特に最近になって頻繁にきく言葉だが
最も大事なことはバランスです
というのがある。特に、コロナ禍に悩む現代日本社会でこの言葉を何度きいただろうか?
海外のコロナ事情を報じる報道では"The most important is the balance"などという表現は、見たことがない。
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小生は経済学から入ったが、現代経済学で最も大事な概念は《均衡》、つまり「バランス」である。価格や賃金、金利はすべて市場における需要供給均衡から決定されると考えるのが基本だ。実質GDPもそうである。総需要と総供給のバランスから理解する。
経済学が模範とする物理学でも力学の基本は力のバランスである。力がバランスするところで物体は静止する。運動や変化はバランスが崩れるからである。安定にはバランスが要る。
色々多数ある目的の間でバランスをとって行動するというのは、人間自然のあり方そのものだと小生は思ってきた。収入と支出のバランス、債務と返済能力のバランスばかりではない。学力と志願校のバランス、願望と現実のバランス、事業と企業倫理のバランス、意欲と能力のバランス、利害と友情のバランス、親孝行と仕事とのバランス、etc. ほかにも無数にある。どれも現代日本社会に生きる日本人なら日常的に考えている発想そのものなのではないだろうか。小生もずっとそんな風に考えてきた。
しかし、小生の亡くなった父が何度も口にしていた叱責の言葉は
その考え方は純粋じゃないからダメだ。
そんな言葉であった。
この《純粋》という父にとっては最高の価値であったように思える言葉が小生の腑に落ちたことは一度もなかった。父が言いたいことがよくは理解できなかった。諸々の点で自分なりにバランスの良いところで結論を出そうという考え方のどこが父の気にいらないのか、本当に分からず、ただ困惑するばかりであったのだ。
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ところが・・・
若い頃に途中で忙しくなって読了できなかった三島由紀夫の『豊穣の海』を読んでおこうと思ってまた読み始めたところ、第2巻の『奔馬』のキーワードがこの《純粋》という言葉であったので、改めて非常に驚いた。最初に読んだときはまだ父がいた。《純粋》という言葉が作中で頻出しているのだから、初読の際に強く関心を引いてもよかったはずだが、ただ読み過ごしたのだと思う。むしろ《純粋》というこの言葉に価値観をこめて使う人をメッキリと見なくなった最近になったからこそ、逆に《純粋》という言葉から鮮やかな印象を感じるようになったのだろう。
語り部の本多繁邦が主人公・飯沼勲に出した書簡の中で柔らかに忠告するとき
それにしても、本多は何と巧みに、歴史から時間を抜き取ってそれを静止させ、すべてを一枚の地図に変えてしまったことだろう。それが裁判官というものであろうか。彼が「全体像」というときの一時代の歴史は、すでに一枚の地図、一枚の絵巻物、一個の死物にすぎぬではないか。
理屈に奉仕する理知の不毛性を感じるのは《純粋》であることに由来する。
思想はまっ白な紙に鮮やかに落とされた墨痕であり、謎のような原典であって、翻訳はおろか、批評も注釈もつきようのないものであった。
こちらの突き刺す「純粋さ」の針に、ただちに「純粋さ」の針で応ずる先輩はいないものだろうか。
堀陸軍中尉は昭和初年に跋扈した青年将校の一人であるが、ほどほどに純粋であったのだろうが、最終的には軍組織の一員であり、主人公が求める「純粋さ」を通すことはできなかった。
三島由紀夫は大正14年生まれであるから亡くなった父とは1年違いである。《純粋》という言葉にこだわる共通性は、「あの世代」に共有された思想であったのかもしれない。
父が好んだ名句として
自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も、吾往かん。
孟子の言である。吉田松陰もこの一句を好んだそうだ。確か父の口からこの句が出るときは『おのれ信じてなおければ、敵百万人ありとても我ゆかん』であった記憶もあるのだが、意味は同じだ。
自らの動機に対して実に誠実である。この誠実から「バランスをとる」という生き方は出てくるはずはない。「誠実」から出てくるのは「行動」である理屈だ。
言葉、というより「文筆」や「話芸」は、結局のところ記号や音声であり、陽明学が「知行合一」として結論付けるように、「行動」だけが結果をもたらしうるというのは、現代社会でも言える真理であるだろう。つまり「問題解決」は、言葉ではなく、行動によって得られるのである。「知っている」こと自体には大した意味はない。この点は、本ブログでも何度か覚え書きにした。
『奔馬』の主人公が
太陽の、・・・日の出の断崖の上で、昇る日輪を拝しながら、・・・かがやく海を見下ろしながら、けだかい松の樹の根方で、・・・自刃することです。
そう語るとき、「いかに生きるか」という問題は、結局は「いかに死ぬか」と同じ問題であるという極めて当たり前のことを、目の前の最優先の主題として意識していたのが父の世代であったのかと、そう改めて腑に落ちたように感じたのだ。
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確かに「いかに生きるか」を考えることは「いかに死ぬか」という問題と表裏一体の問題であって、前者の問題だけを論じて、後者を観ないという思考では、絶対に解は得られない理屈である。
合理的に考えれば・・・
危険からは逃げるのが合理的である。戦争になりそうになれば、国を脱出して逃げるのが合理的だ。攻撃されれば被害を被る前に降伏するのが合理的だ。困れば無理をせず人に助けてもらうのが合理的だ。助けてくれる人がいなければ、政府に助けてくれと要求するのが合理的だ。自分が頑張るよりは、公務員に助けてもらうのが合理的だ・・・・。
確かに合理的に行動すれば、命を守ることができるが、しかし合理的ではあるがどこか釈然としないのは、同時に発生している表裏一体の問題に解答を出していないからである。そのように生きるという行動は、そのように死ぬという問題に対してやはり正しいのかどうかを真っ当に考えていない。
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パスカルは、自分という「生」の前後に永遠に長い「死」という時間があることに思いが至ると、いま一瞬間だけ自分は生きていること自体に戦慄を感じる・・・という意味のことを書いている。
ドイツ人が愛する有名な行進曲"Alte Kameraden"(旧友)でも謳われているように
Kameraden hoch die Tassen bis zum Morgenrot,
wir leben nur so kurze Zeit und sind so lange tot.
友よ、せめて夜が明けるまで杯を高く上げよう
私たちが生きる時間はあまりに短く、死んでいる時間はあまりに長い
であるなら、為すべき事も特になければ、なぜいま死なないのだろうか?いま死んでもよいのである。永い眠りに戻るだけなのだから。
なぜ敢えて生きるのか?死から生を受けて、また死に戻るのであれば、なぜ生きるのかという必然的な理由がほしい。それを自分が生きる中で自覚したいという意識は、確かに小生の世代でも理解可能な範囲にある。
色々な事のバランスをとるという生き方も、つまるところ「自由」である。選びたい人は選べばよい。しかし、「いかに死ぬか」から発想して「いかに生きるか」に答えるとすれば、生きている時間の中では「意志」が極めて大切な核心になる。
「バランスをとる生き方」の中に「意志」はあるのか?
父、というより父の世代は、この「意志」に死を怖れない ― なぜならいかにして死ぬかという問いかけから決めた事であるから—「純粋さ」を求めたのだろう。そう思われた次第だ。
こんな風にして、父が『それは純粋じゃないなあ』と小言を言っていた意味が、長い時間を経てようやっと理解できた気がする。そうなのなら『はやく分かりやすく言ってよ』と、そう言いたいのが正直な気持ちなのだが。