2023年7月30日日曜日

ホンノ一言: 日本経済をほめる珍しい(?)経済学者

ファイターズが長くて暗い連敗トンネルに迷っている間、一点差の負けが増えるにつけ、打てることは打てるが、打つべき時には打てない打線に、毎日毎日、フラストレーションがつのったものである。

こういう「打てることは打てる」のに、「肝心のところで打てない」という「結果を出せない」状況が続くと、観る側も、観られる側も、「何とか…」という焦りが高まり、次は「どうせ…」という自暴自棄の心理になり、雰囲気が非常に悪化するものだ。最近の北海道社会は概ねそうなっていた(と感じている)。

そして、これに似た状況はマクロの日本社会にもあって、この数年間、何かの話しで『どうせ……だろう?』という台詞を口にしたことがない日本人はもはやレアではないだろうか?

日本社会の心理は、ファイターズが連敗のトンネルでもがいていた時のチーム内の心理、応援するチーム外の心理と似ている面がある。そう思ったりもするのだ、な。

関係者はみな真面目なのである。努力もしている。しかし、勝てない。チャンスを失い続けている。責任者が戦略を語っても、『どうせ…』と反応する。それで決定的なピンチに決定的なエラーをする。悪循環である。

これでは勝てる道理がない。

実際、「日本病」の克服にはあるレベルの荒療治が必要だと考えている(らしい)デービッド・アトキンソン氏は、最近、こんなことを述べている。

イノベーションを起こすために人材交流はあった方がいい。ただ、今の日本は能力が高い外国人から選ばれにくい。生涯収入を考えれば、経済成長が見込まれる国で働くほうが合理的だ。機械化やデジタル化を進め、低賃金依存から脱却しなければ「選ばれる国」になれない。

日本で働きたい人は一定数いるが障害も多い。言葉の壁が最も大きい。英語を習得すれば欧米やアジアの多くの国では働ける。日本語を学んでも使えるのは日本だけだ。

変化をためらう企業文化も働きにくさにつながる。能力がある外国人でも発揮できなければやりがいを感じず、ふさわしい収入も得られない。

Source:日本経済新聞、 2023年7月24日

URL:https://www.nikkei.com/article/DGKKZO72980040T20C23A7TLF000/

<イノベーション>、<合理的>、<働きにくさ>。この三つのキーワードが日本社会について使われるなら、大体、どんな提案がされているのか、大方の日本人は推測がつくだろう。そして、提案は正論であることにも(本音では?)賛成している(はずだ)。しかし、それと同時に『どうせ……』とも思っている。

典型的な《敗北主義》に日本人の多くが染まっているのが現状だ。

ところが、岡目八目というか、外国で暮らす全くの外国人の目線を知ることも大事だというのは、クルーグマンがNYTに寄せたコラム記事である。タイトルはズバリ"What happened to Japan?"、『日本で何が起きた?』である。

最初に「失われた15年」などと騒がれ始めて以来、クルーグマンは日本経済の動向には高い関心を抱き続けているようだ。壮大な社会実験が為されていると思っているのだろう。

クルーグマンが今後の中国の成り行きを予想しようとするとき「日本はかなり上手にやって来た」と、そう考えざるを得ない。そんな視線で日本を観察していると知れば、多くの日本人は意外に感じるとともに、自信も少しは取り戻すかもしれない ― それでなくとも日本人は称賛を喜び、時に有頂天になり、非難にはしょげ返り、時に我を失うという弱点をもつわけで、この点、ロジックに沿っていると認識する限り、外部から何と批判されようと屁とも思わない(かのようにみえる)ドイツ人とは相当国民性が違う。

These days the focus of anxiety about global competition has shifted from Japan to China, which is a bona fide economic superpower: Adjusted for purchasing power, its economy is already bigger than ours. But China has seemed to be faltering lately, and some have been asking whether China’s future path might resemble that of Japan.

My answer is that it probably won’t — that China will do worse. But to understand why I say that, you need to know something about what happened to Japan, which wasn’t at all the catastrophe I think many people imagine.

... ...

 And while this is hard to quantify, lots of people I’ve talked to say that Japanese society is far more dynamic and culturally creative than many outsiders realize. The economist and blogger Noah Smith, who knows the country well, says that Tokyo is the new Paris. Given the language barrier, I mostly have to take his word for it, although having been taken around Tokyo by locals, I can confirm that the city has a lot of vitality.

True, that same language barrier means that Tokyo likely can’t play the same role in global culture that Paris once did. But the Japanese are clearly having great success with sophisticated urbanism; if you think of Japan as a tired, stagnant society, you’re getting it wrong.

Source: The New York Times, July 25, 2023  

URL: https://www.nytimes.com/2023/07/25/opinion/japan-china-economy.html


東京を実際に訪れてみれば、「日本語」の壁があってパリとはまた違うが、そこでは洗練された都市文明がダイナミックに発展している。

日本はずっと人口減少を伴う低成長社会を苦労しながらも巧みにマネージしてきた。社会的安定性を維持しながら一体感(Solidarity and Cohesion)をも(最近はそれでも誹謗中傷がネットでは蔓延しているが)保ち続けさせてきた。

これは正に「激賞」ではないか。

要するに、中国にこういうことが出来るか?という眼差しである、な。

そもそも高齢化で人口が減少する下で、マクロ的均衡を保ちながら十分な雇用機会を提供して、現役・若年層の失業率が上がらないように十分な投資活動を維持するというのは、経済学的に非常に難しい課題なのである ― 貯蓄を取り崩す傾向のある高齢層が増える中でも経常収支黒字を続け、それでいて生産力を維持して雇用機会を確保している。ヒトが減るなら移民を迎えればそれで問題解決だと主張するゾウリムシ程度の「国際主義」とは、同じ国際主義者とはいうものの、考察の深度が違っていることが分かる。

そこで結論的には

So, no, China isn’t likely to be the next Japan, economically speaking. It’s probably going to be worse.

中国は、(ひょっとすると)日本が辿った道を歩むのではないか、と。そんな懸念があるが、そうではない、と。おそらく日本よりもっと悪い道を辿る。そう結論を出している。


クルーグマンの予想は意外に核心をついていると小生も思っている。

実際、中国は生産力拡大という「開発」という面では大いに成功したが、成功すれば人を魅きつけ、多くの外国人が中国に集まり、訪れた人は誰でも中国人の生活と中国文明に夢をみるのが「文明」というものだ。が、現実の中国は外国を怖れ、そればかりではなく政府は自国民ですら警戒している。人が魅力を感じない文明は文明たりえず、文明の発展しない経済発展をしても「大国」にはなりえない。中国を訪れるのとは反対に、自国の中国人が海外に行きたがってばかりいる。こんな「大国」が世界史上にあったためしはない。かつてのソ連ですら、作家パステルナークやソルジェニーツィンが生まれ、反体制的ではあるが社会主義社会を文学にできたのである。そこにロシア文学の伝統を世界の人は見ることができた。暗かった戦前期・日本でも小林多喜二の『蟹工船』が発表され、現代の日本人はそれを読むことが出来る。いま中国の文明に魅かれて中国を訪れたいと願う人々が世界でどの程度増えているだろう?増えなければ中国は「大国」になれる理屈はないのである。


が、「失敗」に関しても、初めてのケースよりは二番手のほうがずっと有利である。中国は決して日本の轍を踏まない。よい意味でも、悪い意味でも。この位に考えておく方がイイようだ。


2023年7月26日水曜日

断想: 齢をとれば血圧は上がる。自然なことではないだろうか?

カミさんが降圧剤を服用し始めたのは1年程前である。ところが数日前、細菌性膀胱炎による頻尿でストレスが増したせいか、夜になってから血圧が175を超えるところまで急上昇した。そこで頓服用降圧剤をのんだが、その夜は尿意のため安眠できず、朝になってから今度は定期服用している降圧剤を服用した。そして同じ日の午前中、膀胱炎の診察を受けるためにかかりつけの医院に行った。診察後に薬局まで歩き、薬を受け取ってから生協で買い物をして会計を済ませたところで意識が薄くなり救急搬送された。血圧はその時点で100を下回っていた。小生はカミさんと生協で待ち合わせていたのだが、不慮の事態が出来して夜までバタバタと過ごした。

血圧低下の主因が、降圧剤の過剰服用にあったのは(事後にそれぞれの効果持続時間について説明されて理解できたが)明らかである。加えて、膀胱炎によるストレスと睡眠不足、暑い中を歩いたことによる水分不足も影響したに違いない。

要は、齢をとってから血圧を管理するのは、意外に面倒で、油断をするとトラブルを招きがちだということだ。

こんな話をカミさんとした:

小生: ぼくの若い頃はサ、齢をとると血圧が上がるのは当たり前でネ、目安は『年齢プラス90』だって、聞いたことない?

カミさん: そうそう。お爺ちゃんの血圧が180だって聞いたことあるけど、齢をとっているから仕方がないネって、話していたの聞いたヨ。

小生: 年齢が70になれば血圧も160くらいにはなるって、そんな当たり前みたいな感覚があったヨネ。

カミさん: もしそうならアタシはまだ降圧剤、飲まなくってもイイって話だよネ。

小生: それがいつからかナア……、老人でも血圧が130を超えるのはまずい、降圧剤で下げる方がイイってことになってサ。昔は、脳卒中で亡くなる老人が多かった気がするんだヨネ。脳卒中の背景には高血圧があるのが普通だろ?ぼくが少年だった頃は、日本人の平均寿命が65歳前後だと思うんだけどサ、その頃、ぼくの小学校の担任の先生が脳卒中で倒れてネ、先生のお宅にお見舞いに行ったことがあるんだ。まだ先生の顔やお宅の中の雰囲気をぼんやり覚えてるヨ。優しい先生だったナア……

カミさん: 最近は脳卒中で倒れたって、あんまり話は聞かないヨ。糖尿病とか癌は周りにも多いし、しょちゅう聞くけど…

小生: 65歳くらいで脳卒中で倒れる社会と、85歳前後まで長寿化して、その代わりに認知症の患者が急増した社会と、どちらがイイか、僕には分からないナア……。脳卒中は、本人の感覚ではフウッって気の遠くなる感覚らしいんだよネ。家族は突然の事で驚くんだけどネ。中には救命措置されても半身不随になって長い間苦しむケースもあるんだけど、無理な治療をしなければ、本人も家族も苦しむことはそう多くはないのが脳卒中だと思うノサ。

マア、こんな話をしたのだ、な。

小生の母方の祖父は、血圧が高く、晩年は飲酒を制限されていた。直接には、虚血性の心疾患で亡くなった、と記憶している。制限されていたとはいえ、小生が訪れると1,2合の銚子は何だかんだと言いながら迷いなく楽しみ、煙草の紫煙をくゆらしながら会話を続けるのが常であった。どう考えても、職業生活を終えた後の晩年を幸福に過ごしたことに間違いはないと(孫の目から見る限り)感じている。

日本人の死因を図にすると下のようになっている。

URL:https://honkawa2.sakura.ne.jp/2080.html

図のソースは『社会実情データ図録』である。データの信頼性は高いと小生はみている。このサイトを運営し、オープンな場に公開しているのは明らかに公益に寄与している。その志には尊敬の気持ちを禁じ得ない。

さて、上のグラフをみると、戦前から戦後にかけて<結核>による死亡者数が急減してきた点にまず気がつく。<肺炎>も同様だ。結核・肺炎の減少と逆行する形で増加したのが<脳血管疾患>と<癌>である。その脳血管疾患も1970年前後がピークで、それと入れ替わるように増えてきたのが<心疾患>である。

注:「脳血管疾患」には脳出血、脳梗塞等があるが、本稿では大雑把に「脳卒中」と呼んでおく。実際、暮らしの中ではその程度の言葉の使い方をしていた記憶がある。

長寿化すれば、必ず認知症患者は増える。しかし、認知症患者が認知症それ自体で死を迎えることは(ほぼ?)なく、認知症患者は有病率が高い点が問題なのである。有病率が高い点に加えて更に介護に多くの人の労働を必要とする。現在は、認知症患者が増える中で、日本人は主に《癌|心疾患|老衰》で死亡している。小生が若い頃には、癌よりは脳卒中で世を去る人の方が多かったのである。

これらを総合して思うのだが、日本人の平均寿命が長くなっていることで、日本人全体の幸福度はどの程度まで向上しているのだろう?


これは全くの主観だが、65歳前後で亡くなった人と、90歳まで長生きして亡くなる人と、どちらが幸福であるか、判断できる理屈はない。寿命の長さは<幸福量?>の目安だと語る人もいるが、眉唾ものだ。それに一人一人の人生は千差万別。個人間のばらつきは余りに大きい。寿命が長いからという思考に実証的意味はない。小生の父は53歳、母は61歳で亡くなったが、平均寿命85歳との差、つまり父は32年間、母は24年間だけ得られるはずの幸福を失った、と。とてもこうは感じられない。反対に、現在、《長生きのリスク》が議論されている ― この辺の想いは、ずっと以前にも書いたことがある(たとえばこれ)。

医学の進歩によって、なるほど平均寿命は長寿化した。日本国にとっても名誉なことではある。これは数字でみえる成果だ。しかし、医療技術の応用で平均寿命はコントロールできても、人生の幸福がコントロールできているわけではない。


最高の価値は《幸福》に置くべきだ。ところが、しばしばイデオロギーが邪魔をして、人間本来の自然な見方を曇らせる。何よりも怖いのはイデオロギーという理屈である。そう思う今日この頃であります。

民主主義に価値があるとすれば、人間本来の感情には反するが、特定のイデオロギーには合致するような「合理的政策」に対して、NOをつきつけることを可能とするためだ。

少し前にも投稿したことだが、人間には能力の差異があり、難問に正解できる人は少ない。見事な演技が出来る人も少ない。真の創造力を持っている人も少ないのである。世間の中で正論は常に少なく愚論は多い。専門家と言っても優れた人は少数でレベルの低い専門家の方が多い。多数の人は多数派の専門的意見に騙されるのが常である。故に「世論」は間違った選択をする危うさが常にある。それでも民主主義に価値があるとすれば、普通の人の感覚に反するような政治を(長期的には?)不可能とするためだ。その一点だけだ。それ以外に何かの利点が民主主義にはあるのだろうか?こうも思う今日この頃であります。

真理と真理に関する人間の知識はそれ自体に価値があるのではなく、人類により多くの幸福をもたらすから価値がある。技術も同じだ。情報もそうだ。「価値」とは最終的な目的に寄与する度合いとして定義される言葉だ。この点で小生は完全な功利主義者である。結果重視論者である。


・・・今回もまた小生が好きな話題をとりあげて終わった。繰り返しだ。これもまた物好きということで。

【加筆】2023-07-28



2023年7月22日土曜日

断想: 支持されない内閣は「弱い政府」の証拠だろうが……

今回は「お喋り的投稿」。

いまの岸田内閣の最大の弱みを野球に例えると、

首相が繰り出してくるプランに<球威>がない

そんな印象に似ているのだ、な。

政策立案はトップが単独で考案するものではない。スタッフ、官僚組織全体が練り上げるものだ。しかし、<案>としての完成度を判定するのは、正にトップに座る人物その人である。使えるか使えないか。出せるか出せないか。最後の見極めをトップがするのでなければトップは他に一体何をするのだろう?

そんな意味で、今の日本国は球威のないピッチャーがマウンドにいて、相手の強力打線を(今のところ)四苦八苦してかわしているが、そのうち決定的なイニングがやってきて集中打を浴びそうな予感がする……そんな感覚に近いものがある。

いま、日本の総理大臣職にある人は、行政という分野における「トップ」ではないのだろうか?実際、戦前期においては各省大臣は総理大臣と対等の立場で統治権を有する天皇を補弼(≒助言)し、承認を得た上で担当官庁を指揮したのである。この戦前期の仕掛けは戦後日本では一新され、特に橋本行革の後は総理大臣の権限が強化された。だから政府のトップは総理大臣だとみな思っている。実質的にはそうなってはいないのだろうか?

ま、いないのかもしれない。実質的な政治権力の中枢が総理大臣にはなかった事例は戦後においてもいくらでもある位だ ― かつての「目白の闇将軍」などはその典型例である。日本は「法」が権力の行使を規定する法治主義では必ずしもなく、中国に近い「人治主義」に近い国なのだ、現実には。日本がもつアジア的伝統は、いくら否定してもゼロに解消することは決してできないと感じている。日本人の感性、社会的慣習の全体がそうなっているのだ。

岸田現首相は、誰かに遠慮しながら意思決定を行っているのだろうか?かつて天皇が実の父である▲▲院に遠慮していたように、本当の意思決定は首相とは別の誰か(たち?)が行っているのだろうか?

だとすれば、今の日本は弱い政府に治められている国である。

前にも投稿したことがあるが、「強い政府」というのは必ずしも国民を幸福にするものではない。国民は政府が弱体でも、というより政府が弱い時代にこそ、むしろ幸福になるものだと小生は考えている。実際、日本史を通してこういう認識の方が当てはまっていると考える立場に小生はいる。日本国で強い政府が出現すると、むしろ国民は不幸になるとすれば、これ自体が最も不幸なことではあるのだが……

だから内閣や政府の弱さは、それ自体、小生は嫌いではない。

怖いのは、余りに弱く、愚かで、理屈に合わない大衆の危機感に煽られて、政府がとんでもない法律を施行してしまうことである。民主主義社会に特有の怖さである。この場合、「自民党」という政党そのものが弱い政党であるという意味でもあるが。

ロッテの佐々木朗希が投げる160キロ超の剛速球に似た強い政権はと言うと、やはり(可能性は低いが)社会主義政権、共産主義政権ということになる。個々人の自由な暮らしよりは社会の目的が優越するという建て前になれば、国が個人に加えるプレッシャは最大になる理屈だ ― 公私の公の重みが100対0という程のエクストリームなイデオロギーが確立されれば、資産や所得、所有権など財産権の神聖という概念も消え去ろう。個人の所得は全て国の収入というロジックになるから「税負担率」などという概念もなくなる。全ての国民は国から生活費を支給され、指示される職務を果たす。国民は完全に平等に処遇される。ま、国民は社会の細胞として機能する一種の「兵営国家」になる。これが一方の極端だ。

非民主主義社会も怖いが、「怖い」ということ自体は民主主義社会も変わりはない。怖さの種類が違うのだ。

このところ、来年のNHK大河ドラマになるのがきっかけとなったわけではないが、『源氏物語』を谷崎潤一郎の新々訳と与謝野晶子訳を並行させながら読み進めている。原文も確認する箇所がある。俗に「須磨源氏」と揶揄される段階は過ぎたところだ。

ドンファンのような貴族が女漁りに狂い、許されぬ不義の子を為すのであるが、実は本人なりの夢や倫理や美意識があり、加えて情味が豊かで憎めぬ男が主人公の光源氏である。難しい人間関係の中で幸運にも大出世を遂げるのであるが、それほどの幸運と富、それに積極的意志があっても、最愛の女性を幸福にすることはついに出来なかったのである……、マア、こんな筋立ての大河小説なのであるが、時代背景としては平安時代で、当時の日本は政治的には天皇から外戚の藤原家へと権力が移り、摂関政治と言う実に怪奇かつ無責任な、法制度的にはまったく根拠のない政治体制の下にあった。

そもそも古代の日本は、大陸文化の導入と積極的外交が特徴で、特に大化改新から奈良時代にかけての100年余の時代は律令の整備と公地公民制の確立、高まる国防意識の下で21~60歳の男子には3~4人に1人の割合で課される兵役の義務に特徴づけられていた。ところが首都が奈良から京都に遷都され平安時代がやってきて、やがて大陸では唐王朝が滅亡する頃になると、危機意識は風化し、中央政府が国民に求める負担の圧力も軽くなっていった。

ネットで検索してみると

平安時代に入り、桓武天皇の792年に健児の制が成立して軍団、兵士が廃止され、国土防衛のため兵士の質よりも数を重視した朝廷は防人廃止を先送りした。

実際に防人軍団の外国勢力との交戦は、1019年に中国沿海地方の女真族が対馬から北九州を襲撃した刀伊の入寇の1度だけである。

院政期になり北面武士・追捕使・押領使・各地の地方武士団が成立すると、質を重視する院は次第に防人軍団の規模を縮小し、大宰府消滅とともに消えていった。

URL:https://www.japanesewiki.com/jp/history/%E9%98%B2%E4%BA%BA.html 

こんな記述がある。高校時代に習った日本史の授業を思い出す人も多いだろう。「健児制」への転換は国民皆兵の停止、つまり半ば専門的な予備兵を活用することによる軍制軽量化が目的であった。『源氏物語』は正にそんな退行的な時代を背景とした貴族社会が舞台である。

美の感性が「ますらお振り」から「たおやめ振り」へ、(現代の価値基準と表現がマッチしないかもしれないが)いわば「男性的感性優位の時代」から「女性的感性優位の時代」になっていたことは読めばすぐに分かる。登場人物は男女を問わず袖を濡らして泣いてばかりいる。

所詮は「ああ言われた」、「こう返された」という暗示と忖度の世界である。冒険や命のやりとりは皆無である。暮らしの調度品や生活習慣は全く馴染みがない。それでも登場人物が生きているかのように感じるのは、人間の本性が千年前と現代とでほとんど変わっていないからである。

『源氏物語』の背景は「尊貴な血筋」と「弱い政府」が上にある世界である。この大河小説が日本的美の始まりであるなら、それは筋肉が衰えた上流世界で発達し、花開き、定着した感性である。故に小説は上品で趣味がよいのである。


<強すぎる政府>の出現を防止するのは統治権者をしのぐほどの貴族階層である。貴族(=門閥、閥族、名門)が数に勝る大衆と対立している社会状況、及びそこから生まれる弱い政府の下で、権力は分散され、結果として大多数の国民は平穏で幸福な暮らしを得られやすいのである、と。小生はそんな風に思うことが多い。

小生は良く言えばあらゆる価値観から自由でありたいと考える(言葉の定義どおりの)リベラリスト、悪く言えばへそ曲がりである上に無定見である。だから社会の安定に必要であれば、貴族であれ、身分であれ、階級であれ、格差であれ、あった方が良いものはあった方がよいと考える立場にいる。

源氏物語の世界が過ぎ去ったあと、日本には力で物事が決まる武士の時代が来た。強い政府の基盤には大なり小なり<武断主義>の思想がある。

日本社会の美意識、倫理観、正邪善悪の感覚は、時代ごとに日本が置かれる国際環境に大きく左右されてきた。

与えられた国際環境の中で、どのような生産体制を組織化し、国民は毎日の生活をおくるのか?

要するに、与えられた《生存環境》の中で《食っていく》プロセスに支障がないような倫理が良しとされ、それを裏付ける政治が善政と評価され、権力者が選別され、そこから時代特有の美意識が形成され、流行が生まれ、多くの人が求める芸術や芸能が発達するのである、と。こう書けば、典型的な《唯物史観》そのものであるのは自覚している。

この理屈は現代という時代にも適用できると思っているのだ。日本国内のマスメディアはもはや時代に先駆ける程の知識や学識を失っているのは明瞭で、(情けないが)「拡声器」のようになって社会の変化に後ろからついてくるだけの存在になってしまった。

人間の知性の働きは予測できないが、個々人にはどうにもならない集団全体、つまり社会の変化であれば、生産や消費、暮らしの利便など物質循環の状態から予測可能となる。社会の物質的側面が予測できるなら、倫理や道徳、政治の方向、価値観の変化などの上部構造も又予測できるのだ。だから対象が自然ではなく人間社会であっても科学たりうるのだ。これが社会科学成立のモメンタムである。

「科学の世紀」と言われた19世紀人ならではの発想だが、まったくの夢物語とも言えない。よくよく見れば、我々の価値観、是非善悪、政治哲学等々、生活のあり方の後を追いかけながら変わってきていることに気が付くはずだ。


いま現在は「弱い政府」であると感じる。しかし、いま日本を取り巻いている国際環境は激変期を迎えており、「弱い政府」でよいのかどうか見通せない。弱い政府が続けば、日本人は自分の才覚でむしろ幸福な生活をおくれる時代が来るに違いない。しかし、国防意識の高まりが「強い政府」を実現させてしまう可能性もある。そうなれば日本人の生活はかえって不幸なものになる。小生はこんな予想をしている。

日本という国には(何故だかよく分からないが)そんな社会法則が当てはまっていると思っている。


今日は怪しい積木細工のようなことを書いた。日本国では弱い政府の時代の方がかえって日本人は幸福で充実した暮らしを期待できるというのは、よくよく整理してみないといけない。「何だかそんな気がする」という程度だ。が、案外、的をついている気もする。詰めた話はまたの機会に。

【加筆】2023-07-23、07-24、07-25

2023年7月19日水曜日

昨日稿の補足: 「福一原発処理水の海洋放出」に安心感を与えうる体制とは?

昨日稿を捕捉するとすれば標題は上のようになるしかない。

そのための第1歩は実に単純明快だ。

「汚染水」を放出すれば海洋が汚染される。「海洋汚染」を担当する中央官庁は環境省である(べきだろう)。


反対陣営の主張の核心が「汚染懸念」であるのは明らかだ。だとすれば、東京電力の事業を円滑に進めることを所管する経済産業省が「安全」をいくら地元に訴えても、役所が東京電力サイドに同調している外観を呈するだけであって、うまく行かないのは当たり前である。

この理屈が分からないはずはないのだが……


  • 処理水放出後の近海水域の水質検査に環境問題を所管する環境省はどのように取り組むのか?
  • 近隣諸国の環境担当組織(及び国際機関?)とどのような相互協力を行って海洋水質の検査システムを造るのか?
  • 日常的な海洋水質検査の結果をどのように伝えていくのか?どこがどう伝えるのか?
  • <異常>が示唆される検査結果が得られれば、随時かつ直ちに、福一原発施設(に限られないが)に臨時検査を抜打ちで行う権限を環境省に与えるのか、与えないのか?

大雑把に考えても、この位の疑問点に日本政府は回答しても罰は当たらないだろう。そう思われるのだ、な。実際、環境省は現在も福一周辺海域のモニタリング情報をネットで提供している ― なぜ日本のマスメディアは環境政策で現に行われている活動を報道しないのか、(いつものことだが)疑問を感じている。

そもそも科学的には理の通ったことを日本はやろうとしているわけで、だからこそ米欧などの了解を広く得られている。それが今になっても納得を得られない ― どうしても残る一部の反対は、利害関係上、仕方がないことだが。不思議だ。


これはもう、ちょっと考えるだけでも解決に必要な道筋の察しがつく問題で、スケールを小さくすれば都道府県知事もこの程度の地元・関係者対策は日常的に定石どおりに迷いなくやっているのではないだろうか。

だから、この問題がこれほど注目を浴び、しかも解決されていないかのような状況を呈するのは不可思議な話である。


要するに

そもそも事業者には前科があって、その資質には疑問符がついており、そのため安全だとする事前調査結果があるにもかかわらず、事業着手後の環境への懸念を払しょくできていない。

問題の構造は単純でよくあるケースだ。「科学的結論」が疑われているわけではない。だから政府と一緒になって「反対するのは非科学的である」と批判するのは筋が違う。そう感じられるのだ、な。

【加筆】2023-07-20、7-24

2023年7月17日月曜日

ホンノ一言: 「福一原発処理水の海洋放出」に反対する側にも三分か五分の理はある

岸田内閣の支持率が「ダダ下がり」していると報道しきり。広島サミットで一時盛り返したが、その後の「マイナカード問題」、「異次元少子化対策」、これに加えて最近は「福一原発処理水の海洋放出問題」で地元漁協、韓国野党勢力、中国北京政府の反対を説得できていない状況が加わった。この途中で「衆議院解散風」を無用に吹かせたのも何か真剣味のなさが伝わって来て支持率低下の要因になった。

まあ、数え上げれば

どれをとっても、これじゃあ支持されるはずがないヨネ

と、そんな情けない状況に(やはり)なってきた。うちにアンケート調査の電話がかかって来たら、もはや「不支持」の回答をするかもしれない。そんな気持ちになってきている。

「福一原発処理水」の海洋放出に北京政府が反対を続けているのは、日本人からみると強硬な対日外交戦略に見えないこともない。韓国の野党勢力が猛反対するのも文政権以来の反日傾向の表れであると、日本人には見えるだろう。

しかし、そう言い切ってしまうと、地元の福島県民はどうなのか?漁協が反対しているのはただ「当たり前」ということで済ませてよいのか。保障金や慰謝料を東電(⇒国?)が払えば問題はすべて自然解決されるのか?そもそも漁協以外の福島県の人たちは海洋放出に対してウェルカムなのか?そんなはずはないでしょう、と。地元の人たちの深層心理はそうそう単純なものではないように思われるのだ、な。ここをキチンと把握しておくことが肝心な点だと思う。

韓国野党系のハンギョレ新聞だが、いい記事を載せている。韓流ドラマを視ていると国民性が分かるが、韓国の人たちは物言いがストレートである。そこには当然「ウソ」が混じる事もあるが、理屈は(屁?)理屈として構築するので、此方も(屁?)理屈で応酬できる面白味がある。

その記事を読んで成程と感じたので、反対論の核心を小生なりにまとめてみた:

私たちは単なる反日感情から「原発汚染水」の海洋放出に反対しているのではない。

日本の国民も東日本大震災当時のことを思い出してほしい。原発事故が発生した当時、東京電力はメルトダウンの危機を直ちに政府に報告し、対応について指示を仰いだか?その時の菅直人首相はメルトダウンの危機を予想し、何度も東京電力にその可能性を問うたが、東京電力は真相を隠蔽し「大丈夫です」と言い続けた。深刻な危機を隠蔽しようとしたのである。その同じ会社が今また福一原発の後処理を担当して、今度は「処理水」と称して「汚染水」を海洋放出しようとしている。「科学的には安全です」と主張している。

私たちは東京電力が言っている「安全です」というその主張自体を信用できないのだ。 日本人はなぜ東京電力がやっていることを信用できるのだろう。

仮に東京電力の主張を私たちも信じて海洋放出を認めたとしよう。日本政府と同じ評価をするとしよう。しかし、もしも処理水の成分データが危険性を示唆する状況が訪れた場合。東京電力はその事実を隠そうとするのではないか?原発事故の当時、実際に東京電力は深刻な危機を隠蔽した。その以前にも、新潟柏崎原発でデータの不正な改ざんを行ったではないか。処理水についても同様のデータ改竄が行われないと何故信じられるのか?

東京電力の現場の職員達が経営上層部の意を受けて危険性を隠したり、データの不正改ざんで共謀すれば、日本の経済産業省や現場に駐在するというIEA(=国際エネルギー機関)を巧みに騙すことは容易である。

故に、「科学的に安全が保障されているから大丈夫です」という主張を信用することはできないのだ。そもそも信用できる体制になっていないではないか。

かなり小生の主観が混じった要約になっているが、主旨は概ねマッチしている(はずだ)。

地元の福島県民の深層心理もこれに近いものがあるような気もするので覚え書きにしておく。

東京電力という企業をどう処理するかという問題が「汚染水の処理」という問題に先立つ問題としてある。ロジックはこうなっている。そして、民主党政権を引き継いだ自民党政権は公的資金を注入して「東電を企業体として残す」という道筋を選んだ

このブログでも<東京電力 東電>でブログ内検索をかければ、何度も投稿をしてきたことが分かる。昨年の投稿でも

東京電力が原発施設を運営するのは、ほとんど「不可能」とは言えないまでも、国民の大多数が抱く強い拒絶感を政治家は無視できないのではないか?

こんなことを書いている。 北海道に住んでいる人間でもこう感じる。

現時点のデータはなるほど科学的安全性を保証しているのかもしれない。問題はデータ測定対象となっている原発施設を廃炉にする工事を進めている東京電力という民間企業を今後ずっと信用できるかということだ。

データ分析そのものではない。組織は信頼できるのか?

これが問題の本質だろう。

当事者が信用できるのかという不安は、科学を信頼しない幼稚な感情論とは別のものである。

盗人にも三分の理。だとすれば、反対論には五分の理があろう。

頭ごなしに否定するのではなく、真面目に対応するのが筋だと小生は思いますがネエ……。


2023年7月16日日曜日

断想: 「論争、イイんじゃない」。これもアメリカのメディアの変わらない長所?

日本にもかつて《論壇》というのがあって、例えば経済政策についても「高度成長派 vs 安定成長派」が激論を繰り広げた。それより前には、戦後早々の日本経済を前提に(確か)「貿易派 vs 開発派」の対立があった — この論争はかなり昔になり最近話題になることも少ないので語句については記憶が正確でないかもしれない。

「論争」は最近においても10年ほど前までは盛んだった。金融政策をめぐる「リフレ派 vs 反リフレ派」などは代表例の一つである。更に前には、タイトルからして挑戦的であった竹森俊平『経済論戦は甦る』がベストセラーの一角を占めた。不良債権問題で動揺していた2002年に出版された版を読んだと思うのだが、リーマン危機が迫った2007年刊行版もあるようだ。この時は、デフレ脱却 ― というより構造不況というべきであったが ― シュンペーター的な「清算主義」で進めるか、ケインズ主義で進めるか、この二つの路線対立が議論されていた。

将来は一寸先が闇であるから、とるべき経済政策について路線対立があるのは当たり前であって、それでも民主的な意思決定を繰り返しつつ、いずれかの路線を選択するわけで、具体的な政策の選択の背後には、特定の政策理念の採用が隠れているものだ。

かつては、そんな学問的論争が盛んに繰り広げられていたのを今になって思いだす。

確かに、口先だけの学問論争は無益に見える。しかし、だからと言って学問とは無縁の寡黙な政治家が何かの政策に政治家生命をかけて何かを断行する場合でも、その政策が真に独創的であることはなく、実はある時代に流行った誰かの政策理念をつまみ食いしていることが常なのであるというのはケインズが言ったことである。だから、普通の人が論争のアウトラインをメディアを通して少しでも目にしたり、耳にしておくことは、インチキでいかがわしい政策を見分ける基礎知識になるというものだろう。

その「政策論争」が、安倍一強時代が長期化する中で、政府批判となる学説を展開することに非常な勇気を要するような世相が醸し出されてしまったせいなのか、いま将来構想をめぐって、メディアも専門家も百家争鳴どころか、政策論争らしい論争がサッパリ広がらない。散発的に「提案」はあったりするが、言いっぱなし、提案しっぱなしでお茶を濁していると云うと言い過ぎになるのだろうか?

専門家と言っても、本音の部分では様々な意見を持っているはずであるのに、それを明言した時のハレーションを怖れ、口をつぐむ。語るとすれば、語るに足る人物・媒体・組織を選んでのみ語る。

結果として、論争が行われるべき状況であるのに、論争を行い得る人々が社会的反発を怖れ、結果として論争が行われず、そのため多くの人は知的刺激をうけることもなく、毎日を安穏に(?)過ごしていく・・・。もし、いまこうなりつつあるのでなければ幸いだ。

いまどの世界でも、社会全体が概ね1対4の割合で区分され、政策は上層部を構成する20パーセント程度の為政者・有権者集団で決定、実行される。何だかそんな社会に変わりつつあるのではないか・・・

そう思ったりしている折柄、パラパラとページをめくっていたウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』(訳:川北稔)の「将来の見通し」の中に《民主的ファシズム》という名称で、大体同じような方向性が(可能性の一つとして)挙げられているのには吃驚した。そこでは上層部20パーセントの内部では完全に平等な分配が行われる。残りの80パーセントは非武装の労働者プロレタリアートとして従属的な地位に固定される。

いや全く、怖い社会である。

時あたかも、というか絶好のタイミングで、Quoraに面白い質疑応答があった。

元はドイツ語の質疑応答なのだが、

ヨーロッパでいま人々の知能指数が急速に低下しているが、この原因は分かっているのでしょうか?

こんな主旨の質問があって、小生は「幼稚化という現象は先進国共通のようだネエ…」と感じ入ったのだが、この質問に対する回答がまた様々でありながら「生活環境の変化」に原因を求めるのは同じであるようだ — 遺伝子レベルで馬鹿になりつつあるわけではないということだ。これもまた一つの仮説だと小生は思うが。

たとえば、読書量の減少、オンラインの浸透、栄養摂取(の偏り)、メディア(の知的影響)が挙げられている。この回答者は、確かに後世代よりは前世代のほうが知能レベルは高いようだという感触をもっていて、これは例えば計算一つをとっても、筆算に頼っていたのが電卓やタブレットを利用するようになれば数字には弱くなるだろう等々、人間の知的能力を衰退させる「文明の利器」がそれだけ普及してきていることに言及している。

そして、とうとうChatGPTのような《生成AI》までが現れ、人間の思考のかなりの部分を代行してくれる時代がやってこようとしている。

多数の国民はこの波に飲み込まれ、ますます知的能力を低下させ、その幼稚化の度合いは加速するに違いない……、こんな未来予想図がかなり具体的になってきた。そんな感覚を覚えたのだ。

特にヨーロッパで生成AIに対する警戒感が強いのは、よく理解できるような気がするのである。何と言っても、健全な民主主義社会を維持するには、社会を構成する国民の大半が十分な知的能力を有していることが絶対に必要であるから。

こんな研究や問題意識は、いま日本社会にはあるのだろうか?ここでも「論争」をしてもおかしくはないだろう。

アメリカのメディア、学界はまだなお論争に対していささかも臆病ではない。

先日もKrugmanがこんなコラム記事をNYTに載せている。

In 2021, as inflation took off, the big debate was between Team Transitory — which argued that we were mostly seeing temporary disruptions from the Covid-19 pandemic, which would fade away over time — and Team Permanent, which placed the main blame for inflation on the combination of large government spending and low interest rates. I was on Team Transitory, but as inflation went far higher for far longer than I had imagined possible, I admitted that I got it wrong.

Source: The New York Times, 2023-07-14

URL:  https://www.nytimes.com/2023/07/14/opinion/inflation-economists-soft-landing.html

まず今回のインフレは一過性であると判断したのは自分の誤りであると明言している。主たる論敵はSummersである。

その後から

 By the summer of 2022, however, a new dispute had erupted. This pitted what we might call Team Soft Landing against Team Stagflation. Team Stagflation argued that getting inflation down would require years of high unemployment, just as it had in the 1980s. 

論争は第2ラウンドに入った、と。今度は、景気後退を覚悟するべきと言うハード・ランディング派と景気後退なしにインフレ収束が可能だとするソフト・ランディング派の対立であるという。

この(当面の)決着として

By and large, indicators of underlying inflation suggest that it’s still running above the Fed’s target, but it has come down a lot, with no cost at all in higher unemployment. Team Stagflation was wrong.

経済データを見る限り、今回の論争はKrugman側の方に分がある、と。

KrugmanもSummersもノーベル賞を既に受賞したか、受賞していてもよいほどのBig Nameだ。だから論争も中身があって実証的である。


他方・・・、

先日の経済財政諮問会議で清滝信宏氏が 「1%以下の金利でなければ採算が取れないような投資をいくらしても、経済は成長しない」という主旨の意見を述べてメディアもこれを話題にした。日銀総裁の植田和男氏も同席していたが、清滝教授の意見は植田総裁が日銀総裁に就任後に発言してきた政策判断とは相いれない。つまり論争の好機である。

にもかかわらず、日本のメディアはこの意見対立を深追いはしない。ご当人二人が気まずいというなら、それぞれのシンパである若手経済学者が丁々発止、論争してもプラスにはなれ、マイナスになるはずがない。

物事を荒立てない姿勢は、時によりけりで、だから日本は停滞するとまで言うつもりはないが、ちょっと臆病過ぎないかと思う訳で。


アメリカでは《論壇》なるものが今も機能しているのに比べると、日本の停滞ブリは仕方がないのかも。アメリカは一軍、日本は二軍と割り切れば、アメリカが舞台で、日本はファームだ。アメリカを舞台に英語でやりあってこその一軍だ。日本社会が静かなのはファイターズの鎌ヶ谷スタジアムが静かであるのと同じでしょ、と。何だかそんな風にも思われるのだ、な。今日もこんな徒然の一日であります。



2023年7月13日木曜日

断想: 漱石の次は、森鴎外の「選挙」観、「民主主義」観

森鴎外は明治の文豪の一人だ。だから《民主主義》という価値観を持っていなかったとしても、それ自体は当たり前である。この辺の事情は夏目漱石が《投票》という決定方式に深い疑問を抱いていたことと同じ根っこから発している ― この点は少し前に投稿した。というか、明治以前の日本と明治の立憲君主体制しか知らない鴎外・漱石にとって《民主主義・日本》は想像の外にあったはずである。

その鴎外が陸軍を退職して翌年の大正7年に再就職したポストが帝室博物館総長である。奈良・正倉院の収蔵品虫干しが毎年夏から秋にかけて行われるのでそれに立ち会うのが職務になった。大正7年から5年間、鴎外は毎年奈良を訪れ、その間に詠んだ作品が『奈良五十首』となって残っている。

廬舎那仏 仰ぎて見れば あまたたび

  継がれし首の 安げなるかな

正倉院は東大寺境内にある ― 本来は「正倉」は普通名詞で、全国の寺院、公的機関に「正倉」があったが現在は東大寺に配置されたものだけが残っているということのようだ。上の作品は、奈良の大仏が何度も戦火に遭い何度も首が落ちては修復されてきた来歴を思い起こして出来たのだろう。

『奈良五十首』の中には、意外に政治経済に関する歌も多い。例えば

宣伝は 人を酔はしむ 強いがたり

  同じことのみ くり返しつつ

「強いがたり」というのは「強い語り」で、押し売りに来られるのと同じ感覚で閉口し、迷惑しているものの、何だか(酒を飲んだように)酩酊させられてしまうような感覚がこめられている。

上の短歌からも窺われるが、大正7年と言うと「普通選挙導入」を求める民衆(?)の声が高まっていた頃である。小生は近代日本史が専門ではないが、明治10年前後の自由民権運動(=国会開設要望)と大正時代に広まった普通選挙要望(←大正デモクラシー)は、近代日本の二大民衆運動と思っている。自由民権運動に対しては明治政府が老獪に対応したが、普通選挙運動への対応は後になってみると極めて稚拙だったと感じている。鴎外も

ひたすらに 普通選挙の 諸刃をや

  奇しき剣と とふとびけらし

普通選挙がまるで政治的な魔法の剣であるかのように尊ばれているが、これは諸刃の剣であり、日本社会が良い方向へ向かう好機になるのか、悪い方向へ導く落とし穴になるか、分かったものではない、と。そう心配している。

貪欲の さけびはここに 帝王の

  あまた眠れる 土をとよもす

奈良には多くの天皇が眠っている。その奈良においても、政治的権力を求めてやまない一部民衆の政治的貪欲さが、奈良の大地をゆるがしている。明治の人・鴎外がいわゆる「大正デモクラシー」の世の中にどんな感想をもっていたか、偲ばれるではないか。

思うのだが、企業経営者の強欲が非難されることは数多いが、民主主義社会で権力を欲して政治を志す人たちの政治的貪欲が非難されることは少ない。それは矛盾しているという問題意識はもっとあってよい。金銭欲、権力欲、名誉欲、すべて我執であって根は同じである。金銭欲は下賤な民の本性だが、民主主義社会で権力欲や名誉欲を満たす選良は高尚な指導者であるなどという理屈があるはずはない。主観的に言えば、目クソ鼻クソのレベルである。

以上、先日月参りにきた住職が置いていった広報誌に載っていた記事である。こんな記事を載せるのは、中々の選択眼だと思ったので覚え書きとした次第。

*~*~*~*

女性の参政権実現にまでは至らなかったが、大正も終わる14年になって日本で普通選挙が導入された。

しかしながら、その後の日本の政治的混乱ぶりは中学・高校の日本史教科書を読んでも明らかで誰でも知っているだろう。普通選挙導入から10年ほどが経過する間、政界スキャンダルと暗殺事件が相次ぎ、日本人は既存政党への信頼を失い、消去法として軍部主導の「国民精神総動員運動」に同意し、国民自らが協力することになった。

日本は自らの意思と選択で西洋的な民主主義モデル社会を築くことを諦めたとも言え、国民多数のそんな心理がそのまま政治へ映し出される、というか「それが善いのだ」と考える所に日本の「民主主義思想」の怖さがある。戦争は結果の一つであったというのが小生の歴史観だ。西洋で生まれた統治ツールが日本に来れば何でも日本化されてしまうのである。

戦後日本の民主主義は誕生の経緯をみると(細かな事実を挙げようとすれば挙げられるにせよ)「アメリカ製」である。日本社会の上層部から観れば意図に反する変革だった(はずだ)。しかし庶民から観れば贈り物であった(のだろう)。社会的な混乱を招くことなく日本社会に定着した。戦後日本には戦後日本の良さが確かにあったからだ―これも最近になって投稿したことがある。

しかし、この時の上下の間の意識の捻じれが日本社会には尾を引いて残っている。そう感じることがまま多い。決して「世代対立」などという次元の話しではない(と観ている)。


漱石や鴎外の作品は今でも学校課題図書に選ばれることが多いのだが、二人とも(というより、同時代の大半の文化人もそうだと思うが)根底にある社会観は現代日本人と大きく違っている。真の意味で、作品を理解できるのか、共感できるものなのか?そんな疑問もある。

マア、現代日本人がいま『源氏物語』を読んでも十分に感動できる。『徒然草』や『方丈記』の著者がもっている日本的感性には共感できる。日本人の国民性や人間性は意外と変化していないからでもある。そう考えればイイと言うことだろう。だとすれば、欧米風の民主主義憲法と法の支配が日本人の感性にマッチしているのかという疑問も出てくるのだが、それはまた別の話しで。


2023年7月10日月曜日

ホンノ一言: アメリカのインフレをどう見るか?単純には結論が出せない

 夏を迎えて世界の景気は、アメリカを初めとして、予想以上に根強いという強気の見方が広まりつつあるようだ。実際、OECDが公表している景気先行指数(Leading Economic Indicator)でG7諸国全体の動向を観てみると、下のグラフのようになっていて、足元では景気の《底打ち感》が明瞭にみてとれる。

URL:  https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/get_draw_oecd_lei/

景気の根強さが強調される目線は、インフレがそれだけ根強く、「粘着的(Sticky)」である点を強調する目線につながってくる。


アメリカで公表される色々な経済指標が、良ければ金利先高観を刺激して株価は下がる、景気指標が悪ければ金利頭打ち感が台頭して株価は上がる、FRBと投資家とのこんな奇妙で逆説的な相互関係がもう1年程も続いている ― これもコロナ禍後のインフレを一過性であるとミスジャッジし、そうではないと認識するや慌てふためくように攻撃的金利引き上げを続けてきたFRBがもたらした情況である。

そのアメリカのインフレ動向だが、先ずは消費者物価指数が注目される指標である。ところが、何度も投稿しているように、消費者物価指数と言う統計データのどこを参照するかで、インフレ動向判断は分かれるのである。

政策当局は、コアインフレ率やコア・コアインフレ率などその場、その場で使い分けているが、小生は「物価」というからには全商品を含めた「総合」で見るのが当たり前だと考えている。
全体としては物価上昇は落ち着きつつありますが、これ、これの商品がまだ上がっていますから、インフレは落ち着いていないと言うべきでしょう。
という発想を煎じ詰めると、思い切って単品だけとって「BigMac」の価格だけ調べてインフレかどうかを判断すればイイんじゃない?そんな過激派のデータ観もありうるわけだ。実際、物価の高低についてBigMac指数が国際比較でよく利用されている。

食品やエネルギーなどノイジーな要素が混在するからコア・インフレ率をみるのだと説明されているが、ノイジーな成分は統計的に処理すればよいだけの話しである。


実際、消費者物価総合のデータ系列をSTLで成分分解してトレンドだけを抽出すると、直近の5月時点において前月比上昇率の年率換算は2パーセントを割り込んでいるということを最近何度か投稿してきたわけだ。



つまり、足元の物価上昇ペースが今後1年間続くと、いずれ消費者物価指数の総合値は前年比で2パーセントを下回ることになり、引き締めすぎになる。そんな状況に今はあることをデータは示している。

ところが、同じ年率系列を6月以降の12か月についてARIMAモデルによって将来予測すると、下図のようになる ― 最適モデルはAICcで選択した。


同じデータに基づきながら、この先1年間の将来予測を行うと
あと1年経っても前月比の年率換算値はターゲットである2パーセントに収束しない確率が高い。前年比2パーセントに戻るのは前途遼遠だ。
こんな結論になる。これをもって、現在のインフレは非常に粘着性がある。そのStickinessの証拠が上の予測計算である、と。極めて標準的な予測技法であるこの結果も当局部内の検討の場には配布されている可能性が高い。

つまり、同じデータを用いるとしても、統計的手法によって現時点のインフレをどう予測するべきか、どう評価するべきかで、判断が分かれてくる。

雇用は予想よりは弱めだが、失業率は強めに出ている、等々。強めに出る経済指標と弱めに出る経済指標とでバラツキが拡大していて、全体判断が難しい。これが現在の経済状況で、明の部分と暗の部分が混じりあっているというのが、リアリティに沿った認識なのだろう。

こうした場合には、様々のリスクがある中で、最悪の事態を避けるというミニマックス戦略がとられるのだろうが、このステージになると何を最重要視するかで米政策当局の内部で合意などはないと観ているし、合意などはないという事情は日本も同じだろうと思う。

だから政治の最高責任者の個人的才能は極めて重要である、という結論になる。






2023年7月9日日曜日

断想: 「宗教被害者」を社会は救えるのか?

今日の標題は、小生の感覚では、矛盾に満ちているのだが、日経に面白い記事があったので本日の主題に選んだ。

以前にも何度か投稿したのだが、19世紀は「科学の世紀」、20世紀が「戦争の世紀」だとすると、21世紀は予想に反して「宗教の世紀」になるのではないかと、(今は京都に帰ってしまったが)大学で親しかった同僚とよく話したものである。

実際、この本ブログでも<宗教 時代>でブログ内検索をかけると、結構な数の投稿歴が出てくる。

本日の日経だが安倍元首相の一周忌に合わせての記事だろうか、「宗教二世」の苦悩について記されている。

「教団の集会中に手遊びをしていると服を脱がされ、父に革のベルトでムチ打ちされた」。ある宗教団体の「3世信者」として育った夏野ななさん(仮名、30代)が幼少期の体験を明かす。……

祖父母や両親が信者の家庭に生まれ、集会には幼い頃から週3回ほど出席するように。「世間の悪い影響を受ける」との理由で幼稚園や保育園には通わせてもらえず、教義に沿わない学校行事は参加が制限された。警察へ事情を訴えても家に送り返されるだけだった。

その後、「逃げ出したい一心」で教団と家族から離れた。今年4月、宗教による児童虐待防止を目指す一般社団法人「スノードロップ」を発足させた。

Source:日本経済新聞、7月9日朝刊

URL:https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20230709&ng=DGKKZO72609420Y3A700C2CM0000

一口に「研究」と言っても、色々な度合いがあって、研究者は千差万別である。研究に没頭して家族を省みない人もいれば、家族との触れ合いを大事にして毎日定時に帰宅する人もいる。そして、一流の成果を出すのはほぼ確実に研究に没頭する人である。その研究者の家族が「ネグレクトの苦悩」を訴えるとして、社会の側は何か言えることがあるのだろうか?

宗教的な信仰活動も「熱心」と「狂信」の違いがある。おそらく「薄信」、「浅信」に止まれば、その人の信仰が家族に及ぼす苦痛はゼロに近いだろう。

何ごとも中庸が大事であるのは永遠の真理だと思うが、全てに中庸ということは、本気になって取り組む人生の目的を持たないということではないか。

自分の道を歩むという気持ちは、大なり小なり、配偶者を巻き添えにし、友人の人生も左右するものだろう。

小生は、好きな事を好きなようにやってきただけであるが、そんな小生について来たカミさんは、よくぞ着いてきてくれたものヨと、この歳になって感動、というより呆れる気持ちすら持っている。

小生: おれのどこが良くて、一緒について来たんだよ?

カミさん: 途中で引返せないでしょ!

小生: よかったのか?

カミさん: しょうがないじゃない。

小生: 迷惑をかけたな。

こんなヤリトリをどこかの時点でするのではないかと予想しているのだ。カミさんが「ずっと辛かった」と訴えれば、小生にも落ち度はある。そう思っているのである。

こんな問題意識を持っているので、上の記事を読んで思い出すのは「マゾとサド」という言葉である。

自分独りが修行するにも「苦痛」を耐え忍ぶ荒修業がある。その苦痛は大悟に至る道筋にあると思えばこそ意義があると本人は考えている。自分にとって善かれと思ってやっていることを家族にも奨め共にやろうとするのは時代を超えて普遍的に行われていることである。そんな中で、理解できず苦痛ばかりを感ずる子供たちは「虐待」されているという判定になるのか?

まあ、なるのだろうなあと、今は思うのだが、では家族は独りで荒修業をする人には付き合わず、分からないものは分からないと突き放すのがよいのか、そんな愚かな事は止めるように説得する方がよいのか。何をすれば正しいのかを直ちに断言する理屈はないと思うがどうだろうか。

親鸞が『歎異抄」でも語っているように、人間は状況に応じて何でも行ってしまう存在なのである。苦痛を耐えることは愚かとか、苦痛を与えるのは悪であるとか、そんなヒューマニスティックな言明で割り切れるものではない。

検索結果の中には、こんな風に述べている投稿もある。

つまり、(宗派によらず)宗教に関連した事件、変事を防ぐには、不安をなくし希望に満ちた活力ある社会にするのがオーソドックスな近道である。真っ当なメディア企業なら、真にプラスになる情報を提供することに努力してほしいものだ。これが本日2番目の話題の結論であると言ってもいい。

時代を問わず、国を問わず、西洋でも東洋でも財政破綻、政治不安、宗教組織の拡大は三位一体で見られ、同じ現象は幾度も繰り返され、中国では王朝交代にもつながることが多い。

しかしながら、別の投稿ではこんなことも述べている。

 世界戦略を語ることのできる組織が、21世紀のMain Playerである。メガ企業、メガ宗教、メガ団体、メガ学会 ……、そして国家と国際機関がそうだ。

領土に固執する国家が、カネを蓄積する組織に優位性を奪われるとき、どんな世界が到来するのか?迷える子羊の尊厳は宗教団体が最後には守れるものなのか?神の代理人と財産権の神聖とはどちらが上なのか?全く、分からないねえ、見当もつかない。

21世紀の社会は、これらの大組織の力の均衡で決まると見ている。<階級闘争>の理念は、国民国家中心の歴史観に穴をあけたかにみえたが、共産主義の世界性を信じる者は誰もいなくなった。ヘーゲルの云う<世界精神>とはどこにいったのか?ポスト共産主義を担うにたる理念が登場するまでは、Nation Stateが、他の価値尺度と衝突しながら、人間社会の有り様を決めるだろう。

宗教や信仰について投稿する時は、どれも長い文章になっている。書いているうちに、ああも書ける、こうも書ける、ということなのだろう。

社会で繰り広げられている宗教や信仰の自由に関する論議が、一つの方向に収束しないのは、当たり前のことである。

そうは言っても、片を付けないと日本は前に進んでいけないですヨネ

などと言う御仁は、よほどお目出度い人で、もしもこのタイプの方が太平洋戦争末期に暮らしていれば、

そうは言っても、勝てる努力をしなければどうにもなりませんヨネ。今はいま出来ることをしましょうヨ。

そんな正論風のことを語っているに違いない。

数学にも証明不能の命題が存在することが分かっている。まして「社会」に関連する問題の中には「解答不能」の問題が多々あるのだと思っている。

2023年7月6日木曜日

断想: ブラック寸評を幾つか

閉塞感が高まるとブラック寸評をして憂さを晴らすのも一法だ。江戸時代の狂歌、川柳も一つの形である。今日はこれまで思いついたのを幾つか。とりあえず話題性のある政治家に限定してメモすると:


プーチン大統領:

スパイ出身の人だからか、暗殺・毒殺は得手だとお見受けするが、規模の大きい戦争は苦手と見える。千人程度の部隊なら動かせるだろうか。

習近平:

純粋でクソ真面目な共産主義者なのだろうナア……中国共産党員1億の指導者でありたいと願うヒト。

トランプ元大統領:

大金持ちの孤独でさびしい老人だが勘ピューター政治家を続けるのが最大の暇つぶし。

バイデン大統領:

トランプの天敵。

岸田現首相:

小生は学歴主義者ではないが、学歴からある程度見えてくるような印象の方。

安倍晋三元首相:

トップ営業がものをいう外交は得意だとお見受けしていたが、時間をかけて末端まで動かす感染症対策や地道な産業政策を進めるのは苦手であったのでは。百人程度のタスクフォースなら動かせるか。

河野太郎デ相:

やはり政治家一家ご出身のエリート政治家であるからか、突破力とはいえ声の届く範囲でのみ有効とお見受けする。1学級位なら声が届くだろうか。

加藤勝信厚労相:

麻雀に負けないコツは強い奴を避け弱いやつを相手にすることであるという戦術を忠実に実行するようなお方。

西村康稔経産相:

コロナ禍で大変な時期、西村康稔さん・加藤勝信さん・田村憲久さんのお三方をウチのカミさんは「無能三人衆」と呼んでいた。それは酷いと言ったが、仕方がないとも思われるお方。

やはり『三つ子の魂、百まで』と言うことか。


何だか日本人は、関羽や張飛か、でなければ項羽のような現場のヒーローを喜ぶ傾向がある。源義経を贔屓にする心情もその一環。「兵隊の位で言えば」現場の中隊長か、せいぜい連隊長か…戦略よりは戦術レベルの人材である。

社会レベルで大きな政策を実行するには大きな資源を投入して大きな組織を動かさなければ結果が出ない。ユックリとしか方向転換は出来ない。

名将・韓信は、自らが戦闘現場に出ることはなく、考えながら観ていたわけである。その韓信は兵数については『多々益々弁ず』と言った。百万の大軍を運用できる人材はこのタイプだ。


「今の人」は、『三国志』や『水滸伝』などは読まないし、山岡荘八の『徳川家康』など存在をすら知らないかも。司馬遼太郎など馬鹿にして手に取ろうともしないのだろうネエ・・・しかし、司馬作品が売れなくなるにつれて日本社会から人物が枯れ果てていったんじゃないのですか?

いま売れている娯楽小説は、大体がキャラの立ったヒーローが右も左もぶっ飛ばせとばかりに活躍するお話しだ。

世相は変わった。

そんな風にも思われる今日この頃であります。

2023年7月5日水曜日

ホンノ一言: 「今のネット ≒ 昔のスポーツ紙」の証拠?

今となっては昔、というとまるで『今昔物語』であるが、中国との交流が目立った奈良時代に比べると、その後の平安時代は唐王朝の衰退、滅亡、朝鮮半島の新羅滅亡という国際環境の激変もあって、それまでの開放体制への反動が進んだ。政体としては天皇絶対から臣下・藤原氏が実権を握る摂関政治へと変容したのが平安時代であり、そこで花を開いたのが所謂「国風文化」である。

外国に対して開放的で良いモノをとり入れようとする時代と、国内事情を優先して閉鎖的になる時代と、交互に激しく振れ動くというのが日本という島国のお国柄である。

だから「今は昔」という枕詞が時代の移り変りと世相の変化を伝えるのに非常に効果的なのである。

今は昔、電車で通勤している車中では、あの人もこの人も新聞を広げて読んでいたものだ。立っている人も、紙面を4分の1にたたんで頑張って読んでいた。勉強というより、暇つぶしであったのだ、な。今は、新聞の代わりにスマホを視ている人がほとんどだ。

ところが、昔の電車の中で読まれていた新聞はというと、確かに朝・毎・読の大手、日経、産経もあったが、多くの人はスポーツ紙を読んでいたものだ。「スポニチ」、「報知」、「日刊スポーツ」といった辺りで、これらの新聞は今もなお続いているが、記事を掲載する媒体は紙からネットへと経営の軸足を移しつつあるようだ。

ネットをみていて「オッ!」と目を引くヘッドラインがあると、それは上のどれかのスポーツ紙の記事であったりする。

最近も投稿したが、昔のスポーツ紙が果たしていた役割と、いまネット記事が果たしつつある役割は、ほとんど同じではないか。そう感じているのだ。

そして、いま民放テレビ局の稼ぎ頭(?)になったワイドショーもどこか昔のスポーツ紙を思わせるような編集スタイルになりつつある。

いや、ワイドショーの話しは本題ではない。

実はこんな記事があった。

政府が来年度予算を編成する前に決定する《骨太の方針》という文書についてである。このネーミングが「古い」というのが主旨で、ま、それだけの事でもある。

ちょっと長くなるが引用してみよう。まず質問がある:

・・・そもそもこの「骨太の方針」とはいったい、どういうものなのでしょうか?(20代・男性・会社員)

これに対して

 そもそも今から22年前に始まったものですから、若い人にはピンと来ないネーミングですよね。その通称を惰性で使い続けているから、こういう質問が出るのです。

 正式名称は「経済財政運営と改革の基本方針」といいます。小泉純一郎内閣時代の2001年度に始まりました。それまでの政府の方針は、霞が関の各官庁がバラバラに立案しているという批判があったことから、小泉内閣の前の森喜朗内閣時代に「官邸主導」を示すために首相が議長を務める「経済財政諮問会議」を設立し、翌年度の予算編成の方向性を示すことになりました。

 毎年6月に方針を作り、各省庁は、この方針にもとづいて夏頃に予算案を策定することになっています。

 この会議ができた当初、かつて総理大臣まで務めた宮澤喜一氏が異例の財務大臣に就任していて、この方針のことを「骨太」と自画自賛したことから「骨太の方針」という通称が誕生しました。

 政府の自画自賛の通称を漫然と使い続けていていいのか、という批判も出そうですね。

URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/3324e470db35a79b22c3b7e03f20186a8ece5323 

今日のYahoo!ニュースである。

これを読んで小生は思わず「ンっ!」と声が出てしまいました。「違和感がある」というヤツです。 何だか森内閣が勝手に「経済財政諮問会議」なる会議を設け、自分が議長になった、と(森さんならやりそうだ?)。そして時の宮沢財務相が「経済財政運営と改革の基本方針」のことを「骨太の方針」と呼んだことから今に至る、と(宮沢さんなら言いそうだ?)。

何だか森首相と宮沢財務相が勝手にやったことだ、と。そんな風にも読めてしまう。が、上の回答の仕方は完全な(ほぼ完全なという方がフェアかもしれませんが)間違いであるのだ、な。

疑問があれば、本式に調べる前に先ずはWikipediaで検索するとよい。Wikipediaは必ずしも公式にオーソライズされてはいないが、信頼度については

先月のIPO以来、新ビリオネアとしてアメリカで話題になっているルミナー社(自律走行車のセンサー開発)の25歳CEO、オースティン・ラッセル氏も「自分の知識はウィキペディアとユーチューブから」と発言するなど、デジタルネイティブのZ世代には、情報を獲得するにあたり、ひじょうに大きな存在となっている。

ウィキペディアも「信頼できる情報源」を目指し、開始以来さまざまな改良を重ねてきた。その結果、誕生から20年にして「オンライン上で最も安全な場所として認められつつある」とワシントンポスト紙が報じた。

 URL:https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/01/20-83.php

2021年1月21日時点のNewsweek記事である。こんな総括があるわけで、どう評価するかは人それぞれではあるが、総じていうと営利企業である「マスメディア」よりは信頼されているのではないかという感触を小生はもっている。

そのWikipediaで<経済財政諮問会議>を検索すると、

経済財政諮問会議(けいざいざいせいしもんかいぎ、英語: Council on Economic and Fiscal Policy)は、日本の内閣府に設置されている「重要政策に関する会議」の一つである。設置根拠は内閣府設置法第18条。内閣総理大臣の諮問を受けて、経済財政政策に関する重要事項について調査審議する。橋本行革による2001年1月の中央省庁再編によって設置された。モデルは米国の経済諮問委員会。

橋本龍太郎内閣による《橋本行革》の一環として設けられたとチャンと説明されている。ちなみに、この経済財政諮問会議の事務局になったのが、『経済白書』、『月例経済報告』などを通して景気判断、経済分析を公表してきた「経済企画庁」という官庁で、橋本行革を機に組織としては閉鎖された ― 機能は一部分、たとえば「白書」、「経済報告」、「GDP統計」、「景気動向指数」などは新組織の中に継承されているが。

森内閣の時に出来たという説明は、偶々そんなめぐり合わせになったということでしょう、と。偶然ですヨ、偶然。そんな突っ込みがあって可笑しくはない。

それで、「骨太の方針」と言ったのは宮澤喜一財務相だというのは、正直、よく調べましたネエ。私は知りませんでしたヨという印象なのだが、その名称をまだ使っているのは、これぞ正に官僚の前例墨守主義でありんしょう。そう感じる次第。枝葉末節です。


『どのスポーツ紙だ、こんな説明を書くのは?」と思ったら、「文春」であった。

吃驚したが、「やっぱりネエ」という感覚もある。今は文春が昔のスポーツ紙の役割を担いつつあるのか……、となると

どうやら『文春』が出す記事も

ホント半分、ウソ半分

そんな気構えで読む方が安全なようである。


今日は別の話題、森鴎外の『奈良五十首』についてメモを書こうと思っていたが、たまたま上の記事が目に入ったので、予定変更、今日の標題にした次第。

2023年7月2日日曜日

断想:「人生を変えた一冊」はないが「寄り添ってくれた作品」ならある

よく「人生を変えた一冊」などというタイトルで何人もの「有識者」が寄稿したりする特集がある。若い時分にはそんな「一冊」が小生にはないことに引け目を感じたりすることもあって、意識して「素晴らしい文学作品」に巡り会おうと「努力」した時期もあったが、長い時間が経ったいま思い返してみれば馬鹿々々しいことをしたものだと思う ― 純粋な徒労こそが打算とは区別される真の努力であるという考え方もあるが。

ただ人生を変えたというより寄り添ってくれた作品はあって、一つは三好達治全集であり、もう一つは高村光太郎の詩集である。高村光太郎の詩というと、国語の教科書に『道程』が載っていることが多いので、知らない人は少ないはずだ。が、教科書に載っている『道程』は元々の「道程」の最後の一節を抜き取ったもので元来は長詩として公表されたことを知る人は案外少ないかもしれず、小生が本当に好んでいるのは元来の『長詩 道程』の方である。こちらは青空文庫にあるので読むのは簡単である。

この作品の書き出し10行だけで、やりたいことをやりたい様にやってきただけの人生を過ごしてきた小生には癒しになった。

どこかに通じてる大道を僕は歩いてゐるのぢやない

僕の前に道はない

僕の後ろに道は出來る

道は僕のふみしだいて來た足あとだ

だから

道の最端にいつでも僕は立つてゐる

何といふ曲りくねり

迷ひまよつた道だらう

自墮落に消え滅びかけたあの道

絶望に閉ぢ込められたあの道

幼い苦惱にもみつぶされたあの道

ふり返つてみると

自分の道は戰慄に値ひする

四離滅裂な

又むざんな此の光景を見て

誰がこれを

生命 いのち の道と信ずるだらう

人生を変えた一冊ではないが、自分を救ってくれた一作品であるかもしれず、作家は既に亡くなっているのだが、こんな作品を遺してくれたことに小生は心から感謝している。

その高村光太郎は中々一筋縄でいかない人物であったことも多くの人は知らないかもしれない。

妻・智恵子との純愛は『智恵子抄』で明らかなのだが、青春時代の自堕落ぶりも上の『長詩 道程』に書かれてある通りだ。

ところが、Wikipediaで高村のエピソードを読むと、

ニューヨーク留学以前はユージン・サンドウが世に広めた「サンドウ式体操」で肉体を鍛えた。ニューヨーク留学時に通学した芸術学校のクラスメイトが頻繁に光太郎の作品に悪戯をした。これに光太郎は立腹したが、レスリング経験のある主犯格の男と教室を舞台に高村は柔道、相手の男はボクシングのスタイルで試合をすることとなった。光太郎はサンドウ式体操で鍛えた腕力で相手の男を締め上げ、それ以降クラスメイトからの悪戯はなくなった。晩年「作品への悪戯がなくなり幸いであった」と懐述している。

中々の武闘派でもあった人柄が偲ばれるわけだが、このエピソードからいま生きる人は何を受け止めればよいのだろう。

イジメられるのは弱いからである。強くなれば人生を変えることが出来る。強くなるには修行をして自分を鍛えなければならない。

前にも投稿したが、ゲーテが言ったように『知恵は静寂の中で、力は激流の中で』、ナポレオンと同じく(とはいえ、ドイツ語の教科書に掲載されていたのでオリジナルだったはずのフランス語ではないが)

Man muss stark sein, um gut sein zu können 

人が善であるためには強くなければならない

である。卑怯で陋劣な攻撃は本人(たち)の弱さ(の自覚?)に由来するのである、というロジックになる。強き者は善を志し、弱き者は図らずも悪を選び悪行を為す。だから『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』という弱者救済、他力思想の本質が『歎異抄』で出て来るのか……イヤイヤ、話しが逸れてしまった。

マ、こんな見方が合理性とヒューマニズムを盲目的に信仰する現代の理念と衝突することは承知しているが、要するにこういうことではないかとも思うわけで、「人間性」というのは古代から中世、近世、近代、現代に至るまで実は全体として同じである。だからこそ、今生きる人も古典を読んで感動するのである。小生はこう考える立場にいる。同じ人間性に基づきながら、特に近代において人間の善性を信頼するヒューマニズムが影響力を増してきたのは、外的な刺激要因があったからだ。それが、自然科学の発展と生活水準の向上であるのは否定し難く、これによって多数の人々が啓蒙の意義を評価し、合理性、平等、民主主義を求め始めたのが近代である。ただ、ここには過剰な理想主義が隠れていたのかもしれない。<ポスト・モダン>の21世紀を迎えたいま、理想は夢でしかなかった。人間性は同じであり、普遍的で、かつ劣悪なものである。そう感じる時がある……イヤイヤ、普段思っていることがあるせいか、又々話が逸れた。

ともかく、その高村も太平洋戦争中は戦意高揚のための努力を文人・芸術家の立場から大いに払ったのだが、戦後はその反省、贖罪感から岩手の山小屋で自炊生活を独り何年もおくったことは有名である。上の『長詩 道程』は、老いを迎えたその頃になって書かれた詩作品ではなく、大正3年、まだ27歳の時であった。つまり青春時代が終わろうとしている中で自らの「道程」を省みた思いがこめられているわけだ。高村という人は山坂の多い面倒な人生を歩んだ人物であったことが伝わって来るではないか。

【加筆】2023-07-03