2021年5月3日月曜日

周知のことながら「コロナ禍、三つの失敗」

 カミさんによれば、この1年間、日本政府がコロナと戦う中で失敗したことが三つある、という。

  1. いまでも検査を無料で受けることができない。毎日、受けたいときに受けることができない。
  2. いまでも発熱した時に、病院でみてもらうことが出来るのか、分からない。風邪を気軽に(?)ひくこともできない。みんなコロナの検査を受けていないので、病院に行くのも心配だ。
  3. いまでもワクチンがいつ受けられるのか、ハッキリしない。ワクチン接種の案内もこない。

確かに、このように箇条書きにすると、どれも致命的なエラーだ。ある人は、『これは一定の戦略的(?)方針の下でやっていることで、これこそ感染症対策の日本モデルなんだよ』と語る人もいたりしたが、この1年、やること為すことが狙い通りに運んでいないことは、余りにも歴然としている。

小生: だけどサ、2と3は分科会の専門家の責任じゃないよな。医療体制は、政治家じゃないと、再編成できないことだし、ワクチンだって日本医師会が手配することじゃないよ。

カミさん: 責任とか、そういうのじゃないよ。出来てないってこと。

小生: まあネエ、菅首相は7月末には全国の高齢者のワクチン接種を終えると言ってるけど、TVに出ている大学病院の先生は「絶対、ムリ!」って断言しているからナア。

確かに、政治と言うのは《結果責任》である。

まあ、成程、集計された感染者数は欧米に比べて少ない。しかし、その感染者数が少ないという点とは別に、何か目標を期待通りに達成した政府のオペレーションはあるだろうか? どれもこれも悪戦苦闘だと思うが違うのだろうか。「自粛」を要請して「自粛」の成果が得られたのは、政府のアクションではないという理屈だ。日本国民の不満は、決して「強権」や「独裁」に対する不満ではない。こと感染症に関して、その「無能」がひどい。それが不満だ、小生にはそう感じられる。

不満の6割は「無能」な政府と省庁・自治体に、3割は「仕事をしない」国会に、1割は「人畜無害の」野党に。「上層部」の中の責任分担となれば、マア、こんな感覚だろうか。


トノ: ワクチンの方は大丈夫か?

家老: ご安心くだされませ。滞りなく準備を進めておりますほどに。

トノ: 頼んだぞ、ワクチンこそ頼みじゃからな。7月末には何とかなるであろうかの?

家老: みな粉骨砕身、全身全霊をこめて没頭しております。ご心配には及びませぬ。

トノ: 諸外国には思わぬ遅れをとった・・・無念じゃ。一度、前線に出向こうかのう・・・

家老: 殿は泰然とされてこそ殿、万事、それがしどもにお任せ下されませ。メディアには、心配はないとお伝えになって、国民を安心させて下されませ。

トノ: そうか、あいわかった、頼むぞ。

家老: ハハア


亡くなった野村監督の言であるが『勝ちには不思議の勝ちがあるが、負けに不思議の負けはない』。同じように、失敗には失敗の理由がある。

テレ東の「ワールド・ビジネス・サテライト」で言っていたが、有事の際の医療体制のあり方について、来年度から検討を始め、(早ければ)再来年度からでも実施に移したいという「意向」を政府関係者は話しているそうだ。

外国はワルツか、コサック踊りのリズムで旋回している横で、日本は能舞台で悠然と舞っている。そんな風情がする。

コメンテーター氏が『やるなら今でしょ!』と喝を入れていた。(万が一にも!)負けないように、24時間、実行中のオペレーションの成果を検証し続け、(必ず!)勝つための方法を見出すことが担当者の為すべき仕事である。この肝心要な職業意識が、現時点の公的機関では衰退してしまっているのだろうか? 随分前に離れたので、もう想像ができない。これもジェネレーション・ギャップであろう。

もし本社企画部に『いまやっている戦略が失敗だとキチンと確認されてから失敗の原因を分析するのが筋じゃないですか?』などと言うオトボケが紛れ込んでいれば、そんな人物は直ちに最前線の営業現場に移ってもらえば良いトレーニングになる。というより、失敗すれば自分たちは終わる、自分たちで検証するつもりかという覚悟の話しになるわけだ。今回のコロナ禍で一体いくつの笑い話がアフター・コロナになってから生まれるのだろうか? 一寸期待している。

今年の1月までの成り行きをみていて、こんな予測をしていた:

しかし、敢えて予想しておきたい。日本政府はワクチン接種体制造りでも、どこかでエラー、凡ミス、目詰まりを連発するような気がしている。

感染対策で数々の凡ミスを繰り返してきた政府が、ワクチン接種だけは迅速に、ミスを犯すことなく、間違いなく推進できるとは、どうにも思われないのだ。もし嬉しい誤算になればこれほど幸せなことはない。

予測では《政変》もありうると書いていたが、もう5月。4月は何事もなく過ぎた。日本政府は、今日も「もうしばらく自粛を頑張ってください。そして、ワクチン接種までもうしばらく待ってください」と話している。そして、憲法記念日の今日、改憲の際には、パンデミックなどに備えて「緊急事態」を明記する必要があるのではないかと話している。いま、そのパンデミックなのに・・・

どうやら憲法が悪いから、感染症対策も出来ないと言いたいようだ。

しかしながら、日本政府は(その原因はよく分からないのだが)たとえ緊急事態条項が憲法に明記され、国民の私権を意のままに制限できるようになったとしても、想定外の事態においては、周章狼狽し、確たる方針を示せず、ヤッパリ的外れの命令を連発するであろう。これは1930年代から敗戦までの歴史が立証している事である。これが「下ではなく上が弱いという日本的弱点」ということなのだろうか。

どこかの、誰かに権限を集中することを常に拒絶する日本社会の特性がその根本原因(の一つ)であるのは間違いないが、なぜそれほど権限集中を嫌がるのか、単に戦後日本だけではない、戦前期の日本においても、東条英機内閣が太平洋戦争を始めた非常時において、なお日本の統治構造は権限を分散させていた。江戸幕府の権限分散もまた甚だしいものがあった。その以前の時代も推して知るべし。どんな時代状況にあっても、決して権限を誰かに集中させないというのは、統治システムの欠陥というより、むしろ日本人が主体的に選んでいる、その損失を覚悟してまでも何かを担保している。そうとしか理解できないと思うのだが、では日本人はなぜ権限の集中をそこまで嫌悪するのか、その理由が小生には分からない。

2021年5月2日日曜日

ホンノ一言: 「功利主義」の根本の再確認

アングロサクソン、典型的には英米の伝統的な道徳思想・社会哲学は何かを議論するなら、何をおいても「功利主義」を外すわけにはいかない。

ちょうど、ドイツ人の多くが共有する倫理観・社会観を話すとき、「無条件の絶対善である普遍的命令」を基礎とする「カント哲学」を無視できないのと同じである。フランス流の「国家理性」もそうである。

この功利主義だが、ベンサムが言った『最大多数の最大幸福』は高校生でも思い起こすに違いない。

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最大多数の最大幸福というのは、意志ではなく、結果であって、それも事前にありうる結果の中の一つなのであるから、まずは結果がどうであるかを重視するという功利主義の特徴がベンサムの言葉から窺い知れるわけである。

ただ、(小生の勝手な理解の仕方だが)これだけで終わるとやはり本質を逃がしてしまう気がしているのだ。

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最大多数の最大幸福という言葉の裏側には、多数の個人の一人一人の幸福がまず先にあると、そう前提されているわけで、その個々人の幸福の総量が出来るだけ多数の人に、極大化された状態で、実現されたときに、全体としては最善の状態に達する。こういう意味になる。

ここで「社会」という全体は、概念としては考えられるかもしれないが、そんなものはなくてもよいのである。

つまり、「功利主義」においては、個々人を超えた、なにか「社会」とか「全体」、あるいは「組織」なり、「システム」という実体が実存していて、社会的な最適性を評価する際には、社会が社会の観点にたって判断する、そういうわけではない。「政府」とは・・・町内会の理事会のようなものだ、と。そんな社会観が見えて来る。

善悪を評価するベースとしての「社会」というものは存在しない。最高善として《幸福》をおく — この点は古代ギリシア以来の哲学的伝統にしたがうものだが ―、その限りにおいて、具体的に存在するのは生きている個々の人間であって、生きている人間のみが「幸福」を享受しうるのであるから、全体が最適であるかどうかは個々の人間がどんな状態であるかという点だけに基づいて、評価するしか方法がない。合計概念か平均概念か、要するに統計的な概念を流用して全体最適性を評価するしかない。

この点に「功利主義」の本質があるのだと小生はずっと考えている。

これが極端になると、手段や方法自体には善も悪もなく、あくまで実現する結果がどうであるかが問題であるという、こんな議論にもなっていくわけである。結局、英米流だろうと、大陸合理論的であろうと、極端までいけば、「自分の考えを強行して失敗する」という可能性が等しくあり、どちらが優れた主義であるかについては、「まあ一長一短だよね」という辺りに落ち着く。

とはいえ、サッチャー元首相の

... they are casting their problems on society and who is society?  There is no such thing!

彼らは自分たちの問題を「社会」に投げかけます。 では「社会」とは誰ですか?そんなものはいないのです。

「社会」という存在そのものを「そんなものはない!」と断言する元首相の理念には、おそらく日本人の大半は吃驚仰天したわけだ。しかし、これが「功利主義」の最も底深いところで、その本質を最も率直に語っていると思う。

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日本ではよく「社会に役立つ人になりたい」と話す。しかし、思うのだが「何が社会にとって役立つか?」という問いかけを発する時から、誰かが何かをしようとするときに「それは社会の役に立たない」という否定が生まれ、「あなたは社会には無用の人だ」という中傷にもなっていく。そうして、その社会は、多かれ少なかれ、抑圧的になり、同調圧力が生まれ、民主主義ではあるかもしれないが社会主義へと傾斜していくのである。

生きている人間を超えた存在としての「社会」を思い浮かべる国は、大なり小なり、《公私の公》をうるさくいう社会をつくり、自由を我儘だと見なす傾向を(どうしても)もってしまう。それは、そういうロジックを無意識に採っているからである。

自分たちが無意識にもっている社会観をありのままの姿で一度は暴露して、相対化し、まったく異質の思想と激論を展開することは、真に社会を近代化するうえで大切な事だと思う。

2021年4月30日金曜日

中国による「ディスブランディング戦略」の合理性

 習近平指導部による《ディスブランディング戦略》については、前に一度投稿したことがある。

1978年の「改革開放」以来、ソフトコミットメントを主として来た中国が、にわかにタフコミットメントを次々に繰り出すようになったのは、ソフトコミットメントの《合理的限界》に気がついたからだろう。

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国際外交戦略で《ハト戦略》を自ら選択するという合理的理由はない。

敵対する相手にタカのポジションを譲り、自らは永遠に従属的なハトでいることを覚悟するのは、確かにナッシュ均衡であるが、それは相手のタカの善意を信じ、ハトである自分に強権的支配を振るわないと信じられる場合に限る。

自らがハトであろうとすれば、相手もまたハトであってくれるだろう、と。そう期待する「平和主義者」も理屈としてはありうるが、そもそも心から信じられない相手国が自国の立場に寄り添ってくれて、自国の希望通りにハトであってくれると期待できる理屈はない。

よって、タカ‐ハト・ゲームにおいて、自らハトのポジションをずっと選択し続けるという可能性は、極めて小さい。

必然的にゲームはタカ・タカの状況へ移り、限定戦争の論理が支配することになる。

これが標準的な議論だろう。

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日本のような島国の小国であれば、その態度によってはハトにみえないこともない。しかし、広大な中国がハトの振りをしても、その巨体そのものがいかにもタカである。

そうとしか見えないのなら、実際そうなってやろうと考え始めたのが、ここ数年の中国なのだろう。

大国は奪われる資源を多くもっている。「奪われやすい(=Vulnerable)」のである。大国は潜在的敵対国に「奪おう・支配しよう」という意思を持たせないだけの力を持たなければ自国を維持することができない。

タカはタカになるしかない。大国は、すべてタカになるのが、宿命である。ハトである国として生きていきたいなら、平凡な中小国に分立して、分権するしかない。

アメリカの伝統的戦略は、G. Friedmanが『100年予測』で述べているように、ユーラシア大陸に強大な競合国が誕生するのを阻止するところにある。まして、アメリカがアメリカの価値観から中国の政体を「非民主主義的」であるが故に容認しないという原理主義的姿勢を示すとなれば、猶更である。中国が、今後将来、タカ対タカの米中対立構造を覚悟するのは極めてロジカルである。

★

中国が採ったハト戦略からタカ戦略への急速な方針転換は、いずれそうなることがそうなったとも考えられるし、アメリカの中国観がそれだけ急速に変化してきたことと、ちょうど相互依存的で、裏腹の関係にある。

近年の中国が採っている国際外交戦略は、日本からみれば「ブランディング戦略」の真逆にある「ディスブランディング戦略」にしか見えないが、実は理に適っている「最適反応戦略」になっている。



2021年4月29日木曜日

東京五輪:「不愉快な記憶」だけにはしてほしくないネエ

『ヤッパリ、やっぱりそうなってきたか』という進展の仕方は世の中に多い。だからこそ、投資も投機も、行うだけのチャンスがあるとも言える。

東京五輪と新型コロナ禍。ヤッパリ、そんな風に物事は進んできた。

まずこんな記事がネットにあった。2月下旬である。

現状、東京オリンピックを開催できるか否かは不透明だが、準備するアスリートや関係者、ボランティアは多い。また、開催が決定した際、喜んだ日本人が圧倒的だった。青木氏の目にはそんな状況も含めて、「こんなオリンピック」と開催決定当初から感じていたようだ。

URL: https://news.nicovideo.jp/watch/nw8978329

この「青木氏」というのは、TBSの「サンモニ」こと「サンデーモーニング」にコメンテーターとして出演している青木優氏のことである。

上に「切り取った一文」の前には、次の下りもある:

青木氏は東京五輪・パラリンピック組織委員会委員長の森喜朗氏が一部メディアから「失言」と指摘された上、批判が相次ぎ辞任し、橋本聖子五輪担当相が18日に後任として就任したニュースについて、「進むも地獄、引くも地獄、茨の道ですか。こんなみっともないことが起きちゃって、僕なんかは、最初から思ってたんですけど、こんなオリンピック最初から呼ばなきゃよかったのにな」と笑う。

URL:同上

東京五輪を「こんな五輪」呼ばわりしたというので、ネットでは「失礼だ!」とか、「卑怯だ」とか、結構多数の批判的投稿にあふれたというから、「ムベなるかな」である。

ただ、小生の記憶に間違いがないとすれば、青木氏はそもそも誘致の段階から、「福一原発処理の見通しもないのに、大震災からの復興をアピールするための五輪誘致など、ありえない」という論陣を張っていたように覚えている。なので、理路一貫という観点に立てば、青木氏は「失礼」はともかく、「卑怯」では絶対にありえない。そう思っている。うちのカミさんもまったく同意見であったし・・・(ま、これは関係がない)

***

さらに遡った1年前、五輪は延期ではなく、中止してほしいという世論(?)が急速に高まっており、小生、こんな投稿をして世間を揶揄していたものである。

要するに、「オモテナシ」をするつもりであったが、状況が変わったので「オコトワリ」したいという主旨で、これまた日本国内の世論の一部なのだろう。

小生の目線はその時の目線といまでも変わらないわけで、その点では世論なるものには非常に冷淡だと自覚している:

オ・モ・テ・ナ・シの予定を気が変わってオ・コ・ト・ワ・リにしても世論がそうなら仕方がないが、テーゲーなところで「そろそろ限界です」とあきらめて、あとは一切謝絶するというのも、いったん立候補した開催国としてはいかにも誠実味がなくて、器が小さい話だ。

検査効率化、低コスト化、自動化を叫ぶなら理屈が通るが、GDP第3位の「経済大国」日本が、それもロクに検査もしないうちから、今から敗北主義に立って『検査費がかかりすぎるンですヨネ』と泣きを入れるとすれば、その弱虫振りはやはり恥ずかしいネエ。

いまでも、というか、ますます、こんな風に感じている。 ま、「弱虫」が「弱虫」であることに開き直って「それが悪いことなの?」と反論するのが、いまの流行だということなら、それも仕方がないが、小生はヤッパリ「恥ずかしいなあ」と感じてしまう・・・というのが、これまた、ジェネレーション・ギャップなのだろうネエ、『恥ずかしき事だけは行うべからず』、『恥を知らぬは卑屈の証なり』、そんな時代は夢のように過ぎ去ったのだろう。

ともかくも、"up to you"、「世論」に従うのが「民主主義」という世の中だ。

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ま、これはこれとして、やはり五輪開催の危機(?)に「誘致国」、「誘致都市」としていかに向き合うかという、根本的な「覚悟」がいま問われているのだと思う。

ということは、つまり「誰のために」誘致した、「誰の」五輪なのか?この問いかけではないだろうか?

五輪は反戦と平和を祈念するオリンピック精神に発する運動として誕生した。だから、第一次世界大戦後の1920年、世界的に「スペイン風邪」が大流行しているパンデミック禍の中でもアントワープ五輪は断固として開催されている。 たとえ、パンデミックの中でも五輪を開催することの意義はあると、その当時の人々は考えたわけだ。世界大戦の直後であったという事情もあったに違いない。「平和を喜びたい」というヨーロッパ人の心情がスペイン風邪の怖さを上回ったという事だろう。

ただ、今回は戦火とパンデミックを秤にかけたヨーロッパの中の五輪ではなく、アジアの五輪であり、開催するのも日本人である。五輪に対する思い入れは、おのずとヨーロッパ人とは違いがあるだろう。自ら開催を誘致した国、都市として、冷淡といえば冷淡であるし、要するに日本人が感染の危険をかぶってでも開催する義理はないという心情でもあるのだろう。

ただ100年前のアントワープ大会は、《1920年4月20日から9月12日まで》が開催期間になっている。この半年間の開催期間は、なぜこうなったのかが、調べてもよく分からない。戦争で被災したベルギーの施設整備状況があったのかもしれない。

可能な範囲での開催であったのだろう。

***

いま「東京五輪開催」は是か非かという議論が開催誘致国の日本で繰り広げられている現状は、仕方がないのかもしれないが、開催するならするで、これまでにはない、いかにもコロナ・パンデミックの中で開催するには「こうするのが最良の開催方式である」、そんなイノヴァティブな《提案》を世界に発する。そういう志の高い熱意というか、白熱するエネルギーが現在の日本国内にはまったく見当たらない。感じとれない。ヨーロッパと比べれば、コロナ禍など大した惨状でもないのに、それでもすっかり、すねちゃっている。この点が、戦後日本も75年余りが経過した現今の日本に見てとれる「打たれ弱さ」を極めて象徴するようで、ただただ淋しい。やはり老齢社会というのは「弱い社会」に(どうしても)なるのだろうか?

政府と東京は「開催をごり押ししている」、迎える日本人は「イヤイヤながら、開催に協力する」、こんな状況では参加するためにやってくる人々も《不愉快な記憶》をもって日本を離れるのではないか?

できれば《楽しい記憶》ではないとしても、せめて《感謝の記憶》くらいは、参加した選手、関係者にはもって離日してほしいものだ。


 


2021年4月28日水曜日

政府と国民の「意識のずれ」というより「トップの理想像」を演技しているだけかも

コロナ禍の世の中になってから1年余りが経つ。去年の4月の中頃、大体1年ばかり前になるが、投稿でこんなことを書いている:

何しろ日本では太平洋戦争の勝敗の行方が混とんとしている真っ最中、英米では総司令官が参謀と寝食をともにして24時間頑張っている時に、東京の大本営に勤務する高級参謀は補給に苦しむ最前線をヨソに定時退庁していたと伝えられている、そんなお国柄である。集団主義とはいうものの真の意味で組織が一枚岩になれないところが日本にはある。それは何故なのだろうという問いかけである。

数日前のワールド・ビジネス・サテライトで解説を担当している日経出身のコメンテーターが

いまは明らかに有事ですよね。ところが、日本政府は依然として平時のモードを続けている。ここに意識のズレを感じるという点に国民の不満があるのだと思います・・・

まあ、こんなような趣旨の話をしていた。

太平洋戦争の最前線で赤紙に応召した兵士が、不十分な補給の中で、死を覚悟して戦っている正にその最中に、東京の大本営に勤務する高級参謀たちは、平時と同じ気構えで毎日定時退庁を続けていた。この意識のズレは何だ?

こんな意味のことを1年前には書いたのだが、さてこの話しの出典はというと・・・小生も色々と探してみたのだが、分からなかったのだ。いずれ戦前の帝国陸海軍、中でも「昭和陸軍」の堕落振りを身をもって経験した司馬遼太郎のどれかの作品なのだと思うが、実はほとんど全作品を持っていたのだが、手違いで廃棄されてしまい、いま小生の手元に残っていない。

であるのだが、どこかで読んだのでなければ上のようなことは思いつけるはずもないので、日本の政府上層部の意識は何も変わっていない。それを象徴的に伝えるエピソードとして書きこんだのだった。

***

いま(先日も投稿したように)三島由紀夫の『豊穣の海』を読み返しているのだが、最終巻の『天人五衰』の中にこんな会話がある。ちょうど安永透が浜中百子の部屋に初めて入ったときの日のことだ:

「ひどいわ。箱の番号と中味がちがっていたんだわ。こんなものをお目にかけるなんて。私、どうしよう」

「自分も赤ん坊だったということがそんなに秘密なんですか」と透は冷静に言った。

「あなたって落ち着いているのね。お医者様みたいね」

百子の動顚ぶりに比べた透の冷静、というより悪意のある冷淡さが、とても際立っている場面だ。

***

こんな意識のズレなら、小生も幾度も経験している。

10代の頃、小生は1年に何回かは39度台の高熱を発して、よく病院に連れていかれたものである。そこで母が心配して、医師に問いかけると、

ああ、風邪だと思いますよ~、お薬を出しておきますから、しばらく安静にしておいて下さいねえ~

医師はいつも落ち着いた声音で母に応えていたものである。

もし悪化して、早く治してほしいと患者本人が願うなら、『安静にしてましたか?』と、落ち着いた冷静な声でいうのも医者である。

 ***

戦況が悪化して日本人の全てが不安でたまらない時に、大本営の高級参謀は、その当時の社会構造からそんなことはあり得なかったが、もし議会で戦況を問われれば、

ああ、心配はありませんヨ。いま検討している反撃策を実行に移せば、じきに状況は改善しますから、もう少し、お待ちください・・・

こんな風に、余裕ありげな声音で、冷静に答弁したのだろうと想像される。まさにこれが日本的な政府の典型的イメージなのである。

そして「上に立つモノの不可欠の資質」としては規範があるわけで、それは正にたとえば「風林火山」であるわけだ。

疾(はや)きこと風の如く、

徐(しず)かなること林の如く、

侵掠(しんりゃく)すること火の如く、

動かざること山の如し

原典である『孫氏』はもっと続くのだが、武田信玄が旗印に用いたので有名になった。トップたるもの、むやみに動かず、正に「動かざること山の如し」、これが統治の理想である。こんな感性は結構日本人には受けてきた。これも事実である。

とすれば、《真の危機》というのは、不安な兵(=国民)と冷静な将(=上級国民?)との意識のズレではなく、むしろ負けを覚悟して諦めてしまった国民と敗北必至でパニックになった上層部との《意識のズレ》が露わになったときであろう。上が何を言っても下はもはや上の言うことをまじめに聞かないからだ。

いまは必死(?)の国民と「手を打ってますから、もうちょっと待ってくださいネエ・・・」と冷静に説明している政府との対比が際立つという状態なので、それほどの緊急状態ではない、その意味では《真の有事》ではない。

ま、こんな状況判断もあるのではないかといえば、あるのだろう。 


 

2021年4月24日土曜日

一言メモ: エネルギー計画と新型コロナと、何が本当に重大なのだろう

東日本大震災はもう10年の昔のことになってしまった。

試しに《エネルギー 基本計画》でブログ内検索をかけてみると、出てくる、出てくる。実に大きな問題であったのだ。

今回、菅首相が2050年にカーボンニュートラルを実現して脱炭素社会を実現すると宣言し、そのため2030年までに温室効果ガス46パーセント減少を目指すと世界に公約した。実は、50パーセント削減を強要される対外圧力をも覚悟していたというのだから、もはやこのテーマも待ったなしになった。

覚え書きに上の検索結果をリストアップしておこう:

  1. 総理突出、これは破壊か、創造か?
  2. 意識改革の必要性
  3. 自然エネルギーは原子力の代わりになりうるか?
  4. ドイツの「脱原発」決定に思う
  5. 復興の経過覚え書き(その2)
  6. リンク集 — エネルギー政策・原発・復興構想
  7. 「確実な議論をしましょうよ」症候群の再発ですな、これは
  8. 壮トスルナリ、退陣三条件と震災復興
  9. これまでの超長期・将来予測を棚卸しすると

時系列的には順不同で、網羅的でもないが、きりがよいのでこれ位にしよう。

<2030年までに温室効果ガス46パーセント減>を世界に公約、というのは大変なことである。足元のコロナ変異型抑制、百貨店休業要請など、3年もたてば、誰も覚えていないだろうが、今回の脱炭素化宣言は日本社会を根本的に変えてしまう。どう変えてしまうのかをいま考えなければ、今後の政策は必ずこの方向で進められる。暮らしや雇用に目に見える形で変化が現れ始めてから「情報番組?」を編成しても、時は遅し、なのだ。

ところが、TV放送ではどこもかしこも、緊急事態宣言一色である。日本のマスメディアの惨状にはただ絶句するばかりだ。

わずかに夜10時枠に移ってきた『ワールド・ビジネス・サテライト』がまだニュース番組らしいので、それを観て情報収集の助けとしている。自分で調べるよりは効率的にまとめてくれるので役に立つ。

この「自分で調べるよりは効率的にまとめてくれる」という実感が、TV、新聞などマスメディア企業が存在する唯一の根拠、唯一の存在価値である。

メディア企業自らが、何かを主張し始めて、お説教を始めた瞬間に、なくともよい活動に転化する。存在価値を失う。なぜこんな簡単なことが分からないのだろう。

***

『この簡単なことがなぜ分からないのだろう』と言うなら、ほかにもある。

最近になって、自粛要請に従わない少数の店舗、少数の若者、少数の高齢者がいて、感染抑え込みの障害になっている、と。そんなコメントを放送する「情報番組?」が増えてきた。

「危ない人」がいるのは当たり前である。ごく一部の「危ない人」が「危ない店」に集まるのは当たり前である。なぜこんな簡単なことが分からないのだろう。

8割の人は真面目に要請に応えるが、2割の人は自分のしたいことをするのである。日本人だろうと、外国人だろうと、この人間性は変わらない。なぜ「日本人は特別なんです」とか、「日本人には出来るのです」とか、根拠もなく、なぜ空虚なコメントを出し続けてきたのだろう?

社会で生きている人間は多様なのだ。全員が共同行動をとれると、なぜ信じられるのだろう?小生には、その発想がまったく分からない。日本も外国も同じである。外国で必要なことは日本でも必要である理屈だ。

日本も日本人も何ら「特別」ではない ― 運・不運は、マア、あるだろうが。

***

あおり運転を厳しく糾弾しても、今もなお、あおり運転をするドライバーはいる。飲酒運転に厳しく対処するために危険運転致死傷罪が導入された。もう何年もたつ。しかし、今なお飲酒運転は後をたたない。

法改正をして厳罰を導入しても日本人の一部は国民の多数から期待されているようには行動しないのである。当たり前のことだ。これが単なる「要請」ならもっとひどくなる。何故分からないかなあ、と。コロナだけはその例外的ケースだとなぜ考えるのだろう?

したがって、何かの行動変容を国民として実現したいなら、まず新しい法律を最初に立法しなくてはならない。まずルールを明確化することが第一歩である。

この簡単なことが何故分からないのだろう?

***

理由は明白である。

新型コロナは、感染症としては、真の国家的危機ではない。

政府上層部はそう考えている。これ以外に、この1年間の推移は説明できないのではないだろうか。

であれば、我々、国民の側においても、それほど神経質に、過剰に命の危険を心配する必要はない。

実は、多くの日本人は、口では言わないが、心の中ではとっくにそう思っている。その心が行動に出るのである。そうでないなら、どういうことなのか、教えてほしい。

コロナ禍は現実の問題だ。イデオロギー闘争ではない。だからホンネで議論をしなければならない。タテマエ論は有害無益なのだ。

こんな簡単なことが分からないのだろうか?

コロナウイルスから命を守るとしても、世の中には色々な病気や原因があって、思わぬときに命を落とす。この世の中は危険に満ちている。寿命というのは、究極的には、その人の運命である。こう考える観点も確かにあるといえば、あるだろう。

こういうことではないだろうか。

2021年4月21日水曜日

「価値の共有」・・・「社訓の強要」に似ているかも

今日は徒然なるままに。

どこかの共産主義者が『宗教はアヘンである』と言っている。

それを拡張して小生は以下の警句にしたものだ:

思春期の前は、おとぎ話と冒険譚。

働き始めるとイデオロギーが、

老年にさしかかり自分の人生が見え始めると宗教が、

心のアヘンのようにその人の精神を蝕む。

中には、前をとばして後の段階にいきなり進む早熟な人もいる。ある人は、次の段階に進まず、ずっと同じところにいる進歩のない人もいる。

いま、共産主義の理念を真剣に語る国はない。ロシアはもう社会主義国ではない。中国共産党が統治する中華人民共和国も共産党が一党独裁をしているだけであって、社会主義は既に捨て去っている。理想であるはずの共産主義へ至る夢も内心ではもう諦めているに違いない。経済格差が拡大しているのは、いわゆる《西側諸国》と同じだ。

その《西側諸国》はいまイデオロギーを強調している。何かあると「民主主義ですから」とくぎをさす。論争になると「自由、民主主義、人権、法の支配」という価値を共有できるのかと言って異論を抑え込む。

共有されなければならない価値観に何か言えば、直ちに非難され、『神聖なる価値観を冒とくした』という意味合いの社会的攻撃を受ける。実質的には、宗教による支配に似ている。イデオロギーから宗教へと進む所以だ。

価値観を冒とくするような異論を抑え込むという点においては、西側諸国と現代中国と、お互いに相通ずる面もある。

毎日の朝礼で「社訓」を唱えさせる会社は日本国内にまだあるに違いない。そんな会社のポテンシャルは、低いかもしれず、高いかもしれない。ただ、多様化の時代と整合的であるはずはなく、人は非流動的になり、閉鎖的な社風になるような気はする。

そこにいる人は幸福かもしれないが、途中入社は嫌だろうなあということは分かる。国も同じ事だろうと思う。

上から下へ、あるいは多数派から少数派に、『その考え方はダメだ』ということをお説教のようにあまり言わない国が、住みやすい国である。かつ、生活水準が高ければ、そこで暮らしたいと思う人は多いだろうし、そんな人が普通なのだと思う。


「正しい事」はヒトの頭の中には存在しない。ヒトは何が正しいか決めることは本来はできないはずだ。「法的に正しいことが正しい」という考え方は単細胞の議論だ。法が正しい法であるという前提に立って展開する三段論法の結論として得られるのが「法的には正しい」ということである。全てロジックというのは、この程度のものである。人は経験によって客観的な真理について学べるだけである。意味のある真理は、ヒトの脳みそではなく、外側の自然の中にある。自然の中の人間社会にある。誰であろうと、正邪善悪について何かを語る人は、例外なく間違っている。この当たり前のことを大多数の普通の人が理解してきたのが、近代以降の200年余りの歴史であろう。それによって、世の中はずいぶん住みやすくなってきた。これが小生の基本的な歴史観、社会観なのだ、な。

(小生にとっては)この当たり前のことが分かっている国が、いわゆる《進んだ国》である。反対に、何が正しいかを誰かが判定できると国民が信じている国が《遅れている国》である。「先進国・後進国」という言葉には差別感が込められていると思うが、このくらいの違いは国々の間にあるだろう。

またまた下らないヨタ話を書いてしまった。今日はこの辺で。