2019年2月28日木曜日

一言メモ: 凡人はこういう話し方をする一例

日産(及び日産と結託した検察当局も?)が主導したゴーン元会長追放劇も最近はとんとメディアでも取りざたされなくなった。

最近は、『ゴーン流の成功は幻想』などと現社長は語っているよし:
日本経済新聞の取材に応じた日産自動車の西川広人社長兼最高経営責任者(CEO)は、元会長のカルロス・ゴーン被告個人に依存しすぎたガバナンス(企業統治)に問題があったと認めた。自ら社長を続投し仏ルノーとの関係を改善させることに意欲を見せ、ゴーン元会長時代の数値目標を重視する「数字ありきの経営」を転換する考えも示した。
(中略)
基本的にそれぞれのセクションだけで仕事をして、経営的に困ったら元会長1人という状態だった。市場の好況が続かねば回る訳がない。また、海外の事業運営を完全に別物として扱っていた。(ゴーン元会長が率いた)当時うまくいっていたとの見方は幻想だ
(出所)日本経済財新聞、2019年2月28日

遠い昔ではないが、それなりに長い時間でもあった。その間、ITバブル崩壊も起きた。債務・設備・雇用の三つの過剰に苦闘したこともあった。1999年3月にフランスのルノーが日産に救済の手をさしのべなければ日産は倒産していたはずである ― マア、ルノーが日産救済を決断しなければ、次はドイツのダイムラーベンツ辺りが最終候補として登場し、完全子会社になって存属していたとは思うが、日本企業・日産という企業はその時に消え去っていただろう。

以来20年弱。近年の日産の経営状況は周知のとおりだ。

「現実」は正直である。「歴史認識」などと難しい言葉を振り回す必要はない。

1999年以降に日産がたどった歩みをただ「幻想」などと称しているような御仁は、知性がよほど粗雑に出来ているに違いない。

フランス人はナポレオンによる戦争と暴政を「幻想であった」などとは言っていない。日本の明治政府も旧幕時代を「永い幻想であった」などとは言わなかった。その理由は、前時代から継承された多くの資産が恩恵となって新時代の発展の基礎になったことを理解できたからである。

理解力=知性、だ。表面だけを見て、本質に無頓着な人は、知性をもっていない。マ、知性がなくとも仕事は出来る。凡人にとって知性はそれほど重要ではないのかもしれないが。



2019年2月27日水曜日

不思議な新聞記事の一例

マスメディアは民間企業である。である以上、経営姿勢や行動パターンには合理性がなければならない。理にかなわないことばかりをやっている企業は、人間もそうであるが、いずれ生存の危機を迎えるというのは自然の法則である。これによって「進化」という現象が生まれてくる。

なので、報道記事に不思議なものがあるというのは、それ自体が逆説的存在だ。

 いずれも、米国を核攻撃する能力を北朝鮮に与えないための手段を模索しているトランプ氏が間違っていると言うための例ではない。それに、ノーベル平和賞を共同受賞し、それをオスロから世界にひけらかすチャンスに魅力を感じた正恩氏が、非核化に向けた純粋かつ検証可能なディールに至る―そしてそれを尊重する―シナリオもあり得る。 
 だが今週の首脳会談が行われる場所、そしてノーベル平和賞の悲しい歴史は、私たちに教訓を与えている。共産主義世界の大半が消えた中でも、ベトナムと北朝鮮は共産主義国家のまましっかり残っている。それは、両国の指導者が世界を分かっていないからではない。 
 ベトナム入りしたトランプ氏が周囲を見回せば、73年のノーベル平和賞という欺まんをハノイ(米国が防衛を約束した南ベトナムをのみ込んだ共産主義国家の首都だ)があざ笑っていることに気づくだろう。ノーベル賞の呪いがなくても、正恩氏だけで手いっぱいであることも分かるはずだ。
 (出所)ウォール・ストリート・ジャーナル、2019年2月27日

『共産主義世界の大半が消えた中でも、ベトナムと北朝鮮は共産主義国家のまましっかり残っている。』とはネエ・・・絶句であります。

一体誰が書いたの?William McGurnという御仁か・・・

こんな風に共産主義国家と言うなら「中国とベトナム」と言うべきだ。それに北朝鮮は、共産党独裁ではなく、一族独裁国家であり、むしろ「王朝国家」という言う方が適切だ。

WSJにしてこんな記事が載っている。虚心に新聞記事を読んでいると、世界に関して飛んでもない誤解を抱きそうである。「世界を分かっていない」のはまだましである。

何が怖いといって、今風のマスコミほど怖いものはない。

2019年2月24日日曜日

一言メモ: 前稿の続き ― 政治が関係すると分からなくなる

英国与党が中国共産党の人権抑圧に関連してレポートをまとめたとの報道。プロパガンダ機関「孔子学院」をどう見るかである。
英与党・保守党の「人権委員会」は今月18日、同国内にある中国の「孔子学院」について、「中国共産党政権のプロパガンダ機関(中国共産党統一戦線部の出先機関)であり、学問の自由と表現の自由の脅威となっている」と指摘、「孔子学院」と英国内の研究機関との間で交わされた全ての合意内容について再考を求める19頁に及ぶ報告書を公表した。英国与党が「孔子学院」問題を議会で追及するのは今回が初めてのことだ。
URL: http://agora-web.jp/archives/2037405.html

小生が暮らす町の隣町S市の駅前にも「孔子学院」があった。最近、通勤頻度が減ったので看板に気がつかなったが、どうやら駅前からは撤退したとのこと。

札幌大学孔子学院が、今年度限りでJR札幌駅に近いサテライトキャンパスから撤退する見通しだ。運営している札幌大学の経費節減策の一環で、来年度以降は札幌市豊平区西岡の本学キャンパス内に講座場所を移す。
URL: https://hre-net.com/syakai/kyoiku/18683/

 分からないのは、日本の行政に関連することなら(関係の薄いことまで含めて)全ての事柄を審議している国会・予算委員会で、昨今の日韓関係や中国共産党の人権抑圧、対中外交方針との整合性など、これらの重要案件が真っ当に議論されることがほとんどないということだ。

そもそも国会の予算委員会では、与党の側が問題提起することは稀であり、もっぱら野党の側が政権を批判するために論点を自由に選択し、それで審議時間が消費される傾向がある。トランプ大統領をノーベル平和賞候補として安倍首相が推薦したという点を論議の俎上にあげていることは、外交関係を予算委で議論してもよいと野党サイドが考えている証拠だ。

ところが、日本が世界とどう向き合うか、そんな本質的なテーマは(小生の不勉強もあるかもしれないが)ほとんど全く重要論点としてあがらない。野党は政府に対して戦略的方針のいかんを質問しない。

どうでもよいと思っているのだろうか? 実は野党も政府と同じ見方を共有しているということなのか? 質問しないということはそういうことでしょう。

そんなはずはないヨナ・・・

これも政治なのだろう。

政治が関連すると理にかなわないことが多くなる。これも一例だと思う。

理にかなわないのが政治現象の特徴であるのに、「政治学」という学問分野があって、そこでは政治学者がロジカルな議論をしようと努力している。それは小生にとっては七不思議の一つである。

2019年2月23日土曜日

雑談: 分からない事は多いネエ

久しぶりにカミさんとの雑談を書いておこう:

小生: 沖縄県の辺野古埋め立てで県民投票をするんだけどサ、結果は安倍首相とトランプ大統領に伝えるらしいね、知事から。

カミさん: そうなの?それはそうなんじゃないの?伝えないとね。

小生: 伝えたから日米関係をどうするって事にもならないと思うけど、だけど投票って三択らしいよ。「賛成」、「反対」、それに「どちらでもない」って回答もあるっていうから分からないよな。

カミさん: 賛成か、反対だけだと答えられない人も多いのヨ。

小生: なんで、答えられないの?

カミさん: 賛成の言い分も分かるし、反対の言い分も分かるってことあるでしょ?

小生: そりゃ、両方の言い分は分かるってのは大事さ。だけど、分かった上でさ、それではあなたの気持ちを答えてくださいって聞かれたら、どちらに近いかって、そのくらいは誰でも分かるんじゃないの?

カミさん: 遠慮してるのよ。

小生: 無記名投票でさ、誰に言うわけでもないしさ、自分の気持ちだけを書いて答えるんだよ。誰に遠慮するのかなあ・・・どちらかと言えば「賛成」に近いとか、「反対」に近いとか、自分で分かるだろ。答えたくないなら投票所に行かなければいいんだよ。それをわざわざ投票所に行ってだよ、「どちらでもない」って答えるのは、イヤア、俺にはその思考回路は再現できないんだよね。

カミさん: ここで言っても仕方がないの!

★ ★ ★

こんな話もした:

カミさん: 一昨日おとといの地震、▲▲さんのとこのアリサちゃん、駅前にいたらしんだけど、帰れなかったんだって・・・

小生: さっとタクシー乗り場に走らないと駄目だよ、そんな時は。

カミさん: JRに乗ったら地震がきて降ろされたらしいのよ。だから、タクシー乗り場はもう長蛇の列だったそうよ。

小生: う~ん、それは不運だなあ・・・それにしても、停電が起きなくてよかったよ。

カミさん: 厚真町では短い時間だったけど、電気が切れたんでしょ?

小生: すぐに点いたらしいけどね。もしまたブラックアウトなんて事になってたら、もう世界中から『日本はなにバカなことをやってるの?』ってさ、大恥かくところさ、電源はあるのに活用できない。泊には8年間も止めてる大施設があるのにね。何でこんなに時間かかるのって、誰でも思うだろうさ。あるのを使わずに大停電になって、今度は酷寒で人命に犠牲が出たら、そりゃあタダじゃあすまないってことは、何度も警告されてきたからネ。

カミさん: 気温が偶々上がってたから良かったよね。

小生: 9月の地震の時は、運悪くブラックアウトになった、それでも秋だったから不幸中の幸だった。今度の地震は運よくブラックアウトにならなかった。でも、そのうち、運悪くまたブラックアウトになって、予想通り犠牲になる人が出てくるだろうね・・・

カミさん: 怖いなあ

小生: 原子力規制委員会は、学者の問題指摘が厳しくてサ、泊原発の再稼働は許さないみたいだよ。

カミさん: 誰か反対している人がいるの?

小生: 色々な学者がいるからネ・・・セカンド・オピニオンを求める権利を裁かれる側には与えるべきだなあ。裁判も控訴できるし、医師の診察だって当然の権利として認められてるからね。多くの専門家の判断を聞くべきだな。

***

要するに、政治が関係してくると「分かんねえ」。そういうことである。

つまり政治が理に適っていないということだ。政治は社会のマネージメントである。それが理に適っていない。今世紀の日本人はロジックを尊重しない時代に生きている、ということか。

確かな目標があれば、自然と合理的であろうとする意識が生まれる。理に適わなくともよいと感じるのは目的がないためだ。

分からない事が増えているのも、「目的を持てない時代」の「世相」なのだろう。

要するに、「漂流」する時代だ。そんなことはTVも新聞もとっくに分かっているはずなのだが、もう真面目にとりあげてはいない。テーマが大きすぎて、諦めてしまったのだろう。

2019年2月20日水曜日

メモ: 「ニュース」が予測に無益なことが多い理由は

将来予測、特にマクロ経済分野の予測技術は小生のメシの種であった ― そろそろ授業などで解説するのは鬱陶しい作業に感じつつあるが、面白さ自体は主観的にはまったく変わらないままだ。

その予測なのだが、要するに可能性の広い範囲の中で確率的に高い範囲を示すことが目的であって、慎重な人であれば予測範囲で結論を出すはずである。たとえば天気予報もそうだ。点予測を求められるなら最も確率的に高い値を答えるか、確率半々の中央値を言うか、でなければ期待値(=平均値)を予測値とするだろう。

言い換えると、大勢を読むのが将来予測の勘所だ。

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大勢を読むのに、いわゆる世間を驚かせる「ニュース」は概ね必要ではない。それどころか、過剰にニュース性がある珍奇な事柄に興味を奪われると、時代が進行していく方向を読み誤る原因になる。

この理屈は生産管理と同じである。いわゆる「QC」の根本は、偶然変動と異常変動との識別にあるわけで、個々の変化の大半に対しては敢えて応答行動をとらず現行システムを維持する。そして異常と識別される変動については原因を特定して問題解決を図る、というのが要点である。予測も似ている。

ニュースは人を驚かせる話題のことを言うが、予測は新奇な話題ではなく、誰もが聞いたことがあるほどの時代のメインストリームの先を読む作業である。後から振り返ってみると、世界の変化は常識的な流れに沿って、動いてきたと小生は思っている。

二度の世界大戦があった20世紀から21世紀の今に至るまで、リアルタイムに生きた人たちの「無知」や「非常識」が混じっていたにせよ、後から振り返ると大勢としては合理的に歴史を語ることが出来る。驚くべき大逆転劇や奇跡がそこにあったわけではない。理詰めのビジネスの累積が歴史だった。

故に、世界の今後を読み解くのに、いわゆる「ニュース」をできるだけ早く知る努力はそれほど必要ではないと小生は思っている。

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テレビのワイドショーでいくら「面白い」ニュースを提供しても、「世間」という現実はほとんど影響を受けない。むしろテレビの影響を受けるとかえって混乱する。その混乱ぶりは、どこか尻尾が犬を振り回すのと似ている。新規な少数例が圧倒的多数の現実を圧倒することも偶には起きてしまうのだ。

ニュースは面白いが、現実は退屈である。しかし、大部分の人は退屈な現実で毎日を生きている。真に伝える価値のある事柄は、新奇な少数例ではなく、どこにでもある日常である。ありふれたメインストリームをこそ、広く多くの人に伝える方が本当は価値のあるビジネスだ。しかし、こんな内容では誰もが知っているがゆえに視聴率を獲得できないだろう。

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以上をまとめると、視聴率を獲得することを目的にニュース番組を編成しても、私たちが暮らしている社会の現実とはほとんど関連性のない事柄をとりあげて放送する運命にある。いわゆる「ニュース番組」が直面する理屈はそういうことだろうと思われる、というより思うようになった。

2019年2月17日日曜日

一言メモ: 中央官庁再編の予測

統計不正は国会でも「それなりの」というより、「もはや選挙運動」と言った雰囲気で政権批判、与党批判の題材となっている観があるが、こうした国会審議は国会審議として、本筋は解決するべき問題としてリアルに存在していることが要点だ。

これまでは厚労省関係業務で発生する不祥事が余りにも多いということで、元のように厚生省と労働省に分離するかという意見も多く出されているようである。

しかし、元の姿に戻れば昔の元の状態に戻るだけである。戻して良くなるというのは、統合してダメになっていたのである、という認識だがこれでよいのだろうか。

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予測を書いておきたい。

総務省に吸収合併された旧・行政管理庁である。数日前の投稿にも書いたが、その点も含めて行政府内に監察部局はなければならない。警察組織にも警務部、監察官が設けられ、旧軍には憲兵がいた。更に遡れば、旧幕時代の役職に幕臣を管理する目付け役があったわけである。首相官邸が人事を握っているので大丈夫というわけには行かないようだ。

今回の統計不正、小生は「不正」というよりは「違法な手抜き」と言うのがより正確だと思っているが、これは調査などではなく「行政監察」を行うべき事案だとみる。必要なら刑事告発、人事上の懲戒処分などに持っていかなければ士気が弛緩するであろう。

国会の役割だという向きもあろうが行政府内の組織管理も行政である。国会が問題意識を持つなら立法行為によって向き合う必要がある。そのための国政調査権だ。TV向けの井戸端会議をやられても税金の無駄というものだ。

政治を論じるなら、まずは山積する外交問題、児童虐待に対応する体制づくり、原発の扱いも含めたエネルギー計画等々に目を向けるべきだ。北海道のブラックアウトはもう過去の事か・・・本来は時間がいくらあっても足りないだろう。近年の日本では、国会が開かれる新年1月から晩春の5月にかけて、「国民的井戸端会議」のロングランが定期公演されているようだ。情けないの一言だ。

***

小生の予測は、行政監察機能が総務省の一部局ではなく、会計検査院、あるいは人事院、国家公安委員会、公正取引委員会と同じく独立性の強い「行政監察委員会」に分離独立して一件落着となるのではないかと。そう予想している。それまでに2年か、いや3年か。多分、現在の安倍政権では感覚的にこうした取り組み方はしないであろう。もう与野党ともに、マスコミもとっくにそうだが、グダグダである。

これは随分以前に、東日本大震災の直後、メモ代わりに投稿した「日本原子力発電公社」設立予想とともに、小生の予想の中では結構規模の大きい部類に入る。

官僚集団は国民が選挙で選んだ国会議員や内閣の部下というより、それとは独立した選抜方法で採用した国民の公有資産である。内閣は官僚組織と相互に理解をして、国益に本分をつくすのが理想型というものだろう。役人の取り締まりは、国会議員から就いた内閣がやるより、独立機関が政治色を排して公務員倫理の観点から担当する方がはるかに見やすくなる。

行政監察機能の具体的な形と並行して、多分、内閣人事局の現在のあり方も見直されるのではないかと勝手に予想している。

2019年2月15日金曜日

「がっかりする」より「抱きついて離れない」方がずっと悪質である

東京五輪を来年に控えて、競泳の有力選手が白血病と診断されたことが世間に衝撃を与えている。

ところが何と五輪担当大臣が「がっかりした」と発言したというので、野党からは「罷免せよ」、「五輪担当大臣をいつまでやるのか」等々、非難の嵐を浴びせている。

その第一報を目にしたときは、『ほんと、政治家っていうのはデリカシーがないものだねえ』、『ずっと前の<産む機械>騒動を思い出すねえ』などとカミさんと話したものだ。

ところが発言内容の全文を八幡和郎氏がAGORAへの投稿で公開してくれたので勘違いに気がつくことができた。

読むと、まったく問題のない発言である。ある意味で「がっかりした」という心情は日本国民の心の片隅にもあったはずであり、その心情は<驚き>、<同情>、<落胆>、<憐み>、<支援>など、あらゆる気持ちがないまぜになっていたに違いないのだ。この辺の事を桜田大臣は記者に対して朴訥に回答しているだけであるように感じる。

★ ★ ★

野党が政治問題にしているだけなのだろう。

楽屋裏はいずれ露見するだろう。

もっと酷いのは、マスメディア、特にTV放送だろう。病に倒れた選手を話題にすれば視聴率が上がるのである。だからなのか、連日、ワイドショーでとりあげている。その合いの手に桜田大臣の「がっかり」を織り交ぜている。

文字通りの番組編集である。

画面では同情を装っているが、経営動機から憶測すれば「喜んでいる」はずである。

こちらの方が余程悪質であると小生は感じている。

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国会予算委員会の審議のレベル低下は、そこに居る人たちのレベル低下である一面も確かにあるかもしれない。が、レベルが低下した国会風景をテレビで観たいと思っている日本人がそうさせている一面もあるだろう。

そもそも日韓外交の難問や北方領土交渉、日中関係という案件、防衛予算拡大の是非、社会保障の見直し方向等々、真剣に問題解決しようとする委員会審議をそのまま中継しても、大半の国民は退屈でテレビを見ないだろう。チャンネルを変える。視聴率が下がるだけだ。

政治家も、マスコミも、そんな国民の空気を読んでいるのだと小生は解釈している。

現在のような井戸端会議と同タイプの予算委員会をテレビ中継することの意義はなく、必要性もないと小生は感じる。重要案件に限定して、たとえばNHK教育で中継するのが適切ではないだろうか。興味本位の視聴者は視ないはずなので、真に展開されるべき論戦がみられるかもしれない。

2019年2月14日木曜日

思いつくまま: 使われなくなった言葉

前稿で「自浄作用」という言葉をサッパリ耳にしなくなったということを書いた。そう言えば・・・というので、思いつくままに。

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「自浄作用」は「自浄能力」ともいう。「自己規律」という言葉も同根であるし、更には自らの失敗、失策の責任は自分が真っ先に負担するという意味では「自己責任」という言葉とも縁が近い。

「自浄能力」に期待しないから「独立した第三者の目」という方法論になるのだが、外部の目をとにかく入れるという発想は、言葉を換えれば「自浄能力」よりは「他人の監視」をより信頼するという感性があるからだ。

なぜか?

そう考える人が増えているからだ。

この根本的理由は小生にもハッキリとは分からない。何かがあると直ぐに「進駐軍」がやってくるご時世だ。

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「プライバシー」という言葉も最近はメッキリと使われなくなったと思う。むしろ「個人情報保護」という術語を使う中で「プライバシー侵害」という以前はあれほど使われていた言葉が廃れてきたのだろう。

ただモラルとしての「プライバシー」と法律としての「個人情報」はどこか違っている。

そもそも「個人情報保護」を法制化した原因は、個人情報がまったく保護されてはいないからである。この点は小生、100パーセント、老子のいう『大道廃レテ仁義アリ』の信者なのである。モラル、モラルと五月蠅くいうのは、モラルが守られていないからである。個人情報など今の世間で本気で尊重する企業も人もいないからこそ、法制化して保護している。そう考える方が理に適っている。

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「悠々自適」とか「晴耕雨読」という言葉もほとんど使わなくなった。同じことを言うなら「年金生活」と言うようになった。

忙しい雑務から卒業して、後は後世代に任せて自分は自由に生活をするのは、経済的基盤があるからだ。その昔は、現役時代に資産を蓄積して、引退すれば労働所得ではなく資産収益で暮らすというのが理想の人生であった。今では、私的貯蓄ではなく公的貯蓄、つまり社会保険料という名の税金が資産となり、国が管理をして、その収益で年金生活が支えられている ― 制度の建前では。

悠々自適と年金生活がどことなく違ったニュアンスであるのは、年金生活者=寄食者というイメージができてしまったからだろう。

やはり「もらい得」でこの世からサラバをするのは不公平だ。「もらい得」になっている分は個人資産になっている。故に、自分がもらい過ぎた分は死後社会にお返しをするのが理には適っている。相続税、富裕税の税率を上げる。なるほど公平だ。

それでも不足する分があれば、「使ってしまったカネは返せねえ」。年金ではなく、生活保護の領域だ。この二つがゴッタ煮になっているから「年金生活者」イコール寄食者のイメージになるのだろう。これはプライドの侵害である。


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「忖度」も昔と今では言葉のイメージが真逆になってしまった。

言葉の使い方が変わってしまうのはよくあることだ。「すごい」という言葉の元々の意味は「寂しい」であり、「かなしい」の原義は「かわいい」であった。

仕事の方向性を決めるのは部下ではなく、上司の方、というよりトップであるが、全員が目的感を即座に共有できるわけではない。故に、日常の習慣としては上司の身になって、聞いた言葉の真の意味を思い返すことが習慣となっていた。これが「忖度」である。

自分の属する組織はプラスになる事をやっていると信じなければ仕事をする気にならない。しかし、組織は目に見えず、自分こそ組織であると信じるのは自信過剰だ。なので、まずは上司の真の意図を理解しようと努める。当たり前であったな・・・・。

「忖度」がマイナスのイメージをもつようになったのは、上司にとってプラスであっても本当のプラスではないかもしれない。疑ってかかるべきだ。組織にとってプラスであっても本当のプラスではないかもしれない。疑ってかかるべきだ。こんな理屈があるからだろう。

サムライとは侍。侍従の侍。つまり手足となって立ち働くプロの職業人を日本では侍(サムライ)といった。だから弁護士や公認会計士には<士>の字が使われる。立ち働きながら、疑わしくなればお上にすぐに訴える。これはユダである。芥川龍之介は『駆け込み訴え』を書いたが、実行するのは嫌だなあ・・・。

小生は古い人間だ。上司の真意を忖度するなという組織であるのなら、いても仕方がないから、辞めますわな。

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言葉の事を書いてきたが、そういえば『大事なのは言葉です』という言葉も昔はなかった。誰もそんなことは言わなかった。

CMにもあったくらいだ。「男は黙ってサッポロビール」、そんな時代だ。

明治生まれの祖父が一番好きだった言葉は「巧言令色スクナイカナ仁」。要するに、言葉上手な人間は信用できない。「剛毅朴訥仁に近し」。ボキャ貧で、マスコミ受けしない人物こそ、徳があつく、力量もあるもので、いざという時に信頼できる人物である。物事を任せるに足る。これはもう経験則であろう。

大事な事は「知行合一」。口先の言葉に価値はなく、汗をかく行動が価値を創る。この点では古典派経済学の労働価値説は本筋に沿っている。小生はそう思っているのだ、な。「知価革命」などというが、知価の知は苦心の末の賜物であり、いま思いついた言葉とは無縁である。

口に入るものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。(マタイによる福音書、第15章、11)

人物評価の根本も小生の若い時代と今とでは一変してしまったねえ。

今日はこの辺で。

2019年2月11日月曜日

覚え書: 経済データとアベノミクスに関連して

「統計不正」があったからと言ってアベノミクスの成果には変わりなしと、今春以降の「選挙の季節」を間近に控えて、現政権・与党側は懸命にアピールしている様子だ。

小生も今回の「統計不正」、というより厚労省による違法な「手抜き」はあくまでも現場の怠慢と士気低下に原因があり、閣僚や、まして首相官邸の意向との関連性はなかったものと推測している。観るべき観点の選択。「そんな問題ではないと思いますヨ」というわけだ。

意図的かつ直接的なデータ操作が何か望ましくない政策誘導を引き起こしているのだとすれば、現にマイナスの影響とそこから利益を得た集団の存在が表面化しているはずであり、むしろ因果関係は見つけやすいのである。確かに、毎勤統計による賃金水準の過少推計が問題になっているが、これは2004年という相当前の時点に遡って始められた行為である。そして2018年に至って水準修正されたわけだが、これ自体は過少推計を解消する行為であり、労災保険や失業保険の過少給付はこの時点で解決されている。かつ一度水準調整されれば、それ以降の増減率に凸凹は生じない理屈だ。(←前年比は1年間高止まりする、その後、元の前年比トレンドまで落ちる)

故に、今回の毎勤統計不正とアベノミクスとの関連性はなく、いわゆる「偽装」という誹りとも無縁である。

まあ今後の経済分析で賃金データを用いる場合、「過少推計期間」の効果を測るためダミー変数の追加が余儀なくされるだろうが、こんなことは大きな制度改正による環境変化が頻繁に起こる経済領域では珍しいことではない ― そのダミー変数が制度変更ではなく、データ自体の不連続に対応したものであるというのは恥ずかしくもあるが、海外の賃金データを利用する場合などは、国境の変更、政権転覆などもあるので、経済専門家はこの種の作業には慣れているものだ。

★ ★ ★

しかし、小生思うに、アベノミクスと経済データとの関係で問題が何もないわけではない。

以前にも一度投稿したことがあるのだが、以下の記事と関係することだ:
消費増税関連法では15年10月に税率を10%に引き上げることを明記していた。だが8%への増税時に駆け込み需要の反動で消費が落ち込んだことを踏まえ、安倍首相は引き上げを17年4月に延期することを14年11月に表明。16年6月には新興国経済の落ち込みなどで世界経済が危機に陥るリスクを回避するため、19年10月に引き上げを再び延期するとした。
(出所)日本経済新聞、2018年10月15日

なるほど消費税率の引き上げ時期として2015年10月はいかにも不安だったに違いない。その年の6月12日の上海市場大暴落に端を発した金融不安の中、日本の日経平均株価も年前半の回復基調から一転、8月~9月には一挙に20パーセントの暴落を演じている。


URL:http://apl.morningstar.co.jp/webasp/marketevent/page/r2015.html#short

その直後の10月から消費税率を8%から10%へ引き上げるというのはいかにも時機が悪い。2014年11月にこの時期の税率引き上げを回避できたのは「英断」だった ― 景気動向指数の動きを観ると、なぜそんな判断が出来たのか、これまた理解に苦しむのだが、とにかく「結果オーライ」であったのは事実と言える。


上の図で黒の実線は先行指数、赤い点線が一致指数、青い点線が遅行指数である。第1回目の税率引き上げ延期を決めた2014年11月で縦線を入れている。確かに延期決定を決めた2014年秋には「ピークアウト感」があった。一時的な踊り場とも思われたが、それ以後景況は悪化し、翌年夏の上海市場暴落につながっていったわけだ。しかし、その時のリアルタイムの景気はそう悪くはなく、拡大が一服という判断と半々の可能性だったろう。事後的には2012年3月にリーマン危機後のピークが一度訪れているというのが公式の景気基準日付で認定された「山」なのだが、こう認識したのはいつだったか?2014年11月の前だったか、後だったか?記憶が明らかでない(調べれば分かるのだが)。しかし、公式の景気判断をいうならば、2012年3月にピークアウトし、同じ12年の11月にはボトムアウトしているのですゼ。2014年11月は景気拡大中だ。そして、その拡大がまだ続いているというのが内閣府の公式の景気判断なのである。2014年11月になぜ景気の先行きを心配したのかネエ・・・マア、色々と突っ込みたい点はあるが、引き上げ延期は結果オーライ。これは確かなことであった。

しかし、2017年4月に予定された税率引き上げを前年の16年6月という時点で早々と延期しようとした判断は小生は今もなおサッパリ理解できないのだ。

2016年の年初から春先にかけては、国際商品市況が低迷し、株価も世界的に低落した。その背景としては、特に中国の(鉄鋼製品で顕著だった)過剰設備と過剰生産、アメリカ・シェールオイル産業の過剰設備と過剰生産を無視することはできない。2016年の前半という時期、世界経済に不安があるとすればそれは石油、鉄鉱石など各種の「一次産品価格の崩壊」であって、それによる「新興経済国」の先行き不安だった。他方、先進国のマクロ経済データはそれほどのダメージを蒙ってはいなかった。実際、その前後の日本の景気動向指数(一致系列)をみると下図のようになっている。

URL:https://www.esri.cao.go.jp/jp/stat/di/201812psummary.pdf

これをみると、2015年から16年にかけて景気は下降傾向を示しているが、「景気後退期」の平均的長さから判断しても、16年後半から17年にかけてなお一層景気が悪化していくと予想される状況ではなかった。

しかるに2016年6月という時点において早々と経済の先行き不安を理由に翌17年4月の税率引き上げを19年10月に延期するという判断をしている。と同時に、その後もずっとアベノミクスの成果を現政権は誇示し、景気上昇局面はついに高度成長期の「イザナギ景気」も、小泉内閣からリーマン危機までの「イザナミ景気」も超える戦後最長を記録したと内閣府は認めている。

全体が矛盾しているのではないか。小生はおかしいと思う。

もちろん、消費税率が17年春に引き上げられていれば、実際の動きとは違っていたはずだという意見もあるだろう。が、2016年後半から2017年末に至るまでの世界経済と世界の株式市場は極めて好調であった記憶はまだ鮮明である。日本の消費税率引き上げ程度で世界経済の基調が変わっていたとは思えない。

故に、日本の景気循環を振り返っても、2017年4月に消費税率を引き上げておいた方が賢明であった、と。本質的な増税反対・歳出削減論者は別にして、大半の人はそう考えていると思われるのだ、な。

2016年6月という時点において、翌年2017年4月以降の世界景気の動向は決して心配されるものではないと助言しなかった内閣府の「官庁エコノミスト」は、何も間違った経済データを観ていたわけではない。間違ったデータを参照すれば間違った経済判断をするのは仕方がない。その点をいま心配している。しかし、正しいデータを観ていながら経済動向判断をミスリードするとすれば、経済専門家としての罪は深い、と。そう言われても仕方がないのではないか。

少なくとも消費税率の引き上げ時期の選択として、本年10月よりは2017年4月の方が不安は少なかったはずだ。小生にはそう思われるし、決して少数意見ではないと思う。

統計不正とアベノミクスとの関連はない。不正による誤りではなく、経済判断能力そのものは確かなのか?そんな疑問を持っている。

2019年2月10日日曜日

一言メモ: 「独立した第三者委員会」の役割とウソ

最近、何かと言えば「独立した第三者委員会」を設けて云々、「身内による調査」は信用できない云々、不祥事を社内で調査するのはダメ云々、第三者なら客観的調査ができる云々・・・と、要するに部内者はダメで、部外者ならOKという世間の流れが明瞭に見て取れるようになった。

小生が某官庁で雑用をしていた時代の常識とは、まあ言ってみれば「真逆」である。その頃、強調されていたことは「自浄作用」という言葉であった。

そういえば「自浄作用」というキーワードは聞かなくなったネエ・・・もう「自浄」など期待しなくなったか、それで「部外者の目」ということになっているのか?

「第三者委員会」になぜこれ程期待するのか、その本質的理由は小生はまだ理解できない。単なる流行かと感じたりもしている。

★ ★ ★

こんな記事が日経にある:

賃金構造基本統計の不適切調査を巡り、政府が6日、原因究明を総務省行政評価局に担当させることを決めたのは、同統計を所管する厚生労働省の内部調査に委ねたままでは中立性への疑念が解けないためだ。ただ同じ政府内の「身内」が調査することに変わりはなく、独立した第三者による調査ではない。

(出所)日本経済新聞、2019年2月7日

厚労省の行政手続き(統計調査上の手抜きは明らかに手続き的な問題だ)を、総務省の担当部局が検証することまで「身内」と言い始めるなら、どんな調査なら望ましいのか?

仮に「第三者委員会」というものが設立されたとしよう。そこには政府関係者は入らず、したがって役人OBも入らず、純粋の民間人のみで委員会は構成されるとしよう。これならまったくの「第三者」である。

しかし、こんな「第三者」が関係者に事実関係を聴取するとして、関係者は自分に都合の悪いことを正直に話すだろうか?まったく信用できないと小生は思うが、世間は信用するのだろうか?自分に都合の悪いことを話さないだけではない、所属する組織に都合の悪いことも話さないのは確実である。ひょっとすると、都合の悪い点については嘘を述べるかもしれない。

もし第三者委員会に正しい証言を引き出させようと思うなら、その委員会に監察権限を法的に与えなければならないのは当たり前である。しかし、法律で監察権限を与えるのであれば、その段階で第三者委員会は政府機関になり、第三者委員会の活動が人権侵害とはならないよう行政府か、立法府か、司法府かいずれかによる監督が必要である。でなければ、権限を有する第三者委員会の暴走を抑えられないだろう。

この議論をもっと続けることもできるが、議論の発展は概ね予測できるだろう。

要するに、政府とはまったく関係のない「第三者委員会」などは役には立たないし、役に立てようとすれば何らかの意味で公権力の監督下におかなければならない。日本は(今のところ)「日本国」であり、憲法も一つ、権源も一つ、法制度も一つ、つまり調査権限・監察権限・捜査権限いずれでもよいが、法的権限を有するなら全て身内になってしまうというロジックになる。

航空機事故では監督権限をもつ国土交通省に事故調査委員会が設けられる。統計調査を全般的に審査する権限は総務省、つまり中央省庁再編以前の行政管理庁にある。たとえ政府部内の厚労省であっても、まずは権限に基づいて総務省が監察を行うのは当たり前の理屈だ ― 「監察」というほどの力を法的に与えられていない点が問題の核心だが。

もし補強の余地があるとすれば、総務省担当部局の下に調査(=監察)委員会を設け、統計専門家を委員に任命するというやり方がある。そうなれば各種の事故調査委員会と同じしつらえとなる。これをしも「身内」と言い出せば、もはやお手上げであり、日本国は統治困難状態になりつつあると判定されても仕方がない。激しい反動が心配になる。

それでは、もしも同じ総務省の統計局が所管する「国勢調査」で手抜きがあればどうするか?その場合、現業官庁の内部に行政監察を担当する部局が同居していることの矛盾が露呈するだろう。即ち、2001年1月の中央省庁再編成には多分に「いそぎ働き」の側面があるのであって、大問題が発生しないうちに適切な組織再編を行っておかなければならないという結論になる。現在のまま、総務省内で行政トラブルがあるとすれば、たとえば立法府内に「監察委員会」を設けざるを得ない。が、国会の「国政調査権」という概念範囲に入るのか、疑問なしとしない。また、それが今回のように技術的背景を伴うトラブルであるなら、国会を舞台に延々と迷走を続け、国益を大いに毀損するという事態が予想される。

2019年2月8日金曜日

一言メモ: 「行政の事なかれ主義」は100%排除するべきか?

本日の投稿は前稿の続きである。

痛ましい虐待事件に関連してこんな投稿がある ― まったく新聞・TVメディアだけではなく、最近はネット媒体からも格好な批評素材をとってこれる。頭のトレーニング、老化防止には最適である。

行政は何事もなく、無事にいくことを望む。前例を踏襲する。それが「事なかれ主義」だ。仕事が減点主義で評価されるからで、その結果、消極的になってしまう。それが行政側の不適切な対応の原因である。
最後に毎日社説は「子供の命を預かる学校など最前線の意識が乏しければ、痛ましい事件はまた繰り返される」と訴える。かつて聖職といわれた教育者にも、その原点に返ってほしい。
URL: https://blogos.com/article/356575/?p=2


述べられていることは、「基本的に」その通りである。内容を否定するべき理由は何もない。

しかしながら、小生は極度のへそ曲がりである。だから述べておきたくなった。

この種の「問題解決」を目的とした提案には共通のウィークポイントがある。それは、この世界にオールマイティの方法なり、「正しいに決まっている」やり方は一つもない、ということである。つまり、何かを提案する場合、期待されるプラスの効果と起こりうるマイナスの作用の両方を明記しておかなければ提案には値しないということである。

***

オールマイティな方法など一つもないというのは、実は小生の専門分野である統計分析にもあり、俗に"No Free-Lunch Theorem"(タダ飯は決してない、という定理)と呼ばれている。具体的には、どんな問題にでも適用可能なベストの分析法は一つもない。与えられた問題の内容をよく理解し、 問題発生の背景・経緯を十分に把握したうえで、もっとも適切な分析メニューを選びなさいというのが結論である。

上の提案では「行政の(=公務員)の事なかれ主義を排せ」と提案している。が、提案するからには「公務員の事なかれ主義・前例主義を排する」という提案のプラスの面とマイナスの面の両方を正しく認識し、この問題にはプラスの効果がマイナスの効果を上回るという根拠を述べなければならない。

いま言った<事なかれ主義・前例主義>の対極にある姿勢を一言でいうなら<積極主義・成果主義>ということになるだろう。ズバリいえば、「功を立てれば評価する」という発想に近い。

この考え方は一般に受け入れられやすい人事戦略なのだと思う。しかし、現実にはそうなっていないとすれば、それには理由があると考えるべきだろう。

本当に官僚集団が成果を追い求め、前例のない試みであっても積極的に挑戦することをためらわない方が良いのだろうか?そうなれば、いわゆる<国民>は利益を享受できるのだろうか?

もし1931年当時、関東軍司令部に石原莞爾がおらず、陸軍全体が前例踏襲と事なかれ主義に徹していれば、満州事変は起こらず、その後の日中戦争も起こらず、したがって太平洋戦争も起こらなかったに違いない ― もちろん別の問題が発生しただろうが。

権力を有する公務員は前例踏襲・事なかれ主義でよいと小生は思う。公務員の前例踏襲と事なかれ主義を背中からプッシュし、問題解決へと叱咤激励しなければならないのは、国民の側の責任である。もし国民の側が何かを要求し始めた時に、前例との不整合や負の波及効果を心配してブレーキをかけようとする公務員がいるとしても、そのこと自体は決して問題ではない。そのほうが望ましい。そんな風に思われるのだ、な。

2019年2月6日水曜日

余計な一言: 家庭内暴力と躾けの曖昧さをどうする?

千葉県野田市内の小学校に通学していた女児が父親に折檻(?)、イヤイヤ、ワイドショーの話を全て信じるとすれば、虐待を受けて死に至ったという事件。連日、TV各局のワイドショーの話題になっている。

そこでは微に入り細を穿つような詳細な話が展開されている。

それにしては、逮捕された父親は、いかなる略歴を経た人物であるのか、勤務先はどこなのか、どんな仕事をしているのか、なぜ沖縄から千葉に転居したのか、それは転勤なのか、同僚が抱いている人柄の印象は、等々ほとんど父親の輪郭が分からずじまいになっている。加害者の個人情報がワイドショーでほぼ何も触れられていないのだな。周辺の関係した人々のことを取材しては、いわゆる「尺をかせいでいる」。

これまでに発生した同種の事件を報道する際には、逮捕された人物、その家族、親族とも、文字通り洗いざらいワイドショーで紹介するという編集で、まさに加害者の身の回りにいる人も含めて「社会的制裁」が臆面もなく繰り広げられたというのが最近の世相だった。

テレビ業界で何か個人情報保護、人権保護に関連して、新しいルールなり、内規が回覧されたのか?それは本年の1月になって発効したのだろうか?まあ、ルール変更があったとしても、こんな具合の悪いことはテレビ局の方が自ら明かすようなことはせんわな・・・そんな風に思ったりしている。

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本日は一言メモ・・よりは長くなってしまったが、覚え書きという事で。

ワイドショーの誰か、その日のコメンテーターが話していた。

家庭内で一切の体罰を禁止するべきではないでしょうか。世界では躾と称する体罰は親であっても禁止する国が増えているんです・・・

確かに増えているのが現状だ。

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最近のように折檻の仕方が分かっていないのではないかと感じるような若い親たちを見ると、体罰は一切禁止という法律も必要かもしれないと思ってしまう。

が、これには大前提があるし、根本的矛盾が日本社会には残されている。

というのは、親が体罰をできなくなるとする。それでも、子供たちは他人に物を投げたり、壊したり、嘘をついたり、殴ったり、色々なことをするものだ。体罰ではなく言い聞かせることになるのだが、後になってから言ってもダメなことは経験から明らかだ。なので、自分の子でなくとも、ダメなことはダメときつく叱る世の中でなければ、子供が成長する過程で正邪善悪を学習できるチャンスが極端に減ってしまうであろう。

つまり、親であっても体罰を禁止するということは、子供の養育、人格形成は社会の責任として、みんなで見守っていきましょう、責任を分かち合っていきましょう、という社会的約束に他ならないのだ。

そんな社会的約束を結ぶ覚悟が日本人にはあるだろうか?

確かに社会全体で、許されない行動をした若年者を誰であれそれを見た人が直ちに叱責するという習慣ができれば、親による体罰よりも望ましい(かもしれない)。両親が同じことをガミガミと口先で注意し続けるよりは、赤の他人から適時適切に叱責される方が子供は素直に耳をかたむけるだろうと想像する。

しかし、現在の日本社会はそんな社会ではない。

昔はガミガミ親父があちこちにいたが、自分の子供が何かで叱られると、叱った大人をにらみつける。そんな若い親たちのほうが今の世相では普通なのである。自分の子に余計なことは言わんといて・・・そんな感覚を日本人は共有してしまっているのではないだろうか。そして、その独立独歩の家族のあり様は、小生、決して嫌いではない。

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何より将来への見通しが大事なのである。

モラルの感覚を十分に発達させることができないままに成長したとしても、日本には日本の法律があり、外国には外国の法律がある。法や道徳を守る感覚が乏しければ、意識するしないによらず、失敗を犯しがちである。

そんなとき、当初の何度かは説諭、つまり説教をされるのであるが、成長したあとでは素直に従う感覚が身についていないだろう。そこで繰り返す。すると、最後には処罰されることになる。

家庭内で体罰は禁止。他人が自分の子をたたけば暴行。それはいい。しかし、長じて法を犯して禁固刑や懲役刑を受けてしまえば、それは社会による体罰となる。そして、最悪の場合、日本には死刑がある。死刑は究極の体罰と言えるだろう。

体罰を禁止することは理念としては尊い。しかし、社会から一切の体罰を禁止することは非現実的である。加えて、日本人の多くは今なお究極の体罰と言える死刑を維持しようと考えていることは世論調査から明らかだ。

「家庭内体罰一掃」と「死刑容認」は根本的に矛盾した精神だ、と小生の目には見える。死刑容認が多数派だとすれば家庭内体罰容認が多数であるのが合理的である。家庭内体罰一掃を支持するなら刑罰として死刑を認めないのが理に適っている。両親による体罰は不可だが、公権力による処罰なら懲役も死刑も仕方がない、と。もしそう考えるなら、日本人はもはや自分の子供の養育に責任は持たないと宣言するのと同じだと、そんな風に見えてしまうのだ、な。言ってもきかないなら、もう子どもの躾は自分の手に余る、ダメなら社会がきちんと罰してくださいと。そういうことになるのではないか、理屈は。

そんな態度は親じゃあネエよ。無責任な丸投げってものですぜ、これは。ホントにそれでいいんですかい?親はいけねえが、お上なら体罰OKってことになるんですかい?親が親になれねえってんなら子供をつくっちゃあイケねえよ。そろそろ日本って国も「国じまい」すりゃあいいのサ。

ほとんど全ての親は自分の子を愛するものだ。鬼手仏心を子供に対してそのまま実行できるのは外ならぬ親であろう。社会から体罰を一切なくしてしまえないなら、子は親にこそ罰してほしい。そう思うことができる家族は決して悪い家族ではないと小生は思うし、むしろ理想型ではないかとすら感じる。それが理想だと思うなら、理想を追求するべきだ。

★ ★ ★

家庭内の躾から体罰をなくそうとするには、日本社会の在り方を根本的に変えていくことが不可欠だ。

現時点で、家庭内の体罰禁止を法制化すれば、多くの矛盾が表面化する。持ちこたえられないだろう。

それは現在の日本人の社会に内在する問題だ。

ちなみに小生宅においては、愚息たちに体罰を加えたことが何度かある。それは筋の悪い喧嘩をした時、学級内で粗暴な振る舞いをし、もうしないと約束しながら、また繰り返した時などである。兄弟喧嘩を繰り返した時にも厳しく折檻をした。何度も口でガミガミ、ネチネチと説教するのも確かに選択肢の一つだ。しかし、それが本当に望ましいか、有効なやり方かどうか、小生は疑いをもつ。体罰でより直観的に伝えたいことを伝えられる事がある。家族が暮らす中で言葉は常に万能であるとは限らないのだ。言葉ではなく、行動でこそ心を伝えられる時がある。もうこれは自明であろう。小生は亡父の教育方針から体得した。言葉ではなく経験として、情景として、記憶するのだ。亡父の家庭内教育方針には良い所もあれば、悪い所もあった。悪い所はなるべく継承しないように努力してきた。反対に、良いと感じた所はそのまま愚息たちにも実行してきたのだ。愚息たちは幼少期のことをどれだけ記憶しているか話したことはない。中学校に上がる頃にはもう体罰よりは話す方が主になった。小生の子弟養育は満点ではないと思う。が、まあ60点台の<可>、見ようによっては<良>の成績は確実にもらえるのではないかと自画自賛しているところだ。上の愚息には「兄弟げんかをする時は年上のほうが常に100パーセント悪い」と断定し、随分辛い思いをさせた記憶がある。それは亡父、というより亡父の父親(=祖父)の方針でもあったと聞いている。まあ我が家のDNAのようなものだ。その上の愚息とは両国国技館で夏場所を観ようと相談しているところだ。カミさんも含めて三人になるだろう。愚息もそれを楽しみにしている様子である。

代替案:
体罰禁止ではなく、成熟した養育能力に欠けていると児相、家裁から判定された両親には、親権を一時制限したうえで、外部人材を養育指導員に任命する。定期的に保護観察を行い、親には養育研修の受講を義務付ける、等々。ま、「養育指導員」なる人物こそ実は怪しく、信頼できないのだという指摘もありうる。であれば、それが現在の日本社会の限界でもあり、まずは統計的観点に立って、「子は親と親類・縁族にまかせる」という伝統的方式をとり続けるしか方策はないだろう。例外的な少数例には例外的に特別対応するしかない。多くの家庭は普通の家庭であり、家族を基盤に幸福を実現できている(と思う)、とすれば多数が満足できている社会なのだろう、現代の日本社会は。

2019年2月4日月曜日

一言メモ: GDPにまで延焼してきたか

政府統計の「メルトダウン」は、予想のとおり、年金消失問題と同規模かもしれないほどの広がりを呈してきている。

ただ、年金消失といわゆる「不正統計」(?)との違いは明瞭であって、今回の問題は技術的問題であることがハッキリしている。故に、対応方針としては原因分析をしっかりと行い、”How?"の疑問に正確な解答を引き出すことが大事だ。再発防止が課題であり、動機やら隠蔽やらを議論しても再発防止にはつながらないであろう。

そもそも人は色々な動機をもつものだ。だから個々人の動機とは関係なく、システムの安全を保証できる組織構成が最も重要になる。

再発防止システムを構築すれば改竄や隠ぺいを懸念する必要はない。

★ ★ ★

本日の道新朝刊を読むと、GDP統計にまで疑惑の目が注がれ始めてきたようである。

小生も、ずっとその昔、GDP統計にタッチしていたので関心はやはりある。

GDP統計の数字が「なぜそんな数字になったのか?」という疑問は当時からあったものである。注目されればされるほどに「なぜ?」という問いかけは世間から浴びるものであり、その運命から逃れる術はない。それが嫌なら公表しなければよいのだが、公表しなければならないのが政府統計だ。現場の職員にはまったく気の毒な事だ。

+++

GDP統計は国連が定めているSNA体系に準拠して世界共通の概念定義の下で推計されている。実は、このこと自体を知らない人は非常に多いと思う。

本日の道新には、内閣府が2016年に公表した基準改定と2008SNAへの対応をとりあげている。

参考サイト:内閣府

そこで次のように書かれている:
政府は16年12月の算出方法変更で、新しい国際基準に合わせて「研究開発費」を追加するなどし、1994年度にさかのぼってGDP総額をかさ上げした。・・・(中略)さらに問題なのは、このうち国際基準とは関係なく、推計手法などの変更で盛り込まれることになった「その他」によるかさ上げだ。・・・

中略した部分だが、要するに94~99年度は平均12.4兆円ほどの上方修正、2000~2012年度は18.6兆円の上方修正にとどまるのに対して、アベノミクスが始まった28.3兆円の上方修正になっている。

94~99年度は「過剰債務・過剰設備・過剰雇用」の真っ最中。2000年度から2012年度は、不良債権処理からつかの間の回復、そしてリーマン危機という時代だ。安倍内閣スタート以降の最近年とは経済状況が違うでしょう・・・という感覚はないようだ。

記事は「かさ上げ」と呼んでいるのだが、マア、何と言えばいいのだろうか・・・経済学部の学生ならば『先生、この上方修正の違いなんですけど、基本的な理由は何でしょうか?」と虚心坦懐に質問するはずである。修正を「かさ上げ」などと呼べば『かさ上げだと判断した君の根拠をここで説明してくれない?』と理詰めで追及されるはずである。

大体、小生も経験があるのだが、疑問があれば内閣府の経済研究所に電話をして「上方修正の違いを素人にも分かりやすく説明してくれませんか」と言えばよいだけである。先方も慣れている。よく地方の好事家を相手に小生も小一時間ほど電話で話した事がある。終わると「お疲れさま」と周りの同僚が声をかけてくれたものだ。多忙な時期にはウザいものだが、それでも「いまは忙しいもので」と言ったことはない。それを取材の専門家である新聞社の社員が内容の理解に努力することもせず、非難めいた記事を大雑把に書いて、報道をして、書きっぱなしにする ― 署名だけはしているが。

文章の書き手としては失格だネエ・・・とここで言わなけりゃあ、誰が失格になるんですかい。それが第一印象だ。

+++

そもそも物的固定資本に加えてソフトウェアも資産として計上したのが93SNA、その後2008SNAでは研究開発コストも企業の中間消費(=GDPの範囲外)ではなく資本形成(=GDPの範囲内)に含めることになった。

この時代を通して、コンピューター・ソフトウェアと大規模・小規模のデータベースの知的資産性が主たる論点として考究されてきている。ビッグデータ、データサイエンスの時代を考えると、今後もSNA体系は変更される可能性が高い。SNAが改訂されれば、その都度、GDP統計も改定されるだろう。それが「進歩」というものである。

上方修正するなら「かさ上げ」、下方修正するなら「隠蔽があった」ことにしたいのは、極めて政治的であって、非科学的な発想である。

★ ★ ★

とまあ、小生なりの憤りを書いてしまったが、安倍内閣が発足した2012年末から以降、それまでの奈落の底に落ちるような経済低迷が一転して長期上昇トレンドをたどってきているのは、考えてみれば不思議な事ではある。

「統計の不思議」ではなく、これは世界経済という「リアリティの不思議」なのである。マクロ統計は、リアルタイムでは(つまり速報で確報より前の段階、基準改定より前の段階では)景気変動を過小評価する傾向がある。なので、安倍内閣がスタートした後の時期でGDP統計が相対的に大きく上方修正されている、この事実だけから違和感はまったく感じないのだ。

とはいえ、国際基準とは関係のない、推計手法の変更などから「盛り込まれる」ことになった「その他」の部分がある、この下りには目を引いてしまう。そもそも「推計手法の変更」から「盛り込まれる」ことになる数字など、理屈ではありえない。大体からして、GDPは加工統計である。推計基礎となる一次データとの整合性は常にチェックされている。基準改定時の修正という事なら、基本的には総務省の「産業連関表」がベースとなる。これは一貫して採られている方式だ。産業連関表に「合わせる」というなら理屈は通るが、「盛り込む」ことなどできるはずはない。両者の違いがあれば綿密にチェックされるはずである。

この部分が安倍内閣発足後は上方修正、それ以前は下方修正・・・。う~ん、推計直後はどんな状況だったのかねえ・・・長期平均成長率は既報データより実は高かったということか。失われた20年は、既報よりもっと大きいマイナスで、最近になってからの回復テンポは実はもっと高かった、そういうことだ。

分からないでもない印象だ。が、安倍嫌いの人には気に食わない数字かもしれない。

確かに、安倍内閣には悦ばしい数字には違いない。が、「その他」の修正は年平均で5~6兆円。全体に占める割合は僅か1%程度である。

小生が実際に業務に従事していた頃の感覚では「ノイズの範囲」である。マクロ経済統計は国勢調査のような悉皆調査ではない。標本統計調査を利用して推計しているのがGDPだ。多数の基礎データを使用していると基礎データの遡及改定が案外頻繁にある。それが基準改定時に一挙に表面化する。重箱に残っているメシ粒の1粒や2粒をガタガタ言うな・・・というのは、同僚との食事時の雑談でよく語り合ったものである。

とはいうものの、この点は確かに丁寧な説明が求められるには違いない。国民所得部長か経済研究所長か分からないが、国会にも呼ばれるかもしれない。

でもまあ、呼んでみても「SNA」が分かる人は日本にはほとんどいない。いわゆる「経済学者」もSNAの事には疎い。研究している人がほとんどいなくなっているのだ。エキスパートが投稿する専門学会誌"Review of Income and Wealth"に論文を発表する日本人専門家はほとんどいない。それが現状である。

<GDP問題>を突ついて見ても、「分かったような、分からないような」でウヤムヤ、ムニャムニャ・・・のうちに終わってしまうだろう。それは突つく人、聴く人の専門知識の不足が理由である。

そんな進展をたどることを今から予想しておこう。

2019年2月3日日曜日

一言メモ: 問題はいま噴出しているのだが民主党政権では何があったのだろう

2000年代に入ってから政府統計の「メルトダウン」が進行してきたことは、それ自体としては大問題であるにしても、今の時点で問題確認ができたことは良いことだと観ている。

調べてみると1979年という早い段階で日本オペレーションズ・リサーチ学会の学会誌だと思うが、行政管理庁行政管理局統計企画課(当時)に在籍していた田代文俊氏が以下のような報告をしている。

統計調査の内容も複雑かつ高度化する傾向にある。このことは,他方において報告者である国民の負担が増大することとなり、統計調査の実施が困難になるなど統計調査をめぐる環境は厳しいものとなっている。
更に、現場の担当者による提案として
このためには、統計調査の審査および総合調整の充実強化、時代の要請に即した各種統計の整序、体系化、各省庁の保有する行政記録の統計化の検討、統計用地域基準の設定に関する調査研究の推進、磁気テープ・マイクロフィルム等新媒体を用いた統計調査結果の早期公表の検討、地方統計機構の充実強化、統計調査員確保対策事業の拡充、統計の啓蒙普及の推進等、行政管理庁の各種業務を通じて総合的に当面するこれらの困難な課題に取り組んでいく必要がある。
URL: http://www.orsj.or.jp/~archive/pdf/bul/Vol.24_02_060.pdf

このように実に多岐にわたる問題が、40年も昔から統計業務を総括する官庁の立場から、認識されていたことが分かる。そして、本質的には、2001年1月の中央官庁再編成以降、どれも解決への道筋をたどっていない。それどころか、現実には統計業務の現場の弱体化は深刻化する一方であったという事実に気がつかざるを得ないのだ。

これとは別に、実はこんな指摘もある。

日本統計学会会長(注:当時)の美添泰人・青山学院大学教授(統計学)は「英国のサッチャー政権時に統計予算が半減され、質が低下した結果、GDPや失業率といった重要な統計の信頼性が失われてしまった。日本も同じ轍を踏むつもりか」と怒りを隠せない。

 危機感を持った日本人口学会は、原口一博総務相に意見書を提出。「予算縮減は調査の回収率および調査結果の精度の低下に直結する」「社会科学研究の水準を大きく後退させ、国や自治体の行政施策全般に影響が出る」などと訴えた。
URL: https://blogs.yahoo.co.jp/zhang_r/23138232.html

こうした発言の前に以下の動きがあったようである。

 「国勢調査の成果が目に見えない。何のために実施するのか不明」「もう一度、国勢調査の意味を問い直すべきだ」

 11月17日の事業仕分けで、作業グループからはこんな発言が寄せられた上、広報のあり方見直しを求める意見も多かったなどとして、国勢調査は総務省要求の予算682億円のうち5~10%縮減を求められた。
URL: 上と同じ

いわゆる「事業仕分け」は民主党政権による独自の政策というよりは財務省による演出と観るべき側面が強く、また統計業務を取り巻く環境は民主党政権になって一挙に悪化したわけでもないだろう。

とはいえ、短期的効果の有無を過剰に強調し、増税なき財源にこだわるという民主党の基本方針の中で、政府統計業務の弱体化がその頃に一層加速したという面は否定できないと。そう憶測している。その憶測は民主党政権当時に結構多数の人が共有していた。個人のブログであって裏付けなどはないが、上の文章はそんな共有された印象の一つではないだろうか。

2019年2月2日土曜日

一言メモ: 「政府統計メルトダウン」と「事業仕分け」は関係ある?

今年になって表面化した「政府統計メルトダウン」。

厚労省の毎勤については2004年から「手抜き作業」が始まっていることになっている。他の基幹的な統計についてどうなっているかは今後の検証次第だ。それでも、一連の統計業務の「腐食のプロセス」は2000年に入って以降に進み始めたのではないか。単なる直感だが小生はそう見ている。

2000年より前の時代、特に1997年の金融パニックが生じる前は官僚批判があったにせよ、まだ行政組織は戦後以来の伝統が継続していたという総体的な印象がある。査察権限がなく非力ではあったにせよ行政管理庁(当時)の統計主幹が各官庁の統計担当部局に伝える意見は決して無視できない力を持っていたと記憶している。

混乱と弱体化は中央官庁再編成以後に急速に進んだのではあるまいか。

それと忘れてはならないのは、民主党政権(2009年から2012年)による「事業仕分け」だ。財務省が黒幕であったにせよ「事業仕分け」で(更に一層?)スリム化された事業分野のトップ10くらいは報道する価値があるのではないか。


  • 地価税導入による過激なバブル潰し
  • 護送船団方式の突然の廃止による金融パニック
  • 民主党政権とタイアップした過激な事業仕分け


小生の職業生活を通して気がつくのは、時により信じられない規模の判断ミスを犯すという財務省(旧・大蔵省)の性癖である。その失敗の規模は厚労省の医療行政ミス、国交省の汚職、文科省の天下りの比ではない。権力の暴走と言えるものだ。OBの差し出口を嫌う過剰な現役主義がもたらしている体質ではないかと憶測している。戦前の陸海軍がそうであった。ま、これは脱線。

事業仕分けとの関連。調べればわかる事ではあるが時間と労力を要する。小生も短い記事にしてくれれば大変ありがたいと感じる。

2019年2月1日金曜日

一言メモ: 賃金データの欠損を何とする??

厚生労働省の「統計手抜き」によって毎月勤労統計、賃金構造基本調査など基幹的賃金データの信頼性は大きく毀損されてしまった。

そして、あろうことか、2004年から2011年までの期間については調査原票を廃棄済みであるため正確な数字を復元できないという結論になったということだ。

とすれば、その期間内に発生した労災保険給付、失業保険給付の金額は何を基礎にして清算すればいいのだろうか?

というより、2004年から2011年といえば小泉改革が功を奏して次第に日本経済が復調したあと、2008年にはリーマン危機にみまわれるという非常に重要な時期にあたる。その重要な期間において、労働市場ではどのような動向が見られたのか。こうした実証分析が正確な賃金データの欠損が理由になって出来ないという事態は、日本経済の構造変化を精緻な方法で分析できないということでもあるので、これは先進国としては致命的な失態と言える。

他にどのような言いようがあるだろうか。

原票がダメなら(当時の主たる記録媒体を考慮すれば)磁気テープなりCDディスクなりにデータは転送されていないのだろうか。もし何らかの形で数字そのものはあるのであれば、首の皮一枚で救われたと言うべきだ。

報道では政府全体の統計行政システムを根本から再構築するという見方が出てきているそうだ。が、アメリカ型の分立主義で続けるのか、ヨーロッパ型の中央管理型に改革するのか、改革をするとして現実に指導・実行できる人材が日本にいるのだろうか?

ゴーンさんのように外国から日本に来てくれる専門家など、マア、おりゃあしませんわな。探してもいないはずだ。言うのは簡単だが、大変ですぜ。想像を絶する。

・・・まさに浜の真砂の如く難問は尽きない。

純粋の技術的問題と割り切って問題解決を図るにしても最適解はすぐには出ない。まして門外漢の政治家、ジャーナリストが首を突っ込みながらの進展を考えると、今回の厚労省の大失敗の影響はインフラの毀損にまで及んでいる点で戦後最大級とみている。

本震はまだまだ。本震がおさまっても余震の継続と復興の道筋が見通せないだろう。公的統計の信頼性が国際的観点から回復するのはザっと10年も先の事だろう。小生はそう観ているところだ。

その昔、「狂乱物価」、「オイルショック」の中で大蔵大臣に就任した福田赳夫氏は<日本経済は全治3年>と診断した。今回の政府統計問題はそれよりも根が深く<全治10年>と見ておくべきだろう。

東日本大震災➡原発事故から8年が経過して、政府統計のメルトダウンが起こった。あと心配されるのは、国債メルトダウンと突然のインフレ加速、そして東南海大地震の発生である。それまでには継続案件は何としても解決しておかなければならない。

国家的リスク管理がいま問われているのだと感じる。