太平洋戦争中の珊瑚海海戦は、日本が戦術的勝利をおさめ、アメリカが戦略的勝利をおさめたとよく言われる。確かにレキシントンが沈没し、ヨークタウンが大破した米海軍に対して、瑞鶴が無事で翔翮のみ小破した日本海軍が勝ったという形にはなっているが、結果として日本がこの海域から撤収し、目的であったポートモレスビー上陸支援を断念したのは戦略的意図の放棄を余儀なくされたのだから、それこそが目的であったアメリカ側からみればこの海戦は成功であったことになる。加えて、航空戦力が被った損害と翔翮の損傷が原因となって、珊瑚海海戦の直後に行われたミッドウェー海戦にこの二隻の空母が参加できなくなった。これもまたアメリカの戦略的勝利の一部である。
要するに、目先の成功を追い求めることで、最終的な目的を逸するという事態は往々にして生じるということだ。
国防大学政治委員を務める劉氏は今年、「較量無声(声なき戦い)」というドキュメンタリー映画を共同制作した。軍内部向けに制作されたとみられる同映画は、米国の「ソフトパワー」について、中国共産党を打倒する狙いがあると警告。劉氏は映画のなかで「米国は、中国に接近し、自らが主導する世界的な政治システムに融合させることで、中国を容易に分裂させることができると確信している」と述べている。
同映画では、他の軍幹部も同様の警告を発している。なかでも最も印象的なのは人民解放軍の最高司令官であり、中国共産党トップである習氏の引用だ。
「中国を抑え込もうとする西側諸国の戦略的目標は、決して変わることはないだろう。わが国のような社会主義大国が、平和的な発展を遂げるのを絶対に見たくはないはずだ」(出所)ロイター、2013年12月28日配信ソ連の崩壊をもって冷戦は終結したとされるのが世界の常識になっているが、中国は共産党が人民独裁制をしいている国家であり、経済運営はなるほど「西側諸国」と相性がよい制度に変じられてきたものの、契約自由の原則と財産権不可侵を根幹とする「欧州の近代」とは真っ向から対立している点に変わりはない。中国が、最終的には米国との根本的不調和を自覚しているとすれば、それは至極当然のことである。
武力を用いた戦闘のみが戦争を構成するのではない。戦争とは国際政治の場で自己の意志を他国に強制するあらゆる局面において進行するとみるべきだろう。こう考えれば、今世紀は中国が超大国に復帰する100年であるとしても(これにも小生は一抹の疑念をもっているが)、最終的に有能な人材を引きつけ活発な技術革新を継続できるのはどちらの社会経済システムであるのか。組織制度の適者生存を通して決着のつくゲームがいま進んでいるとみる。このほうが現実がよく分かる気がする。だとすれば、年内に靖国神社を参拝するという行為は、その真の狙いがどこにあるのか、色々な解釈が世界各国でされているようだが、長期的な行動計画を最適化する中で、それでは今は何をするべきか。そんな戦略的な思考から「明日、靖国参拝をする」という戦術が選ばれた。どうもそうではなく、理屈をこえた衝動的な不満解消に近い行為ではなかったか。そう思えるのだ、な。
国家の盛衰は、軍事力によって決着するわけではなく、窮極的には文化的な優勢、倫理的な説得力、更には宗教的な普遍性で決まるものであるし、こうした決着過程は何より経済的取引、国民的交流の中で進むものである。太平洋戦争末期において日本の政治家は「国体護持」という固定観念に苦悩したが、いま中国に対して日本が抱き、アメリカに対して支援を求めている本質的なものは、究極のレベルにおいてやはり「国体」であるに違いなく、具体的に言うなら「皇室」と「神道」の文化的正当性を守りたい。つまりそういうことではないのか。だとすれば、「やれやれ、進歩のないことよ」と慨嘆したくなるのは、小生だけではないと思うし、アメリカ人が日本人のそんな最高レベルの願望を理解するのかどうかも怪しいところである。世界史はもっと過酷なのであるから。
またまた日本人は日本という国の歴史的過去にからめとられている。小生はそう思ってしまうのだ。正にこの点をこそ中国・韓国は攻撃し、非難するのである。が、率直に言って、日本人の側もまたフランクに色々な国のありかたを考えてみる時期ではないかと感じるのだな。国の姿は、過去のしがらみも無視するわけではないが、その時に生きている人間が自分たちの幸福を求めて決めるべきことだ。究極の目標とは「幸福」でしょう。ここを認めるかどうかで、あとが違ってくる。多数の国民の幸福を主目的に置くことが、民主主義のエッセンスではないかと小生は思っている。「守り抜く」という姿勢は武士道の花ではあるが、映画「最後の忠臣蔵」もそうであるように、つまるところ非人間的な結果をもたらすことが多いものだ。