2024年5月31日金曜日

「世代交代」への動機付けは?「包括的育児・教育システム」が必要な時代なのか?

少子化で苦しんでいるのは日本ばかりではない。中国や韓国は日本よりも憂うべき状態であるようだし、西洋先進国も低出産率にずっと悩んでいる。

出産率の超長期的波動を観察したことはないが、特に文明が高度に発達して、医療の進歩などから人口が増加し、長寿化社会になって以降、今度は少子化が急速に進んできた点は、多くの国で共通していると理解している。

人類社会は、低出産率に悩んだ経験はそれほど頻繁にはなく、それでも小生の知識にある数少ない例の中には、古代ローマ帝国末期にローマ市民の婚姻率が低下する(出産率もだったか?)などから、人口停滞に陥り、そのためゲルマン民族(=周辺地域に居住する蛮族)の移民が増加して、それまでのローマ社会の変質が急速に進んだ、と。こんな事例を思い出すくらいだ。

人口については、高出産率と乳幼児の高死亡率が並存する時代がずっと続いて来た。人口増加の加速の端緒となったのは、医療の進歩で死亡率、特に乳幼児死亡率が下がった近代以降である。公衆衛生の進歩から平均寿命も長くなり人口増加率の上昇が顕著になった。マルサスが『人口論』を著したのはこんな背景からだ。まさか200年余の先に今度は少子化と人口減少に悩むとはマルサスも夢想だにしなかったはずだ。

それでは、以前の時代において、出産・育児を支えた動機とは何だったのだろう?もちろん、多産の動機は明らかであって、それは夭折すると見込まれる児童数が多かったためである。ならば、そもそも子供という次世代を育てようとする両親側の動機は何だったのだろう?

小生の個人的記憶にもよるのだが、それは《家業の継続》であったと思っている。

小生がまだ幼少期であった昭和35年(1960年)には、国勢調査ベースの「15歳以上農業就業者」は概ね30%であったのが、令和2年(2020年)になると農業、林業合わせても3%に低下している。20世紀後半から現在までに農業就業者人口は割合にして10分の1以下にまで低下したわけだ。

小生は田舎で育ったが、クラスの中の半数は農家の子供であり、残り半分の内の大半は漁家、ないしは個人商店の子供。サラリーマンの子供など、小生の父親と同じ工場に勤めていたか、でなければ公務員の家庭で、極めて少数であったと記憶している。

つまり、その当時は大多数の家庭は「家業」で暮らしていたわけだ。

人間は死ぬまで食っていかなければならない。

消費支出をゼロにするのは不可能だ。支出がプラスであれば、所得をプラスに維持するか、資産を取り崩すかのいずれかだ ― 高齢世帯に融資するような金融機関はないので資産が要る。

そもそも所得フローを生むには、リソースが必要だ。一つは「労働」という要素、もう一つは「資本」というリソースだ。資本には、不動産と機械・設備と言った動産、及びカネが含まれる ― 土地に働かせれば地代が、カネに働かせれば配当や利子が得られる。その他に、資本には無形資産(≒知的財産など)がある。例えば、著作権、特許権、職業資格などがそれに該当する。旧い時代の世襲身分が「家禄(=所得)」を伴うなら、それも無形資産と言える。しかし、資本だけがあっても労働要素がゼロであれば(基本的には)生産活動は不可能だ。自らが有する労働要素をこれ以上投入できない年齢に達すれば、生活ができない。故に、次世代の子が継承して生産を続け、所得をプラスに維持する。

これが歴史を通して存在してきた《家族》であり、従事している分野、社会的ポジション、支配下にある労働資源、資本資源の在り高に違いがあるにせよ、概ね当てはまっているはずだ。即ち、家族は世代交代を繰り返しながら活動を続ける《生産単位》である。これが基本的なロジックだと思っている。

ずっと以前に、マーガレット・サッチャー元英首相が言った

I think we have gone through a period when too many children and people have been given to understand ‘I have a problem, it is the Government’s job to cope with it!’ or ‘I have a problem, I will go and get a grant to cope with it!’ ‘I am homeless, the Government must house me!’ and so they are casting their problems on society and who is society? There is no such thing! There are individual men and women and there are families and no government can do anything except through people and people look to themselves first.

URL: https://newlearningonline.com/new-learning/chapter-4/neoliberalism-more-recent-times/margaret-thatcher-theres-no-such-thing-as-society

実存するのは個人と家庭であり、社会という存在物はないのだ、と。虚構だと。何度も書くが、小生は社会観という点については上と同じ見方に立っている。つまり、個人と家庭という生産単位が機能せずして、社会は存在しない。そう考える立場にいる。


要するに次のように言える(と思う)。《世代交代》とは労働資源の新陳代謝をはかる営みのことだ。一定の耕地、家屋など不動産を保有する農家世帯は、世代交代を行うことで、超長期的に生産活動を継続できる。付加価値を生み続けることが出来る。付加価値が所得になって生活を支えるわけである。漁家や個人企業もロジックは同じだ。では、高度に文明化した現代社会ではどうなるのか?


高齢化に伴う問題の本質は、所得を生み出す生産要素のうち、自らが有する労働資源が加齢のために最後にはゼロ、ないしは概ねゼロになってしまう所にある。

農村社会は、耕地と次世代の子供達が生産活動を続けることで、社会全体を維持するというシステムである ― 相続の慣習については省略する。もちろん「農村」というからには、複数の家族で形成される協業システムがある。協業により、生産性は一層高まり、様々なリスクに対する頑健性も増す。ここでは、「家族」と「生産」とが結合されている。それぞれの家庭が子を育てるのは、生活の継続、所得の継続というリアルな動機に裏打ちされていた。

家業を有した家庭が育児に努めるのは、親世代、子世代双方に必要な所得を得るというのが主動機であるが、日常生活では親子の愛情や家族の絆という倫理がそんな暮らし方を正しいあり方としていたはずである。更に、明治より前の封建時代にあっては、基本的に農家に移住の自由はなく、家業はその家族を土地に縛り付ける足かせとしても機能した。

そんな時代に生きた人々の心をありのままに実感するのは不可能だが、一つ言えるのは「親子ともども家族が生きるために働く」という生活感情が人々を支配していたはずで、これは「仕事とは別に家族と育児がある」という現代的な社会関係とは全く違うのではないかと想像する。

つまり現代では、家族の成員が男女を含め、独立して別々の仕事に従事し、それにとどまらず仕事に生きがいをすら感じ、仕事からの引退が即ち自分の晩年の到来と認識され、更には自分の晩年の生活は社会保障で支えられるのだとすれば、家族と育児は金銭的ならびに時間的なコストであり、そこから満足を得るべき純粋の消費になる理屈である。そして、いったん付加価値を生まない消費支出として認識すれば《1円当たりの限界効用均等》が合理的な行動基準になる。家族は、もはや生産単位ではなく、消費単位として存在するわけだ。

こう考えると、個人主義的に合理的な行動を自由に選択する限り、そうした社会に生きる人が家族を形成して、出産・育児に時間とカネをかけるのは、個人個人の趣味と選好に基づき必要最小限の出費ですませようと考えるはずである。

家族が営む生産活動に必然的に含まれていた出産、育児で世代交代が行われたのだが、生産と分離された現代の家族においては、子を産んで育てるというリアルな動機がない。育児は喜びと満足を感じる限りにおいてのみ行われる消費である。こういうロジックだろう。ミクロの視点に立てば、子は所得を生むのではなく、所得を割く対象、つまりコスト要因であるのだ ― これほどミクロ的評価とマクロ的評価が乖離するものはないだろう。だからこそ、公教育、人的投資支援に多額の公費を投入し資源配分を是正しているわけだが、賃金停滞と教育費上昇で家計には余裕がなくなっている、ということだ。

家族と社会との関係性に生じたこうした変化こそが少子化という社会問題をもたらす本質的な要因だと思っている。

というより、わざわざ書かなくとも、例えば6人兄弟で育ち、田舎から大都市に移住して核家族をもった小生の叔父、叔母たちは、一人っ子、多くとも3人の子を育てるにとどめた。次の世代は推して知るべし。心配の種はごく最近になって見つかったわけではない。

ただ、このような社会関係が現実に可能であるには大前提がある。所得を生むリソースとしての労働を提供できなくなった老後をどう過ごすかである。種々の資本リソースの働きで財産所得を得られる階層は問題はない。しかし、労働所得で生計を成り立たせる家計が多数を占めるはずだ。

現代以前であれば、自らが生産活動から引退しても、次世代の家族が占有している土地、その他動産を活用して家業を継続し、所得を生み続ける。しかし、現代においては家族と生産が分離されている。社会保障はそのために制度化されなければならないわけだ。


しかし、ここ日本社会において家族ではない圧倒的多数の他人の老後の暮らしを支えるため、どれほどの犠牲を覚悟しようと日本人は思っているのか?

この点が極めて不明確で、あまり議論したことすらない。社会保障財源に充てるための消費税率引き上げに頑強に抵抗する所からも、覚悟の不徹底が窺われる。

まして他人の子供を育てるためのコストを負担しようと覚悟する日本人がどのくらいいるのだろうか?

とっくに研究結果があってもよいと思うが、寡聞にして目にしたことはない。


何度も書いているが、社会はそもそも虚構としての存在だと小生は思っている。故に、社会と取り結んだ社会契約に基づく資産は突然に消失するリスクがある。その損失は誰もリカバーしてくれない。

とはいえ、自分が引退してからの生計を保障してくれる「制度資産」を信頼するなら、育児は純然たる消費であり、子を産んで育てるリアルな動機は家族にはない。

カネを支給すれば子を産んで育てる家庭が増えると政府などは考えているようだが、豊かになったから子を持とうとするかどうかは明確でない。子は、所得効果はプラスかもしれないが、必需性は弱く、最低育児数は(明らかに)ゼロである。つまり最低生計費を上回る裁量的金額をどれだけ得ているかで育児をするかどうかが決まってくるはずだ。近年のエンゲル係数の高まりをみていると、今後、子を持たないという消費構造が一層拡大する可能性が高い。

この辺りの家計分析もあまり見ることはなく、これからであろう。

もちろんこうした社会関係に置かれる場合でも、<世代交代システム>を社会的に構築することだけなら構築可能である。

それは、家族の成員が別々の仕事に分解されるのであれば、「家族=育児」という伝統的な価値観もまた捨て去り、家族と育児を分離し、育児活動をすべてビジネス化する。つまり、育児コストというバラバラに分かれた品目別明細書を、育児サービス購入費という一つのパッケージにまとめて支出する、そうしたサービス支出を具体化するニュービジネスを社会的に育成するという行き方だ。

子供を育てたがらない夫婦の子であっても、育児サービスに従事する従業員は、自らの生活のために他人の子供たちを喜んで育てるであろう。育児サービス購入は、そんな子育て従事者に対する報酬である。

他方、子を育てることに喜びを感じるのであれば、両親が業者に支払う育児コストを差し引いてもプラスの効用をもたらすであろう。そして、育児サービスが生み出す社会的効用は決定的に大きなものであるから、税によって育児補助金を支給するにも合理的根拠がある。

育児をアウトソースするとしても、それは明治以前の「乳母」のビジネス化であって、実父、実母を慕う子の心理に大きな変化はないはずだ ― むしろ一人っ子であっても親離れできて良い影響があるかもしれない。


別に突飛な発想ではない。

既に、日本社会は伝統的に家族が担ってきた「介護」をとっくの昔にアウトソースしている。介護従事者の報酬引き上げという課題はあるにせよ、ビジネスとしては成長分野であって、もっと自由化してもよいはずだ。

他方、育児は(今のところ)大部分が個々の母親(と父親)に委任されている ― と言っても、保育所の活用や学校へのお任せ、コンビニ弁当、メーカー菓子をみると、親が子にしてあげる育児は空洞化が進んでいるのだが。

そうすると、適応できない親は育児ノイローゼに陥るわけで、こうしたケースをゼロにすることは不可能である。加えて、親族という実体が解体された現在、核家族も満足に機能しない状態で、個々の家庭が子を育てるのは極めて非効率でもある。社会と切り離されて育つ子の精神的成長にも懸念が残る。

医療介護の分野では《包括ケアシステム》が構築されてきた。育児もまた、育児・保育・初等教育を包括した《包括的育児・教育システム》を構築するべき時代なのだろう。


書いた当人が言うのは何だが、何だか「子をつくれ!あとは社会が育てるから安心しろ!安心して働け!生きがいなんだろ・・・」と。

なるほど仕事は生きがいと思っている当人は幸せに違いないが、チャップリンの「モダン・タイムズ」を超える《社会の奴隷》に身を落とすような感じもする。

少なくとも小生は御免だが、若い世代は「面倒がなくてイイなあ」と思うかもしれない。まだゼミを担当していれば、どう思うか、話してみたいくらいだ。

「とにかく子をつくれ」ッテ、日本人の人生は公的年金制度を守るためにあるものではないでしょう。憲法を護る護憲精神にはまだ尊さがあるが、年金制度を守ることに品性はまったく感じない。

大体、家業もなく、子供の育児もせず、老人の介護からも解放される家族とは、何のための存在だろうか?人類史を貫く「家族」も「社会」という制度の中に解体、消失するステージに来たのかもしれない ― 小生には「退廃」としか感じられないが、どうすれば良いのか他に方法がないとすれば、仕方がないことかもしれない。

SF作家ロバート・ハインラインやアイザック・アシモフか、誰かほかの作家かもしれないが、どれかの作品に上に書いたような世界が描かれていたような気もする。ちょっと読み直してみよう・・・


本日、上に書いたことは、色々な論点が枝葉のように出てくると思うので、投稿に残した次第。

【加筆修正:2024-06-01、06-02、06-03、06-10】


2024年5月27日月曜日

断想: 社会で子育てを行う。本当に出来ることなのか?

自然淘汰(=Natural Selection)という言葉を嫌う日本人は多いと思う。

そもそも"Natural Selection"の"Natural"だが、キリスト教(イスラム教、ユダヤ教でも同じだろうが)を基盤とする西洋文明が心身に浸み込んだ人にとっては、人間社会には図りがたい成り行きが"Natural"であるわけで、人為ではなく神の意図に委ねる、それが「自然」に任せるという意味である。中国・老荘哲学の「無為」にも親和性の高い思想だと思っている。

日本では、自然淘汰というと「自己責任」などと言って「政府が為すべき事を為さない無責任」を指摘する向きが強いのだが、そもそも政府に出来もしないことを政府に求める思想こそ、小生には無責任だと思われるのだ、な。


なお、自然淘汰は「自然選択」とも言うが、倫理や価値観に関する主張ではなく、自然が備えている進化メカニズムをそう客観的に理解しているという事で、この理解自体は広く科学界で承認されている(はずだ)。

理性を信頼する啓蒙思想がヨーロッパで一世を風靡したあと、晩年のゲーテや英国の詩人バイロン、ワーズワースなどが生きた19世紀は、人為よりも自然をというのがトレンドになり、汚れている人間の行為と神の営みたる自然の姿。そんな風にとらえる感覚が主流になった。しかし、社会主義思想が次第に浸透し、ロシア革命も発生した。再び人間理性を信頼する国家思想が復活し経済計画の策定に政府は努力した。二度の世界大戦があり、最後にはソ連による社会主義実験が見事な失敗に終わった。そんな経験を経て、今もまだ人間の知恵で社会を良い方向へと変革しよう、というか変革可能とする思想が、この日本社会で(世界でも?)説得力をもっていること自体が、小生には大変奇妙に思えるのだ、な。

もっとマシな、というか生産的で解答可能な問題に、人間精神を集中するべきだと思っている。何より、不毛な論点で激論を続けるのは損だろう。

アメリカでは、ニュービジネスが成功して巨額の創業者利得が享受された時点で、今度は正常な市場競争が確保されているかに注意が向き、寡占化が進んだ新市場にFTC(=連邦取引委員会)のメスが入るのが常である。巨大になり過ぎた成功企業の分割が議論の俎上にのぼる。日本人にはとても受け入れられない行政の介入だろう。

Amazon、FacebookやInstagramを有するMeta、Googleを有するAlphabetは、FTCによる調査対象の常連である。FTC調査の報道がある度に株価は上下する。

アメリカ人は、こんな状態には慣れっこで、むしろ競争制限行為こそ唾棄するべき企業悪であるというのが常識なようだが、ここ日本では強権的な独占禁止行政には国民感情がついていかない所がある。

競争をさせて、劣った者には退場してもらうという理念は、日本的な和の精神とは調和しない側面があるのだ。

それでも「世間」という広い場においては、失敗することがある。全て失うこともある。「一から出直しや」という台詞に哀れさを覚えるよりは、「人間、七転び八起きや」と笑い飛ばすのが、古来から継承してきた日本人の心意気だろう。これ即ち、自然淘汰の発露であり、成功も失敗も運に任せるということである。『人事を尽くして天命を待つ』という気構えは、兵役の義務を負っていた戦前世代なら、感覚として分かっていた当たり前のことであった ― 実際、小生の亡くなった父も何かといえばこう言っていたもので、だからといって、決して「投げやり」というのではないのだ、な。

このように世間は生き馬の目を抜く競争社会であっても、家族はそうではない。成功や失敗で失われることのない血の絆がある。それが家族だと。親族だと。故に、日本社会においては「家族」と「血縁」が最後の拠り所になってきた。

実は、この感覚は西洋でも根底ではそうであるわけで、だからこそ英国・サッチャー改革も論理として可能であったわけだ。少し前の投稿でも引用したが、

... they are casting their problems on society and who is society? There is no such thing! There are individual men and women and there are families  ... (出所はここ

確かに「社会」という存在は極論すれば一つの「虚構」。実在するのは「個人」と「家族」である。いわゆる保守派が、家族を社会基盤として強調するのは、確かな論拠がある。小生は、かなり偏屈な保守派だから、この社会観には賛成しているのだ。

即ち、家族が機能していてこその「市場経済」、「自由主義」、「グローバリズム」である。

経済は活性化したい。ところが「家族」、「血縁」が、健全な世代交代を維持する上で、機能不全を呈している。だから「社会」に頼る、というか頼りたい。社会が「拡大家族」になって家族の代替機能を果たそうとしている。果たさせるしかない。

現在時点の日本社会の実態は、要するにこういうことだろう。なるほど日本人の感性には合致した方向だ。

しかし、国や社会は崩壊する家族の代替物になりえるのだろうか?

そもそも「社会」とは、一つの抽象概念であって虚構である、というのが小生の「社会観」である。「国会」で法律を作れば、子育てを担う社会、つまり「拡大家族」なる存在がヒョコンと生まれるのであろうか?メディアが放送すれば、子育てに協力する社会が目玉焼きのように出来上がるのだろうか?法律を作って問題が解決できるなら、なぜ「失われた30年」という問題を解決できずに来たのか?

世代交代は家族や親族で行われるもので、苦楽、子育て、助け合い、すべて血縁どうしで相談しながら、行うものであった。

そんな暮らしぶりが基礎であり、それを支える気風(=エートス)も共有されていた。

ところが、マア最近では、こんな保守的慣行に対して「本来なら政府が為すべき活動を、血縁や家族に丸投げしている」と、そんな批判が寄せられる。

が、それは特定の社会観に立ってこそ初めて口にできる見解なのである。そして、こんな意見が立派に(?)通る時代は、日本という国が成立してから「現代」が初めてである。いまは

子は社会が育てる

という理念が広がりつつある。その理由は、煎じ詰めれば

家族が子育てを担える社会環境ではなくなった

いずれにせよ、気風(=エートス)も倫理も、結局は、生産のあり方、暮らしのあり方によって、決まるものである。日本社会の根底にあった意識や家族観、美意識、絆のあり方等々日本社会を構成していた精神的な要素すべてが、いま変化しつつある。こう認識するべきなのだろう。

だとすれば、アメリカ社会は別の路線を歩むとして、日本社会が《拡大家族》として機能する。というか、そんな機能を担いうるような制度、システムを新たに構築していく。

これが現代日本が直面している課題というものだろう。


とはいえ、そもそも家族という集団は、効率性基準には馴染まないものである。知識、体力に優れた子供は家族の中でも評価、優遇され、劣った者は家族の中で冷遇されるなら、家族の絆は直ちに崩壊するであろう。「問題児」には暖かく寄り添って保護し、優秀だからと言って報酬や待遇改善を求めたりはしない、そんなモラルが必要になってくるはずだ。

何より、家族の中では全ての成員は《平等》でなければならず、多く稼ぐ人は弱い立場の人のために分け与え、その分け与える行為に自ら喜びを感じることが出来なければならないだろう。法を犯して悪行を行った者を排除するなど、警察を代行するのと同じだ。笑止極まりない。社会が拡大家族として機能するとすれば、善悪の裁きを一体どうするのだろう……

もしこうした方向へ、日本社会が収束していくならば、小生には《共産主義社会・日本》にしか見えないのだが、しかし日本人にとっては実に暮らしやすい社会になるだろうと考える。「縮退」ではなく「収束」の名に値するような状態になるなら、そうなってほしいとすら思う。

しかし、現時点の世界環境の中で、競争原理ではなく、拡大家族としての日本社会を目指すのが、本当に最良の選択なのだろうか?・・・と。本当にそんなことが出来るのか?

深い疑問を感じます。


古代ギリシアのアテネでは、子育てに窮した親は「余った子供たち」を特定の場所に立たせて、「奴隷」(と言っても近世の奴隷とは質が異なり、専門の仕事を保障される代わりに移動の自由を失う階層というほどの意味合いであったが)、他人の子を労働力として扶養できるほどの富裕層に引き取ってもらう慣習があったそうだ。

行為としては(エクスプリシットな金銭授受がないとしても)人身取引に該当するので、現代民主主義社会では違法であるが、システムとしては機能していたに違いない。が、これは明らかに、民主主義の源であったアテネも一つの都市として「拡大家族」ではなかったという証拠である。他人の子を譲渡され私有できる都市国家が全体として家族であるわけがない。


今後、イノベーションと経済成長を追い求め、スタートアップ企業を支援し、豊かな社会を目指しながら、日本としては拡大家族となり分配を平等化して子育てを担っていく、そんな日本社会を本当に構築できるのだろうか?

日本の庶民は、今でも家族が最後の拠り所だと思ってますゼ。ここを崩れるがまま放っておいて、社会が面倒をみるから、と。

何だか違うネエ・・・小生は深い疑問を感じます。

何だか20世紀に破綻した「ソ連」を別の意匠とシナリオで再演するようである。


それより経済の「日本病」を直すことが先でござんしょう・・・診断と治療方針なら経済専門家がほぼほぼ一致した見方をとっているはずだ。誰も嫌われたくないのでメディアの場で率直に語らないだけである。ズバリ極論しよう。資本、経済活動とも《聖域を設けず》自由化を徹底し、《既得権益》を解消し(これだけでもプラスである)、「マーケット」に委ねるのが(日本社会だけではなく世界にとっても)特効薬である。市場支配力の不当な行使に対して公取が摘発を強化するのは勿論だ。このブログでも何度も書いてきた ― 自民党政権には、というか自民党の支持基盤をソックリ(?)頂こうとしている他政党も同じだが、チョット無理かもしれませんが。

ここで話は最初の自然淘汰に戻る。

品質管理のQCでは「重点志向の原理」があるが、問題の8割を解決するには2割の要素に着目すれば十分である。8割を解決できれば、明るい将来をイメージできる。政府はそこまでやればもう十分だ。政府がすべての問題に解を出そうとはしないことだ。

【加筆修正:2024-05-28、05-29、05-30】

2024年5月25日土曜日

断想: 手塚治虫からジブリへの置き換わりは意外に深い意味を持っているかも

今日は「科学」について書いてみたい。このテーマは何度も投稿してきたので(例えばこれ)、内容が深まっているかどうかが、我ながら気になるところだ ― ここがブログの利点とも言える。

小生の幼少年期には、まだ子供たちの遊びに「戦争ごっこ」があったし、戦記コミック、戦記アニメも多数あった。『のたり松太郎』や『あしたのジョー』で人気を博した《ちばてつや》も戦記漫画、というより反戦漫画だと思っているが『紫電改のタカ』を書いている。親世代にとって「太平洋戦争」や非戦闘員への「空襲(=空爆)」は自ら経験した戦災の記憶であったから、戦争が日常的に語られるのは、当たり前でもあった。

その頃は、当然ながらジブリはまだなくて、人気作品は『鉄腕アトム』や『鉄人28号』だった。もちろん人の好みは違うので、だからこれが最高傑作だというつもりは毛頭ないが、手塚治虫の作品は、他にも『ブラックジャック』や『火の鳥』もそうだが、科学への信頼と科学の限界を意識する二つの想念が混ぜこぜになっているのが、魅力の源泉だと(勝手に)思っている。信頼と限界と書いたが、とにかくそこには科学に向ける強い眼差しがあったように思う。その根底には、やはり「敗戦」という否定し難い経験があったような気がする。

戦争は、国力の優劣を大量の犠牲とともに露骨に示すものであるし、悲惨な敗戦となった以上は、旧・敵国の優れた科学水準に対して(後悔が混ざった)憧れの気持ちをもつとしても当然である。戦争の過程で原爆を投下されたことを理由に、原爆を生んだ科学文明を忌避し、否定するという気持ちには、昭和20年代の日本人はならなかったわけである。

このような冷静さに小生は先達に対して尊敬したい気持ちになる。


小生にとってジブリ作品は『風の谷のナウシカ』が始まりであったが、全体としてみると、宮崎駿を読んでいると、科学への不信と自然への回帰という意識が自然に浸み込んでくる感じがしたものだ。

で、思い返してみると、日本の国内産業が空洞化し、技術革新と生産性向上への意欲が衰え、逆に科学技術への軽侮の念が社会的に高まって来た時期と、手塚作品からジブリ作品への置き換わりが進んだ時期は、奇妙にシンクロしている、と。そんな風に回顧しているところなのだ。

その頃は、戦前に生まれた世代から戦後に育った世代へ交替する時代に当たっていたのだが、この価値観と意識の変化が、戦前と戦後の教育の違いからもたらされたものなのか、公害という目の前の現象と企業の独善を目にした日本人の自然な反応なのか、小生にはハッキリとは分からない。

何度も書いているが、価値観、法制度、文化、文明は、その社会の根底を支える《生産関係》、消費者目線から分かりやすく言えば《暮らしのあり方》という言い方が近いと思うのだが、こうした下部構造によって規定される上部構造である。そんな社会観に小生は立っている。

こうしたマルクス流の社会観にも反対論はあるわけで、上部構造から下部構造へのフィードバックもあるのだと。こういう指摘もある。例えば、マックス・ウェーバーなどは、西ヨーロッパの資本主義社会形成においてキリスト教新教派の価値観(=プロテスタンティズム)が社会的な気風(=エートス)となって決定的に作用していた。そう観ているようだが、これは極めて外面的な観察ではないかと思う。

イタリアで発展した商業資本主義は資本主義モデルとは異質である、と。イギリスで展開した産業革命は、新教である英国教会、というよりピューリタン(=カルヴィン派信徒)の精神が作用したものである、と。旧教・オーストリアが新教・北ドイツに比べて経済的後進性を色濃く残したのはカトリックのせいである・・・というのは、太陽が東から西に動いていくのは明らかな観察事実であるとする「天動説」と似ているような気がする。

日本に関連してウェーバー風の観方を採るとすれば、明治維新後の近代産業発展において、江戸時代以来の武士の精神が日本人のエートスとして継承され、それが大いに寄与したのだ、と。そういう観方はあってもよい。しかし、こんな認識は贔屓の引き倒しであると小生には思われるのだ、な。

大体、そんなご立派な武士の精神をどれほどの日本人がもっていたというのだろう。その時々の社会状況に対応しながら、都合の良い価値観と経済観、社会観を使い分けてきた、というのが現実の日本精神史ではなかったかと思っている。この辺りの国民精神史の歩みは、昭和から平成、平成から令和と時代と経済状況が変わる中で、繰り返し繰り返し、同じパターンが確認できると思う。

なので、日本においては、価値観や主義、思想は、社会環境の結果であって、社会を変えてきた原因ではない。

科学への信頼を毀損するような現実がまずあって、科学の意義を疑う価値観が登場してきて、それが正しいと認識され、実際にも日本社会の科学離れが進んだ。そして、それは正しい選択なのだと人々も考えた。それは、そもそも減量経営とコスト節減を進める経済の現実から要請されていた路線でもあった。

科学への期待と関心の弱まりが、日本経済全体の弱体化につながっていると観ているのだが、何事にもエビデンスを求める最近の流行とは矛盾しているようでもある。

しかし、与えられた事実やデータが自らの主張のエビデンスになりうると判断できるか否かは、統計学の担当であって、その統計学が科学ではないことは明らかである。

エビデンスという言葉の流行とビッグデータ技術の発展との間にも深い関連性がある。AIもビッグデータの所産である。とすれば、AIの推論がエビデンスとして承認されるとしてもビッグデータ文明がもたらす自然な成り行きだろう。が、これは現代のテクノロジーで可能になった統計学である。


科学は、統計学以前の知識と命題から理論的に構成されるものだ。そして科学的命題は、観察されたデータを素朴に説明するものではなく、本質への洞察から得られるものだ。

 ―― 単なる経験論が科学にはならないことは、ドイッチュ『無限の始まり』でも強調されていることで、これが本筋である。つまり、いくら多くのエビデンスを集めても、そこから信頼できる「良い科学」が形成されるわけではない。

故に、ビッグデータから科学が自然に生まれ出て来るわけではない。ビッグデータ技術を磨いても、だから科学的認識が得られる、というわけではない。日本は、何だかこの辺りを誤解しているかもしれない。大丈夫だろうか。「良い科学」はカネとコンピューター資源をつぎ込んで自然にアウトプットされては来ない。頭脳が要る。その前に、科学的思考が好きでなければならない。


同じコロナ感染で多くの国が苦境に置かれた時、問題を科学的に議論しようとする西洋と、道徳的に、あるいは統治の必要性から議論しようとする非西洋とで、大きな違いがあったと思っているが、何が社会の進歩をもたらす究極的要因であるかで、それを「窮理学(=物理学)」の精神に求めた福沢諭吉の文明論は、まだまだ、現代日本社会をみるときにも有効なのじゃないかと思っている。その意味では、福沢の『学問ノススメ』もまだまだ現役であるのかもしれない ― (江戸期に生まれ明治で仕事をした)福沢が「差別主義者」としての一面をもっていると、いま非難する人も一部にはいるようだから、軽薄な現代日本社会の中で、福沢がどの位までその現代的意義を評価されるかは分からないが。


そもそも人間の身体で進行している生理・化学的プロセスが精密に解明されてきたのは、ごくごく最近のことである。それでも生命現象の本質はまだ分かっていない。精神的なプロセスがどのようなメカニズムで決まって来るのかは、もっと謎である。まして多数の人間集団が構成する社会の内部で、何が発生・消滅し、どんな出来事が起こるのか、起こり得るのか?こんな問題に解答できる社会科学はまだない。せいぜいアイザック・アシモフの『ファウンデーション・シリーズ』の通奏低音である「社会心理学」を想うに留まるのが現実である。

現状の政治技術は、例えば何の生理学的知識をもたずに医療行為をしていた江戸時代の医者を連想させる。

社会に関しては、まだ精密科学がないが故に、本来は個人に課される倫理を社会問題に流用し、足りない所を法律と規則で管理しているわけだ。

 ―― 経済学という「社会の生理学」があるが、まだまだ社会科学として発展途上にある。だからだろうか、戦前期からバブル景気の頃までは論争が社会的な関心を集めていたが、「あれから40年」、経済学への知的関心はずい分弱まったようだ。経済学者、というかもっと広く社会科学者の論争が注目されることは、欧米の比ではなくなってしまった。仕方がないので、小生はアメリカ経済に関して展開されている論争をフォローしている。日本では、せいぜい「調査」とも言えないような「世論調査」がメディア企業によって定期実施されている位である。

こんな状況も、科学以外の方法で、社会問題にアプローチしたいという日本人のホンネの感性を反映しているのだろう、と思っている。

【加筆修正:2024-05-26】


2024年5月21日火曜日

断想: 強い権力は消滅する方が暮らしやすい

よろず権力には巻かれざるを得ない。だから、権力は弱い方が居心地が良い。

人によっては、外国が攻めてきたらどうすると言いそうだが、心配はご無用だ。

いま日本には米軍がいるが、いつまでいるかは世界史の論理に従うだろう。万が一、中国軍が来るとしても、いつかはいなくなるだろう。どこか外国のために日本人が先鋒になって戦うほど馬鹿々々しい事はない。それが日本が日本であることの意味である。

何ごとであれ、「上」と呼ばれるものは邪魔なものである。

俗に「上から目線」という表現がある。

小生が青少年であった頃は、こんな言葉はなかったのだが、なかったからこそ「上意下達」とか「ド根性」、「石の上にも三年」とか、合理的指導とはかけ離れた言葉が使われていたのだと思う。

「強い権力」があると普通の人は息が詰まるものだ。

「強い権力」は出来れば消えてほしい。

よほどの君主制支持者でなければ、こう考えるのではないだろうか?

そもそも日本社会は、古来、絶対君主の登場を歓迎しない傾向がある。天皇は関白の助言を受け、明治以降は内閣や参謀組織の輔弼の下にあった。将軍の側には大老、老中、側用人がいた。

強い権力を否定する原理の根底には、強い支配力の否定と社会自然のメカニズムへの信頼があるもので、この思想が経済分野に向けられると独禁政策と競争環境の維持という基本政策につながってくる。

政治に向けられると、当然、複数政党の競争と有権者による選択という政治システムになり、今はこのようなシステムを「民主主義」と呼んでいるわけだ。

ところが、日本では《自民党総裁=総理大臣》という実質的な一党独裁が、なぜか短い例外的期間を除けば、ずっと続いているわけだ。

もっと奇妙なのは、日本人自らが、こんな状態を非民主的状態とは痛切に感じず、むしろ日本社会の安定性として評価し、受け入れているところである ― だからこそ、不祥事が発生すると、政治が信頼できなくなったとつぶやきつつ、選挙を棄権するという、国際基準からは逆パターンの行動を示したりする、どうもそう思われるのだ、な。

為政者が無能なら、斜に構えて

イヤな世の中よのう・・・

と、ふて寝をするわけだ。実に、非民主主義的である。おそらく、有能な君主による独裁でないという点だけは、それはそれでイイ、と。そんな感性があるのだろう。

少し前に、こんな事を投稿した:

実は、久しぶりに宏池会出身の総理大臣が現れることになった2021年の9月末、こんなことを投稿している:

ところが、宏池会から首相が輩出されるというのは、あまり縁起のよいことでもないのだ、な。

そもそも宏池会の創設者である池田勇人・元首相が、首相在任中に癌を発病し、任期を残して退陣、その後一年も経たないうちに逝去している。

その後、宏池会に縁のある政治家が自民党総裁になったのは複数回あるが、(例外とも言える一人を除いて)いずれも自民党にとっては悲劇的な状況を招いている。

今回、岸田首相によって宏池会そのものが解散されるに至った。これが自民党という政党とそれが代表してきた「保守政治」を、どう変化させていくのか、現時点で見通すことはできない。

どうも何だか、宏池会の縁起の悪さが現実のものとなりつつあるようで・・・と感じるのは小生だけだろうか?

前にも書いたことだが:

 本当の所は、自民党が二つに分裂するのが、日本人にとっては政治的選択肢を増やすという意味で、最もハッピーな帰結なのだろうと思う。個人的には、それを熱望している。

ますます、この願望は強まっている。と同時に、なぜそうならないのかと言えば、同じ投稿で書いているように:

元々は細かな些事で内容希薄なミステークが(誰かによって)利用され、デマとなって、まことしやかに、あるいは「犯罪」にフレームアップされて拡大され、メディアと有権者が政界スキャンダル報道に踊るという構図は、現在時点の日本だけではなく、遠い昔、普通選挙実施後の日本の社会そのものでもあったわけで、全ての日本人が参政権をもつ民主主義社会の実現に戦前期・日本は見事に失敗したのである。

これが戦前期・日本のデモクラシー発展史の最終到達点であり、この失敗のトラウマは現時点の自民党政治家たちにも、おそらく、共有された社会観として受け継がれているのではないだろうか?

最近もまた、上川陽子外相の舌禍が以下のように報道された:

この方を私たち女性がうまずして何が女性でしょうか

こういう典型的な「切り取り」と「フレームアップ」は、ほとんど「捏造」と言うべき報道なのであるが、踊る世間の軽薄さがメディア・ビジネスに利用されているわけでもある。

カンナ屑のように可燃性が高くて軽薄な日本社会の今のあり様を観察しながら警戒(それとも絶望?侮蔑?)しているのが日本の政治家だとすれば、

政治に絶望する日本人と、日本の社会を決して信頼しない日本の政治家、日本の政府と。この二つは鶏と卵の関係にある。

こう考えてもよいようで。

そこへ行くと、憲法と法律、あとは自己の良心のみに基づいて司法判断できる裁判官は実に幸せだ。

メディアは「第4の権力」だ ― ネット空間も侮れない。

そのメディアが日本人の言葉づかいを監視しては「不適切」だと攻撃している。

「言葉使い」の窮屈さが、表現の自由を根本から侵しているという事実認識を語るメディアが現れてもいい。にも拘らず、現れないのは何故か?

ワイドショーでは、放送側の主張に沿うように言葉を切り取っては、

なぜそんな言葉を使うかと言えば、そういうホンネが隠れているからですヨ

などと、内心のあり方にまで踏み込んで批判している。まるで、中世ヨーロッパのローマ法王が、観察可能な行為だけではなく、内心の信仰のあり方にまで立ち入って評価するようなものだ。たかが法人であるテレビ局に人の内心を云々する権限があるのだろうかネエ・・・一般公衆にプロパガンダしてくれと誰が頼みましたか、許可しましたかと、疑問がたえませぬ。ゆゆしき状態ではありませぬか、と。

つまるところ、異論を唱える異質な分子を「風を読まない」と言って排除しようとする日本社会の特性に原因がある。

多様性に価値があると強調しながら、ある価値を押し付ける。その他を排除する。

排除できるほどの影響力をもつ言論機関が日本にはある。

言論空間であっても「支配的地位」を占める機関があれば暮らしづらい。

「強い権力」は消滅する方が暮らしやすい。

広大な英語空間には言論界を支配するほどの寡占メディアはない。新聞、テレビを世界規模で支配する巨大資本もない。NYTもWSJもグローバル・インフルエンサーには程遠い。

それに英語空間には多様な多民族が暮らしている。価値観も色々だ。だから、A局がああ言えば、B紙はそれに反対して批判する。

もし移民政策を整備拡大して、移民系日本人が10パーセントを超えれば、多分その辺りから日本社会も目に見えて変化していく可能性が高い。

前にも書いたが、早くそんな時代が来てほしい。

その代わり、多様性が行き過ぎて、日本社会の絆や凝集性が弱体化するかもしれないが、何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、現代日本社会は余りに窮屈だろうと感じるのだ、な。

移民受け入れ政策は、(教育制度と併せて?)日本という国の将来を決める決定的な要因と思われる。それには、政治的にも経済的にも、自由な選択肢が常に提供されるようなシステムにしておくことだ。

【加筆修正:2024-05-23】

2024年5月19日日曜日

ホンノ一言: この提案には全面的に賛成したい

旅行から帰ってきて最初に目に入った記事がこれだ(一部抜粋):

具体的に国家のプロフィットセンター、つまり投資部門とは

  • 教育レベルを上げる(明治維新の成功)
  • 理系の大学研究費の増額(いまはまともに研究もできない)
  • 新技術の開発(核融合など)
  • IT化、キャッシュレス化
  • 海外から集客できる国家事業(万博、五輪、ワールドカップなど)
  • 必要なインフラ(リニア、羽田の大規模拡充)※使わない空港とか箱ものなどの不要なインフラはコストにしかならん
  • 起業の推進

などであるが、こうした費用はここ20年大きく削られて国の投資が激減しているわけでこれで景気が良くなるわけがない。アメリカは世界一の軍事開発や石油に変わるシュールガスを開発して産油国に復活するなどしてるではないか。反面、日本は原発を10年以上止めてその技術も相当に失われている。

要するに、国全体のコストセンターとプロフィットセンターを巨視的視点から的確に認識して、成長(=未来)にとって最適な戦略を構築すべし、そして明るい未来をイメージすべし、こういう至極真っ当な指摘をしている。

小生も100パーセント賛成である。

政府がアクセルを吹かさずとも、規制緩和(と独占禁止政策)を徹底して「マーケット・エコノミー」に任せておけば、「小さな政府」になってコストセンターを圧縮できるし、グリーンスパンも強調していたが、それだけで大なり小なり、曲がりなりにもマクロ経済はうまく行くものだが、この点はまた別の機会に。


格差是正、貧困撲滅、少子化脱却など、最近流行の目的が一切入っていない所に、物事の本質を洞察する知性がある。

例えて言うと、ボーリングが上手になるには最終目的である10本のピンを見ていても駄目である。大事なのは、ステップとスイング。それからターゲットピンに意識と目線をフォーカスすることだ。

格差是正は出来れば理想的だ。少子化脱却も出来れば理想的だ。しかし、これらは社会現象の最終的結果であり、政府の政策調整でダイレクト・コントロールが出来るわけではない。というか、コントロールするための政策に踏み切ると、予期できないハレーションを引き起こし、激しい社会変動をもたらすはずだ。

戦略的政策には適切な目的設定が不可欠だ。この辺のメリハリある考察が上の提案には滲み出ているのだ、な。

ちなみに引用させて頂いたブログ著者は小生が愛読する一人である。


実は、この次の下りには笑ってしまった:

いま必要な政治家は政治のプロでは無く、経営経験のある人材であり、高齢議員はとっとと退いて貰って、投資センスのある若い政治家に日本を任せるのなら国債発行なんぼのもんじゃいなのである。

現在、国会で議席を占めている議員達だが、「政治のプロ」と言えるほどの人物がどれほどいるのだろうか?

大半は、「政治のプロ」ではなく、「選挙のプロ」である。選挙のプロは、当選すること自体を目的とする。議員の秘書は当選作戦を練り上げる参謀だ。東大に合格させること自体を目的とする受験予備校と、候補者を当選させること自体を目的とする現代日本の政党は、組織理念がよく似ているのだ、な。東大合格者を増やすことと、国政(と地方)選挙当選者を増やすことと、とても似ているでしょう?数が増えれば組織は発展するわけだ。

見事当選してから以後の政治活動など、小生の地元選挙区から選出された議員ですら、全く聞いたことがない。「自己評価レポート」くらいは毎年提出してほしいくらいだ ― おそらくこれも秘書がレポートを作成するのだろうが。

何をしたくてそれを目指すのか?ここが極めて希薄である人物が大半なのだろう。

いわゆる「制度疲労」が目立つ情況というのは、こうした情況に他ならない。 

医者としての仕事に没頭するより医師国家試験に合格すること自体を目的として頑張る御仁がいる。裁判官、検察官、弁護士のどれでもよい、ただただ法曹資格を得たいがため司法試験をうける御仁もいる。

人の行動を批判するつもりなどサラサラないが、

動機薄弱な人物が合格者の大半を占めると、その制度の目的達成が遠のく

これだけは言えるわけだ、な。

上に引用したブログ著者が、日本の「政治家?」をみる目線は、まだまだ暖かい。

2024年5月18日土曜日

初瀬参りをしてから

カミさんと二人で京都、奈良へ行ってきた。どこに泊まるか迷ったが、泊ったのは奈良だ。奈良の方が京都より混雑していないし、宿泊費も相対的に安価である。食の楽しみも、知られていない様で、実はレベルが高い。地酒も、これも知られていないが、美味である。小生たちが泊ったのは昔からある猿沢の池近くのホテルだが、ロビーに人が溢れたり、エレベーターが満員でやり過ごすなどということは、朝夕一度もなかった。


今回の主目的の一つは長谷参りで、もう一つは知恩院で数珠を買う事だった。

着いたのは夕方で翌日が実質第1日なのだが、そこに長谷寺を持ってきたのはオーバーワーク気味で普段は歩かないカミさんが「足が痛い、足が痛い」と言い出した。




長谷寺は399段の「登廊」で有名だが、単調な登りが続く階段は確かにハードだ。そのハードさも桜、牡丹、紫陽花をみれば癒されたのだろうが、牡丹には遅く、紫陽花には早い参詣になったのが残念だ。

初瀬まゐり なごりの牡丹 たづねつつ 
紫陽花を みるにはまだし 長谷の寺


知恩院に行ったのは次の日である。 足に来たカミさんは知恩院三門前の石階も辛い様子だ。

初夏や 祇園をとほり 円山に

宇治の平等院を久しぶりに観てから奈良へ帰った。


いわきに住む弟と旅をしてから何年たっただろうか。その日は雨で、水嵩の増した宇治川の川辺を水音を聞きながら歩いていると、小生と弟とどちらが言ったのか忘れてしまったのだが、「アッ、翡翠だ!」と二人で驚いたのを覚えている。


 宇治川の 川音きけば いまは昔

    はらからと歩みし 旅をしぞ思ふ 


最後の日は、西ノ京にいって、唐招提寺、薬師寺からも御朱印をもらう。唐招提寺は変わらぬ。薬師寺は変貌した。変わる薬師寺と変わらぬ唐招提寺と。どちらが善いのか、小生には判断できかねる。しかし、小生は三重の東塔だけがあった昔の薬師寺が好きだ。

唐招提寺礼堂の側で写真を撮る。この場所で陽子と二人で写真を撮るのは、1984年10月に奈良を旅行してから、実に40年ぶりである。

奈良駅に戻ってから、餅飯殿商店街に入り、ならまち界隈を散策した。



それから、とある小店に入り薬膳料理と茶がゆを食した。

ならまちに 初夏のきて 茶がゆかな

奈良駅まで歩き、地酒「百楽門」を二本、「八咫烏」を一本、「金鼓」を一本、宅宛てに送り、リムジンバスで伊丹空港に戻る。

北海道に帰ると激しい雨だった。高速を走っていると篠つくような豪雨になり、「なんでこうなるンだろうな」と愚痴りながら、それでも飛ばしていると、札幌を過ぎる辺りから小雨になったのでたすかった。



2024年5月9日木曜日

「子持ち様」という新語についての感想

 TVのワイドショーで<子持ち様>という新語が、最近、愛用されるようになった。

どの程度の現実的裏付けがあることなのか、現在時点の職場の現状については、段々と疎くなっているので、小生にはどうも実感がわかない。

ただ職場で「子持ち様」という言葉をそれなりの数の人たちが使う心理の根底には、

子育てという私事を職場に持ち込まないで。迷惑なンだけど・・・

と。こんな(他人に迷惑をかけない?)「専業主婦世帯」を標準とする、といった風な価値観も窺われる気がする。

しかし、こういう価値観はもう歴史的役割を終えた。そういうことだと(個人的には)観ているし、実際にもそうなる。

言うまでもないが、小生が仕事をしてきた環境では、「子持ち様」という単語は存在しなかった。「同棲」はともかく、婚姻届けを提出した夫婦に子供がいない状況は、極く極く少数で、核家族であれ、大家族であれ、結婚すれば子供が生まれるというのが社会常識であった。婚姻率は高く、年齢も今に比べるとずっと若かった。こんな社会状況で「子持ち様」という言葉が使われるはずはなかったのだ。

そもそも「子育て支援」なる概念が、「身内」ならいざ知らず、社会において形成されてはおらず、まして共有などされるはずがなかった。

「男尊女卑」、「男性社会」と言いたいなら、言わば言え。大正デモクラシーの日本人が江戸時代の切腹を「許されざる残虐な刑罰」と非難しても意味はない。今日の日本人が明治以来の(農村はまた別であったが)男性中心社会、専業主婦と家庭のあり方を非難して、いかに酷い時代であったかと責めてみても、意味はほとんどないのだ。

考えても見たまえ。

洗濯機も、掃除機も、炊飯器もない。エアコンも、電子レンジも、ガスレンジもないのだ。米は竈で炊く。最初チョロチョロ、中パッパだ。焼き魚は七輪を使って炭火で焼く。風呂は薪を燃やしてわかすのだ。風呂番をしないといけない。時代を下った小生の亡くなった母親でも、小生が幼少期の時分は朝から夕方まで家事に時間を費やしていた。夕方には疲れて昼寝をしていたものだ。祖母の時代には、井戸で水を汲む作業まであった。家族の誰かが担う必要があった。と同時に、近代化された社会で農村から都市に移動した家族は、生活の糧を、つまりカネを稼ぐ必要もあった。問題はシンプルだ。多くの家族は似たようなパターンで問題解決をした。バカでもなければ、同じ環境下で、人は似たような選択をするものなのだ。

何度も投稿しているが、社会の習慣や価値観、理念という上部構造は、生産という下部構造によって規定されるものだというマルクスの社会科学を、この点では信奉する立場に小生はいる。価値観や倫理が社会を決めるのではない。

基本的には似ている平均的な庶民が、毎日の暮らしの必要に迫られて自ら選ぶ生活のあり様は、自然に似てくる。それが社会の大勢となり、支配的な生活様式、つまり標準モデルになる。すると今度は、そんな暮らし方や生き方は「正しい」とする道徳や倫理が形成される。道徳はやがて美意識となり、その意識に適った美談が生まれてくる。そして、社会は安定し、長く続くことから、国民は広く一定の気風(エートス)を持つに至る。人々は特徴あるマナーを重んじ、他の時代や他の国民と差別化された言動を表す。


〽妻をめとらば 才たけてエ~

〽みめうるわしく 情けありイ~

〽友を選ばば 書を読みてエ~

〽六分の侠気 四分の熱~

詠う人はもう少ないだろう。しかし、ある時代においては、この「人を恋うる歌」が広く愛唱された。自らの生に正しさを感じ、やがて善いという信念になり、美しいと感じる自意識が出来あがれば、歌が生まれ、詩になり、その時代の趣味に沿った芸術が生まれる。黒澤明の映画『生きる』を観たことはあるか。これが文明なのだろう。

しかし、上のような時代は過去になった。知識人が「それは間違っている」と考えたからではない。世界の変化、生活環境の変化が別の暮らし方を迫るからである。(実は)こんな事は誰でも分かっている。口先上手な人がいくら独りで弁舌を尽くしても、大衆は聞き流し、それで社会が変わることはない。この意味で、理念や価値観は結果であって原因ではない。


一つの時代に専業主婦世帯が多数を占め、それが標準となった。それに対して、専業主婦は女性の就業意欲を抑圧していた「悪習」であったと、現代人がいま批判する。

それは今だから言えることでしょう

この一言で終わる。歴史を語るにはリアリティを共有する感覚が不可欠なのである。

そして、マルクス派経済学者なら、こうも付け加えるはずだ。

社会は常に「歴史性」という制約をもっています。だから「〇〇時代」が形成されるのです。いまあなたが言う専業主婦モデル批判こそ、弁証法で言うアンチテーゼです。アンチテーゼが提起されることで、社会の矛盾がアウフヘーベンされる契機が生まれ、初めて歴史は発展できるのです。

つまり従来モデルへの批判を超えるジンテーゼたる新モデルを提案しなければならないわけだ。

それには、マルクスが『経済学批判』を超えて著した『資本論』に対応するような現代日本の社会理論が出て来なければ、結局のところ、出来ることだけをやり続けて、最後にはスパゲッティ化した子育て支援政策になるのは間違いないところだ ― マ、年金もそれに近い発展史を歩んできたが。

いや、いや、話しが逸れてしまった。それに大きくなりすぎた。

さて、「子持ち様」という新語について、だ。

子育て世帯を経済的に、また時間的に優遇するなら、子育てから解放されている人が、子育て世帯に支給されるサービスをカネの負担や拘束時間の形で負担する。そんな結果になるのは必然的なロジックだ。

もし日本社会の中で、あるいは会社の内部で、自分は関係ないのに他人の「子持ち様」を助けてあげる義務を押しつけられている、と。そして不満をもつ。こう感じる人が大半を占めるなら、

社会が子供を育てていく

という理念は、日本社会においては実行不可能である。

小生が育った時代において「子持ち様」という単語がなかったのは、

親族が子供を育てていく

という共有された常識があったからだ。故に、子育てと職場は(原理的に)無関係であった。

若い夫婦に子供が生まれれば、親類である祖父母や叔父、叔母も(もちろん伯父伯母も)忙しくなるのは当たり前でどの家庭も同じ、疑問などを持ちようがなかったわけだ。実にシンプル、議論のしようもなかったのだ、な。

実際、若い夫婦に子供が1人生まれたとして、親類が集まれば祖父母4人、叔父、叔母他が両家併せて概ね6人、合計で10人にはなる ― 実際にはもっと多かったか。預かるにしても、子守をするにしても、簡単なことだ。このように子供は育っていった。

親族が近隣に住むという社会状況が失われ、子供は核家族で育てられることになった。それでも主婦専業の常識が機能していたおかげで、育児活動に(時に実母?や姉妹?に援けてもらう緊急時があったにしても)大きな支障は生じなかった。急速な家電製品の進化もそれを可能にした。ところが日本国内の生産年齢人口が1995年をピークに減少してくる中で、農村の共同社会ももはや実体はなく、女性にも産業への就労、労働力化が求められ、外で働く女性が当たり前となり、男女雇用均等社会にもなると、上のような育児システムが維持できなくなった。世代交代システムの危機が訪れた・・・要するに、こういうことである。

親族という実体が崩壊し、核家族すらも機能しなくなれば、子供は社会で育てるしか方法がないであろう — この「社会」を「国」と認識するか、「地域社会」と認識するかは、意外と大事な点だと思うが。ともかく、この単純な事実に現代日本社会は慣れなければいけない。そういう理解をするしかないわけで、他に選択肢がないという意味では「一本道」である。

ただ「子持ち様」への不満は、少々、誇張されているような気もする。

というのは、多くの人が子供を育て、そうでない人が少数なら、そもそも日本は少子化に悩む社会ではないはずだ。

なので、ロジックとしては「子持ち様」と言われる人が、実は社会の中で期待されるほど多くない。「子持ち様」が少な過ぎることこそ社会問題なのだ、と。そう理解するべきだろう。

それに本当に手がかかる「子育て期間」は、学齢期に達するまでの数年間で、小学校に上がれば親の時間的負担は相当軽減される ― その代わり、経済的負担が増してくるわけだが、「子持ち様」問題は、経済的負担というより、時間的負担が主たる論点だろう。

なので、人的労働という形で助けてあげるべき「子持ち様」が、人数という次元で社内で今後とも急増するという事象は、小生にはチョット非現実的に思える。

こう考えると、少数の「子育て世帯」を、多数の「非子育て世帯」が支援するのは、それほど過大な努力を強いる結果にはならないものと思われる。


この点は、減少しつつある現役世代が、増加しつつある高齢世代をいかに支えるかという問題とは本質的に異なる。

仮に「子育て世帯」が増え、相対的に少数になった「非子育て世帯」の負担が過重になるようなら、むしろ社会状況としては安心できる。(遠い先だろうが)仮にそうなれば、子供を持つ・持たないことから生じる負担の不平等を是正するうえでも、重点的な子育て支援政策は縮小しても問題はないだろう。


【加筆修正:2024-05-10、05-11】

2024年5月7日火曜日

ホンノ一言: マスメディア業界にも近いうちに黒船がやって来るのではないか

 最近の国内メディアが愛用し始めている表現に

欧米メディアも・・・を絶賛しています。

欧米のファンも・・・にはビックリ仰天で絶句している。 

等々というのがあって、どうやら欧米の受け止め方を日本語で国内に伝えると、視聴者・読者が喜ぶと考えているらしいのだ。何だか

欧米はヒノキ舞台で、昔なら花のお江戸

日本は片田舎で、昔なら西国の小藩

まさかこんな心理じゃありますまいネ・・・そう感じたりする。


分野は違うが、その昔のデパートが採っていた商品戦略を思い出す。

小生が若かった時分は、銀座や梅田にルイ・ヴィトンやシャネルといった超一流ブランドの直営店はなかったので、国内でそれらの品にアクセスするには、三越や高島屋、伊勢丹など老舗百貨店に行くしかなかった。

その頃は、デパートとスーパーを分ける最大の違いは、扱っている商品のブランド価値にあったわけだ。

ところが、海外一流ブランド企業が続々と日本直営店をオープンするのに伴って、正規代理店であった日本のデパートは存在価値の大きな部分を失うに至った。


同じ道をいま国内老舗メディア企業がたどりつつあるようだ。

欧米メディアの報道ぶりを日本人向けに日本語で伝えるやり方が儲かるのであれば、日本企業に儲けさせておくよりは、日本支社を設けて、日本語版を直接販売するほうが利益になると思うだろう。

三越にシャネルを売ってもらうよりは、直営店を開いてダイレクトに売る方が得だとフランス本社が考えたのと同じ理屈だ。流通が合理化されると、多段階の仲介業は居場所がなくなる。これはずっと一貫して進行してきたプロセスである。


例えば、ジャニーズ報道で名をはせたBBCやアメリカのリベラル派報道で著名なCNN、更にはThe New York Times、USA Todayなどは、日本市場に進出する有力な候補だろう。

NYTはWEBビジネスが好調で先日も以下の報道があった:

米新聞大手 ニューヨーク・タイムズ (NYT)は8日、デジタルと紙媒体を合わ総有料購読者数が9月末時点で1008万人となり、1千万人の大台を突破したと発表した。 デジタルだけの購読者が941万人と3カ月間で約21万人増えた。 NYTは2027年末までに1500万人に拡大する目標を掲げている。

英語という言語の国際競争力そのものである。 

しかしながら、AIを活用すれば、言語の違いは、低コストかつ効率的にクリアできるはずだ。NYTの日本語版もその気になれば実現は容易だろう。

実際、Wall Street Journalは日本語版を提供している。今はチョット購読を休んでいるが、この間まで小生も愛読していた。WSJの日本語版を購読すると、オリジナルの英語版にもアクセスできるのでコスパが高いのだ。もう一つ、The New York Timesをヒョンな理由で中断していたが、4週4ドルで購読を再開した。この価格は1年限りのキャンペーン価格だが日本経済新聞の10分の1である ― 円安で10分の1とは言えなくなったが。


日本のメディア業界は、政府による許認可と再販制でゴテゴテに守られている保護産業である。最近の国内メディアの失態によって日本人読者層、視聴者層が寄せる信頼にもひびが入り、日本の資本規制に対する国際的批判に極めてヴァルネラブルな状態だ。日本政府も抵抗できないだろう。いずれ自由化され外国メディアの黒船がやって来ると予想する。


小生の父の世代では、朝日新聞と日本経済新聞を購読するのが知的階層の必須のツールであったのと似たイメージで、やがてBBCの地デジ放送を日本語で、人によっては英語で視聴し、The New York Timesの(とりあえずは)日本語版を予約購読するのが、ハイブラウな日本人家庭の習慣になるかもしれない。

BBCもNYTも日本特有の閉鎖的記者クラブ制などは解体しろと迫るだろう。

グローバル化の荒波を避けるには、日本独自の価値観や倫理観、美意識を国内メディア企業が体現するのが決め手だが、この時代、自国の憲法改正を自国で議論もできないほど自主独立の精神を失った日本で、もうこんなことは無理な相談だろう。

【加筆修正:2024-05-08】


2024年5月5日日曜日

ホンノ一言: 再上昇しつつあるエンゲル係数

昨年の今頃、年間収入別のエンゲル係数を調べた。結果は本ブログにも投稿している。外食と酒類購入は除外した。

その時は令和元年10月の消費税率引き上げでいったん上昇したエンゲル係数が下がりつつあるという形をしていた。しかし、その下がり方には年間収入階級間で違いがあり、生活に余裕のある第5五分位階級でより大きく下がっている。余裕のない第1五分位階級ではエンゲル係数がほぼ上がったままになっている。そんな傾向が見てとれた。

この1年、円安を背景に日本でもかなり物価が上がってきたが、その反面、賃金上昇がそれに追いつかず、暮らしは苦しくなっていると憶測される。

そこで、同じ図を描き直してみた。



データは「2人以上の世帯」だから単身者世帯を除いた平均的な姿を表している。

明瞭な点は、下がっていたエンゲル係数は年間収入とは関係なく再び上昇しつつある、ということだ。

加えて、年間収入階級間のエンゲル係数の開差がこの20余年間で拡大してきている。これは実質的な生活水準における階級間格差が拡大しているという事実を示唆しており、不平等度を測る指標としてよく使われている「ジニ係数」とは別の次元から、進行しつつある格差拡大を伝えるものである。



エンゲル係数は直ちに生活水準を伝えるものではないという点には留意するべきだ。が、消費支出のうち必需性の高い食費に費やされる割合が上がれば、その他の支出、たとえば教養娯楽費、教育費などのサービス支出を控えなければならない。家計のやりくりには厳しさがつのっているはずだ。これも実質賃金が低下していることの反映だろうと解釈している。

【加筆修正:2024-05-06】





2024年5月4日土曜日

最近の憲法論議にはまったく関心をもてなくて

昨日は憲法記念日だった。が、だからと言って、このブログで何かを書いて来たわけではない。

とはいえ、憲法という話題は日本人なら誰でも関心をもつ、というより持つべき最大公約数的な話題の一つだろうと思う。

昨日も憲法関連の多くの討論会や集会が開催された模様だ。

ところが、よく見ていると小生が幼少期であった頃から同じ状況が続いていて、要するに

憲法を改正したい自民党サイドと憲法を護りたいリベラル(?)左翼と

つまりは、憲法を修正するかしないかで対立している。

改憲派 vs 護憲派

実にシンプルだ。個々の修正箇所がからみあい、捻じれあって、複雑な対立になっているわけではない。

これ以上、単純な対立構造はありえない。

しかし、いま現代日本が抱えている問題が、こんな単純な言論上の対立と対応関係にあるとは、到底思えない。現実の問題はもっと複雑である。故に、憲法改正を議論するとしても、改正案は幾つも複数あるのが当たり前だと思う。

「もはや戦後ではない」と経済白書が書いた昭和31年から数えるか、保守合同で自民党が誕生した昭和30年から数えるかはともかくとして、もう80年も憲法を直すか直さないかで同じ論争を続けているわけだ。

これをみて

日本人は、結局のところ、自国の憲法を修正しない、というより出来ないのだ

と、法治国家の市民としての、また民主主義国の有権者としての、自らの極めて低い能力に対して、ウタタ情けなさを感じてしまう日本人が増えているとしても、小生はまったく驚かない・・・「増えている」かどうかは分かりませぬが。

実際、戦前の大日本帝国憲法も戦後の日本国憲法も、両方を含めて、日本人は憲法改正なる作業を頑張って成し遂げたことは一度もない。

この点はずっと前に一度投稿したことがある。これが、政府の弱さを伝えるのか、政治的怠慢を表すのか、国民の分断の深さを示すのか、日本人が憲法という基本法を実はそれほど大事だと感じていないという事実を教えているのか、小生にもこんな風になっている原因はよく分からない。

確かに、戦前から戦後にかけて憲法は大幅修正されたが、これは占領軍であったGHQ主導の下に断行されたもので、だから戦後を代表する憲法学者であった宮沢俊義は「八月革命説」を提唱していた。ま、実際、敗戦を機に日本の権力構造は一新され、(外国勢力主導の)革命がなされたと考えるのが、当時の状況を正確に言い表していると思うので、「八月革命説」に一票を入れたいというのが小生の立場だ ― 憲法理論には素人だが。

いわゆる「護憲派」は、憲法を護ると言う以上、憲法は修正しないと主張していることになる。

しかし、最高裁判決で「違憲判決」が幾つも出てきているのも事実だ。

国政選挙における「一票の格差」は何度も違憲状態だと指摘されている。現状と条文とが矛盾していると判断する判決が多いということだ。とはいえ、現実を冷静に観察せず、正しいのは憲法の条文で、現実が誤りだと観念論的に断言してよいのだろうか?

また、最近ではLGBTQに関連して、同性結婚を認めるかどうかで、違憲と合憲とで判決が揺れ動いている。司法判断が揺れているのは、社会の現実の必要性と憲法の条文とが調和しないためで、文言の解釈によって違憲にも合憲にもなるからだ。ずっと以前は<両性=男女>と解釈するのは合憲とする判断が多かった。だから婚姻は異性に限っていた。しかし、最近は<両性=男男あるいは女女>のケースも含むとする判決が出てきている。もし今後将来、同性結婚を認めないのは違憲とする判決が常に出るようになれば、同性結婚は正式に認められるだろう。婚姻届や戸籍の様式、その他関係する制度も変更されるだろう。しかし、それでも憲法の条文は変えず、解釈だけを変えるのだと、小生は予想する。実質的な憲法改正が「改憲だ」とするニュースもないまま、無意識に近い形で通ってしまうに違いない。

周知の「9条問題」もそうだ。集団的自衛権を否定する姿勢から認める姿勢へと180度転換したが、これも同じ条文を読みようによっては、そう読めるということだ。どちらとも解釈できるので再解釈したのだというロジックだが、実質的に憲法を改正したと外国の法律専門家が指摘するとして、日本側はどう反論するのだろう。

条文の解釈と再解釈によって実質的に憲法を改正するやり方は、小生には全ての法律専門家の知的怠慢であるとしか見えない。

要するに、憲法改正に関連する問題が、実際には多々あるにもかかわらず、「護憲派」は憲法改正の必要性を何も語らない。というか、解釈の変更で憲法の運用がどうにでも(?)なるなら、確かに憲法改正などは必要ないというロジックになる。よく言えば「融通無碍」だが、悪く言えば「いい加減」である。憲法は神棚のお札に書いてある文字と同じであるわけだ。


これ以上の欺瞞はないとするのが自然な見方だろう。

自民党の憲法改正は確かに復古的で、非現実的、噴飯ものである。が、左翼側の護憲姿勢も同じ程度で極めて不誠実で、空っぽの頭脳を露呈している、と。

しかしながら、達観して言えば、日本のお国柄は実際の問題を解決するための「巧みな」便宜主義にある。憲法は「神棚にあげて」あえて変えないと。意図的かどうか分からないが、そう主張するリベラル左翼の方こそ、欺瞞に見えながら、実は日本の知恵に裏打ちされているのだ、と。

そうとも見えてしまいますがネエ・・・と。そんな感覚もある。

ま、いずれにせよ、グダグダの状態には変わらない。

仮に、リベラル左翼が社会の現実にあった憲法改正案を提案するとすれば、どこを修正するべきだと考えているのだろう。

例えば、その時の総理大臣の都合で行われている「根拠なき衆議院解散」を認めてよいのか。天皇が統治者であれば天皇が議会を解散するという権能を認めるべきだというロジックはあるかもしれない。しかし、今は三権分立だ。いくら議院内閣制で、議会の多数派が行政府を構成しているとしても、「解散だ!」と総理大臣がいえば、国会議員は職を失うのか。当然、憲法改正の焦点の一つになりますワナ。

ちなみに、日本がお手本にしているイギリスでは、議会が解散する意思決定をするのは議会のみであると首相権限を制約していたが、これまた政治的膠着を打開できない原因になるという理由で、この制約を撤廃する選択をしている(これを参照)。

日本では首相による解散の根拠は憲法であると認識されている。これでイイのか?

他にも、社会が責任をもって子育てをするというのはどういうことか?教育を受ける権利をどう規定するべきか?自らの勤労の結果である高齢者の生活状態と生存権とをどうバランスさせるのか?「人権」をどう尊重するべきなのか?等々、憲法レベルで規定した方がよい事項は多々あるでしょう。


世間では、こんな議論もあるのだから、「憲法は絶対に変えない」と、そればかりを主張しても、頭脳レベル、社会常識を疑われるだけだと思うが、どうだろうか?

まあ、こんな情けない情況が半世紀をゆうに超えて続いているので、世間の憲法論議にはまったく関心をもてなくなったのが、率直なところだ。

【加筆修正:2024-05-05、05-06、05-07】

2024年5月2日木曜日

補足: 足元のインフレ進行について

アメリカのインフレが粘着的(Sticky)で、ターゲットとしている2%まで中々下がらない、というより相当上振れしているので、金利を下げたくても下げられない。そんな状況だとFRBも伝えたいようだが、日本はどうなのだろうか?

日米のマネーサプライの違いから、円が切り下げられるのは当たり前のロジックだと、最近の投稿では書いているが、日本のインフレは足元でどうなっているのだろう。

実は、「帰属家賃を除く総合」でみると足元ではインフレがピークアウトしてきている。

日銀は生鮮食品を除く総合で見たコア・インフレを主に見ているようであり、時には状況に応じてエネルギー価格まで除くコア・コア・インフレを参照しているようだが、ここでは帰属家賃を除く総合をとっている―その理由(の一端)は以前にも投稿したことがある。

前年比ではこの3月においても日本のインフレ率は2%を超える高さにあって、物価の高さが意識されているのが、率直な国民心理だと思う。


ところが、小生が愛用している対前月インフレの年率値(Krugmanは対半期インフレを参照することが多いようだが)を図に描くと以下のようになる。黒い実線は月次データをSTLで成分分解して得られる基調(trend)である。



明らかに、「物価が上がる」という意味でのインフレ率はピークアウトしている。少なくとも価格引き上げが加速しているという状況は過去のものになっている。


実は、1年前の今頃、アメリカのインフレが現時点の日本のインフレのように、まるでピークアウトしたかのような形を示したことがあった。例えば、上にリンクを付している同じ投稿でそうしたことを述べている。

ところが、最近になって、アメリカのインフレはかなり粘着的であることが明らかになった。需要超過体質であるのだな、アメリカは。故に、いまの時点でインフレ・ピークアウト感があるとしても、今後の1年間を見通すときに日本のインフレがどう進行するかは分からない。日本のインフレも(ひょっとすると)粘着的であるかもしれない。日銀(それに政府も?)のインフレ容認姿勢も(今のところ)明瞭である。

アメリカでは、賃金プッシュとインフレ加速の悪質ループが(最近になって)懸念されているようだ。他方、日本では、賃金と物価の上昇ループがまるで望ましいかのように語られることが多い。

TVのワイドショーなどは典型的なのだが
賃金と物価が上がっていく状況に早く持っていってほしいですネエ
と。小生は「何というノーテンキか」と、驚くばかりなのだが、インフレを心配もせず、安楽に語り合っている。もっと本質的に重要な「生産性向上」とそのための「投資」、「市場の活用」、「自由化」は、世間から嫌われるためかどうか、まず口にしない。結局、実質的な問題の解決は世間受けが悪いので、すべて逃げて、
インフレにすればいいんだよネ
と。こう言いたいわけですか?とすると、日本って変われないネエ、呆れますナア・・・新しい逃げ道を見つけただけじゃない、ダメですよ、形だけじゃあ、ダメですよ、と。そう感じることが実は多いのだ。

人の知恵で問題を円満に解決できないなら、天意でもって運命的に、というより社会に備わった自然のメカニズムが働くことを通じて(最終的には)解決されるまでのことだ。どんな風になるにせよ、人間社会はそれでも続くものだから ― "Let it be"である。

マ、インフレが進行するだけでも、少なくとも政府は助かる。

しかし、仮にでもそんな事態になれば、日銀は強力に金利を引き上げる。日本は一時的にでもせよインフレの進行と雇用の悪化が同居するスタグフレーションに陥るのは確実だ。

デフレよりインフレが「好き」なんですか?そう聞きたいところです。


何だか、日米の金融当局と政府がアウンの呼吸でマクロ経済上の火遊びをしているようでもある。で、やはりアメリカが主で、日本は従の役割だ。日銀の低金利維持は、円からドルへのマネー移転を維持することでもあり、アメリカを助けている。にしても、日本人の心理はもうこれ以上の円安に我慢できない限度に近付いてますゼ、どうします?これが今の情況であろう。

杞憂かもしれない。豪雨で床上浸水して、びしょ濡れになった家の中で暖房を使って火事を心配しても仕方がないわけだ。そんな理屈でイイという事かもしれない。



2024年5月1日水曜日

春の彼岸から5月初めまで

桜で有名な浄土宗の寺に行くと丁度満開だった。境内には何人もの人が集まっていてスマホやカメラで撮影している。カミさんと小生は寺務所を訪れて御朱印を頂く。五劫思惟と書いてもらった。




彼岸の前から雪解けをまち今日に至るまでの2か月ほど以下のように過ごした。

春寒の かぜ吹きよする 朝まだき

     ゴミを出しゆく 我は老いゆく

春彼岸 雨したたりて 酒五勺

 

思ひきや 雪ふる里の わびずまひ

     妻とふたりで 春をまつとは

 

桜まつ 人いくにんか をちこちに

     御堂のまへの 雪は残れど

満開の 桜をめでる 幾人の

     影に散りゆく 春ぞ惜しまる

そろそろ小生も老いの道に入ろうとする頃だ。父は、歩もうとして歩まなかった道だ。が、小生も知らないわけではない。とはいえ、初めて歩く道ではある。

この道を ゆく人ありや この道は

     父のあゆまむ 道にてありけむ

芭蕉は

この道や 行く人なしに 秋の暮れ

こんな風に孤独な心境を俳句にしている。

蕪村は

門を出れば 我も行く人 秋の暮

と、流石に江戸や京という都会に慣れた文人だと思わせる句を作った。

どちらも小生のいまの気持ちにはピンとこない。

住み慣れていた東京に今でもいれば蕪村のような句を作りたいと思ったかもしれないが、今はそうではない。かといって、芭蕉のような孤独はヤッパリ嫌なものである。