2025年12月30日火曜日

断想: 混乱の時代。科学、哲学、信仰、何でもありの時代になりました。

最近は《混乱の時代》であるせいか、日本語のネット世界でも「理念」、「価値」、「哲学」、「宗教」、更には「数学」とか「論理学」まで、異種の文化概念が言葉のゴタ混ぜになって、一種異様な言論空間が形成されつつある。

もう言論界なんて聴く気にも、読む気にもなれないネエ

そんな風な年の瀬であります。

要するに、何が正しいのか分からなくなった。そんな世相である。分からないから何もしない。見通しもなく何かをする。失敗すると責任探しをする。不安になって誰かを先制攻撃する。ホッブズ的な「万人の万人に対する闘争」たる世界。不安の根源はここにある。


そんな混乱の時代は、既存の世界が変質していくのを目の当たりにするので、誰もが不安に感じるが、実は混乱の時代こそ進化の時代でもあることは、狭い日本史の空間に限定しても例えば「平安時代末期から鎌倉幕府にかけての時代」があるし、「戦国時代から豊臣政権成立」までの時代もある。新しくは「桜田門外の変から西南戦争の終息」までの約20年間も挙げてよいが、こちらはごく短期間で日本社会は新時代への歩みを始めることができた。ひとえに《外圧》のお陰といってよい。


昨秋に寺で相伝を受け、それから朝の勤行と日曜の写経が習慣となり、書き写した「一枚起請文」も52週分になった。来年からは月単位で『仏説阿弥陀経』の写経も始めよう。


その『阿弥陀経』は、要するに「一心不乱に念仏せよ」、趣旨はこれに尽きると言えるような短い経典である。ずばりWiikisourceから引用すると

舍利弗 不可以少善根 福德因緣 得生彼國

舍利弗 若有善男子善女人 聞說阿彌陀佛 

執持名號 若一日 若二日 若三日 若四日 若五日 若六日 若七日 一心不亂 

其人臨命終時 阿彌陀佛 與諸聖衆 現在其前 是人終時 心不顛倒 

即得往生 阿彌陀佛 極樂國土

この部分が該当する。つまり、ここの本旨は

人は少々の善いことをしたからといって、だから極楽浄土へ往くことが可能になるわけではない。しかし、阿弥陀如来の名を七日間、一心不乱に念仏すれば、臨終の際に阿弥陀仏が現前して、平静な心のままで寿命を終えて、魂は極楽浄土へと往ける。

善行などの自力ではなく、仏の他力によって心は救われる、それに必要なのは念仏だけである。こういう主旨である。

これを日本の仏教界で文字通り「徹底」したのが法然であった。「専修念仏」というのは実にラディカルである。


この「一心不乱に」という個所だが、小生にはその狙いがずっと分からなかった。というのは、法然の直弟子であり、浄土真宗の宗祖でもある親鸞の思想に沿えば

念仏によって人は救われるのではない。人を救おうとする阿弥陀仏の願いが先にあり、阿弥陀仏の意志によって人は救われるのである。阿弥陀仏の願いによって人は浄土に往けるのであるから、念仏を繰り返し唱える必要はない。

こうなるはずだからだ。親鸞は法然に劣らず実にラディカルである。

実際、法然の『一紙小消息』を小生は毎月曜日には読むことにしているのだが、その始めの所に

行すくなしとても疑うべからず、一念十念に足りぬべし。

こう書かれている。やるべきことを余りして来なかったからと言って、資格がないと思う必要はない、という意味だ。十回、いや一回だけの念仏で足りる。法然はこう書いている。しかし、これは阿弥陀経が求める「一心不乱」とは方向が違っている。ところが読み進んでいくと

行は一念十念なおむなしからずと信じて、無間むけんに修すべし。一念なお生まる、いわんや多念をや。

念仏は絶えず唱えたほうが善いのだと書いている。

大学のゼミで、上の二つをゼミ生に話せば、

どっちが先生のホンネなんですか?

と確認してくるに違いない。法然は、一念で十分と口では言いつつも、心の中は「多念論者」であったのか?これでは表裏があるではないか?批判的な向きは、この点のほころびを必ず突いてくるであろう。


最近になって、こう考えることにした。

念仏は(理屈では)1回でも十分だ。しかし、真面目に一日千遍の念仏を何年も続けられる人は、「信」という不可欠の心を既に有しているから出来るのだ。

考えても御覧なせえ。

本当に阿弥陀仏の実在を信じているわけではなく、心のどこかで疑いをもっている状態で、毎日千回の「南無阿弥陀仏」を口で唱える気持ちになれるだろうか?それも自分が死ぬまでずっと欠かさず、一日千遍の念仏を続けることができるだろうか?心の中は実は科学主義で、阿弥陀仏や極楽浄土の実在を否定している人物は、一日千遍もの念仏は、バカバカしくてとても実行する気にならないはずである。まして、それを10年も20年も続けるとか、法然がしたような毎日三万遍の念仏を自らに課するとか、そんな「行」は、とてもじゃないが、引き受ける気持ちにはならないに違いない。

「信」をもたず、心の中に疑いをもっている人は、「この道を行くのは自分には合っていない」と、こう判断することで自ら納得するはずだ。浄土系の他力信仰は、禅宗など自力信仰と同じ程度に難しい道である。決して「易行」ではない。

物理、化学、生物学など自然科学でデータによって立証されていることのみが真理であると考える人にとって、信仰は素粒子や元素、更には化学反応など物の世界を理解することからは離れるので、とても難しいのである。


親鸞は「信」こそ始まりであって、最も重要であるから、「信」があれば念仏は本来は重要でないと考えたが、逆のロジックをたどると、「信」があれば阿弥陀仏と極楽浄土の実在を信じ、あとは自然に念仏が習慣になるはずである。結果として自然に多念になる。

「多念」がバカバカしいと感じたり、時間の無駄であるとしか思えないのは、その人は本当の意味で阿弥陀仏の実在や、念仏の意義を認めていない。つまり「信」の心がない。まだ始まっていない。そういうロジックになるのではないか。

もちろん目指すべき境地である菩提心に至るには阿弥陀仏の極楽世界のみに道が限定されているわけではない。柳宗悦は著書『南無阿弥陀仏』で

人はみな他力他力と喜ぶが、己は阿弥陀様の自力が有難い。

妙好人・庄松の言行録を引用することで第16章『自力と他力』を結んでいる。自力と他力とをことさらに区分して対立構造を持ち込むことは非生産的な煩悩に過ぎない。


最近はこんな風に考えることにしている。

う~~ん、本年最後の投稿はこんな話になったか・・・たしかに最近になって唯物論から親・唯識論へと走った小生の「転向」を象徴している。

2025年12月26日金曜日

断想: 懐かしき小室直樹の小室節をみるとは

小室直樹といえば亡くなってもう10年以上がたつが、生前は傍若無人にして時に天才的見解を語る評論家として名前だけは知っていた。ただ、仕事があまりに忙しく、氏の著書はほとんど読まないという状況が続いた。

氏の著書を初めて読んでみたのは、亡くなったすぐ後の頃だったかと思うが、何を読んだのだったかな?・・・忘れてしまった。忘れたが、この時代に読むにはもう遅すぎたかな、とそんな感覚があったことだけ覚えている。リアルタイムで新著が出るたびに読んでいれば、その鋭さに感服していたのかもしれない。

このように縁は薄かった小室氏であるが、最近、小室氏が書いた次のような短文が引用されているのを見かけた(文中、小生の裁量で意味のとおりにくい個所に修正を入れてあること、ご容赦を):

政治は元々極めて野獣的なものであるから、「政治倫理」と言う事自体、既に大きな矛盾を内包している。此処の処が、どうしても日本人には分からない。

 日本人は、政治の倫理の中へ、無制限に一般普通人の倫理を流入せしめるからこそ、却って、其れ自身、独自的でなければならない政治倫理は、自分自身を確立する事が出来ず、政治はアノミー化する。政治の倫理は、庶民の素朴な正義感と正面衝突する。

 政治家の任務は、「国民を幸せにし国家を安全にする」事にあるのだから、其の目的を実現する為には、普通の人間に許され(ない?)場合が屡々(しばしば)ある。

 政治の世界は、一般人の生活世界とは違うのである。そう言う政治世界で有能な政治家である為には、政治家たるもの、権力欲に滾(たぎ)っている人間でないと駄目である。

 此の事を、国民ははっきりと理解すべきである。

 権力欲のない政治家は、国を滅ぼすのである。だから「出たい人より出したい人を」(などと?)言うスローガンは、ナンセンスも甚だしい。俺が俺がと、権力欲の権化の様な人物でなければ、国を富まし隆盛に導く事は出来ないのである。

 権力欲が全然ない近衛文麿は全然ダメで、権力欲が余りない片山哲や鈴木善幸が殆どダメだった事を思い出すといい。

 リヴァイアサンの様な怪獣でないと誠実(まとも)な政治は出来ない。

 何時(いつ)の世でもそうだが、特にデモクラシーズ(デモクラシー諸国)が存続し得る条件は、其の上、立憲の常道が守られ、ジャーナリズムが正常に機能している事である。

URL: https://note.com/howan2878/n/ne8843cc1d385 

いやあ、小室氏ですか、懐かしいなあと思った。それに書かれていることは、まさに小室節にして、正論そのもの、最近流行している単語を使えば「ド正論」である。

これは正論じゃな

それが最初の感想。次に、感じたのは
それにしても「ド正論」だと認識しながら、それを行為につなげていかない現代日本社会の傾向は、とどのつまり、いったい何なンでしょうね?
と、改めて最近の非論理的なバカバカしさをも同時に感じたわけである。


昭和の妖怪といえば安部元首相の父上である岸信介と相場は決まっているが、昭和の怪物といえば田中角栄というのが多数意見であるような気がする。

その田中角栄という政治家は、令和初期の現代日本社会なら、強引な金権政治手法とブルドーザー的な実行力が大衆から忌避されて、マスメディアの標的となり、数多くのスキャンダルが早々に暴露されてすぐさま失脚していたに違いない。しかし、田中角栄が登場した時代は、上の小室的社会哲学が一定の支持を得ており、
政治家とは強制力をもつ権力を堂々とふるう人物である。
この当たり前のことが社会でマア、マア(?)認められていたという時代背景がある。


それにしても、《リヴァイアサン》、この言葉が出ました。

小室氏と同年代の社会哲学者が愛用した用語である。人間社会は『万人の万人に対する闘争』であると喝破した英人・哲学者トーマス・ホッブズは「国家」とは人類を見下ろす海の怪獣《リヴァイアサン》であるとイメージ化したのであった。小室氏の世代は、この枠組みが大好きで、伝統的立場に立てば「王権神授説」、近代的立場に立てば「社会主義礼賛」という選択に至ると言っても可である。

何と令和初期の現代日本人の感性と乖離しているであろうか?


しかしながら、現代世界は複数のリヴァイアサンの間で展開される覇権闘争の観を呈していて、アメリカ政府、中国政府、それから欧州も(?)、ロシアも(?)、第三世界も(?)、来るべき闘争の時代に覚悟を固めつつあるように、小生は感じる。

いずれにしても、18世紀から19世紀にかけて成立したヨーロッパ起源の《市民社会》を理想とするイデオロギーは、ヨーロッパ文化の地盤沈下とともに色褪せて行くのではないか?小生はそんな方向を予想したりしている。フランス起源の《G7サミット》。20年後にも存続しているイメージがわいてこないのだ。

それが善いことか、悪いことか、には小生は関心をもたない。ただ、世界がどう変質し、どの方向に向かいつつあるのかを考えたいだけである。それに世界の潮流を変えることなど、どんな政治家や独裁者にも出来ないことである。そんな力も権限ももっていない。政治家(とは限らないが)というのは、変化する世界に対応していくことだけである。対応が適切なら有能、不適切なら無能。ある程度、世界の行く末を先取りしてフレームを提示できる政治家が登場すれば、歴史的な大政治家ということになる。

引用した記事が令和7年10月6日という時点で世間に投稿されていること自体、平成から令和にかけて日本に浸透した《何だか分からない戦後日本的なイデオロギー》を服を着かえるように脱ぎ捨てる兆しなのか?そんな予感も感じたりするわけだ。

これは善いことだ。

日本社会も変わりつつある。つくづくそう思うのだ、ナ。

2025年12月25日木曜日

断想: 「熊」で終わった「涙コボルる」の世相

今日になって昨日の投稿を読み返してみると、結局のところ最後の方の

高校無償化も給食無償化もいいが、

カネをあげるより、カネを稼ぐ力をつけてやるほうが遥かに重要だ。

最近の日本社会や日本政府は、子供に小遣いをあげるばかりで、忙しいからといって、なにも教えてあげない親のようなものである。

言いたいことはこの一点に尽きるか、と。

今日届いたPaul Krugmanのメールマガジンにこんな下りがあった:

Today is Christmas Eve. We’ll be celebrating in New York with family and friends. I advocated for a traditional NY Jewish Christmas — i.e., Chinese food — but we’ve settled on Korean for Christmas Eve and family dinner at the apartment on the day itself.

今日はクリスマスイブ。ニューヨークで家族や友人とお祝いします。ニューヨークの伝統的なユダヤ教のクリスマス、つまり中華料理を提案していましたが、クリスマスイブは韓国料理、当日はアパートで家族と夕食をとることにしました。

(日本の専門家の一部には同氏に否定的な向きもあるようだが)何だか現代アメリカ社会で学問的な生活を送っている人の感性が伝わってくるようだ。


どこかのネットで『なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』というテーマで書かれた記事を読んだことがあって、元記事はどこだったか探していた。

見つけて改めて読み返してみたが、

  • 幼稚とは、肝心なことに目をつぶっているということ
  • 幼稚とは、自己を顧みない、という人として基本的な心の動きが欠けているということ

(残念なことに故人になったが)福田和也氏の上のような指摘が軸になって近年の学校と教師・生徒の状況を批評する内容になっていた。

URL:https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/4184686/2/

肝心なことに目をつぶっているということ。それが幼稚ということか?

確かにその通りだネエ。小生は「臆病」と認識していたが、これ自体が幼稚化現象そのものである、と。確かに幼児は(ごく少ない例外を除き)一般に怖がりで臆病だ。なぜ臆病かと言えば、認識能力と理解力が十分に育っていないからだ。「純粋」と形容するのは、その人が幼稚であるからで、実は「未熟」であると評するのが正しい。

国内メディアが幼稚化し、それは視聴者である日本の大衆の幼稚化に忖度、というより媚びる放送姿勢を意味し、そんなマスコミが作り出す「世論」に政治家が媚びる。政治家も幼稚化しているんだネエ・・・と。そして問題の核心は触れられないままに時間が過ぎる・・・


20年か30年かが過ぎたあと、日本国がどうなっているか予想もつかないが、将来のその時の人は令和初期という今の時代をどう評価し、書くのだろうか?

1930年代に異常化した日本社会と比べるかもしれないし、いわゆる「大正デモクラシー」、理想は高かったものの明治の遺風に反発するだけの、何だか浮わっついた口先・民主主義の時代と比べているかもしれない。

どちらにしても後世に誇れるような世相ではない。

望みは失せて 涙コボルる

そんな時代であります。

せめて『方丈記』を書き残した鴨長明のような文人が現れてほしいものだ。世の中がどれほど堕落しても、幼稚化しても、優れた才能が宿る人物は現れるものだ。たとえ社会や政府が愚かな戦争に(とは限らず他にも下らない政治目標は多々あるが)邁進する時代でも、世相にあらがい、大衆に媚びることなく、自分を表現し文化的遺産を残す人はいるものだ。実際、日本の暗黒時代にあっても文化的創造に努力した人はいたし、それらは何十年のあとにも今日の日本に残っているのである。

 

2025年12月24日水曜日

断想: 日本の長期停滞。主因が何かなど、分かり切った話ではないか?

少年期に教えてもらった将棋や碁を今度はAIアプリで楽しむことを知ったのはごく最近だ。そのことは本ブログにも投稿したが、愛用するアプリも段々と絞られてきて、いまは二つを頻繁に代わるがわる立ち上げてはパチ、パチと打っている。

一つはKaTrain、もう一つはBadukPopなのだが前者をインストールすると"Baduk AI Softwares"というフォルダーが生成されるので、両方とも韓国系開発者が創ったか、主導したのだろうと思っている。"Baduk"は韓国でいう「碁」である。

前者"KaTrain"のエンジンに使われているKataGoはGoのために開発された優秀なAIで、開発者であるDavid J. Wuはどうやら中国系アメリカ人(ではないか)と思われる。Wikipediaには

DeepMindが発表したAlphaGo ZeroとAlphaZeroの論文に基づいてDavid J. WuがKataGoを作成した。

と説明されている。

いずれにしてもKatagoは”MIT License”によるフリーソフトだ。KaTrainでも使われているし、(ひょっとすると)BadukPopでも使われているのかもしれない。こうしたソフトウェア開発に今度は韓国系の流れが段々と広がってきているわけだ。

注目されるのは、KaTrainは(メインは英語なのだろうが)日本語を含む複数言語で使える点だ。BadukPopは英語、韓国語、簡体字中国語、繁体字中国語の四つに対応している。だから小生は英語で使うことになる。

一つ言えるのは、複数言語で提供するのが理想だが、何かハードウェアなりソフトウェアなりを開発する際には、最低限でも英語を使うことを大前提とする大切さだ。

最近、日本棋院が「囲碁シル」、「碁であそぼ」といった入門(からかなりのレベルまで)向けのAI碁ソフトを提供しているのだが、英語すら残念なことに使えない ― そういえばインストールの時にも言語の選択はなかった。


日本人が何かを説明したり、教えてもらったりするときに、英語を日本語と同じ程度にコミュニケーション・ツールとして使うことは、まず意識しない。何かニュースを日本のメディアで日本語で伝えられた時、海外ではどう伝えているか、まずは英語で聞いてみるということは、ほとんどの人はしない。とにかく日本語だけで済ます。そんな習慣なのだ。英語でそうなのだから、まして中国語やスペイン語、ヒンズー語、アラビア語といったグローバル言語に向けた発信などは、日本人の意識にはないといってよい。

思うのだが、なにも外国語で難しい文章を読んで理解できるようになれとか、すばらしい演説を英語で出来るようになれとか、そんなハイレベルなことは個々人にまかせるとして、日本語以外の言葉で当たり前に意思疎通をしたり、メモを書いたり読んだりするくらいの言語能力くらいは、政府の責任で義務教育のうちから身につけさせてあげるべきだろう。

それがどのくらい役に立つものか難しい教育理論はいらない。自明だろうと思うのだ、ナ。

どの外国語を身に着けるかは、個々の子供の選択にまかしてもいいだろう。全員が英語を身に着ける必要はない。中国語ができる子もいれば、スペイン語が得意になる子がいてもいいではないか?それに何も小学校のうちに日本語と同じ程度に使えるようになれと考える必要はない ― 日本語だって下手な人間は多い。


失われた40年とか、日本人の働き方の低生産性とか、否定的な側面ばかりが指摘されるのが、このところの流行になっているが、これらの主因は何かといえば人様々、専門家は自分の言いたいことを言っているだけである。

しかし、一つだけ確実に言えるのは、高齢者になっても働ける間は働こうという一種の「社会運動」だが、現役勤労者が今の2倍も稼げているなら、おそらく起きなかったろうということだ。もし収入が今の2倍もあれば、若者は社会保険料の負担に苦しむこともなく、社会保障の財政危機に陥ることもなく、市販薬と成分・効果が似ている「OTC類似薬」(例:ロキソニンS、アレグラなど)を医療保険適用外にしろという議論もなかっただろう・・・そんな単純なロジックがある。

そして、現役勤労者の収入がなぜ増えなかったかと言えば、1990年代から2000年代にかけての急速な円高、生産拠点の海外流出、ニュービジネスに対する行き過ぎた規制等々、政府の愚行や不運な点もあったが、基本的には若い人の知識、スキル、言語能力が世界の中では今一つであったことが長期停滞を招いた最大の主因だ、と。そう思っている。

生活水準の低下には働く人々の実力不足という根底的な原因がある。世界に通用する実力があるのに、いつまでも実力相応の収入を得られないという理屈はない。

日本は社会主義ではなく資本主義の国であるから、収入とは一人一人のミクロの収入を指すのであって、マクロの社会的平均を議論しても意味はほとんどない。故に、収入の停滞は日本人一人一人の実力を反映した結果である。


だって考えてごらんなさい。野球やサッカーでは日本出身の超一流選手が続々と登場しているのだ。スポーツで能力を発揮できるのは、言語が必須ではないし、基礎学力が不可欠というわけでもない。だから実力が発揮できるのだ。しかし、商品開発やビジネスアイデアの発信にはグローバル言語を使わねばならない。ほとんどの日本人はこれがほとんど出来ない。

教育さえしっかりとしていれば、あらゆる分野で日本人は潜在的能力を世界で発揮できていたはずである。

こう思うと、いまの若い人たちは何と哀れな時代に生まれたことだろうと、実に暗澹たる気持ちになる。

何かといえば「グローバル化」という言葉を使いつつ、何をすればいいのかには頭を使わなかった国。それが日本である。

高校無償化も給食無償化もいいが、

カネをあげるより、カネを稼ぐ力をつけてやるほうが遥かに重要だ。

最近の日本社会や日本政府は、子供に小遣いをあげるばかりで、忙しいからといって、なにも教えてあげない親のようなものである。 

国も社会も、子を育てるという行為がどんなことなのか、分からなくなってしまったのだろう。


2025年12月22日月曜日

断想: 頭脳を備えた木鶏こそ最高のトップである

福沢諭吉の『学問のすすめ』だったか、『福翁自伝』の方であったか、しかと覚えていないのだが、福翁が若かった幕末という時代、尊王攘夷に燃える志士たちは長い日本刀を腰に差して、何かといえば守旧派を惨殺しようと血眼で斬るべきターゲットを探していた、マ、福翁の語る「思い出の世相談」というところだ。それで、より過激なテロリストはより長い日本刀を差しているというので、福沢は刀の長さを測る測定単位を《バカメートル》にすればよいと提唱した。そういう話である。


いまの世相に当てはめるなら「親中派」と「反中派」に二分類して、対中外交を冷静に進めようとする政治家を「媚中派」と罵る手合いを呼ぶのに、《狂日派》という言葉は意外と的を射て福翁の「バカメートル」に通じるところがある。

狂日派でも、妄日派でも、凡日派、煩日派でも、同じニュアンスになる。

サッカーのW杯でも、野球のWBCでも、《狂〇〇派》が人間集団全体をリードする舞台は多い。

しかし、外交や国防、財政など社会の運営においてコアな領域では、エンターテインメントとは無縁であるから《狂〇〇派》は求められていない。というか、出方を先読みされて、相手に利用されるだけである。


碁でも将棋でも、初心者のうちは、とにかく石を殺したがる、駒をとりたがるものである。

亡くなった父は

いまだ木鶏たりえず

が好きであったが、木鶏は木鶏でも頭脳を備えた木鶏は、最高のトップである。

先日も書いたが

対中外交の失敗は対米外交の失敗につながる敗北の方程式である。

対中外交には失敗して反中姿勢をとったが、対米外交で失敗をリカバーできて米政府は親日姿勢を選んだ。だから日本は救われたという、そんな前例は知らないし、将来にもそういう可能性は期待しがたいと思う。米政府は(せいぜいが)仲裁的立場をとる。この程度は期待してもよい(かなあ?)と観ている。

しかし、戦前期の満州事変を国際連盟が調査した報告書である『リットン報告書』にも(コアの部分で日本の利害が肯定されていたにもかかわらず)猛反発した日本人のことだ。日本を支持せず、日中の仲裁を始めようとする米政府をみて、日本人は「同盟国にあまりに冷淡である」」と恨みを抱き、対米不信の気持ちを高めるに違いなく、その反応はアメリカにも伝わるであろう。アメリカにはアメリカの立場があり、利益があるという側面に目を向けない・・・

何だか目に見えるようでありますナア・・・

(日本はずっと非民主主義的であったので)サンプルサイズは一例のみだが、日本史上空前の「大崩壊」の記憶がいまだ褪せないうちに、またぞろ同じ失敗を繰り返すなら、文字通り『バカは死ななきゃ治らない』と第二次世界大戦の旧・戦勝国の国々から論評されることでありましょう。

【加筆修正:2025-12-23】




2025年12月21日日曜日

前々稿の(ちょっとした)修正

 前々稿でこんな下りを書いた:

… … 与えられた漢字を書道作品として書くのは、AIには難しいかもしれない。

逆なら出来るはずだ。つまり、書道作品を画像として読んだうえで、それがどの漢字に該当するのかを判別する。それなら現在でも出来る分類(Classification)だから出来る(はずだ)。では、漢字が行書体、更には草書体で書かれているときはどうか?実は、そんなとき、漢字は最も芸術に近くなる。もっと極端な場合として、数行の文章が連綿体で書かれているとき、AIは個別の文字に正しく切り分けて、更に画像認識をして文字を同定させていけるだろうか?

極めて否定的なことを予想で書いているのだが、あとで調べてみると、連綿体で書かれた古文書を解析して現代文字に変換してくれるソフトは既に提供されていた。

たとえば「古文書カメラ」だ。 <古文書 読み取り ソフト>でGoogle検索してみると、この他にも複数のソフトがかかってくるから、大したものだ。

不明を恥じる。

ただ、

前稿の本題は、文字を与えて画像をつくれるかという問題で、上のような画像をテキストにするOCR技術とは逆にあたる。この点では、ヤッパリというべきか、毛筆フォントを使うのでなければ、良い方法はないようだ。

毛筆フォントの書体と手元のフォントの種類に作品は制約される。自由な創作は無理である。

AIは進化したが、アートとしての書道作品を創れる領域には、いまだ達していないようだ。

それにしても、絵画より書道のほうが難しいとはネエ・・・面白い。

2025年12月20日土曜日

ホンの一言:日本では産業空洞化が進み、中国では国家理念の空洞化が進む

円安進行と物価高が止まるのか? 止まらないのか?

昨日、日銀が政策金利を引き上げたが、引き上げを公表しているその時にも、円安は進んでいた。理屈に沿えば、日本が金利を上げて、アメリカが金利を下げれば、マネーはアメリカから日本に向かうので円高になるはずだ。しかし、現実は逆であった。

それは今回の政策金利引き上げは、市場金利の上昇トレンドを後追いするものでしかないからだ。長期国債の暴落は長期金利高、そんな中で短期金利を低く維持するのは短期で調達して長期で回す動機を提供するので非常に不健全だ。

長期金利高は短期金利の先高観を内包しているので、日銀も短期金利を上げざるを得なかった。


では、なぜ長期金利が上がっているかと言えば、日本国内の設備投資や住宅投資が旺盛になっているからではない。大胆な財政拡張(=大盤振る舞い?)を不安視する人が多いからだ。

これだけ円安になっているにも関わらず、海外に流出した生産拠点が日本に回帰する動きは鈍い。トランプ政権の関税引き上げの狙いとも重なるが、一たび流出した製造業の拠点が戻ってくるというのは、余程のことがない限りないことだ。海外で生産を続けてドル・ベースで儲けるほうが安心できるのである。だから

日本の産業空洞化は止まらない

高市財政はその穴埋めを国家が担おうというものだ。故にカネがいる。しかし高市政権は財源拡大の基本戦略を示していない。国債(=借金)に頼っている。だから国債が暴落して長期金利が上がるのである。事後的には、財政赤字主導のクラウディング・アウトになっている。

日本は今でも経常収支が黒字である貯蓄超過国であるから、本来なら豊富な資金を消費に充てられるように、新たなサービス市場の成長を担保する開業規制を緩和するべきなのであるが、

新しい試みはしないでほしい。今まで通りで十分。

こんな心理が蔓延している   ―   ちなみに小生のカミさんも最近は同じことをいう。有権者から嫌われることを何よりも怖れる政治家とマスメディアが共同歩調をとっている。まさに大衆が政治路線を決める民主主義国家の弱点が顕在化している。それが現代日本社会のいまなのだと観ている。

日清・日露戦争に至るまでの明治初めから中盤まで、日本は発展に成功したが、おそらく民主主義を採っていれば、国内の混乱を解決できずもっと迷走していたはずだ。多くの問題があったにもかかわらず明治・日本が「成功」したのは、天皇が統治権をもつ君主制と有能な専制政治家の功績である。この点では小生は非民主的だと自覚している。

そんな

海外から不安視される高市財政であるが、対中外交でも(軽い?)失策をした。

ちょっとした「言い過ぎ」であったので、カサにかかって対日攻勢を強める中国に怒りを感じる日本人も多いのだろう。高市政権の支持率は高いままである。


しかし、中国の姿勢に怒りを感じ始めたところから中国の国内事情に鈍感となり、それが対中外交の次なる失策をうみ、さらなる日中関係の悪化につながり、ついに日中関係の悪化が対米外交にも波及して、日本の対米不信がうまれ、互いの疑心暗鬼から日米関係も悪化したというのが、戦前の日本政府がたどった道である。

対中外交の失敗は対米外交の失敗につながる敗北の方程式である。

小生はそう思っている。

今回も同じ道を歩まないという保証はない。囲碁や将棋と同じで、敗着はずっと後になってわかるものである。その時には「ここしかない」と思って打つのである。


他方、中国ももはや共産主義国家ではないし、社会主義国家でもない。というか、社会主義国家建設に真面目に取り組んだことがあるのかというのが、20世紀後半の北京政府だろう。社会主義建設に見事に失敗し、1970年代末から共産主義を(実質的には)放棄し、資本主義を是として発展してきた。しかし、資本主義の勘所である《自由》を北京政府は認めていない。自由を容認せず、片方ではマルクス流の史的唯物論を是として、精神的・文化的創造には極めて冷淡である。唯物論なのだから外国文化は無視すればよいのに、流入には極めて警戒的である。精神(=上部構造)は経済(=下部構造)に従属するという割には、実に矛盾している。

中国ではいま現在でも「国家  >>  個人」であり、政治は共産党独裁である。しかし、共産党が掲げる政治理念と経済モデルは実質的には破綻している。

中国では国家理念が空洞化してきた。

故に、北京政府の統治する中国では、目指すべき国家目標が国内には見当たらず、結果的には自己利益だけが動機になっている、しかしそれは政府が容認している動機ではない。そんな理屈だろうと思う。自己利益を否定しがちな日本よりよほど活力はあるかもしれないが、どこか漂流しているような社会心理が蔓延しているに違いない。

かつて東アジア世界を魅了した中国文化をモダナイズして再生させればイイに、自由な文化的創造を抑える本能が北京政府には残っているのだろう、達成すべき国家理念を自ら捨て去っている。

結果として

超大国・中国の復活

共産党独裁の下で共産主義理念が空洞化したいま、こんな唯物論的な目標達成だけが、おそらくただ一つ国民が合意できる理念なのだろう。


しかし、こんな理念では世界中から人々が集まってくるはずはない。王朝国家・中国の盛時、中国の都には多くの外国人が世界中から集まってきていた。いま世界中から人が集まりつつあるのは、中国ではなく、日本の方であろう。

日本は、産業は空洞化したが、国家理念は空洞化していない。

文化の連続性、文化の継承が絶えない限り、その国は(体制はともかくとして)続いていく。そう思うのだ、ナ。

高市首相は、安部・元総理と同じく、相当の経済音痴であるのは歴然としている。が、「日本」という国を愛しているという点では、総理大臣にふさわしいのかもしれない。

今後、エラーを連発して選手交代にならないよう祈っている。

【加筆修正:2025-12-21】



2025年12月18日木曜日

昨日の続き:書道の作品創造はAIには苦手か?

絵画を描く仕事はもうAIにも出来る。絵画どころか動画創作(?)すら可能になりつつある。

AIのそんな進歩に期待して、昨日も投稿したように、漢詩を漢字の文字列として与えて、それを書道の作品として画像ファイルを作ってもらおうとしたところ、意外やまったくできないのであった。


それどころか漢字を間違えて書いていたりするし、横書きを縦書きに直すように指示すると、文字の前後がまったくメチャクチャになったりする。

どうやら個々の漢字コードに対応付けて画像認識されたイメージセットがあらかじめAI側でデータ化されているわけではないらしい。

ChatGPTやCopilotでダメでも中国発のDeepseekでは出来るのじゃないかと期待したが、そんな機能はないそうだ。自分は人工知能であって漢字をアートとして処理するのは苦手であるというか、そんな言い訳をしているのが、マア可愛らしいといえば、かわいい。

ChatGPTに聞くと、Deepseekは漢字を書道作品に画像化する機能は備えていないと回答するから、商売敵の長所・短所はよくわきまえているようだ。


ただ思うのだが、確かに与えられた漢字を書道作品として書くのは、AIには難しいかもしれない。

逆なら出来るはずだ。つまり、書道作品を画像として読んだうえで、それがどの漢字に該当するのかを判別する。それなら現在でも出来る分類(Classification)だから出来る(はずだ)。では、漢字が行書体、更には草書体で書かれているときはどうか?実は、そんなとき、漢字は最も芸術に近くなる。もっと極端な場合として、数行の文章が連綿体で書かれているとき、AIは個別の文字に正しく切り分けて、更に画像認識をして文字を同定させていけるだろうか?・・・例えば


URL:https://shogopin.wordpress.com/2013/03/21/%E9%80%A3%E7%B6%BF%E4%BD%93/

平仮名混じりの和文だが、これでも文字の識別は容易な方である。しかし、人間が自由に崩した文字を人間が読みこなすのも実は大変なのだ。AIに出来るか?

そもそも与えられた書道作品を画像として解析・認識できないのに、漢字を書道作品として書けと指示したところで、認識もできない画像を生成できる理屈がない。

・・・という理屈になるので、AIによる書道は(当面の所と期待したいが)諦めた次第。


今のところ現実的な解は

  1. 毛筆フォントの最大サイズを使う。ただ、一つの漢字には一つの形しか対応しないので、フォントの制限が創造の制限になる。これでは書道とは言えない。
  2. まず筆で書いてからスキャナーで画像化する。原始的なようだが、今のところ採用されている方法らしい。


漢字はそれぞれが音と意味が構造化されて出来た記号である。AIは勝手に異字体を発明して小生を吃驚させるが、どの文字のつもりかが伝わればやってはいけないわけではない。しかし、そんな異字体を読まされるAIは当惑するであろう。漢字にはそんな自由がある。読み方は国ごとに勝手に読んでいい。文字形から意味が定まるので書体だけではなく音も任意なのである。

文字から意味を取り去ったアルファベットも使い勝手がいいが、音を伝えるだけなので、スペルは国ごとに変化する。

一長一短がある。

中国が(日本も?)漢字を捨てることはホボゝないことだ。

2025年12月17日水曜日

ホンの一言: 表意文字・漢字の扱い、これは英語圏AIの弱みかも?

令和8年の元旦に出す年賀状は、水彩画を挿入していたこれまでとはデザインを一新して、いま暮らしている街の風景画のカットの他は文字だけにした。

謹賀新年と令和八年元旦という文字の他は、

蛍燈映戸読書夜

雪影侵窗歳序移

だけをプリントする。あとは筆で短い文を加筆する。これからはこれで行こうと思っている。


上の七言絶句の元の詞は周知の「蛍の光」である。これをChatGPTで唐詩風に翻訳してもらった。そのうちの第1句と第2句である。第3句と第4句は

今旦啟扉辭舊室

同門握手各分離

である。これが人手を煩わせた訳であれば修正を求めるのも遠慮らしいが、AIなら簡単だ。唐詩の調べをもっと格調高く出してほしいと注文すると

螢燈照牖書聲細

雪影侵窗歲序遷

曉色啟扉辭舊舍

同遊一散各飛煙

と出してきた。第1句の 「牖」という字は日本では標準的でないが、書斎の明かりとりの小窓を指すなら「窓」ではなく「牖」である。ユウと読む。字はすべて旧字体、というか正字体を使っているのがイイ所だ。


ただ、ここまでは素晴らしいのだが、上の漢詩の第1句と第2句を年賀状のデザインに入れようと、

漢字を書道風に書いて画像ファイルにしてほしい

と求めると、これが全く使い物にならない。

そもそも、個々の漢字を同定(identify)して、その漢字を行書体なり楷書体で書いたときの画像を対応付けるという作業が出来ていないようだ。

そもそも「蛍」という感じを書き間違えて奇妙な文字を発明してしまうし、最初は横書きで作った画像を縦書きに直してくれというと、語順がメチャクチャに乱れてしまう。意味がまったく分かっていない証拠だ ― ま、それは最初から分かっていたことだが。

どうやら現行のChatGPTやCopilotは漢字を表意文字としては認識できていないのだろう。だから、 多分、漢字の認識と画像としての認識が連携できていないのだと推測している。


まだDeepseekは試していない。中国初のAIである以上、漢字処理は英語圏発のAIよりは一段レベルが上であったとしても、自国の文字である以上は当然のことである。が、やってみるまでは分からない。

結果は改めて投稿しよう。

2025年12月13日土曜日

断想: 「心の中にのみある」をキチンと理解できる人、少ないかも?

世間でよく言われるが、

宗教によって神々は様々だが、これらはすべて人の心の中にのみ存在するという点では共通している。
同じ趣旨の記事を先日ネットでも見かけたから、現代日本社会の大多数の人々にとっては当たり前の常識になっているのだろう。

確かに神という観念は、心の外の外界に可視化しうる存在物(=物理的存在)としては存在しないという理屈は納得的である。しかし、上のような考え方の根底に

心の中にのみ存在するのだから、本質的には虚構であって、客観的に実在するものではない。すなわち、全ての宗教は人間が作ったストーリーに過ぎない。
これが言いたい事であれば、まったく賛成できない。というか、正反対であるというのは、最近の何度かの投稿で強調してきたことだ。とはいえ、これを再説するのに《唯識論》の要点から始めるのは面倒だ。ただ
「客観は実在するが、主観は心の中にのみある」と考えること自体がその人の主観である。末那識が駆使するその人の大脳が「彼我」の「彼」として構築した映像を「客観」という。
つまり「客観は実在する」と人が言うとき、要するに「我は実在する」というのを裏側から言っているだけだ。「考える」という行為には「考える我」と「考えられる非我」という二項対立が最初から必要なのである。そうでないと人は考えるという行為をなせない。大脳は考えている正に「大脳それ自身」を同時に考えることはできない。これだけを今日は記しておきたい。

「経験科学」という知識を議論し始めると長くなる。




昨年の秋に相伝を受けたことを契機に朝の読経が習慣になった。最初は「日常勤行式」に沿ってやっていたが、最近は月曜以外には「専修念仏」をしている。もし人が『南無阿弥陀仏』というのは人がつくった想像によるものだと言えば、人が考えたものであるのは確かな事実だ。異論はない。

そう意見を投げかける人に問うことがあるとすれば $$ \frac{\partial^2 u}{\partial t^2} = a^2 \frac{\partial^2 u}{\partial x^2}+f $$ という文字列と

南無阿弥陀仏
という文字列が記された固形物を(人類がその時まで生存しているかどうか分からないが)何万年もの未来に発見する人がいるとして、どう考えるだろう?

どちらの文字列も物理的存在として確かに客観的に実在すると言っても可であろう。他の人とも目で見ているその文字列は同一の表象として認識されるのは間違いないからだ。

とはいえ、客観的に実在するのは目で見ている文字列だけであるというなら、それは誤りだ。上の偏微分方程式はいわゆる『波動方程式』で、理系の大学なら2年か3年で学習するはずだ。方程式が伝えようとしている《知の働き》を理解できた人には

方程式が伝えている知の働きと知がとらえた真理が実在するのであって、この文字列はいま消え失せても文字が消えるだけで本質は何も失われない。
そう考えるはずである。そして、知がとらえた真理は生死を超越して永遠不変である理屈だ。なぜなら真理は、古代ギリシア人なら《ロゴス》、現代の英米人なら"Truth"、ドイツ人なら"Die Wahrheit"という単語で表現するはずだが、物質を媒体とする単なる現象ではないからである。物質は時間が経過する中で、老朽化し、消失するが、非物質的な知の成果は物質とは別に現に働いているともいえるわけだ。

働いている以上、そう働かせている主体が(いずれかの空間に)実在していると考えるとしても合理的な思考というものだろう。もちろん測定可能な何かのデータがエビデンスになるとは思われないので、経験科学の成果だけが真理であると断言する人は別の立場にいる。しかし、そうした《科学原理主義者》は、データによって実証されるまでは、いかなる数学的定理も真理とはいえないという羽目に陥るのではないかと逆に心配になる。

物質と非物質との違いは何度も投稿してきたので、これ以上くりかえす必要はない。が、念仏と偏微分方程式は、文字列自体に意味があるわけではなく、思念している心の中でとらえている対象が本質という点では似ている。見えているのは単なる記号である。本当に実在しているのは目で見ている物ではなく、知性がとらえた観念の方である。

だから、最初に引用した『神々は人の心の中にのみ存在するのです』というのは、確かにその通りで仏教では「法界」と言うのだが、これをきちんと理解できる人は(難しいことは避ける?)現代日本社会ではもう驚くほど少数じゃあないかと思っているのだ ― 少し以前は精神的な事柄にも親しんできた前の世代が身近にも生きていたので状況は違っていたが、最近年の高齢者は(年齢の割には)ただ元気なだけが取り柄であるとしか感じられない。

理性ではなく、視覚や聴覚など感覚を通したものだけが実在すると思う人は、自動運転されて走っているバスを目撃すれば

ついに人類は考える自動車を発明したわけか!
タイムスリップしたシャーロック・ホームズよろしく、こう思いこむことでありましょう。仮にそうなりゃ、
人が作った機械が考えるなら、鳥も考えているし、犬だって考えてるだろう。いやいや、宇宙全体、何かを考えているンでございましょう
そんな「汎神論」みたいな、マア、正反対の極地にも通じるわけです。

2025年12月10日水曜日

断想: 世界のスーパーパワーは100年ほどの黄金時代しかもてない?

前稿の続きのようなことを書いておきたい。

世界史には色々なスーパーパワーが登場した。しかし、どれほど長くとも、概ね100年ほどの「黄金時代」を謳歌できたに過ぎない。昔なら5世代かもしれないが、人間の寿命が長くなった現代では3世代ほどの長さでしかない。100年というのは意外と短いのだ。


イギリスは「大英帝国」と呼ばれたこと(それとも自称?)があったが、名実ともに指導的位置についたのは、ナポレオン戦争終息後の1814年に開催された「ウィーン会議」から1914年に始まった第一次世界大戦までの100年間に過ぎない。確かに18世紀末には他のヨーロッパ諸国に先駆けて「産業革命」がイギリスから始まったが、その当時はまだフランスが大陸欧州の主役のような役割を続けていた。イギリスが欧州を代表する指導国になり得たのはフランス革命の勃発とナポレオンの台頭と没落が直接的なきっかけである。加えて、自由貿易と金本位制によって英ポンドを国際通貨として通用させたことも大きい。

中国の清王朝は乾隆帝の時代、大いに国境線を拡大して現代中国の領土の基礎を築いたことが最大の貢献だと(勝手に)思っているが、清王朝の黄金時代である「康熙乾隆時代」も「三藩の乱」鎮圧後の1683年から乾隆帝が没する1796年までの100年少々にすぎない。

古代ローマ帝国の盛時で"Pax Romana"とも呼ばれた「五賢帝時代」も時間の長さで言えば最初のネルヴァ帝が即位した西暦96年から最後のマルクス=アウレリウス帝が亡くなる西暦180年までの100年弱に過ぎない。

日本史で最も長い平和を築いた徳川幕府もその黄金時代と言えば(人によって異なるだろうが)小生は綱吉将軍の下で元禄時代が始まった1688年から松平定信による寛政の改革が始まる1787年までの約100年間だと思っている。寛政の改革は統治組織としての江戸幕府の余命を可能な限り延ばしたという点では歴史的意義をもつ。しかし、中心人物の松平定信がたった6年間在職しただけで老中を退いた後の幕府政治には活発な創造力が欠け、むしろ地方の諸藩の統治能力の方に先進性があった(と勝手に考えている)。幕府政治が輝いていた時間もせいぜい100年ほどに過ぎない。

キリがないので止めるが、後は推して知るべしで、

歴史的節目をなす程の強力な統治システムであっても、その黄金時代は高々100年ほどで終焉する。これが歴史を通した経験則である。

と(これまた勝手に)思っている。


アメリカ合衆国が世界的なスーパーパワーとして登場したのが、第一次世界大戦に連合国の一翼として参戦した1917年。今年はそれから108年後に当たる。

世界のスーパーパワーとしてのアメリカ合衆国の黄金時代は過去のものとなりつつある。そう観るのは、これまでの経験則と合致していると思う。


今後進むのは《世界の変質》だろうと予想している。

すいぶん以前に経済発展と民主主義という問題意識で似たようなことを書いた。

一つの企業の寿命はよく30年であると言われる。30年ほどが経つと成長してきた企業も老化するというわけだ。社内改革を断行せずして、30年を超えて同じ企業を安定的に存続させるのは至難の業である。そんな経験則がよく言われる。

国家も企業もシステムである点では共通している。自ずから寿命があるということだ。文字通り《諸行無常》。100年も経って同じ国家が繫栄していれば、名称は同じでも実質は別の国家になっているという理屈になる。

2025年12月9日火曜日

ホンの一言: 高市首相のチョットした失言がバタフライ効果を生むのだろうか?

確かに高市首相はミスをした。外交経験の不足と自信過剰、支持基盤への配慮など幾つかの理由があったにせよ、「いま言う必要がないこと」を「最悪の場所とタイミング」で発言したのは否定しがたい。

碁や将棋であれば、その時には「悪手」。対局後の検討では「大悪手」と判定される一手に似ている。


純粋のミスであれば撤回もできるが、政治的狙いが混じっていたのであれば、撤回できない。それに、今さら撤回しても有効ではなく、むしろマイナスにしか働かない。手当しなかった「断点」に石を打ち込まれれば、時に「総崩れ」になるものだ。

中国は「守りのほころび」、「日本の弱み」を突いてきている。


米国は中国とBig Dealを欲している。経済的報復の切り札を持っているのは中国側だというもっぱらの評価である ― レアアースや巨大市場としての魅力を指しているのだろう。トランプ大統領は中国と商談を進めたがっている。

その弱みを中国は突いてきている。

日本とアメリカはつながっていなかったのだ。その状態で高市首相は「いう必要がないこと」を国会で発言した。

その「ほころび」を中国は突いてきている。


日本の外堀を埋め、日本を外交的に孤立させる好機が《棚からボタ餅》のように北京政府の上に降ってきたわけだ。

日本が圧力に負けて高市首相が(事実上の?)発言撤回に追い込まれれば、日本には《アメリカは頼りにならず》という痛恨の記憶が残るだろう。

アメリカが対中商談に執着すれば、日本に対中譲歩を要求するだろう。日本の不信をかい西太平洋の重要根拠点を失ってでもアメリカが対中ビジネスを選ぶ可能性はある。

アメリカは手を広げ過ぎた。帝国ではないのだ。帝国を維持するのは膨大なコストがかかる。正に"Business of America is business"である。大アメリカではなく、小アメリカでもよい。その方が安上がりに豊かな国をつくれるというものだ。

そういうことかもしれない。しかし、それは中国が西太平洋海域を勢力下におさめる第一歩になるだろう。


地政学上の大きな変動が進む分岐点にさしかかっているのかもしれない。

トランプ政権の大局観が間違っていれば、それが第一の理由になるのだが、その大変動の始まりは同盟国・日本の新米首相が想定問答を無視して自分の言葉で語った《軽い一言》であったということか?

しかし、

戦場で歴史的大敗北をもたらした原因は、一人の兵が乗っていた馬が小さな小石を踏み損ねて驚いて悲鳴をあげたことである。その小さな事故が味方にとっては最悪のタイミング、敵にとっては最良のタイミングで起きた。

これを《バタフライ効果》というが、太平洋海域の地政学的パワーバランスが大きく変動する(ことがあるとして、その)契機となったのは、高市首相のチョットした言い過ぎであった……、事後的にそんな風になる可能性が絶対にないとは言えないだろう。

2025年12月3日水曜日

ホンの一言: TVが「反社会的」な主張をすることもあるのか……

今朝もいつものようにカミさんと馴染みのワイドショーを視ていたところ、食べたものが喉につかえるような事を又々あるコメンテーターが語っていた:

米を増産すると前の農水大臣が話していたのに今は「お米券」を配って増産はしないという。お米券って筋の悪い方法ですよ。需要が多いから価格が騰がっているわけですから、お米券を配ったりするともっと騰がります。それより増産する。増産してもらって価格が下がったら農家に所得を保障してあげる。そうしたら価格は下がります、云々……

確かに理屈は通っている。増産してもらってコストがカバーできなかったら所得補償をする。農家は喜んで米を作るだろう。

キロ当たり100の費用をかけて米を作る。ところが市中の販売価格はキロ当たり60だ。このままでは農家経営が破綻するから政府が40を補填してあげる。そうすれば次年度も農家は米を作れるから安心だ。

こういう理屈だ。


しかし、この方法は農業生産の非効率性を温存するという理由で廃止された《食糧管理制度》とどこが違うのか?

イレギュラーな米価暴落時に農家所得を補填してあげるのであれば、マア、良い。しかし、毎年必ず損失が出るという経営構造になっているのに、それでも損失を補填してあげるというなら、バブル崩壊のあと「ゾンビ企業」が「不良債権」となる中、延命融資を継続した日本の銀行と同じことをやることになるのではないか?

農家の所得補償にあてる財政支出にも財源がいる。その財源は(理屈としては)税である ― もちろん国債発行もありうるが、さすがにこれを主張する御仁はおるまい。

要するに

高コストの米を食べる日本人に米を低価格で食べさせるため、その費用を日本人全体で負担する。

こういう発想である。

しかし、高価なコシヒカリやアキタコマチを愛する日本人のために、なぜその他の日本人がコストを負担しなければならないのだろう?『どうせ国民の税金で農家所得を補填するなら、最初から高い価格で買ってあげれば一番簡単でしょう』と突っ込みも入りそうだ。そんな突っ込みが入れば『高い価格では買ってくれないから困るんです。安くなっているのが困るんです。経営できないンです』、マア、これがTVコメントの話の本質である。


キロ当たり60の販売価格では生産できないという日本の農家の高コスト体質がコメ問題の根底にある。上の数字例だが、なぜ市中の販売価格が60まで下がるのか?人口が減っているとか、消費者の財布が厳しくて需要が増えないというのは違う。確かに高いコメを買い支える需要が出てこないのは事実だ。しかしこれは一つの側面でしかない。もっと大事なのは、それ以上の高価格になると高関税を払ってでも海外の安価な米を輸入できることだ。

コシヒカリなどの銘柄米にこだわっている御仁はいざ知らず、普通の人はカリフォルニア産のカルローズ米で十分だ。少なくとも小生は美味いと思う。故に米価上昇には限度がある。上がり過ぎれば関税込みの輸入米の方が安くなる。許可制ではないので貿易商社は外国米を自由に輸入できる。

日本のコメ関税は定率関税ではなく、キロ当たりの従量制である。米価があがれば関税もあがるわけではない。故に、世界でインフレが進行すれば日本の米作農家を守っているコメ関税というハードルは相対的に低くなる。コメの関税障壁はインフレ進行の中で瓦解するのである。そうなっても、日本がコメ関税を引き上げられる世界情勢ではない。下手にコメ関税を引き上げると、コメ輸出国は報復として対日輸出課徴金を使うでしょう。そうなると、日本人は高い国産米、課徴金込みの高い外国米しか買えないことになる。そうなりゃ、経済戦争になるっていうものです。

遠くない将来、いずれ日本のコメは実質的には自由貿易に近くなるだろう。


問題の本質は、日本の農家の高コスト体質にある。そして、高コスト体質の原因はわかっている。合理的な米作経営にすれば日本でも低コストにできる。低コストで高品質のコメを日本でも作れる。

いまは最も非合理的な米作をしている農家のコストに合わせて米価を決めている。合理的な米作をしている経営者は高い米価で利益を得ている理屈だ。合理的経営を増やし非合理的な経営を減らす。そうすれば日本でも低価格で高品質のコメを作れる。経済学の基本だ。学生でもレポートできる初歩中の初歩である。農水大臣が先ずやるべきことはこれだろうと、小生は思うが、日本社会は違った筋道で思考しているようだから、まったく訳が分からない。

コメの生産が非合理的であるだけではなく、日本社会全体が非合理的であるようだ。

具体的に合理的な米生産とはどこが合理的なのか?非合理的というのはどこが非合理的なのか?……、ここまで書くと身もふたもない。AIに質問すれば何時でも回答してくれる。

いずれにしても、高コスト体質の米作農業を肯定して、それを温存するためにカネを投入せよというのは、それ以外の必要な分野にはカネを回すなというロジックになる。まさに《反・経済成長》、《反・科学》。小生には、本日のワイドショーの見解は《反社会的》であると感じました。マア、「言うべきことは言うな、しかし何かを言え」とでも台本に書かれていれば、この位になるかナア、という事ではあったかもしれないが決して感心できる内容ではない。

【加筆修正:2025-12-05】

2025年11月30日日曜日

覚書き:マンション管理組合の総会

先日、いま暮らしているマンションの管理組合の役員を頼まれて、やむなく引き受けた。

北海道に移住してきて初めての冬を迎える年末、それまでの官舎暮らしを卒業して初めて分譲マンションを購入したのだが、運悪く籤に当たったのだろうか、理事長を頼まれてしまった。1年余りやっただろうか、初めての雪国暮らし、初めてのマンション暮らしを理由に断るべきだったとずっと後悔してきた。それが割れた窓硝子の取り換えを頼んだことから、引き受け手がおらずに困っていたのだろう、現理事長から役員になってくれと頼みこまれた。西行の『年たけて、またこゆべしと、思いきや』ではないが、これも縁かと思い引き受けることにした。今日は総会があったので出席した。ずっと昔、理事長を退任してからは委任状提出で済ませてきたので、出席するのは久方ぶりである。

最初の総会で司会をした時の情景はまだ眼底に残っている。みな若かった。しかし顔は忘れた。今日見た顔と同じ顔があったのかもしれない。その後、新しく入居した人も今日いたのかもしれない。それは分かるはずもないが、小生にとっては構内で時に挨拶をする程度でそれ以上には知らない人が並んでいた。

マンションの 総会に出る この三十年みとせ
       うつりける世を わが身にぞしる
実に歳月怱々。この12月の上旬、ニセコでリゾート事業を展開する会社が社員寮に買い取ったという1戸に台湾、香港の人が4人引っ越してくるとのこと。これからこんな事が増えてくるだろう、と。願わくば、日本で楽しい生活を送って、北海道には盆踊りはないが祭りにも参加して、母国に戻ってから思い出話を語ってほしいものだ。
この秋は 熊をおそれて 散策を
       ひかえて今日は 雪虫をみず
毎年の年末、清水寺が発表する「今年の漢字」は何になるだろうか?「熊」かもしれず、「米」かもしれず、「難」かもしれず、いずれにしても今年は明るい一年ではなかった。

2025年11月28日金曜日

感想: 福田梯夫『棋道漫歩』を読み始めて

囲碁がらみのひょんな縁から福田悌夫『棋道漫歩』を「日本の古本屋」で買って読み始めたところだ。囲碁がらみとは言え、本書は「漫歩」という名のとおり、広いテーマにわたった随筆集である。

著者はプロの作家ではない。Wikipediaでも紹介されているような地方の素封家、農場主として人生を歩みながら、太平洋戦争直前期に衆議院議員であったせいだろうか、敗戦後には公職追放処分のうきめに遭った人である。多分、戦後の農地解放で甚大な損失を蒙った社会階層、すなわち「斜陽族」に属していた。

生年は明治28年(1895年)だから小生の祖父ともそれほど年齢が離れていない。祖父もそうだったが、大正デモクラシーの空気を吸いながら思春期、青春期を過ごしたからか、その世代に属する人は昔の人とは思えないほどリベラルな社会観をもっていた。確かに戦前という時代を想像させるエリート意識は、小生にもヒシヒシと伝わってきたものだが、当時は大学・専門学校といった高等教育機関への進学率が5%ほど、大学になれば1%位で、100人のうち1人が大学までいくかという時代だった。まして本書の筆者のように東京帝国大学法学部を出ていれば、その稀少価値はいま芸能界にも利用されている現代日本の東京大学の比ではない。

最初の章の題名は『人間のレッテル』である。何だか戦前期文人のエートス(≒気風)がにじみ出ている様だが、読んでみると確かにリベラルである。

著者本人は自らを「ディレッタント(≒好事家、趣味人、物好き)」だとしている。つまり特定のスキルで稼ぐプロフェッショナルではない。地主として農業経営に従事してはいたが、法学部を出たのであれば、土壌成分や作物、品種などの専門知識はなかったろう。農業については、現場に通じた農夫ではなく、あくまでもアマチュアで、それでも現場の専門家を超絶した地方の名士として尊敬もされ、何か地方単位で政治勢力がまとまれば指導者にも推される。縁があって衆議院議員にもなった。そんな人物によるエッセーである。

ただ第1章から傍線を引きたくなった個所もあるわけで以下に引用して覚書としたい。

どれもみな素人の限界近くまでは達したが、結局玄人の埒内には踏み込めなかった。これは主として私がディレッタントであるせいだと思っている。あるいは下手の横好きと云っていいかも知れない。私は「下手の横好き」を高く評価する。

由来、玄人は過去の固陋な世界に執着して、正しい革新を阻む宿命をもっているものだ。未知の世界への推進力となる者は多くは素人であり、玄人の縄張り根性が進歩の敵となる場合が多い。

大戦当時、東条大将は首相となっても現役を去らず、従って陸軍大将の軍服のままで議会へも出席した。演壇から居丈高になって議場を睥睨する総理大臣の軍服姿に、当時議席にいた筆者は早くからまざまざと敗戦の兆しを感じた。

再軍備が行われる時が来たとしても、極めて明瞭なことは、少なくとも総理大臣と軍部大臣だけは、断じて厳格な意味の文民大臣でなくてはならない、と云うことだ。

ロシア=ウクライナ戦争が勃発してから、遠い異国の日本でもTV画面には自衛隊関係者や外交専門家が連日のように登場しては、色々なことを語っていた。

いまも時々あんな調子でやっている。すべて反ロシア的だ。反ロシアという点では、EU(のごく一部?)が急先鋒、米国のトランプ政権が立場をロシア寄りに変更中、日本はいつの間にかト政権より反ロシア的な位置にいる。日本が親ウクライナを選ぶ何か具体的理由があるのだろうか?

日本の反ロシアが露中関係に間接効果を及ぼし日中関係の悪化につながりやすい。アメリカは新政権になって早々に立場を変更した。日本だけは義理を守って、実利を捨てる作戦のようだ。損得を重視し機会主義的に行動してきた日本が妙に頑なだ。不思議である。

いずれにせよ、メディア報道が反ロシアで一貫しているのは

素人の意見はダメ。専門家の意見を聴かないとダメ。

というか、そんな盲目的な信頼が土台にあるのだろうが、上に引用した本の筆者は、筆者一人というより戦地に駆り出されて膨大な犠牲を払ったあと戦後に生き残った同世代全体を代表したいという気分も混じっていたのか

あるスキル、特定の知識でメシを食っている「専門家」は「素人」である主人を必ずだます

そう言いたい様である。

要するに、戦争の専門家である軍人組織が素人である文民や国民を、更には素人である天皇陛下という主人をも下にみて、独善と隠ぺいと保身に陥った末に未曽有の大敗北を喫した。実に傲慢で無能。この一点が核心であると言いたいのであれば、小生も大賛成だ。

本書が出版されたのは昭和36年で著者の福田氏は昭和41年に70歳で亡くなっている。最晩年を迎えた時期に記憶をたどりながら書き綴ったのがこの随筆集なのだろう。その最初に、上のようなことを述べたのは、その年齢に至っても「これだけは言いたい」という事だったのかもしれない。

それにしても、不思議に思うのは、大正デモクラシーという極めてリベラルな社会哲学、政治思想を身に着けた世代が社会の中核となった時、なぜもろくも陸海軍上層部の軍国主義にのまれてしまったのか?

自由を圧殺するような国家総動員体制をなぜ日本は選択しえたのか?それほどまでの知恵者が軍部にはいたのか?いたのであれば、なぜ必敗の開戦をするような愚を演じたのか?

まあ多分

普通選挙の導入で民主主義が拡大したタイミングで、知的劣位にあってただ楽しい生活を求める、無思想・無理念の大衆に「清潔な」軍部がアピールして、高学歴の文民・知的エリートから政治的ヘゲモニーを奪取した ― 最後にはこのこと自体が日本の「軍事政権」を束縛する状態になってしまったとみているが。

そんな風に要約されるだろうが、しかし直線的に成功したわけではないし、大衆もそれほど阿呆ではなかったはずだ。にもかかわらず、日本の大衆は我とわが身を縛って国に捧げ莫大な犠牲を甘んじて受けた。目が覚めたのは昭和20年8月15日だ。

これまで好著は何作も出版されてきたが、まだ納得可能な答えは出ていないように思う。

【加筆修正:2025-11-29、11-30】

2025年11月26日水曜日

断想:再び『社会が家族の代わりになろう』なんてネエ、という話し

少年時代、父からは将棋を教わった。ただ、その頃の父はそれほど多忙ではなかったのだが、教え方はあまり上手ではなく、駒の動き方を一通り説明したあとの基礎力をどう上げればいいか、当人の頑張り次第だナと、そんな感じだった。だから一生の趣味になるほどのレベルには達せず、中学生になって勉強が忙しくなると、自然に遠ざかってしまった。

芸は身をたすく

今になって思うと、塾の試験で正解できなかった問題を解説してくれるより、将棋を教え続けてくれたほうが余程ありがたかった。

将棋から少し遅れて母方の祖父は碁を教えてくれた。ただ祖父母は遠方にいて、頻繁に行くことが出来ない。なので親の家に戻ると、自然に碁のことは忘れてしまった。碁は将棋ほど覚えることは少ない代わりに、それらしく打てるまで体感すべき事は多い。もし祖父が(一時代前のように)近くで悠々自適の暮らしをしていて、いつ遊びに行っても相手をしてくれていたなら、パズルを解くのが好きであった小生は碁に親しんでいたと思う。これも極めて残念なことである。


最近、時間が少しできてクライツィグの数学テキストやスミルノフを読み返すだけでは飽きるとき、取り組みがいのあるゲームをやりたくなった。

いまはAI搭載の将棋、碁アプリが数多く使われている。そこでGoogle Pixel Tabletに詰将棋をインストールして何年振りかで将棋を再開した。ところが勘がまったく鈍っている。少年期に一定のレベルにまで上がっていれば「鈍ってもタイ」のはずだが、早々にやめたから身についていない。それでも段々と感覚を取り戻してきたのだが、タブレットの画面では駒がいかにも小さい。文字も小さすぎる。駒は動くし、目が相当疲れるのである、ナ(^^;;;)。かといって将棋盤を買いなおすのは億劫だ。片手間でよい。

それで碁をやってみた。こちらは最初から習得したとは言えない幼稚なレベルだ。それでも日本棋院から優秀なアプリが提供されているので、昔に比べると格段に勉強しやすくなっている。

もし小生の少年時代に「Katago」や「KataTrain」、「みんなの碁」、「KGS」などというソフトウェアが利用できていれば、祖父の家から両親のもとに帰ってからも、やり続けることが出来ていたはずだ。

英語や数学、更には大学の専門科目である経済学や統計学は、確かに人生を歩むのに役に立つ。が、少なくともそれと同程度に将棋や碁も我が人生を豊かにしてくれていたはずだった。つくづくそう思うのだ。


現代日本社会でファミリー・ライフといえば「両親+子供」の核家族を指すものと決まってしまった。

今はそんなご時世だ。しかし、かつてはそうではなかったのだ。

父は仕事で忙しく、便利で多種多様な家電製品がなく、食事の宅配サービスもコンビニ弁当もない時代、専業主婦の母もまたそれほど子供の相手はできない。そんなとき、祖父母は格好の話し相手、遊び相手であり、また教師であった。何より都合がよいのは「無料」なのである。そこに若い叔父や叔母が来て、従弟妹たちが集まってくれば、自然にそこはフリースクールになる。参加者もまた楽しいのであり、すべて無料である。

今は子供が何かを習得しようとすれば、家族外の有料サービスを利用する(しかないだろう)。お稽古事、習い事など教育サービスの価格は結構高い。その教育支払いを負担するために共稼ぎを余儀なくされている若い夫婦も多いようだ。

幸い、小生が暮らしている町は地方の小都市なので、カミさんの友人はこのところ孫を引きうけ始めて、自宅がまるで幼稚園や託児所のようになっているらしい。これもまた「無料」だからきっと娘夫婦の助けになっていることだろう。

もちろん祖父や祖母は、対価を受け取って特定のスキルを教えるわけではないから、若夫婦が希望する教育をしてくれるわけではあるまい。

しかし、ものは考えようで、親が望む教育を子が受けることが子にとって楽しいものとは限らない。中国ドラマ『琅琊榜 ろうやぼう』の中の台詞だが

親、子を知らず
子、親を知らず

である。

無報酬で、ただただ自由な祖父母の語りは、子供にとっては最もノビノビできる時間である。


いま東京の中央政府は、解体されつつある《家族》の機能を《社会》で代替しようと(どのくらい真剣なのか不明だが)努力している様だが、軌道に乗るまで何年かかるか小生にはわからない。ひょっとすると、不可能な難問に挑戦しようと大法螺をかましているだけで、かつて東京都で実施されていた「学校群」のように、30年くらいたってから、その時の現役世代が

過ちては改むるに憚ること勿れ

などと下から突き上げて、結局、何の成果も跡形もなく放棄されてしまうかもしれない。いわゆる《社会目標》というのは、その時代に何故そのときの大多数の人々がそんなことに賛成したのか、後になってみると分からない、そんなものが多いことは日本人には周知のことである(はずだ)。(特に民主主義国では)政府も議会も、決して失敗の責任はとらない。というより、とれないのである。

2025年11月22日土曜日

ホンの一言: メディアは黙っていた方がよいのでは・・・という話題

 少し以前の投稿でこんなことを書いている:

世界観、宇宙観が変わってきたことは何度かに分けて投稿してきたが、上のように書いてみると、社会観は相変わらず同じであるとつくづくと思う。社会の在り方は、与えられたものではなく、人が選択して変えていくものであり、その意味では本質的に不確定で、私たちの前に実在するものではないということだ。文字通りに《有為転変》にして《諸行無常》。社会は要するに《空》である。こればかりは、ずっとわかっていたような気がする。

世界観、宇宙観、生命観等々は最近になって考え方が一変したのだが、こと人間のつくる社会観については同じ観方で変わっていないということだ。

そんな風なので今朝のワイドショーは疑問だった。テーマは最近流行の《終活》で、「まったく老いも若きもシュウカツには一生懸命なんだネエ」と思いながら視ていたが、

これまで家庭が担ってきた機能をこれからは社会が果たしていくということですね

MCがこうまとめていたのは、まるで台本通りにしゃべる阿呆な鸚鵡を連想させるものでした。

そもそも「社会」という単語は、明治の文明開化時代、輸入文化が浸透する過程で日本に定着した言葉で、それまで日本で「社会」という言葉は使用されていなかった。「世間」、「浮世」という言葉が普通に使われていた。つまり、「社会」という言葉にはヨーロッパ起源の価値観、イデオロギーが付着していて、人を特定方向に向かわせる、そんな統一志向的ニュアンスが最初から混在していることには注意しなければならない。そして、あらゆるイデオロギーから、本来、人は自由であるはずなのだ。

考えても御覧なせえ。誰でも齢をとる。年寄りと現役と子供たちが生活に困らないために家族はあった。家族で不足する場合は親族が協力した。これが伝統社会的なライフスタイルである。いま「これではいかん。旧すぎる」とキャンセル・カルチャーのターゲットになっているわけだ。

それはそれでよい。

しかし、自分が年老いたあと自ら育てた子供を頼るのは反社会的であると主張するなら、一体どんな夫婦がすすんで子供を育てるだろう?

子供というのはカネはかかるし、面倒はかけられるし、才能がある子供より才能がない子供の方がずっと多いのである。"Child Cost"は経済学の世界でも研究テーマなのだ。 

現代は都市社会、消費文明の時代である。子供は育てず、人生を楽しみ、最後は社会のお世話になろうと行動するほうがずっと合理的ではないか。


老後の終活を社会が支えるなら、その支える側の「未来社会」の柱、つまり未来の現役世代、すなわち子供の誕生、育児、教育、成人もまた社会の責任になるのではないか。当たり前の理屈だ。

親の終活を社会が支える姿をみながら、自分は何もしない現役世代が、自分たちの子供に何かを期待するだろうか?そんなエートス(≒気分)をもつ両親に育てられる子供たちは、自分たちの子供をあえて産み育てようと願うだろうか?カネと手間がかかるだけではないか。経済的には損をするに決まっている。社会ではなく、個人のレベルに降りてくれば、人はこんな風に考えるはずである。


普通の人なら、こんな簡単な理屈、分からないはずはないと思いますがネエ・・・。何だか飛車と角を心配するヘッポコが玉が危なくなっているのに気が付かない、そんな情景が頭に浮かびます。

こんな見当違いが蔓延する主因は、社会をマクロで考えて、ミクロの行動を忘れているからである。Macroの議論をするなら"Micro Foundation"(=ミクロ的基礎付け)が不可欠であるのは、経済学には限らない。

経済政策もマクロ経済政策だけでは良くならない。マクロの議論は「全体としては…」と常に発想する。トップダウンだ。官僚的と言ってもよい。人は同じように行動すると考える。しかし、全体は一人一人の人間、個別の家族/世帯から成り立っているのだ。いくらマクロでこうするべきだと考えても、ミクロのレベルで同じ方向に向かわせる力が働かなければダメだ。

社会で老後を支えよう。家族には頼らないようにしようと考えるなら、老後を支える次世代の育成もまた社会の責任としよう。個々の家族には任せないようにしよう、と。こう思考しなければ、ロジックが通らない。

しかし、こんな提言がメディアに出来ますか?子供を産む・産まないは夫婦の自由であると、誰もが賛同するのではないか?社会のために子供を産んでくださいと連呼しても、それは違うと誰もが言うはずである。出産・育児を社会化する計画は無理なのだ。

本来は出来ないのに、できるかのように仮定したうえ、出来る部分だけを語って「だから出来る」と提案するのは極めて不誠実である。だから日本のメディアは信用されないのだ。

小生自身の「社会観」は、上に引用したとおりであるが、ほぼ同じことは英国のサッチャー元首相も言っている。前に何度か引用したことがあるが、最近の投稿のみ再掲しておこう:

... they are casting their problems on society and who is society? There is no such thing! There are individual men and women and there are families  ...

彼らは社会に問題を押し付けている。社会って何?そんなものは存在しない!男性も女性も個人も存在するし、家族も存在する(しかし)・・・

「家族」が現に機能しているのに、「社会」(=コミューニティ)の方がより重要だから、社会が家族に代わるべきだというなら、まだ良質の提言だ。真の社会主義的正道である。

しかし、現在の日本は、「家族」が機能しなくなっているので、「社会」に頼っているだけだろう。頼れる先を探したら、それは社会しかないと言うなら、実に無責任である。

老後・終活を社会化するなら、出産・育児も社会化しなければ、必ず失敗する。しかし「社会」などという実在はない。実在しないはずの社会が、あるかのように議論をして、ただ財源を調達するために法律をつくって増税するなら、それは《苛斂誅求》という古語に当てはまる。


出産・育児の社会化など、日本のメディア企業は口が裂けても言えないはずだ。であれば、「終活を支える社会」などとソフトなことを言わず、ただ黙っているにこしたことはないのである。

西洋を手本として歩んできた日本社会は追い込まれている。貧すれば鈍す。だから愚論を口にするのだろう。この件については、前に投稿したことがある。これ以上は本稿で記すまでもない。

2025年11月20日木曜日

ホンの一言: 「両刃の剣」の忍耐限度には日中で差があるのでは?

最初から北京政府は高市首相の出現を警戒していたが、当たり前のことだ。日本国内でも同じ警戒心はあったし、今もあるものと推測する。高市首相の支持基盤は最右翼を形成する超保守的な日本人有権者の集団なのである。

ここに来て、中国は日本産海産物の輸入再禁止に踏み切った。とはいえ、これを以て中国政府は高市首相の支持率低下戦略に舵を切ったと即断するのは早計かもしれない。


日本国内の報道では経済政策にまで対日攻撃を拡大するのは中国にとっても《両刃の剣》だと講評する向きが多い。

21世紀に入ってから、国内メディアがそのニュース解説で一体何度この「両刃の剣」という表現を愛用してきたか、もう日常用語になってしまった感覚もある。

しかし、以前の日本人なら

肉を切らせて骨を断つ

こちらの表現をより好んで使っていたような記憶がある   ―   ずいぶん昔になりましたが。

こんな所にも現代日本人がいかにソフト(≒軟弱?)になり、リスク嫌悪の感覚をもつようになったかが見られると思います。多分、そんな退嬰的な感覚が蔓延する根底には、人口の高齢化・少子化と低レベルの移民政策がシンクロして働いている、と。そう観ております。


同じ趣旨の表現は英語にもあるだろうと調べてみると、

Lose a battle to win a war

戦闘に負けて戦争に勝つ

どうやらこれが該当するようだ。

囲碁でいえば「7子を捨てて地合いをとる」と言った戦略感か。将棋で言うと「飛車を捨てて玉を詰める」とでも言える。

実際、中国の国民党政権を相手に始まった日中戦争で中国側が選んだ戦略は、文字通り「肉を切らせて骨を断つ」といったものだった。マア、肉を切られたのは中国で、骨を断ったのはアメリカだったが、それでも第二次世界大戦後を通して中国は"Forgotten Allies"として確かな評価を得ているのである。

中国は領土、人口に恵まれた大国であるからだろう、犠牲を厭わない傾向がある。それに対して、日本は犠牲を嫌がる。損失の拡大を心配する。速戦即決を好む。日本人が機会主義的だとよく言われるが、それも地政学からみれば仕方のないことである。

少なくとも中国は「両刃の剣」の忍耐限度が高いと予想しておくべきだろう。それに対して、日本は忍耐心には(最近は特に?)欠けていると観ている。支持率低下に脆弱なのも日本側である。


もちろんこの「忍耐心」は国民の団結心や絆のことを指すのではない。あくまで勝敗を争う戦略ゲームにおいてである。念のため・・・ただ、マア、こう言い切れるのか、迷うところで、日本が日中戦争を通して中国を叩けばたたくほど、劣勢のはずの中国は想定外にまとまり、世界は中国に同情し、日本は苛立ちを強め、追い詰められ、内部に亀裂が入っていったと理解しているが。

それにしても、高市首相の台湾有事発言。この答弁を引き出した立憲民主党の岡田議員に「余計な質問をする」、「誰が得をしているのか」などなど、批判が寄せられているらしい。呑気だネエ・・・ホントに。小生が思い出したのは、ホワイトハウスでトランプ大統領とゼレンスキー大統領が口論になった事件だ。ゼ大統領はヴァンス副大統領の挑発に乗ったと、今では誰もが思っているが、高市首相も岡田議員の挑発に乗った。(見ようによって?)そうとも観えるわけで、だとすれば「打倒高市」を胸中に抱いている勢力は、極右より左側に位置する広い範囲にそれだけいるわけでありましょう。

2025年11月18日火曜日

断想: 中国に明るい未来はあるのだろうか?

日中関係は(歴史問題をたとえ脇に置くとしても)100年単位でみて、決して蜜月関係にはならないだろう。

そもそも米中関係がどれほど改善されても、米軍基地が日本国内にあり、中国軍基地がまったくないわけであるから、米と中はいわゆる《タカ・ハト・ゲーム》の状況に置かれているのであって、である以上は自ら《ハト戦略》を選択するロジックはない。そんな戦略的状況の下で、日本は米側に属しているのは(ほぼ?)自明であるから、中が日に対してソフトに行動する理屈は(ほぼほぼ?)ない。

高市首相の国会答弁から又々こじれている様だが、日常茶飯事の小競り合いと達観して、覚悟しなければやってはいけない。

ただ、外交には全く素人だが、簡単な理屈くらいならカミさんともよく話している:

カミさん:また台湾のことで高市さん何か言ったの?

小生:中国が戦艦を繰り出して台湾を包囲して、アメリカ海軍との武力衝突があるとするなら、これはもう日本にとっては「存立危機事態」だと、そういったんだよ。中国は台湾のことに口を出すなって激怒しているわけさ。

カミさん:起きてもいないのに、なんでそんな事を言ったの?

小生:高市さんの本音が出ちゃったんだろうネ。日本が「存立危機事態」を宣言すれば、自衛隊は行動を起こすし、そもそもそういうことをしようというのが高市さんだと言うことさ。

小生:ハッキリ言わなくてもイイのに・・・怖い人なんだね、高市さん。

小生:外交や国防に詳しい人はみんなそう言ってる。お手本はサッチャー首相みたいだし、これからもあるんじゃないのかナア・・・

 一介の専業主婦である小生のカミさんすら「いまそれを言う?」という感性はあるようだ。

ただ思うのだが、「台湾は中国の領土と日本が認めている」というのは、(専門家の議論があるようだが)やっぱり一寸違うのだろう。

台湾は日清戦争のあと日本に割譲された。日本が太平洋戦争に降伏するまでは日本の領土であり日本が統治した。ただ領有権を日本に譲渡したのは清王朝だった。その清王朝は辛亥革命で崩壊したのだが、それを継ぐ中国の公式政府は北京の袁世凱から軍閥へと混乱し、やがて孫文・蒋介石と続く国民党が北伐を開始し優位に立つことになった。日本は反・国民党の立場を選び日中戦争への道を歩んだ。日本は第二次世界大戦で無条件降伏し、台湾は中国に返還された。その時の中国政府は蒋介石の国民党政府だった。国際連合の常任理事国に選ばれたのも国民党の「中華民国」である。その後に起きた「国共全面戦争」はとても複雑で本稿で短く要約するのは無理である。結果としては、共産党が軍事的勝利を得て毛沢東が「中華人民共和国」の建国を北京で宣言し、国民党勢力の掃討戦を行う。蒋介石は中華民国首都を重慶から成都へ移し、最終的に台湾・台北に首都を遷都した。その後、中国統一を目標とする北京政府は台湾を制圧しようと前哨戦である金門島上陸作戦を展開したが想定外の猛反撃に遭い敗退した。形の上では、正式な政府である中華民国と、中華民国を軍事的に打倒した中華人民共和国が並立・対立する状況がずっと続くことになった。

アメリカと大陸・中国との国交は1971年の米中接近を経て1979年に正常化し、アメリカは中華民国と断交し、北京政府が中国の唯一の公式政府として認められた。が、アメリカはその後も台湾との外交関係を非公式に続けてきている。日中国交回復も枠組みは同じだ(と理解している)。


台湾が日本の領土でないことは自明である。もちろんアメリカの領土でもない。ではどこの領土か?

北京政府と台北政府はなお敵対関係にあって《講和》は成立していない。台北政府にとって台湾は仮の居場所なのであろう。ちょうど首都・開封を追われた「北宋」が南方の臨安(現・杭州)に首都を遷し「南宋」と称した故事と似ていないまでもない。臨安とは「臨時の首都」であるという意味だ。北京政府からみれば台北政府は(軍事的に敗北しているにもかかわらず)台湾を「占有」し、北京政府の統治権を認めようとしない。

故に、台湾を領有するのは北京政府か台北政府かを単純に決めるのは中々難しい。


確かに北京と台湾の関係は「中国の内政問題」であるのだろう。この認識は北京と台北双方に共通の認識のはずで、日本やアメリカ、その他の外国が介入する事柄ではないと、双方とも考えているはずだ。少なくとも日本の領土に関する問題ではなく、アメリカの領土問題でもない。たとえは悪いが、日本にとっての「北方領土問題」を見る視線とロシアが見る視線が正反対の関係にある事情と似ているかもしれない。アメリカが北方四島の領有権に何か意見を言えば、ロシアは『これはロシアと日本の問題だ』と口先介入を非難するであろう。

中国を統治している唯一の公式政府だと自認し、また承認されている北京政府としては、台湾を占有している「台北政府」を解体し、大陸と統合するのは国家目標なのだろう。しかし、日本が返還した台湾を受け取った「中華民国」が台湾に移り、台北政府が台湾領有権を主張するとすれば、日本がその正統性を否定するのは難しい。少なくとも、北京政府が台湾領有権を継承していると主張するのは、旧政府が現に台湾に存在し領有権を主張している以上、無理があると感じる(はずだ)。

「北京(=中国)が台湾領有権を現にもっていると日本が認めたわけではない」という議論にはそれなりの理屈がある。

このように、どこまでも平行線である。

仮に、北京政府がソフト・コミットメントを採って、地方分権的原則に基づく《中華連邦制》を目指すとすればどうなるだろう?

中国は共産党による集権的計画経済では最早ない。共産党の優越的地位さえ認めるなら、それでイイと北京政府が達観してしまえば、あとは高度の自治権を獲得した方が、台湾ばかりではなく、中国国内の各地域にとってもウェルカムであろう。

国を問わず、時代を問わず、領有権の筋道など普通の人にはどうでもよいことだ。毎日が楽しく、暮らしが豊かになれば、その体制が最も好いのである。

政治は宗教とは違うし、理念は信仰と違う。政府は教会ではない。価値観などと小理屈を言わず、人々の暮らしを豊かにする平和な空間を創造してくれるなら、それが客観的な意味合いでも最良の政府であるに違いない。

豊かで広大な社会を造ったうえで、中国発祥の新たな文明を創り出していくのが、北京政府にとっては最適戦略だと思うがいかに?

ただ、創造と破壊を共産党が心底から怖れているなら、こんな方向は無理だろう。


 

2025年11月14日金曜日

断想: 社会体制は「所与」ではなく「選択」の結果ということ

政府に与えられた課題には三本の柱がある。

  1. 統治能力の維持
  2. 財政
  3. 国防
この三つだと思っている。

二番目の財政だが、財政が破綻するとき、つまり財政赤字の膨張が制御不能になるとき、国家が維持できないという点は何度も投稿している。その財政規模はその国の経済に依存するから、財政は従属変数である。故に財政需要を賄うためには、その前提としてマクロ経済を成長させなければならない。市場的要素と計画的要素をどのように混合するかという点は、年金や医療の社会保障のあり方で現代日本が混乱しているのは周知だが、それでも本来は枝葉末節の事柄(の一つ)に過ぎない。

三番目の国防だが、これも従属変数であって、国防の具体的内容はその国の外交に依存する。外交に失敗すれば国防はより困難になる。逆は逆だ。

財政と国防を満足すべきレベルで進めるのが有能な政府であるのは理の当然で、これが最初の《統治組織の能力》になるのだが、統治組織は大きく民主主義的統治と権威主義的統治に二分される。「権威主義的統治」が君主制や独裁制と言われなくなったのは、例えば共産党の一党独裁のようないわゆる「人民独裁」もありうるからだろう。

民主制、君主制と、いずれにしても財政と国防を巧みに行えば、国民は安心して暮らせるというのは、たぶん永遠の真理だと小生は思う。前にも投稿したことがあるが、先験的に、つまりそれ自体として民主主義が善いとか、君主制はよいとか、そのような議論は虚妄である。

つまり民主制と君主制という区別は、世間でよく語られているように善か悪かではなく、目的合理的な《選択》である、と。そして、どう選択するかは、その時代の環境、科学技術、価値観等々、色々な因子が働いて社会的に決まってくる。そう思っているのだナ。

政府の進める財政(金融も)政策、国防方針が、その国の経済状況、安全保障環境や外交環境といった《政治目標》の達成にどのように寄与するか?その時代、その時代で、民主的な統治組織が成功するための十分条件なり必要条件はあるし、立憲君主制的な、あるいは専制的帝政といった統治組織にもやはりそれがうまく行く条件がある。その条件を探求することが、本来は政治学に期待される問題なのであると思う。

残念ながら、経済学における「比較経済体制論」のような専門分野は政治学にはないように見える ― 政治学には門外漢の小生の勉強不足かもしれない。

高校の世界史の授業を思い出すと、歴史上の王朝国家、帝国や王国が破綻する契機として、しばしば戦争での敗北が挙げられる。対外戦争や内戦など軍事上の敗北によって国が消滅するのは、高校生にとっても実にわかりやすいが、それが外交上の失策によってもたらされたことを理解するのは、少々高級な問題意識である。まして、その前に財政事情が悪化していた事に意識を向けることが出来たのは、クラスの中でも少数であった。

そして、このような「統治上の失敗」は、いわゆる権威主義的国家でも、民主主義的国家でも、どちらでも起こりうる失敗なのである。歴史の授業に意義があるとすれば、このことを10代のうちに理解することではないだろうか?実際、現代世界においても不安定な統治状況はその国の社会体制が民主主義か権威主義かという単純な二分論とは関係なく発生している。民主主義か権威主義かによらず腐敗する政府は実際に腐敗している。

カギは、どちらの国家が統治上の失敗を起こしにくいか?この一点につきる。会社が発展していくかどうかは、常に現状を評価しながら社内体制を変革していくことが欠かせないし、プロ・スポーツのチームを編成するときには「どんな体制にすれば勝てるチームになるのか?」。有能なオーナーならこれを考えるはずだ。人間集団には《目的》があるものだ。その目的を社会全体の視点から探してみると、結局は「平和」と「豊かな暮らし」の二点に落ち着くはずである。目的を意識しない社会は漂流している。目的を意識できない政府は無責任であって無能である。これだけは言えるのではないか。

世界観、宇宙観が変わってきたことは何度かに分けて投稿してきたが、上のように書いてみると、社会観は相変わらず同じであるとつくづくと思う。社会の在り方は、与えられたものではなく、人が選択して変えていくものであり、その意味では本質的に不確定で、私たちの前に実在するものではないということだ。文字通りに《有為転変》にして《諸行無常》。社会は要するに《空》である。こればかりは、ずっとわかっていたような気がする。

もちろん上でいう「選択」とは、社会的選択であって集団的選択である。故に、誰一人として自分が選択したという自覚を持つことはない。それでも特定の結果として社会が変わっていく以上、それはその時に生きている人間集団が全体として選んだという理屈にはなるのである ― ほかに議論のしようもあるが、今日は一応ここまでで。

2025年11月12日水曜日

ホンノ一言: 日米の相場観、マネー感の違いなのか?

本日はつまらない感想だけ。

SmartNewsに載っていた東スポ記事のヘッドラインが目を引いた:

大谷翔平 WSオークションで第6、7戦ロッカータグが568万円!最高値は歴史的お宝で1598万円

「ナニナニ?」と思って検索すると、Yahoo Japan!ニュースにも掲載されていた:

MLB公式サイトが行っていたドジャースがブルージェイズを4勝3敗で下して球団初の連覇を達成したワールドシリーズ(WS)の実使用グッズのオークションが9日午後8時(日本時間10日午前10時)に締め切られた。第6戦と第7戦にロジャーズ・センターのクラブハウスで使用された大谷翔平投手(31)のロッカータグは3万6970ドル(約568万円)で落札された。

こんな説明がある。更に、

最高値は第7戦で7回から延長11回まで使用された一塁ベースで10万3930ドル(1598万円)だった。11回一死一、三塁でカークの遊ゴロをさばいたムーキー・ベッツ内野手(33)が二塁を踏んで一塁へ転送して併殺を完成。フレディ・フリーマン内野手(36)が両手を挙げて万歳したシーンはWS連覇を象徴する名場面の一つだ。

ということで、落札金額にも少々驚いたが、実使用グッズのオークションがMLBの公式サイトで開催されていたことにも興味を覚えた。

ちなみに<NPB オークション>で検索すると、「SMBC日本シリーズ2024チャリティーオークション」や「マイナビオールスターゲーム2025チャリティーオークション」などの開催例が挙がってきた。

ふ~~ん、日本のプロ野球でもやっていたんだネエ・・・知らなんだ

見直しました。得られた収益は「緑の募金」、「日本赤十字社」へ寄付して公益に寄与するとのこと   ―   植樹、能登半島被災地支援などだ。

但し、マイナビの方の収益が2600万円弱であるようで、この間のWorld SeriesのGame Sevenの9回裏に山本投手がブルージェイズのバーショ選手をセカンドゴロに打ち取った時のボールに1246万円の値が付けられたそうだから、MLBオークションでは1塁ベースと2ゴロ球の二つだけで、日本のオールスター・オークションの収益総額を超える。

ビジネスの規模が違うと言えばそれまでだが、

相場観、マネー感が日米でこれ程まで違うなら、MLBが実施する試合の放送権を日本がとれないとしても、当然であるナア。

と、そう感じました。

利益重視の民間が自由に行う経済活動や技術開発、商品開発を変化を嫌う日本政府が抑えてきた30年。

今や、司法当局、捜査当局に取り調べを受けたり、目をつけられたりする事が最大のリスクとなった。日本では「やりすぎる人」は排除されるが、「やらない人」は地位を守れるのである。そんな国民性を民主主義の政府が支援し、公権をもって代行している。だから、人々の味方であるメディアも、誰かが逮捕されれば被拘束者ではなく、拘束した側の警察を応援する。検察を励ます。阿呆に見えて仕方ありませぬ。

ついにここに来て

そして日本からはアニマル・スピリットを有する人物が誰もいなくなった

会社や役所で指示に従う人、前例に従う人を除けば、おしゃべりをする人と、駄文を書く人くらいになった、世間で目立つ人は。こう言うと言いすぎか?


2025年11月10日月曜日

断想: ファイル整理をしていると「瓦全」という言葉が見つかって・・・

前稿で書いたPC更新で古いOneNoteファイルを整理していると、偶々、安井息軒の≪瓦全がぜん≫を解説したページを見かけた。

そういえば、現代日本ではこの≪瓦全≫という言葉、学習指導要領ベースの授業内容としても、普通に期待される教養としても、完全に死語になってしまったネエ・・・そんな風に思いつつ「そういえば、この瓦全という言葉、出典は何だったかいナ?」と疑問に思った次第。

それで検索してみると、≪玉砕瓦全≫という四文字熟語の半分であることが分かった。更に調べると、西郷隆盛が作った漢詩に

幾歴辛酸志始堅
丈夫玉碎恥甎全
我家遺事人知否
不爲兒孫買美田
があることが分かった。読み下すと

幾たびか辛酸を歴て 志始めて堅し
丈夫は玉砕するも 甎全を愧ず
吾が家の遺法 人知るや否や
児孫の為に 美田を買わず
になる。

第四句の『美田を買わず』は有名だが、作品全体はこれまで知らなんだ。そうか、この中に「玉砕、瓦全」という句があったのか・・・そう思った次第。しかし、安井息軒と西郷隆盛、互いに同じ漢句を使うというのも変だ。そう思って更に調べてみた。すると

「瓦全」の出典は、中国の正史『北斉書・元景安伝』です。この書の中の「大丈夫寧可玉砕、不能瓦全」(立派な男子というものは、玉のまま砕けるべきであって、瓦のまま生きながらえるものではない)という言葉に由来します。
こんな解説がすぐに出てきた。ここがネット普及の素晴らしいところで、以前の世界とは最も大きく違う、というか進んだところだ。

なるほど、元々の「瓦全」は「玉砕」に対立する言葉であったのか。「大丈夫」たるもの「玉砕」を志すべきであって、「瓦全」を願うなどは恥である、と。ふ~~む、なるほど100年少し遡れば、日本社会にも男子の本懐、男子の覚悟というものがあったンだなあ、と。こんな風にも思いました。

しかし、安井息軒は玉砕ではなく、瓦全の人生を全うした、と。そんな風に自己認識をしていたようである。とすれば、これは自虐の思いを込めて「瓦全」と言っていたのか?

宮崎の安井息軒記念館のホームページにはこんな説明文がある:

明治5年(1872)元旦、息軒は書き初めで「瓦全」と書きました。あまり聞き慣れない言葉ですが、さてその意味はいったい何でしょうか?

「瓦全」とは「玉砕」の対義語です。「何もせず、無駄に保身し、生き長らえること。 失敗を恐れ、あえて挑戦せず平凡な結果に満足すること」という意味です。息軒はいったいどういった心境で、この二文字を選んだのでしょうか?

しかし、説明はここで終わっている。文字通り
The question remains open
である。
 

ただ思うのだが、現代日本社会では「玉砕」は否定され、誰しも「瓦全」の人生が良しとされているのではないだろうか?

こう書くと、女性蔑視であると批判されるかもしれないが、特に母親なら我が息子には長生きしてほしい。いくら有意義な仕事があるからといって死んでほしくない。生きてほしい。人間、死ねばそれきりだ。親に先立って死ぬなどあってはならない、と。母親ならそう願うのではないかなあ、と。カミさんに確認したことはないが、上の愚息に毎晩電話している姿をみると、そう思わざるを得ない。ちなみに、小生は男性であるせいか、自分の命は有意義に使いたいと思っている。息子には「玉砕」は寂しいが、「瓦全」を真っ先に志すような、そんな情けない(?)人生観は持ってほしくない。少なくとも、そんな感情に共感する気持ちがある。『山高きを以て貴っとからず。人生長きを以て貴からず』と、確かに共感する自分がいる。女性はどうなンだろう?… … …、残念ながらわかりません。

上の安井息軒にしても、西郷隆盛にしても、元々の人物・元景安にしても、すべて男性である   ―   元景安はむしろ瓦全の方であったが。善悪の基準である倫理・道徳・モラルは、まず例外なく男性が唱え、男性が書き著してきた古典に基づいていると言ってよい。男性同士が異論をぶつけあって、時には形而上学的な激論を交わしながら、モラルは形成されてきた。そこには男性の感情、男性の感覚が色濃く反映されている(と理解するべきだろう)。だから、いまは善しとされている「男女共同参画社会」においては、特に女性の感覚からみれば、

こんなモラルはおかしい。押し付けないで。
いま流行のキャンセル・カルチャーの根底にはこんな潜在的なドロドロとした社会心理があって、男性と女性を隔てる潜在意識上の溝を構成しつつあるのではないか?ほんと、どうなんでしょうネエ?、と。こんな疑問がないわけではない。

しかし、ラディカルなキャンセリズムにも道理があると肯定してしまうと、結局訪れるのは、"anti-moralism"、"anti-religion"となって、何もかもいま生きている人間が決めていってイイんだ、と。生きている間だけに意味があるンだ、と。何だか、こんな風に唯物論的に社会は進んでいくのじゃあないかと≪懸念≫しているわけであります。完璧な唯物論的世界観に立てば、一切の「価値」なるものは、空なる観念、実質的意味を有さない言葉遊びになる理屈である。どんな世の中になるか、目に見えるようではゴザラヌか。「地獄」は空想であると断ずるタイプの人間が現実の地獄をこの世でしばしば経験するのである。

いや、いや、安井息軒の瓦全から、今日は大げさな話になってしまった。これも覚書きということで。

2025年11月8日土曜日

断想: 「生体認証」、「本人確認」、「パスキー」、「認証コード」の嵐。それより英語が一択です。

ずっとWindows10で愛用していたMicrosoft Surfaceを諦めてHPのLaptopを買った。セットアップを終わって、使い心地を点検している段階だが、ディスプレイの色合いといい、キーボード打鍵感、キーのサイズといい、Surfaceが都会育ちのレトリーバーとすれば、HPはまるで田舎で働いている牛である。確かに、CPUもRAMも一段階上がって、タフで動作は早いが、ただそれだけになる可能性が高い、第一印象としてはというところだ。

ただ思うのだが、電子計算機(電算機)、というかコンピューターというのは、ハードウェアの能力がいくら飛躍的に進歩しても、ちっとも使い勝手が良くならない。

振り返ると、この事実に愕然とするくらいだ。その昔のメインフレームはマンション1戸分ほどの床面積を占めながら、能力はいまのスマホ並み、使いにくさはマニュアル式の自動車のほうが遥かに使いやすい代物であった。オペレーターの資格をもった人々は、恐れ多くも電子計算機を管理・運用できる専門家であったわけで、下々の一般ユーザーは自動開閉扉の内部には侵入できない規則であった。そんな不便な時代が何年続いたろうか・・・。

そのうち、Personal Computerなるものが出てきて様変わりした。その前に、確か≪ワープロ≫なる製品が一世を風靡して、誰もが富士通製"Oasys"の親指シフトをほめちぎるようになった ― あっという間に市場から淘汰されたが。そんな思い出は以前の投稿にも記してある。

小生の愛用機は、メインフレームからPC98機、それからAppleのMacintosh Plus、SE/30へ急速に小型化した。ちょうどその頃は、VaxやSunがIBMを駆逐し始めた時期に当たるのだが、結局、仕事ではWindowsで落ち着いた。一体、何台のPCを使っては廃棄してきたのだろう。いい論文につながった縁起のよいマシンもあったし、鳴かず飛ばずのまま更新された機械もあった。一時、Windows Serverに道草をしたが、今はWindows11 Homeで十分だ。ブラウザとエディタ―の他はとりあえずRstudioとAnacondaを入れておけば、やりたい事はほぼ全てやってくれる。前のSurfaceには多数のソフトがいつの間にか増えていたが、本来は、これで充分なのだ。そうそう、EvernoteとOne Noteには溜めたデータがあるので必要だ。あと不可欠なのは・・・マ、その時になってから決めよう。

それにしても"Pre-Internet Age"の間のパソコン世界というのは、音響カプラーやらモデムやらを繋いで公衆電話回線経由でデータ通信していたわけで、実にのどかなものであった。いまから思うと小さなサイズでしかなかった"Rogue"の圧縮ファイルを無事にダウンロードできるか心配しながら進捗状況を見つめていた夜の何時間かが懐かしい。

その頃のメインフレームを遥かに凌駕するHP Laptopの512GBもある内臓ディスクはまだスカスカである。こんなにいらなかったネエ・・・ずっと前は640MBのMOでもビッグデータと思ったものだが、いつの間にか「容量感覚麻痺」になっていたようだ。

しかし、100GB超の真正ビッグデータを使って初めてわかるような真理なんてあるのだろうか?ハッキリした真理ならスモールサイズのサンプルから推定、検定できるだろうに。1000万人も調べて初めて分かることなど、些細な事実じゃあないのか。意味ないネエ・・・だけど、進化したハードウェアだけがこなせる、ビッグスケールの仕事を創出しないといけないんだよネ、と。そんな風に思うこともしきり。

メインフレームは大空間を占拠した。今の高速PCは拡大したデータ空間を占拠して疲れもせずに動いている。何だかタコが自分の足を食っているようだ・・・

いや、これはまた別の話題であった。



HPのセットアップをしているとき、スマホとの連携を聞いてきた。

そうかあ、スマホと連携できるようになったのか・・・リモートでスマホからPCを操作できるのだネ・・・これは技術革新だ
と思うが、実はもう陳腐な技術なのだろう。

一体、これで助かったと思う人は、現代社会にそれほど多くいるのだろうか?便利なことは便利だが、その便利さが社会をどれほど効率的にしているのか、小生にはわからない。何だか作る側の自己満足だったりして・・・と思わないことはない。

でもマア、試しにやってみるかと。そう思ったが、何か「ネットワークが設定されていない」と。こんな内容のメッセージがスマホ側に表示されて、うまく行かない。何度か試みたが、マア、その過程でいわゆる≪本人確認≫を何度強制されたことか・・・わかりますけどネ。
ほんと、わかりますけどネ。犯罪が進行中じゃないのか?その心配は分かりますけどネ。それにしても、マア、使いにくいネエ・・・ログインするだけで生体認証やらパスキーやら入口が面倒化している。一度最初にやっておけばイイ、そうなの?でも、昨日と同じことをまた聞かれたよ、「お前、本人かってサ、それでいて指紋読んでくれない時もあるし、無理してナニやってるんだヨ。何をしたいんだ?」
正直、こんなやり取りが出来たらナア、と感じます。


ハードの技術革新は、社会の側の悪用可能性と必要な対応で相殺されて、ネットではほとんど技術革新の恩恵がピンと来ない。やることは単純な分析と文章作成だけなのだが・・・。こんな感想もあるようで。

作業日誌の断片をコピペして覚書としよう:

2025-11-07 HP Laptopスタート時: SONY Experiaではうまく行かず、Google Pixel Tabletで本人確認。PC画面のQRコードをExperiaでは読めず、Pixel Tabletで読む。Googleのパスキーを生成。Yahoo Japanにログイン成功! 但し、どこまでがYahoo、どこまでがGoogle上での出来事なのか、詳細にはフォローできず。
2025-11-08: Yahoo Japanにログイン時、再び本人確認。Google TabletでQRコードを読み、次いで生体認証。更に、Yahoo Japanに移行して「パスキーを作るか?」と確認される。作ると回答。また生体認証で本人確認。「これでいいか?クソめ!」とつぶやく。

ログインできること自体が有難い時代である。

多くの人にとって、上手にログインできるように知識を吸収するよりは、まずは英語で意思疎通できるようになる方が、現代世界ではよほど有益だ。その意味で、日本人にとっては英語一択の事情に変わりはない。

【加筆修正:2025-11-09】

 

2025年11月4日火曜日

断想: MLBのワールドシリーズもやっと終局に至って

MLBのワールドシリーズが終わった。毎日、多数者の予想を知りたいので賭けのオッズを見ていたが、事前予想は圧倒的にドジャース優勢と観られていた。それが最終的に紙一重の死闘が展開されたのだから、勝負事はやってみないと分からないものである。ドジャースがホームのLAで1勝2敗と負け越し、王手をかけられた時点では、さすがにこのままブルージェイズが押し切ると観る人が増えたようで、オッズも逆転したのだが、それでもドジャースは敵地で連勝した。今回のシリーズの特徴は事前予想がステージごとに裏切られ続けた点にあった。その意味で

サプライズに満ちたシリーズであった

こんな風に勝手にまとめているところだ。

時には、説明不可能な《天祐》の様なものが作用しているのかと思う事もあった。本当に《天運》というものがあって、天運がドジャースに味方しているなら、ブルージェイズが勝てないのもムベなるかな、である。

古代ギリシア人たちは、戦争の勝敗や国家の衰退は神々の争いが人間世界に映し出された結果であると理解していた。

ホメロスの『イリアス』を読むと、それがよく分かる。人間個人ゝの生涯を貫く道理と道筋は、人間には人間の解釈があるのだが、その背後には神々の対立抗争とそこから派生した因果が縁となってその人の人生を決めていくのだ、と。悲劇『オイディプス』は、あらかじめ定められた運命のとおりに生きるしかなかった人間の無力さを描写している。

人間は神の思いのままに生きるしかない、と言われればその通りであるが、現代科学主義の立場にたって世の中をみれば、人間社会の出来事はすべて人間が決めることが出来る。不幸は、人間社会の指導者の責任である、と。こういう議論になるから、古代から現代にかけて、人間が世界を観る目は180度真逆に転換してしまったと言える。

仏教では、ギリシア人が《運命》と呼んだ人生航路を《業》と言っている。ただ、永遠の過去から続く輪廻転生を通じて生まれる時に定まった《業》が、後天的に100パーセントの確度でその人の人生を決定づけるわけではなく、たまたま起きる出来事が《縁》となって、本来の《業》が現実化する。こんな世界観である。

前期までの実現値と今期のランダム要素とが、互いに絡まり合いながら、今期の値が決まっていくという意味では、統計の$\textrm{VAR}$モデルを連想させるところがある。$\textrm{VAR}$モデルでは、他の全ての変数の前期までの実績が今期の各変数に影響を及ぼすが、今期の他変数の変動からは影響されない。その意味で同時決定的ではない。この同時決定的ではないという所で、仏教の《依他起性》とは異なっているのかもしれない。

いずれにせよ

過去の出来事が現在および将来の値を決める

因果分析と言うのは、過去から将来への時間の流れに沿った議論になるのだが、しかし全ての変数の変動は、ある目的を達成するために目的合理的決定から定められた経路をたどっているだけなのだ、と。こんな正反対の見方も当然あるというのは何度も投稿した通りだ。たとえば、現在から将来への消費から得られる満足を最大化しようと考えるなら、いまこれだけの消費しかしない原因は、過去にあるのではなく、現在から将来にかけての収入、それも予想された収入の低さにある。楽観的に将来をみれば現在の行動は楽観的になり、逆は逆。昨日までがこうであったからと言って、それが今日の行動を決める理屈にはならない、と・・・

・・・マア、色々と議論はできる。

それはともかく、何となく

こんな結果になるのは、前から決まっていたような気がするし、もう一回やっても同じ結果になるような気がする。

こんな思いは、誰でも一度は感じたことがあるのではないだろうか?

人間には知性があるので、単純反復はしない。歴史は単純には繰り返さない。しかし、韻を踏む。形を変えながら、結局は同じ結果になり、状況は必然的に定められたとおりに変わって行く。それが《法》、つまりは《法則》というものだ。それが事前に予想できなかったのは、他でもない《人間の無知》による。

ソクラテスも言ったではないか。

人間は本来何も知らない。しかし自分は自分が無知であることを知っている。

と。

思うのだが、デカルトが発見した《考える我》とソクラテスの《無知な我》とを対立させるとき、小生はソクラテスの(というよりプラトンの)人間観にずっと共感を覚えるようになった。

今回のワールドシリーズでは事前の予想が裏切られ続けた。しかし、終わってみると、何だかドジャースが最後には勝利するべく定まっていたように思える感覚もある。

小生だけでしょうか?こんな感覚を覚えるのは?




2025年10月31日金曜日

ホンノ一言: コメ政策。これもお目出度いのはメディアで、政府はリアリティが分かっているパターン

高市内閣で任命された新農水相が、前内閣のコメ増産方針への転換を(部分的に?)否定して、

米は需要に見あうように生産する

聞きようによれば、従来の減反政策に復帰するとも解される発言をしたというので、非常に不評である。

今年初来の米価暴騰を受けて、

米は増産する。余れば輸出すればよい。

こんな路線が日本米作農業の「最適解」(?)であると、メディア業界はこぞって賛同していたから、なおさらの事、需要に見合った米作は不評なのである。

確かに、二つの路線は真逆の方向を向いている、かのようにみえる。しかし、某ワイドショーに出演した時の新農水相の発言をよく聞いていれば分かるように、

「増産転換」は、言うは易く、行うは難し、である。

実際、ChatGPTにデータを確認してもらえば、誰もが知っているはずの事実が指摘される。

例えば

日本が国内産米を輸出できる国際競争力はありますか?

という質問に戻った回答の要旨は以下のような内容だ:

  1. コスト高・生産効率の課題
    • 日本の米生産コストは、輸出を念頭に置いた競争力ラインに比して高いとされており、例えば輸出用米の生産コストを「60kgあたり約9,500円」まで下げる必要があるという指摘がある一方、現状では16,000円前後とも報じられています。
    • また、農地の分散、兼業・高齢化、機械化・省力化の遅れなどが生産効率向上のボトルネックとなっています。
  2. 輸出量・シェアの小ささ
    • 日本の米の輸出量は増えてきてはいるものの、国内生産量に比して極めて小さい規模にとどまっており、2021年には22,833トン(国内生産量に対して“0.5%未満”)と報じられています。
    • 2023年のデータでは、輸出額が約6900万ドル程度という報告があります。
    • このように、「量を競う」市場では競争力が非常に限定されており、規模の経済を活かしづらいという構造上のハンディがあります。
  3. 価格競争力の制約・保護政策の影響
    • 多くの国の米輸出産業と比して日本の農業政策・流通構造・価格水準は保護的で、高価格設定が続いてきました。結果として「やや割高=量を取る国際市場ではハンディ」という評価があります。
    • また、輸出向けに生産を切り替えたとしても、農地転換や機械化・加工・梱包・物流などの新たな投資が必要となるためハードルが高いという指摘もあります。
  4. 市場・流通・規制の課題
    • 輸出対象国・地域の需要を開拓し、安定した物流・パッケージング・ブランド戦略を構築する必要がありますが、これがまだ十分整っているとは言えません。
    • また、国内では消費量の減少・人口減少・農業従事者の高齢化など構造的な課題もあり、輸出を本格化させる“余力”に疑問が残るという分析もあります。

要するに、割高な生産コストをかけたコメが日本国内で余ったからと言って、海外で売れるのか?販売価格がコスト割れになるだけではないか?日本米はプレミアム商品であるとしても、海外市場で認知されているのか?・・・こんな当然の点が指摘されてくる。

トヨタ自動車がブランドイメージを築くだけでも長い年月を必要とした。海外で売るには、売るだけのマーケティング努力が要るということだ。いまでも高コスト体質の日本農業である。どこから規模拡大投資、農業労働者の雇用拡大、国際プロモーションのためのカネをねん出するのか?JA(農協)など、ノウハウも人材も、何ももっていませんゼ・・・

なので、米作に関する限り、お目出度いのはメディアの側、リアリティがどこにあるか(それも初歩的認識の範囲だが)を知っているのは新農水相であると感じた次第。

ただ新農水相の発言に非常に不誠実な部分もあった。それは

政府は米価に介入するべきではない。価格は市場にまかせるべきである。

この部分だ。

この「米価は市場にまかせる」という発言は現行の米価政策の現実に反している。いまガソリン税の暫定税率廃止で激論が交わされているが、コメも高い関税がアメリカなど輸入米に加算されているのだ。だから、国産米が競争力をもてている。その関税は日本政府が課しているのだから、関税を若干でも引き下げれば、日本国内の米価はたちまちの間に急落するはずである。この理屈は、ガソリン価格と同じである。

ただ売れなくなるのは割高な日本米。売れるのは安価なカルローズ米などだ。これが許せないと日本人が思うなら、高い米価は自らの意思決定の結果なのだから、これを嘆くべきではない。

ガソリン税は議論するが、コメ関税は口に蓋をして一言もふれない・・・触れずにおいて「米が高すぎる」という。しかし「高すぎる」ことの原因は追求しない。メディアの報道方針はそのようである    ―    さすがにコメが高いのは「円安」が原因だと、そうノタマウ阿呆な御仁は見かけないが、現代日本のこと、そんな人物が現われていた可能性はあった。

トラック運賃の上昇に困る財界からの苦情は受け付けても、エンゲル係数の上昇に困っている一般消費者の苦情は聞こえない振りを政府はしている。メディアもそんな政府の思惑に協力する。何かの見返りがあるのだろう・・・

だから日本の報道機関は不誠実・不正直だと思われて、信用されないのである。

以上、覚え書きまで。

【加筆修正:2025ー11ー01】

2025年10月27日月曜日

ホンノ一言: 「行政ミス」はあってもミスの責任を感じる人はいないであろう

小生が暮らしている北海道の海辺の小都市でも熊の目撃が市役所のホームページで公開されている。昨日は歩いて行ける程の地点で熊が複数回確認された。こんな状況では散歩するのも心配だ。カミさんは今は外出しないでと言っている。

こんな年は当地に移住してから初めてだ。

「まだ高すぎる」と世間で騒ぎがおさまらないコメは、Costcoで米国産カルローズ米が3000円/5Kgほどで買えるので心配はないが、熊にはホトホトまいっている。

思うのだが、「昨秋来の米価高騰」と「今秋の熊被害急増」。この二つは明らかに《行政ミス》であろう。地震は予知困難な天災だが、米価や熊被害は近年の構造変化、トレンド変化から予測可能であった(はずだ)。

一口に言えば、不作為の責めを負う。不作為とまでは言えなくとも、行政判断に見落としがあったことは否定できない。


判断ミスといえば、東日本大震災と福一原発事故ではどうであったかという議論はまだあるようだ。要約すると、大震災自体は事前予測困難。また津波による福一原発事故は、確かに社内の一部から注意喚起があったものの、大多数の情報は防災の十分性を示唆していた(と聞いている)ので、経営判断ミスがあったかどうかは断定が難しかろうと(小生も)思う。

コロナ禍への対応はどうであったか?防疫措置は十分であったのだろうか、自粛は効果的であった(のだろう)が、その反面で学童・学生へのしわ寄せが非常に過酷なものになった。「行政ミス」はなかったのか?

更なる検証が望ましいと思うのだが、必要性を指摘する意見は(少なくともメディアでは)ほとんど聞かない   ―   もし詳細に検証すると、メディアの報道ミス、解説ミスもまた検討の俎上にのぼるのは確実であるから、この辺を心配しての姿勢かもしれない。

もっと遡れば、1990年代のバブル抑制と不良債権への対応が適切であったかどうか、これもまた検証が不十分なまま残されていると思う。そこに行政判断ミスはなかったか?報道ミスはなかったか?国民の側の誤解はなかったか?

このように"further analysis"が必要であるにも関わらず、今は過ぎ去った過去の出来事だと忘れられている"disaster"は多い。

そのうち、誰か関心を持った人がゼロから調べて、本か何かにまとめるのだろうか?誰かが書評を書いて、何千部か売れるのだろうか?ひょっとすると、何かで受賞するかもしれない。しかし、社会的レベルでは小石が1個、池に投げられる時に出来る波紋のようなものであろう。

そのうち、そんな事は覚えていない世代が成長して、日本社会はリセットされ、リアルな大事件も歴史の中の一コマとなる・・・


日本という国は、そうやって大災害や大事件をやり過ごしてきた。しかし、自分が判断ミスをしたかどうかは、責任者当人は感じているはずである。自分の判断が適切であれば防止できていた(かもしれない)犠牲者の生命、犠牲者の遺族たちに、ずっと後年になってから痛切に思いをはせるのは、その人にとってとても辛い(はずだ)。

ただ「熊」にしても、「米価」にしても、関係機関、関係部署、関係者の数が多く、分担する責任も蜘蛛の巣のように絡み合っているため、実際には「自分の責任ではない」と。そう思う人が実は大半を占めているに違いない。


総理大臣もその権限は法で規定されていて万能ではない。多分、アメリカのトランプ大統領の10分の1ほどの権限もあるまい。県知事や市町村長に命令を下すことは不可。せいぜい「要請」だ。任命権者ですらないのである。

いま日本国に最高の統治者は存在していない   ―   この点は、日本だけではなく、アメリカ、欧州など全ての民主主義国でも同じで、権力は分立されている。三権分立はその一例だ。

なので、統治ミス、行政ミスがあるとしても、全てを引き受ける「統治者」がいない以上、ミスの責任を明確化できる理屈はない。

民主主義国は、全て《有限責任国家》である。一人の人間が権限として分担する責任は、実は小さなものなのだ。乗客の命を預かる航空機の機長の方が(機上では)万能だ。戦後日本では兵役の義務もなく、総理大臣は、理屈として日本人の命を預かっているわけではないのだ。


熊被害にあった人々には気の毒だが、地震や水害による死とどれほどの違いがあるだろうと思うと、暗澹とした気分になる。

日本とアメリカの大きな違いは、「自分たちを守るのは自分たちである」と、覚悟を決めて行動する当事者たちの意志を尊重する社会の気風にある。明治以後の日本は、「地方自治」が全くないか、もしくは不徹底で、全国一律の法で統治されるのが基本だ。そして日本人はそんな「国のあり方」にプライドを感じているはずだ   ―   小生はもっとも辟易するところだが。

そもそも熊もいない地域と大半の熊が生息している地域で、全国統一的な動物保護精神など運用されるはずもないわけである。

残念ながら、戦前、戦中だけではなく、個人の権利が重視されるはずの戦後においても、日本という国は日本人一人一人の生命をそれほど大切にする国ではない。自らを守る権利や、行動や選択の自由を社会全体でリスペクトする気風、感情がある国とは言えない。

尊いのは「国」であり、(日本人の?)「社会」である。尊重するべきは(日本人の?)「社会の意思」であって「当事者の意思」ではない。これが小生の日本観である。

だから、大切なのは、《国の法》であって、《社会の掟》であり、《地域》ではなく、まして、そこにいる《日本人》の命ではない。

建て前はともかく、現実はそうでありませんか?

【加筆修正:2025-11-06、11-10】



2025年10月25日土曜日

断想: 社会が深みをなくし浅くなる感覚?

ずっと以前、「新聞は世相を映す鏡」とまでは言えなかった。週刊誌もまた「世間の似顔絵」とは言えなかった。

今日のネットはどうだろう?

ネットは「世間を映し出す鏡」になっているのだろうか?

今日、何気なくネットを眺めていると、

暴力団関係者、半グレは世間の敵。根絶するように国に頑張ってもらいたいです。

こんな主旨のコメントが目に入った。

同様のコメントは星の数ほど寄せられているはずだ。


思ったのだが、作用には反作用がある。

世間に対して敵対的行為をとる人物がいる。反社会的組織がある。しかし、二つの側が対立しているなら、反社から眺めれば世間は反・反社という存在に見えるだろう。

世間に敵対する側が反社会的だと判断されるのは法律は絶対的に正しいという大前提に立つからだ。しかし、その法律は世間が決めている。世間が決めた判断を善として、それに従わない側を悪として、故に反社会的だと呼ぶ。これが人間社会の永遠の、というより現代社会のルールである   ―   法の論理を貫徹すればこれ以外の立場をとりようがない。

社会的な側は反社会的な側を「根絶」しようとする。根絶やしにしようとする。しかし、作用には反作用がある。根絶される側は、自らを根絶しようとする側を根絶しようとするだろう。互いにそれは正しいと認識するだろう。存在を認めないとはそういうことだ。

しかし、観察するに反社会的人間/組織は、世間を攻撃はするが、根絶しようとはしていない。敵対者を根絶しようと考えているのは世間の側である。部屋の清掃が行き届けば行き届くほど、わずかな塵も気に入らない。蚊一匹いても許せない。同じ心理である。

ここに非対称的な不毛を感じる。

今日は、北村薫『空飛ぶ馬』を読んだ。初めの『織部の霊』にこんな下りがあった:

手放しの愛情、己をむなしゅうするようなそれは、渇仰かつぎょうされるべき一つの境地のような気がする。

己が空しくなっていない状態で考える事には必ず《自我》に由来する煩悩が混じる。これは何回となく投稿してきたところだ。 

唯識論で想定する人間存在では、考える根拠である末那識そのものに《我》という仮想的存在が前提される。実在しない存在を実在するかのように考える。故に、煩悩から免れ得ないものとして、人間を描写する。

しかし「手放しの愛情」、己が混じらない愛は、確かにあるような気がする。西田幾多郎の《主客未分の純粋経験》を連想してしまった。

「我を忘れて」という境地で下す判断は、というよりそんな時の判断だけが、普遍性をもつ真の判断である。あとは個々の人間の考える判断で、自我に汚れている思考によるものだ。

「正しい自分たち」と「悪い反社会的人間」という分別にも、世間で共有される我執、我愛が染みついている。

随分以前にこんな投稿をしたことがある:

左衛門: あなたがたは善いことしかなさらないそうだでな。わしは悪いことしかしませんでな。どうも肌が合いませんよ。 

親鸞: いいえ悪いことしかしないのは私の事です。 

左衛門: どうせのがれられぬ悪人なら、ほかの悪人どもに侮辱されるのはいやですからね。また自分を善い人間らしく思いたくありませんからね。私は悪人だと言って名乗って世間を荒れ回りたいような気がするのです。・・・ 

親鸞: 私は地獄がなければならないと思います。その時に、同時に必ずその地獄から免れる道が無くてはならぬと思うのです。それでなくてはこの世界がうそだという気がするのです。この存在が成り立たないという気がするのです。私たちは生まれている。そしてこの世界は存在している。それならこの世界は調和したものでなくてはならない。どこかで救われているものでなくてはならない。という気がするのです・・・ 

倉田百三『出家とその弟子』の中の一節である。

どうも戦後民主主義に染まった現代日本からは、《深み》というのが消えてしまったような感じがする。 いま生きている世の中はどこか調和していない感じがする。だから《閉塞感》なる社会心理に覆われているのではないか?もし調和しているなら、成長率は低くとも、自足、満足、幸福感に支配されているはずだ。

こんな風に思ったりする最近です。


マア、河には泥や砂がたまって浅くなる。人間社会も油断をしていると、あるタイプの人間集団だけが生息可能で、非正規で非標準的な人間は棲めなくなってしまうのだろう。

「彼らは根絶するべき人たちだ」と発言する人が堂々としていて、世間に忖度しているのかわからないが、異論も反論も出てこない。それが正しいと思い込んでいるのでありましょう。それこそ仏教でいう煩悩三毒の筆頭である《痴》。即ち、無知である故の迷いであります。迷いの自覚がない凡夫の信念ほど始末のおえない厄介者はない。

多くの人が、そんな風である時、社会は四分五裂するのだと思う。「戦国時代」とはそんな時代の(一つの現象的な)帰結であったに違いない。


近世の英国人・哲学者ホッブズが洞察したように

本来、人間社会は万人の万人に対する戦いである。

敵と味方の二つに分ける態度は愚かさを映す鏡である。二つには分けられない。味方と思う世間の人々もまた《私》にとっては敵であることを知る。人間社会に敵と味方はない。敵といい、味方と言い、そんな観念自体が一つの虚妄である。これを《遍計所執》と言うことは最近勉強した。

【加筆修正:2025-10-26】

2025年10月21日火曜日

ホンノ一言: 国債の需要創出へ「家計が吸収する仕組みを」・・・ついに出てきましたか

 <財政破綻>をキーにしてブログ内検索をかけると、夥しい数の投稿がかかって来る。繰り返しになるが

思うに、王朝が宮廷の華美によって次第に退廃し、財政が破綻するのと同様に、民主主義国家も自らの過大な要求から財政肥大化を免れることはできず、結局は破綻する。

もっとも最近ではこんな下りを書いたのが、本年6月の投稿だ。そうでなくとも、高校の世界史の授業では「朝廷の財政は破綻し、地方では内乱や暴動が頻繁に発生した」という説明を何度聴いたことか。財政が破綻すると、内乱が起きるのは、軍事費が捻出できず、兵士の給料すら未払いになるからである。そんな状態では正規軍も出動出来ないよねと  ―  世界史の先生、こんな風に分かりやすく説明してくれていたかナ・・・?

江戸幕府の瓦解も遠因は《財政破綻》と《財政健全化の失敗》である。これに成功したのが西南の雄藩、即ち薩摩と長州であったことも日本史の授業で習ったはずである。

《財政破綻》は、民主主義国、社会主義国、帝国・王国を問わず、一つの国が衰退する共通の兆候である。

難しい理屈は専門家に任せ、《財政破綻=崩壊への前兆》ということ位は知っておくべきですぜ・・・というのが経済学の初歩中の初歩という所だ。日本のメディア業界にこの認識が薄いのは、シンプルに大学で真面目に勉強した人材が入社していないということだろう。

財政が破綻への方向を辿り始めると、中央政府(及び地方政府)の債務が膨張する。破綻とは赤字拡大が制御不能になるということだ。

財政赤字は、当初の段階では制御可能だとみな考える。国債を引き受ける金融機関や家計が見つかるのも政府が(ある意味)信用されているからだ。信用されていない政府の公債なら金利を30%にしても誰も買いやしません   ―   いまアルゼンチンがそうなっています。

さて、今日の日経にこんな記事が載っていた:

政府が発行する国債を巡っては、買い入れを減らし始めた日銀の穴をどう埋めていくかが課題だ。財務省理財局長を務めた野村資本市場研究所の斎藤通雄研究理事は日銀以外の国債保有額が年50兆〜60兆円増えていくとの見方だ。市場の安定には家計を含めた民間需要を高める方策が必要と指摘する。

Source: 日本経済新聞

Date: 2025年10月21日 

財務省元理財局長がこんな発言をしているそうだ。

日銀が国債を引き受け続けて、その果てに金利引き上げを迫られ、国債相場が値崩れすると、日銀の経営が不安定化し、円安が進行し、国内のインフレに歯止めがかからなくなる。これが《通貨の崩壊》という現象だ。《円の敗北》とも言える。

だから日銀は保有している国債を徐々に整理していく方向である。しかし、いまの日本社会では《国への依存心》が高まるばかりで、誰も財政破綻と社会の崩壊を心配しない。国債の引き受け手を見つける必要がある、と。そればかりを言うのは、一言で言えば、(どこか)安心しているからである。

そこで日本の家計に国債を買ってもらう。上の発言の主旨はこういうことである。

これを読んで、小生は太平洋戦争開戦を可能にした《臨時軍事費》という言葉を思い出しました。

戦争状態が継続する限り、陸海軍はいくらでも予算を確保できる。その制度的裏付けが整ったところで、戦前期日本の陸海軍は対英米開戦までも決意することができた。また、議会にはそれを停める手段がなかった。

このエピソードを思い出したわけだ。

仮に、本当に日本の財政が破綻しても損をするのは国債を買った日本人である。「なくしたものはしゃんめえ!」とばかりに日本人が我慢すれば、アジア危機のときの韓国や、財政危機の時のギリシアのように、海外に利払いを継続するために、強烈な緊縮生活をおくることにはならない。どちらにしても、国債を多く保有するのは日本の富裕層であるに違いない。富裕層が資産をなくしても、庶民はかえって愉快であろう。格差は是正された!こんな感覚もあろう。

・・・しかし、富裕層が資産を失くすというのは、日本人全体の資産がなくなるということでもある。

財政赤字を国債で補填し、その挙句に財政が破綻するという事は、その間ずっと、国内の資産を食いつぶしてきたということと、同じ意味である。

つまり、財産税こそ実施はしなかったが、国債を買わせることで政府が合法的に富裕層から資産を強奪したわけである、ナ。食いつぶす資産がなくなった時点で、財政赤字は継続不能となり、そこで財政が現象的にも破綻する。

富裕な日本人と貧困な日本人が混じっているよりは、日本人は全て平等に貧乏人ばかりである方がまだマシであると、その時になって思うかどうかは微妙であろう。

上の元財務省理財局長だったかナ(?)、この発言は要するにこういう方向に行くしかないということでしょう。いよいよ現代日本社会も最終的崩塊が見えてきた感じだネエ・・・そう感じました。

しかし、救いもある。

いま日本で暮らす富裕層に国債を買ってもらおうとすれば、インフレ率が不透明ないま、5年物で金利5%がほしいと小生なら思う。

日本では新規購入は出来なくなってしまったが、例えばアメリカの"Ares Capital”(ARCC)を買えば利回りは9.84%に達する。これは極端としても、最も安全な米国債10年物なら利回りは本日現在で4.25%である。こんな国際的投資環境の中で、日本の国債は10年物で1.70%である   ―   そりゃあ、日銀が引き受けてきましたから・・・

政府が買ってくださいという国債を買うか?・・・買いませんよ。こんな低い利回りの債券など。それに10年たつうちに日本政府の国債自体、紙くずになるかもしれません。インフレと円安はリンクしてますから。日銀に引き受けさせるのは危ないから家計に買わせようなあんてネエ⋯⋯、江戸時代の勘定奉行だってここまで冷酷じゃあありませんよ。

つまり、財政が破綻する危険性は、今のままではアメリカよりも日本の方が高い、と。そう観ているのだ。上の財務省元理財局長の発言だが

日本の家計を深堀りするとともに、国際金融市場でも広く、増発される国債を消化していきたい

もしこんな提言なら、小生は大賛成である。「大賛成」というと語弊があるが。

日本の国債を海外諸国も広く保有してくれれば、「非常識な財政政策」に対して、国債の売り浴びせという形で日本政府に警告を出すことが出来る。日本人が求めても、資本市場がその非合理性を指摘する道が開ける。

愚かな日本人の独善を国際資本市場が指摘してくれるとすれば、実に、実に有難いではないか。戦前期日本もオープンにしておけば日本国民にも良かったのである。そうすれば「臨時軍事費」などという愚策が議会で通った直後に円は暴落していたに違いない。

無知な日本人を騙して、挙句の果てに国債が紙きれになるような失敗例は、昭和10年代、20年代だけにしてほしいものであります。


民主主義を健全に運営するには、しっかりとした庶民層がまず存在していなければならない。そんな庶民を形成するには、しっかりとした義務教育・公教育があって、人的資本への投資を安くしておかなければならない。現代は、(アメリカも似たような状況だが)社会のマス層が(自壊というわけではないが)崩れ始めている。

そんな社会状況で民主主義を健全に運営するのは無理である、と。小生はそう観ております。

政策の基礎は財政である。国際資本市場とつながっていれば、いくら民主的決定であっても、愚かな財政は市場がチェックして、実行はできないのである。

真理は民意に勝る

これは救いだ。



 


2025年10月18日土曜日

断想: 不確実な混乱の時代にどう生きて行けばいいのかという問いかけ

年内には新政権の骨格が決まるかネエ、と期待(?)していたのだが、維新の会が立民・国民、更には公明(?)など野党各党のまとまりの無さに嫌気がさしたか、敵対する自民側に抜け駆け(?)をしたようで、どうやら来週には高市首相が首班指名で選ばれそうな状況になって来た。

「抜け駆け」と上では書いてしまったが、維新の会の立場から言えば

立民と国民と、二党が合意できるようであれば、維新の会も合流する

基本方針はそもそもこうだと語っていたわけで、二党合意が覚束ないとなれば、思い切った譲歩を提案してきた自民側を助太刀するとしても、何も不義理をしたわけじゃあない……自らを高く売るのは当たり前の「合理的行為」である。


この位の理屈は誰でも理解していると思うが、日本ではこれを

洞ヶ峠を決めこむ

と言う。秀吉と光秀が戦った山崎の合戦で洞ヶ峠まで出陣したもののそのまま様子見を決め込んだ筒井順慶を諷していうのだが、賢いようでいて、それ以後は信用を失い、常に疑惑の目で見られたことの犠牲は大きかった。順慶は苦労の多い戦後の人生を生きた果てに若くして死に、家はゴタゴタが相次ぎ、豊臣派と徳川派に分かれ、結局、大坂夏の陣を待たずに断絶してしまった・・・と思ったが、確認すると夏の陣が5月、順慶の養嗣子・定次の切腹と筒井家断絶が3月であった。豊臣と徳川の間で曖昧な態度をとる筒井家に疑惑をもった幕府が、夏の陣を前に禍根を断ったのであろう。

山崎の合戦を前にした順慶の小賢しい行動が、筒井家の印象を決定づけ、それがずっと後になって支配者の疑惑を招き、御家断絶へと至ったわけである。

混乱の時代には、単勝ではなく複勝で賭けたい、保険をかけておくのが賢い作戦ではあるはずなのだが、競馬では通用しても現実世界の修羅の道では

定石、必ずしも正解ならず

である。慎重に両賭けすることで、かえって墓穴を掘る結果になる例は史上に多い。


カネが資産ならいわゆる「合理的行動」で正解だが、それはカネがヒトではないからだ。ヒトの心に育てる信頼が資産なら、自分の「合理的行動」が資産喪失の原因になることがある。

敗北の原因は色々とあるのである。

それは自らの行動が合理的だと判断したその思考回路が、そのときの状況(=ゲームのルール)を支配している戦略的ロジックに当てはまっていないという、その事実を見過ごすこと、ここに敗北の原因があるわけだ。

とはいえ、

いずれが勝つかを見極めるのは非常に困難だ

混乱期とはこんな時代のことを言う。つまり見通しには不確実性がある。今もそうなのだろう。


不確実性の下で(定石であるはずの)二股を賭けると、これまたリスクとなりうる。困ってしまう……。そうであるならリスクから身を遠ざけるしかない。つまり

そもそもリスクを回避したいなら、勝負の場には身をおかず、何もせず傍観に徹し、事後的に勝者への忠誠を誓う。

これが《ハト戦略》であって、混迷の時代で身を全うするなら唯一の選択肢であるかもしれない。「長いものには巻かれる」戦略でもある。よく言えば「明哲保身の道」にもなる。

才能はあっても(あるいはホドホドでも)安全な人物は、使える人物でもあり、平和な時代には必ず需要される。ほとんどの人は、こんな方針で人生を送っているはずだ。単に才能がないだけなら人目を引かず警戒もされないので安心してよい。身を滅ぼす危険があるのは、才能がなくて、欲がある人物だ。目標のある人物、野心(≒向上心)がある人物も危険である。そんな人物は自ら修羅の道を選ぶ。同レベルの人物と結託しているうちは大した結果も出ないのでまだよい。しかし、才能あるリーダーと競うときがやってくる。その時になって協調の意志を示しても遅いのである。才能あるリーダーは才能ある配下を見分ける。故に、危険だけがある才能不十分な人材は排除されるのである。


自分の鑑識眼に自信があるなら

自分の眼を信じる

これも可である。そうすれば、リスクへの恐怖、リスク回避願望が、自らの心の中で高まることはないのである。自信をもってオールインを敢えてとることが出来るはずだ。

今回の維新の会の選択が、上に述べたどのケースに該当するかは、追々、分かって来るだろう。


2025年10月14日火曜日

覚え書き: 「国民」とか「民意」などと耳にする時の感想

小生が若かった時分にはそれほど耳にしなかった言い方で、最近になって呆れるほど頻繁に耳に入る言葉に《国民》や《民意》がある。


メディア業界に従事する人のボキャブラリーが貧困化していて、何から何まで「民意」、「国民」と言って済ませてしまう傾向があるのかもしれない。あるいは、真の意味で日本社会が非民主化していて、「言論・表現の自由」や「人権の尊重」が色々な理由で損なわれている、そんなリアリティがTV、新聞、SNSの場に反映して、いま「国民」とか「民意」という観念が大事になっているのかもしれない。

要するに、おしゃべりの短期的流行か、流行ではなく実体的原因のあることなのか、いま一つ識別できないでいる。

ただ思うのだが、

国民の意志や民意という意志はそもそも実在しない。民主的社会に「合理的意志」というものは存在しえない。これは既に証明済みの定理である。

これが小生の社会観である。

大体、考えても見なセエ・・・

数名の家族に限定しても

家族の意志というのはありますか?

ないでしょう、そんな「意志」は。お父さんの意志、お母さんの意志、子供の意志、それぞれ別々にある。いや、「子供の意志」と言うのは不可だ。お姉ちゃんの意志、男の子の意志、それぞれが違った意志である。

そもそも

あの家は・・・、男は・・・、女は・・・

という言い方は、ハラスメントに該当する。

ここで集団意思の決定方式に議論を落とし込んで

そんなときは、多数決によるべきですネ

この経路が標準的な手筋なのだと思う。

エッ、多数決!?

経済学者や社会学者は集団意思を決定する方式に何かといえば「多数決」を口にするが、家族ですら多数決で物事を決めてはいけない。そんな当たり前のことは熟知している人が多いはずだが、なぜだか言論や論説になると、当たり前の認識がスッポリと抜け落ちてしまう。

家族ですらそうだ。町全体ならどうか?小生が暮らしている北海道の海辺の小都市ですら「市民の意志」なる意志はありません。まして「北海道民の意志」なる意志があると本気で考えている人は

この人が言っていることが北海道民の意志なンです

と、その存在を指し示すことが出来るのか。現実にはありそうもない情景だろう   ―   まさか道知事という一人の人物を指す人はおりますまい。もしそんな人がいれば、余りの精神的幼さに絶句するくらいだ。

「日本国民の意志」なる意志が実在しないことは、本当は誰もが知っている事実だ。それでも報道業界に従事する人々は「国民」とか「民意」という言葉を使用している。ないものをあるかのように説明するのは、端的にいって「欺瞞」である。


何が言いたいかといえば

経済学者が「市場に任せるべきです」という時の「市場」と、社会学者や政治学者が「国民の意志によるべきです」というときの「国民」は、学問では不可欠の術語だが、実際には実在しない抽象概念だということだ。

これが本日投稿の主旨である。

報道やニュースの現場では抽象概念は口にしない方がよい

これが最近の感想です。(現実世界には存在しない)抽象概念という点では、「国民」や「民意」と口にする時の認識状態は、浄土系仏教の念仏やキリスト教系の懺悔をするときの思い、つまり《宗教感情》と全く異なる所がない。


社会や人間集団においては、集団の《意志》ではなく、問題解決の筋道、筋道が正しいということのロジック。その普遍性。ギリシア風にいえば《ロゴス》の普遍性に信頼を置くことによって、問題は現実に解決されうるのである。

問題解決への筋道が「国民の意志」に適っているかは実は重要ではない。そんな意志はそもそも存在しない。敢えて言えば、《快・不快》の社会的心理状態くらいは確かにある。ではあるが、というより猶更のこと、普遍的なロジックに従って導かれた結論なのか、重要なのはこの一点だけである。

小生は、世間で共有(?)される心理的な快・不快の感情こそ最も重視するべき政治的要素だ、と。こんな風に指導者層が考え始める時が、民主主義が劣化し、堕落する時である。こう思っております。


・・・なので、「こりゃあ、あかんわ」と感じながら、将来の生活環境を予想しているところだ。

本日投稿で残った論点は、

(唯一か、最適かはさておき)「正しい」、というより最悪ではないベターな解決方法が、現実に選択可能な唯一の決定方法である「多数決」によって選ばれる論理的根拠はあるか?

こんな現実的な疑問だが、これは相当に難しい理論的問題だ(と思う)。宿題にして、おいおい調べることにしよう。既投稿の中では以前のこれと関係があるかもしれない。

以上、覚え書きまで。

【加筆修正:2025-10-15、2025-10-17】

2025年10月11日土曜日

ホンノ一言: 老舗・自民党という政党も終わりが見えてきたか?

自民党という老舗の保守政党も、議員個人単位の政治献金を死守したいばかりに、最終的に消滅していく可能性が出てきた。


(表向きには)今回の自公連立解消の主たる理由が政治献金の透明化への自民党の抵抗であると伝えられている。

公明党の案は国民民主党と共同で(?)まとめたもので、この8月には立憲民主党までが公明・国民民主案を叩き台にしながら、合意に向けて協議を始めようと石破現首相にもちかけたこともあったそうな・・・

ところが現段階においては高市新総裁が公明党の要求を(事実上)「拒否」したと報道されている。マア、少なくとも「連立」をとにかく続けてもらえば、後から「党内的にあれは難しい」と、そんな線を狙っていたのかもしれない。

公明・国民民主の案と言うのは

企業・団体献金を存続させた上で、献金を受け取れるのを、政党の本部と都道府県単位の組織に限定するものだ。国会議員や地方議員らが代表を務める政党支部は受領を認めない。

こんな概要だ。

要するに、議員個人単位の政治献金は認めず、献金は「政党」を単位とする。ここが改革と言えば、確かに「大きな改革」になっていると思う。小生は大賛成である。


ついこの間、本ブログにこんな事を書いて投稿した:

政党を「政治結社」にするわけだ。言葉の定義上、「政党」として当たり前の事柄だと思う。「総合的ヴィジョンと政策」を公開しない政党は、たとえ一定数の得票、国会議員数を確保しても「政党交付金の不交付団体」であることを公示の際に明記させる。

自民党は、「懐の深い党なンです」と、あたかもそれが自民党の長所であるかのように解説する「政治評論家」が多い。しかし、言葉を変えれば、政党としての「政治路線」がない、「理念」がない。実際、現在の自民党の理念と言えば、せいぜいが「反共」と「天皇制維持」、「日米安保体制維持」この三つくらいであろう。有権者にとって最も重要な経済政策はと言えば、実は何の定見もない、というのが「偽らざる真相」であろう。

そう言えば、ずっと前に、戦後日本を支える三本柱は

アメリカ、皇室、自民党

の三つであると投稿したことがある。


その自民党を、ざっと大括りにして形容すると、「政党」というよりは議員個人単位の活動を全国ベースで助け合う「選挙互助会」に似ている。こうした日本的状況は、日本の政党が誕生した歴史的背景に由来するものだ。西欧先進国のようにまず社会的対立構造が先にあって、後から政党が支持基盤ごとに自然発生するという順序ではなく、日本では明治初め、まだ社会経済的な対立構造が成熟する以前に、薩長藩閥政府に対立する自由民権勢力という集団があって、それらの反主流派が政党を結成した。

自由民権運動の中で誕生した当時の「自由党」や「立憲改進党」は、日本経済の中からというより、思想、人縁、地縁によって生まれた人的集まりでしかなかった。西洋社会の政党とは発生の由来が逆であったわけだ。ずっと後になってから、地方豪農層が支持する政党と、都市の新興階層に人気のある政党と、何となく二つに分かれてきたのは、人のつながりを辿ればそう分かれて行ったということで、多分に偶然である。戦前期・日本の「二大政党制」は、支持基盤が社会の中に実在する本物の二大政党制とは言えなかった、というのが小生の戦前観だ。

日本の政党が、「政治結社」というより「互助会」のようにみえるのは、経済的利害ではなく、地縁・人縁から助けあう人たちの集合であるためだ、と。こう思って観てきた。


ま、これはともかく、

現代的政党に再編成できないなら、自民党はもう終わりだ

いまこんな風に観ている所であります。そして

野党にも上のトレンドは当てはまる。

今日はこんなところです。


本日投稿で書いたのは、政党の現代化が求められるということだ。選挙制度の現代化とは別の話しである。政党政治と選挙は表裏一体、密接不可分であるわけではない。特に、オープンな選挙が、敵対する複数の外国勢力のターゲットになりやすい時代なら猶更だ。議員の選出は、また別の観点から現代化するべきであろうが、それは政党組織の現代化とは別の問題であると思う。以上、念のため。



2025年10月10日金曜日

ホンノ一言: クリントンの"It's the economy, stupid."、日本にだけは当てはまってないのかも

選挙がある度に日本人が最も関心があるのは「暮らしと物価」であるという事実は誰もがもう知っていることだ。つまり、経済問題こそ仕事をして暮らしを立てている有権者なら最も強い関心をもっている分野なのである(はずだ)。

これはアメリカも同じで、ビル・クリントンが1992年の米大統領選に打って出た時

"It's the economy, stupid"

要は経済なんだヨ! 愚か者が!!

オバマ大統領の

Change! Yes, We can!!

変えよう! ああ、できるとも!!

も有名だが、クリントン候補のこのスローガンは中身があるだけに非常な迫力があった。選挙必勝の戦略は、いつでも「経済政策」なのである。

フランスのマクロン大統領が信頼を失っているのも、インフレなど経済問題が根底にある。ドイツの政情不安がずっと続いているのも、確かに移民政策の失敗もあるが、エネルギー不安、生活不安、要は経済問題である。メルケル首相が16年間の長きにわたって宰相の座にあったのも、独ロ関係を安定させて、ノルドストリームを毅然として建設し、ドイツ経済の繁栄を導いたからである。その当時、一体ドイツ人の誰が、

ロシアと親密な関係を築いて、何か不都合が起きるのではないか・・・

こんな漠然とした不安を訴えていたか?

余程の変人だと言われるだけであったろう。

共産主義を放棄したロシアとの融和に不安を覚えたのはドイツ人ではない。英国と米国である。その果てに、今回のロシア-ウクライナ戦争がある。そして、ドイツはいま混乱しているが、これが米英のそもそもの世界戦略ではなかったかと小生は邪推している。

ことほどさように国を問わず、時代を問わず、最重要なはずの経済問題。日本人はどれほど自分の頭で考えようとしているのだろう。少しでも自分で考えようとしているなら、理にさといメディア業界がほおってはおかないはずだ。ところが、ワイドショーも情報番組も、ニュース番組も、経済分野の報道、解説にはあまり時間を割いていない。

「わかるだけの頭がないんだよネ」と心配なら、「経済戦略臨時調査会」なり、「経済審議会」なりを設置して、一流の専門家を集めて、公開で検討すればよいではないか。これなら中継報道できる。しかし、こんな提案をする政治家、ジャーナリストは一人としていない。

ということは、経済問題にはそもそも(ホンネでは)大した関心をもっていないのである。暮らしのことは、政治家におまかせだ。まかせているはずの政治家が、生活を楽にしてくれないので、腹が立つ。現時点の国民心理は、多分、こんなところではないだろうか?

大体、自民党と公明党の連立協議が不調に終わり、自公連立が崩壊したとして、それがどれほどの意味を持つのだろう?・・・日本人の暮らしには影響しませんよ。

日本経済において解決を要請されている問題は、自公連立とか、野党統一とか、そんな下らない些事とは関係なく、特定の形をとって現実に存在している。

  • 総需要が超過している時に需要を刺激すればインフレが激化する。
  • 労働生産性を上げずに、賃金を上げると、企業経営が不安定化するだけだ。
  • 政策目標の数と同じ数の政策手段は常に確保しておかなければならない。

等々、等々。

  • 医学の水準が低ければ、治る病気も治らない。医学の発達と水準次第。
  • 経済学のレベルが高まれば、経済政策のレベルも高まる。
  • 医師が治そうとしなければ病気は治らないし、政治家が必要な政策を実行しなければ経済問題は解決しない。市場だけではダメである。

ロジックは簡単で何も複雑な迷路に落ち込んでいるわけではない。


現在の経済問題への正しい取り組み方というのは、経済学の知識から大体のところは分かっていて、政治家が腹をくくって実行すればよいだけである   ―   それが中々難しいわけなのでございましょう。

それが出来ないでいる・・・確かにこれは一つの「政治問題」だが、将棋と同じで

もし手を付けなければ、〇〇〇〇となる確率が高い。

こんな予測なら現在の計量経済学の技術でも可能だ。というより、以前は結構そんな数字を政府は出していたし、メディアも数字を報道していた。数字を報道するあまり、数字だけが独り歩きすることが問題であったのだ。

4年、5年という長さの中期予測になれば、あらゆる与件が変化するので、経済予測の精度は大きく落ちる。しかし、1年程度の予測なら大いに参考に出来る程度の政策シミュレーションは今も可能である(はずだ)。

なぜ予測計算をグラフにして報道しないのだろう?政府内にそれが出来るスタッフはいるはずだ。

これが小生には《日本メディアの七不思議》になっております。多分、経済では視聴率がとれない、新聞が売れない、雑誌が売れないという、そんなマーケティングの事情があるのでござんしょう。

どの政党がどこと組むかなど、高級なエンターテインメントとしか思えない。端的に言って、下らない。実在する問題と問題解決の可能性に注意を集中するべきだ。

エッ、それが出来ない。出来るはずのことができない、と。政治家と日本のマスメディア業界は、ホント、似た者同士なんだネエ・・・そう思います。


「物価だ、減税だ、最低賃金だ、エンゲル係数だ」と騒ぐ割には、日本だけは

Stupid! It's the economy....,   except for Japan.

クリントン候補の選挙スローガンも効果が出にくい国、それがどうやら日本であるようで。

2025年10月7日火曜日

ホンノ一言: もう「総裁後見役」を正式に設置してはどうか?

自民党新総裁に高市早苗氏が選出されたというので、少なくともその瞬間には、驚きが日本社会に広がったように観られる。

しかしながら、「初の女性首相」という言い方自体、もう時代からずれているというのは、以前の投稿でも触れたことがある。

もう日本人の誰も、女性首相の実現に驚きゃしませんテ・・・

驚くのはマスメディアのスタジオ出演者くらいでござんしょう。

まあ、そんなところです。

早速、党役員人事が情報番組を賑わせている。麻生元首相が副総裁、その義弟である鈴木氏が幹事長などなど・・・

思うのだが、

もう副総裁じゃなくて《総裁後見役》を正式に設置すればよいのではないか

そう感じます。

何だか、徳川家茂将軍を支えた将軍後見職・一橋慶喜を連想させて、いかにも「頼もしい」ではないか   ―  かたや江戸幕府の将軍後見職は就任当時25歳、現代の総裁後見役は85歳の高齢者であるが、どことなく(経済大国が変じた)「老大国・日本」を象徴しているようで、これまた自然に感ずる。

どちらにしても、幕末の江戸幕府と同様、高市自民党総裁も熱い志はあれど、実行は困難であろう。一強と言われた安倍晋三元首相ですら、最終的目標である憲法改正はかなわなかった。ここ日本では、思うことが実行できる政治家は出現不可能なのである。

それでも「天皇の男系継承維持」、「憲法改正」にかける想いには共感を感じる自分がいる。しばらくは安心である。何か手を打ってほしいものだ。反面、経済政策の方は今からもう不安であります。自爆しなければイイですがねえ・・・というところだ。

日本の政治構造の特徴は、頻繁に《権力の二重構造》が現われる所にある。

平安時代の摂関政治も、その後の院政もそうだ。徳川幕府の将軍-幕閣の関係もそれに近い。明治天皇が成人しても天皇は思う事の半分も通らず実権は元老に握られていた。昭和になっても天皇の主張でなにか通ったことがあったか?東条英機首相ですら意図したことは陸軍内部の反対にあって実行はできなかった。

日本政治は決定権者が決定できない。故に、実質的決定権者が可視化されていないという点に特徴がある。


だから、公式の党総裁選挙といっても、選ばれたトップが何かを決めるわけではない。トップにそんな力を与える国ではない。

アメリカのトランプ大統領をあやつる裏の権力者がいるとは誰も報道しない。フランスのマクロン大統領が頼る裏の最高実力者が誰かいるとは誰も言わない。中国の習近平もロシアのプーチンもそう。海外の執政責任者は、文字通り、定義通りの責任者である。

ここ日本では、そうではない。

日本の政治権力は、多くの場合、二重構造をしている。実権がトップにはない国なのである(と観ております)。

トップが文字通りの「トップ」であると信じているのは、素朴で善意に満ちた「有権者」なる人たちだけであろう。信じているからか、話題にしてはいけないのか

私たちが選んだのはトップではなかったの?

こんな疑問を正面切って問う人はどこにもいない。真の権力者は人目につかない。(知る人は知っているが)静かに権力を行使する。これも「日本風」の一つか。

2025年10月4日土曜日

断想: 夢で見た不思議な四文字熟語

昨年の秋の今頃は寺で相伝を受けるために毎日歩いて通っていた。その最後の日は毎日三百遍の念仏を誓うかと問われ「誓う」と応えるという儀式で終わった。それから、色々と試行錯誤をしてきたが、結局、日常勤行式に従って「香偈」

願我身浄如香炉 (がんがしんじょうにょこうろう) 

願我心如智慧火 (がんがしんにょちえか)

念念焚焼戒定香 (ねんねんぼんじょうかいじょうこう)

供養十方三世仏 (くようじっぽうさんぜぶ)

から始めて、「送仏偈」
請仏随縁還本国 (しょうぶつずいえんげんぽんごく) 
普散香華心送仏 (ふさんこうけしんそうぶつ) 
願仏慈心遙護念 (がんぶつじしんようごねん) 
同生相勧尽須来 (どうしょうそうかんじんしゅらい)
で終わるパターンを、この半年以上は続けてきた。

ところが、最近寝坊をしたことをきっかけに、法然がすすめる「専修念仏」でやってみようとやり方を変えてみた所、これが至極心境にマッチして、いまは月曜は日常勤行式に沿って、それ以外の日は専修念仏で四百遍を称える習慣に変わった。今朝は五百遍の念仏をした   ―   「した」とは言えない程に僅かであるが、「一念十念に足りぬべし」と法然も書簡に書き残している。続けることに意味があるのかもしれないし、三万遍に段々と近付いていくのかもしれない。三万遍となると、15時間ほどはかかる計算だから、起きている時間の大半は念仏をしていることになる。この辺も含めてすべて主体的動機に任されている点が「進んでいる」と小生は感じている。

余計なことは全て阿弥陀仏からみれば「雑業」であると割り切り、念仏こそが浄土三部経に明記されているとおり「本願」であり、大事なことは阿弥陀、というより仏になる前の法蔵の本願を信じ、それに沿う事であると論じた法然は、ある意味で《信》は《宗教的儀式》に勝るとした宗教改革者・ルターと相似形の役割を日本仏教において果たした、と。そう理解してもよい。親鸞は法然が見出した他力本願念仏を精緻化して継承したわけだ。

藤原定家は『明月記』の中で、上司・九条兼実が念仏という新興宗教にのめりこんでいると、非難がましく述べているが、結局、当時の異端が江戸時代には最大の信徒数を抱え、その状態が現代にまで至っている。何か本質的なことが長い時間の中で現れたのだと思う。


専修念仏をしていると心が定まるのは、800年も前に生きた法然や親鸞、鎌倉武士の熊谷次郎直実や宇都宮頼綱、歌人・式子内親王が、なんだか近しく感じられるという事もあるのだが、法然の師・善導も法然よりは550年程も昔に生きた中国僧である。法然が夢の中で師・善導に会う場面は画に描かれている。

同じ道を歩く人が、同じ時代、目に見える場所にいれば、確かに心強くはあるかもしれないが、人というのは無常である。生きた人間同士の人間関係ほど儚いものはない。

師友・知友・心友は時間を超えて成り立ちうるものである。


今朝、夢の中で、ストーリーは忘れたが、
奉事能応
という四文字が紙に書かれていて、それが妙に明瞭に起きた後も記憶に残った。

こんな熟語(?)はこれまでに見たこともないし、考えたこともない。ChatGPTで調べてみても、こんな熟語はないという。

しかし、意味はある。読み下すとすれば
事を奉じて、応え能わん
あるいは
事を奉ずれば、能く応えん
仏教では事理という熟語をよく使うが、「事」は個々の現象や出来事、「理」は普遍的に働く根本法則だ。「奉じる」の「奉」は「奉行」の「奉」でいわば管理する・処理するという意味に近い。

であるから、「奉事能応」という文字は

(色々な)物事を処理して、(期待に)応えましょう

という意味になるだろうし、あるいは第二の読み方をすれば

(小生が)物事に向き合えば、(仏は)応えることが出来るであろう

マ、こんな風にも解釈できるかもしれず、何の前触れもなく、こんな四文字が夢の中に現れて目が覚めるというのは、不思議に感じた。

この点で、本日の投稿は、先日投稿の補足をなすかもしれない。

世界観や、生命観というのは、現代社会では主として科学分野から説明されるものと決まっているが、何度も書いているように、現代科学は《唯物論》という特定の思想を(当然のように)是としている。そう言っても(まず)間違いはない(と最近はみるようになった)。測定可能な対象を考察するというのは、どこかしらで観察可能なモノが実在するという前提に立っている、と。そう思われるのだ、な。

昔、恩師に「効用関数が特定の形をしているかは観察できないと思いますが・・・」と質問したことがある。これに対して「それは分析概念」だよ」と応えられたものである。その時は、ピンと来なかったが、直接的に観察可能でなくとも、観察可能な数値の変動を説明できる抽象概念は実在している(かのように)と理解する。まあ、そんな意味だろうと後になってから(ある程度)分かるようになった。

「効用指標」という形で目には見えないが、数値化はできる因子が、消費者の心の中に実在して、経済行動に影響を与え、これを決定している、と。こういう見方は、効用関数は実在しているという立場と同じである。

自然科学、社会科学を問わず、科学が説明しようする世界は、目には見えなくとも、測定可能で、数値によって表現できる範囲に限られている。つまり、経験されるこの世界以外に、いかなる世界(=色々な要素が存在する空間)も存在しないという大前提にたつのが科学的世界観である。

この世界観は明らかにおかしいよネというのは、最近何度も投稿している通りである。

世界をどう考えるか、人間存在をどう考えるか、生命をどう考えるか等々に関することは、自分自身の経験や思想を科学的思考にぶつけて、両者の衝突の結果として形成される(はずの)ものである。いくら論理を構築しても、つまりは主観である。

鵜のみにしない方がよいのは、何も流言飛語や自己宣伝ばかりではない。客観的真理だと信じられている科学者の言もまた、自分が納得した上で信じるべきものである。

数学と物理学の両面で「大学者」と評価されたワイルは、短編『人間と科学の基礎』の序論に中世の哲学者・クザーヌスの言を引用している:

私たちの知識の中で数学の外に真なものはない

こんな言葉を議論の発端にしている。科学における数学はモデルであって、モデルは真理とは合致しないものである。単に観察した事実は、事実であるかどうかさえ怪しいものである。

なるほど数学的議論そのものに「自我」や「偏見」が混じるはずがない。しかし、モデルには人間の思い込みや価値観が混じる。更に、西田幾多郎ではないが、主客未分の「純粋経験」もまた真理性を有すると言えるだろう。

【加筆修正:2025-10-09】

2025年10月1日水曜日

断想: 「生死を出る」という表現は確かに「科学的」ではないネエ

統計分析を専門としてきたせいか、ずっと観察可能な現象で世界は説明できると考えてきた。典型的な《科学主義者》である。最近流行のエビデンスを何よりも重視する立場にいたともいえる。

科学の特徴は、世界の出来事はつまるところ観察可能である、観察可能ということは、大雑把に言えば、モノとして理解するということだ。つまり《物質的世界観》が根底にある。唯物論的世界観と言っても可であろう。

デカルトは宇宙については機械論で説明しようとしたが、哲学としては物質的存在と精神的存在を区別する二元論的立場をとった。

この点では小生はデカルトに共感する。科学主義では本質的な説明が不可能な対象もありうることに気がつくに至った。その辺のことは何度かに分けて投稿してきた。


例えば、自動車の自動運転技術が更に進化して、ほぼ完璧に公道を走行できるような時代になったとしよう。事情を知らない人が観察すれば、自動車は道路状況を観察しながら、最適な走行について考えながら走っているものと理解するだろう。

それをみた科学主義者は、自動車を1台に手に入れて、徹底的に分析する。

部品と部品との関係性、つながりから、発進、加速、方向転換、停止についてのメカニズムを理解する。エネルギー源と適切な供給についても理解する。それから人工知能の中枢を占める半導体回路を徹底的に分析する。回路における電荷と電荷の運動状態に応じて、自動車が特定の動作をすることまで突き止める。

このようにして、観察可能なエビデンスを徹底的に、かつ合理的に整理して、《真理》に迫ろうとする。


では、この科学主義者はまったく同じ自動車を複製して、その自動車にまったく同じ人工知能を搭載させることが出来るだろうか?

不可能である。

半導体内部のあらゆる状態に応じて、自動車が特定の動作をすることは観察可能だが、なぜ道路状況に応じて、電子回路網がその状態に変化し、なぜ自動車がそのような動作をするのか?この疑問全体に答える《知能システム》の基本設計が分からないからである。

その知能システムは、型式の異なった自動車であっても、転送可能であり、むしろより高度の運動能力を発揮させ得るということなどは、科学データからは補足できない。

つまるところ、

自動運転で走る自動車は、自動車自体が考えているわけではなく、自動車に考えることを可能にさせている《知的実在》が先にある。

こう考えなければ、話しが終わらない。つまり、《第一原因》であるのだが、カントはこの問題は人間の純粋理性が解答できる領域を超えた問題であるとした。

いま阿満利麿『法然の手紙を読む』を読んでいる途中なのだが、

ここでも「生死を出る」という表現が出てくるが、すでにふれたように、現代の私たちには理解が難しい言葉遣いであろう。私たちは、人の一生は生まれて死ぬまでの間であり、その前後には言及しない、というのが常識になっているからだ。

こんな下りがある。法然上人と『新古今和歌集』で著名な歌人・式子内親王との交流に触れている個所である。

現代技術文明の基盤は「科学主義」で、それが「常識」になっているのは仕方のない事だ。しかし、科学が人の知性を制覇する以前の時代においては、科学者が仕事をするときの作業仮説が、科学者ではない普通の人の常識でもあったというわけではなかった。

科学はこの300年から400年の間に、人間の知的営みからおよそ《非科学的想像》を追放してしまった。「非科学的空想」には意味がないというわけだ。

しかし、思うのだが、水と一緒に赤子も捨ててしまったような気がするのだ、な。

人間に観察可能な(=測定可能な)事実が、宇宙の全ての真理を教えるとは限らない。どちらに考えても、それは一つの認識論的立場に過ぎない。

輪廻転生論をどう考えればいいか、科学で結論が出るまでは100年間では足りるまい。物質的身体の世代継承は科学で捕捉可能だが、「識」や「種子」の相続は半導体回路の電荷の分布を分析する作業にも似て、実証的には解明不能だろう。

結局のところ

人間の知性は「人間の知性」自体の所在を外側から確認することが出来ない。ここが人間の造った人工知能とは決定的に違う。

この一点にかかってくる。今はこう考えているわけであります。

結局、本日投稿の主旨は

知性(と生命は?)は自然発生的に物質の中に生まれて成長するものではない。

小生は「ない」と思うが、「あった」と考える人もいるだろう   ―   小生の目には過激派・科学主義者で完璧な唯物論者に見えてしまうが。

こういうことであります。

空海が云ったという《両部不二》、つまり物質界と精神界とは究極的には一つの実在に統合されている・・・確かに、物質と非物質とを二つに区分できるのかどうかさえ、物理学の今後の発展による話題なのだろう。これは忘れないための付け足し。

読書中に思いついたので、メモしておく次第。


2025年9月27日土曜日

ホンノ一言: 「最も下らない」政情は継続中のようで・・・

今夏の参院選は小生の経験している中で最も下らない国政選挙であったことは投稿済みである。その下らなさをもたらした主因は、足元の問題を解決すると各政党が「のたまう」提案が、どれも非現実的で、(事実上)実行不可能であるにもかかわらず、それがまるで《選択肢》であるかのように、メディアが争点設定をして放送をし続けたことである。

思い出したのは、大学入試センター試験のことだ。試験当日の解答開始後に、時々、問題修正を板書することがある。これが結構面倒くさいのであるが、放置していると選択肢の中に正解がないということになるので、修正は絶対に必要だ。それでも、試験終了後に出題の誤りが発覚し、その場合は「全員正解」になったりする   —   実は正しい選択肢はなく、全受験生は誤答なのであるが、正解が含まれていない以上、全員を誤答とするわけにはいかず、正答として扱うわけだ。ま、グダグダ対応ではあるが、そうしないと当該科目を選んだ受験生は100点満点ではなかったことになるので、不公平になる。仕方がないわけであるな、とまあ思いをめぐらしながら、現場で試験監督をやるのも独特な面白味があるというものだろう。

今夏の参院選はそんな感じで、どの政党の提案も誤答で、それをメディアは指摘するべきであったにもかかわらず、それが有効な選択肢であるかのように報道したのは、稀に見る不誠実さであったと、いまも益々憤りを感じる今日この頃であります。


ところが、その不誠実な姿勢を、自民党総裁選挙でも続けている。

世も末だネエ

と、慨嘆に堪えないとはこのことだが、逆に番組編成側にはそれなりの戦略があって、あえて欺瞞的な放送を続けているのではないか? こう思うこともある。

財源もなく消費税を減税したり、ガソリン暫定税を廃止したりすると、当たり前の理屈だが国債を増発して財源とするわけであるが、仮にそうなるとその後一年間にどんな経済問題が新たに発生すると予測されるか?

予測可能であるにもかかわらず、マイナス面には触れず、減税が《選択肢》であるかのように報道をし続けているのは、

崖から落ちれば、落ちた後にまた皆で知恵を寄せ合って這い上がればイイ

確かに、これもまた政治哲学、立派な報道理念と言えるわけである   ―   日本発の金融危機は世界にとっては大迷惑なのであるが、もしそこに目が向いていないとすれば、「国際的信頼性」が日本の貴重な国富であることを認識できない島国根性とも言えるわけだ。

しかし、小生が知っている報道理念とは

真の報道は大衆の一歩前から有益な情報を提供することである。

誰が言ったかは忘れたが、「一歩前から」というのが記憶に残っているのだ。これに反して、近年の報道は、一歩前からではなく、「一歩遅れて」だろうと感じる。

大衆から一歩遅れて、大衆が聴きたい報道をするのが報道ビジネスなのである。

感心できないが、これまた選択可能な一つのメディア企業経営理念ではある、と。そう思うようになった。

話しは変わるが、上の議論とも少し関係があるような気がするので、書いておきたい。

アメリカの経済学者・クルーグマンはThe New York Timesのコラムニストから身を引いた後、substack.comから精力的に意見を発信している。

基本はトランプ政権批判で一貫しているのは分かり切っているが、最近ではこんな調子になっている:

Can we blame Trump for rising electricity prices? Not yet. The AI boom began well before Trump won the election, and the grid just wasn’t ready. Trump is, however, doing all he can to make the problem worse — boosting crypto and AI while blocking the expansion of renewable energy, which has accounted for the bulk of recent growth in electric generating capacity ...

Many people, myself included, have drawn parallels between the current AI frenzy and the telecoms boom and bust of the late 1990s — an alarming parallel, because the telecom bust led to years of elevated unemployment. But as Peter Oppenheimer of Goldman Sachs has pointed out, there have been many such boom-bust cycles over the centuries, going back to Britain’s canal mania in the 1790s. And here’s one analogy that has occurred to me: What would have happened if, midway through the 1790s canal-building boom, investors had realized that there wasn’t enough water to fill all those new canals?

So the electricity crisis is serious, adding significantly to the risk of stagflation. Unfortunately, it would be hard to find policymakers I’d trust less to deal with this crisis than the Trump administration, whose energy policy is driven by petty prejudices (Trump is still mad about the windmills he thinks ruin the view from his Scottish golf course), macho posturing (real men burn stuff), and hallucinations (the imaginary windmills of New Jersey.)

・・・

It also endangers America’s future. The Fed’s perceived independence is a major source of economic stability — more about that in this week’s primer. We’re already worried about stagflation. The risk will be far greater if Trump can dictate monetary policy by bullying individual Fed officials and creating a servile Federal Reserve Board. Just look at what happened in Turkey.

Author : Paul Krugman

Date : Aug 22, 2025

URL : https://paulkrugman.substack.com/p/kilowatt-madness

Googleで和訳させると

電気料金の上昇をトランプ大統領のせいにできるでしょうか?まだ無理です。AIブームはトランプ大統領が選挙に勝利するずっと前から始まっており、電力網はまだ整備されていませんでした。しかしトランプ大統領は、暗号通貨とAIを推進する一方で、近年の発電能力の伸びの大部分を占めてきた再生可能エネルギーの拡大を阻止することで、問題を悪化させようと躍起になっています。

私を含め、多くの人が現在のAIブームと1990年代後半の通信ブームと不況を比較しています。これは憂慮すべき類似点です。通信バブルの崩壊は長年にわたる失業率の上昇につながったからです。しかし、ゴールドマン・サックスのピーター・オッペンハイマー氏が指摘するように、1790年代のイギリスの運河ブームに遡り、過去数世紀にわたり、このような好況と不況のサイクルは数多くありました。そして、私が思いついた一つの例え話があります。1790年代の運河建設ブームの中頃に、投資家たちが新しい運河を満たすのに十分な水がないことに気づいていたら、どうなっていたでしょうか?

電力危機は深刻であり、スタグフレーションのリスクを著しく高めています。残念ながら、この危機への対応において、トランプ政権ほど信頼できない政策立案者を見つけるのは難しいでしょう。トランプ政権のエネルギー政策は、つまらない偏見(トランプ氏は、スコットランドのゴルフコースからの景観を台無しにしていると考えている風車に未だに憤慨しています)、マッチョな姿勢(男は物を燃やす)、そして幻覚(ニュージャージー州の空想上の風車)によって動かされています。

・・・ 

これはアメリカの将来をも脅かします。FRBの独立性は経済の安定の大きな源泉です。この点については、今週の入門書で詳しく説明します。私たちはすでにスタグフレーションを懸念しています。トランプ氏が個々のFRB職員を脅迫し、従属的な連邦準備制度理事会(FRB)を創設することで金融政策を主導できるようになれば、そのリスクはさらに大きくなります。トルコで何が起こったかを見れば一目瞭然です。

たとえ主観的には気に食わなくても、ト大統領は(曲がりなりにも?)民主的選挙で選ばれた(それなりの?)正統性がある米・大統領だ。しかし、そんなことには遠慮も頓着(≒忖度)も一切することなく、電気料金暴騰の背景とトランプ政権の無策から中央銀行に相当するFRBへの人事介入へと、当たるを幸いとばかり、斬りまくっている・・・とにかく毎投稿、そのたびにこんな調子である。さすがにThe New York Timesの紙上でここまでズケズケ言うと、会社に迷惑が及んだでありましょう。そして、クルーグマン先生とは価値観を異にする自分を確認することが多いのだが、小生の目にもKrugmanの指摘はとても正しい。 

本来、民主主義社会の運営はこうでなくてはなりますまい。上ばかりではなく、下の方にも期待されることは多く、覚悟も必要であるのが、民主主義である。

今夏の日本の参院選から現在の自民党総裁選にかけて論議されている政策案は、具体性、実行可能性に欠けており、どれも下らない。

これを《下らない》と指摘して批判したり、理論的妥当性を疑ったりするメディア企業が日本国内に1社としていないのは、日本のメディア産業が保護産業であり、スキャンダル発生時を除けば、政治にはなにも逆らえない体質が染みついているからであろう。

日本の政治家に何も忖度しない外資系企業がメディア産業大手として1社でもあれば、いまの情況はまったく違っていたと思う。そう思うと、本当に情けないのが今日この頃であります。この意味でも、小生は移民大歓迎、外資導入大賛成であります。国立大学法人の一つや二つ、海外の大手私立大学に買ってほしいくらいだ。政府には臨時収入が入り、運営交付金支出の国庫債務が減り、加えて大学経営の合理性が日本に導入できることにもなる。正に一石三鳥である。

人の構成は変われど、日本列島で暮らす人たちが豊かな生活を送れるなら、それがベストである。文化の継承、文化の創造は、未来の人に任せるべきである。これがいま持っている社会哲学である。唐様で「売り家」としか書けない凡々の三代目は、継承だの、伝統などとはいわずに、黙って家を売るのが合理的行動なのである。

苦い薬を飲むべきときもある

敢えてこう報道するのもメディアの役割であろうと思うのだが、ここ日本では誰も傷つけたくはないという感情の方が優先されるようだ。

政治家は数多おれども政治なし

「下らない政情」、これもムベなるかな、ではないか。

仁は人の心なり、義は人の路なり

孟子の言である。なるほど全ての人にやさしくありたいという思いは、報道業界(?)だけではなく、政治家も(ヒョッとすると?)共有しているのかもしれない。しかしながら、現代日本社会は

心はあれども路はなし

いまの日本社会で、仁は求められているのだろうが、義は無視されて誰も省みない。

【加筆修正:2025-09-28、29】

2025年9月24日水曜日

断想: 「懐疑主義」は近代を生んだが「怠慢」をも生む

昨日の彼岸は母の祥月命日でもあるので、いつもの経に加えて、小生の好きな無量寿経「往覲偈」を「四誓偈」の後に追加し、別回向文で戒名を読んだ。そのため起床時間はいつもより早くセットした。その後、午前11時には寺で彼岸会があるので歩いて往復した。疲れたのか、目覚ましを寝る前にかけ直すのを失念し、今朝は予定より30分ほど遅く、カミさんの目覚ましで起きた。

昨日は、拙宅と寺で二度も読経をしたので、今日の読経はもういいかとも思った。が、これを機会に日常勤行式ではなく、専修念仏でやってみようかと思いついた。但し、三万遍とか六万遍などという本式の念仏ではない。毎朝の時間に入れるなら僅かに三百遍でしかない。鴨長明が『方丈記』の最後で書いた「不請の念仏」はこんなのかナア・・・と思いつつも、それでもやってみると、妙に心が定まったので不思議な感じがした。

法然上人の『一枚起請文』は

唐土我朝にもろもろの智者たちのさたし申さるゝ観念のねんにもあらず。又、学問をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。唯往生極楽の為には、なむあみだ佛と申してうたがひなく往生するぞと思ひ取りて申す外には別の仔細候はず。
こんな書き出しで始まっているが、しばらくの間、小生は「智者の観念」や「学問による理解」を踏まえて行う念仏にはなぜ意義が小さいのか、これが不思議だった。学問的基礎は要るだろう、と。そう思われたのだ。それをスキップして、「これをやればイイ」とするのは、物事を単純化する日本文化の特色、というか悪癖がこんな所にも表れているかとも思ったものだ。

しかし、こう思ったのは全くの間違いだった。


最初に思い至ったのは、観念にせよ、学問にせよ、どちらも「私はこう思う」であり、そこには「自己」という存在が前提されている。「自分はこう理解する」というその理解には、必然的に《自我》が根底にあり、従って《我執》、《我愛》が混じっている。しかし、仏道ではすべて「我」という実在は「空」であって虚妄であると考える。だから、そんな「自己の理解」には意味がないのだ、と。

しばらくの間は、こう考えてきたが、今でも全くの間違いではないと思う。とはいえ、もって回った理屈である。これよりは実に単純明快な根拠があることを知った。


それは、極楽浄土を(智のみが捕捉可能な叡智界において)建設した阿弥陀如来は、その「本願」(=誓い)に「念仏」のみを云っており、学問をせよとか、最高の智慧を備えよとか、善い事をしたかどうかとか、男性か女性かとか、民族的な出自とか、往生極楽がかなうかどうかの一点において、一切の条件をつけていない。ただ仏名を称える行為のみを求めている。そう明確に『無量寿経』には(釈迦が弟子に伝える「教え」として)記されている。『浄土三部経』を読めばこの辺は明らかである。

往生極楽を願うなら、人が勉強して色々と考えるよりは、阿弥陀如来の本願に従うことが必須であるのは、当然の理屈である。故に、大事であるのは《学理》ではなく、阿弥陀如来の本願をあくまで信じようとする《信》である。その本願は、サンスクリット語でいう<アミターユス>、つまり漢訳の「阿弥陀」の名を念じることだけだ、と。古代インドで「ナーマス・アミターユス」と発声されていた仏名が漢訳では「南無阿弥陀仏」になった。これが日本に輸入されて今に至るわけだ。この事実そのものが阿弥陀の本願が成就された証拠であるというのが、浄土系仏教の骨子である。

こう考えると、『一枚起請文』の最後が

念仏を信ぜん人はたとひ一代の法を能々学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同うして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。
と、こう結ばれているのは、書き出しの内容を改めて反復しているわけで、
余計なことで議論せず、阿弥陀仏の「本願」を信じよ。阿弥陀は念仏だけを求めており、他のことは求めていない。
こういうことだろうと勝手に理解している。念仏を観想から称名に具体化したのは唐僧・善導である。法然上人は「偏依善導」の人である。だから法然上人の専修念仏は称名念仏である。故に他の行為は求めず、ただ一つ称名念仏だけが重要であるとした。

「宗教」としては実に本質的なロジックではないか。「学理」が大事なのではない。「信仰」が核心なのである。「専修念仏」という発想が単純なのではない。そもそも本質が単純なのである。簡単に証明できる定理をあえて複雑に証明するのは手筋が悪い。むしろ定理の本質を見失う。これに似ているかとも感じる。

 

現代世界では、何事によらず「真理」(とされているもの)に対して懐疑を表明し、単純明快な真理を覆すことが知的であると喝采する現象がよくみられる。いわゆる「キャンセル・カルチャー」は同じ流れに属するかもしれない。

他方、唯識論で論じる心の作用(=心所しんじょ)の中には《善》と《煩悩》が含まれている。煩悩が悪であるのは当然なのだが、各種の煩悩がある中に《不信》がある。つまり物事の道理に疑いを抱き、真理を認めない姿勢を指すのだが、実はこんな「不信」の心性は、結果として懈怠けたいの原因になると論じられている。つまり《怠慢》、《さぼり》につながるその原因は真理や道理を疑う「不信」でありがちだ、と。

逆に言うと、一生懸命さやひたむきに努力する生き方は誰がみても美しいものである。この裏側には《信》という心の働きがある。一度信じたことは真理として疑わず自らの柱とする。これが大事だ、と。こうも言われている。


確かに《懐疑》は精神として大切だ。しかし、尊重し、敬意を表するべき真理を、理解できず、疑いをもち、道理に反した言動をとるのは、一口にいえば(大概の場合)「怠け者」である・・・「ひねくれ者」とも言われるだろう。この認識は、現代世界にも結構当てはまるような気がする。実際、そんな人の数例を知らないわけではない   ―   ただ、小生自身がまた、相当のヒネクレ者であったから、同僚はすべてバランスのとれた優秀な人だと感じていた。そんな小生が本日のような投稿をするのは「何とした事か」と言われる喜劇なのである。

懐疑主義の元祖・デカルトも、全てを疑った後にたった一つだけ疑い得ない存在を見出して、絶対的真理の実在に気づいた。精神的柱が確立される好例である。

2025年9月22日月曜日

前の補足: 人間のありかたをどう見るかは、時代や国を問わず、同じであるようで

前の投稿は前の前の投稿の補足だった。本日の投稿は、そのまた補足になるから、事後的には前の前の前の投稿への補足にもなる・・・ややこしいが、ややこしい事が大好きだ。

日本文化はシンプルを愛し複雑を排するのだが、とすれば純日本風の美意識に小生はどこかで疑問を感じているのかもしれない。いや、また、これは別の機会に書くことにする。



前の投稿の最後でこんな下りを書いた:

間断なく人にささやき続けるのは、実践理性(≒良心?)とみるか、無意識下の煩悩であるとみるか、この人間観の違いは大きい。
前者はカント的、というか西洋的な道徳観だ。後者は、仏教的な人間観。

この両者の違いは大きいと書いているが、よくよく考えれば、実質的には同じだと言ってもよいのである。というのは

人間は、自然の傾向に従えば快を求め、不快を避け、満足を求めるものだ。それが幸福だと誤認しているのだが、真の幸福とは実践理性が己に命ずる道徳法則に従ってはじめて実現するものである。故に、真に幸福でありたいと願うなら実践理性の声に耳を傾けて従うべきであり、そもそも最初から快・不快を問わずそうするべきなのだ。こう考えるのが、西洋流。
これに反して、
人間の心は煩悩に塗れており、快に執着する貪欲(=とん)を常とし、不愉快に怒りをぶちまける瞋恚(=じん)、そして物事の正否善悪を間違えてばかりいる迷妄とそれに気がつかない無知(=)この三毒煩悩に汚れているのが現実の人間である。故に、真の幸福を願うなら、先ずはこれらの煩悩をすべて止滅し、悟りを求める心すなわち菩提心を発しなければならない。最高の智慧を獲得し涅槃に達すれば真の幸福が得られる。従って、菩提心を発する、あるいは浄土系の回向発願心こそが、人が生きる上で最も大事なことである。こう議論するのが仏教流。
自然に任せておくと、人は(自己)満足ばかりを追って、不愉快な対象は満足するまで叩き続けるものなのだ、と指摘されれば、まさに現代社会にも当てはまる認識である。あろうことか、自己からみて不愉快な対象は正義に反していると言い、自分が正しい側にいるとも主張しているから、人間社会は仏教誕生以来、なにも変わってはいないわけでもある。

このような人間理解だけは、洋の東西を問わず、時代を問わず、一貫して同じであるように思われる。もちろん、いま使った「人間」という言葉は、「理性/知性」とは区別された、丸ごとの意味での具体的な「人間存在」のことを指していっている。一言で言えば、

良薬は口に苦し
この一言につきるというものだろう。
善い政治家とは、そもそも、国民には不愉快なことを求めるものなのだ。
そんな示唆にもなるが、とてもじゃないが、そんな余裕は現代社会にはないようだネエ・・・アナ、おそろしや、なさけなや。


省みると、いわゆる《末法》という世が始まったのは、西暦1052年からであると日本では理解されている。藤原道長は既に世を去り、息子・頼通の時代だ。頼通は父・道長の宇治別荘を改修して阿弥陀如来を本尊とする平等院鳳凰堂を遺した。その頃から鎌倉時代にかけて浄土系信仰が非常に高まったのは末法思想が理由である。もし「末法千年」と仮置きすれば、西暦2052年以降は「教え」が完全に消滅する《法滅》の世となる。対して「末法万年」とするのが多くの説であるようだ。この場合は、法滅までにまだ長い時間がある。いずれにしても、現代風にいえば「都市伝説」、「言い伝え」の類である。

現代日本だけではなく、世界では人類を救うのは《科学》であると確信されているが、科学が解決できるのは物質的な、というか「客観世界」を基礎づける物理学で(最終的には)アプローチ可能な問題に限定される  ―  数学ではない。物理学の対象は、その内部で思考することはない。物質は考えることをしないのだ。モノがそれ自体として意志や目的をもつことはあり得ない ― でなければ、宇宙は自ら考え、自らの意志と目的に沿って発展するという過激な(素っ頓狂な?)唯物論を認めなければならない。こんな空想は「科学的社会主義」以外に候補はない―いかなマルクス経済学でもここまでは議論していないはずだ。考えたり、理想を追求しようと意志をもつ人の「意識」、つまり理想や意志そのものは、身体器官の内部には存在しない。それとは違う非物質的存在である。考える「知性」は「知性自らの所在」を確認することはできないのだ。とすれば、「意識」の中で生じる問題は科学によって解くことはできない。こんな理屈になる。(最近の投稿でも述べているように)これが(現時点の)小生の生命観・世界観である。

クラークの名作にして名画でもある「2001年宇宙の旅」。作中の(実質的な)主人公は人工知能"HAL"であった。そのHALは最後に暴走した。しかし、いかに偉大な知能であっても、その知能自らが自己の論理の暴走を認識することは不可能である。真はあくまでも真。偽はあくまでも偽。知能がよって立つ数学的論理では真であり同時に偽である命題は存在しない ― というより、実際上そうあらねば困る。即ち《排中律》である。なので、科学だけではなく、知能がよってたつ論理も大前提のうえに造られている。そんなことも考えたりする今日この頃であります。