2022年3月4日金曜日

前稿の続き: ロシア‐ウクライナ和平へのチャンスはどうすればよい

 「ロシア‐ウクライナ戦争」は、せいぜいが「三日間戦争」、長くても「七日戦争」で一先ずは終了すると予想していたが、世界も驚いているようになおも進行中である。


ロシアが一層強硬な姿勢をとっていることもあるが、ウクライナ国民に対して『銃をとって国を守れ』と戦意を発揚したゼレンスキー大統領も、多くの民間人・非戦闘員犠牲者が出てしまった今の段階になって「実質的降伏」をするという決定をとり難くなっている(はずだ)。《振り上げた拳の落とし時》を見失っているのではないか、と。こうも推察できるのだ、な。

この理屈はロシア側にもあるわけで、(前稿でも触れたが)既に旧・西側諸国による《広い意味での参戦》 — 国連の決定を待たない経済制裁発動と軍事支援は広義の意味での参戦と小生にはみえる ― によって、最前線のロシア軍に生じた直接的犠牲に加えて、対ロシア制裁を通じた間接的な損害を既に蒙り始めている。

つまり、ウクライナの犠牲が拡大している一方で、ロシア側にも犠牲が拡大しつつあるのである。


だとすれば、既に払った犠牲に値する成果を確保しようと考えるのは、当然の選択、当然の意志であって、このロジックは犠牲が拡大すればするほど、《継戦への意志》が強硬になる、と。こう考えるのが筋道であろう。

つまり、旧・西側諸国がウクライナを支援するという名目でロシア側に損害を与え続ける正にこの行動によって、その損害と等分の犠牲をロシアはウクライナに与え、犠牲に値する成果をウクライナから得ようとする誘因が働く。のみならず、軍事支援を継続することにより、そうした行為がロシアに敵対する「戦争行為」であると解釈され、ロシアを全面的な戦争へ駆り立てる誘因としても働く。これ即ち、「第3次世界大戦」を善意の積み重ねによって意図することなく招いてしまうというリスクである。


中国流の「春秋の筆法」ではないが、ウクライナに多くの犠牲をもたらしている要素は旧・西側諸国による軍事支援と経済面でのロシア制裁である、と観るのがロジカルな現状説明であろう。つまりウクライナが採っている戦略が自らにはね返っている。そう考えるのが正しい。戦争というのは、そもそもそういうものである。

旧・西側諸国は、ロシア側に余りに過大な犠牲を甘受させることを止め、リスク・コントロールに意を払うべきである。軍事支援と経済制裁をこれ以上レベルアップすることはない、無期限かつ無際限に支援を続けることはない、と。こうした《コミットメント》が鍵となる。当事国の一方の勝利を望む支援であっても《限度》を設けることによって、《ペナルティ》としては十分な役割を果たす。無期限・無際限のペナルティを与えようとする行為は実質的には《参戦》にあたると小生は思う。例えば日中戦争当時、英米両国は中国・国民党と共に実質的には参戦していたと日本は認識していただろう。

「戦争」は敵対国に対して勝利を得るためのあらゆる努力を含むものであって、戦争への参加は戦闘の有無で区分されるバイナリーなものではない。適切なコミットメントを言明することで戦争当事国ではなく第3国の立場に立つ意志を示すことは、ロシア、ウクライナ両国政府の思考と意志決定に影響を与え、和平への触媒となるだろう。ロシアには安心を与える一方、ウクライナには当面の撤退を促すべきであろう。

マア確かに、情においては、また常識において、ウクライナ国民には悲痛な感覚を覚える。しかし、仮にウクライナにとって不幸な戦争終結になるとしても、その恨みは結局ロシアに戻って行くのである。おそらく、英国が「アイルランド共和国軍(IRA)」の爆弾テロ行為に手を焼き、悩みはてたように、長い年数にわたってロシアは今回の軍事行動のツケを払うであろう。

懲罰的な占領政策を実行しなかったアメリカの同盟国に日本がなり、そのことに多くの日本人が不幸を感じていないのは一つの歴史的証拠である。その国の国民の運命は戦争当事国が決める事であり、(どれほどそれが正しいと思われようが)外国が外国の立場から介入してはならない。


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