テレ朝の長寿シリーズ『科捜研の女』や『遺留捜査』はカミさんもそうだが小生も大好きで、友人が視ているというので視はじめた2000年前後からずっと視てきている。残念ながら、『遺留捜査』の方は終わってしまったが、過去作が一年を通して(常時と言ってもイイほど)再放送されているので退屈しない。
実際、一度は視たはずだが、ストーリーの細部は忘れているので、初見時と同じ程度の満足度が得られる、なので、あと何回かは「反復視聴」しても鮮度は落ちそうにない。
シリーズ物の作品で(小生にとっては)似た存在が司馬遼太郎の『街道をゆく』と五木寛之の『百時巡礼』である。以前には池波正太郎の『剣客商売』にのめり込んだ時期もあったのだが、此方の方は残念ながら面白すぎて、まだ個々の作品のストーリーを忘れきっていない。再読、三読に耐えられる本というのは、ある程度まで「面白くはなくて、退屈で、頭に残らない」といった、その程度のツマラナサが要るのだと思う。何かの教科書はその典型だ。
いま五木の『百時巡礼』を挙げたが、その第3巻『京都I』(講談社文庫)を再読していると、「第24番 東寺」の中で、司馬遼太郎の『空海の風景』に触れている個所があって、何だか別の人気ドラマの主人公が登場してきたような面白さがあった。小説では、こうは行かないかもしれず、そもそもフィクションでなければならない新規小説で別人の小説作品の人物が登場するロジックはない(とも言える)。
空海はすでに、人間とか人類というものに共通する原理を知っていて、その原理は、王も民もない。だから、天皇といえどもとくに尊ぶ気にもなれず、まして天皇をとりまく朝廷などというチマチマとした存在など取るに足らないと考えていた。
確かに、『空海の風景』の中で司馬が描いた空海という人間像は、「天才」に共通したそんな人を食ったところがある人物ではあったが、こんな下りがあったとは(当然ながら)記憶してはいなかった。
ただ思うのだが、現代日本社会に空海と似た人物がいて、
彼はすでに、人間とか人類というものに共通する原理を知っていて、その原理は、西とか東とか、北とか南とか、そんなものはない。だから、皇室や国会といえどもとくに尊ぶ気にもなれず、まして総理大臣をとりまく内閣などというチマチマとした存在など取るに足らないと考えていた。
こんなタイプの人物が登場してきて、マスコミが注目したとする。マスコミなどは、鼻クソ程度にしか相手をしてもらえないかもしれない。そんな人物を、現代日本人は、受け入れられるだろうか?受け入れないだろうと予感してしまうことに悲しさを感じる。
おそらく現代日本社会は、そんな人物の傲岸不遜を非難し、多くの日本人の心に忖度しない反大衆性、反社会性を指摘して、非難するのではないか(という気がする)。
その果てに、(論理的には矛盾しているのだが)全ての人間を平等とする「民主主義」の敵であるとして、社会的に葬ろうと決意するかもしれず、その方法としてはパワハラか、モラハラの「被害者」が公益通報するのが有効だ。彼は、当局に拘束され、裁判の被告人となり、結論ありきのような公判を経て、有罪判決が出された時点で社会的生命が終わる。以後は「問題を起こしたことがあった人」として生きるしかなくなる。そんな風な展開が予想されるのだ、な。実に悲しい限りだ。
空海のような独創的な宗教人が、天皇の保護のおかげで社会、というか群衆から迫害もされずに人生を全う出来た分、制度的には非民主的であった平安期・日本のほうが、案外、器が大きく、生きやすかったのかもしれない。
現代日本社会だけではないだろう。先日、"Jesus Christ Superstar"のことを書いたが
〽昔のイスラエルにゃ、テレビもないしサ
ユダがこんな風に絶唱してはいるが、しかし、本当に昔のイスラエルにテレビがあったとすれば、もっとずっと早期にイエスは既存勢力に目を付けられて、些細な発言を理由に微罪で訴えられ、裁判の中で武装蜂起の意図ありとフレームアップされ、やはり抹殺されていたに違いあるまい。
少し前に現代日本社会の「言論の不自由」を話題にしたが、内心のあり方や発言の片言一句にまで「コンプライアンス」を求める現代日本社会の風潮は、既に「悪質な民主主義」の兆候を表し始めているのかもしれない。
「悪質な民主主義」と「悪質な権威主義」は、呼び名が違うだけで、権力行使の発現形態はほぼ似たようなものだ。権威主義国家では権力が独裁者に人格化されているが、民主主義国家では「国民」という抽象化された独裁者を法が規定しているわけだ。独裁者には抵抗できないのと同じ理屈で、領土内に例外なく一律に法律を運用できる「民主的権力」に抵抗できる個人はいない。やっていることは同じだが、やり方が違うだけなのだ。
権威主義国では支配が人の顔を持っているのに対して、民主主義国の支配は「匿名の支配」である。
結局、どちらが好きかという問いに帰着するような気がしないでもない。
つまり、民主主義 vs 権威主義の対立で歴史が動くのではない。良質な社会と悪質な社会との区別をする必要があるだけの事だ。社会の進歩は「民主主義」と「独裁」との対立からではなく、生産と生活のロジックに沿って人々が考えることから生まれる。進歩はすぐ足元から生まれる。「〇〇主義」とは無関係だ。そう思われる。この意味では、小生は完全な史的唯物論者である。
実際、古代ローマは共和制が廃止されて帝政に移行してから黄金時代を迎えて繁栄した。古代ギリシアの民主主義は、やがて独裁者アレクサンダーの支配下に入り、広大なヘレニズム世界を構築できた。近代から現代に至るフランスでさえも、共和制から帝政、帝政から共和制、共和制から帝政、そしてまた共和制へと大きな振幅を示してきた。すべて国民が選択した結果である。
というか、まず「社会」なるものの実在性を疑う気持ちが小生にはある。この辺は、本ブログでも何度か述べている事だ。