ここ近年、関心があるのは、近代の科学と伝統的な信仰との関連だ。
科学は経験的根拠に裏付けられた知の体系として発展してきた。科学技術は物質的な豊かさをもたらした。しかし、科学は現象の説明にとどまり、宇宙や生命の存在の本質には至っていない。生の意味、死の意味といった心の問題に解答を与えてくれるものではない。
伝統的な信仰は、直観的な宇宙観、生命観を示しているが、しかしその個々の表現は大昔の知識レベルを前提にしているので、一見すると荒唐無稽な内容を含んでいる。
マア、どちらも人間の《知》としては、どっちもどっち、一長一短、というのが小生の最近の認識だ。
そんな中、大峯顕『科学技術時代と浄土の教え』(上・下)が面白かったので、例によって(必ずしも脈絡がつながっているとは限らないが)傍線を引いた箇所を列挙する形で、各章の要旨をまとめておきたい―但し、原文をそのままコピーしてはいるが、一部で括弧を加えたり、文字を加えたりなど、細かな加筆をしているので、この点、ご容赦頂ければ幸いです。
本書は大峯顕の著作リストに含まれていないので講演をまとめたものと推察される。小生はKindleで読んだ。
本投稿の一部をどこかで引用することがあると思う。
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第1章
デカルトは、神の存在と魂の不死ということは、キリスト教信者たちは信仰によって信じるだけで充分だけれども、それ以外の人々は、人間の本性に与えられている理性(自然的理性)によらなければ、説得されえないと言っています。
現代の進歩的文化人がたよりにしている理性は、真の理性と呼べるものではありません。彼らは自分の我を理性と混同していますから、理性自身を疑うような強くてしなやかな理性ではないのです。
自分でものを考えるという精神こそ哲学なのです。
やはり自然科学の力は大きかっただろうと思います。自然科学とそれに伴った技術というものが、世界に対する人間の見方を変えていくわけですね。神がこの世界万物を創ったという説教が、一般の人々の実感に訴えなくなってしまったのです。
浄土真宗の教学や説教が、もし現代人に信仰を喚起させる力を持たないとしたら、教学が江戸時代からほとんど変わっていないからです。
第2章
自然科学は世界や人間をすべてを物質の現象に還元して捉えるいとなみです。
科学はすべてを物質に還元して考えるといっても、その物質とは何かということが(実は)はっきりしないのです。
宗教というのは、世界を人間中心に見ない精神のあり方のことです。
私たちは、あるがままの真理を知ることによって救われるのであって、自分の思いこみによって救われるのではありません。
人間と動物との本質的な違いは、(抽象的な)観念を持てるかどうかというところにあります。現実以上のもの、目に見えないものを感じる(そして認識する)力を持つのが人間です。
解脱知とは、束縛された状態からの救済を知る能力です。
科学知と解脱知の他にもう一つの知があります。これは「本質知」といって、物の本質を知る知識です。これが哲学にあたります。
シェーラーは科学知、本質知、解脱知の三つをあげましたが、このうち科学知(実証知)は、原始的な形では動物でも持つことが出来ます。
オーギュスト・コントなどは、時代的には一番古いのが解脱知で、時代が進むと哲学知になり、最後に科学が発達して実証知になるのだと言いましたが、シェーラーはこの考え方に反対しています。
現代社会を支配しているのは、神学的世界観ではなく科学的世界観です。これは、ヨーロッパでもアジアでも同じことです。若者も老人も同じです。最近はお年寄りでも科学的世界観に汚染されています。阿弥陀さまの本願なんてもう古いんだと、口には出しませんがそう言いたそうな顔をしています。それでも、何とかの神さまに現世利益を頼んだりするのは依然としてやっているわけですが、阿弥陀さまに救われるということを真面目に考えなくなりました。宗教を説く人も、聞く人も、科学的世界観という科学主義に汚染された中に住んでいるというのが、今日の私たちが抱えている深刻な問題です。
《自覚》(=自分という存在の意識?)こそ、私というものの本質なのです。
信仰というのは、この自覚のいとなみです。
自覚といっても、自分の力で起こるのではなく、自己よりも大きな真理である如来(=浄土思想においては阿弥陀如来)が現れて自分に教えてくれたことをいうのです。
如来に照らされて、罪悪深重の自己の自覚が起こるのです。私は極楽などとうてい行くことのできない生死流転の凡夫だという、自分の正体が知らされるのです。
浄土へ行くことが約束されているとは、浄土から今ここに光がとどいているということであります。「信心の定まるとき往生また定まるなり」というのが浄土真宗(及び浄土系信仰)の《信心》(≒これは信じるという直観的認識)であり、臨終の時に迎えに来てくださるだろうというような心は疑いだと、聖人(=親鸞)ははっきり言っておられます。浄土は、どこか遠くにある他界ではなく、今ここを支えている頼もしい基礎なのだということを発見されたのが親鸞聖人の不朽の功績です。 この親鸞聖人の思想の素晴らしさは、長い伝統の中で忘れられがちだったのですが、清沢満之という明治の仏教改革者によって再発見されました。
西田幾多郎はその点を強調して次のように言っています。
「宗教は科学とは相反するかに考えられるが、かえって科学的精神は宗教によって基礎づけられるということができる。真の宗教の立場は、どこまでも自己の独断を棄てて、真に物そのものとなって考え、物そのものとなって行うことでなければならない。そこには、己を尽くすということが含まれていなければならない。無限の思惟が含まれていなければならない。東洋的無の宗教は神秘的ではない、かえって正法に不思議なしということを旨とするものである」。
第3章
宗教に関する哲学には、ヨーロッパでは数百年の伝統があります。宗教哲学は、宗教の本質を解明する学問です。これに少し遅れて、宗教学という学問が生まれましたが、これは宗教の科学的研究(Science of Religion)です。
科学としての宗教学は宗教の現象面を研究しますが、宗教哲学はそうではなくて、宗教とは一体何かという宗教の本質を研究するのです。
宗教哲学のきざしはデカルトにあると言ってよいと思います。前にも述べましたとおり、『省察』には、神の存在と魂の不滅の問題が提起されています。神学者が語る神の存在や魂の不滅の議論は、信者だけを相手にします。しかし、信者だけが信じている内容は、すべての人が納得できるものではありません。信者は、神の存在などを信仰によって信じているのですが、そうではなく、あらゆる人間に与えられた自然理性によって、神の存在が証明されなければならないとデカルトは考えたのです。
我々の世界は、文明の集合から成り立っているのではなく、それを支える根拠があるのです。別の言い方をすれば、我々が生きている世界には意味があるということです。
人間存在はただの肉体ではないというのは宗教の根底であり、これはキリスト教であれ仏教であれ変わりません。
宗教とは、今ここに自分が存在しているということの不思議に驚くことです。…宗教は宇宙の直観なのです。
私たちの生きている時間よりも死んでいる時間の方が長いでしょう。生きているのはほんのしばらくのことで、あとほとんどは死んでいます。生まれる前は死んでいたわけです。そして、浄土のない人は命が終わると(単純に?)死ぬわけです。せいぜい百年生きているだけですね。私たちが生きたり死んだりしているのは本質的に宇宙的事件であり、このことを感じるのが宗教なのだ、とシュライエルマッハーは言ったのです。
シュライエルマッハーが言う宇宙とは、浄土真宗で言えば阿弥陀如来の本願にあたります。私たちが生きることも死ぬことも、すべて如来の本願の中の出来事です。私たちがどれだけ忘れていようと、私たちは如来の本願によって支えられているのです。そのことに気づいたことが信心を獲たということでしょう。
ヘーゲルは、宗教は大衆の哲学であり、哲学はエリートの宗教だとも言っていますが、そうすると宗教は大衆のものでなくなり、一部の教養人の独占物になってしまいます。
ヘーゲルが死ぬと、それに対する反動が起こって、カール・マルクスの弁証法的唯物論を筆頭とする反ヘーゲル主義が出て来ます。先に述べたオーギュスト・コントの実証主義もその一つで、宗教は過去の時代のものであり、これからは科学が真理を握るという考え方です。ヘーゲルによって完成した宗教哲学は、十九世紀の終わりごろから崩壊しはじめるのです。いわゆる「ドイツ観念論の崩壊」と呼ばれる現象です。
第4章
ソクラテスが言ったように、人間はただ生きていることが大事なのではなく、よく生きることが大事なのです。プラトンによれば、哲学的思索というものは、簡単にいえば死ぬことの練習です。
……「いよいよ君たちとお別れだ。私は死ぬために、君たちは生きるために。君たちは私を殺される憐れな人間だと思っているかもしれないが、いったい君たちは死ぬことが悪いことだと、どうして知っているのだ、まだ死んだこともないのに」。(出典:プラトン「ソクラテスの弁明」)
まったくその通りですね。まだ誰も死んだことがないのに、死ぬことが悪いことだとどうして知っているのでしょう。それは、知らないことを知ったかぶりしているだけではないのか。ソクラテスに言わせれば、自分も含めて我々は、死が良いことなのか悪いことなのか知らない。なぜならまだ死んだことがないからです。そうですね。死ぬことが良いか悪いかは人間にはわかりません。
人間は、知ったかぶりをします。「あの人は若くて死んでしまって可哀想に」と言うわけです。知らないことを知ったかぶりをするのは自分が無知だとは思っていないからです。知ったかぶりをするのは高慢です。
阿弥陀さまの本願が信じられないのは、凡夫が無知だからではありません。自分は智者だと思っているからです。阿弥陀さまなんかに助けてもらわなくていいんだというのは、自分の無知に気付かないということでしょう。「邪見憍慢の悪衆生」というのは、根性が曲がっているということではなく、自分が賢いと思っていることです。
だから自分が本当に無智だということを知る、無智の知が大事なのです。
哲学というものは死を超えていく道だということです。哲学は物知りになることではありません。哲学を理屈をこねることだと思っているから、哲学なんて要らないと言ってしまうのでしょうが、それは哲学の何たるかを知らない物言いです。
ヨーロッパの宗教と哲学の関係は、大まかに見ると、宗教が哲学化する方向と哲学が宗教化する方向の二つを持っています。そしてヘーゲルにおいて宗教は完全に哲学化されたのです。他方で哲学化された宗教であるこのヘーゲル哲学に対する反動として、マルクスや実証主義者が出て来ました。これは世界の非宗教化を促進することになりました。だから十九世紀の終わりごろから宗教はずいぶんと下火になって、科学とか実証主義とか共産主義革命といったことが起こり、人間存在に対する宗教的信仰の重要性はだんだんと薄れてきました。そして二十世紀になだれ込んでくる……
理由づけをして納得できるものは宗教と呼べません。
このことを西田幾多郎ははっきりと言っています。
宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せなければならない。(『場所的論理と宗教的世界観』 『西田幾多郎哲学論集 Ⅲ』 二九九頁)
宗教は心霊上の事実であって、救われるということは哲学的思惟の結論ではなく、この自分が阿弥陀さまに救われていくことの明白な経験のことです。哲学者にこの宗教体験の真理を弁護してもらう必要はさらにありません。
……大勢集まって賑やかにやることが繁昌なのではないということを肝に銘じなければなりません。それ以外に浄土真宗の復権などあるはずがありません。あると思っているのは、如来さまを信じていない人でしょう。その人は阿弥陀さまではなく、人間の力を信じているのです。何人人が集まろうと、信心がなければみんなで地獄行きです(笑)。だいたい、宗教に限らず、人が大勢集まったらだめになるのが人間というもののようです。
日本にはいろんな宗教がありますが、どの宗教も純粋性を失って、大衆運動になっています。
「池田晶子は死ぬけれども、私は死なない」と。これは真理です。
世間が見ている池田晶子は死んでも、いま池田晶子をやっている「この私」は死なないということです。それが池田晶子の自己です。これは仏教の言わんとする普遍的真理です。池田さんは、別にお寺でお説教を聞いたわけでもないのに、どういうわけかそういうことを感じる力があったのです。
私たちは、阿弥陀さまの本願に出逢わなかったら、本当に死ぬことができないのです。これが本当に怖いことです。
質疑
この世のことは何でもわかっているが、浄土だけは不思議だと言っている方がおかしいのです。
そうではありませんか。ここはどこかということは誰もわかっていません。私たちはそれを仮に人生と呼んでいるだけのことです。
自己という観念は科学が扱える次元ではないのですね。…これを「個人」と言ってしまうと、もう外在化されてしまっています。個人は社会に相対する存在者の名ですから、もう自己ではないんですね。……
第5章
浄土真宗は、真言宗や天台宗といった仏教よりも禅宗に近いということは言えると思います。信心というのは禅宗の悟り、見性体験と似ています。
阿弥陀如来から私の方へ来て下さっているものが真の至心なのだ。だから私は往生間違いないのだ。(親鸞は)このように経典の従来の読み方を大きく転換されたのです。
浄土に行くのは信心以外にありません。信心が、浄土に行くただ一つの道です。それではその信心がどうやって起こるのかという問題が残ります。起こそうと思って起こるものではありません。私より先に、私にはたらいている力に気づくしかないのです。
第6章
宗教家も含めて多くの人は、お金をたくさん集めて生きることが良く生きることだと思っているのではないでしょうか。
ソクラテスはアテネの人々との対話を通じて、ほんとうの人間の生き方はどういうものかを追求したのです。それは、世間一般には災いだと思われている死というものを超えていくような生き方でした。この世の生存が生きる最高目的ではないのです。
…浄土真宗だったら、浄土に生まれ仏になるということですね。仏教はこの世の長生きを善として説いてはいません。どれだけ長生きをしても、この世の命は必ず終わりますから、最後は地獄・絶望しかありません。この世しかないと思っている人には、死んで地獄があるのではなく、この世自身がまっ暗やみなのです。死んだら何もないと思っている人は、生きているときから地獄を持っています。現世の他には何もないという地獄です。これはニヒリズムです。
ローマもアテネも滅んだ理由は精神が腐ったからです。ローマ帝国が滅んだように、人間は正しいものの考え方ができなくなったときに滅びるのです。
この、私自身は死をもって終わらないという思想が真の宗教の原点です。この自覚がないのは、宗教心のない、肉体の奴隷のような人です。…人間の個体の生存をどこまでも存続させるなどというのは、硬直し、老化し、衰弱した生命観です。
真実信心の人は、行方不明になりません。浄土へ往って還ってくるからです。
信ずることができるものを持っていない人、人間に生まれても本当に信じられるものを知らずに死んでいく人は不幸です。…本当の自分とは、世間の人に見られている私ではなく、如来さまに見られている私のことです。…どうにもならない私に出会うことを、教学用語では「機の深信」といいます。
大きな命がこの私を生きているのです。
質疑
化仏というのは、阿弥陀さまの光の中には、無数の化仏がいらっしゃるのです。…方便不思議によって、いろいろな形をとり、十方衆生を摂取して一人も捨てないという慈悲を知らせてくださるのです。…私は私自身に対しては死にません。社会や、遺族や、友人に対して死ぬだけで、その人自身に対しては死にません。これが私は死なないということの意味です。
この次元をフィヒテは「対自性」と言ったのですが、この対自性の自己こそ本当の自己です。世界はいたるところに命があって、死はないのです。
私は肉体を持って生きていますが、私は肉体とともに発生したわけではありません。
現代人は、物質主義に汚染されてしまって、精神が病的になっているのではのではないかと思います。これは言葉を換えたら、多くの人が、世の中には役に立つものしか存在しないと深く思い込んでいるということです。今までいたお父さんは、私にとって何の役にも立たなくなったから、消えてしまったと思ってしまう。…存在する人は、宇宙から送られてきたのですから、必ず宇宙のどこかにいるものです。この考え方のほうが健康ですから、そこに戻ればいいのです。
モニュメントとしてのお墓はあっていいのですけれども、お墓の中にいるということを本気で信じているとしたら、それは精神というものが信じられない人でしょうね。
お金に限らず、自分の身につけたものは必ず自分を堕落させます。
キリスト教でも同じで、宗教というものは自覚の次元の出来事です。これが人間にとって一番の大事です。…デカルト哲学では、その自覚性がはっきりしなくて、思惟する自己を実体と定義してしまいました。…そこを後にフィヒテが鋭く批判して、実体的な自己などはなくて、自覚としての自己があるだけだと言ったのです。 そういう意味で、自覚というのは西洋哲学にも仏教にも通じる次元です。フィヒテと仏教はそこが非常によく似ているのです。
第7章
生物的な自己、社会的な自己…これは、生きている間だけのことです。
如来の本願に救われる自己こそが真の自己なのです。如来に救われなければならない自己が、本当の自己です。
心とは何かは依然として大きな謎です。これまでは物質の世界を研究してきたから、これからは心に目を向けようという程度の反省ではなく、目の向け方を根本的に変えなければ心の時代にはなりません。『正法眼蔵』の生死の巻が言うように、仏教とは、自己とは何かを問う生き方であり、仏は何かという問いは、自己とは何かという問いと同じです。
ドストエフスキーは、人間の心は、神と悪魔とのたたかいの戦場だと言っています。神と悪魔とが、人間という場所で戦っているというのです。これはまだヨーロッパ的な言い方ですが、人間存在の不気味さをよく表しています。我々はまだ人間とは何かがよくわかっていません。
最近の状況を見ると、わかったつもりであった人間が、何もわからない存在だったということが、はっきりしてきた時代であると言ってもいいと思います。人間の解体の時代というのは、そういうことです。
……ハイデガーは、これは危機の一部にすぎないと言います。それよりもっと大きな危機は何かというと、人間の現象形態としての生存ではなく、人間の本質が、技術によって直撃されているという危険です。
第8章
宗教で問題になる「私」は、宇宙の自然的な生成で生まれたのではありません。私は初めからあるのです。
阿弥陀如来が生まれたのと、私が生まれたのとは同時です。キェルケゴールはこのことを「同時性」という言葉で表現しています。これが宗教の世界であって、弥陀成仏が時間軸での過去の話だと思っていたらまったく見当ちがいなことになります。 キェルケゴールは、イエスの十字架が二千年前の話だと思っている人は、キリスト教徒ではないと言っています。
我々が抱えている問題は、死んだぐらいでは終わらないということです。自分がなぜこういう人間であるのかということは、現生だけで説明できないから、前生とか後生の因縁を言わなければならないのです。…人間が経験することは、この世だけでは説明がつかない部分があるわけで、それを納得するためには、前生を持ち出さざるを得ないこともあるのだということです。
現代人は、前生とか後生とかの観念を笑うかもしれませんが、これは、神話的な説明によって人生そのものへの覚醒を促すためです。哲学的な言葉で言うならば、私たちの現在には底がないということです。人間の理性ではとどかない現実存在の深みのことを言っているわけです。
仏さまというものはどこかに実体としておられるのではなく、法性法身つまり「空」です。
名を喚ぶ以外に、阿弥陀さまとお遇いする道はありません。名を喚ばずに尊敬していてもだめです。
人間の真の生は、私は何のために生きているのかという問いのあるところにのみあります。…宗教も哲学もその問いから生まれるのであって、人間の幸福を目的とするものではありません。幸福を追求し始めると、宗教は堕落します。西田幾多郎は、宗教は自分の安心立命を得るためのものだという考えすら、宗教の純粋性を失うと言っています。
第9章
誰もが死をただ遠ざけているばかりで、避けられない現実を受け止めることをしていません。なぜ私は死ぬのか、死の不安から解放されるにはどうすればいいのかということが、どうしても真面目な問題にならないのです。
死ぬのは社会が悪いからだという考え方になってしまう場合すらあるようです。子どもが自殺すると今の社会が悪い、学校が悪い、病人が死ぬと医師が悪い、制度が悪いということになって、どうしても死というものに直面していないのです。 ギリシャ人は、人間のことを「死すべきもの」といいました。
世間では、ガンで死んだとか交通事故で死んだと言いますが、それらは死の縁であって、因ではありません。死の原因は、生まれたことにあるのです。
こういった死の忘却が、科学技術時代の人間の基本的な特徴ですが、このことを最初に指摘したのは、マックス・シェーラーという哲学者です。…彼が「現代西ヨーロッパ人」と呼ぶ新しい人間類型は、死という明白な事実から目をそむけて、人生とは仕事と金もうけだと考えている人間のことです。