2023年5月30日火曜日

断想: 歴史の授業を逆さまにしたほうがイイ勉強法になるという持論について

 カミさんはワイドショーもそうだが、クイズ番組も好きで、特に一部の教授達(?)からは「俗悪番組の典型」と非難されている<東大王>は大好きである。

今日も又、東大クイズ研OBが出演するのがあって、そこで「ン」の文字が入る米国大統領を10人挙げよという問題が出た。

(ワシントンやバイデンの名が挙がる中で……)

カミさん: リンカーンって大丈夫だよね…

小生:ンがつくからイイんじゃない?

(ハリソンやらトルーマンやらが出てくると)

カミさん: あと誰がいるんだろ?分かんないなあ…

(一先ず10人あがった段階で)

小生: ウィルソンを挙げないかネエ。

カミさん: ウィルソン?

小生: 知らないの??

カミさん: 知らない。

小生: ・・・「国際連盟」って知ってる?

カミさん: う~ん、聞いたことあるかなあ…

小生: 日本は国際連盟を脱退したんだけど、習わなかったの?

カミさん: 世界史の授業は最後の方はしなかったんだよネエ。

小生: 世界史?フ~~ム、ま、世界史でもあるけどねえ。

(食器を下げて二人で洗いながら)

小生: ネエ、ネエ、「満州事変」ってサ、知ってる?

カミさん: だから「世界史」はあまりやらなかったんだって。

小生: 日本がやった事件だよ、満州事変って。

カミさん: そうなの?

小生: 「鎌倉幕府」は知ってるよね?

カミさん: いい国つくる鎌倉幕府、1192年だよネ(笑)

小生: 大化の改新、覚えてる?

カミさん: 645年、中大兄皇子でしょ?その辺は先生、結構丁寧にやってくれたから。

小生: これまで何かの役に立ったことある?

カミさん: あるわけないでしょ!

日本史にせよ、世界史にせよ、学校授業の教え方は大体似たようなものだろう。そして、何の役にも立たないということも…。マ、学校の授業は役に立つべきなのかどうかは、これまでにも投稿したことはある(たとえばこれ)。

学校の授業が日常生活の役に立たないからと言って、非難するべきことでもないのではないか、もっと基本的な事柄の役には立っているかもしれないと述べてきたのだが、上のような会話をカミさんとするに至っては、やはり歴史常識の伝え方がどこか間違っているのじゃあないかという気にもなってくる。

小生とカミさんはこんな話をするからまだマシかもしれない。が、概ね800年前の鎌倉幕府の設立年は正確に(?)記憶しているが、満州事変はよく習っていない、というのは、歴史知識としてかなり奇形的で、ヤッパリ問題だと思うのだ、な。

歴史とは要するに「整理された記憶」である。肝心なことはどう記憶するかだ。

たとえばスケールを縮小して「家族」の場合、苦楽は様々であろうが多くの経験を共有することで、強い絆が形成されるものだ。その経験は、例えば去年の旅行であったり、3年前の運動会であったりする。思い出話を始めると、段々と過去に遡り、子供たちがハッキリとは記憶していない幼児の頃にまで話が及ぶこともある。そんな時、自分では覚えていない兄弟姉妹のエピソードを両親から聞くことで、同じ時間と空間を共にしてきたことを改めて実感するのが、家族という共同体の基盤になるものである。記憶という言葉と絆というリアリティが結び付く。ヤッパリ、歴史の勉強はどこかでリアリティとつながっていないとまずい。そう思われるのだ、な。クイズの材料になるだけでは駄目だ。

国民も同じではないかと小生は思う。


これは若い時分からの小生の持論で、友人たちに話すたびに『お前、何言ってんだよ…』と笑い飛ばされるのがオチであったのだが、それは歴史の授業は、先ずは大正・昭和からスタートし、次に明治に遡る。明治という時代の前には江戸・旧幕時代が250余年間あったこと。その江戸時代の前には織田・豊臣政権が短期間ではあったが、刀狩による武装解除、全国惣無事令による私戦禁止、検地による国勢把握、度量衡統一等々の重要政策を断行したこと。その織豊政権の前には室町幕府下の全国内戦状態があったこと……もちろん摂関政治から更に天平時代、大化の改新まで遡っても良いし、そうしたければ卑弥呼の時代まで遡及していっても良い。

こんな風に歴史を逆向きに学んでみてはどうか。その方が、

この時代に、なぜこんな事をしたのか?

自然に《歴史的問題意識》という現時点で最も大事な社会感覚が自然に共有されると思うのだ。というのは

どの時代も、何かを解決しようとして、解決したと思うと、次代になってその解決策が問題になるのである。

要するに、いまこんな事をやっているのは前の時代の反省、というか前の時代から渡された問題を解決しようとしているからだ。未来を向いた面もあるが、過去に縛られている面も確かにあるわけだ。しかし、前の時代は前の時代で、その前の時代から継承された問題に悩んでいた。大正時代は明治時代に、明治時代には幕末に、縛られていた。こういう風にすぐ前の時代に対する反省や束縛の下で、先祖は努力していたわけである。これが歴史的ロジックだと思うのだ、な。

今日の意思決定、行動選択においては、やはり直近の経験が最も役立つものである。過去に遡れば遡るほど、現在の行動、現在の結果とは直接の関連性はなくなるものである。この辺りは、まさに統計モデルの一つである《自己回帰モデル》と同じであって、今日の日本の現状に最も直接的に関係しているのは、やはり第二次世界大戦に敗戦してGHQによる民主化を経た後の「戦後日本」という時代である。とはいいながら、GHQによる民主化にも関わらず、継続された多くの側面が「戦前期・日本」の社会にはあったわけである。それは大正・昭和戦前期を勉強すれば自然に分かることだ。その時代の問題点がなぜ明治時代には顕在化しなかったのかという疑問は明治史を学べば分かってくる。

標準的な歴史の授業のように、過去から順に現在に向かって勉強すれば、過去から未来に向かう進化する過程として社会を見る姿勢につながる。理想を追う過程として歴史を観ることになりがちだ。つまり目的論的である。

確かに人間集団は社会を形成して、何かを目的にして行動するものだ。しかし、社会が全体として行動するための制度や思想、人的・物的資源など統治可能性の現状はそっくり前の時代から与えられるものである。理想主義的な目的を追求するよりは、過去から引き継いだ多くの問題に対処するためにエネルギーの大半は消費されてしまう。これもまた現実であろう。社会も人間も必ずしも<自由意志>のとおりには行動できないのである。過去は未来の原因である。そんな因果論によって歴史をみる見方、歴史の勉強法もやはり重要であろう。

目的論的に社会をみれば<自由>を何よりも重んじる姿勢になるし、因果論的に考えれば<宿命>、ひいては<神意>の働きを視ることになる。どちらが正しいかではない。どちらがその人の趣味にあっているかというレベルの話しだと思う。マ、実践的にいえば、両方ともやっておくに越したことはないわけだ。


だから、今でも《歴史遡及法》は小生の持論であり続けている。エジソンや野口英世の伝記も最後から第1章に遡って読むと、実に面白くて、偉人の人生が理解できるような気がする。

どう理屈づけても、鎌倉幕府が1192年に出来たという知識より、満州事変や日本の国際連盟脱退に関する知識の方が、現在の日本社会、東アジア世界を見るうえで、より役に立つ洞察力や理解力を与えてくれるのではないだろうか?


2023年5月27日土曜日

断想: 文字どおり『戦後は遠くなりにけり』の時代になったか

経済新聞である日経でもこんな報道をしている:

政府は今夏にも北大西洋条約機構(NATO)と協力関係の格上げに向けた文書を採択する。軍事連携に動くロシアと中国に対抗するための共通指針に位置づける。

Source:日本経済新聞、5月27日朝刊


今の国連は、第2次世界大戦の戦勝国が常任理事国として集団安全保障の中心的役割を果たすことで誕生し、世界に定着した。

国連憲章にいわゆる「旧・敵国条項」が今もなお残存しているのは、そのためだ。

Wikipediaでは以下の解説がされている:

敵国条項(てきこくじょうこう、英: Enemy Clauses、独: Feindstaatenklausel、または旧敵国条項は、国際連合憲章(以下「憲章」)で、1995年に将来的に削除することが国連総会で確認された「第二次世界大戦中に連合国の敵国であった国」(枢軸国)に対する措置を規定した第53条および第107条と第77条の一部文言のこと。

1995年の第50回国連総会(当時加盟国185カ国)で「時代遅れ」と明記され、憲章特別委員会で旧敵国条項の改正・削除が賛成155 反対0 棄権3で採択され、同条項の削除が正式に約束された。また、国連総会特別首脳会合で2005年9月16日採択された「成果文書」においても旧敵国条項について「『敵国』への言及の削除を決意する」と明記されたこれを受けて、外務省ホームページでは、本条項が死文化しているとしている。

常任理事国である中露の反対が想定されるために国連憲章改正自体は出来ていないが、上記の決議において国連憲章改正に必要な条件の一つである「3分の2以上の賛成」は示されている経緯などを踏まえて、一般的に「オブソリート(時代遅れ)」とされている。日本国としては「死文化」していると主張しているが、ロシア外務省は、北方領土に関連して国連憲章107条を持ち出してくることがあり、適用を試みる国は少なからず存在する。

ところが、米ソ冷戦の賜物である軍事同盟<NATO>にドイツやイタリアが入り、今またロシアがウクライナを攻撃している中で、日本がNATOと協力する、と。


世間では、色々なコメントをしているが、一つ言えることは、ルーズベルトやチャーチル、更にスターリン(や蒋介石も?)が戦争中に構想した平和維持体制は完全に崩壊した、というか歴史的役割を終えた。今後は先入観や偏見なき、つまり<リアリズム>という理屈になるが、そんな合従連衡が始まる。理想主義とは段々と疎遠になっていく……、こういうことなのだろう。分断化といわば言え、そんなことでもある。

確かにそんな時代もあったことを私たちは知っている。「戦後世界」の体制は死にかけている。ナポレオン戦争後のウィーン体制は30年程で崩壊した。Pax Britanicaも30年程たってから普仏戦争でドイツが勝利し峠を越した。19世紀末のベル・エポックも30年程で第一次世界大戦がはじまり崩壊した。欧州列強のBalance of Powerは1814年から1914年までの100年間持続し終焉したのである。

世界の構造は必ず変化するのである。「戦後日本」の体制も「よって立つ基盤」が構造変化する以上、「ポスト戦後世界」の中で「ポスト戦後日本」を造り上げるしかあるまい。

日本にとって損になるのか、得になるのか、日本の政治家の器が試されるときだろう ― 正直、ちょっと危うい気がするが。

憲法、同じままでイイんですかい?何しろ、明治のご一新以来、日本人は憲法をなおすなんてこたあ、一度もやったことないからネエ……大変さね。

明治から大正に移るころの「護憲運動」とポピュリズム、普通選挙導入後の政界スキャンダル続発で彩られる大正末期から昭和初期、その頃と類似の軌跡を辿れば、この日本国もおしまいでござんす、な。

【加筆】2023-05-30

 

2023年5月26日金曜日

ホンノ一言: 少子化対策財源=医療保険料引き上げ案に予想どおり出てきた異論

 今日の日経に

日本医師会や全国老人保健施設協会など12団体は25日、物価高騰や賃金上昇への対応を巡る合同声明を発表した。医療や介護は公定価格であるため、物価上昇に対応するには原資が必要だと主張した。そのうえで「少子化対策は重要な施策だが、病や障害に苦しむ方々のための財源を切り崩してはならない」として、対策に向けた財源論をけん制した。

声明では政府が6月にもまとめる経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)に、医療や介護分野での物価高騰と賃上げへの対応を明記することを求めた。政府が進める少子化対策の財源について「診療報酬・介護報酬の抑制などの意見もある」と触れ、財源としての活用には異論があることをにじませた。

こんな記事がある。 

前にも本ブログで投稿したが、

確かに年金保険料となると、国民年金保険料は(いまは)原則20歳から60歳の人が納付するだけである。厚生年金保険料は雇用されている勤労者だけだ。医療保険ならほぼ全ての日本人が入っているので負担を求めやすいのは分かる。

しかし、病気治療とは別の「子育て」が医療保険支払いの事由になれば、保険診療の公費負担の財源が侵食される。故に、医療の診療報酬が抑えられる原因になりうるのではないか、という懸念が出てくる。保険診療の対象拡大が抑制されることへの懸念も高まるのではないか。

なので、病気治療とは明らかに異なる「子育て」を医療保険で支援するという案には、日本医師会が(最終的には)反対すると予想される。そう観ているところだ。

4月1日付の投稿だ。

やはり日本医師会が異論を出してきた。 

選挙区の事情を考えると、医師会に立ち向かうほどの度胸は自民党にはないだろう。

そもそも、医療保険で少子化対策なんて、素人にも分かる無理筋ってものですゼ。

これでまとまるはずがない。


にも拘わらず、医療保険料で…というのは、オーソドックスな税負担を政治的思惑から禁句にしているからだ。

その理由は内閣支持率・自民党支持率を落としたくないからだ。

なぜ支持率を落としたくないかと言えば、近々選挙を考えているからに違いない。

いくら解散は考えていないと云っても、『語るに落ちるとはこのこった』と、そんなところでしょうか。極めて分かりやすい。


しかし、選挙に勝った後で、

保険料増額はやはり反対が多いから難しく、ここは王道にそって税負担をお願いしたい

そんなことを言っても、選挙前に明言したことを覆すのはヤッパリ無理筋だ。


どう予想しても、安倍政権時に定額支給金に所得制限を付けるかどうかで迷走して、当時の岸田政調会長が立ち往生したときと同じになるのでは……。そう思います。

2023年5月24日水曜日

ホンノ一言: 少子化対策の負担の行方を見通すと……

サミット広島は人によって評価が分かれているようだが、最大公約数としては「成功」と受け止める人が多い。これから世間の関心は、《解散・総選挙》と《異次元少子化対策とその財源》に移って来るに違いない。ワイドショーでは、もうそんな気配があって、色々なコメンテーターが喧々諤々の話しをし始めている段階だ。

ただ、この少子化対策(≒子育て支援)をまとめ切るには政治的に相当の力技と巨視的で、かつ蛮勇にも近い決断力が必要で、今の岸田首相はそんな性格とはかけ離れたキャラクターだと。遠くからの印象ではそう感じているのだ、な。

ま、この話しは前にも投稿したことがある。


それで、今日はホンノ一言だけメモとして投稿しておきたい。

TV、新聞、週刊誌等々のマスメディアで「異次元少子化対策の財源」を語るとき、多くの有識者が「増税の必要性」に触れるのは共通しているが、その具体案はというと大半の識者が「消費税」を挙げている。世間の風を読むはずのコメンテーターが「増税」を口にするのは、それを受け入れる世間の雰囲気を(何となく?)感知しているからでもあろう。

期待される税収という点では、消費税は確かにその通りで、これまた投稿済みなのだが、ただの一人も「金融所得課税の強化」に触れないのは、正に自民党という政党の限界、NHK・民間放送局の内部における上意下達の体制がプンプンと香ってくる何よりの証拠であると思っている。


あらゆる所得の中で《金融所得》は現在の格差拡大の主因を為している要素であるのは経済専門家も合意している事実である。金融所得は、《配当・分配金》と《株式譲渡益》に分かれるが、いずれも日本では《分離課税・一律20パーセント》で、(限度額のあるNISAのことはさておき)配当が100万円の人も、譲渡益が1000万円の人も、確定申告で分離課税を選べば税率は同じ20パーセントである ― 但し、令和19年までは譲渡益・配当等の所得税額に対し2.1%の復興特別所得税が上乗せして課せられる。

前に投稿したが、日本以外の主要先進国を見ると、英米は申告分離課税について何らかの累進課税を既に実施済みであるし、独仏は分離課税税率が日本より高く、フランスでは社会保障関連経費を上乗せしている(以前の資料は削除されたようで、この資料を参照のこと。譲渡益課税は国税庁資料が良い)。こんな国際比較をしてみても、この日本で配当、譲渡益に対して、このまま一律分離課税を続けるのがよいのか、累進課税を導入するのがよいのか、分離課税税率を引き上げるべきなのか。こういう議論を一切していないのは実に不可解だ。

というか、岸田首相は就任当初、金融所得に切り込む意志を示していた。ところが、その後になって大いにトーンダウンして、今では検討の対象にもしていない。


何を検討するか、何を検討しないかをみれば、寧ろ「しないこと」を吟味すれば、その人がどんな階層の利益を代表しているかが「あぶり出し」のように浮かび上がってくるものだ。マスメディアも気が付いているはずだが、大手メディアの上層部は(多分)富裕層であり、金融資産を多く保有している階層に属し、かつ自民党支持層でもあるだろうから、政府の上層部と同じ利害を共有している理屈である。だから、報道・解説の現場でも「金融所得課税見直し」には全く触れないのではないか、と。小生はそんな風に日本国内の最近の報道をみている。

岸田内閣には「異次元」の政策は期待できないと思う。

そもそも日本社会の上層部が、自らの利害関係の枠外に出る政策を実行するはずはなく、だれかがそうする意志をもっても後のことを予想すると決断するのは無理だろう。つまり、この種の異次元の新規政策は《政権交代》を国民が選ぶことを通して実行が可能になるのである。こう考えるのがセオリーというものだろう。


自民党には自民党の限界がある。自民党の支持層を奪い取って自民党にとって代わろうとする政党も、自民党と同じ限界をもつ。政権交代は、自民党の支持層とは利害を異にする集団(≒職業層、年齢層、地域層など)を基盤とする政党が誕生するまでは無理である。本当は、自民党という保守勢力が二つに分裂し、それぞれが差別化された基盤を固めていくのが最良の展開なのである ―そうすれば、中道右派と中道左派の政党が誕生する素地ができる― が、共産党を核とする極左勢力が強い日本では右派と中道右派、中道左派までが一つの大集団にまとまろうとする力学が働く。加えて、天皇制という極めて保守的な体制を続けているので猶更のこと保守勢力は極左警戒を強固に保つ誘因が働く……

戦後日本の政治体制は、多くの要素が相互依存的に絡み合って、現状を固定している。多くの国民がいくら望んでも「異次元の政策」を実行できる構造ではないと考えざるを得ない。

これが本日の結論ということで。

【加筆】2023-05-25


2023年5月20日土曜日

ホンノ一言: ウクライナのゼ大統領が来日、G7出席だってネエ、の話し

広島で今開催中のG7会合に出席するため戦争当事国の一方の元首であるゼレンスキー大統領が自ら来日する。

これで日本はロシアの敵国であることを宣言したことになるネエ、と。ロシア人ばかりではなく、誰でもそう思う。

サハリン産の天然ガス、どうなるでしょう?北方領土、どうなるんでしょう?いやいや、これらは細かな話だ。もっと大きな国益が今回の決定には含まれているのだ、と。多分、そういう理屈だと思うが、

日本はロシアの敵、ウクライナの味方であると宣言することで、一体、どんな利益があるのでしょう?インドと同じく、侵略されているウクライナに同情し、生活を支援するのはヤブサカではないが、日本はロシアの敵ではない。

こんな立場もあったでしょうに。そう思った。

ただ、足元でAI投資、半導体関連投資で、日本は米企業から相当大規模なアプローチを受けている。いわゆる中国との「デカップリング」、「デリスキング」の世界的潮流の中で、日本は地政学的にも有利な位置を占めつつあるように見えるのだが、バイデン政権の「お墨付き」があったが故の上げ潮なのではないか。そうも見えてしまうわけだ。

ロシアからサハリン産天然ガスを停止されても、三井物産、三菱商事他の利権をロシア政府に接収されても、一過性の混乱はあるが、大したことはない、と。

北方領土は、この先30年は絶望的になったかもしれないが、戻れば戻ればで防衛義務が発生する。日本の領土になれば開発もしなければならない。学校も作らないといけない。税収どころか歳出負担が増えるだけだ。いま暮らしているロシア系住民にも何らかの優遇措置を与えなければなるまい。これも面倒だ。反日分子になるだろうし、危険でもある。マ、諦めるわけじゃないが、当分「塩漬け」だ。これがイイ、これがイイ……

同じG7でも、好戦的なイギリスはともかく、フランスは斜に構え、ドイツは(ホンネの部分では)明らかに消極的で内心は対ロシア融和路線に決まっている。日本が「困っているアメリカ」のために(文字通り)一肌脱いで手助けする、と。まあ、こんな思考もあってもイイのかもしれない、長い目でみれば。

何だか「バーター」のようにも思われますが。

こういうことなんでしょうかネエ……と、そんな感じを受けております。

2023年5月18日木曜日

ホンノ一言: 実質GDPの年率1.6%増ってホントに?

実質GDPの四半期系列の動向については、何度か投稿した記憶があるが、GDP系列の推計手法そのものから四半期パターンには無理な皺寄せが混じっている。故に、年次系列はともかく、四半期系列の動きは小生は信用していない。

特に、景気判断に利用されている《実質季調済前期比》だが、四半期原系列に既に無理な皺寄せが混在しているうえに期間全体の四半期ごとの動向から季節成分を算定しているので、結果として得られる季調済系列の前期比は時に不可思議な動きをする。

例えば昨年の7~9月期にもGDP速報が変な挙動をしていたので、同時期の景気動向指数と比較をしても、「これは変だ」と指摘したことがある。

それで、今回の1~3月期の季調済前期比だが、年率1.6%に達した。これほどの急回復をしたか?そう感じた次第。

これほどの急回復をした背景としては、消費の急拡大、民間投資の回復などが挙げられており、富裕層が高額商品を購入するようになったなど、色々と紹介されているが、どうも眉唾ものである。世界では景気後退が年初から懸念されているのだ。

そこで、複数の主要経済指標の動きを集計することで作成されている(同じ内閣府の)景気動向指数を四半期に集計した数値をグラフにしてみた。



グラフは景気動向指数の指数値そのものではなく前期差を描いている。GDPは足元の活動実績であるから、景気動向指数の一致系列に対応している。

これを見ると、やはり昨年の10~12月期から本年の1~3月期にかけて一致系列は前期差でマイナスになっていて、景気の減速を示唆している ― 4~6月期に入ってからは東京株式市場も(コロナ禍終了が強材料になったのか)俄かに明るくなり、ひょっとすると先行系列も前期差でプラスに転じるかもしれない。とはいえ、生産、販売全般を伝える一致系列がどうなるかは分からない、というのがマクロ景気の現状を素直にみる見方ではないだろうか。


2023年5月17日水曜日

断想: 「明治の人」漱石の明と暗?

夏目漱石の作品の中で『三四郎』といえば今でも人気が高い。名句も多く、中でも次の下りは漱石の「リベラル」な社会観と先見性を証明するものとされていて、思い出す人も多いと思う。

三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。

「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、

「滅びるね」と言った。

熊本から上京する汽車の中で三四郎が広田先生に初めて遇会する場面である。


作家を知るには、断片的な片言隻句にとらわれても駄目だ。漱石は明治日本の行く末を洞察できるだけの知性を持っていたかもしれないが、現代日本の価値観(?)からみれば異質の社会哲学をもっていた点も見過ごすべきではない。

リアルタイムで夏目漱石という人と会って話ができた人であれば当たり前であったことが、作品を通してしかその人を知ることが出来ない後世代の人間には見えにくい側面もある。そんな意外な側面はどんな人でも想像以上に多いはずだ。話が分かると思ったお爺さんが、意外な面で頑固であることに吃驚することは、小生も経験した当たり前の日常である。その日常を後世代の人は共に生きられない。


例えば、いま「旧・西側陣営」では共有されているはずの価値である「民主主義、選挙、投票」というやり方について、漱石はこんな意見を発表している。当時発行されていた雑誌『太陽』が各界の人物評価ランキングを行い、その結果、文芸分野では夏目漱石が第1位に選ばれたときの漱石自身の反応である。

(私は)一般投票と云うものに対しては常に善くないことだと云う考えを抱いている。・・・ 

投票なるものは、己れの相場を、勝手次第に、無遠慮に、毫も自家意志の存在を認める事なしに他人が決めてしまう、多数の暴君が同盟したと同じ事である。

・・・議会の投票なども公平だからやると思うのは間違いである。ああしなければ決着が付かないから仕方なしに不公平なことを敢えてしているのである。従って、今日開明の世において、人々自意識を有して、己れを評価しうる自由を与えられつつある以上は、なるべくこの自由を奪わないようにするのが正当である。投票は多数の声を借りて間接にこの自由に圧迫を加える手段になりやすい。だからやむを得ぬ場合の他はやらん方がよかろうと思う。 

・・・全体、人に対して誰と誰とは何方がえらいなどと聞くのは、必ずその道に暗い素人である。素人は真っ暗だから、何でも自分に覚えやすいように無理無体に物の地位関係を知りたがるの結果として、かかる簡単極まるとば口の返答を得て満足するのである。

これは当時の『東京朝日新聞』に掲載されたのだが、簡単のため江藤淳の『漱石とその時代―第4部』から引用した ― 仮名遣いなどは現代風に変更した。


やはり夏目漱石は「明治の人」。こう言っておけば「なるほど」と了解されるわけだ。どんな人も、先人の肩の上に立ってモノを考える。その人が生きた時代の中で当たり前のように判断されていたことは、無条件に是となるのである。それについて、後世代の人間があれやこれやと論じても、意味のある結論は出ては来ない。ただ事実として受け取るのみ、である。

それにしても、明治という時代に個々人の「自由」、「自意識」という論点がいかに普通の話題であったのか、今日の日本の現状をみると、改めて驚かされないだろうか。他者評価などはつま先で蹴っ飛ばして、あくまでも自己の努力と自己評価において決して妥協しない人生を貫くというのは、本来、日本人が理想として来た武士道にもつながる生き方だと感じるが、どうだろう?


この下りを読んで、少し前に本ブログに投稿した内容を思い出した。<世論 能力>でブログ内検索をかければ、他の関連投稿と一緒に出てくるが、

それほど「多数者の意見」というものを尊重するべきなのだろうか?

という問いに対して、

 《世論》に反して「正しい方策」を提案する少数の人々は常に存在する。《一流の人物》は二流、三流の人物よりも遥かに少ない。故に、愚論は多く、正論は少ない。このことも投稿したことがある。

こんな当たり前のことは、ずっと昔から、人類は承知していたはずである。承知しているはずの社会の実相に目を向けられないのは、イデオロギーで盲目になっているからだ。

世論はなるほど大切である。しかし、すべての重要な問題について常に《世論》は何かと報道するメディアの姿勢は、正論をしりぞけ愚論を優先させるという意味で、文字通りの《愚策》を選ばせる確率が高い。

民主主義は大切にしなければならない。しかしながら《杓子定規》に祭り上げるのは愚かである。そういうことだ。

こんな自問自答を覚え書きにしている。 

他にもこの種のテーマは小生のお気に入りで何度もその時々に思いついたことを覚え書きにしているが、

理想は確かに大事だが、社会の現実は「なる」ものであって、「する」ものではない。

この辺りが最大公約数になるだろうか。

「なる」というのは社会の変化法則によって「なる」。「する」というのは(一流か二流かハッキリしない誰かが)「したい」と願うことによって「する」のである。もちろん、自然法則を利用してJAXAが「ハヤブサ」を飛ばしているように、社会の変化法則を精密に把握したうえで望ましい政策を実施できる時代が来る可能性はある。

いま「旧・西側陣営」は権威主義と民主主義の二項対立の構図に持ち込んで頑張っているが、どんな理想も共有を強制したり、統一しようとすれば、軍事的侵略ではないかもしれないが、思想的侵略には該当する。ちょうど、権力者が信じる宗教の価値観を庶民に押し付けるのと同じで、広い意味では《侵略》に当たる。

この骨子はずっと前から小生の社会哲学(?)になっていたんだネエ、と。書いたことを振り返ると、自分のことが改めて分かったりするのも、ブログの効能というものだ。

2023年5月14日日曜日

ホンノ一言: 「推定無罪」、また忘れたか、ワイドショー

先日、現役中学教諭が殺人事件の容疑者として逮捕されるという衝撃的な報道があった。

その後の(新聞では密着フォローはしていない様子なので主としてTV報道になるが)情報では、容疑者本人は事件への関与を否認し、その後は黙秘に転じているらしい。

これに対して、TVワイドショーのコメンテーターは

自らが潔白であるなら、ありのままを話して、潔白であることを証明してほしいモノです!

と、まあこんな趣旨の発言を堂々と(?)していたから、小生、ビックリ仰天。これが以前と同じ日本かと思いました。(誰かから)そう言わされているのかとすら思いました。


大体、出来の悪い警察ドラマ、ミステリードラマでも「任意に」事情聴取されている「参考人」が

私がクロだと言うなら、クロだと立証する責任は警察にあるンです。私がシロだという証明を私自身がしなければならない義務はありません。

ドラマの中でこの位の台詞は出てくるわけで、視聴者もその位は常識の範囲だと思いながら視ている(はずだ)。


逮捕状が発出されている以上、司法当局が厳守するべき《推定無罪》を覆すに足る十分な物証がなければならない。

先ず(何となく?)疑いがあるからと言って逮捕して、その後から物証を探して「お前はやはりクロだ」という立証手順は絶対に許さないのが、民主化された近代国家の刑事訴訟の鉄則である。

当局が得た物証は、本人には伝えられているはずである。捜査の公正さを常に疑わなければならない立場にいる(はずの)マスメディアは、逮捕されなければならない証拠を警察はなぜ公開しないのか、と。この点を質問しなければならない。そして報道するべきだろう。

少なくとも《G7》のメンバーですという「先進国」のマスメディアであれば、この位の原理原則は知ってるだろうと思うのだが、これまでの情況を聞く限り、日本は「先進国」である資格をなくしつつあるようだ。

貧すれば鈍す。鈍すれば品を失う。

正に、文字通り、近年の日本を表している言葉だネエ……。


世界の報道自由度ランキングの中で、確定している2022年の結果だが、日本は180か国中の71位。台湾の38位、韓国の43位よりもハッキリと下である ― ちなみにアメリカは韓国のすぐ上の42位であるから、アメリカから韓国をみても報道に対する<束縛感>は感じないだろう。もちろん最下位は北朝鮮。中華人民共和国は175位である。中国といい、日本といい「確かにそうであろうナ」という順位付けになっている。

ただ日中で違うのは、中国では国民が束縛感を感じ不満がたまに表面化するのに対して、日本においては『大多数の日本人は自分の国に満足している』というかのようなイメージが浸透し、時に登場する「〇〇反対デモ」はごく少数の「恵まれない人たち」、「変わった人たち」、「過激な人たち」である、と。こんな感覚がメディア業界で共有されているように見える点だろう。

リアリティに敢えて切り込まない所に日本メディアの弱みがある。それは日常の継続を最重要だと考え、自らの「ミッション」や「存在理由(=レゾンデートゥル)」を下位に置く弱さからにじみ出て来る態度である。日本の自由度が低い理由として、「記者クラブ」の存在や「特定秘密保護法」が挙げられたりするが、そんな個別的な点ではなく、もっと一般に日本人がもっている精神、というより(個々人にあっては)「人権意識の希薄化」、(企業にあっては)「目的意識の希薄化」に根っこがあるのだろう。NHKの朝ドラ『らんまん』でいま映像化されている明治10年代の「自由民権運動」を、日本人はもう一度おさらいしなければならないのかもしれない。


所詮、民主主義、法の支配、自由と言っても、政府やスポンサー(=企業)にとって都合の良い限りでという条件付きの《価値》であったかと。そう思いつつ過ごす今日この頃でございます。

2023年5月12日金曜日

断想: 一番危険な人物は誰なのだろう?

世界史を振り返ると、思想や考え方の相違が政局につながり、権力闘争を激化させていく事例は、山ほどあったことが分かる。

思想闘争の典型例は、言うまでもなくキリスト教がカトリックとプロテスタントに分裂した後の宗教戦争である。ドイツを舞台にした「30年戦争」はドイツ全土を荒廃させたが、そもそもカトリック批判を繰り広げ宗教改革に手を染めた最初の人がドイツ人・ルターであったことを考えると、ドイツ30年戦争は自然な展開であったとも言える。

が、フランスでも宗教戦争が発生したとなれば、とんだトバッチリであったかもしれない。高校時代に習った世界史に《ユグノー戦争》が登場していたことを覚えている人はどのくらいいるだろうか?これは1562年から1598年まで何度かの停戦をはさみながら40年近く続いたフランスの内戦である。外観としては宗教思想の対立から発生した紛争であるが、内実は王家のブルボン家を軸とした大貴族同士の権力闘争であった ― いま「民主主義」をめぐって世界が分断されているが、これも思想の対立というより世界のヘゲモニーをめぐる権力闘争であるとみるべきだろう。何かと言えば、アメリカ的民主主義を礼賛する発言を繰り返すメディアマンが滑稽に見えるのは舞台裏が透けて見えているからだ。その同じメディアマンが、「アメリカではこうしています」と言われると、「ここは日本ですから」と応じたりするのも、実に吉本演芸風であり、いまTV業界が専門家に期待している役割が視えるような気がするわけだ。

このユグノー戦争は、アンリ4世がカトリックに改宗し、同時に「ナントの勅令」を発して対立陣営であるプロテスタント達の言い分を認め宗教的自由を保障することでやっと終結した。

ドイツ30年戦争を終結に導いたのは有名なウェストファリア条約であるが、これも宗教的自由と地方分権を認め合う妥協が精神的土台になった。

平和を実現するには《価値の共有》などと言うのを止めることだ。

表面的には、ロシアのプーチン大統領が「世界のVDP(Very Dangerous Person)」の役回りを演じているが、実はアメリカのバイデン大統領がもっと危ない行動をとるお人ではないかと恐怖にも近い心理でうかがっている。

フランスのユグノー戦争を終結させた「ナントの勅令」は、その後、100年近くたってからルイ14世によって廃止された。カトリックの価値観を重視したためであったが、これによってフランス国内のプロテスタントは国外移住を志向するようになり、彼らが主に従事していた商工業がフランス国内で空洞化する原因になった。引いてはフランス国内の産業革命を遅らせ、イギリスが台頭する遠因にもなった。

アメリカ民主党のバイデン政権が、さかんに「民主主義」を吹聴し、価値の共有を同盟国に求め、異質な国家を経済制裁して世界市場から締め出す戦略を愛用しているが、これが想定外の反作用となって跳ね返り、フランスのルイ14世の愚策の轍を踏むのでなければ幸いだ。というより、もう既にアメリカの戦略はアメリカの国益を大いに毀損し始めている、と。そんな気がするのだ、な。

大体、自国が良いと思う主義・思想が本当に普遍的に良い主義・思想であれば、何も宣伝しなくとも、自然に他国も理解し、世界は共通の体制に収斂していくはずではないか。待つことを知らず、自国の信念を他国に押しつけるのは思想的な侵略だろう。敵をつくるだけの愚かな行為だ。

愚かさも 度を過ぎたれば 危険なり

       本人のみは 意気揚々として

危ない、危ない……

近因、遠因と、世界の覇権闘争は色々な事柄が絡み合っているが、たまたま権力の地位にあった一人の人物の意思決定がその後の地盤沈下の原因になるとすれば、その時の国民はいくら後悔してもしきれるものではないだろう。まして、同盟国と一蓮托生となれば、仕方がないではすまない。


2023年5月11日木曜日

ホンノ一言: 火曜日稿のアップデート

アメリカのインフレ率(消費者物価指数・全品目)について火曜に投稿したばかりだ。

その後、4月のCPI実績が公表された。

それによると、4月の上昇率は少し上振れしている。火曜稿の最後のグラフがどの程度変わるか、アップデートしておこう。

結論を述べると、ほとんど変わらない。

前月比インフレ率の年率換算値TC成分は、3月が2.85%、4月が2.44%となり、ターゲットである2%ラインよりは、4月に上振れした分だけまだ上側にある。ただ、明らかに一頃の物価上昇は収束段階にある。

2023年5月9日火曜日

ホンノ一言: アメリカのインフレ率は足元でもう2%ラインに戻っている

アメリカではインフレ率をどの指標で測定すればよいかという問題で喧々諤々の議論が展開されているようだ。

が、《物価》といえば全ての品目を含めて判断した方が良いのは当たり前である。インフレ基調の判断に差し支えるからと言って、食料品価格を除いて見るとか、更にエネルギー価格を除いて見るとか、それはやむを得ずにとる方便であって、大体、食料品価格を除いてインフレ判断をされても、国民生活とは縁の薄い専門家の話になってしまうのではないか。

そこで全品目を含めてアメリカの消費者物価指数の動向を改めて確認した。直近月は本年3月である。

まず前年比だが、これはセントルイス連銀のFREDから直ちに確認できる。

URL: https://fred.stlouisfed.org/series/CPIAUCSL#0

本年3月時点で全品目を含めたアメリカの消費者物価指数の前年比はまだなお5%という高さにあって、これはFRBのターゲットである2%に比べて随分高い。まだまだインフレ抑制を続けるべきであるという議論になる。

しかし、足元の物価の動きは1年前と比べるのではなく、前月と比べるべきであるという点は、このブログでも述べている。株価の変化をみる時も、先ずは前日比をみる、次に足元の1カ月をみるのであって、1年前の株価と比べても動きを予測する役には立たない。

但し、前月との変化率を見る場合は、対前月インフレ率を年率換算する必要があり、更にその動きには季節成分や不規則変動(ノイズ)が混じるため、成分分解を施して循環・傾向成分をとりだす必要がある。面倒なようだが、FRBのスタッフにとっては何という事もない、日常的なデータ加工であるはずだ。

その成分分解の方法には幾つかの方法があるが、いま前稿でも利用したSTL(Seasonal Decomposition Of Time Series By Loess)で対前月インフレ率のTC(Trend+Cyclic)成分を抽出すると、下図のようになる。薄いグレーは原系列、黒い線がTC成分である。ROBUST推定はOFFにしているので大きなノイズに影響された短期的な凸凹が見られる。


青い線は、インフレ率2パーセントラインである。これを見る限り、本年3月の時点で、全品目を含めたCPI上昇率の基調は年率2パーセントに戻っている。

今は5月である。現在時点のインフレは年率2パーセントを下回る状態に落ち込んでいるはずだ。5月の利上げは『インフレが収まらないため」という理由では説明できない。


いま走っている時速がスピード違反だと指摘されるのは仕方がない。しかし「今は安全に走っているが、直近1時間以内に6か所の速度計で確認された時速の平均値が70KMに達していたから反則金9千円!」と言われると釈然としない。「事故など起していないじゃないか」と言いたくなる。それに対して警察官は「法律に違反しているんですヨネ」と云う。インフレは法律違反ではない。現在の物価上昇が行き過ぎなら抑えるべきだ。が、過去1年間の物価上昇が行き過ぎたからと言って、現在の経済活動を抑えるのはまるで処罰をするのと同じである。現在の物価上昇が1年間続いてもインフレ率はもう2パーセントに収まるのである。


2023年5月8日月曜日

覚え書き: 年間収入階級ごとのエンゲル係数の動きにはかなりの違いがある。

 前々稿ではこんな風に書いている:

財政危機の中で社会保障の持続性に不安が高まるポスト現代においては、ただ「カネ」だけが頼りになった。子供はコストとなり、負担に感じるようになった。だから、たとえ子育て支援のためでも増税は嫌だ、と。そう思ってしまう……

まったく、今という時代は自分が、というか自分たち家族が生きていくために実にカネがかかる。そんな感覚はほぼ大半の日本人が感じているに違いない。

ただこうも言える:

松平定信ではないが、奢侈に流れる現代社会を見直すことも大事ではないかと思うのだ、な。贅沢になってカネが足りないという側面も確かにあるのだ。

子供を育てるのに必要なお稽古ごとの費用、レジャーに連れて行くための費用、塾の月謝などなど、二昔も前はいっさい必要ではなかったのである。そんな時代にあって小生の両親は週三日の学習塾に通わせるために7千円だったか、その位の月謝を月末には小生に持たせていた。『少年マガジン 』が40円、電車の一区間が(確か)大人20円だったか(?)、記憶は薄れたがそんな時代である。入塾テストがあるような塾であったが、ずいぶん負担をかけたものだ。とはいえ、クラスメートの中に塾に通っている友人は他にいなかったと覚えている。女子で音楽教室に通っている子もピアノではなくオルガンであった。今にして思えば、小生の両親が子育てにかける出費が世間では異常値ではなかったかと推量している。そんなにまでした動機は今となっては分からなくなってしまったが……、もっと真面目に塾に通って、親を喜ばせてあげたかったと後悔しても、もう遅い。

何が暮らしのために必要な出費であるかは世帯ごとの習慣で異なってくるものだ。とはいえ、外食や酒類を除いたいわゆる《食費》は節約にも限度があり、いかなる原因があるにせよ、食費がかさめば暮らしには余裕がなくなってくるものだ。だから、エンゲル係数が生活の余裕度(≒生活水準)を測る一つの指標として使われているのは正当な理由がある。

「家計調査」から年間収入五分位階級別にエンゲル係数(一般外食、酒類を除く)の推移を調べてみたところ、下図のようになった。


少し以前に作成したグラフだから直近月は本年2月である。原系列から算出しているので毎月の変動には季節成分とノイズが混在している。そのためSTL(Seasonal Decomposition Of Time Series By Loess)による成分分解を行い、年間収入階級ごとの傾向・循環成分を描き加えている。

前にも言及している点だが、2014年4月の消費税率引き上げ以降のエンゲル係数の上昇はただ事ではない。2019年10月の再度の税率引き上げの後、コロナ禍3年が家計に与えた大打撃もグラフから自然と伝わってくるはずだ。

興味深いのは、第5分位(=Upper)のエンゲル係数は足元で下方に転換する動きを示しているのに対して、第1分位(=Lower)は下方への修正が微弱である点だ。

このエンゲル係数の下方転換は、食生活の習慣効果によって急上昇した食費を割高な食材から割安な食材へシフトさせて節約するという調整行動からもたらされたものと推察できる。そして、食費を調整できる余地は高所得階層では大きいものの、低所得階層では元々がギリギリの生活をしているために食費調整の余地があまりない。どうやら、世帯収入ごとに置かれている暮らしの断面がこんな側面からも何だか伝わってくるわけである。


こんな図を見ると、新たな政策を実施するにしても、消費税という大衆課税を増やすことによって財源を調達するのは無理筋であるように感じる。

既に投稿しているが、子育ての他に家計で必要となる一時的出費に迫られた世帯を所得控除、税額控除で広く救済する措置が不可欠になるだろう。

マ、厚生労働省と財務省が本気になれば、具体的政策はまとまるはずである―どちらかといえば厚労省が得をする話なので、財務省がどの程度まで協力するかは分からないが。

上の図は、e-Statからダウンロードした元データをRのtsibble型に変換したうえで、パッケージ"fable::model"でSTLを選び、そのモデル推定動作を年間収入ごとにpurrr::mapして作成したものだ。結構、面倒だ。

もっと簡単にggplotで描画する中でgeom_smoothで平滑線を描き加えてもよい。実際、上の場合、グラフ描画の中で簡単にトレンド線を書き加えた図は


ほとんど同じである。しいて言えば、足元のエンゲル係数調整プロセスが多少単純化されている程度である。ふだんの実用には十分耐えられる。



2023年5月6日土曜日

断想: 「美しい」という言葉の意味もマチマチなようで

三島由紀夫の長編小説は(中身を今も記憶しているか、していないかは別として)大体は読んでいるが、その中で『美しい星』は未読であった。そもそも主人公が「宇宙人」であるという設定と作家のイメージとがどうにも整合しない感覚があったのだ、な。それをGWでどこに行っても混雑するので拙宅に引きこもって読んでみた。

評判では、終盤も始めになるが、白鳥座61番星の遊星から来たという人類撲滅主義者達との論争が『カラマーゾフの兄弟』の名場面である「大審問官」に匹敵すると言われているようなのだが、<神 vs 人間理性>というか、<信仰 vs 共産主義>という弁証法的テーマが明確に提起されていたドストエフスキーの展開に比べると、三島由紀夫が言いたいことはもう一つピンと来なかった — 思い込みの能力がまだ高い青年時代に読んでおけばもう少し分かった気になったかもしれない。

ただ、主人公家族の昇天にさしかかる所で出てくる次の章句は三島由紀夫が現代社会に抱いていた想念を伝えているのかもしれない:

しかし、落ち着いて考えてごらん。真実から目を覆われていることの幸福は、いかにも人間特有の憐れっぽい幸福だが、今われわれが問題にしている虚偽や真実は、もっと微妙な性質のものなんだよ。たとえば我々が世間に向かって、宇宙人であることを隠しているのは、真実がこちら側にあって、人間どもには虚偽の仮面をみせておかなければならぬからだ。人間同士はそうではない。あいつらはえてして虚偽を隠すために真実の仮面をかぶるのだ。

真相を実は知っている臆病な人間たちが、胸中の真実から逃避するために、フィクションを真理だと言いくるめて空っぽの哲学を仲間内では語っているという情景は、まさに今日的現象でもある。


上の下りを読んで、どことなく文体や表現法まで含めて、村上春樹の作品を連想してしまいました。

というか、安倍元総理がとなえた『美しい国、日本』の「美しい」と三島の『美しい星』の「美しい」とは意味が正反対だ。


《美》という同じ言葉を使っても人によって意味は正反対になる。同じことは《義》についても言えるだろう。人によって意味がマチマチな言葉を使いながら議論をしても、まったく無意味であるということである。多数決で決めるとしても、それで意味が出てくるわけでもない。


三島由紀夫は、人間の人間らしいことの本質を《時》、というか《時の一方向性》に見ているようだ。もしも将来を確実に見通せて、過去・現在・将来の区分が消失するなら、人間は完全に合理的であり得ようという三島の洞察は(多分)正しい。が、三島が触れていないもう一つの要素がある。それは《人生は有限》ということだ。例え将来を先取りできて一切が合理的計算によって決められるとしても、人生が有限で、死の直前の自分自身がいかなる思考をするかが分からない以上、人間は人間らしく生きるしかないだろう。

・・・などと書くより、ズバリ、

理性は自分自身の死を決して予感せず、受け入れることもしない。

と、何だか誰かが既に言っているような気がする。合理的議論は人間がもっとも人間らしい側面を考慮しない。自らの普遍妥当性を勝手に前提する。だから、合理的な結論は嫌われるのだ、と。最近はそう思っているのだ、な。

この辺りの《反・理性主義》は『葉隠入門』とも根っこの部分で繋がっている。

【加筆】2023-05-07


2023年5月1日月曜日

ホンノ一言: 国民心理が非合理的なときの政府の責任ということか、これは?

子育て支援の財源を何にするかについて日経がアンケート調査をしたところ、以下の結果になったという:

日本経済新聞社の28~30日の世論調査で政府が検討する少子化対策の財源の確保手段について聞いた。「増税」と回答した人の比率は23%で、「社会保険料」の22%と拮抗した。「国債発行」は35%だった。

Source:日本経済新聞、5月1日朝刊 

「国債発行」を願う人が最も多いってことですか……、ヤッパリねエ、これが高齢化した日本のシルバー民主主義って奴だネエ、と。そう思いました。

国債増発で子育て支援をまかなうというのは、将来世代を育てるためのカネを将来世代につけ回すということだ。『お前たちを育てるのにカネがかかるしネ、今は払えない。他に欲しいモノもあるし生活水準下げるのは嫌だからサ。いまは国債を店に渡してツケにしとくから、お前たち、大人になってから国債を持ってきた人がいたら返すんだヨ』と、ま、そういう意味になる。親にしては無責任ではないか。「自分はもうすぐこの世とおさらばだから、後は知らんということかい」と言いたくもなろう。

『ここまで無責任社会になっちまんだネエ』と、ホント、涙がこぼれるような思いをしたのだが、年齢層別の回答傾向をみると、これがまたビックリ仰天。下図のようになっている。



Source:上と同じ

60歳以上のシニア層は寧ろ増税を受け入れる人たちの割合が高い。

子供たちの未来を心配しても自分たちはもういないはずの高齢者は、いま税負担を増やすよりは、借金(=国債)でやってくれ、と。そんな人が多いのだろうナアと憶測していたが、そうではない。反対である。寧ろ、未来になってから国債償還の負担(=借金返済)を負い、緊縮財政、税率引き上げを覚悟するべき若年世代が、国債増発を願望している。高齢者はむしろ『税が上がるのは仕方がない。いいよ』、そんな風に考える高齢者が案外多い。余命を考えると、子育て支援が実を結び少子化を逆転させるという増税の見返りは、とてもじゃないが目にすることはできない。孔明と同じ『身、先に死す』だ。損であるに決まっているのにネエ……、そんな意外な傾向が現れている。

まさに非合理。日本人の各世代は、自分たちが直面している問題の内容をまったく理解しないまま、アンケートに回答している可能性が高い。

多分、いま税が増えるのは嫌だ、と。そんな条件反射的な思考回路なのかもしれないが、よく分からない。増税を嫌がる心理は現役を引退したシニア層により強く表れるはずではないか。

*~*~*~*

大体、いま問題になっているのは負担と受益が不分明な公共事業や補助金ではない。子育て支援である。たとえ増税でとられても、子供を育てる時に戻ってくる。増えた税を取られっぱなしになるのは、子供を育て終わった高齢者、子供を育てない現役夫婦、生涯独身派だけである。人生選択は自由であるが、子供を育てず消費や貯蓄をするほうが、子育てをするより明らかに豊かであるという情況は、社会的観点からみると問題だ。

子育てと世代交代は、豊かな未来への第1歩だ。と同時に、社会的にそう言えるだけではなく、個々の家庭においてもそう実感されるべきだ。

こうじゃなきゃあ世の中狂ってるってもンでしょう。何だか上のアンケート結果をみると、そうなっていないかもしれないという気になってくる。

*~*~*~*

前近代から近代にかけては、子供を育て「親族」を広げることが生活保障になった。

近代から現代にかけては、「社会保障制度」が親族による生活保障の代わりになった。親族の絆は衰退し、分散居住する中で、解体されてきた。

財政危機の中で社会保障の持続性に不安が高まるポスト現代においては、ただ「カネ」だけが頼りになった。子供はコストとなり、負担に感じるようになった。だから、たとえ子育て支援のためでも増税は嫌だ、と。そう思ってしまう……


カネがかかって困るのは、「選挙」だけではない、「育児」もまたカネがかかりすぎる。それが《現代病》といえばその通りだ。

選挙は民主主義のコストである。育児は人類社会のコストである。確かにコストに見合うリターンはあると歴史は教えてきた。しかしその記憶も薄れてきた。と同時に、今の問題は、恐竜化し、金食い虫になった選挙、育児を考え直すという点にもある。

アンタッチャブルであった「選挙」、「子育て」の中身も21世紀社会にあって洗い直すべきなのかもしれない。本来

親はなくとも子は育つ

寺子屋が軽装なジャージーだとすれば、今日の教育はきらびやかな振袖のようなものだと思う。一事が万事だ。例えば、桃の節句で買ってあげるお雛様、端午の初節句で買い与える兜や武者人形を見るがいい。小生の愚息が幼かった頃に比べると何と贅沢になったものだろう。あの頃はバブル時代であったのに、だ。松平定信ではないが、奢侈に流れる現代社会を見直すことも大事ではないかと思うのだ、な。贅沢になってカネが足りないという側面も確かにあるのだ。

*~*~*~*

国民心理が非合理的であるとき、政治まで国民心理に寄り添ってしまうと、日本社会にとってより良い選択が出来るはずがない。

社会的選択の実務を担う政府、政治家の責任は重いと言わざるを得ない。

幕末の日本を支えるエリートであった「武士」の精神をもって道を切り開いてほしいものだ。

【加筆】2023-05-02