2012年1月12日木曜日

インテリジェンスと精神主義は反比例する法則?

小生は日本経済新聞を購読している。愛読しているコーナーの一つが「私の履歴書」である。報道記事よりも、当事者によるミニ自伝といえる上記コーナーを、こよなく愛読している読者は、私以外にも極めて多数存在しているのではなかろうか。

小生は、珈琲店ドトールをこよなく愛している。ドトールのホットドッグが侮れないこと、珈琲自体の味と風味がその価格から予想できるレベルをはるかに超えていることを発見したきっかけは、創業者鳥羽博道氏が、自ら私の履歴書でどのくらいの熱情をこめてドトールを立ち上げたか、それが分かったからに他ならない。「こりゃあ、一度、実際に試してみんといかんな」、読んでいてそう思ったわけだ。それがスターバックスよりドトールを利用する頻度が多くなったきっかけだ。

いま履歴書に登場している人物は英国の元首相トニー・ブレアである。本日付けの寄稿で同氏は次のように述べている。
官僚制度の問題は、物事を妨害することではなく、惰性で続けることだ。官僚は、既得権益に屈服し、現状維持か、物事を管理するのに一番安全な方法に逃げ込む傾向があった。 
官僚組織はうまく指揮すれば強力な機構になる。官僚たちは知的で勤勉で公共への奉仕に献身している。ただ大きな課題に対し小さな思考しかできず、組織が跳躍を求められるときに、少しずつしか動かなかった。
月並みのようでもあるが官僚たちの<漸進主義>を批判している。「匍匐前進では拉致があかぬ。空爆で行こうではないか!」、いかにもブレア氏らしい物言いでござるなあ、と。ただ、官僚組織なるものが必然的に持っているはずの弱点を指摘しているのも事実だ。

日本のマスメディアは、上のくだりの「官僚たちは知的で勤勉で公共への奉仕に献身している」に噛み付くかもしれないなあ。「接待疑惑をひきおこした官僚に公共への奉仕とか、献身とか、期待できるはずがないではないか」と。全くねえ、狂犬が一匹うろついていて、人間にかみつくと、狂犬を管理する当局はどこか、責任は誰にあるのか。そもそも犬なるものを飼うこと自体に危険が潜在しているのではないか。そんな議論すらやりかねません。日本のマスメディアは、シロかクロか、甘いか辛いか。経済学風にいうと”Modern Journalism Dichotomy”、ジャーナリズムによる単純二分法の議論である。好きなのだな、この二分法的議論が、ジャーナリズムは。日本のマスメディアの議論をフォローしていると、いまだにそれでやっておる。

× × ×

いや話題がそれてしまった・・・・。元に戻したい。

ブレア氏は官僚組織の長所・短所を弁えていたようであるが、では日本の官僚組織もブレア的に活用されうるものだろうか?もし活用されうるのであれば、民主党現政権の<政治主導>は、とんでもない勘違い、素人談義ということになるかもしれない。

本日のブレア氏の寄稿で大事な箇所は次のくだりだとみる。
「それでどうします?」。 
首相官邸に入った私に、ロビン・バトラー官房長官は、首相の椅子を指し示し、私が腰をおろすとこう続けた。「私たちは労働党のマニフェスト(政権公約)をすっかり読みました。そしてあなたのためにマニフェストに沿って働く準備ができています」。 
バトラーは経験豊富で、サッチャー、メージャー首相とも仕事をしてきた。私は、最初の瞬間から彼が専門家で助けになる人物であることがわかった。改革の中に納得のいかないものがあっても、推進に力を貸してくれた。彼は英官僚制度の最良の伝統を体現し、公平かつ知的で国に対して献身的だった。
英国の官房長官は官僚がつく。日本で言えば事務方の官房副長官に該当するか?

国家が生命をもった有機体であるとすれば、頭脳に相当する機関がなければならない。手足は頭脳が思考する方向にそって動いて、はじめて国家は目的を達成することができる。手足は細胞から構成されている。1つずつの細胞も生命をもっているが、その寿命は身体全体よりもずっと短い。頭脳は、細胞1つずつ、機関1つずつの機能を総合しながら、全体的な目標を達成しようと考えている。この<考える>という仕事を頭脳は担当しているわけだ。この頭脳を、<インテリジェンス(=知性)>といっている。

ブレア氏が寄せた上の短文を読むと、インテリジェンスを司る役職である首相が、王(女王)により任命され、王に任命された首相に官僚が献身するという国家組織が窺われる。日本においても首相は天皇から任命されるのだから、官僚は首相に献身しなければならないのだが、どうも漏れ伝わってくる報道によれば、英国の事情と日本の事情とは、相当の開きがあるようだ。その開きをもたらしている原因は、小生にははっきりとは分からない。ひょっとすると、英国とは違って、日本の官僚には天皇に奉仕するという感覚がないのかもしれない ― ま、ないのだろうなあ。国民に直接仕えると規定されているから。この辺の法理、小生は素人ゆえ、詳しくは知らない。

× × ×

いずれにせよ、インテリジェンスが適切な思考を行い、方向を示さないと、個々の機関は独立して機能するしかなくなる。環境が変化して、移動しなければならないとき、行動しなければならないとき、頭脳がインテリジェンスとして機能しないと、組織全体が崩壊を始める。そんな時、頭脳は
各員一層奮励努力せよ
一度ならよいが、何度も反復して、そうゲキを飛ばすだけの存在になる。ゲキでダメなら<国民へのお願い>だ、な。これが悪名高い<精神主義>である。

日本は、このところの円高でモノ作りにおいて苦境に陥っている。成長はサービス業に期待されている。ところが日本のサービス業は低生産的である点がよく指摘される。低生産的であるというのは、一人一人が生み出す付加価値が小さいということだ。付加価値は高い価格で評価される時に生み出される。しかし、日本人のもてなしの精神、細やかな心遣いが、グローバル市場で高く評価されることがあるのも事実だ。サービス過剰であるとも言われるくらいだ。現場で動く一人ひとりの行動は見事であるが、全体としてはサービス業としての魅力に欠ける。これが現実である。だから評価されないわけだ。この事情は、医療、福祉、介護において当てはまるし、教育においても当てはまるだろう。

「現場の人にも頑張ってほしい」 ― よくそんなコメントを聞く。が、小生思うに、これまさに精神主義である。太平洋戦争に取り組んだ大本営の精神状況とどこが違うか?

現場の優良な人材を活用して、勝てる装備を与える、勝てる戦略をたてる、勝てる組織にする。それこそ組織のインテリジェンスが担当しなければならない。その仕事がうまくいかない時、頭脳が頭脳になり得ない時、インテリジェンスではなく精神主義が登場する。

それ故、インテリジェンスと精神主義とは反比例の関係にあると思われる。トニー・ブレア政権は、豊富なインテリジェンスを駆使して、もっていたプランを実行しえたのだと言えるだろう。

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