2021年5月29日土曜日

一言メモ: リスクに対して社会がとるべき姿の一例では

アメリカ版のYahoo! Financeに以下の投稿がある:

Moderna scientists and executives laid out their plans to combat new strains of the virus that causes Covid-19 at a virtual investor event on Thursday, saying that new waves of the epidemic are on their way.

“As the virus spreads, it is rapidly mutating,” the company’s chief scientific officer, Melissa Moore, said on the call. “Some of these new viral strains appear to be even more transmissible than the original strain… We already know that some of these new strains are less susceptible to neutralization by our current vaccine.”

The company said that it tests new variants in the lab against its vaccines, and is “constantly” making and testing new versions of its vaccine. But it warned that the process is not instantaneous, and that the company’s agility is limited by the complexity of the work.

“The shortest time from the detection of a variant of concern to preclinical immunogenicity readout against a panel of pseudoviruses is approximately 2 to 3 months,” said Guillaume Stewat-Jones, a Moderna (ticker: MRNA) scientist who works as associate director of antigen design and selection on their infectious disease team. “And new viral variants are coming — emerging constantly in real time.”

Source: Yahoo! Finance, Barron's,  9:03 am ET / Original May 28, 2021 8:17 am ET

つまり

new waves of the epidemic are on their way.

 次の感染波が近づきつつある

一応は既存のワクチンでCOVID19の蔓延を押さえ込めたアメリカ・モデルナ社の開発担当者が、『次の波がやって来る 』と発言しているわけだ。

ワクチン開発企業における責任者であるとはいえ、民間企業の従業員であって、政府機関に所属しているわけでもない。投資家との交流の場で発言したということだ。日本人なら「社会的責任」を五月蠅く指摘しているに違いない — 指摘したからといって、責任を真に理解しているわけでもないだろうが。

では、社会的責任を五月蠅くいう日本社会の方が、アメリカ社会に比べて、より機能的に、より公正に、よりオープンに、運営されているだろうか?

どうやら問題意識の強さと、問題を実際に解決しているかということは、あまり関連していないようである。


ウイルス感染の拡大期に多種多様な変異種が生まれることは最初から予想されている。中には、危険性も感染性も従来株をはるかに超える変異種が生まれる可能性もある。というか、現に危険な変異種である英国株やインド株の感染が拡大しつつある。

ワクチン接種が浸透したアメリカでも、このように次なる変異種を予想し、それに対応するワクチン開発体制をオープンにする一方で、ヴァージョン・アップされたワクチンが製品化されるまでには2,3か月を要する、と。新ワクチンが登場するまでに「ワクチン空白期」がありうる、と。

感染拡大波の次の襲来をこのように警告しているのは、ワクチン開発企業としては適切な警告、というより情報提供であって、どこかの国で想像されるような『来てもいない危険をことさらに予想して、いたずらに社会的不安を煽る発言はするべきではない』などという低レベルの《ベキ論》、そんな「ベキ論」を支持するような政治的抑圧にさらされてしまうという、「つまらぬ心配」から無縁である点は、実に羨むべき状況だと思う。

ずいぶん昔にヒットしたドラマであったが、《となりの芝生》を思い出した。


何かにつけて『日本は周回遅れ』であると言われる。小生の日常経験でもそんな感覚を覚えることは多い。が、一方で日本ならではの「居心地の良さ」を感じることも多い。

この20年、「長所を生かせ」が強調されていたが、前にも投稿したが

長所は短所の表側である。長所の裏側には短所がある。長所と短所は表裏一体だ。

そう思っている。なので、「長所を生かして、短所をなおせ』というアドバイスには反対である。短所をなおせば、長所もなくなる。長所を生かせば、短所が現れるのだ。そう思っている。

ちなみに、<長所 短所>をキーワードにして本ブログ内検索をかけてみると、結構、複数の投稿が出てきた。ドンピシャリ合致するのは、個人名が出てくるので、ここでは引用せず、こちらを挙げておきたい。《官僚システムの長所と短所》は、日本とイギリスと、国は違っても同じだなあと改めて腑に落ちるのだ、な。

だから、たった一つ選べる道は

長所を生かしながら、短所を自覚する。

こういうことしかないのではないかと思っているし、このことは、企業にも、社会にも言えるような気がする。

丁寧に取り組む傾向は確かに日本人の多くの美徳であるが、

丁寧であるが故の欠点、より丁寧であるが故により大きくなる問題点

つまり、長所の裏側をも同時に客観的に認識し、自覚しておくことが重要であるわけだ。



2021年5月27日木曜日

インテリジェンスはデータからは得られない

 先日の投稿でこんなことを書いている:

ところが、日本の報道機関はこれを調べず、イギリスの通信社が調べて、本当の問題の所在を5月7日にまず英語で報道し、それを日本の新聞社の一部が日本語に訳して報道し、いま民間TV局が「ワクチンの打ち手不足」を話題にして、日本国内で盛り上がっている。

これを『日本にはインテリジェンスがない』と言う。やはり通弊は、国民性なのか、変わらないようだ。

日本社会、日本企業、日本政府が苦手としているのはインテリジェンスだ、と。 随分昔から耳にしている指摘だ。

そのウィークポイントを克服するのが「データ」であると。これまた、最近になって、色々な所で聴く言葉だ。

何か、データ収集力に弱みがあるという反省でもあるのだろうか?

***

小生は、これは違うのではないか、と思う。

データが手元に十分ある時、十分以上にある時ですら、データを素直に分析すれば、すぐに確認できることをも(手を抜いてか、無駄な手数はかけないという合理的発想からかは知らないが)確認せず、気がつかないままに放置してしまう。こんな傾向は小生がまだ現役で、雑用係だった頃から、身の回りに濃厚にあったような気がする。

データはあるのだと思う。しかし、データが教えてくれていることを軽視する。

情報の問題ではない ― 情報の問題であることもあるだろうが。情報について考える問題だと思う。つまり、頭の問題である。

不十分なのはデータ自体ではない。何を調べるかという頭の働きが足らないのだ。カネと労働を投入すればデータや情報は集まる。しかし、それはインテリジェンスではない。インテリジェンスの本質は、汗と労力ではなく、脳みそなのだと思う。

***

データを集めて細部まで念入りに凝った資料は作成する。しかし、時間をかけて丁寧にそろえたはずの資料が、《その時の役》には立つが、《結局は役に立たない》ことが多いのだ。

いまあるデータで結論を出す。結論には情報が欠けている前提が混じる。そこで次に何を調べるかが決まる。そんな一連の戦略的データ分析が、作動していない。作動はしているかもしれないが、フルに動作せず、邪念が入る。

そんな感覚がずっとあった。

理論といえば立派だが、結論や判断が最初から決まっている。データはそれに奉仕する。極端なケースでは、そんな状況すらあったりする。

***

データ解析で飯を食ってきたわが身としては、分析技法の進歩ばかりに気を使い、何について知りたいのかという探究の精神に欠けていた。それは知っているという安心感にどれほど安住してきたか・・・実に、後悔先ニ立タズ、である。

ただデータ解析が面白かった。小生にとって統計分析とは遊びに似たものであった。大いに楽しんだ一方で、何かを得たことは少なかったのは当たり前である。

う~む、これはボヤキとも、反省とも分からぬことを書いてしまった。なぜだろう。やっぱりヤキが回っちまったか。

今日はこの辺で。

2021年5月23日日曜日

一言メモ: 五輪と東京の相性の悪さが改めて確認されたということではないか

 公衆衛生に詳しい厚労省OBである豊田氏が

日本から中止と言ったら、おそらく未来永劫、日本にオリンピック・パラリンピックは来ない。

という主旨の発言を某ニュースショーで発言したというので、物議をかもしているようだ。


現時点の世情の下で、この種の発言をすれば炎上するのは当たり前だが、ただ本ブログでも少し以前にこんなことを書いている:

それにしても、もしも東京五輪が中止となれば、日中戦争激化を理由に日本政府の方から開催を返上した1940年東京五輪以来、二度目の中止となる。1勝2敗だ。東京は相性が悪い。もう二度と五輪には立候補しない方がいいかもしれない、・・と思う人は少なからずいるかもしれない。

ちなみに加筆すると、東京が開催を返上したので次点のヘルシンキで開催されることに決まった。ところが欧州の第二次大戦は1939年9月1日のドイツによるポーランド侵攻から始まった。そのためヘルシンキ五輪も中止となる。そしてヘルシンキは戦後になってから48年のロンドンの後にはなったが、52年の開催都市になった。

東京は五輪とは相性が良くないことは事実のようだが、それでも開催都市として誠意を尽くし、近代五輪運動への協力を惜しまなければ、新型コロナ終息後の早い時期に東京五輪が実現することは期待してもよいのではないか、と。そう思われるのだな。

1940年の東京五輪返上は戦争の激化が理由であった。 今回は日本がひき起こしたわけではないパンデミックが理由となる。

日本は、オ・モ・テ・ナ・シをしようと誠心誠意準備をすすめてきたにもかかわらず実を結ばないわけで、「気の毒」な立場に置かれている。

世界から同情されるだろうし、(まさか)主催者であるIOCから損賠賠償を求められる可能性も(ゼロではなかろうが)まずないのではないかと憶測される。

ただ、仮に東京五輪が、日本側からの返上にせよ、選手を派遣する世界各国からIOCに加えられる圧力にせよ、仮に中止となると、『五輪と東京はとにかく相性が悪い』と、こんな印象が五輪関係者には深く刻印されるだろう。

未来永劫、東京に五輪は来ないと言い切ってしまうのは、余計な指摘であると思うが、これに近い覚悟なり予想は、日本側も持った方がよいのではないかと感じる。


というより、そもそも東京都の方が、更には日本人の方が、五輪には懲りて二度とオリンピックには立候補はしないだろうと思われる。ここ北海道の札幌市もまた冬季五輪開催地に立候補すると噂されているが、今回の迷走で札幌市民が五輪誘致には猛反対をするのではないか、と。そんな気がする。

絶対に開催都市が損をすることがないという保険がなければ、日本から五輪の(というか、あらゆる国際的イベントでも?)開催地に立候補するには、非常に高い心理的ハードルができてしまった。

『二度と来ない』のではなく、『二度と立候補しない』と言う方がより正確ではないだろうか?

2021年5月22日土曜日

計画も、構想も、空想も、妄想も語れない老齢社会になったか

ずいぶん昔の事になったが、日本が「経済大国」になった証しであるかのように"Japan as Number One"と呼ばれるようになったのは、エズラ=ヴォーゲル氏が同名の著書を出版した1979年のことである。

1980年代の半ばには「海図なき航海」の時代であると言われるようになった。「言われる」というか、政府指導層の意識としてそんな風な変化が起こってきたということだろう。その当時に出版された新刊書籍の多くに、この「海図なき航海」というキーワードが使われていたのをAmazonで確認すると、今となっては懐かしさ(といささかの悔い?)を覚えてしまう。

しかし、「海図なき航海」と言っていた時代は、まだ航海をしているという意識が残っていたからマシであった。1992年には宮沢内閣の下で『生活大国5か年計画』が策定されている。つまり、キチンとした《目標》なり《展望》があったわけだ。

その後、バブルが崩壊する中で、先行きの見えない時代が続いたが、村山内閣、小渕内閣でも作り直された新計画を決定している。最後の総合計画は小渕内閣による『経済社会のあるべき姿と経済新生の政策方針』であった。計画期間は1999年から2010年であったから、「計画」としては意味がなかったのだが・・・

というのは、2001年には中央省庁が大きく再編成され、それに伴って、日本国から「計画」や「展望」という政策用語は駆逐されてしまった感があるからだ。一言でいえば「もう要らない」というわけだ。自信満々であったのだろう。あるいは橋本行革で決まっていたことだから仕方がなかっただけかもしれない。

ところが、現実には「計画などは要らない」と舵を切った後で、金融機関の不良債権、産業再生が待ったなしの状態となり、それが終わると世界規模のリーマン危機に襲われた。その3年後には東日本大震災とエネルギー危機が発生した。そして今はコロナ・パンデミックに苦しめられ、実質GDPの落ち込みはリーマン危機時を上回る規模になった。そんな中、菅首相は「2050年カーボン・ニュートラル」を世界に向かって宣言した。

足元の現実はといえば、コロナ禍の緊急事態宣言が続く中で、これまでの検査体制の不備、医療体制の不備、ワクチン開発・接種体制の遅れが顕在化しており、政府の行政に対して「場当たり」、「その場しのぎ」、「戦略不在」等々、色々な非難が集中し、もし強力な野党が存在すれば政権交代必至という状況になっている。

この10年、日本政府に何か計画なり、目標なり、展望はあったのだろうか?あったとして、それが明確に示され、社会でも話題となり、日本人の意識に浸透してきたのだろうか?

そんなものは、特になかったナア

と、個人的な感想ではあるが、そう思う。

「形あるもの」としての「計画」や「展望」が姿を消してしまったのと同時に、あらゆる意味で、政府から計画なるものが消えてしまった。そんな感覚だ。

19世紀末の日清戦争から、太平洋戦争の酷い失敗をはさみ、戦後の復興と高度成長、二度の石油ショックの克服に至るまで、マアマア有効に機能した「官僚主導国家・日本」なるモデルは、本質的な意味でもはや解体されて、もう実体としてないのだ、と。この事実をどれくらいの人が正しく理解しているのだろう?

「政治主導」を前提すれば、官庁が計画や展望を創る時代ではない。ではあるが、政治家集団である自民党にも計画はない。それを策定できる頭脳集団などもってはいない ― アメリカの共和党や民主党は関係の深い一流のシンクタンクをもっている。数ある野党をみても、真っ当な計画や展望をつくれる頭脳集団などもっていない(とみている)。政治家本人は選挙は上手だが、取り巻きは選挙運動のプロか政治家の卵であって、計画や展望などを作れる知識も才能もないはずだ(とみている)。現代の自民党は戦前の保守政党である政友会、民政党の政党モデルと五十歩百歩である。実に「自由、資本主義、法治主義」という価値観を共有するこの日本において、政党らしい政党組織がたった一つ「共産党」だけであるのは、まさに珍奇としか言いようがない — その共産党も党員の高齢化に悩んでいるそうだが。

つまり、日本社会の将来を情熱をもって構想する機関はいま日本のどこにもない。

家計簿をつけず、確定申告もせず、住宅ローンの借り換えや資産形成についても考えることを止め、毎日の通勤でいっぱいの生活を送ってきた、そんな感覚に近いのではないだろうか。

まあ、怖いと言われれば怖い。小生は旧世代に属するのでそう感じる。

まだ現役で公務、というか公的サーバントとしての雑用をこなしていた頃、友人と会ってはこんな愚痴をこぼしていた記憶がある:

小生: とにかく雑用が多いよ。半分は雑用だな。

友人: そんなに下らないのか?大体、雑用なんて『担当じゃない』って、断ればいいじゃないか。

小生:上の方から割り振られるんだよ。お前の所でやれってサ。

友人: どこでも下らない仕事はあるけどな・・・愚痴らないでやれば済む話しじゃないのか?「計画」を実行する中で苦労するなら、「やりがい」があるってもんじゃないか。楽に楽しくなんて、そんなものないヨ。

小生: 「計画」なんて誰がもってるんだ?

友人: ああ、そうか。日本には「計画」なんていらないってことになったわけか。自由主義、市場重視だからなあ。でも「構想」はもってるだろ?「将来構想」くらい、ただの凡人だって、考えるもんだぜ。

本ブログで何度も投稿しているが、日本という国では「現場」は頑張るが、「上」はダメだ、と。

世界最強の軍隊は、総司令官がアメリカ人、参謀がフランス人、前線指揮官がドイツ人、突撃する兵士は日本人で組織された軍隊であるそうだ。

中身のある状態から空虚な状態に向かって順にならべると、

  1. 計画
  2. 構想
  3. 空想
  4. 妄想

こんな順になるだろうか。

ここ近年の日本国に「計画」や「構想」はなかった。これは確かだ。

政府の政策目標は、予算と同じで単年度ごとに言葉を変え、品を変え、ただ時間が過ぎていった。

もっと淋しいのは、コロナ禍の1年の中でも、アフターコロナ時代の日本社会について「計画」はおろか、「構想」もなく、「空想」をすら語る人がいない。

つまり「夢」がない。

いまは毎日の「新規感染者数」に一喜一憂している。これからは「ワクチン接種数」にも一喜一憂するだろう。

大リーグの大谷翔平のホームラン数を併せると、令和時代の日本人は三つの数字に一喜一憂していることになる。

毎日、その数字をみては、一喜一憂する。うちのカミさんも同じだ。

せめて「妄想」でも話してほしいのだが、誰もが沈黙して、毎日の新規感染者数の変化に一喜一憂している。

思考は停止中である。

この秋に「デジタル庁」が開設されるが、マイナンバーの新規用途を宣伝するとか、便利になるとか、色々と「計画」(の如きもの)が漏れ伝わってきてはいる。しかし、この程度が「夢」というなら、既に夢を実現している国は海外に多数あるだろう。実現しているそれらの国が「夢のような国」ということなのか。

やはり日本国はいま思考停止中である。

《頭》がないのである。あるとしても弱い。だから兵に頼る。《手足》に頑張ってもらうしかないのである。

空想でもいいから考える方がよい。考えれば、それを語るだろう。語れば何かの欲望を刺激し、議論になるだろう。それが「将来構想」になり、「基本計画」が出来るかもしれない。

しかし、必須のファクターがどこかで足りず、十分なエネルギーが不足し、結果が出てこない・・・

力んでも、力んでも出てこない、まるで、老人性の「弛緩性便秘」の症状だネエ・・・こりゃあ、日本社会もいよいよ高齢化による体力減退で、ご臨終が近づいて来たってことですかい、と。不謹慎ながら、そんな連想が頭に浮かんじまいました。

結局、思考停止ということか、だから行動停止になっているのか?

う~ん、これは完全にボヤキだ。小生もいよいよヤキが回っちまったか・・・

2021年5月20日木曜日

一言メモ: 遅いのは政府もマスコミも同じだ

今日あたり、TVの「情報番組」でも、コロナ・ワクチン接種が進まない原因は、ワクチン不足ではない、むしろワクチンの打ち手が不足しているからだ、と。

実は、問題の所在が「ワクチン不足」ではなく、「打ち手不足」にあるという点は、5月初めにイギリスの通信社ロイターが報道していたわけである ― 本ブログにもメモっておいた。

外国の報道機関が日本のワクチン事情の問題点を指摘してから、日本のテレビ局がそれを問題として話題にするまでに、2週間の遅れがある。

そもそもワクチン調達担当の河野大臣が数量的にはワクチンは十分確保されたと宣言したのは4月上中旬のことであったかと記憶している。

数量が確保されたのなら、ワクチンが日本に到着した後、順調に接種が進むのかを調べて、報道しなければならないはずであった。ところが、4月の中下旬で報道されていた基調は、河野大臣は数量確保を「主張」しているが、本当に日本に入るのかを疑い、もし予定通り到着しなかったらと、レバ・タラ論議を繰り返す論調ばかりであった。そして、そのレバもタラも、仮定するには意義のない、生産性の低い「もしも」であったわけだ。

心配そのものに問題はない。当然、心配するべきである。しかし、政府の責任者が「数量は大丈夫だ」と断言していたのであるから、少なくとも日本国内の報道機関は「入った後は打てるのか」を心配するべきであった。あれもこれも心配するのは頭が悪い証拠であろう。

ワクチンが政府の主張のとおり、実際に日本に入っているかどうかは、調べればすぐに分かったはずだ。

ところが、日本の報道機関はこれを調べず、イギリスの通信社が調べて、本当の問題の所在を5月7日にまず英語で報道し、それを日本の新聞社の一部が日本語に訳して報道し、いま民間TV局が「ワクチンの打ち手不足」を話題にして、日本国内で盛り上がっている。

これを『日本にはインテリジェンスがない』と言う。やはり通弊は、国民性なのか、変わらないようだ。

遅いのは、日本政府だけではない。日本の報道機関も遅いのだ。世界市場で競争をしている民間企業は大小を問わず、国際競争力の強弱はあるが、こんなことはない。あるにしても希薄であり、そもそも生存は市場規律の下にある。だから危機感がある。

閉鎖的な日本語空間に保護され、安心している部門で《能力劣化》が進んでいる。

そして、その守られている主体たちが、大切な日本語空間を毀損しているという点は昨稿に書いている。

もう末期的でござんすネエ、日本の文化は乱世といってもよござんす

結論的には、ここに着目するべきではないかと思う。



2021年5月17日月曜日

マスメディアが日本語文化の破壊者なのか?

今日もまた日本国内のマスメディア批判ということで・・・


毎年夏が近づいてくると、何だか永井荷風の『濹東綺譚』を読みたくなって、もう何度も読み返したことは、前にも投稿したことがある。

その時節にはまだ早い。そこで、若い時に急に忙しくなって最後まで読み切れなかった三島由紀夫の『豊穣の海』を改めて読んでみた。これも先日投稿したことだ。

それにしても、感じるのは日本語の美しい言葉を、まるで汚い泥の中に投げ捨てるかのように、野卑な言葉づかいを繰り返している最近のマスメディアのことである。

たとえば、第1巻の『春の雪』は、映画化もされているように、誰が読んでも見事な物語構成が、絢爛とした文章でイメージ化されていて、その美しさにまず感嘆する。まだ序盤のところだが、第21章に次のような下りがある。

幼少時に綾倉家で過ごし京風、というか王朝文化の雰囲気に馴染んで成長してしまった主人公・松枝清顕に元薩摩武士の家系である松枝家の両親が困惑している個所である:

 両親にとって清顕は結局謎のような存在で、自分たちの感情の動きとはあまり隔たるその感情の跡を、追おうとしては道に迷う毎に、もう追おうとすることすら諦めてしまった。

・・・

侯爵夫妻の心の衣裳は、たとえさまざまな思惑があっても、南国風の鮮やかな、単彩であるのに、清顕の心は、昔の女房の かさね の色目のように、朽葉色は くれな いに、紅いは篠の青に融け入って、どれがどれとも見定めがつかず、それをことさら忖度しようとするだけで侯爵は疲れた。

ここにあるように、《忖度》という言葉は、所詮は心情を丸ごと共有することなど不可能な人間どうしが、それでも親しい人の微妙な心理の綾を推し量ろうとする優しい配慮のことである。

しかし、この何年かに汚い語感を付与されてしまった「忖度」という言葉を目にする若い世代の読者は、もはや上の文章を美しいとは感じられないのではないだろうか。

もしそうなら、日本のマスコミ各社が犯した罪の一つに数えていいだろう。

付け焼刃の勉強で自信をつけた無知文盲の徒と同じで、 阿諛 あゆ というべきときに、 忖度 そんたく という言葉を使っている。

コミットメントを伴わない「メッセージ」は本来のメッセージではない。違反者が得をするというアンフェアに目を向けなければ権限のある公職者は「要請」をするべきではない。このように、厳密な学問用語としても使われている「メッセージ」も汚れた語感を付与され、本来はニュートラルな行政上の言葉であったのに「要請」もまた無責任な逃げ口上というニュアンスを与えられた。

これらは、日本国内のマスメディア各社が国民共有の財産である《日本語》に対して犯した大罪の一つである。 小生はそう思っている ― マスコミ各社は政府が実行犯だと述べたてるだろう。が、日本語の正しい使い方に目を向けるのも言論界の仕事ではないか。ま、「言論界」という自覚があればの話ではある。

もし言葉に霊魂が宿るなら

汚れつちまつた悲しみに

今日も小雪の降りかかる

汚れつちまつた悲しみに

今日も風さへ吹きすぎる

以前は美しかった日本語はそう言って悲しんでいるに違いない。 

よりにもよって

言葉がもっとも大事なのです

と、何かといえば強調しているメディアだが、やっていることは正反対のことだ。


いま小生が心配していることは《経済》という言葉だ。元は「経国済民」という洗練された統治理念を表現する言葉であったのが、コロナ禍一年の集団ヒステリーの中で、人の命よりカネが大事というゲスなイメージが付けられてしまったのではないかと(大いに)心配している。一体、TVのワイドショーで何度『また経済なんてことをいってる・・・人の命を何だと思っているんでしょう』という意見を聞いただろう・・・「経済学」を勉強するのは肩身が狭い、「経済政策」というと人命軽視、こんな語感が形成されてしまったとすれば、

もう日本は終わりだネエ

そう感じます。



2021年5月14日金曜日

「戦略」というキーワードも間違った濫用が目立つ

 何かといえば「戦略」が重要であると強調されている。最近よく聞くのは、例えば

あなたのこの意思決定は「戦略的」ではないですね

もっと「戦略的」に議論をするべきです

そもそも政府がとっている行動には「戦略」がない

そもそも「戦略」という元来は戦争用語である術語がなぜこれほど日常生活でも使われるようになったのだろう?小生、感覚的にはあまり好きではない。

「戦略」という言葉にはそれほど重要不可欠な意味があるのだろうか? 誰もが戦略的に生きるべきなのだろうか?

どう生きるかで「ベキ論」を語っても意味がないが、そう言いたくなる。

ずっと以前にはこれほど「戦略」という言葉は使われていなかった。

むしろ「戦略」という言葉につきまとうのは、「損得計算にさとい」、「計算高い」、「こすい」、「老獪」、「腹黒い」、「策士」という負のイメージであったほどである。

それが、言葉としては随分出世(?)したものだと思う。

ずっと以前は、足元で何をするかについては『△△に関する当面の対処方針』というペーパーを起草したであろうし、今年度中から来年度にかけてどんな考え方で進めるかであれば『△△への対応に関する基本方針』をまとめるところだろう。その上で、何か新法を制定する必要があれば、基本方針に基づいて担当課が法案をまとめるだろうし、もし基本方針に収まり切れないような課題があれば、多分、『△△に関する総合計画』とか、その当時の流行語を使えば『△△問題の解決に向けてのアクション・プログラム』という名称の文書がまとめられ、各省庁で合意形成し、そのあと閣議で決定していたに違いない。

「戦略」という言葉も、「戦術」という言葉も、一切使われることはなかったと記憶しているし、それでなにも困る事もなかったのではないだろうか。

「戦略」とか、「戦術」という元来は戦争用語であった術語が、日常でも愛用されるようになった背景としては、特に1990年以後に経済学分野において『ゲーム理論』が新しいメイン・ストリームになったことを挙げてもいいような気がする。

今日、盛況を極めている非協力ゲームを実質的に創始したナッシュ、及び理論的彫琢を加えたハルサニ、ゼルテンの3氏にノーベル経済学賞が授与されたのは、1994年のことである。その以前から、既にマクロ経済学のミクロ的基礎が議論されるようになっていて、そのミクロ経済学でも、主体的な行動の非常に基礎的な部分で従来とられていたような市場制約下の最適化行動という視点よりは、複数の主体が相互に影響されながら戦略的行動をとる場合の帰結をゲーム論的に理解する、そんなアプローチがより主流となりつつあった。

ゲーム論では、関係者が「プレーヤー(Player)」と呼ばれる。各プレーヤーが選択する行動方針を「戦略(Strategy)」という名で呼ぶ。有名な「囚人のジレンマ」も私的合理性と全体合理性が乖離するゲーム論の例題の一つである。タフ・コミットメントやソフト・コミットメント、直接効果や間接効果もそうである。戦略的補完性(Strategic Complements)や戦略的代替性(Strategic Substitutes)という言葉を初めて耳にした時には、経済学という学問もずいぶん変わってきたと感じたものである。

そしていつの間にか、TVのワイドショーでも「戦略」という言葉が頻繁に使われるようになった。

確かに、企業にとって「戦略」は重要だ。企業にとっては「目的」はしばしば明解である。シェアをとりにいくか、利益、ひいては株価を最大にするか、企業成長を極大にするか。目的に応じて最適戦略は決まる。

一方、人が人生を生きるこの社会において、何か明確な「目的」はあるのだろうか?いま、日本社会で「経済活動=仕事」を目的とするべきか、「コロナ感染対策」を優先するべきかについてすら、合意は得られそうもない。

まして人が生きていくうえで「戦略」を大切にすることが正しいのだろうか?

戦略とは、目的を特定化した後、後ろ向きに、つまり「未来志向」で、たとえば10年間の最適戦略をたてるなら、10年後の目的変数を最大化するには9年目にはどうするか?9年目に最も有利な位置を占めるには8年目にはどうするか?以後、順に逆向きに計算して、今は何をすれば最も有利であるか、このように考える思考が《戦略的思考》である。

こんな「計算高い人」を人は好むだろうか?

まさに三島由紀夫が『豊穣の海』第1巻の『春の海』で述べているように

理智があれほど人を信服させるのが難しいのに、いつわりの熱情でさえ、熱情がこうもやすやすと人を信じさせるのを、本多は一種苦々しい喜びで眺めた。

理智の人物である本多繁邦が主人公・松枝清顕が選ぶ非合理な人生になぜか協力するときの一場面である。

見直したよ。貴様にそんな一面があるとは思わなかった。

本多が非合理な友情から熱情をこめて富豪の子息に自動車を貸してくれと頼むとき、その友人は理屈ではなく、その心情に感心して、依頼を応諾したのである。

人間とはこんなものだろう。

つまり、「戦略」は目的が明確な民間企業でこそ、真っ当な議論が出来るが、そもそも目的があいまいな現実の社会では戦略的思考は展開困難であり、まして人生においては「戦略」を計算高く語るよりは、純粋な情熱を示すほうが、よほど他者の協力を得られる、というものであろう。

「最適戦略」とは《目的が明らかな場合に》ロジックのみから導き出される結論なのである。

昨年の3月頃、突然降ってわいたような新型コロナウイルスに対して、政府(及び医療界)がとった目的は

死者数を最小化する

というものであったと記憶している。以後の基本方針(=戦略)は、この目的を達成するうえで最適な方法という観点から決定されたと思われる。

社会的PCR検査への消極的姿勢は、この目的から導かれる系であったわけで、病院に入ってくる新規コロナ患者数をコントロールしながら — 感染確認を可能な限り早期化するのではなく — 医療資源は(コロナ、コロナ以外の病因に寄らず)重症患者の命を救うために投入する、こういう思考ではなかったかと(勝手に)みている。

もし、この段階で失敗があったとすれば

死者数を最小化するために医療資源を潤沢に整備し、必要に応じて拡充する

という一文が明記されなかったことだろう。もし「拡充」という一語が入っていれば、担当課はそのために必要な法令の策定作業に入ったはずである。

現実には

死者数を最小化するために、感染者数の最小化を図り、そのために経済活動を自粛させる

つまり、言葉通りの「死者数最小化」ではなく、《既存の医療資源を所与》として死者数を最小化するという行動をとったわけだ。

現実には、欧米に比べて「さざ波」程度の感染者数であるにもかかわらず、医療崩壊が現に発生し、死者数も増加しつつあるわけであるから、当初の目的が十全に達成できているか怪しい所である。

昨年来の政府の行動は、死者数最小化という与えられた目的を追求するうえで

最適戦略が採用されなかった

と批判されても仕方がない状況になってしまった。これが「戦略の検証」であって、やはり必要な作業だと思う。

とはいえ、日本国内における2020年の年間死亡数は11年ぶりに対前年で減少となった。

死者数を最小化する

当初の目的は(過剰に)達成されたことにもなる。

が、これをもって、政府の「コロナ対策」が大成功であったと考える人は少ないだろう。目的変数に対する間接効果を計算に入れていた人物はいなかったはずだ。いわゆる「不幸中の幸」の類だろう。

いずれにしても、「死者数最小化」という目的を前提として、初めてその目的に応じた「医療戦略」や「防疫戦略」を語ることができるわけで、そのとき現実社会にある他の多くの目標は考慮していないのである。

もし他の目的をも同時に追求することが課題になるとすれば、目的変数を「死者数」で測定することが当然の前提になるのかどうかも、必ずしも明らかではないだろう。

経済も不可欠 — 毎日の食事、水道、ガス、電気などは不可欠である以上、完全な経済封鎖は実行不能である。公衆衛生も不可欠。更に言えば、安全保障や公共インフラの維持保全も不可欠、教育も不可欠、コミュニティの維持も不可欠、etc.、この社会には数多くの「不可欠」がある。この最初の二つだけでも、どちらをどれほど重要視するかというウェート付けには《価値観》が混じる。その価値観を日本社会で統一するなどは出来るはずがないし、するべきでもないのである。

国民を超越した「国王陛下」がいるわけではない普通の国において

こうこうするのが国にとっては最善というものであろう

こんな「御意」というか、「ご綸言」を発して、求めるべき目的を示してくれる国家機関はないのだ。

要約すると、新型コロナウイルスが日本に上陸した時点で、何をもって日本社会の「最適戦略」と考えるか、そんな議論にまともな結論などは、そもそも得られるはずが無かったということである。

よく「政治にもエビデンスを」と言われる。政治も科学だと言われる。論理が通っていなければならないと言われる。民主主義国では「権力」ではなく「科学」を。

こんなスローガンが、今になって唱えられる場面が増えている。しかし、これも「ひいきの引き倒し」というものだ。そもそも、経済学、社会学にせよ、社会科学は真の精密科学ではない。小生が学生であった頃は、データに基づいた実証的分析から複数の《政策のメニュー》を提案し、いずれの選択肢を採るかは、政治に委ねるという政策決定プロセスの理想型が授業でも講じられたが、こんな理想は一度も実行されたことがない。大体、政策シミュレーションで前提するべき与件は余りにも多数ある。何を制御できる政策変数とするかはアドホックで根拠などはない。仮に法制上の変更も「政策」に含めると、変更後のデータはないので、時間が経過した後でなければ政策効果は評価できない。まして制度変更の効果を科学的に事前予測するなどは、言うは易く、行うは難し、である。

政治は統治という場における戦争と似ている。だから引き合いに出すが、エビデンスがあってから対処するなら、それは時機としては遅すぎる。行動に論理を通せば当たり前のことしかしない。正解を直観で知ることが勝負の場では決定的だ。データがそろって科学的分析ができる頃には勝敗は決まっている。理屈は誰にでも語れるのである。理論に精通しても、名曲は作れないし、名画はやはり描けないのだ。

小生はへそ曲がりだ。だから思うのだが、目的を明確化することすら現実の社会において、困難、というより不可能なのだ。目的も明確化できないのに、政治に「戦略」などありうるはずがない。しいて言えば、何をもって社会の目的とするかは、その時の民主的政権に委ねる。その意味では

君主制ではなく民主制を選ぶということ自体が、その国の基本戦略である。そして、その目的は最大多数の国民の幸福の実現にある、と。

そう考えている。かなり功利主義的な立場だ。幸福を享受可能な主体は、企業、法人を除外した一人一人の個人であるから、企業、組織ではなく、個々人を最優先に政治の対象としなければならない理屈である。(多分)多数派ではないだろう。

このように基点を確認したうえで

組織は戦略に従う

というのが基本ロジックであるから、戦略を遂行するのに最も効率的な組織を編成する。こういう理屈になる。

あとは設計次第だ。確立された理論などはない。

だからこそ、歴史に残る外務大臣・陸奥宗光

政治はアートなり。サイエンスにあらず。

このように語っているのだろう。

つまり、政治に、合理も不合理もない。上手と下手があるだけだ。そう思っているのだ、な。

であるからこそ、政治家なる人物に求められるのは、知識よりは信頼、理屈よりは情熱が、より重要な要素であると思っている。

人は、いかにも賢い人を信頼するのではなく、課題解決に真の情熱を持っている(ように見える?)人物を信頼するものである。

ついでながら、付言すると、

英米が民主主義国によるコロナ克服の成功例になりつつあるが、

  • 違反者への罰金に裏付けられたフェアで厳しいロックダウン
  • (当初は制約があったようだが)PCR検査の拡大、無料化による感染者の隔離・保護
  • 潤沢な資金支援で加速させたワクチン開発と人海戦術によるスピーディな接種

この三本柱で愚直に押してきた英米の政府行動は、確かに「対コロナ戦略」であった。しかし、最初にいかなる社会目的を設定し、どのような論理で、上のような政策体系が最適戦略であると結論付けたのか?

ロジックではなく、政治家の直観であったのではないか、と。小生にはそう見える。

というより、実は素人の常識にもかなう政策を素直に選んできた。素人であっても自然に発案するようなポリシー・ミックスになっている。アメリカとイギリスをみていると、そう思われるのだ、な。

この点に、英米における、退廃していない、狭い専門家の領域に閉じこもっていない、(まあ、多々問題があると指摘されてはいるが)基本的には健康な公的部門の活動をみる思いがするのだ。

2021年5月11日火曜日

「父の記憶」には不思議なところがある

もともと腸が弱い。小学6年生の時には、突然、左脇腹が激しく痛み、真っすぐに立てなくなり早退した。病院の診察は終わっていたが、偶々、社宅の階上に父の会社の勤務医がいたので、夜分ながら診察を請うと「大腸カタル」と言われた。注射をしてもらうとウソのように痛みが消えた。中学3年の夏には虫垂炎になった。手術を覚悟したのだが、母が医者に頼んで何とか投薬で収めることができた。その代わり、その年の夏季休暇はずっと布団の上で過ごした。微熱が続いたのだが、同じ棟の知人宅に同居しているお婆さんから赤い仁丹のような丸薬とお札を母がもらって帰り、その丸薬を服用して2、3日すると全快した。治る頃だったのかもしれない。10代も後半になると便秘が酷くなった。一度は病院に駆け込んで措置をしてもらったことがある。いま思い出しても恥ずかしくて汗が出る。

北海道の大学に転職して、ストレスの少ない仕事をしてきたことが幸いしたのか、何とかなってきたのだが、昨冬の暮れ、大腸の内視鏡検査をしてからまた便秘体質が戻ってきたようだ。3日か4日に一度は便秘薬のお世話になるようになった。ガスも増えた。

小林一茶の名句に

屁比べが またはじまるぞ 冬籠り

というのがある。

いまはもう5月である。

屁比べが まだ終わらぬぞ 風薫る

屁が多いのは父の遺伝だろう。胃腸が弱いのは母から受け継いだものだ。

両親とも健在なら90台である。

父が亡くなる前、小生がまだ東日暮里の下宿にいたころ、訪ねてきたことがある。4月から某経済官庁に入ることになっていたその2月頃であったかと覚えている。父は、その2年前の秋に胃癌が見つかって手術をしていた。その頃、名古屋の社宅で暮らしていた両親の下にしばしば帰省していたのだが、父の方から小生の下宿をわざわざ訪ねる気になったのは、どんな気持ちの変化であったのか。日暮里駅だと記憶しているのだが、父を迎えに行ったとき、あまりの痩せように愕然とした気持ちは、その時の父の風姿とともに、まだ明瞭な記憶として残っている。その後、小生の下宿まで歩き、多分、その夜は布団を並べるかどうかして、二人で寝たのではないかと思うのだが、どういうわけかその夜のことは覚えていないのである。食事に何を食べたか、何を話したか、何一つ覚えていない。覚えているのは、父を迎えに行ってみた時の父の姿、それだけである。

小生の採用先が決まったとき、父はまだ勤務先であるT社の名古屋事業場に在職しており、母によると息子の就職について同僚と話をしたそうである。父にとっては快事であったそうだ。父の病状が急速に悪化して、東京の大学病院に転院したのは、父が一人で小生に会いに来た春の翌年のことで、その時には父は既に会社を辞めていた。とすれば、その前の年、わざわざ名古屋から東京の日暮里まで来たその年の3月末で、父は会社を退職したのだろうか。小生と会ったあと、父は日本橋にある本社に寄って定年前退職の意思を伝えたのだろうか。もしそうなら、そんな意向を何気なく小生にも話したのではないかと思うのだが、何も覚えていない。

子にとって「父の記憶」というのは、どこか不思議で、とらえどころがないという感覚がある。不思議だ。

それでも、風呂に入ったあとなど、加齢で汚くなった自身の顔をつくづくと鏡で鑑賞することがある。そして、我ながら自分の顔がますます父の顔に似てきたことを痛感する。

父の顔を 粘土 どろ にて作れば

かはたれ時の窓の下に

あやしき血すぢのささやく声……

粘土でつくった父をみて自分の顔をおもうのではない。自分の顔をみて父を観るのである。「おそろしき理法」に思いが至るのも当然だろう。

どこか似てゐるわが顔のおもかげは

うす気味わろきまでに理法のおそろしく

わが魂の老いさき、まざまざと

姿に出でし思ひもかけぬおどろき

わがこころは怖いもの見たさに

その眼を見、その額の皺を見る

 (出所)高村光太郎『父の顔』

小生と二人の愚息との間には、上のように記憶に残るほどの場面はなかった。幸いにして、カミさんともども、元気でいる。だから、まだ日常が続いている。日常が続くのは、それ自体としてよい事だと思うが、鮮やかな印象が残る経験に乏しい、平坦である、そんな物足りなさがある。が、これも「歓喜は哀しみに通じたり」という言葉もあるので、平坦で思い出に残らないのは、文句をいうことでもないのだろう。

2021年5月8日土曜日

一言メモ: コロナ・ワクチン接種の現状とマスコミの不誠実

 COVID19のワクチン接種が、いま最も旬な話題でどのTV局の「情報番組」でも、まずはこれを語るようになっている。

それほど関心の的になっているなら、TV局もきちんと取材をして、あるいはコメンテーターも研究をして、的を射た放送をすればいいのに、こんな報道をロイターがしている。5月7日の配信だ:

Unused COVID-19 vaccines in Japan are set to reach tens of millions of doses, as the country is poised to approve two more shots in coming weeks and the pace of its inoculation campaign remains slow due to manpower and logistical bottlenecks.

Japan imported 28 million doses of Pfizer Inc's (PFE.N) COVID-19 vaccine through late April, but has so far used only 15% of the stockpile, with the remaining 24 million doses sitting in freezers.

URL: https://www.reuters.com/world/asia-pacific/unused-covid-shots-piling-up-japan-amid-slow-rollout-2021-05-07/

Source: Reuter, May 7, 2021 5:34 PM JST

これを日本の毎日新聞が記事にしており、こんな文章で紹介している:

ロイター通信は7日、日本国内に到着した新型コロナウイルスワクチンは2800万回分に達したが、接種が完了したのは15%程度の400万回超で、約2400万回分が「(接種を担当する)人手や手配上のボトルネック」によって使われないまま残っており、接種ペースは「遅いままだ」などと批判的に報じた。

出所:毎日新聞、5月7日20時59分配信 

*

日本国内では「いまはまだワクチンの到着数量に限りがあります。数量が確保されるまでは、もう少し待ってください」と。ワクチン不足が原因で接種が進まないと理解している人が大半ではないだろうか。

上のロイター報道は、既に数は足りているが、マンパワーや接種体制に難があって、接種が進まないという事実を指摘している。

ロイターの報道は(100パーセント正確ではないとしても)概ね正しいとしよう。

そうすると、

本当の現状と最近のテレビ局による説明とは、その主旨において、大きな矛盾がある。

海外の通信社がこんな重要な事実を報道したわけだ。

もし上の指摘が本当なら、その理由は

  1. ワクチン接種有資格者の非協力
  2. ワクチン接種有資格者の範囲拡大への反対
  3. その他ロジスティック分野の非協力

このいずれか、あるいは全ての事情があり、その調整に手間取っているという理屈になる。

なぜ日本国内のマスコミの説明振りと差があるのか?日本のマスコミがこれを推測できなかったはずはない。推測できるのに確認せず、取材もしていないのは、政府の公式説明を丸ごと信じているためである。

毎日新聞は早速報道しているからまだ良心的である。

いかに日本国内のテレビ局が国民に対して不誠実であるかが分かる。その証であると小生には思われる。

担当大臣に出演してもらう代償に、民間TV局がとっている《聞かない、触れない、話さない》の3ナイ原則は、そろそろ多くの人が気付き始めている。

2021年5月6日木曜日

ホンノ一言: ワクチン製造特許放棄を支持する日本国内の意見に関して

COVID19ワクチンの製造特許を放棄するという提案があるそうで、それには大手製薬メーカーが反発しているらしい。

反発自体は当然である。

特に日本で放送されているワイドショーで、コメンテーター達が『人類社会のために特許は放棄するべきです』などと、海外の大手企業に関することで、相変わらずの《べき論》を述べ立てているのは、外ならぬ日本が対価ゼロでジェネリックを国内生産し、ワクチン不足に悩んでいる日本人が安心したい、と。そんなホンネが余りにもミエミエであり、聴いているこちらが恥ずかしい。

現在の日本のワクチン不足は、自助努力の不足によるところが大きい。これを忘れてはいかんだろうと思う。

先ずは、G7かOECD加盟国が、正規価格あるいは正規価格にプラスした高価格でワクチンを購入し、それを支援材料に、大手製薬メーカーが相対的貧困国に無償でワクチンを提供する。

理屈なら、こんな枠組みになるでしょう。TVでもこう言わないといかんのじゃないか?

ワクチン開発というビジネスリスクを引き受けた製薬企業は、その開発コストを回収する権利がある。投下した費用に対する正常利潤を期待する権利がある。政治的動機から、自然な経済プロセスを阻害するべきではない。「ベキ論」を言うなら、ここでしょう。

《人類社会》の公益の観点から、ワクチンを提供する方が善いのは当然だと思うが、その開発コストは富裕国が負担してあげるのが、これまた当然の理屈になろう。

富裕国が開発して、人類社会の公共財を提供する。立派な理念である。

日本は富裕国の一つとして公認されている以上、ワクチンを無料ないし安価に獲得する権利はないと考えておくべきだ。反対に、そのためのコストを負担するのが筋だろう。


2021年5月5日水曜日

一抹の危惧?: 「ゼロ・コロナ」から「攘夷」を連想してしまう

Covid19で何度も言われる「水際対策」だが、有効な方法があれば、やる方がやらないよりはマシである。しかし、水際は突破されると最初から予想しておいて、日本国内で長期持久戦を戦い抜く体制を構築することが最重要だ、と。小生は本ブログでも何度か投稿しているが、そういう見方をしている。

現代日本は、長崎だけで貿易をしていた江戸時代とは違って、グローバルに広がった経済ネットワークの上に浮かんでいる。開放することで発展してきた国である。島国日本の「水際」と、ヨーロッパ大陸のドイツ・フランス「国境」と、どれだけ本質的な差異があるのだろう。

幕末の国情を揺るがした「攘夷」と、現在の日本社会に生きる一部の人々が唱える「ゼロ・コロナ」と。

この二つは何と似ていて、時の政権に対して、何と似たような打撃を与えていることだろう。

もし、憲法の枠組みを超えて天皇陛下(=帝、ミカド)が

新型コロナ・ウイルスを国内から速やかに撲滅することを祈念しております

実際にもこんな確率はゼロではないと思うが、もしこんな「お言葉」があったとすれば、ゼロ・コロナ過激派は「錦の御旗」が得られたと奮い立ち、コロナとの共存を基本とする「ウィズ・コロナ」に従う政府に対して、強硬なロックダウンを断行するよう迫るに違いない。

幕末に孝明天皇の思いが伝わり、過激攘夷論者が幕府に迫った「攘夷断行」と、これほど似た政治現象は(多分)ない。

幕府は、攘夷など技術的に不可能であることを熟知していたが故に断行ができず、それによって盤石に見えた幕府はその信頼を失い、統治能力を失っていったわけである。

幸に、いま皇室は一切政治的な発言をしない。

とはいえ、「ゼロ・コロナ」というスローガンが何かと結びついて、日本人の間で勢いを増せば、政治は行き詰まり、戦後日本体制は動揺するだろう。

想像もしないことが、この世ではしばしば起こる。

「ゼロ・コロナ」を目指す政策は、強烈な私権制限を伴う故に、戦後日本の統治システムの下では出来ない。必然的に体制変革につながっていく。

与党であれ、野党であれ、ゼロ・コロナなど達成できるはずがない。せいぜい出来ることは、ワクチンを接種して、重症化の危険から個人個人を守ることだけである。それでもワクチンを忌避する人はおり、そんな人は、今後将来、コロナ感染のリスクにはむき出しのままである。

だからこそ、多数の日本人はゼロ・コロナ派を支援する。

《ゼロ・コロナ》という言葉は、普通の人が思う以上に、可燃性の高い、危険なスローガンである。

救いの可能性があるとすれば、《特効薬》の誕生だけだろう。

2021年5月3日月曜日

周知のことながら「コロナ禍、三つの失敗」

 カミさんによれば、この1年間、日本政府がコロナと戦う中で失敗したことが三つある、という。

  1. いまでも検査を無料で受けることができない。毎日、受けたいときに受けることができない。
  2. いまでも発熱した時に、病院でみてもらうことが出来るのか、分からない。風邪を気軽に(?)ひくこともできない。みんなコロナの検査を受けていないので、病院に行くのも心配だ。
  3. いまでもワクチンがいつ受けられるのか、ハッキリしない。ワクチン接種の案内もこない。

確かに、このように箇条書きにすると、どれも致命的なエラーだ。ある人は、『これは一定の戦略的(?)方針の下でやっていることで、これこそ感染症対策の日本モデルなんだよ』と語る人もいたりしたが、この1年、やること為すことが狙い通りに運んでいないことは、余りにも歴然としている。

小生: だけどサ、2と3は分科会の専門家の責任じゃないよな。医療体制は、政治家じゃないと、再編成できないことだし、ワクチンだって日本医師会が手配することじゃないよ。

カミさん: 責任とか、そういうのじゃないよ。出来てないってこと。

小生: まあネエ、菅首相は7月末には全国の高齢者のワクチン接種を終えると言ってるけど、TVに出ている大学病院の先生は「絶対、ムリ!」って断言しているからナア。

確かに、政治と言うのは《結果責任》である。

まあ、成程、集計された感染者数は欧米に比べて少ない。しかし、その感染者数が少ないという点とは別に、何か目標を期待通りに達成した政府のオペレーションはあるだろうか? どれもこれも悪戦苦闘だと思うが違うのだろうか。「自粛」を要請して「自粛」の成果が得られたのは、政府のアクションではないという理屈だ。日本国民の不満は、決して「強権」や「独裁」に対する不満ではない。こと感染症に関して、その「無能」がひどい。それが不満だ、小生にはそう感じられる。

不満の6割は「無能」な政府と省庁・自治体に、3割は「仕事をしない」国会に、1割は「人畜無害の」野党に。「上層部」の中の責任分担となれば、マア、こんな感覚だろうか。


トノ: ワクチンの方は大丈夫か?

家老: ご安心くだされませ。滞りなく準備を進めておりますほどに。

トノ: 頼んだぞ、ワクチンこそ頼みじゃからな。7月末には何とかなるであろうかの?

家老: みな粉骨砕身、全身全霊をこめて没頭しております。ご心配には及びませぬ。

トノ: 諸外国には思わぬ遅れをとった・・・無念じゃ。一度、前線に出向こうかのう・・・

家老: 殿は泰然とされてこそ殿、万事、それがしどもにお任せ下されませ。メディアには、心配はないとお伝えになって、国民を安心させて下されませ。

トノ: そうか、あいわかった、頼むぞ。

家老: ハハア


亡くなった野村監督の言であるが『勝ちには不思議の勝ちがあるが、負けに不思議の負けはない』。同じように、失敗には失敗の理由がある。

テレ東の「ワールド・ビジネス・サテライト」で言っていたが、有事の際の医療体制のあり方について、来年度から検討を始め、(早ければ)再来年度からでも実施に移したいという「意向」を政府関係者は話しているそうだ。

外国はワルツか、コサック踊りのリズムで旋回している横で、日本は能舞台で悠然と舞っている。そんな風情がする。

コメンテーター氏が『やるなら今でしょ!』と喝を入れていた。(万が一にも!)負けないように、24時間、実行中のオペレーションの成果を検証し続け、(必ず!)勝つための方法を見出すことが担当者の為すべき仕事である。この肝心要な職業意識が、現時点の公的機関では衰退してしまっているのだろうか? 随分前に離れたので、もう想像ができない。これもジェネレーション・ギャップであろう。

もし本社企画部に『いまやっている戦略が失敗だとキチンと確認されてから失敗の原因を分析するのが筋じゃないですか?』などと言うオトボケが紛れ込んでいれば、そんな人物は直ちに最前線の営業現場に移ってもらえば良いトレーニングになる。というより、失敗すれば自分たちは終わる、自分たちで検証するつもりかという覚悟の話しになるわけだ。今回のコロナ禍で一体いくつの笑い話がアフター・コロナになってから生まれるのだろうか? 一寸期待している。

今年の1月までの成り行きをみていて、こんな予測をしていた:

しかし、敢えて予想しておきたい。日本政府はワクチン接種体制造りでも、どこかでエラー、凡ミス、目詰まりを連発するような気がしている。

感染対策で数々の凡ミスを繰り返してきた政府が、ワクチン接種だけは迅速に、ミスを犯すことなく、間違いなく推進できるとは、どうにも思われないのだ。もし嬉しい誤算になればこれほど幸せなことはない。

予測では《政変》もありうると書いていたが、もう5月。4月は何事もなく過ぎた。日本政府は、今日も「もうしばらく自粛を頑張ってください。そして、ワクチン接種までもうしばらく待ってください」と話している。そして、憲法記念日の今日、改憲の際には、パンデミックなどに備えて「緊急事態」を明記する必要があるのではないかと話している。いま、そのパンデミックなのに・・・

どうやら憲法が悪いから、感染症対策も出来ないと言いたいようだ。

しかしながら、日本政府は(その原因はよく分からないのだが)たとえ緊急事態条項が憲法に明記され、国民の私権を意のままに制限できるようになったとしても、想定外の事態においては、周章狼狽し、確たる方針を示せず、ヤッパリ的外れの命令を連発するであろう。これは1930年代から敗戦までの歴史が立証している事である。これが「下ではなく上が弱いという日本的弱点」ということなのだろうか。

どこかの、誰かに権限を集中することを常に拒絶する日本社会の特性がその根本原因(の一つ)であるのは間違いないが、なぜそれほど権限集中を嫌がるのか、単に戦後日本だけではない、戦前期の日本においても、東条英機内閣が太平洋戦争を始めた非常時において、なお日本の統治構造は権限を分散させていた。江戸幕府の権限分散もまた甚だしいものがあった。その以前の時代も推して知るべし。どんな時代状況にあっても、決して権限を誰かに集中させないというのは、統治システムの欠陥というより、むしろ日本人が主体的に選んでいる、その損失を覚悟してまでも何かを担保している。そうとしか理解できないと思うのだが、では日本人はなぜ権限の集中をそこまで嫌悪するのか、その理由が小生には分からない。

2021年5月2日日曜日

ホンノ一言: 「功利主義」の根本の再確認

アングロサクソン、典型的には英米の伝統的な道徳思想・社会哲学は何かを議論するなら、何をおいても「功利主義」を外すわけにはいかない。

ちょうど、ドイツ人の多くが共有する倫理観・社会観を話すとき、「無条件の絶対善である普遍的命令」を基礎とする「カント哲学」を無視できないのと同じである。フランス流の「国家理性」もそうである。

この功利主義だが、ベンサムが言った『最大多数の最大幸福』は高校生でも思い起こすに違いない。

最大多数の最大幸福というのは、意志ではなく、結果であって、それも事前にありうる結果の中の一つなのであるから、まずは結果がどうであるかを重視するという功利主義の特徴がベンサムの言葉から窺い知れるわけである。

ただ、(小生の勝手な理解の仕方だが)これだけで終わるとやはり本質を逃がしてしまう気がしているのだ。

最大多数の最大幸福という言葉の裏側には、多数の個人の一人一人の幸福がまず先にあると、そう前提されているわけで、その個々人の幸福の総量が出来るだけ多数の人に、極大化された状態で、実現されたときに、全体としては最善の状態に達する。こういう意味になる。

ここで「社会」という全体は、概念としては考えられるかもしれないが、そんなものはなくてもよいのである。

つまり、「功利主義」においては、個々人を超えた、なにか「社会」とか「全体」、あるいは「組織」なり、「システム」という実体が実存していて、社会的な最適性を評価する際には、社会が社会の観点にたって判断する、そういうわけではない。「政府」とは・・・町内会の理事会のようなものだ、と。そんな社会観が見えて来る。

善悪を評価するベースとしての「社会」というものは存在しない。最高善として《幸福》をおく — この点は古代ギリシア以来の哲学的伝統にしたがうものだが ―、その限りにおいて、具体的に存在するのは生きている個々の人間であって、生きている人間のみが「幸福」を享受しうるのであるから、全体が最適であるかどうかは個々の人間がどんな状態であるかという点だけに基づいて、評価するしか方法がない。合計概念か平均概念か、要するに統計的な概念を流用して全体最適性を評価するしかない。

この点に「功利主義」の本質があるのだと小生はずっと考えている。

これが極端になると、手段や方法自体には善も悪もなく、あくまで実現する結果がどうであるかが問題であるという、こんな議論にもなっていくわけである。結局、英米流だろうと、大陸合理論的であろうと、極端までいけば、「自分の考えを強行して失敗する」という可能性が等しくあり、どちらが優れた主義であるかについては、「まあ一長一短だよね」という辺りに落ち着く。

とはいえ、サッチャー元首相の

... they are casting their problems on society and who is society?  There is no such thing!

彼らは自分たちの問題を「社会」に投げかけます。 では「社会」とは誰ですか?そんなものはいないのです。

「社会」という存在そのものを「そんなものはない!」と断言する元首相の理念には、おそらく日本人の大半は吃驚仰天したわけだ。しかし、これが「功利主義」の最も底深いところで、その本質を最も率直に語っていると思う。

日本ではよく「社会に役立つ人になりたい」と話す。しかし、思うのだが「何が社会にとって役立つか?」という問いかけを発する時から、誰かが何かをしようとするときに「それは社会の役に立たない」という否定が生まれ、「あなたは社会には無用の人だ」という中傷にもなっていく。そうして、その社会は、多かれ少なかれ、抑圧的になり、同調圧力が生まれ、民主主義ではあるかもしれないが社会主義へと傾斜していくのである。

生きている人間を超えた存在としての「社会」を思い浮かべる国は、大なり小なり、《公私の公》をうるさくいう社会をつくり、自由を我儘だと見なす傾向を(どうしても)もってしまう。それは、そういうロジックを無意識に採っているからである。

自分たちが無意識にもっている社会観をありのままの姿で一度は暴露して、相対化し、まったく異質の思想と激論を展開することは、真に社会を近代化するうえで大切な事だと思う。