コロナ感染者が又々増加中である。ここ北海道の激増振りは瞬間的に東京を上回ったほどだ。
感染拡大の源は、実は分かっている。
東京でも、初夏の頃、感染者が非常に増えた。その時の感染源は新宿であった。「東京問題」とはつまりは「新宿問題」だった。しかし、現場で問題の本質がわかっていても、解決に向けた政策が実行され始めるまでには、非常に時間がかかった。この時間的ロスによる負の効果が大きかったことは、もう誰も覚えてはいないようだ。
『負けても引きずらない」、「ポジティブ思考」で行こう、と…大したものだと思う。
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北海道のコロナ問題とは、詰まるところ「札幌問題」であり、札幌問題はつまるところ「すすきの問題」である。この事は、誰でも胸の中では十分に分かっている事実である。
===11/14加筆===
と思っていたら、14日現在で道内他所に飛び火して、札幌市外の新規感染者が4割に達してしまった。火事はボヤのうちに消せ、を地で行く失敗だ。とはいえ、まだ道内の点で発生していて、面状に拡大している様相ではない。
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GOTOトラベルが原因だという人がいる。しかし、GOTOキャンペーンを展開しているそのこと自体が原因となって、新規感染者数が増えているのであれば、西日本も含め、全国で感染者数が増えていなければならない。人と人との接触が増えているのは、何も東京、大阪、北海道に限ったことではない。
感染抑止を実行するための「ターゲット」は現場では分かっている(はずだ)。
現時点の札幌市内の感染発生状況に基づけば、「すすきの地区」の「接待を伴う飲食店」、「カラオケ店」。限定された区域の2形態だけを対象にして一斉検査を行い、従業員から陽性者が出ればその店は2週間営業停止にする。その程度のことであっても大きな感染抑止効果が期待されると小生は勝手に思っている。小生が暮らす港町でも昼間のカラオケからクラスターが発生して、死亡者まで出たことがある。このショックが大きかったのか、以後カラオケ店から感染クラスターは発生していない。怖くなって行かなくなったからだと思われる。店側も衛生管理を徹底したのだと思われる。
問題の本質は、店の経営姿勢である。昼間のカラオケ店の実態も(その場にいたわけではないが)そうであったと聞いている。「不可」と評価しなければならない個別店舗が一部にある。これは、交通事故とまったく同じロジックであって、劣悪店舗を現実にはゼロに出来ないわけである。衛生意識が非常に劣悪な店に好んでいく客にももちろん批判される点はある。が、店の側が感染防止に十分な注意を払えば、そうそう容易く大量に感染者は出ないことはこれまでの経験から分かってきたことだ。それが出来ていない。無頓着なのだ。どの店が出来ていないか。危ないか。現場の人間であれば、もう具体的に「あの店、この店は危ない」と指をさして示せるのではないかと推測している。
いくら国道5号線で事故が多発する区域があっても、その区域の走行を自粛せよと知事が発言すれば、文字通りの「愚行」になる。事故を誘発する危険な走行をしている自動車は少数である。その種のドライバーをターゲットにすればよい。警察のパトロールを増やせばよい。それだけで慎重になるのである。
犠牲者が出て初めて危険な交差点に信号が設置される。「煽り運転」で犠牲者が出て初めて危険な運転を刑罰の対象とする。行政というのは、手を変え品を変えながら、いつでも同じ行動パターンをとるものなのだ。戦前期の反省があってだろうが、、日本では官公庁が「予防」という目的で公権力を行使することに対して、国民は、というよりリベラル系のメディアは極めて警戒的である。特に特定個々人に対して<差別的に>(営業の)自由を予防的に制限することは、たとえ「公益」のためとはいえ、「治安維持」という暗い時代の言葉をも連想させるものであるが故に、許せないという雰囲気が厳然とある。
そんな社会的心理が手伝ってなのか・・・
TVのワイドショーをカミさんと観ていると、まったく方向が違うことを話している。
A氏: 感染を抑えるにはやはり人と人との接触を抑えていく、これしかないわけですヨ。
B氏: GOTOトラベルはその接触を増やしますよね?
A氏: 政策的に増やしています。なので、感染が増えてきた今、GOTOを一時休止するのは当たり前であって、これ以上待つのはおかしいと思います。
GOTOトラベルに参加している宿泊施設が原因となって、感染が拡大したという事例は生じていない。少し数字は古いが、7月22日から9月15日までの利用者数は1700万人弱、金額では700億円強が支援されたという報道がある。そんな中で、先ず北海道が、次いで東京と大阪で感染者が増え始めた。毎日200人から300人程度の新規感染が確認されるようになった。
GOTOトラベルが原因なのだろうか?GOTOトラベルを感染抑止のターゲットにすれば効果が期待できるのだろうか?
確かに、人の移動が増え、接触機会は増えた。しかし、新規感染者数とGOTOキャンペーン政策に直接的な因果関係がないことは、時系列データの数字、相関をみても推測できることだ。
影響があったとすれば、GOTOトラベル利用の浸透から日本人全体の<心理>と<行動>が変わった。それによって、コロナ感染を加速させるような行動をとる人が一部で増えている。そんな一面が無視できないわけであって、GOTOキャンペーンは間接的な経路で感染拡大をもたらしている。そんな見方は確かにありうる。間接的な経路で人々の行動を変えているとすれば、大本のGOTOキャンペーンを一時停止して、人々の行動を元の自粛モードに戻し、それによって感染を抑止する。確かにこんなロジックは「感染抑止政策」としてありうると小生も思う。
しかし、この方法は戦争中の「じゅうたん爆撃」と同種の発想である。極めて「残虐」である。小生はそう感じる。
ちなみに付言すると、逆説的であるが「民主主義」は時に「残虐」な選択をする。なんであれ教条主義的に一つの価値にこだわれば、思考が硬くなり、バランスを失い、同情心には欠けてくるものだ。民主主義の暴走である。
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感染拡大の核になっている営業形態が確認されているのであれば、それをターゲットにして感染抑止のための政策資源を集中投下するのが行政オペレーションとしては効率的である。
ターゲットの確定は、店舗・区域・自治体など様々なレベルがありうる。
しかしながら、ターゲットをどのように決めるにしても、ターゲットを決めること自体によってその政策は国民に対して<差別的>に働く。その意味で、ターゲットにされる側の基本的人権を侵害することにもなるという理屈はありうる。
しかし、公益拡大のため<差別的>に作用する政策が不適切ということであれば、便益平等の公共サービスの財源にするために累進的な所得税を課することもまた本当はおかしいという理屈になる。
公益のため一部の人たちに我慢を強いるのは人権を侵害する。「だから、みんなで我慢しようヨ」という考え方は、要するに「一蓮托生」のロジックであり、公益を名目として国民に「連帯責任」を求める思想と同じであろう。
小生はこのような考え方には反対する立場に立っている。
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経済活動全般を抑えれば、一部の人に負担がしわ寄せされ、生活不安から自死を選ぶ人が出てくる。これが事実であることは、既にこの夏以降、確認されてきている。
感染者数が目に見えて増え始めれば、多数の国民は感染を抑えたいと求める。多数の国民の願望に「寄り添う」といえばよいのか、どのマスメディアも自粛志向の政策転換を主張する。それによって多数の国民の視野には入らない一部の人々に負担がしわ寄せされるのである。
「みんなで我慢をする」という社会的行動は、実は一部の人に耐えがたい負担を負わせるという結果をもたらしている。そして、その事を日本のマスメディアは、嫌がっているのかどうか分からないが、あまり語っていない。
「みんなで我慢をしましょう」と言うのは、耳に心地よいスローガンではあるが、つまりは感染拡大現象とは何の関係もない人々をも巻き込む「(意図せざる)連帯責任論」になっている、と。こう断定されても仕方がないだろう。
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感染拡大防止には効果的な政策とそうではない政策がある。
政策の選択は、あくまでも行政の効率性の基準から行われるべきであろう。
「感染拡大防止」を目的とするなら、最も効率的な政策がある。ターゲットを決めるべきである。もし「民主主義の確保」をも同時に目的にするなら、同じ政策に二兎を追わせるべきではない。トレードオフになるかもしれないからだ。
同時に追求する目的が幾つかあるのなら、政策手段もまた目的と同じ個数だけなければならない。これは経済政策理論では誰もが知っている「ティンバーゲンの定理」である。
感染拡大防止という目的を追求するには、民主主義の確保にとって最適である政策を実行するのではなく、副作用を怖れずに感染防止という目的に最も効率的な政策を実行するべきである。民主主義の毀損が問題になるなら、もう一つの政策で手当てしなければならない。これも経済理論の基本である「マンデルの定理」から言えることである。
TV局で(新聞社もそうだが)報道番組の基本編成を担当しているプロデューサーは、(実は)何の学問的基礎もない「無学・無教養」な人たちであるという印象を小生はいつ頃からか持っている。そのTVのワイドショーでは、政策の是非についてコメンテーターが雑談することが多いのだが、余りに「定石」を知らない、大学初年級の基礎知識を知らないことに呆れることがママある。政策をめぐるこうした社会的ノイズもまた、日本の経済社会のパフォーマンスを大いに停滞させるという作用をしているのじゃあないか、と。そんな風にも感じているのだ、な。