2025年3月9日日曜日

前稿の補足: なぜ「浄土」を目指すのが善いか?「好いことがあるから」ではない

昨秋に小生が属する浄土系宗派の相伝を受けた後、平日には朝の勤行で読経をし、日曜はカミさんと拝礼をしてから写経をすることが新たな習慣になった。

勤行は、遠く遡れば『昼夜六時』、つまり晨朝(早朝)、日中、日没、初夜、中夜、 後夜の六回、行うべき行なのだが、現代に生きる凡夫なる小生は朝一発で勘弁してもらっている。

それでも、読経後は気分が晴々として、なかなか、良いものである。朝の散歩もイイが、発声しながら一念集中していると、無念無想にも近くなり、心身の健康維持にもよいのじゃないかと、今はヨカッタと思っている次第。


前稿の補足:

毎日の読経では、「往生安楽国」とか、「応当発願 生彼国土」とか、色々と出てくるが、(浄土系宗派では)「安楽国」も「彼国」(=彼岸にある国)も浄土に数多存在する国の内の阿弥陀仏国を指す言葉で、その国名が「極楽」なのである。

このような超越的世界概念の実在性について前稿では数学との類推から覚え書きを保存したのだが、存在論としては理解可能というものの、なぜそこに往くのが善いのかという点で、こんな風に書いた:

今日は、数学的プラトン主義から他力信仰の基礎となるプラトン主義へと迷走し、最後はトランプ大統領のような

何かいいことはあるのか?

と、そんな風に終わってしまった。これまた覚え書きということで。

こんな風なまとめ方をした。

その後、上の点を考えたが、解答は一つだ:

阿弥陀仏国に往こうと願う意志は、この世に生きている内に行い得るあらゆる「善行」を超える、最高の善意志であるに決まっているからだ。 

こう考える以外に答えはない。

存在論として理解可能で、倫理として「そこへ往くべきだ」となるなら、あとは「そこへ往こう」と志すだけになる。残る問題は、日本仏教で発展した《称名念仏》という法然以来の他力宗派が強調する「念仏」が、なぜ有効なのか。残る問題はこれだけになる。

当然ながら、これについては色々な研究の積み重ねがあるようだ。


それはともかく、上の答えは(自分や社会にとって)良い結果がもたらされるかどうかで、その行為が善いかどうかを決めるのではない。善を目指す意志そのものに善の源をみる立場だ。これは英米流の功利主義よりカント以降のドイツ観念論に近い。日本の西田幾多郎が『善の研究』で展開した善の観念もそうである。西田の功利主義批判は既に投稿した中で触れている。

この関連で言うと、仏教の「阿弥陀仏国」はプラトンの「善のイデア」とほぼ同じものを指しているとも思われる ― かなりアバウトではありますが。そういえば、プラトンの『国家』の最終章には『エルの物語』があるが、あれは仏教でいう輪廻転生のギリシア版ともいえる生命観、世界観である。

プラトンは、人の幸福は善であることであり、善とは善のイデアにどれほど近いかであると、こう考えていたが、善のイデアに憧れる意志と阿弥陀仏国に往きたいと願う意志とは、小生にはほとんど無差別にみえる。

ギリシア思想は、紀元前三世紀からゼロ年頃まで続いたヘレニズム時代に、東方へ拡散し、特にパキスタン、北インド、アフガニスタン辺りのガンダーラ地方ではギリシア文明の影響が顕著にみられる。この地域は、仏教が発祥・発展し大乗仏典が編纂された地域とも重なっている。仏典編纂とヘレニズム文化は時代的にも重なっている。当時の北インド地方では、サンスクリット語、ギリシア語、中国語その他が混在して使われていて、文字通りに国際化された社会があったに違いない。インドで生まれた仏教思想とギリシア思想との関係は、掘り下げて勉強すると面白いテーマだと思う。

毎日の日常勤行式の中の『四弘誓』には

法門無尽誓願知

という一句があるが、正に真理を知ろうとする動機によって、最高の善に近付くという、共通の発想が色々な文脈の下で重なっている。そんな気がする。

以上、前稿の補足まで。

2025年3月6日木曜日

断想: 数学的虚構が実在するならば・・・宗教的実在も?

愛読書の一つにプラトンの著作があるというのは、本ブログで度々述べてきた ― プラトンとは学理上の競争者であるアリストテレスの方は、どうも波長が合わなくて、ほとんど読んだことはない。そんな小生が、長い間、現実に即した実証主義に共感を感じてきたのは、それ自体が矛盾ではあった。

その意味では《民主主義》とか《平等主義》よりも前に、《プラトン主義者》であるのかもしれないネエと改めて感じていたところ、ずっと前にも似たような下りを読んだことがあったナアと思い出したのが、ロジャー・ペンローズの『皇帝の新しい心』(="The Emperor's New Mind")である。原本は1989年、訳本は1994年に刊行されている。著者のペンローズは宇宙論上の業績で2020年にノーベル物理学賞を受賞している。

要するに、AI(=人工知能)なるものに対する批判的論評である。当時は、まだ最近の「生成AI」は未登場であったが、それにもかかわらず、あらゆるAIに対して当てはまる根本的問題意識に、物理学の視点から解答するものになっている、解答というより疑念になっている、こういう受け取り方はまだまだ可能だと思う。

なので、AI進化の発展史はまだまだ続く、今後も多くの山があり壁があり峠があると、予想しておくべきだというのが、小生のAI観、ロボット観である。

その中の第3章『数学と実在』という章であったが、末尾にこんな文章がある:

……数学については、少なくともより深遠な数学的概念については、他の場合に比べて、玄妙な外的な存在を信じる根拠はずっと強い、と私は感じないではいられない。このような数学的アイデアには、芸術あるいは工学に期待されるものとはまったく異なる、有無を言わせない独自性と普遍性がある。数学的アイデアが無時間の、玄妙な意味で存在しうるという見解を古代に提唱したのはギリシアの偉大な哲学者プラトンだった。そのためにこの見解はしばしば「数学的プラトン主義」と呼ばれている。

つまり数学的概念は数学者の空想ではなく『実在』である、と。実在する場所の特定は、未解決としても、とにかく「実在」している。こうした世界観は確かにプラトン的である。即ち、数学的な概念はプラトンの《イデア》であって、この世界にはなく、《イデア界》に実在する、と。こんな哲学のことである。

その前の下り

彼ら(=数学者)は現実的な実在性のない、精巧な心的構成物を作り出しているに過ぎないが、……それとも数学者はすでに事実「そこに」存在している真理 ― 数学者の活動とはまったく無関係に存在している真理  ―  を本当に暴き出しているのだろうか。

… …

数学には、「発明」というより「発見」という言葉の方がはるかに適切な事柄がある。…このような場合には、数学者は「神の業」にぶつかったのだという見方をすることもできる。

このタイプの思考と、プラトンが『国家』や『ゴルギアス』で展開している思考は、まったく同じ形式を共有している。

1572年にラファエル・ボンベリが『アルジェブラ』と題した著作の中で、カルダーノの(3次方程式の根に関する)研究を拡張し、複素数の代数を実際に研究し始めた…

現実には「存在するはずもない」虚数が、数学で使われ始めたことをどう観ればいいかで、著者の立場を述べているわけである。


この本を読んだ当初には、まったく注意しなかったが(読書はそんなものである)、改めて読むと実に深いことを書いていたわけだ。

で、改めて欄外にこんなメモを書き加えておいた:

事実としてそこに存在する真理だが観察はされない。西田幾多郎は純粋経験による認識にだけ実在性を認める。両者の関係はいかに?鈴木大拙の「霊性」か?

人間が作ったものは全て無常で永遠のものではない。神の業は永遠に不変である。真理とは変わるものでなく、変わらないものである。

素数は人類がいようといまいと、素数はこの世界に存在していた。ピタゴラスの定理がユークリッド空間において真理であること自体は、たとえこの世界が消失しても、真理であることに変わりはない。

こんな事を鉛筆でメモ書きした。

上のメモ書きにもある鈴木大拙だが、同じ岩波文庫にあるとはいえ『浄土系思想論』は豊かな実質がこもっているが、最高峰の定評がある『日本的霊性』は昭和19年に大衆向けに刊行されたためなのかレベルが低い(と勝手に判断している)。

『浄土系思想論』の冒頭には、結論の主旨が箇条書きされているので、二点だけ抜粋しよう:

  1. 極楽(=阿弥陀仏が主宰する浄土世界の一つ)は霊性の世界で、娑婆(=現に生きているこの宇宙)は感覚と知性の世界である。ここに霊性というのは感覚や知性よりも次元を異にする主体なのである。感覚は物の世界の働きを、知性は分別をその性格としている。
  2. 極楽を知性と感覚の方面より見る限り、物質的なもの、即ち時間的・空間的となる。それではどうしても本当の「安心」が得られぬ。「安心」は霊性に属するものである。

この二つより適切な浄土観を小生は読んだことがない。

このページの上にも何かメモ書きがしてある。判読してみるとこう書いてある:

感覚と知性では認識できない。故に経験では認識できない? → カントの神と同様。霊性なる働きを人間はもっている?誰でも?霊性の働きでのみ認識できるのか?

こんな事を書いてある。

鈴木大拙は、感覚や知性で「浄土」や「極楽」の実在をとらえられない、と。そう述べている。が、この世界に存在するはずもない数概念を、数学では理性を用いて使いこなしているわけだ。

空想だと思われる数概念を使うことで、実際にこの世界の理解が深まる事象が多々ある。とすれば、この世界には存在しようがない数だが、この世界の背後、というかこの世界の「現象界」の背後に実在していると考えるよりほかはないであろう。これが数学的プラトン主義の骨子であった。

同じように、「浄土」という概念がある。それは此の世界から直接に行ける世界ではない。が、その実在性を当然のように考えて宗教哲学の中で使うとしても、直ちに空想とは言えないわけである。

鈴木大拙がいう「霊性」に頼らずとも「知性」のレベルで議論するとしても、存在論として浄土を否定することは無理である。その実在は、人間の(というより、全ての衆生になるのだが)この世界の全体像について、よい世界観を提供するのか否か。この議論次第であるという理屈になる。

つまり、「浄土」なる世界については

  • その存在論は超越的世界として理性的に受け入れ可能
  • しかし、形態論としては、時間や長さ、大きさ、色・形など感覚的とらえ方をするわけにはいかないので、経典では色々な言葉で表現されているが、すべて感覚的であり不適切。
  • 機能論としても、例えば「浄土三部経」で述べられている内容は、(当然ながら)荒唐無稽。不謹慎(?)な事を敢えていえば、浄土に多々ある中の一つである「極楽」という世界だが、その名称の割にはそれほど安楽で面白そうな所ではない。
  • ただ、価値論としてみるとき、つまり此の世でいま生きている人間が目指すべき世界なのか、言い換えれば阿弥陀経のいう『応当発願 願生彼国』、即ち

信仰心のある立派な若者たちと立派な娘たちは、かの仏国土(=極楽浄土)に生まれたいという誓願をおこさなければならないのだ

と。ここまで強く願うに値する世界なのか、極楽浄土は?この点は、もっと研究の余地ありではないか。「厭離穢土」というが、それほどにまで「厭離」するべき世界なのか、この世界は?こういう疑問である。実際、生まれ変わっても、この世で人間としてまた生きたいと願っている人間は数多くいるに違いない。『輪廻を離る』どころか『輪廻に執着する』人は、案外、多いのだろう。この現実をどう見る?

  • 最後に、検証可能性という点もある。とはいえ、そもそも観察不能な超越的対象についてどんな検証を行えるのか?検証するためには、そこから導かれる反証可能性のある仮説を立てるしかないわけである。これがない限り、議論に使うのは自由だが、実在性については未確認ということになる。つまり、浄土を目指す他力信仰は、今もなお、《信》こそが最も大事な《難信之法》であるわけだ ― だからこそ「宗教」に分類されてもいる。

今のところ、科学的には(?)こんな風に整理しているところです。

今日は、数学的プラトン主義から他力信仰の基礎となるプラトン主義へと迷走し、最後はトランプ大統領のような

何かいいことはあるのか?

と、そんな風に終わってしまった。これまた覚え書きということで。

 

2025年3月3日月曜日

ホンノ一言: ホワイトハウスの悲劇を英誌はどう見たかの一例

ずっと以前、イギリスは「世界の歴史の黒子役」と形容したことがある(例えば、これこれ)が、今回の米国・ホワイトハウスを舞台にした悲劇というか、喜劇というか、これについて、英誌・The Economistは、

これは"manufactured fight"(=仕組まれた戦い)だった

と観ているようで、早速こんな風に概括している:

Even deputies from Mr Zelensky’s inner circle agreed that it had been a disaster. Some reasoned the president had been tired, three years into war and a long transatlantic flight. He had been provoked into a manufactured fight. “J.D. was the problem,” said one of them. “Zelensky had to show strength to be credible for negotiations, but the emotions were too much.” A senior Ukrainian security source said Mr Vance seemed to be pleased that the negotiations never even happened. “As a wrecker, Vance had been well prepared,” he says. “He did his thing professionally.”

At the end of the shouting match, Mr Trump quipped, “This is gonna be great television.” The president of Ukraine scowled as he sat with his hands clasped. Mr Vance smirked. His work was done. 

Source: The Economist
Date: Feb 28th 2025
URL: https://www.economist.com/europe/2025/02/28/a-disaster-in-the-white-house-for-volodymyr-zelensky-and-for-ukraine

ウクライナのゼ大統領、英国人の目には『仕組まれた戦い』(=manufactured fight)に絡めとられたと映ったようだ。

マ、罠に落ちたと云う方が分かりやすい。

終わった時、副大統領はニヤリと笑い、ゼ大統領は顔をしかめた。彼は仕事をした、と。

中国人なら「欺計」とでも呼ぶようなプランである ― 目的は当然のこと「ゼ大統領の排除」であるのは明白で、欧州側の思惑とは別に、アメリカはとっくにそう決めて、準備万端、練っていたのだろう。TVを観ていたヨーロッパ首脳にはアメリカ側の意図が伝わったはずである。

その後の英首相との協議、英国王との謁見はイギリスの仕事である ― 多分、マクロン仏大統領はどんな役を演じるのか、イギリスが(アメリカと裏で相談しながら?)決めるのだろうと憶測している。古来、イギリスの「二枚舌」(?)には定評がある。

グレアム・グリーンやイアン・フレミング、ジョン・ル・カレを生んだ国民性は伊達じゃあない。

思うことは、一つ。

国の運命をこうして外国の胸先三寸で決めるなんてことは、情けなくて、情けなくて、金輪際、いやだネエ・・・ということだ。

戊辰戦争勃発のとき、徳川慶喜がフランスの支援申し出を断ったというエピソードは、この日本を救う大英断であった。改めてそう思います。


念のため、引用した英文にGoogle翻訳がつけた和訳をコピーしておく:
===
ゼレンスキー氏の側近の議員たちも、これは大惨事だったと認めた。大統領は戦争が始まって3年、大西洋を横断する長い飛行で疲れていたと推論する者もいた。大統領は挑発されて仕組まれた戦いに巻き込まれたのだ。「問題はJ.D.だった」と議員の1人は語った。「ゼレンスキー氏は交渉で信頼を得るために強さを見せなければならなかったが、感情が勝りすぎた」。ウクライナの安全保障当局の高官は、交渉がそもそも行われなかったことにヴァンス氏は満足しているようだと語った。「破壊者として、ヴァンス氏は十分に準備していた」と同氏は言う。「彼はプロとして自分の仕事をした」。

口論の末、トランプ氏は「これは素晴らしいテレビになるだろう」と皮肉った。ウクライナ大統領は顔をしかめ、両手を握りしめて座った。ヴァンス氏はニヤリと笑った。彼の仕事は終わった。
===

いつも思うのだが、海外のメディアが日本に参入する際の《言葉の壁》はもはやない。

Amazon Primeの会員数が日本で増加中であるのと同じく、アメリカの"The New York Times"や"Washington Post"、イギリスの"The Telegraph"や"The Guardian"をネットで購読する日本人もこれから飛躍的に伸びていくのではないかと想像している。

とにかく海外メディアは低価格で高品質の情報を提供しているのが強みである。

AIの進化速度と放送技術の進歩を考えると、10年後には、紙媒体のメディアだけではなく、音声媒体である(先ずは)ネット動画でも「言葉の壁」が消失している可能性は高い。国内のTV、ラジオは、世界のメディアとの競争を迫られるだろう。

2025年3月1日土曜日

ホンノ一言: 日本がウクライナにしてあげられる事はあるのか?

たとえ新聞やTVを相手に「情報断ち」をしても、ネットからは断片が入って来る。いくら目張りしても、どこかの隙間をみつけて家の中に入ってくるカメムシに似ている。

今日も

ウクライナとアメリカの平和交渉は混とんとしてきました。

Source: アゴラ AGORA 言論プラットフォーム

URL: https://agora-web.jp/archives/250228222304.html 

こんな一文が目に入った。

昨日、ホワイトハウスを舞台に激論を繰り広げた挙句に決裂した、アメリカ=ウクライナ会談のことである。その後、上のような記事が出回っているわけだ。


確かに「混沌」としてきた。が、これはいわゆる将来予測でメシを食ってきた野次馬の目線からいえば、「線形的予想」、というか「単純な外挿予測」である。

野球で3回までに2点差がついた。とすれば、9回までやればその3倍、6点差がつく。先行されたのなら負けてしまう。こう考える人は悲観論者だ、先取点をとって勝っているなら6点差で楽勝だ、そう考えるなら(とんでもない)楽観論者というわけだ。

世界を予測するのに単純な外挿予測は当てはまらない。


今の場合、

混とんとするより前に、ウクライナという国が消滅してしまえば、ウクライナとアメリカの平和交渉も自動消失する。

情勢は、予測によって動くのではなく、力学によって動くものだ。戦争をしているなら軍事力と外交手腕に着目して将来予測をするべきだ。

「混沌」などと言う楽観的予測にはとても賛成する気になれない。


アメリカの軍事支援は西側ヨーロッパ諸国がまとまっても(量的に)補えない。イギリスは(最初からそうだったと観ているが)賢く立ち回っているようであり、ドイツはもう既に青息吐息というところ。そもそもドイツはロシア融和外交で経済的繁栄を築いて来たのである。開戦当時から在職しているマクロン仏大統領は、昨年の選挙で与党が大敗北して昨年末には4人目の首相を任命したばかり。最大の政敵である極右政治家・マリーヌ=ルペンを検察を使って不正経理で葬り去ろうとしている真っ最中である。これでは国内を統治するので精一杯だろう。後は推して知るべし。ハンガリーなどは最初からロシアに同情的である。

日本も太平洋戦争で酷い負け方をした。試みに<太平洋戦争 戦没者>で検索すると、

太平洋戦争における日本の戦没者数は、約310万人とされています。そのうち軍人や軍属は約230万人、民間人は約80万人です。

と表示される。

次に<太平洋戦争 1944年以降 戦死者>で検索すると、

太平洋戦争で1944年以降に戦没した日本人の数は、約281万人です。これは全戦没者数の約91%を占めています。

という結果になる。

太平洋戦争は1941年12月に始まり、42、43、44年と続き、45年で終わったが、戦没者の90%超が後半1年半に集中しているわけだ。

1944年1月時点は、まだサイパン島が落ちておらず、日本の敗戦が「決定的」だとまでは言えなかった。そこで真剣に和平を求め停戦していれば、戦没者の9割以上は助かったかもしれない。

しかし日本は和平を求めなかった。何故なら日本には日本の正義があったからである。

戦争を支配する論理、重視するべき計算とはこういうものである。


劣勢が決定的になった後に停戦を選んでも"too late"であるのは歴史が教えてくれている。日本人が経験した歴史をウクライナ指導者に伝えることも日本として出来る事の一つであるには違いない。『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・』といった精神は、ウ国の歴史全体がひょっとすると、そんな歴史であるかもしれず、言いたいことが伝わる可能性があるというものだ。

あと一月もたたないうちに、『ゼレンスキーはもはや狂人だ』と、そんな風評がアメリカ発で世界に拡散されていくのではないだろうか?

予想されうる状況ではあったものの、憐れムベし、憐れムベし……

2025年2月28日金曜日

ホンノ寸評: 日本伝統のイイとこ取りの発想で行き詰っているのかも?

2月最後の投稿は寸言だけ。

最近、この日本で暮らしている人たちは

増税が話題のときは、政府不信の無政府主義者

授業料無償化、医療費補助、少子化になると、国の役割を重視する社会主義者

政府のあり方について話すときは民主主義者

大企業を語るときは、独占排除、競争促進の自由経済論者

中小企業の経営苦をみるときは、公的支援を主張する積極的介入論者 

といった具合に、何を話すかで色々な《イデオロギー》を使い分けている、一言でいうと《イイとこ取り》で国や制度と自分の生活とを関係づけている(という印象を受けてます)。


日本社会を造ったときの柱や梁、屋根、壁といった基礎部分が、古くなり、互いに整合しなくなり、つぎはぎを繰り返している内に、スパゲッティ化して絡み合い、もつれあい、もう日本人自らも合理的な建て替えができない ― 散らかり放題の中で平気で暮らしている人たちの低い知性を物語っているようで実に恥ずかしいのだが。まるでモンスターのような複雑怪奇な法制度・文明の国になっている……、そんな感覚がする……、これは小生だけだろうか?

マア、「だけ」なのかもしれないネエ。


2025年2月24日月曜日

ホンノ一言: 「共通の見方」をこそ疑うべきだという一例

トランプ米政権のスタートを契機に、ロシア=ウクライナ戦争停戦への道筋が見えてきたというので、大仰にいえば世間は《騒然》としている。

どうもこんな世情を見聞きするにつけ、日露戦争を知らなかったという日本の天文学者に、たまらなく羨ましさを感じる。

先日も投稿したように、新聞、TVについては基本的に《情報絶ち》をして、それなりに快適なのだが、ネット・アクセスを遮断するわけには中々いかない。どうしても情報の断片は視野に入って来るのだ。


こんな断片もあった:

国際社会は外交と制裁を駆使し、ロシアのプーチン大統領による「力による現状変更」を阻止しようとしてきたが、戦況はロシア優位に傾いている。

Source: Yahoo! JAPAN ニュース

Original: JIJI.COM

Date: 2/24(月) 0:46配信

URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/1c42f042d27ba64824eb46bc6938632e82fe40df

この文中にある「国際社会は外交と制裁を駆使」という所だが、何も国際社会が一致して対ロシア制裁をしているわけではない。多数派ですらない。間違った事実認識だ。「少なくとも価値観を共有する西側社会は……」とでも言い直すべきところだろう。

自らが立脚する立場を無条件に肯定して、その前提には何も触れることなく、特定の判断を押し付ける報道は、《自省とは無縁の独断》というもので、もう卒業してもいいのではないだろうか?


真っ赤な嘘を嘘と知るのは簡単だ。しかし、本当らしく語られる意見が嘘であると見破るのは難しい。語る本人がそう思っているならなおさらだ。

社会が混乱する時代には、その昔、古代ギリシアの哲学者プラトンが《ドクサ》(=勘違い、思惑、独断、etc.)と呼んだ、こうした言説が広まるものである。

《多数者の見方を否定》することが出来る人、《真理》を語る人は、いつの時代でも少数である。ソクラテスはただ独りしかいなかった。少数の人が語ることに耳を傾けることこそ重要であるのが現代という時代だ。


2025年2月23日日曜日

断想: 自らが、自らに対して悪戦苦闘を強いるのは、パワハラではない

今日は月参りで近くの寺から住職がやってきて読経をして帰る。帰りしなには、拙宅が属する浄土系宗派の発行している新聞を置いて帰る。

その中の記事にこんな下りがあった:

授業で学んで以来、心に刻んでいる言葉がある。それは「一丈の堀を飛び越えようと思う人は、一丈五尺の堀を飛び越えようと思って励まなければならない」という法然上人の教えだ。

努力に努力を重ねて、自分の力で、未来を切り開いていくしかない。だから、私は悪戦苦闘という言葉が好きです。

NHKで放映されているアニメ『忍たま乱太郎』の原作・『落第忍者乱太郎』の作者である尼子騒兵衛の寄稿である。

何だかゲーテの名句

知恵は静寂の中で、力は激流の中で

を連想させる。


一丈の堀を超えるのを目的にしている選手に

一丈五尺の堀を超える練習をしろ

と。師の立場を利用して、弟子にこんな風な命令をすれば、弟子からパワハラだと訴えられて、指導者生命を失う師匠が増えているのが、現代日本の世相である。

とはいうものの、この寄稿の主旨は現代日本の世相を嘆くことではない。

先日は、法然上人が暗い夜に灯火がなくても、眼から光を放って読書をされるエピソードをとり上げました。それを覗き見していたお弟子さんに気づかれた法然上人は、『よく勉強なさい』というようなことをおっしゃるのです。覗いていたお弟子さんを叱るのではなく、『勉強しなさい』と優しく言うなんて先生っぽいですよね。土井半助のモデルにさせていただいてよかったなと思いました。

こんな下りも後に続いているので、《良い師匠》というもののイメージを表現したかったのだろうと推察できる。


一丈を超えようとすれば、一丈五尺の練習をする必要がある。それは師には分かっている。しかし、指導される弟子が自らそのことを理解しなければ、強制労働と同じだ。強いられた悪戦苦闘は苦しむ弟子にとってパワハラである。

しかし、自分の意志で自分に課するのであれば、同じ猛練習でもパワハラではない。

なぜこの練習が必要かという理解の代わりに、ただただ師を信じるという《信》であってもよい。とにかく

自分が自分にパワハラをすることは絶対にない

どんな荒行も、ヤル気になればやる。それが向上しようと決意した人間というものだ。名師匠というのは、むしろ弟子が無茶をするのを止めて、怪我無く才能を開花させることを唯一の目標にする人のことを言うのだろう。

一般に「ハラスメント」とは、本質的には、他人の人格の否定という形をとって表れる。

自分の不足する点を自覚し、向上心を感じ、自ら設定した理想を目指して、自らの意志で行う修行は、どれだけ厳しいものであっても、自分の意志のとおりに行為しているので、完全な自由を享受している。故に、ハラスメントの被害者ではありえない。

2025年2月22日土曜日

ホンノ一言: ニューヨーク・ダウ株価が暴落したってネエ・・・

昨日のニューヨーク・ダウ平均が▲748.63ドルと大幅に下落したというので、俄かに先行き不安が高まっている……。少なくともそんな報道である。

今朝の日経も

21日の米株式市場でダウ工業株30種平均は続落し、前日比748ドル(2%)安の4万3428ドルで終えた。下げ幅は2024年12月中旬以来、約2カ月ぶりの大きさとなった。同日発表の米景気指標が想定以上に悪化し、リスク回避の株売りと安全資産とされる米国債への買いが広がった。米金利の低下で日米金利差の縮小が意識され、円買い・ドル売りも加速した。

Source:日本経済新聞

Date:2025年2月22日 5:29 (2025年2月22日 6:29更新)

URL:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFL21E710R20C25A2000000/

このように

米景気指標が想定以上に悪化

これが株価下落の背景だという。

いわゆる《万年悲観派》は、『株は必ず下がるもの』と信じ込んでいるので、株には手を出さない ― その代わりに、宝くじを買ったり、趣味の競馬で馬券を買ったり、釣り道具にカネをかけたりする。そうしたタイプの御仁は「それ見た事か」と思っているかもしれない。

ただネエ・・・

先行指標として小生が愛用している長短金利スプレッドは



URL: https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/us_main_economic_indicators/

このように長期金利上昇によってスプレッドが上がっているが、しかし、そもそもずっと短期高・長期安の逆イールドが続いて来ていた。逆イールドは金融引き締め、景気後退の典型的症状だ。それが長期高・短期安の順イールドに転じてきている。これを悲観的に観なければならない理由を小生は知らない。

実際、アメリカの雇用状況だが「非農業雇用者数の対前月増加数」でみると


URL: 上図と同じ

ずっと継続していた低下トレンドから横ばい、反転と、足元では強めの動きが見てとれる。図は省略するが、失業率も昨年夏以降は、それまでの上昇トレンドが頭打ちに、昨年末からは明確な低下へと基調が変わってきている。

長短金利スプレッドという先行指標は強め、雇用動向という遅行指標も改善への動きを示している。
これで何故に先行き悲観的になるのでしょう?
そう見ています。

実際、アメリカの景気判断の老舗であるThe Conference BoardのLeading Economic Indexが1月分まで公表されているが、
“The US LEI declined in January, reversing most of the gains from the previous two months,” said Justyna Zabinska-La Monica, Senior Manager, Business Cycle Indicators, at The Conference Board. “Consumers’ assessments of future business conditions turned more pessimistic in January, which—alongside fewer weekly hours worked in manufacturing—drove the monthly decline. However, manufacturing orders have almost stabilized after weighing heavily on the Index since 2022, and the yield spread contributed positively for the first time since November 2022. Overall, just four of the LEI’s 10 components were negative in January. In addition, the LEI’s six-month and annual growth rates continued to trend upward, signaling milder obstacles to US economic activity ahead. We currently forecast that real GDP for the US will expand by 2.3% in 2025, with stronger growth in the first half of the year.”

Source:The Conference Board

Updated: Thursday, February 20, 2025 

URL:https://www.conference-board.org/topics/us-leading-indicators

このように解説されている。Google翻訳にかければ
「米国のLEIは1月に下落し、過去2か月間の上昇のほとんどを反転しました」と、コンファレンス・ボードのビジネスサイクル指標担当シニアマネージャー、ジャスティナ・ザビンスカ・ラモニカ氏は述べています。「消費者の将来のビジネス状況に対する評価は1月に悲観的になり、これが製造業の週労働時間の減少と相まって、月次の下落を牽引しました。しかし、2022年以降指数に大きく影響していた製造業の受注はほぼ安定しており、利回り格差は2022年11月以来初めてプラスに寄与しました。全体として、1月のLEIの10の構成要素のうちマイナスだったのはわずか4つでした。さらに、LEIの6か月および年間の成長率は引き続き上昇傾向にあり、今後の米国経済活動に対する障害が軽微になることを示唆しています。現在、米国の実質GDPは2025年に2.3%拡大し、上半期の成長率はより高くなると予測しています。」
和文として少々不自然な箇所もあるが、Googleによる英文和訳の信頼性は高いと評価できる。

要するに、先行きについては強気にみているようだ。

アメリカの国債市場で売りが殺到(→長期金利上昇)して、みな吃驚したというのが実相ではないか。 ← この箇所、勘違いです。以下書き直します。

引用した日経記事にあるように、市場参加者は
リスク回避の株売りと安全資産とされる米国債への買いが広がった。米金利の低下で日米金利差の縮小が意識され、円買い・ドル売りも加速した。
こんな風に行動したようだ。

しかし、上にみたように、景気の先行きについてリスクが高まっている景況ではない。『日米金利差縮小を意識して円買い・ドル売り』とな?ふ~~む、何か吃驚して狼狽している感じだネエ……


戦争に熱心だったバイデン前大統領のあと、トランプ現大統領も家計、企業向けに大規模な減税政策を予定しており、財政赤字拡大・国債増発・長期金利上昇がトレンドとなるであろうことは、既に予想済みである。

景気は良くなるが、金利は上がる ― おそらく物価も。

アメリカ経済のこんな歩みの中の一コマであるのだろう。そう観ています。


2025年2月21日金曜日

断想: 公選法違反の捜査(と判定?)を警察・検察が担当するという体制はありですか?

最近の投稿でも触れているが、民主主義社会の健全な運営は、次第に困難になりつつある時代だと思っている。それが、情報技術上の技術革新とその未成熟にあるのかどうか、まだ明確には分からない。移動や移民の拡大、宗教対立、経済格差拡大、教育の質低下など色々な要因がありうる。

それはともかく、

「政治家」(?)としてブレイク中の石丸伸二氏についてこんなネット記事がある ― ネットとはいえ、既存大手メディアがネット・チャネルで流している記事ではある。

昨年7月の東京都知事選で次点だった石丸伸二・前広島県安芸高田市長(42)は21日、記者会見を開き、決起集会をライブ配信した業者への支払いが公職選挙法違反の疑いがあることについて、「違反の恐れはあると思うが、(業者への)報酬として支払ったとは考えられない」と述べた。

 石丸氏側の説明によると、石丸氏の陣営は知事選投開票2日前の昨年7月5日に決起集会を開催した。集会の模様をライブ配信しようと、陣営幹部が都内の業者に約97万円で発注したが、陣営内から「法令違反になる」との意見が出たため、直前に発注を取り消し、キャンセル料として発注額の全額を支払った。集会当日は業者の代表らがボランティアで配信を行った。

キャンセル料が選挙運動の対価とみなされた場合、車上運動員らを除き選挙運動を原則無報酬と定めた公選法に抵触する可能性が出てくるとみられている。石丸氏は会見で、陣営幹部と業者が LINEライン でやり取りした記録を示し、業者はボランティアで配信を行ったことを改めて強調した。

この問題を巡っては、市民団体が同法違反(買収)容疑での告発状を東京地検に提出している。

Source:読売新聞オンライン

Date:2025/02/21 13:03

URL:https://www.yomiuri.co.jp/national/20250221-OYT1T50066/

いうまでもなく公職選挙法は、民主主義社会の基幹である公職の選挙において、各立候補者の選挙運動が合法であるか違法であるかを判断するための根拠である。

その判定を下すに際して、上の引用文にあるように

……陣営内から「法令違反になる」との意見が出たため、…キャンセル料…を支払った…キャンセル料が選挙運動の対価とみなされた場合、…… 公選法に抵触する可能性が出てくるとみられている。

このように、『〇〇が△△と見なされた場合、公選法に抵触する可能性が出てくる云々』という風に、権力機関が「見なしたり・見なさなかったり」することで、その立候補者の行為が不正であった「可能性」が出てきたり、なかったりする、・・・


こんな不明瞭な判定基準の運用を日本人はなぜ公的権力の裁量に委ねて平気なのでありましょう?小生の好みには全く合いませんが、大半の人はこれがイイと思っているのかな?

しかし、こうした姿勢は

監督する権力機関には性善説を、立候補している民間人には性悪説を

こんなモラル感覚を日本人はもっていることになる。「市民感覚」が薄弱にして希薄であること限りなしとはこのことではないか。


監督する権力機関に性善説をとるのは自由だが、現実には、これとは正反対の選挙例が世界には多いのではないか。日本だけが全くの例外ではないだろう。

また、立候補する民間人は、ホンネでは不正を考えており、統治機関に指導監督されて初めて選挙は清浄化されるのだ、と。日本国民をこう観るのがホントに正しいのだろうか?

日本人の自然な倫理に基づく行動が、法規上「不正」となるよう、そもそも条文がそう書かれている側面はないのだろうか?


むしろ為すべき事は、公権力が恣意的な判定をして、統治側にとって「望ましい状態」を意図的に実現しようとしているのではないかという「疑惑」を払しょくすることである。

統治機構に沿おうとする意図が、例えば「招かれざる人物を排除しようとする一部勢力」という形態をとるのであれば、それこそ昨今の海外事情に似てきている兆候である。

いずれにせよ選挙には、監督する側、立候補する側、これを取り巻く大衆、各方面に不正を犯す動機がある。だから海外では常態化しつつあるが、選挙は不正選挙である疑惑が常にあるというべきだ。故に、その疑惑を払しょくすることが非常に重要になる。


だれが疑惑を払しょくするって?

ジャーナリズムに決まっているでしょう。

なので、上に引用したような記事を読売新聞ともあろう大手マスメディア企業がネットで流すこと自体が、小生にはささやかな驚きであった。

立候補者の不正を疑うなら、告発者の不正をも疑うべきであろう。

公職選挙法そのものが、日本人の自由な政治参加と民意の自然な表れを阻害するものになっていないか。統治機構側の怠慢、というより隠された意図が働いていないか。

まさに眼光紙背に徹する目線が必要なのではないか。

以上、覚え書きまで。



2025年2月20日木曜日

ホンノ一言: ロシア=ウクライナ戦争にも「停戦」が見えてきたいま?

就任後まだ1カ月しか経っていないが、トランプ大統領によるロシア=ウクライナ戦争停戦への働きかけが活発になっている。

ただ、ト大統領の行動・発言は、奇抜。ロ=ウ戦争開戦後の、というより開戦前まで遡って以降現在までの「西側陣営」の理念と取り組みを文字通り「ちゃぶ台返し」するものだから、特にヨーロッパは唖然、困惑しているとも伝えられている ― おそらく退任したバイデン前大統領、ジョンソン元英首相辺りも怒り心頭というところだろう。

この戦争については、勃発直後に本ブログでも投稿しているところで、小生の(個人的)観方は一貫して変わらない。たとえば、こんな風である:

地域紛争は地域紛争として《局地化》しておけば、さして国際的なハレーションを起すことなく、一先ずは終息したに違いなく、ウクライナ発の過激派テロが予想されるにしても、それはモスクワにとっての危機、せいぜいがロシアにとっての危機としてマネージするべき事柄であったろう。

 一つの地域紛争が世界的な危機管理の対象にまで拡大したのは、言うまでもなく西側の軍事同盟であるNATOが(最終結果としては)一致してウクライナを軍事支援したからで、NATOに連なる親米勢力も様々な経済的支援に踏み切ったことによる。

なので、上に引用した投稿では現代世界版《応仁の乱》に例えてもみたわけだ。高尚な大義名分など、口先はともかく、最初からありゃあしませんて・・・

登場する人物構成についても、色々書いている: 

日本はアメリカの同盟国であるせいか、つまり「西軍」のメンバーであるせいか(ネットを含めて)世間の反応は「東軍憎し」で

正義は勝つ!勝たねばならぬ!!

の一色だ。が、本質的には滑稽の一言。要するに

政治の失敗の責任をとるべきところが、開き直って「正義の戦い」を外に拡大している

こういう事でしょう、と小生には思われる。つまりは、プーチン大統領、バイデン大統領、お二人とも次の選挙のことが心配なのである。

これが物事の本質だろう。

この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

そうそう・・・ウクライナのゼレンスキー大統領。狂言回しの役回りだ。彼もまたホンネで何を考えているか分からない御仁だ。それと常に見え隠れする《イギリス》という世界歴史の黒子役、今回も仕事をしているナアという印象だ。

 ウクライナのゼレンスキー大統領を《狂言回し》にたとえているが、「選挙のことが心配な御仁」という点では、いまそれが口にされ始めていて、気がつけば崖っぷちというところ。イギリスのジョンソン元首相は暗闇に隠居して、それこそ文字通りの《黒子》と相成った。

政治には素人のゼ大統領の反ロ感情を利用して、対ロ戦争へと(手をとらんばかりに?)誘導していった米英の主要人物は今や選挙の洗礼を浴びたり、スキャンダルの沼に沈んだりで、すでに過去の人。とすれば、世のバランスを考えれば、主役のゼ大統領も選挙の洗礼を浴びるべき時が来たようだ。いよいよ「ここが年貢の納め時」ってことでしょうか。

開戦に至るまで、ゼレンスキー大統領にジョンソン元首相はなんと言ったのか?ジョンソン元首相はアメリカのバイデン大統領とどんな話をしていたのか?フランスのマクロン大統領、ドイツのショルツ首相はどんなふうに脅迫(?)されたのか?等々

小生はこの辺を知りたい。《歴史の秘話》というよりオラル・ヒストリーとして、どこかの国の歴史学者がインタビューをして記録を遺してくれれば、後世の人々が恩恵を享けること極めて大であろう。

今後、心配になるのはゼレンスキー現大統領の身の上、行く末であろう。英米は決して氏を見捨てるべきではあるまい。

2025年2月18日火曜日

ホンノ一言: 米メディア"substack.com"にサブスクしました

先日も投稿したように、Paul KrugmanがThe New York Timesに寄稿してきたコラム記事が昨年末を限りに終了してしまったことを、とても残念に感じていた。他の場所で自らの見解は公表し続けるということだったので、どこかを探索していたのだが、今日 "substack.com" を見つけた。

早速、Krugmanの投稿をサブスクライブした。同時に、彼が推薦するBrad de Long他数名もFollowしておいた ― こっちは全文ではない。毎月700円ほどである。

レディメイドの正解がないように思われる色々な問題をどう考えるか。基本的な社会観に違和感を時に感じるにせよ、というか、だからこそ、一流の専門家の意見は有益だ。それを随時読むことができるのは、それも1000円未満の購読料で読めるのは、普通の市民にとって価値あるリソースだと言うしかない。

英語圏で流通している知的資産の分厚さにはとても敵わない。英語が苦手のときは「Google翻訳」がある。もはや《言葉の壁》はないのである。


日本語文化圏にも歴史を通して蓄積された優れた遺産はあるが、あくまでも「遺産」であって、現世代が創造しつつある活動成果ではない。

今日を生きるには、今日どんな知的成果を出しつつあるかが、決定的である。英語文化圏の活力を見るにつけ淋しくなるのは小生だけではないと思う。


20世紀末まではこんな惨状ではなかったと記憶している。それは町の書店に入って書棚を一覧するだけで感じる。Amazonの日本語書籍を検索しても同じだ。酷いものである、新刊本は。

日本国内の学校教育、出版業界、新聞メディア界のどれもが内部から瓦解しつつあるということなのだろうか?

イチロー外野手、ダルビッシュ投手や大谷選手がMLBで、はたまた三苫選手や久保選手がサッカー界で、八村選手がNBAで、その他多くの人材がスポーツ界では才能を開花させている。これを思うと、現在の日本の知的衰退ぶりは、人材の枯渇では決してなく、制度的・システム的な欠陥によって潜在的な能力が花開いていない。そう考えるべきだろう。

2025年2月16日日曜日

覚え書き: 大方のテレビニュースは「なくとも可」のしろものであったと分かり・・・

先日の投稿で『ブラックボックス・ダイアリーズ』を話題にしたが、既存の大手マスメディアは(小生が視たり聞いている範囲では)「カン無視」を続けている。ところが、どうも此の作品の中の映像使用に関して「法的トラブル」が発生しているようで、ネットでは「事件」として段々と盛り上がってきている。

ドキュメンタリー映画として米国アカデミー賞にノミネートされた日本人初の作品に関わる不祥事であれば、普通なら民放TVがほうっておくはずがない。可笑しいなあ・・・と思って観ているところです。


ネット記事では、(いまのところ)集英社辺りが、映画を作成した伊藤さん側にかなり落ち度があるとか、守秘義務に違反しているとか、人権侵害をも犯している可能性がある、などと、何やら、兵庫県の斎藤知事に対して公選法違反疑惑がその後も報道され続けているのと似たアプローチで、というか(こんな単語はないが)同じ《報道モデル》を駆使して、対象を追っているように観える。

いずれスポーツ新聞や女性週刊誌が続くものと予想される。


外界からみていると、真相がよく分からない。一方は影で、一方の姿だけが見えていて、何やら格闘をしていて、しかし肝心な手足がよく見えない。そんな情景である。

追求する側も、追及される側も、報道をするなら氏名と写真・略歴を公開して、堂々とやりあってほしいものだ。

それが出来ないなら、公開法廷で決着をつければよい。

現代という時代は、尊厳をもって生活している個人が、余りにも簡単に名誉を棄損されたり、生活基盤を奪われたり、一場のドタバタ劇の登場人物に仕立てられたり、世間の興が覚めた後は、そのまま放置されるということが、あまりにも多い。

そもそも人であれ、企業であれ、理由の如何を問わず、契約もせず他人に損失を与えてはならない。損失を被った個人にその損失を受忍する義務はない ― 甘受するなら考えあってのことだろうから他人がとやかく言うべきではない。人の紛争で儲けるのは職業資格をもつ弁護士もしくは弁護士が経営する法律事務所に限るべきで、メディア企業が紛争から利益を享ける資格はない。紛争に関わる業務に第三者として従事するには資格が求められている。

報道が公益に資するというなら、コストのみを計上し、自社利益を含めるべきではない。

戦争を含むあらゆる紛争の報道事業が、プロフィット・センターになるのは、人間として守るべき倫理に反するはずだ。

本日は、この二点を覚え書きにしておきたい。


人に対して損失を正当に与えうるのは憲法・法律で認められた機関だけである。私刑は処罰の対象だ。この大原則を徹底するべきだろう。

戦後日本の民主主義は、《危険な民主主義》に劣化してしまったようだ。

特効薬は限られるが二つは直ぐに思いつく:

  • 《報道規制》を合法化する新法を設け、規制が認められる要件を定める。
  • 名誉棄損の《損害賠償額》として天文学的数字を(一度で十分だが)判決で示す。

上の二つのいずれかが実行できれば、今日のような憂うべき社会状況は原理的に消失するはずである ― 上の方法は副作用が大きいので、規制対象以外の報道は自由であることを徹底しなければならない。


小生は、最近になって早朝の読経が習慣になり、早寝早起きに徹している。だから、いわゆるTVのニュース番組、ワイドショー番組はほとんど視なくなった。朝にNHKの報道番組のあと、15分程度カミさんにつきあって「モーニングショー」を視るが、後はTV画面から離れる。

意外なことに、それでも、まったく何も困らないことに気がついた。情報は、いくらでもネットから集まってくる。興味がわけば、ちょっと調べれば、多様な見解があることが分かる。この方がずっと良い。

《情報絶ち》、一度やってごらんなせエ、健康にイイですよ。

ずっと以前、投資コンサルタントから、大学の同僚になった人と話している時、初心者の新規契約者には

当分の間、株価を毎日チェックするのは、絶対やらないでください

そんな注意、というかお願いをしていたそうである。

まったくその通り。

テレ東のWBSを視なくなったのは心残りだが、これもYoutubeでリカバーできる。大方のTVニュースは、なくとも可のしろものである。

【加筆修正:2025-02-17】

2025年2月15日土曜日

断想: 国制(=国の体制)で万古不易なものはない

前稿ではプラトンが『国家』の中で描写した民主主義の劣化・堕落について言及した。とはいっても、直ちにプラトンが反・民主主義者であったとはいえない。ただプラトンが生きた当時の民主主義の現実をみて、それを称賛する気持ちにはなれないという批判的心情が、著作からは伝わってくるだけのことである。

プラトンがまだ23歳であったB.C.404年、アテネはスパルタを盟主とする敵国に降伏し、27年間の長きにわたったペロポネソス戦争の敗戦国となった。

アテネでは早速に親スパルタの「三十人政権」が発足、「行き過ぎた民主制」は否定され、「貴族・富裕層を中心とする寡頭制」へと移行した。

ところが、一度は国政を主導する地位を得ていた民衆が「民主制の復活」を願ったことから、政情は常に不安定で、ついには政権内部で意見が対立、内部分裂し、粛清と暗殺が相続く事態となった。ついには、民主制支持派と寡頭制支持派との内戦に至ったが、調停が成立し、アテネは一応「民主制」へ戻ることになった。

しかし、内戦はアテネ市民を深く分断し、相互の猜疑心がながく尾を引くことになった。黄金時代が二度と戻ることはなかったのだ。

プラトンの師匠であるソクラテスの裁判と死刑判決は、そんな混迷した世相から発生した事件である。B.C. 399年、プラトン28歳の年であった。

『国家』でも詳説されているように、いわゆる「民主制」には良い所も悪い所もある。自由と平等、寛大な多様性、変化をおそれず進歩を求める気質の形成は、民主主義の最も良い所だと述べられている。反面、自由が善であると規定され、それが極端にまで行き過ぎると、行動を規制する者は全て悪となり、無政府状態を招く。一部を引用すると

先生は生徒をおそれてご機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し……若者は年長者と対等に振る舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者に自分を合わせて、面白くない人間だとか、権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て、機知や冗談でいっぱいの人間になる。

こんな社会状況を招くことになる。最後には、

人間たちに飼われている動物たちまでもが、……きわめて自由にして、威厳ある態度で道を歩く慣わしが身について、路上ではこちらからわきにのいてやらないと、出会う人ごとにぶつかってくる…

何だか現代世界の《ペット様のお通りでございます》といった風な「町の風景」を連想させるものとなる。

この辺りは、単に哲学書というより、『戦後アテネ世相編』と言えるような側面がある。

思うのだが、民主主義の長所が優勢な時代と短所が優勢な時代と、二つの時代は交互にサイクルを描くように交代するのではないかと思っている。

比較的、分配が平等な状態で、人口増加と経済成長が始まる時代は、成長の果実を広く薄く享受できる民主主義の方がうまく行く。自由を何より尊重する気風が広まる。

しかし、成長の持続は社会の不均一性を高める。

多様性の容認と社会の不均一化は、同じ現象の表と裏である。そもそも不均一であるにもかかわらず、全ての人間に等しい処遇を与えようとすれば、違いのマネジメントが必要になる。しかし「違いのマネジメント」は「区別のマネジメント」となり、やがて「差別のマネジメント」と識別困難になる。不均一を区別しながら、差別はせず多様化の名のもとにアウフヘーベンするなど、そもそも矛盾しているのだ。不可能とまではいわないが、そんなマネジメントは、自然なロジックとして、「統合されるべき社会」に最高の価値を与えることによって、肝心の「自由な個人」を否定する結果になりやすい。「リベラル左派」にとってのガラスの天井がここにある。

人民の独裁で混乱するよりエリートへの委任で安定する方がマシである。で、寡頭化する。不均一は差別ではなく正当化され固定化され、故に民主主義が終焉する。ちょうど古代ローマが共和制を廃して帝制へと移行したように。

共和制ローマも大いに発展したが、黄金時代は帝制移行後のいわゆる「五賢帝時代」に到来し、その頃ローマ帝国の領土は最大となった。民主制と経済社会の発展の間に相関はない(と思うのはずっと以前に投稿している)。上の二つのどちらか一方が、他方の原因でも結果でもない(と思っている)。国制の選択は、時代の要請に応えるための努力から結果として定まってくるものだと、理解するべきだろう。


どうも抽象的にいうと、こんな歴史観に共感を覚えるわけで、とにかく

(王制)、寡頭制、民主制、(独裁制)は自然に交代する。

 「体制遷移の法則」まで洞察できれば良いのだが、今のところ、こんな風に思う今日この頃だ。

2025年2月13日木曜日

断想: プラトンの人間観には一つ抜けている気がする

本ブログで何度も投稿してきたように、小生は古代ギリシアの哲学者・プラトンが好きである。いま読んでも、とても2400年程の大昔に書かれた著書だとは思えないほどの「今日性」、「現代的意義」を保ち続けていると感じるし、実際、哲学畑でいまなおプラトンの哲学が真剣な研究テーマに選ばれることが多いのも「ムベなるかな」と思う。

『ソクラテスの弁明』は早熟な中学生なら読む。高校生なら真面目に読めば難しい内容ではない。欠点は「面白くない」という点だろう。実際、小生も初めて『ソクラテスの弁明』を読んだときは、中途で放り投げてしまったものだ。

真面目に読み直したのは、他のプラトンの著作を読んでから後のことである。それで初めて、そこで伝えられている思想がクリアに理解できたのだ。

学校の課題図書の常連になっている割には、意外と面白くなくて、変に小難しく、感想の持ちようがないという点で、(個人的な勝手な感想だが)夏目漱石の『こころ』とプラトンの『ソクラテスの弁明』は、よく似ているナアと(実は)思っている。主人公が最後には死んでしまうところも同じだ・・・。

これどう思う? 何しろ主人公、死んじゃってルんだよ?

そう言われてもナア、と思ったものだ (_ _)。

漱石で読むべき作品を一つ挙げろと言われれば直ちに『明暗』をあげるし、プラトンでこれを読めと聞かれれば、当然のこと『国家』をあげる。学校で推薦するなら、この二つだと思っていて、上の推薦図書よりは、文句なく面白い。難点は長すぎるということだ。課題図書にならないのは、このためだと(勝手に)思っている。

『国家』の第8巻は、5種の国制(=国の体制)の比較論を展開している所だが、いま読んでも実に面白い。

これも課題図書になることが多い鴨長明『方丈記』だが、冒頭の

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

は、日本史や古文の教科書に頻繁に出てきて、入試問題にもなることが多い。しかしながら、『方丈記』は厭世的なエッセーではなく、読んでみれば「京の都を襲った天災の災害リポート」であることが了解されるはずだ。要するに、同時代の世相をありのままに記述したドキュメンタリーであると言う方がよい。

同じように、プラトンの『国家』も、ペロポネソス戦争敗戦後の堕落し、荒廃したアテネ民主主義の実相を活写したドキュメンタリーとしての一面をもつ。特に第8巻は、最善の王制もしくは優秀者支配制から始まって最悪の僭主独裁者制に至るまでの5種類の国制(=国の体制)を比較した内容で、最悪から2番目に評価される「民主制」のどこが良くて、どこが悪いか、この辺の描写は実に現代世界にも通じるものがあるわけだ。

堕落した民主制が、どういうプロセスを経て、どんなふうに、愚かで、かつ悪しき社会をもたらすか。これが2500年もの昔に書かれた作品であるとは、俄かには信じられない程の臨場感がある。

プラトンが言いたいことは、

あらゆる人にとって、神的な思慮によって支配されることこそが、― それを自分の内に自分自身のものとしてもっているのがいちばん望ましいが、もしそうでなければ、外から与えられる思慮によってでも ― より善い(為になる)と考える……

最良の人々が主導する国家こそ、最良の状態に至るものであるというプラトンの「賢人政治」の理想は、しかし、自らが対話の相手に語らせているように

少なくともこの地上には、そのような国家はどこにも存在しないと思いますから。

こう考えていた著者・プラトンの熱い心情と人間像が生き生きと伝わってくる。

プラトンが優秀者による支配を望んだその根拠は、有名な魂三分説である。分かりやすく言えば、

魂は、思惟をへて真実を知ることを愛する理性、勝利し人を支配することを愛する気概、利益を得て富を形成することを愛する欲望の三つから成っている。そのいずれの部分が優勢であるかによって、人は、知を愛する者、支配を愛する者、利益を愛する者の三つに分類される。

故に、ただ利益を求める貪欲や、権力それ自体を求める野心に突き動かされるような人物が実際に権力を得て、社会を支配すれば、その国の市民に真の幸福がもたらされることは決してない。これがプラトンによる人間理解と社会観である。

ただ、読んでいて思うのだが、

人が求める対象には、真実在の知識、力、富の三つがあるというが、それでは迷いからの解放、不安からの解放、即ち「安心」を求める宗教的動機については、プラトンはどう考えていたか?

と、こんな疑問が自然にわいてくる。

どうやらプラトンは、迷いを解くためには真理を知らなければならない、つまり究極の知識をまなびとる必要があると考えているようだが、一方で日本の浄土系思想を代表する法然は『一枚起請文』の中でこう書いている:

唐土もろこし我朝わがちょうにもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。

又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細そうらわず。

大事なのは、学問でも知恵でもない。《疑い》をもたず、《念仏》を称えることだけである。こういう論理を超越した事を言っている。


「なぜ浄土を信じられるのか?」というこんな疑問ですら、「これは分別知による下らぬ愚問である」として意義を認めない。「すがすがしい」と言えばその通りだ。が、宗教というのは、そもそもそういうものだ。信じられればヨシ、疑いをもてばオワリである。『阿弥陀経』は浄土三部経の一つだが、他力信仰は《難信の法》だと明記してある。それだけ「信じる」というのは大多数の人にとって難しいことは最初から分かっているわけだ。プラトンならこんな事は決して言わない(はずだ)。

プラトンの『国家』を読んでいると、理性によって色々な事物の実相(=イデア)が知られる ― 但し、「善のイデア」そのものを(生きている内に)理性によって直視できるのかどうかという点は、ハッキリとは書かれていない(と記憶している)。一方、日本の浄土系仏教では、無明という闇に生きる此土(=この世界)の住人は、汚穢にまみれ煩悩が心に染み込んでおり、この世に生きている限りは、まったく救いようがないと観る。この世界(=穢土)で動物のように何度も生まれ変わって生き続けることを嫌悪するなら、人は阿弥陀仏の本願を信じ、専修念仏の行をつづけ、仏国土に往くことがかなえば、そこは光明に溢れており、永劫の時間を通した宇宙の由来、未来をありのままに直視できる。不安からは解放される。この世に生きる不安はこの世に生きていることによるのだ。彼岸には不安はない・・・

・・・この辺り、実に超論理的である。超論理的ではあるが、何だか「実数の世界」から「複素数の虚構的世界」に連れていかれた時の戸惑いと、複素空間に慣れた後の広々とした心持を思い出したりもする。「浄土」や「彼岸」という言葉も、私たち人間が一貫した宇宙観、生命観を築くためには、論理上不可欠のピースなのだと思っている ― 純虚数、つまり$i^2\,=\,-1$を満たす値$\,i\,$の実在を問う意識と「浄土」の実在を問う意識は、どこか似ているものだ。

ちなみに、中国の曇鸞、道綽、善導から始まる浄土系思想は大体がこうした思想で一貫している。

やはり東洋と西洋の世界観には大きな違いがある。が、全体構成としては重なっている部分もある。そこが非常に面白い。

理性によって仏国土や神の存在を知ることができないというのは、近代の幕開けを演出した(とも思っているのだが)カントもそう述べている。が、これはまた別の話題になりそうだ。

今日は、プラトンから始まって、鴨長明に寄り道し、法然に辿りつき、最後は複素空間が出てくるという、極度に乱雑な内容になった。これも覚え書きということで。

【加筆修正:2025--2-15】

2025年2月11日火曜日

前稿の補足: 日本が国として連続していると感じられることの不思議

本日はホンノ短い補足のみである。


前投稿ではこんな事を書いている:

その他の具体的議論もあるが、概略的に考えると、明治維新の後、統治権は天皇にあると規定しなければならなかったのは、権力闘争というより、むしろ、こう考えなければ「日本」という国自体が、蜃気楼のような「空中楼閣」となる。天皇が統治する限り、どれほど西洋化を進めても、日本は日本である、と。そんな理解があったのではないかナと、小生は勝手に想像しているのだ。

明治維新後の日本は「民意」によって新しい国へ変容したわけではなかった。前稿に書いたように

近代日本は、明治政府が外国から招へいした外国人教師が教えた日本人弟子か、でなければ外国に研修か、留学をした日本人が、造りあげた国である。それでも日本は伝統的な日本と同じ国であり、明治以後の日本が別の国になったと考える日本人はいない。

このように、実際には、「お雇い外国人」と「官僚」の働きで出来た国だった。しかし、江戸の旧幕時代から明治にかけて、日本は別の国になったのだと考える日本人はいない。まあ、法制度・文化・風俗は変えたが、それは「時代」が変わったという事で、別の「国家」になったわけではない。そう意識する日本人がほとんどだと思う。 

この理由は明らかで、

確かに日本の文化・価値観・風俗などは激変したが、それは日本が自ら選んだ道であったからだ。

つまり、天皇自らが新たな変革を欲したからである。 

故に、江戸の日本も日本、明治の日本も日本。こういう事だろうと(勝手に)考えている。所詮、「国」、「社会」などという観念は、主観的な意識の中にあるものなのである。続いていると人々が意識すれば続いているし、一度絶えたと意識すれば、絶えたということだ。 


明治維新と明治初期よりも昭和終戦直後の方が「激変」といえば激変ぶりが大きい。何しろ敗戦により領土が占領されたのだから。

それでも昭和戦前から戦中、戦後へと、日本人は同じ「日本」で生きたと意識していたのではないだろうか。

戦前は完全な独立国であったが、戦後日本は(実質的には)軍事同盟の設計から言えば、よく言って「アメリカのジュニア・パートナー」、悪く言えば「アメリカの半属国」であろう。

それでも日本人は例外なく、昭和戦前から戦後にかけて、日本は連続して「日本」であり続けていると、自認しているのではないだろうか?

時代が変わったのだ、と。時代が変わっても国は変わらなかった、と。「戦前という時代」から「戦後という時代」へと変わった。戦前の日本が日本なら、戦後の日本も日本だ。そう意識していた(ような気がする)。

少なくとも、敗戦時点で「日本」という国は地上から消え失せ、戦後の「日本」は新しく出来た国なのだ、と。こんな風には、思わなかった。小中学校の教科書にも、そんな風には書かれていない。現代日本人もそうは思っていない(はずだ)。ただ憲法が書き換えられ、「大日本帝国」が「日本国」に変わった、と。

そう感じる理由(の一つ?)は、天皇制が継続し、昭和天皇が昭和20年から64年までずっと在位した、これが日本人の無意識下の(国家?)感覚を変えなかったからだと、小生は(勝手に)思っている。


仮に、昭和20年に天皇制が廃止され、それ以後、日本には天皇が存在せず、何年かごとに「普通の」日本人から「大統領」を選ぶという体制になっていれば、今日の日本人は、昭和戦前までの日本とは別の国家にいま生きているのだと、そう意識していたに違いない。

そうなっていれば、多分、国歌や国旗も新しく作っていたであろうし、まして「自衛隊」(?)が同じ旭日旗を引き続き使い続けることもなかっただろう。

社会科の教科書では、(ドイツと同じように)明治から昭和戦前までの日本は「あだ花のような国」であり、故に「国民の意思に反して」、悪しき戦争を始め、結果として「自壊」した、と。こんな調子の説明がされていたに違いない。

人・国・民族・言語といった文化的な自意識が、日本人によって自覚され、それによって(内戦もなく、うまくやっていれば)現代日本はより建設的で、理性的な存在になっていたと想像される。

そうはなっていない理由は、

日本には天皇がいる。であれば、同じ日本である。

こんな意識が「敗戦・占領」という当時も、その後もずっと、共有されていた意識であったのだろうと想像している。

これを言い換えると、前稿でも書いているが

天皇があって日本がある。逆ではない。

こういう表現になるではないか。


こうしたことで、日本という国家はずっと断絶もせず、続いている。時代は「明治」、「大正」、「昭和」から「平成」へ変わり、いまは「令和」となった。同じ「日本」が連続して続いている。そんな意識が現代日本人で概ね共有されている、育った時代は違っても、国までは違わない、この点だけは世代間のギャップがない。そういうことだろうと思っている。

ということは、将来にかけて、日本社会がどのように変わっても、天皇がいる限り、日本はずっと日本である。そんな意識が支配的であるのではないかというのが小生の日本観である。

建国記念日に沿うような内容になったが、時機を狙った意図はない。偶然である。


本日は、補足ということで。



2025年2月9日日曜日

断想: 全面開国を支える基盤こそ天皇制。こんなお国柄ということか?

以下の問いかけは少し以前にも書いたことがある:

 日本が日本であり続けるのは何によってか?

この問題意識はかなり前からあって、思いつく時々に本ブログでも書いてきている。が、検索するのはキーワードが定まらず、やりづらい。いちばん最近ではこの投稿になるか。

そこでは天皇制に目を向けている。具体的に書くと、こんな下りがある:

天皇があって、日本があるのであって、逆ではない

いわゆる「国体」という思想であって、日本の歴史を観る時の歴史観、というか日本文化観を指している。

この種の歴史観が「民主化」された戦後日本の小中学校の授業で教えられているはずはない。

日本という国は、島国であるせいか、世界の文化的潮流からしばしば大きく遅れることがある。そんな時、先進的な海外文化を招聘した外国人から伝えてもらうのだが、たとえば先進文化を受容した飛鳥から奈良にかけての時代、戦争技術が一変した戦国時代後期から江戸時代初期にもそんな国際化の時代があったし、明治前期や、昭和戦後初期という時代も同じ状況に日本は置かれた。

そんな時代、日本は世界文明のメインストリームを直接受け入れることで、短期間に大きく変容したが、それでも日本が日本であり続けたのは、上に引用した投稿でも書いているように

その他の具体的議論もあるが、概略的に考えると、明治維新の後、統治権は天皇にあると規定しなければならなかったのは、権力闘争というより、むしろ、こう考えなければ「日本」という国自体が、蜃気楼のような「空中楼閣」となる。天皇が統治する限り、どれほど西洋化を進めても、日本は日本である、と。そんな理解があったのではないかナと、小生は勝手に想像しているのだ。

こんな風に考える立場に小生は立っている。

国が大きく変容を遂げようとしている時、そんな時代にこそ、天皇という柱が必要になる。こんな認識は、実際にその時々の上層階層の意識にあったかもしれない。

時代をずっと遡って、飛鳥から白凰、天平にかけての時代、大量の渡来系日本人(=移民)が活躍した事実は、教科書でも(軽く?)触れられている ― ちなみに、歴史の授業では、古代から話を始めて、戦国時代、江戸時代に至り、大体は明治、大正辺りで時間切れで終わるというパターンが多い。ちょっと問題ではあります……

例えば、奈良の東大寺は華厳宗総本山としてよりも文化的遺産として日本人なら誰でも知っている(はずだ)が、昔に聞いた歴史の授業で、時の聖武天皇が大仏建立を発願したきっかけが新羅人・ 審祥 しんじょう の『華厳経』講義であり、大仏開眼法要を導師として主宰したのがインド僧・菩提遷那 ぼだいせんなであった事実は、それほど力点を置いて説明されてなかったように記憶している。

日本を訪れた外国人専門家(?)の講演を聴いて、その時の天皇が思いついて建立した大仏が、別の外国人専門家によって魂が入れられた、だとしても奈良の大仏が日本の文化遺産であることを、日本人の誰も疑ってはいない。

明治維新の後の文明開化という時代も(多分?)同じような情況であった。近代日本は、明治政府が外国から招へいした外国人教師が教えた日本人弟子か、でなければ外国に研修か、留学をした日本人が、造りあげた国である。それでも日本は伝統的な日本と同じ国であり、明治以後の日本が別の国になったと考える日本人はいない。

まったく違った文明・制度・風俗の国に生まれ変わったのに不思議ではないか。

科学技術、法律・制度、更には宗教ですら、輸入できる。しかし、人々一般のモラル感覚、意識まで輸入するのは不可能だ。解決するべき数多くの立ち遅れ(?)として日本にある問題個所と向き合うべき今という時代、何度かあった過去の時代と似た状況に、いま日本は置かれている。そう感じるのだ、な。

どれほど巨大な文化的な、あるいは民族的・人的構成上の変容をくぐっても、日本が日本であり続けるのは、何によってか?

たとえ外国人社長がいくら増えようが、日本の名門企業がいくら外国資本に買収されようが、営業現場に外国出身の人がいくら増えようが、日本人が巨額の資産を築いた事実に変わりはなく、日本という国の象徴は世襲される「天皇」であることに変わりはない。

この事に、何だか安心(?)を感じる日本人は実は多いのかもしれない。

天皇という制度は、こんな視点からも、というより、こんな視点から考えるべき事柄なのだろう。

「民主主義」や「男女平等」という話題は、とりあえず無関係と考えておくべきだろう ― 無関係ということであって、否定するという意味ではない。目的にはならないという趣旨である。念のため。

そう思われますが、違うかな?

2025年2月7日金曜日

ホンノ一言: 『ブラックボックス・ダイアリーズ』のアカデミー賞ノミネートが伝えられないのは何故だろう?

 元ジャニーズ事務所所属のアイドル・中居某がひき起こしたセックス・スキャンダルは、いまや事件の舞台を提供した(と推察されている)フジテレビという企業そのものの存続さえ危ぶまれる事態を招いてしまった。

2025年という年が明ける時に、こんな事態が出来するとは、一体だれが予想出来ていただろう?

昨年末の女性週刊誌報道があってから、曖昧な不安が周囲の人物の胸には去来していたであろうが・・・。

この事件、本来は経済誌であるイギリスのThe Economistでも報道されている。その中に、こんな下りがある:

Japan’s #MeToo movement has been “building up slowly”, says Miura Mari of Sophia University in Tokyo. In 2017 Ito Shiori, a freelance journalist, accused a reporter and the biographer of then-prime minister Abe Shinzo, of rape. Her criminal case was dismissed, but she won damages in a civil lawsuit. “Black Box Diaries”, her film chronicling the episode, became the first Japanese documentary to be nominated for an Oscar last month (though there is no release date for it in Japan). Her case proved controversial and sparked nationwide conversations. According to surveys, only 5-10% of people report assaults to the police in Japan, compared with 23% in America. Demonstrations also started in 2019 after four rape acquittals were handed down by the courts in quick succession.

Source: The Economist

Date: Feb 6th 2025

URL: https://www.economist.com/asia/2025/02/06/japan-could-finally-face-its-own-metoo-crisis

例によって、Google翻訳で和訳した日本文をコピーしておこう:

 日本の#MeToo運動は「ゆっくりと高まっている」と上智大学の三浦真理氏は言う。2017年、フリーランスジャーナリストの伊藤詩織氏は、当時の安倍晋三首相の伝記作家で記者をレイプで告発した。彼女の刑事訴訟は却下されたが、民事訴訟で損害賠償を勝ち取った。その出来事を記録した彼女の映画「ブラックボックスダイアリーズ」は、先月、日本のドキュメンタリー映画として初めてア​​カデミー賞にノミネートされた(ただし、日本での公開日はまだ決まっていない)。彼女の事件は物議を醸し、全国的な議論を巻き起こした。調査によると、日本で警察に暴行を通報する人はわずか5~10%であるのに対し、米国では23%である。2019年には、裁判所が4件のレイプ無罪判決を立て続けに下したことを受けて、デモも始まった。

日本語として少し可笑しな箇所も散見される。が、十分使えるレベルだ。メディア界で言語の壁が消失しつつあるのは、日本人にとって大変素晴らしい事だと思う。

下線を引いた部分は、安倍元首相と親しかったTBS政治部記者・山口某が起こした性犯罪の事である。この事件の顛末を調べ上げるプロセスを記録したドキュメンタリー映画が『ブラックボックス・ダイアリーズ』で、「先月、日本のドキュメンタリー映画として初めてア​​カデミー賞にノミネートされた」とThe Economistは紹介しているわけだ。ところが、「日本での公開日はまだ決まっていない」とも付け加えている。

真田広之主演で昨秋にエミー賞を受賞した『SHOGUN 将軍』は、日本国内のテレビ局でも大々的に報道したが、伊藤氏の『ブラックボックス・ダイアリーズ』のアカデミー賞ノミネートは、国内TVのニュース番組は見切りをつけて最近はほとんど視ないのだが、TV画面で話題になっているのを視たことがない。

この件については、TV業界で《緘口令》が布かれているのではないかと邪推したい位だ。

だとすると、こんな情況も、世界からみれば

日本には報道の自由がない

そんな風に低評価されてしまうのは「ムベなるかな」である。


・・・こんな体たらくでは、高付加価値・知的サービスを軸とする「第三次産業主導型の経済成長」など、日本にとって「夢のまた夢」というところだろう。


2025年2月3日月曜日

ホンノ一言: トランプ大統領の「関税率引き上げ戦略」について

今年は、昨日の2日が節分で、今日3日が立春であると、TVニュースを視ていて知ったから、随分呑気な話しである。

年若な時には、自分の年の数だけ大豆豆を食して悦に入ったものだが、北海道に来ると撒くのが落花生であると聞いて、ヤル気をなくした。で、節分になっても何も撒かないまま長年月がたった。

トランプ大統領の関税戦略が展開され始めた所である。

自由貿易を否定して、関税率を引き上げるという政策に賛同する経済学者はいない(はずだ)。とはいうものの、小生の元同僚の一人は

雇用など特定のマクロ的状態においては関税政策が有効であるケースもあるのかどうか?

こんな問題意識で考えてみたいとSNSに投稿している。

小生も、

いかなる場合にも関税率引き上げは推奨できない、と確言は出来ない

そんな気はする。だから考察に値する問題だと思う。


理性とは無縁の、現時点の常識や価値観のみから「自由貿易否定イコール愚かな政策」と主張する態度には賛成できない。

トランプ大統領の政治的嗅覚が、今回は的を射るか?

正統派経済学者の標準的理論が現在でも正しいか?

そういう事だろう。

これまでの常識で、条件反射的な反発をメディア各社が声高に叫ぶのは、この際は控えておいた方が「国益」にはかないそうだ。経済学者の議論をまず聴くべきである、聴くと同時にメディア側も議論の要点を理解するべきだと思う。不勉強なメディアは社会の害毒だ。

そもそもケインズ革命に火をつけた1930年代のケインズその人も『一般理論』刊行当時は《異端派のインフレーショニスト》として鳴らしたものである。

2025年1月31日金曜日

断想: 「平等は春かげろうの如きもの」、ということか

正月以来、雪の降らない珍しい冬であったが、月末になった昨日、今日、雪不足を帳消しにするほどのドカ雪となった。

マンションの駐車場に除雪車が入るので、今日の午前中はカミさんとMacに行って、時間をつぶす。ついで書店で植木雅敏『法華経』(角川ソフィア文庫)を買う。これは10数年前に毎日出版文化賞を受賞した同じ著者による『梵漢和対照・現代語訳 法華経』の縮約版である。

毎朝の勤行は浄土系であるが、仏教思想の中で『法華経』と『華厳経』は、おさえておこうと思っている。

本日投稿するのは、それと直接の関係性はないのだが、《平等》についてである。

先進諸国の大きな問題の一つに《分配の不平等》がある。この問題解決に向けたキーワードが《格差是正》であって、現代日本の主たる経済問題の一角を占めているのは、もう誰もが知っていることだ。

このような《平等志向》は、遥かな大昔から人間社会に普遍的にある感情で、実際、例えば浄土三部経の一つである『無量寿経』には以下のような下りがある:

田がなければ田を欲しいと思い、家がなければまた家が欲しいと思い、牛や馬や、六種の家畜や、男女の召使いや、金銭・財貨や、衣服・食物や、家具がなければまたこれらを欲しいと思う。たまたま(その中の)一つがあるときは、また他の一つが欠け、これがあれば、あれが欠け、すべてを(他人と)等しく持ちたいと願う。

たまたま願いのままに具わるかと思えば、たちまちまた消え失せるのだ。憂い苦しむこと、このようである。また、いくら求めても得られぬ時もある。

Source:『浄土三部経(上)』(岩波文庫)

Author: 中村元・早島鏡正・紀野一義訳注

訳文は、サンスクリット原典から和訳されたもので、日本国内で読経されている漢訳文を日本語に書き下したものではない。

現代日本であれば

年収が少ないうちはもっと収入が欲しいと願い、収入が増えればもっと金融資産を貯めたいと願い、収入・資産がそろえば高い学歴が欲しいと願い、学歴があれば高級住宅地に豪邸を建てたいと願い、豪邸を建てれば優秀な子供を持ちたいと願い、子供が成長すれば名門から嫁をもらいたいと願う。

マ、こんな感じになるだろうか?

このように、国を問わず、時代を問わず、誰もが(あこがれる)人と同じだけの資産をもち、同じレベルの暮らしをしたいと願うものであるのは、当たり前の事実としてある。現代世界だけが例外ではない。

今よりは、よほど分配の平等が実現されていた「一億総中流」の日本であっても、恵まれた階層への憧憬・嫉妬・敵意は、今と変わらず世間にあったように記憶している ― 例えば、黒澤明監督の映画『天国と地獄』をみよ。

しかしながら、上の引用文にも書かれてあるが、

仮に、平等な所得が分配されるとしても、個人個人の節制・物欲が違っている以上、3年か5年も経てば、贅沢をして所得を全額使い切っている人もいれば、かなりの部分を貯蓄に回して、資産を形成している人もいるだろう。

仮に、同じ資産を与えられたとしても、ある人は運よく投資した銘柄の株式が急騰し大金持ちになるかと思えば、ある人は投資に失敗してスッカラカンになってしまうだろう。

要するに、所得分配を平等化できるとしても、その平等がずっと続くわけではない。また富裕層から私有財産を強奪して、全国民に平等に分け与えたとしても、10年もたてば新たな不平等が現れているはずである。

人の世のあり様は、イソップ物語の「アリとキリギリス」が象徴しているとおりなのである。

所得や資産を平等に分けるだけではダメだ。 消費生活そのものを完全平等に統制しなければだめだ。そう考える御仁もいるかもしれない。

しかし、寮や兵舎の集団生活じゃああるまいし、同じものを同じ量だけ食って、同じ服を着て、同じところに旅行をするような生活が楽しいはずがない。

現代日本は高齢化している。昔は人生50年であった。50年生きたときの不平等より、80年生きた時の不平等の方が拡大しているに決まっている。

ずっと以前、不平等は長寿化の副産物であると指摘した経済学者がいたが、実に的をついた知見だったと思う。

何ごとも《一得一失》。長寿化を喜ぶなら、老後の格差拡大を憂えるべきではあるまい。

真の問題があるとすれば、親の世代で生じた格差が子の世代に継承されることである。

ただ、これもまた、この事実が善いことなのか、悪いことなのか、小生は判断を控えたいという立場にいる ― 何も「国」でなくとも、いくらでも社会的な工夫をする余地があるからだ。「善意」というものは、「国」よりも善意をもった「個人」に宿るものだ。

資産をどう相続させるかは、その資産を形成した人が(基本的には?)決めればよいことである。《個人の尊厳》と《私有財産制》の基本原則を尊重する限り、(少なくとも)日本社会では、現状が大きく変革されることはないと予想している―ずっと以前、相続税100%の提案もやむを得ないと記したこともあった(例えば、これこれ)。が、この提案は「国家」という存在、というか法的機構が善であると前提しての話である。現在はこの辺りの観方を変えている。

【加筆修正:2025-02-01、2025-02-02】


2025年1月29日水曜日

ホンノ一言: 「京アニ事件」で死刑が確定した件について

いわゆる「京アニ事件」、京都にあるアニメ制作会社である「京都アニメーション」放火殺人事件だが、死者が33人に達し、これは昭和戦前期に発生した「津山事件」の被害者数を上回る。文字通りの歴史的大事件であったのだが、犯人側がこのたび控訴を取り下げ、死刑が確定したとの報道だ。


この事件はショッキングで、発生時点で本ブログにも個人的な感想を投稿している。その当時、カミさんとはこんな話をした事が記されてある:

小生: 放っておけば死んでいたはずの主犯を必死に蘇生させて命を助け、助かったら今度は国家権力が『その方の罪は重大にして非道。斟酌するべき情状は認めがたし。よって死刑とする』って言い渡して、改めて法の名の下に死んでもらう。これはサ、ちょっと俺の感性には合わないナア。

 カミさん: 犯人に動機を聞いて、きちんと裁判をして、遺族の人もそれを聴きたいんじゃないの?

小生: いくら司法手続きがいるとか、社会にとって必要だと言っても、犯人が死を選ぶ自由を認めず、あくまで法を優先させて、その後になって国家が改めて犯人を殺すっていうのは、どれほどの悪人であっても人が持っている人権を国家が侵している。そう感じるけどネエ・・・

マア、法で定める刑罰として「死刑」が設けられている以上、今回の犯人に死刑を宣告しないなら、どんな犯人なら死刑判決が出せるのか、と。そんな量刑の斟酌があったのかもしれないナア、とは思っています。


仕方がない、と言うしかないのかもしれないが、何度も投稿しているように、小生はそもそも死刑廃止論者である。実際、<死刑 廃止>でブログ内検索をかけると、相当数の投稿がかかってくる。その中には、こんな下りもある。

しかし、政治家の不倫が許せないと放送しながら、若者は闇バイトに応募して強盗殺人を行い、高齢ドライバーは生活に不便だと車を運転して、案の定、事故を起こす。

全部をまとめると、

何という、マア、素晴らしい世相でございましょう・・・

死刑の継続を望みながら、体罰禁止に賛同する世の中も似たようなものでございます。

これは義務 あれはルールと 自らを

  しばるが人の 生きる道なり

ドイツの哲学者・カントを手本とする普遍的モラルを追い求めていた戦前のエリート達が始めたのが太平洋戦争であります。ガリ勉の一知半解とはこの事でござんしょう。

 これは、つい最近の投稿だ。

「法の論理」を通したいのは人間の知の領域だが、「人の命」は自然と大地から生まれた現実そのものである。もてあそんではいけない。そう感じますがネエ・・・。人間の知の理屈を自然に対して無理に押し付けると、自然から逆襲されて滅びるのは人類のほうですゼ。これを忘れちゃアだめだ、と。そう思いますネエ・・・

この事件について最初に感じた印象は、死刑判決が確定した現時点でも変わっていない。

ただ、国家と人間の生命との関係を考えるとき、以下の設問に解答することも求められるだろう。

殺人事件が発生すれば、被害者の家族は犯人に対する復讐を欲するものである。これに対して、国家は司法の名において、遺族による復讐を否定し、刑罰を定める。結果として、犯人を助命することもある。被害者の人命は失われているが、犯人の命は国家によって救われるという状況を、合理的であると理解することが求められているわけだ。

一方、国家が他国に侵略されるとき、徴兵ではなくとも、国防の職務に就いている人には、生命の危険が伴う任務に応じることが求められる。戦場で命を失うとしても、それは国家に個人の命を犠牲として捧げる「戦死」、つまりは「殉職」として法的には認識されるはずである。

ある時は、殺人犯の命を尊重し、ある時は最前線の兵の命を要求する。

勇敢な兵の命を国家に捧げよと言うなら、人の命を奪い国家の掟を破った殺人犯の命も当然のこととして国家は奪うべきであろう。そうでなければ、家族を殺された遺族にとって国家とは非条理そのものに映りましょう。兵の命は犠牲にするが、殺人犯の命は助けるのか、と。

まあ、これも一つの理屈だネエ、とは思う。

故に、死刑廃止論には、仮に戦争状態になったとき、国家の名において兵士の命を要求できるのかどうか、この設問への回答が含まれていることになる。


メモしておきたい。

但し、本日投稿の後半では「冤罪は絶対にない」と前提している。冤罪が絶対にないという状況の下でも、国家による死刑は廃するというのが、本当の死刑廃止論である。他の論点は無視している、念のため。

 


2025年1月26日日曜日

断想: 芸能事務所、テレビ業界だけの混乱じゃあありません

芸能事務所とテレビ局の非常識な(?)関係が背景になってスキャンダルが発生し、当事者の不適切な(?)対応振りがそれを拡大し、ついにはメディア業界全体の危機がひき起こされるという事態は、初めてのことではない。

比較対象としては不適切かもしれないが、中央銀行が金融政策を実施し、その効果を「つつがなく」浸透させていくには、特に金融市場とのコミュニケーションが致命的な重要性をもつのが現代という時代である。そして金融市場だけではなく、それを取り巻く国民全体の視線もまた中央銀行がとりうる選択肢を左右してしまう。政策当局も、毎日、毎分、毎秒、常に《世論》の変化を警戒しながら注意する。今は、そんな時代である。

にもかかわらず、その「世論」たるや、どこの誰を指すのか、心理学でいうゲシュタルトのようなもので、霧の彼方にあるような、ワイドショーのことなのか、ネットの反応のことなのか、はたまた「週刊文春」や「週刊新潮」のことなのか、どれも正しいようで、実はよく分からない……

こうした世相が、善いのか悪いのか、小生にはまだハッキリしない。「民主主義的になって来た」と言えば、その通りかもしれないが、近代化以降の日本の歴史をみても、「だからイイ」とは到底言いかねる。この点では、小生は今なお《功利主義的価値観》に共感を覚える。要するに、好い結果をもたらす体制が、その時代のその国民にとって最良の選択だと思う。この点は、前稿でも述べている。

で、話しを戻すと、フジテレビの経営体制自体が問題とされるに至っている。

これと関係するかどうか、日本経済新聞に米メディア・CNNの経営改革が報道されている。主な部分を抜粋して引用させてもらいたい:

米報道局CNNが全従業員の約6%にあたる人員削減を計画していることが分かった。低迷しているケーブルテレビ事業に関連する社員を中心に200人程度が対象になるとみられる。既存事業の人材は削減する一方で、エンジニアなどのテック人材を新規雇用してデジタル対応を進める。

人員削減計画はマーク・トンプソン最高経営責任者(CEO)が23日、社員向けに送った書簡で明らかになった。……

テレビ放送は横広の画面が定番だったが、スマホの普及で縦型の動画に慣れた世代が台頭している。トンプソン氏はこうした需要に対応するため、ニュース報道を縦の画面で迅速に配信する仕組みの構築などに力を入れていくとみられる。2030年までに10億ドルのデジタル収入の達成を経営目標に据える。実現に向け、25年前半だけで100人以上を新規雇用することを目指すという。

Source:日本経済新聞
Date:2025年1月24日 4:16 (2025年1月24日 6:37更新)
URL:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN23EN40T20C25A1000000/

ちなみに、CEOのトンプソン氏だが、これまでの実績が以下のように紹介されている:
トンプソン氏は23年10月、CNNのCEOに就任した。英BBCの会長を経て、米新聞大手ニューヨーク・タイムズ(NYT)のCEOを務めた人物だ。ほかの新聞社と同様にネットの台頭で苦戦していたNYTを、任期8年間でデジタル時代に対応した新聞社に改革した手腕で知られる。

何だかフジテレビの社員が憐れに感じるのは小生だけだろうか?

今は休んでいるが、The New York TimesのWEB版は小生も購読してきた。毎月の購読料は(円安と2年間割引があるが)概ね400円で、日経のほぼ10分の1の金額だった。BBCの活動ぶりは周知のとおり。Amazonのチャンネルでも利用できるので一時視聴していたことがある。課金は忘れたが、確か毎月△百円であったかと記憶している。

プロスポーツの世界では、有能な監督・指導者は世界市場でオファーを受けながら、選手がプロであるのと同じく、指導陣もプロとして活動している。芸術分野もとっくにそうである。アカデミックな研究者もプロはプロとしてグローバルに移動しながら自分の仕事に没頭している。そういう体制にしなければ、どの大学も優秀な人材がやってこない。結果として、「田舎の大学」に落ちぶれる。メジャーリーグの大谷選手、ダルビッシュ選手の生き方を見れば、もう《プロフェッショナル》の何たるかが日本人の誰もに可視化されているわけだ。

企業経営者も同じように位置付けられている。経営は経営のプロが担って、企業として最高のパフォーマンスを出すべきである。その経営のプロが日本人であるか、外国人であるかは、企業経営そのものにとって本質ではない。


日本の企業は、何かと言えば世界の真似をして、《企業の社会的責任》を口にするが、それもイイが、その企業に出資している《投資家への責任》を果たすことが、民間企業の最低限果たすべき責任である。

投資家への責任を果たすことを前提に、更に社会的責任も全うするべきだ。投資家への責任も果たせないボンクラな経営者が、もっとハイレベルの社会的責任など果たせるわけがないだろう。投資家より社会が大事だと考える御仁が、日本社会の過半数を占めているなら、とっくの昔に日本共産党が政権をとっている理屈だ。

この辺り、日本人は《資本主義》の何たるかの理解が生煮えのまま、《社会的責任》というキーワードが輸入されてきたので、これまた生煮えの理解のままマスコミが使っている。

すべて生煮えである。

何だか、世界の潮流がやって来るごとに、東京の人、大都市の人、田舎の人が、順々に右往左往しながら、忙しくしているだけのように観える。

勉強ばかりで、肝心の生産性が上がるわけがない。成長するはずもない。

滑稽である。


一つ一つの概念を消化して、普段の行動につなげて、その後で語ることが大事で、この程度のことは日本人の誰もが当たり前のこととして出来ていたと思う。

バカになったのか、教育の失敗か定かでないが、以前の日本人には出来ていたことが現在は出来なくなっている。そんな印象があって仕方がない。

口から先、言葉から先に入るのは、《一知半解》というものだ。学んで、実践して、経験知を増やして初めて身につく。これをさぼれば、ポンコツはポンコツのままだ。

貧すれば鈍す

負けがこんでくると普段できていたことも出来なくなる

アスリートによくあるこんな混乱状態に、日本の官民、メディア、国民すべてが、落ちているのじゃあないか?

明治の初めのように外国人を招いて教えを請う時代がまたやって来たのかもしれません。日本国内の人材養成からやり直さなければどうにもなりません。

そう感じる今日この頃であります。

【加筆修正:2025-01-27、01-29】



2025年1月24日金曜日

ホンノ一言: 国民民主党でも、維新の会でもイイが・・・

戦前期の日本は、明治・大正から第一次世界大戦までは、その時々で財政上の苦闘、外交上の苦闘、対外戦争の危機は何度かあったものの、結果としては発展トレンドをたどることが出来た。

当時は、民意によって政治を行う体制ではなかったが、結果としては統治する側の政治家と統治される側の国民が、全体として賢明であったナ、と。そう思う歴史観を小生は持っている。

しかし、第一次世界大戦が終わって、1920年代になると、戦時バブルの崩塊と長期不況、関東大震災による富の喪失、不良債権と金融危機、それに加えて昭和になってからは「制限選挙」から「普通選挙」に移行したことから「政党スキャンダル」に日本社会全体がヴァルネラブルになった。これらの結果、昭和期になると明治の終盤から大正期全体を通じて機能していた政党政治が信頼を失くし、国内統治上の危機に陥った。

しかし、「窮すれば通ず」というように、政党政治が崩壊する中で、複数の《革新官僚》が国民の注目を集め、政治の主導権は中堅層の経済官僚や軍事官僚へシフトしていくことになった。最終的結果である「国民総動員体制」は、成るべくして成ったというか、清新な政治を求める国民に対する統治機構側の回答でもあり、それを日本人も受け入れた……、こんな感覚があったンだろうなあと、亡くなった父の思い出談を聴きながら思ったものである。

歴史は単純に繰り返すわけではないが、それでも過去と同じようなフェーズの時代が後になって又やって来ることがある。

戦前期の「失われた10年」が1990年から現在までの「失われた35年」になり得たのは、日本経済の地力がついたお陰である。それに100年前は「人生50年」の時代だ。体感感覚としての時間の長さを思うと、停滞と貧困の広がりに国民のフラストレーションが高まっている今の世相は、1920年代から30年代にかけての10余年と、何だか似ている面がある(と感じるのだナ、その頃生きていたわけではないが)。

違っているのは、100年前の危機の際には登場した「革新官僚」が誰一人出ては来ない点である。

それは日本が民主主義になったからであり、政治が優越しているからだと言えば、確かにその通りなのだが、その政治家の中で誰がいま注目され、期待を集めているのだろう。

実行可能な「新たな政策」を魅力のある「未来構想」の下に語っている若手、あるいは中堅政治家がいまいるか?

いま国会で議論が進んでいるのは、《やりくり財政》を続けるための幾つかの設問についてだけで、この位の設問なら本来は財務省と個々の官庁が丁々発止と折衝すれば済む程度の事柄だと思うが、いかに?

試みに、ChatGPTで

公債依存度を国際比較するとどうなりますか?

と聞くと、

以下のような状況が観察されています(2023年の推計値に基づく一般的な傾向):

国名
公債依存度(目安)
備考
日本
約40%
高齢化の影響が大きい
アメリカ
約20~30%
経済刺激策による一時的な増加
ドイツ
約10~15%
財政規律を重視
イタリア
約25~35%
歴史的に公債依存度が高い
ギリシャ
約30~40%
財政再建努力は進むも依存度は高水準

という結果が返って来る。

次に

公債残高の対GDP比率を国際比較するとどうなりますか?

と聞くと、


1. 主要国の公債残高対GDP比率(2023年推計値)

以下は、国際通貨基金(IMF)や経済協力開発機構(OECD)のデータをもとにした一般的な傾向です:

国名公債残高対GDP比率(推計値)備考
日本約260%世界最高水準。高齢化に伴う社会保障費の増加が主因。
アメリカ約120%COVID-19対策や財政赤字の拡大が影響。
イタリア約140%ユーロ圏内で高水準。経済成長の停滞が影響。
ドイツ約70%財政規律を重視し、安定的な比率を維持。
フランス約110%社会保障支出が多く、対GDP比率が上昇傾向。
ギリシャ約170%過去の債務危機からの改善は見られるが、依然として高水準。
イギリス約100%財政支出拡大と成長率の低下が影響。
中国約70%公的債務は低水準に見えるが、地方政府の隠れ債務が懸念。
インド約85%社会インフラ投資や経済成長を背景に拡大。

こんな結果になる。

裏をとってみると、マアマア、正しい回答だ。少なくとも、的外れではない。この点では信用可能だと感じた次第。


何か新しい財政支出を提案すれば、税収増の見通しがあるか、ないなら増税するか、既存の支出を削るか、これも出来ないなら公債でまかなうかを同時に議論しなければならない。誰でもわかる理屈だ。

その為すべき議論から逃げる政治家は政治家としては無能である。その無能が理解できない人がいれば、その人は無能な有権者という理屈になる。

無能な有権者が無能な政治家を選ぶのが「普通選挙」であるなら、問題の根源は民主主義だという結論になるのではないか?……「有能な専門家」がいないなら、まだ民主主義であるだけ救われるという理屈はあるが……

マア、ネエ……今日は……が多くなり過ぎた。


最終的には、非正統的な手順によって、マジメな民意に応えるような新方針というものが、将来のいつかの時点で実行に移されるのだろうか?

もしそうなれば、そうなったで、多くの日本人はまた受け入れるに違いない。ちょうど「国民総動員」も仕方がないと受け入れたのと同じように……。

2025年1月21日火曜日

覚え書き: 日本の低成長を象徴する産業が「放送業」なのか?

元アイドルの中居某がフジテレビで犯した性的不祥事が、事件発生後1年半もたった今になって発覚し、拡散してきた。今ではもう「ロサンゼルスの山火事」のように手が付けられない状態になった。

直接関係者が少人数の当初の「事件」が、今はテレビ業界が丸ごと巻き込まれる程の構造的スキャンダルになったという点では、一昨年(2023年)春以降に大騒動になった「ジャニーズ・スキャンダル」を思い出す人も多いだろう。本ブログでも話題にしたことがある(例えばこれ)。ほぼゝ同じベクトルの「性的不適切行為」であり、海外に飛び火しているという点も同じだ。

そういえば、今回の直接当事者である中居某も同じ芸能事務所の出身である。どうも旧い社風に染まり切った行動パターンが身についてしまったのかもしれず、そう思うと、今回の騒動は《ジャニーズ・スキャンダル後日談》とも言えるのかも・・・


騒動自体には何の興味もないが、ただ思案しているのは、

この30年間、「テレビ業界」というか、「民間放送局」という企業は、一体どんな貢献を日本の中で果たしてきたのだろう? 

こんな疑問である。

何も「存在自体が悪」とは思わないが、「要るのか」という疑問は最近でも投稿したことがある。


1980年代末までの日本は"Japan as No.1"とまで警戒されていたほどで、特に製造業の生産性は世界のトップレベルにあった。この歴史的事実を体感感覚として(アリアリと)思い出せる人は、現役世代の中で次第に減ってきているに違いない。

1990年以降のバブル崩壊後、国内企業は三つの過剰(=過剰設備+過剰雇用+過剰債務)に苦しんだ。生産拠点を海外に移転できる製造業は短期的に救われたが、移転が難しい非製造業では大規模な産業再編成が進められた。日本経済はそれまでの勢いをすっかり失い、「失われた30年」と呼ばれる長いトンネルに入ったのは、もう誰もが知っている事だ。


日本のGDP成長率が、ずっとゼロ近辺であるのは、労働資源が減る一方で、資本ストックが大きく増えない、つまり新規設備投資にずっと消極的であったためだ。新規投資に消極的であるから、設備に内在化される最先端の技術も導入されず、導入されないから経営思想も経営感覚も進化せず、それでも何とかしなければならないので、「働き方改革」や「男女雇用均等」の理念が大義となる一方で、就業の現場は多様な価値観が絡み合い、結構スパゲッティ化しているのじゃないかネエ……と、だからイノベーションを起こすにも深さや広がりに欠ける。

確かに日本全体が停滞してきたマクロ的な側面はある。

日本経済が停滞する中でも円高は進んだ。実際、円ドルレートの最高値は2011年10月31日の75円32銭である。この円高基調の継続によって、製造業の生産拠点は海外に流出していった。日本は「モノ作り」ではなく、第3次産業によって食っていく国へと変容した。故に、東日本大震災後の日本は、モノ作りではなく、非製造業、つまりは第3次産業の生産性をいかにして上げるかが課題であったのだ。


第3次産業の内のかなりの部分は、人が(モノではなく)人に働きかける(広い意味の)サービス業である。サービスにもスキルが経験知として求められるし、知的資産も必要だ。日本経済のサービス化が加速したのが2011年以降の「ポスト大震災」という時代だと小生は(勝手に?)思っている。

サービス部門の効率化、高付加価値化は決してできない事ではない。アメリカでも製造業は没落している。それでもアメリカ経済として活力があるのは、第3次産業の生産性が(極めて)速いペースで上がっているからだ。

そのサービス部門の生産性上昇が、日本ではずっと停滞してきた。ここに日本の停滞の主因がある。(多少のIT機器導入はあったかもしれないが)ほぼ同じ仕事をほぼ同じやり方で続けてきた ― スマホ活用は確かに目新しい新技術・新商品ではあるが・・・。サービス業に従事する現場の人であれば、大なり小なり、そう感じているのではないだろうか?


本当は、人が人に働きかけるサービス部門内でも、省力化投資を進め、デジタル化を進め、最先端のサービス現場を構築するべきだった。新しいサービス現場を構築する一方で、それと同時に高い顧客満足を形成し続けるべきであった。しかし、日本のマスメディアがずっと強調してきたことは、

日本の強みは暖かいオモテナシにこそある。これを守って行かなければいけない。

一体、何を言いたかったのだろう?

何回、このセリフをTV画面から聞いただろう。

同じことを、これまでどおり、続けてください

そう洗脳しているようなものだ。正に

サービスの安売り、労働の安売りである

何もサービス業だけではない。非製造業の外の部門、金融保険しかり、流通しかり、運輸しかり、教育しかり、医療しかり、介護しかり……、だと思うが、事実と違うのかな?

基本的なロジックとして

同じことを、同じように続けていれば、同じ量のアウトプットしか出て来ない

誰でも分かる理屈だ。これでは与えられた労働資源と資本ストックの下で、付加価値は増えず、生産性は上がらない。だから経済成長とは無縁になる。

「成長」とは、新しい事をしようという意志から、実現される結果である。



そして放送業があり、広告メディア事業があり、コンテンツ産業がある。

以前はなく、今はあるという最先端の新サービスを何か創造しましたか? 

これを真っ先に問いたい。海外の後追いでもイイから、何か新しい実験をしたというなら教えてほしいくらいだ。

そもそも、世論を左右できる報道機関として、日本のTV業界は、日本の非製造業が行くべき方向へと進むように、全力で後押しをしてきたのだろうか?

違う。

何より、テレビ業界は、電波に執着し、1990年代以降の世界で開花したインターネットを敵視した。

デジタル化への動きにも違和感を表明し続けた。

自由化、自動化への実験にも慎重な意見を語り続けた。

驚きに値するのは、ネットを敵視する姿勢を、現時点でもなお保持していることだ。その頑迷さは正に驚きに値する。


コンテンツ作成方法の革新、人的資源管理方式の革新、取材方法の革新など、テレビ局社内の現場において、21世紀に入って以降、どんな技術革新を進めたのだろう?どんな生産性向上努力をしてきたのだろう?

日本国内のテレビ画面を視る限り、例えばAmazonや楽天市場が機能性を高めてきたような、そんな未来への歩みを感じたことは、一度もない。提供しているのは、過去の模倣、というより過去の最高水準にも達しない劣悪なコンテンツばかりではないか。

日本ではサービス業の生産性が低いという指摘がずっと以前からある。

ところが、産業間で年間収入や平均給与、初任給を比較すると、概して製造業は低く、第3次産業は高いのである。

この事実が不思議に感じていた時期がしばらくあったものだ。


カギは、産業間で違いを見るのではなく、企業規模別に見るべきなのだ。

第3次産業には、政府の許認可に基づく大企業が多い。政府公認の《競争制限行為》によって、寡占企業は準レント(≒独占利潤)を得る。それも政府の保護によって長期間継続的にだ。いわゆる「専門職」に括られるサービスも参入障壁に守られて高額である。製造業にはそんな保護はない。製造業の商品は貿易財である。故に、世界市場における競争圧力にさらされる。大企業だからといって日本国内で非合理な価格は設定できない。特許で得られる創業者利得も代替品の登場によって短期間で消失する。

日本で生活するために利用する第3次産業商品は、大企業が提供するものと個人・零細企業が提供するものに分かれる。「日本ではサービス業の生産性が低い」と指摘する時のサービス業は、実は個人・零細事業者を指しているのだ。たしかに、個人経営の理容店が「生産性を上げる」というとき、実行可能な選択肢は限られるだろう。しかし、資金さえあれば出来ることはあるのである。その資金調達が円滑ではない。日本の資本市場は不完全なのだ。


大企業はどうか?例えば、日本の金融保険部門を支配する寡占企業は、生産性が世界標準並みに本当に高いのだろうか?生産性が高いのではなく、高い給与による高コストを利用者に押し付けるだけの市場支配力を政府によって容認されているのではないか?

病院はどうなのか?学校はどうなのか?業界が規制に縛られて、事業内容、参入撤退まで、丸ごと非競争的である。生産性上昇への動機が十分働いていないとしても「これも又むべなるかな」である。

規制は生産コストと価格とを乖離させるのである。これに安住して、規制で保護された企業は、技術革新への動機が弱く、新規事業開拓や制度改革には消極的になるのである。

データで検証する作業を(面倒だからやらないが)自分でやりたいくらいだ。

要するに、

政府の規制によって過剰に保護される企業は、俗に言えば《腐る》のだ。腐敗した企業と取引する企業も腐っていく可能性が高い。腐敗は伝染する。これは《構造悪》であって、経営者、社員個々人のモラルで解決できる問題ではない。

小生の見方はこうであります。

言い換えると、日本の低成長は、第3次産業の低生産性そのものにあるわけではない。生産性向上への意欲の欠如こそ問題の核心である。

「欠如」どころか、自社の社風に「プライド」すら持っているかもしれない ― マア、「郷愁」という方がピッタリするのかもしれないが。外側から見ると、批判的にこう書けるが、こうした保守的経営を招く制度を社会の側が造っているとも言える。故に、企業の経営責任もあるが、時代遅れの法制度の問題でもある。こう考えているのだ、な。

第3次産業主導の経済成長が(今なお)できない主たる原因はこの辺りにある。

特効薬があるとすれば、聖域を設けることなく規制を撤廃して、国内の非製造業を海外資本に全面開放することかもしれない ― 激しい副作用が予想されるが効き目は絶対にある。


……、それでもしかし、病院や学校は、低生産的であること自体は困るが、日本人の生活には欠かせない。問題があるとすれば、需要のあるサービスが行政手続き上の理由で遅れがちとなり、適時適切に低コストで供給されないこと位である。

では、テレビ局はどうなのか? 新聞社はどうなのか?

何のためにあるのか?

本当に、いま要るのか?

保護すべきなのか? 

政府による保護があるからこそ、30年前とほぼゝ同じようなコンテンツを作り続けていながら、TV局は企業として存続してきたのだと思われる。

こう言われても仕方がない状況だと思うがいかに。


以上から、

許認可制で寡占化された放送業界、特に全国放送権をもつ基幹局は今の日本に必要ない

これが現在の見方であります。

そもそも許認可制で保護された寡占企業が、自ら(特に政治問題について)世論を左右する事業を展開するべきではない。例えは悪いが、日本共産党が政党交付金を受け取っていないのと同じ話しだ ― だからこそ危険でもあるのだが、これまた同じロジックということで。世論の形成は世論の自律的な自己展開に委ねるべきである ― もちろん政治家も世論の中の登場人物である。

何だか地域ブロックごとの電力会社に相通じる立場にいるのかもしれない。そういえば、全国紙・地方紙を含めた新聞社もそうだ。これらは全て、昭和戦前期から終戦直後にかけて出来上がった産業組織である。よく今まで守られてきたものだと思う。まるで江戸時代の《株仲間》である。

【加筆修正:2024-01-22、01-23、01-24、01-28】




2025年1月17日金曜日

断想: 「浄土」という観念と「無限大」という数学的観念と

西田幾多郎と親交のあった哲学者・宗教家に鈴木大拙がいる。『日本的霊性』がよく知られているが、『浄土系思想論』も岩波文庫に入っている。こちらは哲学というより宗教論に近く一般受けはしないかもしれない。が、その中の「浄土観続稿」第5節に次のような下りがある:

とにかく、浄土は吾等の感性的対象でもなければ、分別智の領解を容るべき圏内にも入らないようである。浄土の空間は娑婆の空間ではない。時間またその通りである。…浄土は徹底して不可思議なのである。

娑婆とは我々が生きているこの現実世界のことである。浄土と呼ばれる世界は、この世界のどこにも存在しないと言っているわけだ。

他力思想に基づく浄土系仏教信仰において、最大の難所は文字通りの始めにあるわけで、浄土、つまり「極楽」なる世界が本当に存在するのか?その極楽世界を創った阿弥陀如来なる存在は本当に実在するのか?

こんな疑問に回答が得られない限り、どうもただ「信じろ」と言われたって、疑わしいネエ、と。救済や信仰対象をよほど強く願望している人はともかく、毎日をマアマア安楽に暮らしている人ほど、こんな疑問をほとんどの人は感じるような気がする。

こうして文字で「浄土」と書くのは簡単だが、書いたからって実在が約束されるわけではない。そんな理屈がそもそもあるわけだ。

ただ、思うのだが、理解しているつもりでも、私たちの感覚では観察不能な概念を、まるで実在するかのような感覚で使っている言葉は、他にも色々ある。

位置だけがあって大きさのない「点」、幅がない純粋の「直線」、目には見えない(はずの)直線で囲まれた純粋の「三角形」などという言葉をここで繰り出すのは、寧ろ幼稚な例になってしまう。

それより$\infty$、いわゆる「無限大」は、もっと「浄土」という言葉に似た概念かもしれない。



一つ言えるのは、無限大は実数ではないという点だ。実数ではないので、数字では表現できない。
 
エッ、何故かって?
 
いま、$\infty \,\,\in \, {\Bbb R}$と仮定する。
すると、$\infty$に$1$を加えた値も実数であり、$\infty$より$1$だけ大きい。つまり、 $$ \infty \,\, < \,\, \infty + 1 \in \, {\Bbb R} $$ しかし、 $\infty$は、いかなる実数よりも大きいから $$ \infty + 1 < \infty \quad \therefore 1 < 0 $$ これは矛盾だ。故に、背理法により、無限大は実数空間には含まれないと結論できる。 

つまり、いかなる数字でも表現できない。この世界は「有限性」に束縛されているので、無限大という大きさを測ることはできないわけだ。

$\infty$は、この世界では決して感覚的に観察できない大きさである。しかし、数学の理論展開において$\infty$は不可欠で日常的に使用されている。使っているということは、存在していると考えているわけで、ありもしない空想で数学を構築しているわけではない。実際、人間の頭脳が創りあげた数学が外界の宇宙をよく説明できるのは驚異とも言える。その数学で、この世界の外に飛び出す値である$\infty$を使っている。

無限大もまた比較を超えた、絶対的に巨大な数量、即ち「不可思議」な値であるには違いない。

更に、虚部を含む複素数には、一層のこと空想性を感じる向きが多いだろう。が、その(計算上の有用性ではなく)物理的な実在性については、他の説明がネットにはあるし、もう面倒なので省略する。

いずれにせよ、上の「浄土」という鈴木大拙の解説を読みながら、ふと連想したのでメモしておいた。

2025年1月13日月曜日

ホンノ一言: メタ社の方針転換と内外メディアの報道姿勢の違い

SNSではメジャーであるFacebookを運営しているメタ社が、トランプ次期大統領や共和党から批判が強いファクトチェックを停止すると発表したのは数日前のことだ。これに対して、バイデン現大統領が「恥ずべき決定」と非難したとの報道だ。例えばこんな感じだ:

US President Joe Biden has slammed US IT giant Meta's decision to end its third-party fact-checking program, calling it "shameful."

Meta CEO Mark Zuckerberg announced on Tuesday that the company decided to abandon fact-checking on its social media platforms Facebook and Instagram.

Speaking to reporters on Friday, Biden called the decision "contrary to American justice" and "really shameful."

Source: NHK World

Date:  Saturday, Jan. 11, 23:32

URL: https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/news/20250112_02/

全体に日本国内の報道では、上のNHK報道と概ね同じ視点から、

メタ社の方針転換、よろしからず!

と、こんな評価が大半を占めている。企業経営の自律性を重視する日本経済新聞ですら

SNSのフェイスブックなどを運営する米メタが、第三者機関による事実確認、ファクトチェックを米国で廃止すると発表した。代替機能を導入するものの偽情報などの増加につながる可能性があり、憂慮せざるを得ない。

このように「憂慮せざるを得ない」決定としてネガティブに報道している。

他方、同じ経済分野の報道で世界から高く評価されている英誌"The Economist"は、今回のメタ社の決定は正しい方向への第一歩だと評価している:

For all that, Meta’s moves are a step in the right direction. Social networks should stamp out illegal content. For the sake of advertisers’ business and users’ enjoyment, they will probably want to keep things civil. But it is past time that they got out of the business of ruling on what is right and wrong. Only a fool would claim that his social network was the truth.

Source: The Economist

URL: https://www.economist.com/leaders/2025/01/08/mark-zuckerbergs-u-turn-on-fact-checking-is-craven-but-correct

Google翻訳の和訳能力は合格レベルだと思うので、英文をそのまま転載しても問題はないだろう。 

同誌編集部が最も重視している判断は、上の引用部分下から3行目の"But"以下の部分だ。

しかし、善悪(※ここは「正邪善悪」と訳すべきである、ナ)を判断するビジネスから手を引くべき時が来ている。自分のソーシャル ネットワークが真実だと主張するのは愚か者だけだ。

ちなみに上の記事のヘッドラインは

Social-media platforms should not be in the business of defining truth

である。小生も賛成だ。

世論における間違いは世論で解決するのが民主主義である。判決権は民間企業にはない。

従って、SNSはフィルターをかけるべきではない。あるテーマについて、どんな投稿があるかを視る時、SNS運営側はあらゆる意見を表示させるべきだ。コメントがあればコメントもそのまま表示するべきだ。何故なら、それが(ネットにアクセスする一部の階層に限定されてはいるが)社会全体の発言の縮図だからであって、それが世論のリアリティそのものであるからだ。

最も重要であるのは、真相つまり実在するリアリティであって、頭で信じている価値基準ではない。 

どうもこの辺に、外国のメディアと日本のメディアとでは、報道という行為にコミットする者としての覚悟の違いが、可視化されているような気がする。

何だか日本のメディア企業の上層部が(密かに)抱いている《愚民観》が、ここに図らずも表面化しているとすら感じる。

とはいえ、これまた「報道のあるべき姿」という問いかけに対する価値判断であって、メディア各社ごとの信念による……、とも言えるかもしれない。




2025年1月11日土曜日

断想: 実存主義哲学と浄土系思想、どこか似ているという話し

学生時代にはマルクスの唯物史観が人気の絶頂にあり、従って歴史の段階的発展仮説から必然的に「予測」される社会主義革命を待望するというのが、小生の少し上の世代、及び少し下の世代で共有されていた感覚であった(ように記憶している)。

今はそんな気風はないと思う。むしろ社会主義イコール強権的政府というイメージが定着してしまった。

考えてみれば、唯物論に共感しながら、クリスマス・イブの夜にはパーティを開いて遊び、元日には神社に初詣をして、御神籤を引くという行動は、頭脳が丸ごと矛盾の上に構築されていたわけで、それを不思議に思わなかった所こそ、当時の若者世代が精神的にいい加減、というよりタフであったところだ ― 矛盾こそ次なる発展の起点になるという屁理屈をこねていたものだ。マ、(マルクスもそうだが)ヘーゲルの聞きかじりだ。

小生は、「ドイツ観念論」という(単なる)呼び名にどこか知的なカッコ良さを感じ、それと同時に自分の研究テーマとしていた計量経済学の基礎になっている科学的世界観も是としていたので、唯物論的世界観にも賛同するという、何だかコウモリのようなポジションにいた(ような気がする)。が、それでも仲間内では「これもまた良し」という風で、時間があれば大学裏門の真向かいにある甘党兼喫茶店に座を占めて、半日の間は、友人たちと役にも立たない雑談にふけったりしていたから、今となってはゲーム機で遊んでいた方が時間のつぶし方としてはまだ気が利いていたと思う。

議論に熱中したから、頭脳が鍛えられる、とは限らないのだ。良い議論をしなければ、無知は無知のままである。

「物自体」から構成される外界から、人は色々な情報を感覚器官から得るが、「理性」は生得的な枠組み(=空間・時間、更には因果関係などのカテゴリー)に沿って、感覚的情報を整理して、「合理的世界」を意識の中で構成する。それが認識である。つまり、理性、というより「悟性」というべきだが、人間が生得的にもっている認識能力が処理した情報(=現象)のみが、人間が意識する世界には配置され、モノとして認識される。そういう哲学で、これは確かにプラトン以来の伝統を感じさせる所がある。それ故に、ニュートンやアインシュタインの理論物理学が典型的だが、世界が合理的に観えるのは当たり前のことで、そもそも目の前で展開される現象を、例えば因果関係に基づいて、人は合理的に説明するものなのだ……、人間は非合理な世界に自分がいるとは思考できない。これがカントの発見した純粋理性というヤツだ。

カントにおいては、意識の中で理性が構成する世界は、現象界を説明しているにすぎず、物自体のごく一部を占めるだけだが、理性が意識と外界との矛盾を解決しながら、自己発展的に成長すると考えれば、最終的には理性が構成する意識と物自体の客観世界が一致し、人の理性が導く結論が客観的にも正しい、いわば人が神様になるというか、可能性というか、そんな道筋を開いたのがヘーゲルである(と理解している)。

このような道筋の造り方は、どこか日本の哲学者・西田幾多郎の『善の研究』からも窺われるのだが、その辺は別の投稿でも一度とり上げたことがある。

ただ思うのだが、西洋流の哲学を読んでいると、浄土系仏教で強調する《煩悩》という語句が、まず出ては来ないのだ。まして人が煩悩を去って、理性の光に照らされて、客観世界の真相を捉えるに至るなど、仏教の立場から言えば《悟り》というべきだろう。悟りは、自力思想の最終到達点ではあるが、他力思想では実行困難なゴールである(と認識される)。

煩悩に理性が曇らされた《凡夫》は《無明の闇》の中で生きている(と考える)。確かに、理性は光である。真理は人を正しい生き方に導く。理性は、客観世界の真相を人に伝える力をもっているが、他力思想から言わせれば、こんな議論は机上の空論である。

『無明が知性をだめにする』と洞察したのは(もう故人だが)著名な伝説的数学者・岡潔である。

いまの世相は、芸術家は美を知らず、学者は真を知らずというありさまだが、そんなふうにさせてしまっているその本体こそ、無明というものではないか。そして無明の働きに対して、全く警戒を忘れているのが現状ではなかろうか。

随筆『春風夏雨』の第2章「無明」でこう書いてある。刊行は昭和40年だから60年も以前の昔だ。現在は更に闇の度合いを増していると推察するべきだろう。

このように、現実には全ての人は《貪瞋痴》という「三毒」によって、常に欲望に負け、怒りや焦りに身をまかせ、間違った思い込みから道に迷ってばかりいる存在である(という世界観である) ― ま、好意的にみれば「努力」とも言えるであろう。

ちなみに『春風夏雨』の第1章冒頭は

近ごろ、生命とは何かががようやくわかってきたように思う。

こんな書き出しから始まっている。

精神より生命が先立つ

というのが、素直にみる時にみえる「宇宙」なのだろうというのが、小生の立場だ ― これも最近になって迷いが出てきたのが正直なところだが、この点は既に投稿した。

こう考えると、ヘーゲル死後にヘーゲル批判派が提起した《実存主義》の哲学は、理性という光から人間を理解するのではなく、現実に存在している人間のありのままの姿を論じている点では、

たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずして…… 

という法然『一枚起請文』で前提される人間観に近いものがある。

とはいえ、他力思想は日本史の中の平安末期から鎌倉初期にかけての「飢饉と動乱の時代」で急速に浸透した宗教思想だ。それまでは「自力」で最高の智慧に至ろうとする聖道門が支配的だった。自力主導の聖道門は現実には選択困難であると観るところで他力による浄土門に目が向けられるわけだ。

近代ヨーロッパの実存主義は19世紀の資本主義世界で生まれた。歴史のフェーズは遠く隔たっているが、最高の智慧に到達できる人間などはいないと現実を理解するところでは、実存主義哲学と浄土系仏教思想とは、どこか似ているところがある。この二つに相互関連などはないが、人間が考えることと、それを考える人間をとりまく世界との関係性には、意外と時間と空間を超えて共通する面があるのかもしれない。

【加筆修正:2024-1-12】

2025年1月8日水曜日

断想: グリーンスパン「私の履歴書」を切り抜いていたか、もう17年も前になるが

旧年末に本箱を整理していると、古い新聞の切り抜きがあった。見ると米国のFRB元議長で、在任中は金融市場との絶妙な間合いから「マエストロ」と称されていたアラン・グリーンスパンが、日経の「私の履歴書」に寄稿したものだった。2008年1月1日から1月31日までの30回分である ― 1月2日は休刊日だ。

改めて読んでみると中々面白い。

終盤近くになってから、話しは日本の事になっている。

日本にも中国脅威論があるようだが、恐れることはない。日中が競合する分野はそれほど大きくないからだ。 … 気になるのは、高齢化と労働人口の縮小だ。すでに高い技術力を持つ日本が生産性を高めるのは困難。労働力や生産性上昇に限界があれば成長も鈍る。移民を増やすことに消極的だと将来難しい状況に追い込まれるのではと恐れる。

どうやらグリーンスパンは、日本経済の成長にとって中国はそれほど警戒する必要はなく、それより労働供給の制約が成長の停滞をもたらすのではないかと心配していたようだ。

確かに、コロナ後の米経済の高成長が、一面で「不法移民」によって支えられてきたことは、ある程度まで事実であるに違いない。社会全体の生産力が、労働人口と資本ストックの総量及び技術進歩で決まることは、経済学には素人の人にとっても自明の事実だろう。

設備投資が低調であったこの日本においては、労働供給こそが生産力を高める(というか、維持する?)鍵であったわけだ。その労働供給を支えてきた(ほとんど大半が非正規の)女性の就業率は既に

(令和5年は…)女性の年齢階級別の就業率は、昭和56(1981)年と比較すると、25~29歳は86.9%、30~34歳は79.4%と上昇しており、いわゆるM字カーブの底が大幅に上昇しています。

こんな状況になってきた。だからと言うべきか、民放TVのワイドショー辺りは、働ける高齢者は何歳になっても働けとばかりに発破を飛ばしている有様だ。多分、《移民政策》を正面から話題にすると、社会から総バッシングを受けると怖がっているのでありましょう ― 事実として、大量の移民労働力を日本は既に受け入れつつあるのだが。

それにしても、日本社会に根強い「中国脅威論」に対して「恐れることはない」と観ていたグリーンスパンの目が「慧眼」であったか、「節穴」であったか、どちらに考えるかは、その人の政治的立場や文明史観をあぶり出すリトマス試験紙であるだろう。

アメリカ経済についても心配な事柄は(当然)記してある。たとえば

最近は共和、民主両党が角を突き合せるだけで、互いのつきあいは減っている。だから何事も前に進まない。政治が機能不全に陥りつつあるのでは、と時々不安になる。

この辺は、最近になってアメリカ社会も一層酷い状況になってきたわけで、

分かっちゃいるけど止められない

というところが、正義と派閥を好む人間社会にはあるということなのか?『無責任なんだよネ』という語り口ではおさまらない人間社会、というか本質的に「無知」である人間たちの宿命なのかもれない。

《所得格差》を観る目も真っ当である。

公正に富が分配されていると人々が受け止めなければ、資本主義やそれを支える諸制度への支持は得られない。

これが現時点で正に進行している現象だ。

ただ、それに対しては処方箋を示しており

この問題への答えは教育にある

こう断言している。

日本の歴史を振り返ってみても、近代的学校制度の発足は、明治維新のあと早くも明治5年という時点で、断行されている。江戸以来の幕藩体制に終止符を打つ「廃藩置県」がその僅か1年前の明治4年であったことを思うと、正に

教育は立国の第一歩なり

必ずしも「民意」に沿った政治を行ったわけではない明治政府だが、この点だけは大正解であったことが、改めて確認できる。

現代日本の政府は、(民主主義社会であるにもかかわらず)この点ではまったくの落第と言うべきであろう。一部のラディカルな御仁は

いまの文部科学省は解体した方が国益に資する

と、のたもうているようだが、むべなるかな、である。

そもそも政府全体が

何をやりたいのか、サッパリ見えてこないのは、これ又むべなるかな

仕方がない……ということなのだろうか?


 


2025年1月5日日曜日

ホンノ一言: 「女性初」の英断(?)で企業が成長するなら、「ドンドンおやりなセエ」ってことになるが、そんなに簡単にいくのか?

箱根駅伝はこの正月も盛況の内に終わったが、拙宅では特に上の愚息が好きで、今回も2日から3日にかけて宅に泊し、TV観戦にはりついていた。

観ている時には気がつかなかったが、

 日本テレビ杉野真実アナウンサー(33)が4日、インスタグラムを更新。箱根駅伝の第4区で、女性アナウンサーによる初めての中継地点での実況を行った杉野アナは、実況を終えた感想をつづった。

Source:YAHOO! JAPAN ニュース

Date:1/5(日) 6:00配信

Original:日刊スポーツ

こんな記事がネットにアップされていた。

これまた《女性初》ですか

そう思いました。

それもイイんですけどね

とも思いました。


これって、『人手が足りないンですよ』と。本当はコレですか?…と。何だか「国民男女総動員体制」を連想してしまうのだ、な。

こんな風に各分野で「女性初」の英断(?)を繰り返しつつ、仕事の現場ではイノヴァティブな改革が進まず、社会全体で「働き方改革」などと叫びつつ、実際には過去のやり方の延長を続けながら、働く人の人数で勝負と思いきや「人出不足」の現状に危機感のみが高まる。

何しろ、最近の最低賃金大幅引き上げに着いて行けない一部の県では

最低賃金引上げに耐えられない中小企業を支援する補助金が十分でない

こういう驚嘆に値する愚痴が、愚痴が愚痴ではなく、政策に対する正当な苦情として、もっともらしく伝えられる。世間はそれに同情する。

政策的な最低賃金引き上げに伴う経営不振や利益減少は、国に責任があるのだから、更なる経営努力ではなく、税金で保障してもらいたいわけだ。

そんなお国柄である。


言いたい本音を隠して、問題の根本的解決から逃げる経営の怠慢を美しい言葉で飾り、本当は為すべき経済政策を停めようとする。

この種の圧力は半端ではない・・・。

大体、(社内向け挨拶ならともかく)理念や価値観で企業を経営するべきではないでしょう。戦略はどうするンです?企業は何のためにあるンですか?

思わずそう感じるのだが、世間の受け止め方は、また違うのかな?

まあ、口を開けば『理念、理念、社会貢献』と企業経営者までが念仏よろしく唱えるのが、21世紀も20年余が過ぎた今の流行だからネエ・・・・21世紀は、案外、「宗教の世紀」になると語ったことがあるが、その通りの世相になってきた。

しかし、五濁悪世のこの浮世で、単なる理念を口で連呼しても、現実により良い社会になるロジックはないのだ。経済状況を改善したいなら、いくら気に入らなくとも、経済学の知識を活用する以外に道はない。

本来は英米社会に親和性のある英米発の経済理論が、日本社会でどれほど実効性があるかは、本気でやってみないと分からないが、日本社会の特性に立脚した学理がない(?)のだから仕方がない。

2025年1月3日金曜日

断想: そもそも他力思想の「往生極楽」という言葉は科学的意味を有するのか?

昨秋に受けた五重相伝を機に朝の読経を続けるようになった。これは前にも投稿したとおりだが、これまで職業生活を通して親しんできた科学的、というか《物質的自然観》のロジックに沿って考えると、信仰や救済、浄土といった精神的価値が、生死という生理学的現象と、そもそもどう関係しあっているのか?

こんな疑問がある。誰もが感じるはずのこの疑問に対して、正面から向き合わなければならない。

大体、仏教の浄土系宗派では「往生極楽」というが、これが我々をどう救済すると言うのか?

ここが分からないと、「他力」も「阿弥陀如来」も何もないわけで、それは禅宗などの自力思想が強調する「解脱」にとっても同じことだ。解脱したからと言って何がどう変わるのか?

こんな疑問は極めて基本的である。

他力思想から考えるとして、例えば、鈴木大拙の『浄土系思想論』には以下のような下りがある ― 但し、AmazonがKindle版で提供している『浄土系思想論(上)』<ディスカバーebook選書>に含まれている「真宗管見」から抜粋している。岩波文庫版『浄土系思想論』には「真宗管見」は収録されていない:

業に制約せられた個個の吾等は、どんなことをやっても、それは悉く必然的に悪である。……

本願を信じなくても、よってもって浄土に往生することの出来るというほど安全な純粋な善は、この世に存在しない……

善人はそのなせるところの善を必ず意識しこれを媒介にして、何かを求めんとする時、彼は直ちに善人ではなくなる。悪人といっても、もし彼にして一たび弥陀の光に照されたとすれば、その時に彼はその罪を除かれて、浄土往生人たる資格を得るのである。なんとなれば、弥陀は善をも悪をも一様に融かしてしまう坩堝ともいうべきもので、ここでは信のみがその絶対性を保持するからである。弥陀は創造主でないから、衆生に懲罰を与えようという考えを持たぬ。弥陀は普く一切衆生によって分有せられるところの慈悲の光である。

人間社会における《善悪》という価値は、阿弥陀如来による救済の場においては、一切意味を持たない。世間でいう「善人」、「悪人」とも、阿弥陀如来にとっては完全に平等であるというのは、善のイデアと神の審判とが相互に結び付いた西洋の思想とは違っている。

いま「世界観」と書いたが、最上行にある 

業に制約せられた個個の吾等は、どんなことをやっても、それは悉く必然的に悪である

がキーポイントになる。

「業」というのは、過去生、現在生、未来生を貫く、因果応報の連鎖のことで、宇宙の変動(=event、movement?)は相互に関連する因果関係による。その人が誕生時に負っている因果必然性を「業」とか「業縁」という観念で考えるわけだ。

なので、人間世界に生きる現在生において、善を為すか、悪を為すかという違いは、本人の自由意志がもたらすものではなく、「業縁」によって予め決定されている(と観る)。とすれば、確かに善人・悪人は平等ということになるが、最も分かり難いのは、このような世界観(倫理観とも言える?)を受け入れるにしても、

本願を深く信じて、浄土に往生する

なぜこれを心から人間の側から強く願うか?この一点だと思う。

そもそも「業」によって決定されている未来生があるのであれば、それを覆して、阿弥陀如来が救済するのは、論理矛盾ではないか?

こういう理屈になる。


ちなみに《本願》というのは、浄土系宗派では「常識」(?)に属するのだが、阿弥陀如来がまだ法蔵という人であったとき、48の誓いを「願」として立てて、これらが実現しないなら神の力をもつ如来にはならないと、そう誓ったわけだが、その中の第18願が宗派内では著名ないわゆる「本願」で

たとえ我、仏を得んに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)して我が国に生れんと欲し、乃至十念せん、若し生れずば正覚を取らじ

法然が唱えた専修念仏の有効性を根拠づける一文である。この伝説を釈迦が弟子・ 阿難に語る情景を記録しているのが、仏教の聖典(の一つ)でもある『無量寿経』である。ちなみにこの経典は「浄土三部経」の一つであり、後半部分で特に「悪」について書かれている所がユニークだと(勝手に)思っている。

他ならぬ仏教の開祖である釈迦が「阿弥陀仏」の存在を明言している以上、法蔵の願は全て実現されているのだろうということになる。故に「阿弥陀仏国」(=「極楽」)も実在し、第18願がある故に、「本願」のとおり現在生が終わる時、「極楽」という名の阿弥陀仏国に赴くことも、可能である。これが他力信仰の基本的論理である。


ただこうした思考に対して、唯物論的な科学的思考をする限り、認めがたいという現代世界の多数派の宇宙観があるわけで、実証のしようもなく、そもそもこの二つの見方は永遠に平行線をたどらざるを得ない。

だからこそ、

浄土に往生するというのは、なぜそれほど願わしいことなのか?

死ねば何も無くなる以上、死後の往生極楽など、架空の話しで意味がないではないか? 

こういう疑問は必ず生まれる。

* 

他力思想については、最近になってから何度も投稿してきた。たとえば小生自身の「世界観の変化」を要約したし、浄土思想や他力思想なら9年も前に既に投稿している。


多分、平安期10世紀から11世紀にかけて浄土信仰が非常に高まった背景として、源信による『往生要集』が可視化した地獄絵図の衝撃があった。これが先ずあったと想像する。地獄よりは極楽に往きたいと願うのは当然だ。その後、法然、親鸞が生きた平安末期から鎌倉初期という時代は、それまでの「末法」の感覚に加えて、現実に内乱、天災が続いた時代だった。貴族、庶民を問わず地獄絵図への恐怖は現代人の想像を超えていたであろう。内乱、動乱に明け暮れる中で浄土系仏教が救済宗教として受け入れられたのは偶然ではない。


では、科学主義が主流である現代世界において、なお浄土思想が有効であると考える根拠はあるのか?

それは、多分、因果関係から自然科学的に世界を理解するだけでは、「存在の真理」に達しえないという哲学的な立場によるのだと思う。


この世界は、原子、更には素粒子から構成されると観れば、元素や化合物、更には分子、高分子、生命は全て宇宙の本質ではないことになる。まして、人間がつくる社会や国、法律や学芸などは、とるに足らない幻になってしまうだろう。人間のやる事は、所詮は、この宇宙において意味なきバブルのような現象なのだろうか?

こんな虚無的なニヒリズムも確かに一つの立場だ。

しかし、ヒトにとって《世界》とは、決してモノクロームな原子や素粒子の集合体ではない。原子や素粒子が偶々結合して「事実存在」となった物体や生物から「世界」は造られていると認識する。外界にあるのは原子や素粒子だが、人間の意識が「ある」と認識するからだ。そう認識するのは、たまたまそんな物体を目で見たからではなく、それが何であるかを認識する知識をヒトが持っているからだ。これが「本質存在」に関する知識である。西田幾多郎が『善の研究』で述べているように、「世界」は意識の中にのみ存在する。

現に自らの中で活動している「自分」という精神的存在は、原子や素粒子の集合的運動として解釈するのは、無理というものだろう。即ち、「精神世界」という世界は確かに実在する。

考えてみれば、「社会」や「国」も実在はするが、物質として存在するものではない。

時間や空間は、カントが着目したように、人間が経験する現象を整理するための先験的な形式だ。時間という尺度に沿って考えれば、前世、生、死、来世という順序に整理される。しかし、生と死というのは、身体という物質の生成消滅のプロセスの一環であり、精神は身体の中に存在しているわけではない。

こう考えると、「精神世界」を「物質世界」とは区別して考える方が、ロジカルであって原子、素粒子の運動とは別の問題として、「精神世界」において実在するのは何かを考えないといけない。

こういう筋道になるだろう。


以上の議論を踏まえると、時間や空間という次元はもたない精神世界のどこに「自己自身」がそもそも帰属することになるのか?

こんな疑問は確かに疑問でありうる。

他力思想が強調する「往生極楽」という目的は、物質世界ではなく、精神世界において実効性をもつ言葉である。


今日のところは、まずはここまで。

雪深々 読経のあとに 湯をわかし

息と囲む すきやき鍋に 牛肉を

    これでよいかと 妻はとひつつ

【加筆修正:20254-1-10】