2022年3月31日木曜日

ウクライナ動乱に関する投稿のまとめ(その1?)

日本でも読者は多いと思うが、ジョージ・フリードマンの『ヨーロッパ炎上 新・100年予測—動乱の地政学』は最後の16章「終わりに」でこんなことを書いている:

戦争は何も「歴史に学ばなかったから」起きるわけではないし、その人たちの人間性が悪いから起きるのでもない。戦争が起きるのはまず、利害の対立があるからだ。利害の対立があまりに大きくなり、戦った場合に生じる結果の方が、戦わなかった場合に生じる結果よりもましだ、と判断した時、人間は戦争をする。

「その人たちの人間性が悪いから起きるのではない」というのは、倫理的観点から戦争を否定していても実効性はないという思考をしている表れで、この思考は実は他力本願を旨とする日本の鎌倉仏教とも通じる所がある。例えば、親鸞『歎異抄』の1節(これもずっと以前に投稿したことがあるが)

わがこころのよくて人殺さずにあらず。人害せじとおもうとも、百人千人殺すことあるべし。(第13章)

などは、上と同じ哲学を共有しているではないか。 流石、武士の時代に生まれた宗教である。話を戻すと、フリードマンは

戦争がいかに悲惨なものかは誰もが知っており、したいと望む人間はいない。戦争をするのはその必要に迫られるからだ。戦争をするよう現実に強制されるのである。

こんな叙述で締めくくっている。

「戦争をするよう現実に強制される」というのは、何らかの《政治的力》が作用して、責任を負っている政治家が戦争を選ぶ強い誘因を与えるということである。そういう<戦争理解>があって、もしこの見方が妥当であれば(小生もそう思うのだが)、そのような政治的力を受け止め、反応する主体が《政治家》であるのは当然の理屈である。であれば、たとえ事態を戦争へと向かわせる強い力が働いている情勢であるにもかかわらず、それを理解しようとせず、必要な対応をせず、結果として現実に戦争を引き起こすとすれば、丁度それはダムの決壊を懸念する意見が提出されていたにも拘わらず、その危険を正しく理解し、必要な対応をとらず、ついにダム決壊という惨禍を招いてしまったダム管理責任者と同じ失態を演じたことになる。 

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2月24日にウクライナ動乱が始まり1カ月余りが経ったところだ。この間、平常ペースを超えて投稿をしてきたので、覚え書きまでに何が言いたいことのポイントであったかを整理しておきたい。これが本日投稿の主旨だ。


上に引用したジョージ・フリードマンの目線から自然に出てくる理解は、次のパラグラフを含む3月15日の投稿の主旨にかなり近いものがある。

要するに、政治の失敗の責任をとるべきところが、開き直って「正義の戦い」を外に拡大している

こういう事でしょう、と小生には思われる。つまりは、プーチン大統領、バイデン大統領、お二人とも次の選挙のことが心配なのである。

これが物事の本質だろう。

この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

そうそう・・・ウクライナのゼレンスキー大統領。狂言回しの役回りだ。彼もまたホンネで何を考えているか分からない御仁だ。それと常に見え隠れする《イギリス》という世界歴史の黒子役、今回も仕事をしているナアという印象だ。

そもそも動乱が始まった直後の小生の視方は、いま日本の世間で浸透している視覚とは随分違っていた ― これも極め付きのへそ曲がりである小生だから、かもしれない。ロシアによる侵攻直前であった2月22日にはこんなことを書いている:

要するに、近年盛んに用いられる論法だが、目的が「人権」で「権益」ではないなら他国の内政に立ち入っても「侵略」にはあたらないという法理(?)が一方にある。しかし、国と言うのは例外なく真の目的としては「国益(≒権益)」を追求するものなのだ。だから、今回のロシアの行動も心の底ではロシアの国益を拡張しようとしている、と。ホンネはこうだろう、と。そう非難するのはよいが、そうであれば「人権」を目的とする「干渉」なら許されるなどとは言わないことだ。「内政干渉」は全て「主権の侵害」であり、「侵略」であるというロジックを通すべきだろう。しかし、相手が中国になるとウイグルの人権抑圧を批判したい。中国の内政に干渉したい。その論拠が要る。そのためには建て前を語る必要がある。その一方でロシアにはホンネの部分を議論している。

同じ内政干渉であっても、旧・西側がやれば人権擁護、中露がやると侵略になる。「それはないでしょう」という人が出てきてもおかしくない。これでは韓国で大流行した「ネロナムブル」と同じ、自分(ネ)がやればロマンスだが、他人(ナム)がやると不倫(ブルユン)。これと中身は同じである。

ま、古来、このような議論を「二枚舌」という。どうもへそ曲がりなもので、こんな風な印象がある。

こんなことを言うのは小生がよほど変わっているからか・・・必ずしもそうでもないのではないかという気もするが。

実は、アメリカのThe New York Timesを見ていると、アメリカの論壇も(日本にはもう「論壇」などと言える世界はなくなってしまったようだが)完全にロシア悪者説で固まっていたわけではない。著名なコラムニストであるThomas Friedmanは"This Is Putin’s War. But America and NATO Aren’t Innocent Bystanders."、こんなタイトルの寄稿を2月21日にしている。全文、ロジックの通った視線が貫徹されているが、特に以下の部分には著者トーマス・フリードマンの主旨がそのまま表れている:

 In my view, there are two huge logs fueling this fire. The first log was the ill-considered decision by the U.S. in the 1990s to expand NATO after — indeed, despite — the collapse of the Soviet Union.

仮想敵国であるソ連とその軍事同盟であるワルシャワ条約機構が消失したにも拘らず(=despite)、なぜ西側の軍事同盟であるNATOはそのまま存続し、仮想敵国であったはずのロシアに向かってアグレッシブな拡大路線をとっていったのか?著者トーマス・フリードマンはそれが情勢を炎上させる大きな歩みになったと言っている。それは冷戦に勝利したと受け止めたアメリカの"Euphoria"(=高揚感)がとらせた冒険的な行動であったと小生は思っていて、そんなアメリカの「自己肯定感」が日本を含むあらゆる国に対して放射されていたのが1990年代という時代だったと記憶している。

それはともかく、話を戻すと

 The mystery was why the U.S. — which throughout the Cold War dreamed that Russia might one day have a democratic revolution and a leader who, however haltingly, would try to make Russia into a democracy and join the West — would choose to quickly push NATO into Russia’s face when it was weak.

ソ連に民主革命が起きて、民主主義的社会を志向する政治家がいずれ出現するだろうと、ずっとアメリカが夢みていたにも拘わらず、現にソ連解体後のロシアが混乱しつつも民主化への道を歩もうとし始めた時、なぜロシアからみれば敵陣営であったNATOがロシアが最も弱体であったその時に、(軍事同盟であるNATOという組織を温存させたうえ)ロシアに向かって速やかに勢力を拡大、押し出していったのか、それは"Mystery"だと書いている。それが謎だと書いたあと、クリントン政権当時の国防長官であったBill Perryの回顧を紹介しているところが非常に面白い。

“At that time, we were working closely with Russia and they were beginning to get used to the idea that NATO could be a friend rather than an enemy … but they were very uncomfortable about having NATO right up on their border and they made a strong appeal for us not to go ahead with that.”

On May 2, 1998, immediately after the Senate ratified NATO expansion, I called George Kennan, the architect of America’s successful containment of the Soviet Union. Having joined the State Department in 1926 and served as U.S. ambassador to Moscow in 1952, Kennan was arguably America’s greatest expert on Russia. Though 94 at the time and frail of voice, he was sharp of mind when I asked for his opinion of NATO expansion.

I am going to share Kennan’s whole answer:

“I think it is the beginning of a new cold war. I think the Russians will gradually react quite adversely and it will affect their policies. I think it is a tragic mistake. There was no reason for this whatsoever. No one was threatening anybody else. This expansion would make the founding fathers of this country turn over in their graves.

『この3流政治家が!』と言いたい政治家は、何も現在のバイデン大統領、プーチン大統領、ゼレンスキー大統領といった、いま現在、世界という舞台で政治家の役回りを演じている人々と限ったわけではないのである。

★ ★ ★ 

日本では、

どんな言い分があるにしても、武力侵攻したこと自体は許されない

まるで「刑事裁判」さながら、そんな「当然過ぎる発言」で議論をストップさせてしまうのが常である。しかし、ここはキチンと考え抜かなければ、同じ失敗を繰り返すのが確実なのだ。マア、日本は「論壇」も「ジャーナリズム」も視野が狭く脆弱で、重大な失敗を繰り返させてもらえるような立場はとっくの昔に失ってしまった、そんな国際的政治勢力ではなくなった。しかしアメリカがこうであるとすれば非常に危険である。幸いなことに、アメリカではするべき議論はキチンと議論する雰囲気があるようで、安心させるものがある。

最初に引用したように、戦争はモラルで議論をしても実効性がなく、国際法に違反する行為はそれ自体が悪だと主張しても、その主張が問題を解決できるわけではない — 日本は解決を期待される立場にいるわけでもないので、そんな議論が出来るわけでもある。必要なのは《平和維持のためのルール》だというのは、これも上に引用した3月15日投稿に書いたことだが、やはりこれは今後の本筋になるのではないかと思っている。

だから、舞台は次第に「国連」(と、安全保障理事会)に移っていくと想像するが、さてどうなることか・・・


2022年3月27日日曜日

断想: 地政学と歴史のIFと

 先日の投稿では<歴史のIF>について断想を書いておいた。よく似た議論に「地政学」がある。

しかし、議論の内容としては「歴史の一つのIF」に過ぎない事柄を<地政学>という学問的薫りのする名前をかぶせてオープンの場で語るとすれば、それはもう「お笑い芸人」と言うより、むしろ<知的詐欺師>に近い存在と言っていいかもしれない。

その最適な一例がネットにあるのを見つけた。ロシアの保守系思想家、というより地政学的国家戦略の専門家であるアレクサンドル・ドゥーギンである。

一部を引用するとこんな感じだ。

ドゥーギン氏の戦略論は「新ユーラシアニズム」ともいうべきものであり、目指すべき将来目標として、旧ソ連邦諸国を再びロシアが併合するとともに、欧州連合(EU)諸国もロシアの〝保護領protectorate〟にするという極論から成り立っている。

(中略)

「ドゥーギンは、欧州とアジアをリンクさせたユーラシア統合がロシアの戦略目標であるとの観点から、ライバルである米国においては、人種的、宗教的、信条的分裂を醸成させると同時に、英国についても、スコットランド、ウェールズ、アイルランド間の歴史的亀裂拡大の重要性を唱えてきた。英国以外の西欧諸国については、ロシアが保有する豊富な石油、天然ガス、農産物などの天然資源を餌食にして自陣に引き寄せ、いずれ北大西洋条約機構(NATO)自体の内部崩壊にいく、とも論じてきた」

(中略)

 「ドゥーギンはさらに、アジア方面についても、ロシアの野望を実現するために、中国が内部的混乱、分裂、行政的分離などを通じ没落しなければならないと主張する一方、日本とは極東におけるパートナーとなることを提唱する。つまるところ、ドゥーギンは第二次大戦後の歴史の総括として、もし、ヒトラーがロシアに侵攻しなかったとしたら、英国はドイツによって破壊される一方、米国は参戦せず、孤立主義国として分断され、日本はロシアの〝ジュニア・パートナー〟として中国を統治していたはずだ、と論じている」


Source::Yahoo!ニュース、3/26(土) 6:01配信
Original:Wedge
URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/115efaf324c6b3c16acc19b19211c2b114ce7b51?page=1

日本は(幸か不幸か)《島国》であり、海岸線は複雑で良港が多い。加えて、人口は1億人に達している。適度に面積の大きな島から構成されており、かつ山岳地も多く、「寡兵を以て大軍を打ち破る」ような陸軍の機動的、集中的運用に向いている。特に厳冬期は日本海、太平洋とも強風と悪天候が続く。故に、制圧するよりは同盟を締結する方の利益が大きいと考えられるのだろう、と上のような思考の主旨が何となく伝わってくるではないか。

確かに戦前期の「大日本帝国」は、東アジアにおいて、特に東北部において、明らかにロシア帝国及びソ連の「ジュニア・パートナー」として行動した。(中国やアメリカからみれば)そう受け取られる一面があったと小生は考えている。

周知のように、日本は昭和26年のサンフランシスコ講和によって国際社会に復帰した。しかし、中国は国共内戦の真っ最中であり講和には不参加。南北両朝鮮は日本とは交戦しなかったことから招請されず、この他にも諸々の理由から講和には署名をしなかった複数の国があった。その後、韓国とは昭和40年に日韓基本条約で国交が正常化し、日中平和友好条約は昭和53年に締結されて日中国交が回復したのだが、ソ連およびそれを継承したロシアとは今に至るまで平和条約を締結できずにいるわけだ。

ソ連が連合軍の一国としてサンフランシスコ講和条約に署名しなかった理由は、同じ共産党政権である北京政府が招かれていなかった点もあろうが、やはり日本が返還するべき「千島列島」に日本のポツダム宣言受諾伝達後にソ連が軍事占領した「北方4島」が含まれるのかどうかについて(特に米ソ間で)一致点を見いだせないだろうという事情があったに違いない。この当時、ソ連の最高指導者はまだスターリンであったのだ、な。アメリカの大統領はヤルタ密約を結んだルーズベルトから事情を知らないトルーマンに変わっていた。

その後、ソ連はフルシチョフが権力を握り、日ソ共同宣言を主導して平和条約締結後の2島返還の方向が出てきたのだが、どうもWikipediaによれば晩年のフルシチョフは、北方領土を返して日本と平和条約を結んでおいたほうがソ連にとってはよほど得であったろう、と。「日本との平和条約締結に失敗したのは、スターリン個人のプライドとモロトフの頑迷さにあった」と。そんな述懐を回想記の中で述べているそうである。

仮にそうなっていれば、米軍基地が現在ほどは日本国内に残存はせず、そもそも「日米安保体制」なるものが形成されることも(ほぼ確実に)なかったろうと思われる。

(現在のような)日米安保体制下に置かれることがなく、米ソ両国と平和条約を締結できていれば、中国・北京政府との国交回復ももう少し早く可能であっただろうし、安全保障はじめ経済的相互関係を含め、戦後日本は一体どうなっていただろうと想像を刺激される。もちろんGHQの基本構成や日本国憲法など、戦後日本の基本的な骨格は同じであったろうが、ずいぶん雰囲気が違ったものになったのではないか。歴史のIFは「そのほうが幸福であったに違いない」という歴史的評価ではまったくない。しかし、<思考実験>としてこの上なく面白い作業であるのは確かだ。

それにしても、上のようなロシア超保守派の議論の中の

日本はジュニア・パートナー

と位置付ける見解に対して、評者は「言語道断」と切り捨てている。

思うのだが、「言語道断」って、英語では何と言うのだろう?これは小生の習慣で、意味が曖昧でよく分からないとき、英語では何と言うのかと自問すると、使われている言葉の方が可笑しいことが分かったりするのだ。

言語道断・・・まあ、"absolutely wrong"あたりカナとは思う。が、言語道断にはモラル的に『そんな事を言うな!』という怒りの情念が追加的スパイスのように込められている感じがする。感情が入ると議論が濁るのが常だ。やはり地政学的ロジックに沿って、

戦後の世界秩序の中で、日本がソ連のジュニア・パートナーとして行動する戦略を、日本が選ぶ可能性はなかったであろう。何故なら・・・

という具合に書くべきであった。

そういえば、最近流行の『寄り添う』。これは英語ではどうなるのだろう?バイデン大統領もよく使う"The US stands with Ukraine"の"stand with"か?しかし、これは「アメリカはウクライナの味方だ」という意味で「寄り添う」とはニュアンスが違う。それとも"get close"とか、"stay close"か?これは何だか「寄り添う」より「すり寄る」に近いと感じる。では何だろう・・・やっぱり"have sympathy for you"の"sympathy"が近いかネエというのが今日の感想だ。

『日本はウクライナの人々に常に寄り添う』というのは、『日本はウクライナの人々に対して痛切な同情の気持ちを持っています』。意味としてはこれに最も近いのではないだろうか?

しかし今の世界情勢では

同情するならカネをくれ

とも言われるだろうし、ウクライナ動乱の当事国と話すなら

同情するなら武器をくれ

と要請されるだろう。

しかし、それは断る、というか「あまりは期待しないでほしい」と。具体的に何かを本気で支援して、率先垂範、リーダーシップを発揮して一肌も二肌も脱ぐ。それとも違うような気がする。何だかどことなく「お悔やみ致します」に近いような、気持ちの表現。「些少ではございますが」という儀礼的表現にも通じるような。やはり「行かないわけにはいかないっショ」に近い気持ちであって、「味方になるから安心しろ、頑張れ」とは違う、「何があっても応援する、一緒にやろう」とも違う、それが「寄り添う」という言葉のニュアンスか。どうもそんな印象があるこの頃である。

***付言***

何ごとも言葉と言うのは意味をハッキリさせておくほうが将来の誤解がなくてすむ。いかに遠い国で勃発した「戦争」とはいえ、戦争の悲惨は現実であって、それを日本のTVスタジオで現地の動画を見ながら色々な言葉でお喋りするという情景は、朝一番で新情報をニュースとして初見する時はまだ耐えられるのだが、同じ話を繰り返し他局、他番組で放送されると、それも視聴率獲得のための競争なのだから仕方ないとはいえ、『どうもすまないネエ、こちらもこれが仕事なモノだからサ、これをやれって上から言われててどうしようもないんだヨ・・・それにアタシたちも何もしないわけじゃあないんだヨ、勘弁しておくれ』とでも言いたげだ。まして部屋のTVの液晶画面でそれを視るっていうのも、いかにも傍観者的、かつ非人情に思えて気分が浮き立たない。どこか尻が落ち着かない感じがしてグツが悪い — 「グツが悪い」という表現も小生の田舎である四国の方言かもしれない。

まあ、メディア現場の人たちにとっては<ロシア=ウクライナ戦争>が近ごろ稀な「大商い」で、他を顧みる余裕などはゼロなのだろうが、日本のマスコミが日本の世間で話をするなら、ウクライナよりかは日本のエネルギー戦略の方向性を問題にする方がよっぽど現実的で、重要、一層差し迫った話題なのではないだろうか?

電力不安はホント待ったがないよ。そう思いますがネエ、エッ!いまそれを話すと、まずい方へ話が進むって、フ~~~ン、何か考えておいでのようだが、言いたいことがあれば、それを早く世間にしゃべっちまったほうがイイんじゃないんですかい?

この辺が今日のしめくくりにはイイか。 


2022年3月25日金曜日

断想: マスコミが決して触れないことが実は大事な問題であるケース

何かについて議論している中で、話題になるべき事柄が決して話題にはならないとすれば、そこには何らかの意図があるわけだ。話し手のホンネや(知られたくない、と話し手が考えている)真の問題の所在が「語られない」、「わざと話さない」、「触れようとしない」という行為の背後には隠されているものだ、というのは誰でもピンと来る経験則であろう。

今日の投稿はその一例ということで。

ロシアによるウクライナ侵略が2月24日に始まって間もなくの段階で、チェルノブイリ原発施設がロシア軍に攻撃され占拠されてしまった。『原発施設まで攻撃するのか!』という驚きが日本国内にも広がったのは、まだ記憶に新しい。ところが、メディアによるその後の説明振りをフォローしているうちに、当然触れるべき点が触れられないことが自然に分かってきた。

一つは、チェルノブイリ原発事故という空前の大事故をひき起こした国であるにも拘わらず、現在のウクライナは4原発・15基を運用する世界第8位の<原発大国>になっている事実だ。ウクライナはなぜこんなエネルギー戦略を採っているのか、かなり周知の事でもあるが、やはりマスコミもこの辺については語るべきだろう。

もう一つは、ウクライナは黒海に面しており、海のない「内陸国家」ではないにも拘わらず、どの原発施設も沿岸ではなく内陸部に入った地点に置かれているという点だ。どの原発施設も海に面した場所を選んで設けられていないところは日本とは大いに事情が違っている。この理由は何か?これもマスコミは気がついているはずなのだが、正面から話題にしようとはしない。いうまでもなく、地震国・日本で15メートル超の津波に襲われれば極めて危険になることが予想出来ていたはずの福一原発とはウクライナの立地選択は基本方針から大きく違っているようなのだ。なぜ日本人はこの理由を知りたがらないのだろう。この点を掘り下げれば、非常に興味深い解説になるはずなのだが、(どういうわけか)どのTV局も新聞社もとりあげようとはしていない。

次は、ドイツのエネルギー戦略である。東日本大震災で福一事故が起きた直後、ドイツのメルケル政権が《脱原発宣言》を出したことは日本人なら常識の範囲だろう。脱原発を宣言して再生可能エネルギー開発に注力するという「英断」は日本で極めて高く評価されたものである。しかし、ドイツは再エネ一本でエネルギー戦略を推進したわけではない。同じ2011年5月には「ノルドストリーム1・第1ライン」が敷設され、翌年11月に開通している。「ノルドストリーム1・第2ライン」は2011年から12年にかけて敷設され12年10月に開通している。この事業によってロシアからパイプライン経由でドイツまで天然ガスが届くことになった。LNGではなくパイプラインを経由して安価な天然ガスをロシアから直接調達するのは、脱原発と製造業大国・ドイツを両立させる経済政策上の妙手として、ドイツ国内でメルケル政権が支持される強い基盤にもなった。

もちろん、この政策にはデメリットもあったわけである。例えば、ノルドストリームについてはWikipediaにこんな説明もある:

米国は同パイプラインがドイツを含む北大西洋条約機構加盟国に対するロシア政府の影響力を強めかねないと懸念しているため、2018年7月11日、ドナルド・トランプ大統領は、北大西洋条約機構事務総長との朝食会の場でノルドストリーム2計画について触れ、アメリカがドイツを守るために数十億ドルも払っているというのに、ドイツはロシアに(ガス代として)数十億ドルを支払っていると批判。その場に居なかったドイツのアンゲラ・メルケル首相は、別途、ドイツは独立して決断を下しているとしてトランプ大統領の批判に反論した。

ドイツは「ノルドストリーム1」に加えて、「ノルドストリーム2」の敷設計画も進めたものの、今回のウクライナ侵攻で(多分永久に?)それが凍結されたことはドイツの歴史的な戦略転換であるとして、驚きをもって受け止められている。そういう現状なのだが、この筋道を要約すれば、ドイツがとったエネルギー政策は

日本の原発事故→脱原発宣言→グリーンエコノミー戦略

という思考ではなく、実際にドイツが進めてきた政策は

対ロシア融和政策→低価格天然ガス輸入→福一事故→脱原発→再エネ投資拡大

という極めて現実的な併せ技であったという事実だ。

そもそもノルドストリームは東日本大震災直後の2011年5月に敷設されている。交渉、契約、着工等々の時間を考えれば、ドイツがロシアから安価な天然ガスを調達する「ノルドストリーム計画」は、東日本大震災以前から独ロ間で協議されていたはずである。これがなければ「脱原発」などが出来るはずがない。つまり、ドイツが脱原発宣言を行った胸のうちは、福一原発事故をきっかけにした経済グリーン化という理想主義ではなく、むしろドイツに伝統的な東方外交(Ostpolitik)に沿った対ロシア貿易拡大戦略が先にあり、たまたま発生した日本の原発事故を好機にノルドストリーム事業を加速させ、併せて脱原発宣言を行ってグリーン投資を拡大させる。一つの経済戦略としてドイツを眺めると「ああ、そうだったか」と合点が行くのである。

ドイツの「脱原発宣言」は、あの当時、妙にタイミングが合い過ぎる、というかあまりにピッタリであったので、「何を考えているのか?」と不審な印象をもったが、よお~く考えると納得がいくわけだ。

で・・・今回のウクライナ動乱で流石のドイツも「ノルドストリーム2」を諦めて、今後は徐々にロシア産天然ガス買取り量を削減し、ロシア依存を低下させて行く方針を明らかにした。脱原発方針もこの中で再検討するとショルツ・独首相は明言した。ま、いうなれば《メルケル外交》の破綻である。

この点についても、日本のマスコミは何も(それとも最小限でしか)とりあげていない。日本国内でもいま《電力不安》は高まっており、エネルギー計画が極めて重要な経済政策上の問題になっている。それにも拘らず、非常に参考になるはずのウクライナの原発政策、ドイツのエネルギー戦略を話題にとりあげようとしない。それには触れずして、キエフ近郊でロシア軍が後退したとか、塹壕を掘って防御態勢をとったとか、この種の話ばかりをしている。

何を報道するか、何を話題にするかは、メディア企業の権利であるとよく主張されるわけだが、小生には無責任な<はぐらかし戦略>で風を読んでいるように見える。「旧・西側陣営」の中にもロシアとの経済関係、利害関係の違いがある事、その違いによって思惑や行動方針にも違いが生じていることには出来るだけ触れないようにしているようだ — 違いに目を向けることは、日本には日本の国益があるという点に国民的意識が向かうわけで、日本のマスメディアなら当然持つべき意識ではないのだろうか、と小生は思うのだが、違うのだろうか?

アメリカは先頭を歩いている国であるせいか、基本方針の選択については異論、反論あり、新聞などのメディアも様々な意見を敢えて掲載している。しかし、日本はアメリカの背中だけをみて歩いているようだ。日本国内のマスコミまで足並みをそろえて統一見解を支持する義務はないと思うのだが、<社の方針>として何かがあるのだろうか?

情けないネエ

と感じ続ける今日この頃で御座います。

言うべき事、語るべき事を明確に自覚しながら、世間の風を読んで語ることを避けているのであれば、単に<情けない>という批判を超えて、<有害な放送姿勢>というべきだろう。プラスの公益が提供されないまま電波資源が浪費されていると非難されても仕方がない。もう放送事業の認可は5年か10年の有期制にして、審査に合格しない場合はオークションで電波再割り当てをするのが<公正>、英語で言えば"Justice"に沿うというやり方だろう。マ、現代日本の民間放送ビジネスはドラマやバラエティなどリアルの世界とは異なる虚構の番組を編集してCMを視聴させることが目的である、と。こう達観することも出来る。ニュースや情報番組が公益に寄与しているかどうかは、そもそも問題ではないとも言える。しかし、そうであれば市場競争の中に置いて資源配分の効率性を日常的にチェックする状態に置くべきだろう。こんな主旨のことは、もう何度も投稿した。またまた書いてしまった。単純反復は嫌いなのだが、話の流れからやむをえず、ということで。


2022年3月22日火曜日

ホンノ一言:このたびの首都圏・電力逼迫警報に

首都圏で「電力需給逼迫警報」が発令され、企業、家計には節電が要請されたとのこと。

エネルギー関連で何か投稿しようと思ったが、念のため<エネルギー基本計画>とか、<原子力>、<小型 原子炉>などでブログ内検索をかけると、これ以上書き足すことはないと思った。

再エネについては、インフラ投資法人の分配金利回りにつられて小生も何社かに投資をしていて、再エネ拡大が(基本的に)望ましいとは思う。しかし、それでもなお再エネ1本を柱にして日本のエネルギー安全保障を実現するなどは無謀な選択だ。とてもじゃないが、EV、PHVの普及などは諦めた方がイイ、当面は化石燃料を燃やして走るのが着実だと、そう考える次第。

火力発電は削減トレンドにある、というより「する」と約束した。火力発電が不安定になるからといって事業所ベースで非常用電源を設置して停電のときは化石燃料を燃やすなど、世界からみれば"Japan's Comedy"と笑われるだけであろう。つまり『どうするのか?』という簡単明瞭な問題である。解答自体はすぐに出るはずであらう。鍵は(負傷したアスリートではないが)日本人のトラウマ、つまり<メンタル>だネエ・・・という一言に尽きるか。

一戸建て、マンション、オフィス、工場、農場などエネルギーを消費する全ての生産施設、建築物、構築物を対象にエネルギー・インフラ設置を義務付け、エネルギーの地産地消を目指すなら、マア希望はある、と思う。

が、それも街の風景を大いに損なうのじゃないかネエ、と。太陽光パネルを屋根に載せた国立西洋美術館など見たくはないし、まして風力発電の風車が並ぶ隅田川畔など歩きたくもない。東大寺、清水寺、宇治平等院の屋根に載せたパネルに太陽の陽射しがギラギラと反射する様はグロテスクそのものだ。観光に訪れる人も二度と来ることはないだろう。地熱発電所の発電施設が林立する阿寒国立公園などは自然としては死んだ自然であろう。草津温泉から志賀高原に抜ける途中、工場街のようなパノラマロードを走っても後悔するだけだろう。

今日はホンノ一言覚え書きということで。



2022年3月21日月曜日

「戦争」は歴史のIFを空想させる

 一つ言えるのは

もしも現代社会のような<ネット社会>、<情報社会>であったら、1931年に日本がひき起こした満州事変は成功しなかっただろう

ということだ。

予想外のタイミングで現地駐留の関東軍が暴走した事変は、ネットを経由して、具体的にはYoutubeやインスタグラムを通して、即座に欧米、世界全体にも動画、静止画像がアップされ、世界が日本の軍事的暴走を知ることになったはずだ。そして数日以内にアメリカは日本に強烈な経済制裁をかけていたに違いない。その中には対日石油禁輸が含まれ、日本の軍事資源はその場で麻痺していたに違いない。

・・・日本の作戦は頓挫するが、長期的にみれば、それが日本という国家を救うことにもなっていただろう。


現地駐留部隊である「関東軍」を主導していた板垣征四郎や石原莞爾は、この惨状の責任を追及され、軍法会議にかけられ、おそらく陸軍を追放される憂き目になっていたに違いない ー というより、こうなることが確実視されるので暴挙に打って出ることを躊躇するうちに計画が露見し未遂に終わったかもしれない。

どちらにしても、結果は同じだ。失敗していれば日本の国内政治における陸軍の権威は失墜していたはずだ。実行されないということは外交環境が意思決定を左右したということだ。どちらにしても大正デモクラシー以来の日本の<政党政治>が揺らぐことはなかったに違いない。当時ブレーク中であった革新官僚による「新体制」願望の空気も雲散霧消しただろう。アメリカ政府も、過激派を粛正し親米路線を強化する日本をみて、制裁を解除したであろう。


ただ、日本外交はこの致命的な失敗が尾を引いて、(歴史的IFに「多分」という言葉を使うのは可笑しいが、多分)「生命線」である「満州権益」を喪失した可能性が高い。そうなると朝鮮半島の独立運動も激化しただろう。時代の潮流は日本にとっては非常な逆風になっただろう。折しも金本位復帰を目的とした「金解禁」政策と世界大恐慌とで、日本経済はどん底の不況にあり、朝鮮半島を独立させ植民地経営のコスト負担をゼロにするという「国際協調路線」を選んだ可能性すらある。

しかし、この逆風が日本にとっては幸することになる。その直後にヨーロッパで勃発する第二次世界大戦で日本は独伊の枢軸側には立たず、第一次世界大戦と同じく連合側に立って参戦していたはずだからだ。日本は第一次世界大戦に続き「二度目のドジョウ」ならぬ<二度目の戦時特需>で経済的苦境から脱出できたに違いない。

そもそも満州事変に失敗し、満州特殊権益も失っていれば、その後の日中戦争もなかったわけである。

まったく、この世は一寸先は闇。焦って暴発すれば、最後には負けである。

欧州の大戦は第一次大戦の戦後処理に原因があるので東アジアの情況とは関係なく勃発したことだろう。しかしながら、日本が英米との協調を続けていれば(満州事変失敗によって陸軍がメンツを失っていれば確実にそうなった)、アメリカが欧州の大戦に参戦することもなかったかもしれない。

となると・・・もうキリがないので止めよう。

言えることは、何かに成功したことがその後の失敗の原因になる、という歴史の綾とでも言える要素があることだ。

その歴史の綾を洞察するのは、吉田茂が言うように《直観》、というか《動物的勘》なのだろう。

これまでにない局面では一般的な学問的知見はあまり役に立たない。

関東軍作戦参謀であった石原莞爾は1万の駐留軍で20万の満州軍閥を攻略した実績から「天才的軍略家」と、事変の後は褒め称えられたそうだ ― 今でもそんな向きがある。しかし、自らの計画が及ぼす政治的ハレーションの広がりを正しく秤量できなかった点では、総合的には「凡人クラスか凡人未満」であったとも言えるだろう。

ある問題領域の解決に<1流>であっても、その他の分野には才能がなく<凡人未満>というような人材は星の数ほど多い。民主的に選ぶと、つまり多数の素人の支持によって人を選ぶとなると、結果として誰にも嫌われない、敵の少ない人が当選することが多い。そんな風に言う人がいるが、意外に的をついているのかもしれない。

誰にも嫌われないそんな<人畜無害の人>は、要するに何の才能も持たない<3流の人>であるには違ない・・・と言うのが、間違った屁理屈であれば、むしろ嬉しい限りだ。

今日は下らない<歴史SF>ということで。


2022年3月19日土曜日

ホンノ一言:ウクライナのゼ大統領に国会演説を認めることは日本の中立を損なうのか?

今月23日に決まったウクライナ・ゼレンスキー大統領のオンライン国会演説。どんな内容を語るのか心配している向きもあると伝えられている。が、そこは元俳優の雄弁家。北方領土も話題に入れながら日本人との連帯を訴えるに違いない。

こんな方向に対して、何年か前の都知事選に出馬した鳥越氏が、

ウクライナは一方の交戦国。ゼ大統領の国会演説には反対する。

こう明言している。

まあ、反対するのが、(本来は)本筋であると小生も共感する部分がある。


ただ、掘り下げて考えるべき余地もある。

というのは、これは今後の国連改革にも繋がっていかなければならないのだが、ロシアの軍事力行使に対して、国連を軸にした国際社会はこれからロシアという国家にいかなるペナルティを課していくのか?現時点の主たる問題はこれだろうというのがあるからだ。既に、《国際司法裁判所》はロシアに対して即時停戦を命令しており、ロシアはその決定に服さない意志を明確にしている。つまり、先日の国連臨時総会のロシア非難決議の賛否の票数からも分かるのだが、ロシアは国際社会においては「軍事力を不法に行使しつつある国家」として認定され、(こんな司法用語は確立されていないが)《犯罪国?》として裁かれる立場に立ちつつある国となった。

確かにウクライナも交戦国の一方の側ではあるのだが、ロシアが<加害国>、ウクライナは<被害国>という認識を国際社会がとってきている。ウクライナによる武力行使は通常の刑事事件における《正当防衛》に似た概念に含まれるのだろう。こんな方向が現在はあるようで、それが今後覆ることはちょっと予想できない情勢になってきている。

ということは、日本の国会でウクライナの大統領がロシアの不法行為を訴えるとしても、それは国際外交や日本の実質的な参戦云々の話しではなく、むしろ国際的な司法機能を支援するという目的に沿った行為だ、理屈はこうなるのではないかと考える次第。


前々稿にも書いたが、

世界には<中央政府>がない。国連を<幕府>とみるとすれば極めて弱体である。応仁の乱が勃発した日本と同じで、《裁定者》が不在なのである。多くの武装集団が分権的に自立していた封建社会の論理とちょうど似た論理で紛争現象が頻発するのが21世紀なのかもしれない。だとすれば、封建時代が小紛争は頻発しても大乱はなく長期間続いたカン所を勉強するのも悪くはない。

ともかく、現実がこうであれば、現実に応じた《平和維持のための統一ルール》が要る。互いに「正義」を主張して徒党を増やせば、その行為が「火に油を注ぐ」結果になる。危機拡大の紛争ループである。第一次世界大戦もこれであった。第二次大戦も危機拡大のメカニズムは同じだった。

日本の旧幕時代のような<喧嘩両成敗>を国際社会が「平和維持のルール」にするというのは想像困難だが、例えばロシアによる今回のような軍事力行使に対しては

  • 国連における一定期間の活動資格停止。投票権行使の停止。
  • 一定期間の経済制裁。もしくは国連に対する一定額の罰金支払い命令。

ま、上の例は例えばの話しだが、国際的な国家犯罪に対する刑事司法機能を強化することにより、国際司法裁判所(及び国連本体)が《裁定者》の役割を果たせる方向で努力できるかどうかがカギになると思っている。またまた例えばだが、先日の時事通信の記事によれば、侵攻開始2週間の時点でウクライナが蒙った経済損失は12兆円弱に達する。損害賠償と刑事罰(?)としての「罰金」を合計すれば、今回の不法行為に対して(和平の時期にもよるが)ロシアは50兆円程度の支払い義務を負わされても仕方がないのだろう、ザクっとした山勘計算ではあるが。

ま、要するにこうした《国際的司法機能》を強化していくことが世界平和につながっていくのは間違いのない所だと思う。

イギリスは早くもロシアを常任理事国から外す方向で動いているようだが、安全保障理事会の規定もおそらく手を入れられることになるのではないかと勝手に予想している。

 

2022年3月17日木曜日

断想: 能力分布の経験則と1流、2流、3流の人物について

100人、200人の、時には500人程度のレポートを毎年定期的に読んでは評価する仕事を続ければ、どんな論題について考察する文章であっても、その出来栄えには一定の分布法則があることには、誰でもやがて気が付くものである。

『この問題が解けた人は学年に2人しかいませんでした』などと言う風なことを、数学担当の教師が口にするのを聞いたことがない人は、ほぼいないのではないだろうか?

数学と言うのは正答、誤答が明瞭に識別されるので誰でもイメージしやすいが、もっと一般の色々な問題についても考察能力の分布というのは同じではないかと思っている。

つまりどんな主題に関するレポートでも

10人のうち3流が6人、2流は3人、1流は1人のみ。

大体こんな経験則になっていると小生はずっと思ってきた。

面白いことに、この分布法則はどれほど細かく専門的分野に分け入っても、どれほどレベルの高いとされる機関の中に視野を限定しても、やはりその中で能力分布があることを観察できる。超トップクラスであるオリンピックにおいても選手の運動能力には大きな違いが視られるのを目の当たりにするが、これも一つの例である。

つまり、視野をどう定めるとしても、その範囲の中で1流の人は極めて少数である。問題によっては、その本質をとらえて正しく推論できる人は、100人に1人という出現率にしかならない。そしてまた、2流グループより、3流グループの方がずっと厚みがある。人数的に多いのだ、な。全体の能力分布は、中位に山がある左右対称型ではなく、平均未満の低位に山があり、ピークから高位の方へ長く右側に裾を引く歪みの大きい分布型をしているのが能力分布の特徴だ。こんな風に思っている。

但し、こんな分布が当てはまらないケースもある。例えば、一定の範囲から出題されることが決まっている入試問題に向かって、誰もが長期間の反復練習を続ける場合には、試験得点の分布はホボホボ左右対称の正規分布、もっと厳密に言えば、ある自由度のT分布に落ち着くことが確認されている。が、現実の社会に登場する様々の問題は、その都度、新しく、長期間の準備期間をかけて事前に解答を準備できるわけでもない。入試問題の得点分布は、一定の環境下でみられる特殊例と言えるだろう。

3流の考察と一口に言っても、その内容を細かく見ると千差万別で、人によって異なったことを書いたり言ったりする。2流、1流であってもそうである。

ただ、(数学の場合)正答は唯一であるから、最終解だけをみれば1流の人物は全て同じことを言う。違うのは正答に至る方法、プロセスにおいてである。3流の人物たちは考えるプロセス、到達する解答双方において、一致しない、「ヒトは色々」の状態にある。ただ本筋を洞察できないが故に間違った、あるいは混乱した筋道に沿って考えている点では共通している。

こんな事を書くのは余りにもシニカルだが、ブログとは<WebLog≒航海日誌>だからメモしておくと、

「表現の自由」は「間違える自由」もその中に含んでいる。

マア、「間違っている」というと言い過ぎかもしれない。「間違い」ではないが、「未完成で不十分」、「評価は良ないし可」というニュアンスなのだが、どんなテーマであれ、1流の考察を行える人は全体の中では少数である。この感覚は、実際に採点や審査を一定期間担当した人であれば、わりあいピンと来るのではないかナアと小生は勝手に思っている。つまり、真に耳を傾けるべき見事な考察は少数意見の中にこそ含まれているはずなのだ。

ま、アカラサマにまとめてしまえば、どんなテーマについて考える際にも、こんな客観的状況が成立している。常にこの事だけは言える、というのが小生の社会観、というか経験則である。

そして、この事は現在進行中のウクライナ動乱についても当てはまっているのだと思う ― もちろん、コロナ禍の中の「感染対策理論?」でも上のような能力分布が当てはまっていたに違いない。

いまウクライナ動乱についてメディアで様々なコメントを加えている人たちの見解の半分以上は、多分、間違っている、というより(多分)「3流」のレベルなのだと思う。明瞭な「間違い」とは言えないまでも、他人の意見の受け売り、自転車操業的なニワカ勉強の成果等々、内容においては3流の出来栄えなのだと、客観的にはそうなっているに違いないのだ、な。

1流の人を見出すことが最も大切である理由はここにある。

しかし、芸術作品であっても、目の前の作品が真の1流の作品であるか分かる人は、これまた少ないものである。それは多くの人は審美感に不足するためである。料理についてもそうだ。1流のシェフが調理しても、それを賞味して、素晴らしい料理であることを認識する人は意外と少ないものだ。味覚能力が不十分であるからだ。

優れた考察を含んでいるレポートに採点中に出会うのは、四葉のクローバーを探すのと似たところがある。クローバーは葉の数を数えれば分かる。しかし、日常の様々な問題に取り組むとき、いずれが1流であるか、どれが3流であるか、見解の良否を識別できる人は少ない。おそらく半分以上を占める3流の見解がまるで正解であるように人は考えてしまうだろう。

こんな風に考えてくると、ウクライナ紛争の進展について甚だ悲観的になる。というのは、前稿でも述べたように、今回の紛争の本質は

要するに

政治の失敗の責任をとるべきところが、開き直って「正義の戦い」を外に拡大している

こういう事でしょう、と小生には思われる。つまりは、プーチン大統領、バイデン大統領、お二人とも次の選挙のことが心配なのである。

これが物事の本質だろう。

  この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

これに尽きていると「俯瞰」するようになった。

難問を解決できるのは1流の人物のみである。3流の人物は色々な事を口先で語るが、語る内容は正答に至る本筋では(おそらく)ないのである。その結果、最悪の社会的選択をしてしまう結果となる。文字通り「最悪」とは言えないまでも、せいぜいが平凡な「凡手」を選ぶに違いない。3流の打ち手が偶然に「好手」、「妙手」を打つなどと言う可能性は低い。

では、1流の人物が為すべき仕事を為す機会は訪れるのだろうか? 

優れた君主が一人いれば、1流の人材を抜擢できる理屈だ。しかし、選挙の結果が任期(任期がないのは非民主主義的だ)の間はつづく民主主義社会において、肝心なときに3流の人物が重要な地位を占めていると、あとの進展は悲惨になろう。

世界には民主主義を採用しているにも拘わらず、まるで《盲腸》のように王制を残している国がある。それは、民主主義の根本的弱点を暗黙の裡に認識しているからだと・・・ン? これは前にも書いたことがあったナア。

いずれにしても、今回のウクライナ紛争、役者のレベルが低く、どこか「底が割れている」感覚を覚える。その狭間で死ななくともよい多くの人が犠牲になっている、というのが今の現実であろう。3流の政治家は世界に悲劇をもたらすのである。

惨なり、惨なり・・・


2022年3月15日火曜日

断想: Local Conflict+Putin's Gambit+Biden's Defense →危機拡大、という紛争ループ

先日投稿したThe Guardianの記事の中にもあるが、ロシア対ウクライナ間の地域紛争はずっとあったわけである。何もキエフ大公国にまで遡らなくとも、日本史に対応付ければ吉宗将軍後の天明・寛政期を含む時代に相当するが、女帝エカテリーナ2世がウクライナを併合し、更にトルコとの2度の戦争に勝利してクリミア半島を獲得したほか、多くの偉業をロシアに遺してから250年余り、何回となくあった数々のウクライナ独立劇とその挫折を辿ると、両国が決して良縁であったわけではないというのは歴々たる事実なのだ、な。

今回、また武力衝突となって《不和》が表面化したわけだ。

地域紛争は地域紛争として《局地化》しておけば、さして国際的なハレーションを起すことなく、一先ずは終息したに違いなく、ウクライナ発の過激派テロが予想されるにしても、それはモスクワにとっての危機、せいぜいがロシアにとっての危機としてマネージするべき事柄であったろう。

これを世界的な危機レベルに拡大させた主要因は、一つはウクライナ軍を指導するために米軍が入っていた点だろう。

その背景にウクライナ政府がNATO加盟を希望しロシアと敵対する意志を隠さなかったことがある。ウクライナの意志にアメリカが応えたのか、アメリカの働きかけにウクライナが応じたのかは、この分野の専門家ではないので分からない。が、この進展を許せば、プーチン大統領のメンツは(ロシア国内で)つぶれる。2024年のロシア大統領選挙に出馬する意志を隠さないプーチン氏には致命的失策になる。そこでロシア、というよりプーチン大統領が武力行使に踏み切ったが、プーチン大統領の侵攻に黙って引き下がるとバイデン大統領のメンツが(アメリカ国内で)つぶれる。アフガン退去のみっともない情景がまだ目の裏に残っているバイデン大統領にとっては致命的失策だ。今秋に予定されるアメリカ・中間選挙で民主党が大敗すれば早くもレームダックになる。かといって米軍は動いてくれる見込みが立たない。アメリカ国民も派兵には消極的である。それで困った。今回の世界情勢はここから発している。

要約すれば

プーチンの先攻対バイデンの防御

チェス用語で言えば

Putin's Gambit vs Biden's Defense 

これが今回のウクライナ紛争の基本的図式だろうと小生は達観している。

有効な戦略要素である"Stake Holders"として、プーチン大統領は中国・習近平に協力を求め、それに対してバイデン大統領はNATO加盟国、ファイブ・アイズ構成国、その他同盟国に同調を呼び掛け《国際的世論操作》と《世界的経済戦争》を始めた。

その結果、本来は仲の悪い2国の地域紛争であるのが、世界的な危機に拡大し、しかも最終的決着までには長い時間を要するという情勢になってきた。

ヤレ、ヤレ・・・これではまるで世界版の「応仁の乱」だネエ。東軍、西軍に分かれた所も同じだ。

日本はアメリカの同盟国であるせいか、つまり「西軍」のメンバーであるせいか(ネットを含めて)世間の反応は「東軍憎し」で

正義は勝つ!勝たねばならぬ!!

の一色だ。が、本質的には滑稽の一言。要するに

政治の失敗の責任をとるべきところが、開き直って「正義の戦い」を外に拡大している

こういう事でしょう、と小生には思われる。つまりは、プーチン大統領、バイデン大統領、お二人とも次の選挙のことが心配なのである。

これが物事の本質だろう。

この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

そうそう・・・ウクライナのゼレンスキー大統領。狂言回しの役回りだ。彼もまたホンネで何を考えているか分からない御仁だ。それと常に見え隠れする《イギリス》という世界歴史の黒子役、今回も仕事をしているナアという印象だ。

日本国内の政治家の胸の内は分からないが、片方のバイデン政権の思惑に全面的に協力している日本のマスコミは視ていてホントに滑稽である。そう思う2022年の3月である。

現代の世界には多数の国が並存し、大国もあれば小国もある。それぞれが経済的実力に応じた武力を有し、国防は絶対善、つまり個別的自衛権を大前提としている。これでは《世界平和》を維持できる論理がない。

世界には<中央政府>がない。国連を<幕府>とみるとすれば極めて弱体である。応仁の乱が勃発した日本と同じで、《裁定者》が不在なのである。多くの武装集団が分権的に自立していた封建社会の論理とちょうど似た論理で紛争現象が頻発するのが21世紀なのかもしれない。だとすれば、封建時代が小紛争は頻発しても大乱はなく長期間続いたカン所を勉強するのも悪くはない。

ともかく、現実がこうであれば、現実に応じた《平和維持のための統一ルール》が要る。互いに「正義」を主張して徒党を増やせば、その行為が「火に油を注ぐ」結果になる。危機拡大の紛争ループである。第一次世界大戦もこれであった。第二次大戦も危機拡大のメカニズムは同じだった。

正義論は不可。ルールが要る。

『特定の価値観を共有する』という普遍化の理念。この理念、というか価値観が現実の前で風化する。新たな価値観が形成されるまで、21世紀を通して、このプロセスが進むものと予想する、というより希望している。

今後の大きな研究テーマになるだろう。


2022年3月14日月曜日

断想: ウクライナは徹底抗戦するべきかどうかという日本人同士の可笑しな論争

どうも今月は投稿回数が増えそうだ。もちろん「ロシア‐ウクライナ戦争」のためだ。「戦争」というのは、極限状況における一人一人の人生と人間性、それに対する国家としての歴史・理念や政治的意思決定の双方が、オーバーラップしながら、あるいは互いに矛盾しながら、ありありと形になって観察されるからである。


ツイッターでこんなやりとりがあったことを知った:

櫻井よしこ「例えば、日本が中国に攻め込まれ、私達が”最後まで戦う”という時に他の国に『妥協しなさい』と言われたらどうか」

橋下徹「安全を守る為に政治的な妥結もある」

櫻「ウクライナは絶対に領土を譲らず、ロシアは絶対に欲しい。現実的にどんな妥協するのか」

橋「………」

いまウクライナ紛争の終結の在り方については多くの論客を巻き込んで激論が展開されている様子だ ― 日本にとって「激論」するほどの問題なのかやや不明であるが。


上の意見もそうだが、小生には他のどの意見も非常に《観念的》であると感じる。


太平洋戦争末期、1945年7月17日から8月2日にかけて米英ソ首脳の間で開催されたポツダム会談の結果

  • 日本の無条件降伏と武装解除
  • 民主主義の実現(≒親米政権の樹立)
  • 連合国による管理(=占領軍司令部の設置)
  • 日本の領土規定(=一部領土の割譲)など

こんな概要の対日共同宣言がなされた。

このポツダム宣言を受諾するかどうかで、大本営、特に陸軍は《本土決戦》を強く主張し続けた。この時点で、空襲による損失はあるものの、連合軍の本土上陸はなお許してはいなかった。議論は紛糾し、果てしなく続いたが、軍部(と一部日本人)の主戦論を抑えて、昭和天皇が宣言を受諾し、平和を選んだ事実は余りにも有名で、小説(及び映画)『日本のいちばん長い日』を待つまでもなく、これは日本人なら誰でも知っている歴史の一コマであるに違いない。

宣言受諾は<早期和平>、宣言拒否は<徹底抗戦>を意味していたのだが、「国体護持」を条件として要求したものの、早期和平を選べば国を失うだろう結末になるのは当時の関係者には予想出来ていたはずだ。であるが故に、国を守るためには徹底抗戦をするべきであるという主張が力をもったわけだ。


ポツダム宣言受諾を選んだ結果について現在の日本人はどう考えているだろうか?国を失ったのだろうか?確かに明治維新で日本人が内発的に創り上げた「大日本帝国」は打倒され失われた。憲法も改憲を強要(?)された。国内には数多くの米軍基地がなお多く存在している。米軍基地内に日本政府の捜査権は及んでいない。国の喪失を感じさせるようなものは他にもあるだろう。しかし、大方の日本人は、戦後日本の歩みに誇りをもっているのではないだろうか?これも新たな創造であった。現在の日本人はそう考えているのではないか。まして戦後日本の歩みが《国の恥》であるとは考えていないのではないだろうか。

国の価値を決める要素についても、小生はかなり強硬な労働価値説論者であって、国の発展のためにどれほど多くの人が汗と労苦を投入したかで、国の価値も評価も決まってくる。こう考えているのだ、な。表面的な威厳や装飾的側面は必要ない。

1945年8月当時に生きていた人たちが採った選択が、真の意味で正しい選択であったのかどうかを判定する資格のある人は、77年後のいま生きている日本人である。小生にはそう思われる。

日本人はGHQに洗脳されたのだと現時点においてなお主張する人もいるだろうが、オカルトじゃあるまいし、日本人1億人が戦後77年、ずっと米英に洗脳されていて、正しい判断ができずに来たと認識するのは、『もう何を言っても、意見、変えないようだネ』というタイプの人たちだけであろう。

実際、降伏後の日本において、日本国内で反GHQの武装闘争はまったく広がらず、その反対に"American Way of Life"(=アメリカ的生活様式)への憧れが日本人の間には広がったのである ― そもそも都市部においては戦争開始前からアメリカ文化が日本には流入していた。

ウクライナの未来が何となく想像できるではないか?



その時に政治家が行う集団的意思決定が、歴史の進展の中で正しい決定なのかどうか、その時点においては分かるはずがない。そもそも、正しいかどうかが直ちに分かるようなら問題は簡単なのだ。意思決定が正しいものであるのかどうか、それは2、3世代の長い時間を経たあと、同じ国の国民のみが判定できることである。

同じ意味で、いまウクライナが不利な和平を選ぶか、徹底抗戦するか、いずれを採るとしてもそれはウクライナの意思決定だが、その決定が正しいかどうかは、いま分かることではなく、例えば3世代も経過した西暦2100年頃にウクライナ国民がどう認識するかで決まることである。決定する世代と評価する世代は異なるのだ。まさに

行蔵こうぞうは我に存す、毀誉きよは他人の主張、我にあずからず我に関せずとぞんじそうろう

勝海舟が福沢の批判に答えたとおりである。

その時、リアルタイムで生きている人が行うべき意思決定は、その時に生きている人、ウクライナであれば4000万人超の国民にとって何が<人生の幸福>につながる道なのか。それだけである。将来のことは今は分からない。分かるのは足元の現在においてどうかということだけだ。そして、選んだ決定が本当に正しい決定であったのかを事後的に評価・判定するのは、現在の大人達ではなく、ウクライナで誕生したばかりか、今後生まれるだろう後世代のウクライナ人達である。

具体的に実存しているのは、《国の名誉》ではなく《人間の生命》であると小生は考えているので、昭和天皇のいわゆる「玉音放送」には感謝している、というのが小生の立場である。


2022年3月13日日曜日

ホンノ一言: 一つの失策が二つ目の失策を呼ぶ状況になってしまったか?

 米政府はウクライナへの軍事支援を強化する方向だ:

【ワシントン=坂口幸裕】米ホワイトハウスは12日、ロシアが侵攻しているウクライナへの武器支援を強化するため最大2億ドル(230億円)の予算支出を承認したと発表した。対戦車ミサイル「ジャベリン」や地対空ミサイル「スティンガー」などの追加供与を想定する。

米メディアによると、米軍が保有する武器をポーランドやルーマニアなど東欧諸国を経由して陸路でウクライナに届ける。バイデン政権が2月下旬に決めた3億5千万ドルの武器提供に続く措置になる。今回の2億ドルを含めると、過去1年間で米国による対ウクライナへの安全保障支援の総額は12億ドルに達した。

Source:日本経済新聞、2022年3月13日

アメリカがこのような外交姿勢を維持している以上、フランス、ドイツ(それに中国も?)がいくら外交的解決を目指してもロシアはウクライナ現政権を打倒するまで停戦を選ばないだろう。一般市民など非戦闘員の犠牲者が増えるばかりだ。

ウクライナのゼレンスキー大統領が支援をアメリカに要請しているから続けているに違いないのだが、まさか運命共同体などと思い込んでいるわけではないだろう。ウクライナに対する責任感が世界平和への責任感よりも優越しているならとんでもない考えだ。マ、いずれにせよ、今秋の中間選挙でバイデン政権の実績が評価される。

アメリカがとっている現在の外交戦略は視野が狭い。既に、ロシアの軍事力行使を単なる懸念から現実の侵攻に顕在化させた段階でアメリカ外交の一つの失策があった。一つの失策をリカバーする反射的反応は二つ目の失策を招きがちである。

英紙"The Guardian"には世界を見渡した時の見解の分布が記事になっている。世論調査などというミスリードを招きがちな数字に単純化はされていないが、単純化していない分、中身があり掘り下げた奥行きを感じさせる。末尾の主な部分を引用して覚書としよう。

But criticism of western double standards has not been limited to state media outlets in Russian allies.

An opinion article in the South African daily the Mail & Guardian called the conflict “soaked in contradictions”, criticising western media coverage and government responses that appeared to frame the war in Ukraine as worse than other conflicts outside Europe.

“Even as we deplore the violence and the loss of life in Ukraine resulting from the Russian intervention … it is valuable to step back and look at how the rest of the world may perceive this conflict,” it said.

“Fear of domination, potential enemies spur Russia’s invasion,” read a headline in the Guardian in Nigeria, reflecting widely held beliefs about perceived Nato expansionist aims in Europe being partially to blame.

Yan Boechat, a Brazilian journalist who is reporting on the humanitarian crisis from Kyiv, scoffed at the “cynical, hypocritical” tears being shed by the US secretary of state, Antony Blinken, over victims of the Ukraine conflict, given the carnage his country’s military had caused in Iraq.

“Under Obama, the US was just as cruel in Mosul as Putin. Nobody was left to mourn the dead. US planes killed them all,” Boechat tweeted, recalling how he had stumbled over body parts while reporting from the devastated Iraqi city six months after the war there.

“Unfortunately, cruelty, barbarity and injustice aren’t unique to Putin and the Russians,” the Brazilian journalist concluded. “Victims are mourned depending on the aggressor. [But] they are all victims: civilians who are Ukrainian, Iraqi, Syrian, Afghan.”

URL:https://www.theguardian.com/world/2022/mar/11/a-necessary-war-reporting-on-the-ukraine-disagreement-outside-the-west

Source: The Guardian, Fri 11 Mar 2022 00.30 GMT

"Western Hypocrisy"という非難を込めた眼差しが世界の中にはあることを知識として知っておいても無意味ではないと思う。この点に関連するかもしれないことを、本ブログでも一度投稿したことがある。



 

2022年3月10日木曜日

ホンノ一言: 「ウクライナ戦争」で核使用はありうる・・・これは無責任な煽りか?

日本国内のTV、その他のメディアでもロシアが「ウクライナ戦争」で戦術核を使用するかどうかで、世間の井戸端会議が結構盛り上がっているようだ。

アメリカのTVでもこれ程の頻度で話題にしているのだろうか?それに準・当事国である西側ヨーロッパ、例えばドイツ、フランスではどんな見方をしているのか?どうもこの何日かの日本国内のメディアの伝え振りは、まるで日本はアメリカの一部であるかのような色合いがあって、甚だ気色が悪い — それならそれでイイのだが、そうであればアメリカ国内の世論、見方を幅広くピックアップするのが筋である。

中には、太平洋戦争末期に米軍が日本の広島、長崎で現に原爆を投下している。だから、自国の犠牲を最小化するという戦争の論理がそろえば、いつでも核兵器は使用されうるのだ、と。だから戦術核の使用は十分ありうる、と。そんな自説を開陳するワイドショーのコメンテーターもいる位だ。

しかしナア・・・ちょっと待って、と:

太平洋戦争は、そもそも宣戦布告を行った(正式の)「戦争」であった。それに日本が宣戦布告よりも前に真珠湾を先に攻撃していた。日本から相手領土に奇襲攻撃をかけていたわけである。その後、4年弱の間、死闘を続け、最終盤では「特攻」という禁じ手に近い戦闘行為も敢えて採ってきた日本に対して、米国が最終的に選んだのが核兵器であった点を忘れてはならない。ソ連参戦が間近であるという予測の下で「1日も早く戦争終結にもっていきたい」という強い動機をアメリカ政府がもっていた点も重要な要素である。

今のウクライナの現状は太平洋戦争とは全く異なる。

現在の情況の下で、仮に戦術核をロシアが使うと、そのままロシアにとって負の情況が生まれるのではないだろうか。

具体的にいえば、

  1. ロシア自身、今回の武力行使を「ウクライナ戦争」とは言っていない。それどころか、ロシア国内で「戦争」と表現するメディアがあれば「フェイクニュース」の流布という罪で処罰するとの法をすら制定している。厳重な報道規制だ。
  2. 「戦争でない」と言明しているにも拘わらず、「核兵器」を使用するとすれば、戦争でなくとも核兵器を使用することがあると自ら認めることになる。
  3. ということは、戦時でなく平時であっても、例えばテロのような暴力を抑止するためにでもありうるわけで、そうなるとヤラレル前に核テロに訴える動機を反政府分子に与える結果になる。つまり、従来の「爆弾テロ」を超える「核テロ」が十分ありうるとして容認し、ロシアとしては受けて立つ。「核使用」を人道上の違法行為であるとしてその行為自体を非難する立場には立たない。こういう論理を採用しているとコミットすることになる。

これは正に《核廃絶条約》とは180度正反対の世界観であるが、このコミットメントはロシアに恩恵をもたらすだろうか、損害をもたらすだろうか?

勇気を超えて、野蛮、それよりは馬鹿であると小生は思う。チェチェン紛争以来の反政府分子を国内に多く抱え、今またウクライナ出身のテロリストまでも予想せざるを得ず、しかも核テロを警戒対象に含める、そんな社会状況をつくってしまうわけである。こうなることを覚悟せよとは、さすがにロシア国内に向けて言えないのじゃないかと、小生なら考える。危なくって仕方がないではないか。出来れば核廃絶条約に署名をする国でありたいと、既に恨みをかっている国民ならともかく、普通なら思うのじゃないか。

なので、核兵器を使うなら<戦時>に限定する方が自分の身のためではないかと思われる。

つまり

ウクライナとは<戦争>をしている

ロシアもそう認め、戦争を宣言する。ロシア国民にも告げるというステップが必要だと思うのだ、な。(常識的に、理屈としては)それが核使用の前提になるのではないだろうか。

一部には、ロシアは2月24日に『ウクライナに対して宣戦を布告した』と記述している記事もあるが、これは間違いだ。現在時点においても今回の派兵は<平和維持行動>であるという主張を変更していない(はずだ、もしもその後になって対ウクライナ宣戦を布告しているなら本稿は単なる言葉の遊びに過ぎない)。ロシアの肩を持つわけではないが、この点は既に国内でも報道されている。

プーチン氏の決定に先立つ23日、ロシアのペスコフ大統領報道官は親ロシア派武装勢力が「ウクライナ軍の攻撃を撃退するため」の支援をプーチン大統領に要請したと明らかにしていた。

(中略) 

プーチン氏は21日にウクライナ東部ドネツク州とルガンスク州の親ロ派が実効支配する地域の独立を一方的に承認したうえで、軍を派遣する方針を決めた。

これを受け、ロシア議会上院は22日、国外へのロシア軍派遣を全会一致で承認した。プーチン氏はウクライナ東部紛争の和平条件を定めた「ミンスク合意」について「もはや存在しない」と一方的な破棄を宣言した。

Source:日本経済新聞、 2022年2月24日 11:57 (2022年2月24日 14:24更新)

日本国内のメディアは「特別軍事作戦」と和訳しているが、ロシア上院が承認したのは、 これである。ウクライナ軍の攻撃を撃退するための支援を目的とする海外派兵であって、ウクライナを敵国とする「宣戦」ではない。ロシア国内で、「戦争」、「侵攻」という意味の言葉が使用不可になっているのはこのためだ。

確かにウクライナはいま「戦争状態」になっている。が、これを「ロシア‐ウクライナ戦争」と表現するのはアメリカを中心とする旧・西側諸国の目線であって、ロシアはそう言ってはおらず、中国も表現には慎重である。慎重であるからといって、ロシアの味方だというのは非論理的であるし、日本の敵だというのも軽薄だ。そこまでアメリカと一心同体になって踊る必要はない。日本は日本で考えればよい。「戦争状態」である事実が重要であって、それが「戦争」であるのかどうかは、当事国の政治家の「ものも言いよう」の事柄になる。

ところで、《戦争》は、絶対王政時代ならいざしらず、近代"Nation State"においては国民全体として引き受ける国家的行動である。故に、戦争遂行には国民の了解と覚悟が不可欠だ。例えば、アメリカが外国に対し<戦争>を宣言する権限は、最終的には議会が有している。これも同様の理屈だろう。

ということは、ウクライナに対する宣戦布告を改めて行わないとしても、ロシア国民に対するプーチン大統領の何らかの戦争宣言ないし議会に対する宣戦要請があり、ロシア側が予備役を召集し<総動員体制>に移るとすれば、その時点からこそ、ロシアは《対ウクライナ戦争》、あるいは(ひょっとしてそれから派生する)別の戦争を国としても覚悟した、と。従って、それ以降はロシア国家の生存のために<核兵器>の使用が十分ありうる。こう考えるのがロジカルだと思う。

ただ、仮に核使用の前提が成立する状況になったとしても<使用の確率>は高いのだろうかというと、やはり疑問がある。簡単に言うと、核兵器を用いることによって敵国(=ウクライナ?)を打倒すれば、眼前の「絶対戦争」には勝利を得られるだろう。しかし<勝利>は、勝利するが故の国益が巨大であると期待できる時にのみ意味がある。ロシアが「これ以上苦戦をしたくない」というこれだけの理由でウクライナ戦で核兵器を使うとすれば、より長期の、より厳しい国際的制裁が待っている。これが分からないはずはない。太平洋戦争末期のアメリカの立場とは本質的に異なるのだ。更に、ウクライナを相手にしてすら核兵器なしで勝てないというロシア軍の弱体さが露呈するのは政治的失策である。第3次世界大戦を覚悟せずにロシアが軍事行動を起こすのは困難になる。つまり軍の弱体が露呈した以降、「脅し」は「空の脅し」、「張り子の虎」になる。本当に世界大戦になればロシアは(負けないかもしれないが)決して勝てない。つまり軍事的脅しによってロシアが利益を拡大できる機会はもう訪れないというわけだ。ロシアがロシアの国益を自ら毀損するこんな阿呆な選択はしないだろうと、(理屈としては)そう思われる。故に、ロシアは何としてでも通常兵力のみによって「紛争終息」にまで持っていこうと考えているはずである。

逆に考えると

プーチン政権が<戦争>ではないと強調しているにもかかわらず、ロシア国民の了解を得ることなく、大統領個人の判断でウクライナに対して核兵器を使用する場合、その事実をロシア国民に(何らかのチャネルを通して)伝えることが、旧・西側諸国にとっての有効な作戦になりうる可能性がある。であれば、こんな弱点を自らつくる愚策はプーチン政権なら採らないだろう。

こういう推理も成り立つだろう。


今さら敢えて書くまでもないことだが、念のために加筆しよう:

プーチン大統領が強調する「戦争ではない」という点だが、世界中に広がっている義憤はこの欺瞞に対するものだろう。というのは、もしこれが「戦争」ではないとすれば、今回の「侵攻」は単なる「領土侵犯」である。またいま行われているのは「戦争」ではなく「殺人」である。不思議なことに、この矛盾を指摘する専門家は寡聞にして知らない。不思議だ・・・

やはりプーチン大統領は、国連憲章を無視してでもウクライナに対して「宣戦」するべきであった。しかし、多分、開戦するための《大義名分》がなかったのであろう。

東ウクライナの親ロシア政権からモスクワに軍事支援を要請し、集団的自衛権発動に基づいてまず東部地域に限定して侵入すればよかったのだ ― 旧・日本陸軍の関東軍ですら満州事変で軍を動かす際には《柳条湖事件》を自作自演し、先に動いたのは中国側であるとする大義名分を捏造していたのだから。ロシア政府・・・満州事変を研究してなかったんだネエ。北京政府の方が親ロシア政権承認を受けて『これではまるで満州事変じゃないか』と衝撃を受けたというから、まだ中国の方が勉強しているようだ。やはり以前の投稿のように今回の事変は「ロシア版の文禄・慶長の役」というところか・・・ヽ(´Д`;)ノ

さて、今日の投稿、どうまとめるか・・・

現状はといえば、プーチン大統領自ら、今回の武力行使は<戦争>ではないと何度も強調している。というより、ウクライナ紛争の現状がロシア国民にどのくらい正確に伝えられているか疑いがある。プーチン政権がロシア国民にウクライナの情況を隠蔽しているとすら言われている。であれば、「ウクライナとの戦争に立ち至った」としてロシア国民の理解を得るのは難しいのだろう。である限り、「戦争」にはできず、従って「戦時」にもなりえず、故に「核兵器」の使用もない。そんな推理になるのではないか。

但し、ロシアとウクライナとの<武力衝突>にNATOが軍事力を行使してウクライナ側に加担、紛争に介入するとなると、これをロシアが「ロシアに対する戦争行為」であると認識し、NATO側に対して《宣戦布告》をする可能性はある。仮に(万が一)そんな事態になれば、文字通りの「戦争」になる以上、勝利を得るためには核兵器が使用される確率が1に近くなる。ほぼ確実に核兵器が使われる。そう予想しなければならないだろう。一定の利益を追求する「限定戦争」はありえず、生存をかけた「絶対戦争」となる。つまり《第3次世界大戦》である。

ロジックはこうなるのではないかと思われたのでメモする次第。





2022年3月9日水曜日

ホンノ一言: (長期的には)中国の一人勝ちになっていくようで・・・

こんなことを言う政治家がいるとする:

国民が楽に暮らせて、毎日を楽しく送れる国にする。これが政治家の仕事で、これ以外に政治家の為すべき事はない。

外交も防衛も全てこれに行きつく・・・

もし、上の「国民」を「アメリカ人」に置き換えると、意味は"America First"になるので、トランプ前大統領の言であるとしても十分通じるかもしれない。

で、実は小生の政治観は上の表現に凝縮されているのだ、な。古代中国以来の《鼓腹撃壌》の政治哲学に通じる所がある。政治が相手にするのは《現実》で、政治家は《言葉》におぼれてはならない。

なので、

日本時間の8日夕方、中国の習近平国家主席は、フランスのマクロン大統領、ドイツのショルツ首相とオンラインで会談しました。この中で習主席は、「ドイツやフランスなどと意思疎通を続け、各当事者の必要に応じて国際社会とともに良い役割を発揮していきたい」と述べました。 これまで中国はロシアとウクライナの間に入って直接仲介役を担うことには消極的な姿勢を示してきましたが、国際的な枠組みの下では仲介の一翼を担う可能性に言及したものです。 また、ウクライナへのさらなる人道支援の必要性を訴える一方で、アメリカなどによるロシアに対する制裁については「世界の金融やエネルギー供給、サプライチェーンなどの安定に衝撃を与え、世界経済の回復の妨げとなる」と述べ、反対する考えを強調しました。

URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/4500fc10ff74d026b25bebad2ff647c199b4152e

Source:Yahoo!ニュース、3/8(火) 21:43配信

Original: 日テレNEWS

正直なところ、小生は上のような政治姿勢に全面的に賛成である。

少なくとも、世界が「返り血」を浴び続けてもロシアへの経済制裁を断固徹底すべしというアメリカの戦略は<アホ>だと考えている。 

どうやらアメリカ単独でロシア産石油の禁輸に踏み切る模様で、欧州も同調するよう働きかけてみたものの、イギリスはともかく、フランス、ドイツは『とてもじゃないが着いて行けない』となったようである。

思うのだが、今回の戦争の根本原因はNATOが対ロシア(ソ連)敵対視の上に立って組織化されている所にある。ウクライナがヨーロッパとの交流を深めたいという気持ちを踏みにじる権利がロシアにないことは分かりきっている。しかし、ウクライナ国内に米軍基地が出来て核兵器が配備され、ミサイルはロシアの方向を向く、などという見込みになればロシアはそれは危機感を抱くだろう、と。例えば、もしも韓国が米国との軍事同盟を解消し、親中路線に舵を切り、なんと釜山には中国海軍の軍港ができて、南岸沿いには中国・人民解放軍の基地が出来て、核が配備され、ミサイルは沖縄、西日本、東日本、北海道に向けられる・・・という見通しになれば、これを推し進める韓国政治に介入しなければならないと、日本、そしてアメリカ政府も考えるのではないかと想像されるのだ。状況は似ているだろう。

故に、今になってから和平協議を行うなら、ロシアとは侵攻前に協議をし、意思疎通に努力するべきだった。それをせず、かといって参戦もせず、軍事支援を無期限・無際限に行うのは、下策である。もしも中国が対抗してロシアに軍事支援を開始すれば、アメリカはどうする計画なのだろう。中国の出方を読み誤った朝鮮戦争時の失敗をアメリカは再び繰り返すかもしれない。

要するに、

ウクライナがNATOに加盟するとしても、ウクライナ国内に核兵器は配備しない。基地を設けるとしても米軍が参加することはない・・・等々

こういう軍事的緊張を緩和するための何らかの「NATO‐ロシア‐ウクライナ覚え書」を交換し、更に「ロシア‐ウクライナ不可侵条約」を締結しておれば、ウクライナがEUと親密になりたいと言うその事だけで、ロシア側が巨額の経済的コストを負担しても軍事侵攻を選ぶという政治的動機はかなり弱まっていたであろう。

有名な名句だが

戦争は政治の延長である

と述べたのはクラウゼヴィッツである。国連は戦争を否定しているが、しかし戦争に打って出るかどうかが政治的決断の一つであるという現実は昔と変わらず目の前にある。

今回、ロシアのウクライナ侵攻を現に招いてしまったこと自体が、ロシア、欧米、ウクライナを含む関係国による《政治的失敗》であるのは確なことだ。

経済制裁の拡大、ウクライナへの軍事支援の拡大は、最初の政治的失敗をリカバーするための努力に過ぎない。そして、これ自体が更なる政治的失敗になりつつある。

上に引用した習近平の発言は政治家が当然持つべき真っ当な見方であるように小生には思える。<長期的に>ロシアは確かに打撃を被るだろうが、同時に<長期的>にはアメリカを断固支持する勢力も時間と共に弱体化していくのではないかと予想する。

 


2022年3月8日火曜日

断想: 英米の対ロシア強硬策に落とし穴はあるか?

結局、ドイツ・フランス間の溝は21世紀の今もなお在ることはあるのだネエ、と最近感じることが多い。

対ロシア石油禁輸措置をアメリカ主導で進めているという報道だ。ロシア産原油を旧・西側市場から締め出してしまえば確かにロシアには打撃だ。米政府は欧州にも同調させようと英仏と話している模様だ。

しかし、SWIFT排除措置の中でロシア産天然ガス輸入は(当面)「お目こぼし」してもらいつつ、「エネルギー政策の再構築」を早くやれとプレッシャを受けている肩身の狭いドイツに、今度はロシア産石油も買うな、と。

これではまるで

ロシアと仲良くしたお前たちドイツが悪い!少しは辛い目にあって反省しろ!!

東アジアの外野から観ていると、旧連合軍がこう言っているのと同じなように思えたりする。なにやら英米にドイツがシバカレテイル、こんな感覚がある。

EUを隠れ蓑にして旨い汁ばかりすすりやがって・・・

と言いたいのか、と。ホント、旧東ドイツ出身であったメルケルさんが引退すると、早速こうなってしまう。

そしてこの感覚は、ここ日本という国のポジションを考えても、他人事ではない。結局、旧・敗戦国はこんな時にやっぱりツケを払うんですネ、と。こんなロジックがその内に強烈にきいて来るような懸念もある。

国連の組織改革が、何よりも重要だと考える次第。

アメリカはシェールガス、シェールオイルを増産すれば何の問題もない。イギリスも北海油田を持っていて「苦しゅうない」だろう。フランスは「原発重視」だ。英米は寧ろ対ロシア禁輸でビジネスを拡大できる。ドイツは、陣営から言えばアメリカ、イギリスからエネルギーを調達するべきなのを、LNGは高価だと文句をつけて、こともあろうにロシアからパイプライン経由で安価なガスを調達してきた。しかも調達を増やそうとしている。怪しからんという感情が英米のホンネにあってもおかしくはない。

この亀裂が深刻になっていけば、最終的にはドイツがEUには(留まれるなら)留まる一方で、ソ連・ロシア敵視で発足したNATOからは脱退。ロシアとは(ポーランド、及び親ロシアのベラルーシを語らって)

独波ロべ四国不可侵条約を締結する 

こんな方向へ進んでいくかもネエ・・・だって、NATOに入っている事で却って怖いことが分かったでしょう、と。そういうことである。

ドイツ、ポーランドがそうすると、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアもNATOから脱退してこの新体制に追随する。出来るのは《中欧共同平和機構》でそれに何とロシアも加盟する!これは吃驚だ!イヤ、ロシアは核を持っているから、ヤハリNATOとの手前、「平和機構」へは加入するのは無理かも。しかし、この方が西欧、中欧、ロシアと並んで、却って<皆さん安心>でしょう、と。それにロ軍基地はロ国内にのみ限定するなら西欧のフランス辺りもウェルカムだろう。これ要するに、ハプスブルグ帝国ありし時代からずっと続いて来たヨーロッパ大陸のパワーバランスに戻るということでもある。

西が安定すると、ロシアは東へ向かい、中国はそれを嫌うのだが、もうそこまで面倒は見切れない・・・・

やはり

ヨーロッパの平和にアメリカは招かれざる客である。

米ソ対立がいまは米ロ対立になっているのだが、ヨーロッパを戦場にするな、対立するなら極東のベーリング海峡越しで対立しろ、と。結局、こういう事かネエ、と。

所詮、地元の人々は勝手なのである。戦乱なく毎日を送ることが最も大事なのである。ヨーロッパ人がホンネで「共有するべき価値観」を信じているかなど、疑わしい限りだ。そもそもヨーロッパ人はキリスト教ですらプロテスタントを誕生させて「宗教改革」をやったんですぜ。「価値観」なんて、「平和な世を創る」という目的の前では枝葉末節でしょう、と。

理念や主義などは言葉の世界。不便なら変えればイイし、なくても暮らしには困らない。

戦争と平和は目の前の現実の世界である。生きるか死ぬかの問題である。

そう考えるこの冬である。

亡霊のような《独ソ不可侵条約》が現代的な衣裳をまとって蘇る確率はゼロではない。その昔、ヒトラーは独ソ不可侵条約を破り「バルバロッサ作戦」を発動したことで最終的敗戦への道を歩むことになった。今度はもう破約はないだろう。

2022年3月6日日曜日

断想: コミットメントの出し惜しみという戦略的失策

 何度か投稿した記憶があるが、幕末の天才的軍略家・大村益次郎は

軍はタテに育て、ヨコに使うものである

と語ったそうである — その出所を知っているわけではないが中々の名言だと思っている。

《コミットメント》というゲーム論における術語は、これも何度か投稿してきたが、こちら側の揺るがぬ意志を伝えることによって相手が選ぶ戦略を条件下の最適戦略へと変更させるのを目的とする。

例えば、いま「ロシア‐ウクライナ戦争」がロシアの先攻で開始されているが、開始された後、旧・西側諸国は対ロシア経済政策を順次強化し、またウクライナへの軍事支援も強化する方針であることを表明している。

確かにこれはコミットメントである。今後、<長期的に>ロシアに発生するであろう損失をロシア側に予想させ、継戦が割に合わぬ行動であると判断させる。これが目的であるには違いない。・・・しかし、損失が余りにも大きいことを予想させ継戦の無理を認識させるということなら、今すぐ、一方の交戦国であるウクライナへの軍事支援を止め、これ以上の継戦が無理であることを認識させる方がよほど早期の結果を期待できるはずだ。こうすることはロシアへのソフト・コミットメントとなる。ソフト・コミットメントはプラスの戦略的効果を期待できるケースがある。分析の余地はあるだろう。これをせず、ウクライナへの軍事支援を続けるということは、旧・西側があくまでもロシアに敵対する意志を伝えるタフ・コミットメントにあたる。一般的には、タフ・コミットメントは相手側も同じタフ・コミットメントで応じると予想する筋合いにある。タカ対タカの状況で膠着する見通しとなる。

コミットメントは、ある時は<言葉>であり、ある時は<行動>、あるいは<形>によって伝えられるものだ。


というより、ロシアが侵攻した後になってコミットメントを出すのであれば、ロシアがウクライナを侵攻する前に出してこそ有効であったろう。

侵攻前に出すと言うことは《言葉》で出すわけであるが、そればかりではなくアメリカ、EUの欧州委員会のみならずドイツ政府、フランス政府も開戦後のSWIFT排除を決定した旨を言明するなど、言葉を裏付ける《行動》、決定事項を明記した文書などの《形》を伴わせる必要がある。

実際には、ドイツなどはロシアのSWIFT排除には極めて消極的であり(これは当然である)、かつウクライナへの軍事支援にも本腰を入れてはいなかった。旧・西側の「言葉」はともかく、「行動」をみると、侵攻後に旧・西側が選ぶだろう戦略をロシア側がどう予測するかという段階でロシア側の予測にミスが発生していた可能性が高い。結果的にはこの<不正確>がロシアの侵攻を誘った。ロジックとしてはこう解釈されるのではないか。

その意味では、旧・西側が事前に発するべき強いコミットメントを出さなかった。これは旧・西側諸国の戦略的な失策であると思われる。


例えて言えば、自社企業が得意とする製品市場にライバル企業が参入を検討している時、自社が先行して生産能力拡大投資を(言葉だけではなく)実際にスタートさせれば、ライバル企業はそれを見て参入するかどうか、あるいは参入するとしてどの程度の生産規模で参入するかについて計画を再検討するであろう。しかし、ライバル企業が参入に必要な設備投資を実行してしまってから、時には現実に参入されてから、自社が能力拡大投資を(急いで)行っても、ライバル企業は既に投入した投資資金を取り返すことはできないため、参入を断固実行し、投下した資金に見合うリターンを得ようとするだろう。その結果、自社も拡大された生産能力をフル稼働し体力勝負の安値競争に打って出る展開を余儀なくされる。そして誰もが避けたかった過当競争に自社、競合他社全てが陥るのである。むしろ参入された後に自社が行った無理な拡大投資は自社の経営にとって致命的な損失になった・・・というのが、ビジネススクールではよくとり上げられる市場競争のゲーム論的解説である。


ロシアの失策は、旧・西側の失策の上で発生したものである、とも言えると小生は考えている。ロシアが理論的には不合理な戦略を選択した以前に、旧・西側も理論的に悪手である選択をしている。

西側・東側双方の失策によって事態がこうなった以上、血みどろのチキンレースは回避するべきであり、安全保障の観点からリスク・コントロールの最適化を優先させるのが合理的である。事後になってから強硬な言明と措置を連発し、互いに返り血を浴びながら巨額の損失を被ること数カ月に及べば、払った犠牲に見合う成果に社会は固執し、勝敗をつけようとして世界は袋小路に入るだろう。後世の歴史家は — 「後世」という時代がひょっとしてやって来ない怖れすらあるが ―

2020年代という時代は「人材不足」というかマトモな政治家がいなかった

こんな評価をすることだろう。

昭和20年夏の日本ではそれまでに払った犠牲に申し訳なしと言いつつ<本土決戦>に固執した軍部を押さえ昭和天皇が英断を下されたお陰で国民は助かった。「善意から出る失策」というのは時にハタ迷惑で困ったモノなのである。


・・・こう書いてくると、なんだか

結局、アメリカのバイデン政権がもっとシッカリしていればなあ・・・でも、イギリスがEUから出ちゃったしナア、ということか

という話しになるのだが、この辺はもっと材料が集まってから外交専門家が議論するだろう。

2022年3月4日金曜日

前稿の続き: ロシア‐ウクライナ和平へのチャンスはどうすればよい

 「ロシア‐ウクライナ戦争」は、せいぜいが「三日間戦争」、長くても「七日戦争」で一先ずは終了すると予想していたが、世界も驚いているようになおも進行中である。


ロシアが一層強硬な姿勢をとっていることもあるが、ウクライナ国民に対して『銃をとって国を守れ』と戦意を発揚したゼレンスキー大統領も、多くの民間人・非戦闘員犠牲者が出てしまった今の段階になって「実質的降伏」をするという決定をとり難くなっている(はずだ)。《振り上げた拳の落とし時》を見失っているのではないか、と。こうも推察できるのだ、な。

この理屈はロシア側にもあるわけで、(前稿でも触れたが)既に旧・西側諸国による《広い意味での参戦》 — 国連の決定を待たない経済制裁発動と軍事支援は広義の意味での参戦と小生にはみえる ― によって、最前線のロシア軍に生じた直接的犠牲に加えて、対ロシア制裁を通じた間接的な損害を既に蒙り始めている。

つまり、ウクライナの犠牲が拡大している一方で、ロシア側にも犠牲が拡大しつつあるのである。


だとすれば、既に払った犠牲に値する成果を確保しようと考えるのは、当然の選択、当然の意志であって、このロジックは犠牲が拡大すればするほど、《継戦への意志》が強硬になる、と。こう考えるのが筋道であろう。

つまり、旧・西側諸国がウクライナを支援するという名目でロシア側に損害を与え続ける正にこの行動によって、その損害と等分の犠牲をロシアはウクライナに与え、犠牲に値する成果をウクライナから得ようとする誘因が働く。のみならず、軍事支援を継続することにより、そうした行為がロシアに敵対する「戦争行為」であると解釈され、ロシアを全面的な戦争へ駆り立てる誘因としても働く。これ即ち、「第3次世界大戦」を善意の積み重ねによって意図することなく招いてしまうというリスクである。


中国流の「春秋の筆法」ではないが、ウクライナに多くの犠牲をもたらしている要素は旧・西側諸国による軍事支援と経済面でのロシア制裁である、と観るのがロジカルな現状説明であろう。つまりウクライナが採っている戦略が自らにはね返っている。そう考えるのが正しい。戦争というのは、そもそもそういうものである。

旧・西側諸国は、ロシア側に余りに過大な犠牲を甘受させることを止め、リスク・コントロールに意を払うべきである。軍事支援と経済制裁をこれ以上レベルアップすることはない、無期限かつ無際限に支援を続けることはない、と。こうした《コミットメント》が鍵となる。当事国の一方の勝利を望む支援であっても《限度》を設けることによって、《ペナルティ》としては十分な役割を果たす。無期限・無際限のペナルティを与えようとする行為は実質的には《参戦》にあたると小生は思う。例えば日中戦争当時、英米両国は中国・国民党と共に実質的には参戦していたと日本は認識していただろう。

「戦争」は敵対国に対して勝利を得るためのあらゆる努力を含むものであって、戦争への参加は戦闘の有無で区分されるバイナリーなものではない。適切なコミットメントを言明することで戦争当事国ではなく第3国の立場に立つ意志を示すことは、ロシア、ウクライナ両国政府の思考と意志決定に影響を与え、和平への触媒となるだろう。ロシアには安心を与える一方、ウクライナには当面の撤退を促すべきであろう。

マア確かに、情においては、また常識において、ウクライナ国民には悲痛な感覚を覚える。しかし、仮にウクライナにとって不幸な戦争終結になるとしても、その恨みは結局ロシアに戻って行くのである。おそらく、英国が「アイルランド共和国軍(IRA)」の爆弾テロ行為に手を焼き、悩みはてたように、長い年数にわたってロシアは今回の軍事行動のツケを払うであろう。

懲罰的な占領政策を実行しなかったアメリカの同盟国に日本がなり、そのことに多くの日本人が不幸を感じていないのは一つの歴史的証拠である。その国の国民の運命は戦争当事国が決める事であり、(どれほどそれが正しいと思われようが)外国が外国の立場から介入してはならない。


2022年3月3日木曜日

断想: 第3次世界大戦の危機・・・戦時中立の原則と軍事支援について

本日投稿の主題は《無抵抗平和主義》についてであって、問題意識としては森嶋通夫氏がずいぶん以前にとりあげた論点の現代的意義ということになる。

日本の江戸・旧幕時代の紛争処理原則は《喧嘩両成敗》であったのは誰でも知っているはずだ。その原則が「松の大廊下事件」では採られなかったことで、浅野家旧家臣の怒りをよび、一方の当事者である吉良上野介を殺害するに至ったが、それは「殺害」ではなく「義挙」であると正当化する論拠としてこの「喧嘩両成敗の原則」が使われたのだった。即ち『忠臣蔵』であるが、これを武士道としてかえって称賛したのは幕閣による事後的欺瞞であって、実質は将軍綱吉が採った「是は是、非は非」という儒教的論理に基づく裁決に対する暴力的抗議行動であった。

現代社会の司法では「喧嘩両成敗」の論理は採られていない。民事裁判は例えば事故処理では当事者の「責任割合」で結論を出すが、それは金銭的補償額を責任割合に応じて連続的に算定できるという点も与っているだろう。それに対して、刑事裁判は刑罰を課すか課さないかという判断から始まる。そもそも被害者と加害者の二項対立構造の下で有罪か無罪かを判決するという二択論理になっている点が本質的に異なる。刑事事件では、喧嘩両成敗ではなく、どちらがどの程度まで悪いか、という法理によって裁くわけである ― 「情状」という調整的要素が最後に考慮されるにしても、「互いに悪いことは悪いヨネ」という論理は採らない。

この刑事裁判的ロジックを現代社会に生きる我々は当然のこととして使うことが多い。が、この思考方式が唯一の方法ではないことを知っておくのは意義がないとは言えないだろう。

紛争発生時において、必ず片方が悪く、片方は善いという思考が共有されてしまうと、敗者の側には無限責任が生じ、勝者の側は損害賠償請求権の行使によって損失をゼロに出来るという理屈になる。誰もがそう考え、そう予想する社会になる。

だから、いったん紛争当事者になってしまうと、勝つことが最優先すべき目的になる。

「生産要素」ならぬ「戦争要素」なるものがあるなら、勝つためには紛争の勝敗に寄与する《戦争要素(=Factor of War)》を敵よりも多く投入すればよい理屈になる。多くのアウトプットを得るには《生産要素(Factor of Production)》を多く投入しなければならないという論理と同じである。

そして、戦争要素とは、一つにはマンパワー、一つにはマネーだというのは、労働と資本が生産要素であるという論理と相似の関係にある。経済の労働と資本は、戦争では兵と装備になる。どちらもマネーがいるが、軍事予算で勝敗が決まりがちであるのは企業規模で競争優位が決まる傾向があるのと似ている。

確かに、軍事予算と戦費調達力は戦争の結果が決まるうえで重要だ。しかし同時に、企業の経営資源としてステーク・ホルダー全体が重要であるのと同じ意味で、戦争でも同盟国や支援国などネットワークの広がりもまた戦争要素の一つである。

つまり運命をともにする仲間としての《連帯》である。

いま進行中の《ロシア‐ウクライナ紛争》(ロシア‐ウクライナ戦争ではない)でウクライナが対外発信に注力しているのは、軍事力、戦費調達力においては劣勢なウクライナが「世界との連帯」という戦争要素を蓄積するためである。

これも一つの戦い方である。同じ戦略は、満州事変から日中戦争を通して中国国民党が日本に対して用いたことがある。1930年代から日本は軍事力行使による直接効果を重用したのに対して、中国側は対米外交に力を注ぎ、国際世論と連帯する努力に多くの資源を注いだ。国際世論を通して日本の意思決定に影響を及ぼそうとするリデル=ハート流の間接的アプローチである。これも日中戦争で二国がどう戦ったかを表す実相であった。

大事なことは、この一週間でロシア、ウクライナ間で実際に戦闘が現に行われているという事実である。無抵抗な国を攻撃側が一方的に侵略しているわけではない。現に両国は戦っている。つまりロシア、ウクライナ双方とも《戦争状態》にある。事実として「戦争をしている」という点がポイントである。

こう理解しているのだ、な。

戦争をすれば「勝利」か、「敗北」かのどちらかしかない。刑事裁判のロジックだ。敗北は全てを失うことを意味するが故に、可能な限り戦争要素の投入を増やそうとする。

思うのだが、紛争当事者がこのような《勝敗のロジック》を前提にすれば、本質的には地域的で小規模な争いが、「連帯」という名の下で紛争関係区域が拡大するリスクがある。紛争の直接当事者が「連帯」を広げようとする動機があるからだ。そうした危険がグローバルに拡大するリスクがある。

これに対して、もしも全ての紛争に対して、喧嘩両成敗のロジックを適用すれば、一方の紛争当事国と連帯し、自らも紛争当事者になるという行為自体によって、確実にペナルティが課される結果になる。ここから

江戸・旧幕時代の「喧嘩両成敗」のロジックは「紛争局地化」の論理である

そう思いついた次第。

但し、この論理は紛争当事者両側に対して確実にペナルティを課すことが出来る「絶対的権威者」が存在しなければならない。江戸時代ではそれが幕府(=公儀)であり、将軍であったわけだ。日本で求められていた存在は何よりも「紛争裁定者」としての「将軍」である。そうした絶対的司法機関がない状態では、例え紛争当事者になるとしても、その行為自体によって罰されることはないと予想する。だから、自己利益拡大の動機に沿うならば、紛争当事国の一方に連帯して、加担するという選択肢が生まれる。勝つか負けるかという二項対立的な処理フレームの下では、どちらの紛争当事者も自分が勝利をおさめようと無際限の戦争要素を投入しようと努力する。そうして、紛争の規模はグローバルに拡大するのである。

第3次世界大戦の危険を怖れるロジックはここにある。

こういうロジックもあると思いついた次第。

「ロシア‐ウクライナ戦争」と世間では言われるようなっているが、実際にはまだ「戦争」ではない。どちらも「宣戦布告」をしていないからだ。故に、ロシアにとっても、ウクライナにとっても現在の武力紛争は「戦争」ではない。ちょうど日中戦争が「日華事変」であったように単なる「事変」である。

もしも正式(?)の「戦争」であれば、敵国を支援する者は自動的に「敵国」となる―但し、自動的に敵対行為をした第三国に「宣戦」を布告するというわけではない。

かつては《戦時中立の原則》があった。日中戦争が「戦争」ではなく、その当時の両国が「事変」と呼んでいた理由は、これを「戦争」と認めれば、アメリカは自動的に「中立」を余儀なくされ、戦争当事国である日本、中国双方への利益供与が不可能になる、例えば石油輸出などが行えなくなる、このような《戦時中立の原則》をアメリカ政府が採っていたためである。

現在、旧・西側諸国はウクライナへの武器供与など軍事支援を続けている。これを紛争当事国であるロシア側からみれば「敵対行為」に該当する。従って「敵国」となる。この法理は現在もなお有効なのではないか、と。この辺り、どの程度検討されているのだろうか?そんな疑問を感じている。加えて、「経済制裁」は、それ自体として武力行使なき戦争行為である、というのが20世紀を通して当該分野で議論されてきたと小生は記憶している。いま、経済制裁がロシアに対して行われ、ウクライナには軍事支援が続けられている。特定の国々によって、である。このような行為は、一方の当事国であるロシアが「戦争における敵対行為」であると解釈するとしても、それは論理として認められてしまうのではないか。事実としては「戦争状態」がそこにはあるのだから。

但し、そのロシア自身がウクライナと「戦争」をしているとは言っていないのであるから、旧・西側諸国の支援行為も戦争に参加しているわけではない、と。だから旧・西側はロシアの敵国ではない、と。こういう説明の仕方もある。しかし、実践レベルにおいて、こんな理屈が機能するかどうか、極めて微妙だと思う。

実際には、ロシア軍側に多数(?)の《戦死者》が発生し、ウクライナ側の「戦意」は高く、ロシア兵を戦場において殺害している。事実としては「戦争状態」にあると認定するのが道理ではないか。とすれば、既にウクライナ側に立って支援しているのであるから、旧・西側諸国はロシアの「敵国」である、というロジックをロシア側が主張するとして、どう反論できるのだろう?広義の意味の「戦争」だとロシアが解釈すれば「戦争行為」に及ぶ権利があると考えるかもしれない。そんな権利がロシアにはないと、ロシアもそれは分かっていると、そう旧・西側が予想するとしても、相手も同じように考えるという保証はないはずだ。

故に

第3次世界大戦への恐怖というここ数日の世界的不安には確かに論理的根拠がある。

この辺の議論は国際法の専門家の領分だろう。

当事国がどうアナウンスしているかは置いておくとして、現に「戦争状態」になっている以上、無抵抗のウクライナをロシアが軍事力を行使して占領、支配しようとしていると認識するのは一面的である。実際、ウ側は旺盛な戦意を示し、第3国から軍事支援を受け、かつ国際世論への働きかけを行い、第3国との「連帯」を拡大しようとしている。これらの行為はロシアの攻撃に対する反撃であり、(広義のというより正しく)「戦争行為」であると解釈されるのではないか。

こういう論点もあると思っていて、現時点では世界唯一の平和維持機関である国連が、今日の標題についてどう考えるのか、そこを知りたいと思うのだ、な。

いまのところ国連は平和維持機関として役に立ってはいない。旧・西側は広義の意味で戦争に参加しつつある。(広い意味の)当事国として「勝つ」か「負ける」かという目標を自らに課しつつある。平和維持のための仲裁は諦めたようだ。仲裁を期待できるとすればせいぜいが中国の北京政府くらいだ。しかしその北京政府ですら実は利害関係者なのである。かつて存在した「国際連盟」と同じ情況である。

いま役に立ってはおらず、仮に今後も役に立つ見込みがないのであれば、一体なぜ高額のコストをかけて国連のような国際機関を敢えて運営していく必要があるのだろうか?なくともよいのではないか?国連が提供している経済的な、あるいは教育・啓蒙的なサービスは個別の国際団体が担当していけるのではないか?あっても無用の長物であるなら、国連本体はなくとも困らないのではないか?近い将来、この問題意識が改めて世界に浸透するのではないかと思われる。

国連は「不戦」を原則とし「宣戦布告」と「戦争」を否定しているが、それでも戦争が勃発する確率をゼロにはできない。政治と紛争とはコインの裏表の関係にある。政治がある限り紛争はあるし、紛争があれば必ず政治が必要になる。つまり《戦争のルール》が要る。平和維持のための原理・原則が必要である。物騒な例えだが「果たし合い」が公認されていれば防止できる「殺人事件」がある。理屈は共通している。ルールが実効性をもつためには罰則が必要だ。国家主権は本来「交戦権」を含むが戦争を選択したこと自体によって予想するべきペナルティが核心的論点だ。このペナルティは《無抵抗平和主義》を一貫させる時にのみ免除される。この種の問題を議論できないなら、国連は究極的には無用の長物と化していくだろう。

ま、色々と調べてみるか・・・ 


2022年3月2日水曜日

ホンノ一言: 「ウクライナ戦争」・・・行司役に誰がなれるか

株式投資畑では今回のウクライナ事変で一人勝ちするのはアメリカであるとする向きもあるようだが、ひょっとすると総合的勝者は中国であったりする可能性も残っている。

最初からこの線があるのではないかという憶測、というか期待もあったようだが、今日あたりこんな情報も出て来ている:

 【北京時事】中国外務省によると、王毅国務委員兼外相は1日、ウクライナのクレバ外相と電話会談し、出国を始めた中国人の安全確保を要請した。

クレバ氏は「停戦実現のため中国の仲裁を期待する」と述べた。

 中国メディアによれば、1日、ウクライナ東部から西部リビウに向かっていた中国人の腰に弾が当たり、負傷して病院に搬送された。手荷物が軍事物資と誤認された可能性があるという。何者が発砲したのかは不明。

URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/3093806d0d28fef0fd97c92ec653d66a9f551998

Source:Yahoo!ニュース、3/1(火) 23:37配信

Original:JIJI.COM

ロシア中枢の意思決定に影響を及ぼしうるとすれば、中国トップの意向の他には何一つないのが現状だろう。

EUもNATOもロシアとの対決を覚悟してまで深入りする意志は最初からない。アメリカはそんなヨーロッパの姿勢を釈明材料に使っている。ロシア国内の世論に期待するのは無策の証明だ。ゼレンスキー大統領は自らの不注意のツケを払えないので他人を巻き込もうとしている。EU即時加盟への希望に冷水を浴びせられたいまの段階で中国に仲裁を依頼する報道が出てくるのはウクライナに一貫した理念がないからであろう。

仮に中国の努力で停戦に持っていければ、世界平和維持の第一の功労者は中国政府ということになる。ウクライナのゼレンスキー大統領は、これまでの態度を一変させ、ヨーロッパとアメリカの「不実」をクソミソになじり、中国の「誠意」を褒めたたえる事だろう。NATO加盟断念の代わりに中国が立会人になってロシア、ウクライナ両国を安心させる可能性すらある。

但し、中国への期待はウクライナ外相の意志でゼレンスキー大統領自身の意思とは違うのかもしれない。とすれば、ウクライナ政府内も割れているのかもしれない。ロシアよりの姿勢を示してきた中国に対してウクライナ国民の感情が悪化しているとも伝え聞く。

ここ近年の国際情勢と同じく、やはり今回も中国がキーである模様だ。パワーがあるというのはこういうことだろう。

日本国内の「悩みを深める中国」という報道ぶりは一面的に過ぎる。物事には全て表と裏がある。有利と思えば実は不利、不利と思えば有利に転じるのが浮世の道理だ。固定観念は害がある。

日本の大手メディアの品質は低い。メディアの主観的ストーリーに客観的情報をはめ込んで解説をしているようだ。偏ったイメージで洗脳されるのが心配だ。中国に空母「遼寧」を売ったウクライナに20億円を寄付する日本人の好意はどこか不思議である。メディアが先にこれを伝えないからかもしれない。


2022年3月1日火曜日

一言メモ: SWIFTから排除・・・マネタリーな要因は長期ではなく短期であるはず

ロシアを国際的決済ネットワーク"SWIFT"から排除するという制裁について、日本国内のマスコミでは

SWIFTからロシアを排除したからといって戦争を直ちに停止させるという短期的効果はありません。ただ長期的にはロシアに相当効いてくるはずです。

こんな理解の仕方が多いようだが、これはちょっと違うのではないかという気がする。むしろ正反対ではないかと観ている。

短期的にはロシアに意思決定の変更をうながす効果がある。しかし、長期的には効果が減殺されるであろう。そう考えている。

というのは、経済理論には古典的な『貨幣ヴェール観』という見方があって、ケインズの登場以後も、今なおそれがまったく間違いではないとされているからだ。

つまり、マネーを調整することによって、ヒトやモノの生産、雇用、分配、消費、生活水準、成長など経済の実質に対し長期的、本質的な影響を与えることはない、という見方である。

経済のあり方は各商品の相対価格を通して資源配分が決まるというリアルな要因で決まるものである。国内外の金融市場を通したマネタリーな手段によってリアルな経済をコントロールしようとしても、短期的な影響(≒短期的な景気変動)はひき起こせるが、長期的にその国の生産、成長、雇用などを変更することはできない。長期的には、その国の資源賦存、技術水準、人口と嗜好などリアルな要因によって成長経路が決まる。

もしマネーを調整することによって経済のリアルな状態を制御できるなら、日本の実質経済成長はもっと上がっていなければならない。実質賃金も低下傾向をたどるなどということがなかったはずである。金融政策を担当する日本銀行がいくら頑張っても、日本の潜在成長力をマネーによって高めることはできないという理屈である。

(特に)ドル決済ベースの貿易取引を阻害し、ルーブル経済圏(=ロシア国内と限られた領域)に混乱を生じさせるという手段は、マネタリーな制裁である。確かに、ロシア国内に金融的パニックが発生しているようで、これは金融的制裁による短期的効果である。しかし、マネーは所詮はマネーに過ぎず、リアルな商品流通は各国の各商品に対する需要と供給で長期的には決まってくるものだ。

例えば、SWIFTからロシアを排除することでドイツはガスを買い難くなる。便利な決済手段がなくなるからだ。しかし、ドイツがガスを需要するというリアルな要因に変化がなければ、SWIFT以外の手段によって必ずガスを買うはずであり、SWIFTが利用できなければ他の手段が拡大するだろう。

そのようなことはしないとドイツが決定すると言うことは、

ドイツがガスに対する需要を規制する

つまり、ガス価格暴騰、ガス公定価格の設定といった方向はおそらく採らず、《ガス割当制》などの数量規制を導入する可能性が高いという理屈になる。こうした政府による規制が正にリアルな行動変化ということになるのであって、この種のリアルな政策なしにSWIFTというマネー要因だけで長期的な効果を与えることはできないはずだ。

だから、SWIFTからの排除は短期的には効果がないが、長期的には効果がある、というのは厳密に言えば間違いである。その逆であり、今回の「金融的な核兵器」は、短期的効果(と中期的効果まで?)は期待できるものの、長期的には効果がない。他の代替手段が自然発生する。これも環境変化が誘起する(金融的)イノベーションである。事態の推移はそう観ておくべきであろう。

まとめると、SWIFTというマネー的要因を補完するリアルな市場規制政策が必要になる。

リアルな市場規制政策・・・数量割当て経済・・・つまり、旧・西側諸国も《準・戦時体制》を採るという理屈になっていかざるを得ないのだが、これを懸念している専門家が日本国内に一人としていないのは不思議で仕方がない。

思うのだが、今回の「事変」は、そもそもNATOという地域的軍事同盟に端を発するロシアとウクライナの地域的不和と紛争である。その不和がグローバルな経済的厚生の低下をもたらす、と。

これは非条理であると小生は考える立場にいる。

小生には、そうするだけの価値が見いだせない。価値を守るためだという人々が現にいるのは承知しているが、それはどこか

エルサレムを守るためには十字軍が必要である

こんな超越的な価値判断がそこには混じっている感覚がある。

昨日の投稿では

「価値」やら「主義」やらは地に足が着いた生活感覚の上になければならない。おしゃべりや見栄や高揚感では空腹もみたせない。人生とは関係のない代物だ。

最も怖いのは意図せずして、善意の行動を積み重ねる結果、世界大戦へと拡大することだ。だからルールを設ける必要がある。鉄則は戦争当事国の領域内に武力紛争を局地化することである。なぜそれを誰も発言しないのか、不審で仕方がない。事は世界平和に関するのだ。戦争状態が長引いて喜ぶのは軍需産業だけである。

こう書いている。

 その果てに、機能不全が続いている「国際連合」。これも拠出金が高いし、いざという時は小田原評定で役には立たないし、脱退国が続出するかもしれないネエ。

こうも書いている。

《長期的》にモノを考えるなら、ロシアに対するSWIFT排除の効果などで無意味なお喋りを電波を使って放送するのではなく、国連という(今のところ)唯一の平和維持機関の組織改革を力説するほうが、マスメディアの社会的役割を全うできるというものだろう。 

「SWIFT排除」など短期から長期にかけてどんな影響が出てくるか分からないような手段ではなく、《平和維持区域》の設定、《多国籍監視団》くらいは国連総会で議論するべきだろうと。そうなるように国際世論を高める程度の努力は、そもそもロシアに敵対的な英米豪加などファイブ・アイズ構成国ではない日本でも出来ることではないかと思われる。

最近の国内の世相は、遠い場所に発生した武力紛争であるせいか、他人事のような競技感覚が最初からアリアリと見えるばかりでなく、中身を理論的に考えてみようとしない愚かさがあって、久しぶりに唖然・呆然・慄然の3然を感じている。