2021年10月29日金曜日

一言メモ: Facebookの社名がMetaに変更されることに思う

Facebook株がまだ30$にもなっていない頃、僅かな金額を同社に投資した。それが今ではSNS分野では世界最大のメガ企業となり、広告業界ではGoogle(⊂ Alphabet)に次ぐポジションを占めるまでに成長した。

そのFacebookが近年立て続けにトラブルに見舞われ、政府からはもう何年も目を付けられている。同社が、めっきりと衰えの目立つアメリカ経済を最近10年間余りの長きにわたって"Innovatioin Center"として支えてきたことを思うと、いかに米政府と言えども、そうやたらにFBを「おとりつぶし」にしたり、会社の活力を奪うような「規制強化」、「強制分割」などに打って出られるはずはない。米政府がそんな愚行に出れば、喜ぶのはライバルの中国・北京政府であろう。

確かにFacebookやその他のSNSの世界は、"fake news"や"misinformation"があふれかえっており、人格攻撃、中傷などヘイト行為の温床にもなっている。しかし、それは現実の世界が流言飛語、デマ、フェイクニュース、非難中傷に満ち満ちているからであって、フェースブックがそうした悪意のある世界を創り出しているわけではない。寧ろ「悪貨」が「良貨」を駆逐するという名句のとおり、悪質な投稿が良心的な投稿を「不可視化」していると考えれば、SNS企業の側が被害者であると言ってもよい。SNSは、現実の世界を《視える化》しているわけである。米政府やマスメディアがいくら同社をたたいても、現実の世界がそれで改善されるわけではない。それに、(批判している人の目には不十分かもしれないが)Facebookは悪質な投稿を検知するために多大のカネとヒトを投入して努力している(ようだ)。この努力の規模は半端ではない(ようだ)。悪意のあるコメントがあふれかえる日本のYahooやその他のSNSをみるにつけ、「日本のネット企業はフェースブックの爪の垢でも煎じて飲むべきじゃあないか」と感じたりすることも多いのだ、な。

いま特にFacebookに厳しい報道をしているのはWall Street Journalである。反フェースブックの論陣をはるその調査報道ぶりは世界のマスメディアの中でも急先鋒である。他方、いつもなら人格攻撃や人権侵害には厳しいThe New York Timesは、今日の報道をみても、比較的冷静であり、穏やかである。

社名をFacebookからMetaに変更し、12月からはNY株式市場で使うティッカー名もFBからMVRSに変更するとの発表に対して、今日のNYTは次のように報じている。炎上中のトラブルやCEO・Zuckerbergのワンマン体制が継続される点を指摘しながらも、結局、以下のように締めくくっている。

Even so, Mr. Zuckerberg on Thursday talked up the idea as “the successor to the mobile internet” and said mobile devices would no longer be the focal points. The building blocks for the metaverse were also already available, he said. In a demonstration, he showed a digital avatar of himself that transported to different digital worlds while talking to friends and family, no matter where they were on the planet.

・・・

Success will depend partly on attracting others to create new apps and programs that work in the metaverse. As with the mobile app economy, users are more likely to join new computing ecosystems if there are programs and software for them to use.

As a result, Mr. Zuckerberg said he would continue offering low-cost or free services to developers and invest in attracting more developers through creator funds and other capital injections. Among other things, Facebook has earmarked $150 million for developers who create new kinds of immersive learning apps and programs.

“We are fully committed to this,” he said. “It is the next chapter of our work.”

URL: https://www.nytimes.com/2021/10/28/technology/facebook-meta-name-change.html

Source: The New York Times, Oct. 28, 2021

Updated 10:55 p.m. ET

明らかにWSJとNYTは観点が違う。

思うに、Wall Street Journalは共和党系である。他方、The New York Timesは民主党系である。Facebookはトランプ前大統領のアカウントを停止した。ト氏は共和党内に隠然たる影響力を今なお持っていると伝えられる。そもそもFB本社のあるカリフォルニア州メンローパークはシリコンバレーにあり、ここは多様化に高い価値を認める民主党の強固な地盤である。これまたありうる見方である。


マイクロソフトも1990年代から2000年代初めにかけて連邦政府からは仇敵のように見られていたものだ。後には訴訟の泥沼に引き込まれた。まるでアメリカ国家に危害を加えているかのような論調がマスメディアにはあふれていた。小生は、90年代前半まではAppleを、後半にWindows機を併用し始め、2000年代になってからはAppleを見限ったのだが、その頃、スマートなMac、ダサいWindowsというイメージが定着していた世相をみるにつけ、人気と中身がこれほど離れるものかネエと、呆れかえっていたものだ。結局、マイクロソフトという企業はいかなる損害をアメリカ社会にもたらしたというのだろう? やはりマイクロソフトは巨大になりすぎていたのだろう。そういえば、Microsoft登場前の覇者IBM、自動車業界の支配者GMなど、その市場支配力がどれほどアメリカ社会で警戒されたことだろう。時代は遡るが石油王ロックフェラーが創り上げたスタンダード・オイルは1911年に30以上の企業に解体されてしまった — こんな「蛮勇」もアメリカが伸びゆく時代であったからこそ可能であったのだが。

つまり

最大の企業はたたかれる

アメリカの政治とビジネスが向き合うそんな決してヤワではない、互いの緊張関係が何となく伝わって来るではないか。

本当はこうでないといけない。

時に不合理に見えるが、アメリカにおけるこの辺の政と財との緊張関係は、日本社会が見習って決して国民の損にはならない。そう考えるのだ、な。経団連や日経連、同友会、商工会議所とは、与党ばかりじゃなく、政権をとりたいと考える野党も仲良くしたがる、そんな政と財との甘々な関係がかえって変化する経済環境への適応力を弱め、国力の衰退につながっていく一因として働く可能性は、よく考えなければならない点である。

【10月30日加筆】

30日付けのWall Street Journal(日本語版)で、Facebookの新社名が"Meta Platforms"となることが分かった。単なる"Meta"ではない。軽率、軽率。

URL: https://jp.wsj.com/articles/mark-zuckerbergs-latest-pivot-is-personal-as-well-as-strategic-11635531916

WSJにしては"Metaverse"を主戦場に選んだ同社の新戦略を理解しているように思える。いずれにせよ、SNSの現状とSNS企業とは峻別した方がよい。SNSビジネス分野については、少々の寡占は大らかに受け入れ、寧ろ寡占企業の資金が新技術の実現に有効に活用されているかどうかに着目するべき時代だと(小生は)思っている。交通事故がにわかに急増したからと言って、自動車メーカーの活力を奪ってしまえば、正義感は満たされるが、チャンスも捨て去ることになったろう。とはいえ、死亡事故の抑制に向けて自動車企業が採れる方策があれば、その方策に誠実に取り組むことが重要だ。SNSに現れている今の問題も同様だ。


2021年10月28日木曜日

覚え書き: 古い投稿を読み直すことが役立った一例

何度も書いているが、ブログとはWebLogの略称、つまり「航海日誌」という意味合いで、「作業日誌」と言えばそれですむ事柄ではある。それをWeb上に保存するからブログと呼んでいるのだが、このご利益は世界のどこにいても書けるし、読める。これが最大の利点である。さらに強力な検索機能があり、ノートを持ち歩く必要もない。これらの利便性から世に普及したわけだ。


時々、以前のブログを眺めるだけでも「思考の再発見」、「問題の再確認」に役立つことが多い。例えば、


仕事の方向性を決めるのは部下ではなく、上司、というよりトップであるが、全員が目的感を即座に共有できるわけではない。故に、日常の習慣としては上司の身になって、聞いた言葉の真の意味を思い返すことが習慣となっていた。これが「忖度」である。

自分の属する組織はプラスになる事をやっていると信じなければ仕事をする気にならない。しかし、組織は目に見えず、自分こそ組織であると信じるのは自信過剰だ。なので、まずは上司の真の意図を理解しようと努める。当たり前であったな・・・・。


こんなことを2年前に書いているのだが、すっかり忘れていた。これに関連して、追加的な疑問が浮かんできた。



ごく最近、世間で強調される言葉に《リーダーシップ》がある。「トップがリーダーシップを発揮して・・・」とか、「いま求めても得られないのはカリスマ性というもので・・・」など、「リーダーシップ」という意味の言葉が、色々な場面で、色々な期待をこめて、使われている。特にマスコミ業界に従事している人は頻用している印象がある。


ところが、引用した上の文章通りのことを公の場で主張すると、


仕事の方向性を決める前に、まず人の声に耳を傾けることが大事です。独善はいけません。コミュニケーションを忘れるべきではありませんヨネ。


というコメントがほぼ確実に誰かの声になって、はね返ってくるはずだ。つまり、これが最近の世相であって、おそらく誰しも同じ印象をもっているのではないだろうか?



鎌倉時代に数度にわたる弾圧にも諦めず自らの主張を貫いた日蓮の言葉


敵百万人ありとても我ゆかん


という強い意志こそ、リーダーシップにつながっていく本質ではないだろうか。


人の声にまず耳を傾けて・・・というのは、リーダーシップ型の人物像とはかなり違うし、ましてカリスマ型の人物とは180度正反対にあると感じる。


西郷隆盛はカリスマに近かったが、それは配下の薩摩武士の総意を代弁していたから、「数の力」で指導力を発揮できたのか、それとも薩摩武士の集団が西郷隆盛と行動をともにしようと集まったのでリーダーでありえたのか?つまり「人望」というのは、自分たちの願いを聞いてくれるから多くの武士があつまり人望となったのか、反対に西郷隆盛の願いをかなえてあげたいと人が共感し、多くの人が集まったので人望ができたのか?


小生は後者だと思うのだな。というのは、「総意」というのは崩れやすいものであるし、もっと願いをかなえてくれそうな人物が現れると、そちらに流れる可能性がある。一方、特定の一人の人物はブレることさえなければ、一貫した一人の人間として生き続け、実存し続けるわけだ。どちらがリーダーシップに近いかは明らかだと思われる。



「総意」というものについては更に議論がある。


経済学の消費者行動理論では、消費財の組み合わせに対するその人の選好を順序集合として前提するが(効用関数を前提するといってもほぼ同様だが)、一人一人の中では矛盾のない選好であっても、多数の人間集合について社会的選好を多数決によって定めようとすると、それはどうやっても矛盾が発生する。非論理的なケースが出てくる。つまり、社会的な順序付けを定めるのは不可能であることが分かっている。いわゆる《アローの不可能性定理》である ― 肯定的な結論であれ、否定的な結論であれ、このような問題意識をもって純粋学問的な探究を続けること自体、民主主義国がその民主主義を本当に深めることの努力の証でもある。


明らかに両立しない矛盾した要求が言葉となってマスメディアにしばしば登場するのは、


世間とはそういうものだ


といえば、それですむ話しだが、むしろそれが「世論」というものの本質であって、それに振り回されてしまえば、政治的意思決定そのものが非論理的になるのは必然の結果だ。


なので、一人のトップが最終決定者としていなければならないのは、当然の要求である。世論の矛盾は世論形成の限界として認めることが、どんな民主主義にも必要である。



最近の世相について小生が疑問に感じるのは


かたや「強いリーダーシップ」と、かたや「多くの人の声にまず耳を傾ける」という基本原則と。一体この二つはどうすれば両立するのだろうか?


ということだ。率直に言って、この二つは両立しないと思う。


実際には難しいでしょうが、優れた人はこの二つのバランスをとれると思うんですヨネ。


と割り切ってしまえば、「それは確かにそうだよね」となるわけだが、しかし「それはそうだよね」というのは、つまりは当たり前すぎて、実は何も言っていない、何も結論付けていないということなのである。現実の社会に落とし込むには、矛盾だと思われる問題に対して、ハッキリと結論を出さなければならないし、そのための議論や時間や手間を惜しんではならない。


基本方針を定めることは、足元の利益にはならないが、長期的にみて自分たちが強くなる必要条件であるからだ。


逃げてはいかん


というのは、やはり一般的な通則であるようだ。


2021年10月26日火曜日

断想: 「齢をかさねたマルクス主義者」を思い出す

今日は漠然とした投稿。

まだ10代の頃だったか、父から《マルクス主義》という言葉を初めて聞いたときの情景を覚えている。具体的に何歳だったのか思い出せないが、小生は非常なオクテであったから、《マルクス》という人名も正確には知らなかった。ましてや、そのマルクスがどんな思想をもっていて、どんな主張をしていたか、その頃の小生の知識には入っていなかった。

若い頃にマルクスに関心をもたないとすれば、その人はどこか問題がある。

そして齢を重ねてもマルクス主義者である人は、その人はどこか問題がある。

確か父はそんな風なことを語っていた記憶がある。

若い頃に関心をもった理念を生涯を通して持ち続けるのは、それ自体はすごいことじゃないかと、そのときは思ったものだが、その頃の父より齢をとってみると、ある意味、父の言っていたことは、その通りだと。父はひょっとして、誰か具体的な人物例を頭に思い浮かべながら、そう話していたのかと、改めて思い出したりする。その頃の父は、新規事業の立ち上げを任されながら、事業提携先の労使紛争激化で物事が進まず、懊悩の極にあった。


TV画面にもよく登場する(自称?)「専門家」という人をみていると、若い時分にはラディカルな反政府運動で随分名をあげていた人もいる。そんな元・活動家が、今は政府からも一目置かれるような政治評論家になっていたりする。

そうかと思えば、若い頃は地味で真面目な学徒・研究者であったのが、いつしか「●●主義者」に変貌し、いまでは反政府的な発言で世間を煽り続けている。そんな人もいる。

前者は、父が語っていた人物観によれば、典型的な人生航路を歩いてきたことになる。他方、後者は上とは真逆の逆コースを進んできたわけだ。


まあ、「人はいろいろ」だから、好きなように人生航路を選んで歩けばイイのだが、やはり若くて世間との係わりが少ない時分はどうしても考え方が純粋で、それ故に反権力、反政府的な怒りをぶつける気持ちになるのは、仕方がないと小生は思っている。それが、齢を重ねるにともなって現実の資本主義社会で自分も給料を得て、その中で仕事をして実績もあげてくると、自分が生きている生活基盤自体が「間違っている」と否定する心情にはならなくなるものだ。これも自然な感情であろう。何か問題があれば、問題発見と解決法を提案すればよいわけで、もし自分にそれだけの能力があれば、問題解決のために汗をかけばよい。


若い時分には問題意識をもたず、現実の社会を受け入れておきながら、齢を重ねてから批判的な姿勢を強め、ついには反権力、反政府、反執行部の立場から自分が現に暮らしている社会を声高に非難するという生き方は、ちょっと小生の感覚には合致しない。何だか<あつかいにくい犬>と似ている。


2021年10月25日月曜日

「日本病」の克服は処方箋はあるが実行が極めて難しい

本ブログでは経済学に関連した投稿が結構ある。中でも<労働生産性>は最初に最も関心のあった経済成長論の肝でもあるので何度かその時点で思いついたことを書いている。

いま<労働生産性>をキーワードにしてブログ内検索をかけてみると、こんなに何度も書いているのか、こんなことも考えたことがあるのか、とあきれてしまう。何度も投稿している割には、断片的でどこか核心に的中していない ― そこがマア、ブログというメモツールの特性なのかもしれないが。

たとえば『覚え書: 高齢化の中では、実質賃金が伸び悩み、労働分配率が低下するのがロジカルだ』の中では、

もし全員が現役世代であれば、実質賃金の上昇は人の暮らしが向上することと裏腹の関係になる。

が、高齢化が進むと言うことは、働かずして所得を得る人の割合が増えるということだ。高齢者全体が得る所得はその社会の労働所得ではない。

なんてことを書いている。更に、

 介護施設で働く人の数を増やさない一方で、一人一人にパワースーツ"HAL"を支給し、労働生産性、持続可能性を確保しようとするのは具体的な一例だ。パワースーツの装着可能性向上などR&D投資が増えるということは、典型的な資本深化の一例だ。もし人ではなく、全面的に介護ロボットにシフトするなら、もっと資本集約化が進むことになる。

これらの一連の事柄は、施設運営者の利益拡大 ― ヒトは高く(なければならない)、ロボットは安い ― の努力として進むはずだが、結果として現場で働く人、介護をされる人の満足度向上にプラスの寄与をすることを理解できないはずがない。

高齢化が進む中で賃金の規制や介護方法の規制など規制を全面的に撤廃すれば、機を見るに敏な経営者が勝ち組となる可能性が高い。しかし、社会的には望ましい状態を作ってくれる可能性が高い。

それは社会の進化というものではないか。

ここまで書いている。確かに、その国の労働生産性は平均的な資本集約度($K/L$)が高いか低いかで決まるものである。成長論の基本中の基本に忠実に考えていたことが伝わって来る。が、以下のように考えているのは、やや極端、というか現実無視であったかもしれない。

機械への代替が進む中で賃金上昇は緩和される。人は減るので労働所得の増加も抑えられる。他方、資本集約化されることで生産活動は全体として減ることはないので、利益が拡大する。労働分配率は低下する。

「悪い低下」ではないだろう。

ロボットの持ち主が得る報酬は賃金ではなくレンタル利益、つまり利潤である。

自動化とロボット化を進めることで、高齢化社会の生産活動が維持可能となる。この方向を促進することは高齢者の生活水準向上、格差拡大を縮小するという政策目的にも寄与するはずだ。

さすがにこれは「違うでしょう!」と言われるに違いない。現在の経済問題は、実質賃金の上昇がもたらす「労働から資本へ」という流れではなく、ただ単に、労働生産性がある分野で上昇することもなく、ただただ日本国内の実質賃金が全体として低下してきていることにある。高い実質賃金を支払える効率的な企業が日本国内から出てこない。かつてのリーディング産業は海外との国際競争に敗れ去って国内から消滅したか、でなければ海外に流出してしまった。流出する片側で新たなリーディング産業が育ってくるはずが、それがない。あっても成長できずにいる。そこが大問題なのである。

今朝もカミさんが好きな「羽鳥慎一モーニングショー」につきあって視ていたのだが、総選挙を控えているためか、現在の経済問題と今後の経済政策の方向がテーマであった。近年の実質賃金の低下トレンドが「大問題」であることは、民間TVも勉強しているのか、問題意識としてはもっているようだった。コメンテーターの指摘をよく聞いていると、いま日本に求められているのは

保護したり、規制を強めることではなく、弱い企業組織を淘汰し、リーディング産業に人が流れていくように道を開くことにある

ちゃんとこれを明言している。

しかし、

新自由主義によって日本社会は悪化しているので、これを(逆に)改革して、弱者に寄り添う政策が実行されなければならない

と。やはりこんな意見が多数(反論と意識しているわけではないのだろうが)出て来てしまっている。日本で「廃業」や「解雇」につながる話しは、タブーとも言えるほどに社会的な拒絶感が強い言葉である。そのため、話全体としては

カネを持っている階層に増税で負担してもらう(しかないナア・・・)

と、こんな誰もが賛成しやすい、追い詰められた末の議論が、記憶に残ることになる。実は、ここにこそ日本人の生活習慣病にも似た「日本病」という経済状況の背後で働く社会心理的原因がある。


番組の中でも提案があったが、企業の内部留保や有資産階層が保有する金融資産に資本課税するとする。それを財源に年金、定額給付、児童手当などの社会保障拡大を進めるとする。もし万が一、こんな方針で進むとすれば、もはや再び日本経済が20世紀の輝きを取り戻すことは不可能になるであろう。祖父が創り上げた財産を子、孫の世代になって消費に食いつぶす行為とどこが違うだろうか?「資産」というものは、「生活」に使ってしまえば、なくなるのであって、もう戻ることはない。100年の苦心を3年で散財するのは、よくある話だが、これと同じ主旨の「提案」を「名案」だというトーンで堂々と語る風景を画面を通してみていると、悲劇であるのか、喜劇であるのか、小生にはもう分かりませヌ。


民間企業も富裕階層もそうだが、余った金はただ余っているわけではない。資産は運用しているわけである。例えば、日本には一つもない利回り8パーセントで配当を払ってくれるアメリカの投資ファンド「エイリス・キャピタル(ARCC)」や同じたばこ企業でも日本のJTより高配当が期待できる"British American Tobacco(BTI)"で運用したりする人は多いだろう。日本国内で、資本課税を強化し、資金を回収するように誘導して、政府がその資金を税として吸収して、それをカネの足りない階層への社会的給付に充てて分配するというのは、「福祉国家」といえば耳に心地よいが、所詮は《花咲じじいのばらまき》である。ばらまいた分、日本人の財産はなくなる。何度かばらまきを繰り返せば、あとは海外からカネを借りてばらまくしかない。海外からカネを借りれば返済地獄が待っている。これでは国家経済戦略もなにもないのだな。余ったカネはカネを生み続けるように投資するのが肝心で、いかに散財するかを考えるのは経済政策になっていない。

ホント、「ワイドショーのプロデューサー、このこと分かってます?」と思いながら、カミさんにつきあって、最後まで視た朝であった。

余剰資金をもった家計、企業なり国内の経済主体が、日本国内で運用する投資先が見当たらない。だから、アメリカや中国、インドその他海外の企業や投資ファンドの株式、債券を購入する。国際収支統計でいえば、資本収支にみられるこの赤字傾向が、日本の経常収支の黒字傾向と表裏一体の関係にある。日本は「貯蓄超過病」、「過少投資病」にかかっている。これが問題の本質である。「貯蓄超過国」は本来なら需要不足で国内生産そのものが低下しなければならないが、日本は政府が超過貯蓄を国債で借り受け、政府支出を高い水準に固定しながら、それで国内生産を維持している。なので、民間は黒字、政府は赤字である。その国債を日銀が買ってくれるのが今の日本である。民間はできたカネを海外に投資する。なるほど「カネは天下の回りもの」だが、根っこには日本の中には投資したいものがないという根因がある。だからカネは海外へ流れ出て、海外の事業家が助かり、ますます日本国内は非効率となり、賃金も低迷する結果になる。


要するに、日本国内で積極的なビジネス展開が出来ていない、これが根本的原因であって、まさに民間にこそ《低迷日本》の主因があるのだが、その主因を解決できないでいる日本政府にも大いに責任がある。


故に、為すべきことは


  1. 新たな成長産業にカネが流れる環境をつくる。<国内投資優遇税制>は寧ろ必要な政策である。これが第一歩だ。先日の投稿でも触れたが、安倍一強と称された政権であっても、この課題を日本はなおクリアできていない。その分、解決が難しくなっている。とはいえ、流れるべきカネをもっている家計、企業はまだ国内に多く存在する。それは救いであって、まだ日本は土俵を割ってはいない。
  2. カネの流れ先を海外から国内に変えるためには、海外投資と同じ程度の収益が期待できる投資先を日本国内に創らなければならない。《ビジネス創出》である。これもまだ日本はクリアできていない。インキュベーション段階から株式新規公開(IPO)に至るまでの《創業支援システム》になるが、これは日本の金融業の経営ミスとばかりは言えない。新規産業の立ち上げが厳しすぎるのだ。つまりはビジネスに優しいオープンな環境にしなければならない。特に、医療、教育、データ通信、情報、農林水産業は岩盤のような規制で守られている保護産業であるが、ビジネスチャンスの宝庫でもある。門戸を開くことが最重要の課題だ。そうすれば日本のカネは再び日本国内で運用され、投資へと向かい、海外からもカネが入るようになるはずだ。
  3. 1と2をクリアできるとする。そのあと、カネだけでは駄目だというステージになる。カネだけではなくヒトが流れなければ新たな産業は成長できない。つまり、労働市場の流動化こそ問題解決のもう一つの核心である。労働市場が柔軟化されれば国内の衰退産業から成長産業へと解雇・離職・転職が進むばかりではなく、有能なヒトが海外からも入ってくる。そうなって初めて成長するべき産業が日本で十分に開花する。この点はほぼ全ての経済学者が(ホンネでは)最も強調したい点であるはずだ ― 提言しないのは社会的反発を怖れているからだろうと推測している。

つまり、日本が富裕国から並みの国、並みの国から貧困国へと地盤沈下したくないのであれば、いま行うべきことはもはや決まっている。決まっているし、それは経済学畑の専門家であれば概ね誰もが既に分かっていることだ。ただ、ものを言いにくい社会的雰囲気がある。これが最も大きな問題なのである。

やれ「〇〇主義は間違っている」とか、「△△主義をもう一度見直すべきである」とか、そんな「主義」の問題ではないし、そんな神学論争がこの期に及んで大事であると考えるとすればアホの証拠である。そのくらい、日本が取り組むべき課題はもう分かりきっている。一流の外国人政策顧問を招いても、世界的に評価されている真っ当な日本人専門家に問いただしても、まず同じことを提案するはずである。ところがこんな提案をすると日本人の神経を逆なでする。政治家は国民におもねるばかりで、なお悪いことにそんな姿勢を「国民に寄り添う」と美化している。「日本病」の核心がここにあるのは間違いない。

コロナ対策でも、「先ずやるべきこと」についてはもう「定石」が定まりつつある。検査拡大、医療基盤強化、ワクチン・治療薬開発の三つを徹底することだ。同じように、経済成長軌道への復帰のための方策も、世界的にはもう「定石」が固まりつつある。あとは、その定石を実行する《ヒト(と組織)の問題》である。


19世紀終盤から第一次世界大戦にかけてイギリス経済は斜陽化が懸念された。資金を海外へと投資する富裕階層の行動には批判が集まった。しかしながら、イギリスから海外への投資が投資を受けた国々にとっては支援の手となったのも事実だ。こうして完成された「大英帝国」は第二次大戦後に解体への道を歩んだ。それでもイギリスは慣行的な政策思想にこだわり、ついに1980年代に「サッチャー改革」という荒療治を余儀なくされることになった。イギリスの場合は「失われた100年」と言うべきで、さすが「大英帝国」と称された分、その衰退劇と復活劇にも大きなスケールを感じる。

イギリスの例は巨大だが、実は日本にとってもっと身近な参考例もある。それはドイツである。

「いまは昔」というべきかもしれないが、東西ドイツ統一後のドイツ経済は極めて不振であり、21世紀になる頃には「ヨーロッパの病人・ドイツ」と揶揄されていたものだ。この「ドイツ病」を解決したのは労働階層を支持基盤とする社会民主党・シュレーダー政権であり、とりわけ労働市場改革が今日のドイツ繁栄に寄与してきたことは、今ではほぼ全ての専門家が合意している ― 日本国内の政治家、マスメディアは耳が痛いのか、あまり真面目にとりあげてはいないが。

このように日本の《成長戦略》は、戦略としてあるといえばあるのだが、実行には困難が伴うのも事実だ。何よりメディアの無理解があるし、いま必要なことは日本人の拒絶感に触れるものばかりだ。自己利益のために意図的に謬見を公表する人物も多いし、その種の煽りに「煽られやすい」という日本の大衆の軽薄さも必要な政策を断固実行することの困難を増している。それに、日本の政党には有能なブレーンが乏しい。

戦略策定には、これも「今は昔」の「臨調」、「臨教審」なみの臨時的大組織を期間限定で設け、産官学労の人材を網羅するような大風呂敷を広げなければ社会的合意が得られず、実行にはつながらないだろう。しかし、これも旗をふる人がいれば、の話しである。

理屈はこうなるはずなのだが・・・・

太平洋戦争を避けるためには「なすべき事」は分かっていた。それが出来なかったのである。分かってはいたが、実行できる人がいなかった。今も似たような状況かもしれない。今後、10年程度をかけて、再び全面的敗北への道を歩むのではないかとも予想される。



2021年10月23日土曜日

ホンノ一言: 国民性に合わせて政治はされるものなのか?

 COVID-19に関連して久しぶりの投稿。

いうまでもなく、コロナ・ウィルスは万国共通で、どの国という国の違いはウイルスにとっては何もわかっちゃいないし、どうでもよいことだ。それでも国によって感染動向に違いが出るのは、それぞれの国の国民や政府が違ったことをするからだ。(ファクターXなどという言葉もあるが)因果関係は基本的にはこうだろう。


イギリスで感染者数が再び増加の傾向にあり、こんな記事が出るに至っている。

キングス・カレッジ・ロンドンのティム・スペクター教授(遺伝疫学)は制限解除について、「ワクチン接種と自然免疫によって、早々に勝利できると期待して行われた」と語る。「それだけではうまくいかないということが分かった」

 英政府は20日、ワクチンを主な対策とする戦略を強化する一方、一部の医師や科学者が必要性を指摘しているマスク着用の義務化やワクチン接種証明などの措置に関しては、導入する必要は今のところないと述べた。

(中略)

 ボリス・ジョンソン首相は英国の「免疫の壁」がウイルスを制御すると見込んでいた。ある程度までは、その通りになった。英国では夏の間、感染者が目立って急増することはなかった。ただ、感染レベルが大きく下がることもなく、8月から9月にかけては1日あたり2万5000~4万人で一進一退が続いた。

 ここに来て、感染は再び増加している。21日の新規感染者数は7月以来初めて5万人を超え、先週の感染者数は前週比18%増となった。

Source: Wall Street Journal(日本語版)、 2021 年 10 月 23 日 03:42 JST

イギリスはワクチン接種率の上昇を根拠に早々に行動規制を撤廃するというギャンブル(?)に打って出たものの、デルタ株に関してはたとえ接種率が90%を超えても集団免疫にまでは至らないと専門家は警告を発していた。とはいえ、ワクチンを接種すれば、重症化、死亡等のリスクは格段に小さくなるということも明らかになってきた。

どうやらイギリスは、1日5万人の感染者が出て来てはいるが、行動規制撤廃の方針は変更しない構えである。確かに、ワクチン接種数の増加、未接種者数の減少、治療薬の登場が続く中、むしろ感染するなら感染して、

最大多数の人々が最大数のコロナ抗体を保有する

ワクチンであれ、実際に感染するのであれ、こんな社会状況に至るのであれば、感染拡大も正に「天のなせる計らい」であって、社会が均衡するまでの道のりにすぎない。こんな視点も明らかにある。

さすがに「功利主義」発祥の地・イギリスである。悪く言えば、結果良ければ全て良し、という政策思想に近い。が、もしワクチンを義務化しないのであれば、イギリス流のアプローチが正しいスタンスと言ってもよいと小生は考えているわけで、英政府の思考には論理が通っている。

他方、アメリカのリベラル派経済学者として著名なポール・クルーグマンはThe New York Timesのコラムで以下のように書いている。抜粋して下に引用しておこう:

But the biggest thing that could bring fast relief would be undoing the skew in demand by making people feel safe buying more services and fewer goods. The way to do that is by getting the pandemic under control, above all by getting more people vaccinated.

And how can we get more people vaccinated? Mandates. No need to spend time here rebutting claims that requiring workers or customers to be vaccinated is an assault on liberty: Sorry, but freedom doesn’t mean having the right to expose other people to a potentially deadly disease. At this point we can also dismiss claims that requiring vaccination will disrupt the economy: While many people told pollsters that they would quit rather than take their shots, in practice employers that have required vaccination have experienced only a handful of resignations.

In other words, what our economy needs now is a shot in the arm — or rather, millions of shots in millions of arms. And vaccine mandates will provide those shots, in addition to saving lives.

URL: https://www.nytimes.com/2021/10/19/opinion/vaccine-mandates-us-ports-supply-chain.html

Source: Tne New York Times, Oct. 19, 2021

コラム記事のテーマはワクチン接種それ自体ではなく、米国内でサプライチェーンの渋滞が発生しているということである。その主因としては、調理器具、健康保健器具などの耐久消費財購入が激増していることが挙げられる。つまり需要急増に物流機能が対応できずにいるのだ。

実際、以下の図が記事の中で示されている。米国・セントルイス連銀が運営するFREDが作成している。


耐久消費財が急増しているのは、サービス消費がひかえられているからである。サービス消費を控えているのは、コロナ感染のリスクをアメリカの消費者が心配しているためである。故に、いま必要なことは《モノを買うのではなく、安心してサービスを楽しめる》、そんな社会を実現することである。

クルーグマンは、社会に《安心》を広げるための特効薬は《ワクチン接種義務化》であると断言している。同じことは先日の投稿でも書いているが、この位の理屈は誰もが(ホンネでは)分かっているはずだ。

義務化は自由を侵害すると人は言うが、全員がワクチンを接種すれば、感染がなくなるわけではないが、ほぼ確実にカゼ程度の病気となり、過渡に感染を心配する社会からは脱却できる。誰もが安心して外食を楽しめるし、ジムにも通える。それを妨害する自由は誰ももっていないのだ、というのがクルーグマンの主張である。

実際、アメリカでは官公庁、民間企業でワクチン接種義務化が進んでいる。しかし、義務化は職場単位で行われ、全てのアメリカ人に対する義務ではない。だからクルーグマンの主張は、(いまのところ)ややラディカルで、過激である。


さて、日本は・・・、である。

日本は新規感染者の増加に極めて強い拒絶感がある社会ではないだろうか?とすれば、考え方とすれば、日本は基本的にイギリスではなく、アメリカの流儀で抗体保有者を増やすのが本筋だという理屈になる。

ところが・・・

北海道でも行われ始めた旅行の「道民割り」、正式には「新しい旅のスタイル」と呼ぶそうだが、割引は有難いが分割された幾つかのエリア内の旅行に限っての話しだ。加えて、北海道コロナ通知システムに登録することが求められているが、ワクチン接種証明書(未接種は陰性証明書)の提示は義務ではない―申し込み時にワクチン接種済みであることを回答する欄があるのだが、接種証明書を持参せよとは記されていない。どうも、どこかが「生ぬるい」、というか「シャキッとしていない」というか、
公金をつかって割り引いてくれるのは有難いけれど、何らかの《衛生証明書》の提示義務付けくらいやったらどうなんですか? しないんですか? エッ、しない、それはなぜ?
どこかグジュグジュしている行政のこの姿勢が、日本の民間全体にも「感染」して、民主党から政権を奪還した安倍政権・菅政権の9年間、実質的に大きな決断はなにもしてこなかった。大事なことはほぼ全て先に延ばしてきた。嫌な事は先送りしてきた。防衛政策はともかく、こと日本経済に関してはホノボノ暖かい量的緩和、ゼロ金利政策に頼りっぱなしだった。まるで低血圧患者だけでなく、みんなに昼寝をすすめ続けるようなスタンスだった。金融業界、自動車業界など個別業界、個別タテ割り省益を超えた<日本国まるごとの護送船団政策>。こんな<グジュグジュ感>がまだ今もあるということを改めて実感しているところだ。

反対を説得してやる。反対を押し切ってやる。反対者に発生する損失は賛成者から補償を行ってでもやる。「反対があるのでやらない」というのでは、議員にはなれないし、なるべきでもないし、まして政治家をするのは無理というものだ。



 


2021年10月21日木曜日

ホンノ一言: 久しぶりに「団塊の世代」の足跡をみたような気がして

今年のショパン国際ピアノコンクールで、日本人が2位と4位を獲得したというニュースが飛び込んできた。同コンクールと言えば、中村紘子さんを自動的に連想するので、改めてWikepediaではどう紹介されているのだろうかと思った。

その最後にこんな下りがあった。

1999年頃、母校である慶應義塾中等部から招かれてリサイタルを行った際、演奏をはじめてもいっこうにおしゃべりを止めない生徒たちのあまりの態度の悪さに演奏を中断し、静かにしなさい、と叱責した。しかし生徒の方はそれで静かになったものの、保護者のおしゃべりはやまなかったという。また演奏終了後、楽屋に挨拶に来た校長から「よくぞ言ってくださいました」と声をかけられ、本来おしゃべりをやめさせるのは校長先生の仕事だろうに、世も末だ、と慨嘆したという。

Source: Wikepedia

1999年に中学生の児童をもつ保護者ということは、小生よりはやや年上の世代、つまり有名な《団塊の世代》に該当するわけで、

なるほど・・・このお人たちは、こんなところでもこんな風であったのだネエ

と納得したのだ。

もちろんこう書いたからと言って悪口ではない。戦争直後にまだ小学生であったいわゆる《焼け跡派》の無軌道振りともどこか違っていたあの先輩たちは、それでもすし詰めの学級編成、受験競争、学園闘争を潜り抜け、社会に入ってからは戦後日本のポスト高度成長、とりわけ「バブル景気」を土台で支え、そして「バブル崩壊」から「不良債権処理」までの泥沼の中で中核部隊として戦い抜いた歴戦の勇士なのである。

前にも投稿したことがあるが、小生は「団塊の世代」と呼ばれる先輩たちに、尊敬と郷愁をもっている ― 確かに騒々しくて閉口するような鬱陶しさを感じる時はあるのだが。

江戸幕府も三代将軍・家光になった時代、かつて戦いに明け暮れ、いまは老人になっていた戦国武将の粗暴な感覚と言動に、殿中の礼儀をわきまえた若い世代は眉をひそめたと伝えられている。

「世も末だ」と慨嘆されたその不作法ぶりが、いかにも「あの人たち」という感じがして、懐かしく思い出した次第だ。

小生も、高校生だった時分、学校に招聘された評論家・江藤淳氏の講演を聴いていたとき、居眠り位ならよかったのだろうが、退屈になった多数の生徒が私語・おしゃべりをするに及び、壇上の江藤氏から叱責されたことがある。その江藤氏も故人となり、小生も齢をとった。叱責されたことも、多少の縁であって、懐かしい思い出になった。

最近も「松坂世代」という言葉を耳にしたが、「△△世代」という言葉に社会レベルの内実が伴っているのは、やはり「団塊の世代」をおいてはなく、今後、多分野の社会科学的な研究対象にするとしても、十分意義があると思っているのだ。


2021年10月20日水曜日

断想: 古いものが残るところが日本の魅力だとすれば

東海道新幹線がまだ「夢の超特急」と呼ばれていた頃、小生は父の勤務する事業場がある伊豆の三島市で暮らしていた。いよいよ東京・新大阪間が開通して、三島から(まだ三島駅がなかったので)熱海乗り換えで東京まで1時間ほどで行けるようになった時、日本中が新幹線の最先端振りに誇りを感じたのだろうか、その頃の祝賀ムードはまだ記憶に残っている。中には『鉄道発祥の地イギリスの田舎ではまだ蒸気機関車が動いているんだぜ』、『ホントかよ!』などと、「昇る日本、沈む英国」を象徴するような大法螺もどこかで聴いたような覚えがある ― 本当にその頃イギリスの地方へ行くと蒸気機関車がまだ現役で走っていたのかどうか、調べてみたわけではないが、ずっと時が経過した後、イギリス人のAndrew Lloyd Webberが創ったミュージカル「スターライトエクスプレス」の中では、日本の最先端列車「新幹線」を排して、旧型の蒸気機関車が観客の拍手喝さいを集めるという筋立てだったことを思い出すと、本当にイギリス人は「蒸気機関」という技術に対してプライドをもっていたのだなあと、今更ながら思う。

小生が、某経済官庁に入って小役人の修行を始めたころ、ファックスが先進的な通信技術であった。共同通信から24時間送られてくるファックス・ニュース。シュウシュウと音を立てながら吐き出されるファックス紙には、刻々と最新の情報が印刷されていたのだが、大学では目にしたこともなかったその風景に小生は脅威を感じたものだ。ジョン・レノン暗殺事件を知ったのもそのファックス・ニュースによってだ。

いまやファックスは時代遅れの技術の象徴であるが、ここ日本ではまだ現役である。小生の両親が眠っている霊園とのやりとりはファックスか電話に限定されていてメールは利用できない。季節が来ると予約の有無を問い合わせてくる三笠市の山崎ワイナリーもファックス送信用の注文書を封書で送ってくる ― さすがにここはメールでも注文を受け付けているが。

ファックスばかりではない。買い物ではやっと電子マネーが増えてきたが、近所のスーパーのレジではまだ現金で支払っている人が多い。それも高齢者に限らず若い人を含めての事である。戸籍謄本を遠方から取り寄せたい場合、申請用紙をダウンロードして印刷し、紙に記入してから封書で送る手間をかけている。

昨年の「特別定額給付金」という名称だったかナ、オンラインで申請した内容を東京都内の某特別区では一度プリントアウトした後、記入の誤りがないかどうか担当者が読み合わせをして、それをクリアしてから給付手続きに入ったそうで、オンライン申請は人手がかかるので紙で申請してくださいという笑い話のような要請を区民にしたそうだ。

そんな情況をみて、中国や韓国の国民が日本社会の古臭いモタモタぶりを嘲弄していたと耳にすることが多い。これは丁度、小生の少年時代、日本人が遅れた英国人を嘲弄したのと同じことだろう。

その英国にも、日本は労働生産性や実質賃金上昇率、経済成長率など多くの指標で再逆転されてしまっている。20世紀後半の50年間の蓄積があるので、遺産を食いつぶしながら、まだ経済規模では英国を上回っているが、このままのペースでいけば経済規模でも再逆転されて日本の国力は明治から大正にかけての頃とそう変わらなくなるに違いない。


イギリスも古いものを残すことにこだわりがあった国だ。日本も、何でもそうだが、古いものが残る国である。

必ずしもそれが悪いとは小生は思わない。日本を訪れる外国人観光客、その中には中国や韓国の人もいるわけだが、多くの人は日本社会の魅力の核心として「古い文化がなくなることなく溶け込んで残っている」という点をあげる。

古い文物は100パーセント一掃して、すべて新しいものに切り替えれば、確かにその時代のトップランナーになることは出来る。しかし、そんな戦略を日本人は本能的にか、賢明にもか、あるいはノロくてバカだからか、拒絶するのだな。何だかそこに日本人に対して海外が感じる安心感、というか魅力があるようでもある。つまるところ

与えるものは愛され、勝利を求めるものは愛されず

人間社会の鉄則はいまも生きているのかもしれない。

盲腸は手術をして切り取ってしまえばいいわけでは必ずしもない

これはずっと昔、近所の医師から聞いた言葉だ。そのお陰で、一夏のあいだ虫垂炎で苦しみながら、小生の腹の中にはまだ盲腸が残っている。

不要になったものがまだ残っている。が、残りはしたが目に見える実質的な機能はもう担っていない。「盲腸」にまで退化している。この点こそ、最も大事な着眼点であろう。


2021年10月19日火曜日

一言メモ: 「小選挙区制」は日本の政治状況に適していないのでは?

昨日、今日と、次の衆院選に向けて与野党党首討論会(?)が相次いで催されているようで、TVでも発言のサワリを切り取っては放送している。が、どこも似たりよったりで「この際だからいいでしょう」と言いたげな《ばら撒き公約(?)》を語っており、いかにも「国政選挙」にふさわしいレベルの議論はサッパリ出てこんネエ、と。そう感じるのは小生だけだろうか?

そもそも、現在の日本の衆院選は小選挙区で当選するのは1名である。マア、比例代表制も併用されているので、与野党合わせて幾つあるのだったか、5党か、6党か、数えもしなかったが、確かに多数党が並立してもよいことはよい。しかし、現在の衆議院の定数は465人で、うち289人が小選挙区、176人が比例代表になっている。やはり小選挙区制がメインとなっている。実際、政治的影響力をもつ有力な議員はどの人も小選挙区で当選している。

比例代表制で投票するなら、確かにどの政党に投票しても、自分自身の投票は集計された最終結果に必ず反映される仕組みである。多数の政党が党首討論会に参加することには意義がある。しかし、小選挙区では当選は1名。1名以外の政党候補者を記した票は「死票」となるのだ。


もしも全ての議員が小選挙区で選ばれるものとする。こんな場合、どんな結果になるかを考えることは結構重要だ。

  • 拮抗する2大政党であれば、死票は(よほどひどい選挙区割りでなければ)半分弱で済む理屈だ。確かに一理ある制度だ。
  • 小党が分立している状況ではどうだろう? 例えば政党の数が10党もある場合、小選挙区ではその中の1党のみが議席を得るため、概ね9割弱の票が死票となる理屈である。この理屈は各選挙区で成り立つので、全国で集計してもそうなる。日本人の9割弱は希望とは違う選挙結果に不満をもつだろう。つまり、小党分立で小選挙区制を採るのは明らかに不適切である。よく言われることだが、小選挙区制は2大政党制を前提していると言ってもよいだろう。それでも死票は半分程度には達する。
  • もし支持率が4割前後あるガリバー型政党が1党あり、残りの6割を5野党(6野党でもよいが)で分け合っているとする。こんな状況では、全ての小選挙区でガリバー政党が勝ちを制する地滑り的大勝利を得そうである。支持率が半分に届かないガリバー政党が国会を舞台に何でも出来そうである。故に、ガリバー型の政党勢力分布でも小選挙区は適していない。
  • なお、ガリバー型状況下で「野党統一候補」を出すのは、上に述べた当たり前の結果を回避する野党間の妥協、というか取引である。もし文字通りの野党統一候補を全選挙区に出せるなら、統一野党が勝つ確率が高い。が、どの政党の候補が統一候補になるかで野党間の妥協が整うかが問題になる。ロジカルに考えると、小規模野党の候補はせいぜい1名がどこかの選挙区に立ち、残りは主導権をもつ野党どうしの妥協と取引で候補が決まるはずだ。なぜなら小規模野党は小選挙区では(例外的な実力者でなければ)当選する可能性がないので、1名が統一候補となり当選のチャンスが得られれば、政権に参加できるだけで御の字であるからだ。やはり小選挙区制は小規模政党を淘汰しがちである。とはいえ、小選挙区制であっても野党が結集さえすればガリバー型政党に勝つチャンスは大いにある。
  • 小選挙区制の導入に熱心だった小沢一郎議員は2大政党形成か、野党結集か、方法論は多々あれど、大体はこんなロジックを頭に描いていたのだろう。

なるべく「死票」を出さないことが民主主義では大切だ。この点を重視するなら、小選挙区はあまり良い選挙制度とは言えない。

よく「比例代表制」が中途半端な選挙制度であるという批判をみるが、たとえばドイツでは比例代表制で各政党の議席を決定するという「比例を主とする小選挙区制」を採っている。フランスは小選挙区だが、決選投票のある2回投票制をとっている。イギリスは典型的な小選挙区制だが、勢力分布としては保守党と労働党との2大政党制に近い。小選挙区制を採るリアルな根拠がある国が英米である。

日本は比例代表制を併用しているが、小選挙区制の方にウェイトがある。総選挙が迫りにわかに「野党統一候補」などと言ってはいるが、野党間の政策合意は断片的で、実際に政権を得た後にどんな基本方針をとるのか不明である。そもそも《公約》などは守られないものである。日本で2大政党制が実現する時は、共産党勢力が消失し、自民党が保守とリベラルに分かれるまで来ないだろう。それまではずっとガリバー型が続くと予想している。

日本は典型的なガリバー型の政党分布にある。小選挙区制を主とする選挙制度は(本来は)実態に合っていないと結論してもよいのではないだろうか。

もし比例代表制を主とするなら、自民党+公明党で衆議院の3分の2超の議席を制するのは難しいのではないか? たとえ自民党であっても「非常に強力な政党」の地位を維持することは難しくなるのではないか? おそらく選挙のたびに(自民党を軸とするケースが多いだろうが)新たな連立政権発足に向けて政党間協議、政策調整が繰り返される情況になるのではないだろうか? たかだか一つの党の総裁である総理大臣の裁量で国会を解散するという事態もむしろ減るのではないだろうか? 政治が行き詰れば、内閣は単に総辞職をして、新たに政党間協議が行われ、新内閣が形成されるのではないか? 国会議員は誰もが士気を高め、意外な若手が登場する機会もむしろ増えるのではないだろうか? こんな、ある意味《イタリア的政治》への方向が日本にとって悪いことだとは思えない ― 天皇の役割を新たに考え直した方がイイかもしれないが、これには(当然)憲法改正が必要になる。

2021年10月17日日曜日

断想: 江藤淳『海は甦える』を再読して

社会がどう変わっていくかは、数名の政治家やエリートが何をするかではなく、国民全体の経済状況や科学技術の活用、さらには国民意識や価値観が決めていくものであるし、現にそうであるというのが、いわゆる民主主義的な世界観、社会観、歴史観だと括っても間違いではないはずだ。例えば、トルストイの『戦争と平和』は、こんな世界観で展開されている(と言われている)。小生は、いわゆる「ドストエフスキー派」で、トルストイの作品にはどうにも没入できないので、真面目な読者ではないが、伝えられるこの社会観にはまったく同感なのだ。

ところで今読んでいるのは実に旧い本で、江藤淳の『海は甦える』、その第2巻なのだが、裏表紙を開いた余白には亡くなった父が「52年11月6日 了」と書き込んでいる。もちろん昭和である。父が亡くなったのは比較的若い年齢であったから、もう44年も昔の書き込みだ。

実は、その中にこんな下りがある。日清戦争後に露仏独が日本に加えた<三国干渉>を当時まだ存命中だった勝海舟が批評した言葉で、引用しているのは筆者の江藤淳だが、小生もずっと以前に『海舟座談』で読んだ記憶がある。少し長いが覚え書きまでに引用しておこう:

今の大臣で そうろう なぞ言うて、太平無事の時は空威張りに威張り散らして、少し外交のことがゴタリとすれば、身振るいしてじきに縮み込む先生ばかりだから実に困るのだよ。見なさい、遼東半島還付のあのざまはどうだね。そのくせ伊藤さん(=伊藤博文)や陸奥などが、生意気なことをしゃべくるのが片腹痛くてたまらないのよ。・・・

講和談判のときかエ、あのときはおれの塾にいた陸奥宗光が外務大臣として衝に当たっておった関係もあり、かたがた当局へ一書を呈して注意したわけサ。おれの意見は日本は朝鮮の独立保護のために戦ったのだから、土地は寸尺も取るべからず。そのかわり沢山に償金をとることが肝要だ。もっともその償金の使途は支那の鉄道を敷設するに限る。ツマリ支那から取った償金で、支那の交通の便をはかってやる。支那はかならず喜んでこれに応ずるサ。今日にしてこの敷設をなさざれば、他日1マイルの鉄道を布くこともかならず欧米の干渉を受くることとなるよ。この何億という償金が日本に来たときは、軽薄な日本人のこと、かならずや有頂天になっていたずらに奢侈に耽り、国が弱くなるばかりだよ。ところがこのことも、お天狗の連中から一笑に付せられて、ご採用がかなわったわけサ。戦争に勝っても、国内の驕りが今日のごとくでは、輸入超過で2,3年のうちには元の木阿弥さ。それで国人は驕り、外国からは嫉まれ、経済戦では敗北し、八方ふさがりだよ。

日清戦争(それと日露戦争)の当時は、幸にして莫大な償金を原資にして日本は(金銀複本位ではなく本格的な)金本位制度を採用し、グローバルな国際金融ネットワークに入る途を選んだ。また、勝海舟が批判するほどに当時の政治指導者は浮かれていたわけでもなく、概して明治から大正期にかけて、日本の国際外交は独善を排する協調的な傾向を一貫させていた(とまとめてもよいだろう)。

むしろ海舟の批判は、大正3年(1914年)から7年(1918年)まで続いた第一次世界大戦による空前のバブル景気と、国際収支黒字基調の定着、戦後の国際連盟設立で「世界の5大国」に認知される中で、日本国内に浸透した「日本型の大衆民主主義」が醸し出す国民意識に対して、より適切に当てはまったのではないかと、感じる。 

ラッキーなことに日清戦争当時は、日本国内の庶民がいくら浮かれても、その集団が国を動かす政治的影響力を発揮するまでには至っていない。戦前期・日本では議院内閣制が採られず、国会は多数派政党が支配するものの、行政府のトップである総理大臣は天皇の大権によって指名されていた。まだまだ非民主主義的なお国柄であったから、日本は国を誤ることがなかったと、そうも言えるかもしれない。戦後日本の民主主義を理想とする人たちは飛び上がって怒るかもしれないが・・・

このように考えると、ごく数名の指導者の責任観と洞察力で国全体が間違った方向へと進まない、浮かれ騒ぐ一般庶民に対する防波堤になることで歴史が形成されることもある、そんな歴史観もやはり成立する余地がある。引用した下りを読むと、こんな感想ももってしまうわけだ。

実際に、日本で(男性のみであるが)普通選挙が導入されたのは大正から昭和へと移る境目である大正14年(1925年)のことだ。その後の日本の政治史が惨憺たるものであったことは周知のことで、昭和7年(1932年)に犬養首相が海軍青年将校たちに狙撃・暗殺されたときも、一般庶民は腐敗した(と煽られて信じた)政治家の暗殺を評価し、犯人の助命を嘆願する署名が当局に殺到し、新聞にはそんな世論を支持する記事で溢れかえった。

これが《ポピュリズム》なのだが、こうした事例をみるにつけ、「堕落した民主主義」よりも「理想の君主主義」のほうが善い社会であると(小生には)思われる。もちろん「堕落した君主主義」よりは「理想の民主主義」の方がよいことは当然だ。意見が分かれるのは、「理想の民主主義」と「理想の君主主義」と、このどちらが善いかだろうが、多分これには正解がない。これはもう、その人その人の好きズキなのだと考えているが、著名な政治学者・丸山真男が言った(と記憶している)『民主主義に期待できない美点は優雅というものだろう』というのはその通りかもしれないし、そもそも日本人が誇りとする<サムライ>や<武士道>も、非民主主義であった旧い日本社会を前提にして日本人が磨き上げてきた日本人のロールモデル、いや日本人の理念型なのであり、行動倫理である。戦後の民主主義・日本がこのさき成熟して行くうえで、生きたサムライが求められているのかどうか、非常に疑わしいと思う。

しかし・・・どんな生き様が美しいと感じるか?これは理屈ではなく感性の問題であって、多くの日本人が共有している感性は、やはり長い歳月を通して何世代も伝えられ、受け継いできたものである。「サムライなんてもう古臭い」と言う人がいても、多くの人が古くてもいいと思うなら、社会の感性は変わらないのである。この変わらないものが《伝統》であり、《文化》だろうと思うのだ、な。確かに「ガラパゴス化?そんなものはクソくらえだ」と見栄を切るのはそれ自体が「間違っている」とは言えない。《美意識》がかかっているからである。

本当に日本人は民主主義という理念に美意識という点からも共感しているのだろうか?民主主義の社会は、損得勘定と一体となって運営されるものであるし、常に政党・結社があり、互いに抗争し、政略をめぐらし、権力闘争をするかと思えば、妥協をする社会なのである。こんな社会が清らかな社会であるはずはない。「君主」がいないというこの一点が本質である。民主主義・日本の基盤となる日本人像を日本人はまだ見いだせていないのではないだろうか?見いだせていないからこそ、「日本国と日本国民統合の象徴」をわざわざ憲法に明記する必要性があるのではないか?だとすれば、日本人の心理の根っこは、明治維新で憲法に明記された天皇制の頃と、あまり大きく変化はしていないことが分かる。


2021年10月13日水曜日

ポスト・アベノミクスは変わる国際環境の中で考えるべきだろう

今日の投稿は岸田新内閣発足をきっかけにした経済テーマ3連発の最終回になる。

アベノミクスをどう観てきたかについては前々稿に書いている:

小生はアベノミクスは失敗だと考えている。それは、格差拡大を放置したから、という野党が掲げる理由からではない。そうではなく、

安倍政権は多くの規制を温存し、ニュービジネス成長の機会を奪ってきた

多くの規制を温存したのは自民党の《党益》の基盤であるからだ。

いわゆる《岩盤規制》には<特区>で形だけを整え、肝心要の労働市場改革は政府主導の賃上げ要請でその場しのぎを続けてきたわけで、アベノミクスの成長戦略については「論評に値せず」というのが小生の感覚だ。 それでも株価は好調であった。それは「アベノミクス=超低金利政策」であり、

海外でビジネスをする企業は利益を増やせる

一口で言えば、そんな構造を国内では定着させてきたからだ。高生産性の製造業は海外に流出し、低生産性の第3次産業が国内に残る以上、日本全体の労働生産性が停滞し、そのため実質賃金も低下し、流動化を免れた正規社員の処遇が守られる一方で、非正規就業者に経済的低迷がしわ寄せされてしまったのは当然の理屈である。

ごく最近年になって日本の農業が輸出産業として脚光を浴び始めているのは、新産業の成長が阻害されていることで製造業の主力が従来製品の国際競争力を維持するため海外へ移転し、残った国内製造業の平均生産性が低下した。その裏返しで、農業が結果として比較優位を強めたということであって、この二つのプロセスは表裏一体のロジックにある。この辺の理屈については、ずいぶん以前にも投稿したことがある。

要するに、日本では成長の停滞と分配の不平等がシンクロして進行してきたということなので、成長戦略に手をつけないまま、分配の公平を実現しようとしても、それは「みんな平等に貧しさを」という戦略にならざるをえないのだ、な。『新自由主義によって格差が拡大した』という野党と一部マスコミの主張が真実ならまだマシというものなのだ。海外では確かにそうも言えるが、この日本についてはそうは言えない。そう認識する方が本質に近い。

最近10年間程度の国内経済を小生はこう観てきたのだが、Wall Street Journalは少し違うようだ。

先週、岸田氏が安倍晋三元首相の成長促進政策の一部を撤回する可能性を示唆し、市場は大きく反応したが、その理由は容易に想像がつく。安倍氏が2012年に首相に就任し、財政出動、金融緩和、構造改革を3本柱とする「アベノミクス」を打ち出して以来、日本の株式市場はアジアで最高のパフォーマンスを上げてきた。1株利益(EPS)の増加がけん引役となり、TOPIXは2倍超に上昇した。外国人株主の比率も2012年の26.3%から拡大し、今年は30.2%に達している。これは、コーポレートガバナンス(企業統治)改善の兆しと、投資家に優しい規制環境が後押しした結果だ。

Source:Wall Street Journal(日本語版)、2021 年 10 月 12 日 01:52 JST 

確かにアベノミクスは、財政出動、金融緩和、構造改革の3本柱で成り立っていた。しかし、現実には「財政出動+金融緩和+構造改革」ではなく、「財政出動 or 金融緩和 or 構造改革」であり、結果としては「金融緩和」のみであったのが実態だろう。そうすれば、企業は儲かるに決まっている理屈で、WSJの認識に間違いはない。しかし、企業利益の源泉のより多くは海外であって、日本国内の生産性は低迷した。それでも完全雇用を達成したのは、低い賃金と低生産性のサービス産業がヒトを吸収したからである。雇用者数が増えても、生産性は低迷し、賃金は増えないために、共稼ぎを余儀なくされ、夫婦二人が働いてやっと生活ができる。そんな国民生活が広まった。これでは、生活水準がまだ低かった昭和30年代のほうが、まだしもみな幸福であったに違いないと小生は思うが、違うだろうか?

ただ、Wall Street Journalの次の下りには賛成だ。

格差の拡大に目を向けることは重要だが、高齢化が進み、何十年にもわたって成長が鈍化している日本では、成長と生産性の向上に重点を置くべきだ。日本企業は2兆ドル(約226兆5200億円)の手元資金を抱えているが、これは新型コロナウイルス感染拡大が始まって以来、さらに膨張している。

 競争とガバナンスを強化し、より生産性の高い投資を奨励する政策は、企業に賃金引き上げを強要したり、先進7カ国(G7)の基準では既に富の分配が比較的平たんになっている国で直接的に再分配しようとしたりするよりも、おそらく労働者を助ける効果が高いだろう。

しかしながら、前々稿とは事実認識がやや異なっている。寄り道になるが、この点を補足しておきたい。

 先進7カ国(G7)の基準では既に富の分配が比較的平たんになっている国

これはつまり日本のことであるが、WSJは以下のように認識している:

 国内総生産(GDP)に占める雇用者報酬の割合は、2019年には56%となり、2000年代前半のどん底からはわずかに上昇したものの、1990年代後半の約60%は大きく下回る。こうした低下傾向は、中国や米国など多くの他国でも観察されている。だが経済協力開発機構(OECD)によると、日本の所得格差を示すジニ係数は、2018年には0.334と、米国や英国などに比べはるかに低水準にとどまっている。

労働分配率は世界的に低下傾向にある。この中で<相対的貧困率>という尺度では日本の不平等は世界の中でも憂うべき状況にある。しかし、WSJは<ジニ係数>をみている。このジニ係数では、日本の不平等状態はまだマシだ、と。しかも、社会保障給付などによる再分配後の所得で見ると、日本のジニ係数は最近15年間を通して低下トレンドにあり、平等化してきている。どうやら、この辺の事実に着目しているようだ。

URL:https://www.mhlw.go.jp/stf/wp/hakusyo/kousei/19/backdata/01-01-08-09.html

少し時点は遡るが、日本のジニ係数を国際比較した資料もある:

URL: https://www.stat.go.jp/info/today/053.html

確かに、1980年代半ばから世界のジニ係数は上昇(=不平等化)トレンドをたどってきたことが分かる。その中で、日本の不平等度はそれほど高いわけではないのも事実だ。

ただ、上の図でも見るように、当初所得の分配において、日本のジニ係数も最近年になって非常に悪化したというのが事実であることに違いはない — 安倍政権になって、その当初所得のジニ係数もそれまでの上昇から低下へと転じているのは見過ごせない事実だが。

コロナ感染対策の国際比較を行っても明瞭な違いが視られるが、やはり近年の日本人の最大の弱点は《過剰なリスク回避》に陥っている点だろう。

ことビジネスに関する限り、中国、韓国、欧米、インド、その他の諸外国が、アグレッシブでシェア略奪的な拡大投資戦略に打って出る、つまり経営戦略で言う《Top-Dog Strategy(勝ち犬戦略)》で攻勢に出てきた時、その標的になった日本は、身を切って応戦するだけのコミットメントを出さず、<懸命>ではなく、ある意味で<賢明>であろうとし、戦略的代替関係のセオリー通りに競争を避け、戦いを避け、むしろ競争のないオンリーワンであろうとし、高付加価値少量生産を志向するリスク回避戦略を(例外的起業家はいたものの)大勢としてはとってきた。 日本企業に目立つこんな<リスク回避戦略>を一貫して採用することによって、日本国内の創造的破壊が鈍り、その反対側で海外のライバルがどれほど日本企業の基本戦略を好機として、拡大投資を加速し、市場を奪い、最近20余年ほどの間に日本がどれほどの経済的損失を招いてきたか、もう計り知れないだろう。

であるので、

より生産性の高い投資を奨励する政策

この方向は、現時点において《最良の経済政策》であるのは間違いなく、この点ではWSJの課題認識に大賛成なのだが、この9年間(=8+1)のアベノミクス下でも国内投資に臆病であった日本企業が、岸田内閣に変わったからといって、そんな積極的投資に方向転換するはずがない、と。小生にはそう思われるのだ、な。昨日まで臆病であった慎重居士が、担任の先生が変わった途端に、積極果敢なリーダーになれるとは思えない。

ところが足元の情勢をみると、対中国関係の悪化による国際環境上のリスクが高まりつつある。加えるに、岸田政権になって日本国内の最低賃金が引上げられる可能性も高まる。どうやら石橋を叩いても渡らない臆病な日本企業であっても、生産拠点の国内回帰、効率化投資の実行、労働生産性上昇の三つを実現することに(ようやく)本気になるのではないだろうか。そんな見通しが出てきた。

ポスト・アベノミクスは、米中対立の継続、日中関係の悪化、日韓関係の悪化、軍事リスクの高まりという国際環境の変化の中で、高生産性分野の海外流出に潮目の変化が生じ、それと合わせて国内の賃金引き上げが進み、それによって労働節約的なAI、ICT投資が加速する。そうして職場の効率性が向上し、労働生産性が上がり、賃金上昇のトレンドが定着する。これが今後しばらくの基本的なロジックだと考えている。経済成長はすべて賃金の上昇につながらなければ息切れするものである。


2021年10月10日日曜日

ホンノ一言: 「新しい資本主義」は中々良い理念だと思うが

岸田新内閣の理念『新しい資本主義』が不評である。

現時点においてベストの政策かどうかには議論の余地があるが、決して悪くはない、中々イイ線を行っているのではないかと小生は思う。

安倍内閣が新自由主義的な経済政策を推し進め、そのために安倍・菅政権9年間で所得分配の不平等度が大いに上昇したという指摘は、前稿でも記したように、単なる思い込みであって、データと合致しない認識だ。

世評とは異なり、安倍内閣が実際に実行したことは、新自由主義とは矛盾した様々な規制の温存であって、結果としては「相対的貧困率」で測った所得格差は、むしろそれまでの上昇から転じて低下へと向かってきている。

ただ、そうだとしても、日本の経済格差が他のOECD加盟国と比較して相当ひどい状況になっていることは事実である。この日本で「新自由主義」に基づいた経済政策が真の意味で推進されてきたという言い方が的を射たものであるのかどうかは、《労働市場の硬直性》をみるだけでも、小生には大いに異論があるのだが、いまや《分配の不平等》が解決するべき問題として実存するという認識は間違ってはいない。その通りだ。例えばの資料として(やや古いが)以下を引用しておく:

URL:https://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/h23honpenhtml/html/zuhyo/hyo1202.html

日本の格差拡大は、確かに相当酷いものがあると言わなければなるまい。もはや「一億総中流社会」という言葉は死語であって、そんな時代がかつてあったというのは、「闇市」や「狂乱物価」と同じく「歴史上の事実」となり、記憶の中にしか存在しない。不平等度が日本でも上昇へと転換したのが欧米諸国と同じく1980年代半ば、ということは既に40年近きに及んで経済格差は拡大を続けてきたわけである。その間、日本の主問題は平等よりは、むしろ成長を取り戻すことであった。その成長には欠かせない決め手を断行することに日本は余りにも臆病であった。こうなってしまったのは「むべなるかな」である。


他方、野党が言うように、安倍内閣の経済政策でもたらされた結果は(単なる?)株価の上昇であって、それは資産格差をますます拡大させるもので、不平等を一層加速させるものであった、という言い方は経済理論としてはおかしい。

アベノミクスは、要するに低金利政策、というよりゼロ金利政策の継続だった。金利を引き下げれば資産収益に変化がなくとも全ての資産価格は上昇する理屈だ。故に所得分配には何も変化がなくとも、ゼロ金利を維持すれば資産評価額は上昇し、資産分配の格差は拡大する。

そもそも低金利政策は、ビジネス継続や起業にとっては優しく、住宅取得や教育支出を支援する。反対に、「高等遊民」というか金利生活者にとっては決して有難くはない政策なのである ― たしかに上昇した株を売却すれば譲渡益は生じるが、売却した時点で金利・配当収入はゼロになるのだ。所得を得ようとして再投資をするなら、高騰した資産を買い直すことになる。株価も地価も上がっているのだ。実質的なメリットは実は大きくはない。低金利による株価上昇をもって、富裕階層が利益を得て格差が拡大したと説明するのは『車が坂をのぼるとき、後席に座っている人が前席の人より頭が低くなって、前方を見づらくなる』という苦情と似ている。

この辺のことはKrugmanもNew York Timesに書いている。

安倍政権下の低金利は確かに株価上昇をもたらしたが、拡大した経済格差は株価上昇ではなく、株式配当・譲渡益の(一律)20%分離課税によって税負担率に天井が形成されるという税制上の不備からもたらされた所が大きい。岸田内閣は(安倍・菅内閣とは違って)この点にも目を向けている。「すぐには手をつけない」と語っているそうだが、さすがに財務省との縁が濃い宏池会の内閣だ ― むしろ税制上保護されている高所得層の税負担率を上げる仕事は、それこそリベラル系野党の仕事であるはずだが、日本では不思議なことに自民党の政治家がこれを実行したいと語っている、まるで野党は要らないと言いたげでもある。いずれにしても、こうした点も含めて、岸田内閣の経済政策は中々良いのではないかと(小生は)思っている。

経済政策がもたらす結果は印象論ではなかなか把握できないものだ。

「中流社会日本」が日本の強みであると意識してきたからこそ、平等を守ろうとして、成長を犠牲にした。そのしわ寄せが非正規就業者層に集中してしまい、平等は正規社員内部での平等へと退廃してしまった。いま「不平等社会日本」が紛れもない現実の日本であると自覚すれば、その時には平等には目をつぶってでも成長を心底から願望するであろう。成長を真に求めるからこそ、トリクルダウンも底上げも実現できる理屈だ。

小生のホンネはこんな感覚なのだが、まだまだ、日本国民の総意としては「中流社会日本」を取り戻すことであるようだ。その意味では、岸田内閣の政策理念は間違いではないと思う。




2021年10月6日水曜日

マスコミはアベノミクスがもたらした結果から目をそむけたのか?

カミさんの習慣で視ている朝のワイドショーだが、今日のテーマは「親ガチャ」運・不運論だった。要するに、子供は親を選べない。どんな人生を歩むかは親次第。「浮世は、所詮、不条理そのもの」という若年世代の嘆きをとりあげるものだった。

まあ、先ずは公立小中学校、公立高校の再建、国公立大学の授業料引き下げ、給付型奨学金の拡大、学校の多様化。この辺りの提案かな・・・と。

大体は、どんな話をするのか分かるわけで、予想を確認するくらいのつもりで視ていたのだが、中に「ン!」と注意をひくグラフが出てきた。

それは日本の相対的貧困率(=可処分所得がメディアンの1/2未満である世帯員の割合)の年次推移を示す折れ線グラフである。TVとまったく同じグラフではないが、厚労省が公開している図を下に載せておきたい。



相対的貧困率の推移をみて「オヤッ」と思ったのは、野党が格差拡大の元凶だと攻撃のターゲットとしてきた安倍政権の経済政策、つまりアベノミクスだが、相対的貧困率は安倍前首相が登場した2012年以降、実はそれまでの上昇傾向から低下傾向へと転じているのだ。

この事実は、実は、小生も初めて気が付いたことである。つまり、
安倍政権登場以降、日本の相対的貧困率はそれまでの上昇から転じて、低下傾向を示し始めた。

民主党政権はこれをこそやりたかったのではないのか。

それにしてもというか、安倍・菅政権9年間の格差拡大を指摘するために使ったグラフであったのだが、すぐに分かるなだらかな上昇トレンドはともかく、安倍政権登場後にトレンドが下降に転じているという明白な事実を誰も言わないのは、実に奇妙であった。

小生も、つい日本のマスメディアを信頼していたので、自分自らこれに関して情報を探索する努力を怠っていた。日本国内のマスコミはどの社も上の事実を報道してはくれなかった。そのために小生も無意識に事実誤認をやってしまっていたのだ、な。

剣呑、剣呑・・・


しかし、よく振り返ってみると、この事実の意味合いは小生はすぐに納得できる気もしたのである。

所得格差が縮小傾向から拡大傾向へと逆転したのは、よく言われるように、1980年代からであって、英国のサッチャー首相、米国のレーガン大統領の登場を契機とする《新自由主義》の台頭が背景にあると言われている。

もちろん単に政策思想が変わったことを直接的原因として、社会全体の経済格差が現実に上昇したり低下したりすることはあり得ない。具体的な、何かが原因となって、格差は決まっていくものだ。

1980年代以降に世界全体で進んだことは、それまでの一律的な公的給付から「官から民へ」という民営化が進行したこと、それとIT産業を始めとするニュービジネスの成長、そして自由な資本移動を通した経済のグローバル化。この3点が挙げられる。

産業の発展は古い産業の衰退と新しい産業の成長と。この新陳代謝が長期的かつ重層的に進行することで実現する。このプロセスの中で、経済的勝者と敗者が分かれる。その結果として、格差は拡大するのである。19世紀を通して欧米の所得格差が拡大し続けたのは、産業革命、つまりは近代化の必然的な結果である。これとほぼ同じロジックで、1980年代から90年代、2000年代にかけて、経済格差が拡大してきたものと理解するべきだ。

この動きが、実は安倍政権登場以降、逆転している、この日本では。いや、驚きました。ビックリしましたが、改めて納得もできるのである。


小生はアベノミクスは失敗だと考えている。それは、格差拡大を放置したから、という野党が掲げる理由からではない。そうではなく、

安倍政権は多くの規制を温存し、ニュービジネス成長の機会を奪ってきた

多くの規制を温存したのは自民党の《党益》の基盤であるからだ。医療・保健もそう、農林水産業もそう、教育・トレーニング・学校ビジネスもそうである。電波、放送もそうであるし、広報宣伝産業の寡占構造も甚だしい。すべて日本のICTビジネスから成長機会を奪っている。アメリカがアメリカの強みであったGAFAの弊害を追求する何分の1ほどでも日本で議論しているだろうか。この点で、小生はアベノミクスには否定的である。実際、<自民党をぶっこわした小泉政権>の時代、相次いで現れたニュービジネスの旗手が、安倍内閣時代にはサッパリ出ては来なくなった。企業は、日本ではなく、海外でビジネスを展開するようになってしまった。

この感覚と、安倍内閣登場以降、日本の相対的貧困率は上昇から低下へと転じたという今日やっと気が付いた事実とは、見事に符合するのだ、な。 

安倍内閣は新自由主義によって格差を拡大させてきたのではなく、むしろ規制を温存し、より平等に停滞を受け入れる選択をしてきた

こう要約するのがデータに合致する。故に、アベノミクスは「ぬるま湯的」だと感じられたのだろう。


日本のマスコミは、大事な事実から目をそらしている。「報道しない自由」はマア多少はあるだろうが、程合いがある。その時の政権が現実に実行しつつある政策の結果を正しく伝えないというのは、「メディア」としての機能をもはや果たす意志がないからであろう。日本国内のメディア報道をもう信じてはいけない。そんな感想を覚える。



2021年10月5日火曜日

ホンノ一言: 論功行賞人事は「自然の理」だと思うのだが・・・

 ずっと昔から、世間の話しで分からないことがある。それは

論功行賞人事はよくない

という話しである。

新しく発足した岸田内閣にも論功行賞人事がうかがわれる、というので批判的に論じる人が多い。

なぜいけないのかナア?

という疑問がずっと昔からある。

例えば、民間企業の人事では、年功序列は(それなりの根拠はあったが)今では非合理な慣習として批判のターゲットになり、事後的な《成果主義》、事前に推測できる《能力主義》が良しとされている。おそらく、論功行賞人事がダメだという人は、<功>や<行>ではなく、<能>や<才>を評価基準にするべきだ、と言うのだろう。

まあ、実際に可視化された<功>や<行>と、その人の<能>や<才>とはまったく違うのだという見方も、結構突っ込みどころはあるのだが、マアマア、分からないでもない。

それならば、今回の岸田内閣では当選回数3回以下の若手をはじめとする初入閣者が多数指名されている。その人物たちにどれほどの「能力」や「才能」があると期待されるのか? どんな仕事ぶりをしてきた人物であるのか? そういう点に関心を集中させるのが理に適うのだが、どうもそれとも違うらしいのだ。「そういうことではなく、選挙で争った大物をなぜ使わないのか」と。要するに、高市早苗幹事長、河野太郎官房長官のような布陣をなぜしかないのか、と。どうもこういうことらしく思われるのだ、な。


どんな分野であれ、その世界の「四番バッター」を総ざらいして獲得して、ドリームチームを編成すれば、当然ダントツだよね。負けるはずがないヨネ、優勝できるよね、と。人気も出るよね、無敵だよね、と。

何だか子供が考えそうな、「政界のオールスター」、「政界のオリ・パラ」を願望する心理が透けて見える・・・

しかしネエ、というのが小生の感想である。

政治は、ショーでも、エンターテインメントでもないし、単なる人気商売でもない。日本社会全体のマネジメントが仕事で、必ずしも事務手続きが定まっておらず、(内外の)利害対立や不確実性が基本にあり、そんな問題の(政治的)解決/方向付けを請け負うプロ集団が政治家であるのが理屈である。求められるのは政略や交渉力、決断力、勇気などの政治的対応能力であって、人気ではない。民主主義社会では人気はいるが、人気一番である必要はない。人気はソコソコあれば十分で、過ぎればかえって束縛されて決断が鈍るだろう。この大原則を忘れて論評するのは、非常に滑稽にみえる。人気ばかりを論じれば、出てくるのは誰かサンのような<政治俳優>、<政治女優>である。

人気が高まるなら互いの見解が違っていてもどうでもよいというわけにはいかない。俳優や女優であれば脚本どおりに演技して話芸を見てもらえばいいが、政治家はもう少し高等で中身のある仕事である。

「選挙」で勝った側が影響力を強め、負けた側は影響力が弱まる。これは民主主義社会(に限らず全ての人間社会)の原理原則で、ルールであるとすら思うのだが、どうなのだろう?

2021年10月3日日曜日

断想: 中国の話しをしてから日本共産党をどうみるかを記す

やや以前になるが、著名な投資家・ソロス氏が近年の中国についてWall Street Journalに寄稿しているのでポイントをメモしておきたい。順に要所を引用していくと:

習(近平)氏は世界の開かれた社会にとって最も危険な敵だと、私は考えている。

習氏は、鄧(小平)氏がどのように成功したのかを理解していなかった。

習氏は、鄧氏が中国の発展に与えた影響を打ち消すことに身をささげた。

習氏は極めて国家主義的であり、・・・また、中国共産党は、政治力と軍事力を駆使して党の意志を強いることもいとわないレーニン主義的な政党でなければならないと確信しており、・・・習氏は、自らが人生の使命とみなすことを達成するには、揺るぎない統治者であり続ける必要があると悟った。(中略)そのための最初の任務が、独立した権力を行使できるほど裕福な人たちを服従させることだった。

習氏は、富を築いた人たちを排除または無力化する組織的なキャンペーンに勤しんでいる。

習体制には抑制と均衡が入り込む余地はほとんどない。習氏は脅しで統治しているため、現実の変化に合わせて政策を調整するのが難しくなるだろう。彼の部下たちは、怒りを買うことを恐れ、現実の変化を伝えることができないからだ。このような力関係は、中国の一党制の将来を危うくする。

要するに、ソロス氏は

習氏は、毛沢東が優れた組織形態を発明し、それを自分が継承していると考えている。その形態とは、個人が一党制に従属する全体主義的な閉ざされた社会だ。それが優れていると考える理由は、より規律があり、強力なため、必ず競争に勝てるとの見方にある。

Source: Wall Street Journal,  2021 年 8 月 23 日 15:54 JST

言いたいことはこの点に尽きている、と思われる。

習近平のことは、小生は《現代に現れた王安石》だと観ていて、それは以前の投稿で記したことがある。

ある政体が成功を収め、社会が富裕になることによって、その政体の理念が毀損され、これを防ぐために有能な宰相が原点回帰を旨とする政策を強力に推し進める。しかし、それは既に形成されている既得権益層の資産を強奪する政治になるので、必然的に激しい派閥抗争を招く。

中国は、権力の高位にある階層が、(何故だか分からないが)日本の公家や武士とは正反対で、社会の富を独占する歴史的傾向がある。富も名誉も独占してしまう傾向があるのだ。但し、上層階級の全員ではない。そこには競争がある。そこで、富が蓄積・集中する過程の中で、格差が拡大し、当初は濃厚にあった一体感が失われてしまう。

それにしても、

その形態とは、個人が一党制に従属する全体主義的な閉ざされた社会だ。それが優れていると考える理由は、より規律があり、強力なため、必ず競争に勝てる

というこの部分だが、規律があり、統制のとれた社会が、開放的で民主主義的な社会を相手に、競争に(そして戦争にも)負けるはずがないというこの勘違いは、日本人も抱きがちな錯覚なのだ。戦前期・日本の帝国陸軍もそうだった。「個人主義的で自由を愛し享楽的なあのアメリカ人を相手に日本がまさか負けるはずはない。一撃して勝利しアメリカが戦意を失ったところで和平にもちこめばよい」という勘違いは、実際にアメリカを相手に戦った中で間違いだったと分かったはずだが、分かった所で後戻りはもう出来なかった。この種の勘違いは権威主義国家なら必ずもつに至る必然的な錯覚であるかもしれず、ずっと遡れば古代ギリシアの歴史家・ツキディデスが主著『戦史』の中で、スパルタに対するアテネの優位性を説いているのも、同じ主旨である。 確かに古代ギリシアの世界大戦であったペロポネソス戦争では、作戦ミスもあってアテネはスパルタ陣営に降伏したが、都市国家として最後まで生き残ったのはアテネであって、スパルタは覇権を握るやいなや退廃が始まり、有為転変の果てに消滅してしまった。

さて、現代の日本に戻ろう。

先日、自民党総裁の選挙期間中に某民放TVが野党に忖度したのだろうか、出席者を募って政談を行っていたが、共産党委員長・志位和夫氏が

共産主義社会を目指すことには変わりありません。(というより)今の資本主義社会が本当に理想的な社会だと皆さんは思っているのでしょうか?

このような意味のコメントを述べていた。

ヤッパリなあと、小生は了解したのだ、な。

確かに資本主義社会は理想の社会とは言えない所がある。しかし、「故に、共産主義社会を目指す」という結論にはならない。それは単にマルクスが19世紀のイギリス社会を観察しながら経済学を勉強して、そう考えただけである。資本主義社会が別タイプの社会に移行するとして、それがどんな社会になるかは、誰にも分からない。未来の科学技術など誰にも予想できないのと同様、社会のあり方もそうなってみなければ分かるはずがない。

そもそも《歴史の発展法則》という仮説そのものが、古臭い思想で、優生学思想や社会進化論が古臭いと同じ意味で、今では化石化した考え方である。

既に、社会主義の実験は中国ではなくロシアが理論的に忠実に実施済みであり、予想通りの経済的停滞に陥って破綻している。中国は、共産主義の前段階である社会主義の観点からみても、資本主義をミックスした非常に不真面目な社会主義国である。不真面目な社会主義を真面目な社会主義に戻そうと努力しているのが習近平である。しかし、真面目に社会主義を実現しようとすれば、ロシア(=ソ連)と同じ結果に至るであろうということは、ほぼ確実に予想できることだ。

価格メカニズムを停止させれば資源配分は非効率となり経済成長が毀損される。公平ではあるが、軍事的対立には耐えられない理屈である。必ず自壊する。

資本主義が理想であるとは思えない。この点には小生も共産党委員長に賛成だ。しかし、「だから共産主義社会を目指す」という結論には反対だ。共産主義社会は資本主義社会よりもっと悪い、権力的かつ硬直的な社会となる。

そろそろ100年以上も前のマルクスの経済発展理論から卒業しなければなるまい。現代経済学は、アダム・スミスはもちろんマルクスが手本としたリカードからも、その後に登場したケインズからも、そのケインズを批判したフリードマンからも、卒業している。

「共産主義」という言葉と理想が現代でも陳腐化せずに残っているのは、それが正しいからではなく、浄土思想の「南無阿弥陀仏」という言葉が、今でも苦悩する人々をひき付けるが故に、まだなお死語とはなっていないことと非常に似ている。

共産主義社会を目指すことに執着する共産党は、伝統を尊重する老舗のようなもので、知的成長を放棄している。進歩を諦めた伝統産業ならそれでもよいが、政党には常に現代性がなければなるまい。