バブル崩壊後の1990年代は、特に官僚主導型経済運営の失敗が露見した時期だった。それ故、経済計画はもういらない、経済見通しもいらない、産業構造計画もいらない、土地利用計画もいらない、都市計画もいらない、エネルギー計画もいらない等々、官僚は毎日の事務作業に没頭すればよい、という風潮になった。
なくなったのは、経済審議会(計画事務の名残はまだ残っているようだが)であり、来年度の経済見通し作業は予算編成に必要なので続けている。産業構造計画は名残すらもなくなった観があるが、エネルギー計画は残っていて、原発基軸戦略が推進されていた。国土利用計画はほぼ姿を消したが、個別の都市計画は依然として土地利用を規制している。
今になってから、「経済全体の展望を議論する仕組み」をなくしたのは、時期尚早ではなかったかと、そんな議論をし始めているようなのだが、これって「チームを作り替えてみたが、いまのチーム編成で勝てるのであろうか?」と誰かが言い、「前に戻してみたら、宜しいのではあるまいか?」と別の誰かが応じ、さらに「過ちを改むるにはばかる事なかれと申すではござらぬか」と第三の人間が相の手を入れる。とまあ、井戸端会議に花が咲いている状況と、ほぼ同じであります、な。
問題意識が適切で、熱意があれば、制度などは関係なく、良いアイデアは生まれてくるはずである。議論などはどこでもできる。政策の形に練り上げることもできるはずだ。できないのは智慧がない。意欲がない。学問がないからである。大体、明治日本に経済審議会などというものはなかった。経済審議会があったから高度成長ができたわけではない。予測をやっただけであるとすら言える。経済審議会待望論は、その昔、経済審議会会長を輩出していた日本経済新聞社の経営戦略とも思われるのだ、な。
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元日が日曜日だったので、日曜日の話と題をつけて投稿するのは年明け後初めてだ。昨年からの流れで行けば、ドイツ表現主義キルヒナーを語ったから、今度はエミール・ノルデ辺りを書いてみたいところだ。しかし、ちょっと気分が違う。まずは<ジャポニスム>の象徴とも言うべき二人の作品から今年は始めたい。
歌川広重、山王祭、1857年(WebMuseum,Parisより)
広重は、黒船到来後の安政5年(1858年)まで長生きしたから、死の一年前の作品である。藍色というか、Hiroshige-Blueが美しく映えている。
下は葛飾北斎の余りにも有名な一品。北斎から一つ選ぶという場合、やはりこれになると見える。構図がヨーロッパの画家にはとにかく衝撃的であったらしい。
Hokusai, The Great Wave Off Kanagawa, From "Thirty-six Views of Mount Fuji", 1823-29
(WebMuseum, Parisより)
近い内に「北斎漫画」を購入しようと思っているのだが、そこに描かれているスケッチはゴッホ、ゴーギャンをはじめとするフランス後期印象派のみならず、ドイツの若手アウグスト・マッケまでも手元において愛用していたそうだ。
欧米文化に<ジャポニスム>が浸潤していくプロセスは、19世紀後半から少なくとも第一次世界大戦までは続いたと思われる。その文化的次元での評価と、外交・軍事的次元での明治日本の活動ぶりは、あまりに相互関連性がなく、明治エリート層と日本文化の本質との解離状況には、驚くしかない、というのが小生が個人的に感じている思いだ。多分、戦前期日本の教育システムと人づくり、というより明治憲法に込められた価値規範には、どこか本質的に奇妙な部分があった。人材育成として偏った一面があったのだと見ている。国家として未成熟であったと言えば、その通りなのだろうが、指導層の知的偏りが社会的不安定性を増幅していった面は確かにあったと思っている。
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