2018年9月30日日曜日

メモ: 顧客の代替わりが進まない背景の一つか?

今朝カミさんがチラシをみながら話しかけた:

カミさん: ランチブッフェだけどね、65歳以上のシニアは1700円のところをね、その日は1500円に割り引いてくれるんだって・・・

小生: へえ~っ、値下げすればシニアは行くって思っているのかねえ?

カミさん: そうなんだろうね

小生: だけど、シニアって大体は夫婦二人、かなりの人は一人だよ。それとも息子家族がやってきて孫も一緒に一族郎党そろって行くってか?

カミさん: Kさんはそれが多いみたい。でもランチブッフェは考えにくいわねえ、自分たちだけならサ。一人でも行かないだろうし。年をとると、あまり食べないからブッフェには足が向かないわねえ・・・

小生: 思うんだけどさ、ランチブッフェに客を呼ぶなら、若い人、若夫婦やカップル、家族に割引してサ、店のファンを増やすのが正解じゃないのか?シルバー世代にファンをつくっても、その内にいなくなるぜ。

カミさん: そんなに急にはいなくならないヨ。

小生: 老舗デパートもさ、カネをもっているシルバー世代を大事にするのもいいけどね、ヤンガー割引をして店に来てもらう努力をしないと、顧客の代替わりが進まないさ。でも、若い世代に割り引くなんて、あまり聞いたことがないねえ。思いつかないのかな。

カミさん: 若い人はもうデパートからは心が離れてるよ。

小生: まあね。親の世代が馴染みの店にいって、自分たちに買ってくれる場所くらいに思ってるんだろうけどさ。そのためのシルバー割引なんて商売としては本筋を外してるんじゃないかネエ・・・割引してなくとも、買う人は買うよ。

+++

青少年には学割、シルバー世代にはシニア割引。勤労世代はコア顧客。理屈では分かるが、学費、家賃・ローン返済に汲々しているのがその勤労世代だ。時には割り引いてあげれば効果あると思うがねえ・・・そう感じることしきり。

割引を有難がるシルバー世代は、最初からホテルのランチブッフェには行かないのではないか、と。そうも感じるのだ、な。来店客数が増えるとすれば生活に余裕はあるが「バーゲンハンター」で安値を待っている人たちばかりではないか。来る気のない人はそもそも来ないだろう。有難いのはロイヤリティの高い本当のファンだ。とすれば、攻撃的価格戦略を講じてみても単なる減収にしかならない、というのが小生の見込みだ。

顧客の代替わりが最大の課題であることはずっと一貫している。

2018年9月28日金曜日

メモ: 器の小さいこと、旧軍も現・自衛隊も同質?

先日、投稿した軍艦旗の話し:

こんな風に決着したようである。
韓国側は参加国に対し、海上パレード中は艦艇に自国国旗と開催国である韓国国旗だけを掲げるよう要請。韓国国内では旭日旗への批判的な声が強く、掲揚自粛を間接的に呼び掛けた形だが、日本側は拒否する構えだ。
出所:Livedoor News, 2018-9-28
元記事: 産経新聞、2018年9月28日 13時33分

旧軍と海上自衛隊は、行動も異ならなければならないし、国におけるポジションにも明確な違いがなければならない。

「筋が通らぬ!」というのはその通りだが、国際政治に国内法の事情を押し付けてばかりいても、相手は「それはそちらの事情でしょ、こちらにはこちらの事情がある。歩み寄りはしてくれないんですね」と言うだろう。

日本は超法規的措置を得意とし、複数の前例がある。要するに、今回の場合はヤル気がないのだろう。

何か戦略的目的があってのコミットメントなのだろうか?

2018年9月26日水曜日

「貴乃花劇場」を演出する法匪たち?

退職届ではなく引退届では受理できない・・・というのは規則上そうなっているからだ。弟子の受け入れ先の千賀ノ浦親方の署名捺印がないので、これも保留だと言うのもそういう規則になっているからだ。

規則の細目と照合して、有効なアクションを選んでいくのは、法律専門家の日常そのものである。しかし、人間関係の現実は、必ずしも規則を連想しながら機能しているわけではない。世間に迷惑をかけないならご自由に、というのは現代社会の最もありがたいところだ。

文章にしておくのは、現場の当事者では解決不能となり、暴力を含めた実力勝負になる事態を避けるためであって、その意味において法律や規則は社会のツールなのである。目的ではない。ツールである。法律や規則自体に価値があるわけではない、と。

小生は古い慣習が好みなので、成文法は嫌いだというのが本音である。

***

『引退届では受理できない』というなら、要するに慰留をすればいい。

弟子の受け入れ先の署名捺印がないなら、『相手先は了承しているのか?了承も得られていないのに、いきなり弟子もろとも部屋を放り出すっていうのは無責任だぞ』と、ストレートに言えばいい。

日常発生しうる中身のある現実的問題は、ホンネに沿った話し合い(=昔ながらの所謂寄り合い)でほとんど全て解決可能である。要するに、妥協だ。足して2で割ればよいのである。それで丸くおさめてやってきたことは日本社会には多い。日本の社会システムを古層として規定している慣行を拙速にリセットして、法律的論理だけでやって行こうとすると、日本社会は「深層崩壊」をひきおこす可能性がある。そう思うのだ、な。

相撲協会も中央官庁が一枚噛んだ公益法人に衣替えをしたので、慣習よりも規定というベクトルが働いているのだろう。しかし、伝統と慣習とは表裏一体である。慣習を解体しながら、伝統を維持することはほとんど不可能であると小生は思っている。

【加筆:2018/9/30】例えば、関取の髪型である大銀杏(≒丁髷)。まわしをつける取り組み時の風体と挙措動作。横綱の土俵入り。横綱引退時の断髪式。これらは全て伝統と言われるが、要するに慣習である。力士の生き方を規定する慣習を解体しながら、その外観である土俵入りや大銀杏だけは伝統という名で残すことが本当に可能だろうか?もしそうなら、力士はチンドン屋や芸人とどこが違うだろう・・・と、小生にはそう思われるのだな。大事なのはエスプリ(=精神、心意気)の継承であって、行動パターンのコピーではない。・・・

大体、古い慣行が容認できないなら、謝罪する際の土下座などは日本古来の無意味な悪習だ。土下座を要求する行為は法的に禁止するのがロジックだろう。

話しが脱線してしまった・・・。ともかく話題を戻す。

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公益法人を運営するにはコンプライアンスが求められる。他方で、相撲という伝統興行は成文規定で細目を規定しておこうと考える西洋文化が日本に根付く以前から続いてきた。

あらゆる局面で、二つの文化が衝突している印象である。

歌舞伎に男女雇用均等原則を当てはめれば歌舞伎という伝統芸術は変質する。茶道の組織運営に民主的かつ透明性ある組織運営を求めれば裏千家や表千家といった家元の伝統は途絶えるだろう。能も同じ、狂言も同じ、華道も同じ、日本舞踊も同じだ。どれも「和の文化の粋」として今やカネの生る木ではないか。尊重するのが上策だ。

規則の条文を操作する「法匪」のごとく外部弁護士が組織運営で重要な役割を果たすという現状はもう限界ではないか。

純粋スポーツ路線からは方向転換して、継承されてきたありのままの現実で相撲という闘技をファンにアピールすることを第一目的とするのが望ましい戦略だと思われる。

大体、引退届なんてえものを代理人(弁護士?)に頼んで届けてもらうなんて、土台、おかしいヨ。で、本人は行かずに瓦版に口上を述べるってんだから、男じゃねえ。サッパリしねえよ。気に入らないネエ。そう思いませんかい?エッ、あなたそう思わない?本人が提出する義務があるとは規則に定められていない?まったく・・・だから、嫌だってんだヨ!よくそれで相撲が好きになれたねえ・・・エッ、普段はみない?あんな古いもの、みるわけない?なくなっちまっても構わねえと思ってる御仁が、相撲のあれがどうの、これがどうのってサ、言えた義理じゃあないんじゃござんせんか?関心ないなら、口つぐんでサ、別に世間様に迷惑かけてるわけじゃなし、何も言わずに見てりゃあ、それでいいんじゃあござんせんか?エッ、口は出したい、自分は民主主義者だ・・・、ホントにまあ困った人だネエ、あなたも。
ま、こんな心境である、な。

伝統芸能は、行う人と楽しむ人とが直接にかかわって、その在り方を決めていけばそれでいい話である、本来は。楽しんでいる人たちを外野から邪魔する権利などは誰にもないわけだ。別に日本経済とも、国の未来とも関係のない話である。分裂するのもよし、まとまるもよし、である。

【加筆:2018/9/30】まあ、平々凡々たる力士もいれば、傑出した名力士がいるのも事実だ。ボンクラ力士の俗っぽさが偉大な名力士のスピリットを押しつぶしているなら、極めて残念であるのも事実である。

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『新聞を読んだのなら分かるようにキチンと署名捺印しておいてヨネ!』、間違って朝刊をカミさんに廃棄されたのに腹を立てて文句を言ったら、こんな風にやり返された。これもまた現代日本社会で法匪がのさばる現状を象徴する出来事か・・・(もちろん嘘でござる)。


2018年9月25日火曜日

予想: エネルギー政策の方向転換 or 迷走

産経新聞辺りは早くも「脱原発・再エネ依存は国を危うくする」という論陣を張ってきた。社内で統一見解が出たのだろう。今後、年単位で日本のエネルギー政策は(再び)迷走することになるだろう。

再エネ重視戦略が、農地転用、森林面積減少と(印象的に)関連付けられ、ひいては土砂災害多発の原因の一つだなどと指弾されることがないよう祈るのみだ。

〇〇〇予想〇〇〇

脱原発への歩みは、今回の北海道ブラックアウト発生で少なく見積もって20年は遅れる。


福一事故の後遺症が残る中、確かに脱原発は望ましい理想には違いない。しかし、いかなる理想も事実には勝てない。沈黙を余儀なくされる ― まあ、狂信者は少なからずいるだろうが。

仮に脱原発の方向を是とするとしても、東日本大震災後の政策転換は拙速にすぎた。戦略的には正しいにせよ、この数年間とってきた戦術は間違いであった、と。原子力規制委員会の手順・進行方式をも含めて。こう考える。

おそらくこんな風な議論が巻き起こってくるだろう。小生は、脱原発という方向には究極的には賛同するものの、「脱原発原理主義」は愚かな夢想だとみている。

ドイツに一途に憧れるのは、1930年代半ば以降にドイツに心酔して国を誤った戦前期の革新官僚、軍官僚を思い起こさせられて不快である。

戦略的変更を完了するには入念な準備が必要である。拙速は全体的崩壊を招く可能性がある。故に、政治は科学ではなくマネジメント、もっとよく言えばアートだと言われるのだ。

理論は事実によって修正を迫られる。珍しいことではない。

2018年9月24日月曜日

大地震のあと「諸般の事情あり」・・・となるのか

昨日は月参りに来る住職が住いしている寺で彼岸法要があった。法要が終わると境内で地蔵菩薩の例大祭があるのが習慣なのだが、「諸般の事情」で昨日は取りやめになった。

「諸般の事情」という言い方は、政界・官界・財界で日常的によく使う言い回しだ。

東日本大震災で全国の原発が全て政治的に停止要請され稼働を止めた中、北海道では特に電力需給のバランスが綱渡りであったので、道議会でも「ブラックアウトが発生するリスクがあるのではないか?」という質問があったと報道されている。要するに『大丈夫か?』という確認である。それに対して、道庁は(言葉通りではないが)『まあ、大丈夫である』と答弁してきたよし。

ところが現実にブラックアウトが発生してしまい、道民の生活の安定に直接的責任を有している北海道庁は偽り、といっては気の毒か、甘い見通しをもってきた姿勢が露見してしまった。

この世界に抵抗できないものがある。一つは論理であり、一つは事実である。どんな高尚な理想も、固い信念も、論理で負ければ誤りと判定され、事実によって否定されれば間違いであったことになる。

そんな場合、上層部の方々はよく「諸般の事情により方針を変更いたします」と言うものだ。

この何日かの地元紙、TV報道の言い方・論調は、滑稽なばかりに口ごもり調子であり、逃げの姿勢が露わになっている。具体的なエグザンプルを引用するのも馬鹿々々しいと感じるほどに、情けない調子になってきている。

「諸般の事情」というのは"because of various reasons"と英訳されるのだろうか。英語はロジカルだから、こう言うと"what are the reasons?"と聞かれそうだ。

「諸般の事情あり」とはヤッパリ英語にはなりにくい表現だ。論理的にツッコムと「お察し下され」といって平身低頭するといった情景が、この先待っているのだろうか・・・。

まわる~まわる~よ、時代はまわる~
喜び悲しみくり~かえし~

いま経済産業省の資源エネルギー庁に在籍している官僚達は、にわかに訪れた修羅場が30年に一度の出世の好機であることを悟り、部内は湧きたっているものと想像する。どこまで遠方まで見えるか、その人の力量にもよるが、小生も『もっと若けりゃ参陣するものを・・無念じゃ』と思うことしきり。

道庁の方は・・・どこか意気消沈しているようにみえる。

まあ、時に勝敗あり、人事をつくして天命をまつ、である。何事も。


2018年9月23日日曜日

断想: 心の世界と唯物論

今朝はまた物騒な夢をみた。時々、浮世離れをした夢をみる。夢もまた意識の流れではあろう。

いつの時代だろうか、どこかの城の大広間に自分はいた。板敷である。大勢の武者がいて、庭の松明があかるい。周りをみているうちに、誰かがある小者を連れてきて、何かをいった。何を言ったかは目覚めてすぐに忘れてしまった。しかし、その時自分がいった言葉が頭の中に残った。
そ奴の首をはねよ
と、そういったのだ。

記憶の古層の下からときどき何かを思い出すことは誰もが経験することだと思う。しかし、夢というのは何かを思い出しているわけではないはずだ。しかし、何もないところから意識できるということがあるのだろうか。

***

意識は自分の内部に存在する世界である。外界の現実もまた感覚器官を通して意識として再構成されている内部世界に他ならない。

西洋哲学では、物質と精神とを二分する思考を繰り広げてきた。外界の物質だけが真に存在するものであり意識も物質の中の現象にすぎないと考えれば「唯物論」になるし、世界とは再構成された意識であり意識の世界においてのみ存在・非存在を議論できると考えれば「唯心論」になる(と理解している)。

小生は、ずっと以前にも投稿したように、下部構造が上部構造をすべて決めていくと基本的には考えている。この点では、唯物論者であり、やはりマルクスと同じであるともう一度反復して言うことができる。

家族のあり方、地域社会のあり方、国家の役割、男女や上司部下といった人間関係のあり方(=セクハラ・パワハラ等の認識のしかた)、何が正しい社会かという思想・常識などは、すべて人間社会の生産プロセスの構造が決めてしまうと考えている。「生産」とは、人間社会が生きていくための現実そのものである。要するに、生きていくために都合のよい社会をつくり、国をつくり、法をつくり、人間関係をつくっていく、と。そう考えている立場に変わりはない。

人は自分たちが生きていくのに都合のよい思想を選ぶか、選べないときは発明する。

こういうことだと思っている。倫理や常識はもちろんその時点で是とされる思想を反映するものである。

***

他方、小生の基本的な立場は(これまた前に投稿したように)「他力思想」を是とするものだ。自分の心の中の世界、つまり意識する世界の核心には阿弥陀信仰がある。というか「ある」ようになった。科学的認識とは異なる。「信仰」かもしれない。信仰も思想の中の一つだ。

こんな風に自己を意識する人間存在もまた現代の社会的生産関係の産物である。そういうことなのか。

どうも意識の流れと唯物論とがどうにも溶け合わないまま生きている感覚がして安定しない。矛盾の感覚がある。どう矛盾しているかはこれからの勉強のテーマだ。

仏教でも、物質と精神を金剛界と胎蔵界にわけて議論してきた。が、以前読んだ司馬遼太郎の『空海の風景』では「両部不二」という思想にふれていた。仏教思想を勉強したことはないが、実にユニークな見方だ。これが「密教」の特徴なのだろう。

2018年9月22日土曜日

ブラックアウトと電池の話し・企業の良心の話し

朝寝坊をした今朝、カミさんとこんな会話をした:

カミさん: 停電の日、ヤマダ電機で買った乾電池ネ、色が青いでしょ、表面が。みんなは赤いのを買ってたのよね。あっちの方が良かったのかなあ・・・

小生: あのね、パナソニックのエボルタ。あれだと外した状態で10年もつみたいだよ。

カミさん: ホント?ちょっと調べてみるかな・・・
(iPadで色々と検索をしている様子)
ウ~ン、よくわからない。どこが違うのかなあ・・・

小生: 貸して。なんだ「パナソニック 乾電池」で検索してるの?知りたいのは「エボルタ」だろ?電池そのものは、これ?ん、"Evolta Neo"って書いてるじゃない。これ以上の製品はないんじゃない。

カミさん: じゃあ、他の人たちが買っていた赤いのは?

小生: "Evolta Neo"は"Evolta"を超えるって書いてあるよ。赤いのは普通のアルカリ乾電池だったんじゃないの?

カミさん: そうかなあ・・・

小生: まあ、10年もつって言ってもさ、それに液漏れ防止が施されているっていってもね、まあ、ラジオからは外しておくけどね。

カミさん: 長い期間使わないときは電池を取り外してくださいって書いてるものね。

小生: そうだろ。でもね、メーカーってのは可笑しいんだよ。使用済みの電池は使わないでくださいとも取扱説明書には割と書いてるよ。

カミさん: 使わないときは外して、使いかけの電池は使うなってさあ・・・どうしたらいいの?

小生: 要するに、一度電池を使ったら、またそれをいつか使うなんてことはせず、どんどん新しいのを買えってことさ。安全のためにっていう理由はあるにしても、まあ販売戦略だな。あまり良心的じゃないよネエ。

カミさん: フ~~ン、でも、使いかけでも使っていいんじゃない?音が出れば。

小生: 僕も使ってるけどね。まあ大体、メーカーっていうのは、そもそも「良心的」じゃあないんだよ。

カミさん: そうなの?

小生: そうそう。

***

メーカーというのはそもそも良心的ではない。

自社利益を最大化することが企業一般の目的である。国民の幸福を向上させるというのは経営目的ではなく、ソーシャル・メカニズムの動作特性がもたらす結果である。そういう風に制度を設計しているわけであって、経営者の業績ではない。

電池を入れっぱなしにしていると液漏れの危険がある。使いかけの電池を新品と混ぜて使うとやはり液漏れの危険がある。まあ、色々と「べからず集」は出てくるようだ。が、電池を買う人でこんな情報を集める人は稀だろう。

社会は病院と同じで、何か問題が発生して困ったときに、異常が発生した時に、臨床的に対応し、その後の安全を約束する。そんな風に世間というのは動いているものだ。

そもそも異常などは起きないようにしようというのは、そもそも人間世界から病気なるものを無くすことが重要であるという空論と似ているところがある。

***

北海道ブラックアウトについては、その原因検証作業も進んでいるようであり、既にマスメディア、ネットには数多の意見が公開されている。

先日の投稿では「マスコミの暴走、ネットの無法」について、その時の考えをまとめておいた。

思うのだが、エネルギー戦略という相当深みがあって、一定の予備知識、学問的背景、自らの思考を練り上げる努力などが要されるトピックについては、圧倒的にネット媒体の方が内容に信頼性がある。

民放のTVは低コスト番組編成方針が歴然としており論外としても、大手新聞メディアに書かれている(書かれつつある)意見もまた、すべて一面的かつ他人事、しかも特定の価値観を地元住民に押し付けているようでもあり、読んでいると実に腹が立つものが多い。

新聞には、時に専門家の意見が掲載されるが、ほとんどは一言コメント、長くてもA4版3,4ページ程度のショートレポート。一本の論文にもならない程度の短文にすぎない。ここが、いわば毎日発行する新聞メディアのウィークポイントにもなっている。要するに、啓蒙的役割を発揮していないのだ。

もちろんネットに投稿されている意見は、大半が一知半解で、レポートにもならないような感想文に過ぎない。しかし、部屋の中をひっくり返して探しているうちに見つかる宝物にも似ていて、その中には本当に良質の投稿が見いだされる。そんな嬉しい経験を与えてくれるのは大手マスメディアではなく、ネットの方である。

そのことを改めて確認したことも今回の経験だった。

大手マスメディアもまた民間企業である。企業というのはすべて、そもそも良心的ではないのである。

新聞も乾電池も商品である。やはり似ているところがあるものだ。

2018年9月18日火曜日

北海道の電力をめぐる論点と主観的見通し

先日の北海道胆振東部地震については、地震自体の被害も確かに大きいが、それよりはむしろ北海道全域ブラックアウトという戦後日本では(ほとんど)初めての経験をどう理解すればいいかという点に問題は集約されつつある。

TVのワイドショーでは慎重に論題には挙げていないが、結局、泊原発の再稼働を認めるべきか否かという点にしぼられていくのは必至である。

この点は誰もが分かっているとみえて、特に「反原発派」を自認する向きは、はやくも絶対反対の論陣を張り、気の早いグループはもう路上デモを打っているようである。

その反対論が政策として現実妥当性を持つかどうかが今後の焦点になるだろう。いまのところ、今回のブラックアウトを泊原発再稼働の是非と関係づけて議論すること自体に反対しているのは、マスメディアの中の「しんぶん赤旗」(日本共産党)にほぼ限定されているようである。エコノミスト、電力エンジニアも意見が割れているようだ。

★ ★ ★

今後検証されるのは、先ず次の二つの点だろう。
  1. 泊原発が稼働していれば、今回のブラックアウトはなかったか?
  2. 今回のブラックアウトは泊原発が稼働していなかったことが原因なのか?
上の二つの設問は同じではない。が、まずはこの二点に回答を与える必要はある。まあ、設問1には<なかった>という結論がより説得力をもつのではないか。稼働していれば、泊に外部電源は必要なく、今回の震度2で何の問題もなく稼働を続け(られたかどうかが検証のポイントではあるが)、胆振東部地震後の供給調整も円滑に行われていたであろうと推測されるからだ(推測できるかどうかを検討するわけだ)。設問2については、現在データを検証中であり、いずれ結論が出るだろう。

更に、足元の喫緊の問題は:
本年12月から来年2月下旬までの厳冬期を泊原発再稼働なしで人命リスクなしに乗りきることができるか?
これが実は議論を最も紛糾させる一点であろう。というのは、厳冬期にブラックアウトが起きれば、時期と天候にもよるが、次はほぼ確実に凍死者が少なからず発生するだろうからだ。リスクの評価に誰もが合意する唯一の科学的正解はないはずだ。が、前の設問1・2への回答によっては、上の問いに対する答えも一義的に決まってしまう。

厳冬期の北海道は札幌でも最低気温がマイナス10度まで下がるのが普通であり、上川・道北ではマイナス20度から30度まで下がることが珍しくない。首都圏や関西圏で机上の議論をしても、電力安定化が最も重要であるという現実がある。「何が正しいか」を語る理念や理論では結論は出ないだろう。現場の必要から結論は決まってくる。

まあ、しばらく時間が必要だろう。

政治家、学者、エンジニアから北電の経営戦略について様々な批判が提出されているが、そのほとんどは『いまそれを言っても意味がないでしょう』という内容のものだ。今年の冬がいまは問題の核心である。

長期的にみれば、どんなことでも可能になる。何でも言える。問題は足元にある。足元の制約の下で最適解を決定しなければならない。リスクを最小化しなければならない。この点がおわかりになっていない人は大変多いように見受けられる。

★ ★ ★

小生が現場にいれば、こんな提案をする。但し、長期的戦略であるから今年の冬をどうするかとは無関係だ。この冬をどうするかについては、前の投稿でも書いたし、ほぼ最適解は自明である。

気象庁の『全国地震動予測地図』から明らかなように、今回地震があった胆振・石狩地方は北海道の中でも地震の多発地域である。その地区にわざわざ電源を集中立地させていたのは、電力の大規模需要地に近いためであり、送電ロスを避けるためであったと思われる。

もう一つの大規模発電施設である泊原発は胆振からは遠く、日本海に面しており、地震確率は非常に低いことがわかる。立地戦略として泊に原発を配置したこと自体は、合理的である。

ただ、小生なら、オホーツク沿岸にもう一か所、最新世代の原発施設を配置し、電源を分散化し、泊への集中度を引き下げたいと提案するところだ ― 悲しいかな、自由化による競争圧力にさらされている北電には、電力安定化にいくら寄与するとはいえ、こんなプロジェクトに資金を投じるインセンティブはないだろう。それと国防上の懸念があるという人もいるだろう ― まあ、道内に配置するよりは樺太・北海道連系線をひいて電力輸入するほうが北海道の道益には案外かなうようにも感じられる。

2018年9月15日土曜日

一人当たりGDPとは逆に、幸福の生産性は下がっている?

今朝、目覚める前の頭の中で白居易の詩の有名な一句が思い浮かんだ。
日高睡足猶慵起
小閣重衾不怕寒
遺愛寺鐘欹枕聴
香炉峰雪撥簾看
ノンビリと朝寝をする冬の朝。カケ布団を何枚も重ねて心地よい温かさだ。 ン、遺愛寺の鐘の音が聞こえて来るなあ・・・雪でも降ったのかしらん。窓のスダレをあげてみてみようか。

こんな詩句を創っている人が不幸であるはずはない  ―  当時、白楽天は都から地方に左遷されていたが、芸事に熱中していると人は不運を忘れてしまうものである。

いくら世界帝国であった唐王朝の時代であったとしても、科学は未発達、生産技術は現代の目からみれば劣悪であったはずだ。

***

小生は小学校4年の一学期で愛媛県から静岡県に転校した。父が三島工場に転勤したので家族で引っ越していったのだ(現代では単身赴任しているところかもしれない)。

松山港を夜に出港する関西汽船に乗り(たしか「こがね丸」という船だった)、翌朝大阪港につく。大阪駅に移動し、そこから東海道本線の「特急つばめ号」に乗車する。いよいよ入線するとき、構内放送で『9時36分発、東京行き「第一つばめ」が到着します』という案内が流れたのが今でも耳に残っている。その「特急つばめ」だが、当時の国内最速であったものの、大阪から東京まで大体6時間かかっていたはずだ。小生たち家族は、沼津で下車し、そこから普通列車で三島まで一駅のったから、結局前夜の乗船から丸1日弱はかかったことになるだろうか・・・。

それでも白楽天が生きた8世紀末から9世紀初めの時代よりは余程ましだったろう。江戸時代に四国・松山から伊豆・三島で旅をすれば、半月でも足りなかったのではないか。実に昔は不便であり、生産技術、医療技術、輸送技術は遅れていた。

***

しかし、旅行に日数がかかるのであれば、すべての事はそれを前提に予定化されていたはずだ。

父が松山から大阪まで出張するときは必ず大阪に一泊した。帰るときには土産を買って帰ったものである。今なら特急で岡山までいき、新幹線で大阪に移動し、仕事をすませるとその日のうちに松山に戻るはずだ。

効率化されるというのは、単位時間内に多くの財貨サービスを生産できるということであり、一定のアウトプットに必要なインプットを節約できるということである。故に、技術の進歩を通して効率化が進めば、より多くのGDPを生産することができる。

いくら効率化するとはいえ、より多くの財貨サービスを生産するには、より多くの生産要素を必要とするのは、長期的には避けることができない制約である。

効用や満足度は、同一人物であっても時点が異なれば直接に比較することはできない。とはいうものの、不便であった時代に松山から三島まで移動した小生たち家族と、飛躍的に便利になったいま小生が感じている幸福度は、さして変わらないことを明確に意識する。

***

昔もいまも、1日は24時間であり、7時間くらいは寝るものだ。社会全体がスピーディであれ、スローであれ、人間一人が1日過ごして得られる幸福にそれほど大きな違いはないように感じる。人間はそんな風に出来ている。

物的生産性が低かった昔と、生産性が飛躍的に向上した現代と、そこで生きている人たちが感じている幸福度は、直接的に比較するロジックはないのだが、あまり違いはないように感じるのだ。それは亡くなった両親や祖父母と話したことからも憶測されるのだ。戦争と平和という国際的な環境の違いはあるが、人は、どんな時代であれ、文化をつくり、社会をつくって、そこで生きるものである。

現代では40歳になってから子供ができる家庭も多いが人生は80年だ。昔は人間50年だった。結核にでもかかれば20代、30代で身罷る人もいた。ゼロ歳で期待される平均寿命は50年未満だったろう。その分、結婚は早く、最初の子供が生まれるのは20そこそこ。人生50年未満で20歳、人生80年時代には40歳。昔も今も人間社会の基本設計に大きな違いはないという一面だ。

***

こう考えると、一定の幸福度を達成するのに、現代日本人は多くの商品を必要とし、多くの資源を消費しているのに対し、昔の人たちは少ない生産で満足し、資源を浪費することも少なかったことになる。

消費する資源当たりの幸福生産性という概念を定義できるなら、一人当たり幸福生産性は長期的に低下トレンドをたどっている。こういう見方もありうるかもしれないネエ・・・と。

むしろ、それぞれの国に生きる人たちにとって、幸福度を向上させるのは物的な豊かさというよりは、砲弾が飛び交う内戦で命の危険を毎日意識している状況を解決する、テロリストの標的になっている状況を解決する、独裁者によって支配されることがない、盗聴と密告が当たり前の社会になるのを防ぐ、近隣の住民との相互信頼を築けるか等々であって、つまり幸福とGDPとは本質的には実は深くは関連していないように思われるのである。

マア、会社が倒産すれば生活に困るわけで、経済と幸福とが全く別物でないのは確かだが・・・。それに、何かに怒っている人は幸福ではないと思われる。

『昔はよかった・・・』というのは年寄りの繰り言で、馬鹿々々しい愚痴の典型として引き合いに出されることが多いのだが、より多くの商品を消費しながら、その物的な豊かさに見合うだけの幸福を作り出しているのか?この問いかけに対して、現代に生きる人間は沈黙せざるを得ないのではないか?

目がさめる前の頭は、普段とは違った回転の仕方をするものだ。


2018年9月14日金曜日

怒れる世代ではなく、怒れる時代、ということか

全米オープンでも元(現?)女王のセリーナ・ウィリアムズ選手の激怒振りが話題になっている。同情されたり、揶揄されたり、批判されたりと、世界では賛否両論があるようだ。風刺漫画がオーストラリアの新聞に掲載されて、それがまた賛否両論を集めているようだ。

まさに議論百出の時代。というより、賛否の「否」の側に立てば、いまは「怒りのとき」ということだ。

その昔、「怒れる世代」という言葉が流行した。日本では学生闘争が吹き荒れ、路上ではフランスデモ、スネークデモ、火炎瓶と機動隊との衝突・・・小生もまたリアルタイムでTV中継をみたものだった。ストを遠慮するべき国鉄でも「順法闘争」で電車が全面ストップしたりした。その果てには「あさま山荘銃撃事件」があり、「連合赤軍リンチ事件」などもあったりした。

・・・あれから40年。いや半世紀がたったか。
気づく人は気がつく。「怒れる世代」とは「団塊の世代」とほぼ一致している。「怒れる爺ちゃん、怒れるばあちゃん」が多くみられるとしても、それはそういう世代なのだ。

★ ★ ★

人が怒るときというのは、自分が「不当」に扱われているという感情が基底にあるものだ。

言葉にすると、(例えば)『僕は・・・なのに・・・』、あるいは『せっかく・・・それなのに・・・』という表現になることが多い。「不当である感覚」、それが怒りの核心にあることが、ほとんど常ではないだろうか。

セリーナ選手もそうだった。女性だから男性と別に扱われている。黒人選手だからこその風刺漫画になっている。「これは不当だ!」という怒りが根底にある。

人は怒りの感情に襲われる時、正義を意識するものだ。

法律でも「不当」という用語が使われている。「不当利益」とか「不当行為」がそうだ。<不当>という言葉は、正義の感情と法的規定が合致する、なので怒っている人には好都合な状況であることを教える、それ故に人は「不当だ」と感じると、何の遠慮もなく、怒りを世間に対して、意見の異なる人々に対して、ぶつけることができると考えている。

それが現代社会の特徴だと小生はみている。そして、こんな社会のありようは決して小生の好みではない。というより、見苦しくてウンザリする。

怒りの感情は抑制するべき煩悩であることの方が多い。経験上、そう感じている。

★ ★ ★

古代ギリシア文明がグローバル化したヘレニズム時代、ストア哲学が流行した。異文化の世界がそのまま統合された世界で、最高に善なる価値はすなわち<幸福>であると論じられた。そして幸福に至る道として最も重要なのは<心の平穏>であると考えたのがストア派の哲学者たちであった。この学派は、のちになってローマ帝国のエリートを支えるモラルにもなり、東洋における儒学に近い役割を果たした。

16世紀の文人・モンテーニュは長大な『随想録』を書いたが、人間や世間のあらゆる側面についてクールに論評している。『徒然草』は枕元においてあるが、『随想録』もどこから読んでもいい便利な本である。
怒りは自己に悦び、へつらう感情である
この下り、小生は忘れていたが、どうやらこの句が好きな人も多いらしく、ネットの検索に引っかかってきた。

無学は悪の母である
これもまた『知は力なり』と同じ趣旨になるが、忘れたことはない。何か、というより何でも批評するのは、ネット時代の特徴だが(本ブログもそうだ、くらいは自覚している)、知識と理解に欠けた批評は社会の害毒にもなるということで、いま苦境にあるフェースブック、ツイッターが社会的責任を問われているのは、単に「表現の自由」という価値規範をいえば何でも通る時代ではなくなってきた。そんな社会的現実が伝わってくる。そういうことだと思う。これまた進歩の兆候であると言えばそうなのだろうが。

フェークニュースとか、悪意のあるデマが問題なのだという単純な思考ではだめだという気がする。SNSは確かに曲がり角を迎えていると思う。無論、ジャーナリズムも同じことが言える。ともに民主主義には不可欠のツールだとは思うが、衆愚政治の温床になるならない方が良い。

ペロポネソス戦争で敗戦したあとの民主国家・アテネの現実をみたプラトンが、哲学者による政治指導を夢見たのは、素人談義で国の重要事項を決めていく方が「正しい時代」とそんな方式では「危ない時代」との双方の時代があるという認識に裏打ちされていた。そんな風に小生は思っている。

2018年9月11日火曜日

メモ: 「旭日旗」に対して思う事

小生の子供時代には、まだアニメも戦争中を題材にした軍隊ものが多かったし、ドラマともなればもっとそうだった。中国戦線で活躍した帝国陸軍の一分隊が主人公となって、最後は分隊長を含めて全員が戦死・壊滅するところが最終回だったことをかすかに覚えている。

そんなドラマやアニメで旭日旗は頻繁に登場していたわけであり、その時には食傷し、今では「あれはどんな趣旨だったのだろう」などと思い出すと、おそらく小生の世代には共通の心情だと思うが、旭日旗に対して感懐(?)とか、思い入れといったような気分はもはやない。亡くなった父の世代から口承で伝え聞いた話もある。なので余計に何の思い入れもない。若い世代には何か伝統なり、歴史なりを感じさせることがあるのだろうか。

しかし、隣国・韓国では旭日旗に対する反感は大変なものがあり、韓国内でそれを使用するものは処罰の対象となっているよし。

今回も以下のような報道がある:
10月済州(チェジュ)で開かれる国際観艦式に日本海上自衛隊が「旭日旗」を掲げて参加することを反対する国民請願が増えている。
韓国海軍によれば、10月10日から14日まで済州海軍基地で開かれる国際観艦式には日本をはじめとして14カ国21隻の外国軍艦と45カ国の代表団が参加する予定だ。問題は日本海上自衛隊が旭日旗を掲げて済州国際観艦式に参加するという点だ。
(出所)Livedoor News, 2018-09-11
(元記事)中央日報、2018-09-10 17:00 配信

確かに他国の軍艦に掲げる旗に注文をつける権利はどの国にもない。

しかし、日韓関係は通常の隣国関係とは異質である事実は否定できない。

一般的な観点から思うのだが、平和時に掲揚する軍艦旗くらいは戦後日本の平和主義を象徴する(たとえば)「日の丸」を用いるとか、もしくは"White and Red"をテーマにデザインした新たな旗を定めてもいいのではないだろうか。

帝国海軍でも使用してきた旭日旗を伝統として尊重したいのであれば、「戦闘時」―さらに実弾使用演習時を含めてもよいかもしれない ― そんな状況において掲げる旗にすればよいのではないか。旭日旗とZ旗が同時に翻れば、海上自衛隊の士気も大いに上がるだろうと想像される。

そもそも幕府海軍の咸臨丸が万延元年(1860年)に日米修好通商条約批准書交換に渡米する遣米使節団に随行し、太平洋を渡ったときには艦尾に「日の丸」を掲げていたわけであるし、実際、旭日旗が軍艦旗になったのは明治22年(1889年)の勅令による。それまでは大日本帝国海軍の軍艦旗は「日章旗」であったのだから。

咸臨丸による太平洋横断

URL: http://kikonai-kankou.net/kanrinrekishi001.html

最後に一言だけ付け足すと、群青の海に映える旭日旗は確かに美しい。原野を行進する兵士が旭日旗を掲げている写真をみても実に綺麗だと思う。モノクロ写真ですら絵になっている。その審美的な完成度は本物であると思う。

帝国陸海軍は戦争ばかりやっていたが、平和主義に徹する現代日本においては、旭日旗を使用する時と状況を決めてもよいのではないだろうか。


2018年9月10日月曜日

昨日の補足:一昨日への補足の補足: 北海道の停電と節電の道筋・思惑(?)

週明けの本日、北海道内の節電率は目標の2割に届かず、15%程度になった模様である。足元では、当面、様子見という所だろうが、ズバリ関係者の言をきいていると、経済産業省は計画停電をやりたく、北海道電力はやりたくない。そんな図式がうかがい見えてくる。

季節は夏が終わり秋になろうとする頃だ。北海道の秋は短く、10月上旬にはジャケット一枚では寒くなり、薄手のスプリングコートを着用したくなる。11月上旬には雪虫がさかんに飛び回り、中旬には初雪が降るだろう。そして、12月上旬には最初の吹雪がやってくる年が多い。冬はもうそこまで来ているのである。

北海道電力の苫東厚真発電所の復旧までにかかる日数は、最初『少なくとも一週間』と言っていたのが、『少なくとも一週間、もしくは一か月か、それ以上かかる』という具合にだんだんとニュアンスが変わってきている。

***

経済産業省は、復旧はゆっくりと、今度は間違いなく進めるように要請している(と憶測される)。北海道電力は道内の信頼を取り戻すためにもテキパキと進めたいだろう(と憶測される)。

経済産業省は、計画停電にまで一度はもっていき、気温が下がるのをまち、冬の到来が近い中、それ以上の計画停電が実行困難であるという事実を示したいだろう。

計画停電が実行困難。北本連携線の容量には制約があり、北海道は内地と切り離されている。北海道は電力自活が求められている。となれば、泊原発を政治判断で再稼働するしかリスクを避けるには選択肢がない。その根拠が今回のブラックアウトである。

その後に及んで反対するものがいれば、与党と当局は『万が一、再度のブラックアウトで死者が出れば、あなた、責任をどうとるのか?』という殺し文句を使うだろう。正直、北海道に暮らし、冬を迎えようとする小生も、これに共感する感覚がある。

ともかくも、戦後の日本政治の大原則は与野党を問わず「人命尊重」で一貫している。「何が正しい?」ではない。「いかにすれば人的犠牲者を最小にできるか?」でいまの日本の政治は動いているのが一貫した事実である。

まあ、この辺までは<見え見え>の筋書きである。が、その筋書きの進行を止めるのは中々に難しかろう。

***

ずばり言えば、この冬を迎えるにあたって、東日本大震災後に一度は確立したかのように見えた「震災後」の原子力規制体制は既に詰んでしまった。

その責任について検証が必要だろう。

時代はまた再び大きく曲がり角を曲がっていくに違いない。まあ、大震災以降の議論が一切リセットとまではいかないと思うが。

***

問題は、振り子がまた反対方向へ触れた後、小規模自家発電重視の社会(小生が好む社会システムだが高コスト体質ではある)へ向かうか、また地域独占型巨大発電所の社会(国際競争力の維持に望ましい社会ではある)へ戻っていくか、である。その辺が観察テーマとして面白くなってきた。

2018年9月9日日曜日

昨日の補足: 道内電力に関する予想

北海道大地震によるブラックアウトもほぼ解消したが、週明け以降の需給安定については不安が先立っているようで、いつ計画停電が行われても不思議ではない。

「計画停電」は最後の手段と政府や北電は言っているが、この最後の手段さえ12月以降の厳冬期に入れば、事実上実行困難になるだろう。

たとえ2時間程度の停電であっても、道内の石油ストーブは煙突式もFF式もほぼ全て電気がなければ運転できない。拙宅のFF式もそうだ。本州でよく使われているポータブル式の石油ストーブはまず焼け石に水だろう。頼りは(ひとまず)ガスストーブになるが、石油を使用する多くの住宅ではそもそもガスの配管がない部屋が大半で、道内に多いオール電化住宅ではガス利用はできないのではないか。2時間も電気が止まっている間に、家全体がマイナス気温となるだろうし、ブラックアウトになればどこに避難してもマイナス10度の世界で、文字通りの生き残りを迫られる事態になる。

・・・まあ、こんな惨状になれば、世界中からエネルギー政策の失策を非難されるだろう。

厳冬期の北海道においては電力需要が今よりはもっと増える。たとえ今回被災した苫東厚真発電所が復旧したとしてもリスクは変わらない。計画停電は実行困難である。全域ブラックアウトを招くと、犠牲者が出るだろう。北海道の電力需給には(実は)生命のリスクがあったわけである。

〇〇〇予想〇〇〇

政府判断として泊原発再稼働を認める(時限的臨時措置になるかもしれないが、臨時というにはその理屈が通らない)。


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そもそも現行法規上、北電が泊原発を再稼働すると違法になるのかどうか、極めて曖昧である。一応は、全国の各電力会社は原子力規制委員会による審査に従ってきてはいる。が、そこで合理的な審議が行われているかどうかという点については専門家による色々な意見があるようだ(たとえば、これ)。要するに、原発の稼働は民主党・菅内閣による突然の超法規的停止要請以降、科学的というより極めて政治的な案件になっている。故に、問題を解決するには科学ではなく、政治が必要な状態になってしまっている。判断は科学だという政治家は問題から逃げているという指摘は確かにそうなのだ。そう思うのだ、な。

大体、今になってから遅れに遅れた泊原発の審査作業を定められた手順で完了させることは、ほとんど不可能ではないだろうか。冬の到来まで時間が足りない。冬には極めて大きなリスクがあることが顕在化した ― リスクが新たに発生したのではない。存在していたリスクを直視せず対処することなく放置していた。この事実が明らかになったわけだ。

なので、再稼働可という判断は政治的判断になる。停止も政治的判断、再稼働も政治的判断・・・。既成事実追認型の無責任行政にはじまり、同じく無責任にその終幕をひく。こんな体たらくであれば、原子力発電設備は「原子力発電公社」として国有化するのが筋ではないかと思うし、このことは東日本大震災直後に予想もしておいたのだが、遅々として進まない。

進まないというこの点に関しては、昨日投稿したように北海道知事の責任でも、北海道電力の責任でもなく、内閣の責任であり、ひいては日本社会の責任、ジャーナリズムの責任でもあると思う。


2018年9月8日土曜日

北海道大地震後の電力回復に思う

6日未明3時頃に大地震があり、直後から北海道全域が停電状態となった。拙宅に電気が戻ったのは昨晩10時半である。約42時間の停電だった。

 昔は(といっても、せいぜい40年か50年ほどの前だが)電気・ガス・水道のライフライン3点セットは、それぞれ別個の事だった。 亡くなった母が時々『今日はお昼から夕方まで停電なのよ』などと言っても、電話が通じず通信ができなくなるというわけではなく、料理に困るわけではない。ガソリンスタンドも使えるし、店に行けば軽トラで運んできた海産物は一杯並んでいる。レジは機械式、伝票は筆記。ちょっと重いものを運ぶのは全て人力。電気で動くのは家電、重電。国鉄(現在のJR)も大体はディーゼルだったので電気がなくとも大丈夫。そんな時代であったから、停電したからといって社会全体がストールするなどということはなかったのだな。実に頑健。打たれ強いロバストなシステムであった。

昨夜、電気が復旧して、夜のニュース番組をみると、今回の地震が結構な大騒ぎになっている事をしった。『平成30年北海道胆振東部(大?)地震』などという「立派な」名称がつけられていることも知った。

停電中はラジオで地震関係報道を聴いていたが、ラジオの報道は純粋な意味での報道、情報提供であり、情報以外のコンテンツをアナウンサーが伝えることはない・・・ただ、そういえば『胆振東部』ナントカ、カントカとは言ってたろうか。まあ、そんな感じであった。

★ ★ ★

止まっているのは電気だけというのは確かに幸運なことではあった。水が出なければ、マンションである拙宅では暮らせない。料理、洗濯ができなくとも何とかなるが、水洗トイレが使用不可になれば、避難所に移るしか手はなくなる。

電気がなければ最低限のことしかできないと言っても、最低限の生活は自宅でできるのは、それ自体、非常に有難いことだった。多くのマンションでは電気が止まれば、自動的に水も止まる。拙宅のあるマンションでは何年か前に電気不要の方式に変えていた。これは当時のマンション管理組合理事長の英断だった。

初日は突然のことで夜のローソク生活も辛かったが、二回目の夕食ではだいぶん慣れた。やることもないので早々にベッドに入ったのだが、10時半に突然明かりがつき、電気が戻ったとわかったのだ。

拙宅のボイラーは電気がなければ動かないので、風呂に湯をはることができたのが嬉しかった。

★ ★ ★

それはともかく、今回のブラックアウトで北海道電力の甘い経営管理に批判が出始めているようだ。

そうかと思うと、安倍内閣の行政姿勢に批判の眼差しを向ける見方もある。
原発を動かさないと大規模停電が起こる可能性は、ずっと指摘されてきた。特に北海道は、冬に停電すると凍死者が出るおそれがあるので危険だと言われてきたが、電力会社も経産省もそういう事態を「想定外」にしてきた。それを想定すると、原発再稼動しか答がないからだ。
 安倍政権は電力会社を悪者にして原子力の問題から逃げてきたが、そろそろ限界は近い。北海道の電力危機は、次のもっと大きな危機を警告しているのではないか。
URL: http://agora-web.jp/archives/2034613.html

泊原発が再稼働していれば、今回のように北海道全域がブラックアウトするなどという事態は起こらなかった。これは確かだ。

広域ブラックアウトなどという事態を引き起こさないように政府はエネルギー政策を進め、電力会社は電源立地と管理を慎重に行うのが当たり前である。実際、今回のように北海道全域が停電となったのは、太平洋戦争後の北電創業以来初めての事態であるという。いや「事態」ではない、「失策」、「チョンボ」と言うべきかもしれない。

特に、今回の震源地になった胆振東部地域は地震の巣窟で、実際、昨年7月にも震度5の地震が発生している。苫東厚真発電所がすべて被災するときにどうなるかというシミュレーション位はやっておくべきだったろうとは思う。

確かに、原発再稼働という重要課題から安倍内閣が逃げているというのは事実の側面をついていると小生も思う。

しかし、上の引用記事とは別に、泊原発再稼働がさっぱり前に進まないのは、高橋・道知事に最大の責任があると小生は見ているのだ、な。

今回のブラックアウトで「見える化」されたように、泊原発再稼働問題は北海道民の生活に直接関連してくる非常に重要な事柄である。再稼働が必要であるなら、全力でそのことを政府に主張するべきであったし、再稼働が緊急の課題でないと考えていたのであれば、今回のブラックアウトはなぜ起こってしまったのか、道庁は説明するべき責任をもつ。

なので、今回の歴史的ブラックアウトの直接的責任は先ずは道知事にあるとみているのだ。

★ ★ ★

小生は、泊原発からそれほど離れてはいない町で暮らしている。原子力発電所が近くにあるよりはない方がいいに決まっている。しかし、ない方がいいということなら火力発電所だって、ない方がいい。ダムの近くで暮らすのもどちらかと言えば嫌だ。ブラックアウトで40時間、50時間の停電を我慢する生活は、している内にだんだんと慣れていくのだろう。2週間も続ければ、それが自然になるのだろう。それでもやはり「"Black Out Once Again"(ブラックアウトもう一度)」はもう嫌だ。御免だ。今回限りにしてほしい。正直なところ、電力が安定するなら、最先端の原発管理技術を是非活用してもらい、原子物理学の進展の果実を享受したい、と。そう思っている。電力の安定イコール暮らしの安定なのだから。小生は隕石が落ちてくるのを心配する性格ではない。福島第一原発事故を、いまどう見ているかは、また書く機会もある。

電気のことは、北海道で暮らす人たちの多数の意見で今後の方向が決まって行くのだろうが、北海道外のギャラリーが発する野次馬的ヤジ、いやいやジャーナリズム的な提案は、出来るなら遠慮してほしいものだ、と。そう感じてもいるのだ。

2018年9月1日土曜日

「無断録音」に感じる感覚には変化がない

検索欄に「盗聴」というキーワードを入れると、これまでの幾つかの投稿が出てくる。「盗聴」という問題に小生がかなり敏感であることを反映している。

その中にこんなものがある:

セクハラ防止が実行されなかった従来の日本社会は別に崩壊はしていない。それどころか、発展して、非常に洗練された文化をつくって、日本文化が世界市場で利益になる時代すらやってきた。が、盗聴や個人の自由の侵害を許すような社会が到来すれば、戦前期に経験したような恐ろしい社会になることは確実である。そこでは公益が万能であったのだ。公益を振りかざす社会ほど怖い社会はないということを、日本人は勉強したはずなのだが。
メディア産業の各社は本当にそう思っているのだろうか?

「公益」と「善」とは別物ですよ。公益に奉仕するものと信じて行動したところが、実はそれは悪行であった・・そんな事例は無数にありまさあネ。私たち日本人だって戦前期ニャア、そんなことをやらかしてましたよ。エッ! 覚えてない? 聞いたことがない? 忘れちまうには、まだ年数、たってないでしょうが。そう思いますがネエ・・・。ホントに、あなた方、大丈夫でンすか?

どれほど不愉快に感じようとも、人の話しはその人の話しとして聴いた方がよい。世の中そんなものだ。金正恩がどんなに嫌だろうと話を聞かないわけにはいかないだろう。嫌なことは聴きたくもない。そのような態度は国全体を変な方向へと導くものである、と。 
小生は、そう思うのだがネエ。

***

パワハラ、セクハラ等々、種々のハラスメント問題で決定的な証拠となるのは、録音音声である。最近では裁判所でも無断録音の音声が証拠採用されるという。

が、小生は『イヤだねえ・・こんな世の中は』と感じる。

世間の意見の大勢は
弱い立場の人間が身を守るためには無断録音も仕方がない
こんなところだろう。

しかし「弱い立場」とはどういう立場だろう?課長が強く、ヒラは弱いのか?一概にそうは言えないだろうと思うのだ、な。

無断録音が嫌悪するべき「盗聴」にほとんど近似していると小生が思うのは、録音する側だけがその事を知っており、自分の音声が録音されていることを自分だけが知っているという事である。

もし第三者が盗聴しており、その事を話している二人とも知らないとすれば、その二人は思ったことを思うがままに口にする可能性がある。これは二人の普段の人間関係を伝える客観的証拠となるだろう。が、これは文字通りの盗聴だ。無断録音の場合は、当事者の片方だけが録音中であることを知っている。録音中に、そのことを知っている録音者側に「自分の身を守る」動機が働くのは間違いないところだ。これは(意図しないとしても)証拠編集行為と実質的には同じである。そのとき、「自分の身を守る立場」の側が「強い立場」にいるという理屈だ。なので、トラブルを公平に審査する材料としては偏りが混じることになる。そのバイアスを修正する必要がある。

というより、もっと強い嫌悪を感じるのは『自分の身を守るためには』という表現である。世間ではキラー・フレーズとして容認されているが、この言葉は必然的に極めて自己本位な言い方である。

そのうち最後には『スタンガンで相手を傷つけてしまったのは自分の身を守るために仕方がなかったのです』(相手はスタンガンを所持していることを知らなかった)とか、『自分の身を守るために学校にこっそりカッターナイフを持って行ったことは分かってください。あの子は虐められていたのですから・・・』(カッターナイフを持ってきていたことを相手は知らなかった)、『あの人を階段から突き落としたのは私の身を守るためでした』(階段から突き落とせば相手の生命の危険も予知できたはずだった)などなど、被害者意識を持つ側が自分の身を守る行動をとっても、それ自体は許容される行為であるという思想になる。

いくら正当防衛でもそれが罪にならないかどうかは慎重に審議される必要がある。たとえ「身を守る」ことが動機であっても、そこにはバランスのとれたフェアネスがなければならない。たとえ「やられたから、やりかえす」という報復感情が発露したケースであっても、それは言葉の意味からして「私刑」に当たる。すべての復讐は「私刑」であり違法、すなわち罪となる。親の仇であっても仇討は犯罪であるとは、明治維新直後の仇討禁止令にまで遡る法理である。

***
要するに、
目的は手段を正当化しない
太平洋戦争は日本にとっては自存自衛、日本を守るためにとった行為である。そう主張していたのだ。しかし、それは極めて自己本位の行動であった。
自国を守るためには核武装することが必要で、核開発するのは自分たちの身を守るためなのです
北朝鮮の言い分に一理あるではないか・・・という理屈にもなる。

***

あらゆるトラブルは、バイアスを修正しながら、客観的な視点から「責任割合」を判定しなければならない。お子様向けの「月光仮面」ではあるまいし、リアルな紛争で正義の側と邪悪な側が対立している状況は稀である。

というか、そもそも小生は「脅迫」や「暴行・傷害」とは別に「ハラスメント罪」という犯罪概念を設けようという方向には基本的に疑念を持っている。つまり、この種のトラブルは民事上の紛争として処理するべきだと考えているのだ、な。とすれば、有罪|無罪という二分類ではなく、普段の状況を整理して<責任割合>を確定することが最重要だと思っている。そのための「第三者機関」だと思うのだな。

ただ、その前提として道路交通法上の「安全運転義務」に類似するような「社会的交際倫理」、「指導倫理」、「ビジネス倫理」のようなものを法的に規定しておく必要は(理屈上)出てくるかもしれない。道路交通のあるべき状態を規定しないなら、交通事故の際の責任を定める基礎が固まらないのと同じことだ。

***

自分でも分かることは、自分が相当の保守派であり、かと思うと世間の常識に追従することを嫌い、常に異論をたてるへそ曲がりであるということだ。

多分、職業病なのだと思う。

「大学」という場で講義を何年も担当していると、一方的に長話をする癖がつく。研究を商売にしていると非常識な新奇な提案なり、仮説なりを話しては自己満足する癖がつく。多くの人と和することを大事に思わなくなる。そんなことをする人は、平凡でイマイチな人と見るようになる。

研究を職業にしていると、大多数が信じている多数派意見が何であるかを理解し、承認していること自体が、研究では比較劣位の原因になることがある。異論をたてないといけない。皆が認める常識を否定し、くつがえすことが原則としてプラスに評価される。こんな仕事をずっと続けていると、医者には医者の、銀行マンには銀行マンの体臭が身につくように、固有の言動パターンというものが身についてくる。へそ曲がりになるのは、仕方がないのだ、な。

・・・というより、生まれつきの性格もあるかもしれない。

『人が右に行ってるなら、ボクは左に行きたい』と言っては父を吃驚させていた ―― 父は現場が好きで、多人数の人と一緒に仕事をするのが好きだった。親子とはいっても、キャラクターは全く違う。KYは小生にとってはホメ言葉である

だから、現にやってきた仕事と勤務先が心から気に入ったのだろう。その意味では幸せ者である。

― もちろん仕事で大きな成果を出すには、小生にはイマイチである才能も大事だ。才能よりも性格がポイントだという人もいるが、振り返ってみると、性格はみな似たり寄ったりなので、才能が最後には勝負を決める。性格がマッチしているのが第一として、才能と、それから体力、というか健康も不可欠だ。が、これはどんな仕事でも同じだろう。そう感じるのが小役人から研究に移ってずっとやってきた末の結論だ。


またまたスポーツ界(体操界)で発生したパワハラ問題についてもそうである。ま、今回の特徴は「指導する」側が無断録音していたのだが・・・、なぜ無断録音などしたのだろうとは思う、不審なことである。