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2025年4月22日火曜日

ホンノ一言: 預言者・クルーグマンの面目躍如というところか

トランプ大統領が<金利引き下げ>に慎重なパウエルFRB議長を解任することを検討中と(どこかの)SNSに投稿したという。

これをきっかけにして、将来不安の高まりからNY市場の株価が暴落。米国債相場も急落(=長期利回り上昇)更にドル安も進行するなど、トラス英首相の「40日天下」で起きた記憶はまだ新しいが、先進国では滅多にない《金融トリプル安》が再び起きてしまった。

経済学者のKrugmanは、

Last week was a scary time in U.S. financial markets, and the danger may not be over.

I’m not talking about stocks, whose fluctuations often tell us nothing at all. What had me and others rattled were developments in bond and currency markets. Interest rates on long-term government debt rose sharply even as the perceived risk of a recession, which normally pushes rates down, rose. And the dollar went down against other currencies even though interest rates went up.

Source:  substack.com

Author: Paul Krugman

Date: Apr 13, 2025

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/a-financial-crisis-primer-part-i 

こんな風に"scary time"(恐怖の時間)だと振り返った10日前の金融的惨事が再び出来したわけである。上記引用の短文の最後は

I don’t think the Trump tariff regime will cause that severe an economic earthquake in America. But last week we were definitely feeling tremors, and it’s far from clear that this saga is over.

こう結んでいるわけで、

物語がこれで終わったとはとても言えない。

こんな状況認識を示している。

そもそもKrugmanは、昨年冬にThe New York Timesに寄せた最後の寄稿で、

We may never recover the kind of faith in our leaders — belief that people in power generally tell the truth and know what they’re doing — that we used to have. Nor should we. But if we stand up to the kakistocracy — rule by the worst — that’s emerging as we speak, we may eventually find our way back to a better world.

こう締めくくっている。この箇所は本ブログでも一度引用させてもらったので、その投稿で訳した和文を、かなりの意訳だが、もう一度下に書いておきたい:

かつて私たちがもっていた『権力にある人は、嘘でなく真実を語るはずで、何を自分がしようとしているか分かっているはずだ』という、「指導者がもつべき信頼感」というものを、再び感じることは、もう決してないかもしれない。指導者を信じられる時代は終わったのだ。何故なら最悪の人物による統治がこれから始まるからだ。

 

確かに民主党のハリス候補も酷い人物であったそうだが、ト大統領の無軌道振りも行きつくところまで行きつきそうな塩梅だ。

古代ローマ帝国の「五賢帝時代」は、マルクス・アウレリウス帝で終わり、その後は短命・無能の皇帝が次々に登場する「軍人皇帝時代」になったことは、今でも研究テーマになっているらしいが、そんな「100年の不安」を連想しそうだ。

マア、もって半年・・・1年?

来年の中間選挙で共和党が大敗してレームダック化する運命なのだろうか? 

それはそれで善い兆しかもしれないし、更なる不安定化への一里塚かもしれない。



2025年4月20日日曜日

断想: 仏教の「空」が現代世界で関心を集めるのは不思議なことで・・・

最近、(日本でも)仏教が話題になることが段々と増えている。それは、多分、アメリカ・ヨーロッパで仏教への関心がトレンドとして上がってきている。これを日本でも(何となく)感じているせいなのかな、と。つまりは、欧米の流行をこれも追っかけているということか、と。何だか冷めた思いで観る気持ちでもあります。

それはともかく・・・

どの宗派でも、仏教で最も理解がしづらいのは《空》という観念ではなかろうか?

言葉で言うのは簡単だ。分かったような事を語るのも簡単だ。しかし、《空》という観念を真に理解している人がいれば、言葉の定義に従えば、その人は菩薩の中でも最高位にあることになるという理屈だ。

小生も(当然ながら)よく分からない。

ただ、いま『無量寿経』の好きな部分である往覲偈おうごんげを滞りなく読誦できるように勉強しているところなのだが、岩波文庫『浄土三部経』の註にこんな下りを見つけた。原文の『浄慧知本空』の中の「本空」に対する註である:

(本空とは)本性は空であるということ。一切の現象は本来空のものであり、因縁によって生じたものであるという道理。

最後の「道理」は、むしろ「世界観」、「宇宙観」という方が今流の表現だろう。それと「因縁」というのは、仏理上の用語で「因+縁」によって全ての現象の生起が決定されるということだ。「因」は、思い切ってシンプルに意訳すれば、永遠に遡った「ベクトル自己回帰過程」、それも和分されていて非定常な過程における過去の全ての実現値を指すと、勝手にイメージしている。「縁」は、現時点において作用するランダムな外的要因だと、これまた勝手に理解している。言い換えると、繰り返し転生する輪廻の中の「過去の生」から決まっていた「業」が、まったくの偶然的要因をきっかけにして、そもそもその人が持っていた「業」が現実の結果となって帰結する、と。

マ、ギリシア悲劇の名作である『オイディプス王』を連想させるような世界観であるわけだ。

このページの欄外に手書きのメモが書かれている:

空。一切は(過去の)因と(現在の)縁による。これは徹底的な因果論。因果論を徹底すれば、意志は無意味になる。意志が無意味になるから、善を求める目的論的行為も無意味になる。というより、我という実在も実はなく、我だと自覚している意識は幻のような実体のない感覚にすぎない。無我が真理である。

「空」から「無我」が当然の理屈として出てくる。ロジックとしてはこんなロジックになるのか、と。

こう書くと、とても突飛なようであるが、極端な原子論に立って、しかもすべての現象は素粒子の運動によって決まると考える還元主義に立てば、上のような思考になる。科学的な唯物論と仏教的な空の思想は、案外、似ているのだと小生は勝手に理解している。

その科学主義が好きなのが今の世間というものだが、よく聞いていると因果論的予測よりは実現したい目的が先にある目的合理性を主張することが多い。そんな話の方を世間は好むのだと思うが、このような主観的願望は、まったく意味がない。すべては空である。仏教はこう考える(はずだ)から、現代日本、というより現代世界で仏教への関心が高まっているのは、とても不思議な気がする。


今日は、仏智とか、大悲とか、ここからが宗教であり、信仰だという境界は省略した。ただ、仏教の基本が<空>の観念であるのは事実だから、メモしておく次第。

2025年4月18日金曜日

ホンノ一言: 食料品価格の高騰は必ず政変(ときに革命まで)を招くものだ

(不作をきっかけにした)食料品価格の高騰は、古くはフランス革命の直接的原因でもあり、新しくは1918年(大正7年)に米価高騰に抗議する米騒動が日本全国に拡大して、国民の側で普通選挙への願望が高まる一方、統治機構側では民意への警戒感が強まるなど、その後日本社会が不安定化していく歴史への一里塚になった。

ことほどさように食料品価格は一国の政治情況を一変させてしまう程の衝撃エネルギーを持つ。

これが臨界点まで行くと、何人かの政治家の努力で社会を安定させるのは不可能になるということを歴史は教えてくれている。


ネットにはこんな記事がある:

 財務省が4月15日、財務相の諮問機関に対し、政府が輸入する「ミニマムアクセス米」を活用してコメの価格を引き下げる案を発表すると、早くも農業関係者からは反対の声が上がっている。

 一方、「輸入米の関税をゼロにして、安いコメをスーパーで売ってほしい」と訴える国民も少なくない。税金と社会保障費の負担に苦しむ国民の切実な声だと言えるが、その悲鳴に農水省が耳を傾けることは今のところないようだ。

Source:Yahoo! JAPANニュース

Date:2025年4月18日

Original:Daily新調

URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/fe3933263a9773265d9960442625c5f8887eab3d?page=4


この中で「その悲鳴に農水省が耳を傾けることは今のところないようだ」とあるのは、全くの誤りだ。

高いコメ価格は誰よりも、農家、農協(=JA)が望んでいる。農家が望んでいるのであれば、その希望に応じるのが、自民党がとる定石だ。今夏の参院選に負けないためには必要不可欠ともいえる。

アメリカのトランプ政権は日本の農産物関税を下げろと言うはずだ。もしそれを飲めば、確かに日本国内のコメ価格は下がるに違いない。何しろ、日本は韓国と比べても2倍以上高いコメを買わされている。アメリカと比べると日本のコメ価格は5倍になる ― 実際、<アメリカ 米価>をキーワードにGoole検索してみたまえ。この位の情報は、日本人なら容易にアクセス出来ているはずだ。

しかし、自民党は米価を下げて地方の票を失いたくはない(はずだ)。政治的にこれほど重要なイシューを農水省の官僚が意のままに決められるはずがない。

つまり米価は、夏の参院選に向けての《政治マター》になっているとみて(まず)間違いない。


ということは、米価高騰は既存の農家を守る与党が政治的にもたらした結果であると政権を攻撃する機会が野党にはあるという事だ。

そして、もし米価がこのまま高値にとどまるなら、石破政権は参院選でほぼ確実に負ける。そもそも農業関係者は全有権者の中でマイナーなのだ。岩盤とはいえ、サイズが小さい。

但し、農家票は捨てて、大都市中心の消費者票をとるという覚悟が野党には必要だ。実際、野党はそうするかもしれない。

(再び)ということは、初夏を目途にコメ価格を下げて、メジャーな消費者票を取りに行こうという思惑が、政権側にはある(はずだ)。

(三度目の)ということは、自民党は国民の生活を犠牲にしてコメ価格を政争の具としてもてあそんでいる、と。野党にはやはり政権攻撃の好機がある。

どうやら、コメが上がり始めた昨年の初秋、というより真夏に気象庁が不用意に出した南海トラフ地震発生の注意喚起のドタバタ以降、その波及効果が今年になってからも続き、ついには《熱い政治の季節》を招き寄せるという結末になってしまったようだ・・・

げにや恐ろしきは、故意ではなく、何気なく口にする過失の一言。パワハラもセクハラもそうであります。善意であれば、なおさら始末が悪い。

やはり食料品価格は、時の政権にとっては最大の勘所であり、鬼門なのである。


2025年4月16日水曜日

断想: ある世界観を世代継承するというのは……

『徒然草』よりは『方丈記』の方が(小生には)面白い。

内容の半分以上は、京の都を襲っていた数多くの災害と被災者の様子に関する災害レポートと何度も引っ越しを繰り返して住んできた自宅の住宅レポートと総括してもイイほどだが、著者が(当時としては後期高齢者に該当する)還暦を迎えて己が人生を回顧したいわば「自分史」であるせいか、全体の調べが一貫しているのだ。

無常観とよく言われるが、実際には現世の無常、来世の永遠を信じている当時の知的階層の世界観も反映していて、かといって確信があるわけでもない著者の心理的揺れが表れていて、非常に興味深い。

縦横3メートル四方、高さが2メートル弱の「方丈」、つまりは「小屋」は解体が容易なプレハブ式であったようで、そこをいおりと称して、今の京都市伏見区日野の辺りで晩年を送ったわけである。最終章から一部を引用すると、

北に寄せて障子をへだてて、阿弥陀あみだの絵像を安置し、そばに普賢ふげんをかき、前に法花経ほけきょうを置けり。・・・西南に竹のつりだなをかまへて、黒き皮籠かわご三合を置けり。すなはち、和歌、管弦、往生要集ごときの抄物しょうもつを入れたり。

こんな風に室内の様子が書かれてある。法花経ほけきょうというのは、今は法華経と書いている。普賢菩薩は法華経で欠かせない主たる登場人物である。あらゆる経典の中で法華経は比叡山・延暦寺の天台宗で最も尊重されていたということもあって、日本では「経典の王」と言えるだろう。一方、源信の『往生要集』だが、本でも読もうかというインテリなら誰でも手元に置いていた必読書であったことが窺える。源信とくれば阿弥陀如来と浄土信仰だ。それで法華経とは筋違いの「阿弥陀の絵像」をかかげていたのだろう。

鴨長明が『方丈記』を書いたのは、鎌倉時代初期の1212年(建暦二年)。『往生要集』が世に出たのは摂関政治の盛期である985年(寛和元年)頃だ。200年前の平安時代に書かれた本が、その後もベストセラーとなって、鎌倉時代でも広く読まれていたのは、文語体としての日本語にそれだけの安定性があって、書き言葉が時代を越えた通用力を有していたからである。

修正(2025-04-19):「そう言えば」と、ふと気になって『往生要集』の原文をあたってみると、やはり漢文であった。源信は延暦寺の僧であったから当然でもある。鴨長明は和訳を読んだはずがない。漢文で読んだはずだ。漢文を読みこなせる基礎知識が当時の知的階層の常識であったのは、現代日本において英文を読みこなす知識が当然であるのと似ている。安定性があった日本語文語というより、ここは共通知識としての漢文読解力を強調するべきだった。西洋では(近代になってもある時代までは)ラテン語が同じ役割を担っていた。

この点、明治以降の言文一致がもたらしたメリットとデメリットが窺えるかもしれない。ちなみに、『方丈記』が書かれた建暦二年は専修念仏を旨とする浄土系宗派の開祖・法然が亡くなった年でもある。この辺り、何だか同時代性が感じられて、臨場感を覚えるのだ、な。

加筆(2025-04-19):法然の主著『選択本願念仏宗』の原文は和文である。御遺訓として読まれている『一枚起請文』も和文だ。道元の『正法眼蔵』も日本語で書かれている。鎌倉時代以降、文学にとどまらず、思想や教理も日本語で伝える著述が増えたのは、日本人の知識を底上げした主たる要因であったのではないだろうか?ただ、その日本語は文語であり、文語としての日本語は時代を越えて(かなり)安定していた。これが主旨だった。

いずれにしても

親族や友人と別れ、財産や地位と別れ、己が身体と別れ、心とも別れ、伴うのは善悪の業ばかりなり。
こんな「死にゆく者の四つの別れ」のことは、長い仏教受容の歴史の中で、鴨長明も既に熟知していたに違いない。最後の「伴うのは善悪の業ばかりなり」は「伴うは後悔の涙のみ」と話される時もある。

そういえば、亡くなった小生の祖父が口癖のように云っていたのは

人間、起きて半畳、寝て一畳。生まれながらに無一文。
ということだった。祖父は夏目漱石の愛読者だったのでそのせいかもしれない。言葉は違うが、同じ世界観を世代継承できていることを、今ほど有難いと思った日々はない。

 

あらゆる文明は、ヨコでつながって出来るものだが、よく見ると時を超えてタテにもつながっているものだ。人間関係という横の絆は大事だが、縦の絆が切れていれば、その社会で文明は引き継げないし、そもそも新しいものも創造できないはずだ。技術も価値観も文明の一つの部分である。

2025年4月13日日曜日

池田晶子『2001年哲学の旅』のある箇所について

 『2001年哲学の旅』の著者である池田晶子のことは、比較的最近に投稿したことがある。そこでは大峯顕の著書について感想を記しておくのが主だった。

この『2001年哲学の旅』は、ジブリ風の装丁の割には中々読み応えのある実質があって、特に就寝前に何度も読み返すには最適な本である。

昨晩もギリシア哲学者・藤澤令夫との対談の箇所をパラパラ読んでいると、以下の下りがあってオヤッと思った:

私自身はやっぱり、哲学としては、ソクラテスやプラトンの「精神」原理と多数の人々の「生き延び」の原理が拮抗する中で、「生き延び」の原理が原子論の世界観によって武装し始めたもとのところに戻って、考え直さなくてはいけないと思う。

ただ東洋の知恵に乗りかえるというだけでは、世界の見方や宇宙の見方とつながらないンですよね。科学的な宇宙観を射程におさめたプラトン的なコスモロジーというところにつながらない。

人間の生き方と世界のあり方というのが同じ「精神」原理で把握できるという、一種の体系みたいなものを構築しておかないといけない。

藤澤の発言である。


この「コスモロジー」という言葉で連想したのは、何と中国中世にアップデートされた儒学体系、つまり「朱子学」であった。朱子学は、理気二元論を基礎に宇宙という物質的存在のあり方と人間の価値的世界を統合したという点で、一貫したコスモロジーを成していた。近代科学がまだ十分に発展しない段階で、知的階層を魅惑したのはもっともであるのだ、な。ちょうど19世紀後半から(多分今でも)マルクスの『資本論』が一部の人たちを魅了しているのと同じ理屈だろう。

カントも自然科学を基礎づける『純粋理性批判』だけでは満足せず、人々の意志を方向付ける『実践理性批判』、因果論ではなく目的論的認識を基礎づける『判断力批判』の三批判書までを書き終わって一つの体系にした。

空海が云った(という)金剛界(=物質界)と胎蔵界(=精神界)とは両部不二であるとの言も、主旨としては結構近いのだろう。

現代文明に欠けている核心の部分が、精神的基盤を提供しない《科学主義》の弱点にあるのは、ほぼ確実であると小生は考えるようになった。

実際、客観的物質が先にあって、その物質的存在は全て素粒子に還元されるという素朴な「科学主義」ほど、有害な思い込みはない。

人は意志をもって生きているのを、ただ生命ある物質が「生きている」と認識するのが、どこか可笑しいのは、少し頭を使えば誰でも分かることだろう。科学的に「生きている」と認識しているのは「身体」である。身体こそ全てであると機械論的に認識するのは、一つの立場としてありうるが、科学の側にも多くの意見がある。明らかに偏っているはずの社会的合意(?)を、無批判に前提して、一定の価値判断を伝えているメディア業界もまた有害な機関であるのかもしれず、現代文明の病理的症状の一つかもしれない。


そういえば、最初に引用した箇所の上段にはこんな下りがあった:

「精神」原理に対する「生き延び」の原理というのがあります。ソクラテスがそれを見つけたのですが、「ただ生きること」と「よく生きること」との対比とも重なります。

プラトンの『ソクラテスの弁明』は、多分いまでも中高生のための推薦図書になっていると思うが、

ことを行うにあたって、それが正しい行いになるか、不正の行いとなるか、すぐれた人のなすことであるか、悪しき人のなすことであるかという、ただこれだけのことを考えるのではなく、生きるか死ぬかの危険も勘定に入れなければならないというのだとしたら、君のいうことは感心できないヨ。

ソクラテスを裁く法廷で裁判員を前にこんな意見を陳述している。 藤澤令夫の師匠である田中美知太郎が訳した『世界の名著6 プラトンI』からの引用だが、主語と述語の順を逆にするという編集を加えさせてもらった。

現代流にいえば、

それが正しいか、不正かという時に、生死のリスクなど考えるな

という意見に等しい。

これは『葉隠』も同じことを言っているわけで、三島由紀夫の『葉隠入門』を何度か引用している:

「我人、生くる方が好きなり。多分すきな方に理が付くべし」、生きている人間にいつも理屈がつくのである。そして生きている人間は、自分が生きているということのために、何らかの理論を発明しなければならないのである。(95頁)

現代人なら「過激すぎる」と感じるのは確実だ。

「生き延びる」、「生き延びたい」という意志は、現代社会においては、最高度に正当化され、理論武装され、合理化されているという事実を、上の引用箇所は意見として云っているわけである。


しかし、思うのだが・・・

上のような意見は確かに理想論である。凡人はリスクを恐れる。リスクを回避するのは合理的であるとして許される。しかし、それは古代ギリシア人が重んじた四徳(=勇気・自制・正義・智恵)の中の勇気の欠如を示すものであって、恥ずべき行いであるという共通認識があったのだと想像している。少なくとも、正邪善悪より、真っ先に命の危険を怖れるのは優れた人物ならしない。それを、(開き直って)危険を避けようとする行動は合理的で、合理的であるが故に他人から責められる筋合いはない、と考える素朴なヒューマニズムで、社会は大丈夫かと感じることは多い。

現代社会のように

人の考え方は人それぞれですから・・・これも多様化を重んじる世界の流れなンだろうと思います、etc. etc.

という風に(何でも)相対化して、誤魔化していれば、社会は劣化するばかりだろう。

ま、とにかく『2001年哲学の旅』という本が、案外売れたという事実そのものが、未来にかけての一つの救いに思われたのであった。

才なく知なく徳もない凡夫でさえもが、現在のメディア業界の語る内容を信頼しなくなったという観察が本当なら、これもまた「ムベなるかな」という所だろう。


2025年4月7日月曜日

「トランプ関税」が愚策であるのは明白だが・・・

関税率引き上げは、貿易戦争を招き、結果として世界経済全体の成長を押さえるので、愚策中の愚策であるというのが、正統派経済学の定理である。

その意味で、今回の「トランプ関税」は、計算上の根拠のお粗末さには目をつぶるとしても、基本的に「愚策中の愚策」であるのは明白で、これがいわゆる《敗着》となって、2年後の米国・中間選挙で与党・共和党が大敗北する直接的要因になるかもしれない。

しかし、多分、この点は分かってやっているのだろうナアとは憶測している。

ひるがえって、この日本で大きな政策を決める時には、まず閣議で全閣僚の合意をとらなければならず、閣僚の意志には官僚の意見が反映されるものだ。そして、日本の「関税三法」を法改正するとすれば、与党の政調を通す必要がある。マア、日本国の首相にはト大統領のような振る舞いは、法的に、少なくとも組織として出来ないのだ。一言で言えば、それほどの権限は有していない。よく「指示」と言っているが、実際には「お願い」であろう(と勝手に憶測している)。

戦後世界では正統派経済学の論理によって経済政策が行われてきたので、自由貿易が理想であることを正面から否定する指導者は出現しなかった。

今回の「トランプ関税」は、グローバリゼーションへの反動とナショナリズムの復権とみれば、そう観えるのかもしれない。が、新しいアメリカが向かうのは、結局のところ、グローバル経済の成長を捨てて、アメリカを中心とした《経済ブロックの成長》を追求する方向に向かわざるを得ない、と。そんな風に観ている。

10年後に国際機関《WTO》(=世界貿易機関)がまだ存在しているかどうか分からない。

20世紀初めの第一次世界大戦より前にあった《帝国主義+デカダンス》に似た時代がまたやって来るのではないか、と。そんな感覚もあるのだ、な。

ある行動が愚策であるかどうかは、その時点で正統派である理論(及び価値観)に基づいて下される判断だ。正統派ではなく異端派によれば、愚策が上策になることは多い。この種の例は、歴史上、無数にある。

いわゆる《パラダイム・シフト》は、俗にいえば「ちゃぶ台返し」なのである。世界は、結果が全てといえば、そうなのだ。

トランプ大統領自ら、「経済革命」だと主張しているが、本当に「革命」になるのかどうか、今の時点では分からない。しかし、アメリカ国内にそんな「現状否定」を望む勢力があるというのは、前から分かっていた。

世界を動かしているのは『我はかく思惟する』という理性ではなく、『我はかく欲する』という欲望と意志である。これは誰もが知っている事実であろう。

英誌"The Economist"は、まだ確定的な評価はしていない。

... Investors have lowered their expectations for American corporate earnings this year by 1.5%—the same as for earnings in Europe. This is consistent with academic evidence published before Mr Trump took office, which concluded that American tariffs would cause as much or more economic pain outside America as within.

The good news is that the global economy faces Mr Trump’s tariff onslaught from a position of relative strength. A composite measure of global growth in March, derived from surveys of purchasing managers, rose from its February reading, and indicated particular strength in the services sector, which is so far unaffected by tariffs.  ...

America’s starting-point is even stronger. On April 4th statisticians revealed that the economy added 228,000 jobs last month, well above expectations. Old news, it is true. Yet real-time data tell a similar story. A weekly index produced by the Dallas branch of the Federal Reserve suggests that the economy is growing by over 2% a year. Goldman’s activity indicator shows America outperforming other rich countries. Although Mr Trump has committed one of the worst policy blunders of all time, he was lucky enough to inherit a strong economy. How much pain can it take? 

Source: The Economist

Date: Apr 6th 2025

URL: https://www.economist.com/finance-and-economics/2025/04/06/will-trumps-trade-war-cause-a-global-recession

Google翻訳で下線部だけを和文にすると、

トランプ氏は史上最悪の政策失策を犯したが、幸運にも強い経済を引き継いだ。どれほどの痛みに耐えられるだろうか?

その行為が「失策」であるかどうかは、目指している「目的」に依存する。多分、ト大統領が目指しているのは、正統的な《西側世界》がこれまで合意してきた伝統的目的とは異なるのだろう。伝統的目的を前提すれば、ト大統領がとった関税戦略は愚策なのである。

しかし、トランプ関税が愚策であるかどうかは、ト大統領が新たに目指し始めた目的を実現する上で合理的であるのかどうかで、アメリカ人が判定するべきことだ。

ト大統領が目指している《非伝統的目的》の実現に協力できる余地は、おそらく日本にもある(かもしれない)。それが日本の国益にプラスであるなら、協力すればイイ。日本の国益を毀損するのであれば、戦後日本の外交戦略を根本から見直す作業が必要になるだろう。


2025年4月6日日曜日

一筆メモ: 北京政府にとって最良の「台湾問題」解決とはいかなるものだろうか?

トランプ政権になってから日米安保体制の根本的見直しが迫られている(かのような)報道が目立つようになった。

仮に日本国内から米軍基地がなくなるなら、それ自体は好い事ではないかと小生などは感じるのだが、「それは不安です」と考える人たちが世間には多いのだろう。

日本が国防上の危機に(万が一)陥るなら、日本人が最前線に立って戦わなければならないのは自明のことである。国内に駐留する米軍が最前線に立って、日本のためにアメリカが戦うなどあるはずがないことは、当の日本人だって分かり切っているはずだ。人間は条文のとおりには行動しない。納得がなければ規約は死文化しているのである。理屈に拘っているのはメディアだけであろう。政治家もそれくらいは承知しているはずだ。

ただ、危機感をむやみに煽るメディアを取りあえず無視するとして、普通に考えれば、北京政府が台北政府と一線を交えるのは、中国にとって上策ではないのではないか。

仮に一戦を交えてしまえば、その後の治安維持に苦労するのは明らかだからだ。

第二次大戦後の独仏和解と現在のEUに至る道筋は北京政府も研究しているはずだ。

まずは第二次大戦後の「国共内戦」の和解を明文化し、エネルギー協力から自由経済圏、人とカネの移動の自由へと歩み始めれば、平和的な《中華連邦国家》の結成が不可能だとは、(小生には)思われない。

この小さな日本国でも「南北朝時代」という時代区分がかつてはあり、足利尊氏の1337年から足利義満の1392年までの55年間、二人の天皇が在位し、争乱が続いた。権威や権力は、一度分裂してしまえば、再統合は大変な難事業で、高度の政治的な技術が要されるのだ。外国の勢力が介入するべきではないと言っても、それで以て「反・民主主義的」であると非難される筋合いはないと思う。

というか、最終的に東北部からチベットに至るまでの現在の中国領土は、いずれ連邦国家に移行するのではないかと(勝手に)予想している。

そもそも北京政府が、20世紀前半の日本の「侵略」を今もなお「歴史問題」だと非難しているのは、わが身の蛮行を知らない歴史的無知の証拠である。漢民族固有の領土は、現在の中国領土よりよほど小さいもので、清王朝・乾隆帝の盛期の果実を継承しているという言い分こそ、クリミア半島を含めたウクライナ領有権を主張するロシア的感覚と同じである。

北京政府が(十分に)賢明なら、北京政府にとっての台湾問題も自然と解決されるのではないか。アメリカも動けないはずである。そうなれば、日本にとっても好い結果ではないかと感じるがいかに?

2025年4月4日金曜日

ホンノ一言: モーニングショーが語る「労働生産性と実質賃金」の怪?

情報を伝える時には常に制限がある。

新聞には紙面の制約があり、書籍も予定ページ数がある。学会発表には時間制限がある。論文にも(内容に応じた)ページ数の目安がある。そしてTV報道にも時間制約がある。本質的かつ要点を押さえ切った説明をするのは、そもそも難しいことである。

これと関係する話しかどうかは分からないが・・・

二三日前だったか、カミさんが視ているモーニングショーで珍しく経済が話題になっていた。聞いていると、

  • 日本の労働生産性は主要先進国とほぼ同じペースで上昇してきた。
  • ところが国内の雇用者の実質賃金はほぼ横ばいを続けており、ここが主要先進国と異なる。
  • この結果として、企業の内部留保が積みあがっている。

要するに、企業は雇用者に支払うべき余裕資金をため込んでいるので、今後は賃金を上げていくのが当然である、と。こういう主張であったわけだ。

聞いていて、思わず「ン?」と疑問を感じた。それは

労働生産性が上がって、実質賃金が変わっていないなら、ロジカルな帰結として労働分配率は下がっているはずである。

労働分配率についてよく参照されるのは、財務省『法人企業統計』であるが、ここではSNAベースの統計でみてみよう。具体的には、統合勘定表の雇用者報酬と営業余剰・混合所得の合計で雇用者報酬を割った値を労働分配率とした。「混合所得」は雇用者報酬的要素が混在している個人企業の営業余剰を指している。



図を見ると、法人企業統計ベースの労働分配率とは異なり、(少なくとも)下がってはいない。というか、この数年の労働分配率は(理屈とは反対に)上がっている。


ちなみに、日本全体のマクロの労働分配率は、SNAベースでみるのが最も正しいと、小生は考えている ― 何度か投稿したように、景気判断指標としては「四半期別GDP統計速報(QE)」の重要性は低下しているとみているが、SNAは相互整合的な加工統計の体系であるが故に、信頼性は高いと考えている。そのSNA統計と法人企業統計とが、互いに相反した動きを示すのは、以前からよく観られる現象である。

労働分配率を\thetaとすると \theta = \frac{wL}{pQ} という式で(素朴な形では)定義される。但し、wは名目賃金、Lは就業者数、pは物価水準、Qは実質付加価値、つまり実質GDPである ― 実際には、市場価格表示のGDPと要素費用表示の国民所得には概念差があるが、本質的ではないので、ここでは省略する。

上式から明らかなように、実質賃金w/pがほぼ横ばいで、労働生産性の逆数L/Qが下がっているなら、左辺の分配率\thetaは下がらなければならない。ところが逆に上がっているわけである。故に、先日のテレビの解説は、図の作成方法には触れられていなかったが、どこかが可笑しいという結論になる。

一見、おかしいと思われる説明に筋を通すなら、以下のようにするしかない。即ち、賃金を人数としての就業者ではなく労働サービス量に対して支払われる金額だと考えて、下のように式を書き直す。 \theta = \frac{w'AL}{pQ} 但し、上式のw'は労働サービス単位の賃金率、Aは人数を労働サービス量に変換するためのファクターである。

この式を見ながら、TVの解説と(実は)上がっている労働分配率との整合性をとろうとすれば、以下のような議論ができる。

人ベース賃金と同様、労働サービス単位賃金率を実質化した値w'/pもほぼ横ばいと前提する。この場合、人ベース労働生産性の逆数L/Qは低下しているので、因子w'/p \times L/Qは下がるが、因子Aが上がっているので、結果として左辺の労働分配率が上がる。この経路でないとすれば、労働サービス単位で測った実質賃金率は上昇していると考えるしかない。

この他に報道された説明と労働分配率のデータを整合的に説明することはできない、というのがロジックだ。

因子Aは人数を労働サービス量に変換するための係数である。これが上がるということは、労働能率が上がっている。例えば、単純労働から知的労働への置き換えが進んでいる。あるいは、より高度の労働サービスを提供する職種が増えたり、産業構造がそういう方向へ変化している。こういう背景があるという推察ができそうだ。

もう一つ、最低賃金引き上げもまた、賃金率を底上げし、Aの上昇と同じ結果をもたらすが、それが物価上昇と相殺されていれば中立的である。

いずれにしても、一定人数の就業者により高いファクターAが掛けられることによって、結果として労働分配率は上がって来た。こう考える以外にはないのではないか。逆の面から言えば、人数ベースのL/Qは低下したが(=労働生産性は上がっている)が、労働サービス量のベースで言えばAL/Qは上がっている(=労働サービスベースの労働生産性は下がっている)、と。こういう角度からデータを見るしかないのではないか。

労働分配率\thetaとは、生産に投入される労働サービスに何パーセントの付加価値が分配されるかという値なのであるから、分子は人数ではなく、労働サービス量にしなければならない。しかしながら、テレビの情報番組でこんな細かい点は到底語れるものではない。だからスキップしたのだろうが、企業は支払うべき賃金を支払わず、内部留保をため込んでいるという説明は不正確だ。確かに企業は儲けているが、それは海外事業で儲けているのであり、国内事業では儲けていない。だからこそ、国内事業の総決算である日本のマクロ統計では労働分配率が上がり、利益分配率が下がっているのである。

企業が海外で儲けた利益を、海外で再投資するのではなく、国内の就業者に還元するべきであるという主張は、確かにありうる意見ではあるが、それは企業の所有者である株主がなすべき判断であって、国内雇用者の報酬引き上げに充当するべきであると言えるかどうかは、人それぞれであろう。

そもそも不採算・低採算部門をリストラする権利は、私企業の側にあるのであって、それによって発生する失業者を吸収するため、開業規制を撤廃して新たな成長分野を育てる責務は政府の側にあることを忘れてはならない。

【加筆修正:2025-04-05】

2025年4月3日木曜日

断想: 自動車と人間と……物質と精神に関する私観?

3月末から4月初にかけて東京まで往復した。

船橋にある両親の墓に参ったあと、母が療養で入院するまで暮らしていた取手市の戸頭団地に回り、まだ七分咲きの桜を観た。それから守谷乗り換え・つくばエクスプレスで新御徒町まで戻って、ついでに上野の山の桜風景でも撮ってスマホの待ち受け画面にするかと考えていたのだが、とにかく寒く(後できくと41年ぶりの低温であったとか)、花見はせずコンビニでサンドイッチを買って、ホテルに帰ることにしたのは、つくづく根性がなくってきたナアと感じた次第。


墓参の帰り、近くのバス停まで歩く途中、自動車の解体工場がある。バラバラに切断されたボンネットの破片が山積みされている。


それを横目にみて、歩きながら、考えた:

自動車は、燃料を消費して熱エネルギーを生成し、熱エネルギーを運動エネルギーに変換して走る。人間の身体も同じである。そう言えば、《人間機械論》という唯物思想があって、西欧の啓蒙時代にかけて、一時流行したそうな。その意味では、人間と自動車は同じことをやっている物理的存在である。

しかし、根本的に違う所がある。自動車が走るのは、自ら走るのではなく、人間の意志が自動車の外側にまずあって、その意志のとおりに自動車が動かされているわけだ。人間の身体もこの点では同じだ。無意識活動も生存への意志と広く解釈すれば、その人の意志がまずあって、意志の通りに身体の各部分が動かされている。ところが、その意志は人間の身体の内部にあるのが、自動車とは違う。

意志は物質である身体とは区別された非物質の精神の働きである。仮にそう考えず、人間の身体に精神は宿るのだと考えると、物質が精神をもつというロジックになる。物質が意志をもつという理屈にもなる。 

しかし、物質が意志を持つと考えるのは流石に可笑しい(と感じます)。自動運転もママならないのに、自動車が意志をもちうるか?自動車が精神をもちうるか?持つとすれば、それは自動車本体とは区別された《AI》である。今のところ、自動車は精神をもたず、意志を持たない。だから外側から人間の意志によって動いている。物理的存在である自動車が意志をもつことは将来もないだろう。

 

物質である身体と非物質の精神とは、正に《不二》にして《一如》、一体のものであると考えることも可能だ。これも一つの世界観である。金剛界と胎蔵界は本来一つであるとみた空海の「両部不二」もこれに近いかもしれない。 

この立場にたつとすると、動物も植物も、生命あるものはすべて、意志(=生存への意志)をもつと考えるべきだ。「生存本能」と呼ぶが、「生存」と「世代継承」という特定の目的を実現するために物質を動かせるのであれば、それは「意志」の働きである、と言ってイイだろう。

老衰と死は、物質的身体の衰えから、精神が意志の通りに身体を動かせなくなる生理学的現象である。つまり、死の時点で精神は身体を失う。

身体を失った後、精神が存在するとしても、物理的実体ではないため、実空間においては観察不能である。 

 

もしも物理的な存在である身体の死が、同時に精神の死であるのであれば、物質の内部に精神があったことになる。言い換えると、物質が意志を持ちえるというロジックになる。

 

ひょっとすると、こう考えてもよいのかもしれない。しかし、こう考えると、生命体を超えてあらゆる存在は内部に精神をもち、意志をもつ、と考えてもよいことになりそうだ。意志があれば目的がある。故に、宇宙全体はある目的に向かって合理的に動いているという宇宙観になる。が、(というより、とすれば)、その目的を与えた存在は何か?この問いかけから逃げられない。目的の背後には意志が存在するからだ。

やはり物質と精神には本質的な違いがある。こう考える方が(今の)小生には納得できる。とすれば、物質的存在である身体の死は、精神の死を意味しない。では、身体的な死の時点で、精神はどんな状態に移行するのか?

宗教、哲学(ひょっとすると更に科学も?)とが重複する領域がここにある。

・・・

こんな事を思案しながらバス停で待っていたから、待ち時間で退屈することはなかった。

2025年3月29日土曜日

断想: 大乗仏教思想とギリシア思想との関係を調べよということか

本ブログでも何度か投稿しているが、毎月23日は母の祥月命日で近くの寺から住職が、最近は若住職が来ることの方が多いが、拙宅に来て読経をして帰る。

『仏説阿弥陀経』がメインとなるが、時間の制約からその抜粋を読んで終わることが多い。

それで、月末は父の祥月命日になるので、今度は小生が毎日の読経に加えて『仏説阿弥陀経』の全体を読誦することにした、というのが最近になって始めた新しい習慣である。

明日から東京に行くので、今日、それをした。時間的には30分かかるから、日常勤行式よりは余程長くなる。確かにこれでは、毎月の月参りの中で住職が阿弥陀経全文を読むわけにはいかない。

『仏説阿弥陀経』という経典は、いわゆる「浄土三部経」の一つであり、比較的短い。大体、15分強で読み終わるが、木魚ではなく切割笏きりかいしゃくをカチカチと鳴らしながら10分未満で読んでしまう時もあるようで、実際、Youtubeにはその様子がアップされている。とにかく速読みで、最後には僧侶の声がそろわず、混然とした音声になる。1951年のバイロイト祝祭でフルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮してベートーベンの第九を演奏したときの生録がレコードになっているが、フィナーレに向かって怒涛のようなアップテンポが進むなか、崩れたアンサンブルの混然とした音響で一瞬に終わる終わり方は、演奏会場の興奮がそのまま伝わってくる思いがしたものだ。阿弥陀経の速読みもそれに近い所がある。

『仏説阿弥陀経』でマーカーを引くとすれば、人によって考えの違いはあるだろうが、小生なら

不可以少善根ふかいしょうぜんごん 福徳因縁ふくとくいんねん 得生彼国とくしょうひこく

この部分1か所である。この意味は

少々の善行を重ねて良い徳を積むとしても(それだけでは)極楽浄土に生まれることはできない。

というものだ。

要するに、煩悩に支配され、濁世に生きている普通の人(=凡夫)がこの世で行い得る善なる行為は、タカがしれたものであり、そういうこと(のみ)では浄土へ往くことはできないということを言っている。

自力思想と他力思想の違いは、正にこの点にある。

いま関心があるのは、ギリシア哲学と(特に)紀元1世紀前後に体系化された大乗仏教思想との関係である。北インドのヘレニズム世界でギリシア人とインド人は、かなりの長期にわたって混住しながら、また商取引、貿易取引を通して、相互に影響を与えながら高度に発展した文明社会を築いていたことが分かっている。

関係しているかもしれないし、関係がないのかもしれないが、

知識とはそもそも何であるか?智恵とは何であるか?

について考察した『テアイテトス」の中で、プラトンはこんなことを述べている。偶々アンダーラインを引いたのが英訳であったので、そのまま引用してメモしておきたい:

The elimination of evil is impossible. ... But it is equally impossible for evil to be stationed in heaven; its territory is necessarily mortal nature - it patrols this earthly realm. That is why one should try to escape as quickly as possible from here to there. The escape-route is assimilation to God, in so far as this is possible, and this assimilation is the combination of wisdom with moral respect for God and man.

和文として少々不満はあるが、Google翻訳の結果を下に残しておこう:

悪の根絶は不可能です。...しかし、悪が天国に留まることも同様に不可能です。悪の領域は必然的に死すべき自然であり、この地上の領域を巡回しています。だからこそ、ここからあちらへできるだけ早く逃げるように努めるべきなのです。逃げ道は、可能な限り神に同化することであり、この同化は知恵と神と人間に対する道徳的尊敬の結合です。

プラトンの思想の要点は

人は自ら神の似像であらんと努力するとき自ずから善である 

というもので、そのとき人は真理と美にも近づける。こうした骨格が色々な作品の中にうかがえる。上の引用文の最後にも「神との同化」を目指すべしという根本が表れている。しかし、この世界には悪があり、悪から逃れることは不可能である。その悪は、神の世界には存在しない。悪の非存在は阿弥陀仏国と同じである。人は善であるために、(また真理を知るために、美を得るために)神の国になるべく早く逃げるべきなのだ。こういうことを『テアイテトス』の中でも言っている。 

こう考えると、上の英文の中の

 That is why one should try to escape as quickly as possible from here to there. 

という箇所だが、"from here to there"、つまり「此土から彼土へ」という意味であるから、『仏説阿弥陀経』の

応当発願おうとうほつがん 願生彼国がんしょうひこく

と、思想としては同じである、と。そう小生には思われるのだ、な。

ちなみに紀元前1世紀前後に編纂されたと言われる『ミリンダ王の問い』の中で、仏僧・ナーガセーナは、また別のことを語っているようだから、ギリシア文化到来前に発祥・発展した原始仏教(及び小乗仏教)とヘレニズム文化の浸透後に体系化された大乗仏教とは、思想を支えている哲理に違いが生じている。どうもそう思われるのだ、な。

それで、いまはこの辺の思想発展史にちょっとした関心があるわけだ。

2025年3月28日金曜日

断想: 東京が失った国宝級文化遺産は多い

最近は、メシの種としてきた統計分析より、このところの投稿にも反映しているが「形而上学的話題」に何だか関心が移って来たので、このブログも《統計》、《経済》でなく、《趣味》に偏ってきた感じがする — 「趣味」というより意識としては「余業」だが。

とはいえ、観察不能な抽象的な対象について何かを考えながら書いていくのは、結構疲れる作業である。考えなくとも、感覚的に鮮やかなものに触れたい。

理屈につかれるというか、そんな気分の時は、「エッセー」に限ると思う。司馬遼太郎の『街道をゆく』などは、抽象的な話題は全く含まれておらず、その点では最適だ。

これが通俗的に感じる時は、小生は永井荷風の文章を読むのが好きである。

目の前の情景を文章で表現したり、その時々に変化する心持ちを、心のままに淡々と表現していくには、日本語は実に「使える言語」だと思う。鴨長明の『方丈記』を英訳すると、単なる災害レポートのようになるような気がするし、清少納言の『枕草子』を英語(と限ったわけではないが印欧系言語)に翻訳すると、面白さが半減するような気がする  —  ウェイリーの"The Pillow Book of Sei Shonagon"は残念ながらまだ読んだことはないが。


今日は、岩波文庫『荷風随筆集(上)』所収の「霊廟」のページをパラパラとめくってみた。この霊廟というのは、東京芝の増上寺にある徳川家霊廟の事である。今は、戦災と戦後の困窮で境内もずいぶん狭小になって、「霊廟」も「徳川将軍家墓所」という情けない名称になってしまったが、荷風が生きた時代は、倒幕後の明治・大正であっても、それでもまだ「霊廟」という名前で通用していたのである。


翌日、自分は昨夜降りた三門前で再び電車を乗りすて、先ず順次に一番はずれなる七代将軍の霊廟から、中央にある六代将軍、最後に増上寺を隔てて東照宮に隣りする二代将軍の霊廟を参拝したのである。この事はすでに『冷笑』と題する小説中紅雨こううという人物を借りて自分はつぶさにこれを記述したことがある。

自分はおごそかなる唐獅子の壁画に添うて、幾個いくことなく並べられた古い経机を見ると共に、金襴きんらん袈裟けさをかがやかす僧侶の列をありありと目に浮かべる。拝殿の畳の上に据え置かれた太鼓と鐘と鼓とからは宗教的音楽の重々しく響き出るのを聞き得るようにも思う。また振り返って階段の下なる敷石を隔てて網目のように透彫すきぼりしてある朱塗りの玉垣と整列した柱の形を望めば、ここに居並んだ諸国の大名の威儀ある服装と、秀麗なる貴族的容貌とを想像する。そして自分は比較する気もなく、不体裁なる洋服を着た貴族院議員が日比谷の議場に集合する光景に思い至らねばならぬ。


上に引用した文中、「日比谷の議場」というのは「国会議事堂」のことである。永井荷風がこの作品を執筆したのは明治44年で、一方現在、永田町にある国会議事堂の竣工式が行われたのは昭和11年(1936年)11月7日で時の広田弘毅内閣の時である。議事堂建設予定地は既に明治20年に伊藤博文内閣の閣議で現在地に決定されていたのだが、戦争や関東大震災など色々な事情で工事が遅れ、この間はいま経済産業省が建っている敷地に仮議事堂が建てられ、そこで毎年の帝国議会は開かれていた。だから、いわゆる「大正政変」でデモに繰り出した群衆が国会を取り囲み、時の桂太郎内閣が総辞職するに至ったのは、日比谷(というより今の霞ヶ関1丁目になるが)にあった(小ぶりの)仮議事堂で起きた事件である。荷風が上の「霊廟」を執筆したのは、大正デモクラシーが現前するよりももっと前の時代にあたる。

ただ、近代日本を嫌悪した永井荷風であったが、旧・増上寺を見ることが出来たのは、いまの増上寺の惨状と比べればまだしも幸いであった。荷風は、 


すでに半世紀近き以前一種の政治的革命が東叡山とうえいざん大伽藍だいがらんを灰燼となしてしまった。それ以来、新しくこの都に建設せられた新しい文明は、汽車と電車と製造場を造った代わり、建築と称する大なる国民的芸術を全く滅してしまった。そして、一刻一刻、時間の進むごとにわれらの祖国をしてアングロサキソン人種の殖民地であるような外観を呈せしめる。


と結んでいる。軍部も右翼も左翼も大嫌いな文化人・永井荷風ですら、こんな感情をもっていた。これは戦後・日本でなく戦前・日本に生きた日本人が全体として共有していた感情であったのだろう  ―  そうでなければ負けると分かっているアメリカと戦争する勇気など出なかったに違いない。

上の「東叡山とうえいざん大伽藍だいがらんを灰燼に」というのは、上野・寛永寺のことであり、明治維新後に長州人・大村益次郎が作戦指揮して、寛永寺に立てこもる彰義隊を砲撃をもって討滅した「上野戦争」をさしている。寛永寺にあった徳川家霊廟もまた豪壮華麗な建築芸術であった(はずだ)―もとより写真などが残っているとは思えぬが。


昭和の事を語るなら昭和の風景を体感として共有しなければ何を語ってもそれは現代人の空想だ。明治44年の世間を語りたいなら、永田町に国会議事堂はなく、芝には増上寺が(ほぼ)元の形のままで建ち、首都高速道路も高層ビルなどもない風景を眼前に思い浮かべながら喋る必要がある。

実は、永井荷風がみた増上寺も江戸・旧幕の増上寺と同じではなかった(はずだ)。明治政府が強行した神道国教化が廃仏毀釈運動を招き、増上寺の大殿も放火の被害に遭った。それでも、嵐が過ぎ去った明治44年当時のままで残っていれば、文字通りの国宝群であったろう。更に、寛永寺が明治政府軍の砲撃を免れ、幕末の混乱のさなかに火災で相次いで焼亡した江戸城・本丸御殿、二の丸御殿もまた現存していれば、どうであったろう。東京が伝える日本文化の価値はいまとは比較を絶して不朽のものであったに違いない。
産業はその気になれば興せる。実際、戦後日本の高度成長はその好例である。豊かさも再現可能である。しかし、一度失った文化遺産は二度と造りなおせない。コピーはコピーでしかない。取り戻すことはできない。と同時に、自らのアイデンティティもまた文化遺産と共に消えるのだ。

勝海舟による「江戸城無血開城」は、結局のところ、

やった甲斐がなかった

こんな結果で終わったのが、近代から現代に至る日本の歴史になった。

戦後日本に生きている日本人は、多くの遺産が失われた日本に生きている。

荷風が言いたいのは、多分、こんな事だろう。 


この週末、芝と上野の桜を見に行く予定だ。


2025年3月24日月曜日

ホンノ一言: 首都圏マンション価格急騰をTVでもとりあげ始めたようで

石破首相の10万円商品券は、世論を盛り上げるには話が小さすぎる。大体、この位の金額なら民間企業の社内でも似た事例があるかもしれない。TV局でやっていたとすればブーメランだ。それが怖い。かと言って、ノロ・ウイルスは話題として地味。国民民主党や立憲民主党、維新の会といった「野党」も、何だかイマヒトツ世間受けが悪い、「全野党連合」なんてものが出て来れば政権交代にもなるわけで、これは一択で決まりだが……。どうやら、それもなさそうだ。兵庫県知事の斎藤知事。これも下手にとり上げると、火傷をするリスクがありそうだ。トランプ大統領の関税引き上げも、どう説明するかで、スポンサーの怒りを買ったり、そうかと思えばアメリカ大使館から怒られるかもしれぬで、何だか怖い。愛媛と岡山の山火事も(今のところ)どうなるか分からない・・・

だから「ニュース情報番組など止めればイイのに」と思うのだが・・・そんな訳なのであろうか、ようやく首都圏内マンション価格の暴騰が今朝のモーニングショーでとりあげられていた。


視ていると

現在のマンション価格急騰ですが、需要があるから上がるわけです。思うに、これは投機ではなく投資だと思うンです。税をかけて価格を抑える検討に入っているらしいンですが、ナンセンスですヨ。持っていてダメなら、貸せばイイだけですから。つまり物件として優良なんです。だから買う。それで上がる。合理的ですね。投機ではなく投資です。

経済畑には素人のレギュラー・コメンテーターがこんな風な事を(正確に覚えてはいないが)語っていた。

イヤイヤ、何とも言えない「デジャブ感」がありました。

1985年の『プラザ合意』で急速な円高が進行した。それに危機感を感じた日本政府は、超低金利政策で景気下支えに打って出た。円高と超低金利の日本社会で盛り上がるのは、当然、製造業ではなく、不動産開発。特にリゾート開発であった。全国の土地・建物の価格は1980年代後半に急騰した。「バブル景気」である。カネ余りの中、金融市場も盛況を極め、後に「不良債権」となる「投資プロジェクト」にどんどん融資されていたのもこの時代だ。

日銀としては、資産価格の暴騰を抑えるため金融引き締めに転じるべきであったが、ちょうどその当時、《経済大国・日本》のユーフォリア(=陶酔感)に浸っていたのだろうか、

不動産価格の上昇は、国際金融センターとしての東京の地位向上から不動産投資が増えているためであり、買いは実需であって投資である。投機ではない。故に、現在の不動産価格上昇は合理的に説明できる。政策的に抑えるべきではない。

こんな見解を述べる経済学者、エコノミストがいかに多かったか。記憶している人は、次第に少なくなりつつあるかもしれない。

バブルがバブルでないと錯覚する背景には、何らかの理由、根拠が常にある。40年前のバブル景気では、《経済大国・日本》の酩酊感が価格上昇を当然と思わせた。いまは、《円安日本の割安感》が合理的説明を可能にしている。

チューリップの球根がバブルを起こしたこともある。(ほとんど)架空の企業の株券がバブル投機の対象になったことも歴史にはある。

バブルは時として合理的である。

上がると期待できるから買う。結果として、上がるのが資産価格バブルである。

首都圏のマンション価格上昇は、既にバブルである可能性は高い。賃貸運用した場合の投資利回りから(ある程度は)見当がつくはずだ。国内大都市圏のマンション価格を比較分析すればイイだけだ。既にミクロデータからバブルを検知する方法も研究開発されている。

しかし、1980年代後半の「バブル景気」の最中でも同じであったが、

これは合理的な価格上昇で、投機ではありません。

こんな意見がメディア、世間で多数派を占めている限り、バブルは続く。これがバブルのロジックである。そもそも近代社会で、《バブル》という経済現象と《マスメディア》という情報産業の勃興とは、シンクロしているのである。

バブルは中央銀行による金利引き上げが特効薬であり、天敵とも言える。しかし、

中央銀行は、いまは金利を引き上げにくいのではないか?

と。そんな憶測を生むような政治経済的・国際関係上の情況があれば、その分だけバブルは強勢になる。バブルは「山火事」に似ているのだ。

バブルは、「これはバブルではないか」というリスクを世間が感じた瞬間に(=1、2か月以内に)、急激に崩壊に転じる。

バブル崩壊は、ある時点で、(懸念は広がっているにせよ)予想困難なタイミングで始まる。


今回の首都圏マンション価格も、そんな風に下落へと転じて、上昇局面は終わる。結果として、バブルであったか否かは、むしろ事後的に判明するものであると、小生は思っている。

少なくとも、

政策的にマンション価格上昇を押さえ込む

と。本気で価格押さえ込みを断行する程の大胆な(というより無知な?)政治家・専門家は今の日本にはいない(と思う)。いわゆる

あつものに懲りてなますを吹く(の正負逆バージョン?)

そう、観ているところです。


故に、既にバブルなのであれば、行くところまで行く。早めに手を打てる人はいない。最後まで行って40年の昔と同じく、再び崩壊する。後処理も遅れる。迅速な後始末を実行できる政治家が日本にはいない。こう予想したりしています。

歴史は繰り返す。それは以前の経験を忘却するのが人間であるからだ。こう考える次第。


あとは、瀬戸内の山火事の広がりと備蓄米放出後の米価、大阪万博の客の入りくらいかネエ・・・。予算案の年度内成立は地味だからナア・・・。

リスク回避を是とする現代日本のメディア業界。安全に「放送可能」なイシューを探すのに苦労しているTV報道局現場の(涙ぐましい?)苦労が伝わってくる今日この頃であります。

【加筆修正:2025-03-25】


2025年3月21日金曜日

断想: 海外文化が日本にやって来ると、何でも日本化されるというが・・・

 前々稿の最後にこんなことを書いた:

だから社会を救済する道を歩むのに「学問は不要」というのは、日本仏教のとても面白い所だと思う。マ、まだまだ、一知半解の域は出ませんが……、覚え書きという事で。

いま色々と突いているのは、小生の単なる知的好奇心からである。 

仏教思想だけではない。何でも日本が海外文化を輸入すると《日本化》される。 オリジナルの海外文化を本物とする視線からみると、日本に来て歪みが生じたことになるのだろうが、必ずしもそうではないと、最近になって思うようになった。

毎日の読経では『日常勤行式』の折本を使っているのだが、表側のメインは『無量寿経』の「四誓偈」あるいは『仏説阿弥陀経』を読誦する。そこでは、前々稿でも話題にしたように智恵と学理の修得が大前提になっている。ところが、折本の裏側に入ると法然の『一枚起請文』が柱となって、「一文不知の愚鈍の身」となることが求められる。しかし、最後になって和文から漢文に戻ると、再び「四弘誓」で学理の追求が求められるわけだ。

単純にいって、これは矛盾ではないかと、(現時点では)感じる。ベクトルが違うのだ。

日本に来ると、精緻な仏理を理解するべきところで、逆に一文不知の愚鈍さが要請される。禅には禅の哲理があるのだが、日本に来るととにかく「不立文字」が強調される。カントやヘーゲルが一大体系を構築して、人間理性の限界や無限の成長を精緻に考察した一方で、日本で誕生した本格的な哲学である西田哲学(及び京都学派)では、

モーツァルトは楽譜を作る場合に、長き譜にても、画や立像のように、その全体を直視することができたという、単に数量的に拡大せられるのでなく、性質的に深遠となるのである、たとえば我々の愛に由りて彼我合一の直覚を得ることができる宗教家の直覚の如きはその極致に達したものであろう。

という一文が『善の研究』にあったりする。

そして

実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである

このように極めて、主観的で、直観的、正に客観と主観が一体化するような心境こそ「最高の境地」であると。《道》というべきか、《悟達》というか、こんなレベルに憧れる日本人は(今でも)結構多いのではないだろうか?

概括的な印象論でしかないが、日本では面倒で、学問的な議論は、嫌がられることが多い。いわゆる「神学論争」はヨソでやってくれ、というわけだ。

《真理》は、ソクラテスやプラトンが行った「対話」や「論争」ではなく、ただ心の直視によって、認識しうるものである。そして、真理は一つである。

こんな《真理観》(?)に共感する日本人が多いのではないだろうか?

もしこんな印象が的をついているなら、この傾向が原・日本語の言語としての貧困さから生じたものであるか、大半の日本人の感性に由来するものなのか、これこそ日本的精神であるのか、小生には明らかでない。

海外で生まれた思想や哲学が、日本に来ると極端に振れて、よく言えばシンプル、悪く言えば原始的になるのは、真理は一つ、真理は清らかで、誰にとっても明らかで、疑いの余地がないものである、と。どうもそうであるらしいのだ、な。

だからこそ、本来は煩悩を断ち、(物理ではなく)仏理を徹底的に理解し、仏国土の存在を深く信じ、そこへ往くことを願うことが求められているにも関わらず、善人・悪人を問わず誰でも「信じて」、「願えば」、それでイイのだ、と。オリジナルの浄土信仰ではありえない程にラディカルな救済思想が日本では誕生した。

それは、

これが真理である以上、他の考え方は排するべきである。正しい行動はシンプルでなければならない。

と。

何だか、日本人の割り切り方の特徴が、宗教面にも反映しているのじゃあないか。そんな風にも考える今日この頃です。



2025年3月19日水曜日

ホンノ一言: 石破首相による10万円商品券贈与をどう見るかという話し

石破首相が新人議員に一律で10万円の商品券を贈ったというので、結構な騒動になっております。

ごくごく内輪の事情がなぜマスメディアに出てくるのか?

この辺で色々と揣摩臆測しまおくそく(?) ― これも大変古い用語である ― が飛び交っているようで、そのうち週刊誌か何か「その辺の」記事になるかもしれないし、下らないのでならないかもしれない。

民放TVは(例によって)電波を使った井戸端会議を繰り広げているようで・・・



ただ正直、思うのだが、ずっと以前、甥が国家試験に合格したとき、小生は10数万円の腕時計を贈ったし、別の甥には大学合格祝いにMacbook Proを買ってあげたことがある。人生一度の目出たい達成を親戚の一人としてお祝いしてあげたかったというそれだけの事であるが、税制上は贈与という事になるわけだ。これが特に問題にならないのは、贈与税基礎控除内であることと、社会的慣例内でもある(と思われる)、さらに親族内のやりとりだから問題はないのではないか、マアマア、こんなところが理由になるのであろう。

しかし、何が社会的慣例かという意識には個人差がある。叔父から10数万円のパソコンを買ってもらったという事実がそもそも腹立たしいと感じる人が世の中にはいるかもしれない。たとえ親類であっても、それは優遇・不遇を分けるソーシャル・コネクション(の一つ)であるから理念的には排するべきなのだ。故に、合格祝いだからといって甥にこれほど高額な物品を買い与えるのは不公正である。余裕があれば慈善的な寄付に充てるべきである ― 本当に「べき」ならもはや「寄付」とは言えない理屈だが、これはまた別の話し。こんな主張が目に入ったとしても、(いまの世相なら)想像の範囲内でもある。

商品券ならダメで、新人議員個々人に(仕事で使う)PCを進呈していれば良かったのか?そんな話でもあるまい。

血縁関係はなく、党総裁と党所属の新人議員だから問題なのか?……、これも違うと思います。

与野党問わず、時の議長・副議長連名で、一律に10万円の商品券をお祝いに進呈するというなら許されたのか?

・・・よく分かりません。

初当選という事実は新人議員にとって《人生一度の慶事》と言えよう。大先輩からお祝いしてもらって『これもらったらダメなんじゃないの?』と怪しみ、不安に感じる議員が本当にいたのだろうか?誰かに言われて、はじめて心配になったのじゃあないか?違うかな?

ある民間企業が、新入社員に一律でオーダースーツのお仕立券10万円を贈ったとしたら、世間はその会社と社長を非難するのだろうか?周りの経営陣が株主代表訴訟を心配するだろうか?・・・分かりませぬ、何しろ令和時代というのは、こんな世相ですから。


ある「法律専門家」は、政治資金規正法に違反する行為となる可能性があります、と。そんなコメントを公衆に向けて発信しているが、小生は法律の条文は現に機能している社会的慣行を壊すこと自体を目的としてはいけないと考える立場にいる。なので、この種のコメントをする人は「法匪」にしか見えない。

プラトンは『国家』の中で、こんな攻撃的タイプの御仁を、毒針をもった《オス蜂》に例えている。実に秀逸な比喩ではないか。安定した国制が危機に陥るとき、常に《オス蜂》が飛び回る様を表現力豊かに描写している。


・・・まったく(メディア関係者のギャラと企業利益以外は?)ロクに付加価値を生み出しておらず、極めて生産性の低い経済活動としか、小生には見えない。多分、マイナスの副作用がある。合計すれば、この間、生まれた社会的価値は概ねゼロであろう。不要にして無駄である。悲しいかな、悲しいかな。空なる人生の虚しさよ、と言いたいところです。


・・・実際のところ、小生は今回の騒動は誰かが意図をもって仕掛けている騒ぎにしか見えません。前々稿でも書いたが、マア、最近目立って増えてきた「言論テロ」の一例ではないか、と。こんな印象であります。

【加筆修正:2025-03-29】

2025年3月18日火曜日

断想: 社会的な善を求める自己の信念というのは評価していいのか、という話し

先日の投稿でも

浄土に往くことを願うこと(=願生彼国)は、ギリシア哲学でいう「善のイデア」を見る(=知る)ことへの憧れと変わらない

と、そんなことを書いた。つまり、最高の(=状況や関係性に依存しない絶対的な)善をこの世界で実行したいなら、まずは最初に願うべき事がある、と。そんな「命題?」である。

ところで「善」というと西田幾多郎の『善の研究』の(遅まきながらの)読後感を本ブログに投稿したことがある。

その時は英米流の「功利主義的価値観」は(断固として)廃するという西田哲学の立場に触れていた記憶がある。

それと関連するのだが、

一は或行為が事実としては善であるがその動機は善でないというのと、一は動機は善であるが事実としては善でないというのである。

こういう問題があるということは西田も意識していた。言い換えると

動機が善だからと言って、結果が善いとは言えないだろう。

動機は善だとは言えないとしても、結果が善になることもあるだろう。

こんな問いかけは、当然意識するでしょう、ということだ。

先日の投稿で書いたのは、上の二番目の問いかけに関する西田の回答だった。実は、一番目の問いかけも結構重要だ。

善かれと思ってしたことが・・・

という後悔は世間には多いだろう。

これについては西田はこんな風に回答している:

個人の至誠と人類一般の最上の善とは衝突することがあるとはよく人のいう所である。しかしかくいう人は至誠という語を正当に解しておらぬと思う。もし至誠という語を真に精神全体の最深なる要求という意味に用いたならば、これらの人のいう所は殆ど事実でないと考える。我々の真摯なる要求は我々の作為したものではない、自然の事実である。

真に心の中で願う社会的欲求というのは、社会の中に事実として存在する欲求なのであるから、それを欲求として意識するのは自分という一個人であっても、その願いは社会の欲求であると信じて、(断固として)行動を起こすべきである、と………

戦後になって《西田哲学》あるいは西田がリードした《京都学派》の戦争責任が(一部で?)問われる事態になったのも「ムベなるかな」と小生は思う。

これについては、Kindleのメモでこんな風なコメントを書いておいた:

このような社会観は、エリートの暴走を肯定することにもなろう。《至誠》という言葉は、煩悩を具足した一般公衆には使ってはならないとも思われる。「善」なる行動には深い知識の裏付けが必要である。だからこそ、仏教の四弘誓には『法門無尽誓願知 無上菩提誓願証』という一句がある。

いま読み直すと、

煩悩具足の凡夫に「至誠」が本当に可能なのか?凡夫の善意志に基づけば「善行為」になりうるのか?というか、「凡夫」は本当に真の「善意志」をもちうるのか? もてるなら、既に「凡夫」ではないだろう。

むしろ、善意志であろうが、利己的行為だろうが、結果が善いかどうかで善悪を判断する功利主義的価値観の方が、実用上は有効ではないか?

こう付け加えたいところでもある。

上でいう《四弘誓》というのは、浄土系宗派の日常勤行式に含まれるだけではなく、大乗仏教全体の目的として広く了解されている次のような四句である:

衆生無辺誓願度

煩悩無辺誓願断

法門無尽誓願知

無上菩提誓願証

但し、上の四句は小生が属する宗派の文言で、主旨は同じでも宗派ごとに異なった字句が使われている。

仏教でいう最高の善とは、上の最終句にある「菩提」、即ち「覚り」を指す。それには無限の学識を学び尽くす必要があるというのが第三句である。もちろん自分自身の「煩悩」は断つことが前提だ(第二句)、それでこそ社会(=衆生)を救済するという「善」を為すことが出来る、と。

西田幾多郎には悪いが、現実の社会をみる見方としては、仏教的社会観のほうが真実ではなかろうかと思う次第。

ただ、面白いのは、仏教オリジナルとしては上のような人間観、学問観、社会観を採っているはずなのだが、法然はその『一枚起請文』の中で

唐土もろこし我朝わがちょうにもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。

又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細しさいそうらわず。

と、まず最初に確言していて、学問と浄土往生とは関係がないとしている。念仏を声に出して称える事だけが必要だとしている。ここが日本仏教の最もラディカルなところで、神秘的な箇所でもある。悪意に見ると呪文を唱える魔術のようだと感じる人もいるかもしれない。実際、他力宗派にも「一念」で十分と考える一念義と何回も称えなければダメだとする「多念義」の対立があったが、一念だけ称えればよいとする一念義は念仏を呪文のように使う秘術に似ているという批判があったそうである。絶対他力の親鸞もこの系譜にある。

確かに、個人が浄土に往生することは個人にとっての善であって、社会とは関係がない事なのだが、浄土系仏教では浄土に往生した後、次は娑婆(=この世界)に戻り衆生(=社会)を救うというのが、基本的筋道である。これを「往相」、「還相」と呼んでいる。なので、個人的善ではあるのだが、「還相」までを考えると、社会的善を希求してもいるのが仏教思想である。

だから社会を救済する道を歩むのに「学問は不要」というのは、日本仏教のとても面白い所だと思う。マ、まだまだ、一知半解の域は出ませんが……、覚え書きという事で。

いま色々と突いているのは、小生の単なる知的好奇心からである。 

【加筆修正:2025-03-19】

2025年3月15日土曜日

断想: 高度成長期とは逆方向のモメントが必要なのでは?

3月下旬から4月上旬と言えば、全国的なスケールの《大移動》が行われる。

親元を離れて上京するとか、入社式を控えて地方圏から大都市圏に引っ越すとか、あるいは社内の人事異動とか、それぞれの悲喜こもごもや運送業者の人出不足問題は別にして、色々なことを考えさせられるのも、いま頃の季節である。


「高度成長期」の定義ですら、人によって違う。が、小生は個人的には、「神武景気」のスタートから「いざなぎ景気」終焉までの期間を「高度成長」だと理解している。とすれば、1954年(昭和29年)12月から1970年(昭和45年)7月までが「高度成長期」であったことになる。

戦後日本にとっては正に「黄金時代」ともいえる時代を通して、日本人は農村地域から大都市・工業地帯へと移動していった。歴史上かつてない程の《大移動》だった。

データは省略しても可だと思うが、その大移動を支えた経済的動機は明瞭で、農村より大都市・工業地帯の方が給料がイイ、収入が増える。実に単純な動機だった。農村地域には、過剰な人が暮らしており、潜在的失業者があった一方で、この時代に勃興した「京浜、阪神、中京、北九州」といった《4大工業地帯》や大都市の第3次産業部門では、人手不足で「イイ仕事」が多数あったわけである。

そして今もなお、首都圏が人を引き付ける力は残っている。だからこそ、東京一極集中が懸念されているのだ。

高度成長期には、労働資源が地方から大都市に移動することで、地方の経済にはマイナスの作用が働いたが、人を受け入れる大都市ではプラスの作用があった。しかし、マイナスよりはプラスの方がずっと大きかった。だからこそ、日本全体で所得が増え、高い経済成長率を維持できたのである。

人の移動はこうでなければならない。小さなマイナスを大きなプラスでカバーするわけだ。

しかしながら、今もなお続く「東京一極集中」の下で、日本人の所得はほとんど増えていない。一世代丸ごとと言ってもよい程の長期間、日本人の実質所得は停滞ないし低成長を続けていて、これを日本人は《失われた30年》などと呼んでいる。

地方から東京へ人が移動して、地方ではマイナス、東京にはプラス。ところが合計すればプラスマイナス・ゼロというわけだ。東京に人が集まる効果は地方の衰退で帳消しになっている。というより、地方では過剰な流出で過疎化が進み、東京では過剰な流入で過密化が進むので、実質的には日本社会は悪化していると言うべきだろう。

その理由は明らかで、首都圏の経済活動、中でも主要部分であるマネジメント、サービス部門の生産性が低いからである。低いだけでなく、向上もしていない。

日本を代表する大企業のマネジメント能力の低さは、今回の「日産自動車」や「セブン&アイ」のドタバタ劇を見ると、容易に了解されるはずだ。あれは氷山の一角である。

日本の立法府・国会の低生産性は、その法案作成・立法の実績をみれば歴然としている ― 昨年来の兵庫県議会を知るにつけても、日本の「議会」の生産性に関する実証的な国際比較をみたいという思いがつのる。そもそもコロナ禍の3年を通して、日本社会のいわゆる「上層部」の低生産性が目の当たりにされた記憶はまだ鮮やかなはずだ。

日本の言論界、マスメディアと呼んでもいいかもしれないが、もはや「言論」と云えるような代物ではなく、

やっていることは《言論テロ》であろう

と、遠くからみていると、そう感じるのだ、な。 

サービス業も(モノではなくサービスの特性上)人口集中地域で展開しやすい。しかし、純粋な意味で付加価値を生み出しているサービス活動がどの程度あるのだろう。生産性がどれほど上がってきているのだろう。例えば、医療や介護は専門職一人当たりの業務効率は上がっているのだろうか?教育産業の生産性はどうなのか?リモート教育、リモート診療が最近でこそ広がってきたものの、大体は同じ業務スタイルのままではないかと、近くの病院で診察を請う時などはそう思う。理容・美容も同じだ。

というより、職業資格で従事者数が規制される活動は別として、エンターテインメントも含めたサービス一般。昭和20年代の農村と状況は似ているのではないか、と。いま潜在的失業者が滞留しているのは、地方の農村ではなく、大都市である。そう観ているが、違うかな?

それにしては「人手不足」だ・・・と?。

いわゆる「人手不足」は、雇用政策、社会保障政策が適切さを欠き、結果として潜在失業者をロックインして、自由な移動を阻害している厚労省による《疑似的人手不足》だ。小生はそう思っているのだが、違うかな?

大体、「人手不足」は、省力化投資を怠って来た企業経営者側のマネジメント能力の欠如を示すものでしょう。

マア、挙げだすとキリがありません・・・

高度成長期とは異なり、いくら人が地方から大都市に移動しようが、日本全体の合計でみれば、まったく生活水準が上がってこない、収入がチットモ増えてこない。これには、都市と地方の(名目ではなく実質的な)生産性格差が、(マージナルな意味で)ほぼ消失済みであるという実態的な理由がある。そう思うわけです。

大都市の魅力は、もはや根拠をなくし、単に見栄であったり刺激を感ずるという主観になってしまっている。

まとめると、

大都市圏への人の移動は、日本社会にとって、もはやプラスの結果をもたらさない。少なくとも、現時点の国内大都市の経済実態はひどいものだ。とすれば、経済的なチャンスが存在するとすれば、過疎な地方だと考えるのがロジックだ。


ただ、江戸期に自然形成されたような《地方間経済ネットワーク》、ひょっとすると《広域国際間地域経済ネットワーク》かもしれないが、それを再構築するには、情報発信が不可欠だ。情報産業の生産性を上げる必要が絶対にある。

日本は《日本語空間》であって、空間として狭小だ。故に、「知的サービス市場」では「英語空間」、「中国語空間」に中々かなわない。

とすれば、地方ごとに「差別化・深堀り」の経済運営を支える情報拠点を人為的に組織化する必要がある。

どこが「組織化」するって?

「官庁」に決まっているでしょう。新設してもイイくらいだ・・・と、今は書いておきましょう。


先ずはメディアの「東京一極集中」を廃することから始めてはいかが?

首都圏には大手新聞社、大手TV局、大手出版社、大手広告企業などが過剰に集中している。

これを地方ごとに分立させる ― 具体的システムのありかたは、また別の話題にはなるが。新聞・TV・出版産業を保護対象から外すだけで、現在の産業組織は一変するはずだ。あとは競争メカニズムが最も自然なあり方をもたらしてくれるだろう。但し、統治機構によるメディア・コントロールは難しくなる。が、これまた別の話題だ。そもそもメディアが東京に集中するなど、スパイ網じゃあるまいし、そんな産業組織で価値ある情報を日本の津々浦々に伝えられるはずがない。

求めている情報は地域ごとに異なるのだ。情報価値の地域差は極めて大きい。中央集権的配信システムでは非効率で不満が鬱積する。

北海道で暮らしていると、道外の細々とした報道は不要である。東京で制作したドラマやバラエティはマスに販売するカップ麺のような味わいで、地元の感性と外れることが多い。地域に価値を提供しないものは廃止し、空いた時間スペースで地域ごとの需要に応えればよい。

「構造改革」が望まれる。


メディア市場を含め、日本経済はいま大都市圏と地方圏で、生産性・資源配分という面で、捻じれ状態になっていると観ている。

高度成長期とは逆のモメントを働かせる時機が来ている。

ただ、高度成長は民間主導で実現したが、現在の停滞は統治機構の権力が資源配分に介入する形で生まれている ― 本質から逃げる日本のメディア産業の罪でもあるのだが。これを是正するのは、現在の政党、国会議員達の能力では極めて困難かもしれない。

日本が落ちたトラップは、実は「高齢化社会」ではないと確信している。高齢化社会でも成長へのモメンタムが生まれるのは十分可能だ。出来るはずのことが出来ていないのだ。その理由は、日本人の大半が無意識に望んでいる《社会主義的社会》にある。つまり《中央集権への根拠なき信頼》がまだ心の奥にあるのだ。実に驚きに値する。社会主義は必ず停滞する。いくら停滞しても、それがイイのだと考える。だから閉塞感を感じるのだ。

そんな現代日本観をもっている。

【加筆修正:2025-03-16、03-18】


2025年3月11日火曜日

覚え書き: エンゲル係数を見るなら、ミクロとマクロと、両方から見るべきだ

経済統計でいう《エンゲル係数》は、消費合計に占める食費の比率で、これが直ちにその世帯の生活水準を伝える指標とは言えないまでも、

毎日の食費が多ければ、やりくりがそれだけ厳しくなり、他の目的に充てる余裕がなくなる

この事実に変わりはない。

なので、国内の世帯を平均したエンゲル係数が傾向的に上昇していれば、あまり良い兆候とは言えない。生活が苦しい世帯が増えているのだろうと推測する根拠にはなるのだ。

エンゲル係数は色々な要因で上がることがありますから・・・

という割り切り方は、経済専門家としては不誠実である。

そのエンゲル係数については、つい先だっても日本経済新聞(2025年2月7日付け)が

食料価格の高騰が個人消費の重荷になっている。総務省の家計調査によると、2024年の消費支出は実質で前年比1.1%減少した。消費支出に占める食費の割合を示す「エンゲル係数」は28.3%と1981年以来43年ぶりの高水準となった。

このように伝えている。足元の米価急騰の世情もあって、「エンゲル係数の歴史的高さ」がちょっとした話題になった。

日本のエンゲル係数は、「欧米先進国」と比べて突出して高い、と。日本が貧困化している表れである、と。そんな指摘がある。

確かに良いニュースではない。

改めて、年間収入で層別化されたデータを(e-Statを利用して)家計調査からとり、第3階層、即ち「中位層」を対象にエンゲル係数を求めてみると、2024年平均で29.1%になるから、日経報道とは概ね整合的な数値になる。

ちなみに外食と酒類を除いて食費に占める割合を求めると、上の数値は23.5%になるので、この違いはかなり大きいことに留意しなければならない。

年間収入階層別のエンゲル係数については、以前にも投稿したことがあった。足元では本年1月までの月次データが家計調査で得られているので、再計算した結果を下に示そう。


薄いグレーの折れ線は、生のエンゲル係数を3カ月移動平均した値。色分けして重ね書きしているのは、局所回帰(LOESS)で成分分解して得られた傾向成分である。年間収入階層は、"01"から"05"にかけて収入が高くなっている。各階層は5分位階級になっているので、5分の1ずつの世帯が含まれている。但し、外食・酒類を除くエンゲル係数である。

トレンドを見ると、最もエンゲル係数の高い第1階層は、本年1月時点で大体28%。中位に当たる第3階層では22~23%程度である。最も豊かな第5階層は18%というところだ。確かに、同時点で(=物価水準が与えられたとすれば)、年間収入が増えれば、エンゲル係数は低くなる。これは歴然としている。故に、エンゲル係数の高低は、(ある程度にせよ)生活水準の指標として使えるわけである。

このエンゲル係数は、どの世帯も2015年前後を境にして、それまでの横ばい傾向から上昇傾向へと動きが変わり、この10年程の間に5~6%ほど高くなった。これが2014年4月、2019年10月の二度に渡る消費税率引き上げとどれほど関係しているのか、多くの人が経済専門家から解説を聴くことはほとんどないのではないだろうか?というか、そもそも因果関係について研究が満足になされていないのかもしれない。

この辺も、普通の日本人にとって、経済学が(ずっと以前に比べて)縁遠く感じられる一因になっているかもしれない。

上図で視ておくべき点として、低収入世帯ではエンゲル係数がずっと(傾向として)上がり続けているが、高収入世帯では最高水準の高さにまで上がっているわけではない点だ。

食品価格の上昇の痛みをより強く感じているのは、やはり低収入世帯であるという認識はどうやら的をついていると言える。

家計調査は、家計に対するミクロベースの統計データである。これとは別に、マクロ統計でエンゲル係数を見ることもできる。GDP統計はマクロ統計の代表だが、GDPは国民経済計算(SNA)の一環として公表されているデータだ。SNAの付表12は「家計の目的別最終消費支出の構成」を教えてくれる。

この付表12からマクロのエンゲル係数を求めると下のようになる。



確かに、マクロのエンゲル係数も上昇トレンドを示している。ただその「上昇トレンド」は、リーマン危機が出来した2008年前後を底にしたアップ・スウィングになっていて、家計調査では目立っていた2015年以降の上昇はそれほど大きいものではない。せいぜいが2~3%程度上がっているに過ぎない。そもそもマクロのエンゲル係数は、たしかに歴史的高みに上がってきているとは言え、その高さは確報公表値のある2023暦年で19%程度である。

但し、このエンゲル係数は、目的分類の中の「食料・非アルコール」を帰属家賃を除く家計最終消費支出で割った値になっている。外食は別の目的「外食・宿泊サービス」に含まれている。

家計調査ベースのエンゲル係数と比べる時には、概念を揃える必要がある。マクロの家計消費と家計調査ベースの消費は、かなりの概念差があるのだが、大きな部分は帰属家賃(マクロの消費に含まれている)である。あとは「外食」、「酒類」を「食費」に含めるかどうかである ― そのほかにも、マクロの消費概念とミクロの消費概念には微小な差異が残るのだが、大勢には影響しない。一番目のグラフに描画した家計調査ベース・エンゲル係数は、外食と酒類を除いた数値だから、概念的には、いま示したマクロのエンゲル係数に近くなっている。


以上の点を考慮しながら、家計調査ベース・エンゲル係数の2023年平均を求めると、第3階層で23.2%である。マクロのエンゲル係数は同じ2023年に20%未満である。


この違いは、調整しきれない概念差だけからもたらされているにしては大きすぎるような気がする。

つまり、

全体として、マクロのエンゲル係数は世帯を対象にした標本調査結果より低くなっている。

こう言ってよいのではないだろうか。

この違いをみて、思うのだが・・・

マクロのエンゲル係数がミクロのエンゲル係数より低い理由は、低収入世帯が高収入世帯より相対的に増えていることだろう。具体的には、高齢化が進む中で、「年金のみで生活する高齢者世帯」が数において増加している。だから、世帯を単位として平均すると、エンゲル係数の平均値が上がる。基本的なロジックはこういうことだろうと推察している。

高齢化によって家計のやりくりが段々厳しくなるのは、ザックリと言えば、避けようがない(と小生は個人的に思っている)。

世帯平均とは別に、社会を一家族として、即ちマクロ的にみると、日本のエンゲル係数は20%未満になる。これは「海外先進国」に比して、それほど突出して高いとはいえない。これまた「経済的な真実」なのではないかと思われる。

更に、統計専門家であれば、家計調査に混じる《過小記入性(=Underreporting)》を指摘するかもしれない。家計調査は、サンプル世帯の自記入方式で集められるデータであるから誤記入、ゼロ記入の可能性を否定できない。特に臨時的支出である耐久消費財購入はゼロ記入になりやすい。だから、エンゲル係数を計算する時の分子になる食費より分母になる消費合計の過少性の方が大きくなる確率が高い。結果として、家計調査ベースのエンゲル係数は高くなりがちだ。この辺については、日本のデータを対象にした分析例もアカデミック・ペーパーとして公表されている。

いずれにせよ、自記入式で毎月「家計調査」を実施している国は少ない。国際比較には、国ごとの統計実施環境の差が大きい点を念頭に置く必要がある。


であるので、

家計調査が示すミクロの平均値だけをみて騒ぎ立てるのは、(無意味ではないが)「偏っている」とは言えそうだ。

身の回りの報道で、マクロで見た時のエンゲル係数が(一度も?)参照されないのは、(小生の目には)不可思議である ― 簡単な作業なんですが…


【加筆修正:2025-03-13】


2025年3月9日日曜日

前稿の補足: なぜ「浄土」を目指すのが善いか?「好いことがあるから」ではない

昨秋に小生が属する浄土系宗派の相伝を受けた後、平日には朝の勤行で読経をし、日曜はカミさんと拝礼をしてから写経をすることが新たな習慣になった。

勤行は、遠く遡れば『昼夜六時』、つまり晨朝(早朝)、日中、日没、初夜、中夜、 後夜の六回、行うべき行なのだが、現代に生きる凡夫なる小生は朝一発で勘弁してもらっている。

それでも、読経後は気分が晴々として、なかなか、良いものである。朝の散歩もイイが、発声しながら一念集中していると、無念無想にも近くなり、心身の健康維持にもよいのじゃないかと、今はヨカッタと思っている次第。


前稿の補足:

毎日の読経では、「往生安楽国」とか、「応当発願 生彼国土」とか、色々と出てくるが、(浄土系宗派では)「安楽国」も「彼国」(=彼岸にある国)も浄土に数多存在する国の内の阿弥陀仏国を指す言葉で、その国名が「極楽」なのである。

このような超越的世界概念の実在性について前稿では数学との類推から覚え書きを保存したのだが、存在論としては理解可能というものの、なぜそこに往くのが善いのかという点で、こんな風に書いた:

今日は、数学的プラトン主義から他力信仰の基礎となるプラトン主義へと迷走し、最後はトランプ大統領のような

何かいいことはあるのか?

と、そんな風に終わってしまった。これまた覚え書きということで。

こんな風なまとめ方をした。

その後、上の点を考えたが、解答は一つだ:

阿弥陀仏国に往こうと願う意志は、この世に生きている内に行い得るあらゆる「善行」を超える、最高の善意志であるに決まっているからだ。 

こう考える以外に答えはない。

存在論として理解可能で、倫理として「そこへ往くべきだ」となるなら、あとは「そこへ往こう」と志すだけになる。残る問題は、日本仏教で発展した《称名念仏》という法然以来の他力宗派が強調する「念仏」が、なぜ有効なのか。残る問題はこれだけになる。

当然ながら、これについては色々な研究の積み重ねがあるようだ。


それはともかく、上の答えは(自分や社会にとって)良い結果がもたらされるかどうかで、その行為が善いかどうかを決めるのではない。善を目指す意志そのものに善の源をみる立場だ。これは英米流の功利主義よりカント以降のドイツ観念論に近い。日本の西田幾多郎が『善の研究』で展開した善の観念もそうである。西田の功利主義批判は既に投稿した中で触れている。

この関連で言うと、仏教の「阿弥陀仏国」はプラトンの「善のイデア」とほぼ同じものを指しているとも思われる ― かなりアバウトではありますが。そういえば、プラトンの『国家』の最終章には『エルの物語』があるが、あれは仏教でいう輪廻転生のギリシア版ともいえる生命観、世界観である。

プラトンは、人の幸福は善であることであり、善とは善のイデアにどれほど近いかであると、こう考えていたが、善のイデアに憧れる意志と阿弥陀仏国に往きたいと願う意志とは、小生にはほとんど無差別にみえる。

ギリシア思想は、紀元前三世紀からゼロ年頃まで続いたヘレニズム時代に、東方へ拡散し、特にパキスタン、北インド、アフガニスタン辺りのガンダーラ地方ではギリシア文明の影響が顕著にみられる。この地域は、仏教が発祥・発展し大乗仏典が編纂された地域とも重なっている。仏典編纂とヘレニズム文化は時代的にも重なっている。当時の北インド地方では、サンスクリット語、ギリシア語、中国語その他が混在して使われていて、文字通りに国際化された社会があったに違いない。インドで生まれた仏教思想とギリシア思想との関係は、掘り下げて勉強すると面白いテーマだと思う。

毎日の日常勤行式の中の『四弘誓』には

法門無尽誓願知

という一句があるが、正に真理を知ろうとする動機によって、最高の善に近付くという、共通の発想が色々な文脈の下で重なっている。そんな気がする。

以上、前稿の補足まで。

2025年3月6日木曜日

断想: 数学的虚構が実在するならば・・・宗教的実在も?

愛読書の一つにプラトンの著作があるというのは、本ブログで度々述べてきた ― プラトンとは学理上の競争者であるアリストテレスの方は、どうも波長が合わなくて、ほとんど読んだことはない。そんな小生が、長い間、現実に即した実証主義に共感を感じてきたのは、それ自体が矛盾ではあった。

その意味では《民主主義》とか《平等主義》よりも前に、《プラトン主義者》であるのかもしれないネエと改めて感じていたところ、ずっと前にも似たような下りを読んだことがあったナアと思い出したのが、ロジャー・ペンローズの『皇帝の新しい心』(="The Emperor's New Mind")である。原本は1989年、訳本は1994年に刊行されている。著者のペンローズは宇宙論上の業績で2020年にノーベル物理学賞を受賞している。

要するに、AI(=人工知能)なるものに対する批判的論評である。当時は、まだ最近の「生成AI」は未登場であったが、それにもかかわらず、あらゆるAIに対して当てはまる根本的問題意識に、物理学の視点から解答するものになっている、解答というより疑念になっている、こういう受け取り方はまだまだ可能だと思う。

なので、AI進化の発展史はまだまだ続く、今後も多くの山があり壁があり峠があると、予想しておくべきだというのが、小生のAI観、ロボット観である。

その中の第3章『数学と実在』という章であったが、末尾にこんな文章がある:

……数学については、少なくともより深遠な数学的概念については、他の場合に比べて、玄妙な外的な存在を信じる根拠はずっと強い、と私は感じないではいられない。このような数学的アイデアには、芸術あるいは工学に期待されるものとはまったく異なる、有無を言わせない独自性と普遍性がある。数学的アイデアが無時間の、玄妙な意味で存在しうるという見解を古代に提唱したのはギリシアの偉大な哲学者プラトンだった。そのためにこの見解はしばしば「数学的プラトン主義」と呼ばれている。

つまり数学的概念は数学者の空想ではなく『実在』である、と。実在する場所の特定は、未解決としても、とにかく「実在」している。こうした世界観は確かにプラトン的である。即ち、数学的な概念はプラトンの《イデア》であって、この世界にはなく、《イデア界》に実在する、と。こんな哲学のことである。

その前の下り

彼ら(=数学者)は現実的な実在性のない、精巧な心的構成物を作り出しているに過ぎないが、……それとも数学者はすでに事実「そこに」存在している真理 ― 数学者の活動とはまったく無関係に存在している真理  ―  を本当に暴き出しているのだろうか。

… …

数学には、「発明」というより「発見」という言葉の方がはるかに適切な事柄がある。…このような場合には、数学者は「神の業」にぶつかったのだという見方をすることもできる。

このタイプの思考と、プラトンが『国家』や『ゴルギアス』で展開している思考は、まったく同じ形式を共有している。

1572年にラファエル・ボンベリが『アルジェブラ』と題した著作の中で、カルダーノの(3次方程式の根に関する)研究を拡張し、複素数の代数を実際に研究し始めた…

現実には「存在するはずもない」虚数が、数学で使われ始めたことをどう観ればいいかで、著者の立場を述べているわけである。


この本を読んだ当初には、まったく注意しなかったが(読書はそんなものである)、改めて読むと実に深いことを書いていたわけだ。

で、改めて欄外にこんなメモを書き加えておいた:

事実としてそこに存在する真理だが観察はされない。西田幾多郎は純粋経験による認識にだけ実在性を認める。両者の関係はいかに?鈴木大拙の「霊性」か?

人間が作ったものは全て無常で永遠のものではない。神の業は永遠に不変である。真理とは変わるものでなく、変わらないものである。

素数は人類がいようといまいと、素数はこの世界に存在していた。ピタゴラスの定理がユークリッド空間において真理であること自体は、たとえこの世界が消失しても、真理であることに変わりはない。

こんな事を鉛筆でメモ書きした。

上のメモ書きにもある鈴木大拙だが、同じ岩波文庫にあるとはいえ『浄土系思想論』は豊かな実質がこもっているが、最高峰の定評がある『日本的霊性』は昭和19年に大衆向けに刊行されたためなのかレベルが低い(と勝手に判断している)。

『浄土系思想論』の冒頭には、結論の主旨が箇条書きされているので、二点だけ抜粋しよう:

  1. 極楽(=阿弥陀仏が主宰する浄土世界の一つ)は霊性の世界で、娑婆(=現に生きているこの宇宙)は感覚と知性の世界である。ここに霊性というのは感覚や知性よりも次元を異にする主体なのである。感覚は物の世界の働きを、知性は分別をその性格としている。
  2. 極楽を知性と感覚の方面より見る限り、物質的なもの、即ち時間的・空間的となる。それではどうしても本当の「安心」が得られぬ。「安心」は霊性に属するものである。

この二つより適切な浄土観を小生は読んだことがない。

このページの上にも何かメモ書きがしてある。判読してみるとこう書いてある:

感覚と知性では認識できない。故に経験では認識できない? → カントの神と同様。霊性なる働きを人間はもっている?誰でも?霊性の働きでのみ認識できるのか?

こんな事を書いてある。

鈴木大拙は、感覚や知性で「浄土」や「極楽」の実在をとらえられない、と。そう述べている。が、この世界に存在するはずもない数概念を、数学では理性を用いて使いこなしているわけだ。

空想だと思われる数概念を使うことで、実際にこの世界の理解が深まる事象が多々ある。とすれば、この世界には存在しようがない数だが、この世界の背後、というかこの世界の「現象界」の背後に実在していると考えるよりほかはないであろう。これが数学的プラトン主義の骨子であった。

同じように、「浄土」という概念がある。それは此の世界から直接に行ける世界ではない。が、その実在性を当然のように考えて宗教哲学の中で使うとしても、直ちに空想とは言えないわけである。

鈴木大拙がいう「霊性」に頼らずとも「知性」のレベルで議論するとしても、存在論として浄土を否定することは無理である。その実在は、人間の(というより、全ての衆生になるのだが)この世界の全体像について、よい世界観を提供するのか否か。この議論次第であるという理屈になる。

つまり、「浄土」なる世界については

  • その存在論は超越的世界として理性的に受け入れ可能
  • しかし、形態論としては、時間や長さ、大きさ、色・形など感覚的とらえ方をするわけにはいかないので、経典では色々な言葉で表現されているが、すべて感覚的であり不適切。
  • 機能論としても、例えば「浄土三部経」で述べられている内容は、(当然ながら)荒唐無稽。不謹慎(?)な事を敢えていえば、浄土に多々ある中の一つである「極楽」という世界だが、その名称の割にはそれほど安楽で面白そうな所ではない。
  • ただ、価値論としてみるとき、つまり此の世でいま生きている人間が目指すべき世界なのか、言い換えれば阿弥陀経のいう『応当発願 願生彼国』、即ち

信仰心のある立派な若者たちと立派な娘たちは、かの仏国土(=極楽浄土)に生まれたいという誓願をおこさなければならないのだ

と。ここまで強く願うに値する世界なのか、極楽浄土は?この点は、もっと研究の余地ありではないか。「厭離穢土」というが、それほどにまで「厭離」するべき世界なのか、この世界は?こういう疑問である。実際、生まれ変わっても、この世で人間としてまた生きたいと願っている人間は数多くいるに違いない。『輪廻を離る』どころか『輪廻に執着する』人は、案外、多いのだろう。この現実をどう見る?

  • 最後に、検証可能性という点もある。とはいえ、そもそも観察不能な超越的対象についてどんな検証を行えるのか?検証するためには、そこから導かれる反証可能性のある仮説を立てるしかないわけである。これがない限り、議論に使うのは自由だが、実在性については未確認ということになる。つまり、浄土を目指す他力信仰は、今もなお、《信》こそが最も大事な《難信之法》であるわけだ ― だからこそ「宗教」に分類されてもいる。

今のところ、科学的には(?)こんな風に整理しているところです。

今日は、数学的プラトン主義から他力信仰の基礎となるプラトン主義へと迷走し、最後はトランプ大統領のような

何かいいことはあるのか?

と、そんな風に終わってしまった。これまた覚え書きということで。

 

2025年3月3日月曜日

ホンノ一言: ホワイトハウスの悲劇を英誌はどう見たかの一例

ずっと以前、イギリスは「世界の歴史の黒子役」と形容したことがある(例えば、これこれ)が、今回の米国・ホワイトハウスを舞台にした悲劇というか、喜劇というか、これについて、英誌・The Economistは、

これは"manufactured fight"(=仕組まれた戦い)だった

と観ているようで、早速こんな風に概括している:

Even deputies from Mr Zelensky’s inner circle agreed that it had been a disaster. Some reasoned the president had been tired, three years into war and a long transatlantic flight. He had been provoked into a manufactured fight. “J.D. was the problem,” said one of them. “Zelensky had to show strength to be credible for negotiations, but the emotions were too much.” A senior Ukrainian security source said Mr Vance seemed to be pleased that the negotiations never even happened. “As a wrecker, Vance had been well prepared,” he says. “He did his thing professionally.”

At the end of the shouting match, Mr Trump quipped, “This is gonna be great television.” The president of Ukraine scowled as he sat with his hands clasped. Mr Vance smirked. His work was done. 

Source: The Economist
Date: Feb 28th 2025
URL: https://www.economist.com/europe/2025/02/28/a-disaster-in-the-white-house-for-volodymyr-zelensky-and-for-ukraine

ウクライナのゼ大統領、英国人の目には『仕組まれた戦い』(=manufactured fight)に絡めとられたと映ったようだ。

マ、罠に落ちたと云う方が分かりやすい。

終わった時、副大統領はニヤリと笑い、ゼ大統領は顔をしかめた。彼は仕事をした、と。

中国人なら「欺計」とでも呼ぶようなプランである ― 目的は当然のこと「ゼ大統領の排除」であるのは明白で、欧州側の思惑とは別に、アメリカはとっくにそう決めて、準備万端、練っていたのだろう。TVを観ていたヨーロッパ首脳にはアメリカ側の意図が伝わったはずである。

その後の英首相との協議、英国王との謁見はイギリスの仕事である ― 多分、マクロン仏大統領はどんな役を演じるのか、イギリスが(アメリカと裏で相談しながら?)決めるのだろうと憶測している。古来、イギリスの「二枚舌」(?)には定評がある。

グレアム・グリーンやイアン・フレミング、ジョン・ル・カレを生んだ国民性は伊達じゃあない。

思うことは、一つ。

国の運命をこうして外国の胸先三寸で決めるなんてことは、情けなくて、情けなくて、金輪際、いやだネエ・・・ということだ。

戊辰戦争勃発のとき、徳川慶喜がフランスの支援申し出を断ったというエピソードは、この日本を救う大英断であった。改めてそう思います。


念のため、引用した英文にGoogle翻訳がつけた和訳をコピーしておく:
===
ゼレンスキー氏の側近の議員たちも、これは大惨事だったと認めた。大統領は戦争が始まって3年、大西洋を横断する長い飛行で疲れていたと推論する者もいた。大統領は挑発されて仕組まれた戦いに巻き込まれたのだ。「問題はJ.D.だった」と議員の1人は語った。「ゼレンスキー氏は交渉で信頼を得るために強さを見せなければならなかったが、感情が勝りすぎた」。ウクライナの安全保障当局の高官は、交渉がそもそも行われなかったことにヴァンス氏は満足しているようだと語った。「破壊者として、ヴァンス氏は十分に準備していた」と同氏は言う。「彼はプロとして自分の仕事をした」。

口論の末、トランプ氏は「これは素晴らしいテレビになるだろう」と皮肉った。ウクライナ大統領は顔をしかめ、両手を握りしめて座った。ヴァンス氏はニヤリと笑った。彼の仕事は終わった。
===

いつも思うのだが、海外のメディアが日本に参入する際の《言葉の壁》はもはやない。

Amazon Primeの会員数が日本で増加中であるのと同じく、アメリカの"The New York Times"や"Washington Post"、イギリスの"The Telegraph"や"The Guardian"をネットで購読する日本人もこれから飛躍的に伸びていくのではないかと想像している。

とにかく海外メディアは低価格で高品質の情報を提供しているのが強みである。

AIの進化速度と放送技術の進歩を考えると、10年後には、紙媒体のメディアだけではなく、音声媒体である(先ずは)ネット動画でも「言葉の壁」が消失している可能性は高い。国内のTV、ラジオは、世界のメディアとの競争を迫られるだろう。

2025年3月1日土曜日

ホンノ一言: 日本がウクライナにしてあげられる事はあるのか?

たとえ新聞やTVを相手に「情報断ち」をしても、ネットからは断片が入って来る。いくら目張りしても、どこかの隙間をみつけて家の中に入ってくるカメムシに似ている。

今日も

ウクライナとアメリカの平和交渉は混とんとしてきました。

Source: アゴラ AGORA 言論プラットフォーム

URL: https://agora-web.jp/archives/250228222304.html 

こんな一文が目に入った。

昨日、ホワイトハウスを舞台に激論を繰り広げた挙句に決裂した、アメリカ=ウクライナ会談のことである。その後、上のような記事が出回っているわけだ。


確かに「混沌」としてきた。が、これはいわゆる将来予測でメシを食ってきた野次馬の目線からいえば、「線形的予想」、というか「単純な外挿予測」である。

野球で3回までに2点差がついた。とすれば、9回までやればその3倍、6点差がつく。先行されたのなら負けてしまう。こう考える人は悲観論者だ、先取点をとって勝っているなら6点差で楽勝だ、そう考えるなら(とんでもない)楽観論者というわけだ。

世界を予測するのに単純な外挿予測は当てはまらない。


今の場合、

混とんとするより前に、ウクライナという国が消滅してしまえば、ウクライナとアメリカの平和交渉も自動消失する。

情勢は、予測によって動くのではなく、力学によって動くものだ。戦争をしているなら軍事力と外交手腕に着目して将来予測をするべきだ。

「混沌」などと言う楽観的予測にはとても賛成する気になれない。


アメリカの軍事支援は西側ヨーロッパ諸国がまとまっても(量的に)補えない。イギリスは(最初からそうだったと観ているが)賢く立ち回っているようであり、ドイツはもう既に青息吐息というところ。そもそもドイツはロシア融和外交で経済的繁栄を築いて来たのである。開戦当時から在職しているマクロン仏大統領は、昨年の選挙で与党が大敗北して昨年末には4人目の首相を任命したばかり。最大の政敵である極右政治家・マリーヌ=ルペンを検察を使って不正経理で葬り去ろうとしている真っ最中である。これでは国内を統治するので精一杯だろう。後は推して知るべし。ハンガリーなどは最初からロシアに同情的である。

日本も太平洋戦争で酷い負け方をした。試みに<太平洋戦争 戦没者>で検索すると、

太平洋戦争における日本の戦没者数は、約310万人とされています。そのうち軍人や軍属は約230万人、民間人は約80万人です。

と表示される。

次に<太平洋戦争 1944年以降 戦死者>で検索すると、

太平洋戦争で1944年以降に戦没した日本人の数は、約281万人です。これは全戦没者数の約91%を占めています。

という結果になる。

太平洋戦争は1941年12月に始まり、42、43、44年と続き、45年で終わったが、戦没者の90%超が後半1年半に集中しているわけだ。

1944年1月時点は、まだサイパン島が落ちておらず、日本の敗戦が「決定的」だとまでは言えなかった。そこで真剣に和平を求め停戦していれば、戦没者の9割以上は助かったかもしれない。

しかし日本は和平を求めなかった。何故なら日本には日本の正義があったからである。

戦争を支配する論理、重視するべき計算とはこういうものである。


劣勢が決定的になった後に停戦を選んでも"too late"であるのは歴史が教えてくれている。日本人が経験した歴史をウクライナ指導者に伝えることも日本として出来る事の一つであるには違いない。『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・』といった精神は、ウ国の歴史全体がひょっとすると、そんな歴史であるかもしれず、言いたいことが伝わる可能性があるというものだ。

あと一月もたたないうちに、『ゼレンスキーはもはや狂人だ』と、そんな風評がアメリカ発で世界に拡散されていくのではないだろうか?

予想されうる状況ではあったものの、憐れムベし、憐れムベし……

2025年2月28日金曜日

ホンノ寸評: 日本伝統のイイとこ取りの発想で行き詰っているのかも?

2月最後の投稿は寸言だけ。

最近、この日本で暮らしている人たちは

増税が話題のときは、政府不信の無政府主義者

授業料無償化、医療費補助、少子化になると、国の役割を重視する社会主義者

政府のあり方について話すときは民主主義者

大企業を語るときは、独占排除、競争促進の自由経済論者

中小企業の経営苦をみるときは、公的支援を主張する積極的介入論者 

といった具合に、何を話すかで色々な《イデオロギー》を使い分けている、一言でいうと《イイとこ取り》で国や制度と自分の生活とを関係づけている(という印象を受けてます)。


日本社会を造ったときの柱や梁、屋根、壁といった基礎部分が、古くなり、互いに整合しなくなり、つぎはぎを繰り返している内に、スパゲッティ化して絡み合い、もつれあい、もう日本人自らも合理的な建て替えができない ― 散らかり放題の中で平気で暮らしている人たちの低い知性を物語っているようで実に恥ずかしいのだが。まるでモンスターのような複雑怪奇な法制度・文明の国になっている……、そんな感覚がする……、これは小生だけだろうか?

マア、「だけ」なのかもしれないネエ。


2025年2月24日月曜日

ホンノ一言: 「共通の見方」をこそ疑うべきだという一例

トランプ米政権のスタートを契機に、ロシア=ウクライナ戦争停戦への道筋が見えてきたというので、大仰にいえば世間は《騒然》としている。

どうもこんな世情を見聞きするにつけ、日露戦争を知らなかったという日本の天文学者に、たまらなく羨ましさを感じる。

先日も投稿したように、新聞、TVについては基本的に《情報絶ち》をして、それなりに快適なのだが、ネット・アクセスを遮断するわけには中々いかない。どうしても情報の断片は視野に入って来るのだ。


こんな断片もあった:

国際社会は外交と制裁を駆使し、ロシアのプーチン大統領による「力による現状変更」を阻止しようとしてきたが、戦況はロシア優位に傾いている。

Source: Yahoo! JAPAN ニュース

Original: JIJI.COM

Date: 2/24(月) 0:46配信

URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/1c42f042d27ba64824eb46bc6938632e82fe40df

この文中にある「国際社会は外交と制裁を駆使」という所だが、何も国際社会が一致して対ロシア制裁をしているわけではない。多数派ですらない。間違った事実認識だ。「少なくとも価値観を共有する西側社会は……」とでも言い直すべきところだろう。

自らが立脚する立場を無条件に肯定して、その前提には何も触れることなく、特定の判断を押し付ける報道は、《自省とは無縁の独断》というもので、もう卒業してもいいのではないだろうか?


真っ赤な嘘を嘘と知るのは簡単だ。しかし、本当らしく語られる意見が嘘であると見破るのは難しい。語る本人がそう思っているならなおさらだ。

社会が混乱する時代には、その昔、古代ギリシアの哲学者プラトンが《ドクサ》(=勘違い、思惑、独断、etc.)と呼んだ、こうした言説が広まるものである。

《多数者の見方を否定》することが出来る人、《真理》を語る人は、いつの時代でも少数である。ソクラテスはただ独りしかいなかった。少数の人が語ることに耳を傾けることこそ重要であるのが現代という時代だ。


2025年2月23日日曜日

断想: 自らが、自らに対して悪戦苦闘を強いるのは、パワハラではない

今日は月参りで近くの寺から住職がやってきて読経をして帰る。帰りしなには、拙宅が属する浄土系宗派の発行している新聞を置いて帰る。

その中の記事にこんな下りがあった:

授業で学んで以来、心に刻んでいる言葉がある。それは「一丈の堀を飛び越えようと思う人は、一丈五尺の堀を飛び越えようと思って励まなければならない」という法然上人の教えだ。

努力に努力を重ねて、自分の力で、未来を切り開いていくしかない。だから、私は悪戦苦闘という言葉が好きです。

NHKで放映されているアニメ『忍たま乱太郎』の原作・『落第忍者乱太郎』の作者である尼子騒兵衛の寄稿である。

何だかゲーテの名句

知恵は静寂の中で、力は激流の中で

を連想させる。


一丈の堀を超えるのを目的にしている選手に

一丈五尺の堀を超える練習をしろ

と。師の立場を利用して、弟子にこんな風な命令をすれば、弟子からパワハラだと訴えられて、指導者生命を失う師匠が増えているのが、現代日本の世相である。

とはいうものの、この寄稿の主旨は現代日本の世相を嘆くことではない。

先日は、法然上人が暗い夜に灯火がなくても、眼から光を放って読書をされるエピソードをとり上げました。それを覗き見していたお弟子さんに気づかれた法然上人は、『よく勉強なさい』というようなことをおっしゃるのです。覗いていたお弟子さんを叱るのではなく、『勉強しなさい』と優しく言うなんて先生っぽいですよね。土井半助のモデルにさせていただいてよかったなと思いました。

こんな下りも後に続いているので、《良い師匠》というもののイメージを表現したかったのだろうと推察できる。


一丈を超えようとすれば、一丈五尺の練習をする必要がある。それは師には分かっている。しかし、指導される弟子が自らそのことを理解しなければ、強制労働と同じだ。強いられた悪戦苦闘は苦しむ弟子にとってパワハラである。

しかし、自分の意志で自分に課するのであれば、同じ猛練習でもパワハラではない。

なぜこの練習が必要かという理解の代わりに、ただただ師を信じるという《信》であってもよい。とにかく

自分が自分にパワハラをすることは絶対にない

どんな荒行も、ヤル気になればやる。それが向上しようと決意した人間というものだ。名師匠というのは、むしろ弟子が無茶をするのを止めて、怪我無く才能を開花させることを唯一の目標にする人のことを言うのだろう。

一般に「ハラスメント」とは、本質的には、他人の人格の否定という形をとって表れる。

自分の不足する点を自覚し、向上心を感じ、自ら設定した理想を目指して、自らの意志で行う修行は、どれだけ厳しいものであっても、自分の意志のとおりに行為しているので、完全な自由を享受している。故に、ハラスメントの被害者ではありえない。

2025年2月22日土曜日

ホンノ一言: ニューヨーク・ダウ株価が暴落したってネエ・・・

昨日のニューヨーク・ダウ平均が▲748.63ドルと大幅に下落したというので、俄かに先行き不安が高まっている……。少なくともそんな報道である。

今朝の日経も

21日の米株式市場でダウ工業株30種平均は続落し、前日比748ドル(2%)安の4万3428ドルで終えた。下げ幅は2024年12月中旬以来、約2カ月ぶりの大きさとなった。同日発表の米景気指標が想定以上に悪化し、リスク回避の株売りと安全資産とされる米国債への買いが広がった。米金利の低下で日米金利差の縮小が意識され、円買い・ドル売りも加速した。

Source:日本経済新聞

Date:2025年2月22日 5:29 (2025年2月22日 6:29更新)

URL:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFL21E710R20C25A2000000/

このように

米景気指標が想定以上に悪化

これが株価下落の背景だという。

いわゆる《万年悲観派》は、『株は必ず下がるもの』と信じ込んでいるので、株には手を出さない ― その代わりに、宝くじを買ったり、趣味の競馬で馬券を買ったり、釣り道具にカネをかけたりする。そうしたタイプの御仁は「それ見た事か」と思っているかもしれない。

ただネエ・・・

先行指標として小生が愛用している長短金利スプレッドは



URL: https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/us_main_economic_indicators/

このように長期金利上昇によってスプレッドが上がっているが、しかし、そもそもずっと短期高・長期安の逆イールドが続いて来ていた。逆イールドは金融引き締め、景気後退の典型的症状だ。それが長期高・短期安の順イールドに転じてきている。これを悲観的に観なければならない理由を小生は知らない。

実際、アメリカの雇用状況だが「非農業雇用者数の対前月増加数」でみると


URL: 上図と同じ

ずっと継続していた低下トレンドから横ばい、反転と、足元では強めの動きが見てとれる。図は省略するが、失業率も昨年夏以降は、それまでの上昇トレンドが頭打ちに、昨年末からは明確な低下へと基調が変わってきている。

長短金利スプレッドという先行指標は強め、雇用動向という遅行指標も改善への動きを示している。
これで何故に先行き悲観的になるのでしょう?
そう見ています。

実際、アメリカの景気判断の老舗であるThe Conference BoardのLeading Economic Indexが1月分まで公表されているが、
“The US LEI declined in January, reversing most of the gains from the previous two months,” said Justyna Zabinska-La Monica, Senior Manager, Business Cycle Indicators, at The Conference Board. “Consumers’ assessments of future business conditions turned more pessimistic in January, which—alongside fewer weekly hours worked in manufacturing—drove the monthly decline. However, manufacturing orders have almost stabilized after weighing heavily on the Index since 2022, and the yield spread contributed positively for the first time since November 2022. Overall, just four of the LEI’s 10 components were negative in January. In addition, the LEI’s six-month and annual growth rates continued to trend upward, signaling milder obstacles to US economic activity ahead. We currently forecast that real GDP for the US will expand by 2.3% in 2025, with stronger growth in the first half of the year.”

Source:The Conference Board

Updated: Thursday, February 20, 2025 

URL:https://www.conference-board.org/topics/us-leading-indicators

このように解説されている。Google翻訳にかければ
「米国のLEIは1月に下落し、過去2か月間の上昇のほとんどを反転しました」と、コンファレンス・ボードのビジネスサイクル指標担当シニアマネージャー、ジャスティナ・ザビンスカ・ラモニカ氏は述べています。「消費者の将来のビジネス状況に対する評価は1月に悲観的になり、これが製造業の週労働時間の減少と相まって、月次の下落を牽引しました。しかし、2022年以降指数に大きく影響していた製造業の受注はほぼ安定しており、利回り格差は2022年11月以来初めてプラスに寄与しました。全体として、1月のLEIの10の構成要素のうちマイナスだったのはわずか4つでした。さらに、LEIの6か月および年間の成長率は引き続き上昇傾向にあり、今後の米国経済活動に対する障害が軽微になることを示唆しています。現在、米国の実質GDPは2025年に2.3%拡大し、上半期の成長率はより高くなると予測しています。」
和文として少々不自然な箇所もあるが、Googleによる英文和訳の信頼性は高いと評価できる。

要するに、先行きについては強気にみているようだ。

アメリカの国債市場で売りが殺到(→長期金利上昇)して、みな吃驚したというのが実相ではないか。 ← この箇所、勘違いです。以下書き直します。

引用した日経記事にあるように、市場参加者は
リスク回避の株売りと安全資産とされる米国債への買いが広がった。米金利の低下で日米金利差の縮小が意識され、円買い・ドル売りも加速した。
こんな風に行動したようだ。

しかし、上にみたように、景気の先行きについてリスクが高まっている景況ではない。『日米金利差縮小を意識して円買い・ドル売り』とな?ふ~~む、何か吃驚して狼狽している感じだネエ……


戦争に熱心だったバイデン前大統領のあと、トランプ現大統領も家計、企業向けに大規模な減税政策を予定しており、財政赤字拡大・国債増発・長期金利上昇がトレンドとなるであろうことは、既に予想済みである。

景気は良くなるが、金利は上がる ― おそらく物価も。

アメリカ経済のこんな歩みの中の一コマであるのだろう。そう観ています。


2025年2月21日金曜日

断想: 公選法違反の捜査(と判定?)を警察・検察が担当するという体制はありですか?

最近の投稿でも触れているが、民主主義社会の健全な運営は、次第に困難になりつつある時代だと思っている。それが、情報技術上の技術革新とその未成熟にあるのかどうか、まだ明確には分からない。移動や移民の拡大、宗教対立、経済格差拡大、教育の質低下など色々な要因がありうる。

それはともかく、

「政治家」(?)としてブレイク中の石丸伸二氏についてこんなネット記事がある ― ネットとはいえ、既存大手メディアがネット・チャネルで流している記事ではある。

昨年7月の東京都知事選で次点だった石丸伸二・前広島県安芸高田市長(42)は21日、記者会見を開き、決起集会をライブ配信した業者への支払いが公職選挙法違反の疑いがあることについて、「違反の恐れはあると思うが、(業者への)報酬として支払ったとは考えられない」と述べた。

 石丸氏側の説明によると、石丸氏の陣営は知事選投開票2日前の昨年7月5日に決起集会を開催した。集会の模様をライブ配信しようと、陣営幹部が都内の業者に約97万円で発注したが、陣営内から「法令違反になる」との意見が出たため、直前に発注を取り消し、キャンセル料として発注額の全額を支払った。集会当日は業者の代表らがボランティアで配信を行った。

キャンセル料が選挙運動の対価とみなされた場合、車上運動員らを除き選挙運動を原則無報酬と定めた公選法に抵触する可能性が出てくるとみられている。石丸氏は会見で、陣営幹部と業者が LINEライン でやり取りした記録を示し、業者はボランティアで配信を行ったことを改めて強調した。

この問題を巡っては、市民団体が同法違反(買収)容疑での告発状を東京地検に提出している。

Source:読売新聞オンライン

Date:2025/02/21 13:03

URL:https://www.yomiuri.co.jp/national/20250221-OYT1T50066/

いうまでもなく公職選挙法は、民主主義社会の基幹である公職の選挙において、各立候補者の選挙運動が合法であるか違法であるかを判断するための根拠である。

その判定を下すに際して、上の引用文にあるように

……陣営内から「法令違反になる」との意見が出たため、…キャンセル料…を支払った…キャンセル料が選挙運動の対価とみなされた場合、…… 公選法に抵触する可能性が出てくるとみられている。

このように、『〇〇が△△と見なされた場合、公選法に抵触する可能性が出てくる云々』という風に、権力機関が「見なしたり・見なさなかったり」することで、その立候補者の行為が不正であった「可能性」が出てきたり、なかったりする、・・・


こんな不明瞭な判定基準の運用を日本人はなぜ公的権力の裁量に委ねて平気なのでありましょう?小生の好みには全く合いませんが、大半の人はこれがイイと思っているのかな?

しかし、こうした姿勢は

監督する権力機関には性善説を、立候補している民間人には性悪説を

こんなモラル感覚を日本人はもっていることになる。「市民感覚」が薄弱にして希薄であること限りなしとはこのことではないか。


監督する権力機関に性善説をとるのは自由だが、現実には、これとは正反対の選挙例が世界には多いのではないか。日本だけが全くの例外ではないだろう。

また、立候補する民間人は、ホンネでは不正を考えており、統治機関に指導監督されて初めて選挙は清浄化されるのだ、と。日本国民をこう観るのがホントに正しいのだろうか?

日本人の自然な倫理に基づく行動が、法規上「不正」となるよう、そもそも条文がそう書かれている側面はないのだろうか?


むしろ為すべき事は、公権力が恣意的な判定をして、統治側にとって「望ましい状態」を意図的に実現しようとしているのではないかという「疑惑」を払しょくすることである。

統治機構に沿おうとする意図が、例えば「招かれざる人物を排除しようとする一部勢力」という形態をとるのであれば、それこそ昨今の海外事情に似てきている兆候である。

いずれにせよ選挙には、監督する側、立候補する側、これを取り巻く大衆、各方面に不正を犯す動機がある。だから海外では常態化しつつあるが、選挙は不正選挙である疑惑が常にあるというべきだ。故に、その疑惑を払しょくすることが非常に重要になる。


だれが疑惑を払しょくするって?

ジャーナリズムに決まっているでしょう。

なので、上に引用したような記事を読売新聞ともあろう大手マスメディア企業がネットで流すこと自体が、小生にはささやかな驚きであった。

立候補者の不正を疑うなら、告発者の不正をも疑うべきであろう。

公職選挙法そのものが、日本人の自由な政治参加と民意の自然な表れを阻害するものになっていないか。統治機構側の怠慢、というより隠された意図が働いていないか。

まさに眼光紙背に徹する目線が必要なのではないか。

以上、覚え書きまで。



2025年2月20日木曜日

ホンノ一言: ロシア=ウクライナ戦争にも「停戦」が見えてきたいま?

就任後まだ1カ月しか経っていないが、トランプ大統領によるロシア=ウクライナ戦争停戦への働きかけが活発になっている。

ただ、ト大統領の行動・発言は、奇抜。ロ=ウ戦争開戦後の、というより開戦前まで遡って以降現在までの「西側陣営」の理念と取り組みを文字通り「ちゃぶ台返し」するものだから、特にヨーロッパは唖然、困惑しているとも伝えられている ― おそらく退任したバイデン前大統領、ジョンソン元英首相辺りも怒り心頭というところだろう。

この戦争については、勃発直後に本ブログでも投稿しているところで、小生の(個人的)観方は一貫して変わらない。たとえば、こんな風である:

地域紛争は地域紛争として《局地化》しておけば、さして国際的なハレーションを起すことなく、一先ずは終息したに違いなく、ウクライナ発の過激派テロが予想されるにしても、それはモスクワにとっての危機、せいぜいがロシアにとっての危機としてマネージするべき事柄であったろう。

 一つの地域紛争が世界的な危機管理の対象にまで拡大したのは、言うまでもなく西側の軍事同盟であるNATOが(最終結果としては)一致してウクライナを軍事支援したからで、NATOに連なる親米勢力も様々な経済的支援に踏み切ったことによる。

なので、上に引用した投稿では現代世界版《応仁の乱》に例えてもみたわけだ。高尚な大義名分など、口先はともかく、最初からありゃあしませんて・・・

登場する人物構成についても、色々書いている: 

日本はアメリカの同盟国であるせいか、つまり「西軍」のメンバーであるせいか(ネットを含めて)世間の反応は「東軍憎し」で

正義は勝つ!勝たねばならぬ!!

の一色だ。が、本質的には滑稽の一言。要するに

政治の失敗の責任をとるべきところが、開き直って「正義の戦い」を外に拡大している

こういう事でしょう、と小生には思われる。つまりは、プーチン大統領、バイデン大統領、お二人とも次の選挙のことが心配なのである。

これが物事の本質だろう。

この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

そうそう・・・ウクライナのゼレンスキー大統領。狂言回しの役回りだ。彼もまたホンネで何を考えているか分からない御仁だ。それと常に見え隠れする《イギリス》という世界歴史の黒子役、今回も仕事をしているナアという印象だ。

 ウクライナのゼレンスキー大統領を《狂言回し》にたとえているが、「選挙のことが心配な御仁」という点では、いまそれが口にされ始めていて、気がつけば崖っぷちというところ。イギリスのジョンソン元首相は暗闇に隠居して、それこそ文字通りの《黒子》と相成った。

政治には素人のゼ大統領の反ロ感情を利用して、対ロ戦争へと(手をとらんばかりに?)誘導していった米英の主要人物は今や選挙の洗礼を浴びたり、スキャンダルの沼に沈んだりで、すでに過去の人。とすれば、世のバランスを考えれば、主役のゼ大統領も選挙の洗礼を浴びるべき時が来たようだ。いよいよ「ここが年貢の納め時」ってことでしょうか。

開戦に至るまで、ゼレンスキー大統領にジョンソン元首相はなんと言ったのか?ジョンソン元首相はアメリカのバイデン大統領とどんな話をしていたのか?フランスのマクロン大統領、ドイツのショルツ首相はどんなふうに脅迫(?)されたのか?等々

小生はこの辺を知りたい。《歴史の秘話》というよりオラル・ヒストリーとして、どこかの国の歴史学者がインタビューをして記録を遺してくれれば、後世の人々が恩恵を享けること極めて大であろう。

今後、心配になるのはゼレンスキー現大統領の身の上、行く末であろう。英米は決して氏を見捨てるべきではあるまい。

2025年2月18日火曜日

ホンノ一言: 米メディア"substack.com"にサブスクしました

先日も投稿したように、Paul KrugmanがThe New York Timesに寄稿してきたコラム記事が昨年末を限りに終了してしまったことを、とても残念に感じていた。他の場所で自らの見解は公表し続けるということだったので、どこかを探索していたのだが、今日 "substack.com" を見つけた。

早速、Krugmanの投稿をサブスクライブした。同時に、彼が推薦するBrad de Long他数名もFollowしておいた ― こっちは全文ではない。毎月700円ほどである。

レディメイドの正解がないように思われる色々な問題をどう考えるか。基本的な社会観に違和感を時に感じるにせよ、というか、だからこそ、一流の専門家の意見は有益だ。それを随時読むことができるのは、それも1000円未満の購読料で読めるのは、普通の市民にとって価値あるリソースだと言うしかない。

英語圏で流通している知的資産の分厚さにはとても敵わない。英語が苦手のときは「Google翻訳」がある。もはや《言葉の壁》はないのである。


日本語文化圏にも歴史を通して蓄積された優れた遺産はあるが、あくまでも「遺産」であって、現世代が創造しつつある活動成果ではない。

今日を生きるには、今日どんな知的成果を出しつつあるかが、決定的である。英語文化圏の活力を見るにつけ淋しくなるのは小生だけではないと思う。


20世紀末まではこんな惨状ではなかったと記憶している。それは町の書店に入って書棚を一覧するだけで感じる。Amazonの日本語書籍を検索しても同じだ。酷いものである、新刊本は。

日本国内の学校教育、出版業界、新聞メディア界のどれもが内部から瓦解しつつあるということなのだろうか?

イチロー外野手、ダルビッシュ投手や大谷選手がMLBで、はたまた三苫選手や久保選手がサッカー界で、八村選手がNBAで、その他多くの人材がスポーツ界では才能を開花させている。これを思うと、現在の日本の知的衰退ぶりは、人材の枯渇では決してなく、制度的・システム的な欠陥によって潜在的な能力が花開いていない。そう考えるべきだろう。

2025年2月16日日曜日

覚え書き: 大方のテレビニュースは「なくとも可」のしろものであったと分かり・・・

先日の投稿で『ブラックボックス・ダイアリーズ』を話題にしたが、既存の大手マスメディアは(小生が視たり聞いている範囲では)「カン無視」を続けている。ところが、どうも此の作品の中の映像使用に関して「法的トラブル」が発生しているようで、ネットでは「事件」として段々と盛り上がってきている。

ドキュメンタリー映画として米国アカデミー賞にノミネートされた日本人初の作品に関わる不祥事であれば、普通なら民放TVがほうっておくはずがない。可笑しいなあ・・・と思って観ているところです。


ネット記事では、(いまのところ)集英社辺りが、映画を作成した伊藤さん側にかなり落ち度があるとか、守秘義務に違反しているとか、人権侵害をも犯している可能性がある、などと、何やら、兵庫県の斎藤知事に対して公選法違反疑惑がその後も報道され続けているのと似たアプローチで、というか(こんな単語はないが)同じ《報道モデル》を駆使して、対象を追っているように観える。

いずれスポーツ新聞や女性週刊誌が続くものと予想される。


外界からみていると、真相がよく分からない。一方は影で、一方の姿だけが見えていて、何やら格闘をしていて、しかし肝心な手足がよく見えない。そんな情景である。

追求する側も、追及される側も、報道をするなら氏名と写真・略歴を公開して、堂々とやりあってほしいものだ。

それが出来ないなら、公開法廷で決着をつければよい。

現代という時代は、尊厳をもって生活している個人が、余りにも簡単に名誉を棄損されたり、生活基盤を奪われたり、一場のドタバタ劇の登場人物に仕立てられたり、世間の興が覚めた後は、そのまま放置されるということが、あまりにも多い。

そもそも人であれ、企業であれ、理由の如何を問わず、契約もせず他人に損失を与えてはならない。損失を被った個人にその損失を受忍する義務はない ― 甘受するなら考えあってのことだろうから他人がとやかく言うべきではない。人の紛争で儲けるのは職業資格をもつ弁護士もしくは弁護士が経営する法律事務所に限るべきで、メディア企業が紛争から利益を享ける資格はない。紛争に関わる業務に第三者として従事するには資格が求められている。

報道が公益に資するというなら、コストのみを計上し、自社利益を含めるべきではない。

戦争を含むあらゆる紛争の報道事業が、プロフィット・センターになるのは、人間として守るべき倫理に反するはずだ。

本日は、この二点を覚え書きにしておきたい。


人に対して損失を正当に与えうるのは憲法・法律で認められた機関だけである。私刑は処罰の対象だ。この大原則を徹底するべきだろう。

戦後日本の民主主義は、《危険な民主主義》に劣化してしまったようだ。

特効薬は限られるが二つは直ぐに思いつく:

  • 《報道規制》を合法化する新法を設け、規制が認められる要件を定める。
  • 名誉棄損の《損害賠償額》として天文学的数字を(一度で十分だが)判決で示す。

上の二つのいずれかが実行できれば、今日のような憂うべき社会状況は原理的に消失するはずである ― 上の方法は副作用が大きいので、規制対象以外の報道は自由であることを徹底しなければならない。


小生は、最近になって早朝の読経が習慣になり、早寝早起きに徹している。だから、いわゆるTVのニュース番組、ワイドショー番組はほとんど視なくなった。朝にNHKの報道番組のあと、15分程度カミさんにつきあって「モーニングショー」を視るが、後はTV画面から離れる。

意外なことに、それでも、まったく何も困らないことに気がついた。情報は、いくらでもネットから集まってくる。興味がわけば、ちょっと調べれば、多様な見解があることが分かる。この方がずっと良い。

《情報絶ち》、一度やってごらんなせエ、健康にイイですよ。

ずっと以前、投資コンサルタントから、大学の同僚になった人と話している時、初心者の新規契約者には

当分の間、株価を毎日チェックするのは、絶対やらないでください

そんな注意、というかお願いをしていたそうである。

まったくその通り。

テレ東のWBSを視なくなったのは心残りだが、これもYoutubeでリカバーできる。大方のTVニュースは、なくとも可のしろものである。

【加筆修正:2025-02-17】

2025年2月15日土曜日

断想: 国制(=国の体制)で万古不易なものはない

前稿ではプラトンが『国家』の中で描写した民主主義の劣化・堕落について言及した。とはいっても、直ちにプラトンが反・民主主義者であったとはいえない。ただプラトンが生きた当時の民主主義の現実をみて、それを称賛する気持ちにはなれないという批判的心情が、著作からは伝わってくるだけのことである。

プラトンがまだ23歳であったB.C.404年、アテネはスパルタを盟主とする敵国に降伏し、27年間の長きにわたったペロポネソス戦争の敗戦国となった。

アテネでは早速に親スパルタの「三十人政権」が発足、「行き過ぎた民主制」は否定され、「貴族・富裕層を中心とする寡頭制」へと移行した。

ところが、一度は国政を主導する地位を得ていた民衆が「民主制の復活」を願ったことから、政情は常に不安定で、ついには政権内部で意見が対立、内部分裂し、粛清と暗殺が相続く事態となった。ついには、民主制支持派と寡頭制支持派との内戦に至ったが、調停が成立し、アテネは一応「民主制」へ戻ることになった。

しかし、内戦はアテネ市民を深く分断し、相互の猜疑心がながく尾を引くことになった。黄金時代が二度と戻ることはなかったのだ。

プラトンの師匠であるソクラテスの裁判と死刑判決は、そんな混迷した世相から発生した事件である。B.C. 399年、プラトン28歳の年であった。

『国家』でも詳説されているように、いわゆる「民主制」には良い所も悪い所もある。自由と平等、寛大な多様性、変化をおそれず進歩を求める気質の形成は、民主主義の最も良い所だと述べられている。反面、自由が善であると規定され、それが極端にまで行き過ぎると、行動を規制する者は全て悪となり、無政府状態を招く。一部を引用すると

先生は生徒をおそれてご機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し……若者は年長者と対等に振る舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者に自分を合わせて、面白くない人間だとか、権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て、機知や冗談でいっぱいの人間になる。

こんな社会状況を招くことになる。最後には、

人間たちに飼われている動物たちまでもが、……きわめて自由にして、威厳ある態度で道を歩く慣わしが身について、路上ではこちらからわきにのいてやらないと、出会う人ごとにぶつかってくる…

何だか現代世界の《ペット様のお通りでございます》といった風な「町の風景」を連想させるものとなる。

この辺りは、単に哲学書というより、『戦後アテネ世相編』と言えるような側面がある。

思うのだが、民主主義の長所が優勢な時代と短所が優勢な時代と、二つの時代は交互にサイクルを描くように交代するのではないかと思っている。

比較的、分配が平等な状態で、人口増加と経済成長が始まる時代は、成長の果実を広く薄く享受できる民主主義の方がうまく行く。自由を何より尊重する気風が広まる。

しかし、成長の持続は社会の不均一性を高める。

多様性の容認と社会の不均一化は、同じ現象の表と裏である。そもそも不均一であるにもかかわらず、全ての人間に等しい処遇を与えようとすれば、違いのマネジメントが必要になる。しかし「違いのマネジメント」は「区別のマネジメント」となり、やがて「差別のマネジメント」と識別困難になる。不均一を区別しながら、差別はせず多様化の名のもとにアウフヘーベンするなど、そもそも矛盾しているのだ。不可能とまではいわないが、そんなマネジメントは、自然なロジックとして、「統合されるべき社会」に最高の価値を与えることによって、肝心の「自由な個人」を否定する結果になりやすい。「リベラル左派」にとってのガラスの天井がここにある。

人民の独裁で混乱するよりエリートへの委任で安定する方がマシである。で、寡頭化する。不均一は差別ではなく正当化され固定化され、故に民主主義が終焉する。ちょうど古代ローマが共和制を廃して帝制へと移行したように。

共和制ローマも大いに発展したが、黄金時代は帝制移行後のいわゆる「五賢帝時代」に到来し、その頃ローマ帝国の領土は最大となった。民主制と経済社会の発展の間に相関はない(と思うのはずっと以前に投稿している)。上の二つのどちらか一方が、他方の原因でも結果でもない(と思っている)。国制の選択は、時代の要請に応えるための努力から結果として定まってくるものだと、理解するべきだろう。


どうも抽象的にいうと、こんな歴史観に共感を覚えるわけで、とにかく

(王制)、寡頭制、民主制、(独裁制)は自然に交代する。

 「体制遷移の法則」まで洞察できれば良いのだが、今のところ、こんな風に思う今日この頃だ。

2025年2月13日木曜日

断想: プラトンの人間観には一つ抜けている気がする

本ブログで何度も投稿してきたように、小生は古代ギリシアの哲学者・プラトンが好きである。いま読んでも、とても2400年程の大昔に書かれた著書だとは思えないほどの「今日性」、「現代的意義」を保ち続けていると感じるし、実際、哲学畑でいまなおプラトンの哲学が真剣な研究テーマに選ばれることが多いのも「ムベなるかな」と思う。

『ソクラテスの弁明』は早熟な中学生なら読む。高校生なら真面目に読めば難しい内容ではない。欠点は「面白くない」という点だろう。実際、小生も初めて『ソクラテスの弁明』を読んだときは、中途で放り投げてしまったものだ。

真面目に読み直したのは、他のプラトンの著作を読んでから後のことである。それで初めて、そこで伝えられている思想がクリアに理解できたのだ。

学校の課題図書の常連になっている割には、意外と面白くなくて、変に小難しく、感想の持ちようがないという点で、(個人的な勝手な感想だが)夏目漱石の『こころ』とプラトンの『ソクラテスの弁明』は、よく似ているナアと(実は)思っている。主人公が最後には死んでしまうところも同じだ・・・。

これどう思う? 何しろ主人公、死んじゃってルんだよ?

そう言われてもナア、と思ったものだ (_ _)。

漱石で読むべき作品を一つ挙げろと言われれば直ちに『明暗』をあげるし、プラトンでこれを読めと聞かれれば、当然のこと『国家』をあげる。学校で推薦するなら、この二つだと思っていて、上の推薦図書よりは、文句なく面白い。難点は長すぎるということだ。課題図書にならないのは、このためだと(勝手に)思っている。

『国家』の第8巻は、5種の国制(=国の体制)の比較論を展開している所だが、いま読んでも実に面白い。

これも課題図書になることが多い鴨長明『方丈記』だが、冒頭の

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

は、日本史や古文の教科書に頻繁に出てきて、入試問題にもなることが多い。しかしながら、『方丈記』は厭世的なエッセーではなく、読んでみれば「京の都を襲った天災の災害リポート」であることが了解されるはずだ。要するに、同時代の世相をありのままに記述したドキュメンタリーであると言う方がよい。

同じように、プラトンの『国家』も、ペロポネソス戦争敗戦後の堕落し、荒廃したアテネ民主主義の実相を活写したドキュメンタリーとしての一面をもつ。特に第8巻は、最善の王制もしくは優秀者支配制から始まって最悪の僭主独裁者制に至るまでの5種類の国制(=国の体制)を比較した内容で、最悪から2番目に評価される「民主制」のどこが良くて、どこが悪いか、この辺の描写は実に現代世界にも通じるものがあるわけだ。

堕落した民主制が、どういうプロセスを経て、どんなふうに、愚かで、かつ悪しき社会をもたらすか。これが2500年もの昔に書かれた作品であるとは、俄かには信じられない程の臨場感がある。

プラトンが言いたいことは、

あらゆる人にとって、神的な思慮によって支配されることこそが、― それを自分の内に自分自身のものとしてもっているのがいちばん望ましいが、もしそうでなければ、外から与えられる思慮によってでも ― より善い(為になる)と考える……

最良の人々が主導する国家こそ、最良の状態に至るものであるというプラトンの「賢人政治」の理想は、しかし、自らが対話の相手に語らせているように

少なくともこの地上には、そのような国家はどこにも存在しないと思いますから。

こう考えていた著者・プラトンの熱い心情と人間像が生き生きと伝わってくる。

プラトンが優秀者による支配を望んだその根拠は、有名な魂三分説である。分かりやすく言えば、

魂は、思惟をへて真実を知ることを愛する理性、勝利し人を支配することを愛する気概、利益を得て富を形成することを愛する欲望の三つから成っている。そのいずれの部分が優勢であるかによって、人は、知を愛する者、支配を愛する者、利益を愛する者の三つに分類される。

故に、ただ利益を求める貪欲や、権力それ自体を求める野心に突き動かされるような人物が実際に権力を得て、社会を支配すれば、その国の市民に真の幸福がもたらされることは決してない。これがプラトンによる人間理解と社会観である。

ただ、読んでいて思うのだが、

人が求める対象には、真実在の知識、力、富の三つがあるというが、それでは迷いからの解放、不安からの解放、即ち「安心」を求める宗教的動機については、プラトンはどう考えていたか?

と、こんな疑問が自然にわいてくる。

どうやらプラトンは、迷いを解くためには真理を知らなければならない、つまり究極の知識をまなびとる必要があると考えているようだが、一方で日本の浄土系思想を代表する法然は『一枚起請文』の中でこう書いている:

唐土もろこし我朝わがちょうにもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。

又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細そうらわず。

大事なのは、学問でも知恵でもない。《疑い》をもたず、《念仏》を称えることだけである。こういう論理を超越した事を言っている。


「なぜ浄土を信じられるのか?」というこんな疑問ですら、「これは分別知による下らぬ愚問である」として意義を認めない。「すがすがしい」と言えばその通りだ。が、宗教というのは、そもそもそういうものだ。信じられればヨシ、疑いをもてばオワリである。『阿弥陀経』は浄土三部経の一つだが、他力信仰は《難信の法》だと明記してある。それだけ「信じる」というのは大多数の人にとって難しいことは最初から分かっているわけだ。プラトンならこんな事は決して言わない(はずだ)。

プラトンの『国家』を読んでいると、理性によって色々な事物の実相(=イデア)が知られる ― 但し、「善のイデア」そのものを(生きている内に)理性によって直視できるのかどうかという点は、ハッキリとは書かれていない(と記憶している)。一方、日本の浄土系仏教では、無明という闇に生きる此土(=この世界)の住人は、汚穢にまみれ煩悩が心に染み込んでおり、この世に生きている限りは、まったく救いようがないと観る。この世界(=穢土)で動物のように何度も生まれ変わって生き続けることを嫌悪するなら、人は阿弥陀仏の本願を信じ、専修念仏の行をつづけ、仏国土に往くことがかなえば、そこは光明に溢れており、永劫の時間を通した宇宙の由来、未来をありのままに直視できる。不安からは解放される。この世に生きる不安はこの世に生きていることによるのだ。彼岸には不安はない・・・

・・・この辺り、実に超論理的である。超論理的ではあるが、何だか「実数の世界」から「複素数の虚構的世界」に連れていかれた時の戸惑いと、複素空間に慣れた後の広々とした心持を思い出したりもする。「浄土」や「彼岸」という言葉も、私たち人間が一貫した宇宙観、生命観を築くためには、論理上不可欠のピースなのだと思っている ― 純虚数、つまりi^2\,=\,-1を満たす値\,i\,の実在を問う意識と「浄土」の実在を問う意識は、どこか似ているものだ。

ちなみに、中国の曇鸞、道綽、善導から始まる浄土系思想は大体がこうした思想で一貫している。

やはり東洋と西洋の世界観には大きな違いがある。が、全体構成としては重なっている部分もある。そこが非常に面白い。

理性によって仏国土や神の存在を知ることができないというのは、近代の幕開けを演出した(とも思っているのだが)カントもそう述べている。が、これはまた別の話題になりそうだ。

今日は、プラトンから始まって、鴨長明に寄り道し、法然に辿りつき、最後は複素空間が出てくるという、極度に乱雑な内容になった。これも覚え書きということで。

【加筆修正:2025--2-15】

2025年2月11日火曜日

前稿の補足: 日本が国として連続していると感じられることの不思議

本日はホンノ短い補足のみである。


前投稿ではこんな事を書いている:

その他の具体的議論もあるが、概略的に考えると、明治維新の後、統治権は天皇にあると規定しなければならなかったのは、権力闘争というより、むしろ、こう考えなければ「日本」という国自体が、蜃気楼のような「空中楼閣」となる。天皇が統治する限り、どれほど西洋化を進めても、日本は日本である、と。そんな理解があったのではないかナと、小生は勝手に想像しているのだ。

明治維新後の日本は「民意」によって新しい国へ変容したわけではなかった。前稿に書いたように

近代日本は、明治政府が外国から招へいした外国人教師が教えた日本人弟子か、でなければ外国に研修か、留学をした日本人が、造りあげた国である。それでも日本は伝統的な日本と同じ国であり、明治以後の日本が別の国になったと考える日本人はいない。

このように、実際には、「お雇い外国人」と「官僚」の働きで出来た国だった。しかし、江戸の旧幕時代から明治にかけて、日本は別の国になったのだと考える日本人はいない。まあ、法制度・文化・風俗は変えたが、それは「時代」が変わったという事で、別の「国家」になったわけではない。そう意識する日本人がほとんどだと思う。 

この理由は明らかで、

確かに日本の文化・価値観・風俗などは激変したが、それは日本が自ら選んだ道であったからだ。

つまり、天皇自らが新たな変革を欲したからである。 

故に、江戸の日本も日本、明治の日本も日本。こういう事だろうと(勝手に)考えている。所詮、「国」、「社会」などという観念は、主観的な意識の中にあるものなのである。続いていると人々が意識すれば続いているし、一度絶えたと意識すれば、絶えたということだ。 


明治維新と明治初期よりも昭和終戦直後の方が「激変」といえば激変ぶりが大きい。何しろ敗戦により領土が占領されたのだから。

それでも昭和戦前から戦中、戦後へと、日本人は同じ「日本」で生きたと意識していたのではないだろうか。

戦前は完全な独立国であったが、戦後日本は(実質的には)軍事同盟の設計から言えば、よく言って「アメリカのジュニア・パートナー」、悪く言えば「アメリカの半属国」であろう。

それでも日本人は例外なく、昭和戦前から戦後にかけて、日本は連続して「日本」であり続けていると、自認しているのではないだろうか?

時代が変わったのだ、と。時代が変わっても国は変わらなかった、と。「戦前という時代」から「戦後という時代」へと変わった。戦前の日本が日本なら、戦後の日本も日本だ。そう意識していた(ような気がする)。

少なくとも、敗戦時点で「日本」という国は地上から消え失せ、戦後の「日本」は新しく出来た国なのだ、と。こんな風には、思わなかった。小中学校の教科書にも、そんな風には書かれていない。現代日本人もそうは思っていない(はずだ)。ただ憲法が書き換えられ、「大日本帝国」が「日本国」に変わった、と。

そう感じる理由(の一つ?)は、天皇制が継続し、昭和天皇が昭和20年から64年までずっと在位した、これが日本人の無意識下の(国家?)感覚を変えなかったからだと、小生は(勝手に)思っている。


仮に、昭和20年に天皇制が廃止され、それ以後、日本には天皇が存在せず、何年かごとに「普通の」日本人から「大統領」を選ぶという体制になっていれば、今日の日本人は、昭和戦前までの日本とは別の国家にいま生きているのだと、そう意識していたに違いない。

そうなっていれば、多分、国歌や国旗も新しく作っていたであろうし、まして「自衛隊」(?)が同じ旭日旗を引き続き使い続けることもなかっただろう。

社会科の教科書では、(ドイツと同じように)明治から昭和戦前までの日本は「あだ花のような国」であり、故に「国民の意思に反して」、悪しき戦争を始め、結果として「自壊」した、と。こんな調子の説明がされていたに違いない。

人・国・民族・言語といった文化的な自意識が、日本人によって自覚され、それによって(内戦もなく、うまくやっていれば)現代日本はより建設的で、理性的な存在になっていたと想像される。

そうはなっていない理由は、

日本には天皇がいる。であれば、同じ日本である。

こんな意識が「敗戦・占領」という当時も、その後もずっと、共有されていた意識であったのだろうと想像している。

これを言い換えると、前稿でも書いているが

天皇があって日本がある。逆ではない。

こういう表現になるではないか。


こうしたことで、日本という国家はずっと断絶もせず、続いている。時代は「明治」、「大正」、「昭和」から「平成」へ変わり、いまは「令和」となった。同じ「日本」が連続して続いている。そんな意識が現代日本人で概ね共有されている、育った時代は違っても、国までは違わない、この点だけは世代間のギャップがない。そういうことだろうと思っている。

ということは、将来にかけて、日本社会がどのように変わっても、天皇がいる限り、日本はずっと日本である。そんな意識が支配的であるのではないかというのが小生の日本観である。

建国記念日に沿うような内容になったが、時機を狙った意図はない。偶然である。


本日は、補足ということで。



2025年2月9日日曜日

断想: 全面開国を支える基盤こそ天皇制。こんなお国柄ということか?

以下の問いかけは少し以前にも書いたことがある:

 日本が日本であり続けるのは何によってか?

この問題意識はかなり前からあって、思いつく時々に本ブログでも書いてきている。が、検索するのはキーワードが定まらず、やりづらい。いちばん最近ではこの投稿になるか。

そこでは天皇制に目を向けている。具体的に書くと、こんな下りがある:

天皇があって、日本があるのであって、逆ではない

いわゆる「国体」という思想であって、日本の歴史を観る時の歴史観、というか日本文化観を指している。

この種の歴史観が「民主化」された戦後日本の小中学校の授業で教えられているはずはない。

日本という国は、島国であるせいか、世界の文化的潮流からしばしば大きく遅れることがある。そんな時、先進的な海外文化を招聘した外国人から伝えてもらうのだが、たとえば先進文化を受容した飛鳥から奈良にかけての時代、戦争技術が一変した戦国時代後期から江戸時代初期にもそんな国際化の時代があったし、明治前期や、昭和戦後初期という時代も同じ状況に日本は置かれた。

そんな時代、日本は世界文明のメインストリームを直接受け入れることで、短期間に大きく変容したが、それでも日本が日本であり続けたのは、上に引用した投稿でも書いているように

その他の具体的議論もあるが、概略的に考えると、明治維新の後、統治権は天皇にあると規定しなければならなかったのは、権力闘争というより、むしろ、こう考えなければ「日本」という国自体が、蜃気楼のような「空中楼閣」となる。天皇が統治する限り、どれほど西洋化を進めても、日本は日本である、と。そんな理解があったのではないかナと、小生は勝手に想像しているのだ。

こんな風に考える立場に小生は立っている。

国が大きく変容を遂げようとしている時、そんな時代にこそ、天皇という柱が必要になる。こんな認識は、実際にその時々の上層階層の意識にあったかもしれない。

時代をずっと遡って、飛鳥から白凰、天平にかけての時代、大量の渡来系日本人(=移民)が活躍した事実は、教科書でも(軽く?)触れられている ― ちなみに、歴史の授業では、古代から話を始めて、戦国時代、江戸時代に至り、大体は明治、大正辺りで時間切れで終わるというパターンが多い。ちょっと問題ではあります……

例えば、奈良の東大寺は華厳宗総本山としてよりも文化的遺産として日本人なら誰でも知っている(はずだ)が、昔に聞いた歴史の授業で、時の聖武天皇が大仏建立を発願したきっかけが新羅人・ 審祥 しんじょう の『華厳経』講義であり、大仏開眼法要を導師として主宰したのがインド僧・菩提遷那 ぼだいせんなであった事実は、それほど力点を置いて説明されてなかったように記憶している。

日本を訪れた外国人専門家(?)の講演を聴いて、その時の天皇が思いついて建立した大仏が、別の外国人専門家によって魂が入れられた、だとしても奈良の大仏が日本の文化遺産であることを、日本人の誰も疑ってはいない。

明治維新の後の文明開化という時代も(多分?)同じような情況であった。近代日本は、明治政府が外国から招へいした外国人教師が教えた日本人弟子か、でなければ外国に研修か、留学をした日本人が、造りあげた国である。それでも日本は伝統的な日本と同じ国であり、明治以後の日本が別の国になったと考える日本人はいない。

まったく違った文明・制度・風俗の国に生まれ変わったのに不思議ではないか。

科学技術、法律・制度、更には宗教ですら、輸入できる。しかし、人々一般のモラル感覚、意識まで輸入するのは不可能だ。解決するべき数多くの立ち遅れ(?)として日本にある問題個所と向き合うべき今という時代、何度かあった過去の時代と似た状況に、いま日本は置かれている。そう感じるのだ、な。

どれほど巨大な文化的な、あるいは民族的・人的構成上の変容をくぐっても、日本が日本であり続けるのは、何によってか?

たとえ外国人社長がいくら増えようが、日本の名門企業がいくら外国資本に買収されようが、営業現場に外国出身の人がいくら増えようが、日本人が巨額の資産を築いた事実に変わりはなく、日本という国の象徴は世襲される「天皇」であることに変わりはない。

この事に、何だか安心(?)を感じる日本人は実は多いのかもしれない。

天皇という制度は、こんな視点からも、というより、こんな視点から考えるべき事柄なのだろう。

「民主主義」や「男女平等」という話題は、とりあえず無関係と考えておくべきだろう ― 無関係ということであって、否定するという意味ではない。目的にはならないという趣旨である。念のため。

そう思われますが、違うかな?

2025年2月7日金曜日

ホンノ一言: 『ブラックボックス・ダイアリーズ』のアカデミー賞ノミネートが伝えられないのは何故だろう?

 元ジャニーズ事務所所属のアイドル・中居某がひき起こしたセックス・スキャンダルは、いまや事件の舞台を提供した(と推察されている)フジテレビという企業そのものの存続さえ危ぶまれる事態を招いてしまった。

2025年という年が明ける時に、こんな事態が出来するとは、一体だれが予想出来ていただろう?

昨年末の女性週刊誌報道があってから、曖昧な不安が周囲の人物の胸には去来していたであろうが・・・。

この事件、本来は経済誌であるイギリスのThe Economistでも報道されている。その中に、こんな下りがある:

Japan’s #MeToo movement has been “building up slowly”, says Miura Mari of Sophia University in Tokyo. In 2017 Ito Shiori, a freelance journalist, accused a reporter and the biographer of then-prime minister Abe Shinzo, of rape. Her criminal case was dismissed, but she won damages in a civil lawsuit. “Black Box Diaries”, her film chronicling the episode, became the first Japanese documentary to be nominated for an Oscar last month (though there is no release date for it in Japan). Her case proved controversial and sparked nationwide conversations. According to surveys, only 5-10% of people report assaults to the police in Japan, compared with 23% in America. Demonstrations also started in 2019 after four rape acquittals were handed down by the courts in quick succession.

Source: The Economist

Date: Feb 6th 2025

URL: https://www.economist.com/asia/2025/02/06/japan-could-finally-face-its-own-metoo-crisis

例によって、Google翻訳で和訳した日本文をコピーしておこう:

 日本の#MeToo運動は「ゆっくりと高まっている」と上智大学の三浦真理氏は言う。2017年、フリーランスジャーナリストの伊藤詩織氏は、当時の安倍晋三首相の伝記作家で記者をレイプで告発した。彼女の刑事訴訟は却下されたが、民事訴訟で損害賠償を勝ち取った。その出来事を記録した彼女の映画「ブラックボックスダイアリーズ」は、先月、日本のドキュメンタリー映画として初めてア​​カデミー賞にノミネートされた(ただし、日本での公開日はまだ決まっていない)。彼女の事件は物議を醸し、全国的な議論を巻き起こした。調査によると、日本で警察に暴行を通報する人はわずか5~10%であるのに対し、米国では23%である。2019年には、裁判所が4件のレイプ無罪判決を立て続けに下したことを受けて、デモも始まった。

日本語として少し可笑しな箇所も散見される。が、十分使えるレベルだ。メディア界で言語の壁が消失しつつあるのは、日本人にとって大変素晴らしい事だと思う。

下線を引いた部分は、安倍元首相と親しかったTBS政治部記者・山口某が起こした性犯罪の事である。この事件の顛末を調べ上げるプロセスを記録したドキュメンタリー映画が『ブラックボックス・ダイアリーズ』で、「先月、日本のドキュメンタリー映画として初めてア​​カデミー賞にノミネートされた」とThe Economistは紹介しているわけだ。ところが、「日本での公開日はまだ決まっていない」とも付け加えている。

真田広之主演で昨秋にエミー賞を受賞した『SHOGUN 将軍』は、日本国内のテレビ局でも大々的に報道したが、伊藤氏の『ブラックボックス・ダイアリーズ』のアカデミー賞ノミネートは、国内TVのニュース番組は見切りをつけて最近はほとんど視ないのだが、TV画面で話題になっているのを視たことがない。

この件については、TV業界で《緘口令》が布かれているのではないかと邪推したい位だ。

だとすると、こんな情況も、世界からみれば

日本には報道の自由がない

そんな風に低評価されてしまうのは「ムベなるかな」である。


・・・こんな体たらくでは、高付加価値・知的サービスを軸とする「第三次産業主導型の経済成長」など、日本にとって「夢のまた夢」というところだろう。


2025年2月3日月曜日

ホンノ一言: トランプ大統領の「関税率引き上げ戦略」について

今年は、昨日の2日が節分で、今日3日が立春であると、TVニュースを視ていて知ったから、随分呑気な話しである。

年若な時には、自分の年の数だけ大豆豆を食して悦に入ったものだが、北海道に来ると撒くのが落花生であると聞いて、ヤル気をなくした。で、節分になっても何も撒かないまま長年月がたった。

トランプ大統領の関税戦略が展開され始めた所である。

自由貿易を否定して、関税率を引き上げるという政策に賛同する経済学者はいない(はずだ)。とはいうものの、小生の元同僚の一人は

雇用など特定のマクロ的状態においては関税政策が有効であるケースもあるのかどうか?

こんな問題意識で考えてみたいとSNSに投稿している。

小生も、

いかなる場合にも関税率引き上げは推奨できない、と確言は出来ない

そんな気はする。だから考察に値する問題だと思う。


理性とは無縁の、現時点の常識や価値観のみから「自由貿易否定イコール愚かな政策」と主張する態度には賛成できない。

トランプ大統領の政治的嗅覚が、今回は的を射るか?

正統派経済学者の標準的理論が現在でも正しいか?

そういう事だろう。

これまでの常識で、条件反射的な反発をメディア各社が声高に叫ぶのは、この際は控えておいた方が「国益」にはかないそうだ。経済学者の議論をまず聴くべきである、聴くと同時にメディア側も議論の要点を理解するべきだと思う。不勉強なメディアは社会の害毒だ。

そもそもケインズ革命に火をつけた1930年代のケインズその人も『一般理論』刊行当時は《異端派のインフレーショニスト》として鳴らしたものである。

2025年1月31日金曜日

断想: 「平等は春かげろうの如きもの」、ということか

正月以来、雪の降らない珍しい冬であったが、月末になった昨日、今日、雪不足を帳消しにするほどのドカ雪となった。

マンションの駐車場に除雪車が入るので、今日の午前中はカミさんとMacに行って、時間をつぶす。ついで書店で植木雅敏『法華経』(角川ソフィア文庫)を買う。これは10数年前に毎日出版文化賞を受賞した同じ著者による『梵漢和対照・現代語訳 法華経』の縮約版である。

毎朝の勤行は浄土系であるが、仏教思想の中で『法華経』と『華厳経』は、おさえておこうと思っている。

本日投稿するのは、それと直接の関係性はないのだが、《平等》についてである。

先進諸国の大きな問題の一つに《分配の不平等》がある。この問題解決に向けたキーワードが《格差是正》であって、現代日本の主たる経済問題の一角を占めているのは、もう誰もが知っていることだ。

このような《平等志向》は、遥かな大昔から人間社会に普遍的にある感情で、実際、例えば浄土三部経の一つである『無量寿経』には以下のような下りがある:

田がなければ田を欲しいと思い、家がなければまた家が欲しいと思い、牛や馬や、六種の家畜や、男女の召使いや、金銭・財貨や、衣服・食物や、家具がなければまたこれらを欲しいと思う。たまたま(その中の)一つがあるときは、また他の一つが欠け、これがあれば、あれが欠け、すべてを(他人と)等しく持ちたいと願う。

たまたま願いのままに具わるかと思えば、たちまちまた消え失せるのだ。憂い苦しむこと、このようである。また、いくら求めても得られぬ時もある。

Source:『浄土三部経(上)』(岩波文庫)

Author: 中村元・早島鏡正・紀野一義訳注

訳文は、サンスクリット原典から和訳されたもので、日本国内で読経されている漢訳文を日本語に書き下したものではない。

現代日本であれば

年収が少ないうちはもっと収入が欲しいと願い、収入が増えればもっと金融資産を貯めたいと願い、収入・資産がそろえば高い学歴が欲しいと願い、学歴があれば高級住宅地に豪邸を建てたいと願い、豪邸を建てれば優秀な子供を持ちたいと願い、子供が成長すれば名門から嫁をもらいたいと願う。

マ、こんな感じになるだろうか?

このように、国を問わず、時代を問わず、誰もが(あこがれる)人と同じだけの資産をもち、同じレベルの暮らしをしたいと願うものであるのは、当たり前の事実としてある。現代世界だけが例外ではない。

今よりは、よほど分配の平等が実現されていた「一億総中流」の日本であっても、恵まれた階層への憧憬・嫉妬・敵意は、今と変わらず世間にあったように記憶している ― 例えば、黒澤明監督の映画『天国と地獄』をみよ。

しかしながら、上の引用文にも書かれてあるが、

仮に、平等な所得が分配されるとしても、個人個人の節制・物欲が違っている以上、3年か5年も経てば、贅沢をして所得を全額使い切っている人もいれば、かなりの部分を貯蓄に回して、資産を形成している人もいるだろう。

仮に、同じ資産を与えられたとしても、ある人は運よく投資した銘柄の株式が急騰し大金持ちになるかと思えば、ある人は投資に失敗してスッカラカンになってしまうだろう。

要するに、所得分配を平等化できるとしても、その平等がずっと続くわけではない。また富裕層から私有財産を強奪して、全国民に平等に分け与えたとしても、10年もたてば新たな不平等が現れているはずである。

人の世のあり様は、イソップ物語の「アリとキリギリス」が象徴しているとおりなのである。

所得や資産を平等に分けるだけではダメだ。 消費生活そのものを完全平等に統制しなければだめだ。そう考える御仁もいるかもしれない。

しかし、寮や兵舎の集団生活じゃああるまいし、同じものを同じ量だけ食って、同じ服を着て、同じところに旅行をするような生活が楽しいはずがない。

現代日本は高齢化している。昔は人生50年であった。50年生きたときの不平等より、80年生きた時の不平等の方が拡大しているに決まっている。

ずっと以前、不平等は長寿化の副産物であると指摘した経済学者がいたが、実に的をついた知見だったと思う。

何ごとも《一得一失》。長寿化を喜ぶなら、老後の格差拡大を憂えるべきではあるまい。

真の問題があるとすれば、親の世代で生じた格差が子の世代に継承されることである。

ただ、これもまた、この事実が善いことなのか、悪いことなのか、小生は判断を控えたいという立場にいる ― 何も「国」でなくとも、いくらでも社会的な工夫をする余地があるからだ。「善意」というものは、「国」よりも善意をもった「個人」に宿るものだ。

資産をどう相続させるかは、その資産を形成した人が(基本的には?)決めればよいことである。《個人の尊厳》と《私有財産制》の基本原則を尊重する限り、(少なくとも)日本社会では、現状が大きく変革されることはないと予想している―ずっと以前、相続税100%の提案もやむを得ないと記したこともあった(例えば、これこれ)。が、この提案は「国家」という存在、というか法的機構が善であると前提しての話である。現在はこの辺りの観方を変えている。

【加筆修正:2025-02-01、2025-02-02】


2025年1月29日水曜日

ホンノ一言: 「京アニ事件」で死刑が確定した件について

いわゆる「京アニ事件」、京都にあるアニメ制作会社である「京都アニメーション」放火殺人事件だが、死者が33人に達し、これは昭和戦前期に発生した「津山事件」の被害者数を上回る。文字通りの歴史的大事件であったのだが、犯人側がこのたび控訴を取り下げ、死刑が確定したとの報道だ。


この事件はショッキングで、発生時点で本ブログにも個人的な感想を投稿している。その当時、カミさんとはこんな話をした事が記されてある:

小生: 放っておけば死んでいたはずの主犯を必死に蘇生させて命を助け、助かったら今度は国家権力が『その方の罪は重大にして非道。斟酌するべき情状は認めがたし。よって死刑とする』って言い渡して、改めて法の名の下に死んでもらう。これはサ、ちょっと俺の感性には合わないナア。

 カミさん: 犯人に動機を聞いて、きちんと裁判をして、遺族の人もそれを聴きたいんじゃないの?

小生: いくら司法手続きがいるとか、社会にとって必要だと言っても、犯人が死を選ぶ自由を認めず、あくまで法を優先させて、その後になって国家が改めて犯人を殺すっていうのは、どれほどの悪人であっても人が持っている人権を国家が侵している。そう感じるけどネエ・・・

マア、法で定める刑罰として「死刑」が設けられている以上、今回の犯人に死刑を宣告しないなら、どんな犯人なら死刑判決が出せるのか、と。そんな量刑の斟酌があったのかもしれないナア、とは思っています。


仕方がない、と言うしかないのかもしれないが、何度も投稿しているように、小生はそもそも死刑廃止論者である。実際、<死刑 廃止>でブログ内検索をかけると、相当数の投稿がかかってくる。その中には、こんな下りもある。

しかし、政治家の不倫が許せないと放送しながら、若者は闇バイトに応募して強盗殺人を行い、高齢ドライバーは生活に不便だと車を運転して、案の定、事故を起こす。

全部をまとめると、

何という、マア、素晴らしい世相でございましょう・・・

死刑の継続を望みながら、体罰禁止に賛同する世の中も似たようなものでございます。

これは義務 あれはルールと 自らを

  しばるが人の 生きる道なり

ドイツの哲学者・カントを手本とする普遍的モラルを追い求めていた戦前のエリート達が始めたのが太平洋戦争であります。ガリ勉の一知半解とはこの事でござんしょう。

 これは、つい最近の投稿だ。

「法の論理」を通したいのは人間の知の領域だが、「人の命」は自然と大地から生まれた現実そのものである。もてあそんではいけない。そう感じますがネエ・・・。人間の知の理屈を自然に対して無理に押し付けると、自然から逆襲されて滅びるのは人類のほうですゼ。これを忘れちゃアだめだ、と。そう思いますネエ・・・

この事件について最初に感じた印象は、死刑判決が確定した現時点でも変わっていない。

ただ、国家と人間の生命との関係を考えるとき、以下の設問に解答することも求められるだろう。

殺人事件が発生すれば、被害者の家族は犯人に対する復讐を欲するものである。これに対して、国家は司法の名において、遺族による復讐を否定し、刑罰を定める。結果として、犯人を助命することもある。被害者の人命は失われているが、犯人の命は国家によって救われるという状況を、合理的であると理解することが求められているわけだ。

一方、国家が他国に侵略されるとき、徴兵ではなくとも、国防の職務に就いている人には、生命の危険が伴う任務に応じることが求められる。戦場で命を失うとしても、それは国家に個人の命を犠牲として捧げる「戦死」、つまりは「殉職」として法的には認識されるはずである。

ある時は、殺人犯の命を尊重し、ある時は最前線の兵の命を要求する。

勇敢な兵の命を国家に捧げよと言うなら、人の命を奪い国家の掟を破った殺人犯の命も当然のこととして国家は奪うべきであろう。そうでなければ、家族を殺された遺族にとって国家とは非条理そのものに映りましょう。兵の命は犠牲にするが、殺人犯の命は助けるのか、と。

まあ、これも一つの理屈だネエ、とは思う。

故に、死刑廃止論には、仮に戦争状態になったとき、国家の名において兵士の命を要求できるのかどうか、この設問への回答が含まれていることになる。


メモしておきたい。

但し、本日投稿の後半では「冤罪は絶対にない」と前提している。冤罪が絶対にないという状況の下でも、国家による死刑は廃するというのが、本当の死刑廃止論である。他の論点は無視している、念のため。

 


2025年1月26日日曜日

断想: 芸能事務所、テレビ業界だけの混乱じゃあありません

芸能事務所とテレビ局の非常識な(?)関係が背景になってスキャンダルが発生し、当事者の不適切な(?)対応振りがそれを拡大し、ついにはメディア業界全体の危機がひき起こされるという事態は、初めてのことではない。

比較対象としては不適切かもしれないが、中央銀行が金融政策を実施し、その効果を「つつがなく」浸透させていくには、特に金融市場とのコミュニケーションが致命的な重要性をもつのが現代という時代である。そして金融市場だけではなく、それを取り巻く国民全体の視線もまた中央銀行がとりうる選択肢を左右してしまう。政策当局も、毎日、毎分、毎秒、常に《世論》の変化を警戒しながら注意する。今は、そんな時代である。

にもかかわらず、その「世論」たるや、どこの誰を指すのか、心理学でいうゲシュタルトのようなもので、霧の彼方にあるような、ワイドショーのことなのか、ネットの反応のことなのか、はたまた「週刊文春」や「週刊新潮」のことなのか、どれも正しいようで、実はよく分からない……

こうした世相が、善いのか悪いのか、小生にはまだハッキリしない。「民主主義的になって来た」と言えば、その通りかもしれないが、近代化以降の日本の歴史をみても、「だからイイ」とは到底言いかねる。この点では、小生は今なお《功利主義的価値観》に共感を覚える。要するに、好い結果をもたらす体制が、その時代のその国民にとって最良の選択だと思う。この点は、前稿でも述べている。

で、話しを戻すと、フジテレビの経営体制自体が問題とされるに至っている。

これと関係するかどうか、日本経済新聞に米メディア・CNNの経営改革が報道されている。主な部分を抜粋して引用させてもらいたい:

米報道局CNNが全従業員の約6%にあたる人員削減を計画していることが分かった。低迷しているケーブルテレビ事業に関連する社員を中心に200人程度が対象になるとみられる。既存事業の人材は削減する一方で、エンジニアなどのテック人材を新規雇用してデジタル対応を進める。

人員削減計画はマーク・トンプソン最高経営責任者(CEO)が23日、社員向けに送った書簡で明らかになった。……

テレビ放送は横広の画面が定番だったが、スマホの普及で縦型の動画に慣れた世代が台頭している。トンプソン氏はこうした需要に対応するため、ニュース報道を縦の画面で迅速に配信する仕組みの構築などに力を入れていくとみられる。2030年までに10億ドルのデジタル収入の達成を経営目標に据える。実現に向け、25年前半だけで100人以上を新規雇用することを目指すという。

Source:日本経済新聞
Date:2025年1月24日 4:16 (2025年1月24日 6:37更新)
URL:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN23EN40T20C25A1000000/

ちなみに、CEOのトンプソン氏だが、これまでの実績が以下のように紹介されている:
トンプソン氏は23年10月、CNNのCEOに就任した。英BBCの会長を経て、米新聞大手ニューヨーク・タイムズ(NYT)のCEOを務めた人物だ。ほかの新聞社と同様にネットの台頭で苦戦していたNYTを、任期8年間でデジタル時代に対応した新聞社に改革した手腕で知られる。

何だかフジテレビの社員が憐れに感じるのは小生だけだろうか?

今は休んでいるが、The New York TimesのWEB版は小生も購読してきた。毎月の購読料は(円安と2年間割引があるが)概ね400円で、日経のほぼ10分の1の金額だった。BBCの活動ぶりは周知のとおり。Amazonのチャンネルでも利用できるので一時視聴していたことがある。課金は忘れたが、確か毎月△百円であったかと記憶している。

プロスポーツの世界では、有能な監督・指導者は世界市場でオファーを受けながら、選手がプロであるのと同じく、指導陣もプロとして活動している。芸術分野もとっくにそうである。アカデミックな研究者もプロはプロとしてグローバルに移動しながら自分の仕事に没頭している。そういう体制にしなければ、どの大学も優秀な人材がやってこない。結果として、「田舎の大学」に落ちぶれる。メジャーリーグの大谷選手、ダルビッシュ選手の生き方を見れば、もう《プロフェッショナル》の何たるかが日本人の誰もに可視化されているわけだ。

企業経営者も同じように位置付けられている。経営は経営のプロが担って、企業として最高のパフォーマンスを出すべきである。その経営のプロが日本人であるか、外国人であるかは、企業経営そのものにとって本質ではない。


日本の企業は、何かと言えば世界の真似をして、《企業の社会的責任》を口にするが、それもイイが、その企業に出資している《投資家への責任》を果たすことが、民間企業の最低限果たすべき責任である。

投資家への責任を果たすことを前提に、更に社会的責任も全うするべきだ。投資家への責任も果たせないボンクラな経営者が、もっとハイレベルの社会的責任など果たせるわけがないだろう。投資家より社会が大事だと考える御仁が、日本社会の過半数を占めているなら、とっくの昔に日本共産党が政権をとっている理屈だ。

この辺り、日本人は《資本主義》の何たるかの理解が生煮えのまま、《社会的責任》というキーワードが輸入されてきたので、これまた生煮えの理解のままマスコミが使っている。

すべて生煮えである。

何だか、世界の潮流がやって来るごとに、東京の人、大都市の人、田舎の人が、順々に右往左往しながら、忙しくしているだけのように観える。

勉強ばかりで、肝心の生産性が上がるわけがない。成長するはずもない。

滑稽である。


一つ一つの概念を消化して、普段の行動につなげて、その後で語ることが大事で、この程度のことは日本人の誰もが当たり前のこととして出来ていたと思う。

バカになったのか、教育の失敗か定かでないが、以前の日本人には出来ていたことが現在は出来なくなっている。そんな印象があって仕方がない。

口から先、言葉から先に入るのは、《一知半解》というものだ。学んで、実践して、経験知を増やして初めて身につく。これをさぼれば、ポンコツはポンコツのままだ。

貧すれば鈍す

負けがこんでくると普段できていたことも出来なくなる

アスリートによくあるこんな混乱状態に、日本の官民、メディア、国民すべてが、落ちているのじゃあないか?

明治の初めのように外国人を招いて教えを請う時代がまたやって来たのかもしれません。日本国内の人材養成からやり直さなければどうにもなりません。

そう感じる今日この頃であります。

【加筆修正:2025-01-27、01-29】