2023年12月31日日曜日

断想: たかが会計、されど会計ということに尽きるはずだが

本年最後の投稿。

あまり明るい話題ではない。2023年という年は、コロナ禍は一段落し、株価も上がり盛況だったが、何だか意気が上がらない。変な一年であった。日本社会の基本構造に大規模欠陥箇所が確認され、その改造コストが無視できないレベルになると見通されているということか。

その一つ。

政治資金パーティによる裏金作りは、自民党安倍派ばかりではなく、他派閥でも横行していたというのでTVワイドショーでも年の瀬の大型ネタとして重宝されている。

世間の受けがよい意見であるが、小生にはピンと来ず、疑問に思う点を一つ。


ある中小都市の元市長が

キックバックが幾ら以上なら起訴し、それ未満なら起訴しないというのは可笑しいです。不正には変わらないのですから、捜査を徹底し、金額の多寡にかかわらず全員を起訴するべきです。

こう述べたところ、

その通り!もともと私はそう思っていました。不正は不正。額の多少じゃありません。

某レギュラー・コメンテーターが全面的に賛成です、と。

小生、ひっくり返りそうになりました。


同じ理屈を一貫させると

三人以上殺すと死刑になる、と。判例からそんな話があります。しかしネ、これは可笑しい。一人だろうと三人だろうと、殺人は殺人です。三人殺したから死刑なら、一人殺害の場合でも死刑にするのが順当です。一人ならイイという理屈は法律のどこにも書いていません。

こんな意見を述べなけりゃ理屈が通らない。問題が違うという御仁もいるかもしれないが、ロジックは同じだ。

更に、

意に反して人が殺されている事実に故意と過失に違いはありません。少なくとも遺族にとっては同じです。死んだ家族は戻らないんです。危険な速度で走行して、その結果、事故を起こし、人が死んだなら、殺人犯と同じです。死刑です。

そんな主張を展開することになりかねないのではないか?世の中、ひっくり返りますワナ。


そんな主張は誰もしない。刑罰の適用には色々な情状というのがあると誰もが承知しているからだ。一つ一つの不正や犯罪は、一人一人の人間と同じで、人が違えばみな違うものだ。要するに

一律にはいかない。

だから大陸欧州なら予審判事が起訴するかどうかを吟味し、英米なら大陪審か予備審問を行う。日本は予審がないので検察がそれをやっているわけだ。 

起訴法定主義なら予審で裁判の必要を吟味し、起訴便宜主義なら検察が起訴を検討し、起訴すれば裁判になる。刑事訴訟について国際比較でもすれば済む話しだ。今の法制度の検察を批判しても筋違いだと分からないとすれば、それ自体が不可思議。何か別の狙いがあるのだろう。


裁判にかける前に先ず事件を吟味するのは当たり前のことで、誰でも知っている事である。視聴者の方が賢いですゼ。

何度も投稿したが(例えばこれ)、まったくいつになっても、日本というお国は、

頑張る下とダメな上

そんなお国柄だ。

いま日本社会は、TV画面の中の三流専門家(?)を賢い庶民が面白がって視ている。そんな図式になっている……TV画面の向こうに一流の人物はまずいない。一流の人物はTV局の上層部の意向に従わないからだろう。これが邪推でないことを祈る。


まず先に、死刑とは何か、刑罰に死刑を設けるというのは何故か、要するにこういう問題を最初に考えないといけない ― ちなみに、小生は何度も投稿しているように、厳格な死刑廃止論者である。

政治資金も同じことだ。表か裏か、金額が〇〇超であるか否かではなく、政治資金とは何か、どう会計されるべき資金か?ここから固めておけば、後の議論が続く。そもそも、権力の座にいれば、贈収賄に巻き込まれがちで、意図することなく脱税を犯してしまうものなのだ。真の不正も混じるだろう。

会計を厳格にしておくのは、政治を守り、同時に政治にたずさわる「権力者」を守るためである。

全く同じだとは言わないが、国立大学教授が民間企業から研究費を受け入れ、それを黙っていれば、例え私的流用がなくとも「脱税」に認定される(はずだ)。必ず「奨学寄附金」として(企業側の手続きと相応して)学内手続きを済ませておく必要がある。研究資金というからには、当然、使途には制約がある。それでも、色々な事情があるのだろう、潜りで副業をしたり、潜りで金銭、資機材を受け入れたりする不祥事は大学内で発生しうる。

政治活動にも通じる話ではないか。機密費は機密費として認められているからそう計上しておけばいい。

目の前の問題が解答不能な難問に感じる原因は、ほとんどの場合、基礎をしっかり固めていないことにある。



2023年12月30日土曜日

覚え書: 三流の経営者が「選択と集中」を行ってきた悲劇ということか

ずっと以前、何年も前になるが、ある旧友と研究費の配分について議論したことがある。

旧友は、日本国内の研究費の配分は悪平等で、非戦略的、実に知恵のない方法で決められている。これでは研究成果に結びつくはずがない。大半の研究予算はドブに捨てられている。もっと《選択と集中》を徹底しなければならない。

こんな事を友人は主張したのだが、それに対して小生は

そもそも研究は砂漠で水脈を探すようなもので、あらかじめ水脈がありそうな区域が分かっているわけではない。分かっているなら、それは研究ではなく、ビジネスだ。所在不明の水脈を探すときに「選択と集中」などが有効とは思えない。

こんな反論をした記憶がある。

その後、同じテーマで論争をすることはなかったが、今でも小生は

純粋の研究費は、一様分布に沿って配分しても可である

そう考えている。 

もちろん結果の見込みがついているなら必要経費を割り振ってもよい。但し、こうした段階にある研究はもはやスタートアップを間近に控えたもので、アカデミックな研究というよりTechnology Licensing Organization(技術移転機関)に委ねるべき活動だ。

よく批判されているが、日本の大学間研究費分布は極端な少数集中型になっている。例えば、下の図を参照されたい。




URL: https://www.f.waseda.jp/atacke/kakenQA.htm

あからさまに言えば、日本においては東大、京大、東北大、阪大、名大に研究費の大半が集中して投下されている。

もちろん、東大、京大に研究予算が配分されても、その研究費を使える研究者が東大、京大所属の人だけに限定されるわけではない。研究チームに含まれる人は、学外の人材であっても研究には参加する。とはいえ、何を研究するか、どのような人材を研究チームに含めるかは、研究費を配分された大学に所属する人物が決定している(はずである)。

極端に言えば、日本におけるアカデミックな研究活動は東大・京大が主導していると言っても言い過ぎではないかもしれない。


上の図は、見ようによっては研究費総額に日米で大きな差があるため、日本においてはトップ層未満の大学に配分される研究予算が絶対的に乏しいのだ、と。大学間配分に問題があるのではなく、研究費総額が貧困であることが日本の学術分野の主たる問題である。そう考えることもできそうでもある。


しかし、個人的な感想だが、仮に日本で学術研究費総額が飛躍的にアップされるとしても、その時はその時で、研究費はやはりごく少数の大学に集中的に投下されるのではないか。即ち、上の図の赤い線がただ上方に平行移動するだけの結果になるのではないか。そんな風に観ているのだ。

かつて旧友が嘆いたような悪平等は日本の研究予算配分に認められない。むしろ事実は真逆なのである。

これは文科省(及び国内学術界?)が、研究活動においても「選択と集中」に徹しているということなのだろうか?それはメリハリのある、適切な方法なのだろうか?

上で書いた小生の発想に基づけば、純粋の研究にはなるべく一様に予算を散布し、見通しのついた研究は選択と集中で、ということになるロジックだが、そういうことか?

問いかけに全て回答しつくすのは難しいが、ビジネス分野に限っては手掛かりがある。

先日、読んでいたブログでこんな記事を見つけた。テーマは『日本の労働生産性はなぜ低いのか?』という問題である。

考えてみれば、初等中等段階の学力では先進国の中でも遜色のない日本人が、成長するに伴い劣化し、社会人になってからは低い労働生産性しか発揮できていないという現象は、不思議ではないか?

そんな問題意識から出発している。

この記事はこうまとめている:

公表されたリポートは、繰り返しになりますが、日本の人材の潜在的な優秀性を明らかにするものであり、企業部門において日本の労働力・人的資源を活かしきれていない実情を浮き彫りにしています。特に、イノベーション活動はひどい状況です。これは、いわゆる「選択と集中」の失敗によるものといわざるを得ません。選択先を失敗したわけではありません。逆に、イノベーションのためのは広くリソースを配分する必要があるのですが、成功しそうなところだけに集中的にリソースを配分しようとして失敗しているわけです。言葉を変えれば、「当たる宝くじを買う」ことを狙っているわけで、私には極めて非現実的な戦略に見えます。幅広い対象に向かって実施している教育と真逆の方向を志向するイノベーション戦略の転換も必要です。

上でいう「公表されたリポート」とは、日本生産性本部が本12月に公表した『生産性評価要因の国際比較』のことである。

日本の企業、つまり生産現場において、元々は能力のある労働資源を活用できていない。そんな実態を指摘している ― もっと前に指摘できなかったかネエ……。有効なイノベーションがほとんど実現できていない。これは、要するに《選択と集中》の失敗によるものだ。

こんな風に考察している。

そこから得られる一つの帰結は

凡人が行う選択と集中などが成果を生むはずがない。 

選択と集中は一流の人材が行ってこそ結果が出る。三流の人物が下手に選択し、集中を行うと、最悪の結果につながるものだ。

日本の企業経営では、往々にして人柄のよい人がトップ層を形成する。そんな人々が「選択と集中」を行うのは、実に危険な選択なのである。そして、それが「危険な選択」であることが分かってこなかったことこそ、この20年ないし30年間の日本の失敗である。

似たような論題は以前にも投稿したことがあるが、マ、(今更とも言えそうだが)当たり前すぎる事実だ。そう思われるのだ、な。



2023年12月26日火曜日

ホンノ一言: メディア報道にも「第三者による品質評価」が必要では

 少し前の投稿

2023年という年は《人権元年》と呼ばれるようになるかもしれない

と、こんな事を書いている。

実際、そうなるかもしれないし、ならないかもしれない。というのは、年の瀬になってから、自民党安倍派による政治資金パーティ裏金作りが露見して、そうかと思えばダイハツによる不正検査が暴露されたりと、人権というよりガバナンスの問題が次々に浮上したからだ。

であるので、

2023年という年は《人権元年》、もしくは《メディア崩塊の始まり》

ひょっとすると、こう予想しておく方が適切かもしれない。

政治資金裏金作りは、一介の大学教授が刑事告発する前に、大手メディア企業がスクープしておくべき事柄だった。油断というより、サラリーマン化してヤル気がなくなっているのだろう。

結局、日本国内のマスコミは、報道するべき事柄は報道せず、大した事ではない不祥事をネタにして無防備の個人を追い詰め、社会的制裁を加えて人権を侵害することを生業とするようになった ― 許認可に基づく寡占を公認されているTVメディアを想定して書いているのだが。

『味噌もクソも』という表現があるが、味噌・クソ混ぜこぜなら、まだ許せる。しかし大半はクソだという状態になれば、敢えてオカミ公認のビジネスにする必要もないだろう。これで信頼が崩壊しないなら、日本社会がどうかしている。

大雑把な筋道を書く。

(NHKを除く)地上波TVメディアとその他のメディアが担う報道機能には大きな違いがある。

TV以外の報道メディアの受益者は、情報の受取者であって、故に情報の信頼性に疑問符を感じれば、受け取り側が対価を支払わず、その情報を利用しないという選択肢をもつ。それが市場規律となって(最小限の?)報道品質を守らせる。

それに対して、TV企業が提供する(報道・情報を含めた)番組の受益者は、実はスポンサー企業であって、提供される情報の受取者ではない。TV企業が放送する報道番組は、スポンサー企業のプロモーションが目的であって、視聴者はプロモーションのターゲットとして認識されている。視聴率が参照されるのは、視聴者の満足を測定するためではなく、プロモーションが機能しているかどうかを測るのが目的だ。

そして、視聴率を上げるには、(以前にも投稿したことがあるが)歪みのある能力分布を前提すれば、平均未満の階層をターゲットにすれば母集団の過半数に対して遡及することができる。TV企業が放送する情報番組が、社会全体の平均に対して幼稚と思われる水準に近付くのは、必然的かつ合理的な帰結である。

メディア報道に対して視聴者側から批判の声が高まらないのはロジカルである。

もちろん、「こんな仮説とロジックが当てはまるのではないか」という推測である。

自民党も党改革に向けた検討会議を設けるようである。また「検討」かと呆れるというのが感想だが、問題意識をもっているだけまだマシであろう。日本国内のマスコミ界は、信頼崩塊の中にいるにもかかわらず、体質改善に向けて何のアクションも起こしていない。

例えば、大学では授業担当教官ごとに《自己評価》を行うとともに、受益者たる学生による《他者評価》を毎年行っている。何年に一度は《外部評価》も受けている。他教官による《相互評価》、《相互参観》もある。これらがどれだけ教育の品質向上に役立っているかを確言するのは難しいが、実証的分析には値するであろう。何にせよ活動と成果を結びつけるには客観的検証が不可欠だ。PDCAサイクルの狙いもここにある。

だとすれば、マスコミの報道品質について、《第三者による報道品質評価》をネット上で実施すれば良いのではないだろうか?対象は、メディア企業を評価単位としてもよいし、個々の報道番組、情報番組を評価対象にしてもよいだろう。

運営は、メディア業界と利害関係のない独立した消費者、企業、学界から選任し、消費者団体、教育界、財界、労働界などが寄付をして非営利団体を創設すればよい。

日本の経済活動の中で、民間企業は取引先や同業他社による厳しい目にさらされている。他方、政党や政治家は有権者の目を逃れがちであるし、官僚は政治家と国民をだますことが可能だ。同様に、メディアが提供する情報は、ドラマやバラエティなどとは異なり、現実社会をとりあげながら、自社都合に合うように内容を恣意的に編集する動機をもつ。

実際、オープンな場であるネット上の論調とメディア上の論調とが大きく乖離している話題は数多い。学界の専門家が疑問とする解説や報道も数多いようだ。

メディア報道にも《第三者による品質評価》を定期的に行うシステムが必要だ。

第三者による報道評価と人権擁護団体が連携して活動できれば、日本社会の風通しもずいぶん良くなるだろう。

2023年12月23日土曜日

覚え書: 運送にも人が足らないのに、国防に人が足りるわけないのでは

 最近の投稿で、

日本に足らないのは人手だけではない。電力(≒エネルギー)もまた恒常的に不足している。

こんな事をメモしている。世間では「足りない、足りない」とばかり話している様子なので、人だけではないということを言いたかったわけだ。

そうそう、足りないといえば、日本政府もまたカネ不足である。が、まあこちらは日本国としては資金余剰(=経常収支黒字)、つまりは貯蓄超過(=投資不足)であるので、それほどは心配は必要ない。

本日は、米紙のNYTが、先頃、至極ご尤もな指摘をしていたので、転載しておきたい。

Japan has committed to raising military spending to 2 percent of gross domestic product, or by about 60 percent, over the next five years, which would give it the third-largest defense budget in the world. It is rapidly acquiring Tomahawk missiles and has spent about $30 million on ballistic missile defense systems.

But as the population rapidly ages and shrinks — nearly a third of Japanese people are over 65, and births fell to a record low last year — experts worry that the military simply won’t be able to staff traditional fleets and squadrons.

The army, navy and air force have failed to reach recruitment targets for years, and the number of active personnel — about 247,000 — is nearly 10 percent lower than it was in 1990.

Source: The New York Times

Date:  Dec. 13, 2023

Author: Motoko Rich and Hikari Hida

URL: https://www.nytimes.com/2023/12/13/world/asia/japan-military.html

防衛予算(=国防費)を対GDP比で2パーセント水準まで拡大しようという、誰もが知っている話しである。

その財源をどうするかというので、いま岸田内閣は苦悩しているのであるが、上のNYT記事は、仮に財源が増税か何かで(その何かはないはずだが)見つかったとしても、もう日本には「使える人」がおらんでしょう、と。

高齢化と少子化に歯止めがかからず、国のために動く人は減り、国から面倒をみてもらおうと願う人ばかりが増えている。これが戦後約80年が過ぎた今の日本国である。

国防ばかりは移民に頼るわけにはいくまい。

国防予算拡大が絵に描いた餅にならないよう願う。

軍事と外交、経済のリバランスをもう一度よく考えた方がよいだろう。経済は《経国済民》、経済をしっかりと固め、次に外交へ、最後に軍事をどう用いるかを考えるのが自然な順序というものだろう ― 戦力不保持という憲法上の、というか法理的な問題解決は脇に置くとして。

2023年12月21日木曜日

覚え書: 自分がリベラルか、保守派か、どうでもいい事ではないのだろうか?

リベラルな意見を持つよりも先に『自分はリベラル派なのか?』とか、保守的な社会観を自分はもっていると自己認識する以前に『自分は保守派に属するのか?』といったような《帰属に関する懐疑》を自分で抱いては、《自分の居場所》について悩んでいる人が、この日本では意外と多いのかもしれない。

というのは、こんな記事がネットにはあるのだ、な。失礼の段は御寛恕賜るとして、一部を引用させてもらおう:

ちなみにリベラルの反対語は保守ではなく、権威主義です。今週、バイデン大統領がメキシコとの国境の壁の建設を再開させました。ついに公約を覆した理由は「想定以上の国境破りに手を焼いたから」とされます。この場合は不法越境者に穏便な態度を取ったことで「我も、我も」とアメリカ大陸のはるか南から何千キロも北上して藁をもつかもうとする難民に奇妙な期待感を提示したのです。結局、バイデン氏はギブアップして権威的に壁を作らざるを得なかったわけです。

対中国の外交姿勢はアメリカも日本もリベラルっぽいところと権威的なところの折衷です。日本の権威的な姿勢はアメリカに同調という名の服従型で同盟国内のリベラルとも言えなくはないでしょう。個人的に思うのはリベラルに走り過ぎるとグリップが効かなくなるのです。永遠に人の欲望を聞き続けなくてはなりません。アメリカの自動車業界のストライキもまだひと月はやるでしょう。その後も様々な産業で好き勝手な主張が出てくるはずです。組合が強いのはリベラル主流だともいえます。その点、日本は歴史的には結構、権威主義的な国です。

Source:あごら AGORA 言論プラットホーム

Author: 岡本裕明

URL:https://agora-web.jp/archives/231006215052.html


書かれてある内容は小生もまったくその通りだと思うが、なぜリベラルとか権威主義とか、そもそも社会に様々ある意見をクラスタリングした結果としてのグループ名が、これほど真剣に議論されるのだろうか?

個人個人のマチマチ、バラバラの意見の分布がまずあって、その後に主張や価値観の類似性に着目してグルーピングする。そうしたら、たまたま英単語の中の"Liberal"や"Conservative"というネーミングが偶々マッチする。そんなクラスター(=グループ)があります。それだけの意味しかないのではないか?

まして、自分が社会全体の中のどのクラスターに所属するかなど

あっしにゃあ、関わりのねえことでござんす

と、社会学者か政治学者か知らないが、そんな括り方には我関せずと、オトボケの姿勢を終始一貫保つとしても、何ら罪ではないのである。なのに単なるネーミングだけのグループ名を

なぜ気にする?

自分はリベラルであるのか、コンサバであるのか、自分の意見よりも先に自分の帰属先を気にする心理が小生には七不思議なのだ、な。まず先に企業なる存在がある就職活動じゃあないのだ。自分はどう感じ、どんな風に考えているか。自分の考えがまず先にある。それがリアリティである。各自、自由勝手のはずである。その自己自身というリアリティが、統計的仮構に過ぎないグループのいずれに属するかになぜこだわるのだろう?


経済学者のGregory Mankiwというと世界的ベストセラーとなった教科書の著者として有名だが、氏のブログに面白い投稿がある。

This graph from David Leonhardt's column is illuminating. Now I understand why those of us who are fiscally conservative and socially liberal have trouble finding political candidates to fully represent our views. There are too few of us!

"This graph"というのは下の図である。


財政については保守的、社会的にはリベラルであるような人々が余りに少ない、というのがMankiwの所感である。

実際、弱者救済を政府の責任と考えるリベラル派は「大きな政府」、つまり高い税負担率と高額の福祉給付を主張して、初めて論理が一貫する。Mankiwはそうではないというのだから、確かに極めて珍しいタイプの経済学者である。例外的カテゴリーに属しているので、彼が属するクラスター名は無いというべきだろう。

ま、これ以上のことは同氏の所論を直接に読み込んで知るべきだ。少なくとも、自分の意見が先にあって、自分の帰属先は後から分かる。自分が少数派に属する事もその時になって分かる。自分が属するクラスター名などは付いていない。だとすれば、Mankiwと同じで、名誉なことだろう。

実に健康だと思う。

料理にはフランス料理もあれば、和食もある、中華料理もある。フランス料理にはフランス料理のメニューとレシピがある。和食もそうだ。中華もそうだ。しかし、自分で美味だと思って作った料理がフランス料理になるのか、はたまた和食になるか、中華になるか、そんな質問を自分に投げかけても意味はない。フランス風中華料理であるかもしれないし、日本風フランス料理であるかもしれない。同じことである。

 


2023年12月20日水曜日

覚え書: 先行き不透明でも、いま伝えるべき事実があれば伝えるべきだろう

 植田日銀総裁が今後の経済見通しに関して

当然のことながらこういう状態になったらどこをどういうふうに変えていくか政策について常日頃からいろいろ考えている。ただ、先行きの不確実性がまだ極めて高い状況で、物価目標の持続的安定的な達成が必ずしも見通せない状況なので、出口でどういう対応をしていくかということについて確度の高い、こういう姿になるというものを示すことが現在は困難であるということかと思う。そこが見通せる状況になれば適宜、発信していきたいと思う

19日の記者会見で、このような見解を述べたそうだ。 

金融面での超緩和政策を転換するとして、どんな形で進めていくか、今の段階で具体的イメージを語りにくい、と。

まったくその通りだ。


それより、米経済はソフトランディングに成功する確率が上がっている一方で、ヨーロッパ経済、日本経済はどうかと、全体に先行き不透明感が晴れないのは、コロナ禍三年の間のセンチメントとほぼ同じであるのは、むしろ驚くべきことである。そして、ロシア=ウクライナ、イスラエル=ハマスでは戦争状態になり、この他にもいつ戦争状態になってもおかしくないという地域がある(と言われている)。極めて不透明である。


試みに日本とアメリカの経済見通しをOECDのLeading Economic Indicator(LEI)でみると、


URL: https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/get_draw_oecd_lei/

アメリカ経済の先行き見通しが強気になっているのが指数にも表れている。日本は何だか冴えないが、少なくとも今後3カ月から半年先にかけて下向きの懸念があるとは言えない。

これに対して、ヨーロッパ経済はどうかといえば、


ドイツ、フランスといったEURO圏は暗い。一方、イギリスは様相が違う。この数カ月で随分とセンチメントが改善されてきた ― ちょっと不思議ではある。イギリス経済については厳しい見方が大半を占めていた。それなのに、ということだ。

実際、
イギリスの国立経済社会研究所(NIESR)は、同国が今後5年にわたる「失われた経済成長」を迎え、貧しい人ほど影響を受けると警告した。

Source: BBC NEWS JAPAN

Date: 2023年8月9日

こんなBBC報道もある。同じ報道で
イギリスの国内総生産(GDP)が、パンデミック前の2019年の水準まで戻るのは2024年下半期だと、NIESRはみている。

また、弱く「ぎくしゃくとした成長」が5年間続くことで、国内の経済格差が拡大するとした。

たとえば、ロンドンの実質賃金は来年末には2019年と比べて7%高くなる見込みだが、ウェスト・ミッドランズなどでは5%低くなるという。

しかし賃上げにもかかわらず、高いインフレ率によって物価は上昇。生活費の高騰はイギリス全土の家計を圧迫している。
こんな風にも伝えている。イギリスの先行指数の回復が著しいのは、経済状態がどん底に陥っても、そこにはそこで、低迷や回復があるということか。

それはそれとして、英経済について指摘されている
国内の経済格差が拡大する

この点だが、イギリスも日本も事情は同じだ。 

本ブログの投稿でもとりあげたが、年間収入別に食費が総消費に占める割合(=エンゲル係数)をみると、最低所得層は足元で驚くほどの高さに上がっている。日本では消費税率引き上げが大きく影響したのだが、同じ図を描けば、イギリスも同じような形になるのではないかと想像する。最近の経済的ショックの衝撃(=> 生活の苦しさ)は、特に低所得層において大きなダメージになっているのである。株価の暴落とはワケが違うのだ。

その意味では、岸田内閣による「低所得層」への定額給付金支給は否定するべきではない。着眼点は評価すべきだ。

ネットをみていると、批判者たる自分自身が好きでたまらず、つまり自己愛が強くて、更にそのうえ世間受けも狙っているのかどうか、そこは不明なのであるが、例えば

低所得層はホボゝ高齢者ですからネ、金融資産を持っていて、毎月の所得は低くとも生活はそれほど苦しくはないんですヨ、カネもってますから。それより現役層が苦しいんじゃないでしょうか?中間層ですよ、助けるべきは。

こんな「意見?」を開陳している御仁もいる。しかし、多額の金融資産を保有し、消費支出を切り詰める必要がなければ、やりくりも苦しくないわけで、エンゲル係数が上がるはずもない。データは事実を淡々と伝えているだけである。明らかな事実は、要するに、明らかなのである。

大体

低所得層とは高齢者ですって、そんなデータがどこにありますか?カネをもってる高齢者がどの位いるとお思いで?

普通なら誰でも聞きたくなりますゼ。


《見たくない事実はみたくない》というメンタリティが日本人の間で共有されているとしても、伝えるべき事実は伝えるべきだ。そうしなければ適切な政策対応につながっていかない。ジャニーズ性犯罪も宝塚パワハラ体質もここから生まれた。上のBBC報道は、データが示す事実は最小限にとどめているが、インフレの中の格差拡大という問題に目を向けているだけ、マシである。







2023年12月14日木曜日

覚え書き: 賃上げを補助金で支えるっていうのもネエ、呆れて口がふさがりません

来年以降に経済成長をつなげるためには、足元のインフレに賃上げが追いつくかどうかである、と。これが最重要なポイントである、と。メディアは、ここに来て、力説している。何だか目標が出来てウキウキとしている様だ。ま、数字で確認できる話しなので、分かりやすいですワナ。

しかし、こんな単純なことは、デフレで失われた30年の間も分かり切っていたことで、本ブログでも10年以上も前の投稿で賃金ベースアップの重要性を指摘している。

ただ安倍政権発足前の2012年の当時は、ベースアップを求める連合(=労働側)とベースアップは論外とする経団連(=経営側)で意見が対立しており、そうなると日本人は何となく企業経営が不安定になるのは本末転倒だと思うようで、思えばこの辺から日本人の経済政策談義は正常な軌道からドンドンと離れていった。いま思い返すとそう思うのだ、な。結構、日本社会のデフレ体質は根が深かったわけである。

それがいま、やっと

ベースアップ、これ大事ですよね

と、目が覚めたように力んでいるのだから、なるほどこんなレベルでは経済も停滞するはずだ ― 東日本大震災後のエネルギー・ネックもまた日本人のメンタルから派生している大きな制約になっているが。

一口に言うと、日本社会は複数の大きな勘違いから集団的に目覚められなかった。誰がそうさせたのか。結局は、日本の専門家集団がいま一つなのだという解釈になるしかなさそうだが、要するに真の問題に正面から正対してこなかった。

その意識がいま変わりつつあるのは、とても良いことだ。

ただ、来春以降、大企業は積極的賃上げに動きそうだが、中小企業がどの程度ついて行けるかが問題だ、と。これまた正しい視線だ。

しかし、政府は賃上げが難しい中小企業には、賃上げによる人件費コスト増を税で一部補填しようと。そんな案が検討されている(とも聞く)。

これが本当なら、賃上げ困難な中小企業には補助金を支給する、ということだ。

呆れて開いた口がふさがらない話だ。

日本政府の補助金行政は世界でも悪名高いが、それでも従来の補助金は潜在的な成長産業、あるいは安全保障と密接に関連する産業部門に投入されていた。その意味では、(独断と偏見が無視できないとしても)戦略的産業政策であったわけだ。例えば、AI(人工知能)、先端半導体企業を支えるための補助金がそうである。

賃上げ支援は真逆である。賃上げ困難な企業は、即ち過当競争に陥っており、賃上げを販売価格引き上げによって吸収するのが難しいが故に、賃上げが難しいという企業が大半だろう。

賃上げが難しく、相対的に低賃金になってしまう業種は、人が集まるのと反対に人が離職し、資本コストを抑えるために設備廃棄をし、供給能力縮小へ向かうのが《市場メカニズム》というものである。

こうすることで、人は衰退産業から成長産業へ移動できるわけで、人出不足の日本では特に必要なメカニズムである。

市場に逆らって賃上げ困難な中小企業を税で支えようという人の頭脳構造はどうなっているのか?

またまた当然のことを言っている顔をして

弱者に寄り添うことは政治の根本です

などと高言するのだろうナア・・・そう想像すると暗澹としてくる。

もしそうなると、これまでもそうだったが《社会主義的気分の夕暮れ》の中で日本は薄ボンヤリと衰えていくしかない。淋しいネエ……。

かわいい子には旅をさせよ

少し前の東芝のように泣いて馬謖を斬るのは経営失敗がもたらした結果であるが、斬るべき馬謖に孔明が寄り添っていれば国が滅んだに違いない。寄り添う事だけが愛ではない。



2023年12月12日火曜日

ホンノ一言: 「無党派」の人々が増えることの意味は何だろうか

政治資金パーティ券売り上げのキックバックで裏金を作っていたというので自民党の政党支持率が急落しているとの事。特に、最大派閥である安倍派がひどいという報道だ。

通常の先進国なら与党で不祥事があって支持率を落とせば、対抗勢力である野党の支持率が上がるものだ。ところが、ここ日本では野党が弱体で、自民党がこれほどの失策を犯しても野党には有権者の支持が集まって来ない・・・その結果、いわゆる「無党派」が急増している。

今回の「パー券キックバック」の露見以前ではあるが、本年9月に行われたNHKの世論調査では

各党の支持率は、「自民党」が34.1%、「立憲民主党」が4.0%、「日本維新の会」が5.8%、「公明党」が2.2%、「共産党」が2.3%、「国民民主党」が1.9%、「れいわ新選組」が0.9%、「社民党」が0.4%、「政治家女子48党」が0.2%、「参政党」が1.0%、「特に支持している政党はない」が42.8%でした。

「自民党」の支持率は、先月から横ばいの34.1%で岸田内閣の発足後では、最も低い水準となっています。

一方、「特に支持している政党はない」、いわゆる無党派層の割合は、岸田内閣発足後、初めて40%を超え42.8%に上っています。

また、「立憲民主党」の支持率は4.0%で、「日本維新の会」の5.8%が上回りました。

こんな概要になっている。

前から言われていたことだが、最も多くの有権者は支持政党を持たず「無党派」に属し、足元では4割を超えてきている。

この無党派をどう解釈するかで真剣な議論が行われることは少ない。

政治不信を何とかしなければいけませんね

こんな意見の引き合いに参照されるくらいだ。

が、一口に言えば、仮に日本でクーデターが発生し、「反乱軍」が《令和維新》を唱えるとすれば、反政府側に真っ先に支持の声を上げるのは、おそらくこの「無党派層」であると想像する。

「無党派層」は現行憲法に基づく既存の政治勢力にとっては危険な「揮発性燃料」だと思うべきだ。

特定の事象が起こった際、全員が発火するとは限らないが、現在の政治から疎外されているという感情は非常に危険である。代弁者を求めているのである。

未来社会のソーシャル・フィクションを書くなら、世論調査の無党派層の動きは絶対に素材に使うネ、と。そんな風に考えているのだ。

(またまた仮にだが)無党派層が100%に達する極限の社会状況では、ほぼ確実に反乱軍が決起し、憲法停止はほぼ確実に成功する ― もちろん在日米軍とのコミュニケーションは不可欠だろうが、こんな極限の政治状況が到来すれば、米政府も反乱軍に肩入れする可能性がある。こんな風に想像しているのだ。

無党派層が100%でなくとも5割超の過半数にまで拡大する場合、先進国では久しく見られない《革命》が成功する確率が非常に高くなる。ひょっとすると、こちらの方が現実的な見通しかもしれない。

ま、アメリカでも世論調査をすると、無党派層が案外多いそうだから、上に書いたことは「杞憂」というものかもしれない。

世論調査は、民主主義社会の運営には無益であるかもしれず、政策選択の意思決定においては有害であるとすら言える、と。実は、小生は内心ではこう考えているが(例えば、これこれの投稿を参照)、それでも世論調査が伝えてくれる事はある。 

2023年12月11日月曜日

覚え書き: 大谷選手移籍をめぐる盛り上がりをみて

日本人プロスポーツ選手が世界トップクラスの年俸を達成するというのは日本人にも励みになる話しだ。もちろんエンゼルスからドジャースへの移籍が決まったMLBの大谷翔平選手のことだ。

Winter Meetingが開催されてから日本国内のマスコミの「ハシャギ振り」は異常とも思われた。どのチームに移籍するだろうかということで、多くのOB、野球通(≒専門家?)が日替わりでTV画面に登場しては、マチマチ、バラバラの予想を語り、その予想には確かな根拠があるのだ、と。その根拠を語ってもらうのが視聴率獲得の定石であった事は理解できる。

ところが、ドジャース移籍が決まった後、今度は大谷選手がドジャースを選んだ「三つの決定的理由」、「五つの決定的理由」などと話し始めた。ところが「決定的理由」とは言っても、大谷選手自らが語っているわけではなく、本人の声はまだ伝わって来てはいない。

ということは、メディア各社が勝手に「ドジャースを選んだ決定的理由」と言っているだけの話しだ。

小生、へそ曲がりだものだから、

ドジャースを選んだ決定的理由があったなら、なぜ移籍先はドジャース以外にはないと、一貫して話さなかったのか?いまになって「決定的理由」があるなどと言うのは矛盾しているでしょう?

そう思いますネエ・・・。

そもそも、分からなかったんでしょ?分からないのに情報が出て来ないって、アメリカの記者たちも不満だって。そう伝わってましたゼ。分からなかったのが、今回決まって、やっと明らかになった。スッキリした。しかし、まだ本人の声は聞こえてこないんでしょ?じゃあ、選択の理由なんて今も分からないってことじゃないですか?

そう言いたくなっちまいます。


駄目だと言っているわけではない。

けど、何と言いましょうかネエ・・・


マア、日本社会の(と限った話でもないだろうが)傾向として以前から漠然とだが感じるのだが

率直さが足りない。Honestyが足りない。正直じゃない。

礼儀は正しいが、今ひとつ率直じゃなく、体裁を気にして他人行儀で、不正直だ。日本人の国際的イメージはこんな風な線で一致しているような気がするのだが、マスコミにもそんな日本人の国民性が反映されているような感覚を覚えるのは、小生だけだろうか?

Billy JoelのHonestyは小生の大好きな曲だ。そこでも

Honesty is such a lonely word.

Everyone is so untrue.

何度もそう歌っている。だから日本社会だけの話ではない。が、それでも正直であることを心から願望している。そんな思いが溢れている。日本にも『素直になろうよ』という歌はある。嘘を嫌う感情は万国共通なのだ。

しかし、率直を愛し、正直を評価する側面は、西洋社会ほど個人主義が根付いていない分、日本社会では弱いものになっている可能性はある。

社会が個人を縛る感覚が強い分、個人による正直や率直が社会的バッシングを招いてしまう。それを社会の側が止められない。社会が上だ。個人が下だ。あるでしょう?こんな一面が。その分、日本社会の集団行動としては、Honestyが裏に隠れ、率直な真意のありかが見え難くなってしまうのである。

特に最近はひどい。プラスの面ではなく、マイナスの面が顕在化している。こんな感覚です。


それにしても、思いつくことを漫談風に続けるのだが・・・

昭和の香りを色濃く残したシニア層が社会の最前線から引退し、昭和末期から平成生まれの現役層が日本社会の中核を占めつつある。

ところが日本社会は昭和の名残を捨てて自由闊達になるかと思いきや、その反対で近年ますます社会的な同調圧力が強まり、それでいながら反対運動もなく、抗議の声も上がらない。むしろ率直な個人の表現は「水を差すもの」と非難されて抑えられる。「個性的」な人物がその言動で大炎上する例が目立って増えてきた。

この世相をどうみればいいのか?小生にとっては「七不思議」である。


少なくとも団塊の世代までは、彼らはその青春時代において極めて自己主張が強く、反権力的で、世間の大勢と常識を侮蔑し、高校から大学にかけては校舎を壊しまくり、就職してからは、時に暴走ともいえる営業を続け、先輩世代を振り回したものである。

団塊の世代、即ち《暴走の世代》と小生は思っている。日大闘争を契機に頭角を現した田中・日大前理事長などは(団塊の世代の少し上だが)極めて「昭和的」である。

彼らの同年齢の頃と比較すると平成世代は(異論はあるだろうが、実は)非暴力的である。それは良いのだが、平成世代の人々は政治や社会というものに斜に構える雰囲気がある。世間の大勢には順応し、強者には従う。そんな所がある。そうかと思えば、目立ち過ぎる個性的な人物に集団的バッシングを加えるところもある ― あくまで印象論だが、昭和世代の暴力行為は、権力闘争的で、血腥く、爆発的である。そんな破壊的暴力行為は世代交代の中で下火になった。

昭和世代に対して平成世代はどう総括されるのだろうか?

ま、大谷翔平選手は記憶に残るだろう。彼はスポーツ界に現れた一人の天才である。では、平成世代は集団としてどんな気風(=エートス)を持っているのか?そんな問いを発したいのだ、な。


ひょっとしたら、日本社会の停滞には人的な原因があって、実は若手現役世代の精神的老化も現象として認め得るのではないか?小生の愚息の世代は、偏屈な小生と比べても、非活動的で非野心的である。クラーク博士の"Boys, be ambitious!"と真逆の方向に歩いているようにも観える。本当は十分な資金を形成した後は出家でもしたいのじゃあないか。そんな気風(=エートス)が染み通っているのじゃあないか、21世紀中盤にかけての日本人は?だとすれば、衰退するイギリスで半世紀も前にうまれたBeatlesの"Let it be"と同じ気分である。

ひょっとして、メディアはメディアで、各社とも若手が過渡に社の方針に順応しているのではないか?いわゆる「武闘派」も「理論派」もいなくなった。どの業界も似たようなものではないか?現在の社内事情は知らないが、そんな推測がないわけではない。


ま、最後は《嫌な奴》になってしまったが、これまたHonestyの発露ということで。


2023年12月8日金曜日

断想: 千年前の近代的小説を読む

古文の授業では必ず『源氏物語』(の断片)が教科書に登場する。そこでは「もののあわれは日本文化の粋と言えるでしょう」とか、「世界最古の長編小説」だなどと説明されるのであるが、実際に全編を通して読む人は極めて少ない。文庫本で5冊だ。瀬戸内寂聴の訳本なら全10巻になる。ディケンズの小説並みの長さである。

原文で読み通した人は、多分、小生の知り合いの中には一人もいない(と思っている)。というか、紫式部が書いた平安期・宮中の日本語は、同じ日常を送っていて分かる人には何を指しているか、その暗喩が分かるという女房言葉で、現代日本人にはもはや本当の意味では理解できない言葉になっている、というのが事実認識としては正しい。

ただ『日本人なら人生で一度は源氏物語を最初から最後まで読むべきだ」という人がいたので、谷崎潤一郎訳と瀬戸内寂聴訳の現代日本語版とKindle Unlimitedで提供されている原文を読み合わせながら、全編を読み通したのが今年の夏だった。

一言で言うなら

なるほど、日本人なら一度は読む方がよい

確かにそう言える。

例えば、夏目漱石の『明暗』は『源氏物語』があればなくてもいいかもしれない。志賀直哉の『暗夜行路』もなくてもいい、と言えるかもしれない。三島由紀夫の『豊饒の海―春の雪』も敢えて読まなくともよいだろう。

この位は言って差し支えはないと感じたから、やはりもっと早く読むべきであった、ということか。


『蛍』の帖にこんな下りがある。谷崎訳で引用すると:

・・・随分世の中には話し上手がいるものですね。大方こんな物語は、嘘を巧くつき馴れている人の口から出るのだと思いますが、そうでもないのでしょうかしら・・・わたくしなどは一途に本当のことと思うばかりでございます。

これは無風流な悪口を言ってしまいました。いや、ほんとうは、神代からあった出来事を記しておいたものなのでしょう。日本紀などはただ片端を述べているので、実はこれらの物語にこそ、詳しいことが道理正しく書いてあるのでしょうね。

一体物語というものは、・・・ありのままに写すのではありませんが、いいことでも悪いことでも、世間にある人の有様で、見るにも見飽きず、聞いてもそのままにしておけない、後の世までも伝えさせたいことのふしぶしを、・・・書き留めておいたのが始まりなのですね。・・・それらを一途に根なしごとだと言いきってしまうのも、事実と違うことになります。

まさに現代社会にも通じる

歴史から事実が分かるか、小説から事実が分かるか

という問題を、千年前の女流作家が考えて、意見を述べている。

いや驚きです。


確かに、歴史そのものは史料から確認された《事実》だけから構成されている。その事実の意味するところを歴史を専門とする学者は研究したり、議論をしている。一方、歴史を舞台にした歴史小説、つまり物語はフィクションである。故に、歴史が事実であり、小説は嘘である、というのがロジカルな結論であるが、本当にそう言えるのか、という意見である。

《人間性》というのは、結局、変わらないものであると考えるのであれば、

こんな時、こんな状況に置かれれば、人はこんな物言いをして、こんな行動をする

そういう認識で、語り伝えたいことがあるとすれば、その語り伝えられた非歴史的な作品こそ、むしろ断片的な事実だけを並べた歴史よりは、人間社会の道理を正しく描写しているのだという認識は、まったくの嘘というわけではない。


不倫もあれば、失恋もある、マザー・コンプレックスもある。三角関係、五角関係もある。コミュニケーション・ギャップもある。裏切りもある。格差社会の悲劇もある。意識の流れを表現している点では、マルセル・プルーストの近代小説『失われた時を求めて』にも似ているところがある。

千年前の小説と侮るのは間違いだ。違うのは生活習慣だけである。


それにしても千年という時間の長さは感覚的にピンと来ない。徳川家康が関ヶ原に勝った1600年の更に600年前。源頼朝が鎌倉幕府を開く更に200年前である。2023年の200年前は1823年。まだ黒船は来航せず、日本人は徳川幕府の下で文化文政時代の町人文化を栄えさせて浮かれ騒いでいた。200年ですらとても長い時間である。



2023年12月5日火曜日

ホンノ一言: 自衛隊の法的根拠を百年議論することの意味は何だろう?

この夏に大ヒットしたドラマ『Vivant』で自衛隊別班なる存在が派手に活動していた。誰もが知っている秘密の非公式組織だと、英国のMI6もずっとそうだったと……、そうだったんですか、というわけだ。

存在していない組織ならフィクションである。フィクションでよいなら日本が海外派兵したり、核武装してもドラマの中ならよいはずだ。本当に存在していると思うならその違法性に目をつぶって脚本化するのはどうかと思う。不見識だ。「さすがにTBSだネエ」と思わないでもない。


その自衛隊についてであるが、2023年という本年になって、まだなおこんな意見が述べられている。

日本の自衛隊とは、どんな存在なのか。ジャーナリストの池上彰さんは「『自衛隊の存在は憲法違反ではないか』と問われた裁判で、最高裁は合憲とも違憲とも判断しなかった。その後、自衛隊はあいまいな位置づけのまま、世界有数の軍隊並みの組織として成長し、国際社会で活躍の場を広げている」という――。

Source: PRESIDENT Online

Date: 2023-09-03

URL:https://president.jp/articles/-/73353?page=1

一昔前には多かった意見であるが、2023年という今、このような意見に珍奇さを感じ、「ハアッ?」と言いたくなる人が、あまり多くはないところが、戦後日本の珍奇なところであると思う。


戦後が始まってから既に78年。1954年の自衛隊創設から69年。もう親子2世代、というより祖父・親・当人の3世代という長い時間が過ぎた。それでも『自衛隊はあいまいな位置づけのまま』などという表現がオープンな言論の場で表明されている。

戦後ももうすぐ80年ですゼ。それでも結論が出ない。数学の難問じゃない。日本国の憲法と合致するかどうかという単純な問題だ。それが解けないでいる……。


もし日本人がバカの集団ではないなら、ここから言える結論はただ一つである。

日本人は法的正統性が曖昧でも現実の必要性があれば必要な組織や活動を受け入れる。そんな風に考える国民である。

だからこそ、法的に曖昧な正統性しかもたない国内軍事組織を、さして不安もなく、そのまま受け入れる。こう結論するしかないではないか。つまり、日本人の心の中では自衛隊は(西洋的な意味合いで)既に「合憲」なのである。現実に受け入れているのだから。自衛隊に関して憲法を改正する必要性はないという考え方にも一理ある。


即ち、自衛隊という存在は理屈が通るか通らないかという学理上の問題でしかない。

自衛隊は、日本人のホンネでは、大方、ロジックの整理がついているのである。

必要な時機が到来すれば、事後的にどうにでもなる。官僚と法学者が作文をすればイイだけのことだ。ホンネではそう思っている。こんな理解の他に理解の仕方があるのだろうか?


日本という国は、憲法と法律に基づく法治主義国とは言えないところが残っている。少なくとも日本人のメンタリティにはそんな傾向がある。多分、<自分たちが作った憲法と法律>という民主主義国なら不可欠のメンタリティが日本人には希薄なのだろうと思う。

 

2023年12月3日日曜日

断想: 世代対立……、政治の失敗。と同時に(またまた)メディアの失敗でもあるのかも

中国共産党が最近強調している政治理念の中に《共同富裕社会》というのがある。

そもそも共産主義理念は、資本主義の私益追及原理を否定して、社会的平等を実現することにより、従属的立場を強いられてきた人民を解放するというものだから、富裕層を解体し、資産再分配を目指すという路線は実に当たり前の方針であって、現代日本社会を支配する常識の視点から、中国はメチャクチャな事をやっていると批判するのは、《主義》というものが分かっていない証拠である。

今は遠い昔になったが文化大革命中のスローガンに《老中青三結合》というのもあった。老年層、中年層、青年層からバランスよく指導陣に抜擢して政治を運営するというものだ。

中国は憲法において(封建主義と)資本主義を否定すると規定しているから、原理として分権よりは集権、分断よりは結合(=共同)を目指すのが、至極当たり前である。更に、中国は(歴史を通して)「指導者」がハッキリしている社会であるから、こうした《裁量的な抜擢》という人事が出来る ― 日本でも出来ないわけではないが。

かたや最近の日本の「世論」なのだが、日本人の一般的感覚として資本主義の理念には肯定的なのだろうか、否定的なのだろうか?

「自己責任」という言葉に対する反発や、規制緩和・自由化などいわゆる「新自由主義」的政策へのアレルギーをみると、日本人は福祉国家を目指してほしいと願っているようだ。新・自由主義とは、資本主義の基盤である市場競争と民間重視に忠実であろうという「原理・資本主義」とも言えるような理念だから、資本主義をそもそも肯定する人は新自由主義を頭から否定はしないものである。だから小生は、日本人はホンネのところでは「資本主義」があまり好きではないのだと考えている。この点は、現代日本人と明治維新直後の文明開化期に育った日本人とで、同じ国の国民かと思えるほどに違っている。そう感じるのだ。

ところが、高福祉・高負担という福祉国家を目指そうとするとき、「何と」というべきか、「やはり」というべきか、《増税拒否》の世論が噴出する。

自由を重視する「小さな政府」も社会的な負担と給付を実現する「大きな政府」のどちらにもアレルギーを感じているように見える。

そこから導かれる結論はただ一つで

現状維持、つまり今までどおり。変える必要はない。

こんな《現状保守主義》が、(結果としては)日本人が、全体としては、選んでいる路線である。こう考えざるを得ない。

しかるに、多くの数値的シミュレーションから明らかなように

現状を維持するのは不可能である

こうした現状があって、日本人の大多数が願っている路線は放棄せざるを得ない。最も強く願望する選択肢は選択できないという厳しい現実に直面している。基本的ロジックはこうだろうと思っているのだ、な。


まるで平和を願いながら、戦争を選ばざるを得ないという状況にも似ている。

小さい政府路線は拒否する。高福祉・高負担という福祉国家理念も拒否する。現状の持続は不可能である。

だから、日本人はいま《閉塞感》を感じているのである。

その現代日本社会の足元で増えている《世論》だが、この1,2年で目立ってきたのが

世代対立を煽る感情的意見

こんな風に今の世相を観ている。

世代対立から導かれる路線は、「世代的分権」、つまり「世代ごとの自助原理」である。近代を支えてきた《自助の原理 》がここでも出てくるわけだ。自分の始末は自分でつける。自分たちの始末は自分たちでつけるという考え方である。理念としては資本主義社会の哲学に近い。しかし、これは、上にも述べた通り、「本当は資本主義を嫌っているのではないか」と疑われる日本人のメンタリティとは矛盾した理念だと感じるのだ。

このような世代ごとの分権主義というか、世代自助の感情は、かつての文化大革命期・中国の運動スローガンであった「老中青三結合」とは真逆である。文化大革命の発端となった毛沢東の復権願望を考慮すると、「老中青三結合」は実に都合の良い原理であったわけだが、そもそも中国社会の旧慣・伝統が老人支配を善しとする側面をもっていたとも思われる。しかし、現代日本社会が今更ながら「老・壮・青の協同社会」を唱えても、世間の風潮とは余りに乖離している気がする。

ここにも日本社会の閉塞感が目に見えるようだ。

日本社会は中国とは違う。と同時に、西洋社会とも本質的違いがある。


シルバー民主主義の視点に立てば負担率上昇・給付額維持という路線を放棄するはずはない。が、負担率上昇を受け入れるには「自助の原理」とは異なる「老中青三結合」の理念に沿うことが不可欠だ。そんな結合の理念に沿う政策は必ずあるはずなのだ ― もちろん可能な範囲の中の最良という意味だが。

要は、経済的には出来るはずの世代間協同政策が政治的に出来ずにいるということが問題の本質であるに違いない。


そんな中で、世代対立の感情が形成されるとすれば、それは現代日本の民主主義の原理とは矛盾している。統合の感情とは正反対の分断への感情が形成されているのは、政治的には望ましい方針が国民感情によって否定されているということだから、これは《政治の失敗》であるわけだ。と同時に、何を読者・視聴者に伝えるべきかという選択の失敗、つまり日本社会の公益を毀損しているという点では、《メディアの失敗》と言えるかもしれない。


民主主義・政治的選択・国民感情が互いに矛盾しているというのは、いま日本が大きな問題に直面しているということだ。が、問題を解決できる政治的指導者を欠いている。第一次大戦に敗北したあとのドイツ・ワイマール体制の不安定な政情を連想するとすれば不吉だが、

敗戦後に成立した理想主義的な政治体制

という点で、戦後日本とワイマール・ドイツは似ている。

何だか不吉な連想である。

実際、岸田内閣の迷走ぶりをみていると多くの人は不安に駆られるだろう。かなり前の投稿で書いているが、

要するに、子育て支援のコストを社会保険料でまかなう方向は最後には潰れると予想される。

(中略)

その無理を覚悟してもなお踏み切ることが必要である、というこの一点が最後に残った政治的ステップだ。この辺については少し前に投稿した。さもなくば、コロナ感染拡大後の給付金で所得制限を付けるか付けないかで迷走した時と同じ、岸田首相の決断力不足が(またも)視える化されるというものだろう。

迷走しているテーマは上の投稿とは異なるが、迷走しがちな内閣は、時間が経過すれば、予測通りに迷走するということなのか。 


【加筆修正】2023-12-04、12-05