2024年10月17日木曜日

ホンノ一言: 高収入高齢者に対する年金支給を停止するという提言について

高収入高齢者に対する年金支給停止が財界から提言される時代になった:

関経連は、年金以外の所得が多い高齢者に対し、老齢基礎年金(国民年金)を停止するか支給額を減らすべきだと訴え、常陰均副会長(三井住友信託銀行特別顧問)は記者会見で「現行の社会保障制度を維持するのは困難で、一部に痛みを伴う改革が必要だ」と指摘した。

Source:Yahoo!Japanニュース

Date:2024年10月17日

URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/2004734832e9b91a871cd6bc18b7b02db5847aab

これに対して、現代日本のインフルエンサー(の一人)である西村博之氏が

日本の若者からお金を奪うと日本人の子供が増えません。日本の未来のために、若者の社会保障費負担を減らさないと日本人は減っていきます。『今だけ、金だけ、自分だけ』の人達が未来の芽を摘んでる中で、関西経済連合会の提言

こう発信したよし。

基本的には賛成だ。

が、これが卒業プレゼンならコメントする点はある。

日本の若者世代が子供をつくろうとしないのはカネが足らないからだろうか?確かに、正規就業者よりは平均的に低収入である非正規就業者のほうが婚姻率、育児数とも低いという統計があるので、少子化の背景にカネの問題があるのは事実だ。

とはいえ、小生の幼少期には(平均的な生活水準は今と比べると低かったが)2人兄弟(姉妹、兄妹等々)家庭が多く、それでも3人兄弟も多くあり、一人っ子家庭はたまに散見される程度であった記憶がある ― ちなみに小生は3人兄弟。父は7人兄弟、母は2人兄弟だ。それが近年では、経済環境が恵まれているはずの公立学校共済組合所属の正規教職員家庭でも合計特殊出生率が1.9と2を割っている(資料はこれ)。

勤労者世帯の勤務環境、住環境、さらには子供という人的資産を育成する行為を「投資」(社会的には投資だ)とみるか、「消費」(私的には育児費のかさむ消費である)とみるかで社会と個人に認識のギャップがあるなど、適切な人口政策の立案には多面的考察が必要だろう。

もう一つ挙げるとすると、高収入高齢者への年金支給停止は政策的効果はともかく、法的正当性を通しておく必要がある。日本の年金は、毎年の税が投入されている文字通りの「公的年金」という側面があるが、同時に「年金保険料」を納めてきたリターンとしての年金という「私的年金」の側面もある。上の提言は基礎年金についてだが、これが報酬に比例する「老齢年金」であれば、応能負担と負担に比例した支給は社会契約であるから支給停止は困難だ。毎年の税が投入されている「基礎年金」ならば確かに減額の余地が残る。しかし、これとても国民年金保険料を納入している受給資格者の年金支給を停止することが憲法上可能か、財産権を侵害しないか、といえば小生は疑わしいと思う。

経済状況に応じて「公的年金」を停止するというのは誰もが思いつく対策だ。が、年金は「契約」で守られた財産権でもあるという点を尊重するべきで、これは土地所有権をめぐって戦乱相続く時代を経験した日本人ならば、ピンと来る事柄だと思うがいかに。

「財産権・所有権の尊重」は日本においては「政治の肝」である。多少不条理でも、中央政府が信頼を失い争乱・内乱に陥るよりは、平和のほうがまだ良いでありましょう。

ここ日本において、財産権を一挙にはく奪する程の施策は、(大昔はいざ知らず)明治維新直後の混乱期、太平洋戦争敗戦直後の占領期をおいて、実行されたことはありませぬ。弱体な戦後日本の政府にはとても無理な期待でありましょう。


基礎年金は毎年の目的税(?)から支給する文字通りの「公的基礎年金」とする原理・原則に移行することの方が先にあるべきと思うがいかに。他方、現在の老齢年金は民営化を進め、政府は、というより国民もお上の管理から解放されるので「お互いに」身軽になるという方向が小生の好みには合致する ― 日本では(当然ながら)こんな方向を提言している政党は一つもない。

それより高齢者を云々するなら、医療費の公費負担を一律3割と決定する方に緊急性がある。指摘するならこちらであろう。高額医療制度の継続の可否も、これだけ民間保険会社による任意の医療保険がある以上、財政事情に応じて判断するべきだ。

いうなら医療が先だろうと思われます。


2024年10月13日日曜日

断想:浄土思想からキリスト教の世界観、さらには民主主義に思いが至って……

先日にもふれた「五重相伝」を満行して、今日はヤレヤレとした感じで怠惰を貪っているところだ。

ネットにも体験談が幾つかアップされていて、大半は「受けて良かった」というもので、小生自身にもそれが当てはまっているから、我ながら変人至極というわけでもないと安心している。

正伝法については前伝、後伝ともオンラインの「浄土宗大辞典」にあるから、その場では内容をメモしないようにと説明があったが、概略は秘密ではないのだろう。例えば、前伝である「要偈道場」は次のように概説されている:

灌頂洒水・伝巻伝授—受者は教授師に従い、釈尊前に一拝し、白道を踏んで本尊前に進む。その間は一唱一下の念仏を唱える。白道上で灌頂洒水と伝巻頂戴の儀を受ける。左脇師は灌頂洒水を行い、受者は低頭合掌して受ける。この間、低声念仏する。右脇師は伝授作法をする。偈文は省略し念仏中に授ける。受者は両手で頂戴する。つぎに本尊前に一拝して退堂する。

Source: 浄土宗大辞典 

白道とは、(浄土真宗では重用していないと推測するが)「二河白道」の白道のことで、矛盾に満ちた人間の生と浮世の本質をイメージ化した話しである。絵画としては、どれも同じ構図になっていると思うが、例えば奈良国立博物館所蔵の作品がみられる。

要点は、炎のような「怒り」と激流のような食欲、物欲、性欲、名誉欲、権力欲、知識欲等々の様々な「欲望」が自らの心をこがす中で、いかにして落ち着いた平穏な生を送ればよいのかという問いかけにある。

浄土宗は、周知のように「他力」思想に基づく救済宗教である。阿弥陀如来を「南無阿弥陀仏」とその名を声に発して呼ぶことで苦から解放される浄土へと逝ける。阿弥陀如来は、我が名を呼ぶ声に応じて呼ぶ人を救済するわけである。浄土宗の全体はこんな世界観で一貫していると小生は理解している ― この答え方の評点がどうなるかは分からないが。

ちなみに、親鸞の浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と声を発して呼ぶ行為よりも阿弥陀如来による救済を堅く信ずるという心の中の信仰の強さを強調する。つまり、浄土宗では「十念」とか、「念仏一会」のように、何百、何千、何万回と反復して念仏を唱える行為を通して、阿弥陀如来が念仏の声に応じると考えるのだが、浄土真宗ではそうではない。この辺り、どちらが信仰として純粋かという議論がなお続いているようだがここでは掘り下げない。

なお、小生は『歎異抄』が大好きである。悪行を重ねる悪人こそ業と汚辱にまみれ、時に苦悩し、苛立つ憐れむべき存在であって、阿弥陀如来はそういう者をこそ優先して救うのであるという悪人正機説は、大乗的な他力思想の精髄であると思う。が、好きではあるのだが、現世(=穢土)から来世(=浄土)へと通じる道は、怒りや欲望に満ちた空間に細く通じている一本の白い道のみであるとする浄土宗の世界観もまた好きなのだ。人が自分の生を生きる人生の真実はこちらの方がより近しいと思っている。

翻って、キリスト教の『新約聖書』には次のような下りがある。

13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。

14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

Source:新約聖書「マタイによる福音書」第7章、第13~14節

URL:https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/nt/matt/7?lang=jpn

「二河白道」の白道を歩んで浄土に達することが出来る者は、ただ阿弥陀如来が声に応ずるものと確信して、念仏の声を発し続け、怒りや欲望に落ちるとも再び白道に立ち戻る人間のみである。この認識と、救いに至る道に入る門はそもそも「狭き門」であり、門をくぐってから続く道は「細い」というキリスト教的世界観、人間観には、重なるところがある。

遠く離れた地で形成された宗教思想が、その世界観で共有する一面をもっている。直観的にそんな認識が形成されている。小生は、空海の「両部不二」とも言えるような世界観を持つようになったことは本ブログにも何度か投稿している。とすれば、この宇宙、もしくは138億光年の果ての「宇宙の地平線」を超えた彼方かもしれないが、宗教的救済という概念に対応する実在がどこかにある、と。こう推量しているわけだ ― もちろん「推量」ではダメで、「確信」でなければ文字通りの「信仰」にはならないわけであるが。

話題はまったく別になるが、上の話しと「民主主義」との関連をつい考えてしまうのだ。


大多数の人間が「滅びの道」を選び、様々の欲望に従い、怒りに我を忘れるのが現実である世界において、全ての住民の投票によって統治者を選ぶというのは、どういう社会哲学に立っているのだろうか?


民主主義思想は、ヨーロッパ近代の社会を前提にして生まれた ― 古代ギリシアの民主主義社会では平等で兵役の義務を負う市民と兵役の義務なき奴隷という階層区分があった。

新教徒抑圧を忌避してメイフラワー号に乗って自由なアメリカに移住した英国の清教徒達(Pilgrim Fathers)は、世間に順応するための改宗を拒否し、いわば「狭き門」から入り、「細き道」を歩もうと決意した人々であったのだろう。このような人々から始まる社会は、民主主義思想を受け入れる基盤を持つ社会になりうる。

フランス革命は(神ではなく)理性に基盤を置く啓蒙思想から生まれた文化大革命であった。伝統の中にはカトリック教会も含まれていた。教会が代弁する「神の声」よりは、すべての人間に平等に与えられている(はずの)「理性の声」に信頼を置く社会観に立てば、確かに民主主義は肯定されるという理屈になる。こんな社会であれば、初等教育から高等教育まで、どんな市民を育てればよいかという結論は容易に合意されるであろう。


自らを律する精神的基盤を共有することなく、天然自然の人間が生まれながらに持つ欲望と怒りの感情を肯定する社会で、近代ヨーロッパの民主主義思想は、本当に受け入れられるのだろうか?社会がくれるというものはもらい、社会に納めるべきものは納めたくない、そんな凡夫の感情が支配する民主主義社会にしかならないのではないか?というより、現になっているのではないか?そして為すべきことが為せない民主主義社会にしかなれない。同じ「民主主義」の名称で呼ぶにしても、発祥の地とは異質の民主主義社会になるのではないだろうか?

ここまで書いて来ると、日本文化発展史における仏教と神道の関係について、考えたくなる。

宗教文化史にも国学にも小生は専門外だ。が、以下の印象をもっている。

日本古来の神道を大乗仏教の思想に吸収して理解する「本地垂迹説」は、奈良時代以来の日本の伝統文化となった。それを否定した点では、明治維新が政治体制としてはともかく、日本史を通じて稀に見るほどに破壊的な文化大革命であったことが分かる。 

神仏分離令が施行された後、廃仏毀釈運動により多くの文化財を亡くしたことに止まらず、一般国民の間に「神州日本」という気風が広まり、さらに「国体護持」という政治路線の正当を大半の日本人が信じ、最後には破滅的な結果をもたらした明治的理念は、敗戦を機にいったん否定されたはずだ。 

が、日本人の心理的な深部は、そのまま文化の核心にもなって、戦後は戦後で戦後風の色合いに染まりつつ、いまでも戦前期そのままに継承されて、堅く守られているところがある(と感じる時が多い)。日本人の社会観や人間観、倫理観が、貧しく、痩せたものになる過程は、戦前期にも進行していたが、同じプロセスは戦後になっても進み続けている。これが小生の歴史観である ― もう今さら元には戻せないが。

そもそも仏教には「一切衆生」という思想が根本にある。それに対して、神道では清らかで曇りなき心、これを「大和心」と言ってよいと思うが、そんな純粋な清明を重んじる。国家神道が戦前の対外侵略を精神的に支えたことは自明だ(と観ている)。 

であるので、江戸以前と明治以後を分ける境界で、日本文化発展史における大きな断層が生じたと考えておくべきだ。この時期を境に、日本人の道徳観、人生観、自然観、社会観、国家観は一変した。

なお、西洋文明の流入をどう見るかという論点がある。この変化は、明治維新で始まったのではなく、幕末の開国によって始まった変化である ― それ以前にも長崎のオランダ商館を通して入って来てはいたが。

なるほど幕末の開国も日本社会の色々な面に破壊的影響をもたらした。とはいえ、それが日本人の精神や気風(=エートス)を本質的に変えたのか、それとも表層的な変化だけを与えたのか、これを検証するのはライフテーマになるほどの問題だ。


書き過ぎかネエ…過激かネエ…、思想史や文化史はともかく、明治維新の創造性と破壊性についてまとまった議論を聞くことが一般にあまりないのは、驚きものだと思っている。全面肯定か、全面否定の二択問題ではないでしょうに。

であるから、よく言われる「岩盤保守」という言葉だが、この「保守」とは、何を指して日本の伝統と言っているのか。ここは厳格に二分化して正確に認識する方がよい。

残念ながら、これが今日この頃の心境であります。

後半はとりとめのない雑談になってしまった。一応メモしておく次第。

【加筆修正:2024-10-14】



2024年10月9日水曜日

ホンノ一言: 自民党は久しぶりに党内抗争レジームにスイッチしたか?

前々稿で書いたとおり徒歩圏内にある寺で五重相伝をうけている最中だ。大昔は100日も寺に参籠したそうだが、現代では5日間に短縮されている。マ、何事もタイパ重視、インスタント化という流れは国内の大学でも同じ、宗教界でも増えているが、やはり皆さん何だか非常に忙しくて、時間がとれないという客観情況があるわけだ。

今日は二日目だが、往復と午前・午後の動作、発声で結構カロリーを消費していることを感じる。カミさんも一緒に出ている。

そんな情況なので、メジャーのPOでドジャースがパドレスに負けて1勝2敗の瀬戸際に追い込まれたことは夜になってから知った。忙しいと世間のことに疎くなるのは、小役人をしていた頃と変わらない。

首相が岸田さんから石破さんに変わった事くらいは知っている。ただ石破さんは前の安倍晋三さんや主流派に干されてからというもの、もう何年も「党内野党」であり続けて、総理になってからまだ何日経ったろうかという時点だ。

こんな駄文があれば面白いという思い付き……


ところが、ネットや大手マスコミを見ると、実に評判が悪しく、まるで石破さんが不祥事を起こした責任を頬っカムリしようとしているとか、当の不祥事を起こした主流派の面々にいかに残酷な仕打ちをしているかとか、更には裏金議員をここまで追い詰める必要はあるのかとか、不憫ではないかとか、旧統一教会との協力や裏金作りが世間からヒンシュクをかっている中で次の選挙で負ければ負けた責任は新総裁の石破さんにあるとか、……どれもこれも奇妙な屁理屈で、不祥事をしでかした当事者ではなく新たな総裁を非難しているのでございます。実に「世論」というのは全くワケが分かりませぬ。

カネでも流れているのか…?それこそ貯めてきた「裏金」がいま流れているのかもしれませぬが、縁に繋がる人々が旧主流派にお世話になってきた恩返しに「逆徒・石破」を排撃しているのか……?その支持率をとにかく落とそうという腹積もりなのか…?何だか「石破三日天下」を待望している旧・主流派シンパが日本の政界、政界周辺に数多いるのは間違いございませぬ模様。


これが中国共産党の支配者交代なら、これから大量粛清が始まること必至だが、ここは(残念ながら)戦後日本であります。民主主義は民主主義でも、洋風、韓風、大陸風のガチンコ勝負とは異なる和風の寄合民主主義であります。

情け無用の腕力で決着をつける修羅場などはなく、多分、田中角栄首相が金脈問題で退陣した後にクリーン三木が政権についた頃の往時を思い起こさせる様な、ダラダラと続く「イビリとシカト」で何か月もが経過するのでございましょう。

そして、気がつけば日本はデフレに逆戻りか、それともインフレ5%になってしまっていたとか、どんな未来が待っているのか見当がつきませぬ。

もう頼りは自衛隊だけだと言えば、三島由紀夫の二の舞になってしまうのでございましょう。それでも、戦後日本の民主主義が行き着いた果てがいまの社会かと思えば、どこで間違えたのであろうかと悔いは千載に及ぶことでございましょう。


やはり

Vox Populi, Vox Dei

人々の声は天の声

ではなく

Vox Populi, Vox Diaboli

人々の声は悪魔の声

と視ておく方が的を射ているのかもしれませぬ。

一体、日本の世論が停滞日本を救う見通しはあるのでござりましょうか?解決策は、真っ当な経済学者、政治学者なら、既に成案が出来ているはずでございましょうに。

2024年10月5日土曜日

ホンノ一言: アメリカの雇用統計をみて思うこと

2か月前だったか、アメリカの失業率が4.3%という3年ぶりの高さに達し、米経済の行方に暗雲が立ち込めてきたと報道されていた。ちょうどその頃、東京市場の株価もBlack Mondayを超える過去最大の暴落劇を演じて、世界経済、日本経済の先行きに不安感が増したものであった。記録しておくべきだと思い本ブログにも投稿した。

それから2カ月たって昨日になると、今度はアメリカの失業率が低下、雇用者数の増加も市場予想を上回ったというので、日経辺りは「粘り腰の米雇用」と報道している。

ヤレ、ヤレ……、これでは「本日の株価は前日比で2日連続の上昇となり市場は明るさを取り戻しています」といった風のノー天気な株価中継と同じではないかと感じた次第。

トレンドをみてみよう。

まず雇用者数の増加だが、


URL: https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/us_main_economic_indicators/

確かに足元で上がってはいるが、この位の上振れは低下トレンドを続けてきたこれまでの期間中にあったことであり、一過性のノイズかもしれない。

次に、失業率だが、

これも最近の上昇トレンドから低下トレンドへと局面が転換したとは言えない程度のものだ。

そもそも「粘り腰の雇用市場」とは、ピークアウト間近しとみられる中で、高水準安定が続く状態を指して言う形容詞だ。今は、景気底割れが懸念される中で「何とか低位安定」を続けている状況だろう。これを「粘り腰」と言うか?いずれ景気後退あるべしと予見を抱きつつ書いていないか?景気悲観派なら「粘っている」が結局は土俵を割るだろうと考える。小生なら「底打ちの兆しか?」と書きたいところだ。

それより日本経済との関係で言えば、最近の為替レートの動きの変化には注意を払うべきだ。

円ドルレートをグラフに描くと


最近になってから極めてボラティリティが拡大している。

一方、ドル対ユーロ相場は


このようにボラティリティの拡大はみられず、ドル・ユーロ市場は安定している。

日銀の金融政策は金利引き上げ局面にはあるが、急激な政策変更を志向しているわけではない。しかるに、ドル対ユーロに比べて、円対ドル相場が不安定化しているのは、日本経済の側で不確実性が増している、と。予測しがたい要素が増えている、と。少なくとも海外の経済専門家、投資家は日本をそう観ているからだと推測できる。

簡単に言えば、日本経済に対する信頼が以前よりは相当落ちてきている。1ドル150円を大きく超えて円安が進んだことが、どうやらレジーム・スイッチを引き起こした。そんな理解でイイのだろうと思っている。

日本はいまだに低金利国だ。その低金利国の通貨価値がボラタイルになってきているなら、日本はハイリスク・ローリターンということになる。このままでは対日・国内投資が増える理屈はないのではないか。

低金利を強制(?)している低生産性企業を清算して、限られた労働と資本を高成長分野へ再配分するべきだ、と。そのためには制度改革、産業政策変更、短期的な倒産増加をいとわず、と。いずれこんな政策フレームを主張する人の声が勢いを増すのではないか ― 誰が言うかは分かりませぬが。「周回遅れ」で、かつ日本社会では極めて困難であるものの、期待をこめて、そう予想しております。


アメリカ経済については、何度も投稿しているように、景気底割れの懸念は少ないと思われる。

実際、景気先行性のある指標(の一つ)である長短金利スプレッドをみると、


スプレッドはこれまでの負値から正値をとり始めており、景気は既にボトムアウトしたのではないか、つまり
米経済はインフレ抑制を完了し、ソフト・ランディングに成功した
こう判断しても良いのではないかと観ているところだ。

日本のメディアが心配するならアメリカ経済ではなく日本経済の方だろう
こう思います。

【加筆修正:2024-10-06】











2024年10月4日金曜日

断想: 自分自身の来世での救済を願うのは利己主義なのか?

早朝、生ごみをゴミ・ステーションに出そうと坂を下りながら考えた……というと、漱石の小説のようだが、山道とは違ってそれほど時間がかかったわけではない。

法然や親鸞の他力信仰では(善ではなく)悪にまみれた自分の来世における救済を願って阿弥陀如来に祈るわけである。

要するに、自分が助かるために祈るわけですヨネ。他の人たちはどうなるんですか?自分が救済されればイイんですか?自分勝手ですヨネ。

と。こんな質問があっても、決して愚問ではない。

親鸞になると

親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、 いまだ候はず。

とまで『歎異抄』の第5章では話している。自分勝手な利己主義にならないかと質問する人がいるとしても、その人は決してバカではない。


現代は(特に欧米では?)「理屈」の文化が支配的だ。前にも投稿したようにラッセルの分類によれば、理性で到達できる結論は科学と哲学のみにある。科学で未知の事柄については、哲学的なロジックを展開して何とか結論を出している。

が、理屈による合理的議論は直観による宗教的認識とは融け合わない。科学、哲学、宗教は、人類が有する「知」の三つの領域を為している、というBertrand Russelの方法に小生も賛成している。難解な哲学用語にあふれる哲学書を理解すれば、阿弥陀信仰の直観的受け入れや禅における悟りを超える真理にまで到達できるのか?極めて疑問だろう。人間の理性や理屈には(今後もほぼ恒久的に)越えがたい限界がある、というのが小生の立場である。

それに最近では、西洋流の物質と精神とを分ける世界観より、物質と精神は不可分であると考える立場をとりたいと考えている。まるでヘーゲルのようだが、別にヘーゲル哲学にかぶれたという自意識はない。このテーマは前にも投稿したことがある。だから、たとえ直観的認識であっても、現にそのような概念を言葉にして議論している以上、その言葉で指している存在はある、と。こういうロジックは否定しがたいと考えているのだ。


以上は断り書きだ。

話しを戻そう。

親鸞の立場が単純な利己主義ではないことは、この後の下りを読むと伝わってくることだ。

そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父 母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ 候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を 回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土の さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめ りとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。

以上を現代日本語に訳すと、以下の様である。

 この親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏いっぺんたりとも称えたことは、いまだかつてないのです。  

なぜなら、すべての生きとし生けるものは、みな、生まれ変わりを繰り返す中で、いつの世か、父母兄弟であったことでしょう。

そんな懐かしい人たちを、今生で阿弥陀仏に救われ、次の世には仏に生まれて助けなければなりません。

それが自分の力で励む善なのであれば、念仏をさしむけて父母を助けることもできましょう。しかし、善などできる私ではなかったのです。

ただ、自力をすてて阿弥陀仏の本願に救われ、仏のさとりを開けば、迷いの世界でどんな苦しみに沈んでも、仏の方便によってご縁のある人を救うことができるでしょう、 と親鸞聖人はおっしゃいました。

Source:「歎異抄」入門講座 

URL: https://xn--6quo9qmwi.com/gendaigo.html#section5


このような認識には『私は正しい』という主張、というか思想はまったく含まれていない。自分自身は悪であるという認識から出発し、であるが故に、現世では懺悔と悔恨があるのみで、善行など積みようがない。来世において仏性を得てはじめて両親といわず、一切衆生の救済に力を尽くせる。ここに他力信仰という直観的理解がありうる……両親の追福を願って回向をするのは自分の考えに拘っているからで、それが自分の心を平穏にするからである。しかしこれこそ自力作善(≒自らの力で善を為す)の考えで、自分は善を為しているから救われる資格があるとする自力救済の立場に立つことを意味する。しかし悪にまみれている人間存在に自力救済はできないのだ……救うことができるのは阿弥陀如来だけである ― これほど徹底している人は稀だと思うし、この辺り、究極の悲観論であるキリスト教ジャンセニズムに似ているかもしれない。

だからこそ、日常的な勤行は

我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴

従身語意之所生 一切我今皆懴悔

このように、自らの悪業を懺悔する懺悔偈 (さんげげ)から、南無阿弥陀仏の十念を始めるわけである。

継承してきた浄土宗と親鸞の浄土真宗とは基本理念が多少異なる様だが、大略、以上のような理解でよいのだろうと思っている。

来週は浄土宗の五重相伝がある。東京・芝の増上寺などでは結構高額の参加費を求められているが、月々のお布施や護持会費を納めているせいか、思いの外の低額で驚いている。

【加筆修正:2024-10-05】


2024年10月1日火曜日

ホンノ一言: いまのイスラエルの軍事行動ですけど……

イスラエル vs ハマスの紛争が拡大して、イスラエル軍は今度は隣国レバノンへの地上侵攻を開始したようである。

ガザ市は自治区とはいえ曲がりなりにもイスラエル国内だが、レバノンはレッキとした独立国である。

目的はレバノンを活動拠点にしている「ヒズボラ」というテロ組織の壊滅(あるいは懲罰?)である。「テロ集団掃討」が目的であるから、レバノンという隣国に対して「宣戦布告」をしたわけではない(ようだ)。


ただ、勝手に思うのだが、イスラエルの軍事行動のパターンは、ずっと昔に日本の帝国陸軍が中国に対してとった行動と、非常に重なっているような気もする。

あの頃、満州事変を計画した理由は、日本が(国際的に承認された)権益をもつ満鉄沿線の秩序を確立するためであった ― あくまでも表向きは、だ。

「日中戦争」という戦争は、表向きは宣戦布告なき「日華事変」であり、日本からみれば反日活動を活発化するテロ集団を覆滅するための「匪賊掃討」がそもそも当初の目的であった。

それが中国の反日感情に火をつけ、実質的には国と国との「戦争」になってしまったのは、日本が愚かであったというしかない、というのが小生の歴史観だ。


イスラエルが目標とするところも「反ユダヤ主義」に立つ「テロ組織」の覆滅である。イスラエルは「自衛権」を発動しているのだ。しかし、当時の大日本帝国も表向きは(領土的野心のない?)「自存自衛」が目的であるとしていた ― あくまで表向きではあるが。

違いがあるとすれば、イスラエルの理念と自衛権の発動はアメリカ政府が承認しているが、その昔に帝国陸軍がとった「自存自衛」のための軍事行動は、中国への侵略であるとアメリカが判断した、どうも違いはこの点だけである。こう見えて仕方がない。

マア、細かく言えば、今のイスラエルと昔の大日本帝国と、同じ軍事行動でも本質的違いがあるという理屈があるはずなのだが、専門外で不勉強なため、すぐに答えが出てきそうもない。


多分、こんな事をいうと、西側主要国の価値観と衝突して、叱責されるのでしょうが、胸にわいて来る疑問は消しようがなく、あるものをないということは出来ませぬ。