Wall Street Journalに面白い寄稿がある。一部を抜粋すると:
バイデン政権の軍事投資に対するアプローチも、中国に複雑なシグナルを送っている。今年度、国防費は増加したが、それは議会の圧力によるものだ。当初提案されたバイデン国防予算ではかなりの削減が予定されていた。このことから中国は、米国が米中間の競争を、少なくとも短期的には軍事的なものではなく、経済的・政治的なものと考えていると結論づけるだろう。つまり、米軍の規模を積極的に制限し、グリーンエネルギーに関する実現性に乏しい計画や無駄遣いに満ちあふれた広範囲におよぶ産業計画に資金を投入することの合理的な説明として、それしか考えられないということだ。
そうした不手際があったにもかかわらず、バイデン氏の外交政策チームが同盟国との関係維持という地道な作業に着手したことは評価に値する。
Source:WSJ、2023 年 1 月 27 日 15:42 JST
Author:Seth Cropsey
WSJは経済新聞ではあるが、時にハイ・クウォリティのインテリジェンスが展開されているのは、他の米紙と共通している ― なにもスッパ抜きじみた新事実を暴露しているわけではなく、純粋の知性が光っているという意味だ。
日本国内の大手新聞は、特に「社説」は文字数が少ないせいもあるが、論調がまるで善悪について説教する道徳の先生のようだ。確かに道徳的説教に頭脳は不要だ。
執筆する側の負担も考慮されてか、寄稿であっても長さが十分ではなく、舌足らずになっている。たまに十分な長さの寄稿があるかと思えば、新聞の読者層の教養・知識に配慮しない過剰に学術的な内容であったりする。
これでは若い人たちは読もうという気になれないだろう。分かり切ったことだ。その態度を批判する方がどうかしている。小生も近年の新聞記事が面白いと感じることはなくなった。販売部数が落ちるのも当然か、と。
日本だけではなく世界中の社会運動のコアは感覚の鋭敏な「学生」である。その学生が新聞は読むに値しないと見切りをつけつつある。ネット投稿は新聞の代替物にはなれないと小生は(今は)思うようになった。玉石混交の「玉」はなるほど玉だが、「石」の石である度合いがひどすぎる、加えて石が余りに多い。ネットから得られる情報の<時間当たり期待値>は低い。
本来ならSNSの場において甲論乙駁の論争が視える化され、知識の民主主義的定着が実現されるものと個人的には期待していたが、なぜそれがうまく行かないのか、実は原因がよく分からない。
近い過去から現在までのトレンドを延長して、このまま知的基盤が崩壊していけば、次世代の日本人の知的教養も崩壊して、江戸時代のような「町人」になり果ててしまうのではないかと、そぞろ心配になる。
上の社説は最後にこう結んでいる:
・・・第2次世界大戦前、米国は国防産業基盤を刷新するのに6年かかった。バイデン政権がルーズベルト・ビンソン型の国防拡張政策を行おうとしている兆候はない。バイデン政権が行っている投資は、造船能力を拡大するものでも、ミサイルの備蓄を高水準に維持するものでもない。
バイデン政権が単に惑わされているだけという危険性もある。台湾の防衛に関する軍事的な基礎要因を見誤っているため、短期的には中国を抑止できないという可能性がある。しかし、より危険なのは、米中間の競争は主に経済的・技術的なものであるという見方だ。これでは、台湾に戦う意欲を与えられない。台湾の半導体を必要としなくなった米国は、2024年や2026年ではないかもしれないが、次の民主党政権下で旧友を見捨てることになりかねない。
優れた軍事力を持たずに経済的な対抗関係を築いたりするといった絵空事を、米国の政策が促進しないようにすることが、連邦議会の責任だ。
何だか日本のリベラル派がみると『とんでもない妄言だ、目にしたくもない!』と激昂するような意見だ。しかし、これも一つの意見で、表現の自由の下に守られなければならない。守るというのは「掲載」し「発表」の場を提供することで実現されるものだ。
もともとWSJは共和党シンパであるが、上のような論調は寧ろ民主党的な香りがする。実際に、バイデン政権は第二次大戦前の「ルーズベルト・ビンソン型の国防拡張政策」 を忘れたかと言いたいようだ。
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カール・ヴィンソンは戦前期のアメリカ下院議員で、1920年代の海軍軍縮時代の中にあって、海軍建艦計画の必要性を指摘し、ついに1934年に《ヴィンソン・トランメル法》が成立、その後、第二次ヴィンソン案、第三次ヴィンソン案によってアメリカ海軍の充実に大いに貢献した、そんな人物で民主党に所属していた(Wikipediaによる)。
WSJのような記事が国内紙にどんどん掲載され、TVでも激論の場が「討論会」としてリアルタイムで放送されれば、社会の雰囲気は変わっていくに違いない。実際、大正デモクラシーを支えた基盤は明治以来の「演説会」にあったのだから、通信手段の発達した現代日本で開催できないはずはないのだ。
結局はヤル気の有無になる、という結論で。