2024年6月29日土曜日

ホンノ一言: 「日本が誇るお握り」と、自分の手柄と言いたげに、なのか

 いまから20年余りの昔、小生が北海道に移住してまだ何年たったかという頃、

日本経済の強みは、東南アジア全域に張り巡らされた電機産業のサプライチェーンなンです。それを支えるのが、モジュール化という発想なンですね。

何度聞いたか分からない。経済財政白書でも読んだことがある。

日本が誇るエレクトロニクス

過剰設備、過剰雇用、過剰債務という「三つの過剰」に苦しむ日本経済ではあったが、そんな「誇るべき」実態が当時は確かにあったわけだ。


いまネットを何気にみていると

日本が誇るお握り。いまはOnigiriとして世界から愛されています

こんな記事を見つけたので、クスッとほほ笑むより先に、悲しくなってしまった。「落魄」とはこういう事を言うのでありましょう。


「日本が誇るお握り」ねえ……、でも「お握り」というのは、遥か昔からあるものだ。時代劇にも登場する。誰が創案したのか、もう分からない。少なくとも、現代日本の現役世代ではない。自分が創案したわけでもないのに、誇るかネエ……。それに「日本」がお握りを誇りと思ってきましたかナア……、分からぬ。もう売れるものはなくなって来たからナア……、そういう心理が隠れているのかもしれない。

営々と蓄積した先端産業の技術は惜しげもなく諦める一方で、昔からあった「お握り」は大事にして、いまそれを日本の誇りと言うのか、と問いたいところだ。

いまあるものは誇れないけど、昔からあったものでイイのは一杯あるヨ

ってナア。

実はネ、付加価値を加えてるんですヨ

と、業者はそう語るに違いない。とはいえ、土台は日本の伝統的食品には違いない。


であれば、日本の伝統的食文化を継承してきた先代、先々代、更には先達たちが生きた昭和、大正、明治、江戸時代、室町時代……と、生活水準は低かったかもしれないが、現在まで継承されるものを創案した過去の時代を少しはリスペクトしてもいい。

過去の時代をリスペクトするというのは、過去の時代を支えた価値観、理念、慣習を記憶し、尊重し、良い面は更に良いモノに、悪かった面はリフォームして再生させよう、と。そんな風に、自分の事のように共感する行為がなければならない。

「欧米で人気が出たから」、人気が出た対象に限っては、「誇り」を感じるってことですか?何を継承するか、欧米人に決めてもらうんですか?

日本の前時代を自分の事のように感じて、尊重しなければ、そもそも「継承」する動機が生まれるはずがない。尊重があって意志が生まれ何かを伝えるのだと思う。自分の事のように感じるからこそ、遥かな過去を後悔もし反省もするのだと、誇るべきことは誇れるのだと、思う。他人の批評をきいたから誇りを感じるとすれば、それは本当の意味での誇りではない。単に「誉められたから嬉しい」ということだと思う。

誇り、つまり"Pride"は、他人の評とは関係なく、自分の心に持てる感覚である。

そういうことだろうと思うがいかに。

2024年6月28日金曜日

ホンノ一言: 又々「酷い間違い」を公共の電波で流すとはネエ

こんな妄言を吐いている経済関係分野の「専門家」がいるとすれば、経済学を少しでも勉強した大学生なら、ビックリ仰天するに違いない。

政府は「景気対策」と称して公共事業をマタマタ増やそうとしているわけナンですが、これって、要するにお金が往ったり来たりしているだけなんですヨネ。政府が払っている事業費ってどこから出るんですか?最終的には税金ですよね。政府がとった税金を土木事業をする大企業がもらうわけです。その大企業は下請け会社にお金を払う。下請け会社はお金をもらうわけですが、それは最初の大企業が払っているわけですよ。何にも増えてないです。大企業からお金をもらった下請け企業は、今度は孫請け企業にお金を払って仕事をやらせる。孫請け会社はお金をもらいますが、それは下請け会社からもらうわけですヨ。これのどこが景気刺激なんですか!お金のヤリトリだけですヨ、やっているのは。お金が出回って、物価が上がって、そのツケは消費者に回って来るんです!

カミさんが好きな今朝のワイドショーでは、新紙幣対応に必要な機器調達から相当の経済効果が期待されるという財務省の見通しに対して、(小生は初めて知った名前だが)某専門家が上と概ね同じロジック(?)を展開して述べたのだが、イヤイヤ、ビックリして転げそうになりました。


大体、世間の経済はすべてお金のやりとりだ。お金を使わない物々交換はもう僅かでしかない、そんな時代である。それでも「付加価値」は発生しているし、「所得」も発生しているし、日本人の生計は成り立っているわけだ。

この御仁、付加価値という概念を理解しているのか?

所得はどこで発生するのか、分かってる?

そんなレベルの専門家が、どんなルートで民間TVの高視聴率とされるワイドショーに出演する運びになったのか?こちらの方に関心を覚えました。


何も「ケインズの乗数理論」を知っておけとは言わない。これ自体が、大不況期にケインズが新古典派の正統な経済モデルにぶつけたアンチテーゼを超える意味はない。

しかし、経済学部の1年生だって、これくらいは知識として知ってますゼ。定期試験でも必ず出題される。それよりか、「企業部門」のほかに「家計部門」と「政府部門」、「海外」があること位は知っておいてくれ、と。経済を語るなら初歩中の初歩でしょ。

いやはや、最近の民間TV局の低レベルには慣れっこになっていたが、

どうせ無学な視聴者だからサ、ナニ言ったって分かんねえヨ

まあ、この位のノリで番組を編集しているのだろうが、余りにも現代日本社会の普通の人たちが可哀想だ。

イヤな感じになるTV番組を電波行政で保護する必要などあるのでしょうかネエ・・・


2024年6月27日木曜日

断想: そもそも「人は分かりあえない」ということについて

メディアでは、何かと言えば<コミュニケーション>の重要性を強調しているが、そもそも人間が二人いて、その二人が話をしているとして、その二人は互いに分かりあっていると言えるのだろうか? まして1億人もの人間が暮らしている日本社会を相手にして、たとえば総理大臣という一人の人間が、あるいは〇〇大臣が、「記者会見」なる場を通して、日本社会とコミュニケーションが出来るものなのか?

そもそも、人間というのは、互いに相手のことが分かりあえないのだ、と。小生はそう思っている。カミさんの心の中を本当に小生は分かっているのかと問われれば、一日中話すことがあるにもかかわらず、それでも本当には分かっていないのだと、告白せざるを得ない。

今から千年も昔に書かれた『源氏物語』が、すでに人間存在の本質を正直に描いている、というのは本ブログにも投稿している。「恥ずかしながら」、というか「小生も」というべきか、それは専攻分野によって違いがあると思うのだが、実を言うと日本文学の古典中の古典といわれる『源氏物語』を完読したのは、ごく最近の事なのだ。但し、(これは本当に恥ずかしいのだが)谷崎潤一郎と瀬戸内寂聴の両方の現代語訳を読み合わせながらである ― 一長一短なのだ。

上にリンクを付けた投稿ではこんなことを書いている:

少し前にも書いたが、『源氏物語』は全体としては恋愛物語であるが、肝心の主人公は5分の4の辺りで死んでしまい、後は孫の世代が活動する『宇治十帖』で、これは典型的な三角関係の悲恋の話しであり、主役の人物たちの無責任さが際立つ筋立てだ。

が、平安盛期の当時、男性達は漢詩・漢文・歴史の勉学に明け暮れ、同時代の藤原公任は『和漢朗詠集』を編纂している。そんな中、女流作家の日記文学が現れていたものの、『源氏物語』が描いている情景描写はいま読んでも露骨で他の作品とは異質であると感じる。異なる人物の心理は人物ごとの意識から描かれていて、登場する人物の数だけの世界があるので、互いに分かりあえることはない。家族には支えられているが本質的に孤独である。

互いに分かりあえない人間どうしは、互いに(相手の主観からは)勝手気ままに行動するものだ、というのは時代と国を超えて普遍的な真実だろう。

この真理を正直に小説世界として構築したのは、大したものだと。平安時代の京都というのは、それほど都会化され文明化されていて個人主義的な世界だったのですか、と質問したくもなるものだ。

では、なぜ人間は分かりあえないのだろう?

近代では夏目漱石がこのテーマに真剣に取り組んだ作家だと(個人的には)思っている。

人間というのは、本質的に利己主義的で、自分勝手なのだ、という回答は凡人なら誰もが思いつく凡案である。

それほど簡単な問題ではない。

漱石の『三四郎』は、司馬遼太郎の『街道をゆく』第37巻の『本郷界隈』でも引用されていて、次の下りを読むと、ああ、やっぱり同じ読み方をするのかなあと、感じたところだ。司馬はこう書いている:

与次郎は無邪気なほどに進歩の礼賛者なのである。

かつ東京者であることを誇りとし、また”明治15年生まれ”という若さに胸を張っている。おそらく広田先生は幕末の生まれなのにちがいない。与次郎は生年のちがいで広田先生を”古い”とし、一方、三四郎に対しては”田舎者”ということで斬りすて、辛うじて自分の”新しさ”を保っている。

司馬が上の下りを書いた原文というのは、おそらく以下の箇所であろう:

 丸行燈に比較された与次郎は、突然三四郎の方を向いて、

「小川君、君は明治何年生まれかな」と聞いた。三四郎は簡単に、

「ぼくは二十三だ」と答えた。

「そんなものだろう。――先生ぼくは、丸行燈だの、雁首だのっていうものが、どうもきらいですがね。明治十五年以後に生まれたせいかもしれないが、なんだか旧式でいやな心持ちがする。君はどうだ」とまた三四郎の方を向く。三四郎は、

「ぼくはべつだんきらいでもない」と言った。

「もっとも君は九州のいなかから出たばかりだから、明治元年ぐらいの頭と同じなんだろう」

 三四郎も広田もこれに対してべつだんの挨拶をしなかった。少し行くと古い寺の隣の杉林を切り倒して、きれいに地ならしをした上に、青ペンキ塗りの西洋館を建てている。広田先生は寺とペンキ塗りを等分に見ていた。

「アナクロニズム(=時代錯誤)だ。日本の物質界も精神界もこのとおりだ。君、九段の燈明台を知っているだろう」とまた燈明台が出た。「あれは古いもので、江戸名所図会に出ている」

「先生冗談言っちゃいけません。なんぼ九段の燈明台が古いたって、江戸名所図会に出ちゃたいへんだ」

 広田先生は笑い出した。じつは東京名所という錦絵の間違いだということがわかった。先生の説によると、こんなに古い燈台が、まだ残っているそばに、偕行社という新式の煉瓦作りができた。二つ並べて見るとじつにばかげている。けれどもだれも気がつかない、平気でいる。これが日本の社会を代表しているんだと言う。

Source::青空文庫『三四郎』

URL: https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_14946.html

もちろん、本来の江戸っ子である漱石は、与次郎という軽薄な東京者の青年を戯画化し、本人ばかりが大真面目な阿保らしさをピエロにして揶揄っているのである ― 漱石はユーモアが豊かで滑稽小説の才能があるが、そんな人に限って、根の性格は真面目かつ冷淡であったりする。

上で引用した司馬遼太郎の下りで、”明治15年生まれ”を”21世紀生まれ”に、広田先生を“〇〇部長”、”幕末”を”昭和”と言い換えれば、現代日本社会の世相を風刺する文章としても十分通用するはずだ ― 現代日本には進歩という内実が伴っていない分、与次郎の役回りの若者は一層のこと滑稽なピエロになるが、そこまで若年世代は愚かではないはずだ。

この「十分通用するはずだ」という点にこそ、変わらない日本社会、いつまでも周回遅れで世界についていく日本という一面が集約されている。そう思うのだ、な。

「分かりあえない」というのは、多分、個人主義が基盤にある欧米社会にも言えることなのだろうと思う ― 身体に染み込んだ体感としては共有できないが。

しかし、分かりあえないとはいえ、宇宙人と地球人とが分かりあえないレベルでもあるまい。例えば、同じキリスト教徒であり、同じ教会に行き、同じミサに参加するなら、その一点で互いに共有できる何かがあると知れるのだ。

分かりあえないとする理由には多くの点が挙げられる。

そもそも男と女は分かりあえない所が最後まで残るに違いない。身体的構造が異なり、異なった人生経験をくぐる以上、相手の身になって考えるのも自然と限界はある。男は女の気持ちが本当の意味では分からないし、女も男の心が本当の意味では分からないのである。

若者と老人が分かりあえないことも事実である。老人は、自分が若い時分の考え方を思い出すことが出来るので、若者が老人の心の中を本当の意味で理解できていないことを知っている。他方、若者は若者が憶測できる範囲で老人の心の中を理解していると思うかもしれない。しかし、そう思うか、思わないかにかかわらず、自分がまだ経験してもいない人生の段階で人は何を思うかを理解できるはずはないのだ。「話を聴く」と「分かる」とは天地の違いがある。

富裕層に育った子弟と貧困家庭で成長した子弟も、やはり本当の意味では、世界との向き合い方が違うはずであり、互いに分かりあえない所が残るだろう。

イスラム教の寺院であるモスクが今後日本でも増えていくだろうが、仏教徒とイスラム教徒は互いに分かりあえるだろうか?小生はこの点についても悲観的である。

つまり、人は互いに分かりあえないものである、と。この認識を大前提にしながら、社会は運営される必要がある。

子の心の中を幾ら理解しようと努力しても、親は子の心の中を本当には分かっていない。この事実に驚くことも、親は自らの人生の中で経験することである。そして、この経験を通して、親は自らが親に対してしてきたことを悟るのである。

親と子ですら、分かりあえることはない。まして国民と政治家においてヲヤ、ではないか。

だから、

社会は虚構である。

繰り返し、こう書いている間は、こう考えている、ということだ。

実在するのは、個人と家族。こう書くと、例によってサッチャー元・英首相の受け売りになる。が、更に「個人と個人をつなぐ人間関係だけである、存在するのは」と、こう言えば、包括的になる。法律が定める制度は実在する人間関係を入れる透明な器のようなもので、中身ではない。

家族は互いに理解しあっているわけではない。しかし、互いを愛し、助け合っている。

これで十分だと思う。

知りもしない他人を、ただ日本人だからといって、国籍が同じだからと言って、それだけで互いに愛し、助けたいと思うかどうかなど、ハナから無理な話であろう。


2024年6月23日日曜日

覚え書き: 日本の成長機会は、大都市にあって地方は疲弊しているって、ホントに?

もう歴史の中の風景になったが、昭和30年から45年までの《高度成長》の間は、農村から都市への巨大な人口移動が何年も続いたものである。日本の産業構造は、農林水産業から工業へ、次いで商業、サービス業へとウェイトが移っていった。

その記憶が日本人の心の中に残っているためか、最近になっても、「地方経済の疲弊と東京への一極集中」という言葉をよく耳にする。何だか、頑張る大都市圏とバテバテの地方圏。そんな対比がイメージとしては伝わってくる。

しかし、高度成長時代ではあるまいし、今でも昔のような見方が正しいのだろうか?

ちょっとそれは可笑しいですゼ……昔そうだったから今でもそうだとは言えますマイ。

そう考える次第。

今日は、極めて概括的な仮説しか書かないが、

グロースセンターとしての大都市圏 vs 停滞している地方圏、というとらえ方はおかしい。理屈として通らない。

そう思う。

大雑把なロジックを言うと、もし東京圏の主たる経済活動である中枢管理機能や高度サービス業の生産性が高く(だからこそ、時間当たり賃金も高いわけで認識としては正しいが)、かつそれら業種の生産性向上率も今なお高いのであれば、地方圏の就業者が減少し、大都市圏の就業者が増えるとき、日本経済全体の成長力は低下しないはずだ。少なくとも何年も賃金が増えないという状況にはならないはずである。

なぜなら、大都市圏、特に東京圏への一極集中は、停滞地域から成長地域への人口移動になるはずだからだ。

しかし、事実はこれに反している。

単純に考えて、経済活動の地域間分布がそのままで、人口だけが地方から大都市へ移動すれば、人口が減る地方の労働生産性は上がり、人口が増える都市の労働生産性は落ちる理屈だ。大都市と地方の賃金格差を縮小させる要因として働く。

実際にはそうならなかった。それは地方の産業生産額そのものが減少したためだ。これは(特に製造業の)生産拠点が海外に移転したことによる。

しかし、だからこそ地方の住民は大都市へ移動して就業機会を求めた。地方から優良な就業機会が失われたが、そこで決して滞留したわけではない。もし滞留していれば、地方圏の生活が破綻し暴動が起きていただろう。移動の自由が保障されているからこそ、問題は自動的に解決されたわけだ。

地方から大都市への移動は、大都市における財貨サービス需要を増やす。その一方で、直接効果としては、大都市内の(特に流通、サービス業の)労働生産性がマージナルな意味で(短期的には)低下する(限界生産性逓減の法則!)。故に、市場価格が形成される食料品など全国商品は別としてサービス価格は大都市で割高になる理屈だ。

そのサービス部門でイノヴァティブな生産性向上努力が進めば、サービス価格上昇は抑えられる ― オフィスビルやマンションの高層化は生産性向上の努力の一環である。しかし、最近10数年間の小売価格動向をみると、大都市における生産性向上は期待したほどにはなっていない。中枢管理機能の生産性は計測が難しいが、官公庁、大企業の本社機能を含め、時間当たりサービス効率が上昇しているとは到底思えないであろう。

それは大都市圏において成長をもたらすイノベーションがそれほど進んでおらず、寧ろ停滞気味であるからだと思う。

地方圏はどうだろう。簡単に、地方圏≒農村地域だと考えよう。

最近、顕著に報道されるのは、「高付加価値農産物」の成長である。

《高付加価値化》は、同じ販売数量から得られる賃金+利益の原資を増やすので、生産性向上と同じである。

実際、日本の農業は、15年前の《2009年農地法改正》以降、実質的に農業経営が自由化され、競争力が強化されつつある。国内の農業法人のうち「株式会社形態」をとる法人数も足元で急増している(たとえばこれを参照)。

経営形態の合理化は、イノベーションの表現形態の一つである。

いま足元では、人口が減少、もしくは停滞している地方圏で、生産性が向上している。小生はこんな憶測をしている。

一方で、大都市圏の経済活動の柱である流通、サービス業、中枢管理機能(=公的機関?)は、決して生産性が向上しているとは言えない。そんな価格構造になっている。

故に、

グロースセンターとしての大都市圏 vs 停滞している地方圏、というとらえ方はおかしい。理屈として通らない。

足元の認識としては、これが正しいと思うのだ、な。 

この10年ないし20年間で進行してきたのは、かつてリーディング産業の生産拠点であった事業場が流出し、就業機会を失った地方圏から大都市への人口移動だった。地方の生産現場はシュリンクし、大都市のサービス経済はボリュームとして拡大した。

しかし、そこで規模の経済が働いたり、新サービスが創出されたり、デジタル化による合理化などから大都市経済の生産性が特に高まったわけではない ― タワマンなど一部にそれらしいものが認められるが限定的だ。

故に、日本全体としての経済成長は停滞した。

いま足元では農村地域の生産性が高まってきているが、雇用は派生需要であり、国内農産物への国内外の需要が拡大しなければ、地方における労働需要は増えない。つまり、地方の労働需要が、大都市への人口移動を止める、さらには大都市からの逆移動を引き起こすほどには、まだ拡大していない。

都市と地方を対比するとき、産業部門ごとのコスト優位性、顧客満足度の違いは本来マチマチで、それぞれの地域で比較優位産業は必ず存在する。

いま必要なのは、かつては作成されていた《全国総合開発計画》のようなプランニングであろう。

こういうとらえ方になるのではないか。


ま、概括的だがデータ分析抜きの「仮説」である。

今となっては遅すぎるが、

2000年代初め、過剰設備、過剰雇用に苦しむ国内製造業が生産拠点を海外に移転する動きが盛んであったのと並行して、2009年の農地法改正をもっと前倒しして、地方経済再生にもっとリソースを投入しておけば、いま日本全体として直面している色々な問題(少子化、食料自給率、過疎化、etc.)も、今ほどには重症なものにならなかったかもしれない、と。そんな風にも思ったりするのだ。

こんな視点もありうると思うので、分析課題の候補として、一応メモしておく次第 ― 精緻な検証は、億劫なので、他人任せになるだろうが。

2024年6月20日木曜日

ホンノ一言: 都知事選はチンプンカンプンの現代版かも

今度の都知事選がキー局のワイドショーを通して日本全国に連日放送されている。そこでは現職の小池百合子候補が三つのシティだったか、例によってキャッチーなフレーズを思いついたようで。

  1. セーフシティ
  2. ダイバーシティ
  3. スマートシティ

この三つを売り文句にして話している。

具体的に「防災と防犯」、「多様性の向上」、「デジタルDXの加速」とでも言えば、まあ曲がりなりにも意味が通じると思うのだが、これでは昭和のおっさんみたいだ ― 実際には「昭和の△△さん」ではあるのだが。ヤッパリ「元・ニュースキャスター」の遺伝子はシッカリと効いているようだ。

同じような筋合いというわけではないが、このところ、昔みて今ではスッカリ忘れたTVドラマを視るのと似ているのだが、司馬遼太郎の『街道をゆく』を読み直したりしている。そのきっかけは先日の投稿でも書いたことだ。


今回は36巻の『本所深川散歩、神田界隈』の中の次の下りには笑ってしまった。

文章語もまたその国の言葉だから、社会のすみずみまで共有されるべき性格をもっている。

「なにをいってるんだか、チンプンカンプンでわかりゃしない」

という言い方は、江戸で多用された。チンプンカンプンとは、三好一光編『江戸語事典』(青蛙房刊)に、「儒生の漢語に対する庶民の冷笑語」とあり、漢文・漢語のことらしい。

・・・

要するに、一国の文章語がチンプンカンプンだと、法も経済も興らない。 

チンプンカンプンという単語は小生も頻繁に使ってきたが、江戸時代以来の日本語であったかと、これまた読んではいたが、身についてはいなかった知識だ ― まあ、司馬遼太郎の記述を信頼しての事だが。

現代日本には、古典・漢文をバックボーンにもつ政治家など、日本中を探し回っても(まず確実に)一人もおるまい。いるのは(第二外国語の仏語でも独語でも西語でもなく)英語から流行単語群をピックアップして気に入った幾つかを列挙しては有権者を煙にまく ― マウントをとるといえば現代的表現になるかもしれないが ― そんな(選挙の)プロ達である。

上の小池候補の三つのシティは、英語でもなく「ナイター」や「トンカツ」辺りと同じ和製英語に近い臭いがするのだが、何となく英語としてもキャッチフレーズになりそう、というか使用例があるという所に手堅い感覚がうかがわれ、流石に元・ニュースキャスターだと感じる。


でも、まあ昔のチンプンカンプンに相通じる反応もありそうで、上の台詞をもじるなら

何をいってるンだか、アレシティ・コレシティ・ドッチデションなんて、わっちに聞かれても、答えようもありませんヤ

まあ、それでも最近流行のイニシャル単語よりは単語になっているだけ良心的かもしれない。

何をいってるンだか、そのエスディージーズって、何か特別な種類の痔のことでござんすか?

こんな問いかけをする有権者が出てくるかもしれない。そうしたら、立候補をしている恵まれた階層出身の昭和生まれの候補者が

Who?

Who?

Who Are You?

などとのたまいながら、"Jesus Christ Superstar"を踊りだすかもしれない。

そんな情景がもしリアルで演じられでもすれば、TVのワイドショーは連日の大賑わいになって、キー局もスポンサーも大喜びをするに違いない。昔の小判ならぬ、マネーが宙を舞うでありましょう・・・


ま、いずれにせよ、都知事選は北海道に暮らす小生には(今や)遠い地方のことで、エンターテインメント以上の意味はほとんどなくなったのが残念な所だ。

今日の投稿は遠くの地方選の情況を連日見せられて辟易とした感想ということで。

2024年6月17日月曜日

ホンノ一言: 英仏は民主主義ってものが分かってるんだネエ

イタリアで(今や賞味期限が過ぎようとしている?)《サミット》が開催されたが、一体、1年後のサミットで同じ人が何人出席しているのだろう、と。最後の晩餐ではありませぬが、どこか淋しさをも感じさせるサミットであった。そう思った人は多いのではないだろうか。

欧州議会選挙でフランスの極右政党《国民連合》が躍進した事態を受けてマクロン仏大統領は下院を解散するという奇襲作戦に打って出た。年齢が若いせいか決断が速い。イギリスのスナク首相も下院解散と総選挙実施を決断した。選挙は7月4日だ。ほぼ確実に野党・労働党が勝利して英国の新首相はキア・スターマーに変わるだろう。オックスフォードを出て弁護士となり検察局長官に出世し、その後、政治家に転身した人物だ(そうだ、Wikipediaによると) ― 日本の立憲民主党にも「インテリ左翼」が多いようで、最近、欧米で増えているタイプだ。

アメリカの大統領もあのトランプ氏に対して(何故だか?)バイデン氏が苦戦。日本の岸田首相はおそらく(?)今秋で退陣。カナダのトルドー首相も支持率は野党党首より低い。

G7メンバーの各国はどこも政治不安に悩まされている。「構造改革」が叫ばれているが、根本的背景として、ロシア=ウクライナ戦争の混迷、イスラエル=ハマス紛争の混迷、欧米政治家の不決断と閉塞感があるのは間違いない。不支持率が上がっているのは、要するに評価されていないという事の表れだ。

ただ、思うのだが……

マクロン大統領の突然の下院解散。スナク英首相の政権交代リスクを覚悟した下院解散。さすがに民主主義の運営が身についた2国であると思います。「これが民主主義だ」という自信があります、ナ。「支持率が落ちているから今は解散できない」などという非民主主義的な保身戦術とは縁がないようで。

英仏はヤッパリ民主主義の本場だ。ドイツはこうは行ってないが、地方分権が徹底していて、国としては中央集権じゃあない。ドイツ的な民主主義がある。イタリアはイタリアで多数の政党が離合集散しているが、それ自体がイタリア的な民主主義なのだろう。

日本人は、民主主義の運営にはまったく不慣れだ。自国の憲法改正を、歴史を通して、一度としてやり遂げたことがないという事実からも分かる ― もちろん明治以後の立憲体制下でのことである。江戸時代は吉宗の享保令まで武家諸法度が何度も改正されたし、律令体制下では例外的な官職が設けられており、細則である格・式が何度も制定され現実との対応をとっていた。「法治の在り方」、「人権の在り方」、「政治家の役割」、「官僚の役割」……と。国家運営において、立憲政治も民主主義もともに輸入文化で実はよく分かっていない。欧米流の理屈と日本人のホンネが矛盾するような時がある。それと、日本の大手マスコミ企業の特に経営陣の所作動作がネエ……。「前衛」を自称する共産党と同じ臭いがします、ナ。

ただ、これも民主主義が善いに決まっているという大前提があっての話しだ。

そんなンじゃ、ダメだろ!

何故ダメなんですか?

変えろ!!

みな困るんですケド。 

要するに、こういった辺りに収斂する話だろうと割り切っております。

2024年6月15日土曜日

覚え書き: 子育てのフリーライダーが発生するロジックは?

本日の投稿は、文字通りの覚え書きということで。


家族が生産単位ではなく消費単位となった現代社会の特徴は、一つは「都市文明」である点、もう一つは「消費社会」であるという点だ。

大都市の特質は、一人一人の人間が独立して平等、かつ自由であることで、それに消費社会化の動きが加わると、家族から切り離された個人が自由に自分自身の満足を追求する、そんな生き方が是とされる価値観が生まれる。

少子化は、こんな現代社会から必然的に表面化してきた現象だと観ている。

ただ、人間は必ず老いるものだ。老いた老後にも所得は必要だ。その所得は、自ら蓄積した「私的資産」から生まれるという理屈になる。

が、現代社会には「公的年金=公的資産」がある。その公的年金は、年金保険料という「強制貯蓄」と未来世代が負担する「税」によって賄われるので、ロジックが複雑になっている。

本稿では、現在世代が所得の一部を積み立てて形成した資産から生まれる所得フローは、あえて「公的年金」とは呼ばないことにする。

「公的年金」は全て未来世代の税で賄うものとする。


そうすると、「公的年金」とどう関連するかで、親世代の生き方は大きく二つに区分される。

  1. 一つは、所得は全て親世代(=自分自身)の消費から得られる満足最大化のために支出する。
  2. もう一つは、親世代の満足最大化のために全ての所得を支出するわけではない。(敢えて?)子を育て、子の生活水準を高めるために所得の一部を貯蓄して遺産を残し、そのことに親世代が満足を感じるという生き方だ。

一番目の生き方をすれば、子を育てることに(コストに相応した)満足を感じず、結果として自分が得る公的年金は他人が育てた未来世代から受け取る、そんな家庭が発生するだろう。理屈としては、一部の家庭にフリーライドされる。

二番目の生き方は、しばしば《王朝モデル》と呼ばれている。現代社会では、旧式な家族基盤はホボゝ崩壊しているが、子を残すこと自体から親は満足を得る(と考える)わけだ。先日の投稿のように、社会全体を疑似家族のように再設計することは(理屈としては)可能だ。そこでは、自分自身の老後の生活を子世代が負担することを知った上で、子の負担を少しでも軽減しようと遺産を子に残そうとする動機が親世代に発生する。親は引退後に年金という仕送りを子から受け取る。子は親の死後に遺産を受け取る。観ようによっては、親世代と子世代との「取引」にもなっている ― 介護と相続との関係という問題は省略する。育児数は、遺産動機の強さと、親世代の生涯収入に依存して決まる。

特別の理由がない限り、「ゼロ育児世帯」は、一番目の行動原理から発生する。

都市化と消費社会は、そうした社会が善いとする価値観が浸透する中で、1の行動原理が広まり、2の行動原理が否定的に評価される傾向を生み出す、と。仮にこう考えると、少子化という現象が社会問題になるのは必然的だということになる。


2024年6月14日金曜日

断想: 労働に汗を流すから価値がある、とも断言できない

最近、SNSを舞台にした投資詐欺が横行している。かと思うと、高名な某経済評論家が

お金というのは額に汗して得るものなンです。お金にお金を儲けさせてはダメなンです。やってはいけないンです。

と。こんな警句を発している様だ。マア、言いたいことは分かる。「マネーゲーム」で本当に価値ある実質は何も生み出されていない。「土地ころがし」で何かが生産されているかといえば何もない。

究極的には、小生は《労働価値説》に大いに共感をもっている。が、この共感は相当アンビバレントなところもあって、決して汗を流して一生懸命に努力したから必然的に価値あるものが生み出されるわけではない、とも思っている―例えば、これとかこれ

ごく最近、次のような下りを投稿の中で書いた:

そもそも所得フローを生むには、リソースが必要だ。一つは「労働」という要素、もう一つは「資本」というリソースだ。資本には、不動産と機械・設備と言った動産、及びカネが含まれる ― 土地に働かせれば地代が、カネに働かせれば配当や利子が得られる。その他に、資本には無形資産(≒知的財産など)がある。例えば、著作権、特許権、職業資格などがそれに該当する。旧い時代の世襲身分が「家禄(=所得)」を伴うなら、それも無形資産と言える。しかし、資本だけがあっても労働要素がゼロであれば(基本的には)生産活動は不可能だ。自らが有する労働要素をこれ以上投入できない年齢に達すれば、生活ができない。故に、次世代の子が継承して生産を続け、所得をプラスに維持する。

かくいう小生も、身体を張って授業を直接担当する<労働>からは足を洗い、現在はこれまでに蓄積した資産を運用して所得フローを、即ち生活の糧を得ている。つまり、いま小生の毎日を支えているのは100パーセント<不労所得>である。

もはや汗を流してカネを得ているわけではない。しかし、このようなライフスタイルに小生はいま感謝しているのだ。

なぜなら自由な時間が生まれたからである。

読みたくとも「我慢」をして読まずにいた本を読めるようになった。若い頃に読んだが理解できなかった本を再読することが出来る。物事を深く考え、世界観や社会観について考察し、考えることの楽しさを享受できる。ラッセルの『西洋哲学史』を精読できたのは十分な自由があるからだ。若い頃に読んでも、未熟な年齢では真に理解できない点が多かったのだ。『漱石全集』や『源氏物語』は、専門家でもなければ、若い学生時代に読むしか時間がないだろう。若くとも読まないよりは読んだ方が遥かにマシだが、例えば『こころ』は実年齢に達してから読まなければ本当には理解はできないはずだ。真に理解できれば、落涙滂沱、何日かは打ちのめされる程の衝撃を感じるはずである。島崎藤村が『夜明け前』という作品をどんな理由で書きたかったのか。真に共感するには、その時の著者と同じ程度の人生経験が必要だ。

数学や統計学は年齢とは関係なく勉強できるが、芸術の理解と年齢には明らかに関連性がある。

思うのだが、こうした芸術を理解し、日本人が創造してきた文化的豊饒さを吸収することの方が、額に汗して労働をするよりは、幸福につながると感じる(と個人的には感じている)。

カネに束縛されず自由を得るには、カネを稼ぐ労働から解放されなければならない。余暇を選ばなければならない。それには、労働以外のリソースに働いてもらう必要がある。そのための準備をするのが若い時代である、というのがライフサイクル理論だ ― もっとも素朴なライフサイクル理論では、人はだれしも資産を食いつぶしてから死ぬという大前提を置いているのだが、日本の歴史を通して、こんな大前提に日本人が魅力を感じたとは思えない。

実際、日本文化のほぼ全ては、荘園・領地から上がる不動産収入、次いでは商業資本の営業収入に生活を支えられた人々、そうした人々に連なる人々によって生み出されてきた。王朝と武家の文化、奈良・京都など各地に残る文化遺産はその典型だ。

現代世界は更に生産的リソースが多様化し知的資産が主となりつつある。

とはいえ、カネを取引する経済の現場と知が自由に発露する文化世界とは、ずっと昔から水と油の関係にあるのは、皆分かっている事だろう。文化は何ものにも束縛されない自由な空間と時間の中で育つ。その自由は余暇と不労所得の上に得られるものである。こう言ってイイのではないか。


労働こそ最も尊ばれる価値の源泉であるというのは、それ自体、否定しにくい所があるのは事実だ。人が集まる大都市で長時間の仕事をして、仕事に「満足」を感じる人も多い。が、つまりは商品やサービスの価値付けである、考えているのは。本来は価格モデルである「労働価値説」をライフスタイルにまで一般化して主張する果てには文化的な不毛がある。

労働こそ価値の源 ⇒ あなたの遊びは社会の何の役に立つのか?

文化破壊の根底には常に社会的善意が隠れているものだ。だからこそ、《寡黙なおカネに働かせて、自分は田舎で暮らす》というライフスタイルを人生の理想とする人は世界で多い。

この辺りのことは、プロレタリアートが支配する共産主義国家が歩んだ文化的荒廃をみても明らかだ。共産・中国(?)が達成した経済的成功。社会主義の模範生(?)だったソ連が達成した平等な(?)な国民生活。それにも拘わらず、寒々とした文化的達成を目の当たりにして、「これは何故だ」と、そう驚く人は実は少ないに違いない。いや、いや、今日の投稿は現代中国をディスることが目的ではない。この辺で。

【加筆修正:2024-06-15、06-16、06-17、06-18】


2024年6月12日水曜日

本を「見る」と「身につく」とは本質的違いがあると痛感した話し

少し以前の投稿で現代日本語で何だか気に入らない表現の一つとして『……させて頂きます』という言い回しを挙げた事がある。そこではこんな風に書いている:

何だか21世紀になった頃から接客現場、営業現場で流行り始めた

取りあえず・・・させて頂きますネ

という言い回しと同じ価値観が共有されているではないか ― フランクに『・・・しておきます』と言えば済むことだ、と感じるのが世代ギャップなのだろう。学校のクラスで宿題をやってきたかどうかを聞かれた生徒が『宿題、させて頂くつもりでしたが、忙しさの余り休ませていただきました』なんて言えばギャグとしてもブラック過ぎる。

ところが、最近、司馬遼太郎の紀行文『街道をゆく』の第24巻「近江散歩・奈良散歩」を読んでいる時、以下の下りに出会った:

日本語には、させて頂きます、という不思議な語法がある。

この語法は上方から出た。ちかごろは東京弁にも入り込んで、標準語を混乱(?)させている。「それでは帰らせて頂きます」。「あすとりに来させて頂きます」。「そういうわけで、御社に受験させて頂きました」。「はい、おかげ様で、元気に暮させて頂いております」。

この語法は、浄土真宗(真宗・門徒・本願寺)の教義上から出たもので、他宗には、思想としても、言いまわしとしても無い。真宗においては、すべて阿弥陀如来―他力―によって生かしていただいている。三度の食事も、阿弥陀如来のお陰でおいしくいただき、家族もろとも息災に過ごさせていただき、ときにはお寺で本山からの説教師の説教を聞かせていただき、途中、用があって帰らせていただき、夜は9時に寝かせていただく。

この語法は、絶対他力を想定してしか成立しない。

『街道をゆく』シリーズのホームページによれば、旅行期間は1983年12月8日から10日までの3日間である。

小生の家も「他力」の系統だが、やはり浄土真宗とは日常の気分が異なっている様だ。

この下りは、以前にも(と言っても何年前になるのか思い出せもしないが、それでも読んだはずである)、確かに「見た」ような記憶が残っているのが不思議である。

本を「読む」と、「見る」には大きな違いがある。「読む」と「分かる」にも違いがある。「分かる」と「身につく」にも違いがある。故に、本のページを開くことと、本の内容が身につくことの間には、天地ほどの違いがある。だから、何度も読み返さなければ「読んだ」とはならないわけだ。 

司馬遼太郎の『街道をゆく』をいまどの位の人が読んでいるのだろう。多分、精読はしないのだろう。それでも読めば、書かれたことが目に入って来る。書かれていないことは後の人の目には入らない。記録しておくという行為こそが大事なのだ、ということも上の系として言えそうだ。

ずっと前に一度読んでいたにも関わらず、最初に引用したことを今になって書いているわけだから、この面では小生はこの期間を通してバカになっていた、ということである。

『論語』の第1章冒頭

学びて時に之を習う亦説ばしからずや(まなびてときにこれをならうまたよろこばしからずや)

は、正にこれを言っているわけで、自然科学と違って、人間行動についての基本事項は古代の昔から実は分かっていた。そういうことでもある。

 


2024年6月9日日曜日

先日投稿の補足: 出産・育児数に応じて基礎年金を増額すれば「家族」の代替にはなる

ついこの間までは、「コロナ」という言葉を聞かない日はなかったのが、今は「うら金作り」で一日が暮れている。政治資金規正法改正案の骨子が出て来れば、今度は「企業団体献金をなぜ禁止しないのか」と。そして、足元では「こんな情況になったのも、ジェンダーギャップが日本に残っているからだ」と。「女性が登用されていればこんな不祥事はなかった」と。今朝のワイドショー(あるいはニュース解説?)でも、メキシコに登場した初の女性大統領・クラウディア・シェインバウムがいかに期待できるかという話しでもちきりでありました・・・

それほど女性政治家に期待が持てるならば、何故マーガレット・サッチャー元・英首相を話題にしないのか?

一言も触れない。時代を変えた大政治家で、しかも女性であった。サッチャーを避けるのは奇妙だろう。そう思いました ― マ、番組編集側にとって、何か都合の悪い面があるのだろうとは伝わってくるが。

こんな風な朝で、とても快いという訳にはまいりませぬが、先日の投稿に一つ補足。

家族と生産活動とが切り離されて、純粋の消費単位になった現代の家族にとって、出産・育児は所得を割く対象であって、自分たちの所得を生む活動ではなくなった。

つまり出産・育児は、労働資源の再生という点では社会的投資であるのに、マイクロな当事者の立場からみると投資ではなく、純粋の消費となる。

経済学では私的利益と社会的利益を乖離させる《外部経済・外部不経済》が授業でも必須のテーマになっているが、出産・育児は水道や道路などの社会資本に勝る外部経済性がある。全ての家庭が面倒な出産・育児を回避すれば、1世代後の30年後には全ての国民が困窮するわけだ。故に、社会的に観れば、出産・育児ほど不可欠の社会的投資はない。

このロジックに沿えば、少子化の基本的原因は私的動機と社会的動機の乖離にあるのだから、その乖離を解消すればよい。これが問題解決につながるという理屈になる。

例えば、国民年金(=基礎年金)をその年度の税収で賄う完全賦課方式に改正したうえで、

$$B = 30 + 50 \times N_c $$

という具合に、出産・育児数($N_c$)に応じて、基礎年金額が増額されるという方式にすればよい。但し、上の式の金額単位は万円、$N_c$は成人まで育てた子供の人数、$B$は基礎年金額である。

税収で賄う年金であれば、年金の原資を生み出す国民は、親世代が生んで育てた子世代である。子供たち全体が親全体を老後に養うとすれば、上式のような決定方式が理に適っている。

仮に上式に沿って決定されるとすれば、一人の子供を育てた両親は父母それぞれが80万円、二人合計で160万円。二人の子供を育てれば父母それぞれが130万円、二人合計で260万円となる。育児数がゼロである世帯は、夫婦合計で60万円を受給する。労働資源再生に直接的には参加していないが、だから寄与もゼロとは言えないだろう。

もしも国民年金という制度がなかりせば、(被用者の厚生年金を強制貯蓄とみなせば)自分が貯めた資産、でなければ育てた子供が継承した生産活動か、もしくは仕送り金で親世代は暮らすわけである。家族と生産が不可分であった農村社会で家族が果たしてきた役割を代替するとすれば、日本社会全体を疑似家族とみなして、上のように運営するのも一法であろう — 社会主義の香りがするが個人のインセンティブに着目している点から区別される。

現代の先進国が少子化に悩んでいる根本的原因は《都市化》と《消費社会》にあると観ている。昔の農村社会には戻れない以上、プラスであった一面を取り戻すのも一つの解決策である。あと、もう一つ別の方法があるとすれば、やっぱり国家経済計画当局に重要事項決定を委ねる《真正の社会主義》でしょう・・・強権的な資産課税、経済格差の強権的な是正は、確実に少子化の歯止めになると思う ― とはいえ、少子化対策として社会主義体制に移行するのは正に「目的外使用」というものだろう。絶対にうまくは行かない。


その世帯の生活水準に応じて、基礎年金額をどう決定するか、細部の詰めが残るのは当然である。夫婦が離婚したときはどう算定するか、子が成人前に死亡した時はどうするかなど、細部の論点は残るが、いずれも<解答可能な問題>であろう。

2024年6月5日水曜日

断想: 「無所属」、「無党派」はどうかと思いますネエ、という話し

先日行われた東京都港区長選挙でもそうだったが、ごく最近の 日本の選挙、特に地方選挙では「△△党公認」と名乗るのを回避して、表向きは「無所属」で立候補する方が有権者の受けがイイようだ。世論調査で多数を占める「無党派」と立候補者の「無所属」が、どちらも増えてきているのは、偶然のシンクロではあるまい。

しかしながら、

私は、既存のどの党派にも属しません。支持しません。

というのは、非常に、《欺瞞的》というか、《偽善的》というか、

私は無宗教です。でも初詣には行きますよ、皆さんと一緒にお参りしてます。

などと語るのと同じで、呆れるような世相だと思います。こんな人物が《指導者》になれないことはロジカルな結論で、つまりは《迎合》だと思って聞いている。

多分、《分断》を避ける中立的な政治家と政治的ポジションが、いまの日本社会で強く求められているということの表れだと思う。なので「無所属です」という御仁は、有権者に寄り添う謙虚で優しい人かもしれない。

が、大体、社会というのは時代を問わず、国を問わず、常に分断しているというのが小生の社会観だ。

だからこそ、武装蜂起や暴動、内乱に代わる仕組みとして普通選挙がある。そう思うのだな。選挙で勝った側の党派が権力を握る。少数派は、負けた以上、仕方がないので権力を委任する。なので、次の選挙結果が出るまでは、多数を占める党派が主張する内政外交が推進される。それが善いと評価されるなら、たとえ次の選挙で野党が勝つとしても、政策をリセットするのはもはや難しい。リセットできるのは効果がなかったと評価される政策である。

これが民主主義体制の強みである、というのが教科書的な説明であろう。

だから、(日本人が憧れる?)「欧米先進国」では、

職業公務員(=官僚)は専門家で中立的。しかし、政治家は党派的。政治家が任用する官庁上層部も党派的。

これが自然な姿である。軍部はどの政党に対してもニュートラルという原則に通じるものがある。

他方、ここ日本では、政党に属する大臣が現場の官僚に行政方針を指示しても、党派的であると嫌悪したり、非難したりする感情が割と強く、報道でも否定的に解説されることが多い。それは

特定の政党に属する国会議員と言えども、大臣は(法の前に平等たる)国民全体に奉仕する公務員である

という見方になるし、「だから」という理屈はないと思うのだが、総理になれば党内派閥を離脱、大臣になれば党内派閥を離脱と、それが当たり前の政治姿勢であると語られたりもする。実に可笑しな心理だ。ことほどさように、日本では《平等性》という価値に執着する心理が強い、ということでもある。

この傾向は日本では歴史を貫いてあったと推測しているのだが、では封建的な身分社会で人々が意識する「平等」とは、どんな平等性であったか、研究すれば面白いだろうナア、と思う。支配階層の心理とともに被支配階層の「被支配感覚」もまた興味をそそられる研究テーマだ……、いや、いや、話しが広がり過ぎだ。これはまた別の機会に。

平等を最大限に尊重するのは《和》を最大限に尊重するからである。

英語で言えば、「和」は"Harmony"か"Peace"辺りになると思うが、これに対して欧米ではむしろ"Justice"(=正義)や"Fairness"(=公平性)が社会的価値の根幹としてよく伝わってくる。中国で一時流行った「造反有理」の「理」には"Justice"が多分含まれている。理があれば造反やむなしという思想だ。福沢諭吉が『学問ノススメ』で評価した"martyrdom"は命をかけた反対運動のことで、いついかなる時も平和を願う平和絶対主義者ではなかったことが分かる。

「和」は、古の国号「倭」にも通じる、日本という国の本質でもある ― 実際、清酒の発祥地・奈良県では「倭」という純米酒が醸造されている。小生も呑んだことがあるが、淡白端麗な風味で旨い。自ら主張していないところは「倭」という酒銘にふさわしい。

歴史的に、「派閥抗争」というものが、いかに悲惨な結果をもたらすのか。乱や戦国時代を経験している日本は、身に染みて知っている。国内の《和》というものが、いかに価値あることなのか、もはや遺伝的形質にまでなっている様だ。

こういうことかとも思われるので、一概に、

党派否定。中立尊重。

という心理がダメであるとは思わない。

しかし、民主主義というのは、基本的に(その時点における)多数党による支配のことである、と。これは必須の常識ではないかと思うのだ、な。

Good Loser(=良き敗者)

という言葉があるが、これを政界に当てはめれば

Good Opposition(=良き反対)

とも言えるわけだ。要するに、「良き野党」というわけだ。

どちらが卵かという議論はあるが、小生は「良き野党」があれば「良き与党」があるのだというのが、真理ではないかと思う。逆ではない。

相手を打倒することのみを目的とすれば、究極的には

言論による内戦

をやっているに過ぎない。単に自分が相手にとって変わるだけなら、やることは昨日までの敵と同じである。主役が交代しても同じドラマが進行するだけだ。

国民という全体をとりあうのが選挙だとすれば(マア、そうには違いないが)、有権者をとりあうだけの《ゼロサムゲーム》になる。仮に自民党の支持基盤を奪取できても、勝った後に可能な政治は奪取したはずの自民党の支持基盤が求める路線である。だから、取って代わるだけでは、何も変わらないのだ。

スキャンダル暴露戦術に頼る現代日本の野党に、サッパリ支持が集まらないのは、この辺に理由がありそうだ。

政権交代は、とって変わるのではなく、旧勢力から新勢力への置き換わりを反映する結果でなければならない。それで初めて前に進む力が開放される。

日本の野党が「ダメ」なのは、置き換わるべき新勢力を見いだせていない所だ。政治家としては凡才なのだ、な。そもそも、日本では新勢力が拡大しないように行政、産業組織、法令上のツールが一体となって規制をかけている。だから、社会の表面には見えないのだ。しかし、世界が変化する中で、日本に新しい意識や動機、願望が潜在しているのは当たり前である。その意識や動機、願望を捕らえて、勢力にまとめるのが「政治家」、特に「野党政治家」が持つべき才能である。

幕末の騒乱も同じ理屈で、開明派の下級武士は単に上層部がやってきたことを自分達がやろうと考えたわけではない。新しい事に取り組みたかったわけだ。

科学や文学の世界と同じように、政治の世界にも凡才、秀才、天才の区分が、あるに違いない。しかし、天才が選挙で当選しているかどうかは分からない ― 天才的人物は、往々にして自信過剰で「(のり) 」をこえるだろう。「無所属です」などと公言するはずがない。和の文化には馴染み難いのだ。だから、チャンスがあるとすれば「非常時」を待たなければなるまい。

社会の進歩は極めて党派的な構造をもつ。和では、所詮、進歩が難しい。だから和を守る果てに臨界点が来て瓦解する。進歩と混乱はしばしば付き物なのである。しかし、進歩は「内戦」や「革命」がなくとも可能である ― ナポレオンや西郷隆盛のような歴史的大人物ならまた別の見解があるのかもしれないが。それが民主主義の意義だというのが、小生の民主主義観である ― 現代日本社会で民主主義が期待通りに機能するかどうか、どうも疑問なしとしない理由は、上に述べた通りだ。

和を最大限尊重する日本人の伝統的傾向は、民主主義とは別の政治体制により適合しているのかもしれない、とすら思います。

【加筆修正:2024-06-07】

2024年6月4日火曜日

ホンノ一言: この日経記事はワケが分かりません

今朝の日経を読んで思ったのだが(他紙であっても同じだが)、紙面に掲載される記事は、たとえ同じ主題であっても、同じ記者が書き続けているわけではないのだろう ― 連載と分かっている特集記事を除くとして。

そうでなければ、

これ書いてるヒト、頭の中はどうなってるンです?

と、心配せざるを得ないような記事がママある。

今日の朝刊には

NYダウ反落、一時400ドル超安 景気減速懸念が重荷に

というヘッドラインが踊っていた。

しかし、最近のニューヨーク市場株価が反落するのは、直前に《良すぎるデータ》が公表されたときだ。景気が良いと、FRBの高金利政策の継続が予想され、故に株価は逆に下がるんだ、と。正直、眉唾ものの説明だと思っているが、そう語られることが最近の流行だ。

この理屈が正しいなら、景気減速が本物なら金利引き下げが予想されるので、株価には追い風になるはずだ。

しかし、景気減速が懸念されるので株価が下がった、と。

これでは、

景気が良けりゃあ、金利先高感で株価は下がる、景気が心配になりゃあ、株価は下がる。

株価が上がるのはどんな時で?

オーソドックスな見通しは、景気回復が続きそうなら株価は上昇、景気後退が予測されるなら株価は下落。株価は先行性をもつ。少し前まではこんな風だったが、最近は、(不思議なことに)逆目になっていたわけだ。

上の記事だが、どっちの発想で記事を書いているのでござんしょう。

悲観主義が身に沁みとおった現代日本人なら

株ってナア、そもそも下がるモンでしょ・・・

と言って、資本市場を怖がるばかりなのだが、上の日経記事は日本的感性で誰かが書いているのか、と。

そう思いました。