2021年9月29日水曜日

ホンノ一言: 宏池会出身首相が久しぶりに登場する見込みになって

「ファン」というべき対象ではないが、小生は政界の中では《宏池会》のファンである。

それは、そもそも幼少時に最初に名前と顔をハッキリと記憶した総理大臣が池田首相であったからでもあるし、何より宏池会に所属する議員達から醸し出されてくる「軍事より外交」、「安保より経済」という基本的な思考が、小生には合理的に感じられ、大変好もしく映っているからだ。その経済志向が、政府の役割を重視するケインジアン(Keynesian)ではなく、民間のイノヴェーションを重視するシュンペータリアン(Schumpeterian)に近ければ、「ファン」を超えて、今もなお熱心に支持しているに違いない。

もし自民党幹事長が二階氏ではなく宏池会の流れをくむ谷垣氏であり続けたなら、安倍政権の5年目以降に生じた数多くの不祥事は避けられたかもしれず、もし谷垣氏の兄貴分である加藤紘一氏が一度でも内閣を組織していれば、日韓関係、日中関係も現在のようではなかったろうと思う。

本日の自民党総裁選挙で宏池会(=岸田派)の岸田氏が当選した。

これは、昔からのファンである小生にとっても嬉しいエピソードになりそうだ。

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ところが、宏池会から首相が輩出されるというのは、あまり縁起のよいことでもないのだ、な。

初代の池田首相時代の《国民所得倍増計画》、《寛容と忍耐》は見事に成功したが、その弟分・大平正芳氏は福田赳夫氏との激烈な権力闘争《四十日抗争》の泥沼を闘うことになった。からくも勝利を得て首相を続投したものの、党内に残った深い遺恨は癒えず、翌年に野党が提出した内閣不信任案をきっかけに「ハプニング解散」となり、その後の選挙戦真っ最中に、当の大平首相は急逝するという悲劇的な結末を迎えた。この間、自民党は戦後最大の分裂の危機にあったのだ。

あとを継承した同じ宏池会の鈴木善幸首相は地道に職務を全うしたが、ずっと後年、バブル景気も崩壊した後、宏池会の宮沢喜一氏が内閣を率いることになった。経済に精通した宮沢首相であったが、時に利あらず、巡り合わせと言うべきか、長きにわたった自民党政権の幕引きをする役回りを演じてしまった。そして細川連立政権が成立した。小選挙区を基礎とする現行の公職選挙法が導入されたのは、宮沢内閣崩壊後のことである。

大平首相時代は激しい派閥抗争と現職総理大臣の死去。宮沢首相時代は自民党政権の崩壊。宏池会出身首相は決して縁起がよいわけではない。波乱含みである。

輿望があったにもかかわらず、総理になることなく自民党総裁から降りたのは、河野洋平氏、谷垣禎一氏だが、二人とも宏池会の系譜に連なる議員である。

なお、元首相・麻生太郎氏を宏池会の流れに加えてもよいが、それはそれで自民党政権崩壊を演じた内閣にもなり決して縁起のよい話ではない。

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宏池会は伝統的に中道左派、自民党内リベラルであって、安倍前首相が基盤とする右派とは思想を異にしている。

にも拘わらず、今回、岸田氏が自民党総裁に当選する流れが形成された背景として、安倍前首相の活動が大きく寄与してきたことは間違いないと思われる。

宏池会の核心的な思想には大いに共感するが、右派との板挟みになる可能性は大いにある。

大丈夫か?

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迷走を繰り返すと、今秋の衆議院総選挙で苦戦の末、敗北し、来夏の参議院選挙で嫌な流れを引きずって、ひょっとすると大敗北を喫する怖れはある。そうなれば《ねじれ国会》となり、それを避けようとすれば「衆参ダブル選挙」を選ぶだろうが、これまた危険なギャンブルだろう。


折しも大相撲では白鵬が引退、「間垣親方」を名乗ることになった。その間垣親方だが、伝統のある名称ではあるが、何人もの継承者が不遇のうちに死するか、廃業するかをしており、極めて縁起の悪い札付きの親方株であるという。


今回、宏池会出身者が次期首相となるのはほぼ確実になった。決して縁起がよいわけではない。宏池会の運は、初代・池田勇人氏が使い切ってしまった、そんな印象だ。

大丈夫か?

傍から見ていると権力闘争はいつでも面白いものだが、コップの中の争いで終わるとも思えず、経済政策にも直結することなので、まったく無関心でもいられない。

ただ、正直言うと、ホッとした感もあるなあ・・・

前にも書いたが、小生は最先端・小型原子炉の安全性、効率性の信望者である。ずっと以前に投稿しているし、立場に変更はない。科学技術の進歩には最大限の信頼をおくというのが基本的立場である。

エネルギー計画についてばかりは、激変が避けられたので安堵しているところだ。風が止まって風力発電の当てが外れ、天然ガス価格高騰に苦しむ今のヨーロッパを見るにつけ、400年も昔のオランダの風車じゃあるまいし、お天気任せ、風任せの再エネを基礎にして、本当に21世紀文明を発展させていけるのか?、本当に大丈夫か? 電気自動車はチャンと充電できるのか? 安心できるのか? オイル・ショックならぬエネルギー・クライシスがそれこそ5,6年に一度は周期的に起きますゼ・・と、心配は高まる一方なのだ、な。

「二酸化炭素は出さない方がイイ」、「だったら風や光や水を使おうじゃないの」と、・・・ホントにこんな幼稚な発想で地球を高度文明社会にレベルアップ出来るのだろうか?

マア、問題や障害は小さな規模で早めに顕在化する方がイイには違いない。引き返せないところまで進んでから難問に直面すれば、昭和10年代後半の帝国陸軍と同じだろう。

2021年9月26日日曜日

ホンノ一言: 内親王の婚談でなぜ激論になるのか? さっぱり分からヌ

秋篠宮家の眞子内親王と小室圭氏との婚談がいよいよゴールインする塩梅になってきた感じで、近々、新夫の小室氏も一時帰国するということだ。

ところが、

こうした反対派の批判にあるのは、眞子内親王の「公」に対する「私」の優先や、「結婚」ゴリ押しに象徴される皇室の圧倒的な権力と政治的な影響力の行使が、敗戦後の昭和22年(1947年)に制定された日本国憲法が明示した天皇と皇室の公的権力の剥奪に違反し、民主主義を破壊しているという懸念である。 

URL:  https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67062

先日、ネットのとある場所で見つけたのだが、これに類した反対意見は「世間で意外に多いんじゃないかなあ」と、カミさんも言うのだ。『なんか分かるような気がする、やっぱり嫌だもんね』などというから、小生、ビックリだ。

それにしても、 上に引用した文章も論理はメチャクチャである。

眞子内親王は「公」より「私」を優先しているというのだが、一方で日本国憲法では天皇と皇室から公的権力が剥奪されているとも言っている。公権力が剥奪されているのだから、結婚が公権によるごり押しであるはずがないわけだ。それと、ロジックをいえば、内親王は先ずは皇籍を離脱して民間人となり、一時金も辞退したうえで、改めて自らが選ぶ相手と自由に結婚しようとすれば、これまた法には適っているのであり、誰もそれを止める権限はない。止める権限がない以上、公的な意味においても、何ら問題ではない。

皇室に関係する人物の「望ましからざる結婚」としては、やはり100年前の『柳原白蓮事件』を連想せざるを得ない。NHKの朝ドラ『花子とアン』を毎回楽しみにしていたのも、その事件がメインストーリーの一部であったからで、「NHKも変わって来たなあ」とつくづく感心したものであった。

白蓮は、大正天皇の従妹で皇族ではなかったが、今回は内親王であるから、今回の方が衝撃度は高いとも思われるが、当時の柳原白蓮は九州の炭鉱王と夫婦の契りを結んだレッキとした「人妻」であり、その白蓮がこともあろうに若い左翼活動家・宮崎龍介と不倫のうえ駆け落ちしたのだから世間は吃驚仰天したわけだ。

当然、世間はその奔放ぶりに憤り、皇室の堕落、上層階級の腐敗に唖然としたのだが、それでも柳原白蓮・宮崎龍介が世間から抹殺されるなどという進展にはならず、賛否両論があふれかえる中、九州の炭鉱王と白蓮は正式に離婚し、白蓮は歌人として、宮崎は弁護士・社会運動家として仕事を続けた。

一方、今回の眞子内親王の結婚は何の問題もない。障害になっている「借金?」も本当にそれが「借金」であったとしても、世間ではありがちなことであり、貸主が返済を求めれば、(返済請求を繰り返し反復してもいなかったようで既に時効で消滅していると思われるが)求めに応じて金銭を渡せば、それで終わりとなり、なにも論評するべき余地は残らない ― まあ、亡くなられた父、祖父母に関して不透明な事情があるようで、普通一般であれば、「そんな家はおよし」という向きも多いだろうが、それでもその事情をもって本人二人の意志を押さえ込む理由にはならない。

こんな理屈は、戦前も戦後もなく、男女について当たり前の理屈であり、憲法がどうとか、法律がどうだという話しにはならないし、そもそも男女の恋愛に憲法(!)を持ち出して云々するなど、徳川時代じゃあるまいし、《野暮の骨頂》で愚かしい限りだ。

イギリスでも、100年ほど前になるが、エドワード8世の《王位をかけた恋》でイギリス社会全体が騒然となっていた。いまのエリザベス女王の父君にあたるジョージ6世の兄である。

Wikipediaから要点を引用すると次のようである:

エドワード8世はウィンストン・チャーチルと相談しながら、「私は愛する女性と結婚する固い決意でいる」という真意を国民に直接訴えようと、ラジオ演説のための文書を作成する準備をしたが、ボールドウィン首相は演説の草稿の内容に激怒し、「政府の助言なしにこのような演説をすれば、立憲君主制への重大違反となる」とエドワード8世に伝えた。チャーチルは「国王は極度の緊張下にあり、ノイローゼに近い状態」であるとボールドウィン首相に進言したが、ボールドウィン首相はそれを黙殺し、事態を沈静化させるために意を決し、1936年11月にエドワード8世の側近である個人秘書のアレグザンダー・ハーティングを呼び寄せてエドワード8世のもとに派遣し、「王とシンプソン夫人との関係については、新聞はこれ以上沈黙を守り通すことはできない段階にあり、一度これが公の問題になれば総選挙は避けられず、しかも総選挙の争点は、国王個人の問題に集中し、個人としての王の問題はさらに王位、王制そのものに対する問題に発展する恐れがあります」という文書を手渡し、王位からの退位を迫った。

この文書をきっかけにエドワード8世は退位を決意し、12月8日に側近に退位する覚悟を決めたことを伝えた。イギリス国内では、7日頃からエドワード8世がウォリスとの結婚を取り消すことを発表するだろうとの噂が流れていたが、9日の夜頃に一転して、国民の間でも退位は確実との情報が流れて、国内には宣戦布告をも上回る衝撃が走ったといわれている。12月10日に正式に詔勅を下し、同日の東京朝日新聞をはじめとする日本国内の各新聞社の夕刊もこのニュースをトップで報道した。同日午後3時半に、ボールドウィン首相が庶民院の議場において、エドワード8世退位の詔勅と、弟のヨーク公が即位することを正式に発表した。

当時のボールドウィン英首相が『(あの女性との)結婚の意志を貫くつもりなら退位せよ』とせまった様子が伝わってくる。

もしいま、眞子内親王が自身の意志を通そうとして、自らが一時金を辞退したいと伝えるのではなく、内閣総理大臣の菅さんが『世間から理解を得られないため一時金はお出しできません』と言ったとすれば、世間はどう反応するだろうか?

日本社会は、形式はどうであれ、実質的には現にこういうことを実行しつつあるわけだ。

我ながら、いまの日本人っていうのは、器が小さいネエ

そんな感想だ。 

退位したエドワード8世は「亡命」とほぼ同様の状態で大陸に脱出し、最後にフランスに落ち着き、「ウィンザー公」の称号を授与され、生活費は英王室から支給されることになった。


まあ、いろいろとこの種の話はある。いずれにしても、小生の感覚にすぎないが、たかがこの程度の事で「今回の結婚話は憲法違反だ」などという話が出るようでは、民主主義の基盤となる「国民意識」のレベルにも疑問符がつくことになるのではないか、と。そう思うのだ、な。誰かが言ったそうだが

昔は「国体」、いま「憲法」

確かに、

〽意味内容はわからぬが、呪文のごとく、魔のごとく・・・

神性を帯びた言葉があるというのは、社会的には危ないし、また愚かな証拠である、な。 

2021年9月22日水曜日

一言メモ: ワクチン・パスでも勘違いや愚論が目立つのは高齢化の副作用なのか

このニュースはよほど衝撃であったのだろう:

アメリカは20日、日本を含む外国から渡航する外国人に対し、11月から新型コロナウイルスワクチン接種の完了を義務づけたうえで、入国を認める方針を発表した。

Source: BBC、 2021年9月21日

よほど衝撃的であったのか、日本国内でにわかに「ワクチンパス」の議論でマスコミが騒然となってきた感がするのだが、「いまさら衝撃も何もないでしょう」と言いたくなってしまう。

「れいわ新選組」に関連して、つい先日も投稿したが、どうも最初に予想したような進行になっているようで、ガッカリしているところだ。


特にこの10年余りの間、海外発の新たな動きが日本にも到来して、普及していくかという端境期に、(便利か不便かが問われているのに)「なぜそれが必要か」、(問題が何もない新しい物事はないだろうに)「問題点は本当に何もないのか?」などと、そんな《そもそも論》が1周遅れで始まり、時に激論にもなって、それもあって日本人全体がエラく新しい物事の導入に手間取るようになった印象がある。全体的に《適応能力》というか、《国民意識》というか、日本人全体が劣化してきている、「理屈はこねるが役立たず」の"typical case"になってきている、「口はイイから手を動かせ」と、そんな憂慮がとみに高まってきていたのだ、な。

ただ、しかし、よく考えてみると、少し違うようなのだ。

IT文化やデバイス、デジタル化への順応性など、若者世代は確かに前世代よりはずっと進化していて、そう実感することは頻繁にある。ということは、小生も含めてなのだが、旧世代の日本人が60代、70代に高齢化するに伴って、若い頃に修得した「昭和」、「平成」のスキルや価値観が陳腐化し、時代遅れとなり、人的能力としては劣化してきているのだが、実はその割には旧世代の発言力や権力が保持されたままのところがある。というより、長寿化の中で発言力として温存されている。それで、旧世代の思想や価値観を前提にしたままの状態で、日本人全体が世界の技術革新に対応することを余儀なくされている。もはや時代遅れとなった旧い高齢者が総司令部の高位ポストを独占し、若い世代に不利な消耗戦を続けるよう仕向けている。そんな図式があるのかもしれない、と。

昭和の初め、若手世代は航空戦力を拡大すべきことが分かりきっていたにも拘らず、それを理解する高位の人物が少数で、退官間際の上層部は大艦巨砲主義に染まったまま進歩が止まり、そのために戦力の近代化、産業基盤の整備に遅れをとったまま太平洋戦争の消耗戦に取り組むことになった。どうもこれと似ている。

何だか<長寿化=平均寿命の上昇>がもたらす副作用の本質を視るような気がする ― 明治から大正・昭和にかけても、長寿化現象が進行していたかどうかは確認していないが。


そうでなければ、新しい物事に強い興味を持つ傾向のある日本人が、これほど長い期間にわたって、科学的成果の活用、技術革新の成果を導入するのに、時間を要するはずがないのだ。

『ワクチン接種証明書あるいはPCR検査陰性証明書の提示を求める』という方法が、どうやら国際標準になるかもしれない情勢になってきた。

こんなアフターコロナの過ごし方について日本国内のマスメディアも頻繁にとりあげるようになっている。なっているところへ、「アメリカは入国時にワクチン接種義務化」と突然発表されたので、吃驚したのかもしれない。ところが・・・たとえばTV画面では

ワクチン接種済みの人と未接種陰性の人が、例えば同じ観光バスで旅行するというのは、やっぱり危ないと思うんですヨネ。ワクチン接種済みでもブレークスルー感染はあるわけですし、そうするとワクチン接種者から未接種陰性の人に感染するじゃないですか? 同じ場所にいることは感染拡大を招くことになると思うんです、分けなくちゃいけないと思うんですヨネ・・・

こんな「細かい話し」が2、30分もかけて続くことになる。まだまだ、日本ではこれからの話しだネエ・・・、そんな案配なのだ、な。語っている人は決して若くはない。既に確定した社会哲学をもち職業的にも成功している人たちであると見受けられる。

まあネエ、確かにワクチン接種済みであってもデルタ株ウイルスをもっていることはあるからネエ・・・未接種陰性の人にウイルスを渡すこともあるかも・・・大変ごもっともな議論である。しかしネエ、もし小生が未接種であり陰性であったとしても、乗りたい観光バスはワクチン接種済み者用のバスの方である。決まっているではないか。検査の偽陰性を考えると、未接種者ばかりのバスなど、感染者がいると思った方がよい。全員未接種ということはワクチンなしの頃の状況と同じである。不安で仕方がない。たとえワクチン接種済み者にはPCR検査をしないとしても、接種済み者用のバスの方に乗せてくれと頼むつもりだ。それは駄目ですと言われれば、未接種者差別だと言って抗議するだろう。この辺の心理、なぜ分からんか、と思う。せっかくのご提案だが<セグリゲーション方式>は機能しないだろう。


そもそも、このような話は肝心なことを忘れている。

そもそもなぜワクチンを接種するのか? 

ワクチン接種の目的である。ここが正しく理解されていないのではないだろうか?

ワクチンは社会のために打つわけではない。感染しても軽症ですむだろうから、接種するのである。このロジックは、インフルエンザ・ワクチンをなぜ打つかを考えても直ちに分かるはずだ。日本社会のためにインフルエンザ・ワクチンを打っている人がいたら、お目にかかりたい。インフルエンザになるべく罹らないように、もし罹患しても軽くすむようにしたいので、 接種するのに決まっているのじゃないか(ま、例外的な人はごく少数いるかもしれない)。麻疹、風疹、破傷風などその他のワクチンもまったく同様である。麻疹のワクチンを幼少期のうちに接種する児童は多いと思うが、ほぼ全ての両親は我が子を守るために予防注射を打つのであって、なにも日本社会のために打つのではないだろう。

いまコロナ・ワクチン接種は無料である。だから「ワクチンは社会のため」と多くの人が勘違いするのだ。ワクチンは本来は自分の健康のために接種する消費財なのであるが、社会的なメリットも大きいので政府が補助率100%で補助してくれている。ちょうどトヨタのハイブリッド車PRIUSを購入したり、日産のNote e-Powerを購入すれば、より高額の補助金を得られるのと同じロジックである。政府は特定の望ましい消費行動を促進するために《補助金政策》を実施して、割安な価格に誘導するのである。コロナ・ワクチンはその(極端な)一例だ。

個々人が自らの健康を考えてワクチンを打つことによって、結果として<集団免疫>に至るのは、社会的なプラスの外部効果の発現であって、あくまでも良い副作用として理解するべきだ。ちょうど、携帯電話普及の初期の頃、面白いと思って買う人が増えることによって、社会全体もより進んだ便利な状態に移行していったのと同じロジックである。日本社会の進歩のために携帯電話を買った人など聞いたことがない。自分のためである。

ワクチンは人にうつさないために打つのではない。自分が感染しても軽くてすむようにしたいから接種する。ワクチンを接種した人は一言で言えば『もはや感染をおそれない』という理屈である。だからワクチンを打つ。これが間違いであれば、むしろ小生は吃驚仰天である。

社会的な意義を重要視するなら、ワクチン接種は全国民に義務付けるべきである。デルタ株の場合、ワクチン接種率がたとえ90パーセントに達しても、なお集団免疫には十分ではないという。しかし、全国民がワクチンを接種すれば、大規模なクラスター発生を防止できるのである。重症者数も死亡者数も減るのである、まず確実に。感染症に対して安全な社会を実現するには全国民へのワクチン集団接種がベストの政策である。

しかし、日本では義務化していない。それはワクチン接種の主目的が「安全な社会の構築」ではなくなっているからだ。社会のためではなく、自分の健康を守るために打つ。これが主目的である。でなければ、ロジックが一貫しない。他の方法で自分の健康と命を守ろうと考えれば、それも自由だ。命の守り方は特定の方法を国が全国民に強制するのではなく、個人の自由な意思決定に任されるべきだろう。但し、自由には責任が伴う。独立した個人として意思決定すればよい。

ここまで考えれば、あとのロジックは自動的に出てくる。

が、覚え書きまでに思いついたことを記しておきたい・・・


もし他人にウイルス感染させないことを確認するなら、接種済み、未接種を問わず、全員にPCR検査を行うべきである。なぜなら接種済みであってもウイルスを放出する可能性はあるからだ。

従って、たとえばイベント開催に際しては、接種済み、未接種を問わず、全員に対してPCR検査を行うのが、ロジカルであって、本来はこうあるべきだろう。

ただ、接種者が多量のウイルスを放出する可能性は未接種者に比べて小さいとされている。加えて、接種者はたとえ感染しても、ほとんど軽症ですみ、医療資源に負荷を与えることはないとされている。故に、その分、接種者はイベントに参加する際、より低いコストで参加できるようにするべきである。

全員にPCR検査結果を求めるなら、入場料割引など、もし同一の入場料であれば、ワクチン接種者はPCR検査を免除する、というのはその一例に過ぎない。この他にも接種者に対する恩恵(favor)には色々な形がありうるだろう。

国境をまたいで移動する時、感染防止を目的に常時全員に対してPCR検査を行うのは、明らかに現実的ではない。そこで、ワクチン接種者は検査を免除する。未接種者のみ検査陰性を求める。ワクチン接種者に検査を免除するのは、海外から自国に入った後に陽性が確認されるとしても重症化して自国の医療資源を圧迫する確率が小さいからである。国内でワクチン接種が浸透すれば、この選択が可能になる。健康と命を守る方策は自由な意思決定に任されている。この点が、最大の要点ではないだろうか。なぜ率直にマスメディアでは伝えないのだろう?

アメリカが、ワクチン接種義務化に舵を切ったのは、未接種者隔離数を極小にする方策であって、<真にやむを得ない>接種不可能者のみに例外的措置を限定するというのが狙いだろう。まあ、経済学的に考えれば、未接種陰性者は入国後の<感染・医療資源使用の期待値>を推定したうえで、社会的費用に応じた付加税を徴収するというのがロジカルなのだが、大半の人はワクチンを接種可能であり、要するに「打てばよい」わけだ。それでシンプルな方法をとった。そういうことではないか。

上で引き合いに出したTVのワイドショーの話しだが、観光バスの定員を考えると、接種、未接種を問わず、PCR検査陰性は全員に求める、加えてワクチン接種者については料金を10~20パーセント割引き — ワクチン未接種者に対する割増し料金と結果は同じ。こんな方式がロジカルだと小生には思われる。同一料金でワクチン接種者はPCR検査免除というのは次善の方策であって、未接種者が(感染するかもしれない、という)高感染リスクという形で、本来支払うべき高額の費用を自身で引き受ける形で負担するという意味合いになる。確かに公明正大でフェアなやり方ではないかもしれない。が、いずれにしても、一定の観光需要に対して、それを接種済み、未接種陰性者の2グループに分割して、2倍のバス、2倍の運転手、2倍のバスガイドを用意するなどは、さすがに<愚の骨頂>と思われる。


2021年9月20日月曜日

断想: 「幸福」と「快楽」について

今日の標題はまるでモンテーニュの『随想録/ Les Essais』のようだ。

漢の武帝とされる有名な一句に

歓楽極まりて哀情多し

というのがある。

歓楽、あるいは快楽は一時的な感情であって、必ず醒めるものであるというのは、ずっと昔から分かりきっていたわけだ。必ず醒める「快楽」に対して人生最高の目標とすべきは「幸福」である、と。古代ギリシアの哲学者以来、これが強調されてきたのは、このためである。真の価値は、持続的かつ永遠であるべきだ、というのが根底にある。

快楽と幸福との混同と同じような組み合わせは、充実と幸福との違いであろう。

目標を自ら定めて、日々に努力する過程は幸福に至る途である、というより努力する毎日こそ幸福そのものである、と。そう考える人は多いのだと思う。まして、努力の末に目標を達成したときの充実感は、幸福感そのものであると感じる人が全てだろうと思う。

しかし、この歳になって思うのだが、充実というのは、つまりは満たされていない自分をずっと自覚していたということだ。満たされていないからこそ努力をする。満たされていないにも拘わらず、そのときに幸福であるというのは、そもそも矛盾している話しである。

若いころから、何度もその時々で目標を決めては、スケジュールをたてて、その通りに実行することによって最初の目的か、それに近いところまで到達するのは、人生そのものじゃあないかとさえ思ってきた。

要するに、小生は常に、何かが欠けている感覚があって、欠けているものがほしい。だから頑張る。そんな非充足感が行動へと駆り立てていたのだ、な。そんな小生が幸福であったはずはないのだ、な。

満たされていなかった自分が努力のかいもあって満たされた。なるほど充実というのはそういうことだが、人間は欲が深い。充実感もやがて醒めて、次の目標を定めることになるのではないか。そうして人は、渇きを覚え、つねに満たされない感覚にムチ打たれ、行動を続けるのではないか。


コロナ禍がやって来て、行動の量が減ることになった。旅行も減った。ところがカミさんは何の不満ももらすことがない。そういえば、小生も色々なことを断念させられて、だから不満が高まるというわけでもなく、むしろ「こんな毎日でもいい」、「あと2年、3年もこんな毎日が続くとしても、それはそれで充足している」、こんな心持が現に胸のうちにある。

そういえば、

幸福とは足るを知ることである

この言句ほど、いまでも書籍のタイトルを賑わせている言葉はない。誰が言い始めたことか分からないくらいだ。 

確かに、自ら足る「自足感」とは、真の幸福とは表裏一体の心的状態かもしれない。小生は、いま現時点において、幸福なのかもしれない。

しかし、今朝になって、ふと気がついたのだが、この自足感も持続的、かつ永遠のものではない。

確かに、あと5年も6年も行動を規制され、やりたいことが制限されるとしても、何かがし足りない、何かを満たしたい、という感情からは免れるかもしれない。

しかし、生あるものは寿命がある。いま自足していても、いつかは終わる。終わることを知っているから「不安」がある。不安を自覚している人間は、既に幸福ではない。


生命がある存在から生命のない存在へ移り変わる「死」をもって、持続的かつ永遠に幸福である状態と考えた哲学や宗教は、だから人を魅きつけたのだろう。涅槃と言っても、極楽往生といっても、同じである。

そもそも地球に「生命」はなかった。生命は非生命、つまり命をもたない物質から誕生したのだから、モノの世界に命の源を洞察する観点は確かにずっと昔からあったのだろう。

2021年9月16日木曜日

ホンノ一言: ネット上の中傷コメント厳罰化について

法務省が、特にネット上での中傷・侮辱コメントを念頭において、侮辱罪厳罰化を進める方向だ、と。

これまでは「表現の自由」、「信条の自由」、「内心の自由」という建て前から、個々人の文章表現の不適切さを理由に法で刑罰を課すという処理はなるべく忌避されるのが、日本社会の傾向であった。が、どうやら流れはハッキリと変わってきた。「内心」というより「外面」、「対外表現」そのものに正邪の判定をする。逆向きへの流れが強まりつつあるようだ。

「表現の自由」という理念には、「自由であるが故に責任も伴う」という暗黙の了解が裏側にあるのだが、「自由は基本的人権の一つ」、「自由は尊重されるべし」、「自由主義社会」という社会理念そのものが日本では昭和20年敗戦早々の輸入文化であったことから、この「責任が伴う」という考え方に対して、どうにも抵抗感があったのだろうと思っている。

自らの自由意志による表現に自らが責任をとるのは、自らの行為に責任をとるのと同様、当たり前の原則であって、これが共有される理解として社会に浸透していくきっかけになれば幸いだ。

人に傷害を与えれば刑事事件になる。同様に、自分の言葉やその他表現行為によって他の人の身体に障害が生じれば、例えそれが「身体的行動」ではなく、「言葉による表現」であったとしても、刑事事件を構成するはずだ、というのが当然の理屈だろう。

一つ大事なのは、具体的な人物における損害発生の特定が必要である点だ。例えば、「政府」や「企業」という法人が「政策遂行上の支障になる」とか、「ブランド価値を毀損した」などという抽象的な理由で「表現の自由」を制限することは「ゆゆしき問題」である。

これが小生の立場だ。

いろいろ論点はあるが、やはり文章表現の不適切さが公権力による厳罰化の対象になるという段階に進んでしまったのは、現世代の日本人自らがまいた種とはいうものの、社会全体としては明らかな《退歩》、《劣化》になるわけで、これまた当然の指摘である。


特にネット上の粗暴なコメントについては以前にも投稿したことがある。そこでの要点は以下のようなものだった:

事前にネット・マナーを厳格に守らせる<事前指導型>ではなく、<ネット事故>が発生した際に加害者に対して<事後的処罰>を講じるのが効率的である。

たとえば、事件が発生した直後に過渡に攻撃的な投稿を検出するのは、スパムメールの判別にも似た作業であるので、AI(人工知能)を活用すれば瞬時に完了する。攻撃的なコメントを寄せたアカウントは一定期間(1か月、3か月、1年間など)停止する。これ位のことは全て自動的に一瞬のうちに出来ることだ。

幾人かの悪質ユーザーが一人を攻撃する場合は、その人が悪質なユーザーコメントをブロックすればよい。しかし、多数のユーザーから攻撃される場合は個人が対応するのは不可能だ。その場合は、プロバイダに攻撃の対象になっている事実をただレポートすればよい。そうすれば上に述べたプロセスが自動的にスタートする。これだけで相当の抑止効果が期待できる。


もちろん、極めて優秀なAIを活用する場合でも、どうにも検出できない中傷・誹謗もありうる。その発言が自動的にハラスメントには分類できない表現もある。

例えば、ある女性マラソン・ランナーが競技結果を報告した投稿に対して、

ほんと、お綺麗で優雅で、まるで帰りを急ぐシンデレラのような走り方ネ!思わず見入ってしまいました。まるで女王様のようでございますわ。思わずマリー・アントワネットが再びこの世にお生まれになったように感じましたのヨ。オホホホ・・・

こんな風なコメントがあるとする。これを意地の悪い中傷コメントとして分類できる《分類器》など、どれほど人工知能が進化しても出ては来ないであろう。ホメながら侮辱する微妙な言い回しは、まるで生粋の京都人の感覚をも思わせる所があって、人間特有のデリケートな文化的感情に基づくものであって、こんな感覚はそもそも《知能》とは関係がないからである。腹に隠した侮辱の意図が伝われば侮辱になるし、反対に相手が鈍感で言葉通りにホメられたと勘違いすれば、それはそれで「お馬鹿さんやなあ」と他の人と笑いあえばよいのである。こういう高等テクニックが仲間内では可能である以上、AIは愚か、人間が審査するとしても、侮辱を侮辱だと指摘するのは、本当は極めて困難な作業なのである。


とはいうものの、単純シンプルで粗暴な中傷、誹謗などが津波のように押し寄せる事態が、解決するべき問題だと割り切るならば、実は今でも大半のサイト運営企業には技術的に対処可能である(はずだ)。

今回の厳罰化検討は、そんなコメントを書き込む個々人というよりは、運営企業に対する警告として働くだろう。



2021年9月14日火曜日

ホンノ一言: 「弁護士」に法律の文言を回答してもらう阿呆らしさ

カミさんが好んで観ている朝のTVワイドショーでは、今朝もまた、出演していたコメンテーターの一人は「弁護士」であり、「法律専門家」であった。

社会問題について、このところ、法律専門家が招かれて意見を述べることが多い。この点については、既に何度か投稿をしている。たとえば、投稿例1投稿例2投稿例3などはその一部である。

様々な社会問題を解決するためには、問題の中身に応じて、色々なアプローチがあるわけだが、その中のいわゆる「法律的思考」がどれほど役に立つのかという論点がある。

要するに、問題の中身に応じて、方法選択という重要なステージがある。「法律的思考」や「法律的解決」は、どんな問題を解決するのに、合理的であるのかということだ。

分かりやすくいえば、(例えば)ある問題があったとして、それは「需要と供給」、「雇用の確保」、「生活の安定」などという経済学の問題としてではなく、「権利と義務」、「公益と私益」などといった法律的問題としてとらえるほうが、より適切である。解くべき問題に応じて、こういう方法の選択がまず最初に出てくるわけである。

ずばり一言でいえば、《法律的処理》というのは、その問題が定型的なパターンで頻繁に発生し、定型的で明確な処理が最も望ましい、そんな場合にはあらかじめ法的概念を定義したうえで関係法条を明文規定しておくアプローチを指すのであって、安定した社会を目指すためにはそれが最も望ましいはずである。こういうロジックは法律とは縁のない人にも分かるはずで、そもそも普通の人に分かるはずの事を法律は実現しなければならないわけだ。

今朝、ワイドショーで話題になったのは、足元で世界的な論点になりつつある《コロナ・ワクチン接種義務化》、この是非という問題であった。

もちろん「接種義務化」は一つの政治的な選択である。

これに対して、今日出演していた「法律専門家」は、予防接種法第9条を引用したうえで、<感染 ワクチン 努力義務>とGoogle検索すれば、誰でも確認できる

今回の予防接種は感染症の緊急のまん延予防の観点から実施するものであり、国民の皆様にも接種にご協力をいただきたいという趣旨で、「接種を受けるよう努めなければならない」という、予防接種法第9条の規定が適用されています。この規定のことは、いわゆる「努力義務」と呼ばれていますが、義務とは異なります。接種は強制ではなく、最終的には、あくまでも、ご本人が納得した上で接種をご判断いただくことになります。

と・・・、こんな意見を述べていたのだ、な。

大体、Googe検索すれば直ちに確認できるような意見をわざわざTVに専門家が出て来て口頭で説明をする必要もないわけである。こんな回答は、人工知能(AI)ロボットに<チャボット>させるようにすれば、TVビジネスの経営も効率化されるわけである。

それよりも腹に据えかねるのは、ワクチン接種義務化の是非という重要な中身のある社会問題に対して、

関係法律にはこう書いてあります

と、こんな思考法を良しとしている、この「法律的思考」の「空っぽさ」に誰も不審を感じない事であろう。

「法律に書いてあるとおりにすればいいのだ」という思考が問題解決に有効なのであれば、まさに菅内閣が昨年10月以降、実行してきたことであって、私権制限は日本の法制下では不可能であるため、自粛はあくまで要請であって、強制ではなく、したがって罰則を課すことはできないのだ、抜け駆けがあったとしたら残念なことでございます、と。まさに政府が言ってきたことが法律的筋道に適った正しい姿勢であったことになる理屈だ。であれば、なぜ菅内閣は責任をとるのか?

それでは問題は解決できんでしょ?解決できなかったでしょ?法律は有効じゃなかったでしょ?

これが問題の中身だ。これが現在の社会問題の中身であるにもかかわらず、

法律にはこう書いてあります

意見を求められているのに、「チャボット」になって応えた・・・まあ、あれだネエ、マスコミもこんな「弁護士」などに依頼することは止めて、《法律チャボット》でも使ったらよろしかろう、文字どおり、資金のムダである。そう感じたのだが、どうなのだろう。

2021年9月12日日曜日

覚え書き: 「政府」と「マスコミ」と。二つの非生産的組織が過剰に強すぎるのが問題だ。

ずいぶん以前、新型コロナが最初に日本に上陸した直後の頃であったが、経済問題としては基本的観点は初めから分かりきっていたわけであって、例えば以下のようなのがある:

経済環境の激変で必要になるのは、資源の再配分である。資本、労働、マネーなどの生産要素を超過供給市場から超過需要市場へとシフトさせなければならない。その誘因としては第一に価格メカニズムがあると考えるのが標準的な経済理論である。が、今回の需要逼迫市場である医療サービス、新薬開発市場は資格、許認可が厳しい規制分野である。厚労省の「縄張り」である。超過需要(=24時間操業、疲弊、待ち行列)と超過供給(=閉店、休業、失業、etc.)は解消されないまま放置される可能性が高い。政府の判断が遅れればそれだけ資源配分の歪みが放置され、日本経済が毀損される仕組みがビルトインされている。

「あらゆる経済問題を解決するのは政府ではなく市場である」と語ったグリーンスパンを思い出すべき国としてまず日本が挙げられるかもしれない ― リベラル野党は飛び上がって反対するだろうが。

イデオロギーから自由になり、理論的に考えれば、これが最重要な経済的視点であるのは、経済学を勉強した人であれば、誰もが合意できる点だと思われる。

とにかく昨年の2月から4月、5月にかけてコロナ禍の中の経済問題について、多数回投稿している。これなどはかなりエモーショナルというか、強い情念がこもっている感じがする。

日本では(高潔な)政治家がとにかく「偉く」、TV画面を賑わすのである。経済界の大物が政治を語り、国家を動かすという情況は、多くの日本人にとって我慢ができない。現在の日本はなるほど民主的だとは思う。が、どこか真の民主主義と違っているのではないか、とも感じる。そう感じるのは、政治家のフィクションに喜悦し、ビジネスマンの事業欲を卑しむ、山の彼方に夢をみたがるそんな国民性を感じてしまうときである。現実よりも理想を尊いと感じる世界観は、民主主義の現実とは本当は相性が良くないのじゃないかと、小生は考える。マア、「誰のおかげでメシを食って行けてるのか?」と、そんな冷めた現実感で、ビジネスよりも政治に期待する「国民感情」のことを耳にするにつけ、自分の家族よりも人様を本気で大事にするつもりなのかと、何かバカバカしい思いを禁じ得ない今日この頃であります。

公私の私より公私の公、と。そんな国民精神の中で、イノベーションを拡散させていこうというのは、よほど公私の私を理解できる政治家でなければ、やっていけますまい。ジャパニーズ・パラドックスかなあ、これは。何度も挑戦しながら、解決に失敗してきた日本経済上の難問だと思う。

最近になって、Wall Street Journal(日本語版)がこんな記事を載せている。短いので記事全文を引用しておきい:

 米連邦準備制度理事会(FRB)が8日公表した米地区連銀経済報告(ベージュブック)によると、新型コロナ変異ウイルス「デルタ株」による感染再拡大を受けて、経済回復が夏季に鈍ったとの認識が示された。感染への懸念から、外食や旅行を控える動きが広がったという。 

 また、自動車や住宅販売など、一部のセクターでは供給制約や人手不足も足かせとなったとしている。 

 報告書は「経済活動の減速は、大半の地区で外食や旅行、観光(への需要)が後退したことにおおむね起因しており、デルタ株流行を巡る懸念を反映している」と指摘した。 

 雇用主は引き続き人材確保に苦戦しており、業況の重しとなっている。企業側は賃上げや特別報酬、柔軟な勤務体系などを提供することで対応している。報告書によると、一部の地域では、デルタ株の感染拡大を受けて、職場での勤務再開を延期した。 

 また、サプライチェーン(供給網)の混乱や労働者不足を背景に、物価上昇ペースは引き続き「高止まり」していると指摘した。一部の企業からは「向こう数カ月に販売価格の大幅な引き上げ」を想定しているとの報告が寄せられたという。 

URL: https://jp.wsj.com/articles/u-s-economic-growth-slowed-over-the-summer-due-to-delta-variant-feds-beige-book-says-11631135999

今夏のデルタ株感染拡大で景気拡大ペースが鈍化したことの報道でこれは予想されていたことだ。

読んでみると、「経済活動の減速」が大半の地区で広がり、と同時に「雇用主は引き続き、人材確保に苦戦しており」、「賃上げや特別報酬、柔軟な勤務体系など」を提供しながら乗り切ろうとしている。

このような「チグハグした経済状況」は日本もヨーロッパやアメリカと同じである。コロナ禍の中で進行しているのは《跛行性が進む経済状況》である。こうなることは最初からミエミエであるわけだ。

***

この当たり前である《チグハグした経済動向》は、日本のマスコミは今なお問題意識としても持っていないことは明白である。TVワイドショーなら『いったい現在の日本経済は不況なのか、好況なのか、どちらの見方が正しいのでしょう?』などと言った風の、例の「語呂合わせ」のような意味なく、阿保らしい解説をしそうであるし、遠からずそんな番組が目に入ってきそうでもある。そうして、経済問題を議論する専門家に対して、「言っていることがよく分からん」といった風の不信感が醸し出され、結果として政府と専門家に不信感が広がるのである。

アメリカの場合は、連邦政府は公権力を行使してワクチン接種義務化に乗り出している一方で、解雇規制はとっくに規制緩和されるなど、市場メカニズムも働いており、労働資源は十分に流動的である。一定期間後にはコロナ禍の中の経済問題を解決できていく、そのための体制が出来ていると思う。

激しい環境変化(=人とは無関係である)と環境変化に対応した経済構造調整(=人間がするべきこと)と。解決には、市場メカニズムを活用するのを基本にしながら、政府は政府の担当するべき問題にスピーディに対処していく。これ以外にはないわけで、アメリカは日本人である小生が遠くから観ていても、そう思わせる情況がしっかりとある。ここが実に羨ましいのだ、な。イギリス、EUも政府がしっかりと政府が担当することを実行している。

***

結局は、政府が決めるべき事柄を決める、それが出来るというのは、一部国民の非難や一部マスメディアの非難を、毅然として堂々と引き受ける《勇気》に帰着するのだろう。

その勇気とは、詰まるところ「国民が選挙で政府を選んだ」という自信なのだろう。選ばれた政府には行政義務があり、選んだ国民にも信頼責任がある。

マスメディアは国民が選んだわけではない。しかし、(建前としては)誰の保護も受けない民間ビジネスとして成立している。一貫した価値理念とロジックを通せば、自由に批判する自由が保障されているのであり、顧客はだから信頼する。

アメリカにせよ、ヨーロッパにせよ、ここが「輸入文化」ではなく、身についた「真の文化的伝統」として《民主主義》がしっかりとある。この強みが伝わってくる。


とすれば、《日本的な弱さ》があるとすれば、《勇気のない政府》と《知力のないマスコミ》。この二つの要素が「日本の弱み」に含まれることは、もはや誰の目にも明らかな事実になりつつあるのではないか。


政府、というより国会、政党を含めた広義の「政治関係部門」とマスメディアと。いずれの部門も日本の付加価値生産においては非生産的部門である。なぜなら、日本のGDP(=付加価値合計≒所得合計)の大半は、民間の生産活動(=営利活動+非営利活動)、つまり民間ビジネスによって形成されているのであって、政府部門は現SNA体系においてこそ政府サービス生産者として認知されているが、元来はゴルフクラブや町内会のような擬制的かつ寄生的な存在として統計処理されていた。マスメディアが付加価値の生産において極々僅かを占めるに過ぎないのは明白であって、しかも長期的な販売、利益の低下トレンドは、もはや生産活動としての評価をこの社会において失いつつあることが、そこで示唆されているわけだ。政府もマスコミも、「能率」や「効率」、「コスト・パフォーマンス」という言葉が大嫌いな仲良しグループであるのは確かなようだ。

この二つの極めて非生産的部門が、日本の民主主義の実現において、世論に対して過剰に大きな影響力をふるっている。ここに《日本的問題》の本質がある、と。どうも観ていると、こんな風に感じてくるのだ、な。


我ながら、日本というのは、本当に不思議な国だ。生産的な組織が評価はされるが世間では影響力をもたず、非生産的な組織が評価されないにも拘わらず人々の注目を集める。元来は、能率がよいハイレベルな組織が社会をリードし、頑固でノロい組織はバカにされるものだ。そうなっていない。常識とは「真逆の国」、それが日本であるような感覚がある。

2021年9月7日火曜日

ホンノ一言: 「ネット世論」の科学力?

 東京オリンピック・パラリンピックも終わり、再び静かな日々が戻ってきた。かと思っていたら、カミさんの好きな大相撲秋場所がそろそろ始まりそうだ。また騒がしくなるだろう。


ところで、オリパラ開催中に懸念された「人流増加」と「感染拡大」についてだが、丸川・五輪相が

大会関係者から市中に広がっていた事例は確認されていない

と発言したというので、結構、批判されているようだ。

例えば、Yahooコメント(の一部)を参考までにコピペしておくと:

仮に関係者からの拡大が無かったとしても、五輪で人流が増大しなかったというエビデンスはないよね?

そして、人流が増大しても感染は拡大しないというエビデンスも無いよね?

なら、五輪開催で感染が拡大した可能性は否定できないのでは?

この意見などは、小生も感心して読んだところだ。

ただ、ロジックはよく分からない。このコメントのすぐ後に

因果関係がないことを国民に分かりやすく説明して欲しい。

今の時代は詭弁ではなく正直さを求めています。

こういうコメントがあったが、この辺が最大公約数的なところだと想像している。

***

仮に必要なデータが揃ったとしよう。その時に、データ解析で行えることは『五輪開催の人流増加効果=ゼロ』という《ゼロ仮説》を棄却できるか否か。この《有意性検定》だけである。もし棄却できなければ、データによって立証される結論はない、ということになる。

今回の五輪開催の場合、データとしては開催期間中に人流は増加している。だから、両者に関係はありそうである。確かに、「関係ありそう」なのだが、本当は無関係の下でも偶然に(あるいは、五輪以外のその他要因から)このようなデータが得られる可能性がある。立証するべきことは、もし因果関係がないなら、絶対に(あるいは極めて小さな確率でしか)得られないデータを示すことである。

故に

五輪開催と人流増加に関係があると主張するなら、関係はないという可能性を否定できるデータを「主張する側」が示す必要がある。

当事者は「ない」と主張している。「ある」と主張する方にボールはあるわけだ。

ちなみに、オリンピック・パラリンピックとは何の関係もない海外でも、欧米でもアジアでも、この夏にかけてデルタ株の新規感染者数は激増している。感染者激増は日本だけの現象ではない点にも注意すべきである。

関係があると思うから、関係がありそうなデータを自ら集める。これは「データ・クッキング」である。逆に、関係がないと思うので、関係がなさそうに見えるデータを示す。これも「データ・クッキング」である。「本当は関係がある」場合にも、「関係なさそうに見えるデータ」を集めてしまう可能性があるからだ。

要するに、自らの主張に沿ったデータを示すだけではダメであって、相手の主張を否定するデータを示す必要がある。相手の主張をデータによって否定できたときに、自分の主張が強化されることになる。二者択一の状況なら自らの主張の正しさを立証できたことになる。

これが統計的分析の基本的ロジックである。

***

丸川大臣が言っていることは「五輪が直接的原因になって感染が市中に広がったことはない」ということであろう。

今回の場合、

そもそもオリンピックもパラリンピックも無観客開催であり、五輪による人流は発生させていない。かつ関係者から発生した新規感染者は僅かであった

この二つが確認されている。

とすれば、やはり「オリパラ開催が原因となって人流を増加させ、感染者を増加させた」とは言えない、こう考えるしかないのではないか。

それでも外出した人は現実にいた。思うのだが、その人達はそもそも(気晴らしに)外出したいという意志あるいは願望を持っていたのであり、たまたま時間が出来た日に五輪があったので、その近くまで行ってみた。そういうことではないか。もしも五輪がなければ、その場合はその場合で、何かの映画があったかもしれず、無観客で花火大会が開催されていたかもしれない。何かのイベントがあったかもしれない。そこに人が集まったかもしれない。前から食べたかった銘菓を買いに出かけたかもしれない。仮に五輪がなければ、そのときはそのときで別のことを名目にして、その人たちはやはり外出したであろう。小生はそう推測しているところだ。

人流制御には人流制御のための行政手段が絶対に要る。これがロジックだ。無観客開催であっても「五輪を開催する」ことによって人流が増えるという可能性は数量的には《微々たるもの》だと小生には思われる。たとえ五輪を中止していたとしても、政府・東京都は外出を控えるようにという要請だけを発していて、人流抑制のためのダイレクトな方策(例えば、交通規制、料金変更、より直接的な行動規制など)は何も実行していなかったわけであるから、多くの人はどこかに出かけ、東京都内のデルタ株感染者は海外と同じように激増していたであろう、状況は同じであっただろうと思っている。

***

しかし、巷の意見はずいぶん違うようで、「五輪開催がきっかけになって、人流が増え、だから感染者が増えたのかもしれない」、であれば「五輪によって感染者が増加したという可能性」もある。こんな見方が(ひょっとして)多いのではないだろうか?

印象論としては、よく分かるのだが、しかし、これは『風が吹けば桶屋が儲かる』の理屈と同じである。

この文句は江戸時代の頃だろうが

風が吹くと砂ぼこりが舞い、砂が目に入って失明してしまう人が増える。失明した人の中には三味線を弾いて生計をたてる人もいる。そんな人が増える。とすれば、三味線に張る猫の皮の需要が増える。そこで、猫が減る。猫が減るとネズミが増える。ネズミは桶をかじる。桶の需要が増える。よって桶屋が儲かる。

こういう「理屈」である。

本当に、桶屋の利益を増やしたいなら、風の強い土地に引っ越せばいいのだろうか?


物好きな人がいれば、江戸の冬季期間中の平均風速のデータを何年分か集め、同じ期間中の桶の販売数量を調べることだろう。

この二つの相関をとってみると、なるほど風が強く吹いた年は桶が売れる傾向がある、と。そんな結果を得るかもしれない。しかし、この結果は「風が吹けば桶屋が儲かる」という仮説が正しいと証明したことにはならないのである。「そう見える」という示唆があるに過ぎない。

例えば、火事の時には桶で水を掛けるだろう。とすれば、風が吹かない冬であっても火事が増えれば桶屋は儲かる。加えて、風が強い冬は火事も多いはずだ。桶屋が儲かるとして、それは風が吹いたためか、火事が増えたためか、印象論では判別できない。したがって、風の強さと桶屋の利益を正しく分析しようとすれば、風の強さと火事発生件数の二つを説明変数に含めて、重回帰分析を行わなければならない。このとき、風の強さが有意に出れば風も主要因になるが、有意に出なければ風の強さは要因として作用しているとは結論できない。

要するに、数多くの要因が同時に働いているときは、ある特定の一つが「原因」になって「結果」が得られていると、『軽々に判断は出来ん』という一言に尽きるわけだ。



太平洋戦争敗戦後の東京裁判に陸軍の天才的参謀であった石原莞爾が証人として出席し、判事から「開戦の責任者」についての意見を問われたそうだ。石原は『強いてあげれば黒船を率いて来航したペリー提督に責任がある』と答えたそうだ。ペリーが来なければ、日本は開国などはせず、戦争をすることもなかったという理屈なのだ、な。この伝でいえば、オリパラ開催期間中に人流を増加させ、この夏の新規感染者の激増を招いた責任者は、そもそも五輪を誘致しようとした石原慎太郎・元都知事である・・・このような観方を合理的に論評せよという課題は、ちょうどよいエクササイズかもしれない。

2021年9月4日土曜日

ホンノ一言: 菅内閣は確かに「仕事」をした

本ブログはWebLog、つまり「航海日誌」のつもりで書き続けているが、それでも世の中であったことを全て記録するのが目的ではない。とはいえ、菅総理が任期一杯勤めた後は自民党総裁選には出馬しない、10月(か9月内?)には新総理が首班指名され、その後すぐに衆院選がある。これくらいはやはりメモしておこう。

昨年10月に発足した菅内閣については、以前にも投稿したことがあって、その時は短期間内に達成した実績をけっこう評価している。

たとえばこんなことも書いている:

携帯料金の引き下げに目途をつけたことが一つ。それから、何かと批判の多い「GOTOトラベル」だが、これは危機にある観光関連業界(ホテル・旅館、航空、鉄道、観光バス等々)を救済するための緊急経済対策である。その目的は概ね達成されつつあったのだから政策は成功している。デジタル庁も然り。無駄な押印手続きの廃止も然りだ。アメリカの反応を心配すれば当分は無理だろうと思われていた「RCEP(Regional Comprehensive Economic Partnership):東アジア地域包括的経済連携」も(何と!)首相就任早々の時点で署名に踏み切った。安倍前首相には出来なかったことだ。首相就任以来僅か2か月で得た戦果としては上々であるという判断に反対する人は、実績によらず自民党政権に絶対的に反対する極左勢力のみであろう。

ただ一つ、新型コロナの感染対策には失敗した。経済政策を推進する大前提である《感染抑え込み》が出来ていないからだ ― それでも欧米に比べればゼロの数が一つ、二つ少ないのだが、現実に医療が危機的状況に陥っている以上、感染抑え込みには失敗したと言わざるを得ない。

前の投稿は昨年12月5日。それから9カ月がたった。十分に長い時間ではないが、短すぎるとも言えまい。結局のところ、検査体制拡大、医療体制強化、ワクチン接種促進、新薬開発支援というコロナ感染対策のうち、合格点をつけられるとすればワクチン接種だけかもしれない。それでもワクチンの早期特例承認がもっと前倒しできなかったか。もしそれが出来ていれば年齢が比較的若い層にも接種が進み、東京五輪中のデルタ株感染者激増という事態は防げたかもしれない。憾みが残るとすればこの一点だろう。 

菅内閣のこの1年については少し以前に既に投稿している。今夏のオリパラ開催も前首相の代理として開催責任を引き受けたようなものだろう。粘りに粘ってオリンピック・パラリンピックの無観客開催にまでこぎつけた。それも明日5日で閉会だ。無理を押して開会したことの国際外交上の意義は極めて高いとみる。が、国内では政治的体力が尽きる主因になった感がある。やむを得ない。これも「男子の本懐」というところか。

命なるかな。斯の人にして斯の疾あること、斯の人にして斯の疾あること。

Reference:https://blog.mage8.com/rongo-06-10

こう書くと誉めすぎだろうか。

ほかに付け加えることはない。


2021年9月2日木曜日

ホンノ一言: 「れいわ新選組」のワクチン義務化反対論について

 (出てくると思っていたが、やはり出てきました)『れいわ新撰組』の局長、いや代表・山本太郎氏が《コロナワクチン義務化反対》を堂々とぶちあげた。

山本氏は経済同友会の桜田謙悟代表が31日の定例会見でワクチン接種について「義務化に向けた議論があっていい」と発言したという報道を受け「打たない、打てない人たちの権利を侵害するな。義務化はダメ」と投稿した。

Source:Yahoo! Japan ニュース、2021年 8/31(火) 17:57配信


ワクチン義務化については、こんな報道が既にある:

[24日 ロイター] - 米食品医薬品局(FDA)が23日、製薬大手ファイザーと独ビオンテックが共同開発した新型コロナウイルスワクチンを正式承認したことで、従業員が接種義務化に反対して雇用主を訴えても、勝訴することはほぼ不可能になる見通しだ。複数の法律専門家がこうした見解を示した。

(中略) 

ワクチン関連法についての論文執筆者、ブライアン・ディーン・エイブラムソン氏はFDAの決定について「劇的だ」と述べ、この決定と、決定に伴う接種義務化を巡って訴訟を挑むのは極めて難しくなると予想した。

FDAによる正式承認を受け、政府や民間企業による接種義務化を予想する声が強まっている。

米国では昨年12月から、FDAによる緊急使用許可(EUA)に基づいて新型コロナウイルスワクチンの接種を受けられるようになった。

EUA法は、接種を受ける人はワクチンの利点とリスクについて説明を受けるとともに、接種を受けるか拒否するかを選べなければならない、と定めている。

USヘイスティングズ・ローのドリット・リース教授によると、雇用主による接種義務化は通常、合法と考えられているが、EUA法の文言によってやや不透明感が生じていた。その不透明感が「正式承認によって取り除かれた」という。

FDAの発表を受け、ドラッグストア大手CVSヘルスや石油大手シェブロン、金融大手ゴールドマン・サックスなどが一部従業員への接種義務化を発表した。

法律専門家によると、雇用主はワクチンの緊急接種を義務化できる、との総意は既に形成されつつあった。雇用機会均等委員会と司法省はともに、健康状態や宗教上の理由による例外を設けた上で接種を義務化することを支持する指針を発表していた。

Source:ロイター、 2021年8月25日2:11 午後

『日本とアメリカは違う!』という人が多いと思うが、この発想こそ何事につけ新しいことについては日本が世界に取り残されるという『ガラパゴス化』が目立っている根本原因である。

コロナワクチン感染拡大の初期、昨年の春ごろであったが、

日本人は罰則がなくとも自粛が出来るんです!日本人だからこそ、出来るんです。

と、毎日のように豪語しているワイドショーのMCがどれほど多かったことだろう。耳にタコが出来るほど「日本人には出来るんです」と聞かされたが、「なぜ外国人にはできないことが日本人にはできるのかね? なぜ日本人にだけは出来るんだろうネエ?」とサッパリその真意が分からず、小生は、毎日、公共の電波を独占して「虚言」をいたずらに放言するテレビというメディアにイライラとさせられたものであった。果てには「日本モデル」などという言葉すら使われていた。まさに「ガラパゴス化」の前兆が観察されていたのだな。

ここに来て、私権制限をともなうロックダウンを求める声が国民の間に広まりつつあります、と。これを世間では《周回遅れ》という。またしてもこんな「空言」をもてあそぶテレビ局が目立つにつけ、一体、TVビジネスの経営理念とは何なのだろうと、正面から聞いてみたくなる毎日だ。


いや、もとい、もとい。


Googleで《フランス ワクチン 義務化》と検索すれば、直ちに

フランス政府は9日、飲食店のほか飛行機や高速鉄道などの利用者に、ワクチン接種の証明や検査による陰性証明などの提示の義務化を始めました。 健康上の理由で接種を受けられない場合は、医師が発行する証明で代用できるということです。

という回答が画面に表示される。フランスをイギリスに変えても、ドイツに変えても、もはやワクチンパスポート提示義務化は国際標準になりつつあり、どうしてもワクチンを接種しないのであれば、毎週定期的にPCR検査をして陰性を示す義務がある。その検査料は(多分)自己負担になる。

世界はこんな方向で進みつつあるようだ。


世界を吹きまくる逆風に逆らって、あくまでも《個人の自由》を旗印にして

ワクチン接種義務化、はんたあ~い!!

と声をあげるのは、まさに幕末という時代、あくまでも徳川幕府に誠を貫いて、最後まで戦い抜いた新撰組を思い起こさせるわけであって、この点では山本氏の心意気には清々しさを感じるのだ、な。

とはいえ、勝敗は明らかではないかと思う。これもまた「散華の美学」というものか。


ところで、「れいわしんせんぐみ」と検索すると「れいわ新選組」の文字が返ってくるのだが、「新選組」ではなく「新撰組」と名乗るのが正しいはずなのだが、・・・どうやら両論があるようであって、実に面白い話である。それに「代表」ではなく、ここは近藤勇にならって「局長」と称するのがハイカラだと思うのだが、どうなのだろうなあ・・・😛。