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2025年10月1日水曜日

断想: 「生死を出る」という表現は確かに「科学的」ではないネエ

統計分析を専門としてきたせいか、ずっと観察可能な現象で世界は説明できると考えてきた。典型的な《科学主義者》である。最近流行のエビデンスを何よりも重視する立場にいたともいえる。

科学の特徴は、世界の出来事はつまるところ観察可能である、観察可能ということは、大雑把に言えば、モノとして理解するということだ。つまり《物質的世界観》が根底にある。唯物論的世界観と言っても可であろう。

デカルトは宇宙については機械論で説明しようとしたが、哲学としては物質的存在と精神的存在を区別する二元論的立場をとった。

この点では小生はデカルトに共感する。科学主義では本質的な説明が不可能な対象もありうることに気がつくに至った。その辺のことは何度かに分けて投稿してきた。


例えば、自動車の自動運転技術が更に進化して、ほぼ完璧に公道を走行できるような時代になったとしよう。事情を知らない人が観察すれば、自動車は道路状況を観察しながら、最適な走行について考えながら走っているものと理解するだろう。

それをみた科学主義者は、自動車を1台に手に入れて、徹底的に分析する。

部品と部品との関係性、つながりから、発進、加速、方向転換、停止についてのメカニズムを理解する。エネルギー源と適切な供給についても理解する。それから人工知能の中枢を占める半導体回路を徹底的に分析する。回路における電荷と電荷の運動状態に応じて、自動車が特定の動作をすることまで突き止める。

このようにして、観察可能なエビデンスを徹底的に、かつ合理的に整理して、《真理》に迫ろうとする。


では、この科学主義者はまったく同じ自動車を複製して、その自動車にまったく同じ人工知能を搭載させることが出来るだろうか?

不可能である。

半導体内部のあらゆる状態に応じて、自動車が特定の動作をすることは観察可能だが、なぜ道路状況に応じて、電子回路網がその状態に変化し、なぜ自動車がそのような動作をするのか?この疑問全体に答える《知能システム》の基本設計が分からないからである。

その知能システムは、型式の異なった自動車であっても、転送可能であり、むしろより高度の運動能力を発揮させ得るということなどは、科学データからは補足できない。

つまるところ、

自動運転で走る自動車は、自動車自体が考えているわけではなく、自動車に考えることを可能にさせている《知的実在》が先にある。

こう考えなければ、話しが終わらない。つまり、《第一原因》であるのだが、カントはこの問題は人間の純粋理性が解答できる領域を超えた問題であるとした。

★

いま阿満利麿『法然の手紙を読む』を読んでいる途中なのだが、

ここでも「生死を出る」という表現が出てくるが、すでにふれたように、現代の私たちには理解が難しい言葉遣いであろう。私たちは、人の一生は生まれて死ぬまでの間であり、その前後には言及しない、というのが常識になっているからだ。

こんな下りがある。法然上人と『新古今和歌集』で著名な歌人・式子内親王との交流に触れている個所である。

現代技術文明の基盤は「科学主義」で、それが「常識」になっているのは仕方のない事だ。しかし、科学が人の知性を制覇する以前の時代においては、科学者が仕事をするときの作業仮説が、科学者ではない普通の人の常識でもあったというわけではなかった。

科学はこの300年から400年の間に、人間の知的営みからおよそ《非科学的想像》を追放してしまった。「非科学的空想」には意味がないというわけだ。

しかし、思うのだが、水と一緒に赤子も捨ててしまったような気がするのだ、な。

人間に観察可能な(=測定可能な)事実が、宇宙の全ての真理を教えるとは限らない。どちらに考えても、それは一つの認識論的立場に過ぎない。

輪廻転生論をどう考えればいいか、科学で結論が出るまでは100年間では足りるまい。物質的身体の世代継承は科学で捕捉可能だが、「識」や「種子」の相続は半導体回路の電荷の分布を分析する作業にも似て、実証的には解明不能だろう。

結局のところ

人間の知性は「人間の知性」自体の所在を外側から確認することが出来ない。ここが人間の造った人工知能とは決定的に違う。

この一点にかかってくる。今はこう考えているわけであります。

結局、本日投稿の主旨は

知性(と生命は?)は自然発生的に物質の中に生まれて成長するものではない。

小生は「ない」と思うが、「あった」と考える人もいるだろう   ―   小生の目には過激派・科学主義者で完璧な唯物論者に見えてしまうが。

こういうことであります。

空海が云ったという《両部不二》、つまり物質界と精神界とは究極的には一つの実在に統合されている・・・確かに、物質と非物質とを二つに区分できるのかどうかさえ、物理学の今後の発展による話題なのだろう。これは忘れないための付け足し。

読書中に思いついたので、メモしておく次第。


2025年5月15日木曜日

ホンノ一言: 「高校無償化」・・・これも社会主義的失敗の一例になるのでは?

 こんな記事がネットにある:

――どのような学校が淘汰されていくのでしょうか。

もちろん、底辺からです。先述の髙田教授は、超進学校が高倍率を維持する一方、中学校までの学習内容の学び直しに重点を置く高校や、外国籍で日本語の指導を要する子たちの受け皿となるはずの高校など、「セーフティーネットの役割を担う高校」と位置付けられた学校の存続が危ぶまれていると指摘し、子どもたちの「進路保障の危機」であると言います。

Source:YAHOO JAPAN ニュース

Original:集英社オンライン

Date:5/15(木) 7:02配信

大阪府が先鞭をつけた《高校無償化》が主因となって、多くの府立高校が廃校となっている現状はイイのかという疑問はもう世間に広まっている。

にも拘わらず、高校無償化が(それ自体として)悪いことだと判定するのは(知識不足もあって)難しいせいか、善いことだと考える流れが、現代日本社会では広まりつつある。


小生が「ン??」というか、疑問を覚えたのは下線を引いた箇所である。

高校間の競争激化によって淘汰されていくのは、「底辺から」だと。その底辺とは、学び直しの機会を提供する学校とか、外国籍で日本語指導を必要とする人たちの受け皿とか、つまりは基礎的なセーフティネットとなる役割を果たしている学校だと。そして、残るのは超進学校である、と。

感覚的に「これは理屈が通らン。この人は目が節穴なのか」と感じました。

*

で、ちょっと考えてしまった・・・

そもそも若年層合計が激減している中で、超進学校に進学するべき人も絶対数として激減している。激減しているのは、能力分布の各階層で共通なのだが、平均未満のグループに属する人は(能力分布の形状は非対称性をもち低い値に並み値があることが多いので)数において相対的に多数のはずだ。

急速に減少するはずの優等生をターゲットにしている超進学校の競争率が、なお高いままであることが、不可思議である。

不可思議であるが、超進学校に入れるなら入りたいという人は、すぐ下の階層から吸い上げることができているのかもしれない。

となると、平均を含めて平均未満の階層を受け入れてきた学校は、若年層人口の減少に加えて、従来なら志願してきたはずの中上階層を奪われることで、市場が過当競争になりつつある。そんなことかもしれない。

しかしながら、こんな状況がよいはずはないわけだ。

超進学校が蓄積した教育技術とマス未満に対する教育技術は、同じ教育でも質的に異なる所がある。前者が生き残り、後者が淘汰されることの結末が、社会にとって善いはずはないと思われるが、いかに?

*

そもそもどの位の教育コストをかけてどんな教育を子女に与えるかという保護者の意思決定だが、コストとリターンとのバランスがとれていることによって、全体として合理的な教育資源の配分が担保されるものだ。

つまり良いものは高い。安いものは安いだけの理由がある。レストランも理美容院もテーマパークも全てサービスは同じ理屈が支配する。

その意味で、アメリカのハーバード大学など一流と評価されるアイビーリーグの学費が高く、マス層を相手にする州立大学など「普通の大学?」の学費が安いのは、理に適った状態である。

コストとリターンの合理的バランスが社会全体として自動的にとれるという点が、消費者の選択の自由と価格メカニズムがもたらす主なメリットだ。

言い換えると、国として達成可能なうちで「最適」(という意味は人によって異なるのだが)な教育のあり方は、自由な機会とサービス内容を反映した多様な価格付けによって実現される。経済学を少しでも勉強した人なら、この辺のロジックは当たり前だと感じるだろう。ただ、こうは発想しない向きがいるのも当然だ。が、経済合理的な「解」とは異なる方式をとった場合、人とモノの活用において非合理な結末が予想される。そして、日本人を含めて、人というのは「非合理な現実」が露骨に可視化されれば、それはそれで嫌がるものである。


日本社会に広まりつつある(?)《高校無償化》は《社会主義国家》ならやりそうな事だ。実際、教育無償化、医療無償化、食料・住宅・エネルギーなど基礎生活資材の安価提供など、どれも代表的な社会主義政策である。しかし、社会主義の実験は1世紀も経たないうちに失敗に終わった。ここ日本で社会主義的政策をまた実験するのは自由だが、その非合理性は、かつてのソ連と同じく、理不尽な結末となって、10年程度の期間のうちには顕在化するだろう。

特に「高校」をピックアップしてそこを無償化するのも変な行政だ。高校を問題とするなら、公立小学校なら授業料はゼロ、私立小学校なら高額な授業料という状態も、同じ問題があるというべきだ。中学校も同様だ。しかし、慶応幼稚舎や学習院初等科に進学するときの授業料をゼロにせよとは誰も言わない。もし大阪府内にあれば無償化の声があがっているのだろうか?

端的に、小生は「阿呆じゃないか」と思っています。


善意であるのは間違いないが、愚かな政治の一例を増やしているに過ぎない(と思っています)。



 

2024年12月16日月曜日

ホンノ一言: クルーグマン、最後の寄稿に関して

日本の新聞には見切りをつけて、ここ近年はThe New York TimesのWEB版を購読していたのだが、NYTに定期的に寄稿するコラムニストをしていたPaul Krugmanが、どうやらコラムニストを辞めるようだ。

最後の寄稿はこんな書き出しだ:

This is my final column for The New York Times, where I began publishing my opinions in January 2000. I’m retiring from The Times, not the world, so I’ll still be expressing my views in other places. But this does seem like a good occasion to reflect on what has changed over these past 25 years.

Source: The New York Times

Date:  Dec. 9, 2024

Author: Paul Krugman

URL: https://www.nytimes.com/2024/12/09/opinion/elites-euro-social-media.html


経済問題の理論的解明と提案には余人にはない鋭さを感じる一方、その価値観や政治的理念には辟易したり抵抗感を覚えることが多かった。そんな複雑な読後感が多かったが、そもそもKrugmanの書くコラムがなければ、NYTを購読することはなかった。

それが今後はなくなるわけだから、はりあいがないわけで、関心がなくなった。早速ながら購読を停止した。

購読料金はNYTの毎月約400円から2000円少々に上がるが、それでも日本経済新聞の4000円余りよりは余程イイ、そう思って英誌The Economistを2年まとめてサブスクライブしたところだ。

Krugmanの寄稿の最後はこんな感じだ:

We may never recover the kind of faith in our leaders — belief that people in power generally tell the truth and know what they’re doing — that we used to have. Nor should we. But if we stand up to the kakistocracy — rule by the worst — that’s emerging as we speak, we may eventually find our way back to a better world.
Google翻訳ではこんな邦文になる:
かつて私たちが持っていたような指導者への信頼、つまり権力を持つ人々は一般的に真実を語り、何をしているかわかっているという信念を、私たちは二度と取り戻せないかもしれない。また、そうすべきでもない。しかし、今まさに出現しつつあるカキストクラシー、つまり最悪の人々による支配に立ち向かえば、私たちは最終的により良い世界への道を見つけるかもしれない。

単なる言葉の表現だが、機械翻訳はやはり淡白になる。 

かつて私たちがもっていた『権力にある人は、嘘でなく真実を語るはずで、何を自分がしようとしているか分かっているはずだ』という、「指導者がもつべき信頼感」というものを、再び感じることは、もう決してないかもしれない。
これでもいい訳ではないが、せめてこの位の感情をこめれば訣別の辞としては相応しい。

ただ次の"Nor should we"(=「またそうすべきでもない」)の箇所は、もう一つ言いたいことが伝わらない。多分、
指導者を信じられる時代は終わったのだ
「信じてはいけない」。こう言いたいのだろう。
何故なら最悪の人物による統治がこれから始まるからだ
まあ、この位、国民から選ばれた次期大統領を真っ向から否定し、明確に自己の政治的立場を述べれば、どんな読者であっても「偽善」を感じることはない。何しろAmazonのベゾフ氏、Metaのザッカーバーグ氏、OpenAIのアルトマン氏などBigTechの大物たちが巨額の寄付を行い、トランプ氏の軍門に下っている。いまこうして批判すれば何らかの不利益が予想されこそすれ、クルーグマン氏の得になることはほとんどなく、これが偽善である理屈はない。従来と同じ政治的主張をただ貫いているだけである。ただ、今回は最終稿となった点が違う。

多分、ジャーナリズムの(真面目な)読者が(本当に)求めているのは率直な意見だ。

真っ当なジャーナリズムが、真剣に相手にするべき顧客ターゲットは真っ当な読者であるべきなのだろう ― ここでもまた小生は能力分布という言葉を連想するが。

ジャーナリズムによらず、学問を含めた知的活動に少しでも関係する人にとって率直であることは不可欠な資質である。礼儀も不必要だし、マナーも要らない。優しさも有害無益だ。自分の言葉でただ「誠」を語ればよい。全ての知的活動において小生はこの一言に尽きると思うのだ、な。


亡くなった父が好きだった言葉は
己、信じて直ければ、敵百万人ありとても、我ゆかん
という言葉だった — 多分、上の句の原点は孟子の
自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も、吾往かん。 
自反而縮 雖千萬人 吾往矣 -- 公孫丑章句 上

であったに違いない。 これを言う時、父は必ず次のように続けた:

それには雑念、邪念を消して、純粋でなければならない
と。「純粋」という言葉が大好きであった事は前にも投稿した記憶があるが、とにかくこれが口癖だった。

しかし、息子であった小生の目からは
だから、困難な新規事業をやり遂げる責任感に押しつぶされて負けたのじゃないか。家族がどれだけ苦労したか分からない。
こんな風に思われるばかりで、父の好きだった上の言葉は最も嫌いな言葉だった。

意外にも最近になって、父が言いたかったこと、というか父の世代が信じていた理念の正当性を見直したくなる自分がいる。

上に引用したKrugmanの最後の寄稿は、法廷を去るソクラテスの姿を描いたプラトン作『ソクラテスの弁明』の最後の情景を、何だか思い出させるものがある。

【加筆修正:2024-12-25】

2024年9月13日金曜日

メモ: 世の中、運しだいという物事が多いようでして……

 一流の人物は極めて少ない。二流の人物が多く、三流以下の人物はもっと多い。こんな能力分布があらゆる分野、領域に当てはまっている、というのが小生の(個人的な)経験則だ。これは何度も投稿している(たとえばこれ)。

政治の世界でも、経済・経営の世界でも、同じだと思っている。

なので、一流の政治家は少なく、凡庸な政治家が大半である。

もっと悲しいことは

一般有権者にも、上の能力分布が当てはまるので、その政治家が一流であるか、二流・三流であるかを見分ける能力をもつ人は稀である。

ということだ。

ちょうど

歴史に残る一流シェフが調理した料理を正しく賞味できる人はほとんどいない。目隠しをされて一流のワインとテーブルワインをテイスティングだけで正確に識別できる人が少ないのと同じである。

故に、有権者が選挙で選ぶというのは単なる形式であって、実際に一流の政治家が責任ある地位に就けるかどうかは、世論によるのではなく、運による。

ただ

世襲の君主制において名君の子が一流であるかどうかも運による。

要するに、同じである。

つまり、アメリカの次期大統領が一流であるか、凡庸であるかは、運しだい。これが今の世界を支配するロジックだ。そんな風に思いめぐらす今日この頃です。

一流の政治家が一流であることを国民が知るのは、一流でなければ解決できないような乱世が到来し、実際に平和を取り戻した時だけである。

その「乱世」で、民主主義を制限した方が良いのか、あくまでも民意で指導者を選びなおす方が良い結果につながるのか、歴史上の永遠の問題だと小生は思います。

凡庸な為政者で世の中が治まっているのは平和であるからで、これ自体は好いことだ。

以上、たまたま思いついたのでメモする次第。

2024年7月15日月曜日

ホンノ一言: 都知事選をどう観るかという場外バトルなのか?

元・大阪府知事、元・大阪市長にして、維新の会・元代表で、いまは現・政治評論家として著名な弁護士・橋下徹氏の発言は、過激でありながら本質をついた直言が多々あって、本ブログでも結構<橋下ネタ>を投稿している。実際、「橋下徹」でブログ内検索をかけると複数の投稿がかかってくる。


今回も小生の関心を大いに刺激するやりとりがあったので覚え書きにする次第:

元大阪市長で弁護士の橋下徹氏(55)が、14日までに自身のX(旧ツイッター)を更新。13日放送のABCテレビ「教えて!ニュースライブ 正義のミカタ」(土曜前9・30)に出演した京大大学院教授の藤井聡氏(55)の発言について、強く非難した。

藤井教授は、7日投開票の東京都知事選について「選挙が得意なやつが票を集めるような選挙になってるんですよ」と指摘し「はっきり言って、有り体に申し上げますが、詐欺と同じです。“これ、ええで”って言って、全然アカンもの買わせるという話ですから、本当はすごくいい物を“いいよ”とちゃんと宣伝してくれる人のを買わないといけないのに、選挙が上手やというだけで選ばれるような時代になったら、その国は滅びるしかない。本当に僕は危機感を感じます」とバッサリコメントしていた。

 この発言を取り上げた記事を引用し、橋下氏は「お前みたいな学者が日本を滅ぼすんや!!何の役に立っているかの評価も受けない税金のタダ飯食らいが!!」と投稿。  続けて「なんで学者ってこうも偉そうなんや。何の役に立つかも分からん研究をいかにも意味があるように装って研究費を引っ張る学者が世の中に多数。こういう輩も立派な詐欺師や」と批判した。 

Source: Yahoo! Japan ニュース

Date: 7/14(日) 11:22配信

Original: スポニチ Suponichi Annex

URL:  https://news.yahoo.co.jp/articles/7b0ff228de3f3aae461d96c47ecec2d022764c18

要するに、先日の都知事選は「政治家の選挙」というより「選挙屋の宣伝合戦」になっているという京大のF教授の批判に対して、橋下氏が「だから学者は詐欺師なンだ」と非難している。そんな図式である。

出所がスポーツ新聞だからか、記事はスポーツ志向、エンターテインメント志向の香りが濃厚だ。


ただ思うのだが、政策綱領なき政争になっている日本の政党政治に関しては、政党が「全国的な選挙互助会」に変質していると、本ブログでも感想を書いたことがある。

多分、橋下氏の目線に立つと、選挙では「選挙屋」になって、勝利することが即ち民主主義下の政治そのもので、ここにこそ政治のダイナミクスが発現するのである、と。そういうロジックになるのだろうが、これでは選ぶ側の有権者のレベルに応じた「選挙屋」しか選ばれない結果になり、選んだ側の有権者自らが、自分が招いた劣悪な政治レベルに不満を募らせるだけになるのではないだろうか?

大体、社会的に解決するべき社会問題に解を与えることこそ政治家の役割だ。そして個々の問題解決には提案期限が決まっていると認識するべきだ。10年もかけて審議できる裁判とは違う。不確実な情況下で責任を負いつつ問題に取り組むのが政治家の宿命であると思ってきたのだが違うのだろうか?

しかるに、その解決方法に政治家自身が迷い、どれが正しいかを国民に判定してもらおうとする政治スタイルが、「民主的」であるとされて好まれる傾向が民主主義国家にはある。

みんなで決めましたヨネ

という奴だ。


しかし、これも本ブログでも投稿した事だが、問題を解決できる正しい解を真に理解できる人は少ない。まして正しい解決方法を発案し、提案できる人は極めて少数である。

人は為しうる事をなすものだが、為すべき事をなせる人はごく少数しかいない。

問題を解決するには《才能》がいる。こんな当たり前のことはビジネスでは常識だろう。 

確かに、民主主義は社会の「集合知」を発揮できる政治的装置だが、集合知の8割は2割の人材が寄与して形成されるものだ。つまり、民主主義社会の運営にも、実は「パレートの法則」は当てはまる。上にリンクを付けた投稿は「能力分布の経験則」についてだが、だからこそ「民主主義」は民主主義でも「代議制民主主義」が望ましいと小生は思うし、一院(=下院としよう)が「普通選挙」によるのであれば、一院(上院としようか)は業績に基づく「推薦審査制」によるのが善いとホンネでは信じている。首班は下院に指名権があるとしても、上院の承認を必要とするべきだと思う。

要するに、何らかの方法によって、有能なヒトを選出するべきなのである。

マ、個人的な好み、というか個人的経験を踏まえた現在の主観である。

先日の都知事選は全体として色々な側面があり、視る角度によって評価は様々に分かれる理屈だ。都知事を選出するという最終結果は理解できる結果ではあった。しかし、それは一人が実績に裏付けられた現職であったからだ。仮に、政党がすべて信頼を失い、候補者がすべて(一応)「無所属」で「初陣」。先日のようなレベルの政策構想で選挙を行ったとして、有能な都知事が選出されたであろうか?極めて疑問であるという気持ちは、上の京大教授と感想を同じくする。

なので、今回の論争ばかりは

お前みたいな学者が日本を滅ぼすんや!!

とは、どうしても共感できないのだ、な。

2024年1月8日月曜日

ホンノ一言: 民主主義社会の政治家と現場について

同じ「自然災害」と括ってみても、一つ一つの災害はそれぞれの個性をもっている。季節、地理的条件、地形、住民分布、職業分布、年齢分布等々、全て異なっており、同型の自然災害などは決してない。故に、災害対応にオールマイティのマニュアルなどは存在しない。現場をみて、その都度、最適対応するしかない理屈だ。この点は以前にも投稿したことがある。

今回の能登半島大地震でも色々な批判がある。中でも多い指摘は『対応が遅い』というものだ。指摘に対して、政府側から反論が出ているのもいつもと同じである。

例えば、こんな指摘がある:

地震の被害、津波の被害が日々伝えられているが、なぜ、全貌把握がこれほどまでに遅いのか疑問だ。能登半島西の輪島市中心部から、東の珠洲市までわずか40〜50キロメートルだ。元旦の夜に衛星から見れば停電の状況はすぐに把握できたはずだし、2日朝からヘリコプターやドローン・飛行機で上空から調べれば、道路の寸断状況を含めて被害状況は把握できたはずだ。

対応が遅いという以前に「被害の全貌把握が遅い」という点は多くの日本人が感じていたことと思われ、上の見方も「その通り!」と多くの人が同意するのだと思う。

更に

危機管理において、正月休みだったという言い訳は通用しない。もし、これが外国からの侵略であった場合と考えると背筋が凍る思いだし、あまりにも危機意識に欠けていると言わざるを得ない。非常事態の人員確保、救援物資の輸送などのマニュアルが何もなかったのかとさえ思わせるような状況だ。シビリアンコントロールは必要だが、コントロールできる有能な人材があっての話だし、コントロールできる人材がいないような体制ならば、すべて自衛隊に任せればいいのではと思ってしまう。

緊急事態においては、指揮命令系統の一本化が極めて重要だ。東日本大震災時の初動の遅れはまさに未熟な政権幹部のドタバタの反映だった。

Source:アゴラ AGORA 言論プラットフォーム 

Date: 2024-01-07 06:25

Author: 中村祐輔

URL: https://agora-web.jp/archives/240106041634.html

現在の日本におけるシビリアン・コントロールそのものに対する不安も述べられている。

これに対して、

  1. 対応を困難にした要因の一つが被災地の地理的な特性だ。自衛隊幹部は「陸の孤島と言われている半島での未曽有の震災。一番起きてほしくない場所で起こった」と。
  2. 熊本に比べ、能登半島には規模の大きな自衛隊の拠点がないという事情もある。熊本市には南九州全体を管轄する陸上自衛隊第8師団の司令部があり、1万人超の隊員が常駐している一方で、能登半島には航空自衛隊のレーダーサイトしかない。

防衛省からは(メディアを通して)こういう釈明がされている。

Source: 毎日新聞

Date: 2024/1/7 12:18(最終更新 1/7 17:48)

これは自衛隊に限った話だが、人口希薄な半島地域で壊滅的な災害が発生すれば、救助活動は困難を極めるだろうことは、容易に想像できることだ。例えば、北海道の積丹半島で震度7の大地震が発生し、道路も破損、寸断されれば、美国町、積丹町、更には原発がある泊村にどのように人や物資を運べばよいのか、担当者は大いに悩むに違いない。それも厳冬期に発生すれば猶更である。

ただ、たとえそのような困難な状況においても何とかして突破するための技術とルーティンは、やはり現場組織は持っているのだと思う。要は、具体的作戦行動にどうつなげていけるかだ。その行動計画策定の指導を担当せよと言われても、これはもう、素人に求めても無理な注文だ。出来ることと出来ない事は現場の組織が最も分かっているはずで、こんな当たり前のことはどんな製造メーカーの経営者だって分かっている。

★

シビリアン・コントロールとは、それ自体が大切であるわけではない。現場のプロフェッショナルを運用できるに十分な能力がある指導者が民主的手続きで選ばれているなら、その指導者にプロが従う方が公益に適うという思想から発している考え方で、これ自体に反対する気分は何らもっていない。

但し、

上がダメなら、下に任せるほうが良いに決まっている。

日本で武家政治が定着した理由は、本来の為政者である天皇と朝廷・公家集団が社会の変化に適応できず統治能力を失ったからである、というのは新井白石が『読史余論』で述べているとおりだ。

足利尊氏が朝廷軍に一敗した後、西国で戦力を再編成して都に攻め上ってきたとき、現場で戦う武士(=楠木正成)の提案を素人の公家が却下したことが朝廷側の敗因であった。そして日本というお国柄は、いつだってこうなる傾向があるのだ。この点もコロナ禍の最初に投稿したことがある。

ただ、一口に「下にまかせればよい」と言ってトップが安楽に寝てしまうと、下には下で地方自治の県や市町村があり、警察も自治体警察、消防も自治体組織である。それぞれの組織が割拠して、内紛が生じれば、救助どころか救助の足を引っ張るだけだ。「総司令官」が必要な理由はここにある。

日本国においては、自衛隊の最高司令官は総理大臣であるから、今回のような大災害に対応する際も「最高の指揮監督権」は岸田首相に属するという規定だ。願わくば、応仁の乱以降の足利将軍のような弱体将軍とは違い、指示すべき事は指示する、任せるべき事は任せる、そんなトップであってほしいものだ。

ちなみに、日中戦争から太平洋戦争にかけての「15年戦争」の時代、国際外交や国内政治には素人の軍人たちに全面的信用を置いたことが、その後の破滅的敗戦につながったことは明らかな事実だろう。では、その時代の日本人はなぜ軍人たちを信用したのかと言えば、あまりに腐敗した政党政治家に嫌気がさしていたからだ。その気分に乗っかる学者や扇動的ジャーナリストに耳を傾けたからだ。(権力には執着するが)カネには淡白な軍人が清潔に見えた。こんな世間の流れが日本を軍国主義へと変えていったのだろうと想像している。


要は、

自分の熟知していないことに口は出さない方が良い結果につながる。また下手な口出しをしている人物を決して信用しない。

これが民主主義社会においては鉄則なのだろうと思う。 

表現の自由、信条の自由、思想の自由は確かにあるが、社会で信用されるか否かはまた別の事である。信用に値するのは、単なる弁舌ではなく、学識と経験、つまりは実力だ。信用を得るには長い自己修練が必要で、これまた当たり前のことである。

そんな良質で有能な人間集団を育成し、組織として活用するのが民主主義国家の政治の本質であると思う。だから、選挙で選ばれた素人である政治家の為すべき事は、解決するべき問題を提示し

こうしてほしい

という基本的希望を作業目標として付与することで、それで必要十分というものだろうというのが、最近の小生の立場だ。これ即ち、シビリアン・コントロールだと思う。

戦前期・日本は明らかに民主主義的でなかったというのは、こういった側面を指して言われることだと思う。と同時に、戦前期・日本が民主主義的でなかったという点について、日本人はまだなおそこに問題があったと、徹底して理解しているとは言えないような気がしている。《失敗の検証》が必要なのは航空機事故だけではない。「敗戦」は日本史上最大の失敗である。その原因、問題点の洗い出しについては、まだまだ徹底した検証の余地が残っている。

【加筆修正】2024-01-09


2023年12月30日土曜日

覚え書: 三流の経営者が「選択と集中」を行ってきた悲劇ということか

ずっと以前、何年も前になるが、ある旧友と研究費の配分について議論したことがある。

旧友は、日本国内の研究費の配分は悪平等で、非戦略的、実に知恵のない方法で決められている。これでは研究成果に結びつくはずがない。大半の研究予算はドブに捨てられている。もっと《選択と集中》を徹底しなければならない。

こんな事を友人は主張したのだが、それに対して小生は

そもそも研究は砂漠で水脈を探すようなもので、あらかじめ水脈がありそうな区域が分かっているわけではない。分かっているなら、それは研究ではなく、ビジネスだ。所在不明の水脈を探すときに「選択と集中」などが有効とは思えない。

こんな反論をした記憶がある。

その後、同じテーマで論争をすることはなかったが、今でも小生は

純粋の研究費は、一様分布に沿って配分しても可である

そう考えている。 

もちろん結果の見込みがついているなら必要経費を割り振ってもよい。但し、こうした段階にある研究はもはやスタートアップを間近に控えたもので、アカデミックな研究というよりTechnology Licensing Organization(技術移転機関)に委ねるべき活動だ。

★

よく批判されているが、日本の大学間研究費分布は極端な少数集中型になっている。例えば、下の図を参照されたい。




URL: https://www.f.waseda.jp/atacke/kakenQA.htm

あからさまに言えば、日本においては東大、京大、東北大、阪大、名大に研究費の大半が集中して投下されている。

もちろん、東大、京大に研究予算が配分されても、その研究費を使える研究者が東大、京大所属の人だけに限定されるわけではない。研究チームに含まれる人は、学外の人材であっても研究には参加する。とはいえ、何を研究するか、どのような人材を研究チームに含めるかは、研究費を配分された大学に所属する人物が決定している(はずである)。

極端に言えば、日本におけるアカデミックな研究活動は東大・京大が主導していると言っても言い過ぎではないかもしれない。


上の図は、見ようによっては研究費総額に日米で大きな差があるため、日本においてはトップ層未満の大学に配分される研究予算が絶対的に乏しいのだ、と。大学間配分に問題があるのではなく、研究費総額が貧困であることが日本の学術分野の主たる問題である。そう考えることもできそうでもある。


しかし、個人的な感想だが、仮に日本で学術研究費総額が飛躍的にアップされるとしても、その時はその時で、研究費はやはりごく少数の大学に集中的に投下されるのではないか。即ち、上の図の赤い線がただ上方に平行移動するだけの結果になるのではないか。そんな風に観ているのだ。

かつて旧友が嘆いたような悪平等は日本の研究予算配分に認められない。むしろ事実は真逆なのである。

これは文科省(及び国内学術界?)が、研究活動においても「選択と集中」に徹しているということなのだろうか?それはメリハリのある、適切な方法なのだろうか?

上で書いた小生の発想に基づけば、純粋の研究にはなるべく一様に予算を散布し、見通しのついた研究は選択と集中で、ということになるロジックだが、そういうことか?

★

問いかけに全て回答しつくすのは難しいが、ビジネス分野に限っては手掛かりがある。

先日、読んでいたブログでこんな記事を見つけた。テーマは『日本の労働生産性はなぜ低いのか?』という問題である。

考えてみれば、初等中等段階の学力では先進国の中でも遜色のない日本人が、成長するに伴い劣化し、社会人になってからは低い労働生産性しか発揮できていないという現象は、不思議ではないか?

そんな問題意識から出発している。

この記事はこうまとめている:

公表されたリポートは、繰り返しになりますが、日本の人材の潜在的な優秀性を明らかにするものであり、企業部門において日本の労働力・人的資源を活かしきれていない実情を浮き彫りにしています。特に、イノベーション活動はひどい状況です。これは、いわゆる「選択と集中」の失敗によるものといわざるを得ません。選択先を失敗したわけではありません。逆に、イノベーションのためのは広くリソースを配分する必要があるのですが、成功しそうなところだけに集中的にリソースを配分しようとして失敗しているわけです。言葉を変えれば、「当たる宝くじを買う」ことを狙っているわけで、私には極めて非現実的な戦略に見えます。幅広い対象に向かって実施している教育と真逆の方向を志向するイノベーション戦略の転換も必要です。

上でいう「公表されたリポート」とは、日本生産性本部が本12月に公表した『生産性評価要因の国際比較』のことである。

日本の企業、つまり生産現場において、元々は能力のある労働資源を活用できていない。そんな実態を指摘している ― もっと前に指摘できなかったかネエ……。有効なイノベーションがほとんど実現できていない。これは、要するに《選択と集中》の失敗によるものだ。

こんな風に考察している。

そこから得られる一つの帰結は

凡人が行う選択と集中などが成果を生むはずがない。 

選択と集中は一流の人材が行ってこそ結果が出る。三流の人物が下手に選択し、集中を行うと、最悪の結果につながるものだ。

日本の企業経営では、往々にして人柄のよい人がトップ層を形成する。そんな人々が「選択と集中」を行うのは、実に危険な選択なのである。そして、それが「危険な選択」であることが分かってこなかったことこそ、この20年ないし30年間の日本の失敗である。

似たような論題は以前にも投稿したことがあるが、マ、(今更とも言えそうだが)当たり前すぎる事実だ。そう思われるのだ、な。



2023年12月26日火曜日

ホンノ一言: メディア報道にも「第三者による品質評価」が必要では

 少し前の投稿で

2023年という年は《人権元年》と呼ばれるようになるかもしれない

と、こんな事を書いている。

実際、そうなるかもしれないし、ならないかもしれない。というのは、年の瀬になってから、自民党安倍派による政治資金パーティ裏金作りが露見して、そうかと思えばダイハツによる不正検査が暴露されたりと、人権というよりガバナンスの問題が次々に浮上したからだ。

であるので、

2023年という年は《人権元年》、もしくは《メディア崩塊の始まり》

ひょっとすると、こう予想しておく方が適切かもしれない。

政治資金裏金作りは、一介の大学教授が刑事告発する前に、大手メディア企業がスクープしておくべき事柄だった。油断というより、サラリーマン化してヤル気がなくなっているのだろう。

結局、日本国内のマスコミは、報道するべき事柄は報道せず、大した事ではない不祥事をネタにして無防備の個人を追い詰め、社会的制裁を加えて人権を侵害することを生業とするようになった ― 許認可に基づく寡占を公認されているTVメディアを想定して書いているのだが。

『味噌もクソも』という表現があるが、味噌・クソ混ぜこぜなら、まだ許せる。しかし大半はクソだという状態になれば、敢えてオカミ公認のビジネスにする必要もないだろう。これで信頼が崩壊しないなら、日本社会がどうかしている。

★

大雑把な筋道を書く。

(NHKを除く)地上波TVメディアとその他のメディアが担う報道機能には大きな違いがある。

TV以外の報道メディアの受益者は、情報の受取者であって、故に情報の信頼性に疑問符を感じれば、受け取り側が対価を支払わず、その情報を利用しないという選択肢をもつ。それが市場規律となって(最小限の?)報道品質を守らせる。

それに対して、TV企業が提供する(報道・情報を含めた)番組の受益者は、実はスポンサー企業であって、提供される情報の受取者ではない。TV企業が放送する報道番組は、スポンサー企業のプロモーションが目的であって、視聴者はプロモーションのターゲットとして認識されている。視聴率が参照されるのは、視聴者の満足を測定するためではなく、プロモーションが機能しているかどうかを測るのが目的だ。

そして、視聴率を上げるには、(以前にも投稿したことがあるが)歪みのある能力分布を前提すれば、平均未満の階層をターゲットにすれば母集団の過半数に対して遡及することができる。TV企業が放送する情報番組が、社会全体の平均に対して幼稚と思われる水準に近付くのは、必然的かつ合理的な帰結である。

メディア報道に対して視聴者側から批判の声が高まらないのはロジカルである。

もちろん、「こんな仮説とロジックが当てはまるのではないか」という推測である。

★

自民党も党改革に向けた検討会議を設けるようである。また「検討」かと呆れるというのが感想だが、問題意識をもっているだけまだマシであろう。日本国内のマスコミ界は、信頼崩塊の中にいるにもかかわらず、体質改善に向けて何のアクションも起こしていない。

例えば、大学では授業担当教官ごとに《自己評価》を行うとともに、受益者たる学生による《他者評価》を毎年行っている。何年に一度は《外部評価》も受けている。他教官による《相互評価》、《相互参観》もある。これらがどれだけ教育の品質向上に役立っているかを確言するのは難しいが、実証的分析には値するであろう。何にせよ活動と成果を結びつけるには客観的検証が不可欠だ。PDCAサイクルの狙いもここにある。

★

だとすれば、マスコミの報道品質について、《第三者による報道品質評価》をネット上で実施すれば良いのではないだろうか?対象は、メディア企業を評価単位としてもよいし、個々の報道番組、情報番組を評価対象にしてもよいだろう。

運営は、メディア業界と利害関係のない独立した消費者、企業、学界から選任し、消費者団体、教育界、財界、労働界などが寄付をして非営利団体を創設すればよい。

日本の経済活動の中で、民間企業は取引先や同業他社による厳しい目にさらされている。他方、政党や政治家は有権者の目を逃れがちであるし、官僚は政治家と国民をだますことが可能だ。同様に、メディアが提供する情報は、ドラマやバラエティなどとは異なり、現実社会をとりあげながら、自社都合に合うように内容を恣意的に編集する動機をもつ。

実際、オープンな場であるネット上の論調とメディア上の論調とが大きく乖離している話題は数多い。学界の専門家が疑問とする解説や報道も数多いようだ。

メディア報道にも《第三者による品質評価》を定期的に行うシステムが必要だ。

第三者による報道評価と人権擁護団体が連携して活動できれば、日本社会の風通しもずいぶん良くなるだろう。

2022年6月21日火曜日

断想:「政府の責任です」という言い方は評点「可」もしくは「不可」だよネエ

マスコミ、と言っても今日的状況では新聞よりもテレビであるわけで(そして、そのテレビですらマスメディアとしての影響力を失いつつあるのだが)、それが

これは<政府>の責任です

と、こんな言い方が頻繁に、というより余りにも頻繁に聞こえてくるご時世だ。


素朴な疑問がある。

《政府》という言葉にどんな意味を込めて使っているのだろう?

政府って《行政府》のこと?

だとすれば、こういう言い方はおかしいのじゃないか。日本はアメリカと違うのだ。 

こんな風にTV画面の前で声が出てしまう自分がいたりする・・・

いやはや、トシである。

 

政府が即ち「公的権力」という意味ならば、法律的根拠に基づいて「徴税権」や「捜査権」、「拘留権」など公的権限を有している機関がすべて含まれる。拘留権どころか司法権を含めるなら死刑を言い渡して命を奪う権力も日本にはある。しかし、ここまで広義の範囲で使うなら「政府」ではなく「国」という言い方をしているはずだ。

であるから、マスコミ辺りが「政府」と言うときは、先ずは「首相官邸」、これでは余りに狭い場合は「中央官庁」というイメージで、そう言っている印象がある。本当は徴税権や捜査権などをもつ都道府県や市町村も「政府」であるはずだが、なぜだかそれらは「自治体」という言い方をしているのが、やはりメディア・ボキャブラリーであって、この辺の語句の使い方は明らかに大学、学界とは異なっているように感じる。

しかし、マア、テレビのMCや専門家は、漠然と「▲▲省」、「〇〇庁」くらいの意味合いで「政府」と語っているのだと思うし、「政府の責任です」と言うのは「担当大臣の責任」、「担当大臣を任命した総理大臣の責任」ですと、言いたいのはこれだろうというのは分かるのだ。

しかし、こんな原稿では・・・大学で学生が提出するレポートでこの程度のレベルの文章を書けば、評点は<可>もしくは<不可>になると感じるのだ、な。


対米戦争を始めた責任は当然ながら「日本政府」にある。が、これでは実質的な内容は何もない。ゼロに等しい・・・と、気づくところから、勉強は始まるし、報道も同じことなのではないだろうか。

「責任は陸軍にあります」、「いや、海軍にもあります」、そんな思考の流れの末に「いや、いや体制からして天皇に責任があります」・・・あらゆる言い方がある。そのどれもが言い方としては正しい。しかし、どの言い方も単なる<言い方>に過ぎない。だからこそ、現代の日本人は一体日本はなぜアメリカと戦争を始めたか、その責任の帰着をまだ正しく本質に沿って理解していないのであるし、寧ろキチンと究明されていない状況を諦めてもいるわけだ。

先ずは、こう言っておけば間違いない

報道の現場でこんな割り切り方が支配的になっているなら、もうそこには研究という活動はありえないし、報道をしているならロクな報道にはならない。

一体、「間違いない」というのはどういう意味か?「間違いない」というのは「こう言えばそれは間違いだ」という是非の基準があって初めて言えるわけだ。そして是非の判断ができるというのは、前提としている目的や理論がある。故に、「間違いない」という人は、そう考える理由を求められるときに、ちゃんとアカウンタビリティ(accountability)を果たさなければならない。そう思うわけだ。


日本は国会が行政府を指導、管理する体制だ。大統領はいない。議院内閣制である。故に、政府と言う場合には国会を指す意味合いで使うべきだ。現にイギリスの新聞は▲▲議員、〇〇党に視線を向けていて、◇◇省や□□庁がニュースになるのは、何かを発表した時である。日本に置き換えれば、政府の責任というなら、議員である首相、議員である外相と言うべきであるし、つまりは自民党(と公明党)の責任と言わなければならない。

そして自民党の責任というなら、前回投稿でも触れた能力分布を考慮するなら、党の指導的立場にある極々数人の議員の言動に注意を集中するべきなのである。米英のマスメディアは、省庁や組織というより具体的な人物の発言や思想、傾向を頻繁に報道する。

なぜ日本ではそうなっていないのだろう。憶測するに、《記者クラブ制》という制度(?)と省庁という組織が一体になって、日本の政治報道、というより政府報道が展開されているからだろう。

これもメディア産業の「構造問題」の一つを為している。


そもそも、政治は人間関係の中にある。取材も同じだろう。それも「深い人間関係」の上に政治はある。「社内政治」、「学内政治」、全て同じだ。ところが、不思議なことに戦後の、というより現在の(?)日本社会は、日本国憲法のタテマエ的性質をより明瞭に意識しつつあるせいか、政治を人間関係として認識することにネガティブで、ますます社会メカニズムとしての政治というか、なにか実現するべき理想として考える傾向を強めているように見える。少なくとも小生はそんな感覚をもっている。人間関係の中にいれば言葉や態度で自分を表現しあうものだが、そこにはあらゆる要素がある。忖度だけではなく、 揣摩臆測 ( しまおくそく ) もある、 阿諛追従 ( あゆついしょう ) もあって当然だ。 面倒で仕方がない。もっとスッキリできないかと「何トカ政治」の嫌いな小生は願っているが、しかし、非合理で矛盾した人間が衝突する所に政治は必要になるわけだから、あらゆる▲▲政治が非合理的でドロドロしてくるのは当たり前のことだ。この程度の理屈は、成人式も済めば、誰でも分かっているはずなのだが・・・なので、メディアもこんな知的関心に応える政治報道をしてほしい。それが『これは政府の責任です』とはネエ・・・『ボウッと生きてんじゃねえ!』でしかないわナア。

大体、組織のルーティンワークはマネジメントであって政治ではない。ルーティンから出てくる固い情報をメカニックに集めても、清潔かつ透明で不潔感はないが、それは広報であって政治報道とは真逆の活動である。

今日もボヤキになった。同じ内容の事は何度も書いているから、この辺で。

2022年6月17日金曜日

断想: デモクラシーが善いか、悪いか、理屈では分からない

 前に<能力分布>について投稿したが、その中にこんな下りがある:

つまりどんな主題に関するレポートでも

10人のうち3流が6人、2流は3人、1流は1人のみ。

大体こんな経験則になっていると小生はずっと思ってきた。

面白いことに、この分布法則はどれほど細かく専門的分野に分け入っても、どれほどレベルの高いとされる機関の中に視野を限定しても、やはりその中で能力分布があることを観察できる。超トップクラスであるオリンピックにおいても選手の運動能力には大きな違いが視られるのを目の当たりにするが、これも一つの例である。

つまり、視野をどう定めるとしても、その範囲の中で1流の人は極めて少数である。問題によっては、その本質をとらえて正しく推論できる人は、100人に1人という出現率にしかならない。そしてまた、2流グループより、3流グループの方がずっと厚みがある。人数的に多いのだ、な。全体の能力分布は、中位に山がある左右対称型ではなく、平均未満の低位に山があり、ピークから高位の方へ長く右側に裾を引く歪みの大きい分布型をしているのが能力分布の特徴だ。こんな風に思っている。

民主主義的方法で重要事項の意思決定を図るとき、上のような分布が致命的に働くのではないかと思うようになった。

例えば国会議員に支給されるいいわゆる「文書通信費 」であったかな — まあ語句はどうでもよい。語句の正確性など拘るほどの重要性はない理屈だ。「ああ、あれネ」と分かれば十分だ。その使途を公開しようと検討してきたところ、この国会では結論が出ず、先送りになった。

もちろん真剣かつ有能で、仕事の出来る議員もいるわけで、そんな人たちは前向きかつ未来志向で適切な意思決定をしようと考えている(のだと信じている)。しかし、国会議員のレベルも(おそらく)玉石混交なのだろう。有能なヒトは少数で、平均未満の議員が過半数を占めているのだと推測する。低レベルの議員は落選すれば、民間で良い職業機会もなく、現職を続けることのみを希望するのだろう。現職にあって享受できる利益は将来もそのまま受け続けられることを望むだろう。どれほど一流の議員が改革を欲しても、平均未満の階層が反対に回れば、物事は決まらず、結果は《現状維持》になるのである。

デモクラシーとは多数者の支配という意味である。人数で物事を決める民主的決定を覆すには、「勅令」など君主制の下の君主の意志、もしくは三権分立の下で司法権に付与されている権限によるしかない ― 選挙無効、選挙区変更などはその好例だ。

立法府の議員達は日本社会の中では「選良」であり「エリート」である理屈だ。しかし、当選から就任に至るまで、どれほどの能力審査が行われているのか、不勉強にして知らない。おそらく驚くほどの職業的実績のばらつき、資質のばらつき、志のばらつきがあるに違いない(と思っている)。

非民主主義社会が円滑に運営されるには障害が多いと民主主義社会は言うが、民主主義社会が望ましい決定をするのかという点についても、確認するべきことは多い。<三権分立>は機能障害を防止する仕掛けの一例だが、もっと多くの仕掛けを追加するべきだと思うことは多い。

2022年3月17日木曜日

断想: 能力分布の経験則と1流、2流、3流の人物について

100人、200人の、時には500人程度のレポートを毎年定期的に読んでは評価する仕事を続ければ、どんな論題について考察する文章であっても、その出来栄えには一定の分布法則があることには、誰でもやがて気が付くものである。

『この問題が解けた人は学年に2人しかいませんでした』などと言う風なことを、数学担当の教師が口にするのを聞いたことがない人は、ほぼいないのではないだろうか?

数学と言うのは正答、誤答が明瞭に識別されるので誰でもイメージしやすいが、もっと一般の色々な問題についても考察能力の分布というのは同じではないかと思っている。

つまりどんな主題に関するレポートでも

10人のうち3流が6人、2流は3人、1流は1人のみ。

大体こんな経験則になっていると小生はずっと思ってきた。

面白いことに、この分布法則はどれほど細かく専門的分野に分け入っても、どれほどレベルの高いとされる機関の中に視野を限定しても、やはりその中で能力分布があることを観察できる。超トップクラスであるオリンピックにおいても選手の運動能力には大きな違いが視られるのを目の当たりにするが、これも一つの例である。

つまり、視野をどう定めるとしても、その範囲の中で1流の人は極めて少数である。問題によっては、その本質をとらえて正しく推論できる人は、100人に1人という出現率にしかならない。そしてまた、2流グループより、3流グループの方がずっと厚みがある。人数的に多いのだ、な。全体の能力分布は、中位に山がある左右対称型ではなく、平均未満の低位に山があり、ピークから高位の方へ長く右側に裾を引く歪みの大きい分布型をしているのが能力分布の特徴だ。こんな風に思っている。

但し、こんな分布が当てはまらないケースもある。例えば、一定の範囲から出題されることが決まっている入試問題に向かって、誰もが長期間の反復練習を続ける場合には、試験得点の分布はホボホボ左右対称の正規分布、もっと厳密に言えば、ある自由度のT分布に落ち着くことが確認されている。が、現実の社会に登場する様々の問題は、その都度、新しく、長期間の準備期間をかけて事前に解答を準備できるわけでもない。入試問題の得点分布は、一定の環境下でみられる特殊例と言えるだろう。

★

3流の考察と一口に言っても、その内容を細かく見ると千差万別で、人によって異なったことを書いたり言ったりする。2流、1流であってもそうである。

ただ、(数学の場合)正答は唯一であるから、最終解だけをみれば1流の人物は全て同じことを言う。違うのは正答に至る方法、プロセスにおいてである。3流の人物たちは考えるプロセス、到達する解答双方において、一致しない、「ヒトは色々」の状態にある。ただ本筋を洞察できないが故に間違った、あるいは混乱した筋道に沿って考えている点では共通している。

こんな事を書くのは余りにもシニカルだが、ブログとは<WebLog≒航海日誌>だからメモしておくと、

「表現の自由」は「間違える自由」もその中に含んでいる。

マア、「間違っている」というと言い過ぎかもしれない。「間違い」ではないが、「未完成で不十分」、「評価は良ないし可」というニュアンスなのだが、どんなテーマであれ、1流の考察を行える人は全体の中では少数である。この感覚は、実際に採点や審査を一定期間担当した人であれば、わりあいピンと来るのではないかナアと小生は勝手に思っている。つまり、真に耳を傾けるべき見事な考察は少数意見の中にこそ含まれているはずなのだ。

ま、アカラサマにまとめてしまえば、どんなテーマについて考える際にも、こんな客観的状況が成立している。常にこの事だけは言える、というのが小生の社会観、というか経験則である。

★

そして、この事は現在進行中のウクライナ動乱についても当てはまっているのだと思う ― もちろん、コロナ禍の中の「感染対策理論?」でも上のような能力分布が当てはまっていたに違いない。

いまウクライナ動乱についてメディアで様々なコメントを加えている人たちの見解の半分以上は、多分、間違っている、というより(多分)「3流」のレベルなのだと思う。明瞭な「間違い」とは言えないまでも、他人の意見の受け売り、自転車操業的なニワカ勉強の成果等々、内容においては3流の出来栄えなのだと、客観的にはそうなっているに違いないのだ、な。

1流の人を見出すことが最も大切である理由はここにある。

★

しかし、芸術作品であっても、目の前の作品が真の1流の作品であるか分かる人は、これまた少ないものである。それは多くの人は審美感に不足するためである。料理についてもそうだ。1流のシェフが調理しても、それを賞味して、素晴らしい料理であることを認識する人は意外と少ないものだ。味覚能力が不十分であるからだ。

優れた考察を含んでいるレポートに採点中に出会うのは、四葉のクローバーを探すのと似たところがある。クローバーは葉の数を数えれば分かる。しかし、日常の様々な問題に取り組むとき、いずれが1流であるか、どれが3流であるか、見解の良否を識別できる人は少ない。おそらく半分以上を占める3流の見解がまるで正解であるように人は考えてしまうだろう。

こんな風に考えてくると、ウクライナ紛争の進展について甚だ悲観的になる。というのは、前稿でも述べたように、今回の紛争の本質は

要するに

政治の失敗の責任をとるべきところが、開き直って「正義の戦い」を外に拡大している

こういう事でしょう、と小生には思われる。つまりは、プーチン大統領、バイデン大統領、お二人とも次の選挙のことが心配なのである。

これが物事の本質だろう。

  この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

これに尽きていると「俯瞰」するようになった。

難問を解決できるのは1流の人物のみである。3流の人物は色々な事を口先で語るが、語る内容は正答に至る本筋では(おそらく)ないのである。その結果、最悪の社会的選択をしてしまう結果となる。文字通り「最悪」とは言えないまでも、せいぜいが平凡な「凡手」を選ぶに違いない。3流の打ち手が偶然に「好手」、「妙手」を打つなどと言う可能性は低い。

では、1流の人物が為すべき仕事を為す機会は訪れるのだろうか? 

優れた君主が一人いれば、1流の人材を抜擢できる理屈だ。しかし、選挙の結果が任期(任期がないのは非民主主義的だ)の間はつづく民主主義社会において、肝心なときに3流の人物が重要な地位を占めていると、あとの進展は悲惨になろう。

世界には民主主義を採用しているにも拘わらず、まるで《盲腸》のように王制を残している国がある。それは、民主主義の根本的弱点を暗黙の裡に認識しているからだと・・・ン? これは前にも書いたことがあったナア。

いずれにしても、今回のウクライナ紛争、役者のレベルが低く、どこか「底が割れている」感覚を覚える。その狭間で死ななくともよい多くの人が犠牲になっている、というのが今の現実であろう。3流の政治家は世界に悲劇をもたらすのである。

惨なり、惨なり・・・


2021年1月19日火曜日

一言メモ: 「政治(家)主導体制」が崩壊に至る道筋に入ったか・・・

新型コロナにとどまらず「公衆衛生」は「国家安全保障」の核心の一部だ。が、「公衆衛生」というこの分野は、総理や、総理補佐官、官房長官など首相官邸で毎日を過ごす何十人(?)かの指導部がいくら頑張ってみても、その人物集団だけではとうてい結果は出ない。そんなタイプの問題なのである。

公衆衛生で結果を出すには、日本全国を網羅した官僚組織、医療専門家など関係諸機関の全体を動かさなければ、無理なのである。

例えは悪いが、1,2日で勝敗がつく「海戦」ではなく、勝敗がつくまで時に100日もかかるような「陸戦」に近いのが「防疫」という課題である。最終的な解決までには何年も要する持久戦になることが多いのも「陸上戦」と「防疫」とが似ているところである ― もちろん海軍にも「護送船団」という持久戦が課されることはあるが。要するに、最終的解決までに何年もかかるかもしれないことを覚悟し、消耗戦を耐え抜く決意を形成することが出発点である。そうすれば、その何年間かを耐え抜くために必要なインフラやシステムを考えるように自然になるはずだ。

「いつまで頑張ればいいんでしょう」などと聞くのは、その覚悟がないからであり、その覚悟の必要性を訴えずに今に至っているのは、政府上層部がサボっているからである。

やはり、ここ日本ではいつも「現場は頑張るが、上はダメ」なのである。

首脳会談でトップが会談を行い、基本的方向について共同声明を出せば、あとはトントンと事務的折衝で最終合意に至る。そんなタイプの問題も確かにあることはあるが、ウイルスが相手の「公衆衛生」は、そんな手法は役に立たない。

ウイルスに知性はない。知的会話や演説、ユーモアなどは無用なスキルである ― 戦う相手はウイルスであって国民が相手ではない。国民から政治的勝利を得ても大した意味はない。自チームの応援団から熱烈な支持を得ても、敵が強ければ試合には負ける。やはり意味はない。同じことだ。ま、これは最近気になっていることで、付け足しまで。

***

粘り強く統制された組織行動でこそ解決ができるのだから、本来、感染症対策なり公衆衛生という問題領域は日本人にとって得意な分野である。小生はそんな印象をもってきた。

ところが、「政治主導」という旗印の下で、想像以上に日本の官僚組織は中央、地方共に劣化してしまったようである。

弁舌に長けた何人かの個々の人物が好きなことを声高に主張して日本社会全体をあらぬ方向へと引っ張っていった戦前期の1930年代を思い出すというものだ。

***

フラクタルで有名なベノワ・マンデルブロが『禁断の市場』の中で強調しているように、無数の消費者、企業から形成される市場経済の本質とは、どの主体も粒状の微細な存在だという点にある。個々の主体がそれだけで全体に影響を及ぼしえない小さなスケールの存在であってこそ、株価形成には正規分布が当てはまり、派生商品価格に使用される標準的なブラック・ショールズの方程式も成立する。ところが、地球上の岩石のサイズ分布、企業の規模分布などには正規分布は当てはまってはおらず、いわゆる「べき乗分布」が現れる。それは他のすべての実現値を相殺して、全体の傾向を左右するほどのスケールをもつサンプルが時に出現するからである。どのサンプルも粒状の小さなスケールでそろっているという大前提は現実の経済社会には当てはまらないのだ。

現実の市場経済は決して粒子状の多数の経済主体で運営されているわけではない。市場経済に期待するメリットは、多分、「民主主義」にも期待されている特性なのだろう。民主主義が安定して政治的判断を形成し続けるためには、どの有権者も政治主体もその一人だけで他の人物の意向を帳消しにできるほどの影響力をもってはいけないという理屈だ。

おそらく何らかの数量化を行えば、政治現象にもまた安定的な正規分布は当てはまらず、自然の混合物に多く見られる「べき乗分布」が該当しているのだろう。とすれば、極端な結果は人が思うよりはずっと頻繁に現実のものになる。「ブラックスワン」は人が思っているよりはずっと頻繁に社会に現れる。そう考えておいた方がよい。

現実の市場経済は教科書のとおりではないし、現実の民主主義社会の政治現象も政治学の教科書のとおりにはなっていない。

***

話しを戻そう。

一人か、何人かの政治家が、大きな影響力を社会に行使して、動かしていく社会状況は決して健全ではないと小生は思う。その人物がとんでもない偏った目的や理念を心の奥に隠し持っている可能性は常に排除できないからだ。なにもヒトラーを引き合いに出すまでもない。

というか、それほど大きな影響力をもった政治家ですら、公衆衛生という課題は極めて不得意な分野であるに違いない。

多くの人を信頼し、動員し、組織化することでしか、善い結果を得られないからである。組織の中では、大政治家ですら一つの機関に過ぎなくなるのである。

「あの人なら信頼できる」とか、「この人ならイイようだ」・・・などという発想では「防疫」に結果を出すのは無理である。

『司令塔がない』とよく日本の事情を批判する人がいる。しかし、司令塔だけを中央に作ってもダメである。日本に欠けているのは「組織・ヒト・資源」である。明らかではないか。

つまり「大政治家」だから「防疫」という問題を解決できるわけではない。平均並みの凡人集団が相互連携して、組織的、集団的に解決していくのが本筋である。

そして、本来は、こうした集団的問題解決は日本人なら得意であったはずである。その伝統的な解決能力が毀損され、劣化させられてきたのは、小生は2000年以降の「政治主導」が背景になってきたと思うようになった。

これが分かってきたことがコロナ禍の歴史的意義ではないだろうか。

***

ホンネについて語り合ったことは最近はないが、多分、40代未満の若い少壮官僚は今回のコロナ禍によって、この20年間の「政治主導」が崩壊に至る事態を待ち望んでいることだろう。

確かに、外から眺めていると、1990年代の当初の理念はともかく、特に内閣人事局が設置された2014年以降の「政治主導」は、高級な意味合いの「政治による主導」ではなく、低級な「政治家支配」そのものであった。

1920年代の政党政治が崩壊して軍部主導の日本になったのは、今日の日本人からみると何故それを当時の日本人が受け入れたのか、実に不思議に感じる。しかし、歴史に不思議なことは実はないのだ。社会には全体としてそれほどレベルの高い知性も感情も備わっていない。が、それでも社会的な変化はそうなるべくして、そうなったものとみるべきだと思う。とすれば、これから「政治主導」が信頼を失い、何年もかけながら「官僚組織主導」に戻っていくとしても、リアルタイムで生きている今の日本人にとっては「それも仕方がない」と。そんな歴史になっても小生は驚かない。

2020年10月7日水曜日

前回の補足: マスメディアは一般論より視聴率を優先するのか?

 総理大臣による学術会議の任命拒否騒動。案の定、尾を引いていきそうな気配になってきた。

尾を引くとすれば、それは野党が政府攻撃の材料にするからでもあるが、もっと本質的な理由もあるからだと考えなければならない。大体、解決に手間取り、長引く問題には、構造的な原因がある。

そもそも学術会議の行動履歴、内部構造などに関して、世間が周知するよりは根の深い問題が潜在しているからではないか?単なる言葉のやりとり、その場の物言いで事態が深刻化するというのはあり得ないものである。また、もし単なる言葉のやりとりで険悪化するのであれば、携帯か何かで話をすれば済んでしまう話である。根の深い原因があるとすれば、何があるのだろうか?

こう考えなければならない。そして、こう考える方が本当は遥かに「面白い」はずなのだ。

***

政府と学術会議とをめぐっては、歴史的かつ微妙な関係性がある。それだけではなく、学問世界における勢力分布、ヘゲモニー、科学研究費の配分への影響力行使までを含めれば、問題は今回の学術会議騒動をはるかに超える、深い問題につながっていくのは誰もが想像できるわけだ。

大体、前々会長は次期会員推薦名簿のドラフトを首相官邸、内閣府と擦り合わせていたにも関わらず、前会長は擦り合わせ不必要との判断から推薦名簿を直球勝負のごとくぶつけたわけである。前会長は9月末で会長を退任し、新会長は10月に就任し、まったくお気の毒なことである。前々会長は東大、前会長は京大、今月に就任した現会長は東大である。

平成になってから、もう何人もの学者が学術会議の会長に就任したが、前会長を除けば全員が東大から出ている。

フ~ム、なにか見えてくるような・・・と想像するのは下世話な井戸端会議である。

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TV主導のマスメディアは、

一般的な問題はありましょうが、これはマア別問題でして、まずは今回なぜこの6名の方々が任命拒否されたのか?どこが問題だったのでしょう?この話題が先だと思うんです。

こんなシツラエでワイドショーを作っている。

こんな話を続ければ、そのうちこの6名についてあらゆる憶測記事が書かれ、ひどい表現をすればそれこそ身ぐるみ剥ぎ取られるような記事が週刊誌に掲載される。目に見えるようである。そして、当人たちには何の責任もないにもかかわらず、研究者としても傷つくのである。

本質的には今回の6名に何の責任もないと、小生は6名のうち一部分しか熟知していないが、それだけで「本人たちには何の責任もない」と確信できるのだが、任命拒否という政治的騒動に巻き込まれた。結果としてTV業界のプロデューサーは視聴率向上の格好の素材が得られた。番組編成現場は喜びを禁じ得ないはずである。

解決するには、今回の問題を一般的な観点から見直し、問題発生のメカニズムを把握することが第一である。しかし、関係のない視聴者の「下世話な」関心を刺激するには、拒否された6名が一体どんな人物であるのか、何をやらかした人物なのか、こちらに焦点を絞る方が「面白い」のだ。「面白い」、残念ながらただそれだけなのであろう。

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マスメディアは、伝えるべき重要な情報を選んでいるのではなく、視聴率が上がる情報を選んでいる。伝えるべき情報とは社会の問題解決をはかるために周知させた方がよい情報である。それに対して、視聴率が上がる情報とは多人数が面白いと感じる情報だ。この二つは同じではない点に営利を目的とするマスメディア産業の限界がある。

「不十分な情報」は自由な市場が失敗する幾つかの理由の一つ、というのは経済学のイロハである。情報番組が想定する視聴者とは、当たり前だが「情報の不十分な人々」である。故に、事情をよく知らない、情報の受け手である視聴者が求めるものを提供していては、社会的に望ましい状態にはならないわけである。ところが、スポンサー企業は、最大多数の視聴者の関心を刺激してほしいと願うのだ。ここに、スポンサーがメディア企業を金銭面で支えるというビジネスモデルの社会的欠陥がある。

もはや報道ではない。能力も実績もある得難い人材を多人数のエンターテインメントのために消費する活動になっている。小生にはそう見える。

2020年10月4日日曜日

一言メモ: 「日本学術会議?」辺りの反応でいいのでは

 本日投稿の趣旨は標題に尽きる。

「日本学士院」の会員となれば年金が支給されるので有難く存ずるが、学術会議の方は正直関心外であった。会員は内部推薦で任期が6年であるなどという事情は、(恥ずかしながら)初めて知ったわけである。

「国立アカデミー」といえば、「日本学士院」のことであると今の今までそう思ってきた。「日本学術会議?」が率直な気持ちである。

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日本学士院のほうは、古くは福沢諭吉ほか文明開化の指導者が開設した「明六社」に淵源を有しており、そもそもは政府から独立したアカデミーであった。その学士院が、いつの間にか功成り名遂げた「斯界の大家」が老後を送る機関になり果ててきた歴史には、なにか物寂しい心持ちを抱いてきた。

現時点の会員を一覧すると、なるほど「大御所」と認められる大先生の名前が並んでいる。ただ、小生は三田の経済学部で計量経済学を学んで研究生活を始めたので、この分野から選出された学士院会員がほとんどいないのは、些か淋しい思いがする。とはいえ、学士院のような国立アカデミーになれば、あらゆる自然科学、社会科学、人文分野を網羅した全ての学問分野の名誉職ともなるので、新興の学問分野はどうしても少数になるのであろう、その意味では、学問世界においても勢力分布がものをいう、政治的要素はゼロではない、そういうことであろうと思う。

さて、今回は「日本学術会議」の方で内部推薦の一部が却下され、総理大臣の正式任命が得られなかったというものだ。当然ながら、反・保守陣営(=リベラル派?共産主義者?)は猛反発している。小生も最初の印象は「?」というものであった。しかし、「学問の自由の侵害」、「独裁者である菅総理の本質」等々という急速にボルテージのあがる批判をみるに至ると、思わず失笑がもれたりもするのだ、な。

小生の若い時分を振り返ると(これ自体が老化現象を象徴する表現だが)、「沖縄デー」の夜の騒然とした新宿駅前、あさま山荘銃撃戦、北海道庁爆破事件等々の騒乱が思い出され、ここ最近に見られるこの程度の政府批判はマアどうでもよく、穏やかで素直な若い人、体制順応的な4、50代という概括的イメージは変わらないネエと感じたりもする。変わらない日常の情景の中では、政府批判が大いに盛り上がっている、そこが面白い。「突然炎のごとく」という往年の名画があったが、どこまで燃え広がるかこの炎、というわけだ。

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しかしネエ、大体、政府が育成する「国立アカデミー」などはこんなものではないだろうか?

そもそも、政府に直言することをはばからない硬骨の学者は在野にあってこそ輝きを増すというものだ。

韓国の『反日種族主義』は日韓両国で結構売れ行きを伸ばしたが、著者である李栄薫、金洛年、金容三、朱益鐘、鄭安基、李宇衍の各氏は、まさか自分たちが国立アカデミー(翰林院と呼ぶべきか)の会員に推薦され、現政権から任命してもらえるとは、いくら何でも考えてはいないだろう。名誉どころか、著者たちは国内から非難中傷の標的となったり、名誉棄損で提訴されたりと、韓国内で大変な難儀を蒙っている。しかし、これらの事実をもって韓国では「研究の自由」がないとは小生には思えない。逆に、立腹した公衆が著者たちに抗議をする「表現の自由」を尊重するべきだろうと思う。「研究の自由」とは、あらかじめ政府から法的に、金銭面で、かつ心理面で保護してもらい享受するものではなく、自らがさきに行動し結果として貫いていくものではないだろうか。

19世紀終盤のパリでモネ、ルノワール、ピサロなど新進の画家が「印象派」を立ち上げたが、この「印象派」という呼称は自ら名乗ったわけではなかった。当時、フランス美術界を支配していた「芸術アカデミー」(Académie des Beaux-Arts:アカデミー・ド・ボザール)が主催する展覧会「サロン・ド・パリ」に何度も落選し続けたことに腹を立てた画家達が「審査の偏り」を非難し、公式のサロンに対抗して「落選展」を開催した。それが「第1回印象派展」にまで発展した。「印象派」という呼称はモネの作品「印象・日の出」に由来している。新進の印象派の画家たちが新しいフランス美術を創造し、その後の発展の導火線ともなり、現在ではフランスの宝となっているのは、周知のとおりである。

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政府機関でもある国立アカデミー内部で「親政府派」と「反政府派」の派閥対立が激化すれば、政府がそれを喜ばないのは当たり前である。政府機関内部で反政府的活動が目立つようになれば政府中枢が怒りを覚えるのは当たり前であろう。「国立アカデミー」が次第に親政府的になっていくのは組織の宿命である。

現行憲法がある限り学問の自由は制度として保障されている。理念に基づいた政府批判を主張する場合、主張する場として「日本学術会議」は適切な場ではあるまい。特定の価値判断に立つことなく科学的かつ客観的な指針を示すことが組織の使命であろうと思われる。憲法も一つの理念だ。であれば護憲もまた一つの理念である。たとえ「護憲」であれ特定の理念を是とする主張は価値の主張であり、科学的研究にはあたらないと小生には思える ― 何しろデータ分析でメシをくってきた身であるので。自らが正しいと信じる理念、つまり特定の思想を展開するのであれば政府とは距離を置き適切な場を自ら設立するのが本筋だろう。政府から独立した新組織の方に実績も能力もある研究者が集結する可能性は大いにあるのではないかと小生は思う。学問なり、研究なり、知的活動とは本来そういうものではないか。

マア、「日本科学会議」ではなく、「日本学術会議」であるので倫理、法律、歴史、文学等々、価値判断を本質的に含んでいる学問分野が含まれている。故に、組織丸ごとどこか「ごった煮文化鍋」になっている印象もあるのだが、これも一つのありようなのだろう。が、少なくとも「科学アカデミー」、「社会文化アカデミー」、「芸術アカデミー」、つまり《真・善・美》という知の普遍的価値に応じた組織編成に移行するのが自然であるような気もする。そして政府は、日本経済の現状からしておそらく「科学アカデミー」の意見を聴きたいのだろうと思われる。それならそれで、法改正をするなりして、政策を進めていけばよい。それも民主主義であろう。

要するに、今回の騒動は《運営の不備》に原因がある。これだけは言えるようだ。というか、行政面で発生する問題の多くは、ヒトやモノの問題ではなく、方法の問題、組織構成の問題であると思っている。

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すべて政府お抱えの組織は政府の色に染まるものである。政府の枠内に言動を制約されるものである。だから福沢諭吉は一切の名誉・栄典は固辞した。夏目漱石も文部省による文学博士授与を辞退した。ジョン・レノンも授与された勲章を王室に返納したのであった。

当初の「明六社」が、政府お抱えの「帝国学士院」となり、学士院院長のポストがほぼ常に東大出身者で独占されるに至った学士院の歴史を振り返れば、現在の日本学術会議が置かれた状況も「さもあろう」というもので、正直なところ「怪しからん」などと憤慨する気持ちにはならない。

「怪しからん」というなら、何から何までみな怪しからんだろう。

今回のことは、そんなものである、と言っておけばよいのではないか。


2012年4月4日水曜日

数学ブームと統計ブーム

今日もまた前回に続く尻取りゲームのような投稿だ。小生が勤務する職場が提供しているブログに寄稿を求められた。その半分以上は既に投稿した内容と重複するのだが、最終パラグラフは新規に書いたことでもあり、視点は少し異なっている。覚え書きとして保存しておくことにした。

ですます調になるなど語調が変わっているのは、職場のブログに合わせたためだ。

× × ×

世は「数学ブーム」であるとは耳にしています。実際、書店の数学書コーナーに行くと、啓蒙書や入門書が非常に増えているのに驚かされます。


「統計ブーム」である、とも言われています。金融工学の成功と破綻が興味を刺激したのでしょうか?それもあるでしょうが、どうやらリスクなるものに社会の関心が向き始め、不確実な状況でもとにかく決断しないといけない。どれほど安全重視であっても、先が見えないいま、リスクから身を避けることはできない。そもそもリスクとは何だろう?そんな思いが浸透しているのかもしれません。であれば、手元のデータをどのように活用すれば成果を期待することができ、しかもリスクを小さくできるのか。そんな問題意識が浸透するのは自然なことです。


「そんなことなのかなあ・・・」と、色々、思いめぐらしていたところに、二つの知らせが届き「やっぱり、そうみたいだなあ」と納得することがありました。今日はその二つを紹介したいと思います。




× × ×


一つは新聞報道です。2月25日の日本経済新聞朝刊を読んでいた私は、平均値を理解しない大学生の学力低下、という記事に目が向きました ― 各紙も報じていたことと思われます。OBSブログに目を通す皆さんは読んだ方も多いでしょう。

 その記事は、日本数学会が主催した数学力テストの結果についてでした。対象者は、全国の国公立・私立大学生6千人です。サンプル調査ですが、全国大学生の正答率を推測するには、十分なサンプル数です ― マスメディアがよく行っているいわゆる<世論調査>は概ね千人規模の電話調査ですが、このくらいはコストをかけてデータを収集しないと精度に疑問符がついてしまいます。「ウンウン、さすが日本数学会だなあ」と、そう思いながら読んでいきました。

記事のヘッドラインと関係があるのは以下の問題についてでした。新聞には○、×の正答が示されていましたから、ここでは日本数学会の問題から引用させてもらいましょう。皆さんも一緒に回答してみてください。

1-1 ある中学校の三年生の生徒100 人の身長を測り、その平均を計算すると163.5
cm になりました。この結果から確実に正しいと言えることには○を、そうで
ないものには×を、左側の空欄に記入してください。

  1. 身長が163.5 cm よりも高い生徒と低い生徒は、それぞれ50 人ずついる。
  2. 100 人の生徒全員の身長をたすと、163.5 cm × 100 = 16350 cm になる。
  3. 身長を10 cm ごとに「130 cm 以上で140 cm 未満の生徒」「140 cm 以
    上で150 cm 未満の生徒」・・・というように区分けすると、「160 cm 以上で
    170 cm 未満の生徒」が最も多い。
上の三つの設問全部に正答した場合のみ正解となります。出題された問題は他にもありますから、上の問題には大体2~3分で答える必要があります。新聞報道は、大学生の正答率が76%でしかない。この点に焦点をあてていました。

新聞を読みながら、家内が近くでTVのワイドショーを観ていましたから質問してみました。家内は、女性には珍しく数学が好きで、歴史と国語が苦手であり、最近の趣味は「ナンプレ」、つまり数独にはまっています。

設問1は、平均値以下の人が半数いる、以上の人が半数いる。こうは断言できないわけですから、これは家内も正答しました。設問2は、出来なかった大学生がいたこと自体が不思議な現象です。設問3は、家内も間違えました。身長の分布は概ね左右対称であるし、平均身長が163.5センチであれば、その付近の人が一番多いだろう。そう考えたのですね。解答の鍵は「生徒100人の・・・」というところです。たとえ全体としては平均を中心に左右対称になっていたとしても、100人の分布だと違うでしょう。色々な100人がいますから。100人の身長の分布には凸凹があります。低い人と高い人がそれぞれ多く、並の人が少ない100人かもしれません。だから設問3もやはり×なのですね。


上のクイズは、「平均値」についての理解度がよくチェックできる良質のクイズだと思います。しかし、これだけで「平均値も理解できない大学生の低学力」とは言えないような気がしました。


そもそもデータにはランダムな揺らぎが含まれています。それゆえ、大事なことは、データの結果を丸ごと信じるのではなく、得られた結果は想定内であるかどうかという判断です。データを活用する前に特定の想定なり予想を持っていないと<判断>はできませんね。このような場合、二種類の間違いをおかす可能性があることは、統計学の授業でも大きな聞かせどころになっています。

一つは<第1種の判断ミス>と呼ばれています。これは<ヌレギヌ型>というか、想定は正しいのだが、データが想定外に思われる時のことです。もう一つは<第2種の判断ミス>。これは<見のがし型>というか、実際には想定が間違っているのに、データは誤差の範囲というか、「まあ正常」のように見える場合です。


本当にこわいのは、無論、後者の場合です。「おかしい!」と思ったところ、何も異常はなかったとしたら、ムダに騒いだ点はとがめられるでしょうが、何もなかったこと自体は良いことに違いないわけです。反対に、「測定結果は想定内であります」といえば、その場は丸くおさまるでしょうが、実際には想定に誤りがある。大惨事の可能性が見逃されてしまう。これでは手間ひまをかけて調べている意味がないことになります。


本当に怖いのは<第2種の誤り>の方です。想定内と判断する正にその時にこそ、失敗の芽が隠れているのですから。


話が横道にそれました。さて大学生の学力についてです。全体としては大学生の学力は低下していないと想定しましょう。今回の日本数学会が行ったテスト結果は、確かに不安を抱かせるものであり、この低い正答率は<想定外>の結果なのかもしれません。しかし、20年も昔の大学生に同じ数学テストをしたわけではなかろうと思います ― 日本数学会の提言でもこの点には触れられていません。「学力が十分だったはずの」昔の大学生なら、まずこんな回答はしない。事実、もっとできた。この点が確かめられているのであれば、今回の結果は現在の学生の学力低下を証拠付けるものになります。そうではなく、昔の大学生だって間違える問題なのであれば、今の大学生だって間違えて当然です。「ここを日本数学会ははっきりとさせてほしいのだがなあ・・・」と、記事を読み終えた私はそう思ったのです。


つまり厳しすぎる目で、もっと言えば<先入観>をもって、今回の数学テストの結果を新聞は論評しているかもしれません。データの結果をどう解釈して、どんな行動に結び付けていくか。統計の勉強で一番難しいところでもありますし、これこそ醍醐味というところでもあります。統計ブームがもっと深まって、単に学力低下と解釈する見方でいいのか、と。そんな議論も展開されてほしいものです。



× × ×


最初に「二つ紹介しましょう」と言ったもう一つを忘れていました。長くなり過ぎましたから、簡単な紹介にしておきましょう。それは私が所属している日本統計学会から郵送で送られてきたものです。封を開けると、統計検定のポスターと2011年11月20日に実施した検定試験(2級、3級、4級)の問題が入っていました。統計検定の創設については、当然、聞いていましたが、詳細な実施内容まではフォローしていませんでした。統計検定のオフィシャルサイトも既に稼働しています。2012年度にはイギリス王立統計協会(Royal Statistical Society)との共同実施により国際資格の検定も始めるようです。確かに統計調査士や専門統計調査士という職業資格も、統計ブームを単なる流行語に終わらせないために、必要なものかもしれません。いわゆるNumerical Literacyというか、数的処理能力が、現在の社会で非常に必要になっている。そんな実態に支えられた統計ブームであるのなら、統計検定も発足が遅すぎたくらいである。そう言えるのかもしれません。

2012年3月19日月曜日

石原幹事長「沈む船に乗れない」 — このリスク嫌悪症候群

ビジネススクールで統計学を講じていると、様々なケースに応じた利益の確立分布を示して、期待収益率及びリスク指標である標準偏差を説明する段階が必ずやってくる。説明を一通り終えて、さて色々な期待収益率とリスクの組み合わせをもつ幾つかの投資プロジェクト案をパワーポイントで投影して、「あなたはどの投資プロジェクトを選びますか?」と質問する。

いうまでもなくハイリスク・ハイリターン、ローリスク・ローリターンという投資特性を学ぶことが目的であって、危険回避度の高い人はローリスク・ローリターンを選ぶ傾向があるし、リスク・チャレンジャーならハイリスク・ハイリターンをとる傾向が強い。期待収益率が同じであってリスクがより高いプロジェクトは普通は選ばないものだが、中にはリスクを楽しみたいという「天性のギャンブラー」もいる。そんな人は危険愛好者(Risk Lover)という。まあ、大体、標準的な教科書にはこんなことがかかれているわけだ。

そんな狙いで「あなたならどの投資プロジェクトを選びますか?」と、質問するのですな。そうしたところ、小生はいつも驚くのだが、期待収益率にかかわらずリスクが小さい方をとる。そんな人が多い — 半々というのではなく、大半の人がリスクはないほうがいい、と答える。<リスクゼロ願望症>か!吃驚することの多い、今日この頃なのですな。

これはおかしいのである。ハイリスク・ハイリターンとローリスク・ローリターンとどちらが望ましいか、理詰めの議論では結論できないはずだ。リスクが高い分、それを保障するだけのリスクプレミアムが付与され、期待収益率が高くなるという計算なのだから。いくらプレミアムをつけても、リスクが高ければもう駄目。それはとらない。ほぼ全員がリスク最小化を良いことと考えているので、私はいつも吃驚する。なるほど、これが日本の社会的傾向であれば、日本企業の資本収益率が国際的に際立って低いというのは当たり前だわ、と。安全志向なのだから仕方ないよな。そう考える訳であります。リスクに挑戦せずして、儲かるはずがありません。

× × ×

下の報道を読んで思い出したのは、上に述べたようなリスク・マネジメントを説明する時の授業風景であった。
岡田克也副総理が自民党の谷垣禎一総裁に近い幹部に民主、自民両党の大連立を打診していたことを受け、18日、両党幹部から大連立に否定的な発言が相次いだ。
自民党の石原伸晃幹事長は仙台市内で講演し、「それが事実なら(消費増税関連法案をめぐる)民主党内の説得を諦めて野党に話をしたということ。今ごろ何をやっているんだ、というのが率直な気持ちだ」と不快感を表明。その上で「党内をまとめられないのに、野党に協力してもらいたいと言われても、私たちはいつ沈むか分からない船に一緒に乗って航海を助ける余裕はない」と断じた。
同党の町村信孝元官房長官もフジテレビの番組で「まさに(民主、自民両党が)国会で相対峙(たいじ)して議論しようというときに、実は一緒にやるなんて話が通るわけがない」と述べた。
一方、民主党の輿石東幹事長は沖縄県南風原町内で記者団に「野田佳彦首相とも、党内でも議論していない」と述べ、党の方針ではないと強調。「コメントは差し控えたい」として深入りを避けた。民主党で進めている消費増税関連法案の事前審査への影響については「そういうものに惑わされず、冷静に議論していただく」と語った。 
[時事通信社]
(出所:The Wall Street Journal日本語版、2012年 3月 18日 22:06 JST )
自民党も増税を考えている。もっと良い増税案を提案することもなく「沈む船には同乗しない」というのでは、仮に解散、総選挙 — いくら何でも野田政権の後を別の人がまた党内調整だけで継ぐというのでは政権自体がもちますまい — となっても、その後の民主党の協力を望むどころか、消費税率引き上げを提案すること自体が政治的には不可能になるのではないかなあ、と。

日本経済のマクロ的安定性と国民生活の両方を人質に取った政略を敢然と実行できている点で、自民党は今やなぜ自分たちが国会議員という職についているかに目を向けない、そういう意味では純粋の野党になりえたことを痛切に実感するのである。さびしいねえ・・・。純粋の野党たる心構えを身につけたからには、この努力をムダとせず、これから何年も野党として活動していくべきである。そう思ってしまうのですね。他方、民主党も与党というより所属する議員の行動形式は、やはり野党的である。つまり自民党も野党、民主党も野党、みんなの党も野党、共産党も野党、いま日本国は<大空位時代>というか、<全党総野党>の時代となった。

これは日本国の運営に身を捧げようと言う政党がなくなってしまった状態であるから、日本国は大変危険である。その国家的リスクの高まりと、個々の政党、個々の議員のレベルにおける<沈む船には乗りたくない>という極端なリスク回避、安全志向の高まりが同時に観察される。まこと甚だ皮肉な現象である。まあいわば国家的な自律神経失調症とでも言うべきであろうか?

思うに国家のトップ、つまり<国家元首>の存在意義は、政治勢力がにらみ合いとなり、政治的付加価値の生産能力を失ったこんな時であろう。ゲーム論的にいえば複数均衡下で均衡選択を行う触媒となるフォーカル・ポイントを失った状態だ。国会でも可否同数の際の決定ルールがある。これも同様の知恵である。しかしながら、日本においては将軍がいた明治以前ならともかく、戦前期においても<天皇無答責>であり、戦後においては単なる<象徴>である。日本国は国民自らそうであってほしいと思っているのか、考えているのか知らないが、<CEOなき株式会社>と同類の組織となっている。