2014年12月29日月曜日

再考ー「民主主義」をどう考えているのか?

今年の投稿は昨日で終わりにして、あとは来年度の統計分析の授業をどうデザインするか。じっくりと考えたいと思っていた。1990年代の初め、現勤務先に転任してきたのだが、その時点で国内で、というか全世界で流通していた統計学テキストはほぼ同じ構成であった。更に言えば、小生のなくなった父がその昔使っていた『初等数理統計学』(著者:森口繁一)もまた、基本的には小生が昔書いた本と構成はほとんど同じなのだ。要するに、統計学の勉強の仕方は、この半世紀以上まったく同じだったのだな。

ところが、実際に統計分析を教えている現場で、この2、3年というもの、履修者の欲求不満が高まっていると肌で感じるようになってきたのだな。統計分析を学ぶというより、データサイエンスで何が分かるかという意識になってきた。そこを熟考したいのだ。

だから、年内は昨日で打ち止めにしたつもりだが、いざ読み直してみると、ずっと以前の投稿で述べた「民主主義をどう考えるか」という意見とかなり違っているような気がした。

★ ★ ★

今日はその検証である。そこではこう書いている。
しかし、どうなのだろうなあ?ローマ帝国は共和制から帝政になってから大いに発展して生活水準も向上したそうだ。それでも3世紀までは元首政であって、世襲による絶対君主制ではなかった。しかし社会が混乱し、それをディオクレティアヌスやコンスタンティヌスが独裁制、言い換えると真実の意味における皇帝による政治体制に変革したのだった。それで社会はある程度安定した。東ローマ帝国が15世紀まで存続した一因にもなった。民主主義政体をとっていたなら空中分解したのではないかなあ、と。そうも思うのだな。 
古代ギリシャのアテネは民主政治をある程度確立した。繁栄はしたが、ペロポネソス戦争で非民主的なスパルタ陣営に敗れ、以後衆愚政治が続き、最終的にギリシア世界はアレクサンダー大王による広大なヘレニズム世界として統合された。どの国も東洋の香りをもつ王朝国家である。 
アジアと西洋が歴史を通してシーソーゲームを繰り返しているというが、いずれかより民主主義的であった側が他方を凌駕した。そんな法則はないようである。 
大体、民主独裁制の一変種であったヒトラー時代のドイツ、社会主義時代のソ連を民主主義というか?言わないとすれば、どの国からどの国までが民主主義か?民主化インデックスを作るにしても、かなり恣意的であろう。 
小生自身は、その社会が民主主義であるかどうかは、経済成長にそれほど関係ないのじゃないかと思っている - 思っているというだけのことだが。
上の見方は、明らかに昨日の投稿と主旨が矛盾しているような気がしたのだな。そんな気がして以前の投稿の結論的な部分を再確認してみると、こんなことを書いてある。
だから、技術とイノベーションの果てにどんな社会が選ばれるか?それは、技術とイノベーションが生み出す果実を活用するのに最も便利な政治制度が、自発的に選ばれていく。そういうことじゃないだろうか?現に選ばれている社会制度は、その時代を生きている人にとってはベストであり、大いに賛美したくなるのも分かるのだが、その制度が永遠にベストであり続けるとは、到底、賛同できない。子孫は子孫で、一番やりやすいように社会を変えていくだろう。それは民主主義の廃棄、王政の復活、帝政の復活ですらも十分ありうる。そう思うのだな。
要するに、政治のあり方を含めた社会システムがどうなるかというこの問題は、その時代に生きる人たちが、その時点の技術・情報を活用するのに最も便利なように自由に選んでいけばよい。特定のあり方が最良であると、というより「正義」にかなうのだと、あらかじめ確定できる先験的な根拠などはない。そんなことを書いている。

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う〜む、・・・上の文章を書いたのは2011年9月19日である。東日本大震災があった年だ。どこことなく進化論というか、適者生存的な薫りが醸し出されているのはそのためなのかねえ・・・。当時の心持ちなどはすでに忘却しているので、どうもよく分からぬ。ただ結論で言われていることは、現時点でも響きあうものを感じる ー そりゃそうだろう、当人なんだから。

昨日の投稿で書いた次の文章は、本当に上と両立するだろうか。
「幸福」に基礎を置かずに「国益」を求めれば、国防やGDPが国家目標になるだろう。ということはだね…、国益が幸福より優先された遠因として「資本主義」をあげることは、他にも資本主義国が多数あった以上、できない。生活を犠牲にして国の利益を求めることができた主因は、資本主義ではなく、「上」が「下」を抑える戦前期・日本の「国体」そのものが、民主的ではなかったからだ。この点こそが原因か……
民主主義が「正義」に適っていると、あらかじめ前提できる根拠を小生は知らない。以前にはそう書いている。それに対して、昨日は非民主的な社会システムであったからこそ、国民の幸福とはかけ離れた国家目標を掲げ得たのだと述べている。非民主制に戦前の誤りの原因を求めているようでもある。そこで<IF…>となるわけだ。

しかし、仮に明治維新の結果、日本が非常に民主的な国となり、明治憲法が日本国憲法と同じ国民主権をうたっていたとしても、その後の産業発展や生活水準は1930年時点において、それ程大きな違いは生まれなかったであろう。もちろん日清戦争や日露戦争は発生しなかったかもしれないが、世界史的な条件が変わらない以上、別の紛争が東アジア地域で多発していたことは容易に想像できる。であれば、大恐慌から第二次大戦にかけてアメリカでも政府の役割を拡大させたように、危機の高まりの中で日本でも国家の役割が期待されていたであろう。そして旧幕下の封建制を経験している日本では、(仮想されている)民主的・明治体制への疑問から、理念に迷いが生じて、幾人かのデマゴーグが登場し、ひょっとすると歴史上の人物と同一のそれらの煽動思想家・政治家が徘徊する中で国家主導色の強い非民主的・新体制へ移行した確率は高い。そう思うのだ、な。つまり流れゆく歴史的経路は概ね同じではなかったろうかということだ。

流体力学は流水を構成する個別の分子の運動を説明はしない。歴史上のIFが無意味であるのは、「れば・たら」論には意味がない、そういう単純な意味ではなく、仮に個別の国家がその時に別の選択をしていたとしても、世界史全体としては大体同じような結果にならざるをえない。まして、一個人が特定の時点で別の選択をする、というより別の選択があり得たと仮定を置く事自体が無意味なのだろう。そんな風にも思われるのだ。

★ ★ ★

そう考えれば、民主主義に関する以前の投稿と昨日の投稿は矛盾しない。いまはそう書いておくとしよう。

『一年の計は元旦にあり』というが、小生は「計画」することも好きだが、「検証」のほうがもっと面白いと思ってきた。それに「計画」する未来より、「検証」するべき過去のほうが、齢とともにだんだん長くなってきた。それもあるのだろうねエ、3年前の投稿と昨日の投稿との矛盾について考えるなんて。

2014年12月28日日曜日

ブレないことの戦略的価値と「国益」の価値

昨日は、本当に久方ぶりに隣町のコンサートホールに出かけていって尾高忠明指揮・札響の『第九』を聴いてきた。


朝の余りの大雪に地下鉄を降りてからホールまで歩いていけるのかと少々心配であったが、上の写真の通り、ホールのある公園内は綺麗に除雪されていて、大変気持ちがよかった。開演は午後2時である。

久しぶりにきく地元の交響楽団だが、ズバリ、見直したというか、驚いた。以下、楽章ごとの感想だ。
第1楽章: こんなに底力があったか?底光りのする響きになってるなあ・・・
第2楽章: 切れがよくなってるねえ。技量、あがったなあ・・・
第3楽章: もっと天国的で優艶な調べにしないと最終楽章が盛り上がらないヨ
第4楽章: パワーがこもっている。磨きに磨きましたねえ・・・

率直に言って脱帽しました。これから定期演奏会には聴きにいくかな。そう思いました。

× × ×

開場早々ワインを注文して、ソファに腰を下ろし、最近読みふけっている川田稔『昭和陸軍全史』の第2巻『日中戦争』をKindleで読み続けた — これから聴こうという楽曲の思想と全く主旨を異にしている点、あきれ果てるのだが。

読みながら考えたのは、「国益」ということと「ブレない」こととの関係だ。そもそも、小生、ずっと「ブレない」ことが大事だと言う意見にはいつも首をかしげてきたのだな。むしろ変化する情況に置かれた人間なり、組織は、与えられた情況の下でいかにして最も合理的な行動をとるか。それが大事である以上、変化する世界の中で行動方針を変更するのは当たり前である。そのどこが間違っているのか。そう思ってきたのだ。いわば「理論」にとらわれていたのだな。

ところが、ぶれない経営が価値の源泉になる。先日、そんな議論をしてから、目から鱗が落ちるように見方が変わってきた。すべて戦略とは、今後将来の行動計画のことである。そして戦略が定まるには理念・目的が決まっていなければならない。一定の理念と目的からスタートする以上、今の行動がどうあろうと、発言がどうであろうと、最終的な目的は変わらないはずである。戦略は変わらないはずである。変わるとすれば、変化する情況の中で展開する戦術だけである。ブレない企業は、経営理念に迷いがないので、その理念に共感し支持する人は継続的に安心して投資する。その結果、低い資本コストで資金が調達できる。ブレる企業は「分からない企業だ」と見られる分、資本コストが上昇し、そこに競争上の優劣が生まれる。そんな議論をしたのだ。

逆に考えると、特定の理念、目標に束縛されない「柔軟な」姿勢を保つと、その時々の条件の下で利益・国益を最大化する政策をとりうることになる。しかし、このような行動方針は、結局は「機会主義」になるのであり、変化する情況の中で次は何をするか外からは見えにくい。そんな組織的行動とならざるをえない。つまり信頼されない。そういうことなのだろうと考えるようになったのだ、な。

そんな目で『陸軍全史』を読んでいると、1920年代から30年代にかけて、何が時代のキーワードであったかといえば「グローバルな構造変化」である。その変化の中で、帝国陸軍は国益を守り自存自衛の必勝態勢を築くことを政策目標とした。これ自体は国益と合致している。そんな議論なのだが、これは原敬以来の政党内閣が目指してきた英米協調路線とは全く異なる。その意味では、「昭和陸軍」は国内でも国外でも「革新」を支持し「新体制」に共感したわけであり、そうすることで「国家改造」を目指していった。であるが故に、必然的に大日本帝国の理念と目標がブレ、対外的信頼性が毀損されることで政治資源を失い、現実に認められる中国の頑強な抗日姿勢とも融和できず、最終的には不利な戦争を余儀なく選ぶという結末に至った。

簡単に言えば、使い古された表現だが、一貫性がなく、機会主義的であった。大戦略なき戦略。それを立派な戦略と思い込んだ。そう思ったわけだ。そして更にその根本的原因を探ると、そもそも戦前期・日本は広く国民の幸福を増進するために出来た国ではなかった。上(=国と官)に下(=地方と民)が従う非民主主義国家であった。この点を無視することはできない。「幸福」に基礎を置かずに「国益」を求めれば、国防やGDPが国家目標になるだろう。ということはだね…、国益が幸福より優先された遠因として「資本主義」をあげることは、他にも資本主義国が多数あった以上、できない。生活を犠牲にして国の利益を求めることができた主因は、資本主義ではなく、「上」が「下」を抑える戦前期・日本の「国体」そのものが、民主的ではなかったからだ。この点こそが原因か……

そんな感想 −どうも「戦後知識人的見解」になってしまうので意外感を感じつつあるのだが − ホールの壁際のソファに座って、あれこれと思いをめぐらせながら、歳末の『第9』開演をまったわけだ。

☓ ☓ ☓

【追記】 好き好きだけでいえば、小生、同じベートーベンの交響曲なら第3番のエロイカの方が圧倒的に好きである。かつ、歳末に聴く楽曲としてもエロイカには明瞭で壮大なストーリー性があるので、好適ではないかと思案している、というより以前から歳末のエロイカ演奏を熱望しているのだ。ま、そんな世の流行に逆行するようなプログラムを組む楽団は今後も現れないであろうが。やはり第2楽章の葬送行進曲かねえ、ネックになるのは。全体としては偉大なる不死と復活のイメージなのだが。

で、やはり聞きたくなってAmazonで買ったトスカニーニを聴くと、さすがに「これは違う」とー フルベンが手に入ると思ったのだが、検索で出てこないのだなあ。おかしい。ところが探すと、"All Time Greatest Hits"というアルバムが見つかったのだが、これが往年の隠れた名指揮者Carl Schurichtの名演集であった。新年早々のお宝発見となった次第。


2014年12月26日金曜日

来春の賃上げは確実とは思うが……

本日の日経速報で労働市場の明るい現況が伝えられている。
厚生労働省が26日まとめた11月の有効求人倍率(季節調整値)は1.12倍と前月より0.02ポイント上がった。改善は2カ月連続で1992年5月以来の22年6カ月ぶりの高い水準だ。企業からの求人が高止まりする一方で、新たに働きに出る人が減っているため。総務省が同日まとめた完全失業率は3.5%と前月と同じだった。 
 有効求人倍率は全国のハローワークで職を探す人1人に対して、企業から何件の求人があるかを示す。ハローワークが11月に新たに受けた新規求人数(原数値)は前年同月より4.4%減った。情報通信業や建設業、サービス業で10%超のマイナスとなった。過去に出した求人が採用につながらないまま積み上がることが増えており、求人数全体で見るとプラスが続いている。 
 一方、新たに職を探す新規求職件数は10.9%減った。職探しをする少数の人を多くの企業が奪い合う状況が続いている。
 (出所)日本経済新聞、2014年12月26日

求人と求職の関係はバブル景気ピークアウト直後の1992年5月以来というから嬉しいではないか。というより、人手不足については相当以前から耳にしていたことでもあり、改めて現在の雇用状況がわかってきたというわけでもある。もちろん人によっては、非正規雇用ばかり増えても意味がないという向きもあるだろうが、そもそも非正規雇用が全体の40%前後を占めるようになった現在、「正規」、「非正規」という呼称そのものからして非現実的になった。現在は、戦後日本の企業別労働組合で身分が強く保護されてきた社員が、本来の「労働者」に解体されつつあるプロセスにあり、いずれ技能・職能ごとに団結できるまでの過渡期にあるのだと小生は思っている。景気とは関係のない構造的な変化である。

ま、いずれにしても人手不足である以上は、来春において賃上げが通るのはほぼ確実である。

ではどの程度の賃上げになるだろうか?

何の説明変数もつけずに、毎勤ベースの全国5人以上企業における所定内給与を予測すれば、来年4月時点の賃金は実はプラスには出てこない。


上図の黒い実線が本年10月までの実績、青い線が11月から来年7月までの9か月予測である。縦軸は2010年平均を100とした指数の対数である。4月時点の前年比をみてみると、来年4月には予測値が元の指数で100.4(▲0.2%)となる。若干のマイナスである。もちろん予測は確率的にみないといけないので95%予測区間の上限を確かめると101.6となる。上昇率にすると1%だ。

名目賃金は、消費者物価指数の変動、その他の要因に影響されているので、名目賃金一本で統計的予測を行ってみても、それはあくまでも参考に過ぎない。しかし、賃金変動には、景気や消費者物価、生産性向上などあらゆるマクロ的変動が織り込まれているのであり、そもそもそれが予測可能であるのなら、賃金データ自体に予測の基礎となるべき統計的パターンが残っているはずなのだ。その統計的なパターンを見る限り、来春時点の賃上げは吃驚するほどの引き上げ率にはならない。これが(現時点において)示唆されることである。

消費者物価は、なるほど、消費税率引き上げに伴って上がっている。とはいえ、消費税は広く消費者全体が負担する税であるというのが基本的な理屈である。政府は、消費税率引き上げ(物価ベースで2.9%の上昇)を取り戻すほどの賃上げを企業サイドに求める気はさらさらないはずだし、もしそんな要請をするなら健全な経済運営とはいえない。

2014年12月24日水曜日

政治の「不正経理」という前近代性

「不正経理という前近代性」…あまりに大上段に標題をつけると、書かなければならないことが増えすぎる。実は、そんな風に考えてはいない。単なる覚え書きである。

政治資金については以前にも投稿したが、そこでは以下のように記してある。
いずれにせ不正経理はまずい。すべて過失はまずい。
不注意によって何らかの損失は生じる。過失をどの程度罰するかという問題は、その過失によって生じた損害を見てもよい。そしてその損失とは、目標を達成する上で生じた損失を指すと考えるのが合理的だ。
大体、政治資金の決算については政府に「政治資金適正化委員会」が設けられている。「政治資金監査人」は登録制になっている。監査が期待どおり機能していないのではないか。
サラリーマンの収入はガラス張りだが、個人事業、専門的職業に従事する人は誰でも税理士と相談しながら経理ミスを防止しているはずだ。もちろん監査済みの決算に不正が見つかったからといって、ミスは監査人の責任ですとトップは責任を回避することはできない。しかし、経理ミスを見逃す監査人は、能力を疑われ、業務を継続できなくなる。
上の記述に何か付け加えることがあるか。

こんな報道が出てきている。

安倍内閣は首班指名のあと全閣僚を再任する予定であったと伝えられていた。ところが、江渡防衛相の資金管理団体が江渡氏自身に350万円を寄付したと政治資金収支報告書に記載されていた。「これは政治資金規制法違反にあたる」といわれ、民主党など野党から攻撃されそうなので、再任を辞退した、と。そう報道されている。

政治資金の収支は、制度上、「政治資金監査人」の監査を受けなければならない。

決算報告を作成したところ—というより、すべて決算は法に沿って適正に行わなければならないのが民主主義と公平な課税を基礎とする近代社会なのだがー政治家本人に法律違反の疑いが波及する。これはそもそも「監査」を行うべき者が適正に業務を遂行しなかったことになる。監査人の怠業があったか、監査人に対する政治家の圧力があったか、監査業務内容の定義に不十分な箇所がある。そのいずれかである。

監査人は総務省に届け出なければならない登録制である—総務省:登録一覧。無資格の者が好き勝手に政治資金収支の公正を証明することは出来ない。その監査業務が、最近の事例を観察すれば、正常に機能していない。監査に問題があることは明らかだ。
なぜ政治資金収支で「監査」が正常に機能しない傾向があるのか?
「法の前の平等」と「議員定数配分」も確かに重要な問題ではあろうが、「経理の公正」は、近代化の前提であり、定数是正よりも早期に解決するべき問題だと思われる。こちらのほうが先に解決するべき基本的な問題だ。そう思うのだ。

2014年12月22日月曜日

自分の人生の味

小生がまだ役所勤務の頃、同じ課でお世話になり―というより面倒をかけたことの方が多かったと思うが―現在は首都圏の某大手私大の教授をしているTKさんが、連載しているコラム記事で「三人の師」の思い出を書いておられた。

文中に登場している三人の人物のうち、YK氏は(小生も事務的なやりとりをしたことはあるが)深い関係を持てなかった。しかし、あとの二人、MY氏とSS氏は小生にとっても直接上司であったことがあるので、大変懐かしい思いがしたのである。

とはいえ、小生自身の立場からいうと、SS氏よりはその前任のYO氏には客観的にはもっと多くの厚情をたまわった感情がまだ残っている。また、MY氏よりはYM氏から頂いた多大な愛情の温もりをいまも忘れられずにいる。

しかしながら、当地に来てから上の二人とは次第に疎遠となり、疎遠のままで両氏とはすでに幽冥を異にしてしまった。それどころか、1992年の春、小生は離京したまま唐突に役所を辞してしまった事情もあって、二人の先輩とも連絡がいつしか途絶え、二人が他界したという事実すらずっと後になってから人づてに知ったくらいであった。

最初に述べたコラム記事を読んで、懐かしさとともに苦味と後悔の念が昔と変わらずまたも胸にしみとおってきたのには意外な感がした。旧友と歩く道を異にしたまま、裏山道を長閑に歩かせてもらったが、どこか贖罪意識を胸のうちに持っていたのだろうか。

小生の人生は塩味が隠し味というには少しききすぎているようだ。

2014年12月20日土曜日

石油安値はOPECではなく米国の戦略なのか

先日の投稿とは別に、プーチン露大統領が、いまの石油安値はアメリカの経済制裁の一環であるという見方を示していて、これまた中々根強い見方だ。
 これに真っ青なのがロシアだ。プーチン大統領は10月の会見で、「1バレル=80ドルなら、経済が崩壊する」と発言。閣議で予算増を求めた閣僚を「君は原油価格がどうなっているか知っているのか」と叱りつけたという。歳入の半分がエネルギーという資源依存経済のロシアにとって、原油価格の下落は一大事だ。
 同大統領は中国紙との会見で「原油価格には常に政治的要素がある。価格が変動すると『してやったり』と思う勢力がいる」と政治的陰謀を示唆した。具体的言及は避けたが、ロシアでは今般の原油価格下落は「米国とサウジアラビアが仕掛けた秘密工作」(露・コメルサント紙)とする見方が有力だ。
(出所)週刊文春WEB、2014.11.21 07:00

とはいえ、シェールオイル革命が今後将来の石油価格について天井観を形成しつつあったが、これはプーチン大統領とは関係のないことだ。

大方の見方はアメリカによる陰謀でまとまりつつあるようだが、そんな力が今の米政権に残っていたのだろうか?そんな力があるなら、そもそもシリアでもう少しマシな対応ができたのではないか。イラクでもう少しマシな対応ができていたのではないか。TPP交渉でもう少し上手に対日交渉が出来ているはずではないか。

解せんねえ……、一体、アメリカ現政権の誰の企画なのだろうか。

OPECの安値攻勢に一歩引き下がったアメリカが、『アアあれか?あれはナ、わざとやったんだヨ。作戦だヨ。あまりしゃべるなよ、秘密だぞ』、こんな所ではないのかねえ…。

マウンドに送ったリリーフ投手が9回表に逆転ホームランをあびた。ところが9回裏にピンチヒッターが、再び逆転ホームランを打ってサヨナラとなった。『いやあ、どうです?メークドラマでしょ!これが野球なんですよ』。似ているねえ。小生はそう見ているのだが、どうだろう。

2014年12月19日金曜日

STAP騒動ー研究失敗と記者会見をめぐる第一印象

「研究」というのは、人と違ったことを人よりも早くやってなんぼ、そんな活動だから、失敗や間違いは必然的に多くなる。ずっと以前、日本が生活大国になったというので、これからは手本にする国がない、そんな意味をこめて『海図なき航海』という言葉が流行ったことがある。1980年代だ。海図がなければ船は座礁する確率が高いだろう。研究は、座礁を覚悟で多数の船を繰り出して、隠された航路を発見しようとする偵察活動と同じだ。犠牲はつきもの、失敗はつきもの、ちょんぼも勘違いも、その他失敗をもたらす原因は無数にある。これがスタート地点だろうと。そう思っているのだ。

そんな目線で書いておきたい。理研のSTAP騒動が永らく世を騒がせてきたが、再検証でも確認はできず、ようやく収束したようである。
「まず、最初に結論を申し上げさせて頂きます。STAP現象は再現することができませんでした。来年3月までの予定だったが、検証実験を終了することとしました」
(中略)
2時間以上にわたる会見を終え、退席しかけた相沢氏は立ち止まり「モニター監視や、立ち会いを置いた小保方さんの検証実験は、科学のやり方でない。そういう実験をしてしまったことに、検証実験の責任者としておわび申し上げるとともに、深く責任を感じている」と謝罪した。
(出所)朝日新聞、2014年12月19日14時04分

別の報道によれば、懲戒処分を検討していた当事者から退職願を受理するのは問題ではないかという主旨の質問まであったそうだ。

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ずっと昔、記者レクを聴いていたこともあるので、時々気になっていたのだが、記者会見というのは結局何なのだろうと疑問に思うことがある。会見をする側が伝えたいことを伝える場であるのか。それとも、会見に出席するメディア側が伝えたいことを確認する場であるのか。伝えたくないことはメディア側が食い下がっても話しはしないものだ。無理に聞き出したことを報道しても聞き手の主観的バイアスが混じる分「情報」としては落ちる。また、伝えたいと思うことをその通りに報道してもらうなどは最初から期待するのが無理だろうと思う。ホームページや、その他SNSがあるのだから、当事者の立場からネット経由で伝えていけばいいことである。

最近の情報過剰時代に、小生、「記者会見」とか「記者レク」というのは、一体誰の・誰による・誰のための場であるのか、ちょっと分からなくなっているのだ、な。

ま、どちらにせよ、研究活動というのは知的ベンチャーである。ベンチャービジネスは、概ね、100分の1だと耳にしたこともある。百発一中なら満足せよということなのだろう。ということは、うまく成果を出せなかったにしても、早とちりをしたとしても、反証が第三者から早々に出されたにしても、決して恥ではなく、更に言えば(今回のケースが該当するという意味ではなく)出世欲にかられた欺瞞や、嫉妬や疎外を恨んだ犯罪行為に汚されるとしても、専門的能力はあるがその他は未熟かもしれない人間がすることである以上は、あらゆる醜聞もまた予想しておくべきである。そう思うのだ。当然、使った金の返済を求めるべきではないし、あらゆる失敗のコストは稀な成功で取り返す。失敗した研究者は、逆転ホームランを打たれた投手さながら、淡々と悪びれずに敗者としてその場を退場すればそれで済むことだ。スマートなビジネスというより、ギャンブラーに近い知的な賭博。それが「研究」なのだと思う。

三流の研究者くらいには入っていたいと願う小生はそう感じているし — もちろん、研究というより、確実なビジネスをする感覚で仕事を進める「研究者」もいるし、またいてもよい — もしアカウンタブルな経理とギャンブルはなじまないと思う人がいれば、そもそも知的ベンチャーには最初から手を出すべきではない。時代を切り開くような研究は他の先進国に任せておけばよい。小生、そう考えるのだ、な。『後手の先』という言葉もあるではないか。なにも先頭をきって進む必要はない。たとえばナイロンとか、ペニシリンとか、そういうエポック・メイキングな革新的特許は他国に譲って、我が方は改善とマーケティングとCRMで競争優位を築いてもよいのだ。巨額の創業利益は得られないがリスクがなく安全確実である。こんなこと位は周知のことではあるまいか。

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丁度、3割バッターが3打席のうち2打席に凡退しても「打てない」わけではなく、あとの1打席でヒットを打てば「好調を維持していますね」。そう評価されるのと同じである。研究活動の成否は、集計的・統計的に行って初めて意味があるものであり、個別のケースに厳しい目を向けても、世の中がギスギスするだけで、何のプラスにもならない。

マスメディアは確かに有益な情報の流通に大きな役割を果たしているが、取材・検証・発信のコストはゼロではない。小さな事実に大きなコストをかけるのは無駄である。色々あったが敗者の退場を静かに見送る。これで良いのではあるまいか。"Such is life", "Such is scientist's life" である。

2014年12月18日木曜日

あの猛吹雪警報はどこに行ったのでしょう…

道北・道東では暴風雪が吹き荒れ、それと併せて北海道全域で猛吹雪への厳重な注意が呼びかけられていた昨日であったが、結局、昨日の夜の授業はやることにした。

道央地域では「夕方から荒れる」から「夜8時以降は吹雪に注意」という風に警告も次第に変わってはいたが、雲の情況をみるとほとんどないのだね。で、雪が降るにしても、どこの雲から降って来るのかわからない。ま、降らんね、というので授業をやった次第。

授業は6時過ぎに始まり、9時過ぎに終わる。同時間帯にある他の授業もやはり開かれていてワイワイと賑やかだ。流石に「今日は9時過ぎから吹雪になるという見通しもありますから早めに終わりましょう」と言ったのだが、いざ終わってからブラインドの隙間から外を除くと「雪は…まったく降っていませんね」。帰りの高速バスでは渋滞もなく、さすがに月は出ていなかったが、快適であった。迎えにきたカミさんは「明日が吹雪のピークみたいよ」と。

一晩あけてから、夜の間に雪が積もったかどうかをみてみる。「どう?降ってる?」、「いや、まったく降ってないな。ベランダの手すりにも全然」。どないなってるのや?

朝のニュースにする。今日の臨時休校を決めている小中学校が多いらしい。ホントか?行けるんじゃないか?各地点から寄せられる声を地図にプロットした画面が出た。みると北海道全域で「雪が降っている」地点はわずかであり、「荒れていない」という地点が70%、小生の地元は「風が強い」という情報が集まっていた。全く、どないなっとるのや?

明日は気温が上がるらしい。どうやら今回の「猛吹雪騒動」も収束する気配である。やれやれ。今度はほんとに警報に振り回された。今度はもっときめ細かく地域の違いに目を向けて現実的に情報を提供してほしいものである。心からそう願うばかりだ。今頃は、二日連続で小中学校を臨時休校にした地元の教育委員会が「軟弱にすぎる」と叱責されているのじゃないかねえ・・・。

たとえば弟が暮らしている福島県は比較的面積の大きな県である。天気情報は「浜通」、「中通」、「会津」と3地域に分けて提供されている。若かったころに仕事をしたことのある岡山県なら「県南」、「県央(だったか?)」、「県北」の3地域だ。郷里の愛媛も「東予」、「中予」、「南予」の3区分。こんな風にみれば、北海道は福島県の約6倍だから、単純計算で北海道全域を18区域に分けて、地域ごとに天気情報を提供して、バランスがとれる理屈になる。「オホーツク沿岸」とか「根室地方」、「釧路地方」という表現は、現地を知らぬ、あまりに粗漏な伝え方ではあるまいか……。

今日は打ち合わせがあるので大学に登校。終わってから書店。『岸信介の回想』(文藝春秋)を買う。戦前の革新官僚も、今になってから振り返ると、「意図せざる軍国主義路線」をとったのだと思われるが、たとえ「あの時はああいうつもりでした」というのであっても、読めば面白かろうと思う。

2014年12月17日水曜日

中央の気象庁には「北海道」が見えてないのじゃないか?

小生は道央の小都市で暮らしているのだが、いまもTV画面には『数年に一度の猛吹雪』という警報が文字表示されている。

★ ★ ★

なるほど道北の網走、北見では、いま現時点でも暴風雪がひどい。根室では高潮被害もあった。しかし、札樽地区のTV画面にまで、それも朝から、暴風雪警報を表示する必要があるのだろうか?大変疑問である。非現実的だと言う人すらいるだろう。

大体、小生が暮らしている町から道北の網走市までは380Km離れている。東京と名古屋よりも離れている。東京が荒れたからといって、名古屋もすぐに荒れるという同時性はないだろう。警報はリアルタイムで地区に応じて適切に流すべきだろう。北海道は都道府県の中の一つだが、面積は日本の国土の2割強を占める。「北海道の人」というには広すぎるのだ、な。

★ ★ ★

Yahoo!の天気予報コーナーをみると、道央部は今日は「曇りから雪」、明日は「吹雪」になっている。いま窓の外の空は薄晴れである。それでもTV画面には『数年に一度の猛吹雪』とある。奇妙である。腹も立つ。


上の図は14時現在の雲の状態である。道北は大変だが、道央、道南には雲がない。道北・道東地域については一生懸命解説したり予報をしているが、道央、道南については住民が知りたいと思っているはずの情報を提供していると言いがたい。

いまの時刻になって、吹雪のピークは道北では今夜、道央では明日。こんな説明がでてきた。道東はどうなのか?道南はどうなのか?

小生が暮らしている町の小中学校は気象庁の予報を心配して今日は臨時休校にしたそうである。見事に空振りに終わった模様だ。

所詮、東京にある気象庁が管理しているようでは駄目じゃないか。北海道の気象予報サービスは、地元にあって組織・人員ともに層が厚い北海道庁が責任をもって対応するべきじゃないか。東京の気象庁は「気象データセンター」としての役割に徹するほうが良いのではないか。そのための移管・線引きを行うほうがよい。国は国で為すべき仕事に専念するほうが資源の無駄がない。

『こりゃあ官庁には見えてないねえ…』、そう思いつつ、今日の夜の授業は休講にしようかどうか、情報不足で頭を転がしながら、迷っているところだ。終わるのが10時前だからねえ…どうなっているか。交通はどうなのか。慎重であるべきなのか?まあ、10時までなら大丈夫なのか?

いま現時点で知りたいと思う情報が提供されていないことは驚く程である。

2014年12月15日月曜日

選挙の結果ー予想通りの「難クセ」

与党圧勝は予想通りであった。

投票率が史上最低記録を更新したことも予想通りであった。

そして、終わってから出てきた「難クセ」も予想通りである。たとえば
半分の有権者は棄権した。支持したわけではないことを肝に銘じよ。
……全くねえ、「大のおとな」が今になって何を言うのか、と。慨嘆に堪えないのだなあ。

大学の定期試験で欠席した学生が後になってやってくる(とする)。欠席すれば、当然、ゼロ点になっている(はずだ)。部屋にやってきて『受けなかったから分かっていないと判断するのはおかしいんじゃないですか?」と、そんなことを言いにくる学生が(万が一の仮定として)いれば、小生はゼロ点ではなく、マイナス点を与えるつもりだ。

「こんなことも分からないのか」。言われる方は「恥ずかしい」と感じてほしいのだねえ……。

投票の意志があれば、何らかの方法で投票は可能だ。自分の意志を伝えられる。にもかかわらず投票を棄権すれば「白紙委任」になる理屈だ。『どうでもようござんす』と言いたかったのでしょ。委任状を出したわけではないというのは屁理屈だ。数に入っていない。それでおしまい — 「降りたサ」、そんなライフスタイルも低徊趣味的で嫌いじゃないのだが。つまり、というか、故に「難クセ」である。見苦しいねえ…、バブルのようだ。放送する価値はないのじゃないか。

★ ★ ★

もちろん、これを以て安倍政権が信任に値すると結論されるわけではない。それは英誌"The Economist"が書いている通りだ。
The question is whether alongside all of these tasks Mr Abe can use his renewed political capital to drive through structural changes to Japan’s economy, such as loosening the rigid labour market, and taking on the country’s vast and monopolistic network of agricultural co-operatives. Dispiritingly for pro-reformers in his government, he made little mention of such priorities during the campaign. Yet his third resounding electoral victory in two years means he has no excuse not to press ahead.
Source: The Economist, Dec 15th 2014

今回の大勝で得た政治資産を活用して日本経済の構造改革を推し進めていかないとすれば、安倍首相はもうどんな言い訳もできない — やる気がないのだと見られるだけである。

おそらく日本以外の外国はこんな眼差しなのだろう。「構造改革」。 一つはアンフェアな労働規制の緩和。もう一つは全国に網を張る独占的な農協団体。この二つを挙げているが、もう一つ。「人道的な倫理と規制」を断固として支持する医療関係者がいる。それより司法府の現実感覚を鍛えることも必要かもしれない。

ズバリ、岩盤規制の創造的破壊である。これが出来るか?この程度が出来なければ憲法改正もできないでしょう。そういうことである。

小生、別に靖国神社を参拝する人を支持するわけではない。「侵略戦争」を美化するつもりもない。が、安倍政権は日本社会をもっと豊かにできる。困った人が問題を解決できる機会をもっと増やせる。うまいやり方があるが、強硬に反対する人がいるのだ。もうズバリ語って行ってもいいのじゃないか。さあ、それが語れるか・・・イギリスの週刊誌が書いていることだが、自由化と規制緩和で恩恵を受ける分量の方がずっと多いはずである。

みんなで貧乏になるよりは、まず全体の豊かさをトータルで増やす方が先決だろう。全体が増えれば、あとはどうとでもなる。どうにもならないから、みんなで平等に貧乏に。それは最初から諦めている。敗北主義だと言うも可であろう。

2014年12月14日日曜日

夢想-個人的な理想社会

普通なら赤穂義士討ち入りの日であるが、今冬は投票日ということに相成った。

北海道は昨晩から今朝にかけて猛吹雪との予報が出ていた。夜中、猛烈な風の音が聞こえてきて、起きたらどんな状況になっているのか不安になり、投票どころではないわと思ってもいたのだが、さて朝が来ると晴れている。雪はほとんど積もっていない。『いったい、どないなってるのや』と、呆気にとられた。吹雪や豪雨は分厚い雲の下にどこの町が来るかで決まるので、多分に運・不運が左右するものなのだ。

今年を象徴する漢字は「税」という字に決まった。

税かあ・・・という心持だ。小生、個人的には社会保障の充実にカネがいるなら増税をしても、それはそれで筋が通っていると思う。また、社会保障よりは仕事の数を増やすべきでしょ、と。そんな考えで減税+財政支出削減を行うなら、これまた本筋であると。両方とも理に適っている。そう思うのだな。ま、好みからいえば「減税+財政支出削減」を進めて軽い政府にするのが、ビジネスや起業・イノベーションには優しいので好きである。

☓ ☓ ☓

軽い政府といえば、小生にも理想社会のイメージはある。

税でいえば、すべて国民は市町村に確定申告をする。源泉徴収などという制度は廃止する。市町村は市民を相手に直接的に徴税事務を進める。

市町村は集めた税から必要な経費を差し引いた残余を都道府県に納付する。都道府県にも警察業務など広域的に提供するほうが効率的なサービスがある。やはり経費がいる。それを差し引いた残余を中央政府に納付する。中央政府には長期的な財政均衡を義務づける。

中央政府は都道府県から国税を受け取るのみであり、国民に対する徴税権はもたない。だから税務署はすべて市町村に移管する。

こと、税については、小生はこんな夢を持っている。何も無茶な話でもないと思う。江戸・旧幕時代には、江戸の公儀は地方の藩に対して徴税権どころか、行政権も司法権もなく、地方支分部局は藩領地内には置けなかったのだ。中央政府たる幕府が有していた全国的権利は、外交権と正貨発行権、地方藩主に対する官職任免権、そして武士の憲法たる武家諸法度の公布権くらいであろう。封建制度と言ってしまえばその通りだが、いわば究極の地方分権制度と言える。分権だから生活水準横並びの保証などはなかった — というか、今でも横並びなど約束されていない。不平等だとひがむ理由もなく、独立自尊、甘んじて己が自然の境遇に安住することができていた(と思う)。

これに比べれば、小生の夢は穏やかなものだ。国の徴税権は対都道府県に限定し、都道府県の徴税権は対市町村に限定する。国は自治体の剰余の何割を収納させるか、その負荷率を決めるだけである。それほど過激な地方分権でもないと思う。穏やかなものである。そう思うのだがなあ・・・。

個別の税目は市町村が決める。納税義務は個人を原則として、法人には課さない。というより、法人所得はすべて個人所得に帰属させる。

いいと思うなあ・・・軍事力拡大などはまず無理だろう。国家権力の暴走は原理的に起こらなくなる。地方交付税や補助金など中央権力の源も雲散霧消する。国民の精神衛生が向上するのは確実ではないだろうか。

小生の夢想の最大の問題は、同じ所得、同じ資産であっても、暮らしている市町村によって課税額が違う。これは法の前の平等に反する。そんな違憲訴訟が続発するかもしれないことだ。

それを言うなら、今だって住民税ーというか、諸々の公租公課ーの高い町、安い町がある。とはいえ、もちろん国の仕組みについて「これで良い」と憲法で規定しておくのは当然だ。




2014年12月13日土曜日

「少数の軍国主義者」が実は純粋で正義感にあふれた好人物だったらどうする?

中国の習主席が南京事件の追悼式典で演説をしたそうである。
習主席は演説で「30万人虐殺の事実の否定を13億の中国人民は受け入れない」と主張。同時に「中日両国人民は世代を超えて友好を続けていくべきだ。我々は少数の軍国主義者が引き起こした侵略戦争により、その民族を仇(かたき)として敵視すべきではない。戦争の罪と責任は少数の軍国主義者にあり、一般民衆にはない」とも強調した。
(出所)日本経済新聞、2014-12-13-12-57

南京事件の在り様については数多くの事実と憶測が提出されていて、事実か憶測かの線引きにも数多くの違いが残されたままだ。

とはいえ、上の演説は全うなものだと思う。特に「少数の軍国主義者」が引き起こした戦争という事実認識については、これまた多くの議論があるわけだが、詰まる所、この認識に間違いはない。調べれば調べる程、そう思うのだな。というより、「少数の軍国主義者」は決して日本の陸海軍で伝統的に主流であり続けた勢力ではない。

★ ★ ★ 

戦前期日本の迷走が1931年の満州事変から始まったという点は専門家も含めて大体合意されつつあるのではないだろうか。

大正期の1910年代から1920年代を通して、日本の政治は明治藩閥・元老から政党へとリーダーシップの所在がシフトしていった。身分格差、資産格差、所得格差を別にして、大きな流れとしては「民主化」が進んだと(小生には)思われる。外交は政治家が行うべきものとされ、まずは国際協調、対英米協調路線が支配的だったと(これも小生には)思われる。

しかしながら『対米追従ではいかん』、『腐った上層部の言うことなど当てにはできん』という純粋な青年は、文字どおり、いつの時代もいるものである。そんな若者に世間は共感するものだ。

そんな若手を直接の部下にもつ中堅管理層も自己利益追求とは無縁の若者達が醸し出す熱気に打たれるものである。

とはいえ、組織的意思決定は最高責任者の判断によって形成されるべきであるし、そうでなければ組織としては機能しない。政治はいつでも人間の生身にも似て汚れ、邪念にまみれ、不潔なものである。純粋な愛国心では政治はできない。

★ ★ ★

警察ドラマでは、大体が係長がまとめ役になり、数人の部下と部長、課長との板挟みになることが多い。出先の所轄を統括する本庁から人が来て『もうこの辺でやめろ』というと、現場の若手が『上からの指示ですか?』と反発するのが常である。

このような情景が、1930年代の陸軍省・参謀本部と出先の関東軍や支那派遣軍との間で何度も繰り返されたに違いない。というか、確認されている事実だ。

しかし、近代軍隊は(警察も検察もそうだが)政府と切り離されて存在はしえない。そして(民主主義国においては)全て行政は政治に従うべきものである(のが理屈だ)。行政機構が政治に優越することがあってはならない(のが理屈だ)。多くの人は反対するかもしれないが、小生はそう思っているのだな。

★ ★ ★

後になってみれば、上からの組織統制をしっかりとやっていれば出先の暴走はなく、日中戦争の泥沼もなく、対米関係の決定的悪化もなかったかもしれない。そんな後知恵もあるのだが、これって『たとえ腐った上層部であっても上の指示には従え」と、純粋で一途な部下にそう言えと。普通の日本人には「そんなことでいいのか」と、納得できない面もあるのだろうが、「止めろ」と言うべき時に「止めろ」と言う。指示に従わない純粋な部下がいれば、規律違反として直ちに懲戒する。これがあるべき姿であった、と。

実は当たり前のこのことが情に流されて出来なかった。戦前期の失敗と犠牲から得た貴重な学習はここにある。最近何度も思った感想はこんなことである。

2014年12月11日木曜日

アメリカの天敵は今もOPECなのか

リーマン危機以前は石油価格が高騰するとアメリカ経済の先行きには警戒信号が灯った。2002年以降の安定成長が、リーマン危機よりもずっと前にピークアウトしていた背景には、石油価格上昇があったことは否定できない。

ところが、だ・・・あれから6年しかたっていないのに、時代は変わってしまったようである。
週明け8日の原油先物相場は一段安となり、米国産標準油種(WTI)は1バレル=62ドル台、欧州の代表的な原油指標である北海ブレント原油先物は65ドル台まで一時値下がりし、いずれも約5年ぶりの安値となった。
 石油輸出国機構(OPEC)が総会で減産見送りを決めた11月末以降、下落基調が強まっている。需要の先行きを不安視した石油メジャーの一部は来年の設備投資を削減すると発表した。
(出所)産経ニュース、2014-12-09-10-00

OPEC減産見送りで価格低下、米シェール業界の投資が抑制される。この道筋は文字どおりアメリカに対する増産戦略牽制、安値戦争の脅し。つまりOPECによるタフコミットメントである。これに対してアメリカは正直に「押さば引け」の戦略的代替関係を身を以て証明しつつある。・・・どうも現在のアメリカは、民間企業も政権も闘争回避の安全路線を基本戦略にしているかのようである。いうまでもないがシェールオイル業界の慎重投資はOPECとの協調をとる選択である。

ところが
【ニューヨーク時事】10日のニューヨーク株式市場は、原油安が重しとなり3営業日続落。優良株で構成するダウ工業株30種平均は前日終値比268.05ドル安の1万7533.15ドルで終了した。下げ幅が250ドルを超えるのは約2カ月ぶり。ハイテク株中心のナスダック総合指数は反落し、同82.44ポイント安の4684.03で引けた。(中略)市場関係者からは「従来は原油安で消費が伸びるという見方から株価が上昇していた。あすの小売売上高が悪ければ、株安が加速するだろう」(日系大手証券)との声が聞かれた。
(出所)時事通信、2014-12-11-07-00

原油安が負のショックになって米株安を誘ったというのだから、時代は変わる、というか
〽 まわる〜まわる〜よ、時代はまわるう
〽 よろ〜こび〜 悲しみ〜くり〜返し〜 
ただ、日本の原発も(いろいろヤジは飛ぶだろうが)再稼働されるだろう。 大体、多くの国民が再稼働に本気で反対しているなら、「再稼働する」とハッキリ明言している自民党が大勝するかもしれないという雰囲気になるはずがない。

ま、選挙は水物であるが、本当に与党が大勝すれば、年明け以降は粛々と原発が再稼働される。日本の原油・天然ガス輸入はピークアウトする。トレンドとして化石燃料依存度をおさえたいという欲求は世界で共有されている。再生エネだけでは足りない。原発施設の増加トレンドに変化はない。そう思うのだ、な。

OPECの安値形成は、参入阻止価格戦略のつもりなのだろうが、もはや市場規模成長の見通しには先が見えている。米国内・シェールオイル資本が敢然と拡大路線をとり続ければ、過剰設備調整に動くのはOPECの方だろう。その前に産油国の団結そのものが維持不能になる。そう小生は見ているのだ。

2014年12月10日水曜日

覚え書—合理的「裏切り」を許せるか、許せないかの国民性

今夜の授業から同僚の担当モジュールになったので大分楽になった。とはいえ傍聴はしたいので、午前の仕事を早めに切り上げて宅に戻ってきた。

食事を終えて昼のワイドショーにつきあっていると舟木一夫が出ていた。『人気は衰えないねえ』、『芝居で主演すると今でも満員になるというからねえ…』、他愛ない会話をする。
○○家にお味方したいという存念は某(それがし)にもござるが、それは某のみの一存にて、それより先祖代々当家が▲▲家からこうむってきた恩義を思えば、某の一存で裏切ることは到底できぬ。お察しあれ…これも浮世の義理というものでござる。
確か、NHK大河ドラマ「毛利元就」ではなかったかなあ。敵将の一人として出演していた記憶がある。その時、よく覚えてはいないが、上のようなことを語っていたと思うのだが…ま、定かではない。とはいえ、上のような台詞は日本人が最も好きな台詞であるのは確かだと思うーおそらく今日でも。

「泣かせるねえ」というヤツだが、合理的に行動する人間に涙を流すことは決してないものだ。正面切った侵略や爆撃より、多分「裏切り」をはるかに決定的に嫌う点で、日本人の倫理観はユニークなのかもしれないけれども、この点を広く検証したわけではない。

2014年12月8日月曜日

修正: 7~9月期速報の「GDPショック」

この7~9月期のGDP速報に関して、先日の投稿では「多くのエコノミストは前期比プラスを予想していたという。ところが2期連続のマイナスとなり驚きの念を隠せなかったようだ」という報道はおかしいと書いた。

その後―この素材は将来予測には格好の題材なので授業の事後課題にしたので-公表された季節調整済系列を使って、すこし丁寧な検討をやってみた。

そうすると違った絵図が浮かんできた。

下の図は前期4~6月期までに基づいて7~9月期の数字を予測したグラフだ。青い点が予測値、赤い三角が公表値である。


本当は4~6月期の二次速報が出た9月時点で利用可能だった数字を使うべきなのだが、そこはヨモダ(つい四国方言が出た・・・)をして、11月速報における4~6月以前を使っている。

7~9月期の事前予測値は前期比でプラス0.07%(年率0.3%)と出た。う~ん、確かにプラスの予想だねえ…。思わず納得。公表値は当初予測値を0.48%下回った。そのために前期比は▲0.4%(年率▲1.6%)に沈んだ。

当初予測値から0.5%下振れするのは確かに大きいと感じるかもしれない。とはいえ、(上図から明らかなように)マクロ経済に伴う不確実性を考えれば、それほどの驚きには値しない。これまた変わらない事実である。

それにしても本日公表された7~9月期・二次速報値ではマイナス幅が更に広がった。7~9月期には負のショックが発生した点について疑いはないようだ。「負のショック」、つまり一過性の予想できなかったショックといえば、やはり悪天候と気象災害が思い浮かぶ。とはいえ、悪天候がどの程度までマクロ経済に影響を及ぼしうるのか?勉強不足でよく分からない。「全国的な悪天候」でなければ影響はローカルなものにとどまり大したことはないはずだ。



2014年12月6日土曜日

妙な納得:午年は荒れる

午年の株式市場は「尻下がり」といわれてきた。縁起的には吉というより凶に近い、そんな印象のようだ。

気になってネットで検索すると、下の記事をみつけた。本年1月6日の日付になっている。
もしかすると、今年は桁違いに日本で大変なことが発生する年になるかもしれません。日本という国全体の占いを見てみると、どれもあまり良くない傾向を示しています。易占い(えきうらない)では「凶」となり、天災の危険性を示唆しました。また、五行においては、午(うま)は爆発や銃火をもたらすとても力強い火のエネルギーであるため、午年である今年は大きく荒れる可能性が高いです。
(出所)http://ameblo.jp/sekainosyoutai/entry-11744350318.html

干支といい、易といい、一種の経験則なのだろう。ビッグデータもよくいえば統計的な真理を探究するのだが、要は<漢方統計>であるようでもある。

振り返ってみると、冬の東京で降った大雪、夏の猛暑、御岳山の噴火、阿蘇山の噴火、尖閣諸島と小笠原、そして年末解散と世は騒然としている。世界ではクリミア、ウクライナ東部、シリア、イスラム国、そしてアメリカ中間選挙で与党大敗。大変な一年であったのは確かだ。

やはり「午年は荒れる」か・・・。

小役人をしていた時の同期の一人が次官になった。「上がり」である。愚息は、どこが気に入ったかまたその同じ界隈で仕事をし始めた。 今日届いた葉書によれば、役所に入って初めて仕えたO課長補佐、その後は審議官で退き某国立大学で教授を続けていたが、亡くなったそうである。まさに悵然たる思いを禁じ得ず。

また、本日は同じ年に着任した同僚HSさんの父上が亡くなられその通夜が深川であった。事情が許さず参列はかなわなかった。

小生も齢をとるはずだ。「代替わり」だと言うなら、これもまた「時至りて実りあり、またよろこばしからずや」、その一つの形なのか……。が、やはり寂しくて仕方なし。

2014年12月2日火曜日

選挙戦: 政党に差別化はあるか?

利益を高める製品差別化には「最大化原理」というのがある。

顧客満足を形成するうえで最もウェートの高い次元においては差別化を最大化する。思い切って違いを出す。そうではない細かな次元については差別化を最小化する(=同質化)する。それが理に適っているという定理である。

いま進行中の選挙戦では各政党が-もうマニフェストという呼称は下火になったが-自党と他党との違いをアピールしようと一生懸命のようである。がしかし、と同時に、なぜここで一歩踏み込まんかなあ…と、そんなイライラ感にも似た欲求不満的もどかしさ。そういう複雑な感覚をも覚えるのである。

要するに、だ・・・

民主党: ほんとうはカネをばらまきたい。というか、特に低~低めの中所得層に手厚く給付をしたいのだと。この国で暮らしに困っている人を支援する責任は政府にある。口の端々にそう言いたげな雰囲気が伝わってくる。だから本当は「増税」したい。すぐに増税すべきだと。そう言いたい。だから野田政権ではそう決めた。集めた財源で教育や社会保障を増やしたい。ホントはそうなんでしょ?ハッキリ言った方がいいと思うのだ、な。 「増税は期限をつけずに延期」。これは自民党との違いを出すための「苦肉の策」である。そうなんでしょ?ほんとは言いたくないのじゃないですか?
自民党: ホントはとにかく企業減税をしたい。そうなんでしょ?社会保障なんかより、企業が大事。ホントはそう考えているんでしょ?企業がビジネスを拡張すれば雇用が増える。仕事が増える。政府がカネを渡すより、自分で仕事を見つければもっといいじゃん。それが本音なんですよね。だから、ビジネス環境をよくする。これが第一。法を重視して、国際平和を重視する。国防は平和維持には必要だ。本当はこれを言いたいんですよね。 
共産党: 消費税に反対しているようですけど、富裕層や企業への資産課税を強化する。そうすれば日本国内からいくらでもカネは集められるよ。集めた金を低所得層に渡せばいい。何しろ人数が多い。一度これをやれば、共産主義がいかに公平で良いシステムであるかが分かってもらえるからね。政権は安定だ。本当はこれをやりたいんでしょ?

公明党、その他諸々の政党はいいだろう。

大体同じようなことを言っている政党ではあるが、本音を語らせれば、本当は目指す方向に大きな違いがあると。感覚ではそう感じるのだが、どの代表者もズバリ本音を言わない。

それは平均的日本人は「ばらまき」を嫌うし、「企業優先」も嫌う。だから国民から反発されないように、特に選挙期間中は言いたいことを我慢している。見え見えなのだな。そこが実にもどかしい。

中には『消費税率を上げるなら、まず公務員の給与を2割下げる。身を切る。これが先でしょ!』と。…広く社会保障を充実するため消費税を上げよう、みんなで負担しようという時に、なにゆえに警察官を減給しなければならないのか、なぜ判事や自衛官の給料を下げるのか…。(何度も言うが)バカではないかと。単に税金を払いたくないだけだろうと。そんな社会保障であるなら、別に充実する必要もないだろうと。カネがかかりすぎます。助け合いなら感謝もしようが、いやいや負担するような年金などは結構ですと。そう小生は思ったりするわけだ、な。いや思わず、力が入ってしまった。

ただ、まあ『そこまで言っちゃっちゃあ、身も蓋もないってものですよ』。だから、穏便な政見表明になっている。それは分かるのだが、こんなフワ~ッとした打ち出しで選挙の機能を果たせるのだろうか?

2014年11月29日土曜日

「GDPショック」:この大きなウソ

この7~9月期のGDP速報は専門家の予想をはるかに下回るマイナス成長というので大きなショックをもたらしたと、今なお波紋が続いているようだ。

確かに7~9月期のマイナス成長は喜ばしい数字ではない。しかし「予想をはるかに下回る」というのは真っ赤なウソであると。そういわざるを得ないのだな。

★ ★ ★

たとえば9月時点で4~6月期の二次速報値までが利用可能だった。その9月時点のデータからボックスジェンキンズ法を使って7~9月期以降の予測計算をしてみた。結果は下図のようになる。


使用したデータは実質季調済の実額である。予測期間は7~9月期以降1年間。図に見る通り、7~9月期は前期比マイナスと出る。

これはRのパッケージ"forecast"でauto.arimaを使った結果である。図のタイトルにあるように、季調済系列にはないはずの季節成分を調整している。季節成分をとり切れていないということだが、念のためにデータを対数化して同じ計算をやってみた。それが下図である。

対数化した実額には単純な"order=c(1,1,0)"が当てはまる。やはり7~9月期は前期比マイナスである。予測された実質季調済前期比は▲0.37%である。ほぼ公表値と合致している。

下の図は11月に公表された速報の4~6月期までを用いて7~9月期以降を予測した結果である。但し、季節調整はGDPを対象に手元のX12Arimaで別に行った。だから公表値と完全には合致しない。

予測は上と同じ。Rの"forecast::auto.arima"による。実額だと、やはり、とりきれなかった季節成分を検知してしまう。


図に見るとおり、7~9月期のマイナス成長は事前に予測可能だった。というより、上の図の予測値(青)と実績(赤)は非常に近接している、つまり「7〜9月期のGDP速報はほぼ予測どおり」であったことになるわけで、この点は9月時点の予測も同じである。

★ ★ ★

ほとんどの専門家はプラスの前期比を予想していたときく。が、ここで示した予測計算はデータがあればほんの1分でできる。専門家が怠っていたはずはない。結果をみれば「マイナスもありうるか」と、そう思ったはずである。まして、大きなショックを感じるはずがない。それ故、エコノミストが受けた「GDPショック」は真っ赤なウソであると感じた次第である。





2014年11月27日木曜日

参院選違憲判決の意図せざる政治性

昨年の参院選は一票の格差から「違憲状態」にあったとの最高裁判決が出た。

最近の違憲判決の流れから見て、これ自体は予想の範囲にあった。が、こうした姿勢が裁判所にとって賢明なのかどうか。疑問ではないかと、小生、考えるのだな。

★ ★ ★

違憲状態をもたらす主因として、まず衆議院小選挙区については全都道府県に定員1名を割り振り、あとは人口に比例して定数を決めるという方法。これが大いに問題だとしている。まあ最高裁の持論なのであるが、定数配分方式にまで踏み込んで違憲判決を出してきている。今回の判決は参院選挙であるのだが、要するに有権者一人当たりの定員に格差がありすぎる。そういう主旨である。

司法府が数字の大小をみて、そこまで言えるか、と。この点である。

★ ★ ★

日本人が暮らしているのは経済活動を通じてである。法より前に暮らしがある。

その経済活動には農業や林業のような土地集約型産業もあれば、製造業、サービス業など労働集約型産業もある。地方では農産物を生産し、大都市ではサービス業に特化するのは経済の理屈に合っているのだ。

最高裁判事の思考に沿えば、農業地域は人口が希薄だから議員定数は少なくとも良いということになる。結果として大都市で大都市型の経済活動に従事している人たちの意見が政治に反映される傾向になるだろう。

それ故、最高裁が展開しているロジックは、一つの経済政策であり、極めて政治的である。

ひょっとすると、TPPに反対する国内農業団体を牽制するコミットメントとして違憲判決が次々に出ているのではないか。水面下で政権から最高裁に何らかの圧力がかかっているのではないか。そんな邪推もありうるのではないか、というより「ありうる」と書いてしまう本ブログが現実にこうしてあること自体が、最高裁判決の正当性に影を投げかけるように思う。慨嘆に値すると思うのだね。

都道府県に一名の定員を割り振る、というか地域間の平等を図ることの是非は、本来、憲法の段階で(具体的に、あるいは理念として)明記しておく方が適切である。一名の定員を各地域に平等に割り振ること自体が正義に反するとは、小生、どうしても思われないのだ。

それにしても、地元の北海道新聞が「違憲判決」を喝采(?)し、国会の怠慢を指弾しているのは一寸、というより大変に滑稽である。東京新聞がそう書くなら理屈にあうが、道新がねえ…。ほんとに分かっているのかなあ…。そんな風に読んだ。

【追記】ちなみにアメリカの上院は各州とも定員2名で「州」という地域について完全に平等だ。州別の人口をみると最大のカリフォルニア州が3387万人、最小のワイオミング州が49万人(2000年センサスによる)。一票の格差は69倍に達する。それでも違憲にはならない。なぜなら憲法で各州平等の定員が定められているからだ-他方、下院は人口に比例して定員が配分される。これも憲法に定められている。日本とアメリカでは地域の独立性や国情が異なるだろうが、民主主義と選挙を考えるうえでは大いに参考とするべきだと思われる。

2014年11月26日水曜日

いまどきの経済評論-丁寧に議論することが丁寧なわけではない

何年か前になるが小生が担当している統計科目の授業評価で、定型的な質問項目のあと、こんな自由記述を頂いたことがある。
分かりやすく説明しているつもりでしょうが、かえって分かりにくくなっています。
学部授業を担当していた頃を思い出しても、こんな回答をもらったのは初めてだったので、ややショックであった。『そうかあ、分かりやすく説明すること自体は良いことなのだろうが、それは聴く相手にとっては不親切。そういう可能性も確かにあるよなあ……』と、こんな反省をしたわけだ。

消費税率再引き上げ時期を1年半延期するという安倍内閣の判断。これをめぐって多くの評論が出てきている。全部を読む価値はないと思うが、たとえば好例としてダイヤモンド・オンラインの『消費増税先送り“YES”or“NO” 主要な対立点を整理する』がある。

日数がたてば「Yahoo!ニュース」から削除されるかもしれないので、論点だけを整理しておきたい。記事はこんな風にまとめられている。
  • 第一の論点は「経済再生が先」か、「財政再建が先」かである。アベノミクスは周知のように(1)大胆な金融緩和政策、(2)機動的な財政政策、(3)成長戦略の3本の矢から成り立っている。
  • 二番目の論点が、財政つまり日本政府への「信認」が低下するかどうかだ。
  • 第三の論点は、消費税の再引き上げを前提としていた政策が影響受けるという点だ。12年8月に成立した消費増税関連法は、社会保障と税の一体改革を目的としたもので、消費税率の引き上げが前提となっている政策も多い。
確かに丁寧な考察と丁寧な論理構成ではあるのだが、相当の経済センスをもったハイレベル・ビジネスマンでも「・・・で?」と思わず言いたくなるのではないだろうか?

『ま、要するに、これは中々難しい問題なんですよ』。どんな専門家もそうだが、そんな結論を下す医師がいれば患者はそのうちこなくなるものだ。

経済政策とは、日本の経済戦略であり、戦略である以上は目的がある。その目的を達成するための一連の行動計画が戦略である。そして、戦略を構成する一段階ごとの行動が戦術に当たる。なので、いまどんな行動をとればよいのかを検討するときは、戦略に沿った行動をとる。そんな話になるわけだ。

評者が経済政策を論評する時は、まず理念・目的を確認したうえで、戦略を二つの選択肢に整理したほうが分かりやすい。上策と下策、現行戦略自体を批判してもいいだろう。そして、今回提案されている「消費再増税の1年半延期」は戦略変更には該当せず、戦略的後退という戦術であると思われるので、その戦術の適否を論評する。『一年半延期+一年半後に必ず税率を上げる』。この戦術変更は現行戦略と整合するのか?こういう議論になるのではないか。

丁寧だが、分かりにくい説明は多くの場合、「だから何?」が欠けているためである。

2014年11月25日火曜日

メモ − この経済音痴ぶりはなぜか

いま「不況」だと野党は言っているようだ。大衆系週刊誌も「不況」だと書いている。

しかし、政府が意図的に不況にしようと考えるはずはないわけで、そもそもそんな政策は公約違反だ。

消費税率は引き上げる。財政支出は増やさない(そもそも国債発行を減らすのが目的だから、増税+支出拡大では元も子もないわけだ)。この場合は、家計の手元に残るカネが減るので、消費が落ちるのは当たり前だ。増税が景気を悪化させないようにするには、同時にどんな需要を増やすかを考えておかないといけない。ここの配慮が−財政再建原理主義者が政府部内で強い影響力を持っていると想像するが−足りなかった。そんな所だろう。財政再建自体が景気にプラスだと説得するのは、余りに精緻な理屈をこねる必要があり、説得は極めて困難なのだな。財政再建は景気というより、長期的に見た日本への国際的信頼を高め、投資や起業を活発にして潜在的成長力を高めることに戦略的意図がある。社会保障を充実させるためというが、そもそも財務省には今以上に社会保障支出を充実させる意志は希薄だとみている。増税の目的は財政再建。ここでウソをつくべきではないだろう。

「アベノミクス」というのは、現政権のマクロ経済戦略で一定の行動方針のことを言っていると理解しているが、その道筋は

  1. デフレ脱却 (← 物価 ← 量的緩和・金融政策)
  2. 財政健全化 (← 消費税率引き上げ+インフレ)
  3. ビジネスに優しい制度改正

この三本柱を順に実施していく。戦略の目的は「潜在的な経済成長率引上げ」だと言っている。こんなところではないか。

これに対して、先代の白川日銀の狙いは少し違っていた(ように見ていた)。高齢化が進む債権大国・日本がとるべき道として<通貨の信頼性>に重きをおいていた。ところが、日本の金融政策が世界から評価されることで<円高>が進む。円高は円ベースで資産を有する高齢世代には優しいが、デフレは持続しがちになるー実はドルベースの資産も減価する。そのデフレは短期的には実質金利を高く意識させるのでビジネスには厳しい。とはいえ、デフレは物価の低下。商品価格が下がったと(短期的には)錯覚する人もいるが、長期的には重要ではない。こんな見方であったに違いなく、これまた一つの完結した経済戦略である。そう見ていたのだな。

どちらも将来の日本人の暮らしを守る戦略にはなっている。あとは日本人がどちらを選ぶかである。どちらが目的を達するのに効果的な戦略か。それがディベートの論題だ。ところが<伝道者>なり、<啓蒙者>がいまの日本には不在なのだ、な。そもそも政府の経済戦略を分かりやすく伝えるはずの『白書』がずいぶん難しい本になってしまった。官庁エコノミストという職業集団もほぼ消滅した。

いまいるのは足元の景気が上がっているのか、下がっているのか。そんな景気判断をするエコノミストである。景気判断は確かにニーズのある専門家サービスだからなくなることはない。

独自の・自分だけの意見を発表して、専門家の世界で自分が占めるポジションを上げたところで、社会的なインパクトは誤差の範囲である。本来はいずれかの陣営に分かれて論争するべき問題が、実は目の前にあるにもかかわらず、専門家は論争せず、自分と他人の違いを説明することを考えている。論争しないから普通の人たちも路線選択を迫られていることに気がつかない。間違いを正そうと。そんな原始的な発想でニュースを聞いている。

政治家やマスメディアの経済音痴の背景には、専門家の論争回避、論争をして負けるというリスクを避ける。こういう安全第一の姿勢が遠因であると。そう見ているところだ。せめて経済閣僚同席の場で、あるいは国会の公聴会という場で、経済専門家が二つの陣営に分かれてディベートする。そうすれば、直観にすぐれた政治家は”御前試合”の成り行きをみて、どちらが信頼に値するかを悟るに違いない。いま為すべきことは<決着>をつけて、その結果を国民に広く語り、最終的な目的とそのための戦略を国民が意識として共有することだろう。

このようにしても直ちに理想的な経済戦略が採用されるとは限らない。しかし、少なくとも「社会保障充実」と一方で唱えながら、一方で「暮らしを守るため」に家計への増税には反対、国債増発にも反対、企業には増税を、と。こういう愚かな大衆扇動型の政党を淘汰するには極めて有用なはずである。

2014年11月24日月曜日

小さい政府 vs 大きな政府。こんな論争がなぜ起こらない?

この年末もまた選挙と政治の季節になった ― というより、ちゃんとなっているかねえ…。

今回のテーマはアベノミクスに対する信任投票であるというが、これは安倍政権による「注文相撲」であるのは分かりきったことである。

★ ★ ★

この7~9月期の実質GDPは、確かに季節調整済み前期比で2期続けてマイナスとなった。実は、塩をキズに塗り込むようだが、原系列の前年同期比でみると、より際立った落ち幅となっている。

7~9月期の前年同期比はマイナス1.3%。4~6月期は消費税引き上げの反動があった(はず)とはいうものの、前年比ではマイナス0.2%の微減にとどまっている。

記憶にも残っているだろうが、小売現場では税率引き上げの反動減を先読みして、4月に値下げセールを設定するなど価格設定には工夫がされていた。それで年度末をまたいでもそれほど客足は落ちなかったのである。報道でも何度か伝えられていたはずだ。

とはいえ、前年比にみる7~9月期のマイナスが長期的な目で見てそれほど惨憺たるものではないことも明らかだ。

というより、アベノミクス云々によらず、日本の経済成長力はこの20年間ずっと同じである。

成長力が同じである。これは当たり前なのだな。何も成長力を高めることをしていないからだ。

……カネをばらまいても、日本人の仕事ぶりが実質的に変わらなければ、生産される価値は同じであり、経済は成長しない。

カネをばらまくのは廃業と起業の新陳代謝を加速する。これが目的だ。ところが、別の方向から、日本経済にイデオロギー的なギプスをはめる。こんな逆噴射をすれば、国内にはカネだけが増えて、株価が上がる。そのうちに物価も上がるであろう。

物価が上がれば賃金も上がるだろうが、賃金が上がれば物価も上がる環境にある。つまり、実質賃金は増えない。生活水準はあがらない。生活水準は仕事の中身を変えて生産性を上げなければ向上しないからだ。仕事のやり方を変えるには、世代交代が定石だ。その経路も高齢者の雇用確保で機能不全になっている。

いま日本では、本来は社会保障政策として解決するべき問題を、政府がビジネスを規制する、ビジネスのやり方に介入する手法で何とか対応しようとしている。そうできるのは、企業に対して中央政府の権力が強すぎるためだ。というより、ビジネスの声をきこうとする国会議員をマスメディアが批判するからでもある。

結果として、ビジネス現場の効率性が停滞し、所得が停滞し、暮らしも停滞する。暮らしを支える所得は、ビジネスが生むのであって、政府はピンハネしているだけでカネは本来何も持っていないのである。豊かになるには、政府に要求するより、ビジネスを育てるしか道はない。マスメディアはしばしばその事実を忘れる。

★ ★ ★

上図でタテに引いた点線は、安倍内閣誕生が事実上内定した2012年第4四半期を示している。成長力は何も変わっていないが、株価は以下のように推移してきた。

2012年末から2013年の初夏に至るまで信じられないほどのラリーを続けたわけである。

当時の世界的な報道を見ても、黒田日銀総裁によるバズーカ砲(=超量的緩和)と「デフレ脱却」をかかげたアベノミクスが、相当の期待を形成したことは間違いない。多くの国は日本経済が活性化することを喜ぶ。外国にとっても日本経済の活性化は利益になるからだ。




しかし、上に述べたようにアベノミクスによって、というより黒田日銀総裁の<バズーカ砲のみによっては>日本経済は活性化しない。このことが明らかになってきている。雇用が改善したというが、増えたのは非正規労働者だけである。野党の批判はもっともなのである。

★ ★ ★

しかし、『当社の株価はずっと下がってますが、社員一同ハッピーに仕事をしていますヨ』と、そんなことをいう経営者は結局は無能である。

株が下がっても、日本企業はみんなハッピーで、非正規労働者も正規労働者になった。一件落着だよね、だからいいんだよね・・・とはならないわけである。

株価は上がったのだから、今後為すべきことは、カネではなくモノの次元。つまり仕事の中身、規制や安全管理、健康管理など仕事のルール、その他の諸々の行政上のシステムを変えていく。残っているのは実はこれだけである。しかし、時間がかかる。全般的にやり遂げるには10年から15年はかかる。新幹線計画並みの根気がいる。

日本と外国を同じシステムにするか、世界市場以上にビジネスにとって有利な制度にしていく。もはや成長にはこれしか道がない。それが理屈なのだが、これをやると生活基盤を奪われる国民が少なからず出てくる。それでも多くの人が助かるなら仕方がない、と。

まあ、こんな風に損得勘定に徹底できるかどうかは、やはり危機感というか、「生き残るためには何をいま為すべきか」と、こんな感性を日本人が共有しないと経済成長は難しいのだ、な。

ま、難しいならこれ以上の豊かさを諦めてもいいわけだ。

こう考えると、率直に日本人がいま為すべきことを語っている政党がひとつもない。これには呆れ果てるばかりだ。某政党などは『まず国会、霞が関が身を切らないといけない』と、そんなことをまだお経のように唱えている。バカではないのか。ほんとにそう思います。

当たり障りのない世間話をしながら選挙をしている。なので、小生、今度の選挙は「井戸端選挙」と言うことにした。本来あるべき「世直し選挙」とは全然別である。為すべきことを率直に語って信任を問うているわけでもない。だから「信任投票選挙」でもない。

2014年11月23日日曜日

人間が変わらないなら、人生は昔も今も似たようなものだ

昨日は本務先の卒業年次生による中間発表会があった。通常授業のように内容の理解を求める場ではないものの、小生も採点員、一部セッションの司会役など、役割の一端を果たしている。

大学で仕事をするのは、企業や官公庁で働くことに比べれば、はるかに楽な仕事である。人によっては、そんなことはない、24時間考えているのだから休みなどはない等々、色々な反論がありそうだが、両方を経験した本人がそう感じているのだから仕方がない。

仕事がそもそも上から降ってくることがない。ザックリといえば、これこそ『大学の自治』である。この一点だけをみても大学は楽である。

それでもこの年齢になると、様々な不満をもったりするのだ、な。ハッピーだという理屈はあるんだけどね。満たされない感覚があるならそれは煩悩なんだけどね。罰があたるんだけどね。わかっちゃあいるが、不足を感じる度合いは一向に減らない。持て余すような心情は確かにある。『もっと大きな仕事ができたのに』とか、『あそこであんな雑用を引き受けなければ貴重な▲▲年間を無駄にせずに済んだ』とか、誰に言えばいいのか分からないことで、言わずに我慢してきたことは誰にでもあるだろう。何をするにしても、人間、そんな気持ちをもつものだ。そういう生物種なのだ、な。

言いたいこともあるだろう。
怒りたいこともあるだろう。
泣きたいこともあるだろう。
・・・
これらをじっと黙って耐えていくのが男の修行である。

全部覚えているわけではない。正確に覚えているわけでもない。ただ、「耐えていく」と言っている位だから山本五十六も普通の人間だったのだろう。それにしても、高倉健という俳優は軍服というか、制服がよく似合ったねえ。

仮に、昔の仕事を続けていれば、続けたなりの結果は出せただろうが、その時はまた人の裏切りや、妬み・誹りを甘んじて受けるという責め苦があったろうし、それより自分の胸中に醜い野心や名誉欲が湧き出すのを止められなかったに違いない。権力への阿諛を覚えずなしたに違いない。そんな騒々しい心こそ「不幸」そのものだと昔から定義されている。

結局はその人間の出来・不出来がその人の人生のアウトラインを決めてしまう。そう思うことが増えた。人生の岐路でどんな選択をするかで具体的中身は変わるし、寿命さえも運・不運によるところが大きい。が、どうなるにせよ特定の時代に、特定の育ち方をして、特定の社会を生きる一人の人間の生は、互いに似ているものだと思う。<英雄>や<先覚者>は実在した人間とはあまり関係ないのだと思う。

どうも暗いことを書いてしまったなあ・・・。「憂鬱」という奴か。

2014年11月20日木曜日

Google Visualization API の1回目のトライアル

以下はGoogle APIの試行である。
まだ細部の使用法はあやふやな箇所があるが、とりあえずモーション・チャートをR:googleVisで作成して保存し、tag='chart'部分をここにペーストするだけだ。 マニュアルを丁寧に読まないといかん。

2014年11月19日水曜日

「今でしょ!解散」―目に余る野党の体たらく

安倍総理が衆議院解散という勝負に打って出た。まあ、政略的には抜き打ち、というか奇襲である。一応は大義名分を掲げているが、要するに「勝てるのは今だ」という戦略的判断であろう。

現政権の今後の見通しについては、民主党が「政治とカネ」を攻撃目標に定める選択をして、いくつか功を奏したことから、小生は予想のとおりと判断して以前に投稿したところだ。こんなことを書いている。
あとは消費税率を予定通り10%に引き上げて体力を使い果たすか、未練に迷い何もかもを後回しにして、結果として指導力を喪失し、そのまま消えていくか。現政権の行方はこの二つのうちのいずれかではないかと予想する。(2014年10月28日)
消費税率引き上げに原発再稼働があり、更にTPP(オバマ政権にもうまとめる力は残っていないかもしれないが)での妥協がある。先細りで追い詰められて解散に追い込まれるより、余力のある「今でしょ!」という思いなのだろうか。

小生、今回の解散は『今でしょ!解散』と呼びたい。

 これに対して、野党は「大義名分がない」、「党利党略というより、総理の個利個略だ」、「自分勝手だ」等々、一斉に反発している。それにまた、野党系マスメディアが「その通りだ」と、甘やかすような提灯記事を掲載するのだ、な。

情けないねえ……。

選挙はしばらくは無かったはずである。それが予想外の時機にやってきた。奪われた政権を奪還するチャンスが向こうからやって来たのだと。なんでそう発想しないのだろうねえ。『飛んで火にいる夏の虫-いや秋の虫か、ヨシ!受けて立とうぞ!』と、そう勢い立つ野党が一党だに見られていない点にこそ、今の日本社会が象徴されている。日本政治の大きな柱たるべき野党の体たらくを明瞭に見ることができる。そう思うのだな。

× × ×

自民党幹部がよく口にする「常在戦場」の四文字は自民党の専売特許ではない。河井継之助や山本五十六を産んだ越後・長岡藩が三河以来250年間伝えてきた藩訓である。ある意味、公職に身を置く人間として持つべきスピリットではないだろうか。

こんな風では、与党が勝っても、野党が勝っても、なすべき問題解決はできない ― いや、与党が勝てば、信任されたということで、現在の政治方針に沿って押していくということになるだろうなあ。それも、問題あるんだけどねえ…と、今はそんな風にみているところだ

2014年11月18日火曜日

WEBで結果公開が時代の流れ-Rとplotlyの試運転

ネット上で作図したグラフを公開する仕掛けである"plotly"をインストールした。手元で作図する言語はRでなくともよい。PythonでもMatlabでもよい。が、まずPlotlyに登録し、API利用のAuthentificationを受けておく必要がある。この辺の説明は非常に丁寧なので、説明の通りに進めて以下のグラフを得た。


動的なグラフをWEBで公開するには、この他にGoogle APIも利用可能だ。これについてもRにインターフェースが提供されている。 

ずっと以前には、統計分析の授業をパワーポイントと同期させながらビデオカメラで収録し、それをオンデマンド授業としてストリーム配信する実験をやっていたものだ。もう何年前になるか……?2005年か6年前後のことだと思うから、既に10年も前になる。

当時の目標は、フリーで視聴できる授業を多科目編成し、いわばネット上の「フリー・ユニバーシティ」を立ち上げるというものだった。パワポと同期化した動画ファイル編集には結構高額なソフトを必要とするなど、カネのかかる試みでもあった。 こういう先駆け型かつ労働集約型の研究は、やはり大都市圏に圧倒的優位がある。何か変なことをするのでもヒトが集まるのだな。北海道にいると、そもそも人が少ない。(関心をもつ人を探したのであるが)どの研究者も遠隔授業配信には興味をもたず、そのうちに小生自身が疲弊してきて、ついに止めてしまった。

当地に移住して色々なことに挑戦して、その時々、満足できる収穫を得てきたが、いまでも残念に思っているのは、フリーユニバーシティ構想である。アシスタントを雇用する資金が提供されていれば、周囲の関心が高まるまで何とか続けることもできたのだろうが、科研費というのは必要なときには支給されず、多くの人がやっていて「これは大事だ」という計画にはカネをつける。そんな仕組みであるな。「何の役にも立たなかったねえ」……、役人仕事であると、今ではそう思っている。 ま、フリーユニバーシティと同じで、はるかに大規模な構想である"Gakko"が既に立ち上がった。これから後はビジネスである。

それで随分、ネット経由の成果公開には関心が失せていたのだが、その間に随分便利なツールが登場したものだ。面白い。

2014年11月16日日曜日

結局は「組織」より「人間」なのか

企業にはそれぞれ社風がある。堅く言えば上下の権限格差(=椅子の大きさの違い)から個人に与えられた裁量範囲(=その人でなくとも話しが通じるか)ということになるだろうし、日常のイメージで言えば「理想的な▲▲マン」に企業文化は象徴されているものだ。

社風はどうあれ、やはり人間集団が曲がりにも組織化され、特定の目的が追求されているなら、指導的地位にあるものが実際に組織を動かしているのが望ましい。というか、分かりやすいと思う。

西浦進「昭和陸軍秘録」(日本経済新聞社)が評判らしいから読んでみた。西浦進は著者というより、東大の研究会が何度かインタビューを重ねた記録が本になったものだ。同氏は、満州事変以後の「昭和陸軍」を主として陸軍省軍務局軍事課から身近に見ており、太平洋戦争開戦時には東條首相兼陸相の陸相秘書官の任にあった。戦後は陸上自衛隊幹部学校戦史室長、やがては防衛庁防衛研修所戦史室長を勤めた人物である。

読みどころは多々あるが、やっぱりねえと感じたのは、「私は陸軍省で役人のような仕事をやってまいりましたが、夢はやっぱり馬上で指揮刀をふるって連隊を指揮したかったですよ」という所だ。文章をそのまま引用しているわけではないが、その組織が理想とする人物モデルというのはどこにでもあると。同じだねえと小生も非常に共感したのだな。

昭和6年に満州事変を起こした石原莞爾が参謀本部第一部長になっていた昭和12年、盧溝橋事件を発端に日中戦争が始まった。最初の時期に不拡大を基本戦略にしようと考えたのが石原部長だが、現地に赴いた所、かつて満州事変を見事に「成功」させた石原を模範としているのだと反論されて絶句したというエピソードは有名だ。

「ここで仕事をするなら■■さんのようにやってみたいものだ」、こんな目標は誰でも持っているだろう。それが「組織」ならどこにでもある「企業文化」であり「社風」であり、それが本質的に間違っているなどは中にいる個々人には思いつかないものだ。というより、そんなへそ曲がりは「異端者」として排除されるだろう。

西浦秘録でもう一つ、「組織は誰かが動かしていますから。トップの師団長が立派な人物ならトップが動かします。しかし、人間集団ですから。参謀長が自分より先が見える、そう思えば師団長は参謀長を重んじますよ。結果として参謀長が全体を動かしていきます。一番有能な人間が誰かというのは、顔の見える範囲であれば、いつも話している中で分かりますから。あいつならどう考えるかと。結果として有能な人物が重んじられます。それを下克上というのかどうか……」。これも文章をそのまま引用しているわけではないが、こんなことも言っている。大学という組織は個人商店街のような所だから違うのだが、ずっと昔、小役人をやっていた頃は確かにこうであった。戦前も戦後も同じだねえ。そう感じたのだな。

ここにこそ「年功序列」の弊害がある。「能力主義」で人事を動かすべきなのだ。まだ深く研究しているわけではないが、そんな単純な結論にはならないと感じる。

2014年11月15日土曜日

「戦争」と「交戦状態」

日本の近現代史を勉強していたときは「▲▲戦争」(日露戦争ほか)があると思ったら、「○○事変」(満州事変ほか)がある、更には「■■事件」(ノモンハン事件ほか)もある、まったく訳が分からぬという感想をもったものだ。この辺り、英語でも各種の交戦状態を区別し、使い分けているのだろうか……。日本の場合は、国際法上の宣戦布告をしたかしなかったか、ローカルな武力紛争であるか、参謀本部の作戦計画によるものであったかなど、手続き上の線引きが一応はあるらしい。

近代以前の戦争は皇帝や王の戦争だった。なので一方の君主が亡命したり、継戦意志を放棄すれば、そこで(一つの)戦争は終結した。軍隊は君主の軍隊だから、一般国民とは区別されていた。第一次大戦で独王ヴィルヘルム二世が亡命した時、ドイツ軍は崩壊したわけであり、ドイツ国民の敢闘精神と戦争の有無とは区別されていた。この辺のロジックはロシア革命前後のロシア軍のポジションとも共通する。

君主制国家から民主主義国家になり、戦争は君主ではなく国民がするようになってからは、戦争の終結と戦争責任が曖昧になった。

いや、そもそも日清戦争の開戦前、君主であった明治天皇は『この戦争は臣下の戦争であり朕の戦争ではない』と言ったそうな。臣下が戦争を引き起こしたとすれば「統帥権干犯」にあたる。しかし、この件が大事件になることはなかったようだ。

もし日清戦争で日本が敗北していたとすれば、「戦争責任」の所在で激論が展開されただろう。


2014年11月14日金曜日

Python(x,y)をインストールしたのだが…

統計教育に使う基本ツールは、ずっと昔はFORTRAN(というより付属する数値計算サブルーチン集)だった。学生時代に導入セミナーを聴いてみたが、1から100までの合計(=5050)を計算して印刷するのに、なぜこんなに面倒な段階を経るのか、さっぱり理解できなかった。紙で筆算した方がずっと速いのだね。ま、1から100万までの合計計算なら「電算機」とFORTRANがいかに強力であるかを思い知ったと思うが−いやいや、等差級数の公式を使えば、これだって30秒もかからぬ−そもそも昔の大型電子計算機のメモリーなど何メガという容量でしかなかった。計算速度も遅かったので、多数桁の合計を指示すればCPU使用料がバカにならない額になり、他の利用者にも迷惑だ。で、「まずは1から100までを合計してみましょう」という実習をしたのだと、今になってみれば思う……いや、ホントに意味なかったねえ。

その後にSPSS時代がやってきた。いまでもあるが、FORTRANで300行ほども書くところを、SPSSでは10行くらいになるだろうか。素晴らしい時代がやってきたものだと感じた。ただ、自分でカネを払う学生時代は、そうそう電算機でデータ解析をするなど、贅沢の極みだったのだな。なので、小生の最初の商売道具はポストSPSSの一番手"SAS"である。関西方面の某大学に出向扱いで籍を置いてからも、ずっとSASを使い続けたが、その頃は大学の統計教育は何を使っていたのだろう。SASというデータ解析システムは、結構、高額のレンタル料を毎年払わなければならず、卒業してからもずっと使い続けられるようなツールではない。便利だからといってSASで統計教育をするなど学生個々人にとっては不親切の極みであったろう。

小生が大学という場で統計教育を担当するようになってからは、SPSSやSASよりはずっと安価なエクセルの分析ツールを使ってきた。このエクセルのアドインソフトは統計専門家には悪評サクサクなのだが、エクセルなら卒業後も使う人が多いし、分析ツールは必ずついてきていた。日常的にやる分析手法くらいなら検定から回帰分析まではいっているから、大体は「分析ツール」で済む。この辺の事情はアメリカでも同じだったと見えて、初級者向けの統計学テキストでもエクセルの分析ツールが道具として使われていた。

その「分析ツール」もマック版オフィスには搭載されなくなり、めっきりとユーザー数も減ったとみえる。この2、3年で大学の統計教育ツールはフリーのRに全て置き換わってきた。そのようにもう断言してもいいのではないか。日本でこうなのだから、アメリカ、欧州など海外ではもっと先を行っているだろう。最近では寧ろSPSSでもR言語が通るようになってきたが、これも時代の流れだ。学生時代に教わったツールは、卒業後もずっと使えるなら使うものだ。ビジネスの現場で−基幹業務のインフラ構築はともかく−Rが浸透してきているのは、単にそれが流行しているからではない。Rに慣れた人が量産されつつあるからだ。こうなるともう時代は後戻りできない。統計ツールはRで決まりである。

とはいうものの、というか、にも拘らず、小生、科学計算分野であまりに評価の高い点を無視しがたく、ついにというかやっと"Python(x,y)"をインストールしてしまった。で、使い始めたところなのだが、『こんな冗長で長ったらしいコマンドを入力させるソフトがなんで流行るのか?』と。ズバリ、そんな感想である。データ解析に至っては、すべてRでできる。それも短い入力で簡潔にできる。逆にRでできるデータ解析でPython(その内のNumPy、SciPy、MatPlotLibという方が正しいが)にできないこと(≒したくないほど面倒臭いという意味)は無数にある。それでもPythonの利用者急増ぶりは目立つという。これって新し物好きのミーハーということなんだろうか?何らかの実質的理由があるということなのだろうか?

一つ言えることは、Pythonは開発言語であって統計ソフトではないということだ。科学計算は何も統計計算だけではない。方程式の求解や最適化、数式処理も科学計算である。なのでPythonには、RだけではなくMaximaの機能も含まれている。テキスト処理もできるし、データベース制御、ネットワーク制御やWEBアプリ開発もPythonでできる。要するに、これだけ知っていればやりたいことは全部できる。こんな機能はRは持ち合わせていない — 「ない」と断言してはいけないかも。「弱い」というべきかも。

統計分析が必要になったので、Rを勉強するのは確かに厄介だと思う。他の役にはあまり立たないからだ。日常的に使っている開発言語にライブラリーがあれば、それを使って済ませるのが道理だ。と、このように書けば、確かにRはいまビッグデータ七つ道具の一つだが、Rをも包括する形でPythonがビッグデータ時代を支える言語基盤になる。これはありうる。

ま、そうなったらそうなったで、小生はどうでもいいのだが、その場合はR言語を理解するPython Shellを是非作ってほしいものである。やっぱりNumPyの配列と添字は奇異に感じるのだね。データの7個目(添字6)から13個目(添字12)までを切り出すとき、X[6:13]とは普通書きませんて…。それから、ちょっと乱数を生成して、ヒストグラムを描くときのあの回りくどい記述は…。大学の統計教育でPython+NumPy+SciPyが主流になることは、まず絶対にありえないと小生はみる。が、ビッグデータ時代の分析ツールはひょっとするとPythonに全面的に置き換わるのだろうし、だとすれば今後、Pythonサイドでは既に精度が検証済みのRのパッケージがどんどん移植されていくのだろうと予想している。それはC言語がシステム開発の万能兵器になってからFORTRANライブラリーがC言語に移植されていったのと同じ道である。

★ ★ ★

Pythonのことはもういい。

TVの報道ステーションでは、海上自衛隊が参加しているペルシャ湾の機雷掃海をとりあげている。米(英?)海軍の艦長にインタビューして、敵から攻撃を受ける可能性があるかと質問したところ、それはあるという回答だった。ま、当たり前であるな。撒かれた機雷を除去すれば、それは撒いた方からみれば敵対行為である。

しかしだなあ、攻撃を受けるとして、それは「戦争」ということになるのか?確かに日本は戦争を放棄しているが、武力は持っている。あらゆる状況において武器の使用を禁じるなら、警察官は武器を所持してはいけないし、かつてあった「あさま山荘事件」などはあってはならない「銃撃戦」であったわけである。しかし、誰もテロ行為や反国家的暴力事件に対して武器を使用することに反対はしない。もっと言うと、あさま山荘事件が「内戦」であったとはいわない。言わないが、国権の発動たる「戦争」を国家に禁じるなら、「内戦」に応ずることも禁止されるのがロジックではないか。外国への武力行使は憲法上ダメだが、日本人には場合によって可、という論理はおかしい。いつか想定外の状況になり、憲法上の論理なき無制御状態に陥る。こんな心配も(僅かだろうが)あるのではないか。ま、この辺は法律専門家のほうが詳しいだろう。長くなったので、また改めて。

2014年11月11日火曜日

タブレット"Regza AT703"の使用感

以前投稿したSONYのVAIO DUO13には、その手書き性能も含めて十分以上に満足してきたのだが、やはりサイズが大きく、いつも手に持って移動するには一寸<オーバシイ>のだな(これも四国方言かもしれない)。

それでiPadを使ってきたのだが、現状のiPadで最大のウィークポイントは数学的計算にも使える手書きソフト、というより手書きに耐える使用感をもったペンが皆無だという点にある。人によって使用目的は千差万別だろうが、小生はそう思ってきたわけ。とにかく、色々と試してみました。Penultimateは言うに及ばず、Noteshelf, Note Anytime, Banboo Note(だったかな?もうアンインストールしたもので)……、どれも我慢して使えば使えないことはないが、SONYの電子ペンとNote Anytime(現・MetaMoji Note)と出会ってからは、iPadはメモ作成からは引退状態となっていた。さてそうなると、iPadの存在価値も揺るぎ始めたわけであり、そもそも二代目iPad2は重すぎるという点もあって、そこを何とかしたいと考えたのだ。

そこで軽くて使えるタブレットはないものか。そう思って、評価の高い機種を調べてきたところが、東芝のRegza AT703が最高峰であると。特に、手書きソフト"TruNote"の書き心地はWACOMの電子ペンの使用感とも相まって極上である。そんなレビューを見つけたのである。

で、早速購入したのが下のAT703である。Windowsではなくアンドロイド・タブレットである。以前にもSONYのアンドロイド端末"Xperia"を試しに買ってみて失望したのだが、大丈夫かねえ…、そう思いながら到着をまった。


届いてから早速に設定作業を済ませる。Googleのアカウントを既に持っている場合は実に簡単である。

確かに、手書き入力の感覚は至高のレベルであり、紙に書いている感覚とほとんど同じである。特に東芝製のTruNoteを使っている時は素晴らしいが、MetaMoji Noteを使った時の書き味も十分良いものだ。ちなみにMetaMoji Corp.の社長は浮川和宜氏であり、同氏は日本語FEP"ATOK"と伝説的ワープロ「一太郎」を世に贈ったことでも知られる。そのMetaMoji Noteで文字を書く場合、SONYやAT703であればスラスラと書けるのだが、小生が持っているiPadではペン先がついてこないのだね。多分、古いiPadなのでCPU能力が足りないのであろう。それと良いペンがiPadにはないのだ(何度も書くようだが)。MetaMoji NoteはSONY Duo13、iPadともクラウド経由でファイル共有しているので実に使い勝手が良い。大事な計算メモはすぐにEvernoteに飛ばして、どこからでも検索できるようにしている。それともう一つ。学生から提出されたレポートをマイクロソフトのOneNoteで読み込んでから、AT703を持って喫茶店に入り、ソファで珈琲をすすりながら手書きのコメントを書き入れ、添削後の内容をPDFに書き出して、そのままネット経由で学生にフィードバックする。できあがったOneNoteファイルは次回授業に使うから一石二鳥だ。こんな作業もiPadでは欲求不満が高まるのだが、AT703ならスムーズにこなせる。これまた大いに評価しているところなのだ。

この点だけでも、今回はじめてアンドロイド端末を買った意味はあったのだが、もう一つiPadにはない素晴らしい点としてウィジェットがあげられる。Google Chromeで頻繁にアクセスするブックマークは第一ホーム画面に常時表示すれば便利だし、カレンダー、タスク管理などなど、常に更新しながら目で確認できるのは、仕事をしている人向きだ。

もちろん不満もある。アンドロイドというOSの弱点なのだろうか、所詮タブレットはこの程度というべきなのだろうか、動作にギクシャク感があり、それと数理系のソフトが意外と弱いのだね。数式処理ソフト"Maxima on Android"があり、それなりに使うに堪えられる程度には仕上がっている。その点には満足しているが、所詮はタブレット版で「まあ動くんだね」という思いもある。ま、あと3点ほしい84点という所か。この"Maxima"とiOSにある"Math Studio"はどちらが優れているか?微妙である。次にPythonだが、とりあえずAT703には"QPython"をインストールしておいた。一方、iPadには"PythonMath"があり、少し動かした感想だが、"PythonMath"の方が小生の役には立つようだ。それとBasicは、やはりあると便利なので、iPadでは"cbmHandBasic"を入れている。これとアンドロイドの"BASIC!"もほぼ同じだが、昔のベーシック言語を使った人はiPadの方を採るのではないだろうか。

以上、全体を通してみると、双方互角、正に甲乙つけ難い。「手書き」を除くと、iPadの方がソフト的には充実しているというか、完成度が高い印象を受ける。ここでもしも、アンドロイドの統計ソフト"R Cosole Premium"の完成度が十分なレベルに達していれば、ためらうことなく小生はiPadを廃棄して、東芝のAT703だけを常時持ち歩き、PCを使うまでもない仕事は全てアンドロイド端末ですませることにしていただろう。残念ながら、小生の商売道具である"R"がタブレットで少しでも「使える」のは有難いが、あれは「使っている」というレベルには至っていない。動作も決して安定していない。落第であると思う。アンドロイド端末に負の印象を持ってしまう材料になってしまっているのは残念だ。

なので、予定というか期待とは裏腹に、今日もカバンにはiPadとAndoroid Tabletの2台を入れるはめとなり、カバンの重量はかえって重くなってしまったわけである。

どちらかを外したい。となると、手書き性能が出色なアンドロイドをとるか、それとも全体的なソフトの使い勝手がよいiPadかの選択だが、これが本当に迷う所なのだなあ……。ま、最強力編成が<SONY Ultrabook Duo13+AT703>であるのは確かだ。最初の意図に反し重量がかさんで仕方がないが、明日の授業ではこの2台を持っていくことにしよう。

追記: 東芝のAT703は音質が出色である。この点はほとんどのレビューで挙げられており、全くその通りである。アメリカのHarman/Kardonを搭載しているためで、古いiPadの-いまのiPadは知らない-音質をはるかに超えている。とはいえ、SONYのDuo13の音質も前に投稿したとおり素晴らしいので、小生はDuoで聴いている。

2014年11月10日月曜日

日中会談-とりあえず損をしない選択が「定石」である

考慮するべき要因が多すぎ、一つ一つをとっても確実な見通しが得られないとなると、これは真の意味での「不確実(=Uncertainty)」である。

展開が不確実なゲームには、トランプや麻雀があるが、碁や将棋、チェスなど運の入り込む余地がないゲームであっても、その時々の選択肢は複数ある。こちらの選択に応じる相手の反応は確定的には予測できない。となると、これまた先行きは不透明、真の不確実性が生じてくるわけだ。日中二国間の外交ゲームも状況は似ている。
領土問題や歴史問題、そして靖国神社参拝をめぐって高まっている緊張を乗り越え、安倍晋三首相と習近平中国国家主席は10日、北京でのアジア太平洋経済協力会議(APEC)の開催に合わせて握手を交わし、より機能的な外交関係の構築に向けて歩み寄った。これはスタートと言える。

 とは言え、このビデオでも分かる通り、両首脳の会談はあまり友好的と言えるものではなかったようだ。習国家主席は見るからに安倍首相の挨拶に応えるのを拒否し、写真撮影の間中、まるで、尖閣諸島(中国名:釣魚島)から乏しい草木をむしり取っている一匹のヤギと握手しているかのように見えた。
(出所)WSJ, 2014-11-10

何と日本国の首相がヤギの扱いをされているのだが、たとえ相手をヤギと思おうが、ウシだと思おうが、ここで握手をしておけば損はしないと。そんな判断が双方にあったから握手となった。そう見るのが理屈だろう。まずは双方、「定石」を選んだというわけだ。

日本の方から主導的に宥和的姿勢をとるのは可能だが、中国側は「引かば押せ」とばかりに自国の利益を強硬に求めてくる可能性を否定できない。この目線は中国側もそっくり同じであろう。市場ゲームと違って国家には「退出」という選択はない。攻撃を続行しても最後には反撃を予期しなければならない。相手側から協調的姿勢を引き出そうと思うなら、いずれかの時点で和解を提案する必要がある。とはいえ、そうするにはそうするで"When"と"How"という難問を解かなければならない。

要するに「名案」がないのである。握手のほかには。

アジア経済圏にとって最良の結果は、いずれかが「大国」となり、安定的なアジア経済圏が形成されることだ。それが可能なら全てのプレーヤーが利益を得られる。覇権を握らなくともフォロワーの利益が十分大きければ、覇権を得るための闘争は損である。が、(残念ながら、これが最大の問題だと小生は思っているが)中国は地理的な大国であるが大国にふさわしい文化・文明を提案できていない。日本は(今となってはそう呼ぶ人もいないかもしれないが)「経済大国」はともかく、歴史を通して多民族国家を円満に運営したことがない。更に、中国だけではなく、アメリカにもアジア経済圏のプレーヤーであろうとする強い意志がある。

中国はアメリカの同盟国である日本を弱体化することは国益であるし、と同時に強い日本との距離を近づけることもアメリカに対して相対的な国益となる。どちらの方向をとっても中国には国益だろうから、<いまAPECで握手をする>くらいは妙手とまではいえないが、中国にとっては好手となるはずだ。

2014年11月9日日曜日

「ここは負けられねえ」、プライドか、戦略か、それともバカか

愚息からカミさんに電話があり、年末近くにこちらに帰るからと言ってきたという。いつ東京に戻るのかと聞くと、まだ帰りの便はとっていないという。

あかんねえ…。いつ北海道に帰り、いつ帰京するのか、往復とも飛行機を押さえ、当地に滞在中は何をする、どこに行く、それらの予定を固めてから連絡をするべきではないか。そんな話しをカミさんにすると、子供が母親に電話をしているのにそんなのオカシイでしょと一笑にふした。

とはいえ、行き当たりばったり感とでもいうか、改善した方がいいねえ、という感想は抑えがたい。

職場では、その場その場の仕事ぶりが評価されているという。素直だからねえ。一方、いまやっている仕事は、全体の論理構成をきちんと通さないと相手から隙をつかれるので、そこをもう少し鍛えないといかんと言われているようだ。うん、うん、そんなウィークポイントは幼少の頃からあったなあ。

今度は「戦略と戦術のどこが違う?戦術と戦闘はどこが違う?」。こんな質問でもするかねえ…。

いまやっている仕事に100%頑張るのは大事だ。最前線で目の前の仕事に集中する人がいないと何もできない。しかし、それだけでは大きなことはできない。いまの仕事の目標は何か。そもそも最終的に何をやり遂げたいと決めているのか。為さねばならないことを今やっているのか。そんな問いかけは戦略である。これを損得勘定と言い出しては議論にならぬ。どの人間に、どこで、どんな戦闘を行わせるか。これは戦術だ。どんな順番で、いつ、どのように戦うか。いかにして最終的目的を達成するか。それを考えるのは戦略だ。戦術的失敗を戦闘で挽回することは不可能であり、戦略的失敗を戦術で挽回することも不可能である。「やめたわ」と投げてしまうのが正しい時もある。玉砕を覚悟して死守させるのが正しいこともあるのだろう。その判断は戦略的見地からなすものだ。

……こんな話しでもするかねえ。しかし、若いときというのは一球入魂。まさに一期一会だもんなあ。「後が大事だ、ここは退け」と言ってもきかないよ。昨晩のフィギュアスケート・羽生結弦選手の衝突事故もそんな風にみることが可能だ。10代というのは猪突猛進とも言えそうだし、大した者だという印象を形成できたのなら優れた判断をした、そうも言える。

ま、見ているときはヤケクソのようにも見えたが、あれこそ武士道と言いたい人もいるかもしれない。

2014年11月5日水曜日

質問のルール − 国費を投入する以上、ルールを設ける方がよいのか

野党議員の質問に首相が激怒したという報道があるので何々と読んでみた。ま、下世話なことには—イヤ、国会が下世話であるとはトンでもないことだが—興味があるのだ、な。
安倍晋三首相は4日の参院予算委員会で、過去の週刊誌の記事を元に首相に対し「脱税疑惑」を尋ねた社民党の吉田忠智党首に対し「重大な名誉毀損(きそん)だ。議員として恥ずかしくないのか。全くの捏造(ねつぞう)だ」と激しく反論した。
 吉田氏は「政治とカネ」の問題を追及する中で、首相に関して平成19年に週刊誌が報じた「相続税3億円脱税」疑惑について事実かどうか尋ねた。
 ところが、「もう時効だが…」と述べた吉田氏に首相は激しく反応。「まるで犯罪者扱いではないか。失礼だ。答弁できない」と発言の撤回を求め、審議が中断した。
 結局、吉田氏は「断定的に申し上げたことは申し訳ない」と陳謝。これに対し首相は「こんなことに時間を使うことに国民もうんざりしていると思う。いくら質問とはいえ、慎んでほしい」と不満そうだった。
(出所)Yahoo!ニュース←産経新聞、2014年11月4日

脱税を疑わせる根拠は(某)「週刊誌」であるそうな。

確かな根拠もないのに「事実」を捏造してはいけない。これは確かだ。

しかし……法廷では証人への反対質問で『あなたの友人の一人から聞いたことですが、本当はあなたは事件当日には風邪で寝ていてよく知らないんだと。そう話していたそうですね。それは本当ですか?』と、「異議あり」と抗議されるような質問を故意にすることもあるだろう。証人の発言は、双方の立場から質問をされて初めて客観性を帯びるものだ。とはいえ、憶測や信頼もなく勝手に「そんな事実もあったかもしれないと思うのですが…」と言って、「それは憶測だ」と抗議され、ここで裁判官(=国民でもよい)が質問の根拠を求めた場合、「私にもわからない」と答えれば「憶測でものを云うな」という注意になるわけで、結果として証人を侮辱した罪に問われても仕方がない。 これが公のルールだろう。それが分かっているから、質問者は直ちに根拠のない質問を撤回する。

とはいえ、その質問を聞いた人の記憶には残ってしまうわけである。そんな戦術を戦術としてどこまで容認するべきか。

野党議員は「脱税について週刊誌に書かれているが、それをどう思うか?出版社に対して抗議はしたのか?」とでも質問をすれば、これは事実確認だから、首相にも返答義務があるのではないか。抗議をしていないとすれば、書かれたことを容認していると思われるがそうかと質問すればよい。…まあ、その果てには週刊誌の取材根拠を確認するために出版社に対して国政調査権を行使するということにもなるだろう。

そもそもマスメディアの記事には、真実と嘘(=誤報)が混在している。その点は周知の事実である。嘘が発端となってネガティブ・インフォメーション・バブルが発生すると社会的損失が生じる。故に、誤報の合理的疑念がある場合、当人によらず第三者であっても報道元を名誉毀損で提訴する権利を与える。そうすれば、報道の真偽に関する公的な審査を速やかに開始し、ネガティブ・インフォメーション・バブルを事前に防止することになる — 審査開始に至ったという事実そのものがバブル発生を防ぐだろう。それは社会的な利益にもなる。最近はこうしたことを考えることが増えてきた。…名誉毀損について第三者による提訴を認めるなら、韓国と類似の制度になるか。

2014年11月3日月曜日

大学自治は「あるべき原理・原則」なのだろうか?

小生の若い時分から、というより戦後日本においてずっと、大学の自治は絶対的原則だった。なので、学長、学部長など全ての役職はトップダウンではなく、基本的に内部の人による選挙によって選ばれてきた。選挙によって選ばれるが故に「有権者」の意向に反するような決定やプロジェクトはできない。これが大学の原理・原則だった。

しかるに、だ。道内の一大学が学長選挙はもう止めようと。意味ないし、というわけなのだろうが、すると(案の定)地元の道新が以下の社説を掲げて反対した。
「大学の自治」が空洞化しかねない。
 学長を決めるに当たって、教職員投票を廃止する国立大学が出てきた。道内でも北海道教育大が初めて投票をやめる。これで全国86校中5校になる。
 経済界の重鎮や学内外の有識者などで構成される学長選考会議が選考を一手に握る形になる。
 法律上、問題はない。しかし、ほとんどの教職員がタッチできない密室でリーダーが決まれば、学内に閉塞(へいそく)感が募らないだろうか。
 経営手腕や対外交渉力ばかりが優先されれば、すぐには成果が出せそうにない基礎研究や教員の地位保全が脇に追いやられかねない。道教大には再考を求めたい。
(出所)北海道新聞、2014年11月3日

こんな心配は実は国立大学法人化の当初段階からそもそもあった心配だった。それが表面化してきたというわけだ。

ただ思うのだが、学長は学内選挙による、大学は自治が原則というのであれば、学部も自治、学科も自治、講座も自治となり、誰を採用して、誰が何をどう教えるか、どんな事を研究するかなど、全て現場が決める、その人が決める。そんな理屈になるし、実際現実を振り返ってもこうだった。

サービスを求める側ではなく、サービスを提供する側がすべて決めるから、ついてくればいいというのは学問に対する自信がなせる姿勢なのだろうが、いわゆる「顧客志向」という路線からは180度正反対の態度であるわけだ、な。

学問が永遠に不変の、時代や国を超越した絶対的真理であれば、その真理を会得した賢者についていくのが正しい在り方になるのだが、何が正しく、何が誤りであるかは実は定まっていないのであって、いわゆる「パラダイム転換」は社会科学ばかりではなく、自然科学でも起こってきたことだ。ましてや、いま何が世界で最も役に立つ知識であるか、何がいま最も求められている教育内容であるかは、その時々、変わるものである。大学の役割の一つが「人を育てる」ことにある限り、時代を超越して同じことを教えるというのは無理である — まあ、何を教えるかは学界の潮流に応じて変わってきている。ポイントは学界の潮流をどうみるかなのだ、な。

ロジックは人が作るものではない。自然や社会に客観的に存在している論理が「真のロジック」であろう。人はその真のロジックを探すだけである。日本の大学がいま色々な問題をかかえていると指摘されるのは、社会的変化をもたらしている真のロジックに沿わない自らの伝統に固執しているからだ。そんな一面も確かにあるだろう。大学の自治と云っても、単なる価値観でしょ、と言われたりするのはそのためだ。

組織は戦略に従い、戦略は目的に従う。最も重要なのは目的であって、目的を設定するのは理念である。ラテン語とスコラ哲学、リベラルアーツは特定の時代において大学の存在意味を高めるものだった。近代哲学の講座は国民を啓蒙し知性の平均的水準を高めるために不可欠の存在だった。会計学、商学は近代ビジネス教育の柱だった。大学という組織のあり方には確かに「伝統」がある。が、せいぜいそれは過去の時代において最適であった組織である。大学が果たすべき役割もまた時代とともに進歩するものだ。

大学は、社会の知を独占する人間集団ではなく、一定の目的を達成するために社会の知を組織化した機関である。現場の人間が一生懸命にやっているだけでは望ましい方向に向かわないことがある。これもまた大学が直面している戦略的な現実だろうと思っている。学問の独立と大学の自治はイコールではないのである。

2014年11月1日土曜日

ビッグデータ: デマ・流言飛語に対する当局の反撃ツールとなるか

世はビッグデータ時代である。

10年前ならまだなおリスクと金融工学が時代のキーワードであった。それがリーマン・クラッシュで信頼は失墜し、もう言い出せなくなった。で、次のカネのなる木はというと社内に埋もれたままになっているデータ、それを扱いやすいようにデータベースに再編集して分析ソフトを開発すれば、情報廃棄物が経営資源となる。アメリカは、保有しているデータ、データベース技術、統計技術、すべてにおいて最先進国である。

ビッグデータは文字どおりの"Post Financial Engineering"、アメリカの国家戦略であると言えるのだ、な。

そのビッグデータも遂に、というか到頭というか、利用形態も来る所まで来た感がするというのが次の報道だ。
イギリスのロンドン警視庁がある特殊なソフトウェアを使ったシステムのテストを実施していることが判明しました。ロンドン警視庁がテストしているのは、犯罪組織やメンバーが犯した過去のありとあらゆる犯罪データを使って、近い将来に犯罪を起こしそうな人物を事前に予測するシステムです。
BBC News - London police trial gang violence 'predicting' software
http://www.bbc.com/news/technology-29824854 
ロンドン警視庁がテストに使用しているのは、総合コンサルティング会社Accentureが提供しているソフトウェア。テストに使われているソフトウェアは、ロンドンで発生した4年間の犯罪データを、収集した4年の翌年にギャング組織およびそのメンバーが犯した犯罪データと組み合わせて解析するというモノです。犯罪データと言っても、日時や場所、犯人名といった犯罪履歴だけでなく、犯人の行動やSNSでの投稿や言動までありとあらゆる情報まで含まれます。
(出所)Gigazine, 2014-10-31, 事件を起こしそうな人物 

要は、インターネットを流れている超ビッグデータを解析すれば、販売や災害を予測できるばかりではなく、犯罪も予測できる、犯罪を起こすであろう人物も予測できる。だから、危険な人物をマークする。

公安検察、公安警察にとっては、危険な反政府的デマ活動を摘発する有効な手段として、垂涎のツールとなりうるであろう。同じ道を日本も歩むことは容易に想像できる。

しかし、特定秘密保護法があることを考えると、どうも今後の情報戦争の中で、政府と民衆との関係が少し不公平であるような気はする。デマは、いわば「ネガティブ・インフォメション・バブル」、情報としては中身がエンプティだから賞味期限は短く、思考能力のある人物は影響されない。それに対して、犯罪に関するビッグデータ解析で当局が把握する情報は、実質的な中身があり、それに権力が加われば相当大きな力の格差が生まれるかもしれない。

確かに経済社会を動かす本当の情報は民間が持っている(はずだ)。政府が持っている情報はしょせんは「ナマモノ」ではなく「オ古」である(はずだ)。それ故にケインズ理論が前提していると言われる「ハーベイロードの前提」は嘘である(はずだ)。しかし、本当にそうなのか。聴診器だけでなく、レントゲンやMRIまで扱う医師は、当人よりも圧倒的な健康情報を持っているのだ。

2014年10月28日火曜日

安倍政権―悲しいかな、杞憂ではなかった…

政治とカネが問題になって政権が危機に陥るという現象は何も戦後日本に特有のことだとまではいわない。しかし、もう数えられないほど何度も繰り返し、日本の政権はカネの問題で崖っぷちに追いやられてきた。

戦後早々の芦田均内閣は昭電事件で崩壊し、造船疑獄では絶体絶命になった佐藤栄作議員を救うために犬養健法相が指揮権を発動して自らは職を辞した。長期政権を続けていた吉田内閣が倒れたのはこの事件がきっかけになった。その後もロッキード事件、リクルート事件等々、数えきれないほどである。政権トップも巻き込んで、これほどの頻度でカネの問題が政権を揺さぶり続けてきた先進国は、小生の勉強不足もあるのか、聞いたことがない。なぜそうなのかを真剣に考えるべきだろう。実は、カネの問題は戦後日本ばかりではなく、早くも明治維新直後からその時々の政権や将来ある政治家を危機に陥れてきた。山縣有朋が政治生命を絶たれる寸前になった山城屋和助事件は特に有名である。明治5年のことである。この時、西郷隆盛が山縣を評価していなければ、明治陸軍、ひいては帝国陸軍はなく、日清戦争もなく、日露開戦を決意することもなかっただろうし、朝鮮併合ということもなかったと想像される。

随分前に、安倍晋三氏が自民党総裁にカムバックしたとき、おそらくはこうなるのではないかという小生の予測を投稿したことを思いだした。そこでは次のように締めくくっていた。
ま、ひいき目に見て、首相自身は鈍感なのだろう。だとすれば、安倍晋三首相の側近には是非キョロマがいてほしい。昨年秋にも投稿したことだが、そろそろ誰か閣僚が傲慢な失言をして、そのフォローが拙劣に過ぎ、次第に内閣支持率が低下する。そんな突然の暗転が夏の参議院選挙の前に来るか、後に来るかで、日本の将来がある程度は決まってしまう。そんな風に見ているところだ。
昨年の5月1日の文章だ。

傲慢な失言と不透明な資金経理の違いがあるのは見込み違いだ ― 韓国に対してはかなり傲慢な発言と行動を繰り返している。

昨夏の参議院選挙には見事に勝利した。この春の消費税率引き上げとその後の反動もどうにか乗り越えそうな按配だった。TPPと原発再稼働もそれほどまで政権への逆風になっていない。株価も不安定な10月を通り過ぎた。長期政権への道が開きかけていたまさにその時、上で予想したような雲行きになってきたのは、やはり天の配剤というべきか…… 。

昨夏の参院選の勝利と消費税引き上げで、やはり中枢部に驕りが生じ、柔軟性をかき、多くの国民や外国がそうあってほしいという姿は何か、目を向ける気持ちをなくしていったのであろう。

あとは消費税率を予定通り10%に引き上げて体力を使い果たすか、未練に迷い何もかもを後回しにして、結果として指導力を喪失し、そのまま消えていくか。現政権の行方はこの二つのうちのいずれかではないかと予想する。

ま、今回も自民党内の諸氏に首相が足を引っ張られたといえばそんな図式である。首相と与党議員は、民間企業の社長と社員の関係とは違う。ましてオーナーと雇われ店員の関係とは本質的に違う。要するに、与党議員は首相を軽く見ていても、次の選挙には通る(ような)気がするはずだ。今回の「不正経理ドミノ」は党内の驕りと緩みが原因であることは間違いないが、日本政治の問題はこの緩みを締める指揮監督権限をもった党内役職者が不在である点にある。そしてこの問題は、低品質で問題ある議員にせよ選挙区の有権者が選んだ国会議員であり、所属する政党の責任者であってもその議員の職を剥奪することはできない。それどころか、「活動改善命令」を下すことができない。いわば、議員が各自各自で自由に対等な立場でやっている。立法府のこのような状態に原因がある。これが理屈であろう。

2014年10月26日日曜日

「これは現実か!?」の2、3例

信じられないことは多い。

香港行政長官が発言したという。
香港の梁振英行政長官は20日外国メディアとの会見で、行政長官の選挙制度改革をめぐり、抗議行動を続ける民主派学生らの要求に応じ、住民が立候補者を指名できるようになれば、貧困層や労働者が選挙を左右することになるとの認識を示し、要求に応じることはできないとの立場を繰り返した。
(出所)Wall Street Journal Japan, 2014-10-21

う〜〜む、確か香港は中国に返還され、中国を統治しているのは共産党ではなかったか……。香港の貧困層や労働者が長官を決めるのでは都合が悪いのか。世は変わったのか、もはや共産主義はこの世から消えたのか。

★ ★ ★

これは現実かと思われる出来事の最右翼は、文字通りの夢の世界である。

今日の朝、えらく具体的な夢をみた。
小生は、とある商店街を歩いていた。カミさんや甥っ子が側にいたように思う。その甥っ子が国家試験を受けるというので『そりゃ合格祈願にカエルの黒焼きを食べないとなあ』、そう言うと甥っ子が『ええっ!そんなの食べられないよ』。『中でもヒキガエルの黒焼きが一番きくらしいぞ』、そう言いながら旨そうな匂いと煙を漂わせている店の軒先に歩いていくと、籠の中でヒキガエルが動いている。
いきなり場面が変わる。たそがれ時である。道を隔てた向こうに知り合いの奥さんが白い服を着て淋しそうに立っている。その奥さんは、つい数日前にご主人を亡くされたのである。奥さんの横には誰も暮らしていない廃屋がある。声をかけようとしたその時、奥さんが上げた右手の上がほんのりと明るくなった。あっと思いながら見ていると、奥さんは廃屋の方に歩き始めた。手の上には明るい火がうっすらと灯るように見える。奥さんは廃屋に入っていった。と、小生もいつの間にかその中にいて奥さんを見つめている。廃屋の天井には穴があき、屋内は蜘蛛の巣だらけだったが、奥さんが入ってくると、ずっとそこで人が暮らしている暖かさに満ちた部屋に変わった。台所の蛇口からはきれいな水が出るようになった。奥さんはその台所に立って何かを作り始めた。
起きてから「ああ、あの家は亡くなったご主人の生まれ変わりだったのか」と気がついた。

もちろん現実ではない。もし本当にあれば「これは現実か!?」どころの騒ぎではない。

2014年10月25日土曜日

「政治とカネ」を攻めるのが定石になったのか

『一利を興すは一害を除くにしかず』というのはモンゴル帝国の宰相をつとめた耶律楚材(ヤリツソザイ)の言である。

実は、歴史に名高い名宰相であるはずの耶律楚材は、特にこれといった業績(=軍功や政策)は一つもないと言われているようだ。ただ、モンゴル帝国の非文明的な蛮行から数多くの文化的遺産を守り抜いた。そんな点で中国では大変評価の高い人物であるそうな。文字通り、一害どころか多くの害を除いてくれたわけである。

不透明なカネの問題が与党の政治家にあるとき、野党はその問題を鋭意追求する。確かに不可欠の行動である。正に文字通りの『一利を興すは一害を除くにしかず』だ。いま日本の野党は政治の定石、政治の王道を歩みつつある。そう言えそうだ。

とはいえ、定石ばかりに頼っていては勝負に勝てないのも事実である。そもそも「定石」とは、基本的にはこうすれば危なくない、思わぬ不覚をとる心配がない。それが「定石」なるものの目的である。大体、勝つための定石などある方がおかしいでしょう。双方が勝つための定石をとったらどうなる。矛盾しているのだな。その意味では、民主党はじめ、いま野党がとっている戦術、与党のカネの問題を追及する戦術は、相手を弱体化し、自らは安全な立場に身を置くことになるので、この先政治的発言力は高まりこそすれ、弱くなることはない。負けない戦術をとっている。これは言える。

しかし、自らの実力を高めているわけではない。相手を自分と相応のレベルに引き下げて、それによって自分の敗北を回避しようとする戦略であると言える。

これをしも『一害を除くにしかず』と堂々と言えるのか?

ま、ほかに名案がなければ、カネの問題を追及するのが上策だ。うん、理屈はとおっている。

日本の国益を得るには、まずは「政治とカネ」にまつわる一害を除くのが早道だ。確かに「国益」には違いないが、そちらには"Grand Strategy"というか、大戦略はないんですか?そんな情けなさというか、冷めた思いというか、確かに言っていることは正しいけどねえ…という割り切れなさは多くの人が感じつつあるのではないだろうか?

2014年10月23日木曜日

公と私ー「家族のために」は公か私か

道徳という授業科目が設けられるというのが話題になっている。「公道徳」という言葉も復活するかもしれない。

おそらく日本人としてあるべき姿、日本国の本来の姿を守りたい。そんな意識が指導層に広く共有されてきているのかもしれない。

× × ×

朝ドラ『マッサン』で憎まれ役だったはずの優子嬢が父の経営する住吉酒造の経営危機を救うため、どうやら銀行幹部の御曹司とお見合いをして、政略結婚を余儀なくされそうだ。

家族を守るために望まない結婚をする女性は「公」に殉じたことになるのだろうか?これは一つの倫理的問題だろう。大体、日本人は自己犠牲という行動が大好きである。それも感情を押し殺し、自分一身の都合は顧みず、他者や普遍的価値のために一身をなげうつ行為をみると甚だしく感動する傾向がある。

一般に人間の行動の善悪は、(本来的には)その人の意志によって決まる。自分と深い繋がりがある、自分を超えた全体的な価値を守るための犠牲的行為はすべて崇高であって、窮極の利他的行為と言える。そんな利他的行為は「公」に殉じようとする動機と似た動機に基づくものである。形はどうあれ、動機は美しい。強いてこの先を議論するならば、どうせ行動するなら、もっと効率的で賢明な行動があるはずだ、と。そんな会話になるはずである。これは善意志というより、理智と判断を上手に使う話しである。頭を使う話しになる。

たとえは悪いが、仁義なき世界で自組を敵から守るために敢えて犠牲となるヤクザは、その時の心情においては国を救うための特攻隊員と相似ている。たとえその者が奉仕している組織、とるつもりである行為が全てまるごと日本国の法に違反している犯罪だとしても、当事者にとっては身を捨てて組織に殉じる行為である。殉じる対象が宗教団体であれば殉教になり、会社であれば殉職となる。多くの人は、何はともあれすべて自己犠牲という動機が美しいと感じるはずである。ただ、行動の理非曲直という点については、色々な話しがある。

経営者にとっては会社全体が「公」であり、自民党にとっては自党の党利を超える日本の公益があるはずだ。これが世間の感覚だろうが、もっと視野を広げれば日本人が日本の公益のみを追求するとき、海外は日本の利己心を非難するだろう。

× × ×

何だか話しが大きくなってきた。話題を戻そう。

「家族」のために自分を犠牲にしない人が、「国」を守るなら自分を犠牲にしてもかまわないと。もしそんな人間がいれば、いかにも安手で嘘っぽく、口先はともかく信用できない。そもそも「日の本国男」や「日の本国子」という人間はいないし、「国」という存在からして甚だ抽象的である。天皇も君が代も日の丸も象徴でしかない。家族や地域が大事だという姿勢が「身勝手」であるとよく言われる。国や社会が大事だという「常識」を説く人もいる。しかし人は、まず家族をつくり、結果として地域が出来る。できた地域が統合されて国が構成される。逆ではない。

普通の人は、「公」というか「国」というか、ぼんやりと意識されているだけの存在よりは、まず自分が大事にしている親しい人達のために一身をなげうつはずである。動機が具体的であるぶん私的である。とはいえ、すべて世の中こんなものだろう。「公」は実際にそんな実物があるのではなく、意識されているから「ある」と感じるだけである。その「公」という意識は、まずその前に「私」がある、他人の「私」に敬意をはらう、相互に敬意を感じるその感覚から自然に形成されるものであろう。これがロジックである。

すべて抽象的概念は、それに先立って具体的な現実があるものだ。「公」より先に「私」がある。ずっと昔、愚息に話していたが『日本という国より、おれの家系はずっと古い。これだけは確かだぞ』。これが正しい思考の順序だろう。

故に、「公」や「国」を大事に思う心を直接に作ろうとしても、それは不可能であると思うのだ、な。「公」の意識を育てたいなら、まず多くの「私」が「公」という存在を望むところから議論を始めるべきだ。それには共同する、それには分業をする、人が集まって交易が広まる、取引を通した経済活動の拡大が、他ならない文明の進歩である。文明の進歩は「公」という意識の向上と表裏の関係にある。こんな話しは、福沢諭吉が百年以上も前に『文明論の概略』の中で云っていることである。
一身独立して、一国独立する
この認識は明治時代にだけ当てはまるものではない。

日本だけが、不可能であるはずの「公」を勝手気ままに作っても、それは偽物の「公」である。


2014年10月20日月曜日

信念・合理性・子供のワガママ

同じ日に経産相、法務相の二人の閣僚が辞任した。いくら小さな事柄でも、法に違反すれば公職にとどまることはできない。この点を甘く考えれば、国が人々に対して「法を守れ」とは言えなくなるからだ。だからこそ、法律は慎重に作っておかないといけない。

とはいえ、金の問題はいざしらず、『団扇を配ることのどこが悪い?』という反論に類似した抗弁はとても多い。法の理屈は明快だ。有価物を配るのはダメだということだ。鉛筆はダメ(なのだろう)、メモ用紙も1枚や2枚はともかく、1冊はダメかもしれない(と思う)。お茶もだめなのか…?つまり、法律専門家でなければ、どこまでが常識の範囲で、どこから先が違法なのか定かではない。故に、選挙活動の是非は「専門家」の世界なのである。

しかし、そもそも「選挙」というのは本来、「専門家主義」とは正反対の立場から実施されるものではないのか。人種によらず、性別によらず、出身によらず、学歴によらず、職業によらず、個々人の信念やライフスタイルが本来は自然に発露されるよう、なるべく広範囲の自由を認めておくべきだという意見は当然あっておかしくはない。

それを「柄がついていれば団扇、ついていなければ団扇ではない」と、こんなことで候補者を裁いてもいいの?やっぱり本質的な疑問になるのではないか。ま、笑止な話なのだなあ。法律家が「団扇」を定義できる資格があるわけでもなく、こんな議論をしていると段々バカになるのじゃあないかと心配になってくる……。

★ ★ ★

近現代の歴史について読書するのが割と好きな方だが、『満州事変は自衛権の発動であり、満州国樹立は中国内部の分離運動によるものであるとの日本側の主張を、(国際)連盟に了解させるよう努めるべきであると考えていたのである』。これはいま読んでいる『昭和陸軍全史(1)』(川田稔)の一節で、陸軍・中堅幕僚のホープであった永田鉄山の見解を述べた箇所である。前後にある書簡などを併せて考えると、大体そうなのだろうと説得力のある所でもある。

満州事変が自衛権の発動なら、日華事変も自衛権の発動であり、その後もすべて自存自衛のために行った戦いであることになるだろう。いまなお類似の意見を述べる政治家は多くいるように感じる。当然「右翼」である。

ま、要するに1930年代以降の昭和陸軍の特徴は、『自分たちが悪いと相手が言うのは相手が間違っているためだ』という思考パターンなのだ、な。自分たちの信念が世界の非常識であることに気がつかなければ、子供のワガママと同じことを絶対に正しいと思い込んでやってしまう。そんな好例である。

小生の亡父は軍事教練を経験した世代で、「天皇」に対するホンネの心情も「帝国軍人」の表も裏もよく見聞きしていた風であったが、「陸軍は大人数で力をふるうが井の中のかわず」、「海軍は外国をよく知っているが声が通らない」。いまや常識になっている台詞だが、結局は最も頻繁に引き合いに出されてきた物言いが、実は(やっぱり)最もよく真実をついているとらえ方なのだと、読後感というか読中感というか、改めて感じているのだ。

やはり己の信念と矛盾するのでなければ、世間の常識とは良い関係を維持するのが合理的である。


2014年10月19日日曜日

政治資金ーいっそ必要経費払戻し制にしてはどうか

松島法相の団扇騒動と告発があったかと思ったら、今度は小渕経産相の政治資金不正経理が明るみになった。

そもそも内容自体は、『エッ、団扇をもらったらいかんの?』、『団扇をもらったからその人に投票するかねえ?』とか、『後援会が観劇ツアーを企画するなら実費をちゃんともらえばいい話しだろ』、『そんな初歩的なミスを故意にするかねえ…』、まあその程度であって、何かの巨悪がそこに隠されていると。そんな話しにはならぬ。多くの人は表現は悪いが『アホだねえ…』、こんな反応だと思うのだな。

もちろん何もしないわけにはいかない。そこが「政治的微罪」の悲しい所だ。辞めるしかないだろう。しかし辞めれば、それによって現在の政治の動きを停滞させる。支持されていない政治なら停滞してもいいだろうが、支持されているなら大きなマイナスになる。そこが「政治的微罪」の怖い所だ。

★ ★ ★

切符をきられたスピード違反は15キロオーバーで大したことはなかった。大したことはないと思ってそれを公表せずにいた。ところが、たまたま記者からそれを耳にした野党議員が「事件を隠していた」と追求した。騒動になったが、その時の対応がお粗末だった。トップたる適格性を疑われるに至り、職を辞さざるを得なくなった。この時点において、たまたま部内では紛糾していた廃棄粒処理施設移転問題にケリがつく目処がついていた。近日内にスピード違反をしたトップが地元に説明をする予定になっていた。しかし、それもトップの辞任ですべてご破算になった。廃棄物処理施設移転はとうぶん塩漬けとなる方向になった。

上のような事例は、最近の日本で山のようにあるのではないか。

★ ★ ★

その時の違反を処罰することは法律的・事務的・道義的には正しい。しかし、そのことが最終的な目標達成の障害となるのであれば戦略的には失敗である。

入国管理において、すべての旅客のスーツケースを開けさせ、現物を検査すれば不法に持ち込む大麻等を確実に摘発することが可能だ。しかし、あらゆる人的・時間的コストを払ってでも、その確実性を求めるか。ゲーム理論で政策当局のコミットメントを議論しているが、その理由はこの筋合いからである。

政治とは「政治事務」とは違う。政治は「戦略的行動」でなければならない。戦略には目標がある。目標は国家の運営、国益の実現だ。これを忘れちゃあいけないと思うのだな。

ま、辞任ですむのは文明が進歩したからだ。「これでは道義が立たぬ、己の不明を羞じる」といって、いちいち切腹をしていたなら国家が損をする。

★ ★ ★

いずれにせ不正経理はまずい。すべて過失はまずい。

不注意によって何らかの損失は生じる。過失をどの程度罰するかという問題は、その過失によって生じた損害を見てもよい。そしてその損失とは、目標を達成する上で生じた損失を指すと考えるのが合理的だ。

大体、政治資金の決算については政府に「政治資金適正化委員会」が設けられている。「政治資金監査人」は登録制になっている。監査が期待どおり機能していないのではないか。

サラリーマンの収入はガラス張りだが、個人事業、専門的職業に従事する人は誰でも税理士と相談しながら経理ミスを防止しているはずだ。もちろん監査済みの決算に不正が見つかったからといって、ミスは監査人の責任ですとトップは責任を回避することはできない。しかし、経理ミスを見逃す監査人は、能力を疑われ、業務を継続できなくなる。

そもそも政治家はすべて「公僕」である。政治に必要な資金は、政党経由で国(=財務省?総務省?国会事務局?)に実費払戻しを請求させてはどうか。公僕なら「必要経費払戻し」くらいの権利は当然あるだろう。

政治家当人の事務所、後援団体を含めた「政治法人」とでもいうか、連結決算対象を定めておくのも一法だ。対象外の支持者が不正経理をしたからと言って、それは政治家の責任ではないし、監査対象でもない。

要は、線引きをはっきりするという点に尽きる。

道路交通など、日常生活の場で数多くの「微罪」が社会的障害になるなら、それはシステムに欠陥があることの証拠である。政治の場で、多数の微罪が国家的損失を引き起こすなら、やはり制度設計のどこかに欠陥があると見るべきだ。

政治資金の経理については、今後、制度の見直しが進むのではないかと予想する。

2014年10月18日土曜日

有給消化率「世界最低返上」は成功するか?

日本の有給休暇消化率が「世界最低」を争うほどに低いということは小生が若い頃からずっと変わらないでいる。

政府はついに努力目標から義務化・強制化へ舵をきると、そんな報道が出てきた。
有給休暇の消化を企業に義務付けることができるか、厚生労働省が検討に入ったと伝えられている。政府による休暇の取得促進はこれまでも行われてきたが、果たして今回の改革は、我々の生活に変化をもたらすものになるだろうか。
(出所)Yahoo!ニュース、2014年10月18日

確かにすべての勤労者は、一定の枠内で休みたい時に休む権利をもっている。しかし、ドラマではないが『きょうは会社休みます』とは中々言えないもので、その心理は一度オフィスで働く経験をしただけで分かる。

『休みます』と言いづらいのは会社だけではない。忘年会、職場旅行、サークルのOB会、その他あらゆる種類の懇親会、何事によらず「欠席します」とは言いづらいものである。参加が義務ではない、というか寧ろ義務ではないが故に自発的に「当然」出てくれるよね。そんな空気が充満しているわけであり、その空気が読めないのは「まだまだだね」と。そんなインフォーマルな受け取られ方が、仲間作り、派閥の所属等々、色々な場で非常に影響してくるのが日本の社内風土である。

「顔を出す」というのは英語でどう表現するのか……、ちょっと思いつかなかったので調べてみた。すると、出席する=attend、ちょっと違うねえ。顔を出す="show my face"、おいおい隠れて覗き見するのじゃないんだから。姿を見せる=make my appearance、何だか将軍が最前線に出張っていくようだが、ちょっと違うなあ…、どうも適切な英語表現がない。と、「これか!」というのがあった。表敬する=pay my respect to Mr. X、これか!「顔出ししておけ」というのは、上司や先輩、同輩に対する表敬であって、『日頃からお世話になっています』と、相手のメンツを立てる場である。これなら分かる。だから、特別な事情がない限り、毎日オフィスに顔を出すのは、日本ではとても大切なことである。

ただ上の記事でも紹介されているが、海外で有休消化率が高いのは、誰がいつ長期休暇をとるか「上が決めている」からでもある。つまりいつ自分が"Off Work"になるか、それは生産管理、経営戦略上の所掌であると考え、配置につくも休暇に入るも、命令による。そんなスタイルだ。ま、軍隊式ではあるが、これなら直接上司も『しっかりリフレッシュしてこいよ」と言いやすいし、周囲も『戻ったらしごいてやるからな』と気軽に言える。休む当人も『命令とあれば仕方がありません。では明日から▲▲月○○日まで失礼致します』。痛々しい空気はまったくない。

とはいえ、得意先情報をチームで共有しておかないと、休暇命令を出しても不慮のトラブルを心配した命令違反が続出するのじゃないかという気はする。「担当者」の不在は、怪我や事故でも起こりうるわけで、普通のことなんだけどねえ……。

資本主義も株式会社も、近代式軍隊もすべて西洋発の組織原理である。自然発生的に成長した方法には無理がない。どんなシステムも直輸入したままでは、サイズの合わない靴を履いているようなもので、どこか不完全であり、現場は痛々しくなることが多い。歴史を踏まえた人間臭い制度も、よその国が輸入すれば、輸入した後は平板な「権利」と「義務」の関係に整理されてしまう。『仏つくって、魂いれず』。この種の問題は、夫婦、家族、地域社会、自治体、会社、官庁等々、いたる所に隠れている。

× × ×

今日から月曜までカミさんは亡兄の三回忌で四国・松山に帰郷する。さっき空港まで送ってきた。故人を追憶するための儀式は、どれが正しく、どれが誤りだと言う議論はできない。

日本の明治維新はこの辺りのバランスを上手にとった。夏目漱石や永井荷風によれば散々だが、明治という時代にも評価できる側面は確かにあったというべきだろう。それでも富岡製糸場が日本の国宝になるときけば、漱石も荷風も目を回すかもしれない。


2014年10月17日金曜日

靖国神社ー春・秋・盆の風物詩になった政争

春・秋の例大祭、盆の季節の終戦記念日と、その頃になると必ず政治家の靖国神社参拝が世間の井戸端会議の話題となり、それに対して中国の非難、韓国の避難、時にはロシアの非難、アメリカの遺憾の意表明が相次ぎ、日本国内のメディアはメディアで支持派、絶対反対派の二つに分かれて主張をぶつけあう。そんな騒ぎがもう何年もずっと繰り返されている。

バカだと言えば不謹慎だが、論争するならするで何かの結論はもう出すべき頃である。

× × ×

今度も高市総務相が秋の例大祭には靖国参拝をすると表明し、これに対して中国の批判がまたまた報道されたりしている。そういえば日本国内の政治評論家・田原総一郎氏が高市氏の靖国参拝をTV番組中であれこれ批判したというので大荒れになったということも耳にした。

この話題について小生の個人的立場は本ブログにはすでに投稿している。石橋湛山元首相の撤廃論など、なるほど戦争直後の時点においてはそれが自然な提案であったのだろうと、非常に共感しているのだ。とはいえ、人によってこれほど主張がわかれる話題はない。

自然にまかせていても論争の収束点には行き着かない可能性が高い。

× × ×

誰もが、渋々ながらも認めざるを得ない結論とは、結局は、<論理的な結論>だろう。理屈に合わない主張を根気よく一つずつつぶしていくしかないのが靖国問題と戦犯問題である。

不思議なことは、靖国問題やA級戦犯など微妙な問題について世論調査が行われたことをほとんど聞かないことである。

どちらに転んでも結果が出れば出ればで、大きな論争を引き起こすきっかけになる。マスコミ各社はそう思っているのかもしれない……、怖いのか。ここまで文章を書いてきて、ふと気になりGoogleで検索してみたのだな。そうしたら、やっぱりありました。毎日新聞の世論調査で『A級戦犯分祀に賛成か反対か』を質問している。この結果を引用しているブログがあったのだ。あらゆるブログ全体に検索の網をかけるというのは凄いことである。

調査は平成18年に実施されたから相当以前である。分祀に賛成は63%、分祀に反対が23%で、概ね3分の2の人はA級戦犯分祀に賛成していた。

もちろん元データをチェックしたわけではないので、一つの素材として見ておくべきだ。とはいうものの、こんな結果だろうなと感じる結果である。

× × ×

高市総務相は「国策に殉じて亡くなられた方をどのように慰霊するかは国内の問題で、 本来は外交問題となるべき性質のものではない」と、16日の衆議院総務委員会でもそう答弁したと報道されている。

靖国神社に祀られている英霊は実に多様である。また、祀られていない戦没者、というか戦争犠牲者も実に多数である。その中で一つ確実なことは、戦後裁かれたいわゆる「A級戦犯」は「国策に殉じて亡くなられた方」ではない。国策を決定した人々、国策決定に強い影響力を及ぼした人々であり、つまり日中戦争から太平洋戦争に至る当時の日本の指導層である。告発の公平・不公平という問題はさておき、この点だけは確かである。

自らの人生が、軍事裁判における有罪で終わった以上、その国策は失敗したのである。失敗した国策の下で、300万に達する日本人が「国策に殉じて」亡くなった。これも事実だ。故に、指導者はその責任をまずは日本国民に対してとらなければなるまい。これがロジックではないか。

まして、その当時、国家元首であった天皇や陸軍大臣、参謀総長の意向にも反して(時には明白に無視して)、満蒙・支那・朝鮮など周辺地域で攻撃的軍事作戦を推し進めていったことは資料から明らかにされている。

日本が主体的に「軍事裁判」を戦後に行っていても、1920年代後半以降、軍規に違反して部隊を動かし、未承認の作戦を次々に展開したことの責任が追求されていたことは間違いなく、結局は実際の歴史と大同小異の — いやはるかに秋霜烈日の視点に立ってー「戦犯」が裁かれていたことであろう。そう想像できるし、またそう考えるしか選択の余地はない。戦勝国によって一方的に裁かれたという被害者意識は欺瞞である。原因が国策の誤りにある以上、最終結果は同じである。小生はこんな風に思っている。

それ故、現在の総務相がとっている立場は、日本の外から見ても内から見ても、非常におかしい。大きな欺瞞を隠蔽している。真の殉難者に対して失礼であると。そう見ているのだ、な。

2014年10月16日木曜日

10月は本当に「アノマリー」か?

ドイツ経済の後退、EU経済の後退予想に端を発した先行き不透明感から世界の株式市場が動揺している。

16日前場中ごろの東京株式市場で日経平均株価は安値圏でもみ合っている。前日比350円程度安い1万4700円台前半で推移している。一時は下げ幅を400円超に広げた。世界経済の先行き不透明感が強まり、運用リスクを回避する動きが続いている。
(出所)日本経済新聞、2014年10月16日

今年前半は、株価があまりに凪状態で変動しない。『これはおかし過ぎる』と指摘されていた。それが夏場を過ぎると、一転俄かに風雲急を告げてきたというわけだ。これもおかしなことだ。

今回の下落の発端は「EU景気」といわれるが、このこと自体は対ロシア経済制裁、ドイツ経済への打撃など、一連のつながりからEU景気の後退は半ば予想されていたともいえる。

予想されていたことが、さて現実になったからといって、株式市場が動揺するというのも奇妙な話ではないか。マスメディアの解説はどうも浅い。そう感じるのは小生だけだろうか?

★ ★ ★

ま、上の話しはともかく、9月後半から10月に入るころ、この先もAmazonやFBを持っていて大丈夫だろうかと気にはなっていた。

大体、1929年大恐慌のきっかけになった「暗黒の木曜日(Black Thursday)」は10月の出来事だった。また、日本がバブル景気に足を踏み入れるきっかけになった1987年10月19日「暗黒の月曜日(Black Monday)」も10月である。2011年の「リーマンショック」は9月15日。どうも9月から10月にかけては何が起こるか分からない「危ない季節」なのだな。

危ないからリスクを意識する。だから早めに売る。株価は下がる。しかしながら、10月に下がるのなら、絶好の買い場であるはずで、株式投資を考えている人は7月や8月には買わず、下落する確率の高い9月、10月を待つはずだ。なので、合理的に市場価格が形成されているなら、結果として9月、10月はことさらに株価暴落が発生しやすい季節ではなくなるはずである。ところが、現実には今頃の季節、株価は暴落しやすい傾向がある。これは確かにアノマリー(=正常ではない、おかしな現象)だと思うが、どうだろう。

★ ★ ★

数字を冷静に見ると、EU全体の景気は(今のところ)おしめり程度の減速である。アメリカ経済に異常は見当たらない。OECD全体をみても急速な崩壊が心配される「バブル」が進行しているわけではない ― 心配があるなら中国経済くらいだろうが、共産党政権は危機に際しては何でもできる権力を有している。しいて言えば、エボラ熱の感染拡大、イスラム国の影響拡大、パキスタンタリバンの影響拡大、シリア問題、イラク問題……まだあるか、心配事は?秩序維持のための世界的メカニズムは作動しているのか?

10月だから株価が動揺しているのか?現時点の世界情勢の実態を反映した本物の動揺なのか?数字だけを見れば、余裕資金があったら米株に追加投資したい位なのだが、この見方が正しいかどうか、まだ定かではない。

2014年10月14日火曜日

世界市場はデータ過敏症?それとも中国不安?

ドイツ経済が景気後退局面に入ったと言うのでEU経済についてはにわかに先行き不安が高まってきた。先日OECDから公表された景気先行指数(Composite Leading Indicator)も確かに欧州については頭を下げた形になっている。




う~む、確かにEURO地域全体の景況は、5月の101.0をピークにして、100.9、100.8、そして8月の100.7と次第に低下している。これを称して『欧州経済の先行き景気不安』か…、そして昨日のNY株式市場は大きく下げた。本日は新聞休刊日だが、日経WEB版には『世界的な景気の減速懸念から、売りが続いた。ダウ平均の3日間の下げ幅は673ドルに達した』と報じている。

噂や不安ではなく、実態をみると不安は欧州ではなく、むしろ中国の方だろう。中国は、いま現時点でソフトランディングに懸命のようだが、中国バブル崩壊の心配はずっと潜在意識の中にある。

ま、日本は(幸か不幸か)尖閣国有化とその後の反日暴動をきっかけにして脱・中国経済依存を基本方針にしている。その間隙にドイツ製品が中国に浸透してきていた。欧州の景気後退は、中国経済の足踏みを反映するものだと思われる。

アメリカは自律的に回復しつつある ― テンポは極めて緩やかだが。原油価格(WTI)は本年前半に上昇したが、基調は横ばいである。住宅価格はシラー住宅価格指数の上昇が一服しているが、これは当然の調整であり、これまでの住宅価格回復が急テンポすぎた。FRBの量的緩和終了が意識されるたびに、株式市場の心理はクールダウンさせられているが、いまアメリカ経済を測る数字に異常が出ているわけではない。

ロシア経済は数字的に落ちているわけではない。同じEUでもフランスは回復ステージにある。

日本は……、4月から8月にかけて、景気のピークアウトを示す典型的な形をとっている。


(出所)上と同じ

もちろん消費税率引き上げの反動である。

が、ならしてみると結局、2012年末から13年にかけて何が何だかわからず浮き立った半年間があり、消費増税の前の駆け込みがあったものの、全体としては横ばい圏内。潜在成長力に沿った軌道から上放れしてはいなかった。現状はこんなところだろう。

円安で少しは製造業の海外移転がスピード調整されたか…、それと円レートが下がったので、ドルベースの収益が上がり、その分だけ円ベースの株価がレベル調整された。これで儲かった人も多かろう。とはいえ、日本経済を活性化するための<実質に踏み込んだ構造改革>は何かやったか……?社会保険料は少し上げた。消費税率も少し引き上げた。が、もうイヤだという国民の声がある。10%は勘弁してほしい。次第に強く意識されるようになってきている。中途半端だ。国の姿はこうあるべきだという志がない。が、ホントに嫌なら仕方がない。

あと死ぬまで10年か15年、日本経済がもってくれればいい……。まさかそんな思いが「世論」ではないのだろうが、どうも志が衰えている印象だ。

こころざし衰えし日はいかにせましな
冬の陽の黄なるやちまた
つつましく人住む小路
ゆきゆきてふと海を見つ
波のこゑひびかふ卓に
甘からぬ酒をふふみつ
かかる日の日のくるるまで

三好達治の『志おとろへし日は』の第二連の2行目は、断然、「冬の日」よりも「冬の陽」がいいと思う。高齢化した日本社会は、いま、社会全体が「志おとろへし時代」に入ろうとしている。世論にはかなりのバイアスが混じってくることを考えなければならない。

数字は現実を正直に映し出す。要するに、中国経済の混迷、何もしない日本。匍匐前進するアメリカ。世界経済のポイントはこんなところではないか。

国民に「匍匐させるなどそれでも良い政府か」といいかねない日本社会と、「匍匐するときにはその前で旗をふるのが良い政府だ」と考えそうなアメリカと。観察される違いは、その違いを生み出している国民の違いによると考えるのがロジックだろう。



2014年10月11日土曜日

メモ: 宗教的対立とは?

『過激派テロ集団・イスラム国』への参加を意図していた学生が隣町の大学からも現れて、遠い地の話しではなくなってきた。

イスラム教は、そもそもキリスト教の分派でもあるわけで、キリスト教を国教としていた中世ビザンティン帝国の宗教政策上の失敗に遠因があるとも言われている。

ただ、今日はその話題ではなく単なるメモである。

× × ×

仏教では「神」という呼称はない。しかし日本の神道では多数の神がいる。それらの神は、仏教上の至高の存在である「仏」がとりうる多くの形のいくつかであるとイメージされている(ようだ)。現在では採用されていないが、聖徳太子以来の本地垂迹(ほんじすいじゃく)説というか、神仏習合論であり、こちらが寧ろ日本文化の伝統には沿っている。

今朝、はっきり目が覚める前に思ったのだが、仏教には阿弥陀如来や大日如来、釈迦如来など多くの如来がいる。年を重ねるにつれて、阿弥陀如来の名号をとなえる他力思想に共感を覚えるようになったが、阿弥陀信仰は唯一の神を信仰する一神教ではない。なぜなら、他の多くの如来が同じ仏教で信仰されているからであり、異なる名称をもった多くの如来的存在が本質的には同一の神であるとは議論されていないからだ。

しかし、多様な存在を認める以上は、その統一性というか、整合性というか、更にその上位にある<如来性>を象徴する存在を考えないと議論はまとまらないと思うのだな。どうも仕事上、常に<公理>から出発しているので、そんな考え方が癖になっている。

最近の小生に近しい<阿弥陀如来>も、一つの如来的存在であって、すべての如来に共通する如来的な本質だけを具有した存在を認めなければならない。そう考えてしまうのだ。このロジックは、すべての宗教的議論に包括的に適用される。

なので、教理には全くの素人であるが、すべての宗教は究極的には唯一の神を想定しないと理論化できないと。すべて宗教は同じ一神教として見ないとおかしい。今朝、そう思ったのだ、な。

× × ×

この理屈でいえば、すべての宗教は究極的には<神>自体を信仰している点は変わらないわけで、信仰自体は同じである。内容の違いはすべて民族的なもの、歴史的な原因によるものだ。つまり、人間的な原因である。信仰する神が異なるために、宗教上の対立が生まれ、紛争に至ることはない。

宗教的な対立は、信仰自体によるものではなく、学説の違い、手順の違い、儀式の違い、歴史の違い等々、宗教エリートの権力闘争になるわけで、つまり政治の問題である。そして政治問題の原因の多くは経済にあるといわれるから、結局は経済政策になるのかもしれない。

神々の問題も、根底にはカネや損得の問題があるというと堕落した見方かもしれないが、案外、本筋かもしれない。

2014年10月9日木曜日

報道と流言飛語の違いを疑う

前・産経新聞ソウル支局長が韓国側の検察に起訴されたという報道だ。

日本側のマスメディアは各社とも批判的な意見のようである―マア、当然だろう。

今後、いろいろなリアクションが出てくることは間違いない。ここで、韓国側の現政権がいかなる戦略的意図をもって今回の摘発・起訴までの道筋を描いたのか。そんなことをここで論じるつもりはないし、ほとんど意味のない事だ。

ただ思うのは、これまでにも何度か投稿したことだが、マスメディアが時に引き起こすネガティブ・インフォメーション・バブル ― こうでも言いようのない現象についてである。

ネガティブ・インフォメーション・バブル……流言飛語といってもよい。甚だしい例は、関東大震災時に発生した悲劇である。誰でもWikipediaで概略を知ることができる。典型的なネガティブ・インフォメーション・バブルである。
震災発生後、混乱に乗じた一部朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などが発生したが、こうした事件情報は混乱期にあって流言、デマなども生み出し、過度に警戒した民衆によって朝鮮人が殺害されるなど、朝鮮人側にも大きな被害をもたらした。最終的に日本政府は朝鮮人犯罪を一切報道しない報道規制をおこなうまでになった。震災発生後のメディア情報の中には、「内朝鮮人が暴徒化した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあったが虚実は判然としない。
(出所)Wikipedia「関東大震災」

ちなみに真偽に関する信頼性についていえば、WikipediaはBBCよりも上位にあるという調査結果がある。調査は英国で行われた。マスメディアの情報はしばしば流言飛語であるというのは、国によらず多くの人々が感じている。そのことを示す証拠になるのではないか。

今回、韓国の検察当局が産経記事について問題とした核心は、根拠や裏づけを調べもしないで、バケツリレーよろしく、<噂>を左から右に伝えると言う、その姿勢にあると。公式には、こんな理由を掲げている。

もちろん産経の支局長は報道するべき価値があると思った、公益にかなうと思ったと、そんな風に話しているという。しかし、単なる<噂>をそのまま伝える行為は、通常、<流言飛語>に加担すると言われても仕方のない行為である。

もともと韓国政府は産経新聞社に好意をもっていなかったことは推測される。政治的な意図が隠されているようにも思う。ま、ある意味、色々な邪念が背後にある。そんな風にも思われる。

とはいえ、マスメディアの唱える「報道の自由」は、調べもしないで勝手な噂を(時には尾ひれをつけて)勝手に流す。そんな権利とは本質的に異なるものである。小生は、そう思うことが非常に多いのだな。