2021年4月30日金曜日

中国による「ディスブランディング戦略」の合理性

 習近平指導部による《ディスブランディング戦略》については、前に一度投稿したことがある。

1978年の「改革開放」以来、ソフトコミットメントを主として来た中国が、にわかにタフコミットメントを次々に繰り出すようになったのは、ソフトコミットメントの《合理的限界》に気がついたからだろう。

国際外交戦略で《ハト戦略》を自ら選択するという合理的理由はない。

敵対する相手にタカのポジションを譲り、自らは永遠に従属的なハトでいることを覚悟するのは、確かにナッシュ均衡であるが、それは相手のタカの善意を信じ、ハトである自分に強権的支配を振るわないと信じられる場合に限る。

自らがハトであろうとすれば、相手もまたハトであってくれるだろう、と。そう期待する「平和主義者」も理屈としてはありうるが、そもそも心から信じられない相手国が自国の立場に寄り添ってくれて、自国の希望通りにハトであってくれると期待できる理屈はない。

よって、タカ‐ハト・ゲームにおいて、自らハトのポジションをずっと選択し続けるという可能性は、極めて小さい。

必然的にゲームはタカ・タカの状況へ移り、限定戦争の論理が支配することになる。

これが標準的な議論だろう。

日本のような島国の小国であれば、その態度によってはハトにみえないこともない。しかし、広大な中国がハトの振りをしても、その巨体そのものがいかにもタカである。

そうとしか見えないのなら、実際そうなってやろうと考え始めたのが、ここ数年の中国なのだろう。

大国は奪われる資源を多くもっている。「奪われやすい(=Vulnerable)」のである。大国は潜在的敵対国に「奪おう・支配しよう」という意思を持たせないだけの力を持たなければ自国を維持することができない。

タカはタカになるしかない。大国は、すべてタカになるのが、宿命である。ハトである国として生きていきたいなら、平凡な中小国に分立して、分権するしかない。

アメリカの伝統的戦略は、G. Friedmanが『100年予測』で述べているように、ユーラシア大陸に強大な競合国が誕生するのを阻止するところにある。まして、アメリカがアメリカの価値観から中国の政体を「非民主主義的」であるが故に容認しないという原理主義的姿勢を示すとなれば、猶更である。中国が、今後将来、タカ対タカの米中対立構造を覚悟するのは極めてロジカルである。

中国が採ったハト戦略からタカ戦略への急速な方針転換は、いずれそうなることがそうなったとも考えられるし、アメリカの中国観がそれだけ急速に変化してきたことと、ちょうど相互依存的で、裏腹の関係にある。

近年の中国が採っている国際外交戦略は、日本からみれば「ブランディング戦略」の真逆にある「ディスブランディング戦略」にしか見えないが、実は理に適っている「最適反応戦略」になっている。



2021年4月29日木曜日

東京五輪:「不愉快な記憶」だけにはしてほしくないネエ

『ヤッパリ、やっぱりそうなってきたか』という進展の仕方は世の中に多い。だからこそ、投資も投機も、行うだけのチャンスがあるとも言える。

東京五輪と新型コロナ禍。ヤッパリ、そんな風に物事は進んできた。

まずこんな記事がネットにあった。2月下旬である。

現状、東京オリンピックを開催できるか否かは不透明だが、準備するアスリートや関係者、ボランティアは多い。また、開催が決定した際、喜んだ日本人が圧倒的だった。青木氏の目にはそんな状況も含めて、「こんなオリンピック」と開催決定当初から感じていたようだ。

URL: https://news.nicovideo.jp/watch/nw8978329

この「青木氏」というのは、TBSの「サンモニ」こと「サンデーモーニング」にコメンテーターとして出演している青木優氏のことである。

上に「切り取った一文」の前には、次の下りもある:

青木氏は東京五輪・パラリンピック組織委員会委員長の森喜朗氏が一部メディアから「失言」と指摘された上、批判が相次ぎ辞任し、橋本聖子五輪担当相が18日に後任として就任したニュースについて、「進むも地獄、引くも地獄、茨の道ですか。こんなみっともないことが起きちゃって、僕なんかは、最初から思ってたんですけど、こんなオリンピック最初から呼ばなきゃよかったのにな」と笑う。

URL:同上

東京五輪を「こんな五輪」呼ばわりしたというので、ネットでは「失礼だ!」とか、「卑怯だ」とか、結構多数の批判的投稿にあふれたというから、「ムベなるかな」である。

ただ、小生の記憶に間違いがないとすれば、青木氏はそもそも誘致の段階から、「福一原発処理の見通しもないのに、大震災からの復興をアピールするための五輪誘致など、ありえない」という論陣を張っていたように覚えている。なので、理路一貫という観点に立てば、青木氏は「失礼」はともかく、「卑怯」では絶対にありえない。そう思っている。うちのカミさんもまったく同意見であったし・・・(ま、これは関係がない)

***

さらに遡った1年前、五輪は延期ではなく、中止してほしいという世論(?)が急速に高まっており、小生、こんな投稿をして世間を揶揄していたものである。

要するに、「オモテナシ」をするつもりであったが、状況が変わったので「オコトワリ」したいという主旨で、これまた日本国内の世論の一部なのだろう。

小生の目線はその時の目線といまでも変わらないわけで、その点では世論なるものには非常に冷淡だと自覚している:

オ・モ・テ・ナ・シの予定を気が変わってオ・コ・ト・ワ・リにしても世論がそうなら仕方がないが、テーゲーなところで「そろそろ限界です」とあきらめて、あとは一切謝絶するというのも、いったん立候補した開催国としてはいかにも誠実味がなくて、器が小さい話だ。

検査効率化、低コスト化、自動化を叫ぶなら理屈が通るが、GDP第3位の「経済大国」日本が、それもロクに検査もしないうちから、今から敗北主義に立って『検査費がかかりすぎるンですヨネ』と泣きを入れるとすれば、その弱虫振りはやはり恥ずかしいネエ。

いまでも、というか、ますます、こんな風に感じている。 ま、「弱虫」が「弱虫」であることに開き直って「それが悪いことなの?」と反論するのが、いまの流行だということなら、それも仕方がないが、小生はヤッパリ「恥ずかしいなあ」と感じてしまう・・・というのが、これまた、ジェネレーション・ギャップなのだろうネエ、『恥ずかしき事だけは行うべからず』、『恥を知らぬは卑屈の証なり』、そんな時代は夢のように過ぎ去ったのだろう。

ともかくも、"up to you"、「世論」に従うのが「民主主義」という世の中だ。

***

ま、これはこれとして、やはり五輪開催の危機(?)に「誘致国」、「誘致都市」としていかに向き合うかという、根本的な「覚悟」がいま問われているのだと思う。

ということは、つまり「誰のために」誘致した、「誰の」五輪なのか?この問いかけではないだろうか?

五輪は反戦と平和を祈念するオリンピック精神に発する運動として誕生した。だから、第一次世界大戦後の1920年、世界的に「スペイン風邪」が大流行しているパンデミック禍の中でもアントワープ五輪は断固として開催されている。 たとえ、パンデミックの中でも五輪を開催することの意義はあると、その当時の人々は考えたわけだ。世界大戦の直後であったという事情もあったに違いない。「平和を喜びたい」というヨーロッパ人の心情がスペイン風邪の怖さを上回ったという事だろう。

ただ、今回は戦火とパンデミックを秤にかけたヨーロッパの中の五輪ではなく、アジアの五輪であり、開催するのも日本人である。五輪に対する思い入れは、おのずとヨーロッパ人とは違いがあるだろう。自ら開催を誘致した国、都市として、冷淡といえば冷淡であるし、要するに日本人が感染の危険をかぶってでも開催する義理はないという心情でもあるのだろう。

ただ100年前のアントワープ大会は、《1920年4月20日から9月12日まで》が開催期間になっている。この半年間の開催期間は、なぜこうなったのかが、調べてもよく分からない。戦争で被災したベルギーの施設整備状況があったのかもしれない。

可能な範囲での開催であったのだろう。

***

いま「東京五輪開催」は是か非かという議論が開催誘致国の日本で繰り広げられている現状は、仕方がないのかもしれないが、開催するならするで、これまでにはない、いかにもコロナ・パンデミックの中で開催するには「こうするのが最良の開催方式である」、そんなイノヴァティブな《提案》を世界に発する。そういう志の高い熱意というか、白熱するエネルギーが現在の日本国内にはまったく見当たらない。感じとれない。ヨーロッパと比べれば、コロナ禍など大した惨状でもないのに、それでもすっかり、すねちゃっている。この点が、戦後日本も75年余りが経過した現今の日本に見てとれる「打たれ弱さ」を極めて象徴するようで、ただただ淋しい。やはり老齢社会というのは「弱い社会」に(どうしても)なるのだろうか?

政府と東京は「開催をごり押ししている」、迎える日本人は「イヤイヤながら、開催に協力する」、こんな状況では参加するためにやってくる人々も《不愉快な記憶》をもって日本を離れるのではないか?

できれば《楽しい記憶》ではないとしても、せめて《感謝の記憶》くらいは、参加した選手、関係者にはもって離日してほしいものだ。


 


2021年4月28日水曜日

政府と国民の「意識のずれ」というより「トップの理想像」を演技しているだけかも

コロナ禍の世の中になってから1年余りが経つ。去年の4月の中頃、大体1年ばかり前になるが、投稿でこんなことを書いている:

何しろ日本では太平洋戦争の勝敗の行方が混とんとしている真っ最中、英米では総司令官が参謀と寝食をともにして24時間頑張っている時に、東京の大本営に勤務する高級参謀は補給に苦しむ最前線をヨソに定時退庁していたと伝えられている、そんなお国柄である。集団主義とはいうものの真の意味で組織が一枚岩になれないところが日本にはある。それは何故なのだろうという問いかけである。

数日前のワールド・ビジネス・サテライトで解説を担当している日経出身のコメンテーターが

いまは明らかに有事ですよね。ところが、日本政府は依然として平時のモードを続けている。ここに意識のズレを感じるという点に国民の不満があるのだと思います・・・

まあ、こんなような趣旨の話をしていた。

太平洋戦争の最前線で赤紙に応召した兵士が、不十分な補給の中で、死を覚悟して戦っている正にその最中に、東京の大本営に勤務する高級参謀たちは、平時と同じ気構えで毎日定時退庁を続けていた。この意識のズレは何だ?

こんな意味のことを1年前には書いたのだが、さてこの話しの出典はというと・・・小生も色々と探してみたのだが、分からなかったのだ。いずれ戦前の帝国陸海軍、中でも「昭和陸軍」の堕落振りを身をもって経験した司馬遼太郎のどれかの作品なのだと思うが、実はほとんど全作品を持っていたのだが、手違いで廃棄されてしまい、いま小生の手元に残っていない。

であるのだが、どこかで読んだのでなければ上のようなことは思いつけるはずもないので、日本の政府上層部の意識は何も変わっていない。それを象徴的に伝えるエピソードとして書きこんだのだった。

***

いま(先日も投稿したように)三島由紀夫の『豊穣の海』を読み返しているのだが、最終巻の『天人五衰』の中にこんな会話がある。ちょうど安永透が浜中百子の部屋に初めて入ったときの日のことだ:

「ひどいわ。箱の番号と中味がちがっていたんだわ。こんなものをお目にかけるなんて。私、どうしよう」

「自分も赤ん坊だったということがそんなに秘密なんですか」と透は冷静に言った。

「あなたって落ち着いているのね。お医者様みたいね」

百子の動顚ぶりに比べた透の冷静、というより悪意のある冷淡さが、とても際立っている場面だ。

***

こんな意識のズレなら、小生も幾度も経験している。

10代の頃、小生は1年に何回かは39度台の高熱を発して、よく病院に連れていかれたものである。そこで母が心配して、医師に問いかけると、

ああ、風邪だと思いますよ~、お薬を出しておきますから、しばらく安静にしておいて下さいねえ~

医師はいつも落ち着いた声音で母に応えていたものである。

もし悪化して、早く治してほしいと患者本人が願うなら、『安静にしてましたか?』と、落ち着いた冷静な声でいうのも医者である。

 ***

戦況が悪化して日本人の全てが不安でたまらない時に、大本営の高級参謀は、その当時の社会構造からそんなことはあり得なかったが、もし議会で戦況を問われれば、

ああ、心配はありませんヨ。いま検討している反撃策を実行に移せば、じきに状況は改善しますから、もう少し、お待ちください・・・

こんな風に、余裕ありげな声音で、冷静に答弁したのだろうと想像される。まさにこれが日本的な政府の典型的イメージなのである。

そして「上に立つモノの不可欠の資質」としては規範があるわけで、それは正にたとえば「風林火山」であるわけだ。

疾(はや)きこと風の如く、

徐(しず)かなること林の如く、

侵掠(しんりゃく)すること火の如く、

動かざること山の如し

原典である『孫氏』はもっと続くのだが、武田信玄が旗印に用いたので有名になった。トップたるもの、むやみに動かず、正に「動かざること山の如し」、これが統治の理想である。こんな感性は結構日本人には受けてきた。これも事実である。

とすれば、《真の危機》というのは、不安な兵(=国民)と冷静な将(=上級国民?)との意識のズレではなく、むしろ負けを覚悟して諦めてしまった国民と敗北必至でパニックになった上層部との《意識のズレ》が露わになったときであろう。上が何を言っても下はもはや上の言うことをまじめに聞かないからだ。

いまは必死(?)の国民と「手を打ってますから、もうちょっと待ってくださいネエ・・・」と冷静に説明している政府との対比が際立つという状態なので、それほどの緊急状態ではない、その意味では《真の有事》ではない。

ま、こんな状況判断もあるのではないかといえば、あるのだろう。 


 

2021年4月24日土曜日

一言メモ: エネルギー計画と新型コロナと、何が本当に重大なのだろう

東日本大震災はもう10年の昔のことになってしまった。

試しに《エネルギー 基本計画》でブログ内検索をかけてみると、出てくる、出てくる。実に大きな問題であったのだ。

今回、菅首相が2050年にカーボンニュートラルを実現して脱炭素社会を実現すると宣言し、そのため2030年までに温室効果ガス46パーセント減少を目指すと世界に公約した。実は、50パーセント削減を強要される対外圧力をも覚悟していたというのだから、もはやこのテーマも待ったなしになった。

覚え書きに上の検索結果をリストアップしておこう:

  1. 総理突出、これは破壊か、創造か?
  2. 意識改革の必要性
  3. 自然エネルギーは原子力の代わりになりうるか?
  4. ドイツの「脱原発」決定に思う
  5. 復興の経過覚え書き(その2)
  6. リンク集 — エネルギー政策・原発・復興構想
  7. 「確実な議論をしましょうよ」症候群の再発ですな、これは
  8. 壮トスルナリ、退陣三条件と震災復興
  9. これまでの超長期・将来予測を棚卸しすると

時系列的には順不同で、網羅的でもないが、きりがよいのでこれ位にしよう。

<2030年までに温室効果ガス46パーセント減>を世界に公約、というのは大変なことである。足元のコロナ変異型抑制、百貨店休業要請など、3年もたてば、誰も覚えていないだろうが、今回の脱炭素化宣言は日本社会を根本的に変えてしまう。どう変えてしまうのかをいま考えなければ、今後の政策は必ずこの方向で進められる。暮らしや雇用に目に見える形で変化が現れ始めてから「情報番組?」を編成しても、時は遅し、なのだ。

ところが、TV放送ではどこもかしこも、緊急事態宣言一色である。日本のマスメディアの惨状にはただ絶句するばかりだ。

わずかに夜10時枠に移ってきた『ワールド・ビジネス・サテライト』がまだニュース番組らしいので、それを観て情報収集の助けとしている。自分で調べるよりは効率的にまとめてくれるので役に立つ。

この「自分で調べるよりは効率的にまとめてくれる」という実感が、TV、新聞などマスメディア企業が存在する唯一の根拠、唯一の存在価値である。

メディア企業自らが、何かを主張し始めて、お説教を始めた瞬間に、なくともよい活動に転化する。存在価値を失う。なぜこんな簡単なことが分からないのだろう。

***

『この簡単なことがなぜ分からないのだろう』と言うなら、ほかにもある。

最近になって、自粛要請に従わない少数の店舗、少数の若者、少数の高齢者がいて、感染抑え込みの障害になっている、と。そんなコメントを放送する「情報番組?」が増えてきた。

「危ない人」がいるのは当たり前である。ごく一部の「危ない人」が「危ない店」に集まるのは当たり前である。なぜこんな簡単なことが分からないのだろう。

8割の人は真面目に要請に応えるが、2割の人は自分のしたいことをするのである。日本人だろうと、外国人だろうと、この人間性は変わらない。なぜ「日本人は特別なんです」とか、「日本人には出来るのです」とか、根拠もなく、なぜ空虚なコメントを出し続けてきたのだろう?

社会で生きている人間は多様なのだ。全員が共同行動をとれると、なぜ信じられるのだろう?小生には、その発想がまったく分からない。日本も外国も同じである。外国で必要なことは日本でも必要である理屈だ。

日本も日本人も何ら「特別」ではない ― 運・不運は、マア、あるだろうが。

***

あおり運転を厳しく糾弾しても、今もなお、あおり運転をするドライバーはいる。飲酒運転に厳しく対処するために危険運転致死傷罪が導入された。もう何年もたつ。しかし、今なお飲酒運転は後をたたない。

法改正をして厳罰を導入しても日本人の一部は国民の多数から期待されているようには行動しないのである。当たり前のことだ。これが単なる「要請」ならもっとひどくなる。何故分からないかなあ、と。コロナだけはその例外的ケースだとなぜ考えるのだろう?

したがって、何かの行動変容を国民として実現したいなら、まず新しい法律を最初に立法しなくてはならない。まずルールを明確化することが第一歩である。

この簡単なことが何故分からないのだろう?

***

理由は明白である。

新型コロナは、感染症としては、真の国家的危機ではない。

政府上層部はそう考えている。これ以外に、この1年間の推移は説明できないのではないだろうか。

であれば、我々、国民の側においても、それほど神経質に、過剰に命の危険を心配する必要はない。

実は、多くの日本人は、口では言わないが、心の中ではとっくにそう思っている。その心が行動に出るのである。そうでないなら、どういうことなのか、教えてほしい。

コロナ禍は現実の問題だ。イデオロギー闘争ではない。だからホンネで議論をしなければならない。タテマエ論は有害無益なのだ。

こんな簡単なことが分からないのだろうか?

コロナウイルスから命を守るとしても、世の中には色々な病気や原因があって、思わぬときに命を落とす。この世の中は危険に満ちている。寿命というのは、究極的には、その人の運命である。こう考える観点も確かにあるといえば、あるだろう。

こういうことではないだろうか。

2021年4月21日水曜日

「価値の共有」・・・「社訓の強要」に似ているかも

今日は徒然なるままに。

どこかの共産主義者が『宗教はアヘンである』と言っている。

それを拡張して小生は以下の警句にしたものだ:

思春期の前は、おとぎ話と冒険譚。

働き始めるとイデオロギーが、

老年にさしかかり自分の人生が見え始めると宗教が、

心のアヘンのようにその人の精神を蝕む。

中には、前をとばして後の段階にいきなり進む早熟な人もいる。ある人は、次の段階に進まず、ずっと同じところにいる進歩のない人もいる。

いま、共産主義の理念を真剣に語る国はない。ロシアはもう社会主義国ではない。中国共産党が統治する中華人民共和国も共産党が一党独裁をしているだけであって、社会主義は既に捨て去っている。理想であるはずの共産主義へ至る夢も内心ではもう諦めているに違いない。経済格差が拡大しているのは、いわゆる《西側諸国》と同じだ。

その《西側諸国》はいまイデオロギーを強調している。何かあると「民主主義ですから」とくぎをさす。論争になると「自由、民主主義、人権、法の支配」という価値を共有できるのかと言って異論を抑え込む。

共有されなければならない価値観に何か言えば、直ちに非難され、『神聖なる価値観を冒とくした』という意味合いの社会的攻撃を受ける。実質的には、宗教による支配に似ている。イデオロギーから宗教へと進む所以だ。

価値観を冒とくするような異論を抑え込むという点においては、西側諸国と現代中国と、お互いに相通ずる面もある。

毎日の朝礼で「社訓」を唱えさせる会社は日本国内にまだあるに違いない。そんな会社のポテンシャルは、低いかもしれず、高いかもしれない。ただ、多様化の時代と整合的であるはずはなく、人は非流動的になり、閉鎖的な社風になるような気はする。

そこにいる人は幸福かもしれないが、途中入社は嫌だろうなあということは分かる。国も同じ事だろうと思う。

上から下へ、あるいは多数派から少数派に、『その考え方はダメだ』ということをお説教のようにあまり言わない国が、住みやすい国である。かつ、生活水準が高ければ、そこで暮らしたいと思う人は多いだろうし、そんな人が普通なのだと思う。


「正しい事」はヒトの頭の中には存在しない。ヒトは何が正しいか決めることは本来はできないはずだ。「法的に正しいことが正しい」という考え方は単細胞の議論だ。法が正しい法であるという前提に立って展開する三段論法の結論として得られるのが「法的には正しい」ということである。全てロジックというのは、この程度のものである。人は経験によって客観的な真理について学べるだけである。意味のある真理は、ヒトの脳みそではなく、外側の自然の中にある。自然の中の人間社会にある。誰であろうと、正邪善悪について何かを語る人は、例外なく間違っている。この当たり前のことを大多数の普通の人が理解してきたのが、近代以降の200年余りの歴史であろう。それによって、世の中はずいぶん住みやすくなってきた。これが小生の基本的な歴史観、社会観なのだ、な。

(小生にとっては)この当たり前のことが分かっている国が、いわゆる《進んだ国》である。反対に、何が正しいかを誰かが判定できると国民が信じている国が《遅れている国》である。「先進国・後進国」という言葉には差別感が込められていると思うが、このくらいの違いは国々の間にあるだろう。

またまた下らないヨタ話を書いてしまった。今日はこの辺で。

2021年4月19日月曜日

断想: ネット社会でも旧社会と変わっていないこと

ネット時代が到来した前と後とで、社会の多くの側面が様変わりした。単に使う言葉だけではなく、新しい言葉(新しいデバイスが登場しているのでこれは当然)、新しい概念と新しい価値(一種の流行かもしれないし、真に新しい時代が来たということかもしれない)、その他にも昔にはなかったモノやコトがある。

しかし、

ネットで展開されている話題は昔と何も変わらないネエと。そう感じるのも事実である。

ずっと以前の覚え書きだが、こんなことを書いている:

時代を問わず、国を問わず、誰もが興味をもつ話題が三つある、という話題は前にも一度投稿した記憶があるのだが、検索しても出てこないのだな。

こうなるなら、最初から本ブログでもラベルを付けておくのだったと、今さら反省してももう遅い。

もう一度、その三つの話題を書いておくと:

  1. 食べ物の話し
  2. カネ・財産の話し
  3. 親子、兄弟、夫婦の話し

この三つである。

どうやら何度か同じことを書きこんであるようだ。本ブログ、ラベルはプライベートに付けているのだが、ずっと昔の分はラベリングしていない。それで探すのに手間取ることが多い — ま、それも本の山から急に必要になった本とページを探すのと似ていて、面白いのだが。

いわゆる《恋バナ》は、恋愛と愛憎に関連することなので、上の分類で言えば番号3に該当する。また《ツイフェミ》だが、広く勢力や権利に関わる事だから上の2番に入る。そして、グルメと食べる演技の盛況はもう言うまでもないことだ。

人からきいた美味いものを自分も食しながら、男女の恋愛沙汰や跡目争いのゴシップ話に興じるのは、時代と国を問わず、一番人気の日常なのである。この事情はまったく変わっていないことが分かる。

『方丈記』や『徒然草』、『枕草子』など、日本語としては古すぎてもう現代人には勉強しない限り判読できないが、内容は同じ、あれやこれやの世間話が大半を占めている。出世や没落、財産や人間関係、そして男女の恋愛ともつれ。

人間は変わらないナア、ということこそ、普遍的真理である。変わるのは、生産技術とそれを支える知識、その生産技術を発展させるための社会制度の変化、それだけだ ― それだけだ、という小さなことではないにせよ、言葉にすればそう言える。

何だか、またマルクス的な唯物史観になりそうだ。今日はほんのメモということで。


2021年4月17日土曜日

いま「個人主義」もまた日本社会で死語になってはいないか?

 この4月から下の愚息夫婦は東京に異動し習志野市の新居に転居した。

才ある息子は世間に使われるが故に遠く旅立ち

才なき息子は世に無用であるが故に親元にとどまり孝を為す

別に「偉い人」が遺した格言ではなく、ある年、小生が作った迷句であると思っていたのだが、それでも何か記憶があるので書棚を調べてみると、江藤淳の『漱石とその時代 第1部』にこんな下りがあった:

人に賢きものと愚なるものとあるは、多く学ぶと学ばざるとに、よりてなり。賢きものは、世に用いられて、愚なるものは、人に捨てらるること、常の道なれば、幼稚のときより、よく学び、賢きものとなり、かならず無用の人となることなかれ《明治7年8月改正・文部省発行『小学読本』巻1》。

多分、この下りが頭に残っていて、ヴァリエーションを作ったのであろう。

しかし、マア、明治の教科書は率直というか、頭ごなしというか、現時点の日本の小学校で上のようなことを教えれば、パワハラ、アカハラと認定されることは確実だ。

どちらが善い・・・ということでもない。一長一短だろうとは思うが。

確かに世間では「無用」にほぼ近いが、上の愚息は車で10分ほどの所にあるアパートで独り暮らしをしている。もう10年も非正規就業を続けているが、あらゆる責任からは免れ、呑気な暮らしぶりだ。時には親の懐をあてにして食事をともにしているので貯金もささやかながら出来て、最近はネット証券のアカウントをつくり、Uber株にも投資をしている。世間には無用の人間ではあるが、いてくれてよかったと思う人間がここにいるのだから、経済力はないが、だからと言って不幸な人生を歩んでいるとは言えない(と思う)。

それにしても、小学生相手の教科書でネエ・・・『愚なるものは人に捨てらるること、世の常なれば』でありますか・・・日本国憲法第25条とは対極の世界であります。こんなことをいま発言をしたり、SNSで投稿をしたり、まして文章で公表したりすれば、想像を絶する大炎上の火焔に包まれ、そのまま世間からは隠遁して身を隠すしか生きる道はあるまいと思われる。

表現の自由に対する現代日本人の感覚は、日本国憲法とはかかわりなく、自由抑制、表現規制の方向に向かっている。小生は最近そう感じている。

ま、自由には、理屈として、責任が伴う。自由の行使がもたらす結果には人は責任を負う義務がある・・・と、思っている。だから自由の無制限の行使が自由を抑圧する社会に移り変わっていくとしても、当然の結果であり、何も逆説的変化であるとは思わない。

話しは戻るが、上のような「社会に役立つ人間であれ」という周囲から寄せられる強烈な期待と制度的支援から夏目漱石は強迫神経症とでもいうような不自由で憂鬱な前半生をおくり、半ば病人のようになるのである。それが最後に東大を辞めて朝日新聞に連載小説を載せる「作家」になって世を過ごそうと、落ち武者を選ぶような決意をするまでのプロセスが、学習院大学での講演『私の個人主義』で展開されている。そんな読み方を小生はしていて、《自己本位》というキーワードも自分が見つけた安住の境地なのだ。そんな言葉でまとめられている。

自分が他から自由を享有している限り、他にも同程度の自由を与えて、同等にとり扱わなければならん事と信ずるより外に仕方がないのです。(昭和41年版漱石全集第11巻『私の個人主義』452頁より)

という1節は「かくあるべし」という社会的同調圧力からは正反対の所にある社会観であるし、

もし人格のないものが無暗に個性を発展しようとすると、他を妨害する、権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす(同454頁)

という「自由と責任表裏一体原則」もまた明治の人・漱石にとっては当たり前の常識そのものであったことが分かる。

実際、「明治」という時代はその権威主義と暗さ、重さの一方で、確かに健全な常識が機能していた時代であったように(文章を通してではあるが)感じられる。

その明治に生い立ち、大正・昭和と成長した日本人が何故あれほども常識を失い、傲慢不遜になり、自由を否定する思想を信じるようになったのか?

どんな思想や理念が日本の若い世代を蝕んだのか?やはり「社会主義」なのか?

リアリティをもってどうにも理解し難いところがまだ残っている。

父の世代から共通して感じとれる「問答無用の正義観」はどこから由来したのか、意識を共有できるどころか、理解もしきれない。今から想い返すと、宇宙人のように異なった考え方をもっていた・・・そんな日本人はなぜ育ったのかが分からない。

どうもこんな風にいま思っているのだな、前稿や前々稿に関連して。


2021年4月14日水曜日

前稿の補足:ブログが使えるツールだと思った一例

前稿では三島由紀夫のことを書いたのだが、これまで荷風や漱石はともかく、「三島」について何か投稿した記憶はないなあと思って、ブログ内検索をかけてみると、『葉隠入門』に関連して2回ほど書いていることがわかった。

ま、確かに『葉隠入門』というのは面白い本である。投稿した日付は2011年11月と、2017年7月になっている。2011年といえば10年も前だ。

その時は次の下りを引用している:

合理主義とヒューマニズムが何を隠蔽し、何を欺くかということを「葉隠」は一言をもってあばき立て、合理的に考えれば死は損であり、生は得であるから、誰も喜んで死へおもむくものはいない。合理主義的な観念の上に打ち立てられたヒューマニズムは、それが一つの思想の鎧となることによって、あたかも普遍性を獲得したような錯覚におちいり、その内面の主体の弱みと主観の脆弱さを隠してしまう。常朝(加筆:著者の山本常朝のこと)がたえず非難しているのは、主体と思想との間の乖離である。・・・もし思想が勘定の上に成り立ち、死は損であり、生は得であると勘定することによって、たんなる才知弁舌によって、自分の内心の臆病と欲望を押しかくすなら、それは自分のつくった思想をもって自らを欺き、またみずから欺かれる人間のあさましい姿を露呈することにほかならない。(新潮文庫版63頁)

10年前にこんなことを考えていたのか、と。やはりブログというのは思考のWeblog、作業日誌として役立つものであるなあ、と。いま現時点でも、いや特に足元の社会状況をみると、ますます一層、上のような感想をもつのだ、な。

タレーランの言葉だが

La parole nous a été donnée pour déguiser notre pensée.

人に言葉が与えられたのは、思っていることを偽るためだ。

語る人、話す人が偽る相手は、世間であるばかりではなく、実は自分で自分を騙すために言葉を使う。人間のそんな不誠実が許せないという心情が、三島由紀夫という人物にはあったのだろうし、そんな傾向には心底から腹が立つという感情は小生だけではなく、いま多くの人が共有しているような気がする。 

2021年4月11日日曜日

『バランスが大事です』という思考は戦後日本文化の産物ではないか

特に最近になって頻繁にきく言葉だが

最も大事なことはバランスです

というのがある。特に、コロナ禍に悩む現代日本社会でこの言葉を何度きいただろうか?

海外のコロナ事情を報じる報道では"The most important is the balance"などという表現は、見たことがない。

小生は経済学から入ったが、現代経済学で最も大事な概念は《均衡》、つまり「バランス」である。価格や賃金、金利はすべて市場における需要供給均衡から決定されると考えるのが基本だ。実質GDPもそうである。総需要と総供給のバランスから理解する。

経済学が模範とする物理学でも力学の基本は力のバランスである。力がバランスするところで物体は静止する。運動や変化はバランスが崩れるからである。安定にはバランスが要る。

色々多数ある目的の間でバランスをとって行動するというのは、人間自然のあり方そのものだと小生は思ってきた。収入と支出のバランス、債務と返済能力のバランスばかりではない。学力と志願校のバランス、願望と現実のバランス、事業と企業倫理のバランス、意欲と能力のバランス、利害と友情のバランス、親孝行と仕事とのバランス、etc. ほかにも無数にある。どれも現代日本社会に生きる日本人なら日常的に考えている発想そのものなのではないだろうか。小生もずっとそんな風に考えてきた。

しかし、小生の亡くなった父が何度も口にしていた叱責の言葉は

その考え方は純粋じゃないからダメだ。

そんな言葉であった。

この《純粋》という父にとっては最高の価値であったように思える言葉が小生の腑に落ちたことは一度もなかった。父が言いたいことがよくは理解できなかった。諸々の点で自分なりにバランスの良いところで結論を出そうという考え方のどこが父の気にいらないのか、本当に分からず、ただ困惑するばかりであったのだ。

ところが・・・

若い頃に途中で忙しくなって読了できなかった三島由紀夫の『豊穣の海』を読んでおこうと思ってまた読み始めたところ、第2巻の『奔馬』のキーワードがこの《純粋》という言葉であったので、改めて非常に驚いた。最初に読んだときはまだ父がいた。《純粋》という言葉が作中で頻出しているのだから、初読の際に強く関心を引いてもよかったはずだが、ただ読み過ごしたのだと思う。むしろ《純粋》というこの言葉に価値観をこめて使う人をメッキリと見なくなった最近になったからこそ、逆に《純粋》という言葉から鮮やかな印象を感じるようになったのだろう。

語り部の本多繁邦が主人公・飯沼勲に出した書簡の中で柔らかに忠告するとき

それにしても、本多は何と巧みに、歴史から時間を抜き取ってそれを静止させ、すべてを一枚の地図に変えてしまったことだろう。それが裁判官というものであろうか。彼が「全体像」というときの一時代の歴史は、すでに一枚の地図、一枚の絵巻物、一個の死物にすぎぬではないか。

理屈に奉仕する理知の不毛性を感じるのは《純粋》であることに由来する。

思想はまっ白な紙に鮮やかに落とされた墨痕であり、謎のような原典であって、翻訳はおろか、批評も注釈もつきようのないものであった。

こちらの突き刺す「純粋さ」の針に、ただちに「純粋さ」の針で応ずる先輩はいないものだろうか。

堀陸軍中尉は昭和初年に跋扈した青年将校の一人であるが、ほどほどに純粋であったのだろうが、最終的には軍組織の一員であり、主人公が求める「純粋さ」を通すことはできなかった。

三島由紀夫は大正14年生まれであるから亡くなった父とは1年違いである。《純粋》という言葉にこだわる共通性は、「あの世代」に共有された思想であったのかもしれない。

父が好んだ名句として

自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も、吾往かん。

 孟子の言である。吉田松陰もこの一句を好んだそうだ。確か父の口からこの句が出るときは『おのれ信じてなおければ、敵百万人ありとても我ゆかん』であった記憶もあるのだが、意味は同じだ。

自らの動機に対して実に誠実である。この誠実から「バランスをとる」という生き方は出てくるはずはない。「誠実」から出てくるのは「行動」である理屈だ。

言葉、というより「文筆」や「話芸」は、結局のところ記号や音声であり、陽明学が「知行合一」として結論付けるように、「行動」だけが結果をもたらしうるというのは、現代社会でも言える真理であるだろう。つまり「問題解決」は、言葉ではなく、行動によって得られるのである。「知っている」こと自体には大した意味はない。この点は、本ブログでも何度か覚え書きにした。

『奔馬』の主人公が

太陽の、・・・日の出の断崖の上で、昇る日輪を拝しながら、・・・かがやく海を見下ろしながら、けだかい松の樹の根方で、・・・自刃することです。

 そう語るとき、「いかに生きるか」という問題は、結局は「いかに死ぬか」と同じ問題であるという極めて当たり前のことを、目の前の最優先の主題として意識していたのが父の世代であったのかと、そう改めて腑に落ちたように感じたのだ。

確かに「いかに生きるか」を考えることは「いかに死ぬか」という問題と表裏一体の問題であって、前者の問題だけを論じて、後者を観ないという思考では、絶対に解は得られない理屈である。

合理的に考えれば・・・

危険からは逃げるのが合理的である。戦争になりそうになれば、国を脱出して逃げるのが合理的だ。攻撃されれば被害を被る前に降伏するのが合理的だ。困れば無理をせず人に助けてもらうのが合理的だ。助けてくれる人がいなければ、政府に助けてくれと要求するのが合理的だ。自分が頑張るよりは、公務員に助けてもらうのが合理的だ・・・・。

確かに合理的に行動すれば、命を守ることができるが、しかし合理的ではあるがどこか釈然としないのは、同時に発生している表裏一体の問題に解答を出していないからである。そのように生きるという行動は、そのように死ぬという問題に対してやはり正しいのかどうかを真っ当に考えていない。

パスカルは、自分という「生」の前後に永遠に長い「死」という時間があることに思いが至ると、いま一瞬間だけ自分は生きていること自体に戦慄を感じる・・・という意味のことを書いている。

ドイツ人が愛する有名な行進曲"Alte Kameraden"(旧友)でも謳われているように

Kameraden hoch die Tassen bis zum Morgenrot,

wir leben nur so kurze Zeit und sind so lange tot.

友よ、せめて夜が明けるまで杯を高く上げよう

私たちが生きる時間はあまりに短く、死んでいる時間はあまりに長い

であるなら、為すべき事も特になければ、なぜいま死なないのだろうか?いま死んでもよいのである。永い眠りに戻るだけなのだから。

なぜ敢えて生きるのか?死から生を受けて、また死に戻るのであれば、なぜ生きるのかという必然的な理由がほしい。それを自分が生きる中で自覚したいという意識は、確かに小生の世代でも理解可能な範囲にある。

色々な事のバランスをとるという生き方も、つまるところ「自由」である。選びたい人は選べばよい。しかし、「いかに死ぬか」から発想して「いかに生きるか」に答えるとすれば、生きている時間の中では「意志」が極めて大切な核心になる。

「バランスをとる生き方」の中に「意志」はあるのか?

父、というより父の世代は、この「意志」に死を怖れない ― なぜならいかにして死ぬかという問いかけから決めた事であるから—「純粋さ」を求めたのだろう。そう思われた次第だ。

こんな風にして、父が『それは純粋じゃないなあ』と小言を言っていた意味が、長い時間を経てようやっと理解できた気がする。そうなのなら『はやく分かりやすく言ってよ』と、そう言いたいのが正直な気持ちなのだが。

2021年4月5日月曜日

前回の補足: 平等が不平等より善いというのは本当にそうですか?

昨日の投稿に次の下りがある: 

 「優勝劣敗」という大原則と強者が弱者をいたわる「慈善の精神」が古典的な資本主義社会を支える理念であった。マルクス・レーニン的な共産主義思想は結果としての平等を実現しない限り、貧困や不平等問題を根本的に解決することはできないという認識に立ったところが違っていた。日本に社会主義思想が輸入される前の明治前半、このソーシャル・ダーウィニズムが近代日本の発展を支えるイデオロギーともなり倫理ともなっていたことは、もう現代日本人のほとんどが忘れ去っているかもしれない。

一言、補足をしておこう。


人間社会を牢獄のような「身分制社会」から解放して、個人個人がもって生まれた生来の才能を開花させ、優れた人が富と力を蓄え指導力を発揮できる「自由な社会」に変えること。これが 「市民社会」の最高の理念だった。

個々の人間の違いがそのまま社会の実相となって反映される自然な状態。これが理想的な状態でなければ、何が理想なのだろう?

近代社会の意義は上の問いかけにある。

以前、旧友に問いかけた疑問がある。その旧友は、現代資本主義社会に深い疑問をもっている。つまり、平等こそ目指すべき価値であるという信念をもっている。

そこで小生がきいたのだが

要するに《完全な平等》が最も善いということなのかい? 毎月の所得は全員が同じであるようにする。財産も完全に平等になるように再分配する。もし不平等が生まれれば、もっている人から持っていない人に移転させる。そういうことかい?

友人はいった。

そうじゃないよ。

そこで小生は

じゃあ、完全な平等が最善だというわけではないとすれば、どの位の不平等が最善なのだ? 

適切な解答などは、この世のどこにもない。誰も分からないのである。「ベーシック・インカム」に賛成か反対かを問う話しであるなら、「アッ、要するにそういうことだったんですか」となるわけで、個別的かつ小さな話しである。

完全な平等を実現するには強大な権力と権力による監視が必然的に伴う。そんな社会に対する嫌悪から「市民革命」があったのではないのか?

そのときはそんな話をしたのだった。

自由と許容できる不平等とを何とか両立させる以外に上手なソーシャル・マネジメントはあるのだろうか?

少なくとも

社会主義・共産主義への道は悲惨と失敗に満ちている苦難の道でしかなかった。

これが事実である。

中国共産党の成功は、共産主義を逸脱して「改革開放」を選んだからである。ソ連共産党は中国共産党よりも遥かに忠実に社会主義の理想を目指したが、最後には非効率と停滞に沈没して消滅した。他の例も数えきれないほどだ。

平等を求めることは本当に善いことなのだろうか?

確かに神の前に人間は平等である。宗教ではそうだ。厚生経済学でも平等は不平等よりも善いという大前提を置く。

しかし、小生はこの疑問に対して、即座に「その通り」と応える気持ちは徐々になくなってきている。昔は迷いなく肯定できたが、色々な分野であまりにも反例に満ちているのが、この社会の実相ではないだろうか。


いま直面している問題は、理念や体制に源があるのではなく、適切な方策によって解決可能である、経済政策その他の政策の組み合わせによって解決できる問題である。こんな風に観ている―逆に、総合的プログラムがなぜ審議されないのだろう、と。それが不思議だ。


2021年4月4日日曜日

ジェンダーフリー: 社会思想の「流行り」の一例なのだろうか

ジェンダーフリー論が盛んである。近代社会の伝統である《機会の平等》ではなく、男女間という一つの切り口における《結果の平等》を求めるところに、いわばポストモダン的な新鮮さ(珍奇さ?)があると思っている。

小生が若い頃は「結果の平等」はむしろ「悪平等」と言われていたものだから、結果の平等を世の中で堂々と主張する時代がやってこようとは夢にも思わなかった。ずっと昔、運動会の徒競走ではゴールの手前で先頭を走っていた児童は後続を待ってあげ、みんなで手をつないでゴールインするように指導した担任教師がいたように記憶している ― 走力の違いが視える化されてしまう徒競走をやめればよいのにと小生は思ったものだ。通知表でクラスの全員に評点5を与えて物議をかもした先生もいた ― 単純な成績評価不要論である、な。

***

一つだけ絶対的に言えることは、人間社会の活動は2種類に分類されることだ。

一つは生命の現実、というか社会の物質循環という暮らしそのものを指し、経済学の対象となる。自然の一部として機能しているという人間社会の片側の側面でもある。この側面は自然の物質循環に織り込まれているので、すべて自然科学の法則にしたがう。たとえ人間以外の動物であっても自然を構成している以上、自然法則にしたがい、自然を活用しながら生きているのは人間と同じである。

人間活動のもう一つの側面は、自然の一部として展開されているのではなく、人間が創り出した世界で行われている活動である。自然とは関係のない超越的な信仰や哲学、抽象的概念を使った思想活動はすべてここに分類される。そもそも「神」なる観念をもっているのは人間だけだろう。騎手を乗せて走る馬が人を神だと思いながら走っているなどとは想像ができない。蝉が極楽往生を願っているなどは人間の空想で、それこそ人間独特の妄念というヤツだ。

前者は「形而下」であり、後者は「形而上」と呼ばれる ― 「形而上学」とは言わないでおこう。主旨をまとめるには十分だと思うので。

***

今日はこんな視点から考えてみる:

今日の標題にもしているように、可能性として、ジェンダーフリー思想は20世紀終盤から21世紀初めにかけて影響力が高まった「流行りの思想」の一つとして記憶され、現実には無力のままでやがて忘れられてしまうかもしれない。

思想上の似た例としては、「社会進化論」がある。19世紀後半のビクトリア朝イギリスにおいて一世を風靡した時代の潮流であったにもかかわらず、20世紀になってからは一気に退潮してしまった。

特に有名な主唱者はハーバート・スペンサーで、いわゆる「適者生存」(survival of the fittest)という言葉を造語したのはダーウィンではなく、スペンサーの方である(Wikipedia)。この社会進化論がインド・東洋に進出した欧米列強を正当化する思想的基盤として機能したことはもはや歴史の彼方になったが、リアルタイムで生きていた当時の人間達にとっては抵抗し難い「真理」であったのだ。「優勝劣敗」という大原則と強者が弱者をいたわる「慈善の精神」が古典的な資本主義社会を支える理念であった。マルクス・レーニン的な共産主義思想は結果としての平等を実現しない限り、貧困や不平等問題を根本的に解決することはできないという認識に立ったところが違っていた。日本に社会主義思想が輸入される前の明治前半、このソーシャル・ダーウィニズムが近代日本の発展を支えるイデオロギーともなり倫理ともなっていたことは、もう現代日本人のほとんどが忘れ去っているかもしれない。

思想には「流行現象」があるのだ。そして、時代を動かす潮流となりうるのは社会から求められている思想に限る。その他の思想は一時的には支持されるがやがて忘れられるものだ。

***

思想は、それ自体としては形而下の自然現象とは無縁で、人間社会の物質循環とも関係がない、ヒトが創り出した言葉の世界にすぎないが、だからと言って、現実の社会を変える力を持ちえないというわけではない。

政治がしばしば"Sophisticated Art"(=洗練された技芸)と呼ばれたりするのは、生活に密着する現実の問題を解決したいというのが最終目的であるにも拘わらず、その解決へのアプローチでは高尚な哲学的観念を口先であやつり、多数の人間をその気にさせ、結果として形而下の現実問題を解決しようとするからだ。権力・武力・腕力に訴えて欲しいものを獲るという解決法は自然社会でも観察される形而下の直接的方法で、動物でも考えつく(?)行動である。だからこそ、それ自体は空理空論である信仰、哲学、主義、思想で問題解決に成功すれば、人は称賛するのである。

まさに

人の生くるはパンのみによるにあらず

人間が人間であるのは、信仰|思想を考えうるところにある。 

***

ジェンダーフリー思想があるのは、この次元においてである。

結果として社会における処遇と役割、組織内の処遇と役割、家庭内の処遇と役割において男女は平等であるのが善いのだという思想は、いうまでもなく、ヒトが思いついた思想である。現実に、雌雄異体であるあらゆる種の生物において、男性と女性が世代交代に果たす役割は動物行動学の知見を待つまでもなく明らかに異なっている。この自然界の現象について、ヒトがヒトの視点にたって、これは善い、これは悪いと価値判断してみても、ただ愚かなだけである。

故に、ジェンダーフリー思想は明らかに人間固有の価値判断から由来した形而上的な思想である。

直接的な目的は「結果の平等」である。つまり事後的な違いを無くすという試みである。本気で実現しようとすれば巨大な社会的エネルギーを投入する必要があるだろう。

それだけの社会的エネルギーを求める試みと不平等を解消しようとする《共産主義思想》と、どう違うのか、どこが違うのか、旧式な小生には分からないことが多い。男女間の違いのみをターゲットにしているが、詰まるところ、名前を変えているだけではないかという気もしたりする。部分集合の要素は全てそれを含む全体集合の要素でもあるから、ジェンダーフリー思想に沿った政策提言は、全て共産主義に沿った政策提言にも(結果として)なるのではないか。

●●フリーという名前から感じる印象とは裏腹に、追求している中身は社会計画(=統制?)を志向している。それはそういう思想であるからだろう。

ジェンダーフリー思想は共産主義思想の一部分を構成するように小生には思われるのだが、実際にはそうではないのだろう。そうではないとすれば、どこがそうではないのか?確かに使用している言語は違う。しかし、言語と言うのはトーマス・カーライルがいう様に、究極的目的を飾る衣裳である。目指す最終地点が同じであれば、途中で使う言葉の違いは「カーテンの図柄」の違いでしかない。だから、ジェンダーフリー思想は小生には分からないことが多い。

一つ言えることは、不平等問題が拡大してきた1980年代初頭以降の40年間で、財政の限界と福祉国家理念の限界が意識され、社会主義・共産主義思想の説得力が高まってきた、このような思想上の変動が現実に社会を変える役割を担っていくとすれば、結果としてジェンダーフリー思想が社会を変える影響力を行使した、そんな外観を呈することはありうる。

ま、いまの受け取り方はこんなものなので、メモっておいた次第。


2021年4月1日木曜日

一言メモ: 外需主導の景気回復=日本国内の萎縮、でもあるのだが

 こんな記事がある:

中部経済産業局が31日発表した管内主要工作機械メーカー8社の2月の受注額は、前年同月比19%増の295億7900万円だった。プラスは2カ月ぶり。新型コロナウイルス禍の影響が前年に色濃く出た中国向けが2.6倍と大幅に改善した。

国内向けは10都府県に対する緊急事態宣言の発令などで9%減(81億4000万円)と、27カ月連続で前年実績を下回った。中国や北米向けの回復で海外向けは35%増(214億3900万円)と、全体では回復基調が続いている。

(出所)日本経済新聞、3月31日

製造業に関する限り、中京地域は京浜、阪神を上回る日本最大の工業地帯である。 そこで工作機械メーカーの受注額が前年同期比で約20パーセント増というのは、明るさが本式に見えてきたということだ。

この辺の事情は、3月の日銀「短観」にも表れており、

日銀が発表した短観=企業短期経済観測調査で、大企業製造業の景気判断を示す指数はプラス5ポイントと3期連続で改善し、新型コロナウイルスの感染拡大前の水準まで回復しました。これに対し、飲食や宿泊などの非製造業は、大企業でもマイナス1ポイントにとどまり、業種によって改善のペースに差が出ています。

という今朝のNHKの報道がある。 

飲食、宿泊などは大企業でも今なおマイナス圏内。工作機械メーカーの受注額も国内向けは依然として9パーセント減のマイナス。増えているのは、中国と北米向けで、特に中国向けは急増している。

国内の機械受注全体については内閣府がこんな判断を示している:

内閣府は機械受注の基調判断を「持ち直している」に据え置いた。1月は緊急事態宣言が出たが「機械受注に大きな影響はみられない」(担当者)。受注額の水準は急回復した20年秋をまだ上回っており、基調は崩れていないとみている。

感染が再拡大していた20年末時点の集計では1~3月期は前期比6.0%減の見通しだった。持ち直しの基調を保てるかどうか微妙な局面にさしかかっており、担当者は「感染症の動向には留意が必要だ」と述べた。

(出所)日本経済新聞、3月15日


今後はワクチン接種数の増加から日本経済も回復していくのはほぼ確実だ。が、その回復がどのくらいダイナミックで、活力にあふれているかどうかが鍵であろう。

どうも工作機械の受注が増えたと言っても、その工作機械を活用して生産活動を拡大するのは中国や北米であるようで。それが得意ということなら、得意な産業分野に経営資源を集中するのが経済合理性にはかなっているのだが、こんな風に進んでいくと「お客さん」はほとんど外国人ばかりになり、外国人を相手にビジネスをしている企業だけがカネを稼ぎ、その他の日本人は公的な経営支援と公的な社会保障で何とか食っていく。

こんな状態になりはしませんかネエ・・・と心配になったりもする。

まあ、

日本企業では欧米企業に比べると、株主への配当を低く抑えて、内部留保を潤沢にする特長があります。この傾向は、現在でも続いています。 1988年には100兆円、2004年に200兆円、2012年には300兆円を突破しました。そして、直近の5年間は右肩上がりで増加して、2020年には483兆円という過去最高額を記録しました。

・・・

また新型コロナウイルスの感染拡大によって、潤沢な内部留保が功を奏しました。欧米の大手企業が資金繰りに苦しみ、失業率も拡大するなかでも、日本企業は大きな痛手なく持ちこたえることができています。

URL:https://www.manegy.com/news/detail/2982

こんな見方もあるのは確かだ。

この年度末は企業倒産の第1波がやってくると予想していたが、ほとんど大型倒産が発生することもなく4月を迎えることが出来たのは、政府の政策もあったのだろうが、「巨額の使いもしない資金」を貯め込んでいると批判されていた日本企業の「ケガの功名」でもあったわけだ。

下手に新規事業に打って出てないで良かったよネエ・・・もし攻勢をかけていたら、資金ショートをおこして、大変だった・・・よかった、よかった

その意味では「結果オーライ」である。

ではあるが、日本人の生活はこの先どんどん豊かになっていくという期待が持てるのかと言われれば、そんな将来に向けての布石は打ってないなあ、ということになる。

やっとデジタル庁がこの秋に出来て、3周遅れながらマイナンバーを広げていこうという段階だ。あまり多くを望めないのは仕方がないところだが。「政府が・・・」ではなく、やはり自分たちが望む最大公約数的な方向に沿ってきたら結果としてこうなった、と考えるべき社会状況だろう。勝つことより、負けないことがリスペクトされるところが日本社会にはある。とすれば、下手な事はしない。《戦わずして勝つ》、《無為こそ不敗の戦略》、これこそ日本社会では最も賢明な生き残り戦略なのだ。《減点主義評価システム》の下ではなおさらだ。

・・・とまあ、こんな意見もありうる。