2017年12月31日日曜日

「民主主義」も一つの過ぎ行く時代なのだろう

共和制ローマが小さな都市国家から地中海沿岸全域に領土を拡大し、広大な多言語・多民族国家へ拡大した段階で、ローマは共和制から帝政へ変化した。ラテン語は地中海世界でグローバル化した。「ローマ帝国」がローマの誕生以来ずっとあったわけではない。むしろ「帝国」が存在した時間は短いのである。

ローマが登場するより以前、古代ギリシア世界は元来は小さな都市国家の集まりだった。民主的なアテネは集まりの中の一つに過ぎなかった。スパルタには王がいたが、専制的な権力はもっていなかった。ギリシア世界は多数の都市が相互に平等な立場でつくる連邦世界だった。ところが巨大なペルシア帝国に勝利し、エーゲ海、地中海の覇権を握るようになると内部対立が激化し、ペロポネソス戦争が勃発した。民主政治は衆愚政治へと堕落した。結局、ギリシア世界は北辺にあるマケドニアによって軍事的に統合された。アレクサンドロスが王として統率したギリシアは宿敵ペルシアを打倒して、宏大なヘレニズム世界を作った。ギリシア人とギリシア語は東地中海世界でグローバル化した。

戦前期・日本が軍部独裁へ舵を切ったのは、第一次世界大戦後の激変する世界の中で日本が「植民地帝国」を志向し始めたとき、解決するべき外交問題、国内問題に直面したときだった。

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周期的に到来する<激動期>にあっては、しばしば民主的体制が放棄される。権力が少数の(一人の)人間に集中化される。しかも、その政治体制の変革は国民の自発的意思によることがある。その理由は、その時期に解決するべきであった問題の解決に効率的であったからだ(と思う)。

解決するべき問題を社会が抱えているとき、民主主義体制が最も理性的かつ合理的にその問題を解決できる保証は必ずしもない。この点は既に論理的に証明されている(アローの不可能性定理)。しかし、一人の人間が一貫して意思決定するなら、(ある意味で)合理的な解決を期待できる余地が生まれる。

上の問題について復習したいと思っているのだが、時間がとれるかどうかわからない。Deep Learningと伝統的な時系列分析との本質的な違いも洗い直しておきたいし。

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人間の社会は常に解決するべき問題をかかえている。社会は常に問題解決を迫られている。

というより「生きる」という行為は「問題を解決する」という行為と同じである。衣・食・住をどうするか。このことが既に問題解決の一つだ。

問題を解決するにはコストがかかる。故に、<コスト最小化原理>に従って社会は意思決定をするはずだ。これを環境適応のための集合知であると見れば、人間社会も自然史の一部であると考えればいいことになる。もし人間社会のありかたが民主主義社会から君主専制社会に変容するとしても、これまた合理的な理由に根拠づけられているはずだ。善悪ではない。正しいとか、間違っているとかではない。

社会が変容していくプロセスに正邪、善悪という倫理的な価値を適用するのは適切ではない。社会の変容に関する研究では観察と分析と予測だけが意味をもつ。

先入観は禁物である。信念は単なる思い込みであることが多い。人間個人個人に当てはめる価値観を、ヒトは社会に対しても当てはめるという誤りをおかすことが多い(本当は掘り下げて述べておくべき所だが今日は省略)。

2017年12月29日金曜日

一言メモ: 劇場型世の中のまま大晦日になったか・・・

申酉騒ぐの格言が株式市場にはあるが、今年はその格言通り、実に騒がしい世の中だった。そんな今年の世の中で最後を飾る大騒動が角界を騒がせている事件である。とうとう全面解決は年明け後。本当に解決できるのだろうかと。そう思わせる不透明感を残したまま、とうとう明後日が大晦日になった。

年の瀬である。

年の瀬や 力士雪駄の 音とおく

今日もカミさんとワイドショーを見ながら話したものだ。

小生: 第一幕、第二幕があったね。貴ノ岩に対する日馬富士の暴行傷害。次が貴乃花親方の処分問題。被害者がなぜ処分されるのかっていう人も多いけどサ、一言で言うならアレだね、『八角理事長と貴乃花親方の喧嘩』だよ。
カミさん: そうねえ、貴乃花親方は役員として何もしてないのは事実だしね。上が怒るのは当たり前ね。怒る気持ち私もよくわかるよ。自分ならああはしないっていう気持ち。警察に届けた時に、一言でいいから『こうしましたから』って相撲協会に電話すればよかったのに。 
小生: 暴行があったと分かって、まず警察に被害届を出して、協会には電話で一報する。それから巡業部長の職権で現場にいた白鵬や鶴竜たちを呼び出して、事情を聞いていたら責任者として満点だったサ。もしその時に白鵬たちが嘘をついていたら、今頃はそろって出場停止になっていたかもしれないよ。日馬富士だけが一人引退するという形にもならなかったかもしれない。事件が「実質、集団リンチ」だと感じたんだったら、理事の辞表を理事長に出してサ、まあ受理はされなかっただろうけど、『これからは親方として行動します、事件を解明します』って、そう言ってサ、徹底的にやる。これは清々しいよ。もしそうしていれば、貴乃花親方をいま処分するなんて、絶対にできない。その方が良かったのじゃないかねえ。
カミさん: なんでそうしなかったのかなあ? 
小生: そりゃあ八角理事長が嫌いだからさ。全然信用してないんじゃない。馬が合わないってやつサ。『あいつの部下にはならない』、そんな気持ちは僕にもわかるんだよね。でもサ、相撲協会を運営する<責任>を負った二人の役員どうしが喧嘩しちゃってる。そんな図式だよ。東芝もそうだったしね、会長と社長がいがみ合ったり、喧嘩したりサ。シャープもそう。内紛を起こすと何かトラブルが起こるものさ。珍しくもないよ。八角理事長が何かいっても貴乃花親方は言うことを聞かない。理事長の指導力ゼロだよね。貴乃花親方もこちらはこちらで役員の責任をまったく自覚していない。果たそうともしない。前頭とか三役とか、その辺出身の親方衆が人数的には多いんだけどさ、前の北の湖理事長が亡くなった時に、これから誰がまとめられるんだろうって、すごく不安がっていたそうだよ。実際、心配のとおりになってきたわけよ・・・。情けないねえ。大黒柱なんだからさ、よく相談して、協力して、相撲を発展させていかなきゃならんのに。何だろうね。大黒柱の二人がサ、話しもロクスッポしないで、喧嘩して。もういい加減にしてくれやってサ、そんな気持ちじゃない? 周りの親方衆は。 
カミさん: そうだろうねえ。 
小生: 第二幕の決着は、ズバリ、<喧嘩両成敗>。これがベストだよ。そのあとは、まったく色がついていない人達が中心になってフレッシュな体制で運営すればいい。長期的根本的に一挙解決なんて無理。意固地になってる八角さんと貴乃花さんには、誰かもっと上の人が「もういい! 二人とも出て行きなさい!!」とね、この一喝で一件落着にすればいいさ。 中途半端にファンの心情とか、これまでの貢献とか、まさか世論なんて言う人はいないだろうけどサ、そんなことを言っていると、禍根を残すネ。
カミさん: だれが言えるの、そんなセリフ? 
小生: そうだなあ・・・まあ・・文化庁、いや違う違う、スポーツ庁長官あたり? それとも評議員会の議長、池坊さんかね(笑)。 
カミさん: 言えないヨ
今回の事件は、あれもある、これもあると話を広げるような大問題ではない。

相撲界とは、ソモソモからして、ああいう世界なのである。それは長期的、計画的にだんだん改善していけばよい。流石に21世紀の日本社会からは余りにずれているところもあるから。どうしてもああいう体質が嫌いな人は本場所にも巡業にも行かないはずだ。TV中継も翌朝の新聞記事も見ないはずだ。かたや熱心なファンもいる。だからこそ相撲は江戸時代からずっと続いてきた。そんなファンは相撲のことを詳しく知っている。「人情相撲」と「八百長」の微妙な違いも感覚的に鋭敏に分かるというものだ。「シバキ」や「シゴキ」と「暴行」との区別だって分かる。ファンをバカにしちゃあいけない。相撲協会も自分たちを支えているファンをバカにするはずはないのである。いくら相撲に無関心であっても相撲が好きだというファン気質を否定できる立場にはいないでしょう。世間の常識って奴を「伝統芸能?」とも言える世界に杓子定規に当てはめたりしたらどうなりますか? 相撲どころか、歌舞伎だって能だって男女雇用均等法に違反するっていうものでござんしょう。仏教の主要宗派の座主はなぜ男性ばかりなんでござんしょう? おかしいじゃありませんか。 そういえば、キリスト教のローマ法王だって男性ばかりでござんしょう。 民主主義の発祥の地、イギリスだってカンタベリー大主教は男性ばかりだ(そのはず)。すべてこれ「伝統の重み」、そうとしか言えませんヤネ。「こうなっている、それが何か?」、それで終わりってもんです。いま生きている人たちの「世間の常識」はオールマイティではないのだ。もっと重みのある「伝統」って奴がある。

それでも、あまりに普通の人たちを絶句させるような慣習は ― 本当に絶句しているのか、ほんとはある程度理解しているのか不明だが ― 、「非常識」だと言われてしまうわけで、そういわれてしまうと、マア仕方がない、居場所がなくなる。それでは困るでしょう、と。問題の根幹はここにある。相撲界とは何しろチョンマゲを結う世界なのだ・・・『鎌倉物語』の魔界ほどではないが、娑婆と一緒くたにすると、それでも相撲の魅力は守られますか?これが真の意味での大問題だと思うのだが、いかに。

以上、長々と述べ来ったが、しかしこのことと、飲み屋で発生した暴行傷害事件の審判。役員の責務を自覚せず理事長に喧嘩をふっかける理事の処分。その理事をどうすることもできない理事長の進退。この三つは独立して処理できる、というより国技を守る公益法人として処理すべき問題だ。

小生の個人的感想:
Get out,  you, and you!  You, get out!! Get out here!!! gehhht ou~~t!!!!
こんなところか。

相撲という「国技」を今後も一層国際化していくことの是非はまた別の機会に。

2017年12月28日木曜日

慰安婦問題再燃は韓国政府の意思であるということの意味は何か?

先日投稿したとおり、いま従軍慰安婦問題を単に日韓関係から考えても本質が見えなくなっている。先日はこう書いている。
韓国という国は、中国が対日優位を構築するために間接的アプローチをとるとき<役に立つ駒の一つ>になりつつある、というよりなったと思ってみている。韓国の最適反応戦略は(中国からみると)極めて分かりやすいから。
明治以来、日本は朝鮮半島を国防上の最前線と見なしてきたが、いま現代において中国からみても朝鮮半島は地政学的にも、歴史的にも、自国防衛上の最前線としてみていることは自明だろう。
韓国の外交行動は中国の戦略的意図の反映であるとみる視点が大事だ。韓国もそのことを理解しているはずだが、ナッシュ均衡を崩すための勇気あるコミットメントを政府が行うには常に政治基盤が不安定である。
朴槿恵前政権との間に成立した「日韓合意」の検証結果とそれに対する所感が文在寅大統領から発表された。「政府間合意によって従軍慰安婦問題が解決されるものではない」という風な見方は当然予想されるものだった。まあ、聞き様によっては(というより、直ちに)本件に関する外交的努力そのものを否定するものになった。

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さて、

設問1: 今回の判断が韓国にとってプラスになると韓国政府は考えているのか?
設問2: 今回の判断が韓国にとってプラスになると韓国政府は考えていると韓国国民は考えているのか?
設問3: 今回の判断が韓国にとってプラスになると韓国政府は考えていると韓国国民は考えていると韓国政府は考えているのか?
・・・以下、無限に続く。

すでに、韓国は韓国政府と韓国国民との間で展開されている展開型ゲームのプレーヤーになってしまっている。これが一つの見方かもしれない。いや、韓国国民も幾つかの対立するセグメントに分割して分析するべきかもしれない。

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上の設問は日本政府や日本国民にとっても解くに値する面白い問題であるかもしれない。

しかし、解いたところで問題そのものがエンプティで内容空虚な戦略ゲームであることは確かだ。むしろ、中韓関係においては中国がリーダー、韓国がフォロワーであるのは明々白々たる事実であると認めるべきだろう。

だとすれば、従軍慰安婦問題に関する韓国の対日外交ゲームにおいて最大化されつつある利得は、韓国の国益というより中国の国益であるとみるべきで、中国の戦略に反応する韓国の行動が中国にとっては予測可能であるが故に、中国は中国の国益が最大化されるような韓国の対日外交を韓国が自ら選ぶように中国は対韓外交を展開している。そう見ると状況の変化がよく理解できるのではないだろうか。

要するに、韓国は中国の駒として利活用されている。今回の韓国の判断は中国の対韓外交の中で予想しておくべき一つのステップと見るのが合理的ではないか。

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韓国は韓国で韓国の国益を最大化しようと努力しているはずだが、その努力を先読みして、中国にとって最も利益にかなうような韓国の行動を導くような戦略を中国がとっている。そう言ってもよい。

なので、韓国の今回の判断に対して日本が予想されるような反応をとれば、それがまた中国側の国益に寄与することになろう。

中国側の国益ということは、日本にとっては戦略的損失に近く、アメリカにとっても現在の日米韓の枠組みを前提すれば戦略的損失かもしれない。

歴史問題に関連して日本の対決的姿勢は韓国が想定している反応であり、韓国(及び中国)が最も緻密な外交戦術を構築している領域だろう。相手の予想する行動はとらないのが紛争で優位を得るための王道である

「相手が予想する行動はとらない」。どのような戦略的ゲームであっても優位を形成するための王道である。

2017年12月25日月曜日

自治体首長の不祥事を繰り返さない特効薬?

福井県の「あらわ市」というのは不勉強にして知らなかった。その町の市長が誠に恥ずべき破廉恥行為をしたというので騒動が起きているようだ。

その「あらわ市」だが、福井県のどこにあるのかと思って調べると、「なんだ、芦原温泉か」、と。「芦原の名前を残した方がよかったのじゃないか。どこと合併した?金津?「金津」とのバランスをとった名前かな・・・。どうも「民主主義」っていうのも問題だねえ・・・」と。誰もが知っている有名な名前なら残せばいいじゃないかと思ったりしたのだ、な。

それにしても、この市長がTV画面に出てくると情けなく思うのは地元有権者が一番であるに違いない。

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思うのだが、いっそのこと戦前期のように「官選知事」、「官選首長」に戻したらどうだろうか。

戦前期には内務省が人選し中央の官僚を知事として都道府県に派遣していた。都道府県は国の出先機関であったというのはこの側面を指しての事だろう。戦後になって地方自治の観点から地元で選挙を行うようになったのだ。

但し、「官選知事」と言えばいかにも中央集権のように感じられるが、市町村長の方は地元の議会が決めていた(市長は市議会の推薦に基づき内務省が任命)。戦前であっても実質的には自治の側面があったわけである。

さて今日、地方自治の理念はともかく、現実には出来る人がいなくなりつつある。知事であれ、市町村長であれ、国に首長の派遣を要請する選択肢を設けておいてはどうかというのが、本節の主旨である(実際には知事職の場合これに近い状況がすでにあるという指摘もあるが)。

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もともと江戸時代には地方分権の幕藩体制をとっていた。その日本が、明治維新で中央集権体制へ移行した。が、各地方の指導層がすべて東京へ移住したわけではない。元士族、地主層・酒屋など豪商層は地元に居住し、その後の保守政党の支持基盤になっていった。統合を維持するには中央から官僚を派遣し、首長として中央の意思を体現させる必要性があった事情もよくわかる。

それが、戦後になって地方自治の原則が確立された。と同時に農地解放が徹底的に行われた。地方自治が確立されてからは次第に地方が空洞化し、中央集権であった戦前期には各地方に分厚い指導層がいた。皮肉なものである。

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最近は県庁の試験に合格しても辞退率が高いそうだ。小生の地元である北海道では道庁の辞退率が60%に達したという。どこに流れるかといえば、国家公務員もそうだが、それよりは市役所に流れるそうである。近年、市役所、町村役場は人気職場なのである。優秀でやる気のある若年層が市町村に集まりつつある。

これをどう考える?

市町村は行政の最前線である。そもそも住民の収入状況は税務署よりも市町村のほうが細部まで把握しているのだ。情報は昔から市町村にあった。人が情報に追いついてきているのだ。

都道府県庁は何をやるところなのか。

「地元」は市町村であると割り切り、都道府県は戦前期のように「国」の地方機関として割り切る。地元と中央を繋ぐ要として機能させる。案外、この方が効率化されるのではないだろうか。

だとすれば、地方分権を進めるプロセスで節約できるところは多々ある。最近、そんな風に感じることが多い。

市町村に人材は集まりつつあるのだ。地方自治を徹底する上で困らないはずだ。

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地方の首長のレベルダウンは、地方行政の衰退、地方自治の衰退、国力の衰退につながる。

しかし、市町村にやる気のある若年層が集まりつつあるなら、たとえ市長がバカでも捨てたものではない。なまじ「政治主導」とか「トップダウン」などと言わなければよいのだ。

そのためにも「選挙による人選」は再考する余地がある。この点は前にも一度投稿したことがある。

2017年12月23日土曜日

日本的=非論理的ということなら情けないネエ

春先の森友騒動、加計学園騒動でも顕著に感じたのだが、「それは●●だったのではないかと思う」という関係者の発言に対して、「そこが世間の常識とはかけ離れている」という無関係者の非難が声高に殺到する。そんなことが多いように思う。

今回の角界騒動もまったく同じである。

政治を話題にしても、相撲を話題にしても、日本で繰り広げられる議論というのは、最後には論理的関係性にはまったく目を向けずに、「違和感を感じる」とか、「怒りを感じる」という文字通りの情緒論へ落ちてしまうのが、不思議でしようがない。

「感じる」というのは感覚、つまり情緒であり、普通の人は最初に感じた後はすぐに冷めてしまい、やがて頭(=理性)を使って「なぜこうなったのか」と考えるようになるものだ。だから、不思議なのだ。「●●には違和感をもつ」などとこの時期になっても語る。要するに、これまで無関心だったのであろう。

いや、そもそもそういう国民性なのだと、これが<日本的情緒主義>なのであると、こんな風な言葉で総括しなければならないのだとすれば、本当に情けないと感じる。

前にも投稿したが、感情はその一瞬間の動機だ。爆発すればすぐに落ち着く。せめて理性的な、でなければ特定の理念から出発した筋を通した意見を読んでみたいものだ。

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力士に対する研修会で理事長が語ったというその話し方が非難されている。

何気ないちょっとした気持ちでやった暴力が、ここまで組織を揺るがすような羽目になってしまうと。本人たち個人個人の自覚を持って行動するようにと促しました。

(出所)LIVEDOOR NEWS, 2017-12-22配信

これに対して、「だから非常識だ」等々の非難が殺到している(という様子だそうだ)。

かと思うと、

タレントの松本人志にも喧々轟々たる非難が寄せられているという。
「相撲の世界で、土俵以外のところで一切暴力がダメっていうのは正直ムリがあると思うんですよ」―。
2017年12月3日放送の「ワイドナショー」(フジテレビ系)で、ダウンタウンの松本人志さん(54)が元横綱・日馬富士の「暴力」を肯定するような発言をしたことが、波紋を呼んでいる。
(出所)J-Castニュース、2017-12-03配信

 要約すれば、前者は横綱が殴打事件を起こしてしまったのは、「それほどの大事ではない」という感覚でやってしまった。理事長はそう言いたかったのであろう。つまり、稽古の場の延長という意識ということだろうか、つまりそこに角界の「暴力体質」もあるわけであり、力士という普通の日本人とは違う人間集団の感覚がそこから窺われる。まあ、そういう風に受け取ればいいわけで、『暴力肯定はけしからん』どころか、問題解決への一つの方向を示す役に立つ言葉ではないかと小生は受け取った。この辺に解決に至る道がある。問題の根っこがある。そういうことだ。『暴力による躾も必要です』というロジックを理事長はまったく主張していないのは自明である。

タレント・松本による後者の発言はまた割り切った立場だと思う。しかし、言葉は言葉として、「このような言葉は、どのような前提から出てきうるものであるか?」、「それならば、何が言えるか?」という思考を頭を使ってするべきだろう。本割でかちあげ、張り手がある以上、力士たるもの稽古の場ではもちろんのこと、<行住座臥>、常に修行をしている、稽古をしている、そんな感覚を求めるとしても、相撲とは無関係の普通の人が「それはダメだ」と激怒するようなことだろうか。

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そもそも叩くのが一切ダメだというなら、禅宗の警策でビシッと叩かれても時には怪我をするらしい。叩かなくともいいではないか。肩をポンとたたくだけで十分だろう。現代日本人ならこんな提案に賛成する可能性が大である。

というか、いわゆる<荒業>という厳しい修行は本当に必要なのか?火渡りとか、釜入りがなぜ必要なのか?「必要であることを科学的に説明せよ」などと言い出せば、仏教という宗教自体が成り立たなくなるのではないか。伝統文化を単に破壊しているだけではないのか。そう思う。このように一つの時代、現代に生きている<自分たち世代>だけの価値観に基づいてすべての文化的遺産の是非善悪を単純に割り切る態度は傲慢というものであろう。そう思うネエ。世界の潮流であるマルチ・カルチュラリズム(Multi-Culturalism)に反しているのではないかと。そうも思うのだ、な。

物事を議論する時には、確かに「どう感じるか」が大事である。しかし、論理も重要である。論理は国を問わず、時代を問わず普遍的説得力をもつ。が、論理のみが重要であるわけでもない。継承された文化には引き継いでいくに値するものが多く含まれている。先立つ世代への敬意や共感も欠かせないのではないか。現世代が、現世代の価値観のみにたって、引き継いだものを解体する権利はない。これまた一つの観点でありうるだろう。

何かを共有するためには、共有しようとするものを、成り立ちから歴史を含めてよく知らなければならない。目で見て、長い時間をかけて触れなければならない。

そうでなければ、要するに素人であり、「お客さん」である。あまり口を出すべきではないだろう。

このあたり、小生は超の字がつく保守主義者であり、しかもヘソ曲がりなのだ。

相撲の本場所にカネを払って足を運ぶことも、テレビ中継を毎日観ることもしない現代日本では普通の人々が、その時の情緒の赴くままに語る言葉はなにか考慮する価値があるのか、と。あまり役に立たないのではないか、と。そう思うネエ。この階層は、本音では無関心である故に、相撲協会の存続や利益にとって何かしてくれるなどとは期待できない階層であろうし、貴乃花部屋にとっても意義がない階層であろう。また、相撲という伝統行事(?)の発展にとっても、あてにはできず、貢献も協力も期待できない階層である。なので、影響力を行使する階層では本来はありえない。これがロジックだろう。

要するに、「何のしがらみもない」人たちであるわけで、言わば「お客さん」、というより「縁のない人たち」である。かような方々が語り合う井戸端会議が盛り上がるとしても、これまたビット・バブルと同じような種類の「井戸端バブル」と命名するのが適切な社会現象かもしれない、と。どうも斜に構えて、そう感じてしまうのだな。

角界は、角界を支えている人々の意見と、本音では相撲はどうなってもいいと思っている人々の意見を、よく聞き分けて「腰を割って」結論を出してほしいものである。



2017年12月22日金曜日

ビットコイン相場の小さな破裂(?)と最近のTV放送

ビットコインの相場急騰については最近になって2回投稿した。

その舌の(筆の)根も乾かないうちに以下のような記事がBloombergに出た。
仮想通貨ビットコインは22日に一時15%下落し、今月の日中最高値からの下げは30%を超えた。

  ビットコインは1万3048ドルまで下落した後、香港時間午後0時7分(日本時間同1時7分)時点で1万4079.05ドルに戻した。ビットコインは最高値1万9511ドルから下落しているものの、年初来ではまだ1300%余り値上がりした水準にある。

  オアンダのアジア太平洋担当トレーディング責任者、スティーブン・インネス氏は、投資家が「現実を直視」していると指摘。「問題の核心にあったのは、供給が限られる中で熱狂的な需要があったことだが、ここにきて経験の浅い投資家が高値で貧乏くじを引く事態につながっている」と述べた。
(出所)Bloomberg, 2017-12-22配信

既に今月の高値に対して3分の1下落したわけか・・・。300万円ほど買っていれば100万円損が出たことになる。

現在の資本市場、国際商品市況の流れをみれば、そうそう急に下落率が90%を超えて、高値比でたった1割の価値にまで低下するという可能性はあまりないように思われる。下がった時点で「いまが買い時」と判断する投資家(投機家?)が少なからずいるように思う。

しかし、小生は株式市場にはずっと関心を持ち続けているが、債券はおろか、外為、ビットコインにも全く興味がわかない。

なので、ビットコイン相場がこのままジェットコースターのように奈落の底へ沈んだとしても、「こんなこともあるんだねえ・・・」と、それなりに納得すると思う。株価では企業が実態として存在するので、(絶対にとは言わないが)あまりないことだ。

最も罪深いのは、日本のテレビ局である。今まで無関心のままで来て、相場が加熱し騰がりきった状況になってから、日本国内の民放、さらにはNHKまでもが、ビットコインの騰がりっぷりを放送するようになった。中には『いま買わないのは嘘だと思います!』などと登場人物に言わせてもいる。投機を煽るようなことを公共の電波を使って堂々とやっている。

半年前ならまだ罪は軽かった。乗せられた人もそれなりに利益を出せたであろうからだ。正にピークをつけようかというその時に「ビットコインのブームはいつまで続くのでしょうか」とは、それはないだろう。実に無責任である。もっと勉強して、早めに番組化するか、乗り遅れたのならもうとり上げないことだ。

最近のテレビ局の番組編集は余りと言えばあまりの不勉強ぶりが露呈して― というより不勉強な人たちが顔を知ってもらうための場になっている? ―、むしろ営業を停止するほうが社会のためであると思わせる時がある。審査を厳格化し、場合によっては改善命令を出せるようにしておき、必要なら一定期間営業を停止させる方向で放送法を改善するべきではないかと思ったりする。

まったく憤慨にたえない。




2017年12月21日木曜日

ビット・バブルの崩壊まで1年から1年半が目途だろうか

相撲界の騒動もチョット・バブル気味である。

最初の暴行事件から事件は拡大し、とうとうモンゴル力士の存在意義、相撲界の異質性など、今後将来にかけて相撲はどうなるのだろうかというレベルにまで議論が広まってきてしまった。

しかし、そもそも論から考えてみようではないか。

裸にフンドシを、いやいやマワシなるものをつけて、頭にはチョンマゲを結って、四方を青龍、朱雀、白虎、玄武を象徴する房で飾った土俵にたって、四股を踏み、柏手をうつ。そうしてから立ち合って闘技を行う相撲というものは、現代日本で総称している「スポーツ」に該当するのだろうか?

相撲はスポーツなのだろうか?小生、個人的には疑問なしとしない。むしろスポーツ庁管轄でなく、神社本庁が管轄するべきではないか。そうでないなら、伝統芸能の一環と認めて、文化庁が所管するのが適切ではないか、と。そんな風に思われたりするのだ。

勝負が相撲の本質と考えるならスポーツになるが、姿・所作・作法が相撲だとみるならスポーツではない。小生思うに、相撲から所作や作法をとってしまえば、レスリングになるのではないか。一つだけ言えることは、相撲は二つのボーダーラインにあって、純粋のスポーツだというなら本質を外すことになるだろう。

マア、とはいえ、ともかくも国家公認の興行事業であるとすれば、今回のようにあからさまな暴力傷害事件が発生すれば、該当者は処罰されるのが当然だろう。

◇ ◇ ◇

さて、今回、本当に力士同士の暴力事件が発生してしまった。その理由は、色々と言われているが、要するに「礼儀がなっていない」、「そこまでするのはやりすぎじゃないか」。ありふれたことである。

相撲は日本古来の闘技である。力士の精神 ― 武士道といってもよいだろうか ― にそって考えればどうなるのだろう?

もし、相撲の力士が日本古来の大和魂を象徴する存在であるなら、武士道の伝統に沿って「喧嘩両成敗」で暴力事件にかかわった双方を罰するのが適切だ。そう考えるのが本筋ではないかという意見もありうる。

しかし、今回のケースでは片方は手を出していない。身をかばっている。それなら「まことに殊勝である」とし、手を加えた者のみを処罰する。このほうが近代的であるかもしれない。吉良上野介は江戸城・松の大廊下で浅野内匠頭に切りつけられた。吉良上野介もなぜ切り付けられたのか、(小説ではなく事実としては)分からなかったそうだが、自分は抵抗しなかった。多分、殿中儀式の作法を指導していた若い大名からいきなり「遺恨あり」と切り付けられただけなのだろう。アンラッキーな人である。悪いのは手を出した浅野である。やられた吉良は悪くない。が、この判断は正に浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた科をもって切腹を命じた将軍・徳川綱吉と同じである。

将軍綱吉は非常に近代的であったことがこの点からも分かる。しかしあまりに近代的であった。「喧嘩両成敗」は武士の習いであると討ち入りを果たした赤穂義士を当時の庶民は拍手喝さいしたのである。片手落ちの処断は日本人の好むところではないようなのだ、な。こんな心情は、相撲に無関心な一般的な日本人ならいざしらず、相撲ファンはひょっとすると気持ちとして持っているかもしれない。

やられた貴ノ岩関。高校の恩師、知人の前で殴られたのがたまらなく『恥ずかしかった』と、そう語っているそうだが、この気持ちが小生にはもっともよく分かる。日馬富士ファンから貴ノ岩がどう見られるか。今後の様子が目に見えるようである。

思わず忠臣蔵の話にしてしまったが、浅野内匠頭=日馬富士、吉良上野介=貴ノ岩とすると年齢が合わないし、役回りも逆だ。今回のケースは、吉良上野介が「なっておらんぞ」と浅野内匠頭を厳しく叱責、殴りつけたところ、(歴史とは逆に)内匠頭は殊勝にも手を出さずジッと我慢をしていた。その事が露見したため、吉良上野介のみが幕府から厳罰を下され所領没収となる。そんな図式だ。だから、遺恨を含むとすれば吉良家の側である。

まあ、世論をきくのが民主的であるのであれば、それが駄目だと主張するつもりはないが、普段は相撲に何も関心をもっていない人たちが持っている<世間の感覚>や<ビジネスマンの常識>に沿って、形式的議論と論理的な結論で幕を閉じるとすれば、失われるものは結構多いのではないかと思っている。

◇ ◇ ◇

世間話が長くなった。本題は、わずかだ。

金利の長短スプレッドは典型的な景気先行指標である。アメリカの金融市場から確認すると現時点で以下のようになっている。

(出所)FED St.Louis, FRED

現在は、まだ長短金利がフラット化しつつある景気拡大段階にあり、リスクが意識される景況からはほど遠い。

世界景気がシンクロしている中では日本経済も米景気とそれほど違いはない。そんな中でビットコインの相場が急騰している。既にバブルであることは確実である。問題は、バブルの持続期間いかん、この点だ。

2008年9月にリーマン危機が勃発したが、その前年2007年7月にはパリバ・ショックが発生していた。アメリカのサブプライムローンがいつ爆発してもおかしくない不良債権であるという意識は浸透していた。実体経済は2007年10月から12月にかけてピークアウトしていたことはその後の経済指標から明らかになっている。

パリバショックからベアスターンズ、そしてリーマンと危機の意識が芽生え、実際に爆発するまでに優に1年は経過している。金融の脆弱性の高まりの中でアメリカ議会や財務省、金融当局が必ずしも最善の判断を下しえなかったことも無視できない。

金融上の混乱の背後には、混乱を招いた欲深い人たちに対する世間の冷淡な視線と、そんな世間の感情に配慮せざるを得ない政府の姿勢、この二つの組み合わせがほぼ常に存在している。

世界景気は来年も上昇すると予想できるし、ビットコインをいま買い入れる人たちですらも利益を出すことができると思われる。資産を20倍に増やす人も出てくるだろう。しかし、そのことが世間の嫉妬や反発、非難の感情を醸し出す。そんな世間の感情に(又もや)マスメディアが悪ノリする。最初の偶発的なビットコインの相場下落で大きな損失を被ったときに、あらゆる民放のワイドショーが「これは自己責任でしょう」などと言い立て、それが<世論>というものを形成してしまうと、再び日本経済は不必要なマクロ経済的混乱に陥る可能性が高い。

思い起こせば、1980年代のバブル景気も、賢明な政策を展開していれば、あれほど酷く崩壊することはなく、失われた20年にはならずともすんだ確率が高い。今ではそう考えられている(とそろそろ総括してもよいだろう)。上がった地価を(少々)叩いてもいい、株でもうけた人は(少々)たたいてもいい。そんな世間の感情が時にどれほど酷い経済的惨事を引き起こすか。記憶するに値すると思う。『二度とあやまちは犯しません』、そう言ってもいいくらいだ。

願わくば、ビット・バブルが最初に少しはじけたとき、その時には政府は<非民主的>に<世論は無視して>、そのうえで<賢明な>政策をとってほしいものである。

・・・

普段は経済問題のことを考えたことのない人たちが、にわかに興味をもち投機で失敗した人は自己責任であると言い立てても、そのような世論が経済をマネージするのに役に立つことはほとんどない。これが経験則であるのだから。

ウ~ム、相撲のことから経済の話をしたが、なんとなく論旨が似てきたようだ。不思議だ。


2017年12月17日日曜日

英国・大陸欧州: BREXITは第2段階へ・・・について

私事に渡るが、今日は亡くなった小生の両親の結婚記念日である。生前、二人は自分たちの結婚記念日を祝うという習慣はもたなかったが、それでも知識として覚えているのは、多分、母からきいたのだろう。

さて、

視線の長い中国もそうだが、概して西欧、ロシア、アメリカなど外国は物事を考えるときの時間軸が相当に長い。
[ブリュッセル 15日 ロイター] - 欧州連合(EU)首脳は15日、英国のEU離脱(ブレグジット)を巡る交渉について、移行期間や将来の通商関係を協議する「第2段階」に入ることを正式に承認した。
(中略) 
伝統的に英国と親密な関係を続けてきたオランダのルッテ首相は「英国の金融部門はEU離脱によってかなり不利な立場に置かれる」と指摘。離脱によって失われる利益をメイ首相は有権者に説明する責任があると述べた。
(出所)ロイター、 2017年12月17日配信

ロンドンの金融中枢機能が衰退すればポンド相場は超長期的に下落トレンドをたどるだろう。それは英国内製造業にとっては追い風となり、英金融業にとってはマイナス、大陸欧州の金融機関にとっては福音となる。つまり大陸欧州の製造業にはプラスとはならない。

19世紀から以降、英国は最初は製造業で産業革命をとげ、その後は世界の金融センターとして国富を形成した。

21世紀も中盤の入り口にさしかかり、英国は「昨年の災いを転じて将来の福となす」戦術をとっている、つまり英国は永年の国家戦略を徐々に主体的に改めつつあるのかもしれない。

人工知能(AI)、仮想通貨の登場がきっかけになり、今後将来、最も経営リスクを負っているのは典型的には金融業だろう。日本国内の銀行が「失われた20年」から脱出したのもつかの間、再び「構造不況業種」であると形容されるようになっている。

ヒトの生活の実質的部分はモノ作り産業が決める。というより、知能が決める。もはやカネではない。雇用吸収力も、最悪の場合すべてが人工知能(AI)に任されてしまうかもしれない金融業に比べれば、まだモノ作り産業に未来があるだろう。知能が情報をメカニズムとして管理する時代がくれば、その拠点が世界の産業センターになるだろう。

永年のドル箱であった金融業を熨斗をつけて大陸に下げ渡し、その代わりにモノ作り産業の復活に向けての追い風を掠め取るという意図を隠しているのだとすれば、その昔、ゲーテが英国を評した言葉通りのことをまたイギリスは国家ぐるみでやっていることになる。

2017年12月15日金曜日

ビットコイン: 「根拠なき熱狂」が「愚かな熱狂」になるのでは?

先日、大学の同窓会(らしきもの)が小生が暮らす町の一隅であった。どの参加者も大学に縁があり、社会科学を専攻している人である。となれば、談論風発する中で必ず話題になるのはカネの話である。

英株が課税上有利なこと、米株や仏株に比べて英株は投資する側から見ると、実にありがたく、売買しやすいということを話した。

『ビットコインはどうですか?』、『今はダメ、ダメ!!』という話もした。大体、上がっているから買おうなどというのは、買う側の論理として最初から破綻しているのだ、な。ま、小生だってこの点では手ひどく失敗をしたことがあるのだが。

こんな報道がある。
麻薬ディーラーでも脱税者でもない、そこにいるのはミセス・ワタナベだ。ドイツ証券は14日のリポートで、仮想通貨ビットコインの急騰の裏に日本の個人投資家の存在があると指摘した。

  村木正雄氏らドイツ証のアナリストは、個人投資家がレバレッジを効かせた外国為替証拠金取引から仮想通貨取引にシフトしているとの見方を示した。同証によると、日本は世界の外国為替証拠金取引の約5割を占める。日本経済新聞によれば、10-11月は世界のビットコイン取引の4割が円建てだった。
 ビットコインの価格は年初から16倍余り急騰しているため、値下がりが始まれば、個人投資家主導の熱狂は好ましくない結末を迎える可能性があるともドイツ証は指摘。日中のボラティリティーが大きいため、証拠金を超える損失が発生するリスクが一般的な外為取引よりも高いと説明している。また、仮想通貨を巡る投機は無視できない規模に拡大しているため、バブルが破裂した場合の市場への潜在的打撃や、そうした懸念が規制や金融政策に与える影響をより深く調べるとした。

(出所)Bloomberg, 2017-12-15, 9:02配信

ニューズウィーク誌、その他の媒体でも、この何日かこの話題がとり上げられている。
(前略)
金融庁の関係者は「急激に上昇したかと思えば急落があったり、値動きが激しく価格を注視している。仮想通貨取引所には顧客に対してビットコインの値動きが荒く、思わぬ損失を被るリスクがあることなど情報提供を徹底するよう求めている」と話す。 
チャート的には、1970年代後半の金価格の急上昇に似てきた。欧州中央銀行(ECB)のコンスタンシオ副総裁は9月、「ビットコインはチューリップのようなものだ」と言及。17世紀にオランダで発生したチューリップ球根バブルを引き合いに出している。 
ビットコインの「適正価格」は、まだ誰にもわからない。今の相場がバブルかどうかは後になってみないと確かめられないだろう。ただ、これほど短期間で急騰した例も歴史的に珍しい。将来性はさておき、個人を含め市場参加者は、急落リスクと日々向き合うことになりそうだ。
(出所)ニューズウィーク日本版、2014年12月14日

価格チャートを見るまでもなく、ビットコインの相場は明白にバブルの観をなしている。暴落は時間の問題である。いまビットコインを買うなど、地雷原の中に足を踏み入れるのと同じだ。

にもかかわらず、日本のミセスワタナベ(=外国為替で稼ごうとする日本の個人投資家層) はまだ買いこんでいるのか? 売り逃げをしないといかん状況であるのに。

やはり『このケースは違う』という心理がバブル形成要因として作用しているのだろう。

暴落で評価が5分の1になっても、カネが有り余っている大富裕層なら放っておくだろう。そもそも大暴落を演じている事にすら気が付かないかもしれない。それならば何も問題はない。ビットコインという投資対象(投機対象?)は、(今後どの程度評価されるかは不透明だが)新種の経済的機能を世界で果たす可能性がある。なので、暴落しても遠い将来にはまた戻る。心配ご無用! 小生もそう予測(?)しているのだ。

本来、投資とはそんなものではないだろうか。相場を追っても予測などできないのが相場であり、投資とは中身にカネをかけることを言うはずだ。追ってはならない相場を追うのは単なる投機だ。つまりギャンブルである。だから、100パーセント余ったカネでビットコインを買っているはずだ。それならば、そういうわけだから何も問題はない。

しかし、毎日何度も相場を見ずにはおられない普通の人は、資産が5分の1に減ってしまうという暴落自体が我慢できないのではないだろうか。それで、(自称)「損切り」をするつもりで売ってしまったりする。その後、確定申告で損失を所得に算入できないか、何とかならないかと、またまた時間をかけて調べたりする。そのことで頭が一杯になる。

が、失ったものは戻らないのだ。カネをなくすとはそういうものだ。

どうせ余ったカネなのだから、放って置けばよいのに、何かあれば何とかしようと一生懸命になる。手間暇かけるのが大事だと思う日本人のそこがウィークポイントである。

2017年12月14日木曜日

揺れる相撲界: イナゲな理事?

角界を揺るがせている横綱・日馬富士の暴行引退事件。その後、突然に江戸勧進相撲発祥の場所である深川八幡(富岡八幡)で稀に見る惨劇が発生し、まるで相撲界の上に黒雲が広がっているような雲行きだ。

カミさんとも世間話に格好の話題なのでひっきりなしに話している。

この話題になるたびにいつも出る話し。

貴乃花親方。上層部と一戦交えるなら、まずは最初に理事職の辞表をたたきつけてから思う存分戦うのが男子たるものではないか。本気で対決するなら、いったん身を引いてから決然、旗上げするべきである。会社の経営陣を告発するなら、まずは会社に辞表をたたきつけ自由の身となってから戦うべきだ。同じである。月額100万円を超える役職手当をもらいながら、組織運営を妨害する行動をとるのは美しくない。ハッキリ言えば<ワガママ>、一言で言えば<裏切り>、よく言うとしてもせいぜいが<暴発>か<独善>あたりにしかなるまい。

***

マツコ・デラックスは同親方を評して『いいにしろ、悪いにしろ、変わった人ネ』と言ったそうだ。

小生の田舎である四国・松山の人間なら同じ意味で『あの人もイナげなお人じゃなあ』と感嘆するところだ。

小生が形容するなら『非常識な人だねえ』となる。

***

小生、個人的にはモンゴル出身、モンゴル国籍のままで相撲部屋を経営してもいいのではないかと思っているが、このタイミングではもう無理じゃないかと予想する。今回の事件は、いい方向に向かいつつあった角界を10年程度は混乱させるのではないか。必要もない反モンゴル感情を世間に醸し出すのではないか。もしそうなら本当の相撲ファンはガッカリするだろう。

大体いつもそうであるが、本当は無関心の人たちがにわかに興味を感じて騒動に参入し、多数派を占める無関心層が納得するような結論がただ<民主的>であるという理由で採択される。<世論>に耳を傾けたと評価される。もしそうでなければ世論を無視していると憤激する。当事者・関係者は方向転換する。結論ありきである。おそらく今回もそうなるのじゃあないか。集まった無関心層は(それである程度は)満足して別の話題へ関心を移していく。採択された結論のその後の進展には何の責任もないと割り切っている。この辺の事情は、衆参議院の選挙、都知事選挙、その他の選挙、日本の政治も同じだろうと思う。

2017年12月13日水曜日

「戦後」のノリを超えつつある「新聞社」の態度

戦後、日本はずっと戦前期・日本がとった行動を反省する姿勢をとってきた(と言えるだろう)。亡くなった父は朝日新聞を好まなかった。それでもハッキリ言えば産経新聞を「新聞」として相手にはしていなかった(ように覚えている)。当時から、小生はよく知らなかったが産経新聞は右寄りだった(はずだ)。

新聞社にも会社としての主張はあるわけで、政治的にも思想的にもあらゆる社会問題について自由に問題をみる視点を選んでよいと小生は思う。

戦後日本では日本国憲法が理念として共有されているのだから、それを否定するような言説をとるべきではない、と。そう語る人もいることはいるが、そんなことを言い出せば、「長いものには巻かれろ」と言うのとどこが違うのか、そう思ったりもする。

おかしいことはおかしいと言わなければならない。そう思っている。

◇ ◇ ◇

しかしネエ・・・、新聞社が学問の分野にまで踏み込んできて、報道の域を超えて、研究したい人、思想をパブリッシュしている人の名前を挙げて『これはイカンのじゃないか』と言いたげな記事を配信し始めるとなれば、流石に「これは新聞社としてのノリを超えているゾ」と、そう思う。

 「KAKEN」という題字が書かれたデータベースがある。文部科学省および同省所管の独立行政法人・日本学術振興会が交付する科学研究費助成事業(科研費)により行われた研究の記録を収録したものだ。 
 ここには次のような情報が掲載されている。 
 「市民による歴史問題の和解をめぐる活動とその可能性についての研究」(東京大教授 外村大ら、経費3809万円)、「戦時期朝鮮の政治・社会史に関する一次資料の基礎的研究」(京都大教授 水野直樹ら、同1729万円)、「朝鮮総動員体制の構造分析のための基礎研究」(立命館大准教授 庵逧〈あんざこ〉由香、同286万円)=肩書は当時。単年度もあれば複数年にまたがる研究もある。
 外村、水野、庵逧の3人に共通しているのは、3月25日に長野県松本市で開かれた「第10回強制動員真相究明全国研究集会」で「強制連行・強制労働問題」について基調講演などを行ったということだ。
 この場で外村は平成27年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された長崎市の端島(通称・軍艦島)を含む「明治日本の産業革命遺産」について論じた。
 「ごく一部の新聞、産経新聞だが、(軍艦島で)楽しく暮らしていた。朝鮮人とも仲良くしていた(と報じた)。個人の思い出は尊重するが、朝鮮人は差別を感じていた。強制かそうではないかの議論は不毛だ。本人が強制と考えたらそれは強制だ」。
 研究会は徴用工問題に取り組んでいる「強制動員真相究明ネットワーク」などが主催した。同ネットワークは11月末、韓国の市民団体「民族問題研究所」とともに「『明治日本の産業革命遺産』と強制労働」というガイドブックを作成した。産業革命遺産の登録申請は従来の文化庁主導と違って「官邸主導ですすめたという点が特徴」としたうえで、こう指摘した。
 「誇らしい歴史だけを記憶するという、反省のない歴史認識は、再び日本を戦争ができる国にするためのプロジェクトと連動しています。『明治日本の産業革命遺産』の物語もこの一環とみられます」 
 文科省関係者によると、科研費の審査は3人一組で行い、総合点で上位の申請が選ばれる。「自然科学分野と違い、歴史学はどうしても思想的な偏りがある」とこの関係者はもらす。
(後略)
(出所)産経ニュース、2017年12月13日、7時16分配信

確かに歴史学の研究には、ある一連の事実を研究者自身がどう見るかという視点が混在する。というより、その視点自体が、その研究者が行った研究の結果として得られたものかもしれない。あるいは、ひょっとすると、その研究を始めた動機や契機に何かの主義や価値観、思想が初めから混在していたのかもしれない。

しかし、特定の思想や主義が混じりこんだ研究であっても学問としては全く問題はない。むしろ社会思想や宗教、哲学などを主題にしてアカデミックな研究を自由に制限なく進め、そこで明らかになった結論は自由にパブリッシュされるべきである。もちろん、自由に放任すれば、その時代の潮流に沿って、時にはある一方向にバイアスがかかり、特定の方向に則した結論が多く出てくる。そんなこともあるには違いない。

しかし『このような研究は社会的意義が乏しい』などと言い出せば、言っている人はずっと昔の「スターリン主義」に賛同していることになるだろう。

どのような問題についても、多様な学問的成果が蓄積される。日本国内の研究の蓄積がデータベースとして蓄積され、誰もがそれを参照できるようになれば、研究が更に効率的になり、内容が深まる。そもそもアカデミックな研究は筆記試験や資格試験ではない。<正解>などは存在しないし、正解を求める姿勢も不適切だ。

<正解>などは最初から存在しないのだと考えているからこそ、たとえある問題について外国から指摘されても、先入観を排し知的な観点にたって、有効なコメントや反論を国内から発することができる。また、そんな論争は本来(ある意味で)知的で楽しいものなのである。反論や批判は、本来は愉快な論争に結びつくものである。批判が不愉快に思うとすれば、自分が正しいと思い込んでいるからだ。これは学問とも研究とも縁遠い姿勢である。研究の事を語るべきではない。

◇ ◇ ◇


外国から何かの倫理上、歴史上、思想上の攻撃を受けたときに、日本政府による何かの対応を期待してもまったくダメである。学問上の事柄について政府に何かを期待するなど典型的な愚論である。閣僚や官僚は(議員もよほどの専門家ならまた別だろうが)、原則として、担当する実務以外には無知無学である。

自社の理念から気に入らない結論を掲載しているからという理由で、アカデミックな研究を非難するのは、あまり聞いたことがない。

「天皇機関説批判」や「国体明徴運動」、「人民戦線事件」や「平賀粛学」を思い起こすまでもなく、戦前期・日本のマスコミ大手が数え切れないほどの酷い失敗をしているので、もうそんな愚かな「主張」を国内のマスコミ大手が掲載するはずはないと思っていたが、どうやら『もはや戦後ではない』らしい。自分で経験したわけではないことは、最初から知らないことと同じなのだろう。自分の両親からも、身近の年長者はもちろん、上司、先輩など「先達」と呼ばれる人の経験から学ぼうとしない自称「最先端」の人間集団がいる。どこにでもいる。マスコミ界にもいるということだ。

こんなことを考えさせる掲載記事が日本国内の新聞には増えてきた印象だ。

2017年12月10日日曜日

日本人の税負担感は日本的なのか?

来年度税制改正では個人に対する増税が相次ぐという報道が盛んである。

タバコ税は紙巻き、加熱両方で税率の公平を確保するため、特に加熱式たばこの価格上昇が大きくなる模様だ。日本を出国する人、日本を訪れる外国人には国際観光旅客税が導入される。一人千円で航空券発券時に徴収するらしい。更に、森林環境税はこれまた一人千円だが、こちらは個人住民税に上乗せして徴収する。

観光税のほうは出入国管理の強化などに充て、森林税は林道や森林管理に使う。そう説明されているが、100%使途を限った目的税であるのかどうか、ハッキリとはしない。

ハッキリしないとはいえ、どの税目も100億円から500億円という程度の増収で消費税率2%アップと比べれば桁が違う。

増税といっても桁が違うためなのかどうか、マスメディアは全くその是非を論評していない。まあ、反対しにくいという情緒もあるのだろう。

***

欧州では付加価値税率20%は当たり前であり、スウェーデン、ノルウェー、デンマークのような25%の国もある(資料はMOF作成のこれ)。しかし、税率の高い国の国民の幸福度は低いというデータがあるわけではなく、国連が発表している幸福度ランキングではノルウェー、デンマークが1、2位を占めている。付加価値税率の高い国の幸福度が高くなっている。

概して欧州の税制は付加価値税が主たる一般財源になっている。取引のたびに課税されるので税から逃げられないが、食品等には軽減税率が採用されている。税制としては単純である。ただ、徴収された歳入が何に使われるのかとなると、目的税とは違って、使途は見えにくい。それでも幸福なのだから、政府をよほど信頼しているか、政府が信頼できないならばそれは小さい政府で民間部門が充実しているか、このいずれかという理屈だ。ノルウェーやデンマークの政府は大きな政府であり、後者の可能性は当てはまらない。ということは、国民が政府を信頼していることになる。色々な媒体から実際にそのとおりであるという印象がある。幸福度ランキングの順位はやや下がるが、スウェーデンも似たような事情だろう。

日本では小さな目的税は通りやすいが、大きな消費税は大問題になる。痛税感があるためだが、たかだか消費税率10%で負担感に耐えられないというのは奇妙である。

どちらかと言えば、日本国民は自己主張が激しくなく、政府の指示には嫌々ながらも従う傾向がある。一度決まった事柄、規則はよく守る。欧州では25%の付加価値税率があるのに・・・である。

***

・・・政府予算に国民の税収が占める割合は概ね3分の2、長期債務の対GDP比率は168%であるから、政府の行政においては、国債購入という形で資金を提供している有産階級(?)が相当貢献しているという実情がある。つまり、現在の日本政府は、「国民が」という原則は認められるものの、一部の「有産階級」が少なからず費用を負担して貢献している(というか、して来た)。

貢献あるところに権利あり

このメカニズムは時代を問わず機能してきた。

江戸時代において、借金まみれになった藩は主君である殿よりも資金を提供した上方商人に頭を下げなければならなかった。よく似ている。

カネを負担しなくとも「いざという危機」においては軍役について奉仕するのであれば、資金を提供している階級の影響力は限定的だ。が、負担する何物もないのであれば、影響力どころか、発言してもネグられる。不満が爆発して時々暴れるが、せいぜいが同情される、社会問題として指摘される、それだけになる。

負担なければ権利なし

このメカニズムも歴史を通してずっと一貫して働いてきた。カネも力も負担しない階級は福沢諭吉が『学問のすすめ』第三編でそう呼んだ「客分=お客さん」にならざるを得ない。頼りは日本国憲法あるばかり、だ。そんな状況になる。

「お客さん」に組織運営の負担を求めても、嫌がるだけであろう。

要するに、みんなで負担してみんなで相談してみんなで幸福になるか。誰かが負担して指導層になり、他の人々は面倒をみてもらう、その代わりに危ないこと、大事なことには参画しない。ジッシツ、選べるのはどちらかである。そんな浮世の現実が改めて確認できるわけである。

日本は、まだ後者の国家形態に移行したとは思われぬが、このまま放っていくと、実質的にそう成り行く可能性はある。もしそうなら明治維新前の古い日本に戻ることになる。

***

年金保険料は使途が明確だから支払う。医療保険料は自分にも必要だ。だから支払う。森林税は使途が明確であり、金額も年間千円だから、まあ、認める。観光税も目的がハッキリしているし、現に自分も旅行しているので、支払う。

しかし、一般財源は何に使うかハッキリしないので、消費税も所得税も払いたくない。「痛税感」とはこういうものだろう。

日本人の幸福度ランキングは世界で51位、OECDでは最下位である。米英独仏は10〜30位前後、シンガポール、タイも同程度だから、日本の51位というのは先進国の中では際立って低い。

その根底には
政府が信頼されていない。
真の意味で信頼していない政府から増税されようとしている。 
という、そんな現実がある(かもしれない)。

つまりは、国民の願望に沿った政治が(本当は)行われていないという現実があるのではないか。

その背景には、「自分たちが支えている政府である」という精神的一体感を持っていない。そんな事情があるかもしれない。であれば、少額でもいいから(例えば)人頭税を導入して納税者感覚をすべての人に持ってもらうのが政府との一体感の形成には有効かもしれない。たとえば格差拡大への怒りが政治的エネルギーの高まりとなるには<負担の平等>に裏付けられた倫理的な正当性が要るだろう。この方向のずっと向こうには、いうまでもない、<軍役の義務=徴兵制>という名の負担の平等がある。

戦前期・日本で華族や富裕層、地主層が最終的に政治的影響力を失ったのは、兵役の義務を全うする兵士達は庶民にとっては非官僚的な人間集団であって、その兵士達を統率する軍部に対して庶民は既存の指導層とは別の親近感・清涼感を感じた。この点はよく指摘されていることである。古代ギリシア、共和制ローマとも共通しているが、いざとなれば自分達自らが国を守るという制度は、福沢諭吉も大いに評価した国の形なのである。

しかし、多分、話は逆なのだろう。そもそも現在の政府サービス自体に共感をもてない、こちらが先なのだろう。政府がまったく信頼できない、だから使途がハッキリしない税は支払いたくない。そんな因果関係かもしれない。だとすれば、人頭税などとんでもない話である — この場合、信頼されていないのは政府ばかりでなく、予算を議決する国会もまた信頼されていないということだ。

まあ、いずれにせよ確かに現在の日本国の費用負担状況を見ると、国民が支えている国であるとは言えないヨネ。これが現実だ。

更にまた、その根底をみると、日米関係の現実につきあたる(かもしれない)。自分たちで自国の将来を決められない。結局、ここに戻るのではないかネエ・・と。与党だけではなく、野党もまた、基本的には現行レジームのまま政権につきたいと。「そうではないんですかい?」と言いたい人も多いはずだ。

国民の幸福度は、その国の経済力で決まるわけではなく、自国の将来を国民がどの程度まで主体的に決められているか。いわば、その国の政治水準。経済水準とは別の政治水準もまた国民の幸福度の重要な決定要因であると。改めてそう思えてくる。





2017年12月7日木曜日

断想: NHK受信料合憲判決から

NHKという会社(?)は奇妙な存在であるということは以前にも投稿したことがある。もう5年以上も前のことだ。

放送受信料を強制的に徴収しているが、それは決して租税・公課ではない、つまり対価なのだというところから問題は発生する。

この件について最高裁まで上告されていた事案について昨日判決が出た。

結論は『放送受信料は合憲であり、支払い義務はNHKとの受信契約発効、つまりテレビ設置日に遡る』というものだ。

要するに、契約自由の原則という観点から考えれば、テレビを設置するという行為とNHKの電波から使用価値を受益するという行為は同一の行為ではない以上、NHKの電波を受信するかどうかについては自由意志に基づく交渉の段階がなければならないというロジックが一方の側にある。それに対して、NHKは公共の利益を守るために設立された事業者であり、民間企業ではない。民主的に選ばれた国会で議決された放送法で受信料支払い義務が規定されている以上、テレビ設置者には受信料支払い義務があるのだ、と。最高裁では後者の法理を採択したわけだ。

まあ、道理に沿った判決だと納得できる。契約は自由であるという原理原則の例外としてNHKという事業者は存在していることが改めて確認されたわけである ― とはいえ、ドラマやエンターテインメント性の高いバラエティも、全て公共性を本当にもっているのか?甚だ疑問であると感じられる番組は多いとは思うが。

■ ■ ■

判決で気になる部分もある。それは(当のNHKの報道から引用させてもらうのだが)次の部分である。

放送は、憲法21条が規定する表現の自由の保障の下で、国民の知る権利を実質的に充足し、健全な民主主義の発達に寄与するものとして、国民に広く普及されるべきものである。放送法が、「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」などとする原則に従って、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的として制定されたのは、上記のような放送の意義を反映したものにほかならない。

(出所)NHK NEWS WEB, 2017-12-07配信

マスコミがよく使用する「知る権利」については、小生は先日も以下のように述べている。

なので、たとえばメディア・スクラムによって自宅に缶詰め状態になるなどという状態は、憲法違反ではないかと小生は思っている。よく「社会的制裁」と判決文にあるが、「社会的制裁」自体が私刑であり、憲法違反であると思う。「知る権利」などはマスコミによるマスコミのためのマスコミ用語であり、現行憲法には規定されていない蜃気楼のような概念であると思っている。

 最高裁判決が「知る権利」の根拠として挙げている憲法上の根拠は第21条である。これは表現の自由に関する規定である。文言は以下のようだ。

第二十一条 
①集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 
②検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
新聞社は結社の自由で守られ、記事の表現は表現の自由で守られ、検閲によって報道が制限されることはない、という意味で日本国内のマスメディアが上の規定を印籠のごとくかざしているのはよく知られていることだ。

■ ■ ■

ただ思うのだが、昨日の最高裁判決でいう「知る権利」 ― 知る権利を21条で直接的に概念規定しているわけではないのだが ― と、先日も小生が投稿したようなマスコミのマスコミによるマスコミのための「知る権利」とは、まったく本質が違っている。内容が違う。

「知る」というのは「真相を知る」ことである。真実であるかどうか分からないことまで、時にはウソかもしれないと思いつつ、更には真っ赤なウソと知りつつ、自由に表現できるのは、国民に知る権利があるからだというのは屁理屈だろう。まあ、ここまでいうと言い過ぎかもしれない。が、「知る権利」というのは極めて限定的に解釈したほうが適切であるように思われるのだ、な。

別の角度からも吟味しよう。

■ ■ ■

基本的人権が日本国憲法のコアとなる規定であることは学界でも合意の広さという点からも最も共有されている理念である(と、小生は承知している)。

第十一条 
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
非常に強い規定であることは文言にも表れている。もし報道機関が主張する「知る権利」と、どの個人にもせよ基本的人権として持っている自由とが衝突するなら、当然、基本的人権を優先するべきである。そんな結論になるはずだ。なので、一度、「知る権利」と「基本的人権」が矛盾する事案について誰かがマスメディアを提訴し、法廷で黒白をつけてほしい。小生にはそんな願望がある。

■ ■ ■

個人については個人情報保護法が「知る権利」に対する盾になっている。政府については「特定の秘密の保護に関する法律」が平成25年12月13日に制定された。

21条にいう表現の自由とは民主的に選ばれた国会で議決された法律の範囲内で「知る権利」につながるものである。そういうことでもある。

契約自由の原則は大事である。しかし、現に民主的に選ばれた国会で放送法なる制限規定が議決された以上、契約自由の原則もその範囲内で認められる。故に、NHK受信料支払いの義務は契約自由の原則と矛盾しない・・・同じロジックであるようだ。

・・・マア、こんなに簡単に原理原則を制限する法律を合憲であると認めていいのかという問題提起はありうると、個人的には思ったりもするが、論理は論理だ。

確かに論理的である。論理的であるというのは、感情や思い込みが混じらず、普遍性をもつということなので、認めざるを得ないわけだ。

ただ一つのことは言える。国民が個人として持っている基本的人権は、いかなる場合であっても、現行憲法下では国会と言えども侵すことはできない。そう明記している ― もちろん自由に行動して、他人の権利をおかせば処罰されるわけで、それは当たり前。

いずれにせよ、小生が理解する「知る権利」とマスコミが常に主張する「知る権利」と、二つの接点について考えるチャンスになったのは事実である。


2017年12月6日水曜日

猛省: ニコ生を侮っていました

3月にこんなことを書いている。これも今年のことだったのかと日の経つ速さをつくづくと感じる:
TVとはあまり縁のない例えば法務委員会では「共謀罪法案」の扱いが検討されている。厚生労働委員会では「保育所問題」や「育児休業」が審議されている。TV中継される予算委員会以外の委員会では、総じて真剣な審議が行われている。そのことをTVはまったく見ようとしていない。 
以前に、日本陸上の特に男子長距離界の弱体化が進んだことと箱根駅伝の視聴率の上昇トレンドとの間には、有意な因果関係を統計的に検出できるのではないかと書いたことがある。 
同じように、予算委員会に偏重したTV中継と無責任な毎年度の予算編成との間には統計的に有意な関係が認められるのではないか、と。 
そんな憶測をしている。 
こう書いてくると、「TV中継」なるものが日本国民に何らかの価値を提供しているとは全く思われない。あえて言えば、TV局の番組編成局に所属する無学・無教養なプロデューサーの「見識」などは排して、多くの常任委員会・特別委員会をローテーション方式で機械的に中継していく方が国民への情報提供としては一層適切であり、国会全体の活動状況を正しく伝えることが可能で、また個人個人の国会への関心を刺激することにもつながるだろうし、そのためのルール作りを国会との間で取り決めるのが優先事項であると思うようになった。
 来年2月に開催される情報処理学会では人工知能(AI)や機械学習で最近よく名前を目にする人たちが講演するので、これはぜひ行かねばと思ったのだが、ネットから開催案内を読むと「ニコ生」でも中継するとある。

ニコ生? それは当然知っている。しかし全く利用していない。その意義をネグってきた。「そうか、こんなものも中継しているのか」と今更ながら見直して登録した次第。

中継中の生放送をみると本日現在で衆議院・外務委員会や厚生労働委員会、国土交通委員会、あるいは第53回原子力規制委員会などがライブ中継されている。

ここまで社会に浸透しているとはまったく知らなんだ。

時代に遅れていることを自覚しなかったというのは恐いねえ・・・猛省。

とはいえ、思っていた以上にTVが劣化しているという事実が一層明らかになってきた。これも事実だ、な。

2017年12月5日火曜日

慰安婦像増設戦術に対しては「抱き着き戦術」のみが有効ではないか?

韓国にとって従軍慰安婦像設置は今や日本に対する有効なソフトパワーアップ戦術になっている。

先日、サンフランシスコ市にくだんの像が寄贈される問題をめぐって大阪市は姉妹都市関係を解消すると通告し日本国内でも議論になった。

これを中国系市長と韓国系住民団体による連係プレーとみる向きもあるが、むしろ中国にとっての韓国が今や国家丸ごと日本に対する中国の倫理的優位性を国際社会において築くための戦略的ツールと化しつつある。こちらのほうがより重要だと思われる。

韓国という国は、中国が対日優位を構築するために間接的アプローチをとるとき<役に立つ駒の一つ>になりつつある、というよりなったと思ってみている。韓国の最適反応戦略は(中国からみると)極めて分かりやすいから。

明治以来、日本は朝鮮半島を国防上の最前線と見なしてきたが、いま現代において中国からみても朝鮮半島は地政学的にも、歴史的にも、自国防衛上の最前線としてみていることは自明だろう。

韓国の外交行動は中国の戦略的意図の反映であるとみる視点が大事だ。韓国もそのことを理解しているはずだが、ナッシュ均衡を崩すための勇気あるコミットメントを政府が行うには常に政治基盤が不安定である。

◇ ◇ ◇

アメリカはどのような思考に基づいて第二次世界大戦後の対アジア外交を展開したのだろう。小生も勉強不十分でそれほど当該分野の知識はない。が、アメリカにとって戦後の東アジア情勢は予想外であったろうと推測する。中国共産党政権の誕生、朝鮮戦争の勃発、朝鮮半島の南北分裂まですべてアメリカにとっては想定内、計画通りの進行であったとはいくら米政府も強弁しないだろう。

そのアメリカはいままた「日韓従軍慰安婦問題」がここまで引きずられてくるとは思っていなかったと思われる。

◇ ◇ ◇

この問題があるゴタゴタした経緯をへて認知されて以来、現在までかなりの時間が経過したが、このような場合、韓国にとって最も嫌な日本の出方は<偽善>だろう。

世界の女性共通の現代的問題と日本もまた認識し、国際的に主導的に活動し、従軍慰安婦像の設置には反対せず、むしろ全ての女性の視点から悔恨の意を表明し、設置賛同の志を金銭的にも寄付するとすれば、韓国としてはその寄付を拒否するかもしれない。受け入れれば日本の偽善は成功するし、拒否されれば拒否されることが日本にとってプラスとなるだろう。

ましていま現在、日韓合意に反する行動を韓国側がとろうとしている点それだけでも、日本は1,2点をとっている戦況である。

歴史問題に関連して日本の対決的姿勢は韓国が想定している反応であり、韓国(及び中国)が最も緻密な外交戦術を構築している領域だろう。相手の予想する行動はとらないのが紛争で優位を得るための王道である。

同じ敗戦国のドイツも歴史問題については対決戦術はとっていないはずだ。




2017年12月4日月曜日

12月2日への補足: 問題解決の際の「日本的」な傾向

ある問題が発生し解決を迫られるとき、それぞれの国民性が反映される。その国民性は数多くの要因が結構複雑に絡み合って決まっている。

日本人の場合は、たとえば「島国」で大陸とは海で隔てられていたので長い歴史を通して独自の文化、理念ができあがっている ー 「邪を正す」という発想より寧ろ「和を以って尊しとなす」のはその一例かもしれない。前の投稿では、加えて日本語の特質という点をあげた。

前の投稿から少し考えを足したのでメモしておこう。

次のような日本文がある。

こんな日は、読書だ。

これを英語で表現するとどう訳す? たとえば

In such a day I like to read books. あるいは
In such a day one likes to read a book. 

上の二つはかなりニュアンスが違うが、これなら、まあ、学校的には丸がつくだろう。それでも原文とは意味が違っている。

そもそも元の日本文は「こんな日は」である。「こんな日には」ではない。だから"In such a day"ではまずいのではないか。「こんな日は読書だ」と、「こんな日には読書だ」とは、確かにニュアンスが違う。しかし、このようなことを言い出せば「こんな日は」を英語にすることができない。

かと言って、「日」を主語にして(日本語でも一見すると「こんな日」が主語であるようでもあるから)、

Such a day is a chance for reading.

こうすると余りにも分析的になる。大体、元の日本文とはまったく意味の違う文になってしまっている。『こんな日は、読書だ』と『こんな日は読書をするいい機会だ』というのは、意味は同じかもしれないが、情緒が全然違う。

大体、『こんな日は、読書だ』、『こんな日は読書だ』、『こんな日は、読書です』、『こんなひは、読書だよ』、『このようなひは、読書だよ』、『こんなひは、どくしょだ』、『こんなひは、ドクショだ』、まだあるかもしれないが、すべて文に込められている情緒が違うし、違う以上は異なった英文で訳さなければ(本当は)正確な訳文にはならない。

日本語による表現は、言葉で書かれていない「言外の」情緒を伝えようとするところに深い意味がある。その情緒を理解しなければ、聞いたことにならないし、読んだことにならない。英語でいう「ニュアンス」とは使われる言葉の選択を指しているので、いま言っていることとはかなり違っている。

大体、日本語による文学作品の代表例である『源氏物語』。ほとんど主語がないのだな。谷崎潤一郎の『源氏物語』は小生にとって長期的な読書リストの一つであり、いま少しずつ読んでいるところだ。谷崎は、紫式部の原文の雰囲気を忠実に出すために、現代日本語訳でも極力主語を省き、それが誰の動作であるかは敬語を用いているか、それとも前後の文脈から読み手に憶測させる表現をとっている。「源氏物語」が外国語に翻訳されているのはまったく驚異であると小生は思っている。

◆  ◆  ◆

前の投稿では、日本人が日本語で何かの問題を分析する時、自然に言葉の特性が国民性のような傾向になって現れてくるような気がする、と。そう書いたのは以上の趣旨であった。

特定の問題をもたらしているメカニズムをまずどう理解しているのか。そのメカニズムは何かの目的を達成するために設計されたはずだが、何が目的で、いま何か問題を抱えているのか。その問題が解決されていないために、現在の問題点が結果として現れているのではないか。本質的な問題を解決するための筋道は何か。本質的な問題を解決すれば、眼前の問題点も解消されるのではないか、と。

本質的なところで問題が発生しているとすれば、多くの場合、ヒト(Man)か、設備・道具(Machine)か、素原材料(Material)か、方法(Method)かのいずれかに存在するという「4M理論」などは、問題解決のためのツールとして製造業現場で受け入れられた<QC>(=品質改善)に由来するベーシックな視方である。QCでは整理された問題に対して「重点志向の原理」に沿って、大きな三つの問題点から先に解決しようとする。2割の問題が障害全体の8割を説明するという「パレートの法則」が根本にある。決して、すべての問題点を洗い出してから、整理し、解決への戦略を検討してから後、実行へ着手するという方式はとらない。これもまた実践的(というか非常にアメリカン)な方法論だろう。

いずれにせよ、問題解決にはまず観察、理論、診断のステップが必要である。こんなロジカルな構成をもたせて議論すれば(本当は)効率的である。しかし、日本語を使った議論では、中々、ロジカルな議論にならない。「この問題は何を意味するのか」、「意味されたことは他のどんな事と関連するのか」、とまあこのように連想ゲームのように話しが纏綿と関連しあいながら、進んでいくことが多い。

日本国内で「国会審議」とか、「ジャーナリズム」と呼ばれている「言論の場」は、諸々の事実の断片が次々に出てくるままに、事態が次々に成り行くさまをそのままに語り、問いかけ、嘆き、書き下ろしているだけである。

小生は日本的ジャーナリズムの元祖は鎌倉時代という歴史の変わり目のそのまた末期の世相を実見した吉田兼好の『徒然草』であると思っている ー その『徒然草』が小生が枕元に置いてある本の一冊であるのは、実は日本的ジャーナリズムが嫌いではないことの証拠でもあるのだが。

これが前の投稿の趣旨である。

2017年12月3日日曜日

失言防止のための特効薬?

小生の弟はいわき市在住だ。時々彼の地を訪れることがある。中通りをとおる東北自動車道の白河IC近くには『これよりみちのく』の標識があると聞くが、浜通りの勿来駅には「吹く風を勿来の関と思へども道もせにちる山桜かな」と詠んだ源義家の碑が建っている。みちのくとはいえ、北海道に比べれば福島県浜通りは大変暖かである。

■ ■ ■

「もらってる賠償金、結構、大きいんだよね。大変なことは分かっているんだけどネ、でもね、大変なことはこの辺の人も同じなんだよネ。家、壊れた人も多いし。それでも働かなくちゃやっていけないんだけどサ、何もしないでカネもらってサ。感じわる〜って、雰囲気、確かにあるんだよネ」。そんな事を言ってたなあ・・・。と、思っていると、今朝のワイドショーの一コマでも同じ言葉を見かけた。ああ、事情は変わってないんだなあと思った次第。

■ ■ ■

先日投稿したのはハラスメントについてだったが、いわゆる「失言」、「放言」。社会的に影響力のある政治家やいわゆる「保守派」が口にする言葉が、あまりにも乱暴で、弱者に対するいたわりの気持ちを欠くようになっている。これは何故だろうという疑問がテーマになっていた。

まあ、確かに乱暴な言葉づかいは最近増えている。小生も、ずっと前、もう10年ほども前になるだろうか、北海道に移住してきてからだ。高速バスの車中でのんびりと週刊誌を広げて読んでいると、隣席に座っている初老の男性が小声で『殺すぞ』とささやく。「エッ?誰に言っているの?」と思いながら、隣をみると、小生の方を険しい目でじっと睨んでいる。「俺に言ったのか? 気でも狂ってるのか、こいつは?」と思いつつ睨み返して、雑誌を閉じ、相手がいつ手を出してきても応戦できるように心構えをした・・・、ま、何もなかったが。やがてその男性は降車する時に小生を睨みながら降りていった。「一体、なんなんだ、あいつは」と思ったものだ。形容できないほど不愉快だった。首都圏の殺人的な満員電車の中でもあんなきつい言葉は使われてはなかった。足を踏んだり踏まれたり、体ごともたれかかったり、もたれかかられたり、倒したり倒されたりであったが、それでもみんな黙々と乗っていた。

小生は気がつかなったが、週刊誌を広げて読んでいたので、多分その男性の眼前を塞ぐようになっていたのだろうなあ、と思いついたのは、しばらく経ってからのことだ。かの男性はそのことに腹がたったのかもしれない。そういえば、その男性は座る時に「失礼します」と、随分へり下って着席してきたものだ。自分は礼を尽くしているのに、目の前に雑誌のページを広げて、シカトして読み続けるとは何事か、殺してやろうか、と。で、爆発したのだろう。

そこまで乱暴な言葉を直接的に投げつけられたことはなかったので、世の中が変わりつつある事を実感した。そのときは霞ヶ関周辺の地下鉄ですでにサリン事件が発生していた。世間は変わりつつある、とにかくそんな気持ちになった。

■ ■ ■

こんな世の中だから特に政治家たるもの、礼を守って発言すればいいと思うのだが、言葉というのは<料理の味付け>にもにて、一度辛口に振れ出すと、辛味・嫌味をスパイスのように混ぜなければ、逆に大人しすぎる、上品ぶっている、と。そんなマイナス評価にもなってしまうのがジレンマになる。その辺の事情も感覚としてよく分かるのだな。

だから<失言防止特効薬>が必要だ。失言防止というより、失言による災難予防策というほうがよいか。

アフリカをさして「なんであんな黒いのが好きなのか」ではなくて、

なんであんな黒いのが好きなのか・・・ト、思ウ人ハイマセンカ?コレ問題デスヨネ。
何もしないで賠償金でノウノウと暮らしている・・・ト、思ウ人ハイマセンカ?コレ問題デスヨネ。

代名詞「これ」は何をさすのか?どうとでも解釈できる日本語の曖昧さ、非論理性がここにもある。ま、悪意に解釈されれば「それはゲスの勘ぐり」だと言い返せるでしょう。

世の中全体の言葉の好みが辛口になってくると、語るのも辛口、批判も辛口になる。ちょっとした失言、言葉が滑ったにすぎない場合も「政治家失格」、「死ね」などという極端な評価になる。「死ね」と言われて、本当に死んだりすると「言った奴は殺人犯」などとなって<炎上>する。

「死ね」って思ウ人ハイマセンカ?コレ問題デスヨネ。

<辛口時代>には特効薬をもっておいたほうがいい。「気狂いのような時代」には身を守る手段がないといけない、と思う人はいませんか? これ問題ですよね。

2017年12月2日土曜日

日馬富士事件にみる日本人の傾向(というより通弊)

日本人の心根には仏教思想が染み付いているということはよく指摘される。中でも奈良以来の華厳宗の根本思想は空海の真言密教にも継承され、日本古来の多神教とも相性がいいので、現代の日本人の心性にもその反映が認められる。これは司馬遼太郎の『空海の風景』を読めば、フムフムと了解されるところだろう。

一口に言えば、一粒の塵にも仏性は宿る、という思想のことである。その根本に輪廻思想があるのは明白だ。

以前にも投稿したことがある。

地の表にある一塊の土だっても、かつては輝く日の面、星の額であったろう。袖の上の埃を払うにも静かにしよう、それとても花の乙女の変え姿よ。

(出所)青空文庫『ルバイヤート』

■ ■ ■

日馬富士の暴行事件とその後の引退をめぐっては、色々な議論が広まり、そこから何がしかのメッセージをくみとろうという日本人の意識がよく伝わってくる(たとえばこれ)。

日本対モンゴルの外交事情と絡ませるのも面白いが、小生はやはり問題に直面した時の日本人の変わらぬ傾向(≒国民性?)を見てとりたくなるのだ。

一言で言うなら、
一個の事実の断片に全ての森羅万象の反映をみようとする
そんな傾向である。

要するに、一つの事実から「ああでもあろう、こうでもあろう、だからそうなのだろう」と、ありとあらゆる可能性を連想ゲームのように展開し、「想像の翼」を広げていく思考の傾向である。

こんな時、日本語の非構造的で、順接・逆説を混ぜながら、曖昧に次から次へと文章を続けていくことができる文法特性が、思考のツールとして非常に適している。とにかく昔の日本語には句読点すらなかったのだから。これと同じことは英語では絶対に無理である。ドイツ語も時に文章がやたらと長くなるが、それは関係代名詞をたたみかけることが多く、もしその論理関係を文脈から把握できなければ、文章全体の意味はまったく分からなくなるはずだ。日本語は(ま、慣れているせいでもあるが)読み進めれば、読むほどに積み重なるように内容が伝わってくるのだ、な(逆に、論理的な日本文は読みづらい)。

日本語は、たゆたう陰影のように纏綿とした情緒の流れをそのまま連想ゲームのように継なげていくのに実に適した言語だと思う。

故に(と言い切っていいのか分からないが)、日本人が日本語で特定の事件や不祥事を語ると、あれもこれもが何となく関係している、すべての事柄が何となく関連している、そんな情緒が浸み出すように醸し出されてくる。

「あれもこれも」という心情が「もう、やりきれない」という諦めに転化していくのは時間の問題である。なので、日本人は煉瓦を積み上げるような執拗かつ論理的な作業はいやがり、どちらかと言えば恬淡として、諦めがいい。反面、想像力をいっぱいにつかった、独自の着想にいたることもママある。

良いところ、悪いところ、両方があると思うのだが、日馬富士の暴行と引退を語る時もそうであるし、森友騒動、加計学園問題を議論するときも、言っていることは「こうなんじゃないんですか? ああなんじゃないんですか?」というパターンであり、驚くほど似ているのだ、な。話題は政治と相撲興行の不祥事で性格は違うが、しかし話が盛り上がる時のパターンは似ている。月並みだがこれが「日本的である」ということなのだろうか。「なぜなら(because)」とか、「この二つは両立しませんよね(contradictory)」とか、「どんな結論が導かれる(can derive)でしょうか」というような論理的な語り口は稀である。

結局、「やりきれないねえ」と言って、頭をふり、肩をゆすり、そっぽを向いて「もういいんじゃない」と言いすてる結果になるとすれば、いつもの日本人の通弊であるように感じるのだ。

2017年12月1日金曜日

PC時代にそれでもサミュエル・ウルマンか?

サミュエル・ウルマンの詩は日本でも一世を風靡したものだ − もう随分と昔になったが。


青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心,こう言う様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。曰く「驚異えの愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、事に處する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

人は信念と共に若く  
疑惑と共に老ゆる 
人は自信と共に若く 
恐怖と共に老ゆる
希望ある限り若く 
失望と共に老い朽ちる

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、偉力と霊感を受ける限り人の若さは失われない。これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。
(出所)http://home.h03.itscom.net/abe0005/ikoi/seishunn/seishunn.htm

ウルマンは1840年に生まれ1924年に死んでいる。84歳だった。

確かに、『年を重ねただけで人は老いない』のかもしれない。が、年を重ねるだけで必然的に老いる側面もある。そう言わざるを得ない時代が来たと感じる。

一世を風靡したウルマンの「青春」には一つ不思議な点がある。老眼について言及していない。視力の衰えに触れていない。アレルギーの発症について言及していない。病気についてとりあげていない。仏教でも四苦と言って生・老・病・死をあげているのに。よほど健康で病気とは無縁で肉体的に強靭だった人なのかと思ったりする。なら幸運な人である。

「青春」はウルマンが70代になって書いた作品だという。ノートPCもなく、書くといえば紙の上に大きな字を書けば、あとは出版社が活字にしてくれる時代だったから、それでよかったろう。

◆  ◆  ◆


長寿社会で人生80年の時代が来ても50歳を過ぎれば視力が衰える。60代になれば細かな字が読めなくなる。最近は、データ分析で実習授業を行なっている時、学生が使っているノートPCの画面が読めなくなってきた。彼らは12インチの画面にサイズの小さなフォントを使って、それを読んでいる。ウルマンの時代にはこんな苦悶はなかったはずだ。苦悶は老齢を意識させる。

アニメ界の巨人・宮崎駿も現役引退宣言をしたとき『もう目が見えないんですよ』と身体的能力の衰えを理由に挙げていた。信念や自信だけから『何事かかなわざらんや』というのは無茶であろう。

◆  ◆  ◆

第二次大戦時に連合軍の総司令官だったダグラス・マッカーサーは1880年の生まれだから1945年当時は65歳になっていた。

今なら年金支給開始年齢になってから占領地行政の責任者になったわけだ。激務であったろうと推察する。

それより、60歳を過ぎて、赴任していたフィリピンから追い落とされ、豪州まで退却して日本への反攻作戦を指揮したというのだから、肉体的にも実にタフであったと感嘆する思いだ。少なくとも食べるものに注文はつけない人だったのだろう。とすれば、気持ちの若い人であったに違いない。

いまの小生なら絶対無理だネ。朝方早く目が覚めてしまうわりには起きだすのは8時を過ぎてからだ。朝は美味しい珈琲と消化のいいオートミールのミルク粥。ザウワークラウトとソーセージが欲しい時もある。夜は糖質制限中。肉料理を所望だ。仕事は原則的に午前中。午後からは仕事から離れて、今のうちに読んでおきたい本を開いたり、やっておきたいデータ解析をやる。データ解析をやるときは老眼鏡では画面が見づらいので、最近流行のハヅキルーペ(メガネ型ルーペ)をつかう。午後は午睡をしたい。夜は必ずミストシャワーで疲れをとる ー 若い自分はこの程度の毎日で疲れるはずもなかったが。

小生の場合、人生80年というより、やはり60歳定年が適切だと痛感する。人間ドックなどは受けず、10年余りを過ごす。そして80歳にはならない頃を目安に、ボロボロになってしまう前に世を去る。

これがイイね。こんなライフサイクルが年金財政的にも迷惑をかけず、精神能力的にも身体能力的にもちょうど良いのではないか。

まして90歳、100歳となると、いくらウルマンでも『人は自信とともに若く』とは言わないのではないかネエ。前回投稿の『徒然草』の下りの英訳を読んでもらう方がいいのではないか。そう思ったりする。


2017年11月29日水曜日

「ハラスメント」、この現代を象徴する言葉

人生は短いとよくいう。しかし、時間が長い、短いという感覚は人生の平均的な長さから決まっているにすぎない。小生は人生は十分に長いと思う。『徒然草』第7段の有名な下りに以下のような文章がある。
命あるものを見るに、人ばかり久しきものはなし。かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや。あかず惜しと思はば、千年(ちとせ)を過(すぐ)すとも一夜(ひとよ)の夢の心地こそせめ。 
住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。 
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出でまじらはん事を思ひ、夕の陽(ひ)に子孫を愛して、栄(さか)ゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。
(出所)http://roudokus.com/tsurezure/007.html

小生思うのだが、いま小中高校で上の文章を授業でとりあげれば、高齢者に対するハラスメントになるのではないかと憶測する。

人生50年の時代の40歳は、人生80年時代の65歳以上、まあ年金支給開始年齢以降の老人を指すと言ってよい。

現代の感覚に置き換えて最後の段落を読めば、『年金をもらう年齢にもなれば、風采を恥じる感性も失い、世間にしゃしゃり出ることばかりを考えるようになる。何かと言えば子供や孫のことばかりを心配し、自分の子孫が繁栄することばかりを願い、自分の目でそれをみれるまで長生きしたいと願う。ただただ貪るように、欲深く生きたいという気持ちが強くなり勝る。だから、もののあわれに感じる優雅な心とは無縁になっていくのだ。何とあさましいことか』と、大体はこんなところだ。

言えますか? 古文の授業で原文をこの通り解説できる教師がいまどのくらいいるだろうか。高齢者への「ハラスメント」に該当すると言われそうではないか。

◇ ◇ ◇

日本国憲法では私刑、いわゆるリンチは厳に禁止されている。第31条にはこう書かれている。
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
なので、たとえばメディア・スクラムによって自宅に缶詰め状態になるなどという状態は、憲法違反ではないかと小生は思っている。よく「社会的制裁」と判決文にあるが、「社会的制裁」自体が私刑であり、憲法違反であると思う。「知る権利」などはマスコミによるマスコミのためのマスコミ用語であり、現行憲法には規定されていない蜃気楼のような概念であると思っている。

リンチが禁止されている以上、リンチに近似した「いじめ」。ハラスメントも禁止されるという法理は極めて自然である。

実際、30年ほど前からだろうか、世に普及したセクハラという言葉以降、今ではパワハラ、アカハラなど多種多様なハラスメントが認められるようになった。

しかし、法的にハラスメントを概念定義し、その防止や救済、処罰にあたる基本的な考え方を規定する「ハラスメント防止基本法」のような法律は、小生の勉強不足かもしれないが、まだ制定されてはいない(と思う)。

ドメスティック・バイオレンスがあるのであれば、ドメスティック・ハラスメントもあるべきであるし、デート・バイオレンスに至る前のデート・ハラスメントもそうだ。

ゴミ出しハラスメントもありうるし、井戸端ハラスメントもありうる。ペット・ハラスメント、香水ハラスメント、ファッション・ハラスメント、音楽ハラスメントもそのうち出てくるだろう。

しかし、嫌なことを全てハラスメントと認定し、社会的に抑制していこうとすれば、あたかも現実社会を無菌化するような努力にも似てくる。表現の自由、思想信条の自由との調和も必要になってくる。

だから、法的な限界(=社会として約束する範囲)を引いておく必要があると思うのだ。

◇ ◇ ◇

ただ「ハラスメント」という用語は本当に現代特有のニュアンスを帯びていると感じる―ということは、逆に30年後になお「ハラスメント」という言葉が使われているかどうかは分からない。そうも思えるのだ、な。

たとえば「侵略」という言葉がある。現代の日本社会で「侵略」という言葉は極めてネガティブな印象を与える。日本はアジアを侵略したと中国・韓国が言いつのれば、それは反日キャンペーンであると思って日本人はきくだろう。

しかし、幼少時の個人的な思い出話になるのだが、小生が幼い時の夕食時、性格もあって好きなおかずを後に残しておくことが多かった。それをみた亡くなった父は『どれ、侵略、侵略・・・』と言いながら、小生の皿からその意図的に残してあった好きなおかずを取っていったものである。『あっ、お父さんとっていった、返してよ!』と言っても、『アッハッハッハ、侵略されちゃったなあ』と。母も笑って父子のやりとりをみている。

いま、そんな会話が交わされることはあるだろうか。まず、考えられないと思うねえ。

父が好きでよく歌っていた歌は武田節だ。歌いだしはこうだ。

〽 甲斐の山々 陽に映えて
われ出陣に うれいなし
おのおの馬は 飼いたるや
妻子(つまこ)につつが あらざるや
あらざるや

歌のモデルは戦国大名の名門・武田である。真ん中で詩吟が入る。武田の旗印である風林火山である。古代中国の軍略家・孫子からとっている。

疾如風(ときことかぜのごとく)
徐如林(しずかなることはやしのごとく)
侵掠如火(しんりゃくすることひのごとく)
不動如山(うごかざることやまのごとし)

 亡くなった父にとって他を侵略する行為は、積極果敢な前向きの行動であって、やましい気持ちなどは微塵もない。父というより、戦前に教育を受けた青年たちはそんな共有された理念と価値観をもっていたことが、今になって分かるような気がするのだな。

なので、自分の幼い子供に『どりゃ、侵略、侵略・・・』などと言いながら、家庭内教育をしていたのだろう。

こんな感覚は現代日本からは完全に消失している。ということは、いまから3、40年もたてばまた再生されるかもしれない、そういうことでもある。

もう一つ、これは現代日本にも理解されそうな例がある。福沢諭吉が安政5年(1858年)の日米修好通商条約批准書交換のために訪米する万延元年遣米使節一行に随行し咸臨丸でアメリカに渡った。福沢はアメリカの経済が自由市場を基本にして成り立っていることをつぶさに見聞してきた。帰国後、Competitionを「競争」と訳したところが、幕府の役人は「争うとは穏当ではない文字じゃ」と削除を求めたそうだ。幕府は「和を以て尊しとなす」を理念としていた。なので、「競争市場」などという理念が正しいとは当時の幕府官僚にはまったく思えなかったのだ。

現代日本の感覚は、むしろ「争い」を否定して、「和」を尊重する江戸幕府の役人に共感するのかもしれない。福沢渡米から158年も経過した後、日本国民の感覚は一周りして元に戻ってきた。そういうことかとも思う。

世間の感覚は移ろいやすく、決して定かではないのである。


◇ ◇ ◇


合理性とは、これは真理であると思われる大前提から出発し、あとはロジカルな議論を通して結論を得ることで確保される。法律的論議では規定された法規が真理であると前提される。法が現実から遊離しているという可能性は法律的論議では展開不能である。経済学でも理論構成は同じ性質を共有している。消費者、企業の最適化行動を前提しないのであれば、どんな結論も出てくる。つまり、出したい結論を出せる。学問ではなくなる、というわけだ。

その「何を前提するか」だが、それは合理的議論からは出てこない。その時代の社会が「これは当然正しいよね」という感覚で前提するしかない。あとは合理的だ。故に、理にかなった考え方をするはずの国民がなぜ無茶な集団的行動をしたのか。後になって理解できないことが出てきたりするが、それは同時代の感覚を現実として共有できていないためである。

もちろん「一連の事実」を「明らかな前提」において「故に、・・」という議論の仕方もありうる。しかし、その事実をもたらした根因とメカニズムを理解しないまま、事実はこうだから云々という議論は大半が間違っている。なので、このパターンは(さしあたり)論外とする。

「ハラスメント」をあくまでも撲滅しようとする現代日本社会の、というより世界の潮流は(多分)正しい方向を向いた努力なのだろう。

しかし、ハラスメントを禁止しようという思考は<合理的>なのかどうか。それを証明するのは難しいと思う。むしろ<当然禁止するべきだよね>という世間の感覚に近い。そう思うことがある。とすれば、ハラスメントに関する議論には個人的な思い込みも混じっているだろうと思う。であれば、30年後の世界がどんな見方をとっているかは分からない。最近現れた言葉や概念は、近いうちに消えてしまうかもしれないからだ。

故に、余計にハラスメントの防止と処罰に関しては基本法を明確に制定しておくべきだと思うのだ、な。

◇ ◇ ◇

北朝鮮が盛んにミサイルを発射するのは<国家的ハラスメント>なのだろうか。それとも大国アメリカの国防感覚が発露していることから続けられる北朝鮮に対する<いじめ>に応じた<反撃>にすぎないのか。

ハラスメントとは「相手に不快な思いをさせること」で成立する。では「不快」とは何か。注射の痛みは「不快」ではないのか。耳鼻科の措置は「不快」ではないのか。現実に治療中に患者が不快を感じてしまった場合、それをどう認識するのか。ここが明確に定義されなければ、上の定義は同義反復(トートロジー)であろう。

「ハラスメント」は極めて現代的である言葉だ。それが現代を超えて、普遍的な通用力を持つかどうか、なお明確にするべき余地は大きい。

◇ ◇ ◇

横綱・日馬富士が引退を決意したとの報道だ。

あれは文字通りの「リンチ」であるという感想を小生はもった。指導には当たらないという点は前の投稿でも書いたので省略する。

【この件に関する感想 11月30日加筆】

暴力根絶は現代日本社会の合意である(と言えるだろう)。今回はこれに抵触した。

本場所・巡業の会場に自ら足を運ぶ熱心なファンは横綱の取り組みをもっと観たかったようである。もし相撲に深い関心をもつ人々だけによる裁決で結論を出すならば横綱は引退しなかったはずだ(と予想する)。つまり、横綱引退に導いた主たる力は、少数の委員、というより普段はあまり相撲に関心を持たない多数の人たちが暴力というものに対して感じる非難感情である。

類似のケースは他にもある。

野球にはもともと無関心であってもプロ野球界で不祥事があれば非難の感情を抱き処罰を求める。相撲にはもともと無関心であっても暴力事件があれば暴力否定の感情から処罰を求める。更に、美術にはもともと無関心であっても、美術界に不祥事があれば旧来の慣行が理解できないとして関係者の処罰を求める。音楽界についても同じ。文学界についても同じ。学界についても同じだろう。

このようにして関係者による分権的統治は否定され、集中的・集権的に物事を決める方向へと事態は進む。権限委譲、分散処理、地方分権が重要な社会的課題になっているにもかかわらず、単一的・集権的・機械的結論を社会は喜ぶ。実質的審議ではなく、形式的審議を分かりやすいという理由で好む。

関係のない大多数の人々がどう考えるかで集権的に物事を決めるという潮流は、「第三者の意見」を重視する近年のファッションでもある。これを直接民主主義といえば(小生は濫用であると感じるが)それなりに理にかなっていると言えるのかもしれない。

しかし、その第三者を日本人だけに限るなら理にかなわない(と思う)。国際化した活動をマネージする主体は国籍にとらわれるべきではないだろう。日本人が<これは正しいよね>と前提することを海外の人々も<そうだよね>と同意するかどうかは分からない。前提が変われば議論の全体もまた変わる。大相撲が真に日本人のための「国技」であるなら文化慣習の異なる外国人は参加するべきではない。外国人の参加を認めるなら、日本人だけの価値観や感覚で管理するべきではあるまい。

この問題は海外進出する日本企業、のみならず外国人を採用する日本企業すべての問題でもある。

まあ今は当事者・日本人を含め、色々な変化期にあるのだろう。

2017年11月26日日曜日

断想: 2017年もそろそろ終わりだ

この冬はまだ11月だというのに戸外はもう真っ白である。いつもなら紅葉に初雪が降り積もって二つの季節が重なり合うころだというのに。

申酉騒ぐの酉年ももう一月余りでおしまいだ。長らく続けてきた「仕事」もそろそろ店じまいにして、あとは自分自身のために身につけてきたもの、勉強してきたことを楽しみたいものである。

そもそも勉強も読書も自分のために始めたことだ。人のためではなかった。

とりが空をとぶように自分はじぶんの心のなかをとぶ
ミジンコが水のなかをうごきまわるようにじぶんは夢のなかをさまよう 
あのひとがまだ生きているなら自分も生きていてよかった
あのひとがもう生きていないなら自分はなぜ生きているのだろう 
この星がずっとあるなら自分の子のそのまた子のそのまた子も・・・ずっとありたい
この星がいつか消えるなら自分もいまから無とやらになっているだろうか

「人のために」とか、「社会のために」とか、「世の中のために」とか、これらは青春時代のスローガンにふさわしい言葉だ。

齢をとってくると目に見えないものは信じない。「戦争」と「戦い」との違い、「平和」と「事件」との違いは、理論好きな人たちに任せよう。




2017年11月24日金曜日

大相撲は改革されなければならないのか?

「相撲」というキーワードで本ブログを検索すると結構出てくる。

今月21日の投稿の以前にもこんなに相撲を話題にしていたのかと。意識はしなかったが、小生も相撲ファンの一人なのかもしれない。

八百長防止」というそのズバリで書いたこともあった。2011年5月11日だからもう6年以上も前のことだ。そこではこんなことも書いてある。
大体、掛け値なし本気のガチンコ勝負を15日連続でやれば、怪我をする確率が高い。特に技量が向上途中にある若手の普通クラスの力士はそうだろう。そして若手の向上途中にある力士ほど怪我をおそれるはずだ。怪我をしても次の本場所は年6場所制では2ヶ月先にやってくる。骨折でもすれば1ヶ月は稽古が出来ない。そろそろと再始動しているうちにもう本場所だ。その間に巡業などをやって勝負勘を取り戻しておけばいいが、それは無理だろう。そこでまた無理をして怪我をするかもしれない。そんな状態で15日またやる。
怪我をおそれずシナリオなしのガチンコ勝負を毎日ずっとやれというからには一定の条件が必要だ。
亡くなった父が夕食の折などよく相撲を話題にしていた。戦前は年2場所で13日制だったというのはよく話していた。

ただ、(今になってからやっとだが)Wikipediaで調べて見ると、父が相撲のラジオ中継を聴いていた昭和初めの頃は角界変動期にあたっていたらしく、昭和2年(1927年)に東京と大阪に別れていた団体が統合され大日本相撲協会が発足後、本場所は年4回でスタートしたところが、昭和7年(1932年)に待遇改善を求めて多人数の力士が脱退したため、年2回の開催となったようである。その後、名横綱・双葉山の活躍が契機となり、昭和12年から13日制となり、14年には15日制になった。父はその変わり目の頃のことを覚えていたのだろう。

戦後になってから先ず1場所13日制で再開された。昭和24年(1949年)1月場所である。同年5月場所で15日制に戻り、以後15日制が定着した。昭和25年(1950年)から27年までは年3場所の興行だった。年6場所制になったのは昭和33年(1958年)7月の名古屋場所からのことである。これ以降、年6場所・15日制が定着して今日に至っている。昭和40年(1965年)からは部屋別総当たり制も採用されることになった(以前は出羽一門、二所一門など一門同士は対戦せず大部屋に所属する力士は有利だった)。

最近の力士は重量化したこと、(さらに稽古量が減っているせいでもあるのか?)怪我をしやすい。年6場所・15日制は長期的に持続困難ではないか。

場所数を減らして、放映権、チケット料金を値上げするほうが、理にかなった方向だと思うこともある。

■  ■  ■


 こんなことも書いてある。2015年2月13日の投稿だ。初場所なら1月で、2月に書いたというのは解せないが、何か思い出すようなことがあったのだろう。

確かに横綱白鵬は双葉山が口にした「木鶏」の境地にはなかったようである。が、けれども荘子はモンゴルの人が嫌う漢民族の人であるから、こんなエピソードは不適切かもしれない。だから、相撲に詳しい人も知ってはいたが、語らなかった。その可能性もあるやに感じられる。
ちなみに、事実の推移は親父が言ったようではなく、双葉山は東の支度部屋に戻るなり『ああっクソ!』とうめいたそうである。「木鶏」は一晩寝てから出た言葉であるそうだ。どちらが本当の話しなのか知らないが、うちのカミさんは「こちらのほうが分かる」と言っている。

2015年初場所の白鵬と稀勢の里戦で物言いがつき、取り直しになった一件で、白鵬が行司を批判した態度が横綱らしくない、と。そんな報道で一杯になったのだな。それで書いたようだ。

文中、双葉山が「ああっ、クソ」とうめいたのは、安芸ノ海に負けて70連勝を阻止され支度部屋に戻った時のことだ(と聞いている)。

いくら横綱でも悔しい気持ちになることは当然あるに違いない。判定に納得できないことも人間だからあるだろう。双葉山ですらも伝説どおりではなかったということだ。どうやらそんな感想をメモしておきたかったようである。

■  ■  ■

小生自身の少年時代の記憶に関する投稿もあった。忘れていたなあ。2013年1月20日に書いている。

昭和の大横綱・大鵬が死去したというので地元の道新は一面トップをさいている。小生も訃報を聞いた時にはそれなりのショックと一つの時代が終わったような感覚を感じたから、一人の関取の死をトップで報道しようとする姿勢も何となくわかるのだな。
少年時代にはよく相撲中継をみた。10日目頃から大関たちとあたるようになる。栃光、栃ノ海、北葉山、佐田の山ときて千秋楽には柏戸とあたる。そんな記憶がある。戸田との取り組みはまだ覚えている。見ていた側からは負けたとしか見えなかった。亡くなった父が一緒に見ていたかどうかは覚えていない。そこでこの一戦があった昭和44年の三月場所開催期間万年カレンダーをみてみると、大鵬が戸田に負けた二日目は、3月10日月曜日だったことがわかる。してみると、父は仕事があったはずであり、当時はもう本社勤務だったはずだ。急いで帰宅しても取り組み時間には間に合わない。やはりリアルタイムでは、父は大鵬・戸田戦を観てはいなかったはずだ。NHKのニュースででも観たのだろうか。父も「負けたなあ」と話していたように覚えている。それが誤審であったと後できいて、思春期だった小生にはいかにそれが酷い話しであるのか、ピンと来なかった。「本当は勝っていたんだよ」と言われても、そうかやっぱり勝っていたのかと安心したものの、理解はできないものである。まして45連勝でとぎれたんだと説明されても、それはおかしいとしか考えられない。「世間のルール」というものを年若の者はよく知らないのだ。
小生にとって「大横綱」と言えば、大鵬をさす ー 好きな力士は北の湖であったのだが。

両人とももうこの世にはいない。

大相撲が日本から消え去るという可能性は今のところ考えられない。とはいえ、時代に合わせてシステムを変えていく努力は明治、というか江戸時代からずっと一貫して続けられてきた。

現在の興行体制は、ある時期の激変期を経てから後、それからは落ち着いて安定的に継続されてきた。それだけのことである、とも言える。

稽古ならいざ知らず、飲み会の二次会で殴って制裁するのは憲法でも禁止されている「私刑」であり、もう漫画の世界でのみありうるというのが日本人の共通の感覚だろう。

「変えてばかりいるのも問題だ」という人もいるらしいが、問題発見・問題解決への議論と計画など、真剣に続けていく必要があるわけだ。改善/改革への努力を怠ってはならない。これはもう10年前の惨状を思い出すまでもなく、自明のことである。

その努力の成果を、出来れば毎年1回、日本相撲協会『相撲白書』にまとめて公表してほしいものだ。もし刊行されれば小生は絶対に買う。執筆陣は外部協力者に委託すればよい。いまなら相撲ファンの厚みもあり、応じる人も多いだろう。

年間取り組みベスト10もやってほしいものだ。ベストスリーの取り組みは改めて表彰してほしい。そうすれば<相撲とはいかにあるべきか>が具体的に周知されるだろう。ワースト10もやるべきかもしれない。<悪い取り組みはこういうものだ>と、汚名・醜名が残るのを力士は何よりも恥じる。教育的効果は絶大だろう。

名力士を育てた親方は<名伯楽>として表彰するべきだろう。相撲界の宝は良い師匠である。

◇ ◇ ◇

以下は付け足し:

関取にも色々なタイプがいる。才能も目標もマチマチだろう。しかし、人口でいえば横綱よりはせいぜいが幕内、前頭までという人が多数派だ。

横綱まで上り詰めた人は平凡な関取OBの願望は分かるまい。と同時に、平凡な関取で相撲人生を終えた人は横綱に昇進するまでの稽古、鍛錬の苦しさは想像できないだろう。横綱が抱いている理想もわかるまい。凡人にとって相撲は生活の術であり、それ以上のものではない。

しょっちゅう書いているように、為すべきことを為すのは天才だが、受け入れるかどうかを判断するのは凡人だ。多数の凡人がついてこれなければ、天才は為すべきことができない。

天才が実際に活動できるのは「危機の時代」であるのは、そのためだ。順調にいっている間は、凡人が世の中を支配する。





2017年11月21日火曜日

国技「大相撲」の暴行騒動をきく本筋は

小生の上の愚息は幼いころから熱心な相撲ファンである。四股を踏む小学生時代の愚息を撮影した写真も数多く残っていて、それらを見ると歳月というもののたつ速さを実感する。最近まで使ってきたiPhoneからSONYのXperiaに機種更新したのだが、仕事帰りの車中でワンセグが見れるようなったと喜んでいる。相撲中継なら電車の中でも音声なしの画像だけでわかると話している(Bluetoothイヤホンを買えばいいように思うのだが)。

その大相撲界。いま九州場所の開催中であるにもかかわらず、話題はもっぱら貴ノ岩関に対する横綱・日馬富士関の暴行及び傷害(?)事件でもちきりである。

これは無礼な態度を叱責する躾だという人もいれば、パワハラだという若い人もおり、いずれ関係者の何人かは処分されるだろうが、その筋(=日本相撲協会、警察・検察?)は処分の仕方に大変苦慮することだろう。

× × ×

ここでは覚え書きとして:

一般人に対する力士の暴行事件ではない。角界の不祥事である。組織内部の統制という観点に加えて、やはり顧客志向という観点も大事だろうと思われる。もちろん社会的常識や大多数の納得感は欠かせない。

10年ほど前にも相次いで発生した不祥事があった。特に2006年から2011年まで毎年のように不祥事が連続的に発生した「角界暗黒時代」はまだ記憶に鮮明である。

その中には、横綱・朝青龍の暴行と引退もあったし(2010年)、大麻使用事件(2008年)もあった。大麻事件では当時の北の湖理事長が引責辞任をしている。その前の2007年には時津風部屋の若い弟子が稽古中に暴行されて死亡するという事件があった。

毎年のように発生するトラブルにファンは徐々に離れていたが、大打撃になったのはやはり「野球賭博事件」に大量の力士が関係していたことが明らかになり、幾つかの相撲部屋が家宅捜索をうけた事件であろう。2010年5月のことであり、直後の名古屋場所では初めてNHK中継放送が中止され、天皇杯、内閣総理大臣杯授与も行われなかった。これが大相撲を愛する堅いファン層を大いに侵食した。

そして翌年2011年の3月、大阪場所が中止に追い込まれた。野球賭博事件の根が角界にも深く広がっており、取り調べをうけた力士の中には相撲も賭けの対象にしていたと供述したものがいた。更に、八百長を認めた力士も現れてしまった。

この「相撲八百長事件」が致命的な打撃となり、相撲ファンは当時の大相撲に心底から幻滅したと言える。

今回の騒動でほぼ10年前の泥沼を思い起こす人も多いだろう。やはり、相撲の本筋は体を張った闘技ということであり、勝負の厳正さは相撲の命ということだ。単なるエンターテインメントではない。勝負にシナリオなどあってはならないわけである。しかも、相撲は日本の「国技」ということにもなっている。

この本筋にそうところに相撲ファンのコアがある。なすべき稽古もこの大原則から導かれる。そう思うのだな。

今回の騒動をどう裁くか。過去の事件の教訓を生かしてほしいものである。守るべき価値は守り、直すべきところを直してほしいものだ。

× × ×

相撲は格闘技であり、立ち合い様の張り手は当たり前のようにある。本割で張られる以上、稽古で慣れておかねば話になるまい。この点は、野球やサッカーとはまったく違う世界だ。

とはいえ、『殴ればわかる』、『殴られて悟る』という考え方では、指導の効果が出ないと小生は思っている。

小生自身も二人の愚息が成長している途上で、体罰に訴えたことがないわけではない。

殴ってしかるなら、なぜ殴るかが殴られる側にもハッキリと理解できる状況が不可欠だと思っている。

言葉で語るのが最善だ。しかし、言葉が上手な人が必ずしも善い指導者でもないことはだれでも知っている。言葉で語る話しに加えて、表情や動作、全てが表現手段である。師弟 ― のみならず親子、年上と年下等々 ― の間の信頼感は結構複雑なものだ。叩かれてその瞬間に何かが理解できる、理解できてそこでまた頬ずりをされる、抱きしめられる、そんな表現の仕方も確かにあるだろうし、特に格闘技の稽古では言葉外のコミュニケーションもありうると小生は思う。

× × ×

いま読んでいる本は相撲とはまったく関係のない『日本人のための第一次世界大戦史 世界はなぜ戦争に突入したのか』(板谷敏彦)である。その中にある下りなのだが、
表面上の軍律が厳しいのは士気が低いことの裏返し
という指摘がある。第一次世界大戦時のイタリア軍は『軍律は厳しく、無理な命令であっても突撃を躊躇するとどうなるのか、見せしめのための罪なき銃殺が部隊内で頻繁に行われ』ていたと説明されている。しかし、軍律厳しいはずのイタリア軍の現実の戦いぶりはまったく酷いもので、ドイツ軍、オーストリア軍に押し込まれ、食料は不十分で、かつ給与は低く、休暇もわずかであり、そのため1個連隊全体が反乱を起こすこともあったという。

暴力による指導や折檻をできる限り避ける方がよいのは、しばしば指導者の堕落を招きやすいからである。というより、指導者の力量不足や組織全体の堕落を暴力が象徴しているからである。

低品質の指導者はしばしば暴力や体罰、重罰・極刑に頼りがちであるという事実は、上の(第一次大戦時の)イタリア軍の惨状からも推し量れる。

× × ×

話しを戻す。

叱られた側が納得していない限り、殴打による指導・折檻が効果をあげていない、伝えるべきことが伝わっていない。これだけは明確な事実と言える。とすれば、今回の横綱・日馬富士の行為は、指導ではなく暴行である、と。いかに善意志によるものであったにしても、暴行だと認定されても仕方のない面は確かにある。

それにしても、(一部では批判の向きもあったと読んだことがあるが)北の湖前理事長が急逝した折に、今後の角界・親方衆を誰がまとめていけるのかと。そう心配する関係者が多かったようである。事実はその通りになってきた。そんな感じもするネエ・・・。

やや奇矯な人柄ではあるらしいが貴乃花親方が日頃提案していること自体は正論だと思う。組織内部の戦力として包容できる器がないとすれば大きな損失だ。しかし、そんな方向には向かっていかないだろう。

逆風に対して知恵なき内向きの姿勢が強まるだろう。先行きは暗い。

2017年11月19日日曜日

「▲▲砲」が自然発生し繁茂しつつあるようだ

「文春砲」という言葉が日常化したかと思えば、今度はネット上のニュース、というか意見公表の共有空間ともいえるアゴラをたとえて「アゴラ砲」という語が使われるようになっている。

確かにアゴラという場は実に面白く、モノトーンで退屈な大手新聞社の紙面とは全然比較にならない。アゴラは意見を公表している著者が明らかであるが、新聞は誰がこんなことを言っているのか分からない。取材記者の意見か、編集局長の意見か、社長の意見か分からない。

「意見」というと大手マスメディア企業は「報道」を担っているのだと主張するだろうが、「何をどのように報道するか」という選択にそもそも主体的な意見が含まれている。事実をどう見るかはそれ自体が意見である。

前から言っているが、個人には参政権があり政治を語る権利があるが、法人には参政権がなく、会社として政治を語る権利はない ― マア、「語る権利もない」と言い切ると言い過ぎになるかもしれないが。

もう情報伝達のためのツールという視点において、新聞とインターネットの勝負は明確についてしまっている、と。小生は断言したい。

■ ■ ■

たとえば、『公約違反の政治家を債務不履行で訴えられるか?』という問題提起があったりする。

こんな問題は、大手新聞もTVも真面目にとり上げられないに違いない。せいぜい、バラエティ番組でお笑いも混ぜて誰かが発言してポカッと叩かれる。そんな風に流すのがせいぜいである。つまり既成のマスメディアは、大手であるが故にあまりにも記事内容に自主規制、社会的規制を加えざるを得なくなっており、それが故に記事を読んでもまったく面白くない。かといって、内容にバイアス(=偏向、偏り)がなく、バランスよく世間の考え方を紹介してくれているかといえば、決してそうではなく、結局は自社の哲学や理念に賛同してくれる優良顧客層に買ってもらうために新聞を売っている、更には全国地域地域にある既存の新聞販売店を守るためには売れる新聞をつくる必要があるのだ・・・まあ、ブッチャケ、そんな成り立ちがあからさまになっている。それなら敢えて読む必要もない、と。もっとズバリ本質をついた同じ立場の意見はアゴラにある。勝負はついた。上ではそう書いたわけだ。

■ ■ ■

ただ、公約違反の政治家を債務不履行では訴えられないだろう。なぜかといえば、政治家の公約は、支持基盤に対する約束であるにすぎず、反対派との調整を行う以前の段階であることは明らかなので、公約が実現されるかどうかは未定。つまり「公約とは予定」、「予定は未定」。それが選挙の時の「公約」というものだからだ。

もし一定の公約を掲げた政党が選挙で勝利を得たとすれば、国会でも多数派になる以上、公約を実現できるだろう。確かにそれが理屈ではあるが、無理に通せば「数の力で押し切った」と批判されるだろう。少数派も国民には違いなく、すべての政策は全体の利益になるものでなければならない。それが基本原則になっているからだ。損をする(=だから反対する)側に一定の保障を与え、少数派がそれで納得しない限り、多数派の「公約」は実現不可能である。そんな調整をしているうちに、多数派が次の選挙で負けたりすると、すべてリセットされる。

■ ■ ■

公約なんてそんなものと言えば「下らねえ」と感じたりもする。

いまでも「軍事政権」はそこかしこにある。日本も国際環境によってはそんな全体主義国家に逆戻りする可能性がないとはいえない。命令できるなら公約は必ず実行できる。命令に服従しなければ「非国民」と判定すればよい。日本にもそんな時代があった。しかし、命令できる政府なら一度政権につけば、それ以後、公約などはしないだろう。トップと何人かの側近で政治をするだろう。

選挙にせよ、政治にせよ、民主主義にせよ、これらを前提すれば「公約」はこんなものだろう。「民主主義」とは「温かい家庭」と同じようなもので、口にするのは簡単だが、実践するとなると色々な問題が発生する。

とはいえ、こんな風に自分の頭で考えて見たくなるのは、問題提起が面白いからである。社会のことを理解するには、自分の頭で考えたいと感じることが大事で、「こんな事実がありますよ」というだけではもう不十分ではないか。まして、「これはこう見るのがよい」と上から目線で「教えてやる」といったスタンスで記事を書いて見ても、もう読者はついて来ないのではないかと思ったりする。

2017年11月18日土曜日

「政治ドラマ」、「政治俳優」、「政治女優」の時代なのか?

選挙に勝った<立役者>だというので小泉進次郎議員がブレーク中である。そうかと思うと、こんな記事も出始めた。

報道陣から代表辞任の思いを問われ、「日本と、そして東京が良くなることなら、なーんでもしたい」と意気軒昂だったがこの人の心変わりは速い。知事の任期を全うするかどうかも分からない。

(出所)産経ニュース、2017年11月18日配信

言うまでもなく小池百合子都知事の近況である。

政治が現実そのものであるという実感を喪失して、どこかで上演されているドラマに近いような感覚で聞くようになると、必要なのはワクワクさせるようなストーリーと、ストーリーの中で演技をする俳優と女優である。

前に投稿したように、元キャスターである小池百合子はマスコミがうんだ最上級の政治女優であった。 しかし、同女史はプロデューサーであるマスコミが期待する言動から外れて、勝手なことを発言し始めたので、役を降ろされた。あとは失墜の行く末が待つだけである。転落した大女優もまたマスコミ好みの主題なのである。

小泉進次郎も政治俳優の道を歩むつもりなら転落が近いだろう。

安倍総理はマスコミの脚本を演じるつもりはハナからないようだ。今の日本社会ではそれが正解だ。

予想だが、小池百合子女史は近い将来に「平成無責任女」と呼ばれるようになるのではないだろうか。マスコミがそう名付けるのではないか。かつてマスコミは植木等を「昭和の無責任男」と呼んで、一大ヒットを飛ばしたものである。平成無責任女・小池百合子を完成させるのは都知事辞任(→海外の大学客員教授就任?)劇をおいて他にない。

政治ドラマを考えているマスコミはその方向でいまシナリオを検討中だろう。いま、小生、そんな想像をしている。もしそうならば、先ごろから本ブログでも何度か投稿している「小池女史=嘘つき魔女」よりももっとタチが悪い悪ふざけであると思ったりする。

なぜそんな悪ふざけをするのか? 視聴率が上がるからである。販売部数が増えるからである。儲かるからである。ただそれだけだと小生は思ってみている。

実に、<国民の国民による国民のための政治>が<少数の私企業>の損得計算に利活用され、影響され、時に支配されている。憲法で保障された表現の自由には当てはまらない問題のはずである。表現の自由とは思想や信条、信教に関する個人の権利のはずである。私企業の利益とは関係のない、もっと基本的な概念のはずだ。しかし、誰も何も言い出せない。

情けない状況になってきた。

2017年11月16日木曜日

裁量的な行政 vs 恣意的な反対

この春から紛糾してきた加計学園獣医学部の新設が大学設置審で認可され来春には開校の運びとなった。

これで事態は収束に向かって間もなく一件落着かと思われたが、ドッコイドッコイと言いたいのか、野党はまだなお徹底追及する構えを見せている。土俵際で倒れながらも、背中に砂が付くまでは「まだ負けてない」と、そんなスタイルであるな。

野党の頑張り自体は尊敬に値するものだ。野党が無気力になれば、民主主義そのものが腐敗してしまう。とはいえ(公平な第三者で構成されると想定するべき)審議会の結論自体を認めない、その結論に沿った行政府の事務執行にまで国会が異論を挟むようになると、行政が停滞する。さらには立法府が行政府の事務にそこまで介入できる権限があるのかという問題も出てくるだろう。

行政権は行政府にある。明確に法律に反している、あるいは立法趣旨に反している時は、立法府は行政府の行為を変更するべきだ ー 行政組織、行政法分野には、小生、素人だが、多分、間違っていない。違法の場合は国会が取り上げる以前に即刻判断がつくはずだが、関連法制の趣旨に照らして不適切であるならば、不適切であると判断するプロセスが国会の場で必要だ。多分、そのプロセスも多数派である与党に影響されるだろう。それが選挙というものではないか。委員会の質問の場で政府の不適切を指摘することも当然ながら可だ。しかし、不適切の有無は法に沿って指摘するべきであり、「なんとなく感じが悪い」などという修辞や誇張は野党の信頼性を落とすだけだろう。

★ ★ ★

どうやら野党は獣医学部新設に関わる石破4条件に反していると。この線から攻勢をかけてくるという報道だ。

そもそも石破4条件というのは、2015年当時に地方創生担当相であった石破茂議員がまとめ平成27年6月30日に閣議決定された「日本再興戦略改訂2015」(本文第2部・第3部)の121ページに記載されている、以下の一文であるらしい。

現在の提案主体による既存の獣医師養成でない構想が具体化 し、ライフサイエンスなどの獣医師が新たに対応すべき分野における具体的な需要が明らかになり、かつ、既存の大学・学部 では対応が困難な場合には、近年の獣医師の需要の動向も考慮 しつつ、全国的見地から本年度内に検討を行う。

上の文中の『本年度内に検討を行う』というのは、平成27(2015)年度中という意味である。「かくかくしかじかを考慮しつつ、本年度内に検討を行う」という文言は「来年度以降には一切の検討を行わない」ということを意味しない。もし「未来永劫」ずっと行政府の判断を縛るものにするなら閣議決定ではなく立法化しておくのが適切であった。そうすれば立法府が行政府を縛ることができる。

実際、当時の責任者であった石破氏は次のように語っている。

 「学部の新設条件は大変苦慮しましたが、練りに練って、誰がどのような形でも現実的には参入は困難という文言にしました…」。平成27年9月9日。地方創生担当相の石破茂は衆院議員会館の自室で静かにこう語った。


当面は獣医学部に参入できないようにしておこうという「行政判断」として上のような文章表現にしたということは明らかである。これ即ち「既得権益の保護」であり、現政権だけではなく、経済理論にも、近年の世界の経済政策の潮流にも反している ー この1,2年の保護主義には合致しているが。

集団的自衛権ですら閣議決定を変更して、それまでの「非」を「是」とした。いわんや一大学の一学部においてをや、だ。こんな些末な事柄など閣議決定をいつでも変更できるだろう。

というか、石破4条件なるものは元の文書を素直に読む限り「当面の方針」である。

「石破4条件」を盾にして正面から論争するとしても野党に勝ち目はないのではないだろうか。

確かに安倍政権は裁量的に色々な事を変更している。それが是か非かという問題はある。しかし、論理は曲がりなりにも構築している。野党の反対にはそれがない。このままでは恣意的な反対だと言わざるを得ない。そうなるのではないか。

★ ★ ★

 まあ、小生もこの件については専門的にあらゆる記録を調べてはいない。ひょっとすると、▲▲が●●でこんな発言をしている、こんな資料が隠れてました等々、というような動かぬ証拠があるのかもしれない。

だが、しかし、政治とか経済のプロセスはその因果関係が多面的で複雑だから分かりにくいが、紙一枚で大きな政治的決定が為されることはない。紙一枚はリアルな諸事情の結果である。紙一枚がその後の進展を決めるわけではなく、その紙一枚を書かせた諸事情が決定していくのである。紙一枚の一言一句に執着して是非を議論しても重箱の隅をつつくだけの神学論争になるだけである。

『よお〜く調べてみたら、こんなことがわかりました』、『いやあよく分かったねえ』と。研究では確かにこんな局面もある。連想するのだが、ビッグデータの世界では、1千万件のレコードを分析して初めて分かってきたことがある。そんなニュースが時々ある。それほど重要な傾向があるなら、なぜ今まで気がつかなかったんですか。重要な傾向なら誰でも経験で気が付いているのではないですか、と。そう聞きたくなるではないか。

ビッグデータ分析にも創造性のある分析とつまらない分析がある。ビッグデータなら良いとは限らない。問題追及にも、真に社会を進歩させる追求と重箱の隅をつつくだけの追及がある。問題がある(ありそうだ)から追及する、それだけではダメなのだ。

細かな細部をつついて初めて分かることが、実は決定的に重要な主因であったなどということは経済分析、経営分析、あるいは政治分析においてほとんどない。基本的なことは粗々のモデルで大体分かるものだーもちろん一定の視点/パラダイムは大前提としてある。たった一つの細かな証拠が結論を左右するほどに決定的であったりする刑事事件とはここが違う。社会現象の分析と刑事捜査とは本質的に異なるものである。国会議員は、政治・経済・社会の理解者としての役割が主であって、刑事事件捜査の担当者としての感覚を持つ必要はない。

だから余り細かな事ごとを調べて、加計学園問題を理解しようなどという気にはなれないのだ。


2017年11月15日水曜日

「小池劇場」の終幕?

小池都知事が希望の党の代表を辞任して小池劇場の幕はおりた、とワイドショーにまた話題を提供している。

希望の党の立ち上げから50日。今夏の都議選で都民ファーストが圧勝してから100日余。昨年の夏、都知事選に自民党から抜け駆け立候補してから1年余。

先日の投稿では、小池劇場なる出し物、昨夏の都知事選で幕があいたと述べた。それは長大な喜劇であったと書いた。ジャンヌ・ダルクという悲劇のヒロインかと思いきや、ジャンヌ・ダルクが舞台の真ん中でスッテンコロリンと転んでしまう、実は公衆の大笑いをとる傑作ドタバタ喜劇であるとした。

ノーベル文学賞をとったカズオ・イシグロでさえも表現し切れない、現世のアヤがみてとれると。そんなことも書いた。

やっぱりそうであったか・・・今はそんな感想である、ナ。

そういえば、この秋に盛んに投稿したように、小池女史、勝負服も緑から黒に変更した様子だ。誰かがアドバイスしたのだろうか。

結局、マスコミに使い捨てられようとしている政治女優の一人である実態があらわになってきたということか。

栄枯盛衰。

人間も会社も、時にバブルがみるみる膨らむようなブームにわくことがある。しかし、長期的にはその人間の識見・力量、会社の経営陣の実力、その会社がもっている経営資源を反映するような結果に落ち着いて、全体の状況は定まるものだ。

人生には、政治人生、学者人生、医師人生等々、いろいろな人生があるが、人生を全うするだけでも立派な人生である。中途で▲▲生命を失うといった例は歴史上でも数え切れない。

大きな事を成し遂げるのは、その人の巡り合わせで大勢の人が集まるからであって、上昇したいというような「希望」があって出来るものではない。そもそもの志と時運がマッチすることが大事だ。

こんなことを考える機会を提供してくれた顛末であった。

2017年11月14日火曜日

家族 vs 福祉国家

最近は高齢者福祉から育児支援・教育支援になんとなく世間の注目が集まっているが、TVのワイドショーでもとり上げられているように、問題の規模や深刻さは高齢者問題をどうするかの方が段違いに大きい。これはもう放映される情景をみれば、誰でもが直感的に明らかだと思うのだな。

孤独死しかり、住居難しかり、生活苦しかり、病気になって病院に行けないという運動困難しかりだ。あらゆる人生苦が凝集されている社会問題が高齢者問題である。

★ ★ ★

どんな人間社会においても高齢者や幼少年をどう養うかはずっと問題であり続けた、これは当たり前の事実だ。

そして、その解決の主体になってきたのは、ずっと家族・親戚・同族であったことも事実である。「国」や「社会」は家族内、親戚内の問題について深くは入り込まないのが不文律であった。なぜなら「社会」という存在は実際にはないのであって、その実態は他の家族であるに過ぎないからだ。自分たちの家族内で発生した問題は、原則として家族内で解決するのが当たり前だというのが日本人の倫理だったと言える。そんな倫理がある以上、国は家族内の問題は家族に一任するのが、面倒でなく費用もかからず楽であったのだ。

その倫理・慣習を突き崩した根本的原因は、明治以降の兵役の義務と戦前期・日本の軍国主義によるいわゆる「根こそぎ召集」である。

家族や同族の生き残りのためならば生命を捧げることすら厭わなかった日本人の生活に、「国家」のために命を捧げよと求めてきた政府は明治政府が初めてである。そんな政府は1945年に(幸いなことに)消滅したが、家族や同族の上に国家や社会を置くという価値観はまだなお色濃く日本社会に残っている。

★ ★ ★

自民党の改憲案では家族の重要性を謳っているようだが、実際に最近とられてきた制度改正はずっと昔の尊属殺人重罰規定の廃止、個人ベースの国民年金制度、離婚時の年金分割、配偶者控除見直しの開始などなど、あくまでも個人個人に区分した生活保障が基本的な潮流になっており、家族をむしろ個々人に解体する方向を指している。

人生を通した生活保障は元来が家族や同族が行ってきたのであって、そうでなければそもそも「家族」や「結婚」、「親子」や「親族」などは単なる束縛であり、存在価値がないものではないかと思う。いやいや、現実に家族や同族といった観念は日本社会において面倒で不必要なしがらみとして捨て去られようとしているのかもしれない。この2、30年は日本社会の激変期であるのかもしれない。

それならそれでも構わないのだろう。ずっと昔は「世間」と言ったり、「浮世」と言ったりしたものだが、どう変わっていくか予測はできないのが社会である。それでもなお、老いた男性には別れた妻がおり、3人の子供がいるにも関わらず、誰一人として保証人がなく、老齢でいつ死ぬかわからないという理由で、住む家に困り、自分の死が早く訪れることを望むなどという状態は、哀れな国であるとしか思われない。

たとえば市役所や地域社会が何かの措置を講じ、国もそんな高齢者の社会支援をバックアップするというのは、かつての軍人恩給制度とどこか似ている感覚がある。問題がそれで解決されるなら、それでもいいのだろう。

しかし小生は、ずっと以前にも投稿したが、マーガレット・サッチャー元英首相が言った"There is no such thing as society. There are individual men and women, and there are families."、この社会哲学の信奉者だ。マア、単なる好みなのかもしれない。しかし、社会とは「他の家族」のことだ。社会が支援するというのは、他の人たちの財布から出してもらうということである。なぜ血の繋がった自分たちでまず助け合わないのかという疑問は、誰も口にしないだろうが、社会福祉にはいつも潜在しているウィークポイントだろう。この話題では、小生、社会の役割軽視、家族の役割重視、親族間の相互扶助尊重。疑いなく右翼である。

軍国主義や全体主義が持続可能ではなかったように、国民全体を一家族のように擬制するような社会福祉もまた持続可能ではないと思われる。

社会的な失敗は、ほとんどの場合『人間は夢を抱く』、『人間は互いに協力する』というヒトという動物固有(だと思うが)の二つの性質からもたらされるものだ。

2017年11月11日土曜日

「日本の家電メーカーは世界に冠たる・・・」と豪語していた時代

東芝がテレビのREGZAブランド、パソコンのDynabookブランドを完全に放棄することを検討しているようだ。

歳月匆々、転た凄然というのはこの事である。

◇ ◇ ◇

小生が北海道の地方都市に移住してきたのは1990年代の初め、バブル景気は崩壊したものの、それから後に「失われた15年」という長い時間が必要とされていたとは想像もしていなかった頃だった。単なる株価の大幅調整、地価の水準調整。その程度に考えていた。

ただ日本の花形産業がそれまでの「鉄は国家なり」から軽薄短小の電機産業にシフトしていく方向は必然とみられていた。中でも日本が絶対的な強みを持つと思われていたのは、家電製品全般、半導体、精密機械だった。自動車は確かに強力だったが、まだまだアメリカのビッグ3が覇権を握っていて、トヨタやホンダ、日産はあくまでも世界市場への挑戦者という立場でしかなかった。

その電機産業は既にアジア全域にサプライチェーンを構築中であり、製品の信頼性、コスト優位性などすべてを含めて、絶対的な競争優位性を信じて疑わないという鼻息だったことを鮮明に記憶している。「生産のモジュール化がカギなんですよ」と何度聞いたろうか。

・・・まるで、ミュージカル『キャッツ』でグリザベラが歌うバラード「メモリー」の世界である。
Memory
All alone in the moonlight
I can smile happy your days (I can dream of the old days)
Life was beautiful then
I remember the time I knew what happiness was
Let the memory live again
メモリー 月明りの中
美しく去った過ぎし日を思う
忘れない その幸せの日々
思い出よ 還れ
今朝、カミさんが『大分寒くなってきたよね、そろそろ毛布もいるけど、ダイソンのヒーター、羽がついてない扇風機みたいなものがあるでしょ?あれもネ、いろんなヴァージョンがあるみたい。扇風機にもヒーターにもなって、静かみたいヨ』と眠いのに話しかけてきた。薄く目を開けると、もうiPad Air2を指でタッチしながら何やら調べている様子だ。

◇ ◇ ◇

アップルはアメリカ企業だ。ダイソンはイギリス企業だ。

日本の電機産業は世界に冠たる競争優位性を築いていたのではなかったのか。文字通り『過ぎし日を思う』朝のひと時であったのだ。

小生がまだ大阪で研究をしていたころ、主に使っていたのはNECのデスクトップPC98であった。DOSマシンである。ただ、その頃アップルのMacintoshが急成長しつつあって、やがて小生も研究費でSE/30を購入した。その後、Quadraまでアップルを使った後、ようやく追いついてきたWindowsに移行して、その後PCはずっとMicrosoftを愛用している。ただ、趣味の世界ではやはりアップルを使い続け、ウォークマンを二度ほど買い換えたあとは、iPodに移り、その後はiPhone2、iPhone4sと買い換えてから、いまのGoogle Nexusにたどり着いた。いやあ、SONYのオンライン・ミュージック・ストア・・・何と言ったっけなあ・・・使いにくかったねえ。それだけは覚えている。

小生が若かった頃にはなかったものが、今では広く使われていて、ライフスタイルは昔と一変してしまった。そんな新しい生活を支えているものは第一にスマホ、タブレットというよりインターネット。PCもタッチペンが鉛筆や万年筆なみになってきてデジタルノートがとれるようになった。買い物はAmazonだ。この冬にはEchoが日本にも登場する。毎日の家事では掃除・洗濯・料理がある。そのうち、掃除はダイソンのコードレス・クリーナーに買い替えてしまった。料理といえば炊飯器だが、それはまだ日本製だ。しかし、ホームベーカリーはフランスのTfal、やかんはTfalのケトル、コーヒーサーバーはネスカフェのバリスタ。まだ現役続行中であるのは、東芝製の洗濯機であるが、東芝は既に白物家電事業を中国に売却した。

こうみると、世界に冠たるはずの日本電機産業は中国や韓国の低価格商品に駆逐されて敗退したわけではないことがわかる。もちろん半導体が韓国勢に後れをとったことは事実だ。しかし、1990年代初めの時期、過剰設備を解決しようとして生産能力をスリム化した日本勢の戦略が韓国勢の拡大戦略を誘発したことも否定できまい。戦略的代替関係が支配している設備投資ゲームにおいて、日本の出方をモニターしているライバルの存在を意識することなく、何らコミットメントを発することなく、スリム化戦略を進めたのは油断というしかない。

世界を変えるような創造的な新製品はアメリカやイギリス勢に後れをとり、コスト優位性があるはずの既存製品では戦略ミスを犯した。戦略ミスは経営能力の問題だ。

競争優位を築いた先駆者が退いたあと、実際に手足を動かし、汗を流して動き回った後続世代が経営の舵取りを担うようになった。おそらく自分たちこそが世界市場の覇権を築いたという感覚を持っていたのだろう。それは錯覚だった。勝つか負けるかは、個々の兵士、個々の営業レベルで決まるのではなく、もっと上位レベルの戦略的判断を担う人たちの能力で決まるものである。一定の方向付けを与えられて個々の問題を解決できたからといって、世界規模になったメガ企業をどう発展させていくかという高度の問題は身に過ぎた問題であった。

◇ ◇ ◇

戦争はやってみないと分からないところがある。もっと危ういのは、負ける可能性を認識できず、必ず勝てると信じてしまう人物群が指導的なポジションを占めていることだ。まあ、最後にかつ人間というのは有能な人物ではなく、勝てると信じている人間であると、ナポレオンは言っているそうだが。そのナポレオンも敗れて人生を終えた。

黄金時代の日本の電機産業は、確かに韓国や中国の低価格戦術に被害を被った。しかし、アメリカ勢にも、ヨーロッパ勢にも創造性や魅力という点で敗退したのである。

決して安物にシェアを奪われただけではない。「世界に冠たる・・・」は、ヘボの勘違いであったに過ぎない。

「価値観や哲学、統制ある行動パターンとか、すべて間違いだったとは思えないんですよネ」と言っているようでは、電気産業だけではなく全産業において危ないと小生は思って見ている。

2017年11月10日金曜日

大国になれば「大国の論理」が出てくるのは自然である

訪中しているトランプ大統領に対して中国は「太平洋二分論」を繰り返しているとの報道だ。やはりそうか、という人も多かろう。

1930年代から40年代にかけて、大日本帝国の基本戦略は「大東亜共栄圏」というものだった。その狙いは、広域アジア圏からイギリス、フランス、オランダ、それからアメリカなど欧米の勢力を「排除」(=植民地を解放)し、独立したアジア世界を構築しようと。立派に言えばこのような戦略を実行していた。中国が「大国の論理」を振りかざしているなら、戦前期・日本も同じようなホラを吹いていたわけだ。

近年、中国が特にアメリカを相手にするときに主張する「二大国」、「太平洋二分論」は、かつて大日本帝国が主唱していた戦略とさほど違いはない。アジアのことにアメリカは口を出すな、と言っているわけだから。

なので、中国が主唱している「太平洋二分論」は、急成長を遂げつつある国なら必ず口にする発想に過ぎず、そういうものだと見るのが自然だ。が、その国が「大国」を目指している。この点は、やはり見逃せない事実であり、既存勢力との対立から地域を不安定化させる要因たりうる。古代ギリシアのペロポネソス戦争以来、覇権の交代が進む時代には、安定ではなく不安定が支配する(ツキディデスの罠)。

本当に現代の中国はペロポネソス戦争を見る目で見なければならないような存在なのだろうか?

◇ ◇ ◇

旧勢力の側にたって整理してみよう。

客観的にいうと、急成長する国家が危険な存在になるのは、以下の場合であろうと思う。

  1. 生産力が急速に発展し、債務国から債権国に移行し、発言力が高まった。
  2. その裏面で、マーケット、というより顧客や影響力を奪われた既存勢力があり、対立的な状況が生まれている。
  3. 新興国は、まだ文化的優越性を持たず、ヒトの流入、カネの流入が安定的に期待できない。
  4. 新興国がマクロ経済的な問題(=需要不足、失業増加等の混迷)に直面し、経済取引や経済政策以外の手段(政治外交的圧力、軍事など)で問題を解決したいと願う誘因をもっている。

アジア圏における戦前期・日本のポジションを上の1から4までの観点からみてみる。大日本帝国については上の1は事実だった。3も当てはまっていた。4も第一次世界大戦後の1920年代から30年代を通して確かにそう言えた。2はどうだったろうか。日本の国際的競争力はそれほどのレベルではなかったはずだが、第一次世界大戦の勃発から日本が欧米企業の顧客を奪取した状況が先にあった。大戦中に日本国内では設備投資ブームが発生した  ー  それが終戦後は過剰設備となったのだが。4の苦境は、大戦終了後の反動であった。やはり2も該当していた。大日本帝国については1から4までが全て当てはまっていた。

現在の中国だが対外純資産はすでに巨額に上っているので1は該当する。2も当てはまるだろう。日本は中国に、というより電気製品で韓国にという方が適切な部分があるが、その韓国が中国に顧客を奪われているとすれば、やはり2は当てはまると言ってもよいかもしれない。しかし、日本が生産拠点を中国に移している面もあるので単純に当てはまるとも言えない。3については、ヒトは集まっていない。が、カネは集まっている。実際、上海市場は好調、中国には大富豪がどんどん誕生している。しかし、中国の生活(Chinese Way of Life)、中国の文化(Chinese Culture)が世界に魅力を感じさせている状況ではない。ヒトは中国に憧れはしないだろう。3は半分程度は当てはまるというところか。4は微妙である、というより当てはまっていない。中国経済はバブルと言われるようになって久しいが、バブルは5年も10年も続きはしない。バブルというよりは高度成長時代というべきだった。が、成長率は必ずキンクする。中成長路線へのスムーズな移行ができるかどうかが今の問題である。成長している限り、国営企業の不良部門は必ず整理できる。

中国は対外純資産はプラスに転じたとはいえ、所得収支はまだマイナスであり、外国に支払う利子や配当の方が大きい。対外直接投資残高をみると、世界で10位前後であり、他を引き離すアメリカに次ぐ2位から9位までの諸国と同程度の横並びである。上の項目の2も該当するかどうか分からない。しかし、対立に至りそうな勢い、というか芽はある。この位は言っても可かもしれない(言えると考える人が、中国脅威論を述べているのだろう)。

中国に確実に当てはまるのは上の1。1だけである。他は全て微妙、もしくはハッキリと当てはまっていない。

こうみると、中国の「大国志向」は自国の問題解決のために採用される「拡大戦略」というよりも、経済成長がもたらす自然な結果であるとも言え、「志向する」というより「事実としてそうなる」、どちらかと言えば19世紀のアメリカ合衆国の成長とあい通じるものがあると思われる。

第一次世界大戦中のアメリカと北朝鮮危機の下での中国と、両国はいかに似たポジションをアジアにおいて占めていることだろうか。北朝鮮という厄介物がなければ、旧勢力(日本)の側が新勢力(中国)に対してもつ嫉妬がアジアにおける決定的な不安定要因になっていたかもしれない。「北朝鮮のおかげ」という一部政治家の発言は、案外、的を射ているかもしれないのだ ー そんな深い意味はないと思うが。

◇ ◇ ◇

ペロポネソス戦争のように旧勢力(コリント、スパルタなど)の側から新勢力(アテネなど)に戦争をしかけるということがなければ、新勢力である中国の側から軍事的抗争をしかけるという事態は予想しづらいものがある。ツキディデスの『戦史』に叙述されているように、ペロポネソス戦争を引き起こした根因として、旧来の商業国家コリントが新興の海軍国アテネに対して感じる嫉妬があったことは現代にも通じる歴史である。軍事強国スパルタはアテネと戦う積極的理由はそれほどなかったにも関わらず、軽武装国家コリントがアテネと対抗するために利用され、戦争に巻き込まれたと見るのがやはり正しいのだろう。

要するに、成長する中国自体が危険な存在であるとは小生には思われない。なぜなら、世界GDPが増加することは経済状況としてプラスに決まっており、まして世界の経済的不平等を解消するのに寄与するのであれば、倫理的にも善いことだ。これが道理だろう。というのが、現在の状況ではないだろうか。

そう。確かに古代ギリシアにおいて、ペロポネソス戦争勃発時においてアテネは未だ新興勢力であった。ギリシア世界の文化的中心ではなかった。ギリシア悲劇が花を咲かせるのはペリクレス時代というより、ペリクレス没後の戦時、敗戦直前までの暗い時代であった。プラトンがアカデメイアを開学したのは敗戦後の混乱しつつあるアテネである。政治的勢力としてアテネは没落途上にあった。政治的に没落したアテネにあって、文化的には花が開いた。後世に残る文化とはそんなものであろう。

まあ現状をみると、現代中国という地に非常に魅力的な文化が花開き、世界中の人を魅了するのは、まだしばらく遠い将来のことである。そうとも言えるようである。むしろ中国がそのような場になるように他国が対応していくことが、世界規模の幸福の増進になるだろう。これだけは言えそうである。

最終的に世界中の人たちが従うのは、優れた文化にであって、戦争の勝者にではない。アメリカの台頭によって欧州は地盤沈下したが、それが世界にとって不幸であったと論じる人はどこにもいないだろう。それと同じである。

覇権闘争にカネをつぎ込むことの損は日本も十分にわきまえておくのが賢明である。日本国が提供できる魅力を毀損するだけである。

『北朝鮮のおかげで政権のやりたいことができる』などという政治哲学では、文字通り「お先真っ暗」、成るようにしかならない。「一寸先は闇」という政治しか期待できない。これまた今の時点で言えそうなことである。

2017年11月6日月曜日

罪の公訴時効 vs 知的財産権の効力

近いうちに映画が公開されるので評判のミステリー小説『検察側の罪人』(雫井脩介:文春文庫)を読んだ。ミステリーとは言うものの、プロットは半分辺りで明らかになってしまうので、あとは相当程度ヒューマンドラマ的な味わいになっている。

内容の批評はさておき、一言だけ覚え書きを。

公訴時効によって罪を逃れた犯罪者が本来受けるべき罰を与えるに、いかなる罰が最も厳しく、苛酷であるか? それはやってもいない犯罪で立件し、刑に処することである。つまり、冤罪の苦痛は何ものよりも耐え難く悲痛である。もしも罰するなら冤罪より苛酷な「刑罰」はない。無茶な論理ではあるが、こんな着想が作品のベースにある。

殺人罪の時効がまだ15年であった時代が発端になっている。しかしながら、殺人罪の公訴時効は2010年4月27日に「刑法及び刑事訴訟法の一部を改正する法律」によって既に廃止されている。

20歳の時に犯した重罪は、たとえ90歳の老人になって罪が発覚しても、刑罰から逃れることはできない。国民(=公益を代表する立場に立つ検察)は、70年の時間の長さの中でどんな生活が営まれて来たのか、それは別問題として70年前の罪の責任を追及できるようになった。もしこんな状況が最初からあれば、上記作品の主人公(?)である野上検事は無理な冤罪工作をせずともすんだわけだ。

ここでちょっと思うのは、知的財産権の存続期限である。各種権利を整理すると
特許権: 出願から20年間
実用新案権: 出願から10年間
意匠権: 設定登録から20年間
商標権: 設定登録から10年間
著作権: 著作者の死後50年間(法人著作は公表後50年間) 
になっている。すべて有限期間である。

知的財産権の中には、社会生活を一変させるほどに決定的だった技術革新も含まれている。しかし、そんな特許技術も存続期間は20年間であり、その後は誰でもその技術を模倣して、利益を追求できるわけである。

社会全体に巨大なプラスの価値を提供した人物であってもその功績、というか報償を受ける権利は20年間で消失し、反対に犯罪という反社会的な行為を犯した場合には(特に重大な犯罪の場合であるが)無期限にその責任を追及されるというのは、表現は難しいが直観的にバランスがとれていないように感じる瞬間があった。

確かに公訴時効は、15年とおいても、25年とおいても、理不尽なことが生じうる。だから無期限に社会的責任は続くものとした。しかし、であれば、たとえば新素材や特効薬を見出した特許が20年間で消失するというのは、「世間というのは忘れっぽく、恩知らずである」と発見者は感じるかもしれない。技術が古くなり使われなくなれば、自然に消え去っていくということだが、使われているなら使用料は無期限に支払ってほしいと考えるかもしれない。豊かになれた功労者の恩を<社会としては>忘れてもよいなら、半世紀も昔の犯罪も<社会としては>忘れるとしても、それも在りうる考え方ではないか。そんな問いかけがあってもよいような気がした。

恩は忘れても恨みは忘れぬ、というのは理が通らない。そう問うても可だ。

まあ、ずっと歌い継がれたり、読み継がれたりする音楽や文学作品は、作者の生前はずっと、死後までも権利が守られているわけだから、犯した罪の責任も当人の死まで及ぶと考えても、整合しないとまでは言わないが。

◇ ◇ ◇

それにしても、小生、クリスティの『検察側の証人』は何度も読み返していて、同じ作者によるもっと高名な『ねずみとり』よりずっと愛着があるのだ。『検察側の罪人』というタイトルには、意味不明で思わず「ン~~ン!!」と唸ったのだが、読んでみると「なるほどね」と納得はするものの、一寸底が浅いなあという印象だ。

2017年11月4日土曜日

現代社会を象徴する迷宮: 年金制度

60歳を超えてからも国民年金には任意加入をして<継続>してきたと思い込んでいた。ところが、先日届いた基礎年金支給額の証明書をみると<満額>ではない。吃驚して色々と調べてみると、国民年金の任意加入手続きは居住する市役所で行うことになっている。ずっと以前、60歳になったときに勤務する大学内で年金関係手続をしたのだが、そのとき『年金関係はこのまま継続しますか』と、そう聞かれたのを記憶している。『ええ、継続でお願いします』と、そう答えたのだった。にも関わらず、だ。「国民年金への任意加入手続きは今回の手続きには含まれておりません」とか、「任意加入は市役所のほうで行ってください」とか、一言あってもよかったのではないか、と。そんな憤りを感じたのだが後の祭りと思うことにしていた。

それが少し以前のことだ。

カミさんがもう少しで60歳を迎える。これまでは小生の給与で国民年金保険料を払っていることになっていた。いわゆる専業主婦の「3号被保険者」である。小生はカミさんが60歳を超えても給与をもらう。カミさんは、しかし、60歳を迎える。「保険料支払ったことにしてくれるのかなあ?」、そういう疑問で、年金機構に電話をかけてみたのだな。

カミさん: やっぱりネ、払わなくても払ったことにしてくれるサービスは60歳で終わるんだって。その後、任意加入したいなら市役所に直接いって、手続きしてくれっていうことだよ。 
小生: やっぱりそうか・・・とにかく60歳で切れるんだな。給与はもらい続けるけど、それまでは払ったことにしてくれる、誕生日の後は払ったことにはしてくれない。自分で払いなさいと、そういうことか。なんか可笑しいけどねえ。 
カミさん: サービスだって言ってたよ(笑)。してくれるのはサービスだって・・・でね、その手続きはまだ出来ないそうよ。誕生日の前日から手続きが可能ですからって(笑)。そういう<規則>なんだって。あっ、それからネ、旦那さんが勤務し続ける場合は60歳からあと、国民年金への任意加入は認められないことになってるって。だから、大学の事務の人のせいじゃないんだヨ、定年が63歳だからさ、仕事を続けるでしょ、だから国民年金には入れなかったって事。 国民年金は入れないけど、厚生年金には入っているはずだから、そちらが増えてるでしょって、言ってたヨ。国民年金は、平均で1年63万円くらいなんだって。満額支給の人って、あんまりいないみたい。
小生: じゃあ『年金はこのままで行きますか?』というのは一体なにを聞いたのかなあ・・・ 
カミさん: でもおかしいよねえ、60歳からあと、▲▲タンは給料はそのままもらっていても保険料は払わないことになった。でもワタシの保険料は払ってなくても払ったことにしてくれていた。 
小生: これは分からないヨ。知らないうちに未納になったり、払っているつもりがいつの間にか払えなくなっていたり、一体全体、こんな制度は誰が作ったのかねえ・・・??
すべて制度は「そうなっているんですから」と思って、個人個人の行動の大前提として受け入れれば、大前提自体の合理性を問題視する必然性はない。そうなっているものとして、後の合理性を確保すれば、それで最適化されるからだ。

しかし、現在の年金制度、ずっと昔にフレデリック・フォーサイスの『悪魔の選択』を耽読したものだが、まさに今の年金制度は「悪魔の制度」であるような感じがする。

複雑にして精緻、精緻にして理解不能。しかし、機能している。

一体、だれがこのような制度を構築したのであろうか。

2017年11月3日金曜日

モリカケ・ロングラン・・・まさかないとは思うが

大学設置審議会で加計学園獣医学部(今治市)の新設が認可される方向となった。これでこの春から世を騒がせてきた加計学園騒動も一区切りがつくだろう。審議会の新設認可が出る前と後とでは問題の性質がかなり異なってくるのは明白だからだーというより、問題そのものが実存していたのかどうかすら相当曖昧な状態に置かれている。だからこそ、世間は納得していないとも言えるのだろうが、正に、問題はないということの証明は至難であるという一例になってしまった。

その「まだ問題はあるのか」という点だが、世間には、設置審議会の審議内容自体に疑問符をつける人もいる。あるいは、大上段に振りかぶって『大学設置審議会の加計学園の獣医学部設置認可は、問題が無かった事を意味しない』といった論調もある。

一般的には、大学設置審議会の認可には問題がある可能性が常にある。もちろん厳しい認可要件を設ければ、設置される大学に問題が潜在している確率を低く出来る。しかし、中央官庁が大学新設に厳しい要件を課すことが適切かどうかという問題も片方にはある。と言って、要件を緩くすると、日本国内の審査基準が国際基準より甘いのではないかというバイアスが生じる。いわゆる統計分析でいうアルファ・ベータ問題だ。審査を担当する委員も神の目を備えているわけではない。一般論を述べても、だから加計学園獣医学部について何かの具体的な問題点があると指摘することにはならない。一般論は一般論である。

森友はどうか。こちらは会計検査院の審査によりごみ撤去費用が過大に見積もられていたという結論が出てくる方向だ。値引きが過大であったということでもある。

しかし、この問題は詰めれば詰めるほど事務手続き上の瑕疵の有無の問題となり、直接の責任は近畿財務局、せいぜいは財務省理財局長まで監督責任が及ぶかどうかではあるまいか。ましてもっと上の事務次官、さらに上の麻生財務大臣にまで国有財産処分の不手際の責任が及ぶとか、行政府の最高責任者である総理大臣に責任が及ぶという風には、正直言って、ちょっと「同意しかねますなあ」と言わざるを得ない。

そんなことを言えば、小生が暮らしている北海道の地方都市の一隅で行われた国有地払い下げ、その後の宅地造成においても、何か東京の首相官邸の力が行使され、不正が行われていた可能性がある。そんな見方もとれるということになる。

まあ、とれるのだよということだろうが、そもそも力を行使する側において動機がないのではないか ― 森友経由でカネが政治家にわたるなどという裏の贈収賄の構造でもあるならまた別だが、しかし、話しは政治家がカネをもらったのではなく、寄付をしたというのが問題になっているくらいで真逆である。

ま、森友事件で問題があったとすれば、首相夫人が名誉園長をしていた。この一点だけではないだろうか。やはり、公の場で何か一言、夫人の釈明があってもいいような気もしないでもないが、『軽率なことでございました』というだけになるのは確実であるし、だから首相を辞めさせるという風にはならないのではないか。

ま、マスメディア大手はどれほどの扱いをしたいと予定しているかは不明だが、春先とはかなり違ってくるのではないだろうか。

2017年10月29日日曜日

文明は戦争で進化する??

戦前期日本の軍国主義を象徴する悪名高い刊行物として「国防の本義と其強化の提唱」(俗称:陸軍パンフレット、陸パン)というのがある。昭和9年(1934年)10月1日に発表され、世間はビックリ仰天した。誰が頼んだわけでもないのに陸軍が国家戦略の基本をマスメディアを通して提唱し始めたのだから吃驚するのは無理もなかった。

その書き出しはこうである。
たたかひは創造の父、文化の母である。試練の個人に於ける、競争の国家に於ける、斉しく夫々の生命の生成発展、文化創造の動機であり刺戟である。
(参考サイト)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1455287
(別サイト)http://teikoku.xxxxxxxx.jp/1934_kokubo.htm

満州事変、5.15事件と一部軍人の「決起」に刮目していた世間は、今度は不言実行の寡黙な組織だと見ていた軍部が「国家戦略」を語り始めたことに驚き、マスメディアも軍人集団というこの新参者の「理論」をもてはやした。新しい理論とは、国家的危機(≒存立危機事態)を乗り越えるための「戦略の必要」、「総動員体制の確立」だった。

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中世が終わり、特に15世紀以降、ヨーロッパがその国力において先進国・中国を凌駕するに至ったのは、戦争と内乱を契機にして技術文明、中でも軍事技術がより速やかに発展したことが主因である、と。これはよく指摘される点だ。戦争の敗者になる恐怖を克服しようとすれば、敵国よりも人口を増やし、軍事技術を進化させ、敵国よりも優れた兵器を保有することが欠かせない。そのためには先ず基礎科学の発展を国家として支援し、優秀な人材は身分や家柄、出自を問わず、実力本位で抜擢する。人づくりには大いに金をかけ学校制度を設けて体系的・組織的に育成する。このように、戦争の危機が常に目前にあるなら、負けないための国家戦略が何より重要になるのは事実だろう。これは理解しやすい話だ。

古代中国でも内乱があい続いた春秋戦国時代においてこそ、産業が大いに発展し、その後の漢帝国によるアジア世界制覇の基礎をつくった。日本でも庶民の農業生産技術とその結果である生活水準がもっとも速やかに発展したのは、中央政府の統制が衰えた15世紀から16世紀、いわゆる「戦国時代」であったとされている。

戦争こそ創造と文化をもたらすものであるというのは、確かに真相の一面をついている。

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上の話題に関連して、先日、大学の同僚と以下のような話をした。

小生: 確かに、軍に召集されると、色々な技術は身につきますよね。危険物取扱(笑)の資格も得られるし、大型特殊車両の運転免許も自動的に取得できますしね。この資格は、世間でも役に立ちますよ。 ツブシがききますから。
同僚: 土木技術とか、怪我の応急処置とか、それも出来るようになります。 
小生: 格闘技も身につきますよね。危険な状況から逃げるのでなく、そんなことは止めろと無頼漢にも言えるようになります。
同僚: 何より武器を扱えるようになります。最先端の兵器の構造や操作法を学ぶには、基礎科学の知識が要りますから、頭脳も必要です。数学が苦手とか言ってられません。 
小生: 敵国の言葉も知っている必要がありますヨ。大体は戦争ではなく、戦争の前か戦争の後かで平和である時の方が長いわけですから、その間に相手の発想や考え方を互いに話をしてよくつかんでおくほうがいい。 
同僚: 外国語も自然に身につく、と(笑)。 
小生: そうなんですよ。友人もつくっておけるわけです。だからネ、たとえば江戸幕府ができて17世紀の中頃、将軍が三代目の家光の頃になって、関ヶ原や大坂の陣を経験した人たちは「若い者はなっちゃいない」と。平和ボケしてると。槍一つ満足に使えないと。厳しい交渉もできんと。年寄りは本当に若い世代をバカにしたんですね。 
同僚: それは今の日本もそうですよ。戦争を知らない世代が心配だ。何もできんと。勇気もない。危機感もないと。そんなことをずっと話しています。 
小生: だけどネ、思うんですけどネ、江戸時代の最初の文化の花が咲くのは元禄時代ですよ。戦の世が終わって、戦争を知っている年寄りがみんないなくなった後です。戦争が完全に歴史の彼方に消え去ったあとに文化の花が開き始めた。それも戦いを知っている武士の町じゃありません。江戸ではなくて、商人の中心地であった大阪が舞台です。その後も、徳川250年の平和が続く中、現代にもつながる江戸文化が華やかに展開されたのは文化文政。1800年代の初めです。今に伝わる日本文化はみな戦争とは無縁の、平和から生み出されたものです。
同僚: 戦争は文化の母であるとか、父であるとか、それは違うと。 
小生: ハッキリ違うと思いますねえ。戦争をようやく忘れられる、そんな時代が来て、やっと人は本当の新しい文化を作り始める。そうではないのですかネエ。確かに、古代中国でも戦国時代に軍事技術が進歩した。その軍事技術で漢帝国はアジア社会の覇権を得た。しかし、戦争は戦争でしかありませんよ。残酷です。そこにあるのは死と破壊しかなかったじゃありませんか。戦争が終わって到来した平和な世界で古代中国の文化は花開いたわけでしょう。戦争の傷跡がいえたあと、次の戦争を準備する必要がなくなったとき、人間は文化的活動にエネルギーをさけるのだ、と。そんな風に感じるんですよね。 
同僚: 平和ボケするくらいじゃないと、新しい文化は生まれてこないと・・・そういうわけですか(笑)。 
小生: そう思ったりするんですよネエ。戦争は進歩に必要じゃあないんですよ。社会をオープンにして、ビジネスを自由にして、競争を促進して、誰でも富を得るチャンスを持てるようにする。これを世界の全ての人間に保証してやれば戦争などは必要じゃあないですよ。競争で技術は進歩できます。イノベーションは起こります。実際、イノベーションは平和な世界でも起こっているでしょ?それを国境で壁をつくる。難民規制だ、社会保障だ、守ることばかりを考えるから、壁の外側の人は暴力で侵略する。相手を破壊することによって自己の安全をはかる。そんな誘因を相手に与えるだけです。そうなんじゃないでしょうかネエ・・・。
同僚: 創造的破壊は戦争の代わりに世界を進歩させる・・・なるほどねえ。 
小生: 自由競争、自由貿易と戦争を比べるなんて無理筋かもしれませんけどネ(笑)、そんな風に思いません? 

北朝鮮危機を材料にして、政治を展開することは、新しい時代を切り開く政治戦略では決してあり得ない。ひょっとすると、選択可能なより良い世界へ至る道を閉ざすだけの愚策であるかもしれない。この点だけは頭に入れておかなければなるまい。

戦争の危機は創造の父、文化の母などではないのだと思う。

2017年10月27日金曜日

選挙のあと: ある会話

カミさんとこんな会話をした。

小生: (朝刊のページをめくりながら)それにしても今年はタヌキの当たり年だねえ。 
カミさん: (朝飯をテーブルに並べながら)そうなの? 
小生: 朝ドラの「ひよっこ」を主演した有村さんサ、タヌキ美人って言われてるらしいよ。 
カミさん: ああ、タヌキ顔ってこと? 
小生: そうそう。かと思うとネ、緑のタヌキ。これは小池百合子のことだね。 
カミさん: 緑って? 
小生: いつも緑の服、着てるじゃない。本人は勝負服って思ってるそうだけどサ。まあ、緑より、魔女服の黒のほうがファッションとしては人柄にピッタリ合ってるけどネ。 
カミさん: 魔女は可哀想なんじゃないの?都知事でしょ! 
小生: アハハ、まあ「都知事」なんだけどネ(笑)。そうそう、ある新聞には「女帝」と書いているのもあるなあ。そういえば、フランスの新聞大手に「フィガロ(Le Figaro)」っていうのがあるんだけどネ、投票日にパリに海外出張した小池さんのことを「逃亡中の女王」って書いたらしいから、まあ「女帝」っていうのもその通りかもしれないねえ・・・「女帝」か・・、処刑されたマリー・アントワネットということなのかな? いや、あれは「王妃」だもんな、というかそもそも聖なる乙女、ジャンヌ・ダルクだったはずだが・・・ 
カミさん: もう放っておきなさいヨ 
小生: 今年の流行語大賞、何になるだろうねえ・・・。これまでは『違うだろう!!』が圧倒的に大賞候補だったそうなんだけどネ、ここに来て『排除します』が追い込みをかけてるらしいヨ。両方とも女性が語った言葉だからナア、やっぱり今年は「女性が輝く年」なんだねえ。酉年っていうのはそうなのかなあ・・・。
カミさん: (にらみながら)調べてみたら
 それにしても小池代表、「創業者の責任」があるからと言って、代表続投の意志を表明したらしい。「都政に専念します」という発言と早くも矛盾して来た。

代表を続けてもウソをついた。代表を辞めてもウソをついた。そう言われるだろうねえ。

希望の党は今度の選挙で180人以上が討ち死にを遂げた。多くの人の恨みが集まってしまった。これまでのように一人で戦って来たなら、勝つにしろ、負けるにしろ自分だけで引き受ければよい。しかし、今度ばかりは多くの人の人生を変えてしまった。仲間に入れておいて暗転させてしまった。リーダーとして望んだ大敗のツケは、ずっと永くつきまとっていくだろう。

それにしても、「政治が趣味」という人もいるんだねえと小生はツクヅクと感じる。頼まれてもあんな修羅場には出向いていかないが・・・、人は色々、人生いろいろである。

画作は小生の趣味だが、絵を自分の人生にしなくて本当によかったと感じる。絵を職業にすれば、絵で勝負することになるし、そうなると高い評価を得られるような絵を自分も描きたいと。そればかりを思うようになる。多分、絵が苦痛になる。それは一番寂しいことである。趣味に他人の人生を巻き込むと、もはや趣味にならない。他人の人生を預かるなら、自分の人生をもかける職業にしないといけない。

【加筆:同日21:30】
巷間、小池代表をつるし上げている旧民進党議員について、負けてから大将を非難するのは仁義にもとるという批判がある。そうかと思えば、非難するのはもっともであるという指摘もあって、両論様々の状況だ。すべて戦いは、白兵戦である以上、兵隊個々の強さが最重要なファクターであるのは事実だ。しかし、個の強さで戦いの勝敗が決まるのならば、何も戦略や戦術などを論じる必要はない。『勇将の下に弱卒なし』ともいう。確かに、希望の党に「はせ参じた」(というより逃げ込んできた?)旧民進党議員は自分の意志でそうしたのであり、しかもそろいもそろって弱卒だったかもしれない。しかし、兵を挙げて戦う兵を募ったのは明らかに希望の党である。希望の党の目で『排除する。絞り込む』とも明言しているのだ。その最高責任者は自らその代表となった小池百合子女史である。戦うなら必勝の戦略を講じておくのは兵の命を大事に思う大将の責務であろう。4人のうち3人が討ち死にを遂げるという結末になれば采配を揮った将軍は自決するであろう。弱卒を強兵に変えることもできるのが勇将であるという格言に沿って言うなら、小池代表は少なくとも勇将ではなかった。周囲から『あなたのせいではありませんヨ』などと慰めてもらえるような立場ではない。ひたすら謹慎するのが当然である。これだけは言えそうである。まあ、小生の個人的感覚から言えばこんな印象になるだろうか。
身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ
出処進退の美しさを日本人は何よりも重んじるものである。マア、今となっては又もや御身大事、風を読んでいるようにホノ見えるので、遅きに失したのだが。

2017年10月25日水曜日

前回投稿の補足:選挙戦のあと

今夏の都議選のあと、民進党はたかが地方選である都議選惨敗の責任をとる形で野田佳彦幹事長が辞任した。その幹事長の後任をきめる人選がうまくいかず、結局、蓮舫代表まで辞任するに至り、民進党は代表選を行うことになった。すべてはここから始まった。

職業生活が最終盤にさしかかり、隠居が間近に迫り、余裕ができてきた割にはまだまだ世間の修羅場に興味が残っている間は、▲▲三国志というか、●●戦国時代というのが本当に面白くて、フォローしていると局面の変化ごとに次はどうなるかと思わず唸っているのだな。とにかくリアルタイムの覇権闘争を自分は安全なところに身を置いて観察することほど面白い見世物は世の中にはない ー 当人達は生きるか死ぬかなので、大変なことはわかっている、この点は実に申し訳ないとは思っている。

よく分からないのだが、民主党が政権を失うに至ったA級戦犯は野田元首相だというのが党内世論だと色々な媒体を通して伝わってきている。まあ、確かに解散の引き金を引いたのは野田首相ではあったからだろう。

小生は、民主党支持者でもなく、遠い北海道で暮らしているのでよく知らないのだが、外から見ていて、野田元首相=A級戦犯という認識は納得が到底いかない勘違いである。民主党が信頼を失うに至ったのは、第一に菅直人元首相、第二に鳩山由紀夫元首相のあまりの低品質とお粗末な管理能力が原因であった。小生のカミさんは『民主党にも普通の人がいたんだね、野田さんが最初に首相をやればよかったのに』と話しているくらいだ。こんな感想が、実は一番多いのではないだろうか。

聞けば、野田元首相が民進党の幹事長をやっていること自体に党内では反感があったという。聞けば、菅元首相が野田幹事長辞任の旗を水面下で振っていたという。もしこれが事実なら、菅直人・元首相は民主党を二度つぶした、と。そう言っても過言じゃないかもネエ。

もう瓦解したあとで何をどうやっても元には戻らないが、大組織(であったろう)を崩壊させかねないような人物は、常に組織の中にいるものである。組織のためになる人物は、自らの好悪は別として、その能力は認めるという姿勢が全ての党員に欠かせなかったのではないだろうか。特に「政党という組織」に所属して活動をしている人たちは。

内部の不統一にもかかわらず、民進党は潜在的には高いポテンシャルを秘めた政党組織であった。このまま消滅して結党までの苦労が水泡に帰すとすれば、創立の理念も失われ、日本の国益にとってマイナスとなるのは間違いない。

× × ×

ともかくも、今回の「政治ドラマ」の幕がおりた。犠牲をある程度覚悟していたはずの安倍総裁は想定外の大勝利を得た。民進党議員たちは理由もないのに流浪を余儀なくされ苦労をしたが合計人数では意外や勢力を維持した。前原代表は微妙だが、政治家としては終わっただろう。小池百合子都知事は政治家として大怪我をした。巻き込まれ事故かもしれないが、本人も無茶をした。再起不能かもしれない。

交通事故もそうだが大怪我というのは、往々にして、しなくともいいことをして、その時に不意に運勢が暗転して、やってしまうものである。

2017年10月23日月曜日

まとめ: 選挙のあとに

衆院選2017の結果は、各社の世論調査や事前予測をほぼなぞるようであったので、実際の開票結果は予測の確認といったような塩梅だった。投票率が53.7%というのは関係ない。投票率が仮に95%であったとしても結果に大差はなかったであろう。基礎的な統計学でわかることだ。

やはり与党の圧勝、希望の党の自滅につきる。

これまでの投稿から抜粋するだけでも、総括としては十分なような気がする。

一つは9月29日付けの投稿から以下の下り。
マスメディア各社は面白いものだから<これで政権選択選挙>になったと力説している(もはや解説ではなく、まして報道ではない)。
見ようによっては確かにそうだが、それよりは今度の選挙は<イメージ*ムード vs ファンダメンタルズ>のどちらがより確実な勝因でありうるのか。こうとらえる方が正確だと思って見ている。
やはり選挙の勝敗は経済や外交など各面のファンダメンタルズが最も決め手になることが再確認できたと。そう結論づけている。

北朝鮮、中国ファクターもそうだが、景気、雇用状況、株価動向、物価動向、対米関係、対アジア関係、対露関係等々、どれをみても政権交代を望むような情勢はなかった。森友騒動、加計学園問題が、選挙期間中に結局は大きな論点として議論が広がることがなかったのは、国民の目がゆがんでいるのではなく、それが現実のリアリティそのものであるからだ。実際、与党が大勝したあとの本日、日経平均株価は岩戸景気時の14連騰を57年振りに更新する15連騰となった。安心感である。このような情況では野党が与党に勝てる理屈は基本的にはないのだ、な。というか、こんな情勢の中で与党を追い詰めようとしても、いざ選挙となると、うまく行くには余程の事情がいる。余程の事情があれば、まずは内閣不信任案が通るはずだ。不信任でなく、経済社会が好転しているなら、普通は野党の負けだ。

もしも民進党の左から右まで全てを小池代表が受け入れて、共産党とも協力して、日本新党ブームの再来を目指したとすればどうだったろうか?小生思うに、それでもダメだったと推量する。そもそも統一的政策提言がない以上、野合批判には耐えられないのだ。日本新党が成功した要素として、小沢一郎の『日本改造計画』があり、その小沢本人がバブル崩壊後の日本の政治で様々な仕掛けを進めていたことを忘れてはならない。民主党が政権を奪った時も、前年秋のリーマン危機で経済が混乱していた背景もあるが、同時に民主党の「マニフェスト」に対して、また民主党に所属する議員達に対して、国民が鮮烈な魅力を感じたことも勝利をもたらす主因となっていた。

一言で言えば、今回の与党大勝は民進党が自ら蒔いたタネによるものであった。マイナーな森友・加計問題であっても、内閣支持率に執拗な打撃を与え続ける蓮舫・野田執行部の戦術はそれなりの効果をあげていた。少し見っともない戦術(加えて、それなりに負の副作用もある戦術)であったにしてもだ。6月15日未明の通常国会では内閣不信任案の動議を提出してもいる ー もちろん与党によって否決されている。民進党は既に戦闘モードをとっており、自民党は受けて立つ政局として認識していた。一部のマスメディアも反政権闘争を展開中であったことはまだ記憶も新しい。民進党はそのまま不動の体制を維持すれば、安倍政権はジリ貧だったであろう。安倍政権がその危険を回避するため、いつか好機があれば早期に衆議院を解散して、信を国民に直接問いたいと考えたのは周知のことであり、小生が暮らしている北海道にも早期解散の可能性は伝わっていた。

その民進党の体制が都議選の敗退の責任をとるという理由で覆ってしまった。自壊した。そこに隙と混乱が生じた。安倍政権は当然の選択をした。そもそも、好機がくれば解散というのは政権の基本戦略であり、民進党はそれを熟知していたはずだ。それを民進党は自らが最も不利な状態でさせた。まさに「敗北の方程式」である。勝負はここで決まっていたのである。要するに、そういう事であった。前原・小池会談は、つじつま合わせで瓢箪から出たコマに過ぎない。後始末の茶番劇である。

リアリティを無視して、シナリオだけを書いても、うまく行くはずはなかったのである。

さて、もう一つは10月2日付けから。
頭をつかって、風をみて、一日中動き回ったり、雲隠れしたりしているが、肝心の結果が出てこない。忙しいわりには効率が悪い。キョロキョロしている割には、結果的には迷い道にばかり入りこんでノロマである。だからキョロマ。語源はこんなところだろう。
キョロマ達が時代の風にあおられて走り回っても、目立つことは目立つが、それは輝くとは言わないだろう。不動の定位置にあって光を放つのでなければ、「輝く」という動詞は使えない。
今回の「希望の党」と「民進党」の合流騒動を通して、頭が一番いい人は誰であったか。それは女性ではない。やはり民進党の前原代表が一番頭がいい。小池さんは他人がやるべき汚れ役を代わりに引き受けた分、人がよくて頭がわるい。ただ悪いはマイナス、いいはプラスとならないところが、人間評価の面白いところだ。
世間では希望の党の小池百合子代表が、不評を通り越していまや嫌悪の対象にすらなった印象で落ちも落ちたりという感が拭えないが、そもそも上に引用したように、小池代表がやろうとしたことは、前原民進党代表が自らの手を汚してやらなければならなかった事である。前原代表をすら使い捨てにしなかったところに小池代表の甘さがあったといえば言えるだろう。かつ、そこに小池女史が政治家として内に秘めていなければならない老獪さ、狡猾さがいま一つであることの証明をも見てとれるだろう。そもそも同女史が政治家として築いてきた実績はそう大きくはない。同女史がもっている政治家としての真の力量はそれほど高くはないということはこの点からも明らかだったはずだ。

本当は冷静にそう見ておくべきだったのではないだろうか。「小池劇場」のプロデューサーは、ご本人というより、視聴率が欲しかった(と同時にアンチ安倍闘争を盛り上げたかった)マスメディア大手企業である。そうみれば、小池百合子といえども、マスコミに使い捨てられようとしている<政治女優>の一人に過ぎない。

◇ ◇ ◇

ま、今回の与党大勝は民進党の(敢えて希望の党とは書かない)オウンゴールである。しかし、オウンゴールで試合の決着がつくというケースは確かにあるのである。

今回の選挙が多分に偶発的なものであったにせよ、これが結果であることに変わりはなく、これから新たな情況で決められて行く政治的決定が、日本の将来を決める現実そのものとなる。マスコミは政治ドラマをプロデュースしているつもりであったろうが、実際に起こることはドラマではない。

曲がり角を何気なく曲がったら、そこが迷い道であったことにならなければ幸いだと思っている。

小生自身は、前にも投稿したとおり、一地方紙や小規模な専門家集団が発表する小雑誌ならまだしも、巨大なマスコミ企業が暗黙に一つの政治的立場をとりながら政治に大きな影響力を行使することには全て反対である。そもそもマスメディア大手企業は個人企業ではなく営利法人であるが、法人には参政権はなく、投票権もない。そのような法人が発表する政見は、具体的にどのような人間集団の意見を代表しているのか、ある人間集団を代表しているのか、特定人物の主義を伝えているのか、外国人を代表しているのか、他の企業の代行をしているのか、外からはまったく分からないからである。このような主体が、国民に広く影響を及ぼすという形で実質的に参政権を行使している状況は、まったく不適切だと思っている。

【10月24日加筆】
立憲民主党・希望の党・無所属を合計した旧民進党系候補者の当選者は公示前議席を上回ったとの報道だ。これまた<瓢箪から出たコマ>が回りまわった末の<もっけの幸い>であった。立憲民主党に吹いた追い風の強さがいかに強かったかがわかる。今回の選挙で風を起こしたのは、老いたお局・小池百合子ではなく若年寄・枝野幸男であったということだ。そしてその風は、電波に乗せる映像と言葉ではなく、とった行動の勇敢さに吹いた。これまた疑いのないことだ。
まさに文字通り
巧言令色すくないかな仁(論語・学而)
いい言葉だ。

2017年10月21日土曜日

メモ: 能力を構成する複数の次元

人生のかなりの割合を<仕事>というものが占めている。職業人生がうまく終わるか、失敗して終わるかは、その人の幸福を大きく左右すると言ってもよい ー もちろん仕事で失敗しても、家庭生活で埋め合わせられている人も多いし、この逆のパターンもある。ま、職業も家庭生活も両方ともうまくまとめたい。幸福へ至ることは西洋哲学では最高善とされている。善でありたいというのは、極めて論理的な願いなのだ。

幸福かどうかを結果、幸福を求めているその人の人間的要素を原因として大ぐくりに整理すると、瞬間的時間において考えるか、少し時間をおいた短い期間で考えるか・・・という具合に、能力にも複数の側面、というか次元がある。

いま現時点でどう話すか、何をするかを選ぶのは<感情>によることが多いような気がする。少し長めの時間をとった時に、是非や優劣の順序を決めるのは、やはり<理性>である。しかし、もっと長い期間をとったとき、方向軸がぶれず、一貫した努力を続けていけるかどうかは、理性というより<意欲>が大事だ。<意志>とも言える。そして、意欲や意志が適切であるかどうかは、最後にはその人の心の中にある<理念>が大事になる。では、その理念を形成するのは・・・。キリがないが、多分、その社会の慣習や伝統・美意識、宗教や哲学・世界観が軸になるわけで、マクロ的には<国民性>とか<民度>というものになって現れるのかもしれない。

この中で、いわゆる「頭がいい」というのは、理性の働きが速い、的確である、記憶力と論理的思考力が卓越している。大体、そんな意味をこめることが多い。頭だけではダメだというのは、感情の美しさや意欲、理念が高邁であるかどうかも同程度、というか一層重要であるからだろう。

ここまで書いてきて語呂合わせのように気がついたが、意欲といえば欲、意志といえば志だ。志(ココロザシ)といえばイメージが良いが、実は欲(ヨク)と一体のもの、実は同じものかもしれないねえ。そんなことだ。

2017年10月18日水曜日

メモ: 経済問題、最近の七不思議にまた二つ

今日時点で疑問に感じている点が少なくとも二つはある。なぜ本筋の議論をしようとしないのか、小生にとっての七不思議にリストアップした(もう七つは超えてしまったが)。

疑問1: 給付型奨学金の拡大
とりあえず簡単のため大学・大学院に議論の対象を限定しておきたい。「貸すのではなく、お金をあげるのだ」とすれば、どんな学生にお金をあげるのか、給付型奨学金の支給対象者の選別方法で紛糾するのは必至だ(授業料免除などは予算枠があるので学内で適否が審査されている)。 万が一、税金をドブに捨てるようなケースが発生するならば、どんな理想があれ、それ自体が悪(というより、退廃?堕落?)であろうから、支給による効果を最初にチェックするのは当然であろう。規模が小さいなら、世間の関心を呼ばずに「なんとなく支給」という方式もありえるだろうが、拡大するなら合理的に説明可能な方式を決める必要がある。これは非常な難問であるに違いない。
給付型の「学費支援」は日本は既に実質的に広範にやっている。 
公費で運営する国公立大学の授業料を一律的にさらに引き下げればよい。 
授業料をゼロにするセグメントがあってもよい。必要なら、国公立大学、学部・学科を新設したり、定員を増やせばよい。 
大学への合否判定で自動的にスクリーニングできるので来年度からでも実施可能だ。特に地方圏の子弟にとっては「希望の道」になる。経営の拙い割には不透明で国民の目が届きにくい私立大学を淘汰できるというプラスの効果も期待できるだろう。
戦前期は、陸海軍の士官学校、兵学校(現代の防大も同じ)、教員など教育指導者を育成する師範学校は授業料がゼロであった。ただ公費支給範囲がいかにも狭かった。が、経済的に恵まれない子弟が学問を志し、才能を開花させる道は提供されていた ー このことは日本が貧しさからスタートしたことの現れでもある。危機感の現れと言ってもよい。同じ危機感をもてば同じ選択につながるのではないか。
引き下げようと思えば簡単に引き下げられる国公立大学の授業料をまったく検討することなく、はるかに難しい制度設計が伴う給付型奨学金を議論するのは、やっぱり七不思議だネエ。そう感じてしまう。 

疑問2: 企業の内部留保課税
同じことは配当に対する分離課税税率を20%から(たとえば)30%に引き上げればよい。しかし、こうすると株主は配当で受け取るのではなく、内部留保による株価上昇という形でもらう方を選ぶはずだ。だから配当課税を重くしても税収は増えない理屈だ。 
故に、内部留保課税。目的は資本所得課税の強化である ー 資本課税にまで踏み込んでくると財産権不可侵とぶつかり社会主義に近くなる。同じことは所得税の累進度強化でも達成できる。アメリカなら共和党ではなく民主党政権がやりそうな政策である。 
配当・内部留保など資本所得に対する税率を引き上げるなら、日本企業に資金を投じる魅力が外国企業に比べて下がる。いまでも日本人にとってイギリス株を買うのは魅力的だ。というのは、配当の源泉税率はイギリス側でゼロである。加えて、イギリスでは法人実効税率が20%で日本の30%弱より随分低い(資料はここ、イギリスはもっと引き下げようと言っている)。それもあって英企業の配当利回りは非常に高い。だから日本株を買うより英株の方が有利だ ー アメリカ株ならいわゆる「配当の二重課税問題」があり複雑になるが、概して米企業の配当利回りは高く、米株有利の状況がある。今でも日本企業は資本調達で不利なのだ。 にも関わらず、もっと日本企業を不利にしようとしている。これは不思議である。
日本で新規事業が減れば、優良な就業機会が減る。収入は伸びず、低劣な仕事ばかりが増える。アメリカならこんな反対論が必ず共和党支持者から噴出して、与野党が伯仲するだろう。が、日本では「実は財務省も腹のなかでは考えていたのだ」などと、あたかも内部留保課税が正しい道であるかのような流れが出来かかる。これ、実に不思議だ。どちらが正しいなどと簡単に結論が出るような問題ではないのだ。
まあ、自民党政権では所得税の累進度強化は言い出せないだろう。分離課税廃止などは絶対無理ともいえる。これは自明だ。資本所得課税も言えない。だから消費税の税率引き上げを提案している。消費税率の引き上げは<党派的>と言えばたしかに党派的ではある。自民党の党益からみれば仕方のない選択だ ー 大衆福祉国家の理念が強かったヨーロッパは、それでも付加価値税20%の世界を築いているのだが。資本所得課税強化より穏やかな選択、たとえば所得税の累進度強化(さらには配当・譲渡益の分離課税廃止)を正面から訴えている政党が日本にないのは、やや不思議だ。低所得層から中の下までを減税、中所得層の上からは増税。人口でいえば利益を得る人が多いはずなのだが誰も言わない。近年の格差拡大は株式運用益の大小でほとんど説明できるはずだ。これを言う政党が一つもない。不思議だ。七不思議にリストアップしてもよいのだが、多分、ブレーンらしいブレーンがいないだけの話なのかもしれない。でなければ、自分の所得にとってマイナスだからかもしれない。

ついでにいうと、今度の選挙でどこかの党が口にしているベーシック・インカム。『私たちも言葉は耳にしています、良さそうネ、公約に入れておきましょうカ』という感覚で、まるで『サンタクロースが住んでいるお伽の国があるのヨ、そこではネ、・・・』という母の寝物語にも似ていて、どう考えておけばよいのか分からない。