしかなかった。国を思って戦いに死すことは名誉であるという価値尺度。終戦と共に価値転換を強制された。戦後日本では全ての人の命は地球よりも重く、死は何よりも忌避するべきこととなった。政府が公布する憲法ではこのような規定(修正:理念)で差し支えないが、それとは別の国民の心情として、いかなる死生観に立って生を全うするのか?

日本文化の真髄としては、吉田兼好が徒然草第七段に記してあるように
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。

命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。そのほど過ぎぬれば、かたちを恥ずる心もなく、人に出で交らはん事を思ひ、夕の陽に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。
 こんな風な心情がいま現代においても心の奥底にはあるのではあるまいか?


このことは、予想外に日本の将来を決めるのではないかなあ、とそんな風に思いめぐらす今日であります。

2011年7月10日日曜日

日曜日の話し(7/10)

ドイツ美術。馴染みが薄いですよね。ドイツとくれば音楽ですから。

敬虔なプロテスタント達は、カトリック諸国のようには彫刻・絵画に高い価値を置かなかった。そんな説明もあったりする。

ドイツ表現主義が立ち上がってきたのは、ドイツ帝国誕生後の19世紀後半。

カンディンスキーが青騎士を立ち上げたときの仲間の中ではマッケ(August Macke)がいい。

 Macke, Millner's Shop, 1913, Munchen Lenbachhaus所蔵

上の絵は、手元のPCのデスクトップにしばしば使っている。夏向きではないですけどね。所蔵されているレンバッハハウスは、カンディンスキーの教え子で、第2次大戦後まで生き抜いたガブリエレ・ミュンターが死去する前に、保管していた作品を寄贈したことで有名だ。青騎士の作品が散逸しなかったのは彼女のお陰だ。

カンディンスキーとミュンター。映画化されて当然の生涯でありますな。

下は1914年にマッケがクレー(Paul Klee)と一緒に旅行したチュニジアを描いたもの。

Macke, Markt in Algier, 1914

マッケはチュニジア旅行をした翌年、第一次世界大戦で戦死する。同じ青騎士の画家フランツ・マルクもそうだ。

下はチュニジア旅行に同行したクレーの作品。クレーは長生きをした。

Klee, Hammamet With Its Mosque, 1914

フランスでも1906年に死んだセザンヌの後、ピカソやら、マティスやらの後世代が続々と登場して、表現主導が時代の潮流となる。ドイツにはドイツの花が咲いていた。そんな感じがして、最近はますます一層好むようになってきている。

そういえば、フランス印象派が旗揚げした第1回印象派展は1874年。普仏戦争でフランスが敗北し、第3共和制政府が設けられたものの、首都パリはパリ・コミューンを結成して徹底抗戦。政府は、とうとう敵国ドイツの支援を得て、民衆へ発泡するという「血の一週間」を引き起こす。パリは屈服する。フランス印象派は、そんな中、戦塵おさまらぬ時代の申し子として活動したのだった。反アカデミズムの志が、現代美術に通じる道を切り開き、20世紀になって花開いた。

国難と文化の高まりの相関を感じずにはいられない。


2011年7月9日土曜日

リンク集 ― 脱原発論争

戦後日本に現れた初めてのドン・キホーテ型宰相と言えるのではないか?小生は菅直人首相をそんな目で見ているのですね。エネルギーは政治の争点にはなり得ないと宣うた御仁も居るらしいが、「一体、何故に争点にはならないのでございますか?」と、是非ご卓説を聞きたいところだ。


国民、産業が使用する主たるエネルギーを原子力に求めるか、非原子力に求めるか?欧州では国民投票までやっている。これが政治的争点でないなんてねえ・・・・ほんとに政治家か、その御仁は。私はそう思うわけである。


さて原発か脱原発か?参考情報をまとめるのは、ほんとうにやりやすいのだ。


日本の電気代(BLOGOSから引用)
現在の日本は、定期点検中の原発が再稼働できないという、おそらく最も急進的な脱原発に向かっている。その代償は、電気代の上昇、熱中症や大気汚染などによる人命、そして、産業の空洞化による失業率の上昇とそれによる自殺者の増加などが考えられる。得られるものは「放射能」という悪霊と、文字通りに日本人の命をかけて今年の夏に戦った、という誇りみたいなものなのかもしれない。アメリカが911でテロとの戦争をはじめたように、日本は311で原発との戦争をはじめたのだ。
なるほど、こんな風にみている人もいるのだなあ・・・・と。戦争だって、する人にとっては善だし、その他の人にとっては悲惨でしかないからなあ。そんな感懐を覚える。

脱原発には覚悟が必要だ(池田信夫、アゴラから引用)
脱原発の最大の被害者は、エネルギー多消費産業の労働者と、工場の立地する地方都市の住民だろう。
ま、同じ趣旨である。


他方、原発必要論は電力会社のロビイングに影響された政治的プロパガンダという意見も拡散してきている。たとえば
<脱原発>50年の経済影響なし 東京大准教授試算茂木源人、Yahooニュースより

これは読めなくなるかもしれないので本文の要点を引用しておく。
 現在、日本の電源は原発約3割、火力約6割、太陽光を含むその他が約1割。試算では、太陽光パネルの寿命は20年で、発電量は年率1%で劣化するとした。50年までの電力需要を考慮し、(1)原発を段階的に廃止し、その分を太陽光が代替する(2)原発はそのままで、太陽光が普及していく分、火力を減らす(3)原発はそのままで、太陽光は住宅への普及限度の1000万戸まで増え、その分の火力が減る--の3ケースで分析した。
 その結果、50年の国内総生産(GDP)は、(1)536兆円(2)533兆7000億円(3)536兆1000億円で、ほぼ同レベルになった。
 この理由を、(1)と(2)で太陽光パネル製造や設置費など40年間で162兆8000億円が投入され、製造工場などで雇用が生まれるためと説明している。
 東日本大震災前の原発の平均発電量を得るには、1万平方キロの設置面積が必要だが、現存の耕作放棄地などを活用すれば可能という。
 一方、電力料金については、20年代半ばに1キロワット時あたり0・6円上がるが、大量生産が実現する30年に元に戻ると分析した。
 茂木准教授は「当初の太陽光発電のコストは他電源より高いが、国内ですべて生産すれば経済の足を引っ張ることはない」と話す。【藤野基文】
民主党が脱原発に舵を切るなら、きちんと数字を示すべきだと指摘されることが多いが、政府が示す数字は政府にとって都合の良い数字に決まっている。そんなバイアスのある数字を空しく期待して待つよりも、色々な試算結果が誰でも読める形でアーカイブされる場所がネット社会のどこかに確保されていれば、それが最善ではあるまいか?

エネルギー戦略とは産業構造戦略でもある。この二つは表裏一体で考えなければならない。ドイツが脱原発に舵を切る姿をみて、ヒヤ、ヒヤ~などと茶化している姿は無様であると同時に、愚かである。

日本の太陽電池メーカー自滅の原因(ダイヤモンド・オンライン、産業レポートより)

生きるか死ぬかで競争場裡にある民間企業は流石にしっかりと現実をみている。

エネルギー関連の地産地消目指すシャープ(ウォール・ストリート・ジャーナル)
これまた新聞記事なので後日読めなくなるかもしれないので、要点を引用させてもらう。

日本最大の太陽電池パネルメーカーであるシャープは現在、国内2カ所に太陽電池の生産工場を有している。1カ所は1980年代に、もう1カ所は2010年3月にそれぞれ稼働開始したものだ。
片山社長はこれら生産拠点について、「日本の中の需要は小さかったが、(需要拡大を)期待して日本に工場をつくった」とし、「しかし需要が伸び悩み、国内の供給能力とのギャップが収益性を悪化させている」と述べた。
「海外に輸出しようと思っても、リーマンショック以降の円高で海外で競争力を失っている」と、海外現地生産拡大に乗り出すきっかけについて片山社長は語った。
それに向けた大きな第一歩として、シャープはイタリアの電力大手エネルとスイスの半導体大手エス・ティー・マイクロ・エレクトロニクスと合弁会社を設立し、イタリアのシチリア島に太陽電池パネル工場を建設中だ。新工場は年内に操業を開始する予定。
工場の建設予定地については、片山社長は「需要が増えそうな地域があったら、その地域に太陽電池の工場を造るというのが基本の考え方」とした。
エネルギーをめぐっては、もはやビジネスが政治を追い抜いて、現実に動いている。日本の政治は、今後日本のビジネスに追いつくことを求められるだろう。現実化する歴史の流れを逆流させる政治的努力は成功するはずがないからだ。

被災地復興に関して次の意見を紹介しておきたい。

宮城県知事の町づくり計画(佐藤健政治ブログより)

松本龍前復興相が、宮城県知事に「地元の了解を得ろよ。でないと国は助けないぞ」。そう発言した意味内容は、必ずしもゼロではなかったのではないか?全否定される発言でもないのではないか?政府の閣僚が被災地自治体の長にとるべき態度は、それ自体として、批判されるのは当然だ。しかし、言ったことの内容そのものをどう考えるか?そんな見解もマスメディアは紹介するべきではなかったろうか?


2011年7月8日金曜日

Jin‐仁の哲学でドンキホーテ宰相を論ず

管総理による唐突な原発ストレステスト指示。地元自治体、知事会でぼろくそである。与党幹事長も「首相が何を考えているのか分からない」と発言したよし。とにかく、極めて評判が悪い。

評判が悪いのは当然でもある。

今になってストレステストなどと言うなら、何故に浜岡原発を停止させたときに言わなかったのか?

指示が遅くなった点は総理も謝罪している。しかし、必ず言わなければならなかった時に言わなかったのだから、今回の指示は確実に思いつきであろう。首相の言い分を認めるとしても、EUはストレステストを既にやっているのだから、いままで指示しなかった点こそ、酷い失政であるという結論になる。ま、どちらにせよ失政の限りを尽くしている。

× × ×

総理は、日本全国の自家発電量を総ざらいするように経産事務次官に指示したとのこと。報告された数字に納得せず、埋蔵電力量を全て活用する気構えである様子だ。どうやら、全ての原発停止状況に備えているようだ。

全てこれ、昨日の投稿でも触れた総理の政略に沿っているといえば、理にかなう。

ただ前原氏が指導者への意欲を持ち始めたと伝えられており、小沢グループ、鳩山グループも同氏を支持する方向で固まりつつあるとの報道だ。ほんとに、日本の政界事情こそ、誠のスパゲッティであります。

自然エネルギーを旗印に掲げた首相の抜刀突撃が成功するかどうか?成否は未だ見通せないが、風車に突撃したドン・キホーテは、サンチョ・パンサと二人きりだった。だから突撃できた。敵に突撃するときになって、周りの味方がワラワラと出てきて、前に立ちふさがれば、行動はできない。情景としては、月明かりの功山寺に挙兵しようと思う矢先、隊士たちが高杉晋作を取り囲んで、「辞めてくれ」と言うようなものだ。こうなりゃ、もうダメです。

しかし、落ち着いて3月以来のことを熟考してみると、もし福島原発事故がなかりせば、いま何が政策上の争点になっているだろうか?やはり、復興財源を増税に求めるか、国債増発に求めるか、ではあるまいか?それは原発事故収束よりも重要性が低い問題なのだろうか?いやいや、これまた大問題であって、原発事故がなかったとしても、未だに小田原評定を繰り返していたことであろう。

不幸にして、大地震と大津波は東北地方の社会インフラを破壊し、福島原発を破壊し、住民の暮らしを破壊した。政府の立場からみて、これらのどれがいま最も重要な最優先課題であるのか、わかる専門家はいない。言えることは、どれも解決しなければならない。放置すれば永遠に解決されず、日本社会が荒廃することが確実である。それだけだ。

菅総理は、特にエネルギー戦略の再構築こそ、いま現時点で行うべきことだ、そう考えているらしいのだが、小生、賛成したくなる気もあれば、しかし、「国民の暮らしが最も大事だろうが」と正しく正論で来られると、どう対抗すればよいか、返答に困るだろうなあ、とも思う。

× × ×

経済学者の野口悠紀雄氏や、人気の高いアマチュア歴史家井沢元彦氏がよく引き合いに出す社会の見方がある。トルストイ流の歴史主義である。

日本の近世は、織田信長が始め、豊臣秀吉が開き、徳川家康が完成したと言われる。常識ですよね。レバタラは歴史に無意味だが、仮に織田信長がいなかったら、秀吉がいなかったら、家康がいなかったら、誰も英雄がいないその時は別の歴史になっていたのだろうか?いや、歴史は変わりません。二人や三人の個人がいなかったとしても、歴史はみんなが知っている歴史と同じ歴史であったろう。これが歴史主義のエッセンスである。

仮にナポレオンがフランスに現れなくとも、その時は別の人物が現れて、ナポレオンの果たした役割を果たしただろう。もしその人が天才でなければ、何人もの凡人が試行錯誤をしながら、同じ課題に取り組んで、結局はフランスは今のようなフランスになったであろうし、その過程でやはりフランスは他の欧州諸国と戦争をしたはずだ。個々の戦争の勝敗は違った経路をたどったかもしれないが、歴史の流れは同じであったろう。こんな哲学がトルストイの「戦争と平和」の全編の底流として流れている。

人が歴史を作るのではなくて、歴史が人を作る。時代が求めている人物がやろうとすることが、結果としては選ばれて、現実の歴史になるという感覚。だから、信長がいなくとも、秀吉がいなくとも、家康がいなくとも、その時は同じ役割を果たす別の人間が出てきて、結局、同じことをしただろう。ま、こんな社会観ですね。何だか、先日まで放映されたTBSドラマ「Jin‐仁」のようでもある。

× × ×

前原氏は既存原発全面停止には極めて批判的である。同氏が日本のエネルギー戦略についてどんな構想を持っているか、小生は熟知していない。また、同氏が財政運営について、東北地方の復興について、どんな構想をもっているかも聞いたことはない。多分、いま考えていることだろうが、仮に同氏が権力を引き継いだとしても、それが時代の進む道と合致しないなら、必ず失敗する。政治家として成功する意志があるなら、支持率ではなく、時代が求めている方向を見る。これがたった一つの鍵だ。支持率は結果であって、目標でもなければ、信頼できる指標でもない。私はそう思うのですね。

管首相がいまやろうとしている戦略が、歴史的課題に沿っているのか?小生にはまだ明らかではない。だから夏が過ぎ去った後、誰が総理であるのか、皆目見当がつかない。しかし、菅首相が本気で追い求めている目的が、真に日本の歴史の進展にかなっているのであれば、政治的奇蹟が起こるだろう・・・奇蹟を起こすのに、十分な理解者がいるかどうかが心配ではあるけれど。

東日本大地震を経験した日本人なら、仮に政治的奇蹟が起こったとしても、一人として吃驚はしないだろう。