岸田内閣の支持率だけではなく、自民党の政党別支持率も歴史的低レベルにまで落ち込んでいるのだが、この理由は余りにも明らかだ。単に「安倍派と二階派(岸田派も)による裏金作り」にのみ主因があるのではない。とにかく
全ての(自民党の?)国会議員の(モラルとしても、政治能力としても)その低レベルに愛想がつきている
この辺りが、日本国内の有権者感情の最大公約数ではないか、と思う。ズバリいえば、
そもそもの阿呆が政治主導などと何を世迷言を言うとるか
と、マア、そんな所だろう。
本当の所は、自民党が二つに分裂するのが、日本人にとっては政治的選択肢を増やすという意味で、最もハッピーな帰結なのだろうと思う。個人的には、それを熱望している。
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元々、昭和20年代においては保守勢力は、一方に吉田茂や鳩山一郎の流れをくむ自由党系、他方には吉田と同じ外務官僚であった幣原喜重郎や芦田均を中心とした民主党系という二大保守勢力が拮抗していたが、この対立構造は戦前期・日本の<政友会 vs 民政党>の二大政党構造を人脈としても大体は継承するものであった。
ずっと以前になるが、岸信介による保守合同が、戦後日本体制の安定をもたらした一方、1990年代以降の「失われた30年」という時代背景の下では、逆に日本の政治的選択を狭めてきた、と。そんな事を書いて投稿したことがある(これも)。
その決断の背景として、そこでは《共産主義警戒観》が当時の保守政治家に共有されていたと書いた。確かに、それは事実であったに違いない。中国本土から国民党が台湾に駆逐され、毛沢東の指揮する中国共産党が広大な大陸を支配するに至ったのは1949年である。その時点では、日本はまだGHQの統治下にあったが、1951年のサンフランシスコ講和で独立した後の1955年(昭和30年)に自由党と民主党が合同して「自由民主党」が生まれたわけである。
時刻表ミステリーではないが、時系列をたどれば、《対左翼警戒感》が自民党結成の主動機となっていたと推測しても、まずまず本質をついているに違いない。
しかしながら、保守合同を主導した岸信介氏の心中の動機は、他にもあったかもしれない。もしこの分野が専攻であったら、論文を(少なくとも)一本は書くつもりになったかもしれない。
一つは、岸信介という政治家は、昭和初期に登場した左翼的・革新官僚から大政翼賛会体制の下で政治を志した人物である。政党を否定する<専制体質>を元々もっていたとも想像される。もう一つは、<普通選挙による政党政治の大失敗>という戦前期・日本の経験がトラウマとなって記憶されていたのじゃあないか、と。そんな可能性もあると憶測しているのだ。
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少し長いが、日本の政党の流れの概略をたどっておきたい。
日本においても、遠く明治以来、二大勢力が対立する政治構造があったのである。
日本政治において《政党》はそれなりに長い伝統をもっていた。
最初に伊藤博文が、というより伊藤の親友である陸奥宗光が死去した後、陸奥をとりまく土佐出身の人々が中心となり、伊藤を担ぐ形で誕生したのが「立憲政友会」である。1900年(明治33年)だから日露戦争より以前の結党である。その後、予算審議権をもつ帝国議会の支配的勢力になった政友会は、日本政治を動かす黒子役として強い力を発揮した。
---2024-03-19追加
政友会結成を「最初に」と書いているのは「政党の誕生」という意味では間違いだ。第1回帝国議会は、山縣有朋内閣の時、1890年11月29日に開会されたが、議席は自由党(初代党首は板垣退助)、立憲改進党(初代党首は大隈重信)のいわゆる「民党」が過半数を占めた。明治10年代の自由民権運動から日本の政党が誕生したと考えれば、政友会結成よりも更に20年程は遡ることになる。本稿では、日本の「政党政治」が意識にあったので、藩閥政治が盛んであった時期にも政党が活動していた事実に触れずにしまった。これが提出レポートなら大減点だ。せいぜい「良」という評価だったに違いない。
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次に誕生したのが、政友会と対立した民政党の母体である。これは少し細かい。長州出身の大政治家・桂太郎が宮中を担当する内大臣から総理大臣に任命され組閣しようとしたところ、「天皇の寵愛を利用して国内政治を壟断しようとしている」との猛反発をうけ、政界は騒乱状態になった。大衆デモが国会を包囲するに至り、桂は総理を辞任した。これが「大正政変」である。これに懲りた桂は自らも政党を結成しようと行動を始めたが、不運な事に急死してしまった。その桂の志を受け継いで桂シンパの政治家と官僚集団が集結して生まれたのが「立憲同志会」だ。陸軍出身の桂内閣が挫折した後、あとを継いだのは海軍出身の山本権兵衛で、薩摩出身の山本内閣を支えたのは政友会だ。ところが、「薩の海軍」に恨みをもった長州勢力はシーメンス事件を演出(?)して山本内閣を追い落とし、明治以来の大政治家・大隈重信に総理の座が回って来た。その大隈内閣を支えたのが上の立憲同志会だ。大隈内閣は、第一次世界大戦中の日本外交を進めるが、ここで大きなミスを犯した。「対華21カ条要求」である。この時点で、大隈内閣を支えてきた長州勢力の大立者・山縣有朋は大隈内閣を見限る。大隈退陣後に、大隈を支えてきた立憲同志会及び周辺勢力が集合して結成したのが「憲政会」である。
先の政友会の誕生には土佐派が中心になった。憲政会を結成させる背景としては大隈支持勢力があった。要するに、明治の自由民権運動以来ずっと続いていた《板垣自由党 vs 大隈改進党》の対立が、こうして(人脈としては?)継承されたわけだ。
その後、政友会も路線対立から二つに分裂し、その片方と憲政会が合同して「立憲民政党」が誕生した。このように時に応じて離合集散が繰り返されてはいたが、全体としては戦前期・日本ではずっと二大勢力が対立しながら、衆議院選挙があるたびに(貴族院は選挙がなかった)、議会の優勢を占める勢力が交代していたわけである。
もちろん戦前期・日本では、議会とは別に陸海軍を含む官僚集団が強い権力を持ち、彼らは選挙とは無縁であった。だから、戦前期・日本の政治を理解するには、政党とは別に官僚の動きをみる必要がある。が、それでも毎年度の予算が成立するかどうかは議会の協賛(≒承認)にかかっていたのだから、戦前の日本においても政党政治は曲がりなりにも機能していたと(小生個人は)考えているし、評価もしているのだ。少なくとも、1925年(大正14年)までは・・・
昭和になってから普通選挙が始まった。男性に限られていたが、納税額等による制限は一切なくなった。
その結果、日本政治はどうなったか?
戦前の「政界スキャンダル合戦」で何冊の本が書かれただろう?
普通選挙は普通選挙でも、政治的に未熟な国に導入される「普通選挙」で勝利するには、いわゆる「ポピュリズム」が必勝の戦略となる。もっともポピュリズムはそれ自体として悪いと断言できるわけではない。田中角栄が喝破したように、そもそも民主主義政治の本質は
政治は数であり、数は力、力は金だ
この認識に間違いはない。否定する人は、本質的には偽善者であると思う。
ただ数的優位を築くには、大変な政治的エネルギーと政治家本人の力量が不可欠である。ちょうど戦争において勝利を得るための兵器として、高価なミサイルと安価な毒ガスの区別があるように、低コストの政略がある。それは政敵のスキャンダルを暴露するという戦術である。つまり野党が選挙で勝つためには、与党の政治家の不祥事をメディアに垂れ込むのが、最も有効な戦術になる。
例えば、昭和になって普通選挙が始まった直後に《松島遊廓疑獄》で世間が騒然となり、憲政会の若槻礼次郎首相が辞職するに至ったが、この事件は冤罪、ほゞほゞ虚言とも言えるものであった。後にあった《帝人事件》は、事件自体がなかった全くの作り噺で、これまた目的は倒閣であったわけである。
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以上のことを「ゲーム論」の観点から少し考察してみよう。
暴露されたスキャンダルの追及は、二大政党の双方にとって、ゲーム論でいう《支配戦略》になる。故に、結果として訪れる状況は必然的に《スキャンダル合戦》となり、政党政治への失望となって帰結する理屈だ。昭和・戦前の日本の政党政治を説明するロジックは「囚人のジレンマ」である。
「囚人のジレンマ」を回避するには、何度も戦略決定の機会が訪れるロングランの「繰り返しゲーム」として各プレーヤーが「ゲームのルール」を再認識する必要がある。そうすれば「フォークの定理」から双方とも最も望ましい行動を選び全体最適に到達できる理屈だ。
しかし、一方のプレーヤーが足元の結果を求める近視眼的行動をとれば、必ず「目には目を」の報復合戦になり、「囚人のジレンマ」の論理から最悪の情況を招く。そんな愚か者の失敗に気づき、ロジックを理解するだけの時間を歴史が与えてくれていれば、その社会は幸運であり救われる。
機会主義的な奇襲をかけても、次は相手の報復行為を招くだけである。近視眼的な利己的行為を自重し、長期の最適戦略を見定め、それにコミットすることが、そもそもの目的である自己利益を最大化する。それが出来ないのは、相手を消滅させる<殲滅戦>がゲームのルールだと思い込み、相手を消し去ることこそ<勝利>であると考えているからだ。確かに相手が消滅すれば自分自身が<覇者>となるので、「囚人のジレンマ」は消え失せる。しかし、発展した社会の中で相手を殲滅するなど達成不可能である。民主主義とは敵対勢力との折り合いの下で実現されるものだ。だとすれば、超・長期間の「繰り返しゲーム」に取り組むしかとり得る選択肢はない。
数多くの社会的な失敗と混乱を繰り返す中で、この基本的なロジックを学習し、国民として理解するだけの時間が与えられた社会はラッキーだ。例えば、王権と議会派が革命という内乱を戦ったイギリス、人口構成に影響が出るほどまで革命と戦争を戦い抜いたフランス、南北戦争という悲惨な内戦を経験し相互理解に至ったアメリカなどは好い事例だろう。
その意味では、幕末から明治維新に至る内戦の歴史は、全日本人の相互理解と相互信頼が不可欠であることを心から理解するには、時間が不十分であった、そんな解釈も可能かもしれない。それがひいては、戦前期・日本では、余りにも簡単に社会的な相互不信(表面的には嫉妬、危険視、排他性として現れる)が高まり、その不信が政党政治を崩壊させ、(清潔であるように見えるが政治には素人である)陸海軍の軍人に政治を任せるという事態に至った、その遠因になった、こんな見方もありうるかもしれない。
民主主義社会には欠かせない政党政治の失敗をリカバーできるだけの時間とチャンスが当時の日本には与えられていなかった。ここに日本の不運と悲惨があった。そんな風に歴史観としては思っているのだ、な。
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元々は細かな些事で内容希薄なミステークが(誰かによって)利用され、デマとなって、まことしやかに、あるいは「犯罪」にフレームアップされて拡大され、メディアと有権者が政界スキャンダル報道に踊るという構図は、現在時点の日本だけではなく、遠い昔、普通選挙実施後の日本の社会そのものでもあったわけで、全ての日本人が参政権をもつ民主主義社会の実現に戦前期・日本は見事に失敗したのである。
これが戦前期・日本のデモクラシー発展史の最終到達点であり、この失敗のトラウマは現時点の自民党政治家たちにも、おそらく、共有された社会観として受け継がれているのではないだろうか?
一言でいえば、
保守政党が分裂すれば二大政党体制に移行するであろうし、それが有権者にとってはベストの状況になるのだが、その後の状況は再び救いがたい程の《ポピュリズム》に支配され、政党政治そのものが崩壊し、多分、自衛隊か、一部官僚が主導するクーデターが発生するであろう。
こんな杞憂が全く意識されていないのならば、むしろ幸いなことだ。
仮にこんな意識が本当にあるとしても、『羹に懲りてあえ物を吹く』という臆病は、最悪の可能性を回避しているわけで、決して非難するべきことではない。
要するに
有権者は政治家を信用していない。が、政治家の方も有権者を愚か者の集団と思い込み、決して信用してはいない。
ここで最初に戻る。
有権者は政治家が阿呆だと思っている。が、政治家の方も有権者を(本音のところでは)阿呆だと思っている可能性が高い。
もちろんメディアも阿呆だと思われている。こちらは有権者、政治家の双方からそう思われている(に違いない)。
これが、正直なところ、日本政治の現在位置ではないかと思っている。
【2024-03-18 加筆修正】