2024年1月27日土曜日

断想: 「お任せ民主主義」は民主主義の終わりの始まりであるかも

日本の民主主義の歴史は短い。民主主義自体が、日本にとっては輸入文化である。

戦後日本も80年程が過ぎたいま、際立って目立つようになったのは<お任せ民主主義>という現代日本社会の特質ではないだろうか?

実は、明治維新直後に福沢諭吉は、『学問のすすめ』の中で士族以外の人たちに蔓延する「お客様気分」を批判している。旧幕時代は、朝廷、公家以下、農民、町人に至るまで、大事な事柄を武士にお任せする「お任せ封建社会」であったので、その惰性を批判したのである。そして『一身独立して、一国独立す』という大前提を何より強調した。自立自助のスピリットが何よりも大事だとしたわけだ。

自立自助のスピリットと「お任せ」依存ですませる気分とは、まさに正反対にあるメンタリティだ。理屈はそうなる。その「お任せ」依存が日本社会にはずっと継承されていて、日本人の体質になっているのかもしれない。最近、そう感じることが多いのだ、ナ。

実は、同じような問題意識は、またまた五木寛之だが『他力』の中の59節「問題は委任社会になったこと」でも述べられている。これを最近になって発見した時は、いささか驚いたものだ。

子供の教育に関しては、学校と先生にお任せする。そして、何か問題が起きたりすると、学校と先生に文句を言う。・・・学費は払っているし、国の税金は納めているから当然だという考えです。

個人の資産運用、財政の問題は銀行や政府に任せる。税金の使い道も役所に任せる。公的介護や福祉については、官僚に任せる。

・・・このように「任せる」ということは、自助努力というものを放棄する傾向につながっていきます。

そう。正に

Heaven helps those who help themselves.

天は自ら援くる者を援く

努力を怠る人を助ける人がいるはずがない、という当たり前の鉄則が(西洋民主社会の)歴史を通してあった。ところが、近年は色々な事で歴史に対するリスペクトを軽侮する風潮が高まって来ている。保守的な小生は、ここに危機感を覚えるのだ、な。

「自助努力」・・・小生は、実にその通りだと同感したのだが、「自己責任」という言葉に対する日本社会の根強い反感を想うと、意外と同感する人は少数派なのかもしれない。そういえば、国内メディアも何か問題が起きると、

ここは国が前面に出て役割を発揮していかなければダメだと思うんですよね

と堂々と発言する。そうして、国の仕事はどんどん増えて、増税へとつながる(理屈になる)。

小生が、同じように感じていたことを列挙すると

  • 納税は源泉徴収で会社にお任せ。
  • サラリーマンでなければ税理士にお任せ。
  • 政治は「万年与党」たる自民党(と公明党)にお任せ。
  • 情報はマスメディアにお任せ。
  • 国会議員は会計を会計担当にお任せ。
  • 業界団体に会費を払って、あとの寄付行為は団体にお任せ。
  • 子供のしつけと教育は学校にお任せ。

・・・もうキリがないというものです。

『ヒトの善意を信じてますから』と言えば筋は通るし、日本国憲法の前文にあるように

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

諸国民の公正と信義に信頼して、自らの安全と生存を期待してもよいわけである。


しかし、現実はどうか?

客観的な事実を虚心坦懐に観察するべきだろう。それがPDCAサイクルというものだ。


この問いかけに迫られるとき、

面倒な事はしたくはないし、忙しいので、そんな時間も暇もない。そもそも人に任せるのが何故いけないので?

こう思う人も多いかもしれない。「分業」は近代社会のエッセンスである。


ちなみに、アメリカでも所得税等の源泉徴収はあるが年末調整はないので各自が確定申告をすることが必要である。そうしないと還付税を受け取れない。

確定申告をすることで「納税感覚」なるものを具体的に体感できる、と言うのは最近になって分かった事だ。

自民党(と公明党)が万年与党となる体制が「自然状態」であると感じる心理があるからこそ、おかしな資金調達に応じる気分にもなる。使途を確かめる意志も持たなくなる。

税理士を信じれば、税理士の不正に気が付かない。

学校を信じれば、いじめの隠蔽にも気が付かない。

マスメディアを信じれば、自社都合の情報隠ぺいを見逃してしまう。

業界団体の幹部を信じれば、どの政治団体の政治資金パーティ券をどの位購入するか、いっさい無関心になる。

・・・

次々に露見している戦後日本の民主主義の不祥事は、民主主義を支えるはずの普通の日本人の《お任せ体質》にある。

そう思うようになっているのですね。

上に列挙した事は、本来は各自自分で行うべき「雑用」である。

  • 納税額は本来は自分で計算するべきだ。
  • フリーランサーも自分で確定申告書を作成するべきだ。
  • 「万年与党」たる自民党(と公明党)に任せず、新しい立候補者を育てるべきだ。
  • 情報が信じられるか、自分で調べるべきだ。
  • 国会議員は会計を自分でチェックするべきだ。
  • 業界団体の会計は自社でチェックするべきだ。
  • 子供のしつけと教育は親権をもつ親と地域社会が連携しながら自分で行うべきだ。
こういう<雑務>を効率化することにこそ、最近のデジタル技術の役割があるわけだ。

民主主義社会の理想を古代ギリシアの都市国家・アテネに求める意見は多い。古代アテネは奴隷が市民権を持たない点では近代社会と違うが、兵役の義務を負う(からこそ、でもあるが)アテネ市民は平等の投票権をもっていて、重要事項は市民全体が参加する民会で決められた。即ち《直接民主主義》である。裁判もまた、市民が裁判官となる《民衆裁判》であった。

君主政治、貴族政治に比べれば、民主主義は国民が面倒な雑務を引き受けなければならない。数多い選挙で投票をするのもその一つだ。君主や貴族がカネで雇う「傭兵」や「官僚」に「お任せ」するのではなく、国民が自分自身で国防に当たらなければならない。リスクの負担である。覚悟がいる。これはデジタル技術ではカバーできない。しかし、ここに「民主主義」の元々の意味があるのではないか。

《お任せ民主主義》は、超長期的には選ばれた指導層による政治へと社会が変容していく一里塚であると思う。

面倒で大きなことは、上の誰かに「お任せ」したい。危ない事なら、なおさらお任せしたい。保護されたい。指示を待っていたい。そして自らは「家来」、というか「平民」のような役回りを担当して、安穏に暮らしを立てていく方が、ずっと気楽である。心配事が減る。それが賢明というものだ。当たっていないだろうか?もし当たっているなら、すでに民主主義から自然に離れようとしている兆しだと思う。

民主主義を選択することは、一見するより、合理的ではなく、むしろ非合理的な情熱に動機づけられるものかもしれない。



君主制にせよ寡頭制、貴族制にせよ、社会の指導層には高いモラルが求められる。しかし、圧倒的多数の「平民層」のお任せ体質、お客様気分を変えて、広く自立自助の精神を育てる努力を続けるとして、果たして現代日本で実を結ぶのだろうか?むしろ相対的に少数の一流の人材を育て、彼らが高いモラルと責任意識を保持することに努力する方が、理に適うのではないか?

そんな風にも思えたりするのだ、な。

古代ローマは数百年続いた共和制を放棄し、君主を抱く帝国へと変容したことで、統一された国として長い寿命を保った。貴族層は、ストア哲学に錬磨され、名誉と責任意識を保持し、広大な帝国を運営する上で(時に権力闘争が続き不安定な時代があったにしても)信頼感を保つことが出来た。


見ようによっては
伝統的日本社会への回帰
そんな道筋を日本が辿っていく可能性はゼロではないと想像している。それでもなお、戦後日本体制は
アメリカ+天皇+保守勢力(≒自民党、今は?)
の三本柱で成立していると観ているので、(当分の間?)社会の安定は維持されるだろう。



2024年1月26日金曜日

ホンノ一言: 「京アニ事件」の判決について

またまた、ひろゆき氏が世間を騒がせているようで・・・と思ったのは、「京都アニメーション放火殺人事件」の公判で被告人S.Aに対して死刑が宣告されたことに関連して、「死刑になるための人を助けた医療関係者の努力を考えると、『死刑だから助けなくていい』という判断があってもいいような、、、」とSNSに投稿したところ、前新潟県知事の米山氏が「まず判決が確定するまでは死刑になるかどうか分かりません。判決確定後も、執行までは再審もあり得ます。それ迄は、被疑者・死刑囚としての制限は受けても人権を有し、病気は治療するのが法治国家です」という主旨の反論を加え、それで結構、論争になっている。

小生も今回の判決については

小生: 放っておけば死んでいたはずの主犯を必死に蘇生させて命を助け、助かったら今度は国家権力が『その方の罪は重大にして非道。斟酌するべき情状は認めがたし。よって死刑とする』って言い渡して、改めて法の名の下に死んでもらう。これはサ、ちょっと俺の感性には合わないナア。

 カミさん: 犯人に動機を聞いて、きちんと裁判をして、遺族の人もそれを聴きたいんじゃないの?

小生: いくら司法手続きがいるとか、社会にとって必要だと言っても、犯人が死を選ぶ自由を認めず、あくまで法を優先させて、その後になって国家が改めて犯人を殺すっていうのは、どれほどの悪人であっても人が持っている人権を国家が侵している。そう感じるけどネエ・・・

小生: そう思う人は少ないと思うヨ。

そんな話をしたところだ。

要するに、

犯人が被害者を殺害するという行為をとることによって他人の人権を侵したことは事実だ。しかし、だから国家はその人を殺してもよいという理屈はどこから出てくるのか?『時と場合によって、国家は人を殺してもよい』という思考から、正義のための戦争、自衛のための敵基地先制攻撃は、すぐに結論されて来るに違いない。

何度も投稿しているように、小生は死刑廃止を支持する立場に近い。そして、いかなる場合にも《戦争 << 外交》が政治の基本だと認識している。

ちなみにEU、英国では死刑が廃止されているが、例えば銃乱射事件発生時に犯人を現場で射殺する警察行動は(頻繁ではないが)時に報道されている。「緊急避難」の代理行為であると小生には思われるが、死刑廃止の法理と現場における(合法的な)射殺行為と、この二つがどんな論理で基礎づけられ、関連付けられているのか、一度調べてみたい問題だ。


判決文を詳細に読むほどの関心はないことを断っておきたい。単に感じた事を覚え書きにしておきたいだけである。報道によれば「36人を殺害したS.A.被告」と説明されているが、<36人の犠牲>という事後的結果に対して、被告人の行為がどの程度まで寄与したかという量的分析は精緻にされたのだろうか?小生は統計畑でメシを食ってきたのでどうしてもこの点に関心を覚える。


例えばアメリカで頻発している銃乱射事件、そうでなければオウム真理教による「地下鉄サリン事件」であれば、主犯が多数の犠牲者の死に対して(ほぼ)唯一の責任を負うと、疑いの余地なく明々白々に認識できる。

他方、「京アニ事件」発生当時の報道によれば、火災発生時に緊急避難するための非常口や非常扉が十分に確保されていなかった、そんな記憶がある。更に、廊下に敷いているカーペット等に可燃性(?)の高い繊維が使われていた、また螺旋階段で吹き抜けになっており火災に対して脆弱であった。そんな記憶もあるのだが、間違いだろうか。

仮に上の記憶が正しいなら、建物(と事務所)の火元責任者、安全管理責任者の油断が、結果的に非常に多数の犠牲者発生につながった。そんな仮説もありうるのではないか。


もちろん被告人の放火行為がなかりせば多数の犠牲者発生もなかった。この認識は正しい。しかし、被告人の放火行為があったとしても、もし十分な防火体制、緊急避難システムが備わっていたとすれば、犠牲者の数はどの程度になると予測されるか?類似の放火事例からある程度は推測可能ではないか?少なくとも議論は出来るはずである。

こう考えるとすれば、

完璧な防火体制の下で予測される犠牲者数=被告人の放火による純粋の殺傷効果

であって、 

事後的結果-被告人の放火による殺傷効果=防火体制等の不完全性による犠牲

こうとらえるのが理屈だろう。 少なくとも経済政策の効果を評価する際にはこうした手法を採る。

ここでは大分類された2種の要因だけで話をしたが、実際の議論においては大分類、小分類ごとに具体的な要因を列挙し、犠牲者発生に至る波及経路を議論しておく必要がある。こうした実証的議論を通して、初めて極めて多数の犠牲者が出るに至った真の原因を捕捉することが出来るはずである。


観察された事後的な結果に対して、被告人の放火行為と建物管理側の過失の両方が要因として挙げられるなら、結果の全責任を一人の被告人に負わせるのは道理に合わない。

小生にはこんな風に考えられますがネエ…、ま、門外漢の感想ということで。法廷では上の問題点もキチンと審理されたのでしょうから。

こんな事は書きたくありませんが、

どうせ死んでいたんでしょうから、改めて死刑を宣告されても、モトモトってものでしょう。ネエ、あなた。

死刑を宣するとしても、その分、気分が楽でありんした・・・そんな心理が奥底にあって、その分、因果関係の究明が粗雑であったとしたら、それこそ

人の命をなんと考えているのか?

と、「義憤に堪えざる」ところでございます。

2024年1月25日木曜日

断想: 五木寛之『百寺巡礼 奈良』に想う

小生は『一寸先は闇』という表現が大好きである。カミさんも同じ感性をもっている。というのは、カミさんが大学2年であった秋、父親がテニスに興じている最中に急逝したからだ。

楽しんでいる直後に物事って突然暗転するよネ

という会話をもう何遍繰り返してきただろう。カミさんの母親は癌で病身であったため大学をやめて帰郷したのだが、その母も間もなく亡くなった。実に人生というのは無常である。小生と出会ったのはその後である。

数日前の投稿でも『一寸先は闇』と書いた ― これが何回目になるか数えた事はないが。この元日に能登半島を襲った大地震と津波の被災者は、この世の『一寸先は闇」であることを改めて思い知らされたと、小生がここで書くのは余りに気の毒というものだ。

五木寛之の『百寺巡礼』は長いシリーズになっているが、今春に旅行を予定していることもあって、第1巻「奈良」を読んでいる。

五木寛之はそれほど多くの作品を読んできたわけではない。高校生の頃に『さらばモスクワ愚連隊』を読んでいるクラスメートがいて、小生も読み始めたのだが完読したのか、中途で放棄したのか、まったく記憶していないのだ、な。もちろん筋立ても覚えていない。多分、その時の自分には波長が合わなかったのだろうと思う。

その後、他力本願の浄土信仰について作品を発表していることは分かっていたが、若い時の感想もあって、読んだことはなかった。

久しぶりに作品を読んだのだが、ずいぶん好い風に枯れているナアと、感じた。そこでも上に書いた

私たちの一生は『一寸先は闇』である。

と書いてある。それで、へえ~っと思った次第。

生と死はつねに背中合わせにある。

まさにその通り、だ。

結局、宗教というものは、現実とは反対の「あの世」のことだ。それを神の国というか、仏の浄土というかは大した問題ではない。…現実というものは目に見える「この世」だけでは成り立たない、という真実である。

五木寛之は「非現実の世界」という言葉を使っているが、要するに「超越的世界」のことであり、「彼岸」という言葉と同じ意味になる。

私たちが生きている「世界」には超越的世界は存在しないものと考えて、現実から非現実を切り落とし、測定可能な対象のみで認識というものを考える「科学的世界観」を信仰する人がほぼ大半を占めるのが戦後日本の特徴だ。特徴というより、科学的世界観以外の世界観を採るべきではないというイデオロギーで意識統一しようという社会的努力を続けている、と言う方が正しいのかもしれない。

五木寛之は、しかし日本人の現実は必ずしも科学的世界観で意識がまるごと染め上げられているわけではないと指摘している。

そもそも

そんな科学的世界観は貧しい

と五木は言いたげである。世界観として貧しいというのは、人々を幸福にしないという意味だ。人間にとって究極の価値とは、真理でも正義でもなく、幸福だろうと小生は思うのだ、な。豊かでも幸福ではない。だから、である。

小生も社会科学から入ったので、若い時からとても唯物論的な思考をしてきた。その世界観と浄土信仰がどう両立するのかが分からなかった。互いに矛盾するようにも感じられてきた。が、最近になって認識論の上で両者が必ずしも矛盾すると考える必要はないということに気が付いた。何度か投稿もした(最近ではこれ)。

故に、五木寛之の『百寺巡礼』は小生にはとても分かりやすい。

今年は大河ドラマの影響もあって「初瀬参り」が人気を呼ぶかもしれない。奈良では長谷寺にも足を延ばして御朱印状をもらって帰ろう。


2024年1月22日月曜日

ホンノ一言: 潜在心理は何があっても変わらないものかもしれない

その国の国民の国民心理、無意識の潜在心理というものは、同盟関係など国際外交、マクロ経済状況、歴史的条件などで決定されるもので、そうそう簡単に言論や流行によって変化するものではないのかもしれない。


マスメディアと一口に言っても、一昔前はスポーツ新聞、芸能週刊誌、女性週刊誌は、報道というより娯楽に近かった。そこに「真面目な」記事が載っているとは発想しなかった。通勤電車やバスに乗っている間、退屈しのぎに読む面白い読み物として存在していた、というのが個人的な記憶である。

現在のネットは、その一昔前のスポーツ新聞のような役割を果たしていると、前にも投稿したことがあるのを思い出す。

小生、相当の偏屈者であるので、これも偏見かもしれない。が、下のような議論はどうだろう?

最近、ワイドショーでブレーク中の泉房穂・元明石市長と石原伸晃・元自民党幹事長の対談で以下の様なやりとりがあったよし:

石原:私も派閥の会長をやってましたけど、派閥はお金を配るために作っているわけではなく、私を総理総裁にしようとみんな集まってきてくれるわけです。『派閥は全部いらない、解消だ』と言っても、人が集まればグループは必ずできる。なんのためにグループを作るのか、高い志があれば、派閥があってもいいと思う。

泉:私としては、派閥は必要ないと思います。あと『企業団体献金』『パーティー』『現金での授受』の3つはやめたほうがいい。派閥だけの議論ではなく、『お金の力にものを言わせた政治』から『国民の気持ちを考える政治』への転換をすべき(です)。

Source: Yahoo!ニュース

Original: smartFLASH

Date:  1/17(水) 17:35配信

URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/e7f6170829c901c7d7332616042fa9246b1feb97

多くの人は、石原氏の発言は中身のない建て前、泉氏の意見は本筋をついた正論と思うのだろうナア、と。


しかし、石原氏の理想論はともかく、泉氏の

 『お金の力にものを言わせた政治』から『国民の気持ちを考える政治』への転換をすべき(です)。

という部分には、異論がある。

もし米大統領への返り咲きを狙っているトランプ・前大統領が 

カネの力にものを言わせる政治から、アメリカ国民の気持ちを考える政治への転換をすべきである。

こう発言すると、日本人はどんな気持ちになるだろう。

カネでアメリカを支配しようとするM7(=マグニフィセント7:アップル、マイクロソフト、アルファベット、アマゾン・ドット・コム、エヌビディア、テスラ、メタ)の希望など無視しておけばよい。アメリカ国民の気持ちこそ第一だ。ワシントンでロビイングにつとめる日本政府や日本企業の働きかけに影響されるとすれば、それは不正だ、アメリカ国民の気持ち(だけ)が大事だ。ウクライナ政府や欧州諸国の希望に忖度するよりは、まずアメリカ国民の気持ちを優先するべきだ。それが"America First!"というものだ。MAGA(=Make America Great Again)こそ私の変わらぬ志である。

(こんな発言があろうとは予想できないが)こう畳みかけられると、どう感じるだろう。事実の一端をついているだけに、そこに「敵意」を感じて余計に反発するだろう。「日本を守ってくれるだろうか?」と疑心暗鬼になって不安になるに違いない。 

日本国民の気持ちは

アメリカの大統領なら、そりゃアメリカ人の気持ちに寄り添うべきだワナ

こんな風なものだろうか?

むしろ日本人の大半は、アメリカ人の気持ちを第一に考える政治を志すトランプ大統領候補に強い危機感をもつのではないだろうか?

もしアメリカ大統領にアメリカ人の気持ち以外にも配慮してほしい要素が世界にはあると考えてほしいなら、そう考える日本人は日本の国会議員達にも同じことを希望するべきであろう。


そもそも「国民」って、具体的に誰のことだろう?

国の政治家の仕事はどう定義されるネン?

要は、こういう問いかけである。


韓国で言う「ネロナンブル」は見っともないですぜ:

私がすればロマンス、他人がすれば不倫

手を変え、品を変え、同じような意見がなぜ出てくるのだろうか?これは前にも投稿したことがある。

2024年1月21日日曜日

断想: 昔の超長期予測を再び振り返ると

 「経済予測」という土俵で仕事をしてきたので、このブログでも短期、中期、長期のスパンで、その時々の気分次第、色々な予測を書いて来た。

ずっと前に「超長期予測」という標題で投稿したこともあるので、時々、それを振り返るという作業を勝手に面白がっている。前回に回顧したのは日付をみると2018年3月になっている。あれから6年が経とうとしている……実に、歳月怱々である。

今後5年間で大きなポイントになるはずのエネルギー関係項目に限定して、今日現在でその後の進展をフォローアップしておきたい。


  1. 大震災復興総合計画ができるのではないか: これは既に始まっている。復興庁なるものが出来るかどうかは(ほぼ実現するだろうが)不確定だが。 ⇒ 被災した県や市町村では「復興計画」が策定されたが、国レベルで「総合計画」があるとは聞いたことがない。検索しても出ては来ない ― こんな報告もある。再編成前の体制なら調整官庁である国土庁が復興総合計画をまとめていたに違いない。
  2. 日本のエネルギー計画は根本的な曲がり角を迎える: これも管首相が昨日サルコジ大統領を迎えて記者会見でも表明した。原発のゼロベース見直しは避けられない。 ⇒ 岸田首相は原発再稼働、最先端原発新設(検討?)に一歩踏み込んでいるが、社会の合意にはまだまだ。
  3. 国土利用計画も並行して根本的な曲がり角を迎える: まだ俎上には上がっていないが、エネルギー計画を見直す以上、首都圏、近畿圏など各地域のエネルギー需給バランスの前提が崩れる。見直し不可避。方向としては1980年代末のバブル景気以前まで主流だった考え方<定住圏構想>が復活すると予想している。 ⇒ 少子高齢化が加速し、足元では「過疎地切れ捨て論」に分類される意見も登場してきている。大震災以降のエネルギー制約が今後の日本経済の成長を抑えるのではないかとすら個人的には思っている。
  4. 経済産業省から原発管理行政を分離する: これも菅首相が既に表明している。銀行経営破綻で大蔵省から金融庁が分離したのと同じ論理だ。ただしエネルギー計画見直しをどこが主務官庁として取り組むことになるか、これはまだ分からない。復興庁ではない。 ⇒ 原子力規制委員会が環境省の外局として設置された。但し、エネルギー計画は経済産業省が所管しており省庁間調整が難しいに違いない。
  5. 東京電力国有化: 債務超過になると予想する。国有化という手段に限定はされず、先日のアドバルーン後に早くも迷走し始めている模様だが、どちらにしても現行の株式会社組織は資金的に滅亡したと判断するべきだ。近日うちに政府は基本方針を公表する状況に追い込まれると予想しておく。 ⇒ これは国有化で決着。但し、今後の経営見通しは五里霧中ではないだろうか。
  6. 原子力発電の全国統合化、(多分)公的企業とする: リスクに対応するために必要な保険料コストを計上すると(発電規模にもよるが)原発事業は民間企業になじまない可能性が高い。新エネルギー計画で検討されることは必至。まだ議論は表面化していない。 ⇒ 発想すらないのでは?言い出す人は相当のリスクを負うはず。
  7. 原発事業にともなう保証債務発生リスクと保険制度の見直し: これは国内に既にあるが拡充が不可避。ただ原発事業統合の行方とも関係する。 ⇒ 再稼働、事業継続の合理性、国内エネルギー供給における位置付けが曖昧なままである。
  8. 原発保険制度を金融パニックを回避する国際通貨基金制度と類似の制度としてセットアップ: 必要になる。その場合、原子力利用の知識集積状況からフランス、US、ロシア、保険ビジネス技術からUK、USの人材が集められ、日本はお呼びではないだろう。最多の原発新設候補国(ならびに最大リスク国?)として中国が入れば、現国連安全保障理事会常任理事国と同じ構成になる。 ⇒ 世界レベルで原発再稼働、新設増加の流れにあるのは確実。故に、原発リスク評価、リスクをカバーする保険を拡充するため国際的連携が不可欠のはずだが、この分野で進展はないのではないか。少なくとも報道を見たことはない。今は、ロシア=ウクライナ戦争、イスラエル=ハマス紛争、インフレ対応で各国とも余裕がないと思われる。


どうも最初に書いた「超長期予測」は個人的な希望、というか願望に近いものだった。地方分権と言えば「モノも言いよう」だが、中央官庁の弱体化を思わせるこの13年間である。

折しも、戦後日本の政党政治そのものの信頼が崩れつつある。昨年は、戦後日本の世論形成の基盤になって来た国内メディアが、いかに人権を軽視し、ビジネスの都合を優先する体質であったかが露見した一年であった。

メディアの無責任が露見し、次に政党の腐敗が露見した。能登半島大震災では泥だらけになりながら身体を張って救助を続けている自衛官の姿が放送されている。

色々な事実が視える化されている。
何らかの社会的リアクションがあるものと予想するべきだ。

戦前期・日本で最初の普通選挙が実施された昭和3年(1928年)から、政党出身の最後の首相になった犬養毅が陸海軍の青年将校に暗殺された5.15事件までの4年間。約100年前のその4年間と似た世相に段々となってきている。

アメリカでは共和党支持層と民主党支持層がそれぞれ概ね3割程度、無党派層は大体40%程度に分かれているそうだ。一方、時事通信の世論調査によれば「支持政党なし」と回答する人の割合が70%弱。無党派層は足元で3人に2人を占めている。何が起こっても日本社会に受け入れられる状況が生まれつつある。

2024年1月20日土曜日

ホンノ一言: 宏池会と自民党との不幸せな因縁か?

自民党の構造変化が始まったのか?それとも、衣裳を変える「お化粧直し」のような感覚で言葉遊びをしているだけなのか?

そんな疑問が胸に浮かぶ派閥解消であります ― 決まっているのは、今のところ、安倍、岸田、二階の三つの派閥だけであるが。

どうやら安倍派「清和会」の創設者・福田赳夫元首相の孫にして、福田康夫元首相のご子息であられる御曹司・福田達夫衆議院議員が

新しい集団をつくる

と語っておられる由。

どうなりますことやら……

実は、久しぶりに宏池会出身の総理大臣が現れることになった2021年の9月末、こんなことを投稿している:

ところが、宏池会から首相が輩出されるというのは、あまり縁起のよいことでもないのだ、な。

そもそも宏池会の創設者である池田勇人・元首相が、首相在任中に癌を発病し、任期を残して退陣、その後一年も経たないうちに逝去している。

その後、宏池会に縁のある政治家が自民党総裁になったのは複数回あるが、(例外とも言える一人を除いて)いずれも自民党にとっては悲劇的な状況を招いている。

今回、岸田首相によって宏池会そのものが解散されるに至った。これが自民党という政党とそれが代表してきた「保守政治」を、どう変化させていくのか、現時点で見通すことはできない。

例によって、3流の評論家は、

現状に基づき今後の展開を予想すると、それほど大きな政治的変化につながっていくとは、思えません

等々、 「1流専門家」であるかのような予測を述べるのだが、これは要するに

今後の株価を今日の終値から予測すると、上値、下値、双方とも大きく変動していく可能性は今のところあまりないと思われます

こんな株価予測にも似ているのであって、言葉を変えて言えば

予測らしい予測はできません

と言っているのに等しい。

要するに

一寸先は闇

で、言えることはこれだけである。

まあ、安倍首相在任中のように極右勢力が肩で風を切るような威を張るなどという「愚景」は後景に退くであろう — 「美しい国、日本」というフレーズは残るかもしれないが。以前に投稿したような

「文化芸術懇話会」の参加議員は、宏池会の系譜をひく谷垣幹事長にではなく、右翼・安倍総理に忠誠心をもっていることは分かりきっている。

江戸時代初期に横行した不良「旗本奴」と同じである。

大西議員が『マスコミを懲らしめるには、広告料収入がなくなるのが一番だ。』と発言したときの投稿だ。こんな文章を書くことはもうないだろう。


一つの予測要素であるのは、これも以前に投稿したことだが、戦後日本の民主主義は基本構造としては《アメリカ・天皇・自民党》の三本柱、というか三者相互依存体制であると小生は俯瞰している。ということは、やはり根本的な次元においては、日本の政治経済社会の構造は不変である、と。「アメリカの国力」が決定的に退潮しない限り、この見方は当たっていると思う。

何だか戦後日本の自民党という政党は、(より根底部分にある日米安保体制という点を置いとけば)摂関時代の藤原氏、幕藩体制下の徳川家、そんな感覚に近いかもナア、と。憲法にも法律にも規定されない、自然にそうなったという面ではという意味・・・いやいや、これは後になって思い付きを加筆したまで。

ただ、岸田首相という人は、若葉マークのドライバーにも似て、政局については素人的な大胆さを発揮する可能性があるような感じがする。とすれば、自民党内の内紛が激化する事態に手をつかね、遂には自民党分裂という結末に至る確率はゼロではあるまい。

仮にそうなるとすれば、日本人にとっては《ひょうたんから駒》になろうが、アメリカ政府から観ると《日本の悪夢》と感じられるかもしれない。

【加筆修正】2024-1-21




2024年1月18日木曜日

断想:「思想」や「主義」に「賞味期限」というのはないのかも

 前回の投稿の末尾にこんなことを書いている:

ちなみに、リカードが問題とした「分配問題」は19世紀という時代が進むにつれて一層先鋭化し、不平等化の進行はマルクスの『共産党宣言』(1848年)、『資本論』(1867年)を超えて更に進み、第一次世界大戦直前まで続いた。

不平等化や格差拡大の進行は、それが悪いことだと認識する人が現れたとしても、更にはそう認識する人が社会の多数を占めるようになったとしても、「政府」の政策によって問題が解決されるに至るという事態には、中々ならないものである。

先進資本主義社会で19世紀の不平等化の流れが逆転したのは、第一次世界大戦でヨーロッパの社会インフラが破壊されつくし、ヨーロッパに存在した帝国が解体され、王朝や貴族、財閥、富裕階層の大半が没落したからである。加えて、19世紀後半から浸透してきた福祉理念、社会主義、共産主義思想が、19世紀社会で信じられてきた価値観に根本的疑念をつきつけ、否定することが出来たからでもある。

要するに、確固とした社会を根本的に方向転換するには、支配階層の入れ替わりが不可欠であるし、それが正しいのだと考え直すだけの価値観の転換が要るのだ。

敗戦直後、昭和20年代の日本においても、同じような社会状況があったわけである。

こう考えると、例えば「かつての経済大国・日本」であるとか、「モノ作り大国・日本」、「日本の誇る匠の技」等々、事大主義的な「日本賛美」がマスコミやネットを賑わせている間は、日本社会の基本は変わらないと観るべきだ。

もっと絶望しなくてはならない。もっと喪失感に打ちひしがれる。そんな社会状況が到来しない限り、これまで通りの理念や価値観が、何だかんだと言われながらも、日本社会を支配し続けていくのは間違いない。大仰な企ては何もしないことこそ、最も楽な道であるからだ。

根本的な建設よりは基本を残しながらのリニューアルの方が難しい、と言われる。だから、命をかけて汗をかく人が現れない限り、日本の経済社会の基本は今のままである。

こう予想されるのだ、な。

前稿で引き合いに出したマルクス=エンゲルスの『共産党宣言』であるが、「そういえば幾つか具体的な政策提言もされていたナア」という記憶があって、再確認してみた。

以下はその政策リストである。

少し言葉遣いは旧いが、和訳したのは堺利彦と幸徳秋水だから歴史的文章でもある。たまたま青空文庫にあったから、これを引用することにした。

一、土地所有權の剥奪、および地代を國家の經費に充てること。

二、強度の累進所得税。

三、相續權の廢止。

四、すべての移出民および反逆者の財産の沒收。

五、國家の資本をもつて全然獨占的なる國立銀行をつくり、信用機關を國家の手に集中すること。

六、交通および運輸機關を國家の手に集中すること。

七、國有工場の増大、國有生産機關の増大、共同的設計による土地の開墾および改善。

八、すべての人に對して平等の勞働義務を課すること。産業軍隊を編成すること。(殊に農業に對して)。

九、農業と工業との經營を結合すること。都會と地方との區別を漸々に廢すること。

十、すべての兒童の公共無料教育。現今の形式における兒童の工場勞働の廢止。工業生産と教育との結合等。

この政策提言リストを改めて見直すと、とても176年前に公表された出版物にある内容とは思えない程、現代的であるのに吃驚する ― 逆に、科学技術が進歩した割には社会というものがいかに進歩しないものなのかを痛感する。 

上の提案1「土地所有権の否定」は共産主義の根幹をなすものだ。これをみて共産主義アレルギーを起こす人は多いだろう。しかし、現代中国も土地の私有権は否定されている。売買されているのは土地利用権である。それでもいわゆる《国家資本主義》は運営可能であることを中国が例示している。寧ろすべての工場設備(=資本設備)の私有を禁じると書かれていないのが驚きに値するはずだ。つまり『共産党宣言』は、それ程には急進的ではなく、提案7にあるように『国有工場の増大・・・』と書くにとどめている。

提案2の『強度の累進所得税』に反対する人が今の日本社会にどれ位いるだろうか?ほとんどの日本人は賛同するような気がする。

提案3の『相続権の廃止』を共産主義思想と観るかどうかは微妙なところだ。例えば、ハイエク(やフリードマン)は、相続税や累進所得税に反対したものだ。というのは、一国の文化の精髄はいわゆる社会の上澄み、つまりは「上流社会」によってこそ育まれるものである―ある意味、「有閑階級」が文化の担い手になるのは当たり前の帰結でもある。文化的な担い手が一つの社会階層を構成しているなら、そうした階層を守ることが国の文化を守ることにもなる。公益にかなう。まあ、概略としてこう発想したわけだ。反対に、相続税100パーセント論者もいる。例えば、野口悠紀雄氏は親から子へ資産を相続させることの弊害を一貫して指摘しており相続税率の引き上げが消費税率の引き上げより望ましいと述べている。今日的な論点である。

提案5から提案7は、簡単に言えば「産業国有化」で、戦後日本にもあった公的企業の活動範囲を拡大していくという路線にあたる。1980年代以降の「新自由主義」の高まりの中で、民営化と規制緩和が世界中で進められ、日本も国鉄や電電公社、専売公社を民営化した。日本人の食を支えてきた食管特別会計も役割を終え、今では備蓄米や麦の買い入れなど限られた業務を行うようになった。

実は、かなり以前の投稿で「公的企業」という存在について書いたことがある。原子力発電をベースロード電源にしたいならバラバラの民間企業でなく「公的企業」に再編成して公共の責任にする方が良いのではないか、と。同じ方向で考えるなら、発電は自由化するが送配電は設備を「公共財」と認識し、公的企業として統一運営するほうが社会は納得するのではないか。こうも思っているわけだ。この40年間の民営化の流れには、実は疑問を抱いているのだな ― 民営化一般ではない。念のため。

日本は、公的企業として経営管理する方が適切な分野を民間企業に任せ、民間の創意工夫が発露するように規制を緩和していくべき分野、例えば教育、医療・保険・介護、サービスで細かな規制を続け、その結果として硬直的な非効率性を解決できないでいる。そんな指摘はこれまで何度も投稿してきた。《日本病》の根本的原因でもあると思っている。

公的企業については他にも色々と議論の余地がいまあると思っているが、社会的に適正な価格設定と優良な就業機会提供、利益の確保は両立可能のはずだ。産業活動から国庫収入を得るのは財源多様化にもつながる。

次に、提案9の『農業と工業との経営を結合すること』というのは、見ようによっては、戦後日本が採って来た自作農中心主義から株式会社の農業参入自由化容認とも受け取れる話しだ。

提案10の『公共無料教育』は、日本が今まさに試行しつつある段階で、望ましいと言いつつも完全に実現できていない政策案だ。『工業生産と教育との結合』は職業教育、職業訓練、インターンシップの充実につながる政策である。

すべての提案が現代的意義をもつとまでは言わないが、(たとえばの話し)現代日本の政界の一野党である日本共産党が

原点に戻ろう

という意味合いで、この『共産党宣言』に盛られている政策リストを改めて提案してみても、日本人は決して「総バッシング」はしないはずだ。つまり、歴史的意味は決して失われていない。逆に言うと、『共産党宣言』が176年も昔に認識していた社会問題は未だに解決できていない、ということでもある。

現代日本人の多くは、大正から昭和に育った日本人とは異なり、(無学な?)マスメディアに煽られて何だか社会主義・中国が嫌いで仕方がないのかもしれないが、改めて「社会主義」の何たるかを勉強してみても損はないだろう。ひょっとして目が覚めるかもしれませんゼ。

そんな風にも思われて仕方ありませぬ。

【加筆修正】2024-1-19


2024年1月15日月曜日

ホンノ一言: 「成長」ではなく「分配」が主問題だったリカードの時代になっているのかも

レコード・チャイナというサイトがある。以前はよく見ていたが、最近はとんとご無沙汰していたので久しぶりにのぞいて見た。と、デザイン、コンテンツとも一新されていたので驚いた。

中にこんな記事があった:

2024年1月14日、中国中央テレビ(CCTV)の微博アカウント「央視財経」は、パナソニックの子会社がデータ偽装などの不正を数十年にわたり行っていたことが発覚したと報じた。

記事は、日本の著名メーカー・パナソニックのグループ会社であるパナソニックインダストリーが12日、製品の品質認証を申請する際にデータの偽装などの不正行為に及んでいたことを認めたと紹介。不正は1980年代までさかのぼることができ、対象製品は52種類、影響を受ける顧客企業は世界で約400社に上るとみられる一方で、中国市場への影響については確認できていないとした。

Source: レコードチャイナ

Date: 2024年1月15日(月) 12時0分

URL:https://www.recordchina.co.jp/b926939-s25-c20-d0193.html

記事のタイトルは『パナソニックHD子会社が不正、中国ネット「これはもう日本製造業の体系的な問題」』となっている。

いや、いや、中国からこんな論評が加えられるようになったンだねえと、うたた感慨を禁じ得ないのはこのことだと思った。

これは事実かと思って検索してみると果たして

パナソニックホールディングス(HD)子会社のパナソニックインダストリー(大阪府門真市)は12日、自動車や家電に使われる電子部品向け材料の認証取得に際し、数値改ざんなどの不正があったと発表した。対象は国内外7工場で生産された52種類の製品で、古いものは1980年代から不正があった。

Source:Yahoo! ニュース

Original:読売新聞

Date:1/12(金) 16:21配信

国内でもチャンと報道されている。見落としていたのだ、な。

トヨタの子会社ダイハツが続けていた認証不正行為とこのパナソニックの一件が「同根」の企業行動なのかどうか定かではない。が、他にも日本企業の内部で隠蔽されている不祥事は色々あってもおかしくはないなあ、と邪推してしまう。

他方で、日本企業の労働分配率は歴史的な低水準にまで低下している。例えば一昨年になるから少し古いが日本経済新聞では31年ぶりの低調と形容している。

Source: 日本経済新聞

Date:2022年10月30日 2:00

上の図をみると、バブル崩壊から金融パニックまでの混乱期に顕在化した「三つの過剰」、即ち「過剰設備」、「過剰雇用」、「過剰債務」を何とか解消しようと、特にその一環として厳しい人件費節減を続けてきた「日本企業の20年」が彷彿として浮かび上がるようである。過剰雇用の解消と雇用の確保を両立させるために賃金抑制、正規社員から非正規社員への置き換えを労働組合が受け入れたのである。

上がらない、というより「上げられない」販売価格の下で、増えない、というより「増やせない」販売数量を敢えて増やすための《攻撃的安値戦略》を余儀なくされて、1社あたりの売上高は微増、というよりボックス圏内を続けてきた。折しも、海外進出(=海外逃避?)と並行する形で発言力を高めてきた外国人投資家の要望に応えようとすれば、配当原資の確保が第一義となった。それには先ず「粗利」を確保する。「原価」を抑える。こういう思考になる。

そのためには良いモノを高く売るのが本筋だ。これは経営戦略の基本的な命題である。実際、欧米企業はそうやっている。しかし、良いモノを開発するにはカネが要る。日本企業にとって不運だったのは、グローバル化と三つの過剰に同時に襲われたことである。商品開発の余裕がなくなれば差別化するに十分な良いモノは作れない。コモディティ化が進めば超過利潤が消失する。コモディティ化した市場ではコスト優位性が勝敗を分ける。これもビジネススクールならどこでも教えている。

コスト優位性を築くうえで雇用確保は常に足かせとなり賃金引下げ圧力が働いた。賃金を守るために「合理化」が進んだ。

「合理化は時に簡略化を意味した」、「現場の無理は次第に重なっていった」。こんな状況判断が的を射ていないのなら幸いだ。

今回のパナソニックの不祥事も、ダイハツの不祥事も、起きるべくして起きた不祥事である。何だかそんな風にも感じるのだ、な。

この20年間、日本のサラリーマンが置かれてきた状況を振り返ると、19世紀前半のイギリスで活躍した経済学者リカードが眺めていた経済社会をイメージしてしまう。

リカードが生きたイギリスでは、農業保護を目的に穀物輸入規制が続けられていた。そのため高コストの英国産小麦を選ばざるを得ず食品価格は高止まりする。労働者の賃金も高めに維持される。企業間の競争は激しく、生産拡大から商品価格が低下する。ところが、土地所有権に基づく地代は、一等地から二等地へと差額地代のロジックに従って、上がっていく。そのため企業利潤が圧迫され、経済成長を抑えるだけではなく、所得分配も不公正なものとなる。

そこでリカードは穀物輸入自由化を主張したわけだ。ところが、これによって賃金は低下する。というのは、人口増加から労働供給が増えるからである。賃金は生存費レベルに収束していく。これがリカードだけではなくマルクスも見た暗鬱な世界である。

現代はマルサス的な人口増加でなく人口減少が心配されているところが正反対である。故に、リカード的な社会が再来することはない。

とはいえ、企業という生産現場で労働分配率が低下するというメカニズムは働いて来た。

企業活動に不可欠の要素を「生産要素」という。活用される生産要素は「要素報酬」を受け取る。その生産要素だが、これからの世界は知識が価値をもつ《知価社会》であるはずだ。知識もまた知的財産という形で私的所有権が守られている。

19世紀イギリスの土地所有権を、21世紀の世界の知的財産権とみれば、着ている衣裳は違っているものの、進行している経済現象は似たようなものではないか、と。

最近はそんな暗澹とした気分になる。

ちなみに、リカードが問題とした「分配問題」は19世紀という時代が進むにつれて一層先鋭化し、不平等化の進行はマルクスの『共産党宣言』(1848年)、『資本論』(1867年)を超えて更に進み、第一次世界大戦直前まで続いた。所得分配は、経済現象であって、平等化にも不平等化にも経済学的原因がある。その修正や改善に、一つの国の政府が実施する政策がどこまで有効なのか。小生は、日本政府が実施する(というか、実施できる?)政策の効果は、何であれ限定的なものではないかと考えている。



2024年1月12日金曜日

ホンノ一言:過疎地の面倒は見切れない……では、こうしてはどう?

能登半島大地震は季節、地勢などの要因で救助が困難を極めている様子だ。自然災害では、どうしても対応が後出し的になるのは仕方がないが、「激甚災害」にも指定され、今後ずっと相当の予算が措置されるのは確実だ。税で復旧を負担ということだ。

もし今回の大地震が首都圏、近畿圏など人口集中地区を襲っていれば犠牲者の数は一桁(か二桁?)違っていたかもしれない。言い方は悪いが、能登半島のように(相対的に)人口希薄な地域が被災地になったのは寧ろ「不幸中の幸い」であったかもしれない。

ところが、そうなればそうなったで、ネットにはこんな意見も出てくるのだから、人間が暮らす浮世というのは誠に嫌なものである。少し長くなるが、抜粋のうえ引用させて頂こう:

 問題は、例えば岸田政権が原案のまま1兆円ほどの能登半島地震の復興・再建プランを可決したとして、このような放っておいたらなくなる集落までも復興の対象とするべきなのかという議論が出てくる点です。(中略) 

「今回の復興では、人口が減り、地震前から維持が困難になっていた集落では、復興ではなく移住を選択する事をきちんと組織的に行う(促す)べきだ」と米山隆一さん問題提起したように、国民の権利選択の結果、勤労人口が過疎地域での就業を放棄して都市部に移り、猛烈な人口減少と高齢化が進んでいるのは間違いのないことです。持続可能性が絶望的な地域や集落に公費を入れて復興させる必要があるのかということは、議論しなければならない点の一つです。(中略)

 もう一つは、これらの人口減少の事実をきちんと受け止めたうえで、国家が政策として人口減少による日本社会全体の縮退をどうコントロールするのかという話にもつながっていきます。(中略)

 日本の“名宰相”とも謳われる田中角栄は、「山間部の60戸しかない集落では、病人が出たら戸板で運ばなければならない。そういう人たちのために12億円かけてでもトンネルをつくることが政治の役割だ」と喝破しました。

 ただ、2C1Pacific氏も記載しているように、1億人の人口のうち高齢化率が1割程度であった70年代の日本と現在とでは、住民が求める生活の水準がそもそも異なります。(中略)

 もちろん、このような議論が行き過ぎれば人口減少の地方は姥捨て山なのかとか、今後激増が予想される未婚で貧困の高齢者に対する安易な安楽死議論のような極論もどんどん出てきてしまうことでしょう。

 必要なことは、先にも述べた通り、人口減少で地方社会・経済の衰退は誰かが何をしようとも押しとどめることはできないのだから、せめて勤労世帯も高齢者も、あるいは都市生活者も地方在住も共倒れにならないように、衰退をきちんとコントロールしながら最善の経済縮小・撤退戦を日本経済は政策的に図っていかなければならないということに他なりません。

Source: JBpress

Date: 2024.1.11

Author: 山本一郎

URL:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/78858

1億人の日本人が仮に5千万人にまで半減した時に、日本国を経営することはそもそも可能だろうか?こういう問いかけである。面倒を見切れないという時点がやがて来るでしょうヨ、というリアルな意見である。


ただ、思うのだが、日本の人口が余りに減少して、日本人では日本の国土が過剰になり、移民受け入れも嫌だし、持て余すということならば、仕方がない。インドネシアなり、フィリピンなり、インドなり元気な現・新興国は多いし、アメリカも活力があるのだから

過疎地を(割譲ではなく)売却してカネに替えれば宜しいのでは?

是非売ってくれと手を挙げる国は多いと思いますゼ…… 儲かりますゼ…だって、あなた、要するにカネが回るかどうかが心配なんですヨネ? 

土地、余るんでしょ?家、余るんでしょ?使わないんでしょ?

人、いなくなるんでしょ? 

領土を諦めるしか手はないじゃありませんか。

まあ、文字通り、

売り家と 唐様で書く 三代目

こういうことだナア。名誉なことではないが、背に腹はかえられないでしょう。

大体、広すぎて面倒見切れず放置して「広すぎる」国土を荒廃地にするなんて、人類社会に対しても極めて無責任な行為である。ヒトが減って、知恵もなく、カネもなくなれば売った方がいい。

世界に通じる《スキル》さえあれば、どこに住もうがいいでしょう。農業なんざ止した方がイイ。時代遅れでサア。カネがありゃあ、食うに困りはしませんて。スキルと能力が大事ですヨ。どこだって生きて行ける。日本にこだわる必要なんてありゃしませんゼ。領土に拘るなんてバカだ。外国に移住する方が儲かりまさあ。過疎地で暮らすなんてバカのするこった……

そう思うのだが、どんなものでしょう?


…… 正に亡国の兆しですワナ。

ちなみに明治初め、明治6年の時点で日本の総人口は3340万人であったそうだ(これを参照)。

日清・日露戦争は現在の日本の半分未満の人口で戦っている ― 少子高齢社会ではなかったので時代の雰囲気は今とは別の国のようであったろう。が、明治初めの乳児死亡率は1000人当たり250人に達していた(現在は1000人当たり4~5人)ことを想えば、その当時もまた心配と哀しみには事欠かなかった、と言えるだろう。

人が減るから地方経営も大変です、ひょっとして不可能かもしれませんというのは、日本の長い歴史からみれば、

もう泣きを入れるのかい?

先祖から呆れられるだけではあるまいか?現世代を特徴づける「精神的老化」だと思いますがネエ。

つまらぬ感想ですが覚え書きということで。

【加筆修正】2024-01-18、19

2024年1月11日木曜日

断想: 西洋的「職業」と日本的「仕事」とは「分業」という点では確かに異質だ

(統計統計ではなく)「経済学」の元祖と言えばアダム・スミスというのが大方の合意だ。そのアダム・スミスの主著『国富論』は、要するに《経済成長》について考察した著書である。経済成長だから基本的にゼロサム的でなくウィンウィンの関係が全体を通して主たるトーンになっている。冒頭で《分業》が論じられている何ページかは極めて有名だ。そこでは、分業なき場合の低生産性、分業を導入した後の高生産性が、ピンの製造を例にして分かりやすく論じられている。

ピン製造の職業訓練を受けた事もない普通の職人が作るなら、1日かけてせいぜいピン1本作れるのがせいぜいだろう。これを針金の圧延、整形、切断等々と18の工程に分割し、各工程を専門とする職人たちが共同して製造するなら10人の職人チームが1日で48,000本のピンを製造できる。一人当たりで言えば、4,800本である。実に、分業によって労働生産性は4800倍になる。そういう議論である。

分業の効果、言い換えると《役割分担》、《組織化》という言葉になるが、こうした議論から始める所が、いかにもイギリス的である、というよりもっと広い意味でヨーロッパ文明の薫りを感じさせる所であると思う。

小生もずいぶん長く職業生活を送ったが、全体を振り返ると

好きな事をやってきた

という、この一語に尽きるように思うのは、文字通り慚愧の至りであり、周りの同僚達にもずいぶん(意図したわけではないが)迷惑をかけていたに違いない。

ただ、釈明では決してないのだが、自分の好きな事、やりたい事を合計時間でどのくらい長く出来ただろうかと振り返ると、実は驚くほどに短い時間である。

ある年は、「学科長」といえば聞こえはいいが、学科内共通の利益に奉仕する仕事を担当した。時には、学生全体の利益に奉仕するためのカリキュラム改正の審議に参加して長大な時間を消費した。またある年は、大学組織全体の将来構想を議論したり、制度改正検討で時間を使った。そして、これらは決して小生の好きな事、やりたい事ではなかったわけである。

確かに基本的な分業体制はできている(とも言える)。そもそも教員は担当する科目が決まっている、というか最初から特定科目の担当として公募を行い、それに応じた人材から選抜した人が任用される。教学と事務が区分されている点も分業の一環である。

とはいえ、小生の経験を回顧すると、(事務部門も含めた)学内運営の総合調整や地域連携、高大連携は全学共通業務として取り組んでおり、結局は「分業」と言っても教員ごとに担当科目が決まっているという以外にそれを超える程の役割分担はしていない、と。そう割り切っても間違いではあるまい。大体、職階である「教授」と「准教授」の間に明確な担当業務の違いは設けられていないのが通常だ。事務部門になると更に一層「非分業的」で、この辺りは日本の官公庁、および(ひょっとすると)大半の民間企業と共通しているのではないだろうか。

要するに、組織の付加価値を生産するための仕組みにおいて、人的資源、資本設備、知的資産など様々のリソースがemployされるが、こと人的資源の配置で個々人の果たすべきファンクション(=機能)が明確に決まってはいない。

こういう意味で、日本の生産組織は決して高度の分業を行ってはいないと思っているのだ、な。非スミス的である。

例え話で言うと、

ヨーロッパ、アメリカは、頭脳の働きを担う人、手足・筋肉など運動機能を担う人、消化器の役割を担当する人、循環機能を支える人、等々と予めモデル化されたファンクション(=機能)を担うべき人材を必要量だけパーツとして組み合わせ、1個の《有機体》を構成する、こんな風に発想する。他方、日本社会は(極端に言えば)《iPS細胞》のように分化以前のマンパワーが多数集合して組織が自然発生する。そういう組織文化が支配的でないか。

そんな印象がある。よく日本的組織は、アメーバ的であるとか、多足生物に似ていると形容されるが、分業と役割分担が硬質でなく、軟度が高いという意味でそう言われているのだろうと思うし、それはまた小生の経験とも合致している。むしろ「仕事が属人化するのは避けるべき状態だ」という意見が多くの人の賛同を得たりしている。

これに対して、《国家有機体説》はプラトンの『国家』以来のヨーロッパ的思想の一つであるが、現在も同じ薫りを感じ取ることが出来るのだ。


最近流行の《ジョブ型雇用》は極めて西洋的な職業感覚から発するものだ。他方、日本的雇用で伝統的な《新卒一括採用》は優秀なiPS細胞を集める努力に相当するのかもしれない。配属された先で自分の果たすべき役割を認識し、そこでsection-specificな細胞に成長して、有用な人的資源になってくれるという期待がそこにはある。リソースたるヒトを細胞分化する以前の《iPS細胞》と認識するか、有機体たる組織に細胞として機能するべきパーツと認識するか、同じヒトをどう観るかでも大きな違いがある。

ジョブ型雇用を ― 形式上、雇用契約ではないはずだが ― 最も明確に認識している日本国内の管理者はプロ野球球団のGMもしくは監督、そして選手たちであるに違いない。この意味でも野球は最もアメリカ的なスポーツである。


そもそも賃金は特定のジョブごとに評価があり給付されうるものだ。果たしているファンクション(=機能)が不確定なまま、その人の評価だけが先にあるのは、何だか鎌倉以来の御恩奉公の人間関係をすら連想させるもので、可笑しな話だ。

《人材》という言葉をどう定義づけ、生産現場にどう具体的に落とし込んでいくのか、この問いかけは、《分業》という言葉にどのような共感を感じるか、という点に帰着するような気がする。

《職業観》という次元においても、日本と西洋には越えがたい溝があるようだ。

2024年1月8日月曜日

ホンノ一言: 民主主義社会の政治家と現場について

同じ「自然災害」と括ってみても、一つ一つの災害はそれぞれの個性をもっている。季節、地理的条件、地形、住民分布、職業分布、年齢分布等々、全て異なっており、同型の自然災害などは決してない。故に、災害対応にオールマイティのマニュアルなどは存在しない。現場をみて、その都度、最適対応するしかない理屈だ。この点は以前にも投稿したことがある。

今回の能登半島大地震でも色々な批判がある。中でも多い指摘は『対応が遅い』というものだ。指摘に対して、政府側から反論が出ているのもいつもと同じである。

例えば、こんな指摘がある:

地震の被害、津波の被害が日々伝えられているが、なぜ、全貌把握がこれほどまでに遅いのか疑問だ。能登半島西の輪島市中心部から、東の珠洲市までわずか40〜50キロメートルだ。元旦の夜に衛星から見れば停電の状況はすぐに把握できたはずだし、2日朝からヘリコプターやドローン・飛行機で上空から調べれば、道路の寸断状況を含めて被害状況は把握できたはずだ。

対応が遅いという以前に「被害の全貌把握が遅い」という点は多くの日本人が感じていたことと思われ、上の見方も「その通り!」と多くの人が同意するのだと思う。

更に

危機管理において、正月休みだったという言い訳は通用しない。もし、これが外国からの侵略であった場合と考えると背筋が凍る思いだし、あまりにも危機意識に欠けていると言わざるを得ない。非常事態の人員確保、救援物資の輸送などのマニュアルが何もなかったのかとさえ思わせるような状況だ。シビリアンコントロールは必要だが、コントロールできる有能な人材があっての話だし、コントロールできる人材がいないような体制ならば、すべて自衛隊に任せればいいのではと思ってしまう。

緊急事態においては、指揮命令系統の一本化が極めて重要だ。東日本大震災時の初動の遅れはまさに未熟な政権幹部のドタバタの反映だった。

Source:アゴラ AGORA 言論プラットフォーム 

Date: 2024-01-07 06:25

Author: 中村祐輔

URL: https://agora-web.jp/archives/240106041634.html

現在の日本におけるシビリアン・コントロールそのものに対する不安も述べられている。

これに対して、

  1. 対応を困難にした要因の一つが被災地の地理的な特性だ。自衛隊幹部は「陸の孤島と言われている半島での未曽有の震災。一番起きてほしくない場所で起こった」と。
  2. 熊本に比べ、能登半島には規模の大きな自衛隊の拠点がないという事情もある。熊本市には南九州全体を管轄する陸上自衛隊第8師団の司令部があり、1万人超の隊員が常駐している一方で、能登半島には航空自衛隊のレーダーサイトしかない。

防衛省からは(メディアを通して)こういう釈明がされている。

Source: 毎日新聞

Date: 2024/1/7 12:18(最終更新 1/7 17:48)

これは自衛隊に限った話だが、人口希薄な半島地域で壊滅的な災害が発生すれば、救助活動は困難を極めるだろうことは、容易に想像できることだ。例えば、北海道の積丹半島で震度7の大地震が発生し、道路も破損、寸断されれば、美国町、積丹町、更には原発がある泊村にどのように人や物資を運べばよいのか、担当者は大いに悩むに違いない。それも厳冬期に発生すれば猶更である。

ただ、たとえそのような困難な状況においても何とかして突破するための技術とルーティンは、やはり現場組織は持っているのだと思う。要は、具体的作戦行動にどうつなげていけるかだ。その行動計画策定の指導を担当せよと言われても、これはもう、素人に求めても無理な注文だ。出来ることと出来ない事は現場の組織が最も分かっているはずで、こんな当たり前のことはどんな製造メーカーの経営者だって分かっている。

シビリアン・コントロールとは、それ自体が大切であるわけではない。現場のプロフェッショナルを運用できるに十分な能力がある指導者が民主的手続きで選ばれているなら、その指導者にプロが従う方が公益に適うという思想から発している考え方で、これ自体に反対する気分は何らもっていない。

但し、

上がダメなら、下に任せるほうが良いに決まっている。

日本で武家政治が定着した理由は、本来の為政者である天皇と朝廷・公家集団が社会の変化に適応できず統治能力を失ったからである、というのは新井白石が『読史余論』で述べているとおりだ。

足利尊氏が朝廷軍に一敗した後、西国で戦力を再編成して都に攻め上ってきたとき、現場で戦う武士(=楠木正成)の提案を素人の公家が却下したことが朝廷側の敗因であった。そして日本というお国柄は、いつだってこうなる傾向があるのだ。この点もコロナ禍の最初に投稿したことがある。

ただ、一口に「下にまかせればよい」と言ってトップが安楽に寝てしまうと、下には下で地方自治の県や市町村があり、警察も自治体警察、消防も自治体組織である。それぞれの組織が割拠して、内紛が生じれば、救助どころか救助の足を引っ張るだけだ。「総司令官」が必要な理由はここにある。

日本国においては、自衛隊の最高司令官は総理大臣であるから、今回のような大災害に対応する際も「最高の指揮監督権」は岸田首相に属するという規定だ。願わくば、応仁の乱以降の足利将軍のような弱体将軍とは違い、指示すべき事は指示する、任せるべき事は任せる、そんなトップであってほしいものだ。

ちなみに、日中戦争から太平洋戦争にかけての「15年戦争」の時代、国際外交や国内政治には素人の軍人たちに全面的信用を置いたことが、その後の破滅的敗戦につながったことは明らかな事実だろう。では、その時代の日本人はなぜ軍人たちを信用したのかと言えば、あまりに腐敗した政党政治家に嫌気がさしていたからだ。その気分に乗っかる学者や扇動的ジャーナリストに耳を傾けたからだ。(権力には執着するが)カネには淡白な軍人が清潔に見えた。こんな世間の流れが日本を軍国主義へと変えていったのだろうと想像している。


要は、

自分の熟知していないことに口は出さない方が良い結果につながる。また下手な口出しをしている人物を決して信用しない。

これが民主主義社会においては鉄則なのだろうと思う。 

表現の自由、信条の自由、思想の自由は確かにあるが、社会で信用されるか否かはまた別の事である。信用に値するのは、単なる弁舌ではなく、学識と経験、つまりは実力だ。信用を得るには長い自己修練が必要で、これまた当たり前のことである。

そんな良質で有能な人間集団を育成し、組織として活用するのが民主主義国家の政治の本質であると思う。だから、選挙で選ばれた素人である政治家の為すべき事は、解決するべき問題を提示し

こうしてほしい

という基本的希望を作業目標として付与することで、それで必要十分というものだろうというのが、最近の小生の立場だ。これ即ち、シビリアン・コントロールだと思う。

戦前期・日本は明らかに民主主義的でなかったというのは、こういった側面を指して言われることだと思う。と同時に、戦前期・日本が民主主義的でなかったという点について、日本人はまだなおそこに問題があったと、徹底して理解しているとは言えないような気がしている。《失敗の検証》が必要なのは航空機事故だけではない。「敗戦」は日本史上最大の失敗である。その原因、問題点の洗い出しについては、まだまだ徹底した検証の余地が残っている。

【加筆修正】2024-01-09


2024年1月4日木曜日

断想: 「満足して逝く」というのは想像もできません

この正月には同じ市内に住む上の愚息が一泊して帰って行った。下の愚息夫婦とは年の瀬にランチを一緒にしたので年末年始は嫁の実家で過ごすはずだ — 愚息は大晦日に宿直があるとかで詳細な予定は知らないが。

まあ、倅達たちとも長い付き合いになった。独立するまで同じ屋根の下で暮らしていた時分とはたまに会っても気分が違う。


将来、小生の方が先に逝くのは自然な順序だ。その後は、小生が「うつそみ」としては存在しない世界になる。

最近、憶測することが多いのだが、人生の最期を迎えるとき、ドラマのように『満足して世を去りました』などという状態はありうるのだろうか?

送る側としては

満足して逝ったと思います

と、参会者には挨拶したいものである。

小生も、ずいぶん昔になったが、父を送ったことがある。これまでにも何度か投稿しているが、父は成功を目指して取り組んだプロジェクトに失敗し、比較的若い年齢で世を去ったから、その時は『満足して逝ったと思います』などとは話しようがなかった。


ただ、最近になって気持ちが変わって来た。

リスクを承知で引き受け、あの時代には珍しいほど欧米を隈なく巡って海外調査をし、それが実施段階に入ってから提携先の労使紛争に巻き込まれ、事業が軌道に乗らない苦悩から体調を壊し、やがて担当からも外れ、最後には事業そのものも頓挫したわけなのだから、文字通り父の人生訓であった

人事を尽くして天命をまつ

を身をもって実践したとも言える。漢楚興亡の項羽ではないが、

これ天のわれを亡ぼすなり、戦の罪にあらず

満足するまで、というか刀折れ矢尽きるまで戦った人間は、自らの敗北を天命として受け入れるはずであり、であれば父も無念であったというよりは、やっぱり結果には満足だったのではないか、と。だから『父も満足であったと思います』と、どうしてあの時に挨拶できなかったかナア、と今では思うようになった。

ただ、満足して逝くという気持ちには、小生はついになれないだろうナアとは思っている。

大体、矛盾だらけの現世で煩悩にまみれた人生の最後に《満足》などを感じるはずがない。感じるとすれば《安堵》であるか、《解放感》であるに違いない。

少し前にも書いたが、『源氏物語』は全体としては恋愛物語であるが、肝心の主人公は5分の4の辺りで死んでしまい、後は孫の世代が活動する『宇治十帖』で、これは典型的な三角関係の悲恋の話しであり、主役の人物たちの無責任さが際立つ筋立てだ。

が、平安盛期の当時、男性達は漢詩・漢文・歴史の勉学に明け暮れ、同時代の藤原公任は『和漢朗詠集』を編纂している。そんな中、女流作家の日記文学が現れていたものの、『源氏物語』が描いている情景描写はいま読んでも露骨で他の作品とは異質であると感じる。異なる人物の心理は人物ごとの意識から描かれていて、登場する人物の数だけの世界があるので、互いに分かりあえることはない。家族には支えられているが本質的に孤独である。

だからこそ、男女を問わず中年を過ぎた後は《出家》を願い、家族・友人と離れて隠遁生活を送ることを願いとするのだと思われる。

現代流の言い方をすれば、深い教養をもったエリートが書いた高級なポルノ小説に近い読まれ方をしたのではないかナアと。そんな想像をしているのだ。もし宇能鴻一郎か川上宗薫が作中に詩を挿入しながら、同じ人物群の性愛、家族愛、自己愛を大河小説として書き続けていたとすれば、『源氏物語』と似たような文学作品になったかもしれない。谷崎潤一郎が現代語訳などには手を出さず、自ら『現代版源氏物語』を創作していれば、日本文学の至宝が生まれたかもしれない。

そして、そんな作品の主役は、煩悩に苦しむこの世の人生に満足するはずもなく、最後には解放され、安堵して逝くに違いない。平安盛期に浄土信仰が浸透したのは当然である。法然上人による阿弥陀信仰と専修念仏思想がやがて生まれる素地は平安盛期に既にある。そう思っているのだ、な。

千年も前の時代を前提としているが、それでも共感可能であるのは我ながら驚きに値すると感じる。この辺りは、化学を専攻し唯物主義的であった父とはまったく違っている。