2024年8月31日土曜日

ホンノ一言: こんな簡単なインタビューが出来ないのかナア、と感じるとき

自民党総裁選が近づくにつれて、立候補者がTV画面に登場する機会が増えてきている。

その時、非常に疑問、というか「そのセンス、分からないナア」と感じることも増えてきている。

たとえば

スタジオ: 派閥にとどまっていて党内の改革が進められるのでしょうか?

候補者: 総裁が派閥を離脱することで、それは可能だと思います。

こんな風なやりとりがあるが、ここで小生の頭の中は

?????

になってしまうのだ、な。そもそも上のような問いを発するインタビューアーは「〇〇だから、できないンではないだろうか」という憶測を頭の中で先に持ってしまっている。「予断」というヤツで、これでは相手の見解を引き出せない。自分の見方をぶつけているだけである ― 意識することなく。

そもそもトップに選ばれようとすれば、自分を支持してくれる人々を集める必要がある。それを派閥というか、グループというかは、言葉の遊びである。

党内全員から一致して支持が集まれば、自動的に当選するわけだ。こんな場合は、当選後に一部のグループだけの意に沿うという理屈にはならない。が、こんな状況はありそうもないし、望ましいとも言えないだろう。

とすれば、当選後に自分を支持してくれた人々を重用するのは、当たり前の帰結であって、これが政治というものだ。というより、こんな当然のことは世界の民主主義国で共通の理解であるはずだ。

誰が自分を支持してくれたかとは関係なく、当選後はやるべきことはやる、と。多分、そんな期待が現代日本社会にはあるのだろう。が、これでは独裁者である。支持には支持の理由がある。当選後に、支持者に対する約束を守らなければ、政治家としては失格だ。これが『信なくば立たず』の主旨ではないのか、と。こう思いますがネエ・・・違うのかな?

それから、大事な点は

(今回立候補したわけですが)当選すれば何から行いますか?

これを真っ先に聞くのが素直な質問ではないか。

次に、「国民一般が最も願望している」とされる(?)「自民党改革」については

どんな党内改革を進めるつもりですか?

なぜ単刀直入にこう聞かないのだろう?

大体、人が変われば前任者と違った何かの改革をするのは当たり前だ。要点は、

何をするつもりなのか?

これ以外に聴きたいことはないはずではないか。

もっと具体的におっしゃっていただけませんか?

この位は学生サークルだって出来ますゼ。

実力のあるインタビューアーなら

しないと決めていること

ここまで浮かび上がらせるようなインタビューをやるだろう。ここまで行けば、

この候補者は、何をやって、何はしないか

候補者のプロファイルが明確にイメージとして伝わる。これがメディアの目的だろう。

多分、色々な方面の「反感」を避けつつ、今のビジネス環境を守ろうと、番組編集者側の自主規制が入っているのだろうと、そう憶測しているが、こうして日本国内の「公式」の報道機関はネットの自由な意見表明に主たる役割を奪われていく・・・もはや民間放送企業は情報提供メディアとしてはジリ貧だと感じる次第。ドラマ制作では有料のコンテンツ配信企業が競争優位を確立した。海外資本が黒船として来航するまで何とか頑張るのだろうが、それまで日本社会の知的劣化をもたらし続けるのではないかと心配だ。メモしておきたい。

【加筆修正:2024-09-01】

2024年8月29日木曜日

ホンノ一言: カギはハリス候補をどう観るかなんだろうナア・・・という話し

 日本の民間TVで放送するワイドショーは「情報番組」とはいうものの、実際には「お天気」と「スポーツ」、それに「政局」や「犯罪」、「事故」、「災害」に関する情報が大半で、暮らしに役立つ情報はほとんど含まれていないのが現状だ。

ただ、アメリカの大統領選は勝敗予想を語れるゲームでもあるので、ロシア=ウクライナ戦争、イスラエル=ハマス紛争と同様、その筋にある専門家にとっては大いなる稼ぎ場になっている様だ。

確かに、今度の米・大統領選挙は

ト氏が勝てば実行力はあるだろうが制御不可能で西側陣営が崩壊しかねない。ハ氏が勝てば制御可能だがどの位まで有能かが分からない。

いわば「無謀なヒト」と「無能なヒト」とどちらがイイかという究極の悪魔の選択になりかねないというのが、今の世界の心配のコアだろうと思われる・・・

そんな状況で、新顔のハリス候補については、アメリカの経済学者も立場によって分かれているようだ。

Krugmanは、周知の民主党シンパであるから、基本的には好意的である。

 So what have we learned about Harris’s economics? She is, as expected, moderately center-left. And for those determined to view her as a communist — sorry, she isn’t.

Source: The New York Times

Date:  Aug. 19, 2024

Author: Paul Krugman

食料品に対する値上げ規制と来れば、誰もが1970年代にニクソン大統領が強行した所得政策(=価格規制)を思い出す。共和党の大統領がまるで共産党のような経済政策を始めたというので、世界はアッと驚いたものだ。案の定、ト大統領候補は『ハリスは共産主義者だ』と非難している。上のKrugmanの批評は中道左派に対する親和的な姿勢をにじませている。

これに対して、これも著名な経済学者であるGregory Mankiwのコメントが面白い。タイトルは"Kamala Harris...sigh"になっている。

確かなことは、Mankiwもまたト候補はダメだと判断している点だ―というか、ト候補の主張する関税の大幅引き上げに賛同する経済学者は(何か邪念を隠しているなら別だが)ゼロであるはずだ。

なので、以下のようなMankiwの所感は多数の共感を得るだろう。

I plan to vote for Kamala Harris. Why? Simply because she is not Donald Trump. In my judgment, Trump is (1) an authoritarian narcissist whose rhetoric is mean-spirited and untethered from reality and (2) an isolationist with wrong-headed views on trade and immigration and downright scary views on national security issues like NATO, Ukraine, and Taiwan.

But every time Harris says something specific about economic policy, she makes my voting for her more painful. For example: No taxes on tips, stricter rules against price gouging, expanded price controls on pharmaceuticals. 

Google翻訳で和訳を載せておくと:
私はカマラ・ハリスに投票するつもりです。なぜかって?単純に、彼女はドナルド・トランプではないからです。私の判断では、トランプは(1)意地悪で現実からかけ離れた発言をする権威主義的なナルシストであり、(2)貿易と移民について間違った見解を持ち、NATO、ウクライナ、台湾などの国家安全保障問題に関して実に恐ろしい見解を持つ孤立主義者です。

しかし、ハリスが経済政策について具体的なことを言うたびに、彼女に投票するのが苦痛になります。例えば、チップに課税しない、価格つり上げに対するより厳しい規則、医薬品の価格統制の拡大などです。

無料の機械翻訳でもかなり完璧に近い和文になる。少なくとも文章で伝えるジャーナリズム産業で「言語の壁」がコスト優位性を築く要素として機能しなくなってきたことが分かる。 


それにしても、
(ワタシ、経済のことは分からないんですけど、)これはやったほうがイイと思うんですヨネ。皆さん、望んでいるでしょ?エエッ、ここで約束しますとも!食料品やお薬の価格を勝手に値上げはさせません、と。
こんなハリス風な「女性政治家」が日本に登場したら、日本では支持されるだろうか?

試してみてもイイかもしれない。

日本の民主主義のレベルが自然と浮かび上がるような気がする。


2024年8月25日日曜日

断想: 江戸と現代日本のプロモーション、本質は同じだネエという話し

最近、司馬遼太郎の『街道をゆく』を何度も引き合いに出している。

ずっと昔の若い時分に(全巻とまでは行かないが)相当割合を読んだのだが、奈良旅行が契機になって第24巻『近江散歩・奈良散歩』を読み直し、その後芋づる式にもう10冊以上を読み直した、という情況に至っている。

全部で43巻ある。各巻の概要はAmazonでも分かるがホームサイトが便利だ。筆者の司馬氏が挿絵画家の須田剋太氏と一緒に旅行をした時期は、1971年から1996年までの25年間に及んでいる。紀行文を書く時代背景もシリーズが続く間に大きく変わった。その変わりゆく時代の中で、筆者が述べる社会観の変化や、ずっと変わらぬ人間観を読み取るのがこれまた面白いのだ。一口に言えば、司馬氏は作家というより文字通りの意味でジャーナリストであった、いま読み直してつくづくそう思っているところだ。

いま第4巻を読んでいて、ちょうど京都の鞍馬街道を北上して花背に来たところなのだが、鞍馬というと高野聖ならぬ願人坊主が有名だ。ここでは「スタスタ坊主」という呼び名もあったことを紹介している。筆者たちが旅行したのは1972年の9月であるから52年前になる。ちなみに小生は実際に見たことはない。

その中に、(例によって)奇妙に現代性を帯びた下りがあったので、引用させてもらう。

伊勢の御師、空也念仏、高野の聖、それに馬聖――虚無僧のこと――などが室町期から戦国を経て江戸期までさかんに活躍する。かれらはなにがしかの宗教的行為をすることによって銭や食物を得るのだが、これらのほかに江戸中期になってスタスタ坊主というのが世の中に群がり出てきた。願人坊主ともよばれた。

(中略)

六、七人が、群れをなして歩いてゆく。それもスタスタ歩いてゆく。いでたちは異様であった。頭を向う鉢巻で締めあげ、上半身はハダカである。腰にシメナワをぶらさげている。右手に錫杖をつき、左手に扇子をひらいていた。ふつうはスタスタと歩いている。(略)

急に声をあげ、どっと駆けだす。急に駆けるというのが、スタスタ坊主のみそらしかった。町なかで大坊主がハダカで群れ歩くさえ人目をひくのに、にわかに駆けだせば家々から人がとびだすに相違ない。 「はだか代参代参」  と、口々に叫んでゆくのである。代りにお詣りするぞ、代りに寒中行をするぞ、という意味であろう。もっとも時代によっては「まかしょ、まかしょ」と叫ぶこともあったらしい。まかせてくれ、まかせてくれ、ということらしい。

この下りを読んで、つい現代日本で市場が拡大しつつある<退職代行サービス>を連想した。


明治維新前の近世日本では、宗教行事が現代日本とは比較にならない程の重要性を占めていた。健康や事業拡大、果ては人生の幸不幸までが、参詣や△△参り、普段の喜捨、寄付によるものと信じられていた。迷信と言えばその通りであるが、迷信という概念に該当する人々の非科学的な観念は、現代日本においても多々残っていると小生は観ている。

江戸の昔、実際に遠方まで巡礼するのは、非常な時間とカネがかかる。誰にでも可能な消費ではない。そこで、総本山としては営業部隊を各地に派遣して参詣代行サービスを展開するチャンスが生まれるわけである。現代日本で言えば<リモート参詣>に当たるだろう。お布施はクレジットカードで送金すればよい。

江戸時代はこんな技術はなかった。しかし、必要な参詣を済ませて安心したい。参詣は不可欠の手続きであるが、面倒である。だから代行をしてもらう。カネを払って「やってもらう」。やってもらってそれで済むと考える位には、そもそも舐めてかかっている。

これは(本来は)自分自らが行うべき退職手続きを他人に「やってもらう」。カネを払って代行してもらう選択と同じである。

ビジネスモデルとしては同じではないか、と。

需要が供給を生み出すのである ― 行政による規制さえなければ。


現代日本ならば、例えばGoogleで<退社代行>と検索すれば、【比較】退職代行サービスおすすめ人気ランキングが、直ちに返って来る。これが現代標準のプロモーション技術である。

明治維新前の日本には、もちろんGoogleがない。故に、生身のスタスタ坊主が江戸なり大阪の目抜き通りを、上半身ハダカでスタスタと集団で歩く。好いタイミングで一斉に走り出し、大声で「まかしょ、まかしょ」と叫び回って、大衆の注目を集める。

「まかしょ」というのは、現代日本から類似例を探せば、例えば

ポンポンスポポン……ポンス…ポンポン……!

ポンポンスポポン!ポンッスポンポン!!

ポンポンスポポン!!!ポンスポンポン!!!!!!

日清食品がテレビCMでやっている日清チキンラーメンの《キラーワード》になる。

こう考えると、日本の小売り産業のプロモーションは技術的には進化しているものの、そのロジックは江戸時代とほとんど同じことをやっている。大前提である消費者ニーズが江戸時代と現代日本では違うだけである。

違いはほんの少しだ(と言えるかもしれない)。

消費者のニーズをとらえることが出来るかどうかで小売りビジネスの成否が決まるわけだ ― ここで話しているのは宗教サービス、つまり宗教活動のはずなのだが。つまり

「顧客価値」をどう認知するか?

である、な。

こう考えると、江戸時代の日本においても、ビジネススクールの標準カリキュラムが有効性を発揮しそうである。ふ~~む、資本主義的生産様式は近世日本でも理屈としては生まれつつあったのではないか・・・ここまで考えると、何だかウェルナー・ゾンバルトのような歴史学派経済学が議論できそうである。


やれやれ、日本の流通産業はずいぶん進化したと思っているが、その本質は同じなんだネエ、と。そう感じた次第で、覚え書きとしたい。 

『街道をゆく』は、イイ機会だ、この際だから全部読むかという気になっている。これから当分の間はこんな覚え書きが増えそうだ。

2024年8月22日木曜日

ホンノ一言: 「東海」と書くとき日本語と韓国語では違った意味になるわけで・・・

 「夏の甲子園」で実に面白い記事がネットにあったのでコメントしたくなった。

全国高校野球選手権大会(甲子園球場)で初の決勝進出を決めた京都国際を巡り、NHKが韓国語校歌の歌詞「東海」を「東の海」として放送していることについて、韓国人教授がNHKに抗議したと韓国メディアが21日、報じた。韓国の誠信女子大学の徐敬徳(ソ・ギョンドク)教授が「固有名詞の『東海』を『東の海』と表記したのはNHKの明らかな誤りだ」とメールしたという。

 京都国際は在日韓国人向け学校をルーツに持ち、校歌の歌詞は日本海について、韓国が国際的な呼称にするよう主張している「東海」が含まれている。NHKは同校の意向でテロップで歌詞を表示する際、日本語訳を「東の海」としている。

Source:: Yahoo! Japan ニュース

Date:8/22(木) 13:12配信

Original:産経新聞

URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/c4938bf40164e5ca184ff0ca8f4db818a8a3c672


もし自分がNHKの職員で、この抗議の電話を受けた担当者であったならどう対応するだろうと、シミュレーションしてみた。頭の体操だ。

一番簡単なのは

いま担当の者と変わりますから・・・

すぐにパスしてしまう。これが第一案。しかし、それなりの年配になっていれば、これはできない。自分で対応しなければならない。

次は、

少々、お待ちください。

という時間稼ぎ。これが第二案。誰か、いい答え方を思いつく人に相談するのだ。

小生はその相談を持ち掛けられた人になったつもりで考えた。それが次の応答だ ― 日本語のやり取りになっているのもシミュレーションゆえである:

小生: もしもし、あっ、お電話代わりました。韓国語の歌詞を日本語に訳したその中の語句でご連絡をいただいたのですネ。

それでですネ。画面下のテロップなンですが、元の歌詞が韓国語ですので、それを日本語に訳しているだけなんですヨ。

先方: だから元の歌詞の「東海」という言葉を「東の海」に訳しているのは間違いだと言っとるンです。

小生: 元の歌詞にある「東海」は固有名詞だということですよネ。 

ただですネ、日本語訳のテロップで「東海」としてしまうと、日本では愛知県や静岡県辺りの「東海地方」という意味になってしまうんですネ。「東海道」という呼び名も普通に使われているくらいですから。ですから、日本語文章でただ「東海」と書くと、元の歌詞の意味が通らないンですね。和訳という作業を機械的にやると、韓国語の「東海」は日本語の「日本海」になるんですヨ。

先方: それは怪しからん言い分だ!

小生: そうなってしまうンですね。日本語ではそういう言葉になるんです。 

ですから、言葉の意味をとって「東海」を「東の海」という日本語に訳したのは、こうしたトラブルを避けるためだったと思うんですヨ。京都国際高校のサイドと相談したかどうかまでは私には分かりませんけど・・・もし詳細が必要なら京都国際高校の方に聞かれた方が確かだと思うンですが・・・私どもとしては、あくまでも日本語にどう訳するかというだけなので・・・

これが第三案になるが、さてNHKはどう対応するのだろう。

これで思い出したのが、イギリスとフランスを隔てる「英仏海峡」、英名の”English Channel"だ:





以前投稿したように、海洋ではイギリスの先輩格であるスペインでは"El canal de la Mancha"と呼んでいる。フランスに行けば"la Manche"になる。



しかし、イギリスのBBCが"English Channel"と言ったからといって、スペイン人やフランス人がBBC本社に抗議をすることはない(と思う)。この点ではヨーロッパ諸国の方が永年の対立抗争から多くの事を学んだこともあって、成熟しているのだろう。

言葉が違えば、使用する単語、呼び方、発音が違うのは当たり前である。

そもそも「国際」とはこういうものなンだと弁えれば、原文のハングル歌詞のまま「東海」と訳しても(意味不明になる可能性が高いが)別に大問題ではないし、歌詞末尾の「韓国の云々」を「韓日の云々」に修正する必要もない。そのまま原文の通りにストレートに和訳しておけばイイ。せいぜい「東海」をこんな風に鍵括弧で囲むかどうか位が判断のしどころになる程度のことである。そして、こんな風に対応しても、別段「我が国の国益」が損なわれることにはならないと思う。無駄な議論に汗を流す必要はない。

この件で、ちょっと検索をかけると、くだんの歌詞の原文と和訳全文がかかってくるどころか、『ハングルの校歌など聞きたくない」などといった感情的な記事ばかりが検索されてかかって来る、そんなネガティブな反応ばかりでネット世界があふれるという、日本社会の醜悪な側面を露呈するよりは余程「国益」にはプラスである。そう思うのだ、な。

【加筆修正:2024-08-23】

2024年8月21日水曜日

ホンノ一言: 政治(とは限らないが)で「男性 vs 女性」が現実にそれほど重要視されているのだろうか?

アメリカの民主党・党大会が開催された。今秋の大統領選にカマラ・ハリスが候補となり、大物たちの応援演説が相次いだそうだ。

トランプ・前大統領と闘ったヒラリー・クリントンは

ガラスの天井を打ち破るのは間近だ

と。(アメリカの?)女性たちを抑圧していた壁を破るのは近いと大見えを切った由。

最近、常々、不思議に感じているのだが、なぜ「女性」であることをこれほどまでに強く意識している(かのような)発言を、アメリカの女性政治家はするのだろう?

イギリスでは45年も前の1979年にマーガレット・サッチャーが初の女性首相になっている。その際、閣僚経験の少なさを懸念する声はあったようだが、女性で大丈夫かという声は、小生も若かったが、日本にまでは聞こえてこなかった記憶がある。

サッチャー首相は、その後11年間の長期政権を築き、世界の潮流を新自由主義へ転換する大仕事をやった。

その後、最近年ではテリーザ・メイさん、リズ・トラスさんとイギリスでは女性がどんどん首相に選ばれている。

ドイツでもアンゲラ・メルケル首相が16年間の長きにわたって首相を務めた。彼女の親露外交は、今となっては批判の的になっているが、現代世界においてメルケル政権の東方融和外交は非常に有意義であったと個人的には考えている ― 反面、親中外交には、正直、腹が立ったりもしたが。

イギリス、ドイツ以外でも既に多くの女性宰相が登場しており、女性政治家への評価は広く定まっていると言ってもイイのではないだろうか?

にも拘わらず、アメリカでは《女性政治家が打ち破るべきガラスの天井》といった言葉が女性政治家の演説には普通に入っている。イギリスやドイツ、その他のヨーロッパ諸国とは異なり、アメリカではそれほどまでに女性差別意識が残っているのだろうか?それほどまで、アメリカ国民の政治意識はヨーロッパとは違っているのだろうか?

この日本でも、初の女性首相になりたいという女性政治家は複数いると言われている。やはり日本でも《女性を差別するガラスの天井》なるものがあるのだろうか?

女性天皇はイイが、女性首相だけはダメだ

本当に日本国民は思っているのだろうか?ちょっとそうは思えないのですネ。

もし可能なら是非問いたい疑問がある。女性政治家が「ガラスの天井を打ち破ろう」という時、

アメリカ社会の(更に日本社会の?)「ガラスの天井」を打ち破ることが、あなたが一番やりたいことなンですか?他に何かないンですか?

と、こう質問したいのですネ。

小生は男性であるが、「男たるもの・・・」と自らに喝を入れるなど、あまりしたことがない。小生は、カネと力のない一介のブ男であるのだが、だからこそと言うべきか、女性たちが「ガラスの天井、ガラスの天井」と連呼する姿勢が、大変不思議に映るのである。

男性だから「ガラスの天井」がない「青天井」だと感じることなどない。そもそも人生は壁や制約に満ちている。何より自分自身の「能力」、「体力」、「性格」、「運」に制約づけられる点こそ一番の壁だ。

普通に考えればイイのではないかナア、と思う次第。

世界の人々一般は、既に「男性 vs 女性」といった尺度で政治家を評価することなどしてはいないのでないか?

これが冷静に観た現実ではないか?

ある女性政治家が選ばれないとすれば、それは社会の女性差別ではなく、その女性政治家の属人的特性による、簡単にいえば評価されていないだけの話ではないか。そう思ったりしているのだ。

女性政治家も男性政治家と同じで、一流もいれば、二流、三流もいる。そんな当たり前のことは、もうみんな知っている。イギリスでもサッチャー首相は大きな実績を残したが、メイ首相、トラス首相が行った政治は低レベルだった。とはいえ、あの程度に低レベルな男性政治家は山のようにいるだろう。

サッチャー首相は、就任3年目にフォークランド島の領有権をめぐってアルゼンチンと軍事衝突した際、直ちに艦隊を派遣して多大の犠牲を払いながらも敵国に勝利した。優柔不断で口ばかり達者な男性政治家にはできない決断だった。

アメリカ人も(日本人も?)見ているのは、男性か女性かではないと思われる。単純に「この人物で大丈夫か?」、それだけだと思う。そんな時、「女性を抑圧するガラスの天井を打ち破りましょう」と、これが目標であるかのように言っていては、逆に政治家としての能力、認識力に疑問符がつけられても仕方がないのではないだろうか?

もし「ガラスの天井」が意識されているとすれば、確かにそれは意識の問題であるには違いない。が、それは(政治)活動を需要する側の意識ではなく、(政治)活動を供給する側の意識に主な原因があるのではないか、と。

そう感じている次第。

日本の政治事情にも同じことは言えると思う。

***

「宗教上の教義」、「信仰、祭礼の場における伝統、慣行」といった論点はある。当然だ。世界は多様である。こういう論点は別の問題として考えるべき文明的な問題で、現代社会の大勢になっている価値観に沿っているかどうかという意識で議論をしても不毛であろう。

【加筆修正:2024-08-22、08-28】


2024年8月19日月曜日

ホンノ一言: 「10年に1人の天才!」・・・あかんナア、という感想

先日、スポーツ分野では若き天才が続出しているのに、なぜ学術分野ではそんな天才が現れてこないのだろうと、不思議な気がすると投稿で書いた。

そうしたら、今朝のこと、Yahoo!ニュースのヘッドラインに

灘高でも10年に1人の天才

こんな文字が躍っていたので、面白いと思って読んでみた。

一部分を(名前だけをイニシャルに変えた上で)抜粋させてもらうと、まず以下のような感じだ。

  京都大医学部にもっとも多く合格者を出したのは、87年の灘32人である。東京大とのダブル合格が可能だった年だ。(中略)

 「この年、灘は例年以上に優秀な生徒が多かったようです。理3合格者はほぼ全員、京大医に受かっています。このなかには、伝説的な秀才・・・O君、(中略)O君は、駿台予備学校の東大実戦模試を中学3年で受けて理3合格A判定、高校1年で総合2位、2年で総合1位をとった。

 灘の教員がこう語っている。

 「教員生活40年になりますが、彼のような生徒に出会ったのは初めて。灘高でも10年に1人の逸材です。・・・」(「週刊サンケイ」1986年11月20日号)。

URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/b89067733638f55edbea0c6ab7ea1494d4ef707c?page=2

な~るほどネエ、「天才」ではなくて、「逸材」ですかという印象なのだが、大体、こんな事が「天才」に関する記事になるのだろうか?

あかんナア

という感覚を覚えるのみ。 

ニュートンやアインシュタイン、エジソンもそうだと伝わっているが、極めて「脱俗的」で「昼行燈」のような子であったらしいが、そもそも学校の筆記試験の達人に「天才」は(ほとんど)いないはずである。

秀才が勤勉に勉強すれば解けるはずの問題が出題されるのが試験である。そこでミスもなく満点をとったからと言って、その生徒が天才であるという証拠にはならない ― 早熟であるのは確かだが。

これが普通のロジックだと思うが、いかに。

モーツアルトが音楽の天才であったのは事実だと思うが、「天才」という点ではメンデルスゾーンの方が一枚上だったそうだ。「万能の天才」だった(とも言われている)。長寿に恵まれなかった点もモーツアルトと共通している。しかし残された作品群を聴く限り、メンデルスゾーンがモーツアルトを上回る超天才だと感じる人は(音楽家、音楽愛好家を含めて)意外と(?)少ないのではないだろうか?

まして、知識・技量を吸収している弟子である時分に「彼は天才だヨ」と師をうならせる人物が、ホントに天才であると後に判明するケースは、レアケースだと思っている。天才を天才だと見抜く師の力量もまた天才的でなければなるまい。勤勉で早熟な秀才はすぐに分かるが、つぼみの頃の天才を見抜く眼力をもっている人は少ない。

2024年8月17日土曜日

覚え書き: 今夏で何読目か『濹東綺譚』の一節の現代性

本日8月18日は施餓鬼会である。カミさんが眼瞼炎か結膜炎になって具合が悪いので、寺にお布施を置いて、そのまま帰宅する。

前にも書いたことがあるが、夏が来ると、永井荷風の『濹東綺譚』を読むのが習慣になっている。

この夏も、何読目になるのか読んでいるのだが、実に飽きが来ない作品だとつくづく思う。読むたびに注意を引く下りがあって、それがまた現代日本社会にも(奇妙なことに)そのまま当てはまる事実であったりする。

ちなみに荷風が『濹東綺譚』を書いたのは昭和11年である。満州事変はもう起きているが、日中戦争はまだ始まっていない。ちょうど2.26事件が起きた年である。

そんな昔に、一人の作家が作中に書いた文章が、妙に現代性を帯びるなど、むしろ現代日本社会が退化していることの表われでもあろう。


以下は、具体例である。

まず前半部分。 

 日蔭に住む女達が世を忍ぶ後暗い男に対する時、恐れもせず嫌いもせず、必ず親密と愛憐との心を起す事は、夥多かたの実例に徴して深く説明するにも及ぶまい。鴨川かもがわの芸妓は幕吏に追われる志士を救い、寒駅の酌婦は関所破りの博徒に旅費を恵むことを辞さなかった。トスカは逃竄とうざんの貧士に食を与え、三千歳みちとせは無頼漢に恋愛の真情を捧げて悔いなかった。

この部分は、現代にも通じるというより、現代社会からは消え去った昔の社会の奥深さを伝える所と言えるかもしれない。現代社会では、社会から日向と日陰の違いを全て消し、一様に法律とモラルを照射して、一様かつ平面的でノッペラ坊の清潔さを保ちたいと願っているように見える。そんな不自然な願いは達成不能に決まっているし、適切でもないのだが、僅かの「汚れ」を行政上の誤りであると批判するのが、現代流の価値観というものになっている。現代日本社会は、モラルとコンプライアンスの美名のもとで、いわゆる「密告社会」になり果ててしまった。自分と比べて少しでも物質的に豊かな消費をしている家族に対して「刑罰願望感情」を共有する社会になり果ててしまった。上の下りは、社会が常識的な逃げ道をチャンと用意していた時代を背景にしていることが分かる。

連続する以下の段落が本日の主旨である ― 読みやすくするため行替えをしている。

 ここに於てわたくしの憂慮するところは、この町の附近、しくは東武電車の中などで、文学者と新聞記者とに出会わぬようにする事だけである。このの人達には何処で会おうと、後をつけられようと、一向に差閊さしつかえはない。謹厳な人達からは年少の頃から見限られた身である。親類の子供もわたくしの家には寄りつかないようになっているから、今では結局はばかるものはない。ただひとり恐るきは操觚そうこの士である。十余年前銀座の表通にしきりにカフエーが出来はじめた頃、此に酔を買った事から、新聞と云う新聞はこぞってわたくしを筆誅ひっちゅうした。

昭和四年の四月「文藝春秋」という雑誌は、世に「生存させて置いてはならない」人間としてわたくしを攻撃した。其文中には「処女誘拐」というが如き文字をも使用した所を見るとわたくしを陥れて犯法の罪人たらしめようとしたものかも知れない。彼等はわたくしが夜ひそかに墨水をわたって東に遊ぶ事を探知したなら、更に何事を企図するか測りがたい。これ真に恐る可きである。

 昭和4年の4月に『文芸春秋』が担っていた役割は今の『週刊文春』が継承している。


昔の玉ノ井は今は東向島になっているが、これが東向島ではなく、新宿・歌舞伎町で、毎晩その界隈を訪問しては、とある店で時間を過ごしているのが、いまの文科官僚(?)であったり、警察官僚(?)であったり、はたまた有名都立高校の校長先生であったり、ノーベル化学賞を受賞した著名な研究者であったりしたら、どんな事態がメディア業界の中で進行するであろうか。

永井荷風が経験したのとほぼ同じ苦境にその人は陥れられ、許されない不行跡であるとして人格攻撃の的になり、万人が平等に有する人権の尊重などは脇に置き、「ありもしない犯行」の容疑ありとフレームアップしては連日報道されて世間を賑わし、ネットでも大いに盛り上がる。あらゆる誹謗中傷の洪水に巻き込まれ、そんな世間の圧力に耐えかねて当局もその人を捜査し、そして証拠隠滅の疑いありとして逮捕・拘束され、ついには何という事はない微罪で起訴されるに至って、(起訴は判決ではないにも関わらず)社会的に葬り去られる。最近年の具体例を思い起こしても、こんな可能性は決して小さくないと、誰もが思うであろう。

そして一度「しくじった」著名人は、過失か故意かを問わず、そもそも「しくじり」の実態があったのかなかったのかを問わず、10年経っても、15年経っても、人々の記憶に残り名誉を回復することが出来ない……


こう考えると、現代日本社会は戦前期・昭和初年の日本とほぼ同レベル、というより昭和初年には「日蔭」であろうが「逃げ道」を用意する常識と共感(?)があった分だけ、現代日本は昭和初年の社会より未満の低レベルにまで劣化していると言うべきかもしれない。

怖いネエ……

誰かが「暴走」している。昭和初年は一部の軍人と「飛んでる」思想家(≒現代日本のインフルエンサー?)たちが暴走していた ― 諺でいう「キチガイに刃物」とはよく言ったものだ(差別的表現は申し訳ない)。いま、現代日本社会で暴走しているのは、どんな人物群なのだろうか?マイクロデータさえあれば、クラスタリングをしてプロファイル分析をやりたい所だ。

おそろしや、おそろしや・・・

【加筆修正:2024-08-18】

2024年8月15日木曜日

断想: 迷子になった夢をみるわけは?

よく見る夢に旅行の夢がある。と言っても、ギリシアや南太平洋で遊んでいる夢ではない。日本国内の大都市圏を走っている近郊電車に乗っているのだが、乗り換えを間違えるか、行き先を間違えるかで、どうすればいいのだろうと車内の路線案内図をみて思案にくれている、と。そんな「プロット」の夢が非常に多い。今日みた夢もどこかのターミナル発の快速電車を乗り間違えた夢だった。目が覚めてから、失望ではなく安心するのは、幸いなことだ。


20代半ばでまだ大学院にいた時、父が癌を患った。それからの家族は、迷子になったと同じような気持ちだった。

ゆき暮れて 木のした陰を 宿とせば

   花やこよいの あるじならまし

自分が直面した課題が大きすぎて、自分が何をすればよいのかを真剣に考えようと思いつきもしない小生は、こんな和歌を口ずさんでは、苦悩から逃避していた。母は情けなかっただろう。役に立たない息子の典型である。

恩師のふとした助言で、いまはない某官庁の小役人になった。父が亡くなったとき、職に就いていたのは、収入的にも、分析技術を磨くうえでも、幸運なことであった。

ただ役人稼業には適していないという自意識から逃れることができない。何だか「お客様」のような感覚しか感じられないながら毎日深夜の帰宅が続いた。無味乾燥な仕事に疲弊する感覚が高まり逃げたいという思いが募った。父を亡くし淋しさにしおれる母と話す時間がほとんどとれない毎日が続いた。たまの出張で土地の土産を買って帰っては母に見せるのがつかの間の時であった。その頃の母が小生をどう思っていたのかもう聞けないのが残念だ。

淋しがる母を住み慣れない取手市の公団住宅に置いて、岡山県庁に行けと命じられて赴任したが、それも独りになりたかったからである。両親を失っていたカミさんを知ったのはその頃である。

カミさんと一緒に東京に戻ってしばらく柏市の官舎に住んでいた。近くに住む母の家に幼い愚息を連れてもっと遊びに行けばよかったと、いま後悔してみても、どうしようもないことだ。

関西にある大学に出向した3年目に役所を辞めて北海道の小さな大学に移ることを決めた。その前に母は癌で亡くなった。だから、小生たちが北海道で暮らした歳月のことは母は知らない。


いまになってこう振り返ると、文字通りに

〽道に迷オって~ いるばかりイ~

結局、こういうことだったのか、と。ホント、歌の文句のとおりだった、と。バカで愚かで役立たずだったネエ、と。

今までは 孝行息子と 思いしが

    不孝のみえぬ 馬鹿でありけり

数日前に岬を回って近くのショッピングセンターまで歩いた。

ほの涼し 山あぢさゐを うゑし庭

浜風の ふく道のべの 白芙蓉

この町に暮らして32年がたった。もう道に迷っているとは言えない。しかし、主観的にはまだ、何かを探している気持ちに近いのかもしれない。 夢はそのせいだろう。


2024年8月13日火曜日

覚え書き: 8月5日の株価大暴落は一体何だったのだろう?

 毎年、8月6日から18日までの期間を拙宅では「鎮魂週間」と勝手に呼んでいるのだが、その前日に東京市場で起きた株価大暴落を「8月のお化け」と呼び始めている由。もう「投げ売り」だったそうだ。

よっぽど怖かったんだネエ

分かります……。


少し落ち着いて来たいま、

何がきっかけだったんだ?

こんな疑問が意識されてきたらしく

アメリカじゃね?だって景気悪くなるんだろ?

という人が結構多いという。

マア、東京の大暴落の直前に確かニューヨークも下げていた記憶がある。

どうなんだろうね?

というところだ。


NYTに寄稿しているPaul Krugmanは、

今回の「8月のお化け」は東京が最初だ

そんな見方をとっている。



Of these, the S&P 500, which basically includes all large U.S. corporations, is where you’d most expect recession fears to manifest; after all, a recession would adversely affect corporate profits. And the S&P 500 did fall. But even that is confusing. You see, while expected profits have no doubt fallen, so have interest rates. And with other things being equal, lower interest rates should boost stock prices. The overall effect can go either way. So the decline in broad stock indexes is a bit of a puzzle.

Furthermore, if fears of a U.S. recession drove this stock slump, why did Japanese stocks fall so much more than stocks here? In fact, the global stock slump began in Japan, which is still a major economy — and one in which, thanks to time zones, markets are out of sync with markets in the United States.
Source: The New York Times
Date: Aug. 6, 2024, 1:58 p.m. ET
Author: Paul Krugman
URL: https://www.nytimes.com/2024/08/06/opinion/stock-market-crashes-economy.html

ウ~~ン、そうだったかナア・・・と、記憶を辿る人も多かろう。その前日のNYの下げ、更にその前の東京の下げ、更にその前のNYの下げ・・・。キリがないではござらぬか。実際、Krugmanも、何が株価暴落を引き起こしたかは分からないと、上の引用部分の前後で強調している。

翌6日には過去最大の反騰に転じたものの、先行き不安からか乱高下を繰り返す中、日銀の内田副総裁の発言:

日本銀行の内田真一副総裁は7日、株価や為替相場が不安定な状況で利上げは行わず、当面は現行の金融緩和を維持するとの考えを示した。

7日になって流れたこの報道を受けて、やっと市場は安堵したのか、一週間たった足元では元の水準に戻りつつある。こうした進展をみると、やはり今回の騒動の主因はアメリカの景気後退懸念というより、日銀と市場とのコミュニケーション・ミスにあったのかもしれない。

Krugmanの寄稿の結論も
... there’s a lot of evidence that the economy is slowing down for reasons unrelated to the stock market. But the crazy market action of the past few days was probably sound and fury, signifying not much.
景気そのものは株価とは関係なく鈍化しつつある証拠がある。今回の株価暴落は、騒々しいだけで大した意味はない。こう結んでいる。


マ、例によって「大恐慌」到来の前兆などと語る専門家もいたようだが、「空騒ぎ」であった可能性が高い。

もちろん「大恐慌」が本当に到来する確率がゼロだと断言するつもりはない。しかし、その客観的確率をいまから正しく認識したうえでの大暴落であったなら、何も先行指標がない段階で一般投資家は素晴らしい予知能力を示したことになる。それは贔屓の引き倒しというものだ。

それより、アメリカ人は知らないエピソードだが、小生は源平が戦った富士川の合戦の際、夜になって水鳥が一斉に飛びたつ羽音に驚倒して京まで逃げ戻った平家の大軍を連想した。




2024年8月10日土曜日

一言メモ: 日本人は頭脳では負けが続いているが、運動能力では勝っているということなのか?

オリンピックは参加することに意義があるというのは、その通りだが、若年で金メダルを獲得しようとすれば、運も必要だが、才能も必要だ ― もちろん強化費というカネも要る。

簡単に言えば、10台や20歳そこそこでオリンピック金メダルを獲得する人は、「天才少年/少女」と形容しても過言ではないのだろう。

今回のパリ五輪を視ていると、10台、20台前半の若年層の活躍が著しくて、

スポーツ界にはどんどん天才が登場しているんだネエ

と、感嘆を禁じ得ない。

それに対して、学術分野はどうだろうか?

純粋学問の成果は、長期的には産業に応用され、日本人の生活水準にも反映される理屈だ。その科学分野で日本が立ち遅れれば、いずれ産業技術は海外からカネを払って導入しなければならなくなり、日本が丸ごと下請けに似た存在になるわけである。下請けの哀しい境遇は、現在の日本経済をみれば想像がつく。

その学術分野の進展を図る指標(の一つ)が論文数、中でも「引用数の高い論文数」は世界的な影響を測る有力な指標である。

ところが、昨年夏のデータだがサイエンス・ポータルの記事によると

被引用回数の「トップ10パーセント論文」では日本はイランに抜かれて13位。更に、極めて注目度の高い論文である「トップ1パーセント論文」に目を向けると、日本はスペイン、韓国に抜かれて、前年の10位から12位に後退した。なお、単純な論文数では日本はドイツに次いで5位を維持している。

つまり、怠けることなく勤勉に頑張っているのだが、世界から注目される内容ではない、ということだ ― よく分かります。実に、身につまされる程、分かります……


注目度の高い論文を書くには、研究者の才能と研究費の両方が必要であるし、もう一つ挙げると、身近に優秀な研究者が集まっていて知的刺激を与えあっているという研究環境が決定的に重要だ。これらの総合的結果が論文というアウトプットになって現れる。

トップ1パーセント論文を書ける人物は、もちろん運とカネ、環境という要素もあるが、才能がなければどうにもならず、学術分野の「天才」であると形容してもよい。

こう考えると、スポーツと学術のパフォーマンスは、どこか似ている所がある。

不思議なのは、

スポーツ分野では若い天才が続出しているのに、学術分野ではなぜ天才が現れないのか?

このアンバランスな現状である。

同じ文科省でも「スポーツ庁」は頑張っているのに、「文科省本省」はダメだということなのか?それとも、スポーツ選手を育成しているシステムは合理化されている一方で、優秀な研究者を養成する教育環境、研究環境は悪化している。そういうことなのだろうか?

近年、「研究費が足らない」とはよく聞くが、それはスポーツ界も同じではないのだろうか?

スポーツ界だけが恵まれているのだろうか?

実績に表れているこのアンバランスが不思議でしようがない。

何だか、頭脳では連戦連敗だが、運動能力では高く評価される最近の日本人。何か、現場は日本人が身体をはって汗を流す。本部と研究開発は欧米人(?)が頭脳で仕事。何やら、そんなイメージが世界で定着しそうで、気になる。

これとは全く別の話題だが、今夏の原爆記念日の祈念式典。

広島は、ロシアとベラルーシは招待せず。イスラエルは招待。パレスチナは招待せず。

長崎は、ロシアとベラルーシは招待せず。イスラエルは招待せず。パレスチナは招待。

いうなれば、ロシアとベラルーシは2敗。イスラエル、パレスチナとも1勝1敗。

故に、ロシアとベラルーシに対しては極めて厳しい姿勢。イスラエルとパレスチナに対しては、ロシア、ベラルーシほど厳しくはないが、与することはせず、一方の側に立たず。

(結果として)日本はこんな立場を選んだ。

一方、日本以外のG7構成国(≒西側先進国)は長崎には出席せず。イスラエルの側に立ち、パレスチナには与せず、となった。

道理をいうなら、ロシア、ベラルーシを含め、一貫して全ての国を招待するべきであろう。が、そうすれば不測の事態が発生する懸念があり、警備費を増額する必要もある。やむをえない。所詮、二つの地方都市の行事である。

それはそうとして、ロシア=ウクライナ戦争開戦後にうけた扱いを観るにつけ、今回のイスラエル=ハマス紛争もそうだが、今なお英米(及びユダヤ資本?)にシバカレているドイツ人たち、というかドイツという国が気の毒になる今日この頃です。



2024年8月9日金曜日

川口・福井『優しい日本人が気づかない残酷な世界の本音』の覚え書き

AmazonのKindle Unlimitedで川口マーン恵美・福井義高『優しい日本人が気づかない残酷な世界の本音 ー 移民・難民で苦しむ欧州から、宇露戦争、ハマス奇襲まで - 』を読んでみたところ、結構内容があったので、特に記憶に残った箇所を(例によって)リストアップして、覚え書きとしておきたい。

まず

川口: ただ、喫緊の問題としては、他党がAfDとの連立を拒絶している限り、今、国政でも州政でも、残りの党と連立を組まざるをえず、それがろくなことにならないのです。

(中略)

AfDを追い落とそうと躍起になっている間に、緑の党をキングメーカーにしてしまったのです。

福井: 国民の声を公平に反映するとして比例代表制を支持する知識人は多い。しかし、現在のドイツ政治を見ると、比例代表制の深刻な欠点が露呈しています。…かつてはCDU・CSUと社民党という二大政党プラス自民党だったドイツでも多党化が進み、最近では第一党でもせいぜい三割程度の得票数です。したがって、必ず連立政権となるうえ、その組み合わせも選挙前にはわからず、選挙後の合従連衡は政党間の取引で決まるので、国民は蚊帳の外です。…比較第一党が過半数を得る可能性が高い小選挙区制のほうが、まだ民意を反映しているといえます。

少し以前に小選挙区制については、一度投稿したことがある。 ドイツは比例代表制を採用している代表的な国だが、理屈と現実とは往々にして食い違うことが分かる。

次に、選ばれたエリートによる統治については

福井:欧米のエリートはまさにグローバルなエリートどうしの連帯感はあっても自国の庶民との国民としての一体感はないも同然です(Goodhart, The road to somewhere)。EUの場合も、国単位ではなくヨーロッパ、さらには世界単位で聡明なエリートが連携し、政策を進めていくという構図です。

川口:グローバリストということですよね。

本ブログでも何度か投稿しているように、小生には"Vox Populi, Vox Dei"(=天声人語)とはとても思えず、また(個人的な)経験則にも合致しないので 、むしろ"Vox Populi, Vox Diaboli"(人々の声は悪魔の声)ではないかと感じることが多い―これも一度投稿したことがある。

上に引用した下りは、国民一般と乖離した統治は国民のための政策にはつながって来ない。こういう当たり前の理屈を述べているわけだ。

ただ、その国の国民の声をきくことが、全体最適ではなく、局所最適にしかならないというのは、やはり言えることではないのかとまだ思っている。

全体最適を犠牲にしても、その国にとっての局所最適を追求すればよいのだと言えば、それはその通りで「ご随意に」としか言えないが、これこそトランプ前大統領が唱えている"America First!"の政治観そのものであるのも核心的論点の一つだろう。

それから、

川口: …主要メディアは西側が支配していて、旧東ドイツの人々はいまだに民主主義が未発達などとバカにしていますが、これはまったく正しくない。旧東ドイツの人たちは、四〇年近い共産党支配の経験により、メディアや政府の言っていることをおいそれとは信じない。最近の政府は、自由を抑圧する方向に動いていて、メディアが政府を監督する役目を忘れて、あたかも太鼓持ちのようになっています……

福井: 同感です。共産主義体制下ポーランドの反体制知識人、哲学者にして現欧州議会議員のリシャルト・レグトコは、「自由な社会における全体主義の誘惑」という副題をもつ『デモクラシーにおける悪魔』(原文ポーランド語、英・独訳あり)で、川口さんと同じようなことを書いています。  レグトコの主張を一言で表現すれば、自ら経験した共産主義と今日の欧米「リベラル・デモクラシー」の類似性、共通性です。

「メディアが政府を監督する役目を忘れて、あたかも太鼓持ちのようになっています」とメディアを批判していているのは「どこの国も同じなんですネエ」と何だか安心してしまう。確かに現代日本の大手マスメディアも上の指摘にもれず、そのサラリーマン化(?)、退廃振り(?)は酷いと小生も感じるが、しかし大上段にメディアを批判をするのもどうだろう、マスメディアってそれほど大きな存在なんですか、と。何だか期待過剰。力もないのに贔屓の引き倒しのようで、憐れなようにも思う。

大体、「筆一本」で書きたいことを書いて、また「舌先三寸」で話したいことを話して、それ以外には社会に影響を与える権限はまったく持っていない民間メディア企業が、仮に本気を出すとしても、ホントに社会を変えられるのか?言葉だけで、どれほどのことが出来るだろう?そんな疑問がある。

メディアが世の中を変えるとすれば、それは国民一般の潜在心理に最初からある問題をとりあげて、かつ「これなら出来るはずだ」と希望を与えられる方向を示す時だけである。1931年に突然発生した「満州事変」の後、陸軍の出先の「暴走」を厳罰に処すことが出来なかったのは、10年を超す停滞と沈滞を吹き飛ばすような「快挙」だと、日本人一般が感じたからである。マスメディアが力を発揮できるのは、こんな時である。

もし日本国内のマスメディアがいま信頼を失っているとすれば(現に失っていると思うが)、「自社の方針」を堂々と語る経営者がいなくなったことが主な理由だろう。メディアを信じるというのは、会社を信じるのではない。創業者を信じる、代表者を信じる、主筆を信じる、要するに伝える人を信じるから、その人がいる会社の意見もまた信じるわけである。要するに、日本のメディア企業もついに「匿名の普通の民間企業」になったのだ。メディア企業の幹部は、もはやジャーナリストではなく、会社経営者である、組織管理者である。編集デスクは会社が雇用している中間管理職である。中でも、大手メディアは(たとえ斜陽産業だろうと)勝ち組である。エリートである。だから、信用されないのだ。「お前もグローバリストなんだろう?」と。

日本経済新聞のように最初からグローバリスト向けに紙面を編集しているなら信用してもよい。しかし、庶民の味方だと名乗りながら、実際には世界標準の価値観から模範答案を書いて、価値観の共有やら、コンプライアンスを求めては「決めたルールには従え」と、ただ阿呆のように反復するだけだ。日本で暮らしている普通の人の潜在心理に寄り添おうとはしないメディアは、もう無くなってもよい。

要するに、知性の輝きがない。マア、こういうロジックではないかと理解しております。

こういうロジックがあるなら、もう仕方がない。国民一般から信用されなくともよいから、あくまでも世界の全体最適を求めるエリート・グローバリストの立場を貫かせてもらう。これが選択肢の第一だ。もう一つは、世界などはどうでもよい(とまでは言わないが)、大事なのは我が国だ。我が国の国益を追求するロジックで一貫させてもらいます、と。このナショナリスト的立場が選択肢の第二だ。戦後ジャーナリズム伝統のヒューマニズムでは、宇露戦争もイスラエル=ハマス戦争も追いきれない。もう破綻しているのである。

故に、選択肢は二つだ。各メディア企業がいずれの路線を選ぶかはその会社の自由である。ただ、そこに知性がなければ、よくて「太鼓持ち」、悪ければ「便所の扉」(どちらにでも押した方向に開く)と、昔の某陸軍大臣が揶揄されたと同じあだ名で呼ばれるに違いない。


日本について言えば、上の「メディア」が云々という箇所を「野党」が云々と置き換えれば十分だろう。(不祥事の責任をとって政権から降りるべき)与党と(与党に代わって政権を担うべき)野党が、水面下で密談をして、何かの取引をして、それが日本の政治なンだと開き直って、国民には「コンプライアンス」を要求する、こういう「国対政治」の慣行が(実質としてはそんなことはないと小生は思っているが)世論を無視した抑圧的な統治スタイルだと国民一般には感じさせる。そんな気分を社会に拡散している。こう思われるのだ、な。

日本については、メディアではなく、まず野党でしょう、批判されるべきは。そんなところであります。

それは何故か?

何故かという問いかけが、研究でも、ジャーナリズムでも、あるいは受験勉強を含めたあらゆる勉強には絶対不可欠な問いかけなのだが、ここから先に入ると投稿が長くなり過ぎる。おいおい詰めて行こうか、ということで。

この辺が最近の個人的な日本メディア観(と政治観?)でございます。

最後に、

福井:結局、多民族国家というのは、スイスのように徹底的に分権化しない限り、強権的な支配の下でしか存続できないわけです。深刻な対立を伴わず多数決で決めることができるのは、極論すればどうでもいいことだけです。多民族国家だったオーストリア=ハンガリー帝国出身の経済学者ヨーゼフ・シュンペーター(『資本主義・社会主義・民主主義』)や法学者ハンス・ケルゼン(『民主主義の本質と価値』)が指摘しているように、本当のリベラル・デモクラシーは、根幹において考え方が一致している集団、つまり国民国家でしか機能しないのです。

本文ではこの後、移民受け入れがもたらす問題に入って行くのだが、日本については慎重な移民・難民受け入れ政策が功を奏して、最近年の欧州の政策転換を結果的に先取りした塩梅になっているのは、実に幸いな(?)ことである。

とはいえ、日本の労働市場をみれば積極的な移民受け入れを拒絶し続けるのは不可能で、おそらく2050年になるより前に国内居住者の1割程度は移民系日本人になるだろう、と勝手に予測している ― 引用はしないが公式の予測値もあったはずだ。

そうなったときに、例えば浅草の三社祭はどうなるのだろう、明治神宮の初詣はどんな感じになるのだろう、伊勢神宮や熊野大社は守られていくだろうか等々、気になる点はあるが、それは後世代に待つしかないことだ。


それにしても、タダ(というワケでもないのだが)で新刊の本書を最後まで読ませてくれるのは、Amazonはホントに太っ腹だネエと感謝の念を禁じ得ない。


【加筆修正:2024-08-11】









 



2024年8月6日火曜日

一言メモ: 男子競技と女子競技に分けているから面倒な問題が起きる?

パリ五輪のボクシング競技は性別騒動の渦中にある。

昨年の世界選手権では性染色体検査で不合格となった選手が今回の五輪には出場できているのが問題の発端だ。

LGBTの出場資格が問題になっているのではない。性分化疾患によって女性であると認識されてきた生物学上の男性(?)が女子競技に出場する資格はあるのかないのかという問題である。

一口で言えば、男性なのか女性なのかという制限的二択問題に対して、ニッチ(?)な人もいるということである ― 最近流行の「多様性」を認識するという意味では意義のある問題提起だ。

実際、「多様性」と「フェアネス(=公平性)」とをいかにして具体化していくかという問題は、極めて21世紀的な社会問題になりつつある。

今日は、視野をグンと限定した一言メモである。


本来は「男子〇〇」、「女子〇〇」と男女別に競技種目を設けず、性別に関係なく出場できる単一種目だけがあれば、五輪としては十分だろうという見方がありうる。

五輪の標語は

より速く、より高く、より強く

なのだから、敢えて同じ競技を男女別に行う必要はないというのが、最も原理的な方式になろう。


女子種目が設けられているのは、多くの競技において、女子選手にも表彰の機会を平等に設けることが唯一の目的だろうと、小生は勝手に理解している。であれば、女子種目への出場資格は厳格に定義しておくことが理に適う。

遺伝的に通常の(?)女子選手より優位な身体特性を有するのであれば「女子種目」への出場資格はない

これが理屈だろう(と勝手に思っている)。


こんなことを言うと、男女の性別以外にも、体格、体力の違いをもたらす要因は他にも存在する。最初から機会が与えられない人々にもチャンスを与えるべきだという異論が出てくるだろう。パラリンピックは一つの(部分的)解だと思うが、障害の有無の他にも(例えば)年齢も合理的区分としてありうる(かもしれない)。例えば「シルバーエイジ」という種目を設け、60歳以上のみに出場資格を与えるという選択肢もある(かもしれない)。(例えば)ゴルフ、射撃、弓術、馬術、水泳などといった競技は、年齢別種目を設けると多くの人にとって興味がいやます可能性がある(かもしれない)。

いずれにしても、普通の体格、体力、運動神経しか持っていない「普通の人々」が、「世界最高の技」を争うというロジックは、これ自体が矛盾している。普通の人々が五輪(によらずスポーツの祭典)に出場したいならば、普通に代表選考会に参加すればよいことである。

繰り返すが、女性であるが故に記録的には劣位であっても、スポーツの祭典で表彰の機会を平等に与えるべきである、と。こう考えるのが「今日的フェアネス」には適っている。女子種目を設けているのは、それが「善い」という(多分、欧米発祥の?)価値観をハナから採っているからだ(と勝手に考えている)。また「善い」と併せて「面白い」という理由もあるのだと思う ― ビジネスになるという点は、女子プロスポーツの現状を参照するに、あまり強調するべきでないと思われるが。

要点は、何が《フェアネス(=公平性)》に適うかという点である。

ただ、こうした価値判断とは別に、原理的に考えれば、競技ごとに完全オープンな種目のみを開催するのが、五輪の精神には沿っていると(勝手に)思っている。五輪の精神は、公平性の追求というより、人間の限界への挑戦にある。五輪の標語を読む限りは、そう考えざるを得ないからだ。

ジェンダーフリーという現代的哲学を貫くとすれば、性の認識と現実世界とは独立になる理屈だ。男女の性とは自由な自意識なのだから。とすれば、敢えて色々な層別化因子の中から「性」に着目して、男子記録、女子記録を別々に扱う姿勢は矛盾している、そんな社会心理が普通になるであろう。人間の限界への挑戦というときの「人間」は、男性と女性を同一視する人類全体を概念すると考えるのがロジカルである。


要約すると、あらゆるスポーツ競技は、出場制限を設けず《オープン》で開催し、必要に応じて《女子種目》(及び他の何かの別種目)を設ける。そうすれば、性分化疾患による「生物学的には男性、外見と自認は女性」というケースをどうするかで思い悩む必要はなくなる。


これは全くの無駄話だが、前時代の日本で行われていた仇討は、女性であっても実行可能であった。仇を討つべき敵が男性であっても女性ゆえのハンディ(?)を与えるという措置はなかった。また、剣の技量を争う御前試合に女流剣士が参加することもありえた。が、そこで男子部門と女子部門を分けるという風には明治以前の日本人は考えなかった(と言っても間違いはないはずだ)。

小生は大相撲が大好きだが、その一つの理由は体格、体重の違いを含めて、まったく無差別である点だ ― 女性力士は土俵に上がれないという伝統的性差別はあるが実質的な制限にはなっていない(と思われる)。これをアンフェアであるとみるか、フェアであるとみるかは、文化的伝統によるだろう。

こんなことを勝手に思ったりしているところだ。


【加筆修正:2024-08-07】



2024年8月5日月曜日

ホンノ一言: ブラックマンデーを超える日経平均株価暴落について

毎年、8月6日の広島原爆記念日から8月15日の終戦記念日を経て8月18日の施餓鬼会までの10日余りを拙宅では「鎮魂週間」と呼んで暑さをしのいでいる ― 今夏の北海道は昨夏が嘘のような涼しさであるのが有難いところだが。

そんな「夏の盛り」を控えた本日、日経平均株価は▲4,451.28円という記録的暴落を演じた。「記録的」というより、1987年のブラックマンデーの翌日につけた3836円を超える過去最大の下落である。

その背景としては、日銀の(多少サプライズじみた)金利引き上げが急激な円高を招いた。ちょうど悪いタイミングでFRBの金利引き下げが示唆された。

そりゃあ、円高になりますワナ

ということだ。こういうとき、少し前なら《狼狽気味の市場心理を映して》と報道されていたのだが、いまは少し使用言語が変わって来たようだ。

NY市場では、アメリカのインテル・ショックという激震があった。7月の失業率が予想を超えて上がった。そうしたら日本の中央銀行が金利引き上げを断行(?)した。『景気後退だあ~っ』と、

みんなビックリしたんだろうネエ……

悪い知らせが重なった。それでNY市場が下がった。

円高になれば東京市場はそれだけで確実に下がる。円安は困ると言っていた人は、円高になっても困ることがわかったでしょう。

最近の円安で日本株はバーゲンセール状態だった。それが急激な円高だ。ドルベース価格は上がる。買いが細る。日本株は売っておくか、と。そう考える外国人がいても自然な反応だ。ただ、円高が進行すれば日本株のドル評価額は上がる。日本株は持っておいてもイイだろうに。(個人的には)そう思っております。

マネーゲームは、因が果となり果が因となり、という世界だ。現実を描写する経済モデルなど誰も持っていない。一体、コロナ禍の最中にコロナ後のインフレを正しく予想した人がどの位いたか?コロナ後のインフレが進む中、円安がこんなに進行すると誰が予想していたか?いま円ドルレートが160円から140円付近まで一挙に12パーセントも円高になると今年の正月に誰が予想したであろうか?

だからマネーゲームの「実況中継」をしながら実体経済が不況に向かっているのか、成長が加速されつつあるのか、それを判断するのは極めて難しいのだ。景気後退を予想するには予想できるだけの指標がいる。それについては先日も投稿した。

インテル・ショックと聞けば2003年東京市場のソニーショックを思い起こさせる。

当時、ソニーは分不相応にエクセレント・カンパニーなどと称賛されていたが、虚像は何かのタイミングで霧の如く晴れて、実態が現われるものだ。

新たな企業が成長すればよいことである。

アメリカの失業率は確かに上がった。7月に4.3パーセントまで上がった。



この意味で、アメリカはもはや人手不足ではない。

ただ上のグラフをみれば『確かにネ』という程度の事である。

FRBは9月には「利下げに踏み切るだろう」と憶測されている。景気悲観派は「利下げ」ですら、「利下げを迫られるほど景気が悪化しつつあるンだよ」と主張する。

確かに、耐久消費財購入はこのところ頭打ちだ。自動車販売もそうだ。インフレ率は年率2パーセントラインに収束しつつある。ブレークイーブン・インフレ率(≒期待インフレ率)は直近でほぼ2パーセントにまで落ち着いた。賃金プッシュインフレが今後進行するという可能性はかなり低まっている。
景気過熱が収束すれば、景気後退を覚悟しろってことか?
こんな疑問が(個人的には)ある。

コロナ禍で生産販売が急速に悪化した時(そういえば当時の失業率急上昇は上の図に見るとおり記録的なものであったが)、それに即応したFRBの金利引き下げでナスダックのGAFAM銘柄が急騰し最高値を更新した ― 金利が下がれば株価が上昇するのが理屈だ。2022年春以降の攻撃的金利引き上げ政策以降、そのGAFAMが急落したのだが、今秋に予想される金利引き下げに続く展開を小生はいまから期待している。


それにつけても、円ドル相場に関する報道のしぶりが実に滑稽だ。

円安は日本の国力が低下していることの表われなンです

実質実効レートをみるならいざ知らず、外為市場の名目レートである。円通貨とドル通貨の交換比率に、カネの需給でなく、日米の国力が反映されるものでしょうかネエ……大体、「国力」とは何を指して言ってるので?

言いたいことは分かるが、正直、眉唾だと思っていた。

いまは円高が進んでいる。

円高に転じたのは、日本の国力が改めて見直されているということですネ。

なぜこのようにコメントしないのかと不思議でゴザンス。1カ月か、2か月の間に「国力」が伸びたり、縮んだりはしないと思うのだが……。

それとも
いまの円高は、日米通貨当局の金利政策がもたらしているンですネ。いわばマネーゲームでして。ま、中期的には、日本の国力の停滞という背景がありますから、円安進行のトレンドにいずれは戻るはずです。
こういうなら、理路一貫している。

しかし、残念ながら、円安トレンドに戻るというエコノミストは、円高進行の現在、目にしていない。

【加筆修正:2024-08-06】



2024年8月2日金曜日

ホンノ一言: 朝ドラの「総力戦研究所」に思う

今朝のNHK朝ドラでは、ヒロインの夫君になるであろう男性判事が、対米戦争開戦前に内閣直属の「総力戦研究所」で仕事をしていたことが明かされた ― モデルとされる人物が実際にそうであったかというのは別で、多分違っているのだろうと思う。

(注)・・・と思ったら、モデルとされる三淵乾太郎を総力戦研究所研究生に任命する任免裁可書が国立公文書館に保存されているようで、ドラマは事実を踏まえていると分かった。これはよく調べたものだナアと感心した。

「総力戦研究所」は本ブログでも話題にしたことがある。実際、<総力戦研究所>でブログ内検索をかければ複数の投稿がかかってくる。

総力戦研究所だけではない。公式の官庁である「企画院」でも物資動員計画策定や統制経済システムへの移行が着々と推進されていた。そこでも、対米戦争の見通しは(普通の前提に立てば)悲観的なものでしかなかった。

企画院総裁であった鈴木貞一は、Wikipediaによれば、戦後のインタビューで以下のように語っているそうだ:

戦後の鈴木へのインタビューによれば、企画院総裁就任の当初、船舶の損耗率の問題で対米戦争は困難という分析結果を発表していたが、東條内閣の成立と同時に、海軍が責任を持って損耗率を抑えるから大丈夫だと主張したため、「心配はない。この際は戦争した方が良い」という見解に変わった、と述べている。

陸軍と比べて善玉とされる海軍だが、戦前日本政治史の要所要所に登場する海軍の行動をフォローすると、海軍の戦争責任は極めて大きいというのは、否定しがたい事実だ。

『なぜ戦争を止められなかったのか』と懺悔する人たちは昭和20年代の日本には数多いたに違いない。

それはともかく、対米戦争の(普通の前提に立てば)悲観的な見通しは指導層の間で広く「参考情報」としては共有されていたというのは、概ね事実なのだろう(と想像している)。

実際、昭和天皇の内意をうけてギリギリまで戦争回避に努めた東条英機首相自身が『清水の舞台から飛び降りる』つもりで開戦に踏み切ったのは、記録されている発言からも分かる事で、これ自体が実に不思議で、非合理が支配する日本的政治状況そのものであるとしか言えない。

なぜ上層部は合理的政治判断が出来なかったか?この問いが今でもとても重要だ。

人によっては「当時の日本政府の決定に合理性をもたせた確率的条件」について考察している。つまり人間は常に自分は理に適ったことをしていると考えるものだという、こういう人間認識が根底にある。が、問題認識としては「当時の日本政府はなぜ理に適わない決定をせざるを得なかったか?」、「非合理な決定は(政治的に)選択可能であったが、合理的な決定は(政治的に)選択困難であったのか?」。個人的にはこちらのほうが知的関心をそそられるのだ。

「春秋の筆法」というのがある。直接的原因に加えて、間接的原因、いわゆる「遠因」に注目する歴史観を指す。

そのひそみに習えば、日本を対米戦争に導いた遠因は、1925年に加藤高明内閣の下で導入された「普通選挙」である。

全ての成人男性に参政権が与えられたことがスキャンダルに脆弱な政党政治を自壊させた。それがめぐりめぐって対米戦争へとつながっていった……、これが小生の歴史観である。

つまり、戦前期・日本社会の民主化が非合理な太平洋戦争開戦の遠因である。

日本人の好戦性、妥協を嫌う潔癖性、文治より武断を志向する感性は、仏教文化が朝廷に浸透した以降の貴族層とは正反対のエートス(=気風)で、これは日本史を通して何度もうかがえる傾向だ。

いま、Amazon Audibleで Ezra F. Vogelの”China and Japan: Facing History”を聴いているが、1932年1月の「上海事変」について(それとも1928年の済南事件について、だったか?)

日本人居留民保護が目的なら、派兵するよりは、一時避難を支援する方が遥かに低コストで、かつ中国の反発もかわず、国際的にも評価されていたはずだ

石橋湛山がこんな主張をしていた、と語っている。そもそも石橋湛山は、《小日本主義》を旨としており、植民地の独立を認め、軍は撤退して、貿易の利益を追求した方がよいというのが持論であった。戦後日本の「牙を抜かれた」日本人にとっては、自然な発想だが、戦前期においてはこうした合理的戦略に耳をかす日本人は極めて少数であったのだ。


社会の民主化が進めば、より多くの国民が有権者となり、その国の政治に直接的な影響を与え始める。

「民主化」は、欧米に発する現代的な価値観では「進歩」と認識されているが、しかしながら、世論の大半は「凡論」と「愚論」で占められているものだ ― この辺については何度も投稿している。見事な考察、素晴らしい提案、満点のレポートが少ないのと同じ理屈で、名論・卓説は社会の中で常に少数である。

石橋湛山が唱えた正論が「正論」であると理解できる日本人は少なく、その声は当時の多数の世論にかき消されてしまっていたのである ― ガード下で中身のある議論など出来るものではない。

もし昭和天皇とその側近が、独裁的に政治を方向付けることが可能であったならば、太平洋戦争は起きていなかったであろう。参政権のない日本人は、天皇が任命する宰相を受け入れざるを得ず、妥協的な平和外交に不満はあっても従わざるを得なかったに違いない。明治天皇が独裁者であったなら日露戦争も起きなかったはずである。


上のヴォーゲルの著書では、明治天皇が崩御してから何年もたたないうちに、第一次大戦が起こり、世界構造が激しく変動する中で、日本は明治以来の古い政治システムのままであり、これを支えてきた桂太郎や原敬、山縣有朋といった中心人物を次々に失ったことが、実に日本にとっては不運だったと言っている。

天皇を君主として武士、士族が支配する国から、国民自らが支配する国へと自らを変革(=憲法改正)する試みに日本は失敗した。

ユンカー(≒貴族)出身の名宰相・ビスマルクと同じく貴族出身の名参謀総長・モルトケを失った後の19世紀末ドイツ帝国がどうなったかをみれば十分だろう。 

昭和初年に「昭和維新」という言葉が流行したそうだ。2.26事件が起きた年に禁止されるまで広く歌われたという「昭和維新の歌」がある。今では何だか「血なまぐさい」印象を免れないが、明治以来の政治システムには欠陥があるという認識は広く共有されていたのだろうと想像する。


要するに、戦前は戦前で<憲法改正>に正面から取り組むべきであったのだ、と。こういうことではないかと思う。 

それが出来なかったのは、確かに<政治の失敗>であった。その失敗は、大正以降の日本の<政党政治>の弱さに由来するものかもしれない。その弱さが戦後日本にまで継承されていないならば幸いだ。

戦争は政治の延長であるというのはクラウゼヴィッツの言葉だが、とすれば政治が既に失敗していれば、戦争までも失敗するのは、実にシンプルな理屈ではないか。

「政治の失敗」とは、言い換えれば「統治の失敗」になる。これが当時の戦前期・日本の迷走状態をよく言い表していると思う。「それは何故か?」という問いかけが、戦後のいま、望ましい憲法改正を一度として出来てこなかった戦後日本においても、やはり重要ではないだろうか?

民主主義は民主主義で、ただ国民が有権者として存在していれば、それで機能するわけではない。君主制は君主制で、ただ君主がそこにいれば、それで機能するわけではない。マ、当然の理屈だ。


【加筆修正:2024-08-03、08-04、08-05】