2024年7月30日火曜日

断想: 「日本社会」はしょせんチマチマした存在だと言われるとしたら……

テレ朝の長寿シリーズ『科捜研の女』や『遺留捜査』はカミさんもそうだが小生も大好きで、友人が視ているというので視はじめた2000年前後からずっと視てきている。残念ながら、『遺留捜査』の方は終わってしまったが、過去作が一年を通して(常時と言ってもイイほど)再放送されているので退屈しない。

実際、一度は視たはずだが、ストーリーの細部は忘れているので、初見時と同じ程度の満足度が得られる、なので、あと何回かは「反復視聴」しても鮮度は落ちそうにない。


シリーズ物の作品で(小生にとっては)似た存在が司馬遼太郎の『街道をゆく』と五木寛之の『百時巡礼』である。以前には池波正太郎の『剣客商売』にのめり込んだ時期もあったのだが、此方の方は残念ながら面白すぎて、まだ個々の作品のストーリーを忘れきっていない。再読、三読に耐えられる本というのは、ある程度まで「面白くはなくて、退屈で、頭に残らない」といった、その程度のツマラナサが要るのだと思う。何かの教科書はその典型だ。

いま五木の『百時巡礼』を挙げたが、その第3巻『京都I』(講談社文庫)を再読していると、「第24番 東寺」の中で、司馬遼太郎の『空海の風景』に触れている個所があって、何だか別の人気ドラマの主人公が登場してきたような面白さがあった。小説では、こうは行かないかもしれず、そもそもフィクションでなければならない新規小説で別人の小説作品の人物が登場するロジックはない(とも言える)。

空海はすでに、人間とか人類というものに共通する原理を知っていて、その原理は、王も民もない。だから、天皇といえどもとくに尊ぶ気にもなれず、まして天皇をとりまく朝廷などというチマチマとした存在など取るに足らないと考えていた。

確かに、『空海の風景』の中で司馬が描いた空海という人間像は、「天才」に共通したそんな人を食ったところがある人物ではあったが、こんな下りがあったとは(当然ながら)記憶してはいなかった。

ただ思うのだが、現代日本社会に空海と似た人物がいて、

彼はすでに、人間とか人類というものに共通する原理を知っていて、その原理は、西とか東とか北とか南とか、そんなものはない。だから、皇室国会といえどもとくに尊ぶ気にもなれず、まして総理大臣をとりまく内閣などというチマチマとした存在など取るに足らないと考えていた。

こんなタイプの人物が登場してきて、マスコミが注目したとする。マスコミなどは、鼻クソ程度にしか相手をしてもらえないかもしれない。そんな人物を、現代日本人は、受け入れられるだろうか?受け入れないだろうと予感してしまうことに悲しさを感じる。


おそらく現代日本社会は、そんな人物の傲岸不遜を非難し、多くの日本人の心に忖度しない反大衆性、反社会性を指摘して、非難するのではないか(という気がする)。

その果てに、(論理的には矛盾しているのだが)全ての人間を平等とする「民主主義」の敵であるとして、社会的に葬ろうと決意するかもしれず、その方法としてはパワハラか、モラハラの「被害者」が公益通報するのが有効だ。彼は、当局に拘束され、裁判の被告人となり、結論ありきのような公判を経て、有罪判決が出された時点で社会的生命が終わる。以後は「問題を起こしたことがあった人」として生きるしかなくなる。そんな風な展開が予想されるのだ、な。実に悲しい限りだ。

空海のような独創的な宗教人が、天皇の保護のおかげで社会、というか群衆から迫害もされずに人生を全う出来た分、制度的には非民主的であった平安期・日本のほうが、案外、器が大きく、生きやすかったのかもしれない。


現代日本社会だけではないだろう。先日、"Jesus Christ Superstar"のことを書いたが

〽昔のイスラエルにゃ、テレビもないしサ

ユダがこんな風に絶唱してはいるが、しかし、本当に昔のイスラエルにテレビがあったとすれば、もっとずっと早期にイエスは既存勢力に目を付けられて、些細な発言を理由に微罪で訴えられ、裁判の中で武装蜂起の意図ありとフレームアップされ、やはり抹殺されていたに違いあるまい。


少し前に現代日本社会の「言論の不自由」を話題にしたが、内心のあり方や発言の片言一句にまで「コンプライアンス」を求める現代日本社会の風潮は、既に「悪質な民主主義」の兆候を表し始めているのかもしれない。

「悪質な民主主義」と「悪質な権威主義」は、呼び名が違うだけで、権力行使の発現形態はほぼ似たようなものだ。権威主義国家では権力が独裁者に人格化されているが、民主主義国家では「国民」という抽象化された独裁者を法が規定しているわけだ。独裁者には抵抗できないのと同じ理屈で、領土内に例外なく一律に法律を運用できる「民主的権力」に抵抗できる個人はいない。やっていることは同じだが、やり方が違うだけなのだ。

権威主義国では支配が人の顔を持っているのに対して、民主主義国の支配は「匿名の支配」である。

結局、どちらが好きかという問いに帰着するような気がしないでもない。


つまり、民主主義 vs 権威主義の対立で歴史が動くのではない。良質な社会と悪質な社会との区別をする必要があるだけの事だ。社会の進歩は「民主主義」と「独裁」との対立からではなく、生産と生活のロジックに沿って人々が考えることから生まれる。進歩はすぐ足元から生まれる。「〇〇主義」とは無関係だ。そう思われる。この意味では、小生は完全な史的唯物論者である。

実際、古代ローマは共和制が廃止されて帝政に移行してから黄金時代を迎えて繁栄した。古代ギリシアの民主主義は、やがて独裁者アレクサンダーの支配下に入り、広大なヘレニズム世界を構築できた。近代から現代に至るフランスでさえも、共和制から帝政、帝政から共和制、共和制から帝政、そしてまた共和制へと大きな振幅を示してきた。すべて国民が選択した結果である。

というか、まず「社会」なるものの実在性を疑う気持ちが小生にはある。この辺は、本ブログでも何度か述べている事だ。




2024年7月24日水曜日

ホンノ一言: 「最低 vs 最悪」の選択から「最悪の右翼 vs 未知の左翼」に変質か?

ポスト・バイデンが確実視されるカマラ・ハリス候補はリベラルに属する。Wikipedia、その他でこれまでの職歴、行動、発言の概略をみると、高い知性をもっている人物に思える。しかし政治家としては、思想はともかく、さしたる実績がないのが弱みである。

女性、というより大政治家として歴史に名を残したマーガレット・サッチャー・元英首相は、保守党・党首就任の前に教育科学相の経験しかなかったことが不安視されていたが、明確な右翼であり、閣僚在任中には「学校における牛乳の無償配給」を廃止する決断をしたという。賛否は分かれると思うが、まさに面目躍如という所だ。この種の武勇伝、というか前時代の日本でいえば「武功」というものが(ほぼ)ないのが、ハリス氏の弱みだろう。

「武功」がなくとも「能力」があれば、それで良いのだが、ただ普段の仕事が出来る(or 出来そう?)というだけでは「石田三成」になってしまう可能性がある。

こうしたタイプの人物はスキャンダルに対して極めてヴァルネラブル(=脆弱)である。石田三成は、職務に対しては至誠にして廉直、その日常は清廉潔白過ぎて人望が薄かったそうだ。が、武功もなく、単に清濁併せ呑むタイプであれば、要するに「便利なお調子者」で、命のやりとりをしてきた戦国大名達から信用されるはずがなく、バカにされるだけの存在であったろう。至誠と清廉さが関ヶ原合戦を可能とし、石田三成の命取りになったのは歴史の皮肉である。

ト氏はこの辺に標的を定めることだろう。まだ米・大統領選挙まで3カ月ある。人柄が四方八方から吟味(≒ 品定め?)されるには一先ず十分だろう。ハリス氏がどのようにして広く信頼を獲得していくのか、日本の若手政治家も興味津々で観ているに違いない。

日本の政界にもイイ影響が及ぶことを願っている。

2024年7月23日火曜日

ホンノ一言: これは精神年齢12歳の意見?

バイデン大統領が「高齢」を理由に大統領選から撤退し、ハリス副大統領が民主党候補に選出される流れになった。大幅に若返る。

これまでバイデン大統領の「高齢」を攻撃対象にしてきたのが共和党のトランプ氏である。

故に、今度は(同じ程度に高齢である)トランプ氏が「高齢」を理由に攻撃されるだろう。ブーメランだ、と。

こんな予想が日本語のネット空間では見られ始めているようだ — AFP時事によるこの記事が米国内のニュース空間でどの位の注目を集めているのか、ヒョッとして小生の目に入らないだけで、大した話題になっているのかもしれないが。


この予測は的外れだと思う。

バイデン大統領は「高齢」を理由に撤退したわけではない。高齢ゆえの衰えが明らかに露呈されているからである。先日の討論会で、若々しさは無理としても、枯淡の味わいをもってトランプ氏と応酬していれば、バイデン撤退論などはまったく出ては来なかったはずだ。むしろ支持率でトランプ氏を逆転できていただろう。

「高齢」ではない。「老衰」である。撤退を余儀なくされた理由は。

既に高齢のトランプ氏ではあるが、TV画面を通してみる限り、衰えはみられない。衰えのみられない老人は、「自分が老人に見えるか?」と問い返せばイイだけである。多分、トランプはそう問い返すのではないだろうか?迫力があるだろうナア、と予想する。

元気な老人は、若者の経験不十分や未熟さ、実績の無い点を突ける。そもそも有利なのである。トランプ氏は現職ではないが、前大統領であって「準現職」だ。選挙における現職の強さは理由のあることなのだ。ト氏ですら(?)、準現職の強みはあると思っておくべきではないか?

別の話にはなるが、たとえ「失敗」であったとされる民主党政権であっても、岸田政権の直前に民主党政権があったとすれば、「裏金」や「子育て支援策」で同じ失態を演じた自民党政権とどれほどの違いがあると認識されていただろう?安倍長期政権がはさまった分、民主党は分裂して完全に信頼を失い、岸田政権はその分だけ得をしているという勘定だ。

こう考える方が、むしろオーソドックスなのではないだろうか?


「高齢」を理由に攻撃したから、同じ高齢のトランプ氏は今度はブーメラン効果で批判されて苦戦するだろうという思考は、精神年齢12歳のレベルだと思う。

論敵を攻撃する場合、ブーメラン効果を心配する人が多い。しかし、「攻撃」をすれば、「反撃」されるのが世の常である。反撃に対して、十分な強さで応酬できる自信があるなら、やはり論敵を攻撃するのが常道で、戦いもせずに(後難を怖れて)穏便に出たり、妥協するという戦略ほど愚かな選択はない。

何だか近年の日本社会の情況を観ていると、

いつも、さかしらに、ごモットモな議論をして、結局は損ばかりする原因になっている<利口バカ>

こんな連想をしてしまうのでメモする次第。「利口バカ」は、小生の田舎の方言で、本ブログでも愛用している。「利口」とは、しばしば「臆病」と類義語であって、武士道で最も忌避される性格である ― かといって、武士道を盲信するあまり「損得度外視」で対米戦争に踏み切った戦前期・軍事政権も「バカ」であったには違いなく、こちらは「バカバカ」といったところだ。

【加筆修正:2024-07-27】

2024年7月21日日曜日

ホンノ一言: 確かに、感想と意見とは違うと言わなければならない……

旧友が亡くなった。小生とちょうど同じころに小役人を辞めて大学に戻ったので、似たような道を歩く同志というか、気になる人物ではあり続けた人だ。ただ、その友人は関西の旧帝大に職を得たのに対して、小生は北海道にある小規模な大学に移った所が違っていた。また、小生は市場メカニズムの効率性や創造性を活用するのが経済運営の第一歩だと思うし、政府の失敗は酷いものだと思っている。友人は、自己利益に支配される市場経済の醜さを嫌悪し、利益とは別の人間愛に基づく「ノンプロフィット・エコノミー」を信奉する公共政策重視の立場にいたので、友人と小生はイデオロギーとしては真逆の立場にいた。それでも、その友人にミゼラブルな人生を送ってほしくはないという感情がずっとあったから、人間交際というのは実に不思議なところがある。

そんな友人、ここではY君と呼んでおこうか、Y君の思い出を本ブログでも記録しておこうと思うのだが、実は「旧友」と云うものの、Y君について、自分はどれほど多くの事を知っていたのだろうと振り返ってみると、改めて自分の無知に驚いているのだ。若い頃には多くの時間を会話し、数人の仲間も含めた「英会話研修」の帰途、とある喫茶店で経済学上の論争に長々と時間を費やしながら、興じあった事もあった。数多くの飲み会やハイキングもあった(ような気がする)。二人で小笠原の父島まで船旅をしたこともあった。小生がカミさんと結婚した時には披露宴の司会をやってもらった。青春の貴重な思い出である。かといって、その友人が何を願いながら生きて来たのか、何が希望であったのか、どんなことに悩んでいたのか、小生のことを本当はどう思っていたのかも含めて、自分はほとんど何も知っていない。

ただ今でも忘れられない「出来事」というのはあった。若い頃の友情が、友情というべきものが最初にはあったとしてだが、ずっと続いたわけではない。だから、記録だけはしておきたい。しかし、整理したい。そんな感覚がある。思い出話を書くのはまだ早いようだ。

それで今朝もいま世間で物議をかもしている「サンデーモーニング(=サンモニ)」を途中から視たのだが、終わってからネットを眺めているとYahooにこんな記事があった。

 浜田氏はこれらの点を受け「私たちは、トランプ氏は非常に特殊で過激な政治家で、『彼が大統領になっている間は、まあ、いろいろ仕方ないよね』って、そんな感じで見ていたと思うのが、完全に共和党はトランプの党になってしまって、アメリカの友人に聞くと、『仮にトランプが当選したら、4年間はもう仕方ない。次にかけるんだ』ということも言うんですけれども、その4年で終わらない可能性が出て来たなと思います」と指摘。「それはやっぱり、副大統領候補のバンス氏を指名したということで、やっぱりネクストトランプという世代が出てきてしまって、自国第一主義であったり、排他的であったり、労働者の味方と言いながら大企業や富裕層を優遇するというような、こういった政権がもしかしたら当分続く可能性がある、ということが、今回の党大会で非常に感じたことです」と語った。

URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/af1705853528e538b10003295e2bd6689f7c25b7

そういえば、今日は浜田敬子さんが出演していたかナアと思いつつ読んだのが上の記事だ。

ただ、どうなんでしょう……。これって、

私もそうなんですが、私の友人もトランプ嫌いなンです

一言、これだけを語れば必要かつ十分でしょう。そう思います。言は簡潔を要す。多弁宜しからず、と感じます。

トランプ候補が主張している政策綱領や政治姿勢には大いに問題があるのだろうが、視聴者が聴きたいのは、それでも共和党が「トランプの党」になっているのは何故か?『4年間はもう仕方がない』と思う人はいるでしょう、それでも、いま「ほぼトラ」から「確トラ」にアメリカ社会がなりつつある、それは何故か?

最初からオーディエンスに「へつらう」、イヤイヤ「楽しませる」のを目的とする娯楽ならいざしらず、社会を語るとき、万人にとって有益な議論はただ一つ。<因果分析>だけである。万人に意味をもつ有効な問いかけは<Why?>だけである 。「何故?」を積み重ねることだけに意味が生まれる― これさえも立場によっては議論が分かれるだろうが。「どう思うか?」などを語って、単なる「所感」を無料の公共の電波に乗せても、それは(日本語空間なら)1億分の1の意味しかない「感想」ではないか。

つまり

公共のメディアの出演者から聴きたいのは、<事実か、フェイクか>、事実ならば<Why?>に対する意見であって、「好きか、嫌いか」、「いいか、悪いか」という感想ではない。感想ならば読者、視聴者の一人一人が自分の感想をもっている。いくらメディアでも「好きだ」、「嫌いだ」という感想を上から目線で話して、「あなたは間違っています」とばかりに否定しないでもらいたい。画面(紙面)の向こうにいる個人、個人の感想は感想としてリスペクトするべきだ。

小生としては、こう言いたいところでゴザンス。 

 


2024年7月18日木曜日

ホンノ一言: 現代日本の「言論の不自由」を想う

言論プラットフォーム"Agora"は、(全部とは言わないまでも)筋を通したシッカリした投稿が多く寄稿されているので、小生も頻繁にみているサイトである。無料でも大半の記事は閲覧できる。

今日も中々シッカリとした考えを書きこんだ投稿があったのでメモしておきたい。主題は、ロシア=ウクライナ戦争の<早期停戦論>を堂々と主張できるか否かという点だ。これが出来ている論者が、今回、共和党大統領候補に選ばれたトランプ氏によって副大統領候補として指名されたヴァンス氏である所に、かなりの話題性があるようだ。

……しかし重要なのは、リベラルメディアのNYTに事実上の「早期停戦論」を寄稿する人物が、米国では堂々と副大統領候補の指名を獲得することの意味である。なぜなら2022年の開戦以来、日本ではそうした議論はプーチンを利するものとして、「専門家」によってタブー視されてきたからだ。 

(中略)

ウクライナの戦争も、またアメリカの大統領選も、いくら日本で口角泡を飛ばしたところで、現実への影響力はないに等しい。むしろ私たちが今年の残りで重視すべきは、この国のメディアで「誰が真摯に発言するのか」を、見極めてゆくことだと思う。 

秋にトランプーヴァンスが当選したとき、両名のウクライナ戦争の捉え方は「まちがっている」と、米国に対しても物申せるのか。もしくは逆に「いやいや。ウクライナ人も疲弊したタイミングだったので、さすがアメリカの政策は現実的です」と手のひらを返すのか。 

「ウクライナ有事は日本有事」であればこそ、誰もがこれからメディアを監視し、そうした評定を厳しく行うべきだろう。なぜなら後者の姿勢をとる無責任な専門家に、未来の日本有事を扱わせてはならないからである。 

Source: Agora

Date:  2024.07.18 06:50

Author: 與那覇潤

URL: https://agora-web.jp/archives/240717085204.html

ある社会的問題(日中外交、軍事費倍増、増減税、年金支給年齢引き上げ等々)で世論が沸騰するとき、それも賛否が分かれて対立が先鋭化する時に、双方の立場の見解を伝えるのが「報道機関」に与えられた役割である。米紙"The New York Times"も、そもそもがリベラル派に近い新聞であるが、報道機関が果たすべきこの役割を果たしているわけで、これ自体は当然と言えば当然の事である。

しかし、この当たり前のことが、日本のマスメディアは出来ているのだろうか?こんな疑問は本ブログでも投稿したことがある。

アメリカのように自国がウクライナを軍事支援している中で、「これでイイのか?」と声を公然と発することが<言論の自由>、<表現の自由>の勘所であって、ある立場の意見を没にして出さないという感性こそ<言論抑圧>の勘所である。

してみれば、

現代日本社会には言論の自由は極めて限られた度合いでしか認められていない。というより、実践されていない。

これが現実であるに違いない。

日本の民主主義に未熟なところが濃厚にあるのは、ここから発しているのに違いない。

そもそも、どんな問題についてであれ、その問題解決に正しくアプローチできる道筋があるとすれば、それは極めて少数の意見において提案されるものである。この辺の事は以前にも投稿したことがある。少数意見を尊重するべき理由はここにある。国会、地方議会、社内会議、町内会、マンションの管理組合総会、等々、会議の数は多いが、この辺りの事情は誰でも知っている周知の事実だろうと小生は思うのだが、いかに?


以下の2節は少し矛盾しているかもしれない。が、ともかく覚え書きに書いておこう。

大学教育の場では、学生による授業評価がトックに導入されている。教える教員側による自己評価レポートも(学内では)公開されている。世論の形成に貢献すると自称する以上は、メディア各社が毎年度「報道自己評価結果」を公表してもよいし、市民団体による「メディア各社の報道評価結果」を受ける側に立っても、道理には反しないだろう。評価結果が他メディアに比べて低かった社は、次年度に向けて努力すればよいわけである。

言論の自主規制をして、言論の同調圧力に従っていれば、市場のマスには受け入れられて、読者数、視聴率は維持できるが、長期的にはメディア企業として社会の信頼を失い、何を伝えても訴えても顧みられなくなるという結末があるだけだ。「言論ビジネス」は「顧客志向」というビジネスの原則に絶対に従ってはならない例外的産業である。それでも娯楽専一のエンターテインメント企業として生き残ればイイわけだが、アメリカで可能なメディア・ビジネスが日本では出来ないというのも悲しすぎるではないか。




2024年7月15日月曜日

ホンノ一言: 都知事選をどう観るかという場外バトルなのか?

元・大阪府知事、元・大阪市長にして、維新の会・元代表で、いまは現・政治評論家として著名な弁護士・橋下徹氏の発言は、過激でありながら本質をついた直言が多々あって、本ブログでも結構<橋下ネタ>を投稿している。実際、「橋下徹」でブログ内検索をかけると複数の投稿がかかってくる。


今回も小生の関心を大いに刺激するやりとりがあったので覚え書きにする次第:

元大阪市長で弁護士の橋下徹氏(55)が、14日までに自身のX(旧ツイッター)を更新。13日放送のABCテレビ「教えて!ニュースライブ 正義のミカタ」(土曜前9・30)に出演した京大大学院教授の藤井聡氏(55)の発言について、強く非難した。

藤井教授は、7日投開票の東京都知事選について「選挙が得意なやつが票を集めるような選挙になってるんですよ」と指摘し「はっきり言って、有り体に申し上げますが、詐欺と同じです。“これ、ええで”って言って、全然アカンもの買わせるという話ですから、本当はすごくいい物を“いいよ”とちゃんと宣伝してくれる人のを買わないといけないのに、選挙が上手やというだけで選ばれるような時代になったら、その国は滅びるしかない。本当に僕は危機感を感じます」とバッサリコメントしていた。

 この発言を取り上げた記事を引用し、橋下氏は「お前みたいな学者が日本を滅ぼすんや!!何の役に立っているかの評価も受けない税金のタダ飯食らいが!!」と投稿。  続けて「なんで学者ってこうも偉そうなんや。何の役に立つかも分からん研究をいかにも意味があるように装って研究費を引っ張る学者が世の中に多数。こういう輩も立派な詐欺師や」と批判した。 

Source: Yahoo! Japan ニュース

Date: 7/14(日) 11:22配信

Original: スポニチ Suponichi Annex

URL:  https://news.yahoo.co.jp/articles/7b0ff228de3f3aae461d96c47ecec2d022764c18

要するに、先日の都知事選は「政治家の選挙」というより「選挙屋の宣伝合戦」になっているという京大のF教授の批判に対して、橋下氏が「だから学者は詐欺師なンだ」と非難している。そんな図式である。

出所がスポーツ新聞だからか、記事はスポーツ志向、エンターテインメント志向の香りが濃厚だ。


ただ思うのだが、政策綱領なき政争になっている日本の政党政治に関しては、政党が「全国的な選挙互助会」に変質していると、本ブログでも感想を書いたことがある。

多分、橋下氏の目線に立つと、選挙では「選挙屋」になって、勝利することが即ち民主主義下の政治そのもので、ここにこそ政治のダイナミクスが発現するのである、と。そういうロジックになるのだろうが、これでは選ぶ側の有権者のレベルに応じた「選挙屋」しか選ばれない結果になり、選んだ側の有権者自らが、自分が招いた劣悪な政治レベルに不満を募らせるだけになるのではないだろうか?

大体、社会的に解決するべき社会問題に解を与えることこそ政治家の役割だ。そして個々の問題解決には提案期限が決まっていると認識するべきだ。10年もかけて審議できる裁判とは違う。不確実な情況下で責任を負いつつ問題に取り組むのが政治家の宿命であると思ってきたのだが違うのだろうか?

しかるに、その解決方法に政治家自身が迷い、どれが正しいかを国民に判定してもらおうとする政治スタイルが、「民主的」であるとされて好まれる傾向が民主主義国家にはある。

みんなで決めましたヨネ

という奴だ。


しかし、これも本ブログでも投稿した事だが、問題を解決できる正しい解を真に理解できる人は少ない。まして正しい解決方法を発案し、提案できる人は極めて少数である。

人は為しうる事をなすものだが、為すべき事をなせる人はごく少数しかいない。

問題を解決するには《才能》がいる。こんな当たり前のことはビジネスでは常識だろう。 

確かに、民主主義は社会の「集合知」を発揮できる政治的装置だが、集合知の8割は2割の人材が寄与して形成されるものだ。つまり、民主主義社会の運営にも、実は「パレートの法則」は当てはまる。上にリンクを付けた投稿は「能力分布の経験則」についてだが、だからこそ「民主主義」は民主主義でも「代議制民主主義」が望ましいと小生は思うし、一院(=下院としよう)が「普通選挙」によるのであれば、一院(上院としようか)は業績に基づく「推薦審査制」によるのが善いとホンネでは信じている。首班は下院に指名権があるとしても、上院の承認を必要とするべきだと思う。

要するに、何らかの方法によって、有能なヒトを選出するべきなのである。

マ、個人的な好み、というか個人的経験を踏まえた現在の主観である。

先日の都知事選は全体として色々な側面があり、視る角度によって評価は様々に分かれる理屈だ。都知事を選出するという最終結果は理解できる結果ではあった。しかし、それは一人が実績に裏付けられた現職であったからだ。仮に、政党がすべて信頼を失い、候補者がすべて(一応)「無所属」で「初陣」。先日のようなレベルの政策構想で選挙を行ったとして、有能な都知事が選出されたであろうか?極めて疑問であるという気持ちは、上の京大教授と感想を同じくする。

なので、今回の論争ばかりは

お前みたいな学者が日本を滅ぼすんや!!

とは、どうしても共感できないのだ、な。

2024年7月13日土曜日

ホンノ一言: 都知事選の「石丸現象」の一つの観方

先日の都知事選で無所属かつ(ほぼ)無名の石丸伸二氏が有力対抗馬の蓮舫・元参院議員をかなりの大差で破って第2位に食い込んだ、それも既存メディアを無視してYoutubeなどのネットを駆使した選挙運動が功を奏した、若年層では現職の小池百合子にも勝っていたというので、日本中が、というより政界、メディア業界が文字通り「蜂の巣をつついた」ようになっているのは、非常に滑稽だ。


何だか、石丸氏から「足蹴にされた」既存マスコミと既存政党の政治家が、懸命になって「石丸つぶし」に狂奔しているような観がある。

子供っぽいリベンジで、非常に見っともない愚景だ。


なぜこれほどまで既存のエスタブリッシュメントから反感を買うかと言えば、とりあえず二つの背景があるかネエ……と思っているところだ。


  • 少子化対策、定額減税、円安進行、安倍派の裏金作り、政治資金規正法改正等々、重要な問題を有効に解決できず、解決するかと思えばやり方が下手すぎる岸田首相や既存の政治家(政治屋?)に対して、フラストレーションを高める国民心理がある。既存のエスタブリッシュメントはそれを重々知っている。「あれほど無能でイイなら己にも出来る」。「あれほど無能な政治屋に任せるよりは石丸さんがまだマシだ」。居酒屋ではこんな話もあるはずだ。エスタブリッシュメントには分かっている。従来型政治家、従来型メディアはネット世界とは疎遠だ。そのネット世界で有権者のマスが形成された。10台から30代までを合わせると何と石丸氏がトップになった。源義経のヒヨドリ越えで大壊乱を起こした平家と同じだ。エスタブリッシュメントは怖くなったに違いない。そこで、大きくなり過ぎる前につぶしておけ、ということか。

  • 石丸氏の言動をみると、そもそも現代日本社会が尊重する価値(の一つ)である《コンプライアンス》に敬意を払っていないような所がある。ある意味で傲慢だ ― 引き合いに出すのは悪いがトランプ的である。前稿でも指摘したように、この場合の「コンプライアンス」は「遵法精神」という公式の意味合いではなく、NYTが日本のメディアは"compliant"(コンプライアント)だと揶揄した悪い意味。つまり、「石丸はイイ子じゃない、素直じゃない、言いなりにならない」、こんな印象が既存のエスタブリッシュメントを甚だしく苛立たせている。"VDP = Very Dangerous Person"、つまり放置してはいけない危険人物、でなければ理解困難なエイリアン(≒Alien)に仕立てる、ということか。

どうもそんな辺りなのかナア、と観ています。まるで組織化されたかのような一斉バッシングをみていると、そう感じてしまいます。


政界とメディア、これらのスポンサーである大企業群は、現代日本では一体の《勢力》である。そこで報酬を得ている人々も同じ集団に属する。総括的に《正規集団》、というか分かりやすく《日本の一軍》とでも呼べる集団である。アメリカのNYTやイギリスのBBCは、その「一軍」の内部で発生する表沙汰にはしたくない不祥事や古い因習を、<人権>に関連付けては、時々針のように突く。その度に日本の「一軍」、つまりメイン・ストリームはズキッと痛い思いをする。が、欧米にはコンプライアントであるしかないので我慢する。「外野からの批判」に対しては、国内で体裁をつくろいつつ耐えて、社会の大枠を守ろうとしてきた。しかし、より広い「日本の二軍」、「日本の三軍」といった自己認識をもつ中流未満の階層でフラストレーションが高まるのを抑えることができなくなってきている。そんな時に、既存メディアを無視したかのような選挙戦術とその後の言動で石丸氏が一気にブレークした。若年世代からブレークした。いずれ中高年に波が広がる。中高年こそ格差拡大の最前線なのだからフラストレーションの目がそこにある。

おしりも、国内メディアは失態が続き社会的信頼が地に落ちている。メディアはエスタブリッシュメントに保護され、独禁法上の例外的分野として活動している産業だ。変革を望むはずがない。日本のメディアは普段の言葉とは反対に実は現状保守なのである。若年層にはもう既存メディアの言葉が届かない。出来るのは中高年層を静かにさせておくことだけだ。うまく行くだろうか?


何か面白くなってきたネエ…、鎌倉時代末期のいわゆる<悪党>のような、現代日本社会なら<非正規集団>といった表現になるだろうが、そんな新勢力がこれから拡大するのか?既存の政党+メディアは没落するのか?官僚はどの勢力につくのか?経済界は割れるのか?


※補足:鎌倉幕府を打倒した主勢力(の一つ)となった「悪党」、つまり「非正規武士」は、名門・足利氏が覇権を握ったことで、結果としては下剋上に失敗した。本来は「古い勢力」であった足利一門が、曲がりなりにも新時代をつくり得たのは、<貿易>が生む利益に着目したからだ。既存勢力の革新が成功した好例として室町幕府をみる視点が小生は気に入っている。が、これは余りにも別の話題なので、改めて。


時代の分岐点では、しばしば旧勢力と新勢力との闘争がみられるものである。「コンプライアンス」とは、あくまでも旧勢力を基準とした価値である。「イイ子にしなさい」というのはそういう意味である。

基準が変われば善悪も変わる。正に、かつて経済学者・レオンティエフが言ったという

Only result comes.

私たちが目にするのは、(何かのプロセスの)結果のみである。既に実現した結果が悪であると認識することにヒトは耐えられないものだ。必ず目の前の現実には合理性があると考えるようになるし、何度も投稿しているようにそう考えるのが正しいと小生も思う。かくして善悪という価値判断も逆転することが時に起きる ― これまた余りに別の話題なので論じるのは改めて。

コンプライアントではない(?)人物が注目されるのは、今後の日本で《創造的破壊=イノベーション》が起きる前兆かもしれない。少なくとも、今の世間は「イイ子」などを本当は求めていない。そう思うと、日本もまだまだ捨てたものではない。


【加筆修正:2024-07-14】

2024年7月11日木曜日

ホンノ一言: 経済分析にも派閥志向?データより人を信じるからか?

アメリカのFRBが、2022年春以来、それまでの微温的姿勢をかなぐり捨てて「攻撃的金利引き上げ政策」に打って出てから、

いずれアメリカ経済は景気後退に陥るはず

という見通しが主流を占めてきた。この予想自体は実にオーソドックスだった。

いまインフレは次第に落ち着いてきている。

しかしFRBはデータを一つ一つ見極めながら決めるという姿勢を崩していない。

「それでは遅すぎる」という意見が足元で増えている。そんな人は、現在もなお

近くアメリカの景気は後退へ向かう

と信じ切っているようだ。「当然、そうなる」と言わんばかりだ。

実際、7月9日付け日本経済新聞でも

日本株と米国株がそろって最高値を更新し続けている。9月米利下げ開始の障害がなくなりつつあるほか、半導体を中心に世界の製造業が持ち直している。投資家は不況を回避しながらインフレ沈静化に成功する「ソフトランディング(軟着陸)」シナリオ実現を見込む。世界経済のほぼ唯一のけん引役である米国景気には陰りが見え始めており、株高の脆弱さを指摘する声もある。

URL: https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB082E30Y4A700C2000000/

(一応紹介しておくという主旨かもしれないが)「米国景気には陰りが見え始めており」などと書かれている。

いわゆる《景気悲観派》という奴で、最近の世界で流行している派閥対立が、本来は客観的な議論の模範であるべき経済分析でも、広がり始めている。

そもそも将来予測は、一点賭けとは反対の確率的予測以外にはあり得ないわけで、最もありうると思う事象が少し違うという程度の違いしかないのが真相である。

それを対立状況にまでもっていき、論敵をつぶそうとする……実に幼稚だ。

主観的には知的進化を唱えつつ、実質としては知的劣化が目立つという現代世界の傾向を象徴しているようで、情けない。

さて、アメリカの先行指標として信頼性の高いThe Conference BoardのLeading Indicatorをみると


URL:https://www.conference-board.org/topics/us-leading-indicators

上図のように、景気後退が懸念されていた状況は過ぎつつあり、足元では上向き始めている。先行指標なので、先行きは明るいと示唆している。The Conference Boardも
The LEI did not signal a recession in May as its six-month growth rate trended less negative
このように、ネガティブではあるが、景気後退を示唆してはおらず、上向きだと説明している。

この辺の動きはOECDのComposite Leading Indicatorも同じで、


Source: OECD Data Explorer
URL: https://data-explorer.oecd.org/

このように、先行きの明るさを伝える形になっている。


専門家の〇〇がどう話しているかなど、本質的に重要なのだろうか?

かつてレイテ沖海戦に望んだ栗田艦隊がレイテ湾突入の作戦を放棄して、謎の北転をしたとき、
あれは三川が打ったんだよ。三川の電報だったので、俺は北へ行ったんだよ

データでなく人に同調するところから判断の歪みが生まれる ― ついでに言うと、真偽より人に同調する所から派閥は生まれる。人を信じるのは好い事だが場合によりけりだ。

「北方に敵機動部隊あり」という「入電」を信じて、敵を叩こうと独断行動へ出たという栗田中将の動機は正しいが、情報分析としては、杜撰で、危険であった。


多くの《反証》をノイズであると無視して、自分の事前の信念、願望に合致する証拠を採用する行為を、統計学では《データ・クッキング》と言っている。

実証の衣をまとった思い込みは、いま世間に溢れかえっている。その姿勢が不毛の派閥対立を招いている。 

宗教対立も哲学的対立も、更にまたイデオロギー対立も、意味は同じだが価値観の対立も、すべて根は同じである。

【加筆修正:2024-07-12】






2024年7月9日火曜日

断想: 一様かつ均質に混ざり合うかどうかの問題?

例えばこんな議論をみることがある。

世界には男と女がほぼ同数存在するわけで、生来の能力に違いがあるわけではない以上、何も人為的制約を加えなければ、どの学校、どの職業、どの区域にも、男性と女性がほぼ同数いるはずなンです。

極めて理に適った「立論」である。このロジックによれば、現実に男女比率が50パーセントと有意に異なる場があるとすれば、その違いは何らかの制約、つまり「性差別」によってもたらされている。こういう思考になる。

ロジックは通っている。しかし、古来、ロジックが通っているからと言って、その認識が真でなかった例は山ほどある ― 中世の神学を瞥見したまえ。あれほど論理が透徹した学問はない。真理か否かはともかくとして。

論理が一貫している現実認識は、哲学と宗教を別とすれば、本来はすべて「科学的仮説」に過ぎない。

男女の違いが習慣的な意識だけによるものなら、実質は両性で均質であることになる。もし実質によらない意識だけの違いなら、男女の区別も偶発的であるはずで、具体的な発現は《対称性》をもつだろう。例えば、「一夫多妻制」が慣習化されていた国や時代があったのだから、逆の《一妻多夫制》も理屈で言えばあってよい。どちらも均質なのだから。

しかし、小生の勉強不足もあるが、後者の例はあまり見聞することがない。

その理由は、ほぼ明らかで「婚姻」という制度は、男女の愛を制度化するものではなく、子孫や家族を制度化するものだからだ、というのは歴史学派の経済学者として著名なウェルナー・ゾンバルトが『恋愛と贅沢と資本主義』でも強調している点である。

つまり

母親が誰であるかは自明であるが、父親が誰であるかは自明ではない。

なので、男性が後宮(=ハーレム)を形成して、自分以外の男性との没交渉を強制的に実現できれば、後宮にいる女性が生む子供の両親は直ちに確定する。

両親が、父親と母親とも確実であることは、人の社会生活において、一見するより遥かに重要な事柄である。

もし、反対に「一妻多夫制」の下で、女王が多数の男性からなる「逆ハーレム」を形成したとして、自分が子を出産するとする。この場合、母親は自明だが、父親が誰であるかは(女王自身にも)不明であろう。

男性ハーレムが全体として共同父権を有すると立法することは可能だが、おそらく機能しない。男性相互で排除しあう動機が生まれ、最後に残った男性が真の父であるかどうかは不明のままである以上、正統性が保証されないからである。

マア、この辺の事情も「DNA鑑定」が普及した現代では、かなり陳腐化した議論になった。でも「DNA鑑定」をして父親捜しをするなんてネエ……という感性は残ることでありましょう。そんな辟易する感性こそ「男性中心社会」の古いモラル感の痕跡であるとされる時代が果たして来るのかどうか、これはもう小生には分かりませぬ。

ただマア、こうした簡単な思考実験からも言えると思うが、男性と女性は単なる外形の違いを超えて、人類社会の中で異なった位置にいる。すべての性差を否定して、男性と女性を抽象的な一人ずつの均質な人格として認識するのは、法的概念としては可能だが、それは経済学の完全競争市場と同じで、学問的概念として存在するわけだ。人間社会の現実と法的モデルの違いは必ず残る。その残りの部分が無視できない程に大きい場合は、理論モデルと現実との違いを説明し、理解するための学問的努力が要る。理解するとは、合理性をそこに認めるということだ。

小生は「ミソジニスト」ではないが、自然や社会を操作しようとする学問は、すべて経験的実証に基づく科学であるべきだとは、思っている。

2024年7月8日月曜日

ホンノ一言: 都知事選に関して、「コンプライアンス」の善い意味と悪い意味

米紙・The New York Timesの報道が流石だと思ったのは次の記事。

結論部分を抜粋すると:

As the incumbent, Ms. Koike maintains a large advantage: No previous occupant of the office has lost an election. She has also benefited from a largely compliant news media. Though it has dug into rumors that she misrepresented her graduation from Cairo University, it has not investigated allegations that she has favored Mitsui Fudosan, the developer, in construction contracts.

One possible reason: Two of the country’s largest newspapers, the Yomiuri Shimbun and Asahi Shimbun, are investing in one of those building projects.

Source: NYT
Date: Published July 6, 2024, Updated July 7, 2024, 7:23 a.m. ET
URL: https://www.nytimes.com/2024/07/06/world/asia/tokyo-governors-election.html

紙面に載ったのは7月6日で小生の目に入ったのは投票が終わる前である。


小池百合子・都知事が引きずっている問題(の一つ)に、カイロ大学・学歴詐称問題がある。今回もそれが週刊誌でとりあげられて、一時は知事も苦境に陥っているという噂もあったが、それとは違って上のNYTは、メディアが学歴詐称問題にかかずらうあまり、(数か所の)都内再開発プロジェクトをめぐる疑惑に切り込まなかった点が小池知事に幸いした、と。そんな風に観ている。
確かに小池知事、都庁、三井不動産。この面々、きな臭いからネエ。
と、そんな話もあるわけで、例えば<三井不動産 都知事 癒着>でGoogle検索すれば、マア出てくる、出てくる。これが本当なら、学歴詐称問題を遥かに超える大炎上になったはずだ。

しかし、日本国内の大手メディアは、選挙を控えて全くこれを問題視しようとはしなかった。その姿勢をNYTは
She has also benefited from a largely compliant news media. 

日本のニュースメディアは"compliant"だからネ、と揶揄している。日本語で言えば、日本のマスコミは「コンプライアンス」を守ったのだ、という指摘だ。 


英語の形容詞"compliant"の名詞形が"compliance"、つまり近年流行の価値尺度である「コンプライアンス」である。

オフィシャルには

コンプライアンス = 法令順守、遵法精神

と意味づけされている。

しかし、上のNYT記事ではコンプライアンスが悪い意味に使われている。ここで使われている形容詞"compliant"は

素直である、いい子である、言いなりになる

という意味で使われている。故に、名詞形"compliance"になると

コンプライアンス = いい子にしている事、言いなりになる事

要するに、こういう意味もある、ということだ。

ちなみに手元のOxford Pocket Dictionaryで形容詞"compliant"の項を引くと

compliant: obedient, yielding

であり、名詞形の"compliance"は

compliance: 1. obedience to a request, command, etc. 2.capacity to yield

となっていて、「コンプライアンス」の主たる意味は「服従的であること」だと確かめられる。

となると、何だか「コンプライアンス」を守るべき倫理的価値として求められるのも、何だかナアと嫌になるのは、小生だけではないであろう。


小池都知事にとって既存の大手マスコミはどこも《いい子》であったに違いない。アメリカの新聞であるThe New York Timesだけは、外国に拠点があるので、『私の言うことを聞きなさい』と、言いきかせることが出来ない。だから、投票日直前というタイミングで上のような記事が載った。小池百合子・都知事から見れば、たいそう行儀の悪いメディアであったでありましょう。

しかし、英文で報道されたからといって、東京の都知事選に与える影響は概ねゼロであったでありましょう。


それにしても、アメリカ紙が外国である日本の、それも東京ローカルな首長選挙で、こんな記事を載せますかネエ・・・裏話を知っている記者がよほど「書いておかねば」と思ったンでござんしょう……。

書かないという事は、問題視しない、認めると同じこと

メディアの鉄則はこれでございましょうからネエ。

2024年7月5日金曜日

断想: 「親がちゃ」が訴えているメッセージは何だろう?

世間や身の回りが何だか騒がしい時は、ロイド・ウェバーの"Jesus Christ Superstar"を愛聴するのが習慣になっていたのだが、最近になってまた久しぶりに聴き直している。どうもそんな世相なのだ、な。

Youtubeには20周年を記念したロンドン・キャスト版がアップされているし、手元には1973年の映画版サウンドトラックCDもある。が、劇団四季のジャポネスク版も中々イイと思っていて、再生リストをYoutubeで探しているのだが、見つかっていない。

その日本語版でユダが歌う『スーパースター』だが、歌詞がまたイイわけだ。中に

〽私は理解ができなイ~

〽大きな事をしなければア~

〽こんなにならずにすんだのに

〽時代も所も悪かったア~

〽 今なら世界も動かせエたア~

〽 昔のイスラエルじゃ テレビもないしサ 

自死したユダの亡霊がロック調で絶唱する舞台は、まさに最高で、日本文化とイギリス発のロック・ミュージカルの相性の良さは驚くほどであった。

この『時代も所も悪かったア~』を現代日本語で言い直すなら、

〽親がちゃ、国がッちゃア、時代がちゃア~ 

響きは悪いが、こんな辺りになるであろう。

想うに、その人の人生を幸福なモノにするか、不幸なモノにするかで決定的な要因は、文句なく《国と時代》であって、誰が親であるかはずっと小さなウェイトしか占めないと思っている。

考えても見たまえ。今の日本で最低の親に育てられているために不幸のどん底にいる児童がいる。いま中東のガザで暮らしているパレスチナの児童も不幸であるに違いない。では不幸な児童がより頻繁に見られるのはどちらだろうか?酷い親というのは、どこの国でも、いつの時代でも、いるものである。決定的なのは、育った時代と国である。戦中の日本で召集された神風特攻隊員が御国のために喜んで死んでいったとは思えない。

ガザやウクライナ、日本の特攻といった極端な例をとるまでもない。世界の大半を占めるグローバルサウスで生きている児童と、日本の少年少女と、どちらが大きな人生のチャンスを身の回りで提供されているだろうか?

小生が大学で見聞した職業知識など極めて狭い範囲に限られたものでしかないが、1円も支払うことなく3人の兄弟が大学に入学し、順調に4年間の修業を終えて、良い会社に就職したことがあった。なぜなら、この兄弟はすべて「授業料全額免除(全免)」の対象者になったからだ。家計状況が理由である。小生が勤務した大学では、(確か)全免対象者が(資料は手元に保管しておらず曖昧な記憶に頼るしかないが)5%か、ひょっとすると10%弱ほどいたのではないか。「授業料半額免除(半免)」となると、全学生の25%から30%ほどは該当していなかったかと思う ― 記憶違いかもしれないが、大きくは間違っていないと思う。とにかく、こんなに認定されるのかと、感じ入ったものである。

国内の大学の就学環境は、小生が視てきた限り、「親がちゃ」をそれ程なげくほどには、不公平かつ劣悪なものではなかった。貧困世帯を支援する就学措置も(十分にというには判断基準作りがまた必要だが)提供されていた ― 必要十分かどうかは別の話しになる。こんな感想が一寸あるのだ。

もちろん勉強について行けず、最長修業年限である8年を超えたため、退学を余儀なくされた学生は、ゼロではなかった。留年をして授業料免除が打ち切られる学生も少なからずいるものだ。しかし、制度として就学を支援する制度は(小生の感想では)機能していたと思う。

全世帯で平均した『家計調査』などでは、教育費の高騰が家計を圧迫しているのは事実だ。しかし、地方圏では公立学校が今も圧倒的に主流で、国立大学も(医学部を除けば)それほど激烈な競争にさらされているわけではない。

こういった事情に目を向ければ、「イイ大学に入るには塾やお稽古ごとにお金が要るんです」という訴えが嘘であるとは言わないが、これが全国向けにテレビ電波にのって放送されると、「それはちょっと違うんじゃないかナア、それって東京の話しでしょ」と感じる時も多い ― 地方でピアノを稽古しながら大都市の師匠に通う少年少女がいるのも事実だが、絶対人数で大きな集団ではないと推測する。


大体、こうした話しは、《東京一極集中》、というか《大都市志向》の副産物としての一面をもつのではないか。正直、そう思うことは多い。むしろ

なぜ東京一極集中が進むのか?

この原因分析の方が求められている。

大雑把な憶測だが、地方圏が生産する商品は多くが競争価格で取引されているが、一方(特に)東京圏では、《寡占企業の本社》や《開業規制》で保護されているサービス産業が多く、ここから発生する独占レントが高賃金をもたらす。故に人が集まり高密度化する。消費社会が形成される。それがまた人を集め周辺社会が形成される。が、ここで集まる人が従事する活動は生産性、収益性とも低い。大都市経済の生産性向上の停滞も中枢部門に対する競争圧力が弱いことの現れだろう、と。そんなアタリを付けている。

マ、一つの仮説的想像に過ぎない。検証するとなると面倒そうなのでメモしておく次第。

明治が自主独立・立身出世の時代であったとすれば、大正はデモクラシー、昭和は戦前が財閥批判と国民総動員、戦後は一億総中流とド根性。平成は失われた30年。

それぞれの時代には《時代精神》を表現する適切な言葉を思いつくものだ。

明治・大正・昭和は歴史の彼方に去った。平成が終わって6年目になった。これらの過ぎ去った時代を支えていた理念と価値観は、いまは「昭和じゃあるまいし」の一言で否定されるようになった。


では令和の時代精神は何だろうか?

何だか霧の向こうにあるようだが、まだ見えないと思うのは、小生だけだろうか?

平成という時代は、過剰に保守的であったが、前時代の経済政策の誤りのツケと苦闘した30年でもあった。何もしなかった30年ではなかったが、多分、やり方がまずかったのだ。何らかの専門的学識の不足があったのだろうが、未解決課題というツケを令和に残し、一方で獲得した獲物は少なく、失うものが多かった。


令和という時代は、何だか《ボヤキと不満の時代》であるような印象がある。同じデモクラシーでも、大正には命をかけた民衆運動があった。権力から弾圧されても共産主義運動に立ち上がる根性が昭和前期にはあった。この非合理性が正に「昭和的」である。

共産主義という思想の本質的欠陥はともかくとして理想があったわけだ。理想は厳しい現実の前では捨てざるを得ない、というのが「親がちゃ」という言葉が伝えているメッセージなのだろうか?

確かに、みんなでユダになれば、損を避け、得をとる考え方で相互理解できる。そうなればイエスも救済も必要ではない。自分が死ねば無になるから、引き継ぐものはないし、将来の世界に関心を持ちよう筈がない。老後の貯蓄と社会保障を信頼すればだが、子供という次世代は作らない方が自分としては経済的だ。夫婦というキャンセル条件付き終身契約ではなく、スポットで選択肢を確保しながら交際する方式が主になるだろう。

実に現実的ではないか。理想は要るかと言えば、そもそも要らないモノである。

【加筆修正:20254-08-27】


2024年7月3日水曜日

政府外、メディア外の純粋民間の方が大事な問題がわかっていると思った一例

最近、小生が視るニュース番組はテレ東のWBSだけになった。「以前はこんなことはなかったンだけどネエ…」と、振り返ると驚くくらいだが、要するに他のニュース番組はサッパリ役に立たなくなった。そう感じるわけだ。

面白さと有用性とは往々にして反比例する

というのは、寄席やサーカスと相通じるところだ。

そのWBSでは、このところ大物財界人の出演が続いていて、平井一夫・SONY前会長や孫正義・ソフトバンクグループ会長が結構面白い話をしている。で、こちらは面白さと有益さが比例している珍しい例となっている。

自分自身の経験に基づく話は、当たり前のことだが面白いわけで、屁理屈とは無縁なだけ役にも立つというのは自然な話だ。実際、ビジネススクールの基本教材であるケーススタディは、この種の成功体験物語になっている―日経ビジネスの「敗軍の将、兵を語る」に似た教材もあってよいと思ったことがあるが、失敗の原因を精緻に分析すれば、それで成功へ至るわけでは決してない。成功するには成功の本質を先ず徹底して学習することが大事だろうと今では思うようになっている。

その孫会長、番組中で

AIをこれから集中的にビジネス展開していくとすれば、まず大量の電力が必要です。これを日本としてどうするか?

考えていただきたい点なンです。

こう話していたが、メディア業界の従事者が怖がって避けて通る話題を、シンプルに指摘しているのは、忖度しなければならない先がそれだけ少ないので、言いたいことが言える、そういうことなのだろうと思いました。

メディアでメシを食っている「意識の高い専門家」は

だからこそ、再生エネルギーにもっと注力しなければならないンですよ。加速するべきです。

と、こんな風に一点賭けの発言しかしないが、彼らがお手本にしているドイツ経済だが、再エネ推進と脱原発の基本戦略が破綻して今は青息吐息だ。イギリス、アメリカはとっくに原発再評価路線に回帰している。

日本のいわゆる「良心的知識人(=良識派?意識の高い系?)」に《ドイツびいき》が多いのは、ずっと不思議に思っているのだが、日本人の《マルクス好き》、《マックス・ウェーバー好き》、《ベートーベン好き》、《ワーグナー好き》が、日本人の心性の何か核心に近い所を示唆しているのかもしれない。

マ、どちらにしてもドイツの高尚な国家エネルギー戦略は、何のことはないロシアからパイプライン経由で提供されてきた安価な天然ガスの上に成立していたわけで、それがロシア=ウクライナ戦争の勃発、長期化で、すべてはご破算になった。この厳しい現実があるので、ドイツのエネルギー戦略をこれ以上参考にするのは、極めて危険である ― この辺の事情は前にも投稿したことがある。

《カーボンゼロ》を達成する政策として再エネ拡大を推進するのは、日本の国土利用としては目的非合理的、つまり非効率だとずっと感じてきた。それより日本国内の火力発電を可能な限り速やかに閉鎖し、化石燃料の使用を減らすほうが速効性があり、遥かに低コストかつ効果的だ。

閉鎖する火力発電を原発で速やかに補填し、再エネは可能な範囲で拡大すればよい。

エネルギーについては、少し前にも投稿したが、



東日本大震災以降、電力の供給ボトルネックに制約づけられているのは、上図からも分かる事だ。

解決するべき経済問題はエネルギーだけではない。食糧安全保障は、メディアでとりあげられることはほとんどないが、エネルギーと同程度に日本人の生活基盤に直結する話だ。端的に言えば《食料自給率》をみれば状況は分かる。



Source: 農林水産省
URL: https://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/013.html

カロリーベース自給率で日本は先進国で最低である。

最近、
日本はG7で最低です
という指標が激増中だが、この食料自給率は中でも日本の弱さを伝える重要指標の中の一つである。

先日も
大都市経済は生産性の上昇が止まっているが、地方経済はむしろ生産性向上へのモメンタムが現れつつある。日本経済の成長機会は、人口が密集した大都市より、地方にある。
こんな投稿をした。

休耕田に太陽光パネルを設置したり、森林を伐採して再エネ施設を立地させたりして、多数の小規模電力業者をもうけさせるより、食糧安全保障に配慮する方が遥かに重要な戦略課題であろう、と。労働、資本リソースの活用としてもバランスが良い ― 当然ながら、移民規制を緩やかにして、国内の労働制約を緩和することも重要事項の一つだ。


エネルギー戦略と食糧安全保障戦略は、単独の官庁が検討できるわけではない。総合経済戦略の分野である。それも10年単位の長期計画でなければダメである。

そんな問題意識が、政府のどこにもなく、まして国内のマスメディアのどこも持たず、毎日の些事を面白く伝えることが自分の役目であると信じている(としか見えない)。

ここに、日本の本当の危機がある、と。そう思われるのだ、な。

ホント、こんな状況だと、憂国の思いに駆られた急進的分子が武力クーデターを起こしかねませんゼ。万が一、そうなれば日本国憲法も吹っ飛びますゼ。危ういネエ……