2021年12月29日水曜日

断想: 「理系」、「文系」という旧弊な区分けは何とかならないか

日本国内の高等教育機関では、例外なく(と思っているのだが)「文系」、「理系」という区分で学部編成やカリキュラム、専攻分野、進路を考える習慣がある・・・ということ自体が、実は非常に「日本的」なのではないかと考えるようになった。しかし、それは置いておいて、とりあえず日本国内の状況を前提した投稿である。


経済学や経営学が社会のメカニズムを理解するための学問分野だとすれば、文学部はその社会の中で生きている個々の人間を深く理解するためにある。こんな風に発想すると、法学部法学科は社会を適切に管理するための法的技術や学理を修得するために存在する。そして法学部政治学科は、法的技術を駆使して社会を管理運営するという行為、つまり政治について学ぶ場である。

いわゆる《文系》と総称される学問分野をこのように区分すると、その編成順は「人間を理解する文学部が1類、社会の機能を理解する社会科学系が2類、そして社会を法的、政治的に管理、運営する知識が3類」ということになるのが理屈だ、と。小生はそんな風に整理している。

近年は、《理系》の工学部の中に「金融工学」を学ぶ学科が新設されたり、医学部の保健学科の中に公衆衛生の一環である「医療社会学」があったりする。

古代ギリシアのアリストテレス級の総合的大賢人は望むべくもないが、そろそろ高等教育分野を見通しよく体系化し、無駄のないような大学組織に再編成した方がよいのではないかと感じる時はある。盆栽に例えて言えば、小枝の上にまた小枝が伸びてきて、全体として無駄枝ばかりが錯綜し、互いが重なり、縺れ合っているような状況だと感じる。

いわゆる「文系」だけではない。「理系」もそうだ。文学部の心理学科と医学部の精神医学は互いに無縁ではない。理系の中の生命科学とモノを相手に考える数物系科学も無縁ではありえない。

そういえば、数日前に月参りで宅に来た住職が置いていった月報にこんな文章がのっていた:

新聞にウイルス学の権威の先生のコメントが紹介されていました。『地球は46億年前に誕生した。ウイルスが生まれたのは30憶念前。人類はまだ20万年の歴史しかない。もし地球全史を1年に圧縮すると、ウイルスは5月生まれ、人類は大晦日の夜11時37分に生まれたばかりとなる』・・・

なかなか鋭い点をついているなあと思った。宗教畑の人たちがこんな事に知的関心をもっていること自体に感心と共感を覚えたわけだ。

生物学の啓蒙書なら例外なく説明されていると思うが、

細胞は細胞のみから生まれる

というのが基本認識になっている。しかし、地球はそもそも非生命惑星であったのが事実だ。ということは、

生命は非生命のモノから誕生した。細胞は非細胞のタンパク質から生まれた。そもそもモノの世界の中に生命が生まれ、進化をうながすメカニズムが潜在している。現代物理学ではまだ、化学分野ですら、こうしたレベルの理解までは進んでいない。

ロジックとしてはこう認識するしかないと思っている。

確かに「生きとし生ける存在」は死ねば物体に戻る。しかし、生命が誕生した母体は生命なきモノであった。死は生命の源に回帰する現象であるともみられる。

生命と非生命に明確な一線を引くことはできない。この点についても、現在の学問体系は我々が直面する問題とそぐわなくなってきているのではないだろうか?

意識するにせよ、しないにせよ、思考が何かの制約に縛られていれば、それだけ思考が不経済になり、内容が乏しくなる。ひいては日本人の思考レベルそのものが、自由に考える海外と比べて相対的に劣化する背景にもなる。こんな心配が最近は増している。

2021年12月27日月曜日

断想:ジェンダーフリー・・・極めて超歴史的にみてみると

最近は歴史的に一貫して<男性専科>であった軍隊にも女性が参加してきている。同じく<男性専科>であった警察は、ずっと以前から同様の組織変革が進んでいる。

古来、女性が命のやり取りをする軍人に(基本として)ならなかった理由は、実に単純であって、種族|部族|民族などの人間集団が自己保存を図るためであって、それ以外の体力、志向などの要因があるにせよ、主たる理由は明らかだと思う。女性が生き残りさえすれば、いかに男性が戦いで淘汰されようとも、次世代を育てる力を残せる理屈である。

この点については、小生もかの天才的(?)ポルノ小説作家である宇能鴻一郎が言ったという

男はタネをばらまく性だが可憐な相手はつい愛してしまい、すると広くタネを散布できなくなる。

前にも投稿したことがあるが、この男女観が自然の事実に合致していると考えている。

ところが、歴史的に一貫したこの慣行を現代人類は捨て去りつつあるように見える。命のやりとりをする危険な現場に女性を配置して、そのことに社会が不安を覚えないのは何故か?

こうした感覚の変化と並行して進行してきたのは、人工授精、更には精子、卵子、受精卵の凍結保存技術の発展である。これと合わせて、今後、人工子宮など胎外保育技術が一層進歩すれば、もはや危険な現場において男性と女性の配属をしいて区別する理屈はまったくなくなる。極めて危険な職務に従事する前に、自分の精子、卵子を提出、冷凍保存し、人工授精については所定の方式で依頼できる手続きさえ定めておけば、あとは生身の身体はどうなっても、その人間集団の生存に危険が及ぶことはない。親の身体と子孫の保存を分離できるからだ。

そんな社会が到来すれば

ぬちどぅたから(命こそ宝)

であった時代は歴史の彼方に過ぎ去るわけであり、

国立遺伝子情報保存センターこそ国の宝

こんな価値観が支配的になるだろう。

男女を問わず生身の人間から、次世代を育てるという役割と機能が完全に分離され、夫婦や家庭は解体され、一人一人の個々人は社会を構成する「細胞」として純粋に機能化される。もちろん乳幼児保育、給食、初等教育から高等教育までの養育は全面的に公益法人が担当し、両親は子弟養育義務から解放され、職業的義務(といえばイイのか)に専念する、そして寿命がくれば自動的に死を甘受して次世代と交代する・・・ウ~ム、こうなると人生の目的が幸福であり続けるかどうかも分からなくなる。小生が生きてきた社会とはまったく別の宇宙人のような社会だけどネエ、たしかに未来の可能性の一つだろう。

蟻や蜂は人類よりも地球上ではずっと先輩のはずだ。彼らが造っている社会システムは、これから人類が歩むであろう未来図なのかもしれない。そういえば、大半を占める働きアリや働きバチは全てが雌、というより生殖機能が退化しているので無性であると言える。

男女の均等とジェンダーフリー、社会の全分野における男女の公平な協同を支える技術基盤があるとすれば、それは結局、生物としてのヒトが自然にもっている男女間の性差自体を人工的に消失させる段階に至って、はじめて完結する。これがロジックではないだろうか。


社会で進んでいる一つの現象には、これと関連して別の現象が必ず進んでいるものだ。観察可能な現象の背後には、共通の因子が根本的な駆動力として働いているものだ。そしてその駆動力は多くの場合は《科学技術》である。科学技術が生産活動で応用されることで社会は進歩し、価値観も変わり、制度も変わる。文明の進歩の実体とはこういうことだと思う。生きている人間は、そうした変化を理解し、受け入れ、それが正しいと考える理屈を事後的に発案して新しい社会に順応していく。これが《思想の発展》だといえば、確かに思想の発展である。そのように発展する思想によれば、社会の要請に基づく変化はすべて民主主義に沿った進歩になるはずだ。何度も投稿しているが、やはり小生はマルクス流の唯物史観を肯定しているようだ。

2021年12月26日日曜日

「エンデミック?」、日本はまたアメリカを追いかけるのだろうか?

Wall Street Journal(日本語版)にこんな記事があった。抜粋してメモしておこう。

米国では1日1200人以上がコロナで死亡している。だが、通常のインフルエンザよりも死亡者数や感染者数がはるかに高水準であっても、コロナの感染拡大は恐らく、エンデミックとみなすのに十分なほど予測可能なパターンに落ち着くと、公衆衛生専門家はみている。

ウイルスが今後どのように変異し、過去の感染やワクチン接種による免疫反応がどのくらい持続し、コロナ対策で各国がいかに先手を打てるのか。これら全てが、社会とコロナの息の長い関係に影響を与えるだろうと公衆衛生専門家は言う。

 カリフォルニア大学アーバイン校の感染症疫学者であり人口統計学者でもあるアンドリュー・ノイマー氏は、1918年に大流行したインフルエンザを研究している。同氏は変異株によるコロナ感染の波が、数十年にわたって定期的に米国を襲う(特に冬季)と予想している。集団免疫力が高まるにつれ、死亡者数はいずれ大きく減少するだろうと同氏は言う。その代償として、コロナに最も感染しやすい人々の間で病気や死亡が増える公算が大きい。

「コロナは木工細工の中に組み込まれている」と同氏は言う。「もはや調度品の一部だ」

Source::WSJ、 2021 年 12 月 24 日 15:22 JST

URL:https://jp.wsj.com/articles/covid-19-marches-toward-endemic-status-in-u-s-as-omicron-spreads-11640326836

確かに2019年末に確認され世界に拡散した新型コロナウイルスによる混乱は、程度の見方に違いがあるにせよ「ブラックスワン」、ある意味で「アノマリー」とも言える異常変動であった。それが、既に地球上に拡散し、定着し、今後の新型コロナ感染はウイルス側の変異と人類側の免疫適応とのバランスがとれた定常的な進化プロセスに収束していくだろう、という予測である。

日本人の感性であれば上の引用のうち

集団免疫力が高まるにつれ、死亡者数はいずれ大きく減少するだろうと同氏は言う。その代償として、コロナに最も感染しやすい人々の間で病気や死亡が増える公算が大きい。

という「言葉」には、それなりの社会的反発があるだろうし、世間の反発を怖れる日本国内のマスコミは、決してこんな表現はしない、もっとマイルドな文章で「一部の識者にはこんな見方をする向きもある」などという言い方をするはずだ。日本は何事も人の心を忖度する「ものも言いよう」のお国柄である。

とはいえ、小生は『アメリカ人ならこんな考え方をするだろうネエ』とも思った。ベトナム戦争でアメリカの"Best and Brightest"達がどんな思考をしていたか、ハルバースタムの名著が伝えている所でもあるし、その後の国防戦略、経済戦略を振り返ると、アメリカという国は、ひょっとするとイギリスも含めたアングロサクソン系の国々はどこでもそうかもしれないが、上のようなある意味で「統計的発想」を好むのだなと改めて感じる。これが《科学的》というなら、確かに科学的である、と言えるかもしれない。

夏目漱石の『草枕』とは逆の意味になるかもしれないが

科学とは非人情なものなのだ

これに尽きる。 

2021年12月22日水曜日

断想: 職業上の成否で大事なのは「性格」だが、もっと大事なものがある

研究活動を職業とするには、才能より、むしろ性格が適しているかどうかが遥かに大事であるという点については本ブログでも何度か投稿済みである(例えばこれ)。

どの程度の高みにまで到達できるかという点では確かに才能がものをいう。が、才能を十分に開花させるためには、時間と根気が要る。何年も、ある場合は一生を通して、倦まずたゆまず一つの問題意識に執着し、自分が納得するまで試行錯誤を繰り返すには、それに適した性格が不可欠だ。何より(研究に限らずどんな仕事でもそうだが)その仕事に性格が適していれば、仕事が面白いと感じるはずで、たとえ超一流の実績があげられずとも、そんな職業上の競争を超えた所で、その仕事に携われたことに満足し、幸福を感じるはずである。

ただ職業上の幸福が得られても、人生は仕事のみから出来ているわけではない。家族、友人、師匠、先達をはじめとする人の縁、カネの縁も最終結果としての幸福な人生には欠かせぬであろう。

よく人生の達人になるには

知性・野性・感性

の三つが大切だと何度かきいたことがある。あるいは、

知・情・意

が三大要素であるとも聞いたことがある。

しかし、いま職業生活を思い返してみると、備えるべき最重要な条件は

一に体力、二に性格、三四がなくて五に幸運

若い頃には修養を心掛けていた(つもりの)「理性・野性・感性」も、「知・情・意」も、所詮は「畳スイレン」、モラル好きの「机上の空論」、あまり意味はなかったなあ、と。こんな感想を抱いているところである。

生まれついての才能の違いは、努力を何十年も続けて疲れを知らない体力があれば、ほとんど有意な違いをもたらさないような気がする。ある人は「直観」が大事だと言うが、それは後からみた自画自賛であって、要は「運が良かった」というただそれだけの事である(ような気がする)。

シンプルに概観すると、職業的な成功をおさめた人は、小生が知っている限り、若い頃からずっと健康に恵まれ、基礎体力が充実した人物である。しょっちゅう風邪を引いているようではダメだ。アレルギーで悩んでいるようでは集中力がそがれる。もちろん大病をしたときに失う時間資源は測り知れない。体力が最も重要で、全てのカギとなる。例外はないと思う。病弱な蒲柳の質を知力でカバーする諸葛亮孔明のような人物は小説の中のフィクションであると思っている。

体力は意志の強さを支え、意志は知性の土台となり、感性の良さが行動を完璧なものとする。誰もが知っている格言のように

健全な精神は健全な身体に宿る

時代を問わず、この名句が人生には当てはまっているのだと今では確信している。

明治以前、武士の家庭では自ら求めて武道の修練を続けなければ、(農家とは違って)体力は衰えるばかりであったはずだ。書物を読んで勉強する以前に、黙々と木刀の素振りを始める習慣は、サムライの気構えという以前に、成長への土台造りにもなっていたのだろう。体を動かすのを嫌う若者を元気な同世代は《文弱の徒》とバカにしていたが、日本人のこんな気風は、亡くなった父の思い出話をいま振り返ると、全日本人男性に兵役の義務が課された明治以後の近代日本にも、何がしか継承されていたような印象がある。身体的訓練を重視するこの習慣が、戦後日本で世代を重ねるうちに、少しずつ廃されてきた。

現代日本の価値観に基づけば、何が大事であるかは個人個人によって多様であって、身体的訓練が嫌いなら無理に稽古をする必要もないと、そう考えるわけだが、この考え方はどこか「不健康のすすめ」であるようにも感じるのが小生の世代である。三島由紀夫の『不道徳教育講座』は、読めばどの章も一理あると思うのだが、いま流行の「多様化」は昔の武士道に比べると、どこかイカかタコのような軟体動物的な《骨なしモラル》のように見えて仕方がない。


2021年12月18日土曜日

一言メモ: 降雪量が観測史上第1位・・これは凡ミスじゃないか?それともフェイクか?

12月17日から18日にかけて北海道の札樽地区では記録的な豪雪となった。降雪量については「観測史上第1位」になったとの報道だ。例えば

【札幌・小樽で大雪記録更新】日本海側を中心に大雪となっており、今朝までの24時間降雪量が札幌55cm、小樽53cmと1999年の統計開始以降の観測史上1位を更新しました。雪で道幅が狭くなっていたり、歩道の除雪が追いついていない所があります。屋根からの落雪や除雪中の事故にも十分注意してください。

Source:北海道防災情報

小生はマンション住まいなので戸外の駐車場に除雪車が入る時には自家用車を外に移動させなければならない — 面倒な事だが、それでも一戸建てに住んでいる人の雪かきを思うと、雪の日は極楽である。今朝は雪が車の窓の辺りまで積もりドアを開けるためだけに相当のエネルギーを使って雪をかかなければならなかった・・・それでも車は雪に埋もれてはいなかった。

小生の記憶の中ではもっと雪が降った日がある。一晩のうちに町が雪で埋め尽くされた朝があったことを覚えている。であるので、昨日からの雪が「観測史上第1位」と聞いた時には、それはおかしい、と感じたのだ、な。

が、報道をよくみると

1999年の統計開始以降の観測史上1位

と書いている。

***

1988年からずっと日記をつけているので、調べてみると、1996年1月9日にこんな記述をしている。

上の愚息が入院して手術。麻酔がきれる時を心配し家内は病院に泊まる。小生と下の愚息は温泉に近いホテルに泊する。夜半通過した台風並みの低気圧のせいで猛吹雪となる。一寸先も視えず。朝方には積雪が1メートルを超え、道路など全てが雪中に埋もれる。雪なお止まず。近郊の道路網は寸断され除雪もままならない模様。チェックアウトしようにも、まず除雪車を雪の中から掘り出すために従業員が雪かきをしている。その後、駐車場を除雪、宿泊客の車を掘り起こすのでそれまでは館内で待機してほしいとのこと館内放送がある。正午に至り漸く車を運転して自宅に戻る。ところがマンションの駐車場は積雪が深く中に入れず。人力で雪をかこうにも限界がある。仕方なく、大学の駐車場に車を停めようと思う。大学構内はさすがに除雪が終わっており、何とか停めることができる。この日は大学に車を置くことにしてタクシーで帰宅する。

今回のドカ雪は確かに記録的ではあったが、除雪車そのものが雪に埋もれ、町全体が麻痺する程の雪ではなかった。 

記憶にも鮮明なあの日の豪雪を含めれば、降雪量第1位は今回の雪ではない。

それよりも、この北海道で、それも《降雪量》という極めて基本的な気象データを、1999年以前には測定していないというのは、こちらの方がずっと信じがたいことだ。

***

気象データは予報するためには致命的に重要な情報である。毎日の降雪量データがたった20年間ほどしかないというのは・・・どう言えばよいのか言葉を知らない。

経済活動の循環と成長が長期的にどんな特性をもっているかという問題にとりくむときには、実質GDPについて時に100年間の長期時系列が不可欠である。2、30年のデータからは明らかにできない重要な点が倍の50年、60年間のデータを用いると初めて明確に分かってくることがある。100間の経済データがあれば分かる事は更に豊富になる。気象現象は「寒暖700年周期説」があったりする位だから、なおさらのことだと思っていた。思っていたし、気温や降雨量、降雪量などは測定も簡単なのだから、とっくに100年間くらいのデータはあると思い込んでいた。それが北海道の降雪量データがたったの20年程しかないとはネエ・・・。そして、このことを「それ以前はどうだったか」と聞くこともせず、淡々と報道している側もどんな神経をしているのだろうと、こちらの方が小生には驚きであった。

まったく日本の行政機関も報道機関も常識では推し量れない、「変だよネエ」と感じさせられる所がある。


・・・ここまで書いてきて、「それにしても降雪量程度のデータがないというのは余りにおかしい」と、念のため、例えば《1996年1月8日 小樽 雪》で小樽について検索をかけてみると、1996年1月中の気象データがヒットする。気象庁が公表しているデータである。これをみると、1月8日の降雪量は84cmになっている。今回の53cmを超えている。

「気象庁のデータ、やっぱりあるじゃないか」と、・・・そうするとマスコミが強調している「観測史上第1位」ってなんだろう? こんな疑問がわいて来る。一体、誰がそう言い始めたのだろう?





2021年12月14日火曜日

断想: 「日本病」の治療がもし自助努力で治らずば・・・?

※ 初回の投稿は長くなり過ぎるので余計な箇所を剪定したうえで更新する【12月20日】

こんな予測をすることがある。標題について、である。

このブログでも<日本化>、<日本病>については複数回、投稿したことがある。実際、これらをキーワードにしてブログ内検索をかけると、『こんなことも書いていたか・・・』と思うような投稿が出て来て、むしろ(我ながら)新鮮に感じる。

先日の投稿では以下のようなことを述べていた:

要するに、日本国内で積極的なビジネス展開が出来ていない、これが根本的原因であって、まさに民間にこそ《低迷日本》の主因があるのだが、その主因を解決できないでいる日本政府にも大いに責任がある。

・・・日本が取り組むべき課題はもう分かりきっている。一流の外国人政策顧問を招いても、世界的に評価されている真っ当な日本人専門家に問いただしても、まず同じことを提案するはずである。ところがこんな提案をすると日本人の神経を逆なでする。政治家は国民におもねるばかりで、なお悪いことにそんな姿勢を「国民に寄り添う」と美化している。「日本病」の核心がここにあるのは間違いない。

「経済成長」というこの当たり前の目的を達成するには、当たり前のことを実行しなければならないのだが、(どうしたことか、小生には不思議でならないのだが)日本人自らがこの「経済成長」という目標に心理的抵抗感を感じているように見えるのだ。社会心理的な不調のようでもある。

これは新種の国民的病ではないだろうか?

とも思われ、同僚とは「日本病」と言ったりしてきたのだが、まだ1970年代の「英国病(British Disease)」や2000年代前半のドイツが「欧州の病人(Sick man of Europe)」と呼ばれたようにはまだ世界で知られていないところを見ると、一見、日本はまだまだ底力があるように海外では思われているのかも知れない。

これに関連して、上の投稿では実はこんなことも書いていた。

民間企業も富裕階層もそうだが、余った金はただ余っているわけではない。資産は運用しているわけである。例えば、日本には一つもない利回り8パーセントで配当を払ってくれるアメリカの投資ファンド「エイリス・キャピタル(ARCC)」や同じたばこ企業でも日本のJTより高配当が期待できる"British American Tobacco(BTI)"で運用したりする人は多いだろう。

この投資行動は、小生自身にも当てはまっているわけなのだが、実は該投稿の数日後、口座をもっている証券会社から通知があり、上にいう「エイリス・キャピタル(ARCC)」や「ハーキュリーズ・キャピタル(HTGC)」など高利回り米株銘柄の新規売買(新規買付、既保有分の売却は可)を《諸般の事情》によって受付を停止する、と。この「諸般の事情」が何なのか(小生には)明らかではないが(15日加筆:どうやらこれが理由か)、日本国内からアメリカへ投資資金が流出して、外国企業の発展ばかりを支援しているという状況を財務省・金融庁、経済産業省など政策当局が苦々しく思っており、何らかの圧力が民間証券会社にかけられたのではないだろうかと、小生は邪推しているところだ。

問題の本質は、アメリカでは可能な高利回り投資商品が日本では成立しない点にこそある。その理由は、日本国内の資本ストックの収益力が低下していることにある。それは何故かというと新規事業投資が減っているからだ。新規事業投資の収益率が低下してもいるし、ハイリスク・ハイリターンの投資機会に挑戦する企業家の数も減っている。事業投資がこうである以上、日本国内で金融投資をするとしても、高い利回りは提供できない理屈だ。実際、2008年の「リーマン危機」以降、日本の民間企業部門が保有する資本ストックはほぼ停滞して増えていない。資本ストックが増えないのにアウトプットを増やそうとするから、現場は労働集約的になる。日本お得意の《お・も・て・な・し》や《丁寧に》というモットーは、非効率な現場に寄り添うための美辞麗句で、文字通り「ものも言いよう」の一例である。「言葉」ではなく、「実態」を黙って観察し、考えることがいま最も重要だ。いや、結論じみたことを書いてしまった。余計であった。まだ話は終わっていない・・・

「日本病」から来る特徴的な症状は「過少投資(=過剰貯蓄)」だが、しかし、日本の《過少投資》は期待収益率の高い投資機会が日本国内にはなくなってしまったからではない。ビジネスチャンスの宝庫である分野がほぼ全て政府の規制対象になっている。これがほとんど唯一の理由である。いや、単に「政府の規制」とばかりは言えない。日本人自らが「規制」を当然と考えている傾向がある。

「それは出来ない」と、日本社会がそう考えるからこそ、ビジネスが十分に育たないのである。

考えてもみるがいい。医療、介護産業とロボット産業がコラボすれば新規医療技術、介護支援技術のイノベーションが進行するに違いない。しかし、これは「機会」にすぎず、「チャンス」でしかない。実際には、医療分野は「医療産業」としては認識されていない、というのが現実の日本社会ではないだろうか。それどころか、大衆にとって「医は仁術」であるべきで、利益を求めるビジネスとしての医療は決して望ましくはない。こんな価値観が日本では優勢ではないか、と小生は思っているのだ。教育もまた「学校制度」において教育活動は行われるべきで、教職に就く人物は厳しい審査を通る必要がある。こんな理念が支配的である。小生は自分の経験に基づいてこの理念には同感しないが、日本全体の教育活動は主たる部分が「学校制度」の上で展開されている。こうした理念が、日本国内の既存の病院、医師、看護師、医療技師等々の医療専門家、介護従事者、あるいは学校教職員という非市場型従業員を「競争」から守っているのである。農業もそうである。通信、放送、報道もそうであろう。運輸、道路交通、移動もそうかもしれない。

一旦、新規参入した企業はすべて「成長」、「拡大」、「競争」を目指すものだし、目指すべきでもある。スタートアップ企業であれ、上場企業であれ、企業の論理は競争に敗れれば消滅するということだ。競合相手から顧客を奪取しようとする。奪取される不安を感じた側は、生き残りを目指して戦略を練るであろう。医療、介護や教育、農業経営などという分野で、このような自由な企業活動を認めるのに、日本人は警戒感や嫌悪感を感ずるのではないだろうか。既存事業者が主に中小規模の個人事業主であれば猶更のことだ。

日本は決していまビジネスに優しい、暖かい国ではない。日本の都道府県にも、企業誘致に積極的なところ、企業誘致には消極的なところがある。同じ理屈である。トヨタやキャノン、ユニクロやファナックなど最先端の優良企業が日本にも何社かあるという問題ではない。日本社会全体の傾向が日本の現状を形成している。

今朝もこんな話をした・・・

カミさん: もうエイリス、買えないんだネエ・・・がっくり。

小生: 何か月かしたら、またコッソリ買えるように受付するかもしれないよ。だって、証券会社は売買が増えれば儲かるんだから。

カミさん: 日本には代わりに買えるようなのはないの?

小生: 利回り7%とか、8%は日本にはないね。JT辺りが利回りではベストなんじゃないかなあ・・・

カミさん:でも、それにしては株価は冴えないよね。

小生: タバコ企業というなら、JTよりイギリスのブリティッシュ・アメリカン(BTI)のほうがずっと利回りも高いからJTも海外から見ると対日投資の対象からは外れるんだよ。将来、株価が上がって売買益が期待できるわけでもないからね。

カミさん: そっかあ・・・(落胆)

小生: まあ、日本はサ、医療でも、介護でも、農業でも、教育でもそうなんだけどサ、やりたいアイデアを事業にしようとすると、政府が

それは許可できません。

そんな規制があって、自由にできないんだよ。だから海外で儲ける。どうしてもこんな理屈になるんだよ。日本国内の大企業や海外企業が同じことを始めて、お客さんを奪われたら困るのは、これまでの業者だろ?規模の小さい既存事業者だからネ、効率化も出来ないし、そのための資金力もない。そんな人たちは自民党の支持基盤なんだ、な。どうしようもないんだヨ。「困る人がいるから仕方がない」って理屈は、政治家にとっては決定的なんだよ。

明治維新を実現した推進力は下級武士層と民間の豪商、豪農であったことはよく指摘されている。旧来の支配階層は(言うまでもなく)大名、上級武士層であったのだが、彼らの事業(=領地の一円支配)は既に行き詰まっていた。事業を通した所得生成力は衰退し、キャッシュフローが悪化し、債務は膨れ上がるばかりの状況になっていた。明治維新の背景は旧体制の経済的行き詰まりである。幕末の時点で封建領地経営への意欲は支配階層の中から消失していた。だから「無血革命」が成功したのである。

いま、戦後日本を支えてきた産業基盤、というか企業群の多くは日本国内で利益機会を失いつつある。実際、こんなデータがある。偽装か事実かは議論があるにせよ、現状は既に周知のことである。

国税庁が2021年3月26日に公表した「国税庁統計法人税表」(2019年度)によると、赤字法人(欠損法人)は181万2,332社だった。 全国の普通法人276万7,336社のうち、赤字法人率は65.4%(前年度66.1%)で、前年度から0.7ポイント改善した。

Source:東京商工リサーチ

赤字か黒字かは毎年ベースのフローである。余剰資金はストックだ。赤字でカネをなくすよりは余剰資金を海外で運用する方が合理的だ — 潜在的ビジネスチャンスに投資できないのであれば海外に逃げるしか選択肢がない。グローバル化への対応と言えば聞こえはいいが、海外への逃避は幕末の大名・上級武士層もやりたかったことに違いない。しかし、領地を海外に移動させることは出来ない相談であった。鎖国下の支配階層は明治維新を迎え、版籍奉還と廃藩置県を経て、ただ表舞台から去った。日本の封建時代はほとんど血を流すことなく終焉した。戦後日本を支え発展してきた全国の企業群はいま海外に経営資源を逃避させることができる。その分だけマシである。しかし、日本国内の雇用者の視点に立てば、国内で事業拡大への意欲やプランをもたない企業は生産主体としては寿命が尽きていると感じるだろう。

つまり戦後日本の成長を支えた企業群は「会社」という形を保持したまま《既得権益層》になりつつある — 会社の継続を重視するのは従業員の雇用と生活を思うが故でもあり非難する人は日本では少ない。既得権益で生活をする階層は、フランス流にいえば《ランティエ(rentier)》になるが、つまりは《金利・配当生活者》である。この種の人々は、平和を望み、変化を嫌い、国内では現状維持、国際的には自由な資本市場を要求するものだ。そして低リスクで安定的な資産運用を心掛ける。従って、既得権益層が経済資源の高い割合を占有すれば、その国の経済成長が停滞するのは当たり前の理屈である。

ケインズが生きたころの英国では金利生活者が個人の集合体として「階級」を構成していたが、現代の日本では「階級」というより、事業法人である「会社」がマネー運用で生き延びよう ― 従業員のためだと言えば非難する人も減るだろうが ― としている所が情景としては異なるが、経済の病人という点ではよく似ているわけだ。英国の停滞から脱するためケインズが企業家に対して何よりも求めた資質が"Animal Spirit"であった。しかし、今の日本にはケインズのような人物は登場しないだろうし、登場してもTVのワイドショーで叩かれるだけであろう。これもまた「日本病」の一つの症状だと思っている。

「日本病」に罹っている日本社会は、今のところ、落ちぶれつつあるとはいえ「富裕国」であるから、カネをグローバル市場で回せば、恥ずかしくない程度の生活は出来ている。これが国丸ごとの「ランティエ生活」である。この先、10年、15年程度は続けられるかもしれない。しかし、それも「当面は」である。日本は「資源小国」である。「貿易立国」以外に豊かな社会を維持できる道はない。日本の産業衰退が一層進めばいずれは世界で売れる商品がなくなる。稼ぎが低下し、貿易収支の赤字が所得収支(≒海外からの資産運用収益)の黒字を超える。経常収支が赤字化し資金不足に陥る。それでも日本に投資する海外企業があれば経済と生活は守られる。しかし、日本に投資する(=日本国債を含む)出資元を確保するには日本社会に期待がなければならない。ビジネスに優しくあらねばならない。しかし、それが出来るなら、もうやっているはずだ。いまやれないのは日本人の神経を逆なでするからだ。外国の出資元が現れなければ、海外に投資している対外資産を売却して日本人の生活費に充てなければならない(つまり資本課税が断行される)。この段階で、日本は「アジアのイギリス」になる。1960年代、70年代、サッチャー改革以前のイギリスである。悪ければ「アジアのギリシア」となる。いずれにしても、年金改革、社会保険改革、許認可行政の全面見直し、農地改革、医療改革、教育改革などが一気に進む理屈だ。つまり究極の「ハード・ランディング」である。こうして日本は海外で運用しているカネも使い「貧乏国」への道を歩む。この間に大規模な自然災害、意図せざる戦闘行為に巻き込まれるなど突発的事変があれば、臨時支出もかさみ「富の喪失」が早期のタイミングでやってくるだろう。いや、いや、結構悲惨な社会状況になる可能性がある・・・

【注】「既得権益」と「財産権」はほぼ区別不可能であるほどの近縁の下にある。既得権益が悪だとする価値判断をとるなら、同じ価値尺度を適用して、現行憲法で財産権を保護している29条自体が悪であると主張しなければならなくなるだろう。即ち、財産権よりも公益を優先する全体主義・社会主義となる理屈だ。こういう主旨ではないことに留意。「悪」ではなく、「うまく行っていない」ということだ。が、この点は機会を改めて投稿したい。

「日本病」を治そうとしても、政治的な閉塞や「そんなことをするなら治さなくてもイイ」という日本人の側のネガティブな反応によって、治すにも治せない。そんな予想が、上に引用した投稿の主旨であった。


 

2021年12月10日金曜日

「マクロ倫理学」も「国際倫理学」も学問としては存在しない

数日前の投稿でも話題にしたが、「五輪ボイコット」。政権内部でも

中国、たたくべし

あからさまには言わないが、要するに上のような主旨の主張が相次いでいるようだ。親英米派の影響力が強いということ自体は日本にとっては安心材料なのだが、問題はその思考回路なのだ、な。

「人権」、「民主主義」を中国が踏みにじっている。『だから、いかん』というのが、ボイコット論者の見解である。

小生は強度のへそ曲がりだから、どうしても立ち止まって、考え込んでしまう。

民主主義は善くて、民主主義でなければ悪い、というのは何か倫理基準があるんでござんすか?

人権、人権と言うが、この30年余りで中国の生活水準は大きく上昇した。豊かな社会の実現というのは、何より当の中国国民が喜んでいるのではないか?

人権が真の意味で侵害されているなら、目に見える形で反政府感情の高まりが広く社会全域で観察されているはずでは?

色々な問いかけが浮かんでくる。問いただしたところで、満足の行く答えは返っては来ないだろうが。 

一人の人間の生きざまについては、ずっと昔から人間が備えるべき徳目が学問として確立していた。というより、科学が発展するまでは、倫理、道徳が修養するべき主な学問ですらあった。

例えば、中国発祥の

仁義礼智信

これなどは、今でも通用する人間がもつべき徳目である。小生の好きな言葉の一つは

惻隠の情は、仁のはじめなり

この孟子の言である(以前にも投稿したことがある)。

この儒教的倫理は民主主義国・中国で発展したモラルではない。それでも、中国はアジア周辺地域全体に向かって文明の規範として魅力を発散し続けたのである。日本も中国文化を手本とした一時期がある。

こう書くと思い出すのは、小生が中学生であった時の歴史の教科書である。日本初の法体系である「大宝律令」は西暦701年に唐の法制を手本として制定されたものである。この律令の基本理念は「公地公民」にあり、経済面では「班田収授の法」を柱としていた。「土地国有制」という点は現代中国に相通じるところもある。大宝律令が規定するこの法制はいまの尺度で判断すれば<共産主義>そのものであるが、実際には私営開墾活動の成果である新耕地を私有財産として容認する「三世一身の法」(723年)、「墾田永年私財の法」(743年)が公布され、日本社会は共産主義的な律令社会から現実的な「私有財産社会」、つまり「荘園制」へと移って行き、それで安定したわけである。ところが、授業の場では荘園の発展が律令社会の堕落、古い豪族社会の復活のような負のイメージの下で説明されていたことを覚えている。

しかし、いま改めて振り返ると、授業には価値判断が混じっていたと感じる。一言で言えば「尊皇史観」という歴史観、つまり価値観である。この立場に立てば、たしかに律令国家の変容は社会の堕落、崩壊である。他方、当時の授業のようではなく、律令社会から荘園社会への変容は、むしろ個々人の努力を国家も認める民主主義的な社会への進歩であった。そう観ておくのが正当だ、と。こんな見方もありうるわけだ。

そして、このように考えたからと言って、日本社会は奈良時代から平安時代にかけて、より民主主義的な善い社会へ進むことができたのだ、と。こう言うとすれば、これまた客観性に欠ける議論である。

言いたいことは、

価値判断がいかに不毛の議論であるか 

ということだ。 

社会の在り方、国の在り方に、善い・悪いというモラル的価値尺度を当てはめて価値判断を行うのは、学問的には無理筋である。

実際、王朝時代の中国において、酷い政治、酷い社会状況がもたらされれば、それは社会が悪いのではなく、統治の責任者である皇帝その人個人の不徳に原因があると考えられたわけであって、やはり倫理的判断を下したいのであれば、その対象は国や社会ではなく、個人に限るべきである。それが本筋だろうと思うのだ、な。マ、統治責任者個人に政治の結果責任を問うのは、これはこれで極端だと思っているのだが、「徳目」に基づいて政治を語るならこう議論せざるをえない理屈になる。

つまり、対象を国や社会とした、「マクロ倫理学」やまして「国際倫理学」という学問分野は存在しないし、存在するべきでもない、というのが小生の立場だ。 

従って

非・民主主義国である中国、たたくべし

という主張は、その辺の活動家のアジ演説と同程度のレベルということになる。



 

 

2021年12月8日水曜日

コロナ治療の「正常化」で日本は元気を取り戻すだろう

戦争が終われば戦後の最優先課題は<Return to Normalcy(=正常化)>である。コロナ対策でも同じことが言える。いつまでもダラダラと不必要な危機感を持ち続けて萎縮するのは理にかなわず愚かである。鎖国をしているなら鎖国の分だけ損をすればよいが、多くの国がグローバルに関連しあっている中で人的交流を絶ち続ければ、海外が変化に適応する中で日本だけが遅れるという意味で、二重の損失を被る。

北海道でもメッキリとコロナ新規感染者が減少し、もはや実際に街中を歩いている時に、ウイルス放出者と遭遇する確率は限りなくゼロになった。

というより、小生はもうコロナ・ウイルスが怖いとは感じない ― もし、ワクチン2回接種済みでなお感染が怖いなら、何のためのワクチンであったのかという理屈だ。この心理は大多数の人とほぼ共有できるのだと思っている。

ただ、怖くないとはいえ、実際に新規陽性になるのは「面倒で、厄介だネエ」とは思う。というのは、インフルエンザとは異なり、いきつけのクリニックで簡便に診察をしてもらい、余病を併発する恐れがある場合は抗生物質も出してもらうなど、普段のインフルエンザと同じ便利さがコロナ・ウイルスに関してはないからである ― ちなみに、小生はいわゆる「タミフル世代」には属しない。インフルエンザがまだ「流感(=流行性感冒)」と呼ばれていた時代で幼少期を過ごした。

小生が暮らす港町でも、発熱がある場合は保健所に連絡し、PCR検査をワザワザ受けに行き、そこで陽性になれば、多分、大規模な市立病院に入院させられるか、でなければ指定施設で療養を指示される(だろう)。もしカミさんが陽性なら二人で療養したいところだが、そうでなければ離れざるを得ない(だろう)。

こんな予想があれば、感染は怖くないとはいえ、できれば避けたいと思うのが人情だ。コロナ・ウイルスの現状から判断して、ワクチン接種済みであるのに<暮らしにくい>という心理があるのは、まことに道理に合わない。

・・・(本ブログを読む人は世間で多くはないはずだが)こんなことを書くと『ワクチンは自分の為だけに打つわけではなく、他人に感染させないという社会的目的に貢献するために打つのです』と言われそうだが、もしそうお考えなら「ワクチン接種義務化」を提案するべきだ。これはこれまでにも何度か投稿した(たとえばこれ)。

もうコロナ・ウイルスは、それ自体としては、怖くない。そう感じるのが真相と合致するなら

コロナ治療はインフルエンザなみ

そういう方向で早期に治療体制を簡便化することが社会全体が元気を取り戻す早道であろう。

反対に、もしコロナ・ウイルスが初期と変わらず、実に恐れるべき病原であるなら、いかに危険であるかを当局は客観的に示して理解を得るべきだろう。そして、その場合は、コロナ・ウイルスを専門とする病院を臨時に新規開設して、その他一般診療の水準を維持することが課題となる。

大多数の人は、たとえコロナに感染しても街中のクリニックで診断可能、かつ治療可能と見込まれ、それでも発生が予測される一部の重症化患者は大規模病院に転院すればよい。その方が大規模病院にとっても負担が軽減されるだろう。

ずっと合理的ではないか。

コロナ・ウイルスを<特殊なウイルス>と認識し続け、そうかと言って「コロナ専門病院」を臨時的に開設する努力をせず、既存の大規模病院で一般診療を抑えつつ、その片手間でコロナに対処するのはもう限界だろうと思う。

もし《日本モデル》という言葉を使いたいなら、国威発揚のための「宣伝」ではなく、便利な暮らしに結び付く内実をこめて発案していくべきだろう。


どうしてもこう考えてしまうのだが、違うのかネエ・・・。どこが間違っているか、教えてほしいものでござんす。


2021年12月7日火曜日

ホンノ一言: 五輪の「外交的ボイコット」とは策に窮したのか?

来年2月開催予定の北京冬季五輪を「外交的ボイコット」するとの発表を米政府が行った。多分、英、加、豪などの英語圏諸国は同調・追随するのだろう。ニュージーランドは「我が道を行く」的な傾向があるのでボイコットはしないかもしれない。南アフリカはどうするのだろう?インドは?スリランカは?

いま民放TV各局が関心を高めているのは

日本はどうするの?

という問いかけだろう。これを放送すると、視聴率がほぼ確実に高まるはずだ。新型コロナのオミクロン株が日本で感染拡大するまでは、つなぎの話題に最適だ。そんな展望をもっているに違いない。

とはいえ、

外交的ボイコットとは何なのか?

小生は、それが分からない。

中国に五輪を開催する資格がないと判断するなら、選手派遣の公費負担などは中止するか、あるいは派遣そのものを中止するなど、きちんとボイコットすればよいではないか。

五輪を外交的にボイコットしても、五輪以外の場では外交関係を続けるという意志表示が即ち「五輪の外交的ボイコット」なのであれば、あえてそう宣言することに何か意味はあるのだろうか。五輪開催期間中に限って外交交渉は一時中断します、五輪が終わるまで暫時休憩、そういう主旨なのだろうか。正直そんな疑問を感じます。ところが・・・

日本社会の巷では

日本も外交的ボイコット、やるべし

の大合唱が一部で起きているようだ。

まあ、欧州のフランス、ドイツ辺りまで外交的ボイコット宣言に踏み切り始めると、一つの潮流になってくるのだろう。冬季オリンピックへの出場選手となればヨーロッパから参加する選手団は無視できない。そのヨーロッパの各国政府が外交的ボイコットを宣言すると・・・中国は落胆するかもしれない。それが世界にとって善いこととも思えないが・・・。特にフランスは近代オリンピック運動発祥の地である。ボイコットは創業の理念を否定する自殺行為だと観られるだろう。

まあ、あれなんだろうなあ・・・と思う。

黒船来航以降の「尊皇攘夷」、明治20年代の「朝鮮、討つべし」、「清国、討つべし」、「ロシア、討つべし」、昭和10年代の「米英、討つべし」。この流れの末にいまの『中国、たたくべし』の大合唱があるのは(小生の感覚では)分かりきった話だ。

この

△△、討つべし

というのは、半ば周期的に発生するかのような大地震に似て、日本社会の社会現象として、時に発生してしまうのだ。大合唱が「世論」であるかのように世を覆うが、しかし、実は内実は何も含まれていない。『討つべし』と叫ぶ対象に対して、何か具体的な理由をもって怒りの感情を共有しているかといえば、実は怒りなどの感情はなく、世間で騒いでいるから、その流れに自分も乗るしかない、これがありのままの状況で、たとえて言うなら《祭り》、《祝祭》と類似した社会現象である(とも言える)。

となれば、制御不能になる前に、たとえば年末の「第9」や「クリスマス」は大いに盛り上げる。札幌の「雪まつり」を盛大に開催する(実際、開催の方向であるよし)。「雪明かりの道」にも大勢の人を集める(これも開催の方向であるよし)。神社、寺院の初詣も大いに盛り上げる。春に向かって大規模イベントを盛り上げていく。これだけで、国内の大衆心理に蔓延する不穏な心情は雲散霧消して、来年2月の冬季五輪を平静に迎えるに違いない、と。

いまこんな風に思っている。

まあ、予想であるが、韓国は外交的ボイコットには追随しないだろう。インドもボイコットはしないと小生は予想している。となれば、タイ、ベトナムなどASEANも五輪をボイコットはせず外交の場に活用するのではないか ― 冬季オリンピックにどの位の選手が参加するかは分からないが。そんな中で、日本だけはボイコットするだろうか?多分、選手団に随行する政府関係者のランクを下げてお茶を濁すのではないだろうか。「ボイコット」とは言わないだろうが、そう受け取りたいならそう受け取るだろうし、そうではないと思いたいなら、ボイコットではない。「オミクロンも心配だしネ」というところになるのではないか?そして、その位の対処で何も害はないし、要するに外見が大事なのだろう。

近代オリンピック運動は、たとえ戦争当事国であっても、五輪開催期間だけは大会に参加しようという平和運動として発祥したものである。その理念は理念として高い価値があると思っている。相手国の政治の在り方に不満があるので、五輪をボイコットするという外交戦術を実行し始めたのはアメリカのモスクワ五輪ボイコットからである ― ヒトラー政権下のベルリン五輪をボイコットするべきかどうかで、アメリカでは激論が展開されていたのだが、結果として参加している。

アメリカの《五輪ボイコット》と中国の《不買運動》と、この二つにはどこか相通じるものがあると感じるのだが、そう感じるのは小生だけだろうか?

2021年12月6日月曜日

断想: 天皇の継承と現行憲法との関係

ネットにこんな投稿があるのは最近の日本社会を「象徴」しているようだ。おそらく相当多数の人たちが賛同すると見込まれるからこそ、公表するのだろうと思われる。

話題は例によって(?)日本の《天皇制》についてである。とにかく、眞子内親王と小室圭氏の結婚と出国、それに今上天皇の長女である愛子内親王の成人と、皇室関係の話題に日本人は無関心でいられない所がある ― この性向は明らかに明治維新以後に人工的に形成された社会心理であり、江戸時代にはなかったはずである。

小生の目に入った投稿記事というのは(抜粋をさせて頂くと)以下のとおり:

男女で“格差”を設けることが許されるのか

そもそも、女系天皇とセットにならない女性天皇・女性宮家は、およそ常識外れな、かなりイビツなものになるのを避けられない。同じ「天皇」なのに、男性ならお子様に皇位継承資格が認められ、女性なら認められない。このような差別の客観的・合理的な根拠は何か。性別だけを理由として“一人前の天皇(お子様に継承資格あり)”と“半人前の天皇(お子様に継承資格なし)”とを峻別するというのは、現代において相当「野蛮」な制度と自覚すべきではあるまいか。「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」である天皇どうしの間に、男女で“格差”を設けること自体、不自然だろう。

URL: https://blogos.com/article/573018/?p=2

Original:PRESIDENT Online2021年12月05日 13:41 (配信日時 12月05日 11:15)

投稿記事を読めば明らかに分かるが筆者の意見の論拠は現行憲法の規定に置かれている。

本ブログでも何度も投稿(例えばこれ)しているように、伝統的な「天皇制」、というより「天皇の継承」については、民主主義と全国民の平等を基本とする日本国憲法と矛盾するところがある。だからこそ、というより、こうなることを心配して、明治維新から20年程が経過した後になって、近代国家の在り方を規定する憲法と前・飛鳥時代から続く天皇制の伝統とが矛盾しないように明治の憲法草案では国家における天皇の存在を明文で規定をし、天皇を(私的な人物ではなく)公的存在とした、と。そう考えるべきだろう。だから『天皇機関説』という学説も法的ロジックとして出てきたわけである。

であれば、太平洋戦争敗戦後の日本において、なお伝統的な天皇制を守って行こうという意志が日本人の間にあったのであれば、それが正しく「国体護持」という言葉で意味されていた意志であったのだが、憲法と天皇制とが矛盾しないように規定を設けておくべきであった。

そうしなかった背景として、敗戦直後の日本は連合軍の占領下にあり、政府、及び日本人に憲法の条文を文言として書きくだす意志の自由が与えられていなかった。

つまり

現行憲法を制定した《憲法制定権力》に日本国民がどの程度まで参加できていたのか?ここが不透明である。

この点で天皇(というより皇室?)と憲法の関係にはどうしても曖昧で不明瞭な問題が残ってくるわけで、ここに皇室に関する議論全ての核心があると小生は思っている。

つまり、日本国憲法を根拠として、天皇制の在り方を議論しても、その議論の仕方自体に賛成できないという保守層が厳然として(それも有力な塊として)日本には存在する。

ということは、天皇の継承問題を望ましい形で解決するには、まず明らかに日本国民の意志がそこに反映されたと判断できる状態で憲法を、その内容に違いはあれ日本人自らの意志として、改正するという作業が先にあるべきだ、と。こんなロジックになるのではないか。

そうでなく、制定の過程に不透明性が残る現行憲法を論拠として、伝統的な天皇制に修正を加えるという試みは、ほぼ確実に成功しない、というより文字通り《日本国民の統合》に傷を残す。そればかりでなく、そうして即位する天皇その人に対するリスペクトもまた大いに毀損されるという結果を招く。そんな状況が予想される。 

いま日本に必要なのは、「令和の伊藤博文」であるに違いない。

2021年12月3日金曜日

ホンノ一言: アメリカのオミクロン対応について思う

コロナ・ウイルスの新変異種"omicron"にどう対応するかで、アメリカのバイデン政権は

経済・教育活動は今のままオープンを継続

という方向を選択したようだ。The New York Timesには

White House officials, and the president himself, have said the plan is aimed at keeping the economy and schools open. Yet it remains unclear how the strategy, and the administration’s new policies, will affect an economic recovery that faces new waves of uncertainty from Omicron.

と書かれている。

具体的方策としては《国内および国内外旅行者に対する検査拡大》、加えて《ブースター接種》を柱にするようだ。

 WASHINGTON — President Biden, confronting a worrisome new coronavirus variant and a potential winter surge, laid out a pandemic strategy on Thursday that includes hundreds of vaccination sites, boosters for all adults, new testing requirements for international travelers and free at-home tests.

バイデン大統領はこれまでワクチン接種に最大の力点を置いてきたが、それでもなお共和党支持色の強い"Red States"やいわゆる「田舎」で接種率が中々上がらず、全国の接種率は頭打ちになっていた。そこでワクチン接種から検査拡大に向けて作戦正面を転換した、ということなのだろう。紙面では

 After nearly a year of pushing vaccination as the way out of the pandemic, Mr. Biden has been unable to overcome resistance to the shots in red states and rural areas. His new strategy shifts away from a near-singular focus on vaccination and places a fresh emphasis on testing — a tacit acknowledgment by the White House that vaccination is not enough to end the worst public health crisis in a century.

と説明されている。 

もちろん旅行制限は厳格化されている。ただ上の記事に基づく限り、アフリカ8か国を対象としているようだ。

Mr. Biden’s remarks at the National Institutes of Health were the second time this week that he had addressed the nation on the pandemic; on Monday he spoke about new travel restrictions he imposed last week on eight African nations.

 Source: The New York Times,  Dec. 2, 2021 Updated 9:13 p.m. ET

URL:https://www.nytimes.com/2021/12/02/us/politics/biden-omicron-covid-testing.html

これからどのように適宜修正が加わって行くは不確定だが、《オミクロン対応の基本原則》を明示している所は、政策説明がロジカルである。

もちろん説明をロジカルにするのは一長一短である。論理には《前提》がある以上、その前提が当てはまらない場合にはどうするか、という質問がありえる。そして、そもそもパンデミックの進行は不確実性が伴うから、意思決定の前提が崩れる時のことを質問されると、いずれかの段階でそれ以上の説明は困難になる理屈だ。そこで《不安》が生じる。

例えば、「検査拡大というが、水際防止を検査だけで達成できる確率は?」という質問に回答するのは難しいだろう。あるいは、「検査で水際防止を行うより入国禁止のほうが効果的ではないか?」といった部分最適的な質問とか、「もしも教育の現場で感染者が急増する場合にもオープンのまま継続するのか?」という将来の<IF>を問うものとか、多数の疑問がありうるわけだ。

つまり、不安はロジックでは解消できないのである。

その解消できない不安を解消してほしいと願って

不確実性があることをもって今の不安を正当化する

こんなタイプの、いわば「議論を袋小路に陥らせるような質問」が、政策の受け手側の心に浮かんだときに、その質問をあえて控えるべきかどうかは、これは国民性に応じて変わって来るものであろう。いずれにせよ政策は目的を決め、何かの前提をおき、議論をして、結論を出すことによって決まるものだ。不確実性は直面している現実によっている。故に、不安をゼロには決してできないのである。

火事の現場に到着した消防士が、

放火である確率がゼロでない以上、証拠保全には十分留意するように

などと真っ先に注意するような隊長がいるとすれば、「熟慮」というより単に「のろま」である誹りを免れない。確率的には多くの可能性があるのだが、意志決定と行動はその中の一つを選ぶことである。リスクが消えた段階で行動に出ようと熟慮してもそんな時はやっては来ない。生きていることそのものがリスクである。

現実そのものに含まれる不確実性は、たとえ熟慮しても減らすことは出来ない。

つまり、日本社会で起こっているあらゆる現象は、同根であると思って観ている。 ただ、日本人がなぜこれほどリスクを嫌うようになったかというその根本原因は(小生には)分からないし、日本人の全体がリスクを嫌うようになっているのかと聞かれれば、全体がそうなっているわけではないという気もする。そもそも社会全体のリアリティなぞ、分かっている人がどこにいるか、であろう。我々に出来るのは、一部のサンプルを強調するか、全体を概観して印象を抱くか、のどちらかだ。そもそも『政治家と国民とのコミュニケーションって、一体、何を誰にどうせよと求めているのだろう?』と、この疑問がずっと解けないでいるのだ。

ま、いずれにせよ、

リスクだけを語るなら

リスクは小さいほど良いに決まっている。

成長を語るなら

成長率は高い方が良いに決まっている。

平等・不平等を語るなら

不平等よりは平等のほうがイイよね 

コロナ感染に話が及べば

感染者数は少ない方がイイし、重症者、死亡者も少ない方がイイに決まっている。

マスコミは誰にも分かる話しをする。難しい話はしない。しかし、最適な政策というのは、複数の目的を同時に最大化はできないからこそ《最適》というのだ。そして、人は色々である以上、選ばれた政策が<最適>だと考えない日本人の方が常に多いものだ。

確かに「コミュニケーション」が重要なのだろう。しかし、行政府が、政策上の意思決定について国民に説明するとき、どのような意識で、どのような構成でどんな風に話して説明するかは、聴く側の国民の感性に応じて、やはり変わるものである、と。上のNYT記事からそんなことを考えた。


2021年12月2日木曜日

ホンノ一言: 内政は苦手であるように思えた元首相だが・・・

 ネット記事に安倍元首相の外交感覚が次のように伝えられていた:

自民党の安倍晋三元首相は29日、東京都内のホテルで開かれた日本維新の会の鈴木宗男参院議員の会合で講演した。

 最近の中国とロシアの連携ぶりに警戒感を表明。日本の対中政策の観点からも「戦略的にロシアとの関係を改善していくことが死活的に重要だ」との認識を示した。

Source: Yahoo! ニュース、 11/29(月) 20:56配信

Original: JIJI.COM

対中外交で戦略的優位を築くために対露外交を活用するのは本筋である。

ヤッパリ、安倍首相って、つくづく内政が不得手で、外交が好きなんだネエ、と。

更に言えば、対中外交に駆使できるカードは、米国、ロシアに加えて、北朝鮮であることは間違いない。

北朝鮮との間には「拉致問題」という懸案があるわけで、この問題でもし日本がソフトコミットメントに打って出れば、期待できる利得は極めて大きいはずだ。と同時に、対韓外交、対中外交にもプラスの間接的効果がある。

西ドイツのブラント首相が進めた"Ostpolitik(東方外交)"を見習って日本でも<北方外交>を展開することにすれば、英国の思惑いかんではアメリカの賛同を得るのも、可能じゃないかとも思われる。ひょっとすると、アメリカにとっても対中優位を得るうえで「渡りに船」かもしれない ― まあ、もしこうなるとすれば、第二次大戦の末期、「背に腹はかえられない」とばかりに対日参戦をソ連に要請したアメリカの思いに似てくるのではあるが、一度あったことは、二度あってもおかしくはないだろう。

ただ対露外交の新展開とはいえ、アメリカの意向を確認せずに北方領土で日本が譲歩するのは、まず不可能である ― それに日本国内の世論も譲歩は許さないと予想される。なので、対露外交を前に進めたいと考えても、よほどの知恵が必要であり、この点では陸奥宗光クラスの天才的外交戦略家がいればの話しになるのかもしれない。

北の港町にいてもこんなことを思いつく。東京の政府ではとっくの昔にこれ位は分かっているはずだ — 「ダメ、ダメ!」とその場で却下されているのかもしれないが。

岸田総理は外相の経験が長いが、国際外交観のスケールはやはり安倍元総理の方がずっと上らしく(小生には)思われる。

2021年12月1日水曜日

ホンノ一言: オミクロン型と岸田政権による一律入国禁止措置について

南アフリカで確認されたコロナ変異種「オミクロン」だが、岸田首相が世界に先駆けて、全世界を対象に外国人の入国を全面的に停止する。1か月間を目途とする、と。こんな決定をテキパキと公表したところ、世間では非常に評判が良い — というより、評判が良いとマスコミ各社が一致して報道している・・・のが今日の状況である。

しかし、マスコミがそろって評価するような政策など、そんな政策は本当に良い政策なのだろうか?そんな報道はホントに良い報道なのだろうか?

もちろん逆のケースもあるわけで、マスコミがそろって非難する政策は本当に悪い政策なのだろうか、そんな問いかけもある。

***

これまではユルユル(?)かつズブズブ(?)のコロナ対応を続けてきた日本が、突如としてイスラエル並みの強硬策を採ったというので、英国BBCでも米国The New York Timesでも、一寸大きめの報道をしていたから、今回の日本の措置は海外に(ここ近年の日本にしては珍しい)一種のハレーションをひき起こしたことは確かなところだ。

小生も<今回だけに限定すれば>的確な措置の範囲内ではないかと思う。最初に締めて、状況に応じて徐ろに緩和するというのは、緊急対応の鉄則だろうとは思う。しかし、WHOは一律の渡航禁止には反対するとの声明を出した。英国や米国は全面入国禁止には踏み切っていない。韓国もそうである。

思うのだが、2020年初め以来、日本が採ってきたコロナ対応策は世界の中でも不徹底な点が多く。特に、PCR検査拡大には一貫して消極的であった。安倍元首相は「日本モデル」と称していたが、事後的に振り返ると単に「怠慢」ではないかと判定されても仕方がない側面もあったと、小生は感じている。

コロナ・ウイルスに対して世界でも突出してユルヤカな政策姿勢をとり続けてきた日本が、今度は世界でも突出して厳しい姿勢をとった。

ゆるいか、厳しいかという前に、この「突出」という点が共通している。ここに、日本社会というか、日本政府というか、何だか日本的であることの本質的な核心がうかがえるような気がするのだ、な。

***

要するに、

日頃の《相談相手》が日本にはいないのではないか

と、そんな風に憶測されたりするわけだ。

独りで悩んでいる控えめな人物が、前触れもなく、相談することもなく、過激な行動に走って世間をビックリさせる。いま現代社会でこの種の事件がいかに多いか。国際外交社会でもこんなロジックは、やはり当てはまっていると思う。 

パンデミックにいかに対応するかという問題は、これ自体が国境をまたいだグローバルな性格の問題であって、一国だけで「こうするのが正解だ」という結論は出せないはずである。一国にとっての最適戦略は大なり小なり関係国がとる(と予想される)戦略に応じて変わるものである。その結果として、連立方程式の解が定まるように、多国間の均衡戦略が決まってくると観なければならない。故に、今回の「オミクロン型」のような新変異種が確認され、いずれ自国にも侵入してくる事態が予想される時には、まずは近隣諸国、もしくは情報を共有している国と「そちらはどうするつもりか?」と(水面下で)確認をとりながら、また意見を交換しながら、行動方針を決めていく、というのが定石であるはずで、この辺の事情は我々の日常的なご近所付き合いとまったく同じロジックがあてはまりもするわけだ。そして、近隣諸国、利益を共有する諸国とヤリトリする中で、同じ問題に対して、多くの国が大勢として概ね似たような政策方針で対処するようになる。これが国境をまたいだ問題にいかに対処するかという時の基本的なロジックであろう。

世界の中で突出した政策を採ることが多い。しかも、左右のブレが甚だしい。

こうなる原因は(ひょっとして)日本だけで独善的に政策決定しているということではないか。そればかりではなく、その突出ぶりを自画自賛する傾向もある・・・。小生は、こんな傾向は極めて危ないとしか感じられない。

というのは、意見を交換し、政策を相互調整しようという国が日本の周りにはいないということの裏返しではないかと小生には思われる。とすれば、日本政府は「日本国内の評判が最も良いと思われる政策を実行しよう」と、ただひたすら、こんな政治的動機に沿って意思決定をするはずで、これが正に今回の事例に当たるのではないかな、と。

やっぱり、ずいぶん底が浅くなってるネエ

正直なところ、これが感想だ。

一部の人間集団だけが表舞台で頑張る(頑張らざるを得ない?)という近年の日本の何か「底浅い」社会状況をどこか象徴しているではないか。真の「国力」というのは、国民全体の活動が集計されるという次元で表れるものだ。実際、(一つの側面だけを測定しているに過ぎないが)GDPも集計値として定義されている。それがいま一つ伸びないのも、どこか通底しているのかもしれない。

***

日本国内にも今回の「一律入国禁止」には反対する意見を述べている人もいる模様だ。当然である。例えば、再入国が突如として禁止された外国人留学生の「人権」はいかにして保護されるのかという議論が、まったく見られないのは不思議である。こういう異論を可視化するというのが、本来はSNSの役割であり、マスメディアも複数の意見を紹介することが報道機関としては重要であるはずなのだが、いまの日本社会では — 世界も同様だろうが ― SNSもマスメディアも「正しい見方」、「正しい決定」を確認するための場になってしまっている。口では「多様化」と唱えているが、それは人種、男女差別に対抗する際の呪文に過ぎず、実際には「正しい見識をもって正しく行動をせよ」の一点張りである。ここが現代社会の一番危ないところではないかと思っている。

メディアは「正しい見方」を伝える事とは無関係である理屈だ。もしも「地動説は間違っている」と主張する専門家が現れれば、

地動説に疑問を表明する専門家がいます

と報道するのが、良いにしろ悪いにしろ、マスコミというものなのだ。

地動説が正しいに決まっているから、そんな主張を流して、混乱させるべきではない

こう考える方が、実はマスメディアを社会的死に至らせる発想である。

信用できる、時には「面白い」と思われる発言、出来事も含めて、様々な情報を早く伝えることに果たすべき役割がある。マスメディアとは国民に奉仕する《伝令》である。国民に考えてもらうことが最終的な目的だ。「世論」の形成にメディアは中立的であるのが最善である。報道機関が自ら意見をもつとすれば、もはや「報道機関」とは言えない。「宣伝」でも「エンターテインメント」でもない本当の「報道」はますます少なくなってきたのが、21世紀という時代なのだろう。