2011年6月29日水曜日

覚書 ― 震災後の日米エネルギー対話

本日の日経「経済教室」にケント・カルダー氏(ジョンズ・ホプキンズ大学ライシャワー東アジア研究所長)が「エネルギー対話の強化を ‐ 震災後の日米関係」を寄稿していた。

見逃してしまうには惜しい内容が書かれていたので概略を書き留めておきたい。新聞紙上では三つのポイントが挙げられていた。

  1. 経済面での日米協力の明確な構想が必要だ(=相互の利益をよく理解した上で戦略的協力を進めるということ)
  2. 原発整備へ事業者の賠償責任に上限を設けよ(=本文で必要性と根拠を考察)
  3. 技術開発の協力や知的交流の活性化も課題(=具体論は一部紹介にとどまる)

というものだ。しかし、これ以外に関心をひく点も多く含まれている。順番にとりあげていこう。

  • 日本もアメリカも今や対中貿易が、対米、対日貿易を上回っている。中国の台頭に伴って、日米どちらの国にとっても、日米関係の内容と相対的ウェイトは変化している。しかし、中国とは共有できない日米固有の補完性に基づいて相互協力ができる分野がある。それはエネルギー、テクノロジー、貿易、知的交流だ。
  • 最も重要なのはエネルギー分野だ。エネルギー消費量をみると、1980年には日米合計が中印合計の3倍だった。これが2035年(24年後)には、中印合計が日米合計の2倍の高さに達し、完全に逆転するというのがIEA(国際エネルギー機関)の展望だ。エネルギー効率化、技術革新を進めなければ、エネルギー源をめぐる競争が一段と激化する。
  • 再生可能エネルギーの開発と省エネルギー技術は、アメリカが日本に教わる所が多い。一方、原発も日米双方にとって将来のエネルギー政策に欠かせない選択肢だ。電気自動車の普及など輸送部門で電力需要が急拡大する可能性が高い。これに対応していくことも大事だ。日本の経済産業省の試算によれば、今後2030年までに日本が必要とするエネルギー関連投資は130兆円に達する。この巨額の投資を行うには、民間資金の活用が不可欠であり、それにはエネルギー市場における投資家の信頼を得ることが必要だ。特に、安全な原発事業に投資が向うには、事業者の賠償負担に上限を設ける必要がある。アメリカでは、プライス・アンダーソン法がこの役割を果たしている。
  • テクノロジーはエネルギーと深く結び付いている。富士電機とGEはスマートメーター(次世代電力計)の開発で事業提携した。IBMはリアルタイムの都市運営を実現するシステムを提供できる。他方、日本の日立はIT技術を駆使した環境配慮型都市開発の技術に優れている。省エネルギー技術、情報、原発の他にも金属、精密機械、光電子工学など戦略的提携の可能な産業分野は日米間に多い
  • 技術交流をスピーディに進めるには、より多くの参加者が参入できるように、開かれた貿易の枠組みを整えておくことが大事だ。日本のTPPの参加もこの点から考えてほしい。農産品は、既に間接的な貿易障壁が一部減らされているが、さらに価格支持政策から直接的な農家の戸別所得補償に力点がシフトしており、農業貿易の自由化を促す状況になっている。
  • 知的交流は、日本からアメリカへの留学生減少が話題になっている。日本の教育機関のアメリカ進出が望まれている。その一例として日本の5大学が共同でワシントンに設けたシンクタンク「日米研究インスティテュート」が挙げられている。ワーキングホリデーなどの協定を日米で結び、日本人留学生(社会人学生だろう)が働きながらアメリカの教育機関で学ぶ機会を増やすことも一案だ。

このように全体を眺めると、最大の問題意識は、エネルギーを主として何に求めるかという戦略だ。これから20年くらいの間に、競争が非常に激化するという点が最重要ポイント。そのエネルギー戦略を日米で選んでいく時に、日米で連携・結託・協同できる分野が多いという指摘。これが寄稿の眼目とみられる。「共同利益を最大化していかないか?」、アメリカの日本に対するソフト・コミットメントでありますな。

ゲーム論では、ソフト・コミットメントに対しては、ソフトに応じる戦略的補完性の論理がよく適用される。しかし、常に相手に合わせて共同利益ばかりを考えていると、自国の利益が最大化されないことにはなる。相手の意志決定に影響を与える、自国の意志は曲げないという姿勢を貫く。そんな超強気の限定合理的行動もあることはある。しかし、下手をすると両方が損をする「囚人のジレンマ」状況に陥る。というか、尖閣・北方領土で醜態をさらしてしまった現在、日本が強気に突っ張っても外国に対しては「空の脅し」でありましょう。まあ、常識的には相手のアプローチをまずは真剣に考えてみるというのが定石である。

確かに中国、インドのエネルギー開発政策はすごいのだ。たとえば各国の原発建設計画をみると、下の図のようになっている(文字が小さいので画像を別に表示してほしい)。データの出所は、現時点で手元にメモがないのだが、原資料は図の下にあるようにWNA(世界原子力協会)による。


これによると中国は今後80基の原発施設を建設する計画になっている。現在も中国政府は第4世代原子炉の安全性を信頼しており、福島第一の事故とは事情は異なるという発言をしている。原発にどの程度までウェイトをかけるかは、各国によって違いがある。違いはあるのだが、原発でなければ、つまり石油・天然ガスの化石燃料、でなければ再生可能エネルギー、というのが大まかな選択肢である。最近の一次エネルギー自給率を各国で比べると、フランスが51%、ドイツが40%、イギリスが104%、アメリカが72%、中国が96%に対して、日本は18%である(エネルギー白書2010、67ページ)。化石燃料依存を高めるという選択は難しかろう。そこで、再生エネルギー利用技術が進歩するまでは、原発を活用せざるを得ないだろうというのがカルダー氏の提案の一つの眼目だ。そのためには、民間資金の活用、投資環境の整備、その一環として投資家(6/29修正:投資家→企業)の有限責任制度を確立するという提案となる。この辺り、相当ロジカルである。

エネルギー産業への投資環境整備。これは、日本で今後必要となる投資規模が巨額だと見込まれることとも関連する。2030年まで130兆円。1年当たりで大体6兆円から7兆円。日本全体で毎年企業が設備投資に使っているお金は7、80兆円だ(GDP統計の名目数値から)。その内の1割程度をエネルギー分野にコンスタントに充てるという展望だ。震災復興事業は概ね20兆円か30兆円と言われている。これは一回限りの復興事業。あとは継続で別に資金を調達して個々の事業を進めることになる。毎年数兆円のエネルギー投資がこれから継続的に必要だという試算は、極めて衝撃的ではあるまいか。

この資金は、当然、民間から投入しないといけないし、高齢化が進む日本国内だけからエネルギー投資がまかなえるか?この点も考察の視野に入るだろう。となれば、日本のエネルギー産業が魅力のある事業分野になっているかが、非常に大事なポイントになってくるのではないか?そんな問い掛けを、外国は黙っていてくれ、と言わんばかりでは、戦略性に欠ける意志決定を行ってしまう確率が高い。やはり日本の国益をよく考えないといけないだろう。

TPP参加がこの議論から出てくるのは、ある意味で自然だ。「多数の民間事業者が自由に参加する中で日米双方の経済問題をうまく解決していけると思わない?」相手はそう言っているわけだから、日本は「確かにそうだね」というか、あるいは「いや、そうは思わないなあ」と言えばいいのである。日立は原発事業部門をグループ全体の中核に据えていたはずで、現在は戦略練り直しをしていることと思われる。ただ日立グループとしては、上でも紹介されているように社会インフラ事業もコア事業である。こちらはデータ処理と環境ビジネスの融合が売りだ。日立の社員の方々は、当然のことながら、今日のカルダー氏の寄稿を興味深く読んでいることでありましょう。

このように、中国の台頭を考えながら将来戦略を決めていくのは日米で共通だが、日米の2国間だけで連携・共同による利益があるかどうかを考えると、共同利益は数多くの分野にある。そんな提案である。日本としては、より大きな利益が見込める戦略があれば、その戦略を企画すればよいし、その戦略が他国との連携を必要とするものであれば、その他国にとって日本の戦略が魅力的であることを日本から提案すればよい。そんな上手い提案がないのであれば、日米2国間で、もっと日本の利益になる連携のあり方を探していけばよい。今日のカルダー氏の寄稿は、アメリカの観点から提案された一つの共同戦略案として考える価値が大いにあると思うが、いかがであろうか?

2011年6月28日火曜日

壮トスルナリ、退陣三条件と震災復興

菅総理が、久方ぶりに記者会見を行い、自ら退陣をするための条件を明らかにしたとの報道だ。その条件とは、本年度の赤字国債法案、二次補正予算案、それと再生エネルギー特別措置法案の三案件が国会で可決されることである。

最初の二つだけであるなら、野党も協力を惜しまないだろうし、協力をしなければ逆に国民からの批判を受けることは間違いない。では、再エネ法案はどうだろうか?

これは難しい。まず現行のエネルギー基本計画の見直しについて、国民的了解は愚か、民主党内でも、経済産業省内においても、合意らしきものは全く形成されていない。日本社会で利用するエネルギーのあり方について、国民と企業の共通の理解がない状況で、再エネ法案が法律となり、新エネルギーへ舵を切っていくということは考えられないことだ。

そもそも停止原発の再稼働承諾を地元自治体に頼んで歩くと言っているのは国である。頼む以上は原発は安全だと言っているに等しい。

原発が安全なのであれば、既存の原発施設をどの位の期間、運転して、どの位の電力を供給し、再生エネルギーによる発電施設を、どの位の期間で、どの位まで増やしていくのか?その展望と見通しが重要な検討課題になる。その結果として発電設備投資の規模と電力料金が決まる。その設備投資の担い手は、電力会社が行うのか、かなりの程度、電力市場を自由化して多数の事業者が設備投資を行うのか?発電した電力を販売する価格は、市場の需給バランスで決めさせるのか、これまでどおり政府の認可が必要な公共料金にするのか?まあ、とにかく数多くの論点を明らかにしない限り、再生エネルギー法案だけが、一つだけ単独に、まずそれだけが可決されるという理屈になりっこないのである。

今日は、経済産業省から、商業販売額の5月速報が公表された。小売については、前年比がマイナス1.3%で、季節調整済み前月比が2.4%の増加である。前年比は、3月がマイナス8.3%、4月がマイナス4.8%だったので、対前年のマイナス幅は月を追って縮小している。足元の需要の戻りは急速で、レベル的には昨年水準にほぼ並びつつある。細かな内訳は、以下のように説明されている。

小売業を業種別にみると、自動車小売業が前年同月比▲24.4%の減少、各種商品小売業(百貨店など)が同▲2.9%の減少となった。一方、機械器具小売業が同3.8%の増加、織物・衣服・身の回り品小売業が同3.3%の増加、その他小売業が同3.0%の増加、飲食料品小売業が同1.7%の増加、燃料小売業が同1.3%の増加となった。 
自動車は、5月時点では、生産自体が立ち直っていなかった。他方で、地デジ対応、節電対応の機器が結構売れたそうだ。それとミネラルウォーター。クールビズ。こうしてみると、震災と津波による被害はあったが、災害から立ち直るための経済活動は、しっかりと広がりつつあることが分かる。あとは現場と個人個人がやるべき目の前の仕事をしっかりとやっていくのが、いま何よりも大事なことだと小生は思っている。

経済とは暮らしであって、平常においては経済のことが最も大事な事柄だと小生は考えている。しかし、社会のあり方が暮らしの安穏より大事な事柄になるような時代もこれまで現実にあったことだ。

国のエネルギーを主として何に依存していくかは、国家戦略そのものであるだろう。フランスが原子力を主軸としてきたことをフランス共和国として後悔するなどという事態は小生には想像できない。ドイツ連邦共和国がこの6月に脱原発に舵を切ったことを国として後悔するなどという時が来るとも想像できない。そこには国民の生存への意志が現れ出ていて、単なる損得を超える哲学が壁の隙間から漏れ光る光線のように窺い見られるのだ。日本はエネルギーをどのように得て、国民がどんな風に暮らしていけばいいのか?国民が最も豊かであるように、ですか?それは違う。国民は豊かさだけを求めているわけではない。もしそうなら、金持ちはみんな幸福であるはずだ。

総理大臣も国家の公僕であり、目の前の自分の仕事だけをしっかりと追い求めていけば、それが正しい道なのだろうか?新聞報道では、「執行部との亀裂深まる」とか、「党内孤立が決定的」等々、もうボロボロの内閣であるように見受けられる。政治家の為すべき天命が、単に多数者の利害を調整したり、国民の和を守ることに専念することではなく、日本国が将来にわたって生存していくための道を最初に切り開く努力をすることであるならば、自分が単騎突撃する政治スタイルもあながちあり得ないと断定しなくともいいだろう。まさしく「おのれ信じて直ければ、敵百万人ありとても我往かん」。男子の本懐というものでありましょう。ただいま連載中の日本経済新聞のコラム「やさしい経済学―国難に向き合った日本人」に先週登場した井上準之助もそうであるし、今週の主役である高橋是清もそうだ。

小生、ドン・キホーテは決して嫌いではありませぬ。もし本当にその人が純良の騎士ドン・キホーテであるならば。

歴史に残る信念ある政治家であっても、生存中は必ずしも評判は良くないものである。井上も高橋も暗殺されており、井上を使った浜口首相も凶刃に倒れている。同様に、現在、民主党内で総スカン状態になっているボロボロ宰相が、実は誠実なドン・キホーテであり、首相を取り巻く政治家たちが世俗の垢にまみれたポリティシャン連中であるかもしれないのだ。本人をずっと見ているわけではない一般国民は、実はそれぞれの政治家の風評しか知らないわけであって、持っているのは実は印象だけである。

本当は、昨日の投稿のようにデータ分析なき理念論争を政治の場で繰り広げることは、単に不確実性を高めるだけであって、経済的にはマイナスの影響を及ぼす。無駄な精力になるだけだ。しかし、人はパンのみにて生きるにあらず、という。それが正しい道であるなら、生活水準が低下したとしても意としない。確かにそういう一面を人はもっている。戦前期日本人は、まさにそう行動しましたよね ― 結果として、間違いであったことを事後的に悟ったのだが。

こう考えると、現在時点の菅総理の胸中は、文字通り風車に突撃するドン・キホーテの決意、というか、そう解釈しないと理解出来ない。総理が大好きだという高杉晋作が月明りの功山寺に挙兵した情景をイメージしているのかとすら連想する。

総理の次の一手は、再エネ法案に反対する政治家を何と呼ぶかである。「原発推進派」、「東電派」、「核賛成派」・・・呼び名は色々あろうが、再エネ法案に賛成するか、反対するかで、政界と経済界を分断する戦術を果敢に実行するだけの度胸があれば、これは日本の進む将来を決める分水嶺になっていくかもしれない。小生はそう思っているところである。もちろん菅直人という政治家が、阿呆なドン・キホーテとして犬死してもよいと覚悟を決めていればの前提付きのことであり、阿呆になりきれるだけの度量を有している場合に限ってのことだ。

もしそうであれば、今後の日本の復興過程は、いま現時点でイメージしている形とは、相当違った経路を辿っていくことであろう。その可能性は、いま現在の不確実性を高めることにはなるが、行く方向が決まって、国民がそのための負担に応じることで国民的統合が強化されれば、長期的にはこの20年間の負のスパイラルを逆転させる契機になるかもしれないと見ているところである。

2011年6月27日月曜日

景気回復を妨げる原因があるとすれば・・・

少し日数がたって古くなったがイギリスの経済誌The Economistの6月11日号をパラパラめくっていた。"Sticky patch or meltdown?"という記事は、最近の景気停滞をどう考えればよいかを簡潔にまとめていた。

まず、いまの景気停滞が一時的であると考えられる根拠を三つあげている。

(1)日本の大震災と津波によって、製造業のサプライチェーンが世界規模で寸断されてしまった。しかし生産体制復旧のスピードは速く、例えば今夏のアメリカ自動車産業の生産計画を見ても、いずれGDP成長率が年率1%程度は上がる。

(2)需要が落ちた主因は、昨年末から春先にかけて急上昇した石油価格だ。石油価格の上昇は何より消費者心理を悪化させる。また、石油価格が急上昇すれば石油輸入国(高所得国)の購買力が石油輸出国(中低所得国)に移動してしまう。移動した購買力は、輸出国で何かに使われるわけではなく、そこで貯金されるだけだ。世界需要は、その分、落ちることになる。しかし、上昇した石油価格は足元では低下し始めている。

(3)経済成長のエンジンは新興国である。経済成長は需要の成長がなければ、生産の成長となって実現できない。その需要の成長は、いまは新興国の成長に依存している。しかし、新興国ではインフレが心配だ。中国の消費者物価は5月に前年比5.5%上昇となり、インドの卸売物価指数は前年より9.1%上昇している。そのため新興国の中央銀行はインフレ抑制を目的に金融引き締めを行ってきた。その効果が出始めてきたところだ。最近の世界経済停滞は、新興国のインフレ問題を緩和するので、むしろ新興国から見ると、経済運営がやりやすくなる。これ以上の金融引き締めは必要でないし、逆に緩和する余地が出てきた。そうすれば新興国の景気が拡大するだろう。

短期間の景気停滞は、新興国にとっては、むしろ渡りに舟で、有りがたいくらいのものなのだ。しかし、今後景気回復を妨げる原因になるかもしれない動きもある。

先進国はリーマン危機によるバランスシート不況の傷跡が治っていない。失われた富は余りにも大きい。こんな時、先進国では、財政健全化を求める声が強まっている。金融の量的緩和・国債買支え政策も終了しようとしている。ヨーロッパ中央銀行などは政策金利を引き上げようとさえしている。景気停滞の中で、いまやろうとしている財政金融政策を強行することは、先進国にとっては極めて危険だ。

アメリカでもヨーロッパでも(そして日本でも)、議論は経済分析に基づくものというより、財政運営に関する政治哲学の違い、哲学の違いに発する理念闘争になりつつある。歳出構造再検討を拒否するアメリカ民主党、増税に反対するアメリカ共和党、そしてどちらも嫌なTea Party。突然の歳出停止という事態も否定できない。これはリスクの増大だ。同じ兆候は欧州でも認められる。

The Economist誌の懸念は次の数行に尽くされている:
This dangerous political brinkmanship could also have a damaging effect by creating uncertainty. Companies are currently sitting on piles of cash because they are wondering how strong economic growth will be. Politics gives them more reason to sit on their hands rather than investing and hiring immediately, providing a boost the world economy sorely needs.

少々、脚色が入っている箇所があるが、大体、こんな内容だ。

全く同じ政治状況は日本でも見られる。特例公債法案が国会を通過するかどうかが心配されている。年金、国家公務員給与支払い、公共工事事業費支払い等々、支払い停止の事態がありうる段階にさしかかっている。トップがいて、いないような状況。外国と違うと言えば、日本には大きな政府にこだわる政党もなければ、小さな政府を主張する政党もない。あるのは、皆さんに損はさせないとオウムのように繰り返す弱体政党が二つ、三つ・・・・

政治家同士のチキンレース。破滅に向かう自動車にくくりつけられているのは国民である。

政治の機能不全による景気停滞においては、企業の資金繰りが悪化しているわけではない。企業の手元流動性はむしろ潤沢なのである。しかし、政治的混乱は将来予測を困難にする。不確実性を高める。そのことで様々の投資プロジェクトでウェイト&シー(wait and see)をとることになり、それが需要の成長を抑え、経済成長を妨げ、研究開発投資に影響し、最終的には長期的経済停滞を現実のものとするのである。

政治家のなすべきことは、単に自分の政治信条を盥の水の中にいる仲間同士で単純にぶつけあうことではない。競合相手が傷つくことは、自らの利益になるというような、そんなゼロサムゲーム的思考では政治にはならないのである。

公益の拡大をもたらすような政治活動が、政治の場で、つまり国会と首相官邸で実現されていて、はじめて代議制民主主義の存在価値があるのだ。それ自体に価値があるのではないことを改めて再確認しなければならないのではあるまいか?

2011年6月26日日曜日

日曜日の話し(6/26)

「印象派」という文字を初めて目にしたのは、小学生の頃だったか。タイトルは忘れたが、毎月予約購読していた雑誌の裏表紙に、モネの「ルーアン大聖堂」連作の中の一枚があった。大変有名な画家であるという説明があった。

カンディンスキーは、モネの「積み藁」を初めてみて、何が描いているのか一瞬分からないまま、その美しさにとても感動したと書いている。小生は、大聖堂をみたが(小さな雑誌の表紙ではあるが)、やはり何が描かれているのか分からなかった。が、それだけであった。天才ではありませんね、絶対。

モネ、ルーアン大聖堂、1892年

モネ、積みわら、1888年

ちなみにカンディンスキーは、幼年期からピアノとチェロを練習した、音楽を愛した男でもあったが、いまでいう色聴所有者であったらしい。共感覚の一つだ。彼の絵は、特に小品では、紫と黄の組み合わせが美しい作品が多い。赤がピリリと、あるいはまた大胆かつ効果的に使われている。ゴッホとも共通する色使いだ。和音で言えば、シ・レ・ソやド・ファ・ラに相当する。ド・ミ・ソのような安定感とは違う感覚。フ~~ム、ナルホドねえ・・・・

そういえば映画「ギミー・ヘブン」も共感覚がポイントのサスペンス映画であった。何年か前に観たが、江口洋介、宮崎あおいが不思議な魅力を伝えていた作品でした。好きな一品です。

2011年6月25日土曜日

リンク集 ― もはやリーマン危機後ではない?

アメリカの中央銀行に相当するFRBの金融政策、経済判断が、このところ注目の的である。その判断をめぐって政策論争につながっている。財政再建と経済回復とのバランスをどうとるか?結局はこれにつきる。この点ばかりは日本と世界に何の違いもない。

いま世界中の論調を調べて、整理しているところだ。


主犯は今回も石油価格。最近はガス価格もメインプレーヤーだから、エネルギー価格全般と言ってよい。

New tools for forecasting the real price of crude oil(Voxより引用)

曰く:
The real (inflation-adjusted) price of crude oil is a key variable in the macroeconomic projections generated by central banks, private sector forecasters, and international organisations (IMF 2005, 2007). The recent cutback in Libyan oil production, widespread political unrest in the Middle East, and ongoing concerns about the state of the global recovery from the financial crisis have sharpened awareness of the uncertainty about the future path of the real price of crude oil. It seems surprising that, to date, no studies have systematically investigated how best to forecast the real price of oil in real time. 
エネルギー不安とエネルギー価格の乱高下、それと財政赤字に支えられてきたリーマン危機後の経済回復、その継続可能性への不安。つまり手詰まり感がもたらす漠然たる不安が今年春先から世界に広まった。日本では東日本大震災で世界経済どころではなくなり、目が外には向かなかったという面がある。

その石油価格がピークアウトしたのではないかという状況があり、それをまたどう評価するかという議論にもなっている。アメリカは百家争鳴だ。

財政赤字の拡大と国債残高の対GDP比上昇は、いずれ財政支出の急激なカットを余儀なくされることになり、国民経済のギリシア化を招く。だからリーマン危機からの出口戦略を探るタイミングに来ているというのが一つの立場だ。その立場にたつと、財政健全化を徐々に進めていくべきであるという政策になる。が、反対の立場にたつと、それは時期尚早であり、まだポスト・リーマン危機ではないという現状認識をとる。財政政策をもっと積極的に進めないと1937年危機の二の舞になるという判断になる。1929年の株価大暴落をきっかけに世界大恐慌に陥ったが、そのパニックは1933年に底を打った。ところが財政健全化を急ぎすぎて1937年に再び危機に陥ったという痛い経験は、折にふれ話題になっているのだ。

そこでExpansionary Fiscal Contraction(拡張的財政緊縮)という発想となる。が、狙いはともかく短期的には需要抑制政策となる。下はそれに対する意見。

Short-Run Deficit Reduction is *Not* Expansionary(Mark Thoma, Economist's View)
And Policymakers Are Proposing to Withdraw Stimulus?(econbrowser)

何となくFRBが議会とホワイトハウスに押さえこまれてしまった様子すら伝わってくる。

それに対して、

The Two Year Anniversary of the Non-Recovery(J. B. Taylor, Economics One)

テーラーは基本的にはケインジアンなのだが
Today the Joint Economic Committee of the Congress held a hearing on whether a credible plan to reduce government spending growth would bolster or hinder the recovery. I argued that a credible budget strategy would strengthen the recovery, by removing the threats of another fiscal crisis, higher taxes, higher inflation and higher interest rates・・・
のように、財政健全化が与えるプラスの恩恵を高く評価する見方をとっている。

かと思うと、イギリスのファイナンシャル・タイムズでは

America’s misunderstood hero: the federal deficit(Martin Wolf, Economist's Forum)

ここでのポイントは、
Many opinion leaders claim: “America is on the road to becoming the next Greece or Ireland,” “The deficit is destroying our children’s future,” or “We need to sharply cut the deficit now before it’s too late.”
All wrong!
同じことはクルーグマンも言っている。

The Triumph of Bad Ideas(Paul Krugman, The Conscience of a Liberal)
And yet in the political domain Keynesianism is seen as discredited, while various forms of crowding out/austerity is expansionary talk, which have in fact totally failed — look at interest rates! — have become orthodoxy.
このように、最近のアメリカにおける論調に怒りを表明している。

こんな風に専門家の論調が分裂してまとまらない場合、日本では世論調査結果なるものが、すぐに報道される。日本では報道各社が競うようにやっているが(とにかく、簡単にできて、アピールしますから)、アメリカにもあることはあるのだな、世論調査が。ま、世論調査発祥の国であることを忘れてはならない。


ブルームバーグ社が実施している世論調査の結果によれば、バーナンキ議長への信頼がこのところ低迷しているよし。量的金融緩和(QE2)終了後の見通しを的確に示せない。不確実性が高まっている中で方向性を示せない。この辺りの事情は、日本ともあい通じるということか。

ひるがえって日本では、「社会保障と税の一体改革」で民主党内がまとまらない(まとまりきれない)。政府原案は「消費税率を2015年度までに10%まで引き上げる」なのであるが、どうにも結論が出ない。「経済が好転するまではダメ」、「歳出圧縮を優先せよ」。この二つは反対論ですな。「財政再建は急務でしょうが!」これは賛成論だ。

アメリカのエコノミスト層は日本とは比較にならず分厚い。1年間に発表されるワーキングペーパーなどは数え切れず、全部を合わせると内容は玉石混交だが、非常にハイレベルの成果はそれこそ山のようにあって、データ分析の裏付けで困ることはない。アメリカでも、財政赤字をこれ以上拡大することが、国民経済にとってプラスになるのか、マイナスになるのか、評価がまとまらない。ここが実験ができず、過去の経験が現在に当てはまるわけではなく、計画の成否は事前確認抜きのぶっつけ本番という社会科学特有のリスクとなる。失敗すれば経済学への信頼をなくし、単なるグッドラックで成功した場合には、今度は過剰な信頼を得る。その意味で、アメリカ政府の次の一手には大変興味を感じているところだ。

日本の財政は、数字は危機的だが、外国の債権者からプレッシャを受けているわけではない。日本の政策論争が収束しないのを見るにつけ、アメリカの専門家がまとまれないのだからなあ、日本で結論を出すのは難しいよ・・・・と、小生などは妙に納得もしてしまうのである。

2011年6月24日金曜日

景気は、踊り場、それとも下り坂ですか?

米FRBのバーナンキ議長が、現在のアメリカ景気がたどっている予想以上に遅い回復について、その理由が分からないと述べたよし。そういえば、グリーンスパン前議長も、住宅バブル防止を狙って、政策金利を引き上げ、短期金融市場を引き締め気味に調整しようとしたところ、案に相違して、長期金利が下がらず、これは異な事だ、「誠に謎である」と述べたものだ。2005年2月の議会証言における有名なGreenspan's Conundrumは、これである。最近のアメリカ経済を特徴付ける牛歩のごとき経済回復。これまたBernanke's Conundrumになるかもしれない。なるかもしれないが、今はまだはっきりした停滞ではないし、まして後退ではない。

株式市場は確かに下がっている。下の図はニューヨークDow Jonesの動きである。ch225に作成してもらった

株価は、昨年の夏場、年末、今年の春先に短期間低下しているが、今回の停滞は少し長期化しているようだ。実は、石油価格もピークアウトしたと論じられている。下が、ニューヨークの Light Crude Oilの値動きである。


この図は、TradingCharts.comに作成したもらった週次価格の推移だ。これをみると、短期・中期の移動平均線が上から長期移動平均線を割り込んでいる形になっている。こんなことは昨年夏以来のことであり、確かにこの1ヶ月の市況は弱いといえば弱い。

では、このままアメリカ経済、ひいては世界経済が悪化していくのかといえば、その判断は時期尚早である。というか、数字はそれほど悪くはない。

たとえばコンファレンスボードの先行指数(Leading Index)の動きをみると、6月時点でアメリカは0.8%のプラスで、実体経済全体としては、まだなお拡大しつつあると思われる。同じ判断は、6月14日にOECDから公表された別の先行指数をみても言えることである。更に、民間の経済予測機関であるe-forecasting.comの見方などは、もっと強気である。今年の春先に一時悪化した景気見通しが、今は回復している途上にある、という判断だ。コンファレンスボードの指数は権威があるが、専門家の判断が一致しているかといえばそうではない。アメリカ経済が、景気後退の入り口にさしかかっているという可能性はおろか、「何ヶ月か停滞するよね」という「踊り場」ですらもない。そんな判断も可能だし、現にそうみている人はいる。つまり、株価は来週にでも再び上昇を開始するかもしれない。その程度に見ておくのが、よいだろう。(無論、すべては確率の世界で語られるのであって、断言はできない)

現在の暗澹とした気分は、ギリシアのソブリンリスク(=国債危機)とEUの支援体制構築の遅れにある。体制作りが遅れているのは、何も福島第一原発による損害補償だけではないのである。そりゃあ、税金を投入するわけですから。すぐに結論が出るなんてこと、あるわけがないでしょう。それが現実である。切るべきなのに切れない、出しても死に金になることは分かっているのに出さざるをえない。しかも、そのカネは、元々、隣国、隣々国の国民の税金である。ま、後ろ向きの仕事は誰でも嫌なものであります。当然、気分はブルーになるわけであります。

アメリカよりも心配なのは、日本のほうだ。先程の、OECD資料をみれば、日本の数値がないことに気がつくはず。それは冒頭の説明にあるように、"Beause of the exceptional circumstances the country is facing, it is not possible to provide reliable estimates ",、まだなお状況はこうなのである。OECDに基礎情報を提供するのは日本政府である。つまりは、日本政府が日本の経済統計情報を出せないのである。言い換えると、日本全体の経済活動がいまどのような状態なのか、政府も正確なところ自信がない。これが現実だ。

本日の投稿で最初に紹介したアメリカのコンファレンスボードでは、各国経済についても先行指数(Leading Index)をまとめている。日本については、独自に基礎データを分析したのだろうか、6月時点でマイナス2.1%という数字を公表している。まだ足元の経済は悪化しつつあるという数字だ。基礎情報は、多分、6月現在のものなどないから、4月までの経済情報を使っているはずだ。小生はそうみている。

しばしば日本国内で話されているのは、「国内の生産体制は、6月までには復旧が完了し、7月からは順調に拡大していく見込みだ」、そういう明るい判断である。自動車メーカーも生産回復には自信があるという報道がある。何となく「大丈夫みたいだよな」といった心理が広がりつつある。

しかしながら、いまの日本の生産回復への自信は、数字の裏付けが明確にある、というものではない。一応、この点も頭に入れておいたほうがよい。

もちろん日本の景気動向指数は、日本政府(内閣府)がしっかりと(?)公表している。データは4月の速報結果がその後の追加情報で改訂された段階である。公表されているのは、今後の景気予測に使われる先行指数(Leading Index)の他に、現在の景気判断に利用される一致指数、景気循環の段階の確認に使われる遅行指数の三つがある。このうち先行指数と一致指数を図にしたのが下である。


本当は前月との差をとってポイント差でみた方が良いのだが、リーマンショックやら大震災で、ポイント差をとると地震計の針のように振りきれてしまう。無理にグラフ全体を描くと、目盛りが詰まって動きのない一本の線になる。それで指数の値そのままを使った。上がれば景気拡大、下がれば景気後退である。青い線が先行き、茶色の線が現在の状況だ。これをみると、直近である4月時点で、先行指数、一致指数とも相当低下してはいる。とはいえ、図全体からは、リーマンショックの波の大きさばかりが目につく。大震災の影響はよく分からない。本当なのかなあ・・・、もちろん政府もこれで実態を正しくとらえている、とは思っていないはずだ。で、OECDは日本の情報を載せていない。その話に戻るわけである。

今度、内閣府と政府の統計委員会が共済でシンポジウム「震災復興と統計―統計の果たすべき役割とは?」を開催するようだ。現状把握のための情報の大切さは日本政府にも痛切に理解されているようである。

2011年6月23日木曜日

市民による政治 vs 市民運動家による政治

いま同僚と書いている本は、ビジネス・エコノミクスである。その柱は「需給バランスの論理」、「戦略的思考」そして「イノベーションと産業構造」。この三部構成にしている。戦略的思考は、特に1990年前後から以降、経済学の基本ツールとして不可欠の役割をはたすようになったゲーム理論が軸になる。しかし、クラシック音楽のソナタ形式ではないが、ゲーム理論に基づく合理的思考では経済の発展を説明できない。それは主題の一つではあるが、最終的に否定される。経済の発展は、新しい商品、新しい産業の誕生と拡大、つまり産業構造の変化として認識できるが、その根底には創造的破壊がある。均衡を崩す反力学の世界。そこにアントレプレナーが生きている。その意味では、価格メカニズムに基づき経済社会を理解する新古典派ではない。長期均衡価格をむしろ経済的な「死の世界」と認めるシュンペーターの味付けに近い。

その同僚が、同じ狙いでアントレプレナーシップの系譜について書きたいというので、草稿を見せてもらった。昨日は、肌寒い北運河近くにある石造りのカフェに腰を落ち着け、随分議論をした。彼は、アダム・スミスとシュンペーター、そしてドラッカーを「時空を超えたトライアングル」として位置づける。アダム・スミスといえば先ずは「神の見えざる手」を思い出すだろう。小生も実はそうだ。というか、経済学の発展と精緻化は、スミスが着目した価格調整機能を理論的に彫琢してきた歩みに他ならない。スミスの後には、デビッド・リカードが続き、ジョン・スチュアート・ミルに引き継がれ、そうしてアルフレッド・マーシャルにおいてイギリス古典派経済学は新古典派経済学として壮麗に再建される。時は1890年。最初の"The Great Depression"の真っ最中だ。創業者利得が消失し、自由な参入と価格競争を通して、経済の「あるべき状態」に落ち着いた時代。超低金利と超低利潤。しかし消費者余剰は最大になる。この理念は、経済をみる基本的な目線として、現代経済学にも連綿と受け継がれている。こうした見方の元祖であるはずのアダム・スミス。間違いでないが、しかし、このアダム・スミス像、甚だ、一面的な理解であるわけだ。

マーシャルとは別に一般均衡理論を確立したレオン・ワルラス。シュンペーターにとってクラシカル・セオリーとはワルラスの一般均衡モデルであった。すべてがバランスする矛盾のない経済世界。しかしそんな世界に成長はあるのか?発展はありうるのか?ワルラスから、歩き始めたのがシュンペーターだ。やはり新古典派を機械的にはとらえない。ちゃんと調理する。

ま、あまり書くと、業務上の秘密に触れる。友人の著作が刊行されたら改めて案内をさせていただきます。

そのシュンペーターだが、ずいぶん昔、若い頃には、「資本主義・社会主義・民主主義」が必読書として指定されていた。そう厚い本ではなく読みやすいところが、シュンペーターには珍しい。先日、書店で中山智香子「経済戦争の理論」(勁草書房、2010年2月)を見つけた。ざっと見ると、シュンペーター、ポラニー、モルゲンシュテルンという三人のオーストリア人が主たる登場人物になっている。その三人が、第一次大戦、戦間期、第二次世界大戦と時を経ながら、それぞれのやり方で資本主義社会の崩壊と未来について大著を世に問うた。資本主義社会、この深くて、手を焼かせる難問について、中々ドラマティックに叙述しているのです。その場で買った次第。いまも興味深く読んでいるところだ。

この中に、民主主義について書いているところがある(58~63ページ)。こんな概要だ。かなり小生の脚色が入っているので、そのつもりで。

第一に、資本主義社会では、政治に関心のない大多数が、少数者に政治をまかせるようになる。それは「公」に奉仕する社会的階層を市民(=ブルジョワジー)が侵食し、解体するからなのだな。これ即ち民主化プロセスであり、日本で1980年前後まで進んだ「一億総中流化」現象と似通っている一面もある。言い換えると、社会の単一階層化だ。そうした単一化の中で、人々の生き方やモラル、人生の目的は、ますますビジネスに集中し、個人的成功を誰もが求めるようになり、国益に寄与する動機や意識はますます弱まる。これは必然だという目線である。

第二に、専門家は社会を有益な方向には導かない。匿名集団による<世論>が専門家の提案を規定する、というのが理由だ。これと逆の見方であると思うのだが、専門家は、Social Interestの拡大を直接の目的とするわけではなく、専門家である自分にとってのSpecial Interestを求めるものであるという指摘がある点は、先日の投稿でも紹介した。いずれにしても、ケインズ流の「ハーベイロードの前提」、プラトンの「哲人政治」等々、古来より有識者による寡頭制共和主義を支持する向きがインテリには多い。しかし、それはうまく機能しないのだ、という認識である。

三つ目は、民主主義とは<物事の決め方>であって、それ自体が目的であるわけではない。この社会哲学だ。シュンペーターは、第一次世界大戦での敗北後、解体消滅したハプスブルク家オーストリア・ハンガリー帝国を愛していた。「帝国」という政治行政制度が、時代遅れで適切な意思決定を妨げるものであるという心配から、様々の改革案を幾度も帝国政府に上奏したと言われる。単に「人々による統治」というだけでは、民主主義であることを意味しない。ということは、人々による統治は、民主主義の必要条件ではあるが、十分条件ではないと解釈する。

上に上げた三点のいずれも、この数日の政争劇をみる有益な観点ではないかと、小生は思っているのだが、特に第三点。人々が参加しているからと言って、その社会が民主主義社会である保証はない。ここは大いに勘所だ。

大事なことは物事の決め方だ。その観点から、再生エネルギー法案の審議に入ることを条件に総理大臣を退くという「政治家だけの井戸端会議」を眺めると(退くと明言しているわけでもないが)、日本は民主的な憲法を持っているだけのことであって、実際には民主主義にはなっていない。そもそも日本国の公職のあり方と日本国民の公益のあり方を密室でバーターする権限が一部の国会議員にのみ与えられているのかどうか、その根拠については甚だ疑問だ。たとえ市民運動が民主社会にのみあり、いま市民運動家が政治の責任を負っているとしても、現在の政治は、もはや民主的ではない。市民運動家が民主社会にのみ生存するのなら、現首相は、もはや市民運動家ではない。それは偽装だ。最初から偽装であったのかもしれない。

2011年6月22日水曜日

いまの混乱は民主党生き残りの最適戦略ですか?

国会会期が70日間延長される見通しになってきた。再生可能なエネルギー普及のための全量固定価格買い取り制度(FIT)導入までも退陣条件の中に入れたいという首相の意向で、まずはFIT関連法案の実質審議入りを求めているという報道である。ということは、FIT関連法案が審議されていなければ、たとえ70日間の延長国会会期末を迎えても、辞める筋合いはないということか?あるいは、第三次補正予算は新しい体制で臨むとはいうが、その新しい体制に菅首相がいないとは何も言ってない。おそらく居るのではあるまいか。


こう考えると、菅直人総理大臣は、小泉元首相退任以来、久々に現れた誠に渋とく権謀術数を繰り広げるポリティシャンではあるまいか。再生エネルギーへの転換をどの位本気で望んでいるのか。30年間の悲願であったと話しているようだが、大方の反応は「そうだったんですか?」という所だろう。政治家が口にする言葉は、女優の微笑みと同じで、100%ビジネスである。政治家の言葉を真に受ける御仁がよほど目出たいのである。大手新聞社論説委員の「政治は言葉である」。これまた新聞社のビジネスである。


参議院の西岡議長はこんな発言をしているよし。

西岡武夫参院議長は22日午前の記者会見で、菅直人首相が今国会の会期延長問題に絡んで今年度第3次補正予算案を「新しい体制」で対応する方針を示したことについて「またもや首相はいつ辞めるのかをおっしゃらない。大幅な内閣改造をやってそれを新体制と言うわけだから、そういうごまかしの政治はよくない」と厳しく批判した。
そのうえで「政権として責任を取っていない。菅首相がいつまでに辞めると言わなければ、国会として受けられない」と菅政権による会期延長の方針に苦言を呈した。
(出所)日本経済新聞WEB版、6月22日 12:19配信



政権の体を成していないと批判される状態なのだ。これでは野党が選択する最適戦略も立てにくいだろう。敵が本音では何を望んでいるかがよく分からないからだ。
どうも見ていると、小生は、ゲーム理論の<混合戦略>を連想するのだ。混合戦略とは、複数の手を選択する可能性を常に含めておく戦略を指す。いわば「どう出るか分からない」、「本音が分からない」、「ワケが分からない」という発言や行動を意図的にとる。これ自体が有効な戦略として機能するということだ。
たとえばジャンケンという勝負事がある。必勝法はありますか?そんなものはないですね。では最も合理的、つまり勝てないのであれば、せめて負けにくいやり方はありますか?それは、敵に手の内を見せない。最後まで、自分の手を予想させず、曖昧な状況にしておくことである。イシ、カミ、ハサミのいずれを出すのか、敵に予測されてしまえば、自分は必敗である。それ故に、三つの選択肢を等しい確率で出す。ランダムに出す。何がしかの法則性がそこに混じると、相手はそれを逆用して勝つ秘訣を見つけだす。だから、見破られないように自分の手はランダムに選ぶ、と同時に、相手の手の出し方に何か法則性はないか観察する。両者が、全くランダムに手を選ぶなら、自ら進んで特定の手を増やすと、それが負ける原因になる。故に、結果としてジャンケンゲームは、互いに相手の手が読めない膠着状態になる。即ち、これが<ナッシュ均衡>である。
ナッシュ均衡を崩すには、何らかのコミットメントを出して、相手に自分を信じさせなければならない。相手が自分の発言を信頼したところで、その裏をかく。そうしてナッシュ均衡で膠着していた状況に変化が生まれる。時に、勝敗が決して、一方の当事者が全面的敗北に至る。
民主党内が四分五裂しているにもかかわらず、内閣不信任案を大差で否決し、党執行部が首相と刺し違えの覚悟で退陣時期を明示するよう要請するかと報道されても、実際には小田原評定が続いた。その間、対応を決しかねて混乱を重ねているのはむしろ野党であり、アドバンテージを取得しているのは与党である。そうも見える。
再生エネルギー推進法案は、野党の味方である経団連に対する攻撃である。真に受けて自民党が反対をすれば、原発推進派のラベルを貼るであろう。民主党が本気でないと判断して放置すれば法案が提出される可能性がある。賛成すれば与党の勝利。反対すれば与党に攻撃機会を与える。財界主流派と取引すれば、敵の味方を自分の味方に引きこむことが可能である。
国内政局のヘゲモニーはまだなお民主党が握っていると思う所以だ。追い詰められつつあるのは、寧ろ自民党総裁であり、自民党幹事長であり、民主党で代表選に関心を表明した面々ではなかろうか?
戦略的優越は明らかに民主党にあり、自民党、公明党は相手が打った手にその都度おどろいて右往左往している。いいように転がされている。そう思えて仕方がないのである。もしも、この一連の状況変化が、民主党の政治家全体による意図的作戦であったとしたら、それはとんでもない権謀術数である。しかし、そんなことはあるまいと思います。何せ尖閣諸島、北方領土への対応。あまりにもアンバランスだ。
各自がバラバラで行動することで、政党の行動戦略としては、結果的に、事後的に最適戦略を展開している。それが菅直人を代表とする今の民主党であると思うのだ。これを何という言葉で呼べばよいのか?「偽装戦略」、「おとり戦略」、「かき回し戦略」、色々あろうが、政局の場で負けをとらない戦略としては効を奏しつつある。

2011年6月21日火曜日

せめぎあい―新エネルギー政局の行方は

小生がひそかに楽しみにしているのは、米倉経団連会長が、今度はどのような言葉で菅総理大臣をいびるのか?その言語表現がとても面白くて、新聞に報道されるのを待っている始末である。

すると、また今日も記事が載っていた。曰く「ちゃんと言わないと、若い人の教育上具合が悪い」。退陣時期を明言しない菅首相である。首相が、再生可能エネルギーの全量買い取り制度の早期導入を指示したことにも「整合性・透明性に欠ける唐突な意思決定」と不信感を示し、「(それは)エネルギーの高騰に結びつき、日本企業の足かせが増える」と指摘したとのこと。「このままでは海外に出ざるを得ない状況になる」。つまりは、この点こそ今日の経団連会長記者会見の眼目であろう。

米倉会長の発言は大変に明確である。「福島第一原発の責任は東京電力にはない。全て国策に基づいて行ってきた事業である。責任はすべて国にある」、そんな趣旨の意見を表明しているし、「総理の座にこの先座って何をやるおつもりなのか?一体、何の役に立つのか?」そんな発言も、先日、報道されていた。

いやあ、おっしゃいますねえ。胸がすく気持ちを覚える人も多かろうと推測する。しかし、ライバル、敵国ならいざ知らず、同じ国の財界の重鎮に「何の役に立つのか?」といわれる総理大臣は稀だ。しかも、そう言われて、今なお辞めずに居るというのは、やはり民主党政権が反経団連の立場に立つからである。そう考えるのが論理というものでありましょう。全くもう、酷評を通り越して、侮蔑である。この発言をめぐって、大手マスメディアが全く騒然とならず、首相官邸サイドから怒りの反論が為されるわけでもなく、いわば言われっぱなし、攻撃されっぱなし。これでは、逆に首相には何か腹に一物あって、「今は言わせておけ」とでも言いたげに見えるのは、小生だけであろうか?

こんな報道もあった。


再生可能エネルギー法案は、太陽光や風力など自然エネルギーによる電力を、電力会社が固定価格で買い取る制度を導入し、これらの普及を促す内容だ。菅首相は15日「この法案を通さねば、政治家として責任を果たしたことにならない」と力説。同法案の成立を退陣の条件に掲げた。 
同法案に以前から熱心だった民主党の岡田克也幹事長は、16日の記者会見で「私にとっても最優先の法案だ」と首相に同調。経済界には「電力料金引き上げにつながる」との慎重論があるが、岡田氏は16日、経団連の米倉弘昌会長に電話をかけ協力を求めた。 
ただ、経済界の懸念を背景に、自民党のみならず民主党にも同法案への慎重論は根強い。前原誠司前外相は16日、国会内で開いた自身のグループ会合で、首相の自然エネルギー重視姿勢について「経済失速に追い打ちをかける」と懸念を示した。一方、公明党など野党側にも、超党派で法案成立を求める動きがあり、法案を巡る政界の空気は複雑だ。
(出所:毎日新聞 6月17日(金)9時3分配信) 
どうも、そう思われてしまうのは、菅民主党政権と伝統的輸出型製造業をコアとする「財界本流」との権力闘争が繰り広げられつつある。そう考えるのが、現在の日本を見る正しい視座なのではあるまいか。そう考え始めている。

 × × ×

日本の首相は余りにも短命である。よく批判されますね。本当は、もっと長期間安定的に首相とその内閣が一貫した政策を実行する方が良い。そう言われます。

しかし、最近、小生は違う見方もあるのではないかと思うようになった。

内閣が、使い捨てのように交代するからと言って、日本国の社会や経済までが不安定化しているとは、どうしても感じられないのだ。また不安定化していると、データから裏付けられているわけでもないと思うのだ。

寧ろ、日本のマクロ的な経済パフォーマンスは、(極めて良いとは言えないまでも)良好である。もちろん成長率が低い。デフレで利益が出ない。給料が減っている。一人当たりGDPでも世界的順位を下げている。それは認めなければならない。しかし、成長率が低いのは、労働力人口が減っているからである。人口1億から人口7千万になれば、合計生産高は減るだろう。マイナス成長はやむを得ない。一人当たりが大事だ。この順位が落ちている。悲観的な人は、よくそう口にする。しかし、ちょっと調べれば、金額を実質的な生活水準へ調整する方法でいくつかのやり方があるものの、どの方法でも概ね日本はフランス並みである。デフレで給料は減額されているが、世界経済はドルで取引されている。ドルベースで自分の給料を測ってごらんなさい。随分、この10年で増えているはずです。経常収支はずっと黒字。海外資産はどんどん増え、いまや商品貿易の黒字より、資産運用の黒字の方が大きいくらいだ。増税、公務員給与引き下げ、年金カットで混乱しているギリシア経済の惨状をみて日本人が慄くとすれば、それは少し違うとは思いませんか?

この30年間、首相は頻繁に交代しているが、日本国の選択を事実上決めている、いわば日本国内で真のヘゲモニーを握っている組織・人間集団は、実は極めて安定的に代替わりしてきているのではないか?だから日本国全体として、同じ経済戦略が選ばれ続け、経済制度は安定し、やることも同じで、ずっと来ているのではないか?日本の国会議員や政治家、それに内閣をとってみても、彼らは日本国の真の支配組織の利害に沿った政策だけを立案し、何か新しい政策を推進する時には、彼らの利害損得を確認のうえ、ふるいにかけてから法案を提出する。そのように日本という国は運営されてきた。だとすると、内閣は不安定でも、政治行政は安定的に運営される。そうではないかと考えるようになっているのだ。少し「共同謀議論」すぎますかね?

アメリカには<軍産複合体>という言葉がある。軍と産業の共同利益に反した政策は選択されない仕組みを指している。日本の真の権力構造は何だと思いますか?小生は、財閥系大企業集団をピラミッドの頂点に構築されている企業集団。そのトップマネジメント層だと見る。学歴的には東大や京大、早慶などブランド大学の主として法学部、経済学部を卒業して、総務部、企画部、人事部を歴任し、組織内で出世し、現在は取締役、代表取締役を構成している人たちです。その集団全体は<政党>ではないが、彼らにとって望ましい経済制度、望ましい価格体系、望ましい取引慣習について、特定の主張を持っている。それは、実際に政策化され、現在の日本国のいろいろな制度となり、その制度の下で官僚は行政を進め、政治家(自民党です)はそれを認めてきた。こうした全体を、戦後日本の<55年体制>という言葉で形容する専門家もいるし、官僚主導の経済システムという面に着目して野口悠紀雄氏のように<1945年体制>と呼ぶ人もいる。

呼び方はどうでもよい。小生は(個人的には)「財界本流」という呼び名を愛用しているのだが、明治大正と発展し、1930年代前半には金解禁、世界大恐慌による倒産の嵐の中で集中度を高め、それと同時に重化学工業化の波にも乗り、帝国陸海軍とも結びつきながら、企業集団として成長した。新興財閥も吸収しながら、戦後には、紆余曲折を経て、企業集団として復活した。そして、日本株式会社とも呼ばれるようになったこの利害集団全体を、政治経済ヘゲモニーとして見ると、不安定どころか明治維新の時代から一貫して、日本の政治行政を支えてきた岩盤であったと思われるのだ。

政治が、真の意味で不安定なら、普通、政策も不安定だろう?日本では、内閣が変わっても、政府がやってきたことは極めて安定していた。それは権力が安定していたからだと見るのがロジカルである。

× × ×

その真の権力と正面衝突しつつあるのが現内閣である。小沢一郎は、政権を奪取したあと、経済界を二つに分断して、新興企業勢力を民主党の支持基盤にするという戦略を採らなかった。むしろ自民党を支持してきた財界本流をまるごと取り込むという戦略を採っていたように(小生には)見受けられる。これでは、単なる「政治的ハイジャック」である。小生が民主党に一番失望したのはここである。

ところが(何を血迷ったか、本気なのかは知らないが)小沢一郎が採らなかった激突路線を、菅内閣は敢えて選びつつある。そう見えるのですね。米倉会長は住友化学の会長であり、石油化学工業協会の会長だ。新エネルギーの全量買い取りなど、賛同するはずがないではないか。電力価格が急上昇すれば、重厚長大型の素材産業が日本にいられなくなるのは必然だ。現にそう発言している。岡田幹事長が、電話をかけて協力を要請したというが、ハイと言うわけがない。もちろん、会長が自社の利益を度外視して、エネルギー多消費産業を海外に出して、電力不安を解消し、エネルギー低消費、省エネルギー産業がより安い素材を輸入できる機会を求めていこう。そういう選択もありうるだろう。まあ、ないとは思うが。

2009年にやっと政権をとったばかりの民主党が、日本国で本当の権力を握る組織集団と正面衝突をしようとするとすれば、それはドンキホーテと同じである。同じだと小生は思うのだが、このラ・マンチャの男、意外にずる賢く、衝突するはずの大勢力と取引をする誘因もあるのだな。だとすれば、新エネルギー推進政策は、目前の敵から資金源を奪うための戦略であり、本心から新エネルギーを育成しようとは考えていない。そうも推量できるのだ。敵を倒すために、敵の味方の嫌がることを言うっていう戦術ですね。いやあ、本当なら、ホント、狡猾だ。

新エネルギーという高邁な理想が「新エネルギー政局」という下らぬ政治ゲームに思われたりするのは、こんな理由からです。



2011年6月20日月曜日

意識改革の必要性

今日の日経には、5月の貿易収支が巨額の赤字に達したことに対する官房長官のコメントが載っていた。文章をそのまま引用しておこう:

枝野幸男官房長官は20日午前の記者会見で、財務省が同日朝に発表した5月の貿易収支が過去2番目の赤字額だったことについて「東日本大震災でこれだけの大きな被害を受けたので、一時的にそうした状況になるのは想定されていたことだ。できるだけ早く脱していくことが求められている」との見解を示した。
そのうえで「それぞれの企業の努力もあって製造工程の回復に向けては当初の想定以上に進んでいるので、そう遠からず状況は変わってくるだろう」との認識を示した。〔日経QUICKニュース〕 
(出所:日本経済新聞WEB版、2011年6月20日11:39配信)
この点と経済産業省による原発再稼働の要請を考え併せると、政府の上層部はいまだに製造業立国、輸出立国の感覚から全くと言ってよいほど抜け出られていない。海江田大臣の記者会見は以下のようであった:
海江田万里経済産業相は18日、記者会見し、原子力発電所を持つ11社に指示した原発の短期的な安全対策について「適切に実施されたことを確認した」と正式に表明した。原発停止の長期化による電力供給不安は国内産業の空洞化などを招きかねないと強調。福井県など地元自治体との調整が付けば来週にも直接訪問し、再稼働に向けた理解を求める方針を示した。 
(出所:日本経済新聞WEB版、2011年6月18日11:10配信、同13:12更新)
心配の対象は、電力供給不安と国内産業の空洞化である。しかし、量の安定を心配するなら、電力料金も心配しなければ筋が通らない。一体、政府は電力料金が今後将来にかけて割高基調をたどるという見通しを受け入れているのだろうか?その覚悟はあるのだろうか?

もし覚悟がないなら、急速に脱原発を進めるのは不可能ではないか。だとすると、原発推進とは言わないまでも、原発重視政策を維持するべきではないか?エネルギー基本計画を抜本的に見直すなどということは言わないほうがよいのではないか。

電力供給不安は、エネルギー多消費型産業が海外に移転すれば解消する。こうした産業構造ヴィジョンを政府が既に持っているのであれば、菅首相が最近にわかに唱え始めているエネルギー基本計画の抜本見直しとは整合する。新エネルギー重視政策ともマッチする。新エネルギーによる余剰電力を固定価格で買い取る仕組みも望ましい政策となる。新エネルギー拡大政策は、既存の輸出型製造業の国際競争力強化の役には立たない。輸出型製造業が海外に移転するのを抑制ではなくて、促進する。

こう考えているなら、「現行のエネルギー計画を抜本的に見直します」というばかりでは足りない。「新しいエネルギー戦略に適した新しい産業構造を目指します」と言うべきだ。「新しい国民生活のあり方を展望します」、そう明言するべきだ。

貿易収支の赤字が心配で黒字にしたいのであれば、輸出型製造業の国際競争力を弱める政策を実施しないことである。新エネルギー政策を大幅に拡充することは無理である。原発推進路線を急に変更することは無理である。

貿易収支が赤字になったことが、それほどショックなのだろうか?

働いて毎月もらう給料(それには残業手当も多く含まれている)だけでは、家計費がまかなえなくなったとしても、持っている金融資産から入る利子・配当、持っている不動産から入る賃貸料、これらの資産運用収入が増えれば、一家の生活は楽にできる。楽に生活ができる状態になっているのであれば、豊かな生活を送るプラン作りに頭を使うべきである。働き方が悪いと言って、現役世代をもっと働かせるのは愚の骨頂である。労働所得では足りなくなったと言って、「もっと体を鍛えろ、もっと頑張れ」と言わんばかりの感覚で物事を見るのは、どこかおかしいのではないか。そう思いませんか?

モノの輸出が減って貿易赤字になることを心配している頭からは、円安待望論しか発想されない。円高悪玉論でしか頭が回らない。

安く売ることを考えるだけで、高くても買ってもらえる商品を提供しようとしない。
高く買っているのに、安く買えるメリットを求めようとしない。
政府の思考回路は、一面的である。国民は多様なのに、政府は一つの立場からでしか、見ようとしない。政府の見方が正しいと、誰がいつ決めたのでしょう?

安く買うメリットを考えないのは、お金を使うことを、重要だと思っていないからである。
今もなお財産を蓄えながら、死ぬまで使わず、残そうと思わせているからである。
しかし、相続税率は今後上がることはあっても、下がることはないであろう。
蓄えた財産は国庫に戻るだけである。
一体、何のために働き、何のために蓄え、何のために生きてきたのでしょう?

私は、こうしたこと全てが幸福をもたらさない国造りにつながっていると思う。

政権を代表する人のこうした発言を見るにつけ、私は先週末にも本ブログで紹介した野口悠紀雄氏の寄稿を、再度、お奨めしたいと思う。氏の懸念は、政治家、官僚たちが持っている古い観念である。国民や企業が、意識改革をして、せっかく新しい発想で、理にかなった行動を起こしている時、権力を行使する側に立つ人たちが、これまでどおりの考え方で、是非善悪を判断すると、国民全体が大いに迷惑をする。そういう心配をしている。

各自1個ずつのバケツを持って、個々バラバラに消火活動を行うよりは、組織化をして、池から火の元までバケツリレーを行うほうが、同じ水量を効率的にまくことができる。整然とした行動は、時に非常に効果的であり、社会をより早く前進させる。しかし、火のない所に水をまいてもそれは浪費である。間違った組織に従うよりは、各自がバラバラに自由行動をとったほうが、社会全体の利益になるだろう。

少なくとも人間は損なことは嫌がるものだ。多数の人が思い思いの行動をとっていることによる非効率はたかが知れている。しかし、間違った統制、誤った組織化による害悪は、人災と言うには忍びがたいほどの惨状を時にもたらす。私たち日本人は、そのような惨状をよく経験してきたが、決して「慣れてますから」と言うべきではない。政治家の思い違いには、いつでも敏感でありたいものだ。


2011年6月19日日曜日

日曜日の話し(6/19)

「あらゆる芸術作品は、それぞれの時代の子であり、それはしばしばわれわれの感情の母胎である」、カンディンスキーは『芸術における精神的なるもの』の中でそう語っている。1912年だ。元祖抽象派Kandinskyは、ドイツ表現派のグループ「青騎士」に参加し、現代絵画を切り開き、今でいうニューリーダーの役回りを果たした。彼が成長したのは、帝政末期のロシア帝国だ。そこで経済学、法律、統計学を勉強した。絵画修業をするためにドイツに移ったのは30歳になってからである。

ニューリーダーと言えば、経済の世界では技術革新。イノベーションという。そのイノベーションを切り口にして古典派経済学に新しい生命を吹き込んだのはシュンペーターである。彼が処女作『理論経済学の本質と主要内容』を出したのは1908年のこと。シュンペーターは、古典派経済学のヴィジョンを180度逆さまにして社会をみた。そこが凄い。

長期的には競争メカニズムが働いて価格や生産量は均衡点に落ち着く。それはシュンペーターにとっては、社会の停滞の行き着く先を意味した。何もしなければ、金利がゼロとなり、利潤もゼロとなり、社会はそうした状態のまま何も変わらなくなる。経済的な「死の世界」である。

そうだと思うあなたは、シュンペーターと同じ感性をもっている。

社会経済に命を吹き込むのは創造的破壊だ。それをシュンペーターはイノベーションと呼んだ。経済学者がいう「均衡」に向かうのではなく、そういう自然の経路を破壊する反力学。シュンペーターが希求したのは、破壊を通じた創造である。それが社会の生命である、と。

ちなみに第一次大戦の始まりは、すぐ後の1914年。戦争が終わるとカンディンスキーが育ったロシア帝国も、シュンペーターが愛したハプスブルク家・オーストリア・ハンガリー帝国も崩壊した。現在のヨーロッパは、破壊と創造を経て、形成された社会である。日本もそうですよね。

Kandinsky, Composition VI, 1913年、国立エルミタージュ美術館所蔵

Kandinsky、Blue Rider (青騎士)、1903年

上のコンポジションの完成までには無数の下書き、習作が残されており、それらは具体的な形が描かれ、イメージというよりも写生である。下の絵はカンディンスキー旗上げの頃の作品。

自分の目に映る外観を否定し、意味と本質を探ろうとする努力。迷い。試み。勇気。
この芸術家と同じ努力と思考を、全く縁のなかった経済学者シュンペーターからもみてとれる。そんな気がするのだ。同じ時代の子であった気がするのだ。虚偽の否定。破壊への願望。創造への動機である。

カンディンスキーとシュンペーターの陰には、努力はすれど空しく消え去った無数の人と志があったことを忘れるべきではない。最後に生き残った者が歴史を作る。それが人間社会の宿命である。

今日の話はこんなところで。これから買い物に出かけます。

2011年6月18日土曜日

非現実的夢想家に刺激されて―リンク集(6/18)

原発事故の国際的保障体制構築に向けて議論が進んできている。こんな方向が出てくるであろうことは、そもそもの当初からある程度予想はできていた。フランスが主導権を握ろうとしていることは、メディア報道のほか、以下のOECDパンフレットからも伝わってくる。

New avenues for improving international nuclear safety

これを見ると、もはやスリーマイル島、チェルノブイリと同じ知名度でFukushimaの名が世界に広く知れ渡っていることが歴然とわかる。う~~ん、そうなのかあ・・・と小生は感嘆、というと少し違う。不謹慎でもある。そう、慨嘆である。そんな心情に陥るのである。Tokyo、Hiroshima、Nagasaki、日本にも世界的に有名な地名があるが、Fukushimaもその仲間入りである。この内、三つは核絡み、というのも因果なことではある。村上春樹氏がカタルーニャ国際賞を受賞した6月9日、「非現実的な夢想家」と題したスピーチで語ったとおり、
我々は技術力を結集し、持てる叡智(えいち)を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿(ばか)だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。
本人自らが「非現実的」だと言ってますからね。それはそうなのだが、心情的には思わず賛成したくなるほどの痛みを、Fukushimaという地名の響きから感じるのだ。ナイーブに過ぎますか?

他方、大震災が生産活動にどのくらい甚大な影響を及ぼしたのか、この点についても精密な検証が公表されてきている。経済産業省が公表した


は、必見と思う。本文で記されているが
3月の前月比▲15.5%は、20年10月から21年2月まで続いたリーマンショックに伴う急速な低下の中で最大の低下幅であった21年2月の同▲8.6%を大きく上回る急激な動きとなった。これは単月の低下幅としては昭和28年に現行の鉱工業指数体系が確立して以来最大である。
リーマンショックが地滑りであれば、東日本大震災は陥没だった。文字通り、突然、奈落の底に落ちた。日本を襲ったショックの巨大さがよく分かる。とにかく昭和28年以来、データ作成開始以来の最大のマイナスだったのだから。

それから、よくまあ、短期間の内に生産体制が持ち直したものだ。2008年9月のリーマンショック以降の急降下が底打ちして、生産が持ち直し始めるまでに、優に6ヶ月はかかっているのだ。大震災以降、生産現場でなされた回復への努力は誠に英雄的だ、小生は心からそう思っている。

これに対して、日本国のトップ層、並びに社会の木鐸は一体どうしてしまったのでしょうね?ここでも小生は感嘆、いや慨嘆の念を禁じえないのである。


小生なら「報道を避ける報道、政治を避ける政治家」とタイトルをつけたいところである。G8にも入る先進国の総理大臣が、やりたいことをその時々の世間の風を見ながら、社会保障と税制の一体改革やら、TPP参加やら、原発事故対応から新エネルギー推進へと、まるで食い散らすようにツマミ食いを重ね、美しく形容すれば花から花へと飛び回る蝶々よろしく、汚く言えば痩せた野良犬のように節度もなく語ることを変えながら、ただ「やらせてくれ」と力む姿も、同じ国の国民として恥ずかしい。と同時に、知恵なく、愛なく、誠なく、ただ一般大衆の受けを狙う首相に対して、正論を語る政治家が執行部に誰一人としていない民主党も、もうお終いにしてほしい。

Why are reforms so politically difficult?(Voxより)

上は、論壇Voxで公表された記事だ。何故「政治改革」は困難なのか?この問は、今や世界共通の問題になっているのですね。著者によれば、改革の志が理解されず、結果がマイナスに評価されて、次の選挙で敗北するかもしれないというリスクを負担するよりは、現行システムを(これまでの為政者に責任を転嫁しながら)何とか維持していくほうが安全で賢明な選択だと、そう政治家が考えるからである。ふ~~む。言い出してはブレっ放しの日本の政治家にも当てはまっているかも。

ということは、社会が不安定化し、明らかに将来不安が高まるとき、政治家が現行システムを保守することの誘引が弱まり、改革に挑戦して成功することへの動機が強まるので、求められる真の改革に着手する確率が高まる。そういう仮説である。

実際、GDPギャップの変動(←標準偏差で測定している)が大きく、経済が不安定化している国であればあるほど、財政赤字縮小に向けた政策が実行される頻度が高いという傾向を著者たちは確認している。これが上のワーキングペーパーの眼目だ。

上の資料に掲載されているFigure1によれば、日本経済は全体の中でも安定的に運営されているほうだ。スウェーデン、ギリシャ、それからフィンランドなど、財政健全化政策に乗り出した国は、どこも経済が日本よりは不安定である。不安定であるがゆえに、国民は高い危機意識をもつ。それが単なる人気者ではなく有能な政治家を求める国民心理をもたらす。選ばれた政治家は、おのれが果たすべきミッションを明確に理解しているがゆえに行動にブレがない。決然と国民に耐乏を強いることもできる(もちろん耐乏オンリーを説くような阿呆は、次回選挙で落選するであろう)。

こう考えると日本は、まだまだ崖っぷちに立っていないということか・・・いや、一人当たり国民所得ではこの20年間に随分多くの国に追い越された。これからも世界の順位を更に下げていくと思う。それでも危機意識がない!?日本人は貧乏慣れしているのかね?厳しいビジネスよりは、ほどほどでいいと思っている?

小生は、ここでも政府、官僚、マスメディア、知識人が、国民に広く伝えるべき事実、情報を、率直に分かりやすく国民に伝えていないからである、と思うのだ。

条件が変わったのに考え方はもとのまま(野口悠紀雄、東洋経済オンラインより)

野口氏は、「東日本大震災によって日本経済の条件は大きく変わった。・・・それに合わせて、経済に対する考え方を大きく変える必要がある。企業はすでに対処を始めている。市場条件の変化に適切に反応しなければ、淘汰されるからだ。ところが、経済政策の立案者、ジャーナリスト、エコノミスト、そして大多数の国民は、これまでと変わらぬ考えを続けている。・・・現実に追いつくことが必要だ。そうでないと、経済政策や制度が経済活動の足を引っ張り、変化を阻害する」、このように構造変化の歩みを速めつつある日本の中で、経済の現実から一歩離れた政治家、官僚、マスコミ、専門家の意識の遅れを大変危険であると指摘している。特に政治家や官僚は、日本国の方向を決めるだけの政治的権力をもっているだけに、その彼らが「非現実的な夢想家」に堕してしまうと、国民もろとも間違った方向に走り続けてしまう。そう警告している。

こうなると、形を変えた「大本営△△作戦」と同じですな、戦時中の。小生も、このあたり、非常に同感なのである。

こうならないためには、日本という国に世界が期待していること、日本にできること、日本の強みと弱みを正しく知識として吸収して、どんな風に暮らしていくことが今は可能なのか?どんな風に暮らすことを私たちは望むのか?この問いかけを、人に指示されるのではなく、自分たちで結論を出す気構えが、いま一番大事なのではなかろうか?


2011年6月17日金曜日

緊縮財政が、たった一つの選択なのか?

6月18日号のThe Economist(英国の経済誌の方である)の"Economics focus"コーナーは、"The Great Repression"というタイトルである。意味は「大抑制」とでも言おうか。要は、金融機関の経営を政府が抑圧する政策。たとえば、「経営の安定のためには、総資産の△△%以上を安全資産で運用するべし」とか、「支払準備金を総預金残高の△△%以上に保つべし」とか、そういった安全経営基準を強化する政策がそれにあたる。有名なバーゼル基準の一つである自己資本比率規制もこの仲間である。

日本の預金準備率は、預金種類や預金残高によって違いはあるが、高くても1.3%である。中国については、いま現在ネット上を流れている速報によれば、「中国人民銀行が、今月20日から預金準備率を0.5%引き上げるとのこと。預金準備率の引き上げは今年に入って6回目となる。これによって、大手金融機関の預金準備率は過去最高の21.5%に達する」。これだけ高い支払準備を要求されると、中国の金融機関が自由に使えるお金は大幅に抑制されることになる。

普通、民間銀行がもつ支払準備金は各銀行が中央銀行に持っている当座預金口座に預けられる形をとる。つまり、せっかくの預金を中央銀行に寝かせて死に金にするわけだ。もしもその中央銀行が、国内金融市場から国債をいくらでも買い入れてもよいとのお墨付きを国会から得られれば、銀行にお金を預ける国民は、実質的にはかなりの部分を国債という形でしか運用できなくなる。その国債の金利を低く設定すれば、金利については政府の言い値で国民は資産を運用せざるをえなくなる。

これほど手間の混んだ経営抑圧である必要もない。もっと直截に「民間金融機関は総資産の△△%以上を評価の安定した安全資産で保有しなければならない」と法で規定しておいて、その安全資産は財務省令で規定するとでも決めておき、政府の長期国債を安全資産の中に含めておけば、政府は完全に金融機関の経営の手足を縛ることが可能になる。

リーマンショック以降、大量に累積した政府債務を解消するには、以上述べたような「金融機関抑圧政策」が有効であるというのが、The Economist 誌の記事の概要だ。元資料は、IMFのWorking Paperでタイトルは"The Liquidation of Government Debt"。著者は、Carmen ReinhartとBelen Sbrancia。前者のラインハート女史は、最近、ケン・ロゴフ氏と共著で「国家は破綻する」をものしており、それが世界的大ベストセラーになっているから、ご存じの方も多かろう。

このワーキングペーパーの中で、巨額の政府債務から脱却するには、三つの策があると著者はいう。

実際には採れない理想も含めれば四つになる。その理想とは、「上げ潮路線」。国債の金利よりも高い経済成長をずっと長期間続ければ、必ず借金は返せるという理屈がそれだ。しかし、実際問題としてこれは難しいと言っている。

だから選択肢は三つだ。一つ目は徳政令。デフォールトである。政府が「返せません」と宣言し、一方的に償還期限を10年から30年に延長する。二つ目は緊縮財政。政府の収入には一定の限界があり、その限界の中で、その年の借金返済をまずとっておき、残りの部分で何とかやっていこうという政策である。やれないなら国民に増税を強いる。政府が我慢するか、国民が我慢をするか、どちらかだ。これは日本の官僚が大好きな「国民耐乏論」そのものである。三つ目が、いま述べた金融機関抑圧政策である。

これでなぜ政府債務が返せるのか?金融機関に流れこむ資金の相当部分を、あらかじめ低金利の国債に充当することを強制することによって、資産の利回りを低くする。もしインフレが進むなら、そのインフレ率より利回りを低く抑える。すると実質金利がマイナスになる。こういう政策を30年程度続ければ、巨額の政府債務であっても必ず返済できる。国債が大量に償還される期間は、事後的な実質利回りがマイナスになっていたことに資産運用者は気がつくことになるわけだが、仕方がないわけだ。これが金融機関抑圧政策であり、この政策を、今後世界各国が実行することになるだろうと予測している点で、「大リプレッション」と名付けているわけだ。

実際、第2次大戦直後に対GDPで216%あったイギリスの国債が、10年後には138%にまで軽減されていた。アメリカも、1945年から55年までの期間中、インフレが進んだこともあって、国債の対GDP比率を50%は軽くすることができたと試算している。もちろん戦後はブレトンウッズ体制である。国際的な資本移動が規制され、かつ固定為替レートを維持することが大原則で、今のようにレートの上がりそうな外貨を自由に買えるわけではなかった点も大きい。今日のような資本移動が自由なグローバル金融市場を相手にそんなことができるのか疑問に思うかもしれない。しかし、自己資本比率規制だってその一種なのだ。要は、決め方一つで金融抑圧政策は実行可能である。それが二人の著者の言いたいことである。

日本の財政再建についても、いま、震災復興財源を国債増発にするか、増税にするかを議論している最中だが、国債償還については何らかの形で金融抑圧政策を採らざるをえないだろうというのが、先日紹介した岩本康志氏の予想でもあった。この点は、どうやら世界的な潮流になりつつある。

もちろん疑問も残る。デフレが続く場合は、いくら金融機関を抑えつけても資産利回りをゼロにするのがせいぜいで、それでも実質金利はプラスである。その実質金利ほどは経済成長できるのかが問題になる。日本の場合は、デフレと財政赤字が複合しているので、デフレ治癒に効力のある政策がもう一ついる。その意味では、財政再建を目指したラインハート達の提案は、それ単独では、Japan Diseaseを治すに十分ではないと思われる。

おそらく数年後には、中国の人民元が変動相場制に移行して、中国金融市場も自由化されていくことになるだろう。そうなると、日本の国内資本が、利回りの高い中国にあっという間に流出する可能性がある。元高・円安が進み、同時に日本国内では株安と国債価格暴落が起こる。こんな可能性が、多くのエコノミストによって心配されている。しかし、多くの専門家が心配する事態は、予想されるが故に、そうならないように事前に対策が施され、実際にはそうならないものだ。その施される対策が、おそらく為替取引のリスクをカバーするための安全経営基準の強化になるだろう。外国の高利回りの金融商品を購入する場合には、相当の死に金を中央銀行に積み増すことを強制されるという規制強化策が実施されよう。そうすれば海外に資金は出られない。これ即ち、金融市場に輸入課徴金を課する政策と同じであって、金融自由化とは逆の方向へ歩むことになる。

いつでも反自由化政策は国内の事情から選択される政策である。

リーマンショック後遺症から脱却できないでいる世界は、日本がそういう政策を実施しても反対しにくいだろう。というより、ギリシア、アイルランド、ポルトガルなどのソブリン危機に怯える欧州が率先して金融抑圧政策に目を向けている。

今はそんな時代である。日本の財政当局も、世界の潮流をよく見ながら、財政金融と震災復興そして国民生活。この三者のバランスをとってほしいものである。ただただ耐乏生活を日本国民にお願いするという政策は、一つの選択肢ではあるが、工夫次第でやり方はいくらでもある。行政で食っているプロであれば、「芸術」とすらも思われる程に洗練された高度の行政技術を展開してほしいものではないか。



2011年6月16日木曜日

外貨準備取り崩し論に対する官僚の反対について

大震災からの復興財源として増税か、国債増発かの議論が堂々めぐりしている。最近は、政府が保有している外貨準備を取り崩して「財源」に充てるべしとの議論も盛んになってきた。具体的には外貨の相当部分が米国債に運用されているので「米国債を売れ!」という主張にもなるわけであり、「これは気持ちがいいよねえ、日本人としては」・・・ま、しようもない単なる感情論ですな。しかし、外貨準備売却論はよい筋をついていると、小生には思われるのだ。

それに対する反論は色々ある。まずは円高を招くという指摘。ドルを売って、円に戻す以上、円の対ドルレートを上げる副作用があるのは事実だ。次に、政府が保有している外貨準備は、元々、政府が外為市場に介入する資金を調達するため政府短期証券を発行し、その見合いで得た円資金でドルを買ったものだ。だから政府が米国債を売ったとしても、それはそのまま短期証券返済に充てられるだけであり、故に復興事業の財源とはなりえないのである。こういう論理もよく耳にする。

確かに22度末現在の日本の対外資産と負債を整理すると、以下のような数字になる。



資産側(単位:10億円)
直接投資
証券投資
金融派生商品
その他投資
外貨準備
資産合計
67,691
272,518
4,287
129,700
89,330
536,526



負債側(単位:10億円)
直接投資
証券投資
金融派生商品
その他投資
負債合計
17,502
152,451
5,267
136,810
312,031


資産負債を差し引きすると、対外純資産は何と251兆円の巨額に上る。その内訳は民間分門が205兆円、公的部門が46兆円だ。

外貨準備を売ればよいという提案は、上の表の資産側に立っている外貨準備89兆円に着目したものだ。反対論の「外貨は政府短期証券との見合いで保有しているにすぎない」という指摘は、日本と外国の債権債務関係を示した上の表には出てこず、日本内部の貸し借りの話しになる。確かに、日本全体が外国に持っている資産ではありますが、それは政府が民間から借りた金でドルを買ったまでであり、そのドルは政府のお金ではないのですよ。持ち主が別にいるのです。そう言う意味である。

財務省の公表結果を見ると、公的部門が対外純資産46兆円をもっていることも分かる。これを売却したらどうかと提案すれば、今度は「この項目はお金としてすぐに使えるわけではなく、色々なものに投資されている。それをお金に戻すには時間がかかる。売れるかどうかの確証もない」そんな反論が返ってくるであろう。

こうして議論は、果てしもなく細かい話となり、必要となる知識・情報はますます狭い領域に限定されたものになり、最後には細かいことをよく知っている人たちが「私たち専門家に任せておいてください」という結論になる。これこそ官僚政治のエッセンスなのである。

経済学は細かい点には執着しない。基本的な関係だけをとりあげる。個々の行政技術とは別の見方をする。だから官僚国家は有能な経済学者を育成することを本音では嫌う。

そもそも政府だろうが、家計だろうが、企業だろうが、資産を売却するのは、借金を重ねるのと同じである。どちらにしても純資産が減るのだから。借金をしようにも、これ以上貸してくれる銀行がなくなるから、その金額分、資産を売らざるを得ないのだ。国債をこれ以上新たに増発するわけにはいかないので、売却が容易な外貨準備の存在を指摘しているのである。

ところが、日本政府が言っていることは、「玄関を修理しないといけないのだが、家の財産を売るわけにはいかない。預金も伯父さんから借りたものだから取り崩せない。銀行からも借金を増やせない。だから、みんなの小遣いや家計費を削るしかない。こらえてくれ。」家族にそう頼み込む一家の世帯主と同じである。

やり方を工夫すれば、家族の生活水準を低下させることなく、災害で損壊した玄関を修繕することができるにもかかわらず、「貯金を取り崩すことはできない」と執着するが故に、多数の人に忍耐をしいて、設備を修繕する。こうした政策理念そのものが、日本人全体を追い込み、心を貧しくし、日本人の幸福度指標を低いものにしていることが分からないのだろうか。まるで1930年代に社会主義国家建設に邁進していたスターリン時代のソビエトと同じ理念ではないか。

共産党が支配する中国は、人民元のレート上昇に介入するために既に3兆ドルを超す外貨準備を保有している。日本は1兆ドル強で世界第2位。あとはロシアの5千億ドル、サウジアラビアも大体同じ、以下多数の国が続いている(週刊エコノミスト、6月14日号、22ページから引用。日本は2011年4月末、中国は2011年3月末、他は2009年データ。元データはIMF)。誠に、外貨準備に関しては、日中が断トツ、堂々の2強である。

こんなに巨額の外貨準備を政府が手元に持つ必要があるのだろうか?その外貨は元々民間のものなのですと言うのであれば、資金が必要な現在、民間に戻せばよいではないか?意味があるかどうかも定かでない市場介入のために持っておくなど、それこそ死に金ではないか。

明暦の大火で焼亡した江戸城天守閣を再建するための資金調達を議論したとき、保科正之が必要もない天守閣再建にカネを使うより、江戸市民の生活再建に活用しようではないかと提案した故事を忘れたのだろうか?

政府の外貨準備を売却しても、それは確かに「財源」ではない。しかし、ドルを売却すれば円資金ができる。日本政策投資銀行に使わせればよいではないか?被災地融資枠を20兆円位簡単に増額できるではないか?復興事業に参加する経営者、企業に低利長期融資するだけで、相当の恩恵が及ぶではないか?地方債を買えるではないか?被災した土地を国あるいは自治体が買い上げる資金にもなるはずではないか?

短期証券は財投債にそのまま振り返ればよい。

こうしたことの検討をすべて閑却し、ただただ「皆さんの収入から頂く租税を増やすしか方法はございません」。こうオウムのように政府に言い続けさせようとする官僚がいるとすれば、智恵がなく、誠がなく、愛がなく、ないない尽くしで、頭の悪い人たちであると思われるのだが、いかがであろう?

2011年6月15日水曜日

「脱原発」の潮流は巨大な津波になるか?

イタリアの国民投票で脱原発が可決されベルルスコーニ首相も敗北を認めた。このところの一連の動きを石原自民党幹事長が「理解はできるが集団ヒステリー」という言葉で形容したことが、一部で批判されたりもしている。

4月19日号と言えば大分以前になるが、週刊エコノミストが「電気がない!」特集を組んでいたので、図書館でパラパラとめくってみた。関心を引いたのは「世界の原発計画への影響―原発は再び冬の時代へ」という記事だった。そこで欧州、新興国、米国と分けて、原発に対する政府の対応、世論の動きを整理してくれている。

その後の動きで分かっていることも加えながら、現状の覚書きとして、ここに記しておきたい。

【1】欧州

欧州は1986年のチェルノブイリ原発事故の経験があるから福島第一への反応も早かった。国民投票で脱原発を決めたイタリアも、そもそもチェルノブイリ後の87年に原発廃止を決定、稼働していた20基の原発は90年には全て閉じられた。そろそろいいかと思った矢先、福島で事故が起こったわけである。同時期に、英国もポーランドも原発新設を見送る決定をしている。欧州は、チェルノブイリの惨状を見て、原発に「待った」をかけたのだ。そんな流れの中で、再びFukushima Nuclear Accidentが勃発した。当の日本人の政治家がヒステリーと称するのはどうでしょうかねえ?

ドイツ:
3月15日。メルケル首相が、80年以前に稼働した老朽原子炉の3ヶ月間停止を指示。
その後、6月6日に脱原発を閣議決定したことは先日報道のとおり。

スイス:
3月14日。新設予定3基の審査凍結。
その後、5月25日に脱原発を閣議決定。

イタリア:
4月23日。新規原発審査を1年間凍結と決定。
その後、6月15日に国民投票を実施。脱原発を可決。

ブルガリア:
耐震性強化策の実施を決定

フランス:
サルコジ大統領「当面は、脱原発はありえない」と声明。

英国:
10基の新設計画。政府は「英国では政策変更の必要性なし」と主張。
直近(4月か?)の世論調査で「原発反対」が37%、支持の10%を大きくうわまった。

ポーランド:
原発導入計画があり。世論調査でも推進が65%、反対の35%を上回る。国民投票には応じると首相発言。

スウェーデン:
原発依存率5割。2009年に原発寿命延長を可決。

【2】新興国

最も原発建設に熱意をもっている。

中国:
3月16日。新規原発建設計画の審査・承認を一時停止。
第3世代原子炉は福島のような第2世代よりは格段に安全と政府説明。

イスラエル:
同国初の商業用原発計画を「再考する」と首相発言。

ベネズエラ:
原発計画を断念すると大統領が発言。

タイ:
原発計画凍結を決定。

トルコ:
原発計画を停止する考えはないと首相発言。

【3】米国

世界最大の104基が稼働中。原発依存率は20%。しかしスリーマイル島事故(1979年)から30年間、原発新設は凍結。オバマ大統領就任後から政策見直し。10年1月の大統領教書で原発再開を宣言。

福島後に実施された世論調査では、原発建設支持派が43%と大きく減少。「国民の安全のため責任ある対応が必要」と大統領がNRCに安全性見直しを指示。3月25日。NRCは、新設予定のボーグル原発2基について問題なしと発表。ゴーサインとなる。

【4】国際機関

OECD: グリア事務局長「原発は欧州の電力供給で重要な位置を占める」
IEA(国際エネルギー機関): 田中事務局長「地球温暖化対策のためには原発は不可欠」
IAEA(国際原子力機関): 天野事務局長「原子力発電は安定したエネルギー源」

ここまでの整理で抜け落ちているのはロシアだが、ロシアは再処理サービス込みの原発プラント輸出、エネルギー輸出を国策にしている。エネルギー立国である。一般に東欧諸国は、エネルギー面でロシア依存から脱したいという希望を本音ではもっているはず。国内原発建設を断念して脱原発に舵を切れるかどうか。フランスだって原発が好きなわけではない。エネルギー自給率上昇を目指す国家戦略に基づき、努力すること40年。その結果、現在の原発依存率8割という状況がある。

こうみてくると、原子力発電も国家の戦略そのものであることが分かる。太陽光など新エネルギー開発も一つの戦略。原発維持も一つの戦略である。いずれの戦略をとるかで、関連産業の盛衰、その国のエネルギー価格の高低、その国の産業構造、国民の就業構造、ライフスタイルに至るまで全てが影響を受ける。―― 小生はベンチャー好みだから、新エネルギーに賭けたいという気持ちが、あることはある。

こうした問題を解決するのに、自由な市場による解決が効率的(=速く正解をみつける)か、国家レベルの計画が効率的か、決して定かではない。一般的には、解決までの時間が重要であったり、個別活動の実行手順の前後によって結果の成否が強く影響される場合には、トップダウンの計画原理が分散処理型の市場原理に優越する、と言われている。しかし、エネルギー問題の解決には、非常に多くの情報を評価しないといけない。市場による解決に分があるとも考えられる。しかし不確実性が無視できない時は市場システムは駄目だ。均衡点が複数あると考えられる場合も市場は駄目だ。まあ、専門家だってこんな感じである。

で、国民投票となる。

政府の決定権限と、自由な参入と自由な販売を担保する市場経済。この二つの混合レシピが、今後将来のホットイシューになるだろう。

今度新しく作りなおす「新エネルギー戦略」は、政府にとって想像を絶する超難問になること間違いなし。詳しくもなく、知識もない内閣が、その時の思いつきで口を出しては台無しだ。と同時に、理念がなければ決められない。理念を指し示すのは政治家だ。ここでも政治哲学と行政技術の絶妙のレシピが求められている。

脱原発の潮流が、今後、巨大な津波になるほどの動機を各国が持っているとは思わない。それはそうなのだが、日本国がエネルギーをめぐって乱気流に突入する可能性は、決して無視できないと思っている。

2011年6月14日火曜日

日本、持たざる国?

持てる国と持たざる国などという言語を使うと、それこそ戦前期軍国主義に道を開いた元首相・近衛文麿の思想の轍を踏むことになる。

ちょっと調べ物があって、昨年(22年)版の経済財政白書をひもといた。先日の投稿では、日本の経常収支黒字の半分以上を所得収支の黒字が占めるようになった。そう指摘した。つまり、モノの輸出超過ではなく、過去の海外投資から得られる資産運用収益が急速に増えてきているのだ。―― 所得収支には、資産運用収益の他に、海外で働いた労働所得も含まれる。が、日本ではそれほどの金額には達していない。たとえば欧州大陸では、スイスからフランスに通勤する人もいるので、スイス人が外国であるフランスから給与を支給される場合も結構ある。

日本の弱点は、この海外資産の運用利回りが大変に低い点。よくそう言われる。

世界の中の富裕国は、いまでもアングロサクソン。英国と米国である。両国の対外資産運用利回りは2000年以降、大体11%という高さである。日本は、2000年代前半には6%程度にとどまっていたが、後半には7~9%に上がった。それでも傾向としては米英の半分ちょっとというのが日本国の財テクだ。(上記「経済財政白書、365~366ページ)。

日本の運用利回りを上げた要因は、地域で見るとオセアニアと中南米。意外やアジアではないのですね。対オセアニア投資など、何と年利20%。これは鉱物資源投資だ。資源価格高の恩恵なのですね。だから価格動向次第でもある。

反対に、アメリカ、EUへの投資は低利回りだ。利回りが5%になるかならないか。対アジア投資は、その中間。大体10%強の利回り水準になっている。

トータルすると日本の対外投資利回りは、2007年、2008年には、8%位まで上がってきた。リーマン危機のあった2008年には、英国の損失が巨額に達して、英国も日本と同程度になってしまった。そんな状況である(アメリカは依然として高く10%を超えている)。確かに、日本の海外投資のやり方は下手だなどと批判されてきたが、既にそれほどの遜色はないと言える。日本国内に投資をした場合の期待収益率は、安全投資の国債が1%ちょっと、東電債がこないだまで3%位ですか。これでは涙が出る。どこの企業も日本国内には事業投資したくない。それも道理なのである。

日本は、東日本大震災によるサプライチェーン寸断で生産機能が損壊し、春以降は貿易収支が赤字になった。5月など上中旬だけで1兆円を超える大赤字だ。それでも経常収支全体では、黒字を保ち、対外資産を今なお増やし続けている。6月以降は生産態勢も整い、また再び海外への輸出が再開されるだろう。海外から資産運用収益が流入する金額は今後も必ず増える見込みがある。

簡単にいうと、日本は「豊かな国」、つまり古臭い言葉でいうと「持てる国」へと歩みつつある。不思議だ。一生懸命に持てる国になろうとして、ついには戦争へと突っ走った1930年代。すべてを失ってから、やっと社会システムを改革し、今度は本当に豊かな国へと歩みつつある今の日本。考えさせるものがある。心配な点は、強いてあげれば、為替レートがもっと安定してほしい。それくらいだ。

それでもなお、日本の海外投資残高は、歴史が浅いために、小さい。対GDP比で対外直接投資残高を比べると、イギリスが断トツで60%程度をずっと守っている。ドイツが上昇しつつあるが直近で40%位。アメリカも上昇しつつあるが直近で20%位。日本は、更にその半分。上がっているが10%強だ。―― 韓国も同程度で10%位。中国はずっと低い。そうなっている。(上記「経済財政白書」364ページ)(注)フランスのデータが白書では示されていないが、元データが確認されなかったと推測する。データがあればフランスの対外投資残高も高いはずである。

上は、ストックで見た対GDP比。「これだけ財産を持っています」、そんな意味合いだ。では、投資フローの対GDP比はどうだろう。「近頃は、毎年、これだけずつ投資しているんだよね・・・」そんな目線である。これでもやはり、英国、ドイツが高い。日本はアメリカと同程度だ。―― それにしても経常収支赤字国のアメリカが対外投資!?・・・不思議ですよねえ。それは外国から低利で金を借りて、高利で又貸ししているからだ。短期借りの長期貸し。それで巨額の利益を獲得している。すごい!これこそ「芸術」であると昨日の投稿では力説した点です。アートとサイエンスを融合した金融サービスの面目躍如たるものがある。

まあ、このように日本を一家族と考えた場合、資金繰りは全く(もちろん、この世に絶対ということはないけれど)問題はないのである。頑張っている割には、投資利回りが低いのは、歴史が浅く、先行した欧州諸国が美味しい利権を押さえているためだ。残っている部分をゼロから発掘しないといけない。そういう弱みがある。

ただ、これは言える。技術革新によって実物資産は陳腐化するリスクを常に秘めている。そういう点から発想すると、トラディショナルな尺度で評価される資産を多く抱え込んでいないことは、守るべき利権が相対的に小さい。その分、思い切ったイノベーションを進めることもできる。そうも考えられるのではないか。保守的態度は、日本のような国には、決して似合わないのですよ。

日本のFukushimaが引き金を引いた脱原発のうねり。これが、根こそぎ従来型の原発事業を過去のものにしてしまうのか?それはまだ分からない部分が多すぎる。しかし、この潮流が今後10年間に進む研究開発投資を方向づけることは、ほぼ確実だ。その方向転換は、二度の石油危機に匹敵するほどの影響を生産技術に与えるだろう。省石油・脱石油が進んだと同じように、政治が声をかけなくとも、省原発・脱原発が事実として進むだろう。「成長の限界」は、こうして常に突破されてきた。その努力の一つの現われが、メガソーラー事業となって、早くも顕在化している。そう見ておくべきではなかろうか?

もちろんイノベーションとは<技術革新>だ。言葉の定義からして、現時点では、予想できない事業が今後たちあがって、世の中を変えていくに違いない。もし予見できるならば、既に着手されているはずだからだ。

そう考えると、日本の対外資産残高が伝統あるイギリスに比べて、まだまだ低水準にとどまっているとしても、それは物事の表側であって、裏側をみないといけない。それが有利に作用することもある。そう期待する余地も大いにある。今日はそう考えたいところです。

2011年6月13日月曜日

モノ作りはもう駄目か?

トヨタの社長が、電力需給の現状をみて、日本におけるモノ作りは限界を超えはじめている。そんな発言をしたよし。

これは一面の真理をついている。というより、日本経済の本筋が、そろそろあらわになってきた、と見るべきだ。

野口悠紀雄氏の「日本を破滅から救うための経済学」(ダイヤモンド社)でも強調している。日本のデフレは、文字通りの物価下落と解釈するべきではない。そうではなくて、グローバル市場におけるサービス高、製品安の価格革命と見るべきだ。日本は、価格革命の中の「負け組」になりつつあるのだ。

その価格革命をもたらした原因は、「冷戦の終結」と「IT革命」。日本は、冷戦の終結がもたらす深い意味合いについて、戦略的・感覚的にいまひとつ鈍感であった。またIT革命の進行についても、それまでの日の丸コンピューターと半導体産業に過剰な自信をもち、IT革命が社会システム、会社組織に要求する課題を理解できなかった。そのために、継続困難な色々なやり方が日本には多く残っている。輸出型製造業の経営環境も、世界経済の本筋の中で、見ないといけない。そんなことを野口氏は言っている。

よく言われる高付加価値とは、いかに顧客満足度を高めるかであって、それはモノ作りというより、満足の提供、つまりはサービス生産にまで足を踏み入れているわけだ。純然たるモノ作りの場に立てば、新興国の低コストに太刀打ちできないことは明らかだ。

小生の弟がいわき市で化学エンジニアをやっている。父親に似たのかその息子も理科系科目が好きだそうである。しかし、大学の工学部には行かないと言っている。エンジニアになって製品を作るのは、もはや日本では難しいと感じているのだろう。その甥は、ビジネス・ミュージックの世界に行きたいそうだ。PCで作曲などをして楽しんでおり、先日はそのソフトを進学祝いに買わされた。その父親は「そんないい加減な仕事で、一生やっていけるのかなあ?」と心配している。

音楽とイラストレーション、ストーリーを組み合わせて複合芸術を構成し、それを不特定多数に販売してビジネス化するという発想は、19世紀ヨーロッパ音楽界が生んだワーグナーの楽劇を連想させないでもない。今流の言葉に直すと、「アート・マネジメント」ですね。実は、この仕事、私のかつての教え子が、某運送会社に勤めているのだが、ゆくゆくはアート・ビジネスを仕事にしたい。そんな話しをしている。

アート・ビジネスは、その場で商品を提供するサービス業ともいえない。アートは、各種メディアを通して販売できる。ネット上で展開することもできる。ダイレクトに展示、提供することもできる。半分はモノである。模倣の困難なオンリーワン・ビジネスを構築しやすいモノである。模倣困難であるが故に、価格支配力をもたらし、高い収益率を実現する。ディズニーのビジネスモデルがそうであります。スタジオジブリもそうである。

サービスには金融サービスもあれば、損害保険サービス、生命保険サービスもある。これらはアングロサクソンが強い。アメリカは、金融バブル盛んなりし頃、国民所得の25%を金融ビジネスで稼ぎ出していた。英米の金融サービスは他国には真似が困難である。もちろん日本は純債権国である。自国の持っているマネーを、世界に投資して、高い利回りを稼ぎ出すことを目指してもよい。しかし、アラブの産油国も中国も日本もマネーの運用は英米に任せている。それを使って、稼いでいる。これは立派なアートだ。芸術である。金融は、更に金融工学というサイエンスという衣までまとっている。音響と色彩ではなく、富を主題としたアートとサイエンスの総合。それでアングロサクソンはこの20年やってきた。

モノ作りはもう限界だ。では、日本人は何をやる?

マネーを増やすことよりも、多くの人に満足を与える、多くの人から感謝される、そう思うならそんなサービスをビジネスにすればいいのである。それができるように、小さい時から教育すればいいのである。豊かになるためである。

日本人が描いてきた大和絵、狩野派、琳派、浮世絵が、全体として伝えている魅力は、日本人よりも外国人が知ってますよ。衣裳芸術もそうです。概して、色彩感覚は同じ東アジアでも中国、韓国の美術から明確に差別化されていると感じる。ドイツの絵画がフランス絵画とはっきり差別化されているのと同じである。モノ作りもそうだ。豊かな世界をもたらすためのモノを作る。これを理念としてほしい。単に用を足すだけのものではなく、買い手の生活を豊潤なものにするモノだ。繊細で心を尽くしたモノ作り。その代わり、価格は高めである。小生は、こんな文化的活動こそ、日本人の本来的な意味での「お家芸」だと思うのだ。はっきりいえば、労働集約的文化活動をメシの種にするべきです。そのためのプロモーションを国家戦略として展開するべきである。そのための人材育成には、授業料全額支給くらいのことはやってほしいものである。それは何もステートアマを養成せよと言っているわけではない。まだ残っている雑多な補助金より、よほど生産的であると言いたいわけです。

財界本流の中の本流企業の経営トップが「モノ作りの限界」について語ったことは、時間がたってみれば、これが分水嶺になっているかもしれない。モノの生産では、やれ猿真似とか、模倣技術とか、散々揶揄されてきたではありませんか?日本人の本来の得意分野でこれからは勝負していく。それをモダナイズして、アート産業を育てていく。個人にまかせるのではなく、社会的に支援していく。工業団地ではなく、芸術の村を作っていく。製造業はオンリーワンだけ残ればいいじゃないか。そういう発想も不可欠だと思うのだが、どうだろう?暴論だろうか?それこそ今後の日本の国家経済戦略ではなかろうか?

本日、時ならぬ寒さに喉をやられて熱っぽい。この辺で。

2011年6月12日日曜日

日曜日の話し(6/12)

趣味が高じて、画集はたくさん買った。愛読しているイッキ描きブログの菊池理氏に影響されて、ブックオフで画集を探すことも増えてきた。

画集では冴えないが、作品実物の凄い美しさに吃驚する画家、画集と本物が大体同じ画家、画集で魅力を感じるほどには本物から感動を受けない画家。この三通りがある。

東京へ行くときは、なるべく時間をみつけて、美術館や展覧会に足を運んでいるが、嬉しいのは本物が想像を超える最初のタイプの画家ですね、やはり。

セザンヌは、私にとってはその典型。画集であれほど冴えない画家はいないのではなかろうか?ずっとそう思ってます。「ほんとに、この人、上手なんだろうか」とね。しかし、セザンヌの作品本体の色の美しさは信じられない程である。

最近の経験は、昨年、丸の内の三菱一号館美術館でみたカンディンスキーだ。彼はロシアに生まれ、モスクワ大学で法律、経済学、統計学を勉強し、大学で社会科学者になることを目指していた。それが30歳になって、突然炎のごとく、芸術への渇望を覚えた。画集の解説には、そんな風に書かれている。ドイツ・ミュンヘンに絵の修業に行き、ほか数人と集団「青騎士」を立ち上げる。カンディンスキーは元祖抽象派なのだが、小品もロシア風イコンも描いていて、それが誠に素晴らしい。小生のPCのデスクトップは下の絵を飾っています。


この絵、あまり有名な作品ではなく、何となく(というか、誠に)僚友クレーの風合いが感じられる。ただ小生のPCでは、"Kandinsky02.jpg"というファイル名になっている。中々確認がとれないのですが、私の中ではカンディンスキーになっている。そんな絵なのだが、ずっと使っている。モネの「積みわら」をみて、最初何が描いているのか分からないままに「いいなあ」と感じたのが、画道の出発点であったよし。