2024年10月31日木曜日

ホンノ一言: 皇位の男系継承に国連が批判的眼差しを向けているとか・・・

国連の機関が日本の皇位継承システムに口をはさんできたというので政府は国連に抗議したそうである。

例えばこんな報道になっている:

女性差別撤廃条約の実施状況を審査する国連の女性差別撤廃委員会(CEDAW)は29日、日本政府に対する勧告を含む「最終見解」を公表した。選択的夫婦別姓の導入や、個人通報制度を定めた選択議定書の批准を求めたほか、「男系男子」が皇位を継承することを定める皇室典範の改正を勧告した。

Source: 朝日新聞DIGITAL

Date: 2024年10月29日

林官房長官は30日の記者会見で、男系男子による皇位継承を定めている皇室典範の改正を求めた国連女子差別撤廃委員会の勧告について、「大変遺憾だ」と述べ、委員会側に強く抗議した上で記述の削除を申し入れたことを明らかにした。

Source: 読売新聞オンライン

Date: 2024年10月30日

ちょうどいま、愛子内親王を女性天皇に「推そう」という一部の強い願望があることもあって、国連ともあろう機関が日本国内の意見対立を煽動し、紛争へと誘導するつもりなのか、と。そういえば、現在のロシア=ウクライナ戦争も、元来は旧ソ連圏の内紛であったのを、欧米が口をはさみ、ウクライナに軍事支援までも行って、戦争状態へと誘導したわけである(ように見える)。マア、最近目立って増えてきた「人権」という大義の下の「内政干渉」にこれも該当するようにも観える。もし「侵略的人権外交」というのがあれば、ですけど……。



ただ、どうなのだろうナア、とは思う。

例えば、イギリスの王室は、現国王・チャールズ3世その人が女系の継承であるし、19世紀にはビクトリア女王のときにも女系継承をしている。そもそもハノーバー朝(=ウィンザー朝)初代のジョージ1世は、ドイツの貧乏貴族であったが、スチュアート朝最後の女王・アンと女系でつながっていた縁で、英王位に就いた人である。その一方で、フランス王家は初代のパリ伯ユーグ・カペーが王位に就いてから以降、ずっと男系で継承した点がイギリスとは違う。ただそれは諸々の政治上の事情もあったが故であり、原理・原則として男系継承を定めていたわけではなかったようだ。そのフランスもブルボン朝が廃されてから200年余りが過ぎた ― 家門としては今も続いている。前にも投稿したことがあるが、中欧の大国・オーストリアも男系で王位を継承していたが、マリー・アントワネットの母にあたるマリア・テレジアのあとは女系継承になった。ただし王朝名が「ハプスブルグ朝」から「ハプスブルグ=ロートリンゲン朝」へ変わった。

今も残っている世界の王制の全てに精通しているわけではないが、日本のように《男系世襲》を法で定めている国は、現代にあっては極めて少数派であるのかもしれない。そんな世界の中で日本の天皇制をみると、いかにも「旧い」、というか「道理に合わない」と。そんな感覚をもって受け止められる。そういう事かもしれない。



天皇と朝廷が日本に誕生してから、今年で1700年以上は経過したのだろうか?

とにかく皇室というのは古い血統である。大貴族である藤原氏よりもずっと古い。大伴氏や物部氏、葛城氏、蘇我氏といった古代の豪族で、現代日本まで続いている一門が他にあるのかどうか、不勉強のせいか、小生の知る所ではない。

古代の大貴族が消えてしまった背景には公地公民を原則とする律令体制の発足があるとみているが、これはまた日本史に関係する論点。

今年の大河ドラマ『光る君へ』は藤原氏の摂関政治華やかなりし時代設定だが、これをみていると、平安時代にあってはつくづく皇位継承は恣意的であったと感じる。

皇太子が天皇よりも年長であったりする。その背景として、そもそも《兄弟継承》が頻繁に行われていて、皇統が複数並存(=両統迭立の状態)することもあったことがある。

というより、そもそもの初期においては、兄の後は弟が継承する兄弟継承が基本であったということも、何かで読んだ記憶がある。

大体、直系の男系世襲にこだわれば、徳川幕府の将軍も4代・家綱で絶えていた。遠縁の傍流から8代・吉宗が将軍に就いたが、それも15代目に水戸家の慶喜が血筋ではなく、能力を評価されて将軍職に就いた。血筋に基づいて男系継承を行うなら、田安亀之助(=徳川家達)が将軍職を継承するところだったにもかかわらず、だ。

日本国憲法で「皇位は世襲」と規定しているのは、能力ではなく、血筋によって継承するという主旨だと理解しているから、15代将軍・慶喜のようなケースは採らないということだろう。しかし、これを過剰に厳密に解釈すると、自縄自縛になる可能性が高い。適任者がいれば、15代・慶喜のように皇位を継承することもありうると、理解しておくべきだと思うが、違うのかナ?



「皇族」と言っても、要するに、「親族一同」である。

だから、皇位継承にあたっては、親子継承に加えて、兄弟継承、伯甥継承、叔甥継承、従兄弟継承、再従兄弟継承などなど、あらゆるパターンがありうるとあらかじめ予想し、多くのパターンを容認しておくのが自然な措置である。明文規定のように単純に「世襲」の一言で定義するのは迷走の元であると思われる。

大体、皇位継承の可能性がある皇族と言っても、個人的な出来不出来は様々である。適性もある。持病など健康もある、精神的安定もある。身障者かもしれない ― 障害があれば天皇が果たすべき職務に支障がある可能性は高い。要するに、想像を超える様々な状況があり得るということだ。

近代以前の昔であれば「天皇になりたい」と思うのが普通の皇族の人情であったろうが、それでもなお自由に好きな芸術の道を歩みたいと願う人がいたはずである。煩わしい天皇に就いても数年で譲位して、あとは「上皇」として優雅に過ごす人も多かった。

現行法制下では、生前退位もままならない。余りに硬直的ではないか。これは明治以降の天皇制の欠陥であると小生は思っている。


せいぜい「家元」くらいの感覚でよい。それで(多くの?)日本人にとっては「象徴」として十分である。

なので、思うに男系だ、女系だ、長子だ、傍流だ、何だかんだに関わらず、皇室の(≒現天皇)の裁量で好きに内閣に諮問すればよいと思う。好きに決めるとしても、その時代の自然な慣習に任せれば国民は納得する。何なら皇位継承を宮内庁と内閣で定期的に審議しても可だ。最後は国会で承諾すればそれで決まりだ。

もちろん天皇の意志がそのままで通るとは限らない。それは近代以前であっても同じだった。次の天皇、つまり皇太子だが、新天皇が践祚する直後に皇太子を誰にするかで、その時々の権力者の意向が重要だった。今なら内閣と国会が代表する国民の「総意」だろう。


これではお家騒動になると心配する人がいるかもしれないが、心配ご無用だ。そんな事になるとは到底思われない。

近代以前の体制なら、朝廷に徴税権があった時代もあるし、近世・江戸期であれば禁裏御料(3万石)、公家領が徳川幕府から認められていた。

しかし敗戦と占領を経て、明治体制は瓦解し、天皇にはもはや統治権がなく、収入を保障する固有の領地もない。資産は、皇室の私有財産なのか、国有財産なのかが曖昧だが、つまりは微々たるものである。

それどころか、国事行為の義務に加えて関係者が色々な雑用を押し付け、人生の自由を奪っている。人権上の問題があるとすら小生には思える。「皇族」とは、職業選択の自由も定年もない境遇を代々身分として相続する「永代終身公僕」とも言える特殊な家に生まれた人たちのことである、と。こちらの方が問題だろう。「国体護持」を信念に戦い降伏した陸海軍の武人たちは、いま皇室が置かれている現状をみれば、涙を流し伏して詫びるであろうと、そんな風にも思われるのだ、な。



日本国民と皇室一門とに今でも実質的な関係があるとすれば、宮中と宮家には公費が使われているという点で、割り切って言えば、その一点だけである。

つまりは皇室関連の実質的問題として国民が意識するべき論点は財政である。これ以外にはない、というより口出しをするべき立場にはないだろう、というのが小生の感想だ。

「皇族」全体の財政状態には日本国民は目をひからせるべきだ。しかし、芸能人一家じゃああるまいし、後継ぎや家庭内情況にまで関心をもつのは、「デバガメ」って奴ですぜ。余計なお世話だ。

厳格に皇嗣を決定していても、それでもなお愛子内親王の皇位継承を願望する人たちが、言論は自由だとばかり、公開の場で意見を開陳している。法律で決めるから、逆に「皇位継承に誰でも口出しをしてもいいのだ」となる。小生の好みには合いませんネエ、こんなのは。そう思うがいかに?


法律の明文規定として

男女を問わず皇位は長子継承とする

このように法改正を行えば国連は喜ぶのだろう。が、ここまで強く《長子親子継承》を強制すれば、いずれ困ったことが起きるのは必至である。困る理由などは両手に余る。喜ぶのは外国だけだろう。

誰が天皇になるかで国民生活は変わらず、つまりは誰でもよいのだから、後継ぎは天皇ご自身、皇族ご一同でお好きに選べばよい。

徳川時代の将軍継承とは現実的重みが全然異なるのだ。誰でもよいのだから、皇位継承、皇太子の決定は、それ自体として「政治」ではない。純粋に皇室内部の「家政」である。故に、天皇が内意を伝えても可であると小生は考える。

ただ、官庁、企業の人事部ではないが、大体の将来路線は予想しておいた上で、常に2人ないし3人の若い皇族に帝王教育を施しておくのは不可欠だ。

要注意点はこの位だと思うがいかに?

 

マア、普通の感覚で判断するなら、親王がいれば年長の息子が皇太子になる。しかし、どんな皇太子になるか分かるまい。困ったことになるかもしれない。なので、英王室のヘンリー王子ではないが、《スペア》は必要なのだ。

娘、つまり内親王がいれば娘に継がせたいと願う天皇が出てくるかもしれない。それは娘しかいないか、あるいは息子、娘双方の個人的資質をみての判断かもしれない。

しかし、それでも天皇として果たすべき職務の多さと多忙、(将来の)配偶者の地位と処遇、子に与えられる自由と束縛、践祚後に決めるべき皇太子について政治サイドから口出しされるのではないかという懸念などから、内親王は皇位継承を嫌がる可能性が高い(と推測する)。それはそれで自然な感情であろう。皇位継承に懸念がなければ、内親王は民間に降下して、自由な人生を送る方がよほど幸福であるに違いない。その事情は親王、宮家家族にも当てはまる。

故に、予断を持って決められないのだ。皇室の存在が国民的課題である体制を続けるなら、余裕をもって、備えておくべきだろう。皇統を守りたいと考える皇族及び親族は、必ず世代ごとにいるはずである。

【加筆修正:2024-11-01】

2024年10月30日水曜日

要旨: 大峯顕『科学技術時代と浄土の教え』(上・下)

ここ近年、関心があるのは、近代の科学と伝統的な信仰との関連だ。

科学は経験的根拠に裏付けられた知の体系として発展してきた。科学技術は物質的な豊かさをもたらした。しかし、科学は現象の説明にとどまり、宇宙や生命の存在の本質には至っていない。生の意味、死の意味といった心の問題に解答を与えてくれるものではない。

伝統的な信仰は、直観的な宇宙観、生命観を示しているが、しかしその個々の表現は大昔の知識レベルを前提にしているので、一見すると荒唐無稽な内容を含んでいる。

マア、どちらも人間の《知》としては、どっちもどっち、一長一短、というのが小生の最近の認識だ。

そんな中、大峯顕『科学技術時代と浄土の教え』(上・下)が面白かったので、例によって(必ずしも脈絡がつながっているとは限らないが)傍線を引いた箇所を列挙する形で、各章の要旨をまとめておきたい―但し、原文をそのままコピーしてはいるが、一部で括弧を加えたり、文字を加えたりなど、細かな加筆をしているので、この点、ご容赦頂ければ幸いです。

本書は大峯顕の著作リストに含まれていないので講演をまとめたものと推察される。小生はKindleで読んだ。

本投稿の一部をどこかで引用することがあると思う。


~*~*~*~


第1章


デカルトは、神の存在と魂の不死ということは、キリスト教信者たちは信仰によって信じるだけで充分だけれども、それ以外の人々は、人間の本性に与えられている理性(自然的理性)によらなければ、説得されえないと言っています。

現代の進歩的文化人がたよりにしている理性は、真の理性と呼べるものではありません。彼らは自分の我を理性と混同していますから、理性自身を疑うような強くてしなやかな理性ではないのです。

自分でものを考えるという精神こそ哲学なのです。

やはり自然科学の力は大きかっただろうと思います。自然科学とそれに伴った技術というものが、世界に対する人間の見方を変えていくわけですね。神がこの世界万物を創ったという説教が、一般の人々の実感に訴えなくなってしまったのです。

浄土真宗の教学や説教が、もし現代人に信仰を喚起させる力を持たないとしたら、教学が江戸時代からほとんど変わっていないからです。


第2章


自然科学は世界や人間をすべてを物質の現象に還元して捉えるいとなみです。

科学はすべてを物質に還元して考えるといっても、その物質とは何かということが(実は)はっきりしないのです。

宗教というのは、世界を人間中心に見ない精神のあり方のことです。

私たちは、あるがままの真理を知ることによって救われるのであって、自分の思いこみによって救われるのではありません。


人間と動物との本質的な違いは、(抽象的な)観念を持てるかどうかというところにあります。現実以上のもの、目に見えないものを感じる(そして認識する)力を持つのが人間です。

解脱知とは、束縛された状態からの救済を知る能力です。

科学知と解脱知の他にもう一つの知があります。これは「本質知」といって、物の本質を知る知識です。これが哲学にあたります。

シェーラーは科学知、本質知、解脱知の三つをあげましたが、このうち科学知(実証知)は、原始的な形では動物でも持つことが出来ます。

オーギュスト・コントなどは、時代的には一番古いのが解脱知で、時代が進むと哲学知になり、最後に科学が発達して実証知になるのだと言いましたが、シェーラーはこの考え方に反対しています。


現代社会を支配しているのは、神学的世界観ではなく科学的世界観です。これは、ヨーロッパでもアジアでも同じことです。若者も老人も同じです。最近はお年寄りでも科学的世界観に汚染されています。阿弥陀さまの本願なんてもう古いんだと、口には出しませんがそう言いたそうな顔をしています。それでも、何とかの神さまに現世利益を頼んだりするのは依然としてやっているわけですが、阿弥陀さまに救われるということを真面目に考えなくなりました。宗教を説く人も、聞く人も、科学的世界観という科学主義に汚染された中に住んでいるというのが、今日の私たちが抱えている深刻な問題です。


《自覚》(=自分という存在の意識?)こそ、私というものの本質なのです。

信仰というのは、この自覚のいとなみです。

自覚といっても、自分の力で起こるのではなく、自己よりも大きな真理である如来(=浄土思想においては阿弥陀如来)が現れて自分に教えてくれたことをいうのです。

如来に照らされて、罪悪深重の自己の自覚が起こるのです。私は極楽などとうてい行くことのできない生死流転の凡夫だという、自分の正体が知らされるのです。

浄土へ行くことが約束されているとは、浄土から今ここに光がとどいているということであります。「信心の定まるとき往生また定まるなり」というのが浄土真宗(及び浄土系信仰)の《信心》(≒これは信じるという直観的認識)であり、臨終の時に迎えに来てくださるだろうというような心は疑いだと、聖人(=親鸞)ははっきり言っておられます。浄土は、どこか遠くにある他界ではなく、今ここを支えている頼もしい基礎なのだということを発見されたのが親鸞聖人の不朽の功績です。 この親鸞聖人の思想の素晴らしさは、長い伝統の中で忘れられがちだったのですが、清沢満之という明治の仏教改革者によって再発見されました。

西田幾多郎はその点を強調して次のように言っています。

「宗教は科学とは相反するかに考えられるが、かえって科学的精神は宗教によって基礎づけられるということができる。真の宗教の立場は、どこまでも自己の独断を棄てて、真に物そのものとなって考え、物そのものとなって行うことでなければならない。そこには、己を尽くすということが含まれていなければならない。無限の思惟が含まれていなければならない。東洋的無の宗教は神秘的ではない、かえって正法に不思議なしということを旨とするものである」。 

 

第3章


宗教に関する哲学には、ヨーロッパでは数百年の伝統があります。宗教哲学は、宗教の本質を解明する学問です。これに少し遅れて、宗教学という学問が生まれましたが、これは宗教の科学的研究(Science of Religion)です。

科学としての宗教学は宗教の現象面を研究しますが、宗教哲学はそうではなくて、宗教とは一体何かという宗教の本質を研究するのです。

宗教哲学のきざしはデカルトにあると言ってよいと思います。前にも述べましたとおり、『省察』には、神の存在と魂の不滅の問題が提起されています。神学者が語る神の存在や魂の不滅の議論は、信者だけを相手にします。しかし、信者だけが信じている内容は、すべての人が納得できるものではありません。信者は、神の存在などを信仰によって信じているのですが、そうではなく、あらゆる人間に与えられた自然理性によって、神の存在が証明されなければならないとデカルトは考えたのです。


我々の世界は、文明の集合から成り立っているのではなく、それを支える根拠があるのです。別の言い方をすれば、我々が生きている世界には意味があるということです。

人間存在はただの肉体ではないというのは宗教の根底であり、これはキリスト教であれ仏教であれ変わりません。

宗教とは、今ここに自分が存在しているということの不思議に驚くことです。…宗教は宇宙の直観なのです。


私たちの生きている時間よりも死んでいる時間の方が長いでしょう。生きているのはほんのしばらくのことで、あとほとんどは死んでいます。生まれる前は死んでいたわけです。そして、浄土のない人は命が終わると(単純に?)死ぬわけです。せいぜい百年生きているだけですね。私たちが生きたり死んだりしているのは本質的に宇宙的事件であり、このことを感じるのが宗教なのだ、とシュライエルマッハーは言ったのです。

シュライエルマッハーが言う宇宙とは、浄土真宗で言えば阿弥陀如来の本願にあたります。私たちが生きることも死ぬことも、すべて如来の本願の中の出来事です。私たちがどれだけ忘れていようと、私たちは如来の本願によって支えられているのです。そのことに気づいたことが信心を獲たということでしょう。


ヘーゲルは、宗教は大衆の哲学であり、哲学はエリートの宗教だとも言っていますが、そうすると宗教は大衆のものでなくなり、一部の教養人の独占物になってしまいます。

ヘーゲルが死ぬと、それに対する反動が起こって、カール・マルクスの弁証法的唯物論を筆頭とする反ヘーゲル主義が出て来ます。先に述べたオーギュスト・コントの実証主義もその一つで、宗教は過去の時代のものであり、これからは科学が真理を握るという考え方です。ヘーゲルによって完成した宗教哲学は、十九世紀の終わりごろから崩壊しはじめるのです。いわゆる「ドイツ観念論の崩壊」と呼ばれる現象です。


第4章


ソクラテスが言ったように、人間はただ生きていることが大事なのではなく、よく生きることが大事なのです。プラトンによれば、哲学的思索というものは、簡単にいえば死ぬことの練習です。

……「いよいよ君たちとお別れだ。私は死ぬために、君たちは生きるために。君たちは私を殺される憐れな人間だと思っているかもしれないが、いったい君たちは死ぬことが悪いことだと、どうして知っているのだ、まだ死んだこともないのに」。(出典:プラトン「ソクラテスの弁明」)

まったくその通りですね。まだ誰も死んだことがないのに、死ぬことが悪いことだとどうして知っているのでしょう。それは、知らないことを知ったかぶりしているだけではないのか。ソクラテスに言わせれば、自分も含めて我々は、死が良いことなのか悪いことなのか知らない。なぜならまだ死んだことがないからです。そうですね。死ぬことが良いか悪いかは人間にはわかりません。

人間は、知ったかぶりをします。「あの人は若くて死んでしまって可哀想に」と言うわけです。知らないことを知ったかぶりをするのは自分が無知だとは思っていないからです。知ったかぶりをするのは高慢です。

阿弥陀さまの本願が信じられないのは、凡夫が無知だからではありません。自分は智者だと思っているからです。阿弥陀さまなんかに助けてもらわなくていいんだというのは、自分の無知に気付かないということでしょう。「邪見憍慢の悪衆生」というのは、根性が曲がっているということではなく、自分が賢いと思っていることです。

だから自分が本当に無智だということを知る、無智の知が大事なのです。


哲学というものは死を超えていく道だということです。哲学は物知りになることではありません。哲学を理屈をこねることだと思っているから、哲学なんて要らないと言ってしまうのでしょうが、それは哲学の何たるかを知らない物言いです。

ヨーロッパの宗教と哲学の関係は、大まかに見ると、宗教が哲学化する方向と哲学が宗教化する方向の二つを持っています。そしてヘーゲルにおいて宗教は完全に哲学化されたのです。他方で哲学化された宗教であるこのヘーゲル哲学に対する反動として、マルクスや実証主義者が出て来ました。これは世界の非宗教化を促進することになりました。だから十九世紀の終わりごろから宗教はずいぶんと下火になって、科学とか実証主義とか共産主義革命といったことが起こり、人間存在に対する宗教的信仰の重要性はだんだんと薄れてきました。そして二十世紀になだれ込んでくる……


理由づけをして納得できるものは宗教と呼べません。

このことを西田幾多郎ははっきりと言っています。

宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せなければならない。(『場所的論理と宗教的世界観』 『西田幾多郎哲学論集 Ⅲ』 二九九頁)

宗教は心霊上の事実であって、救われるということは哲学的思惟の結論ではなく、この自分が阿弥陀さまに救われていくことの明白な経験のことです。哲学者にこの宗教体験の真理を弁護してもらう必要はさらにありません。


……大勢集まって賑やかにやることが繁昌なのではないということを肝に銘じなければなりません。それ以外に浄土真宗の復権などあるはずがありません。あると思っているのは、如来さまを信じていない人でしょう。その人は阿弥陀さまではなく、人間の力を信じているのです。何人人が集まろうと、信心がなければみんなで地獄行きです(笑)。だいたい、宗教に限らず、人が大勢集まったらだめになるのが人間というもののようです。

日本にはいろんな宗教がありますが、どの宗教も純粋性を失って、大衆運動になっています。


池田晶子は死ぬけれども、私は死なない」と。これは真理です。

世間が見ている池田晶子は死んでも、いま池田晶子をやっている「この私」は死なないということです。それが池田晶子の自己です。これは仏教の言わんとする普遍的真理です。池田さんは、別にお寺でお説教を聞いたわけでもないのに、どういうわけかそういうことを感じる力があったのです。

私たちは、阿弥陀さまの本願に出逢わなかったら、本当に死ぬことができないのです。これが本当に怖いことです。


質疑


この世のことは何でもわかっているが、浄土だけは不思議だと言っている方がおかしいのです。

そうではありませんか。ここはどこかということは誰もわかっていません。私たちはそれを仮に人生と呼んでいるだけのことです。

自己という観念は科学が扱える次元ではないのですね。…これを「個人」と言ってしまうと、もう外在化されてしまっています。個人は社会に相対する存在者の名ですから、もう自己ではないんですね。……


第5章


浄土真宗は、真言宗や天台宗といった仏教よりも禅宗に近いということは言えると思います。信心というのは禅宗の悟り、見性体験と似ています。

阿弥陀如来から私の方へ来て下さっているものが真の至心なのだ。だから私は往生間違いないのだ。(親鸞は)このように経典の従来の読み方を大きく転換されたのです。

浄土に行くのは信心以外にありません。信心が、浄土に行くただ一つの道です。それではその信心がどうやって起こるのかという問題が残ります。起こそうと思って起こるものではありません。私より先に、私にはたらいている力に気づくしかないのです。


第6章


宗教家も含めて多くの人は、お金をたくさん集めて生きることが良く生きることだと思っているのではないでしょうか。

ソクラテスはアテネの人々との対話を通じて、ほんとうの人間の生き方はどういうものかを追求したのです。それは、世間一般には災いだと思われている死というものを超えていくような生き方でした。この世の生存が生きる最高目的ではないのです。

…浄土真宗だったら、浄土に生まれ仏になるということですね。仏教はこの世の長生きを善として説いてはいません。どれだけ長生きをしても、この世の命は必ず終わりますから、最後は地獄・絶望しかありません。この世しかないと思っている人には、死んで地獄があるのではなく、この世自身がまっ暗やみなのです。死んだら何もないと思っている人は、生きているときから地獄を持っています。現世の他には何もないという地獄です。これはニヒリズムです。

ローマもアテネも滅んだ理由は精神が腐ったからです。ローマ帝国が滅んだように、人間は正しいものの考え方ができなくなったときに滅びるのです。


この、私自身は死をもって終わらないという思想が真の宗教の原点です。この自覚がないのは、宗教心のない、肉体の奴隷のような人です。…人間の個体の生存をどこまでも存続させるなどというのは、硬直し、老化し、衰弱した生命観です。

真実信心の人は、行方不明になりません。浄土へ往って還ってくるからです。

信ずることができるものを持っていない人、人間に生まれても本当に信じられるものを知らずに死んでいく人は不幸です。…本当の自分とは、世間の人に見られている私ではなく、如来さまに見られている私のことです。…どうにもならない私に出会うことを、教学用語では「機の深信」といいます。


大きな命がこの私を生きているのです。


質疑


化仏というのは、阿弥陀さまの光の中には、無数の化仏がいらっしゃるのです。…方便不思議によって、いろいろな形をとり、十方衆生を摂取して一人も捨てないという慈悲を知らせてくださるのです。…私は私自身に対しては死にません。社会や、遺族や、友人に対して死ぬだけで、その人自身に対しては死にません。これが私は死なないということの意味です。

この次元をフィヒテは「対自性」と言ったのですが、この対自性の自己こそ本当の自己です。世界はいたるところに命があって、死はないのです。

私は肉体を持って生きていますが、私は肉体とともに発生したわけではありません。


現代人は、物質主義に汚染されてしまって、精神が病的になっているのではのではないかと思います。これは言葉を換えたら、多くの人が、世の中には役に立つものしか存在しないと深く思い込んでいるということです。今までいたお父さんは、私にとって何の役にも立たなくなったから、消えてしまったと思ってしまう。…存在する人は、宇宙から送られてきたのですから、必ず宇宙のどこかにいるものです。この考え方のほうが健康ですから、そこに戻ればいいのです。

モニュメントとしてのお墓はあっていいのですけれども、お墓の中にいるということを本気で信じているとしたら、それは精神というものが信じられない人でしょうね。

お金に限らず、自分の身につけたものは必ず自分を堕落させます。


キリスト教でも同じで、宗教というものは自覚の次元の出来事です。これが人間にとって一番の大事です。…デカルト哲学では、その自覚性がはっきりしなくて、思惟する自己を実体と定義してしまいました。…そこを後にフィヒテが鋭く批判して、実体的な自己などはなくて、自覚としての自己があるだけだと言ったのです。  そういう意味で、自覚というのは西洋哲学にも仏教にも通じる次元です。フィヒテと仏教はそこが非常によく似ているのです。


第7章


生物的な自己、社会的な自己…これは、生きている間だけのことです。

如来の本願に救われる自己こそが真の自己なのです。如来に救われなければならない自己が、本当の自己です。

心とは何かは依然として大きな謎です。これまでは物質の世界を研究してきたから、これからは心に目を向けようという程度の反省ではなく、目の向け方を根本的に変えなければ心の時代にはなりません。『正法眼蔵』の生死の巻が言うように、仏教とは、自己とは何かを問う生き方であり、仏は何かという問いは、自己とは何かという問いと同じです。

ドストエフスキーは、人間の心は、神と悪魔とのたたかいの戦場だと言っています。神と悪魔とが、人間という場所で戦っているというのです。これはまだヨーロッパ的な言い方ですが、人間存在の不気味さをよく表しています。我々はまだ人間とは何かがよくわかっていません。

最近の状況を見ると、わかったつもりであった人間が、何もわからない存在だったということが、はっきりしてきた時代であると言ってもいいと思います。人間の解体の時代というのは、そういうことです。

……ハイデガーは、これは危機の一部にすぎないと言います。それよりもっと大きな危機は何かというと、人間の現象形態としての生存ではなく、人間の本質が、技術によって直撃されているという危険です。


第8章


宗教で問題になる「私」は、宇宙の自然的な生成で生まれたのではありません。私は初めからあるのです。

阿弥陀如来が生まれたのと、私が生まれたのとは同時です。キェルケゴールはこのことを「同時性」という言葉で表現しています。これが宗教の世界であって、弥陀成仏が時間軸での過去の話だと思っていたらまったく見当ちがいなことになります。 キェルケゴールは、イエスの十字架が二千年前の話だと思っている人は、キリスト教徒ではないと言っています。


我々が抱えている問題は、死んだぐらいでは終わらないということです。自分がなぜこういう人間であるのかということは、現生だけで説明できないから、前生とか後生の因縁を言わなければならないのです。…人間が経験することは、この世だけでは説明がつかない部分があるわけで、それを納得するためには、前生を持ち出さざるを得ないこともあるのだということです。

現代人は、前生とか後生とかの観念を笑うかもしれませんが、これは、神話的な説明によって人生そのものへの覚醒を促すためです。哲学的な言葉で言うならば、私たちの現在には底がないということです。人間の理性ではとどかない現実存在の深みのことを言っているわけです。


仏さまというものはどこかに実体としておられるのではなく、法性法身つまり「空」です。

名を喚ぶ以外に、阿弥陀さまとお遇いする道はありません。名を喚ばずに尊敬していてもだめです。

人間の真の生は、私は何のために生きているのかという問いのあるところにのみあります。…宗教も哲学もその問いから生まれるのであって、人間の幸福を目的とするものではありません。幸福を追求し始めると、宗教は堕落します。西田幾多郎は、宗教は自分の安心立命を得るためのものだという考えすら、宗教の純粋性を失うと言っています。


第9章


誰もが死をただ遠ざけているばかりで、避けられない現実を受け止めることをしていません。なぜ私は死ぬのか、死の不安から解放されるにはどうすればいいのかということが、どうしても真面目な問題にならないのです。

死ぬのは社会が悪いからだという考え方になってしまう場合すらあるようです。子どもが自殺すると今の社会が悪い、学校が悪い、病人が死ぬと医師が悪い、制度が悪いということになって、どうしても死というものに直面していないのです。 ギリシャ人は、人間のことを「死すべきもの」といいました。

世間では、ガンで死んだとか交通事故で死んだと言いますが、それらは死の縁であって、因ではありません。死の原因は、生まれたことにあるのです。

こういった死の忘却が、科学技術時代の人間の基本的な特徴ですが、このことを最初に指摘したのは、マックス・シェーラーという哲学者です。…彼が「現代西ヨーロッパ人」と呼ぶ新しい人間類型は、死という明白な事実から目をそむけて、人生とは仕事と金もうけだと考えている人間のことです。


















2024年10月28日月曜日

ホンノ一言: 与党大敗はそもそも「当たり前」の帰結であったはず

 「案の定」ということなのだろう。

自民党が石破茂・新総裁を選んでも、今回の衆院選の大敗を免れることはやはり出来なかった。

大体、自民党が勝つはずがなかった、公明党も一蓮托生……、にも拘らず、メディアは与党が過半数を割った後のことを本気では話題にしていなかった — マッ、それも「立場」ということなのでしょう、分かりますケド。


メディアでは、石破新総裁がいわゆる「裏金議員」を早々に公認したこととか、世間の批判をみて手のひらを返したように非公認にしたり、裏金議員の比例重複立候補を許さないなど急に強硬になったとか、非公認議員がいる選挙区に活動費を支給したりとか、まあ、色々な具体的敗因を挙げているが、それは奇妙な解説だ。

本質的な敗因が、政治資金パーティー収入のキャッシュバックを不記載にしていたというルーズな金銭感覚にあったことを思い出すと、新総裁がどう取り繕っていたとしても、裏金作りに手を染めていた議員の《大量落選》を防ぐことは、ホボゝ不可能であったに違いない。

これが第一の要点だと思われるがいかに?

――旧・統一教会との関係も主因であったと指摘する向きがあるが ― これは安倍派によらず自民党全体に関係性が窺われた ―、これも与党大敗の主因なのだろうか?思うのだが、安倍元首相暗殺事件後の旧・統一教会騒動は、銃撃犯が恨んでいたと伝えられる宗教法人の強欲さに犯人を不憫に感じた日本人のヒステリー現象だった(と小生は観ていた)。今も変わらない。議員とその宗教法人が親しい中にあるからといって「許せヌ」とまで思うだろうか?そんな疑問がヤッパリあるのだ、な。

「あの宗教団体と…」というより、「腹が立つのは汚いカネの作り方だ」と。そう思いますがネエ、あたしは、というところだ。

「・・・となるに違いない」事が現実に実現したわけだ。故に、大敗の責任はこれまでの主流派であり、金銭感覚が余りにルーズであった安倍派の議員面々にある。長い期間、アンチ安倍で冷や飯を食ってきた石破首相には責任は(ほとんど?)ない。

よくある《盛者必衰》の交代劇が今回再び演じられたというわけだ。

政治的スキャンダルを起こしたにもかかわらず、石破茂氏を新総裁に選べば、国民に人気があるので、自民党議員も人気のおこぼれをもらって落選せずにすむかも・・・と。

何だか

善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや

親鸞の「悪人正機説」じゃあるまいし、旧・安倍派の金銭欲にまみれた自民党議員たちを、だからこそ救うのだという大悲は国政選挙では期待できませんて……、有権者は阿弥陀如来とは違います。そんな阿弥陀様の役割を石破首相に期待していたとすれば、そもそもが実に非常識な期待であった。

そういうことであったと思う。

足元の問題は、

石破茂は、悪行(?)を重ねた議員を救う阿弥陀様ではなかった。だから負けた今は「用済みだ」となるのか?……何だか不合格になった受験生に捨てられる御守のようだが。でもお守りを捨てても低脳は低脳のままですゼ……実質を変えんとネ。

石破茂はアンチ安倍だ。今回は安倍派の汚れた議員に鉄槌が下った。これから「石破政治」をやってもらおう、となるのか?……マア、ルサンチマンである。源平合戦さながらの復讐劇が進む。侮られてきた「窓際族」がどういう拍子か権力を握ると得てしてこうなりがちだ……国民の共感が要りますワナ。

この岐路のどちらの道を歩むのか、ということだろう。

これからどうなるのだろう?

イギリスのBBC辺りは、政治的安定を失った挙句に極右の高市早苗政権が(旧・安倍派を中心に?)誕生するかもしれないと、「一抹の不安?」を伝えているようだ。

もしそうなれば、日本政治の極端なドタバタ喜劇ぶりに世界中がアッと驚くのは必至だ。しかし、そうなったらそうなったで、

こりゃあ「瓢箪から駒」って奴だネエ

と、庶民は喝采するのが日本社会かもしれない。戦後日本の民主主義って奴でしょう。

小生は、何度も書いてきたように、自民党の分裂、立憲民主党の分裂、共産党が共産主義の旗を降ろすことの三つを願望する立場にいる。

そして国政選挙は、小選挙区が主、比例代表は従という現行方式は止めて、全体の得票率が議席数に反映される比例代表が主、小選挙区は従とするドイツ的な「比例代表併用制」に移行していくのが好みである。もちろん泡沫政党には議席を与えず得票率には下限を設ける。

どこも過半数をとれないだろうから、選挙後に政党間の協議と相互の妥協によって連立政権を構築すればよい。

首相による議会解散は一定の年限は極力自主規制する。

内閣成立まで時間を要するかもしれないが、必ずしも不安定ならず、だ。強力なカリスマ宰相が誕生する可能性はメルケル長期政権を思うと十分にある。

それには、1955年以来のいわゆる「55年体制」が跡形もなく瓦解することが必要だ。

当面は「力勝負」ということで、徹底的に政敵を迫害(?)する「権力闘争」を展開してほしいものだ。それでこそ、日本政治がダイナミズムを取り戻し、そうすれば日本経済も、「政治」などには期待せず、アニマル・スピリットを取り戻してダイナミックになるはずである。

そして、中央政府をスリム化して、地方分権を進め、税源を地方の生産現場に分散化し、地方、地方が比較優位性を生かして「生産性の向上」に頑張る。頑張った地域こそ豊かな地域になる。大したことはしていない首都の本社・本部より身体を動かしている現場。そんな国になって行ってほしいものだ。

 

2024年10月27日日曜日

断想: 抽象概念は実在する・・・?

本稿は前稿の続編である。

 

小生はずっと

この世界に実在するのはモノである。この世を支配しているのは物理法則と化学的性質である。生命現象も特別な化学プロセスである。

と、マア、こんな風に考えていたので、例えば「善悪」、「美醜」とか、ましてや「民主主義」、「人権」などという曖昧な概念は、自然界にそんなラベルが貼られていることはないので、実際には存在しない。そう考えてきたわけで、これは前稿でも触れている。

とはいえ、引っ掛かりは以前からあって、例えば経済学では「生産の境界(Boundary of Production)という問題がある。

18世紀フランスで活躍したケネー、チュルゴ―らの重農主義思想では、自然に対して直接に働きかけて得られる第一次産業の生産物のみが「生産物」である。製造業が提供する「パン」、「菓子」、あるいは「机」とか「自動車」などは単なる加工品で、真の生産物ではない。こう考える。

フランスで重農主義経済学に触れたアダム・スミスは、これを発展させて「国富」とは金、銀などのマネーではなく、「価値」を生む「生産資源」である、つまりは「労働力」である、と。こう考えた。だから、労働者の労働によって生まれる製造業の生産物も真の「生産物」として把握された。生産の境界が拡大されたのだ、な。

現在では、有形物に加えて、更に諸々のサービスも生産の境界の中に繰り入れられるようになった。人々の満足度が向上し、多くの人が喜んで対価を支払う以上、形に残らなくともサービス業従事者も生産に参加している。こんなロジックだ。

なので、よくこんな話をした:

目の前に「机」がある。しかし、重農主義思想の下では、これを机とは観ず、木材と考える。真の生産物である木材が、机という形をいまとっている。机を二つに切ってしまうとする。机があったと観ていれば、机がなくなったと理解するが、そもそも生産物として机があるわけではなかった。切り分けても木材である以上、経済的価値の次元では何も失われていない。

よく屁理屈をこねては周囲を煙にまいていたものだ。

いま振り返ると、上の屁理屈をもう少し掘り下げて考えていればよかったのだと思う。

あそこに人がいる。しかし、あれが人だというのはどういう意味だろう?そこに在るのは、個々の細胞の集合体であると観てもよい。というより、主に蛋白質が集積した物質でも間違いではなく、もっと要素に還元して「炭素とその他ミネラルを含む集合体」と把握してもよい。実際、そこに在るのは数種の元素の集合体なのだ。これが実在しているモノである。いや、いや、要素還元論的に世界を眺めれば、全てのモノは元素の集合であり、現象はすべて原子の運動であるのだ。

その元素の集合体を「一人の人間」と認識するのは、何層もレベルの上がったマクロ的概念を通してそう認識しているわけだ。つまり「人間」というのは、実在する原子の(あるいは個々の細胞の)集合が、知性までも備える多細胞生物として振る舞うその在り方全体を指す抽象概念である。

人間の行動は、確かに人間を構成する原子の集合が物理化学法則に沿って運動することで実在化するものだが、そう認識するよりは人間ならもっているはずの人間性に着目するほうが、人間を良く説明できる。この「人間性」もまた抽象概念である。


似たような問題は、以前にも言及したことのあるドイッチュ『無限の始まり』でも述べられているわけで、例えば第5章「抽象概念とは何か」では

知識はそれぞれが、自らの複製のために生物や脳を「使う」(したがって、それらに「影響を与える」)抽象的な自己複製子……

という風に、「知」というのは抽象概念から構成されているものだと述べている。

その後にチェスをさすコンピューターが人間に勝つ情況を例に挙げてこう書いている:

実際にあなたに勝つのはプログラムであって、(半導体の素材である)シリコン原子でもコンピューター自体でもない。その抽象的なプログラムは、無数の原子の高レベルの振る舞いとして物理的に実在化されているが、プログラムがあなたに勝った理由の説明は、プログラム自体に言及せずに表現することはできない。…そうした抽象概念は、その説明に必要とされる形で存在し、実際に物理的対象に影響を与えているのだ。

こう述べている。つまり、目の前に観察される現象を理解するのに、因果関係に基づいて個々の原子の振る舞いを物理化学的に分析するより、コンピューターがそう振舞うように最初からプログラムされていたのだ、と。そう説明する方が、物事の本質をついているだろうという一例である。

因果関係という枠組みから物理化学的に理解する見方も一方にはあるが、人間に勝つためにプログラムされているという「意図」と「計画」があると、つまり目的論的に世界を観る立場もある。

そういうことだ。

 以前の投稿で、モーツアルトの音楽について何度か投稿している。が、モーツアルトの音楽はどこにあるのだろう?

部屋でそれを聴くとき、それはCDとCDプレーヤーが演奏しているのだろうか?そうではない。それは何十年も昔に、小生が好きな演奏家が演奏した時の「音」を録音したものだ。プレーヤーという再生装置はそれを音に戻しているだけだ。では、音がモーツアルトの音楽なのか?そうではない。各音程の音が、モーツアルトが書いた楽譜どおりに響くので、その音の流れが音楽になるわけだ。即ち、モーツアルトの音楽は、有形物として存在するのではなく、モーツアルトの音楽的才能、つまりは「知」が創造した高レベルの抽象的な存在である。それが自己複製をしながら、物理的な音に具象化され、最後に我々の耳に届いているわけである。

抽象的実在である音楽に、我々はしばしば「美」を感じる。それは「美」という抽象的な価値が実在しているからだ。音楽を聴いて、そこに美を感じとり、感動の涙を流すのは、抽象レベルで起きていることが、生身の身体という物理的存在に影響を与えるわけだ。なぜ涙を流すのかについて、物理化学的、生理学的分析を行うよりは、音楽を聴いたためだと理解する方が、良い理解であろう。

ここまで書くと、正にプラトン哲学を連想するのは、小生にとどまらない(はずだ)―実際、ドイッチュも第10章で「ソクラテスの見た夢」を置いている。


プラトンの思想の根本は「イデア」である。要するに、ラディカルな唯心論者としてプラトン(それからソクラテス)を(今のところ)理解している。

「他力」、「浄土」、「信仰」という人間の行為を考えるとすれば、こんな視点からだろう。




2024年10月24日木曜日

断想: これが世界観の深化になっていればイイが・・・

ちょっと大きな主題に触れたいので前処理作業として投稿済みの原稿から要点を抜粋しておきたい。

1

2011年9月19日付けの『経済発展と民主主義』ではこんな事を書いている:

アジアと西洋が歴史を通してシーソーゲームを繰り返しているというが、いずれかより民主主義的であった側が他方を凌駕した。そんな法則はないようである…

小生自身は、その社会が民主主義であるかどうかは、経済成長にそれほど関係ないのじゃないかと思っている - 思っているというだけのことだが…

社会の産業構造、職業構造。その時代を主導するリーディング産業にとって最適である生産システムが、強い共同体を作ってしまうのかどうか、これらが民主主義思想のポジションに反映しているような気はする。だから、小生はこの問題については、マルクスと全く同一の目線をとっているわけであり、正に「下部構造が上部構造を決める」。そう思っている…

子孫は子孫で、一番やりやすいように社会を変えていくだろう。それは民主主義の廃棄、王政の復活、帝政の復活ですらも十分ありうる。そう思うのだな。


相当の唯物論的な見方だと思うし、基本的には以前のままの歴史観、社会観、人間観を持ち続けている。

ところが、段々と深化、であれば好いのだが、単なる変化かもしれない。がともかく、理解の仕方が変わって来たのだ、な。


ごく最近になって投稿することが増えている「浄土思想」だが、2016年7月27日に『浄土思想・他力本願』を標題にこんな事を書いている:

他力本願の最大のハードルは『阿弥陀如来はどこにいるのか?存在していないことは歴然としているではないか』、そんな疑問をどう解決するかだろう ― もちろん仏教思想を大学で専攻すれば、この辺は、当然のこと、講義も聴き、自分でも勉強して消化しているに違いない。が、そんな時間は持ってこなかったし、統計学が専門の小生にはこれからも持てない時間である。…

最近になって、だんだん理解できて来たので覚書にしておきたいのは、心の救済を願う阿弥陀如来は自分の心の中に潜在している特定の意識を指すのだろうという点である。
 
意識の中に存在すると考えれば、他力本願という思想は理路一貫する。要するに、救いとは病気を治してもらうという外面的な治療ではなく、悩みや不安からいかに解放されて平穏な心の状態にいられるかというそんな問題なのだろう。…

…心の救済を議論する場合は有効でも、人間の意識の外には、つまり客観的実在を対象として、阿弥陀如来やら観世音菩薩、勢至菩薩を思い浮かべても、もともとそれは自然科学的には無意味なことである。意味があるのは人間の意識の中においてのみである。そういう結論になってしまう…
 
…しかし、どうやらそうでないのかもしれない、と。
 
人間の意識をいまある状態に進化させたのは、他ならぬ客観的に存在する「世界」そのものである。だとすれば、人間の意識という一つの内的世界に存在するものは、すべて外側に源をもっていると考えるのがロジカルであろう。
このところ書いている内容の芽が8年も前にもうあったのかと我ながら驚いている。


もともと『万物は流転する』というギリシア哲学の名句が好きだったし、それは『平家物語』の「諸行無常」に相対応するものだとも思ってきた。

2016年12月26日には『時間と存在、プラス流転』という標題でこんな風に書いた。
物事は変化して初めて知覚に触れるものである。「存在」といえば、一定不変の物と考えがちだが、周囲の世界が一定不変で、全てのものが一定の場所にとどまり、同じ状態を維持するなら、私たちはそれらを認識することはできないだろう、と小生は思うのだ。
 
そもそも「生命」は、変化の相に存在することは明らかだ。生は変化であり、一定の状態への復帰は死を、いや死後の解体プロセスの行きつく先を意味している。
全ての物質が一定であれば、電子の運動も分子の運動もなく、我々自身の感覚器官も機能を停止するという理屈である。つまり「命」というのは、そこに在るものというより、実際にそこに存在しているものが変化する現象だ、と。命が現象なら、命の上にあるはずの自分という存在も自覚という意識もまた現象だろう、と。本当はないのだ、と。デカルトの「われ思う、故に我あり」というのは少しおかしいのではないか、と。こんな風に考えていた自分を思い出す。

やはり唯物論である。物理学でいう「要素還元論」に他ならない。


2018年9月23日には『心の世界と唯物論』を標題に投稿している。

西洋哲学では、物質と精神とを二分する思考を繰り広げてきた。

小生は、ずっと以前にも投稿したように、下部構造が上部構造をすべて決めていくと基本的には考えている。この点では、唯物論者であり、やはりマルクスと同じであるともう一度反復して言うことができる。

家族のあり方、地域社会のあり方、国家の役割、男女や上司部下といった人間関係のあり方(=セクハラ・パワハラ等の認識のしかた)、何が正しい社会かという思想・常識などは、すべて人間社会の生産プロセスの構造が決めてしまうと考えている。「生産」とは、人間社会が生きていくための現実そのものである。要するに、生きていくために都合のよい社会をつくり、国をつくり、法をつくり、人間関係をつくっていく、と。そう考えている立場に変わりはない。
 
人は自分たちが生きていくのに都合のよい思想を選ぶか、選べないときは発明する。  
こういうことだと思っている。倫理や常識はもちろんその時点で是とされる思想を反映するものである。

変わってないネエ…。そう確認することが出来る。


 2020年代に入ると、2021年6月6日付けで『新実在論と普遍的価値の存在?』を投稿した。

ドイツの哲学者であるマルクス・ガブリエルを読んだのが刺激になったようだ。この時点ではまだこう考えていた:

何度も投稿しているが、現実世界のどこを観察しても、善い・悪い(Good vs Evil)を識別できる客観的なラベルは確認不能なのである。善いか、悪いかという識別は、その人が生きている時代に生きていた他の人物集団がどう判断しているかに基づくしかない。

マルクス・ガブリエルは『なぜ世界は存在しないのか』でこうも言っているわけだ。

自然科学によって研究できるもの、メス・顕微鏡・脳スキャンによって解剖・分析・可視化できるものだけが存在するのだというような主張は、明らかに行き過ぎでしょう。もしそのようなものしか存在しないのだとすれば、ドイツ連邦共和国も、未来も、数も、わたしの見るさまざまな夢も、どれも存在しないことになってしまうからです。しかし、これらはどれも存在している以上・・・

これに対して、小生は次のように考えていた。

人間社会における倫理的価値を論じるなら、蜂の社会、蟻の社会に存在している倫理的価値を考えてもよい。おそらく、(人類とは無縁だが)そんなものがあるのだろう。ひょっとすると、蟻や蜂という種族に埋め込まれた遺伝的特性かもしれない。だとすれば、何かが存在していて、そんな行動特性が現象として現れている。こう考えられる。もしそうなら、蟻の倫理、蜂の倫理という言葉で指示される客観的存在があることになる。が、それは蟻の特徴、蜂の特徴であって、人間の特徴ではない。また反対に、人間社会の倫理的価値は蜂や蟻という生物には意味のない事柄である。時空を超えた普遍的価値としてあるのではない。

 今でも、上の議論を無意味なことと全面的に棄却してよいのかと言われると、やはり主張したい気持ちはある。

世界に存在しているのは、物言わぬモノだけである。こう考えている。それ以外の人間的な思考の結果は、人間にとってだけ意味がある。そういう思考回路である。

2022年9月22日には『生命と非生命、唯物論で決まったわけじゃないか……逆もある』と投稿したが、ここで新しい芽が出てきているのが確認される。

よく物質と精神の二つに分ける議論をするが、同じ程度に意味のある問題は生命と非生命との区分だと思う。その生命だが、明らかに非生命の物質から生まれたものであることは自明である。はるか昔には、生命の根源には「生気」があると考える「生気論」が主流を占めていたが、現在は生命現象も特定の化学反応サイクルに帰着できる化学現象であると理解されている。大雑把に言えば、生命も非生命と同じ<物性物理学>の研究対象であると言っても言い過ぎではなくなってきた。

精神も生命ある生物に宿ると考えれば、精神もまた物質の中に存在する理屈だ。生命活動を生む性質が、モノの世界に最初から潜在しているとすれば、実際に生まれ出た生命に宿る精神活動もまた最初からモノの中に可能性として潜在していたことになる。とすれば、正に<両部不二>、金剛界と胎蔵界は所詮は一つと喝破した空海に通じる。というか、物質と精神を分けて考えてきた哲学は大前提からして的が外れていたことになるではないか、と。そう考えてきたのだ、な。文字通りの<唯物論>になるのじゃあないかというのは、こんな意味合いでである。

これは徹底した唯物論になる。ところが、その後では見方を反転させて、以下のようなことを書いている:

……モノの世界から単細胞生物が自然に発生し、それが多細胞生物に自然に進化し、更に多種の動植物が分岐し複雑化してきた。そして現時点においては、その最終段階として知的生物としての人類がある。そうなるべくしてそうなった性質が、最初から物質の属性として存在していたということだ。が、これを逆向きに考えると、そんな進化プロセスが実現する可能性が最初からあったことになる。つまり、人類という知的精神を備えた生物がこの世界に登場する可能性がそもそも最初の時点においてモノの世界にはモノの特性として潜在していたという理屈になる。

こう考えると、人間がもっている知性の働き、たとえば<論理>という推論の道具、<美>や<善>といった価値概念も、様々の抽象概念も、それが人間知性によって抱かれる前から可能性として存在していたという理屈になるのではないか。

となると、長い進化の歴史も、モノの属性が順々に現れてきたと理解するよりは、最初から存在していた抽象的概念が可能性から現実へと具象化される過程そのものであった、と。そう理解してもよいというロジックになる。そもそも不可能な事は不可能であり、可能なものはいつかは現実の事になる。こうなると、正にヘーゲルである。

というか、《神》という概念ですら、その概念に対応する何かが最初から《モノ自体》の中に潜在しており、いま地球上に現れた人類がそんな概念をもつに至っているのは、知るべくして知った、と。決して根拠のないことではない、とすら言えそうだ。

ヘーゲルは宗教を哲学化したと言われるが、正にその通り。唯物論を逆向きに考えると、神の実在を含めた宇宙論になってしまったわけである。

唯物論に立てば永遠の過去から現在に至る因果論で世界を観ることになる。反対に、逆向きに考えると、宇宙創成時点で実在した神が人間知性の神という概念に具象化され、これから永遠の未来にわたり、当初から潜在していた全ての可能性が宇宙を作って行く。最初の目的が成就される過程として時間を認識する。こんな目的論で世界をみることになる。

こういう発想が(小生にとっては)新しい理解の仕方になったのは明らかだ。

上の投稿が基礎になって、昨年3月2日の投稿『西洋的な二項対立の思考パターンを一度捨ててみてはどうか?』になった。

精神も生命ある生物に宿ると考えれば、精神もまた物質の中に存在する理屈だ。生命活動を生む性質が、モノの世界に最初から潜在しているとすれば、実際に生まれ出た生命に宿る精神活動もまた最初からモノの中に可能性として潜在していたことになる。とすれば、正に<両部不二>、金剛界と胎蔵界は所詮は一つと喝破した空海に通じる。というか、物質と精神を分けて考えてきた哲学は大前提からして的が外れていたことになるではないか、と。そう考えてきたのだ、な。文字通りの<唯物論>になるのじゃあないかというのは、こんな意味合いでである。

再度、上の6番の投稿を引用している。
前の投稿は、唯物論のようでもあるし、逆に考えると唯心論のようでもある、と。要するに、西洋的な二項対立思考では見えなくなる面がある。そういうことだ。

西洋流に「物質と精神」を分けて考えるより、両方を一体のものとして理解する方が真実に近い。そんな世界観が出てきている。

まあ、

その後、現在に至る

と言ってもイイ。

最近になって<宗教>が話題になることが多いが、西洋的な自然科学的思考に頭から足まで染まってしか世界を見れなくなると、宗教とか、信仰という人間行動を的確に理解できないはずだ。

世間には、自分自身は科学の専門家ではないが、科学を盲目的に信頼する《科学主義者》が多い。

科学主義者は、多分、唯物論的な世界観をもっている(に違いない)。全ての現象は因果関係の枠組みで理解する。つまり結果にはすべて原因があると考える。物質界のある原因が先にあって、観察可能なある結果がメカニックに生起するのであるから、そこに理念や価値は不要である。過去から未来へ物事は自動的に、法則に沿って、進行する。人間もそのはずである。社会もそのはずである。科学主義はまず第一に《没理想的》にならざるを得ないのだ。

仮に、こういう理解の仕方で解答が得られない事柄があるとすれば、それはその事柄が「非科学的」であるからだ、と。そんな仕分けになる。しかし、人が道路を横断するのは、信号が青になったことが原因ではない。ケガをしたくないという目的が先にあり、だから信号が青になってから渡るのだ。因果関係ではない。受験勉強、経営努力、全てそうである。だからと言って、人間の行為が非科学的であるとは言えない。

これでは本質に迫れない。 因果関係ではなく、目的論的に世界を観る方が理解が深くなる問題もあると考えるようになった。

そんな場合、科学ではなく、哲学が助けになるし、でなければ宗教的直観に基づく議論をする。これもまた、そもそもそんな議論をする属性が人間知性には最初から織り込まれていたからである。理屈はそうなる、というのが現在時点の小生の立場だ。



 

















2024年10月21日月曜日

断想: これも「斜陽・日本」の現れなのか?

仕事に費やする時間は、ある年齢を過ぎると、次第に減少してくる。体力、集中力に限界を感じ始めるし、結果を出すまでに予想される時間が次第に足りなくなってくるので、新規に始める仕事が小粒になるからだ。もちろん手足になってくれる多数の部下に恵まれる企業経営者は話が別だろう。

仕事に投入する時間が減れば、それ以外の時間が増え、若い時分から読むのを我慢してきた大部の本の読書や、最小限の時間消費に抑えてきた趣味活動をしたりする。そして、傍らではTV画面がある。そんな時間が多くなる。

気の付いたこと。

一番組当たりに投入されている出演者数が非常に増えてきている感覚がある。特に「ニュース番組」はアナウンサーが2人か3人、現場に出演するコメンテーター、リポーターの員数も数人いることが多い。以前はニュースキャスターは一人。アシスタント的なサブが一人いることもあったが大半は一人のMCが伝え、コメンテーターなどはいなかった…、そんな記憶がある。バラエティ番組も最近は出演者数が非常に多い。

要するに、一番組当たりの出演者が増えていると思うのだが、一方で番組当たりの収入は増えているのだろうか?


ミクロ経済学の基本には利潤最大化の必要条件として《限界原理》というのがある。これに沿って考えると、番組出演者を一人削減した時のコスト節減とそうした場合の収入減少を比べて、もしコスト節減額が大きければ、出演者を減らすほうが良いという判断になる。

思うに、民放TV各局の人的資源投入は過大で利潤最大化条件を満たしていないのではないかと感じるのだ、な。

にも拘わらず、出演者数を増やし、資本集約的な番組編成上のイノベーション追求に消極的であるような印象があるのは、「出演者」という人的資源供給サイドが供給過剰に陥っている。換言すると

TV業界(及び報道業界も?)は、最近では珍しい「人手過剰産業」ではないか?

こんな疑問をもつようになっている。

個人情報保護、政治的中立性、安全保障上の要求等々、メディア活動への有形無形の規制がアウトプットを押さえている面もあるのだろうとは思う。

が、こうした面もひっくるめて要するに、TVメディア華やかなりし時代から引き継いだ「関係者集団」の相互扶助的な業務をいま継続しているのではないか、と。

何だか、そんな印象を感じ、客の減った老舗温泉宿のような哀愁を感じさせるのだ。これまで頑張って来た人達にも、

その人たちの人生ってものがあるでしょう

こう言われれば、そうですヨネエ、としか言いようがないのが日本人の国民性かもしれない。義理(=理屈)と人情(=同情)との板挟みは日本人が大好きな舞台設定でもある。


どの産業にあっても状況は大同小異で、「何とかしたい」という現場の思いと、「何ともできない」という客観的状況のせめぎ合いで ― このせめぎ合いを放置する無能ぶりにこそ日本の中枢部門の特質が窺われるのだが ― 、結果としては経済資源の再配分が円滑に進められない。《硬直化》・・・、そんな日本社会の弱点が「視える化」されている。

昭和30年から40年代の日本は、まだ若く、新産業への挑戦精神も旺盛だった。動脈硬化と俊敏性の低下は、年齢がまねく最近の小生の健康ぶりだけにしてほしいものだ。


・・・こんな風に感じる今日この頃であります。

【加筆修正:2024-10-22】


2024年10月19日土曜日

断想: 冬が近づく今日この頃です

首都圏は10月にしては珍しい程の暑い日になるとの予報だが、北海道では雪が近づく晩秋である。

ついこの間に散歩をした時には道端にはまだ友禅菊が満開だった。




幾年や 友禅菊に 似たる人

それが昨日、岬を回って歩いて行くと、樹々ははや紅葉が進んでいる。



雪虫や はかなく飛んで 今日の縁

そうかと思えば、身障者福祉施設の門前に並ぶ可愛らしいホウキ草は、まだ何日かは元気な姿を見せてくれそうだ。


雪が降ってマンションの駐車場に除雪車が来るようになると、朝の除雪の間、近くのマクドナルドで朝食をとるのが習慣だ。カミさんとは、これを「朝Mac」と称して、積雪期の日常行事にしている。



2024年10月17日木曜日

ホンノ一言: 高収入高齢者に対する年金支給を停止するという提言について

高収入高齢者に対する年金支給停止が財界から提言される時代になった:

関経連は、年金以外の所得が多い高齢者に対し、老齢基礎年金(国民年金)を停止するか支給額を減らすべきだと訴え、常陰均副会長(三井住友信託銀行特別顧問)は記者会見で「現行の社会保障制度を維持するのは困難で、一部に痛みを伴う改革が必要だ」と指摘した。

Source:Yahoo!Japanニュース

Date:2024年10月17日

URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/2004734832e9b91a871cd6bc18b7b02db5847aab

これに対して、現代日本のインフルエンサー(の一人)である西村博之氏が

日本の若者からお金を奪うと日本人の子供が増えません。日本の未来のために、若者の社会保障費負担を減らさないと日本人は減っていきます。『今だけ、金だけ、自分だけ』の人達が未来の芽を摘んでる中で、関西経済連合会の提言

こう発信したよし。

基本的には賛成だ。

が、これが卒業プレゼンならコメントする点はある。

日本の若者世代が子供をつくろうとしないのはカネが足らないからだろうか?確かに、正規就業者よりは平均的に低収入である非正規就業者のほうが婚姻率、育児数とも低いという統計があるので、少子化の背景にカネの問題があるのは事実だ。

とはいえ、小生の幼少期には(平均的な生活水準は今と比べると低かったが)2人兄弟(姉妹、兄妹等々)家庭が多く、それでも3人兄弟も多くあり、一人っ子家庭はたまに散見される程度であった記憶がある ― ちなみに小生は3人兄弟。父は7人兄弟、母は2人兄弟だ。それが近年では、経済環境が恵まれているはずの公立学校共済組合所属の正規教職員家庭でも合計特殊出生率が1.9と2を割っている(資料はこれ)。

勤労者世帯の勤務環境、住環境、さらには子供という人的資産を育成する行為を「投資」(社会的には投資だ)とみるか、「消費」(私的には育児費のかさむ消費である)とみるかで社会と個人に認識のギャップがあるなど、適切な人口政策の立案には多面的考察が必要だろう。

もう一つ挙げるとすると、高収入高齢者への年金支給停止は政策的効果はともかく、法的正当性を通しておく必要がある。日本の年金は、毎年の税が投入されている文字通りの「公的年金」という側面があるが、同時に「年金保険料」を納めてきたリターンとしての年金という「私的年金」の側面もある。上の提言は基礎年金についてだが、これが報酬に比例する「老齢年金」であれば、応能負担と負担に比例した支給は社会契約であるから支給停止は困難だ。毎年の税が投入されている「基礎年金」ならば確かに減額の余地が残る。しかし、これとても国民年金保険料を納入している受給資格者の年金支給を停止することが憲法上可能か、財産権を侵害しないか、といえば小生は疑わしいと思う。

経済状況に応じて「公的年金」を停止するというのは誰もが思いつく対策だ。が、年金は「契約」で守られた財産権でもあるという点を尊重するべきで、これは土地所有権をめぐって戦乱相続く時代を経験した日本人ならば、ピンと来る事柄だと思うがいかに。

「財産権・所有権の尊重」は日本においては「政治の肝」である。多少不条理でも、中央政府が信頼を失い争乱・内乱に陥るよりは、平和のほうがまだ良いでありましょう。

ここ日本において、財産権を一挙にはく奪する程の施策は、(大昔はいざ知らず)明治維新直後の混乱期、太平洋戦争敗戦直後の占領期をおいて、実行されたことはありませぬ。たとえ対象を高収入世帯に限定するにしても、というより「だからこそ」、弱体な戦後日本の政府にはとても無理な期待でありましょう。


基礎年金は毎年の目的税(?)から支給する文字通りの「公的基礎年金」とする原理・原則に移行することの方が先にあるべきと思うがいかに。他方、現在の「老齢年金」、即ち年金の二階以上の部分は民営化を進め、政府は、というより国民もお上の管理から解放されるので「お互いに」身軽になるという方向が小生の好みには合致する ― 日本では(当然ながら)こんな方向を提言している政党は一つもない。

それより高齢者を云々するなら、医療費の公費負担を一律3割と決定する方に緊急性がある。指摘するならこちらであろう。高額医療制度の継続の可否も、これだけ民間保険会社による任意の医療保険がある以上、財政事情に応じて判断するべきだ。

いうなら医療が先だろうと思われます。

以下は、後刻、ついでに書き足した。


何かと言えば、社会保障を最重要政策課題と認識して、「国はしっかりしろ」と声をあげる風潮は小生は嫌いである。国の存在理由は個々の国民の生活水準を引き上げることではないと思っている。余計なお世話である。

「国」が担保するべき国家機能は、対内的には警察を含めた「司法」への信頼が核心だ。司法が崩れれば国家は体を為さなくなる。それと併せて挙げるとすれば「公教育の充実」くらいだ。そして対外的には軍事力を含めた「外交」による長期戦略が勘所だ。福祉サービスや、公衆衛生、インフラ整備、経済政策は、出来ればやってほしい事柄で、不可欠の機能ではないと考えるのが、ずっと変わらぬ小生の基本的立場だ。これらは民間で十分できるし、出来ないのは意志がないか、民間が政府の役割を担って何かをすることを政府が嫌うからだと思っている。

中国の王朝は(ほぼ)全て財政破綻が主因となって滅亡した。徳川幕府も最後はカネがなくなって雄藩勢力に対抗できなくなった。財政破綻の原因は例外なく財政の膨張である。財政が小さければ資金は民間に貯まる。たまった資金は民間が自由に使う方が良いに決まっている。民間経済が繁栄する国が破綻する理屈はない。

中央政府は、余計な仕事にエネルギーを使わず、固有の役割に集中するべきだ。あとは地方自治体に広汎な租税徴収権を与えれば、地域の課題は必ず解決できる。付加価値が形成される生産現場で地方税として徴収する。税源を移譲して地域ごとに公的な課題に対応する体制にする。立法権も大幅に地方に委譲する。そうなれば、管理機能が集まる大都市圏、及びそこに立地する中央政府にカネは集中しない。首都圏にカネが集まらなければ首都圏に人口が集中する理屈はない。人口も分散するだろう。それでなくとも、日本国の中枢管理部門はデスクワーク中心で非効率なのだ。以前にも投稿したが、日本は「頑張る現場とダメな上」の状態になってしまいやすい。《頑張る現場》でブログ内検索をかけると、実に多数の投稿がかかってくる―中でもこれが代表的サンプルだろうか。

分権。これこそ真の民主主義と思うがいかに。とはいえ、道は果てしなく遠い……、永遠の彼方にあるかもしれない。が、未来のことなど決して分かるまい。

そんなわけで、関経連ともあろう財界団体が、国の年金を云々して政府に提言するという状態は、提言の内容が適切であるかどうか以前に、民主主義が退廃している象徴であるとしか感じられないのだ、な。

【加筆修正:2024-10-19】


2024年10月13日日曜日

断想:浄土思想からキリスト教の世界観、さらには民主主義に思いが至って……

先日にもふれた「五重相伝」を満行して、今日はヤレヤレとした感じで怠惰を貪っているところだ。

ネットにも体験談が幾つかアップされていて、大半は「受けて良かった」というもので、小生自身にもそれが当てはまっているから、我ながら変人至極というわけでもないと安心している。

正伝法については前伝、後伝ともオンラインの「浄土宗大辞典」にあるから、その場では内容をメモしないようにと説明があったが、概略は秘密ではないのだろう。例えば、前伝である「要偈道場」は次のように概説されている:

灌頂洒水・伝巻伝授—受者は教授師に従い、釈尊前に一拝し、白道を踏んで本尊前に進む。その間は一唱一下の念仏を唱える。白道上で灌頂洒水と伝巻頂戴の儀を受ける。左脇師は灌頂洒水を行い、受者は低頭合掌して受ける。この間、低声念仏する。右脇師は伝授作法をする。偈文は省略し念仏中に授ける。受者は両手で頂戴する。つぎに本尊前に一拝して退堂する。

Source: 浄土宗大辞典 

白道とは、(浄土真宗では重用していないと推測するが)「二河白道」の白道のことで、矛盾に満ちた人間の生と浮世の本質をイメージ化した話しである。絵画としては、どれも同じ構図になっていると思うが、例えば奈良国立博物館所蔵の作品がみられる。

要点は、炎のような「怒り」と激流のような食欲、物欲、性欲、名誉欲、権力欲、知識欲等々の様々な「欲望」が自らの心をこがす中で、いかにして落ち着いた平穏な生を送ればよいのかという問いかけにある。

浄土宗は、周知のように「他力」思想に基づく救済宗教である。阿弥陀如来を「南無阿弥陀仏」とその名を声に発して呼ぶことで苦から解放される浄土へと逝ける。阿弥陀如来は、我が名を呼ぶ声に応じて呼ぶ人を救済するわけである。浄土宗の全体はこんな世界観で一貫していると小生は理解している ― この答え方の評点がどうなるかは分からないが。

ちなみに、親鸞の浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と声を発して呼ぶ行為よりも阿弥陀如来による救済を堅く信ずるという心の中の信仰の強さを強調する。つまり、浄土宗では「十念」とか、「念仏一会」のように、何百、何千、何万回と反復して念仏を唱える行為を通して、阿弥陀如来が念仏の声に応じると考えるのだが、浄土真宗ではそうではない。この辺り、どちらが信仰として純粋かという議論がなお続いているようだがここでは掘り下げない。

なお、小生は『歎異抄』が大好きである。悪行を重ねる悪人こそ業と汚辱にまみれ、時に苦悩し、苛立つ憐れむべき存在であって、阿弥陀如来はそういう者をこそ優先して救うのであるという悪人正機説は、大乗的な他力思想の精髄であると思う。が、好きではあるのだが、現世(=穢土)から来世(=浄土)へと通じる道は、怒りや欲望に満ちた空間に細く通じている一本の白い道のみであるとする浄土宗の世界観もまた好きなのだ。人が自分の生を生きる人生の真実はこちらの方がより近しいと思っている。

翻って、キリスト教の『新約聖書』には次のような下りがある。

13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。

14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

Source:新約聖書「マタイによる福音書」第7章、第13~14節

URL:https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/nt/matt/7?lang=jpn

「二河白道」の白道を歩んで浄土に達することが出来る者は、ただ阿弥陀如来が声に応ずるものと確信して、念仏の声を発し続け、怒りや欲望に落ちるとも再び白道に立ち戻る人間のみである。この認識と、救いに至る道に入る門はそもそも「狭き門」であり、門をくぐってから続く道は「細い」というキリスト教的世界観、人間観には、重なるところがある。

遠く離れた地で形成された宗教思想が、その世界観で共有する一面をもっている。直観的にそんな認識が形成されている。小生は、空海の「両部不二」とも言えるような世界観を持つようになったことは本ブログにも何度か投稿している。とすれば、この宇宙、もしくは138億光年の果ての「宇宙の地平線」を超えた彼方かもしれないが、宗教的救済という概念に対応する実在がどこかにある、と。こう推量しているわけだ ― もちろん「推量」ではダメで、「確信」でなければ文字通りの「信仰」にはならないわけであるが。

話題はまったく別になるが、上の話しと「民主主義」との関連をつい考えてしまうのだ。


大多数の人間が「滅びの道」を選び、様々の欲望に従い、怒りに我を忘れるのが現実である世界において、全ての住民の投票によって統治者を選ぶというのは、どういう社会哲学に立っているのだろうか?


民主主義思想は、ヨーロッパ近代の社会を前提にして生まれた ― 古代ギリシアの民主主義社会では平等で兵役の義務を負う市民と兵役の義務なき奴隷という階層区分があった。

新教徒抑圧を忌避してメイフラワー号に乗って自由なアメリカに移住した英国の清教徒達(Pilgrim Fathers)は、世間に順応するための改宗を拒否し、いわば「狭き門」から入り、「細き道」を歩もうと決意した人々であったのだろう。このような人々から始まる社会は、民主主義思想を受け入れる基盤を持つ社会になりうる。

フランス革命は(神ではなく)理性に基盤を置く啓蒙思想から生まれた文化大革命であった。伝統の中にはカトリック教会も含まれていた。教会が代弁する「神の声」よりは、すべての人間に平等に与えられている(はずの)「理性の声」に信頼を置く社会観に立てば、確かに民主主義は肯定されるという理屈になる。こんな社会であれば、初等教育から高等教育まで、どんな市民を育てればよいかという結論は容易に合意されるであろう。


自らを律する精神的基盤を共有することなく、天然自然の人間が生まれながらに持つ欲望と怒りの感情を肯定する社会で、近代ヨーロッパの民主主義思想は、本当に受け入れられるのだろうか?社会がくれるというものはもらい、社会に納めるべきものは納めたくない、そんな凡夫の感情が支配する民主主義社会にしかならないのではないか?というより、現になっているのではないか?そして為すべきことが為せない民主主義社会にしかなれない。同じ「民主主義」の名称で呼ぶにしても、発祥の地とは異質の民主主義社会になるのではないだろうか?

ここまで書いて来ると、日本文化発展史における仏教と神道の関係について、考えたくなる。

宗教文化史にも国学にも小生は専門外だ。が、以下の印象をもっている。

日本古来の神道を大乗仏教の思想に吸収して理解する「本地垂迹説」は、奈良時代以来の日本の伝統文化となった。それを否定した点では、明治維新が政治体制としてはともかく、日本史を通じて稀に見るほどに破壊的な文化大革命であったことが分かる。 

神仏分離令が施行された後、廃仏毀釈運動により多くの文化財を亡くしたことに止まらず、一般国民の間に「神州日本」という気風が広まり、さらに「国体護持」という政治路線の正当を大半の日本人が信じ、最後には破滅的な結果をもたらした明治的理念は、敗戦を機にいったん否定されたはずだ。 

が、日本人の心理的な深部は、そのまま文化の核心にもなって、戦後は戦後で戦後風の色合いに染まりつつ、いまでも戦前期そのままに継承されて、堅く守られているところがある(と感じる時が多い)。日本人の社会観や人間観、倫理観が、貧しく、痩せたものになる過程は、戦前期にも進行していたが、同じプロセスは戦後になっても進み続けている。これが小生の歴史観である ― もう今さら元には戻せないが。

そもそも仏教には「一切衆生」という思想が根本にある。それに対して、神道では清らかで曇りなき心、これを「大和心」と言ってよいと思うが、そんな純粋な清明を重んじる。国家神道が戦前の対外侵略を精神的に支えたことは自明だ(と観ている)。 

であるので、江戸以前と明治以後を分ける境界で、日本文化発展史における大きな断層が生じたと考えておくべきだ。この時期を境に、日本人の道徳観、人生観、自然観、社会観、国家観は一変した。

なお、西洋文明の流入をどう見るかという論点がある。この変化は、明治維新で始まったのではなく、幕末の開国によって始まった変化である ― それ以前にも長崎のオランダ商館を通して入って来てはいたが。

なるほど幕末の開国も日本社会の色々な面に破壊的影響をもたらした。とはいえ、それが日本人の精神や気風(=エートス)を本質的に変えたのか、それとも表層的な変化だけを与えたのか、これを検証するのはライフテーマになるほどの問題だ。


書き過ぎかネエ…過激かネエ…、思想史や文化史はともかく、明治維新の創造性と破壊性についてまとまった議論を聞くことが一般にあまりないのは、驚きものだと思っている。全面肯定か、全面否定の二択問題ではないでしょうに。

であるから、よく言われる「岩盤保守」という言葉だが、この「保守」とは、何を指して日本の伝統と言っているのか。ここは厳格に二分化して正確に認識する方がよい。

残念ながら、これが今日この頃の心境であります。

後半はとりとめのない雑談になってしまった。一応メモしておく次第。

【加筆修正:2024-10-14】



2024年10月9日水曜日

ホンノ一言: 自民党は久しぶりに党内抗争レジームにスイッチしたか?

前々稿で書いたとおり徒歩圏内にある寺で五重相伝をうけている最中だ。大昔は100日も寺に参籠したそうだが、現代では5日間に短縮されている。マ、何事もタイパ重視、インスタント化という流れは国内の大学でも同じ、宗教界でも増えているが、やはり皆さん何だか非常に忙しくて、時間がとれないという客観情況があるわけだ。

今日は二日目だが、往復と午前・午後の動作、発声で結構カロリーを消費していることを感じる。カミさんも一緒に出ている。

そんな情況なので、メジャーのPOでドジャースがパドレスに負けて1勝2敗の瀬戸際に追い込まれたことは夜になってから知った。忙しいと世間のことに疎くなるのは、小役人をしていた頃と変わらない。

首相が岸田さんから石破さんに変わった事くらいは知っている。ただ石破さんは前の安倍晋三さんや主流派に干されてからというもの、もう何年も「党内野党」であり続けて、総理になってからまだ何日経ったろうかという時点だ。

こんな駄文があれば面白いという思い付き……


ところが、ネットや大手マスコミを見ると、実に評判が悪しく、まるで石破さんが不祥事を起こした責任を頬っカムリしようとしているとか、当の不祥事を起こした主流派の面々にいかに残酷な仕打ちをしているかとか、更には裏金議員をここまで追い詰める必要はあるのかとか、不憫ではないかとか、旧統一教会との協力や裏金作りが世間からヒンシュクをかっている中で次の選挙で負ければ負けた責任は新総裁の石破さんにあるとか、……どれもこれも奇妙な屁理屈で、不祥事をしでかした当事者ではなく新たな総裁を非難しているのでございます。実に「世論」というのは全くワケが分かりませぬ。

カネでも流れているのか…?それこそ貯めてきた「裏金」がいま流れているのかもしれませぬが、縁に繋がる人々が旧主流派にお世話になってきた恩返しに「逆徒・石破」を排撃しているのか……?その支持率をとにかく落とそうという腹積もりなのか…?何だか「石破三日天下」を待望している旧・主流派シンパが日本の政界、政界周辺に数多いるのは間違いございませぬ模様。


これが中国共産党の支配者交代なら、これから大量粛清が始まること必至だが、ここは(残念ながら)戦後日本であります。民主主義は民主主義でも、洋風、韓風、大陸風のガチンコ勝負とは異なる和風の寄合民主主義であります。

情け無用の腕力で決着をつける修羅場などはなく、多分、田中角栄首相が金脈問題で退陣した後にクリーン三木が政権についた頃の往時を思い起こさせる様な、ダラダラと続く「イビリとシカト」で何か月もが経過するのでございましょう。

そして、気がつけば日本はデフレに逆戻りか、それともインフレ5%になってしまっていたとか、どんな未来が待っているのか見当がつきませぬ。

もう頼りは自衛隊だけだと言えば、三島由紀夫の二の舞になってしまうのでございましょう。それでも、戦後日本の民主主義が行き着いた果てがいまの社会かと思えば、どこで間違えたのであろうかと悔いは千載に及ぶことでございましょう。


やはり

Vox Populi, Vox Dei

人々の声は天の声

ではなく

Vox Populi, Vox Diaboli

人々の声は悪魔の声

と視ておく方が的を射ているのかもしれませぬ。

一体、日本の世論が停滞日本を救う見通しはあるのでござりましょうか?解決策は、真っ当な経済学者、政治学者なら、既に成案が出来ているはずでございましょうに。

2024年10月5日土曜日

ホンノ一言: アメリカの雇用統計をみて思うこと

2か月前だったか、アメリカの失業率が4.3%という3年ぶりの高さに達し、米経済の行方に暗雲が立ち込めてきたと報道されていた。ちょうどその頃、東京市場の株価もBlack Mondayを超える過去最大の暴落劇を演じて、世界経済、日本経済の先行きに不安感が増したものであった。記録しておくべきだと思い本ブログにも投稿した。

それから2カ月たって昨日になると、今度はアメリカの失業率が低下、雇用者数の増加も市場予想を上回ったというので、日経辺りは「粘り腰の米雇用」と報道している。

ヤレ、ヤレ……、これでは「本日の株価は前日比で2日連続の上昇となり市場は明るさを取り戻しています」といった風のノー天気な株価中継と同じではないかと感じた次第。

トレンドをみてみよう。

まず雇用者数の増加だが、


URL: https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/us_main_economic_indicators/

確かに足元で上がってはいるが、この位の上振れは低下トレンドを続けてきたこれまでの期間中にあったことであり、一過性のノイズかもしれない。

次に、失業率だが、

これも最近の上昇トレンドから低下トレンドへと局面が転換したとは言えない程度のものだ。

そもそも「粘り腰の雇用市場」とは、ピークアウト間近しとみられる中で、高水準安定が続く状態を指して言う形容詞だ。今は、景気底割れが懸念される中で「何とか低位安定」を続けている状況だろう。これを「粘り腰」と言うか?いずれ景気後退あるべしと予見を抱きつつ書いていないか?景気悲観派なら「粘っている」が結局は土俵を割るだろうと考える。小生なら「底打ちの兆しか?」と書きたいところだ。

それより日本経済との関係で言えば、最近の為替レートの動きの変化には注意を払うべきだ。

円ドルレートをグラフに描くと


最近になってから極めてボラティリティが拡大している。

一方、ドル対ユーロ相場は


このようにボラティリティの拡大はみられず、ドル・ユーロ市場は安定している。

日銀の金融政策は金利引き上げ局面にはあるが、急激な政策変更を志向しているわけではない。しかるに、ドル対ユーロに比べて、円対ドル相場が不安定化しているのは、日本経済の側で不確実性が増している、と。予測しがたい要素が増えている、と。少なくとも海外の経済専門家、投資家は日本をそう観ているからだと推測できる。

簡単に言えば、日本経済に対する信頼が以前よりは相当落ちてきている。1ドル150円を大きく超えて円安が進んだことが、どうやらレジーム・スイッチを引き起こした。そんな理解でイイのだろうと思っている。

日本はいまだに低金利国だ。その低金利国の通貨価値がボラタイルになってきているなら、日本はハイリスク・ローリターンということになる。このままでは対日・国内投資が増える理屈はないのではないか。

低金利を強制(?)している低生産性企業を清算して、限られた労働と資本を高成長分野へ再配分するべきだ、と。そのためには制度改革、産業政策変更、短期的な倒産増加をいとわず、と。いずれこんな政策フレームを主張する人の声が勢いを増すのではないか ― 誰が言うかは分かりませぬが。「周回遅れ」で、かつ日本社会では極めて困難であるものの、期待をこめて、そう予想しております。


アメリカ経済については、何度も投稿しているように、景気底割れの懸念は少ないと思われる。

実際、景気先行性のある指標(の一つ)である長短金利スプレッドをみると、


スプレッドはこれまでの負値から正値をとり始めており、景気は既にボトムアウトしたのではないか、つまり
米経済はインフレ抑制を完了し、ソフト・ランディングに成功した
こう判断しても良いのではないかと観ているところだ。

日本のメディアが心配するならアメリカ経済ではなく日本経済の方だろう
こう思います。

【加筆修正:2024-10-06】











2024年10月4日金曜日

断想: 自分自身の来世での救済を願うのは利己主義なのか?

早朝、生ごみをゴミ・ステーションに出そうと坂を下りながら考えた……というと、漱石の小説のようだが、山道とは違ってそれほど時間がかかったわけではない。

法然や親鸞の他力信仰では(善ではなく)悪にまみれた自分の来世における救済を願って阿弥陀如来に祈るわけである。

要するに、自分が助かるために祈るわけですヨネ。他の人たちはどうなるんですか?自分が救済されればイイんですか?自分勝手ですヨネ。

と。こんな質問があっても、決して愚問ではない。

親鸞になると

親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、 いまだ候はず。

とまで『歎異抄』の第5章では話している。自分勝手な利己主義にならないかと質問する人がいるとしても、その人は決してバカではない。


現代は(特に欧米では?)「理屈」の文化が支配的だ。前にも投稿したようにラッセルの分類によれば、理性で到達できる結論は科学と哲学のみにある。科学で未知の事柄については、哲学的なロジックを展開して何とか結論を出している。

が、理屈による合理的議論は直観による宗教的認識とは融け合わない。科学、哲学、宗教は、人類が有する「知」の三つの領域を為している、というBertrand Russelの方法に小生も賛成している。難解な哲学用語にあふれる哲学書を理解すれば、阿弥陀信仰の直観的受け入れや禅における悟りを超える真理にまで到達できるのか?極めて疑問だろう。人間の理性や理屈には(今後もほぼ恒久的に)越えがたい限界がある、というのが小生の立場である。

それに最近では、西洋流の物質と精神とを分ける世界観より、物質と精神は不可分であると考える立場をとりたいと考えている。まるでヘーゲルのようだが、別にヘーゲル哲学にかぶれたという自意識はない。このテーマは前にも投稿したことがある。だから、たとえ直観的認識であっても、現にそのような概念を言葉にして議論している以上、その言葉で指している存在はある、と。こういうロジックは否定しがたいと考えているのだ。


以上は断り書きだ。

話しを戻そう。

親鸞の立場が単純な利己主義ではないことは、この後の下りを読むと伝わってくることだ。

そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父 母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ 候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を 回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土の さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめ りとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。

以上を現代日本語に訳すと、以下の様である。

 この親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏いっぺんたりとも称えたことは、いまだかつてないのです。  

なぜなら、すべての生きとし生けるものは、みな、生まれ変わりを繰り返す中で、いつの世か、父母兄弟であったことでしょう。

そんな懐かしい人たちを、今生で阿弥陀仏に救われ、次の世には仏に生まれて助けなければなりません。

それが自分の力で励む善なのであれば、念仏をさしむけて父母を助けることもできましょう。しかし、善などできる私ではなかったのです。

ただ、自力をすてて阿弥陀仏の本願に救われ、仏のさとりを開けば、迷いの世界でどんな苦しみに沈んでも、仏の方便によってご縁のある人を救うことができるでしょう、 と親鸞聖人はおっしゃいました。

Source:「歎異抄」入門講座 

URL: https://xn--6quo9qmwi.com/gendaigo.html#section5


このような認識には『私は正しい』という主張、というか思想はまったく含まれていない。自分自身は悪であるという認識から出発し、であるが故に、現世では懺悔と悔恨があるのみで、善行など積みようがない。来世において仏性を得てはじめて両親といわず、一切衆生の救済に力を尽くせる。ここに他力信仰という直観的理解がありうる……両親の追福を願って回向をするのは自分の考えに拘っているからで、それが自分の心を平穏にするからである。しかしこれこそ自力作善(≒自らの力で善を為す)の考えで、自分は善を為しているから救われる資格があるとする自力救済の立場に立つことを意味する。しかし悪にまみれている人間存在に自力救済はできないのだ……救うことができるのは阿弥陀如来だけである ― これほど徹底している人は稀だと思うし、この辺り、究極の悲観論であるキリスト教ジャンセニズムに似ているかもしれない。

だからこそ、日常的な勤行は

我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴

従身語意之所生 一切我今皆懴悔

このように、自らの悪業を懺悔する懺悔偈 (さんげげ)から、南無阿弥陀仏の十念を始めるわけである。

継承してきた浄土宗と親鸞の浄土真宗とは基本理念が多少異なる様だが、大略、以上のような理解でよいのだろうと思っている。

来週は浄土宗の五重相伝がある。東京・芝の増上寺などでは結構高額の参加費を求められているが、月々のお布施や護持会費を納めているせいか、思いの外の低額で驚いている。

【加筆修正:2024-10-05】


2024年10月1日火曜日

ホンノ一言: いまのイスラエルの軍事行動ですけど……

イスラエル vs ハマスの紛争が拡大して、イスラエル軍は今度は隣国レバノンへの地上侵攻を開始したようである。

ガザ市は自治区とはいえ曲がりなりにもイスラエル国内だが、レバノンはレッキとした独立国である。

目的はレバノンを活動拠点にしている「ヒズボラ」というテロ組織の壊滅(あるいは懲罰?)である。「テロ集団掃討」が目的であるから、レバノンという隣国に対して「宣戦布告」をしたわけではない(ようだ)。


ただ、勝手に思うのだが、イスラエルの軍事行動のパターンは、ずっと昔に日本の帝国陸軍が中国に対してとった行動と、非常に重なっているような気もする。

あの頃、満州事変を計画した理由は、日本が(国際的に承認された)権益をもつ満鉄沿線の秩序を確立するためであった ― あくまでも表向きは、だ。

「日中戦争」という戦争は、表向きは宣戦布告なき「日華事変」であり、日本からみれば反日活動を活発化するテロ集団を覆滅するための「匪賊掃討」がそもそも当初の目的であった。

それが中国の反日感情に火をつけ、実質的には国と国との「戦争」になってしまったのは、日本が愚かであったというしかない、というのが小生の歴史観だ。


イスラエルが目標とするところも「反ユダヤ主義」に立つ「テロ組織」の覆滅である。イスラエルは「自衛権」を発動しているのだ。しかし、当時の大日本帝国も表向きは(領土的野心のない?)「自存自衛」が目的であるとしていた ― あくまで表向きではあるが。

違いがあるとすれば、イスラエルの理念と自衛権の発動はアメリカ政府が承認しているが、その昔に帝国陸軍がとった「自存自衛」のための軍事行動は、中国への侵略であるとアメリカが判断した、どうも違いはこの点だけである。こう見えて仕方がない。

マア、細かく言えば、今のイスラエルと昔の大日本帝国と、同じ軍事行動でも本質的違いがあるという理屈があるはずなのだが、専門外で不勉強なため、すぐに答えが出てきそうもない。


多分、こんな事をいうと、西側主要国の価値観と衝突して、叱責されるのでしょうが、胸にわいて来る疑問は消しようがなく、あるものをないということは出来ませぬ。