2021年1月30日土曜日

サルトルとベルグソン、及びコロナ感染対策

 学生の頃、ベルグソンの『創造的進化』を読むのに夏の休暇のかなりの日数を費やしたことがある。読んでいる時には「分からない」という感想ばかりがあったのだが、不思議とその全体像は今でも残っているから、若い時分の読書は「分かっても、分からなくとも」まずは最後まで読んでみることに意義があるのだろう。

その頃、英語(ではないと思う)か他の何かのコースで若手教師がサルトルのファンだったのだろう、『悪魔と神』を履修者に読ませて議論をするという授業をした。多分、必修科目ではなかったと今では想像するのだが、何だかバカバカしく思えて、途中で出席するのを止めてしまったのも、もう昔の事になった。

それでも、サルトルのいう「実存」という概念は、その後も気になっていて、ドイツのカントがスッキリと整理した「物自体」と「観念」の明晰さとは別に、どこか魅かれる感覚を持ち続けてきた。ドロドロとした物質として実存する人間として自己を認識するという視点は小生には非常に説得的だった。そこには何の必然性もなく、ただ偶然によって、嘔吐を催すような物体として自分自身はこの世界に実存しているという人間認識は、否定を許さないところがある。

ヒトは「それ自体として」美しいものでも、価値あるものでもない、どう生きるかでどうあるかが決まる、という自由に絶対的価値を認める思想は極めて現代的である。そう思われた。

ベルグソンとサルトルの本質は同じところにあると小生は思っている。

昨日、書いたメモを保存しておこう。

サルトルは、実存から個々人の絶対的自由へと思考を進めたのだが、ここ日本では「自由」という価値を尊重する必要はない、むしろ反社会的であると考える人々が多いのではないかと。そう感じることは余りにも多い。多分、「自由」と「責任」との不可分の認識が定着していないのだろうと思う。

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コロナ対策を強化するための法整備と称して、罰則が定められる方向だ。

疫学調査に協力を拒んだり、虚偽を述べたりすると「罰金」が課せられるなどという法案が提出されてきたから、小生ならずとも吃驚仰天した人は多かろう。「前科」がつくのかという驚きだ ― まあ、現実には多分こんな風に進んでいくだろうと予想はしていたし、これも「日本の民主主義」だと大多数の日本人は考えるだろうということも、先日の投稿には書いておいた。それでも、やっぱりこうなるかとは思いました、な。次は、保健所が必要と判断するPCR検査を拒否した時の罰金と、自宅治療者(自宅待機者?)に対するGPS装着義務だろう。

こっそりと入院先から逃亡する人物を処罰するならともかく、『社会全体のためには、あなたの供述が必要なのです』と言わんばかりの行政は、これを権力の濫用と言わずして何と言えばよいのだろう。犯罪捜査でも「黙秘権」はあるのだ。

まあ、罰金刑から「過料」という行政処分に落ち着きそうだが、それでも原案ではそうなっていたという点に、案外、日本政府のホンネがあるのかもしれない。

先般の予測は予測としてキープしておくことにしよう。

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自らにとって不利になる供述は、たとえ公益のためであるとしても、これを拒むことが出来るという法制度は、近代社会の柱である。

ベルグソンもサルトルも、この近代的精神を土台にしていることは言うまでもない。

この「近代的精神」が日本社会に本当に根付いているのだろうか、という点が実は最も不安なところである。何しろ、日本は西欧列強に対する「攘夷の精神」から明治維新を成し遂げた国なのだ。その精神は、昭和20年に破産したが、「三つ子の魂、百まで」だ。個人の幸福と社会の公益が対立する時、無条件に公益を優先できるわけではない。原理・原則としては、個人にとっての価値は社会にとっての公益よりも高い価値がある。そもそも「公益」というのは、理念的な虚構であって、現実に存在しているのは個人、個人の幸福だけである。

“I think we’ve been through a period where too many people have been given to understand that if they have a problem, it’s the government’s job to cope with it. ‘I have a problem, I’ll get a grant.’ ‘I’m homeless, the government must house me.’ They’re casting their problem on society. And, you know, there is no such thing as society. 
Source: https://briandeer.com/social/thatcher-society.htm 
前にも引用したことがあるが、"There is no such thing as society..."と断言したサッチャー元英首相ほど過激ではないが、やはりベルグソンやサルトルに同調する位の価値観は共有している。


2021年1月28日木曜日

一言メモ: マスコミが「法治主義」を理解していない証拠か

 少し以前、「自粛警察」という言葉がTV画面で盛んに話題になっていたのは覚えているが、リアルタイムではあまり批判的には語られていなかった。むしろ街を(法的に禁止されてはいないが)「無頓着に」歩いている若者が「注意」されるのは当たり前のことであると、そんな論調で情報番組は編集されていた感覚が残っている。

今度は「不織布マスク警察」だ。

日本社会の「同調圧力」もこうなってくると行き過ぎである。

小生とカミさんは、買い物に出かけるときは、布製マスクにフィルターを入れて使っている。フィルターはウイルス、PM2.5も防止できる仕様だ。

しかし、外見が布製であるから、「不織布警察」の目にとまれば、警告・叱責をうけるリスクがあるだろう。

日本人は、とにかく杓子定規なのである。外見や外観にこだわる。例えば、学則で定められているよりも1センチ短いスカートをはいてきた女生徒を小一時間も説教したり、保護者に警告の手紙を送ったりと、日本人の神経質振りは世界的にも有名である。中国では日本人を「法匪」(=法律の一言一句に執着し、民衆の便利を顧みない小人物)と呼ぶ向きがあるくらいだ。「厳格」とか「真面目」といえば聞こえはよいが、あまり名誉なことではないと思う。

ま、細部にこだわるからこそ、美術・工芸では傑作を創れるのだろうが、それは才能のある一部の人だ。

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小生は、むしろ「不織布マスク警察」が声をかけてきたときの反撃策を考えているところだ。

そもそも「不織布マスク警察」を自称している人物には、何の権限も資格もない。仮に保健所が付与した「衛生指導員」なる資格があるとしても、具体的事項について一般国民を指導できる「法的権限」がなければ、「〇〇は止めよ」とは言えないのである。言えば人権侵害にあたる。

実のところ「衛生指導員」なる資格もなければ、「衛生指導」という公務もない。定められていないのだ ― 小生自身はそんな資格、公的業務があってもイイのではないかと考え始めているのだが。

であるので、勝手気ままに他人に対して声高に「布製マスクは止めろ、不織布マスクをつけろ」と言い立てて、買い物の邪魔をしたり、人々の目を引いたりしてその店に行くことを遠慮するような羽目になれば、小生の側に実損が生じる。

資格はお持ちですか?

氏名と官職を確認してもイイですか?身分証明書をみせてください。

無資格で強要するなら刑法231条の「侮辱罪」に該当する可能性があるので被害届を出すつもりです。連絡先も教えてください。

そう回答するつもりだ。

マスメディアでもこの種の「無資格指導員」を叩いておいたほうが良いと思われる。が、今回もまた放置している。

こうして日本では、規則や法律には書いていないにも拘わらず、実際には強要や抑圧に該当する行為が野放図に社会に蔓延するのである。

メディアの法的センスは落第である。であるのに、法改正や法的規定について時に熱心に報道するのは笑止の限りだ。


2021年1月24日日曜日

一言メモ: そんなに「法改正」が重要なのでございますか?

 新型コロナに対応するための法改正が、法整備と称して国会の場で審議される予定だ。TVのワイドショーは「罰則導入」がいいのか、悪いのかで、持ちきりだ。これからは「ワクチン」と「罰則」で視聴率がとれるのだろう。

まあ、これまで外国よりはずっとノンビリと対処してきたことのツケであるとも言えそうだし、アタフタという印象もある。

現実が先に進行して、後付けの理屈で法を整えるのは、日本の得意とする政治戦略である。

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どちらにしても、知事による時短要請、営業自粛が緊急事態宣言によらずに実行されてきた現実があるので、今さら「私権制限」などと言われても、「既に法的根拠なくしてやっているではないか」と言いたくもなる。

政府が新たに設ける『まん延防止等重点措置』なるものは、政府による「緊急事態宣言」がなくとも、知事の権限として時短要請などを可能とするものだ。これまで実際ベースでやってきたこととツジツマを合わせる窮余の一策であるのは、もう「見え見え」である。

『三人寄れば文殊の知恵』と言われるが、政府部内には有能な人材が多かろうに、むしろ「バカ」じゃないかと感じるほど、愚かしく、やっていることの底が割れているのは、一体どうしたことだろう、というのが正直な感想である、な。

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大体、法の条文をどんな文章にするかという問題はあまり日本では意味がない。

更に言えば、憲法の条文をどう改正するかとか、護憲を貫くとか、そんな問題も日本では意味がないと小生は思っている。

大体、考えてみるがいい。

戦前の明治憲法は、典型的な君主制で欽定憲法であった。天皇は国家元首であり「神聖にして侵すべからざる」存在であった。天皇は帝国陸海軍を統帥する大元帥でもあった。しかし、1930年代の陸軍首脳は、天皇の意志とはまったく反しながら、行動をし続けた。1931年の満州事変の際には、朝鮮軍司令官である林銑十郎が天皇による命令(奉勅命令)を受けずして、国境を越えて軍を動かした。しかも、処分はされず、1937年には総理大臣にもなるという無法図ぶりであった。

ここ日本では、たとえ憲法にどう書こうと、現実には守られず、その時々の現実のままに行動がさきにとられ、それが事後的に追認されていく。そんなお国柄なのである。

いまもホンネでは変わってはいないと考えるのが素直な見方だろう。

日本の国家元首は誰であるか、どこにも書かれていない。天皇は「日本国民統合の象徴」であって、政治的な権限は有していない。それでも、例えば今般、韓国から駐日大使が日本に到着すれば、韓国の国家元首である文大統領が発した信任状を日本の天皇に奉呈するのである。現実には日本の国家元首であるのは天皇陛下であることが歴然としている。

日本人にとって何よりも大事なのは、いま生きている自分たちが「納得できるかどうか」である。法治主義の本質とは「自分たちは納得できないが、そう決まっているなら規則に従う」という正義の観念が共有されていることだと思うのだ、な。

どうもそうではないと思う。書かれている規則よりは、納得できるかどうかのほうが重要だと日本人は考えているような印象を受ける。これは昔から変わっていないのじゃあないか。

このようなお国柄である日本において、法律に何を書くかはさほど重要ではない。書こうが、書くまいが、現実の転変に応じて、いくらでも行動はされていく。法律の条文に何をどう書くかは、事後的に理屈が通るように決める。

それが良いと考える国民性が日本人には備わっている。これまた日本人の「ファクターX」であると小生は考えたりしている。


2021年1月19日火曜日

一言メモ: 「政治(家)主導体制」が崩壊に至る道筋に入ったか・・・

新型コロナにとどまらず「公衆衛生」は「国家安全保障」の核心の一部だ。が、「公衆衛生」というこの分野は、総理や、総理補佐官、官房長官など首相官邸で毎日を過ごす何十人(?)かの指導部がいくら頑張ってみても、その人物集団だけではとうてい結果は出ない。そんなタイプの問題なのである。

公衆衛生で結果を出すには、日本全国を網羅した官僚組織、医療専門家など関係諸機関の全体を動かさなければ、無理なのである。

例えは悪いが、1,2日で勝敗がつく「海戦」ではなく、勝敗がつくまで時に100日もかかるような「陸戦」に近いのが「防疫」という課題である。最終的な解決までには何年も要する持久戦になることが多いのも「陸上戦」と「防疫」とが似ているところである ― もちろん海軍にも「護送船団」という持久戦が課されることはあるが。要するに、最終的解決までに何年もかかるかもしれないことを覚悟し、消耗戦を耐え抜く決意を形成することが出発点である。そうすれば、その何年間かを耐え抜くために必要なインフラやシステムを考えるように自然になるはずだ。

「いつまで頑張ればいいんでしょう」などと聞くのは、その覚悟がないからであり、その覚悟の必要性を訴えずに今に至っているのは、政府上層部がサボっているからである。

やはり、ここ日本ではいつも「現場は頑張るが、上はダメ」なのである。

首脳会談でトップが会談を行い、基本的方向について共同声明を出せば、あとはトントンと事務的折衝で最終合意に至る。そんなタイプの問題も確かにあることはあるが、ウイルスが相手の「公衆衛生」は、そんな手法は役に立たない。

ウイルスに知性はない。知的会話や演説、ユーモアなどは無用なスキルである ― 戦う相手はウイルスであって国民が相手ではない。国民から政治的勝利を得ても大した意味はない。自チームの応援団から熱烈な支持を得ても、敵が強ければ試合には負ける。やはり意味はない。同じことだ。ま、これは最近気になっていることで、付け足しまで。

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粘り強く統制された組織行動でこそ解決ができるのだから、本来、感染症対策なり公衆衛生という問題領域は日本人にとって得意な分野である。小生はそんな印象をもってきた。

ところが、「政治主導」という旗印の下で、想像以上に日本の官僚組織は中央、地方共に劣化してしまったようである。

弁舌に長けた何人かの個々の人物が好きなことを声高に主張して日本社会全体をあらぬ方向へと引っ張っていった戦前期の1930年代を思い出すというものだ。

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フラクタルで有名なベノワ・マンデルブロが『禁断の市場』の中で強調しているように、無数の消費者、企業から形成される市場経済の本質とは、どの主体も粒状の微細な存在だという点にある。個々の主体がそれだけで全体に影響を及ぼしえない小さなスケールの存在であってこそ、株価形成には正規分布が当てはまり、派生商品価格に使用される標準的なブラック・ショールズの方程式も成立する。ところが、地球上の岩石のサイズ分布、企業の規模分布などには正規分布は当てはまってはおらず、いわゆる「べき乗分布」が現れる。それは他のすべての実現値を相殺して、全体の傾向を左右するほどのスケールをもつサンプルが時に出現するからである。どのサンプルも粒状の小さなスケールでそろっているという大前提は現実の経済社会には当てはまらないのだ。

現実の市場経済は決して粒子状の多数の経済主体で運営されているわけではない。市場経済に期待するメリットは、多分、「民主主義」にも期待されている特性なのだろう。民主主義が安定して政治的判断を形成し続けるためには、どの有権者も政治主体もその一人だけで他の人物の意向を帳消しにできるほどの影響力をもってはいけないという理屈だ。

おそらく何らかの数量化を行えば、政治現象にもまた安定的な正規分布は当てはまらず、自然の混合物に多く見られる「べき乗分布」が該当しているのだろう。とすれば、極端な結果は人が思うよりはずっと頻繁に現実のものになる。「ブラックスワン」は人が思っているよりはずっと頻繁に社会に現れる。そう考えておいた方がよい。

現実の市場経済は教科書のとおりではないし、現実の民主主義社会の政治現象も政治学の教科書のとおりにはなっていない。

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話しを戻そう。

一人か、何人かの政治家が、大きな影響力を社会に行使して、動かしていく社会状況は決して健全ではないと小生は思う。その人物がとんでもない偏った目的や理念を心の奥に隠し持っている可能性は常に排除できないからだ。なにもヒトラーを引き合いに出すまでもない。

というか、それほど大きな影響力をもった政治家ですら、公衆衛生という課題は極めて不得意な分野であるに違いない。

多くの人を信頼し、動員し、組織化することでしか、善い結果を得られないからである。組織の中では、大政治家ですら一つの機関に過ぎなくなるのである。

「あの人なら信頼できる」とか、「この人ならイイようだ」・・・などという発想では「防疫」に結果を出すのは無理である。

『司令塔がない』とよく日本の事情を批判する人がいる。しかし、司令塔だけを中央に作ってもダメである。日本に欠けているのは「組織・ヒト・資源」である。明らかではないか。

つまり「大政治家」だから「防疫」という問題を解決できるわけではない。平均並みの凡人集団が相互連携して、組織的、集団的に解決していくのが本筋である。

そして、本来は、こうした集団的問題解決は日本人なら得意であったはずである。その伝統的な解決能力が毀損され、劣化させられてきたのは、小生は2000年以降の「政治主導」が背景になってきたと思うようになった。

これが分かってきたことがコロナ禍の歴史的意義ではないだろうか。

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ホンネについて語り合ったことは最近はないが、多分、40代未満の若い少壮官僚は今回のコロナ禍によって、この20年間の「政治主導」が崩壊に至る事態を待ち望んでいることだろう。

確かに、外から眺めていると、1990年代の当初の理念はともかく、特に内閣人事局が設置された2014年以降の「政治主導」は、高級な意味合いの「政治による主導」ではなく、低級な「政治家支配」そのものであった。

1920年代の政党政治が崩壊して軍部主導の日本になったのは、今日の日本人からみると何故それを当時の日本人が受け入れたのか、実に不思議に感じる。しかし、歴史に不思議なことは実はないのだ。社会には全体としてそれほどレベルの高い知性も感情も備わっていない。が、それでも社会的な変化はそうなるべくして、そうなったものとみるべきだと思う。とすれば、これから「政治主導」が信頼を失い、何年もかけながら「官僚組織主導」に戻っていくとしても、リアルタイムで生きている今の日本人にとっては「それも仕方がない」と。そんな歴史になっても小生は驚かない。

2021年1月17日日曜日

技術進歩の果実は明白であると感じるとき

 小生は音楽の専門家ではないので、たとえよく聴くモーツアルトであっても、何を高く「評価」しているかということなど、ブログであれ書けるものではない。

書けるとすれば、単に「最近最も頻繁に聴いている楽曲」を頻度順に並べること位である。そうすると、選択範囲をモーツアルトに限れば、大体、以下のようなリストになる。

  1. ピアノ協奏曲第17番(K.453)
  2. セレナーデ「ポストホルン」(K.320)
  3. ヴァイオリン協奏曲第4番(K.218)
  4. セレナーデ「ハフナー」(K.250)
  5. 交響曲第38番「プラハ」(K.504)
  6. 魔笛(K.620)
  7. フルート四重奏曲第1番(K.285)
  8. 交響曲第40番(K.550)
  9. ヴァイオリンソナタ第35番(K.379)
  10. ピアノ協奏曲第9番(K.271)

(次点)

A. ピアノソナタ第10番(K.330)

B. ピアノ協奏曲第14番(K.449)

ピアノ協奏曲が多い。それにいわゆる有名な傑作群が少ない。こんなリストには大抵含まれている「クラリネット協奏曲」も「ジュピター」、「フィガロの結婚」、ピアノソナタ「トルコ行進曲付き」(K.331)、それに「レクイエム」も入っていない。誰もが傑作という高名な楽曲群は、小生が若いころから既に人気の的であり、その頃にはまだ高額だったLPを小生も財布の中をのぞきながら買い込んだものである。もちろん今も好きであることに変わりはない。

つまり、要約すれば、現時点で毎日愛聴しているのは、若い頃には知らず、知っていてもお金が足りず、買うのが後回しになっていて、最近になってYoutubeやAmazon Primeを利用して初めてその素晴らしさを知った楽曲が大半であるということだ。

もし対象範囲にベートーベンも含める、ロマン派も含める、マーラー、ブルックナー、ブラームスまで含める、ロシア派も含めるということになるとどうだろう・・・まあ、ベートーベンの第3番「エロイカ」がモーツアルトの「プラハ」よりは上に入ってくるだろうなあ。「田園」はモーツアルトの40番とどうだろう、ブラームスの第4番は・・・これはもう決定不能である。

古今の名曲などと銘打って本を出している専門家もいるが、あれはどんな評価尺度で選んでいるのだろう。想像を絶するとはこのことだ。

ま、いずれにしても、こんな選択が出来るのも「技術革新」とITビジネスの成功のお陰である。こう言わずして、ほかに何と言えばいいだろう。

ITテクノロジーの進化、AI(人工知能)の進化がもたらす雇用への負の影響が危惧されているが、技術進歩の果実は既に巨大である。

火を発見した後になって火のない生活には戻れない。自動車が登場したあとになって自動車のない日常には戻れない。合成繊維や合成樹脂が発明された後になって、それをゼロに抑えることはもう無理である。

すべての進歩は一度実現されてしまえば、それがない時代にはもう戻ることは出来ない。

雇用問題は、雇用問題として別に解決していくという理屈になる。雇用を心配して技術進歩にネガティブな姿勢をとるなどは、・・・多分、頭が悪いのじゃあないかと思ったりする。

2021年1月15日金曜日

ホンノ一言: 対コロナ持久戦の見通しと政変の予感

 新型コロナ感染対策を「戦い」と呼ぶワイドショーが多いが、確かにアピールする言葉だ。

この「戦い」は、まず確実に持久戦になる。速戦即決で短期のうちに結果が出るという具合にはいかない。そう確信している。

世界の感染拡大をみれば明々白々である。日本だけで必死の思いをして感染ゼロに(運よく)抑え込んでもほとんど意味はない。日本は2018年現在で食料自給率37パーセントである。エネルギーも然り。一次産品また然りだ。文字どおり他国との貿易取引で食っている、(不十分さは多々あるものの)開放戦略で成功してきた国なのだ。いつまでも人の往来を絶つことは国家的な自殺に等しい。

コロナが蔓延している世界で生活を続けながら、長い時間を耐え抜く体制をつくることが、いま日本社会に求められている課題である。

『いつまで頑張ればいいんでしょうか?』などと言える状況ではない。ささやかな国民のこの困惑にも、守備の重要性を失念して攻撃一辺倒の政策を展開してきた独善的な政府の失敗が表れている。1930年代以降の日本の軍部の視野の狭さと何と似ていることだろう。防御を省略して徹底的に運動性を追求してできたゼロ戦も、強く、美しくあれた時期はやがて過ぎ去った。一球入魂の勝負ではなく、何度も繰り返しつつ、感染症と対敵できる泥臭く持続的な強さがいま求められている。

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100年前のスペイン風邪とは違って、今回はワクチン開発がスピーディに進められた。ワクチンという援軍が到着するのを、政府は一日千秋の思いで待っているに違いない。

これを「他力本願」と言わずして何といえばいいのだろうか?

が、まあイイとしよう。

しかし、敢えて予想しておきたい。日本政府はワクチン接種体制造りでも、どこかでエラー、凡ミス、目詰まりを連発するような気がしている。

感染対策で数々の凡ミスを繰り返してきた政府が、ワクチン接種だけは迅速に、ミスを犯すことなく、間違いなく推進できるとは、どうにも思われないのだ。もし嬉しい誤算になればこれほど幸せなことはない。

ここ北海道の札幌市だけに限っても、ワクチン接種が住民の5割程度(だったか高齢者だけであったか)に達するのは、どう急いでも今年の秋、おそらくは年内ギリギリだろうと医学部の教授がTV画面で予想している。看護師がワクチン接種業務に従事してもよいという判断があれば状況は少し改善されようが、今回のワクチンは副反応が心配され、接種をうける側にアレルギーがあるかどうかなど接種前後で問診が行われる可能性もある。その場に医師が要るということになると、ワクチン接種数は遅々として増えないだろう。

ワクチンはそもそも日本ではまだ承認されてもいない。G7では日本だけである。おそらくワクチン入手で後手を踏んだ韓国がワクチン接種スタート時点では日本を大きくリードするだろうと噂されている。

今後の状況だが、諸般の事情を考慮すると、100年前のスペイン風邪と同じで「まずは1年、おそらく2年、長けりゃ3年」の持久戦になると見ておく方が賢明ではないだろうか。それも、実のところこれまではイントロで、2020年から2021年の冬が第1波、2021年から2022年の冬が第2波、2022年から2023年にかけての冬が第3波、という見立てのほうが理に適っているかもしれない。

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終息はようやく2023年の春になってから、という予想も立てておいたほうがよい。小生はそう思ったりしているのだが、菅首相はわずか1月後の緊急事態宣言延長の可能性すら「仮定の上の質問にはお答えできません」という答弁をしている。

これは「戦略的なことは国民には一切話しません」というに等しい。安倍前首相も鈍感であったが、菅現首相もまた驚くべき感性の持ち主だ。やはり「右翼」に位置する政治家である。

3月下旬には内閣支持率が20パーセント台に低下している可能性も見えてきた。

仮に小生が、自民党内の反主流派議員であれば、4月下旬辺りを目途にして自民党を割って出て、中道野党と挙国一致政権を立ち上げるべく旗揚げを企てる。その誘惑に打ち克ちがたい。そんな思いが兆し始めているだろう。

2021年1月13日水曜日

世論のプラットフォームであるが故に言論の自由があるのか?

 先日発生した狂信的トランプ派による連邦議会襲撃事件。欧州は程度の差はあるにせよ一様に非難声明を出している。中国は非難ではないにせよ『昨年議会を襲撃した香港の過激派は民主主義の勇士であると言った以上、連邦議事堂を襲撃したトランプ支持派も民主主義の勇士ではないのか』と皮肉をまじえて語るなど強い関心を示している。翻って、日本はまったくの音無しの構えである。無関心なのか?遠慮しているのか?

これには、小生も(日本人の一人として)ガックリというところだ。案の定、自民党内からも失望の声が出ているよし。

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SNSのフェースブックやツイッターはト・現大統領のアカウントを永久停止すると決めたのだが、これについても世界中で論議が広がっており、ドイツのメルケル首相は今回のツイッター社の決定が言論の自由を侵害しているのではないかという懸念を表明している。

SNSという場で他人の名誉を傷つけたり、人権を侵害したりする例は数知れないというのが否定できないいまの現状であるが、これについてはこんな投稿をしている。それほど以前ではない。

ネットという世界がこの世界に誕生して、意見の表明、文学作品の先行公表、研究成果の先行公表等々、私的個人による表現行為は以前の時代とは隔絶する程に容易になった。これが「技術革新」の成果でなくて他に何だろうかと思う。

非難・中傷を抑止するというその事だけのために、ネット世界における表現の自由を制限することは、余りにもマイナスの副作用が大きい。

ネット上であろうが、現実の実社会であろうが、過剰に攻撃的な非難・中傷など不適切な言動にはキチンと責任をとる。この当たり前の原則を徹底する。それだけで十分である。

ドイツでは2017年に施行された「ネット執行法、NetzDG」によって2018年1月以降『「明らかに違法な」投稿を24時間以内に削除しないサイトは、最大5000万ユーロ(約68億円)の罰金を科す』という制度になった。

ただ外国人が外国から悪質投稿をした場合、その外国人に直接ドイツ政府が罰金を課すわけにもいかない。政府が常にネット内を巡回、警告するわけにもいかないだろう。効果は限定的であるが、ドイツ国内においては効果を発揮するだろう。

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上の投稿ではこんな風な結論にしている。

大体、日常的に発生しているトラブルで不効率な裁判などを要求していては被害者は救済されない。たとえば交通事故のように、もっと効率的な処分を行政的に、あるいはビジネス・ルーティン的に実施、定着させることが望まれる。

事前にネット・マナーを厳格に守らせる<事前指導型>ではなく、<ネット事故>が発生した際に加害者に対して<事後的処罰>を講じるのが効率的である。

たとえば、事件が発生した直後に過渡に攻撃的な投稿を検出するのは、スパムメールの判別にも似た作業であるので、AI(人工知能)を活用すれば瞬時に完了する。攻撃的なコメントを寄せたアカウントは一定期間(1か月、3か月、1年間など)停止する。これ位のことは全て自動的に一瞬のうちに出来ることだ。

幾人かの悪質ユーザーが一人を攻撃する場合は、その人が悪質なユーザーコメントをブロックすればよい。しかし、多数のユーザーから攻撃される場合は個人が対応するのは不可能だ。その場合は、プロバイダに攻撃の対象になっている事実をただレポートすればよい。そうすれば上に述べたプロセスが自動的にスタートする。これだけで相当の抑止効果が期待できる。

AI(人工知能)を活用して、SNS運営企業がオートマティックに悪質ユーザーを確認、停止していくのが効率的である。AIの本質的優越性は、決して疲弊しないその学習能力にある。クリントン元大統領が立候補した時の言辞ではないが、

It's the efficiency, stupid.

大事な事は《能率》なんだ、この愚か者!

大きな問題が発生したとき、能率的に問題を解決することは常に何よりも大事なことである。 これを開放中国の立役者である鄧小平は

白猫でも黒猫でも鼠をとらえる猫が良い猫だ

という言い方で表現した。

この簡単至極な命題を、わざと難しく考えて、『そもそも猫で鼠をとらえることは動物虐待ではないでしょうか?』、『鼠をとるというたった一つの観点から良い猫がどうかを決めてよいものでしょうか?』などという屁理屈、というか世迷言を声高に言い立てて、それで世間が迷わされるということになると、悪質な投稿ではないがやはり社会の進歩の障害になりうるわけである。『1プラス1は本当に2なのでしょうか?』と数学者ぶる愚か者は一目で明らかなのだが、必ずしも明白ではないバカ者がいるので、たとえAI(人工知能)を駆使しても判断が難しい場合がある。これが言論の場における問題の本質である。だから、ネット社会を荒らしまわる中傷や非難を抑えても、それですべての問題が解決されるわけではない。が、現在の技術で直ちに解決可能な問題であれば、迷わずに解決するべきだというのが小生の立場である。

(真っ当に勉強してきた人なら)《能率》という要素こそ歴史を発展させてきた真なる動機であったことは否定できない事実だ(という点は分かっていると思う)。《能率》はイデオロギーではどうにもならず、地道な科学的研究と新しい方法を取り入れる柔軟な社会的姿勢があいまって、初めて向上させうるものである。


 

2021年1月11日月曜日

一言メモ: 特措法改正と罰則導入、民主主義の関係は?

 新型コロナ感染拡大で一部の「識者」はヒステリー症状を呈するというか、TVの情報番組でも「情報を提供する」という番組編成目的から離れて、自らの意見を声高に主張するという風景が日常的に放送されている。『公共の電波を使って個人的意見を主張することが許されているというのは誰が許したのか?』という根本的疑問を感じたりもするのだが、まあ、比較的ロジックの通っている意見なら『なるほど、こういう考え方も確かにあるなあ』と学習することもあるので、主観的には許容範囲にあるという感じが続いている。

それはともかく、

「特措法改正」で「罰則」が検討されているわけなのだが、TV画面に登場したりする専門家が『罰則、というかペナルティを検討することも……』などと言いにくそうに話したりする姿をみると、何だか笑ってしまうわけである。

罰則、というかペナルティを・・・

罰則=ペナルティであって、日本語を英語に言い換えただけである。ことほどさように、日本人が自ら処罰の必要性を指摘するのは遠慮らしい、ということでこの辺が国民共通の意識なのだろう。

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民主主義社会は、「民が主」であるが故に、単なる弱肉強食社会にならないためには「法律」が必要であるのは当然の理屈だ。つまり民主主義と法治主義は表裏一体である。

法律は適法な行為と違法な行為を分ける規則である。プラトンが暮らした古代アテネにおいても、法の抜け道を利用して利益を得るのは悪ではないという主張があった。「力は正義なり」という主張はどの社会にもあることだ。違法行為を処罰することの必要性は、法を守るものが結果として損をする事態を避けるためである。法を定める以上、法を守るものが利益を得て、法を破るものが損失を負担するという論理は、平等や人権とは別に、公正(=フェアネス)あるいは正義(=ジャスティス)から導かれる結論である。

故に、公権力が公権として「法」を定める行為は民主主義社会では不可欠の事だが、法を定める以上、法を破る者は処罰しなければならない。これが民主主義社会の基本的なロジックである。

法を破っている者に対しても、そこには惻隠や憐憫の情が示されなければならないと強調するとすれば、それは「情」に訴える感情であって、人治主義の良い点を懐かしむ気持ちから発している言い分である。君主には感情があるが、社会は抽象的な存在であって、実存する感情はないのである。まして「国家」には感情はない。裁判官には確かに感情があり、時に情状を斟酌するのだが、裁判官はあくまで法に縛られるのである。

つまり、法を求めながら処罰を避け、法を破るものには破る者の事情があるに違いないと考えるのは、法治主義の考え方ではなく、名君による人治主義の考え方に近い。民主主義は単に「人民に優しい政治」を目指すものではなく、TVで放映されている坂口安吾『明治開化 安吾捕物帖』でもリンカーンの言葉を活用しているように『人民の人民による人民のための政治』のことである。刑罰を君主が決めるなら非民主主義であるが、人民が決めるのであれば、民主的であるという理屈だ。民主主義社会が時に過酷な社会になるのは君主制と変わるところはない。

日本社会は、どうしても理念型としての「民主主義」に徹底できないところがある。どこがどう徹底できないか、よく分からない部分もあるが、どこかで出来ていない。なぜそう感じるかが分からない。集団主義ゆえに自立精神が未熟なのだろうか?だとすれば、責任意識も未熟である理屈だ。法を尊重する。法に違反した時は処罰を受ける。この辺の覚悟が弱いのかもしれない。しかし、近年の日本社会ではむしろ集団主義の風化、家族の絆の風化が指摘されている。あるいは、有権者から選ばれている政治家の基本姿勢かもしれない。日本の政治家にとってのロール・モデルがいま一つハッキリしないこともある。国家機関の一部として仕事をやり尽くすより「優しい父権社会」の遺制の如く何かを恵みたいという気分を引きずっている、そんな政治家が多いのかもしれない。あるいは、高級官僚の間にいまなお牧民官のような指導者意識が残っているのかもしれない。とすれば、指示はするが処罰は避けたいと発想するだろう。逆の意味で、戦前期の軍国主義のトラウマから反・官僚、反・政府というイデオロギーが好き・嫌いを超えるほどの力を持っているのかもしれない。

つまり、分からない。分からないのだが、日本の民主主義は脆弱である。健全ではない。かなり以前から、小生、そんな風に感じることが多い。日本には日本のリアルな民主主義は確かにあると思うが、それは欧米がいう「民主主義」とは相当違っているようだ。

2021年1月8日金曜日

ホンノ一言: 現政府は珍しいタイプの政府だ

政府のことでも書いておけば、色々と面白いことが書ける。こんな理由で、民間TVの情報番組でも政治の話しが花盛りなのだろう。具体的な話は、異論・反論が噴出して炎上するかもしれないから危ないネタなのだ、な。

ま、この頃はこんな風だったな、という意味で、本ブログもWEBLOG(=作業日誌)になっていれば、それでよいのである。

さて、 

韓国で慰安婦判決が出れば菅首相に見解をきく。コロナ対策に関しても、菅首相がTV出演して質問を受ける。大雪で雪害が発生しても災害対策ということで菅首相に質問する。

以前はこんなことはなかったネエ・・・という感想を、単なる旧世代の思い出話しにしてはならないと感じる。

ハッキリ言って、最近の状況はチョットおかしいと思う。

日本の内閣総理大臣は「広報室長」ではないのだ。

★ ★ ★

大体、韓国の裁判所で日本関連の判決が出たのであれば、外務省はどう考えるのかをまず聞くべきじゃあないか。コロナ対策も(国の見解を聴きたいなら)まずは厚労相の見解を確かめるべきだろう。総理大臣が「PCR検査を増やします」、「アビガンを承認します」と断言してもそうはならないのだから、総理の発言に決定的な意味などないだろう。それに、大雪が降ったから総理大臣の見解を聞くというのもネエ・・・正直、そう感じる。

放送企業として何か総理メッセージがほしいのだろう。各省の大臣ではブランド価値が低いのかもしれない。しかし、各省大臣が発するメッセージの価値は内閣の企画・演出によることでもある。つまり、各閣僚の存在意義を低下させてきたのは、世間に直接アピールして世評を高めたいと願う総理大臣自らであるとも言える。

しかし、それも限界なのだろう。

小泉元首相は、ぶら下がり形式でランダム、インフォーマルなワンフレーズ・ポリティックスを展開するのを得意としたが、誰かが言っていたが田中角栄、小泉純一郎クラスの天才でなければ、あれほどの個人芸はできない。

ナポレオンという戦術の天才に対抗するために、プロシアは「参謀本部」を創設した。凡庸な総理大臣が率いる凡庸な閣僚でも、世間に上手に発信していくためには、対世間コミュニケーションを所管する「広報本部」が要るだろう。

誰もが気がついているはずなのだが、言い出す人は一人もいないのだろうか?

不思議なことだ。

「やり手の政府」、「無能な政府」、「強圧的な政府」、「スキャンダルまみれの政府」など、政府には幾つものタイプがあるが、「眠っちまったかとみえる政府」、「なくなっちまったのかと思う政府」は、小生、今度の政府が初めてだ。



2021年1月7日木曜日

ホンノ一言: 「触れない話題」にこそ本質的問題がある

 再び新型コロナ感染抑え込みのため緊急事態宣言が出される。

多くは書かない。

この1年間に民間TV情報番組では色々なトピックがとりあげられ、社会の「井戸端会議」とも言える情景が放送されてきた。

具体的には書かない。が、決して取り上げられることのないトピックがある。たまに振られても、「専門家」がサラッと、抽象的なことをムニャムニャと説明して、それきりで別の話題へと移る。そんな話題がある。

「抜けている話題」、「触れられない話題」、「誰も明言しないこと」を見つけよ!

重要な事柄、ホンネに関する事は、抜けている話題にこそある。これが次第に浮き彫りになってきたのがこの1年ではなかったか。

こんな風に視聴者、読者に頭を使わせる点にこそ、日本のマスメディアの堕落がある。

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多くの国では、下から上に向かって腐る。しかし、この日本ではまず上が腐る。このブログでも何度か投稿した。最近も同じことを書いた。

なぜ日本では、上からダメになるのかが分からない。奈良時代から平安時代、平安時代から鎌倉時代、鎌倉時代から室町時代へ、室町時代から戦国時代へ、そして江戸時代へ、江戸時代から明治へ、そして昭和、軍国主義時代へ……。日本は常に上が腐り、下へと波及していった。

この日本的な権力の腐敗サイクル、というか新陳代謝システムは本当にユニークだ。どうしてこんな傾向が歴史的に一貫しているのかが分からない。

2021年1月6日水曜日

ホンノ一言: 「短期集中で結果を出す」作戦を好む日本人の悪癖

どうもコロナ関連の投稿がまた増えそうだ。 

また日本人の国民性の悪い面が露見している印象だ。

いうまでもなく「新型コロナ」の感染抑え込みである。

以前にこんな投稿をしたことがある:

少数の人が匠の技を披露することも鮮やかで見栄えがするが、平均的な人でも結果を出せるように資源を整えておくことが何事によらず勝利の方程式である。カギは補給にある。日本は民族的通弊として<補給>を軽視しがちだ。長期戦、泥沼戦を嫌悪し、技に頼った速戦即決を好むが故の弱点である。

今回の失敗から得られる教訓は

   備えあれば憂いなし

まさにこの一語に尽きるのではないだろうか。

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思い切った作戦をとって、短期集中で感染ゼロ近くまでもっていこうという主張を、この何日かで一体何度、民放TVの情報番組で耳にしていることだろう。

そういえば、昭和10年代にも「中国一撃論」という戦略を陸軍参謀本部だか陸軍省だかの高級軍人が唱えていた。それで始まったのが「日華事変」である。最初は単なる「変」でおさめるつもりが、案に相違して中国が頑強なものだから、戦闘がおさまらなくなり、以後「日中戦争」の泥沼になって、日本は終着点を見失ってしまった。とどの詰まりに、太平洋戦争を始めてしまい、最後は、空襲・原爆・敗戦という結末になった。

最初から誰もが言っている事だが、新型コロナとの戦いは《ざっと1年、おそらく2年、長くて3年》というものだろう。ワクチンが浸透しても、元の日常が戻るのに4、5年はかかるという人もいる。

新型コロナとの戦いは、「短期決戦」は無理であり、「持久戦」、「消耗戦」になるのは、小生、必至だろうと思う。

故に、いま必要なことは『思い切った政策を断行してコロナをまず抑え込む』という速戦即決の政策思想ではなく、『生活を続けながら長い非日常的な日々を戦い抜く体制づくり』である。

短期集中の「総攻撃」を二度、三度と繰り返すうちに、犠牲が余りに大きくなり、ついに自滅・自壊する愚を犯した旧・日本軍の真似を繰り返すのは愚の二乗というものだ。明日を信じて「万歳突撃」するなど真っ平だ。

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「行動変容」を真っ先に求めるなどは、国民に勇敢さを求める政治家と何も変わるところがない。無能の証しである。必要なのは「勇気」とか「マナー」ではない。インフラとシステムである。政治家はそのために汗をかかなければならない。メッセージが時にあればもっとよいが、まあ無くともよい。戦う基盤が整えばそれでよいのだ。

この程度のロジックは社会的関心のある高校生なら分かっているのではないだろうか? おそらく、マスメディアは「ここから先は言わないでくれ」と上層部から指示があるのだろうし、政治家、高級官僚は(単に)仕事をしていないだけなのだろう。

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思い切った作戦をとる。しばらく我慢してくれ……、この無責任さは昭和10年代のわが帝国陸軍の高級軍人と同じである。

「短期で終わらせられるエビデンス」もなく、短期であると予想(希望?)するが故に(多大な労苦を要する)根本的システム作りに乗り出すこともせず、「すぐに結果を出そう」と大口をたたいて主張するのは、呆れるほどの無責任だ。

2021年1月5日火曜日

一言メモ: 感染対策の迷走は、結構、根の深い問題だ

昨年はずっとコロナを書き続けてきた。何回書いただろう。年は明けたが、まだ3~4か月は コロナのことで投稿しそうである。

予想通り「新型インフルエンザ等対策特別措置法」の改正が早急に審議されることになった。今度は罰則と給付金を明文化する方向である。外出禁止、マスク着用に違反した場合の罰金はどの国でもやっていることである。当たり前のことがようやく日本でも実現されることになりそうだ。野党は、(これも予想どおりだが)特に共産党は私権の制限には反対する姿勢をみせている ― このこと自体、小生には不思議でしょうがないのだが。とはいえ、世論頼みのその他野党がずっと強制措置導入反対を貫くことは難しいのではないかと思う。

昨年12月にはこんな投稿もしている:

個人的な予想だが、大阪で《歴然とした医療崩壊》が発生すれば、まずは強権的感染抑え込み対策の必要性を知事から要請させ、政府はそれにGOサインを出す。私権制限を含む徹底した感染防止対策の法制化へ舵を切る。それによって国民の不安を鎮静化させるとともに、「休業命令」に伴う所得補償、「家賃等支払い猶予令」など諸般の法制化、より強力な経済対策に着手するであろう。

特定店舗に対する休業命令、区域、自治体を対象としたロックダウン命令、公権に基づく社会的PCR検査による陽性者あぶり出しと隔離・保護、GPS装着を義務付けた追跡も視野に入ってくるだろう。

全国知事会、全国市長会、全国町村会など自治体側が続々と政府方針を支持する声明を出せば動きは加速する。財界、連合が支持すれば勝負は決まる。野党は対案を作れるはずもなく反対はできないと考えるだろう。

結局、日本もまた中国型の問題解決に近い方策をとる。小生はそう観ているところだ。なぜなら、感染防止と経済活動とを両立させ、国民の不安を鎮静化させながら国民の生活を守るには、これが最も確実な政策であるからだ。確実であるのは、中国の現状をみても既に明らかである。

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実は、上のような予想は日本では無理かもしれないとも感じるようになった。

どれほど新型コロナが怖くとも、マスク着用義務違反に罰金5万円、陽性者隔離義務違反に罰金300万円という台湾で行われているタイプの徹底した行政対応は日本では実行不可能ではないだろうか。英仏のようにマスクの屋内外着用義務に違反した場合の罰金1万5千円程度という処分すら導入は難しいかもしれない。日本ではルール化が望ましいと誰もが言いつつ、個々人の裁量に任せたいという心理が最後には強く働く。だからこそ逆にマニュアルが求められ、条文に則した一律の対応を要求する。であるからこそ、罰則の導入を怖れる心理が高まる。余りに生真面目で非人間的な運用が怖いのである。これもやはり戦前日本のトラウマなのだろう。

「国権」というものが理解されているなら公衆衛生を目的とした法的措置は当然のこととして受け入れられる理屈だ。この理屈が通らない。日本はそれほどの「民主主義国」になった。そう言えるのかもしれない。

というより、この1年間の感染症対策をみていると、問題の根源が別にある。それが露わになってきたという印象もある。

それは「政府による人権抑圧」よりも、むしろ日本に対する「自律的な政治行動への制約」がより根源的で懸念される問題ではないか。そんな印象があるのだ、な。マクロン・フランス大統領が「新型コロナとの戦いは戦争です」と最初に語ったが、とてもじゃないが日本は「戦争」など出来る国ではない、こちらの方がより大きな問題じゃあないかということだ。

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英国が民主主義国であることに誰も反対はできまい。その英国は2020年2月1日にEUを離脱した。そしてEUとの通商協定に署名をしたあと移行期間が終了し本年1月1日からEU外の英国になった。離脱はしたが、そもそも2016年6月23日に行われた国民投票で離脱に賛成したのは半数をわずかに上回る52パーセントにすぎない。48パーセントは残留を支持していたのである。しかも投票率は70パーセント強で投票をしなかった国民も多い。もしも日本で同じような状況であれば、『投票結果に従ってEUを離脱する』というレベルの意思決定を国民が了解するのは現状から察するに困難だろう。社会的大混乱に陥るはずだ。戦後日本の(戦前期日本も)民主主義は他人から借りてきた洋服のようなものでこなれていないのだ。日本社会はそう意識しなければ真の民主主義ではなくなる。自律的に欲する政治を自由に展開し、それが自然に民主主義に適っているようなお国柄、社会構造ではないのだ。民主主義は借り物である。借り物であるが、それによって世界からは評価されている。そこが実に苦しいのである。英国でも離脱手続きは難航したが、離脱を主張するジョンソン現首相が2019年12月12日の総選挙で勝利したことによって、与党である保守党はEU離脱を断行する正当性を得たわけである。そうして本年の1月1日、英国は名実ともにEUを離脱し、離脱派は残留派が反対しているにもかかわらず政治目標を達成した。

もしも日本で同じような状況であれば、『投票結果に従ってEUを離脱する』という意思決定を国民が了解するのは困難だろう。

こういうことだと思う。

議会制民主主義の本質とは、《野党が反対することであっても》多数を占める与党が議会で議決すれば、実行する正当性が与えられるということだろう。 

協議と説得の努力は政治的誠実さの証明ではあるが、

少数野党が反対することはその政策を実行できない理由にはならない

この点は、案外、それぞれの国が民主主義をどう理解するかを区分するチェックポイントであるかもしれない。

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日本では、与党が主張し、野党が反対する案件を与党が強行採決すれば内閣支持率が顕著に低下する。なので、与党は野党の主張を部分的にでも取り入れるべく、政治的交渉と妥協を展開する。 そのため、与党の政策には様々な要素と狙いが混在して、八方美人的な行政になる。戦略の本質は《目的の明確化と最適選択》であるから、妥協とバランスはある意味で反・戦略的な姿勢である。

思うのだが、これもまた、第二次大戦後の戦後処理の中でとられた「日本を無害化する」という連合軍の基本方針の結果なのである。そう思うと分かる事は多い。戦後日本には「民主主義」というタガが嵌められている。日本社会の現実の必要性から求められる政策であってもその政策を採れないとすれば、それは戦後日本が掲げる民主主義と矛盾するからである。とすれば、日本人にとっていまの現実は悲しいことだと思う。こんな風に感じたりしているのだ、な。

もちろんこれにも《強みと弱み》の両方があるわけだ。感染症対策では強みと弱みのなかの弱みが顕在化しているが、逆にそんな戦後日本の「体たらく」に安心感を感じるアジア近隣諸国もあると思うのだ。であれば、それは日本の外交的強みと言ってもよさそうだ。どうも最近になって、新型コロナ感染に右往左往する日本政府や都道府県の知事を観ていると、この迷走の根は結構深いものがあると感じるのだ。


2021年1月3日日曜日

ほんとに「世論」って奴は……という話し

 Youtubeの活用法に開眼して以来、モーツアルト偏愛が続いてきたが、ごく最近になってハイドンをよく聴くようになった。

ハイドンはベートーベンに通じる所があるとずっと感じてきた。特に最晩年の大傑作「交響曲104番ロンドン」などはそうである。リズム、強弱、儚さとは正反対の構造的感覚とでも言えばいいのだろうか ― どちらにしても小生は音楽は聴くばかりの素人だ。

モーツアルトとべートーベンとの違い、ハイドンとモーツアルトの違いは多くの人が指摘している。勉強したり、研究したりするのは、微妙な違いを理解することである。それは分かっている。しかし、似ているものは似ているのであり、違いを強調する思考は本筋を外す確率が高い。

ハイドンとモーツアルトはかなり似ている。例えばハイドンの「交響曲77番」の第1楽章など、最初に聴いた時はこれはモーツアルトそのものではないかと感じたくらいだ。実際、年齢の差に拘わらず、モーツアルトがウィーンに出てきて以来、二人が互いに影響を与え合っていたことは周知のことだから、似ていると感じても寧ろ当然のことなのだろう。そのハイドンとベートーベンがどこか似ているわけだから、結局、モーツアルトとベートーベンも似ていることになる。そんな意味でこの3人は「ウィーン古典派」という総括的なグループに属している。まあ、理屈としてはこうなるのだろう。

素人の印象に過ぎないが、ハイドンはお手本となる彫刻を創った人。モーツアルトはその彫刻に血を通わせ、涙をたたえたり、微笑んだり、千変万化する表情を与えた人。ベートーベンはハイドンの作った彫刻に理想、というか作曲者自身の想いを吹き込んだ人である。そんな「個性の違い」があると感じている。が、違いは違いとして、やっぱり似ているというのは、理屈としてもそうなのだ、ということだと思う。

「伝統」とか、「時代精神」というのはそんな働き方をするのかもしれない。伝統を共有していれば、どれほどの独創を発揮しても、師弟関係を遡って文化史を辿ることができるわけである。同じ時代に育った人は、どことなく同じような考え方をするのも、仲間意識や同調圧力などというものではなく、やはり時代精神の影響をともに受けて、同じ価値観をもつに至ったからである。

感染症のような「流行」とは違う。何かといえば「根拠」や「エビデンス」という言葉が使われていて、えらく流行っているが、これらは単に「データ」を指しているわけではない。データから何を読み取るかという「思考」の全体をさして「エビデンス」という言葉は使われるべきだ。とすれば、「思考の体系」や「学問的伝統」に関心をもつところまで行ってはじめて実のある話になる。

「民主主義」や「人権」という言葉がそれと同列であるわけではないことを祈るばかりだ。

★ ★ ★

今日、毎年恒例の「箱根駅伝」があり、最終区で滅多に見ない大逆転劇があった。そんなレースとは別に、世間という外野席では『新型コロナ感染防止で三密回避が叫ばれている状況の中、箱根駅伝は禁止にするべきではなかったか。沿道に出て応援する人たちは排除するべきではなかったか」と、こんな風な声が結構出て来ているのには、文字通りビックリ仰天、天を仰いでしまった。

小生: 箱根駅伝はアマチュアだよ、プロじゃあないんだ。客を集めて儲けるのが目的じゃあない。大学の行事で教育の一環だよ。それも団体競技でも、格闘競技でもない、一人で走る競技ヨ。客を集める商売にしているのは読売新聞社なんだヨ。新聞社が手を引いても駅伝はやるだろうね。これを禁止しろって言うなら、何なら出来るんだろう。相撲は禁止、スピードスケートも禁止、フィギュアも禁止を言わなけりゃならんし、大学入試センター試験だって危ない、デパートの開店だってダメ、スーパーだって閉めろ、首都圏4都県は学校も閉鎖、授業日数が足りずに原級据え置き、卒業延期ってことになるんじゃないかねエ? 言うならそこまで言えよって、そう言いたいわな。ま、大混乱の大騒ぎになるだろうけどな。

カミさん: 禁止って、誰が禁止するの?出来る人、いるのかなあ?

小生: いないヨ。禁止できる法律を作れって言いたいんだろ。

カミさん: でも、沿道に出て応援するのは止めたらいいんじゃないかなあ。

小生: 天下の公道を歩くのに許可を得る必要があるかい?大体、外出を禁止したいなら、水、食料はお上が配給することにして、それを担当する人員を動員して、徹底実行するのが王道だ。それじゃあ財政がもたないから、買い物には行ってイイと、スーパーは営業してもイイと、水道管が凍ったら修繕にきてもらってもイイと、停電になったら早く直すのはイイと、世話ないっていうか、たとえは悪いけど、世間の言う「外出禁止」なんて、「韓国の反日不買」のようなもんだなあ。

まあ、「訳の分からない小言」は、世が荒れてくると、日本では色々とよく耳に入ってくるもので、これが時間つぶしのおしゃべりネタなら害はないが、民放TVのスピーカーを通して、案外に世論を動かしたりするので誠に危ないところがある。


坂口安吾の『日本文化私感』にこんな下りがある:

・・・僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求を外れ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たわいもない細工物になってしまう。

こんな風に、自分が従事する「文学」についての観方を述べている。この下りを、小生、以下のように修正・敷衍したいと思っているのだ。

僕の暮らす日本という国の世論が、全く、それと同じことだ。正しく思わせるための一行があってもならぬ。正しさは、特に正しさを意識して言われたところからは生まれてこない。どうしてもやらねばならぬこと、やる必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、やりつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、正しさを生むのだ。実質からの要求を外れ、理念とか民主主義という立場に立って一本の柱を立てても、それはもう、たわいもない細工物になってしまう。

かなり唯物主義的世界観だと思う。作家であるにもかかわらず、言葉に溺れていない。「言葉が何より大事なのです」などという空っぽのナルシズムというか、世迷言とは無縁の頑健な知性をもっている。 この情け容赦のないザッハリッヒな態度をマルクス的だというなら、小生もまったく同じだ。