2025年1月5日日曜日

ホンノ一言: 「女性初」の英断(?)で企業が成長するなら、「ドンドンおやりなセエ」ってことになるが、そんなに簡単にいくのか?

箱根駅伝はこの正月も盛況の内に終わったが、拙宅では特に上の愚息が好きで、今回も2日から3日にかけて宅に泊し、TV観戦にはりついていた。

観ている時には気がつかなかったが、

 日本テレビ杉野真実アナウンサー(33)が4日、インスタグラムを更新。箱根駅伝の第4区で、女性アナウンサーによる初めての中継地点での実況を行った杉野アナは、実況を終えた感想をつづった。

Source:YAHOO! JAPAN ニュース

Date:1/5(日) 6:00配信

Original:日刊スポーツ

こんな記事がネットにアップされていた。

これまた《女性初》ですか

そう思いました。

それもイイんですけどね

とも思いました。


これって、『人手が足りないンですよ』と。本当はコレですか?…と。何だか「国民男女総動員体制」を連想してしまうのだ、な。

こんな風に各分野で「女性初」の英断(?)を繰り返しつつ、仕事の現場ではイノヴァティブな改革が進まず、社会全体で「働き方改革」などと叫びつつ、実際には過去のやり方の延長を続けながら、働く人の人数で勝負と思いきや「人出不足」の現状に危機感のみが高まる。

何しろ、最近の最低賃金大幅引き上げに着いて行けない一部の県では

最低賃金引上げに耐えられない中小企業を支援する補助金が十分でない

こういう驚嘆に値する愚痴が、愚痴が愚痴ではなく、政策に対する正当な苦情として、もっともらしく伝えられる。世間はそれに同情する。

政策的な最低賃金引き上げに伴う利益減少は、国に責任があるのだから、経営努力ではなく、税金で保障してもらいたいわけだ。

そんなお国柄である。


言いたい本音を隠して、問題の根本的解決から逃げる経営の怠慢を美しい言葉で飾り、本当は為すべき経済政策を停めようとする。

この種の圧力は半端ではない・・・。

大体、理念や価値観で企業を経営するべきではないでしょう。企業は何のためにあるンですか?

思わずそう感じるのだが、世間の受け止め方は、また違うのかな?

まあ、口を開けば『理念、理念』と念仏よろしく唱えるのが、21世紀も20年余が過ぎた今の流行だからネエ・・・・21世紀は、案外、「宗教の世紀」になると語ったことがあるが、その通りの世相になってきた。

しかし、五濁悪世のこの浮世で、単なる理念を口で連呼しても、現実により良い社会になるロジックはないのだ。経済状況を改善したいなら、いくら気に入らなくとも、経済学の知識を活用する以外に道はない。

本来は英米社会に親和性のある英米発の経済理論が、日本社会でどれほど実効性があるかは、本気でやってみないと分からないが、日本社会の特性に立脚した学理がない(?)のだから仕方がない。

2025年1月3日金曜日

断想: そもそも他力思想の「往生極楽」という言葉は科学的意味を有するのか?

昨秋に受けた五重相伝を機に朝の読経を続けるようになった。これは前にも投稿したとおりだが、これまで職業生活を通して親しんできた科学的、というか《物質的自然観》のロジックに沿って考えると、信仰や救済、浄土といった精神的価値が、生死という生理学的現象と、そもそもどう関係しあっているのか?

こんな疑問がある。誰もが感じるはずのこの疑問に対して、正面から向き合わなければならない。

大体、仏教の浄土系宗派では「往生極楽」というが、これが我々をどう救済すると言うのか?

ここが分からないと、「他力」も「阿弥陀如来」も何もないわけで、それは禅宗などの自力思想が強調する「解脱」にとっても同じことだ。解脱したからと言って何がどう変わるのか?

こんな疑問は極めて基本的である。

他力思想から考えるとして、例えば、鈴木大拙の『浄土系思想論』には以下のような下りがある:

業に制約せられた個個の吾等は、どんなことをやっても、それは悉く必然的に悪である。……

本願を信じなくても、よってもって浄土に往生することの出来るというほど安全な純粋な善は、この世に存在しない……

善人はそのなせるところの善を必ず意識しこれを媒介にして、何かを求めんとする時、彼は直ちに善人ではなくなる。悪人といっても、もし彼にして一たび弥陀の光に照されたとすれば、その時に彼はその罪を除かれて、浄土往生人たる資格を得るのである。なんとなれば、弥陀は善をも悪をも一様に融かしてしまう坩堝ともいうべきもので、ここでは信のみがその絶対性を保持するからである。弥陀は創造主でないから、衆生に懲罰を与えようという考えを持たぬ。弥陀は普く一切衆生によって分有せられるところの慈悲の光である。

人間社会における《善悪》という価値は、阿弥陀如来による救済の場においては、一切意味を持たない。世間でいう「善人」、「悪人」とも、阿弥陀如来にとっては完全に平等であるというのは、善のイデアと神の審判とが相互に結び付いた西洋の思想とは違っている。

いま「世界観」と書いたが、最上行にある 

業に制約せられた個個の吾等は、どんなことをやっても、それは悉く必然的に悪である

がキーポイントになる。

「業」というのは、過去生、現在生、未来生を貫く、因果応報の連鎖のことで、宇宙の変動(=event、movement?)は相互に関連する因果関係による。その人が誕生時に負っている因果必然性を「業」とか「業縁」という観念で考えるわけだ。

なので、人間世界に生きる現在生において、善を為すか、悪を為すかという違いは、本人の自由意志がもたらすものではなく、「業縁」によって予め決定されている(と観る)。とすれば、確かに善人・悪人は平等ということになるが、最も分かり難いのは、このような世界観(倫理観とも言える?)を受け入れるにしても、

本願を深く信じて、浄土に往生する

なぜこれを心から人間の側から強く願うか?この一点だと思う。

そもそも「業」によって決定されている未来生があるのであれば、それを覆して、阿弥陀如来が救済するのは、論理矛盾ではないか?

こういう理屈になる。


ちなみに《本願》というのは、浄土系宗派では「常識」(?)に属するのだが、阿弥陀如来がまだ法蔵という人であったとき、48の誓いを「願」として立てて、これらが実現しないなら神の力をもつ如来にはならないと、そう誓ったわけだが、その中の第18願が宗派内では著名ないわゆる「本願」で

たとえ我、仏を得んに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)して我が国に生れんと欲し、乃至十念せん、若し生れずば正覚を取らじ

法然が唱えた専修念仏の有効性を根拠づける一文である。この伝説を釈迦が弟子・ 阿難に語る情景を記録しているのが、仏教の聖典(の一つ)でもある『無量寿経』である。ちなみにこの経典は「浄土三部経」の一つであり、後半部分で特に「悪」について書かれている所がユニークだと(勝手に)思っている。

他ならぬ仏教の開祖である釈迦が「阿弥陀仏」の存在を明言している以上、法蔵の願は全て実現されているのだろうということになる。故に「阿弥陀仏国」(=「極楽」)も実在し、第18願がある故に、「本願」のとおり現在生が終わる時、「極楽」という名の阿弥陀仏国に赴くことも、可能である。これが他力信仰の基本的論理である。


ただこうした思考に対して、唯物論的な科学的思考をする限り、認めがたいという現代世界の多数派の宇宙観があるわけで、実証のしようもなく、そもそもこの二つの見方は永遠に平行線をたどらざるを得ない。

だからこそ、

浄土に往生するというのは、なぜそれほど願わしいことなのか?

死ねば何も無くなる以上、死後の往生極楽など、架空の話しで意味がないではないか? 

こういう疑問は必ず生まれる。

* 

他力思想については、最近になってから何度も投稿してきた。たとえば小生自身の「世界観の変化」を要約したし、浄土思想や他力思想なら9年も前に既に投稿している。


多分、平安期10世紀から11世紀にかけて浄土信仰が非常に高まった背景として、源信による『往生要集』が可視化した地獄絵図の衝撃があった。これが先ずあったと想像する。地獄よりは極楽に往きたいと願うのは当然だ。その後、法然、親鸞が生きた平安末期から鎌倉初期という時代は、それまでの「末法」の感覚に加えて、現実に内乱、天災が続いた時代だった。貴族、庶民を問わず地獄絵図への恐怖は現代人の想像を超えていたであろう。内乱、動乱に明け暮れる中で浄土系仏教が救済宗教として受け入れられたのは偶然ではない。


では、科学主義が主流である現代世界において、なお浄土思想が有効であると考える根拠はあるのか?

それは、多分、因果関係から自然科学的に世界を理解するだけでは、「存在の真理」に達しえないという哲学的な立場によるのだと思う。


この世界は、原子、更には素粒子から構成されると観れば、元素や化合物、更には分子、高分子、生命は全て宇宙の本質ではないことになる。まして、人間がつくる社会や国、法律や学芸などは、とるに足らない幻になってしまうだろう。人間のやる事は、所詮は、この宇宙において意味なきバブルのような現象なのだろうか?

こんな虚無的なニヒリズムも確かに一つの立場だ。

しかし、ヒトにとって《世界》とは、決してモノクロームな原子や素粒子の集合体ではない。原子や素粒子が偶々結合して「事実存在」となった物体や生物から「世界」は造られていると認識する。外界にあるのは原子や素粒子だが、人間の意識が「ある」と認識するからだ。そう認識するのは、たまたまそんな物体を目で見たからではなく、それが何であるかを認識する知識をヒトが持っているからだ。これが「本質存在」に関する知識である。西田幾多郎が『善の研究』で述べているように、「世界」は意識の中にのみ存在する。

現に自らの中で活動している「自分」という精神的存在は、原子や素粒子の集合的運動として解釈するのは、無理というものだろう。即ち、「精神世界」という世界は確かに実在する。

考えてみれば、「社会」や「国」も実在はするが、物質として存在するものではない。

時間や空間は、カントが着目したように、人間が経験する現象を整理するための先験的な形式だ。時間という尺度に沿って考えれば、前世、生、死、来世という順序に整理される。しかし、生と死というのは、身体という物質の生成消滅のプロセスの一環であり、精神は身体の中に存在しているわけではない。

こう考えると、「精神世界」を「物質世界」とは区別して考える方が、ロジカルであって原子、素粒子の運動とは別の問題として、「精神世界」において実在するのは何かを考えないといけない。

こういう筋道になるだろう。


以上の議論を踏まえると、時間や空間という次元はもたない精神世界のどこに「自己自身」がそもそも帰属することになるのか?

こんな疑問は確かに疑問でありうる。

他力思想が強調する「往生極楽」という目的は、物質世界ではなく、精神世界において実効性をもつ言葉である。


今日のところは、まずはここまで。

雪深々 読経のあとに 湯をわかし

息と囲む すきやき鍋に 牛肉を

    これでよいかと 妻はとひつつ