2022年3月14日月曜日

断想: ウクライナは徹底抗戦するべきかどうかという日本人同士の可笑しな論争

どうも今月は投稿回数が増えそうだ。もちろん「ロシア‐ウクライナ戦争」のためだ。「戦争」というのは、極限状況における一人一人の人生と人間性、それに対する国家としての歴史・理念や政治的意思決定の双方が、オーバーラップしながら、あるいは互いに矛盾しながら、ありありと形になって観察されるからである。


ツイッターでこんなやりとりがあったことを知った:

櫻井よしこ「例えば、日本が中国に攻め込まれ、私達が”最後まで戦う”という時に他の国に『妥協しなさい』と言われたらどうか」

橋下徹「安全を守る為に政治的な妥結もある」

櫻「ウクライナは絶対に領土を譲らず、ロシアは絶対に欲しい。現実的にどんな妥協するのか」

橋「………」

いまウクライナ紛争の終結の在り方については多くの論客を巻き込んで激論が展開されている様子だ ― 日本にとって「激論」するほどの問題なのかやや不明であるが。


上の意見もそうだが、小生には他のどの意見も非常に《観念的》であると感じる。


太平洋戦争末期、1945年7月17日から8月2日にかけて米英ソ首脳の間で開催されたポツダム会談の結果

  • 日本の無条件降伏と武装解除
  • 民主主義の実現(≒親米政権の樹立)
  • 連合国による管理(=占領軍司令部の設置)
  • 日本の領土規定(=一部領土の割譲)など

こんな概要の対日共同宣言がなされた。

このポツダム宣言を受諾するかどうかで、大本営、特に陸軍は《本土決戦》を強く主張し続けた。この時点で、空襲による損失はあるものの、連合軍の本土上陸はなお許してはいなかった。議論は紛糾し、果てしなく続いたが、軍部(と一部日本人)の主戦論を抑えて、昭和天皇が宣言を受諾し、平和を選んだ事実は余りにも有名で、小説(及び映画)『日本のいちばん長い日』を待つまでもなく、これは日本人なら誰でも知っている歴史の一コマであるに違いない。

宣言受諾は<早期和平>、宣言拒否は<徹底抗戦>を意味していたのだが、「国体護持」を条件として要求したものの、早期和平を選べば国を失うだろう結末になるのは当時の関係者には予想出来ていたはずだ。であるが故に、国を守るためには徹底抗戦をするべきであるという主張が力をもったわけだ。


ポツダム宣言受諾を選んだ結果について現在の日本人はどう考えているだろうか?国を失ったのだろうか?確かに明治維新で日本人が内発的に創り上げた「大日本帝国」は打倒され失われた。憲法も改憲を強要(?)された。国内には数多くの米軍基地がなお多く存在している。米軍基地内に日本政府の捜査権は及んでいない。国の喪失を感じさせるようなものは他にもあるだろう。しかし、大方の日本人は、戦後日本の歩みに誇りをもっているのではないだろうか?これも新たな創造であった。現在の日本人はそう考えているのではないか。まして戦後日本の歩みが《国の恥》であるとは考えていないのではないだろうか。

国の価値を決める要素についても、小生はかなり強硬な労働価値説論者であって、国の発展のためにどれほど多くの人が汗と労苦を投入したかで、国の価値も評価も決まってくる。こう考えているのだ、な。表面的な威厳や装飾的側面は必要ない。

1945年8月当時に生きていた人たちが採った選択が、真の意味で正しい選択であったのかどうかを判定する資格のある人は、77年後のいま生きている日本人である。小生にはそう思われる。

日本人はGHQに洗脳されたのだと現時点においてなお主張する人もいるだろうが、オカルトじゃあるまいし、日本人1億人が戦後77年、ずっと米英に洗脳されていて、正しい判断ができずに来たと認識するのは、『もう何を言っても、意見、変えないようだネ』というタイプの人たちだけであろう。

実際、降伏後の日本において、日本国内で反GHQの武装闘争はまったく広がらず、その反対に"American Way of Life"(=アメリカ的生活様式)への憧れが日本人の間には広がったのである ― そもそも都市部においては戦争開始前からアメリカ文化が日本には流入していた。

ウクライナの未来が何となく想像できるではないか?



その時に政治家が行う集団的意思決定が、歴史の進展の中で正しい決定なのかどうか、その時点においては分かるはずがない。そもそも、正しいかどうかが直ちに分かるようなら問題は簡単なのだ。意思決定が正しいものであるのかどうか、それは2、3世代の長い時間を経たあと、同じ国の国民のみが判定できることである。

同じ意味で、いまウクライナが不利な和平を選ぶか、徹底抗戦するか、いずれを採るとしてもそれはウクライナの意思決定だが、その決定が正しいかどうかは、いま分かることではなく、例えば3世代も経過した西暦2100年頃にウクライナ国民がどう認識するかで決まることである。決定する世代と評価する世代は異なるのだ。まさに

行蔵こうぞうは我に存す、毀誉きよは他人の主張、我にあずからず我に関せずとぞんじそうろう

勝海舟が福沢の批判に答えたとおりである。

その時、リアルタイムで生きている人が行うべき意思決定は、その時に生きている人、ウクライナであれば4000万人超の国民にとって何が<人生の幸福>につながる道なのか。それだけである。将来のことは今は分からない。分かるのは足元の現在においてどうかということだけだ。そして、選んだ決定が本当に正しい決定であったのかを事後的に評価・判定するのは、現在の大人達ではなく、ウクライナで誕生したばかりか、今後生まれるだろう後世代のウクライナ人達である。

具体的に実存しているのは、《国の名誉》ではなく《人間の生命》であると小生は考えているので、昭和天皇のいわゆる「玉音放送」には感謝している、というのが小生の立場である。


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