2025年12月13日土曜日

断想: 「心の中にのみある」をキチンと理解できる人、いますかネ?

世間でよく言われるが、

宗教によって神々は様々だが、これらはすべて人の心の中にのみ存在するという点では共通している。
同じ趣旨の記事を先日ネットでも見かけたから、現代日本社会の大多数の人々にとっては当たり前の常識になっているのだろう。

確かに神という観念は、心の外の外界に可視化しうる存在物(=物理的存在)としては存在しないという理屈は納得的である。しかし、上のような考え方の根底に

心の中にのみ存在するのだから、本質的には虚構であって、客観的に実在するものではない。すなわち、全ての宗教は人間が作ったストーリーに過ぎない。
これが言いたい事であれば、まったく賛成できない。というか、正反対であるというのは、最近の何度かの投稿で強調してきたことだ。とはいえ、これを再説するのに《唯識論》の要点から始めるのは面倒だ。ただ
「客観は実在するが、主観は心の中にのみある」と考えること自体がその人の主観である。その人の大脳が「彼我」の「彼」として構築した映像を「客観」という。
つまり「客観は実在する」という言明は「我は実在する」というのを裏側から言っているだけだ。これだけを今日は記しておきたい。




昨年の秋に相伝を受けたことを契機に朝の読経が習慣になった。最初は「日常勤行式」に沿ってやっていたが、最近は月曜以外には「専修念仏」をしている。もし人が『南無阿弥陀仏』というのは人がつくった想像によるものだと言えば、人が考えたものであるのは確かな事実だ。異論はない。

そう意見を投げかかる人に問うことがあるとすれば $$ \frac{\partial^2 u}{\partial t^2} = a^2 \frac{\partial^2 u}{\partial x^2}+f $$ という文字列と

南無阿弥陀仏
という文字列が記された固形物を(人類がその時まで生存しているかどうか分からないが)何万年もの未来に発見する人がいるとして、どう考えるだろう?

どちらの文字列も物理的存在として確かに客観的に実在すると言っても可であろう。他の人とも目で見ているその文字列は同一の表象として認識されるのは間違いないからだ。

とはいえ、客観的に実在するのは目で見ている文字列だけであるというなら、それは誤りだ。上の偏微分方程式はいわゆる『波動方程式』で、理系の大学なら2年か3年で学習するはずだ。方程式が伝えようとしている《知の働き》を理解できた人には

方程式が伝えている知の働きと知がとらえた真理が実在するのであって、この文字列はいま消え失せてもおかしくはない。
そう考えるはずである。そして、知がとらえた真理は生死を超越して永遠不変である理屈だ。なぜなら真理は、古代ギリシア人なら《ロゴス》、現代の英米人なら"Truth"、ドイツ人なら"Die Wahrheit"という単語で表現するはずだが、物質を媒体とする単なる現象ではないからである。物質は時間が経過する中で、老朽化し、消失するが、非物質的な知の成果は物質とは別に現に働いているともいえるわけだ。

働いている以上、そう働かせている主体が(いずれかの空間に)実在していると考えるとしても合理的な思考というものだろう。もちろん測定可能な何かのデータがエビデンスになるとは思われないので、経験科学の成果だけが真理であると断言する人は別の立場にいる。しかし、そうした《科学原理主義者》は、データによって実証されるまでは、いかなる数学的定理も真理とはいえないという羽目に陥るのではないかと逆に心配になる。

物質と非物質との違いは何度も投稿してきたので、これ以上くりかえす必要はない。が、念仏と偏微分方程式は、文字列自体に意味があるわけではなく、思念している心の中でとらえている対象が重要という点で似ている。本当に実在しているのは目で見ている物ではなく、知性がとらえた観念の方である。だから、最初に引用した『神々は人の心の中にのみ存在するのです』というのは、確かにその通りで仏教では「法界」と言うのだが、これをきちんと理解できる人は(難しいことは避ける?)現代日本社会では極めて少数であると思っているのだ、ナ。

多分、そんな人は目で見える現象こそ実在していると思うはずだから、自動運転されて走っているバスを目撃すれば

ついに人類は考える自動車を発明したわけか!
タイムスリップしたシャーロック・ホームズよろしく、こう思いこむことでありましょう。仮にそうなりゃ、
機械が考えるなら、鳥も考えているし、犬だって考えてるだろう。いやいや、宇宙全体、何かを考えているンでございましょう
そんな「汎神論」みたいな、マア、正反対の極地にも通じるわけです。

2025年12月10日水曜日

断想: 世界のスーパーパワーは100年ほどの黄金時代しかもてない?

前稿の続きのようなことを書いておきたい。

世界史には色々なスーパーパワーが登場した。しかし、どれほど長くとも、概ね100年ほどの「黄金時代」を謳歌できたに過ぎない。昔なら5世代かもしれないが、人間の寿命が長くなった現代では3世代ほどの長さでしかない。100年というのは意外と短いのだ。


イギリスは「大英帝国」と呼ばれたこと(それとも自称?)があったが、名実ともに指導的位置についたのは、ナポレオン戦争終息後の1814年に開催された「ウィーン会議」から1914年に始まった第一次世界大戦までの100年間に過ぎない。確かに18世紀末には他のヨーロッパ諸国に先駆けて「産業革命」がイギリスから始まったが、その当時はまだフランスが大陸欧州の主役のような役割を続けていた。イギリスが欧州を代表する指導国になり得たのはフランス革命の勃発とナポレオンの台頭と没落が直接的なきっかけである。加えて、自由貿易と金本位制によって英ポンドを国際通貨として通用させたことも大きい。

中国の清王朝は乾隆帝の時代、大いに国境線を拡大して現代中国の領土の基礎を築いたことが最大の貢献だと(勝手に)思っているが、清王朝の黄金時代である「康熙乾隆時代」も「三藩の乱」鎮圧後の1683年から乾隆帝が没する1796年までの100年少々にすぎない。

古代ローマ帝国の盛時で"Pax Romana"とも呼ばれた「五賢帝時代」も時間の長さで言えば最初のネルヴァ帝が即位した西暦96年から最後のマルクス=アウレリウス帝が亡くなる西暦180年までの100年弱に過ぎない。

日本史で最も長い平和を築いた徳川幕府もその黄金時代と言えば(人によって異なるだろうが)小生は綱吉将軍の下で元禄時代が始まった1688年から松平定信による寛政の改革が始まる1787年までの約100年間だと思っている。寛政の改革は統治組織としての江戸幕府の余命を可能な限り延ばしたという点では歴史的意義をもつ。しかし、中心人物の松平定信がたった6年間在職しただけで老中を退いた後の幕府政治には活発な創造力が欠け、むしろ地方の諸藩の統治能力の方に先進性があった(と勝手に考えている)。幕府政治が輝いていた時間もせいぜい100年ほどに過ぎない。

キリがないので止めるが、後は推して知るべしで、

歴史的節目をなす程の強力な統治システムであっても、その黄金時代は高々100年ほどで終焉する。これが歴史を通した経験則である。

と(これまた勝手に)思っている。


アメリカ合衆国が世界的なスーパーパワーとして登場したのが、第一次世界大戦に連合国の一翼として参戦した1917年。今年はそれから108年後に当たる。

世界のスーパーパワーとしてのアメリカ合衆国の黄金時代は過去のものとなりつつある。そう観るのは、これまでの経験則と合致していると思う。


今後進むのは《世界の変質》だろうと予想している。

すいぶん以前に経済発展と民主主義という問題意識で似たようなことを書いた。

一つの企業の寿命はよく30年であると言われる。30年ほどが経つと成長してきた企業も老化するというわけだ。社内改革を断行せずして、30年を超えて同じ企業を安定的に存続させるのは至難の業である。そんな経験則がよく言われる。

国家も企業もシステムである点では共通している。自ずから寿命があるということだ。文字通り《諸行無常》。100年も経って同じ国家が繫栄していれば、名称は同じでも実質は別の国家になっているという理屈になる。

2025年12月9日火曜日

ホンの一言: 高市首相のチョットした失言がバタフライ効果を生むのだろうか?

確かに高市首相はミスをした。外交経験の不足と自信過剰、支持基盤への配慮など幾つかの理由があったにせよ、「いま言う必要がないこと」を「最悪の場所とタイミング」で発言したのは否定しがたい。

碁や将棋であれば、その時には「悪手」。対局後の検討では「大悪手」と判定される一手に似ている。


純粋のミスであれば撤回もできるが、政治的狙いが混じっていたのであれば、撤回できない。それに、今さら撤回しても有効ではなく、むしろマイナスにしか働かない。手当しなかった「断点」に石を打ち込まれれば、時に「総崩れ」になるものだ。

中国は「守りのほころび」、「日本の弱み」を突いてきている。


米国は中国とBig Dealを欲している。経済的報復の切り札を持っているのは中国側だというもっぱらの評価である ― レアアースや巨大市場としての魅力を指しているのだろう。トランプ大統領は中国と商談を進めたがっている。

その弱みを中国は突いてきている。

日本とアメリカはつながっていなかったのだ。その状態で高市首相は「いう必要がないこと」を国会で発言した。

その「ほころび」を中国は突いてきている。


日本の外堀を埋め、日本を外交的に孤立させる好機が《棚からボタ餅》のように北京政府の上に降ってきたわけだ。

日本が圧力に負けて高市首相が(事実上の?)発言撤回に追い込まれれば、日本には《アメリカは頼りにならず》という痛恨の記憶が残るだろう。

アメリカが対中商談に執着すれば、日本に対中譲歩を要求するだろう。日本の不信をかい西太平洋の重要根拠点を失ってでもアメリカが対中ビジネスを選ぶ可能性はある。

アメリカは手を広げ過ぎた。帝国ではないのだ。帝国を維持するのは膨大なコストがかかる。正に"Business of America is business"である。大アメリカではなく、小アメリカでもよい。その方が安上がりに豊かな国をつくれるというものだ。

そういうことかもしれない。しかし、それは中国が西太平洋海域を勢力下におさめる第一歩になるだろう。


地政学上の大きな変動が進む分岐点にさしかかっているのかもしれない。

トランプ政権の大局観が間違っていれば、それが第一の理由になるのだが、その大変動の始まりは同盟国・日本の新米首相が想定問答を無視して自分の言葉で語った《軽い一言》であったということか?

しかし、

戦場で歴史的大敗北をもたらした原因は、一人の兵が乗っていた馬が小さな小石を踏み損ねて驚いて悲鳴をあげたことである。その小さな事故が味方にとっては最悪のタイミング、敵にとっては最良のタイミングで起きた。

これを《バタフライ効果》というが、太平洋海域の地政学的パワーバランスが大きく変動する(ことがあるとして、その)契機となったのは、高市首相のチョットした言い過ぎであった……、事後的にそんな風になる可能性が絶対にないとは言えないだろう。

2025年12月3日水曜日

ホンの一言: TVが「反社会的」な主張をすることもあるのか……

今朝もいつものようにカミさんと馴染みのワイドショーを視ていたところ、食べたものが喉につかえるような事を又々あるコメンテーターが語っていた:

米を増産すると前の農水大臣が話していたのに今は「お米券」を配って増産はしないという。お米券って筋の悪い方法ですよ。需要が多いから価格が騰がっているわけですから、お米券を配ったりするともっと騰がります。それより増産する。増産してもらって価格が下がったら農家に所得を保障してあげる。そうしたら価格は下がります、云々……

確かに理屈は通っている。増産してもらってコストがカバーできなかったら所得補償をする。農家は喜んで米を作るだろう。

キロ当たり100の費用をかけて米を作る。ところが市中の販売価格はキロ当たり60だ。このままでは農家経営が破綻するから政府が40を補填してあげる。そうすれば次年度も農家は米を作れるから安心だ。

こういう理屈だ。


しかし、この方法は農業生産の非効率性を温存するという理由で廃止された《食糧管理制度》とどこが違うのか?

イレギュラーな米価暴落時に農家所得を補填してあげるのであれば、マア、良い。しかし、毎年必ず損失が出るという経営構造になっているのに、それでも損失を補填してあげるというなら、バブル崩壊のあと「ゾンビ企業」が「不良債権」となる中、延命融資を継続した日本の銀行と同じことをやることになるのではないか?

農家の所得補償にあてる財政支出にも財源がいる。その財源は(理屈としては)税である ― もちろん国債発行もありうるが、さすがにこれを主張する御仁はおるまい。

要するに

高コストの米を食べる日本人に米を低価格で食べさせるため、その費用を日本人全体で負担する。

こういう発想である。

しかし、高価なコシヒカリやアキタコマチを愛する日本人のために、なぜその他の日本人がコストを負担しなければならないのだろう?『どうせ国民の税金で農家所得を補填するなら、最初から高い価格で買ってあげれば一番簡単でしょう』と突っ込みも入りそうだ。そんな突っ込みが入れば『高い価格では買ってくれないから困るんです。安くなっているのが困るんです。経営できないンです』、マア、これがTVコメントの話の本質である。


キロ当たり60の販売価格では生産できないという日本の農家の高コスト体質がコメ問題の根底にある。上の数字例だが、なぜ市中の販売価格が60まで下がるのか?人口が減っているとか、消費者の財布が厳しくて需要が増えないというのは違う。確かに高いコメを買い支える需要が出てこないのは事実だ。しかしこれは一つの側面でしかない。もっと大事なのは、それ以上の高価格になると高関税を払ってでも海外の安価な米を輸入できることだ。

コシヒカリなどの銘柄米にこだわっている御仁はいざ知らず、普通の人はカリフォルニア産のカルローズ米で十分だ。少なくとも小生は美味いと思う。故に米価上昇には限度がある。上がり過ぎれば関税込みの輸入米の方が安くなる。許可制ではないので貿易商社は外国米を自由に輸入できる。

日本のコメ関税は定率関税ではなく、キロ当たりの従量制である。米価があがれば関税もあがるわけではない。故に、世界でインフレが進行すれば日本の米作農家を守っているコメ関税というハードルは相対的に低くなる。コメの関税障壁はインフレ進行の中で瓦解するのである。そうなっても、日本がコメ関税を引き上げられる世界情勢ではない。下手にコメ関税を引き上げると、コメ輸出国は報復として対日輸出課徴金を使うでしょう。そうなると、日本人は高い国産米、課徴金込みの高い外国米しか買えないことになる。そうなりゃ、経済戦争になるっていうものです。

遠くない将来、いずれ日本のコメは実質的には自由貿易に近くなるだろう。


問題の本質は、日本の農家の高コスト体質にある。そして、高コスト体質の原因はわかっている。合理的な米作経営にすれば日本でも低コストにできる。低コストで高品質のコメを日本でも作れる。

いまは最も非合理的な米作をしている農家のコストに合わせて米価を決めている。合理的な米作をしている経営者は高い米価で利益を得ている理屈だ。合理的経営を増やし非合理的な経営を減らす。そうすれば日本でも低価格で高品質のコメを作れる。経済学の基本だ。学生でもレポートできる初歩中の初歩である。農水大臣が先ずやるべきことはこれだろうと、小生は思うが、日本社会は違った筋道で思考しているようだから、まったく訳が分からない。

コメの生産が非合理的であるだけではなく、日本社会全体が非合理的であるようだ。

具体的に合理的な米生産とはどこが合理的なのか?非合理的というのはどこが非合理的なのか?……、ここまで書くと身もふたもない。AIに質問すれば何時でも回答してくれる。

いずれにしても、高コスト体質の米作農業を肯定して、それを温存するためにカネを投入せよというのは、それ以外の必要な分野にはカネを回すなというロジックになる。まさに《反・経済成長》、《反・科学》。小生には、本日のワイドショーの見解は《反社会的》であると感じました。マア、「言うべきことは言うな、しかし何かを言え」とでも台本に書かれていれば、この位になるかナア、という事ではあったかもしれないが決して感心できる内容ではない。

【加筆修正:2025-12-05】

2025年11月30日日曜日

覚書き:マンション管理組合の総会

先日、いま暮らしているマンションの管理組合の役員を頼まれて、やむなく引き受けた。

北海道に移住してきて初めての冬を迎える年末、それまでの官舎暮らしを卒業して初めて分譲マンションを購入したのだが、運悪く籤に当たったのだろうか、理事長を頼まれてしまった。1年余りやっただろうか、初めての雪国暮らし、初めてのマンション暮らしを理由に断るべきだったとずっと後悔してきた。それが割れた窓硝子の取り換えを頼んだことから、引き受け手がおらずに困っていたのだろう、現理事長から役員になってくれと頼みこまれた。西行の『年たけて、またこゆべしと、思いきや』ではないが、これも縁かと思い引き受けることにした。今日は総会があったので出席した。ずっと昔、理事長を退任してからは委任状提出で済ませてきたので、出席するのは久方ぶりである。

最初の総会で司会をした時の情景はまだ眼底に残っている。みな若かった。しかし顔は忘れた。今日見た顔と同じ顔があったのかもしれない。その後、新しく入居した人も今日いたのかもしれない。それは分かるはずもないが、小生にとっては構内で時に挨拶をする程度でそれ以上には知らない人が並んでいた。

マンションの 総会に出る この三十年みとせ
       うつりける世を わが身にぞしる
実に歳月怱々。この12月の上旬、ニセコでリゾート事業を展開する会社が社員寮に買い取ったという1戸に台湾、香港の人が4人引っ越してくるとのこと。これからこんな事が増えてくるだろう、と。願わくば、日本で楽しい生活を送って、北海道には盆踊りはないが祭りにも参加して、母国に戻ってから思い出話を語ってほしいものだ。
この秋は 熊をおそれて 散策を
       ひかえて今日は 雪虫をみず
毎年の年末、清水寺が発表する「今年の漢字」は何になるだろうか?「熊」かもしれず、「米」かもしれず、「難」かもしれず、いずれにしても今年は明るい一年ではなかった。

2025年11月28日金曜日

感想: 福田梯夫『棋道漫歩』を読み始めて

囲碁がらみのひょんな縁から福田悌夫『棋道漫歩』を「日本の古本屋」で買って読み始めたところだ。囲碁がらみとは言え、本書は「漫歩」という名のとおり、広いテーマにわたった随筆集である。

著者はプロの作家ではない。Wikipediaでも紹介されているような地方の素封家、農場主として人生を歩みながら、太平洋戦争直前期に衆議院議員であったせいだろうか、敗戦後には公職追放処分のうきめに遭った人である。多分、戦後の農地解放で甚大な損失を蒙った社会階層、すなわち「斜陽族」に属していた。

生年は明治28年(1895年)だから小生の祖父ともそれほど年齢が離れていない。祖父もそうだったが、大正デモクラシーの空気を吸いながら思春期、青春期を過ごしたからか、その世代に属する人は昔の人とは思えないほどリベラルな社会観をもっていた。確かに戦前という時代を想像させるエリート意識は、小生にもヒシヒシと伝わってきたものだが、当時は大学・専門学校といった高等教育機関への進学率が5%ほど、大学になれば1%位で、100人のうち1人が大学までいくかという時代だった。まして本書の筆者のように東京帝国大学法学部を出ていれば、その稀少価値はいま芸能界にも利用されている現代日本の東京大学の比ではない。

最初の章の題名は『人間のレッテル』である。何だか戦前期文人のエートス(≒気風)がにじみ出ている様だが、読んでみると確かにリベラルである。

著者本人は自らを「ディレッタント(≒好事家、趣味人、物好き)」だとしている。つまり特定のスキルで稼ぐプロフェッショナルではない。地主として農業経営に従事してはいたが、法学部を出たのであれば、土壌成分や作物、品種などの専門知識はなかったろう。農業については、現場に通じた農夫ではなく、あくまでもアマチュアで、それでも現場の専門家を超絶した地方の名士として尊敬もされ、何か地方単位で政治勢力がまとまれば指導者にも推される。縁があって衆議院議員にもなった。そんな人物によるエッセーである。

ただ第1章から傍線を引きたくなった個所もあるわけで以下に引用して覚書としたい。

どれもみな素人の限界近くまでは達したが、結局玄人の埒内には踏み込めなかった。これは主として私がディレッタントであるせいだと思っている。あるいは下手の横好きと云っていいかも知れない。私は「下手の横好き」を高く評価する。

由来、玄人は過去の固陋な世界に執着して、正しい革新を阻む宿命をもっているものだ。未知の世界への推進力となる者は多くは素人であり、玄人の縄張り根性が進歩の敵となる場合が多い。

大戦当時、東条大将は首相となっても現役を去らず、従って陸軍大将の軍服のままで議会へも出席した。演壇から居丈高になって議場を睥睨する総理大臣の軍服姿に、当時議席にいた筆者は早くからまざまざと敗戦の兆しを感じた。

再軍備が行われる時が来たとしても、極めて明瞭なことは、少なくとも総理大臣と軍部大臣だけは、断じて厳格な意味の文民大臣でなくてはならない、と云うことだ。

ロシア=ウクライナ戦争が勃発してから、遠い異国の日本でもTV画面には自衛隊関係者や外交専門家が連日のように登場しては、色々なことを語っていた。

いまも時々あんな調子でやっている。すべて反ロシア的だ。反ロシアという点では、EU(のごく一部?)が急先鋒、米国のトランプ政権が立場をロシア寄りに変更中、日本はいつの間にかト政権より反ロシア的な位置にいる。日本が親ウクライナを選ぶ何か具体的理由があるのだろうか?

日本の反ロシアが露中関係に間接効果を及ぼし日中関係の悪化につながりやすい。アメリカは新政権になって早々に立場を変更した。日本だけは義理を守って、実利を捨てる作戦のようだ。損得を重視し機会主義的に行動してきた日本が妙に頑なだ。不思議である。

いずれにせよ、メディア報道が反ロシアで一貫しているのは

素人の意見はダメ。専門家の意見を聴かないとダメ。

というか、そんな盲目的な信頼が土台にあるのだろうが、上に引用した本の筆者は、筆者一人というより戦地に駆り出されて膨大な犠牲を払ったあと戦後に生き残った同世代全体を代表したいという気分も混じっていたのか

あるスキル、特定の知識でメシを食っている「専門家」は「素人」である主人を必ずだます

そう言いたい様である。

要するに、戦争の専門家である軍人組織が素人である文民や国民を、更には素人である天皇陛下という主人をも下にみて、独善と隠ぺいと保身に陥った末に未曽有の大敗北を喫した。実に傲慢で無能。この一点が核心であると言いたいのであれば、小生も大賛成だ。

本書が出版されたのは昭和36年で著者の福田氏は昭和41年に70歳で亡くなっている。最晩年を迎えた時期に記憶をたどりながら書き綴ったのがこの随筆集なのだろう。その最初に、上のようなことを述べたのは、その年齢に至っても「これだけは言いたい」という事だったのかもしれない。

それにしても、不思議に思うのは、大正デモクラシーという極めてリベラルな社会哲学、政治思想を身に着けた世代が社会の中核となった時、なぜもろくも陸海軍上層部の軍国主義にのまれてしまったのか?

自由を圧殺するような国家総動員体制をなぜ日本は選択しえたのか?それほどまでの知恵者が軍部にはいたのか?いたのであれば、なぜ必敗の開戦をするような愚を演じたのか?

まあ多分

普通選挙の導入で民主主義が拡大したタイミングで、知的劣位にあってただ楽しい生活を求める、無思想・無理念の大衆に「清潔な」軍部がアピールして、高学歴の文民・知的エリートから政治的ヘゲモニーを奪取した ― 最後にはこのこと自体が日本の「軍事政権」を束縛する状態になってしまったとみているが。

そんな風に要約されるだろうが、しかし直線的に成功したわけではないし、大衆もそれほど阿呆ではなかったはずだ。にもかかわらず、日本の大衆は我とわが身を縛って国に捧げ莫大な犠牲を甘んじて受けた。目が覚めたのは昭和20年8月15日だ。

これまで好著は何作も出版されてきたが、まだ納得可能な答えは出ていないように思う。

【加筆修正:2025-11-29、11-30】

2025年11月26日水曜日

断想:再び『社会が家族の代わりになろう』なんてネエ、という話し

少年時代、父からは将棋を教わった。ただ、その頃の父はそれほど多忙ではなかったのだが、教え方はあまり上手ではなく、駒の動き方を一通り説明したあとの基礎力をどう上げればいいか、当人の頑張り次第だナと、そんな感じだった。だから一生の趣味になるほどのレベルには達せず、中学生になって勉強が忙しくなると、自然に遠ざかってしまった。

芸は身をたすく

今になって思うと、塾の試験で正解できなかった問題を解説してくれるより、将棋を教え続けてくれたほうが余程ありがたかった。

将棋から少し遅れて母方の祖父は碁を教えてくれた。ただ祖父母は遠方にいて、頻繁に行くことが出来ない。なので親の家に戻ると、自然に碁のことは忘れてしまった。碁は将棋ほど覚えることは少ない代わりに、それらしく打てるまで体感すべき事は多い。もし祖父が(一時代前のように)近くで悠々自適の暮らしをしていて、いつ遊びに行っても相手をしてくれていたなら、パズルを解くのが好きであった小生は碁に親しんでいたと思う。これも極めて残念なことである。


最近、時間が少しできてクライツィグの数学テキストやスミルノフを読み返すだけでは飽きるとき、取り組みがいのあるゲームをやりたくなった。

いまはAI搭載の将棋、碁アプリが数多く使われている。そこでGoogle Pixel Tabletに詰将棋をインストールして何年振りかで将棋を再開した。ところが勘がまったく鈍っている。少年期に一定のレベルにまで上がっていれば「鈍ってもタイ」のはずだが、早々にやめたから身についていない。それでも段々と感覚を取り戻してきたのだが、タブレットの画面では駒がいかにも小さい。文字も小さすぎる。駒は動くし、目が相当疲れるのである、ナ(^^;;;)。かといって将棋盤を買いなおすのは億劫だ。片手間でよい。

それで碁をやってみた。こちらは最初から習得したとは言えない幼稚なレベルだ。それでも日本棋院から優秀なアプリが提供されているので、昔に比べると格段に勉強しやすくなっている。

もし小生の少年時代に「Katago」や「KataTrain」、「みんなの碁」、「KGS」などというソフトウェアが利用できていれば、祖父の家から両親のもとに帰ってからも、やり続けることが出来ていたはずだ。

英語や数学、更には大学の専門科目である経済学や統計学は、確かに人生を歩むのに役に立つ。が、少なくともそれと同程度に将棋や碁も我が人生を豊かにしてくれていたはずだった。つくづくそう思うのだ。


現代日本社会でファミリー・ライフといえば「両親+子供」の核家族を指すものと決まってしまった。

今はそんなご時世だ。しかし、かつてはそうではなかったのだ。

父は仕事で忙しく、便利で多種多様な家電製品がなく、食事の宅配サービスもコンビニ弁当もない時代、専業主婦の母もまたそれほど子供の相手はできない。そんなとき、祖父母は格好の話し相手、遊び相手であり、また教師であった。何より都合がよいのは「無料」なのである。そこに若い叔父や叔母が来て、従弟妹たちが集まってくれば、自然にそこはフリースクールになる。参加者もまた楽しいのであり、すべて無料である。

今は子供が何かを習得しようとすれば、家族外の有料サービスを利用する(しかないだろう)。お稽古事、習い事など教育サービスの価格は結構高い。その教育支払いを負担するために共稼ぎを余儀なくされている若い夫婦も多いようだ。

幸い、小生が暮らしている町は地方の小都市なので、カミさんの友人はこのところ孫を引きうけ始めて、自宅がまるで幼稚園や託児所のようになっているらしい。これもまた「無料」だからきっと娘夫婦の助けになっていることだろう。

もちろん祖父や祖母は、対価を受け取って特定のスキルを教えるわけではないから、若夫婦が希望する教育をしてくれるわけではあるまい。

しかし、ものは考えようで、親が望む教育を子が受けることが子にとって楽しいものとは限らない。中国ドラマ『琅琊榜 ろうやぼう』の中の台詞だが

親、子を知らず
子、親を知らず

である。

無報酬で、ただただ自由な祖父母の語りは、子供にとっては最もノビノビできる時間である。


いま東京の中央政府は、解体されつつある《家族》の機能を《社会》で代替しようと(どのくらい真剣なのか不明だが)努力している様だが、軌道に乗るまで何年かかるか小生にはわからない。ひょっとすると、不可能な難問に挑戦しようと大法螺をかましているだけで、かつて東京都で実施されていた「学校群」のように、30年くらいたってから、その時の現役世代が

過ちては改むるに憚ること勿れ

などと下から突き上げて、結局、何の成果も跡形もなく放棄されてしまうかもしれない。いわゆる《社会目標》というのは、その時代に何故そのときの大多数の人々がそんなことに賛成したのか、後になってみると分からない、そんなものが多いことは日本人には周知のことである(はずだ)。(特に民主主義国では)政府も議会も、決して失敗の責任はとらない。というより、とれないのである。

2025年11月22日土曜日

ホンの一言: メディアは黙っていた方がよいのでは・・・という話題

 少し以前の投稿でこんなことを書いている:

世界観、宇宙観が変わってきたことは何度かに分けて投稿してきたが、上のように書いてみると、社会観は相変わらず同じであるとつくづくと思う。社会の在り方は、与えられたものではなく、人が選択して変えていくものであり、その意味では本質的に不確定で、私たちの前に実在するものではないということだ。文字通りに《有為転変》にして《諸行無常》。社会は要するに《空》である。こればかりは、ずっとわかっていたような気がする。

世界観、宇宙観、生命観等々は最近になって考え方が一変したのだが、こと人間のつくる社会観については同じ観方で変わっていないということだ。

そんな風なので今朝のワイドショーは疑問だった。テーマは最近流行の《終活》で、「まったく老いも若きもシュウカツには一生懸命なんだネエ」と思いながら視ていたが、

これまで家庭が担ってきた機能をこれからは社会が果たしていくということですね

MCがこうまとめていたのは、まるで台本通りにしゃべる阿呆な鸚鵡を連想させるものでした。

そもそも「社会」という単語は、明治の文明開化時代、輸入文化が浸透する過程で日本に定着した言葉で、それまで日本で「社会」という言葉は使用されていなかった。「世間」、「浮世」という言葉が普通に使われていた。つまり、「社会」という言葉にはヨーロッパ起源の価値観、イデオロギーが付着していて、人を特定方向に向かわせる、そんな統一志向的ニュアンスが最初から混在していることには注意しなければならない。そして、あらゆるイデオロギーから、本来、人は自由であるはずなのだ。

考えても御覧なせえ。誰でも齢をとる。年寄りと現役と子供たちが生活に困らないために家族はあった。家族で不足する場合は親族が協力した。これが伝統社会的なライフスタイルである。いま「これではいかん。旧すぎる」とキャンセル・カルチャーのターゲットになっているわけだ。

それはそれでよい。

しかし、自分が年老いたあと自ら育てた子供を頼るのは反社会的であると主張するなら、一体どんな夫婦がすすんで子供を育てるだろう?

子供というのはカネはかかるし、面倒はかけられるし、才能がある子供より才能がない子供の方がずっと多いのである。"Child Cost"は経済学の世界でも研究テーマなのだ。 

現代は都市社会、消費文明の時代である。子供は育てず、人生を楽しみ、最後は社会のお世話になろうと行動するほうがずっと合理的ではないか。


老後の終活を社会が支えるなら、その支える側の「未来社会」の柱、つまり未来の現役世代、すなわち子供の誕生、育児、教育、成人もまた社会の責任になるのではないか。当たり前の理屈だ。

親の終活を社会が支える姿をみながら、自分は何もしない現役世代が、自分たちの子供に何かを期待するだろうか?そんなエートス(≒気分)をもつ両親に育てられる子供たちは、自分たちの子供をあえて産み育てようと願うだろうか?カネと手間がかかるだけではないか。経済的には損をするに決まっている。社会ではなく、個人のレベルに降りてくれば、人はこんな風に考えるはずである。


普通の人なら、こんな簡単な理屈、分からないはずはないと思いますがネエ・・・。何だか飛車と角を心配するヘッポコが玉が危なくなっているのに気が付かない、そんな情景が頭に浮かびます。

こんな見当違いが蔓延する主因は、社会をマクロで考えて、ミクロの行動を忘れているからである。Macroの議論をするなら"Micro Foundation"(=ミクロ的基礎付け)が不可欠であるのは、経済学には限らない。

経済政策もマクロ経済政策だけでは良くならない。マクロの議論は「全体としては…」と常に発想する。トップダウンだ。官僚的と言ってもよい。人は同じように行動すると考える。しかし、全体は一人一人の人間、個別の家族/世帯から成り立っているのだ。いくらマクロでこうするべきだと考えても、ミクロのレベルで同じ方向に向かわせる力が働かなければダメだ。

社会で老後を支えよう。家族には頼らないようにしようと考えるなら、老後を支える次世代の育成もまた社会の責任としよう。個々の家族には任せないようにしよう、と。こう思考しなければ、ロジックが通らない。

しかし、こんな提言がメディアに出来ますか?子供を産む・産まないは夫婦の自由であると、誰もが賛同するのではないか?社会のために子供を産んでくださいと連呼しても、それは違うと誰もが言うはずである。出産・育児を社会化する計画は無理なのだ。

本来は出来ないのに、できるかのように仮定したうえ、出来る部分だけを語って「だから出来る」と提案するのは極めて不誠実である。だから日本のメディアは信用されないのだ。

小生自身の「社会観」は、上に引用したとおりであるが、ほぼ同じことは英国のサッチャー元首相も言っている。前に何度か引用したことがあるが、最近の投稿のみ再掲しておこう:

... they are casting their problems on society and who is society? There is no such thing! There are individual men and women and there are families  ...

彼らは社会に問題を押し付けている。社会って何?そんなものは存在しない!男性も女性も個人も存在するし、家族も存在する(しかし)・・・

「家族」が現に機能しているのに、「社会」(=コミューニティ)の方がより重要だから、社会が家族に代わるべきだというなら、まだ良質の提言だ。真の社会主義的正道である。

しかし、現在の日本は、「家族」が機能しなくなっているので、「社会」に頼っているだけだろう。頼れる先を探したら、それは社会しかないと言うなら、実に無責任である。

老後・終活を社会化するなら、出産・育児も社会化しなければ、必ず失敗する。しかし「社会」などという実在はない。実在しないはずの社会が、あるかのように議論をして、ただ財源を調達するために法律をつくって増税するなら、それは《苛斂誅求》という古語に当てはまる。


出産・育児の社会化など、日本のメディア企業は口が裂けても言えないはずだ。であれば、「終活を支える社会」などとソフトなことを言わず、ただ黙っているにこしたことはないのである。

西洋を手本として歩んできた日本社会は追い込まれている。貧すれば鈍す。だから愚論を口にするのだろう。この件については、前に投稿したことがある。これ以上は本稿で記すまでもない。

2025年11月20日木曜日

ホンの一言: 「両刃の剣」の忍耐限度には日中で差があるのでは?

最初から北京政府は高市首相の出現を警戒していたが、当たり前のことだ。日本国内でも同じ警戒心はあったし、今もあるものと推測する。高市首相の支持基盤は最右翼を形成する超保守的な日本人有権者の集団なのである。

ここに来て、中国は日本産海産物の輸入再禁止に踏み切った。とはいえ、これを以て中国政府は高市首相の支持率低下戦略に舵を切ったと即断するのは早計かもしれない。


日本国内の報道では経済政策にまで対日攻撃を拡大するのは中国にとっても《両刃の剣》だと講評する向きが多い。

21世紀に入ってから、国内メディアがそのニュース解説で一体何度この「両刃の剣」という表現を愛用してきたか、もう日常用語になってしまった感覚もある。

しかし、以前の日本人なら

肉を切らせて骨を断つ

こちらの表現をより好んで使っていたような記憶がある   ―   ずいぶん昔になりましたが。

こんな所にも現代日本人がいかにソフト(≒軟弱?)になり、リスク嫌悪の感覚をもつようになったかが見られると思います。多分、そんな退嬰的な感覚が蔓延する根底には、人口の高齢化・少子化と低レベルの移民政策がシンクロして働いている、と。そう観ております。


同じ趣旨の表現は英語にもあるだろうと調べてみると、

Lose a battle to win a war

戦闘に負けて戦争に勝つ

どうやらこれが該当するようだ。

囲碁でいえば「7子を捨てて地合いをとる」と言った戦略感か。将棋で言うと「飛車を捨てて玉を詰める」とでも言える。

実際、中国の国民党政権を相手に始まった日中戦争で中国側が選んだ戦略は、文字通り「肉を切らせて骨を断つ」といったものだった。マア、肉を切られたのは中国で、骨を断ったのはアメリカだったが、それでも第二次世界大戦後を通して中国は"Forgotten Allies"として確かな評価を得ているのである。

中国は領土、人口に恵まれた大国であるからだろう、犠牲を厭わない傾向がある。それに対して、日本は犠牲を嫌がる。損失の拡大を心配する。速戦即決を好む。日本人が機会主義的だとよく言われるが、それも地政学からみれば仕方のないことである。

少なくとも中国は「両刃の剣」の忍耐限度が高いと予想しておくべきだろう。それに対して、日本は忍耐心には(最近は特に?)欠けていると観ている。支持率低下に脆弱なのも日本側である。


もちろんこの「忍耐心」は国民の団結心や絆のことを指すのではない。あくまで勝敗を争う戦略ゲームにおいてである。念のため・・・ただ、マア、こう言い切れるのか、迷うところで、日本が日中戦争を通して中国を叩けばたたくほど、劣勢のはずの中国は想定外にまとまり、世界は中国に同情し、日本は苛立ちを強め、追い詰められ、内部に亀裂が入っていったと理解しているが。

それにしても、高市首相の台湾有事発言。この答弁を引き出した立憲民主党の岡田議員に「余計な質問をする」、「誰が得をしているのか」などなど、批判が寄せられているらしい。呑気だネエ・・・ホントに。小生が思い出したのは、ホワイトハウスでトランプ大統領とゼレンスキー大統領が口論になった事件だ。ゼ大統領はヴァンス副大統領の挑発に乗ったと、今では誰もが思っているが、高市首相も岡田議員の挑発に乗った。(見ようによって?)そうとも観えるわけで、だとすれば「打倒高市」を胸中に抱いている勢力は、極右より左側に位置する広い範囲にそれだけいるわけでありましょう。

2025年11月18日火曜日

断想: 中国に明るい未来はあるのだろうか?

日中関係は(歴史問題をたとえ脇に置くとしても)100年単位でみて、決して蜜月関係にはならないだろう。

そもそも米中関係がどれほど改善されても、米軍基地が日本国内にあり、中国軍基地がまったくないわけであるから、米と中はいわゆる《タカ・ハト・ゲーム》の状況に置かれているのであって、である以上は自ら《ハト戦略》を選択するロジックはない。そんな戦略的状況の下で、日本は米側に属しているのは(ほぼ?)自明であるから、中が日に対してソフトに行動する理屈は(ほぼほぼ?)ない。

高市首相の国会答弁から又々こじれている様だが、日常茶飯事の小競り合いと達観して、覚悟しなければやってはいけない。

ただ、外交には全く素人だが、簡単な理屈くらいならカミさんともよく話している:

カミさん:また台湾のことで高市さん何か言ったの?

小生:中国が戦艦を繰り出して台湾を包囲して、アメリカ海軍との武力衝突があるとするなら、これはもう日本にとっては「存立危機事態」だと、そういったんだよ。中国は台湾のことに口を出すなって激怒しているわけさ。

カミさん:起きてもいないのに、なんでそんな事を言ったの?

小生:高市さんの本音が出ちゃったんだろうネ。日本が「存立危機事態」を宣言すれば、自衛隊は行動を起こすし、そもそもそういうことをしようというのが高市さんだと言うことさ。

小生:ハッキリ言わなくてもイイのに・・・怖い人なんだね、高市さん。

小生:外交や国防に詳しい人はみんなそう言ってる。お手本はサッチャー首相みたいだし、これからもあるんじゃないのかナア・・・

 一介の専業主婦である小生のカミさんすら「いまそれを言う?」という感性はあるようだ。

ただ思うのだが、「台湾は中国の領土と日本が認めている」というのは、(専門家の議論があるようだが)やっぱり一寸違うのだろう。

台湾は日清戦争のあと日本に割譲された。日本が太平洋戦争に降伏するまでは日本の領土であり日本が統治した。ただ領有権を日本に譲渡したのは清王朝だった。その清王朝は辛亥革命で崩壊したのだが、それを継ぐ中国の公式政府は北京の袁世凱から軍閥へと混乱し、やがて孫文・蒋介石と続く国民党が北伐を開始し優位に立つことになった。日本は反・国民党の立場を選び日中戦争への道を歩んだ。日本は第二次世界大戦で無条件降伏し、台湾は中国に返還された。その時の中国政府は蒋介石の国民党政府だった。国際連合の常任理事国に選ばれたのも国民党の「中華民国」である。その後に起きた「国共全面戦争」はとても複雑で本稿で短く要約するのは無理である。結果としては、共産党が軍事的勝利を得て毛沢東が「中華人民共和国」の建国を北京で宣言し、国民党勢力の掃討戦を行う。蒋介石は中華民国首都を重慶から成都へ移し、最終的に台湾・台北に首都を遷都した。その後、中国統一を目標とする北京政府は台湾を制圧しようと前哨戦である金門島上陸作戦を展開したが想定外の猛反撃に遭い敗退した。形の上では、正式な政府である中華民国と、中華民国を軍事的に打倒した中華人民共和国が並立・対立する状況がずっと続くことになった。

アメリカと大陸・中国との国交は1971年の米中接近を経て1979年に正常化し、アメリカは中華民国と断交し、北京政府が中国の唯一の公式政府として認められた。が、アメリカはその後も台湾との外交関係を非公式に続けてきている。日中国交回復も枠組みは同じだ(と理解している)。


台湾が日本の領土でないことは自明である。もちろんアメリカの領土でもない。ではどこの領土か?

北京政府と台北政府はなお敵対関係にあって《講和》は成立していない。台北政府にとって台湾は仮の居場所なのであろう。ちょうど首都・開封を追われた「北宋」が南方の臨安(現・杭州)に首都を遷し「南宋」と称した故事と似ていないまでもない。臨安とは「臨時の首都」であるという意味だ。北京政府からみれば台北政府は(軍事的に敗北しているにもかかわらず)台湾を「占有」し、北京政府の統治権を認めようとしない。

故に、台湾を領有するのは北京政府か台北政府かを単純に決めるのは中々難しい。


確かに北京と台湾の関係は「中国の内政問題」であるのだろう。この認識は北京と台北双方に共通の認識のはずで、日本やアメリカ、その他の外国が介入する事柄ではないと、双方とも考えているはずだ。少なくとも日本の領土に関する問題ではなく、アメリカの領土問題でもない。たとえは悪いが、日本にとっての「北方領土問題」を見る視線とロシアが見る視線が正反対の関係にある事情と似ているかもしれない。アメリカが北方四島の領有権に何か意見を言えば、ロシアは『これはロシアと日本の問題だ』と口先介入を非難するであろう。

中国を統治している唯一の公式政府だと自認し、また承認されている北京政府としては、台湾を占有している「台北政府」を解体し、大陸と統合するのは国家目標なのだろう。しかし、日本が返還した台湾を受け取った「中華民国」が台湾に移り、台北政府が台湾領有権を主張するとすれば、日本がその正統性を否定するのは難しい。少なくとも、北京政府が台湾領有権を継承していると主張するのは、旧政府が現に台湾に存在し領有権を主張している以上、無理があると感じる(はずだ)。

「北京(=中国)が台湾領有権を現にもっていると日本が認めたわけではない」という議論にはそれなりの理屈がある。

このように、どこまでも平行線である。

仮に、北京政府がソフト・コミットメントを採って、地方分権的原則に基づく《中華連邦制》を目指すとすればどうなるだろう?

中国は共産党による集権的計画経済では最早ない。共産党の優越的地位さえ認めるなら、それでイイと北京政府が達観してしまえば、あとは高度の自治権を獲得した方が、台湾ばかりではなく、中国国内の各地域にとってもウェルカムであろう。

国を問わず、時代を問わず、領有権の筋道など普通の人にはどうでもよいことだ。毎日が楽しく、暮らしが豊かになれば、その体制が最も好いのである。

政治は宗教とは違うし、理念は信仰と違う。政府は教会ではない。価値観などと小理屈を言わず、人々の暮らしを豊かにする平和な空間を創造してくれるなら、それが客観的な意味合いでも最良の政府であるに違いない。

豊かで広大な社会を造ったうえで、中国発祥の新たな文明を創り出していくのが、北京政府にとっては最適戦略だと思うがいかに?

ただ、創造と破壊を共産党が心底から怖れているなら、こんな方向は無理だろう。


 

2025年11月14日金曜日

断想: 社会体制は「所与」ではなく「選択」の結果ということ

政府に与えられた課題には三本の柱がある。

  1. 統治能力の維持
  2. 財政
  3. 国防
この三つだと思っている。

二番目の財政だが、財政が破綻するとき、つまり財政赤字の膨張が制御不能になるとき、国家が維持できないという点は何度も投稿している。その財政規模はその国の経済に依存するから、財政は従属変数である。故に財政需要を賄うためには、その前提としてマクロ経済を成長させなければならない。市場的要素と計画的要素をどのように混合するかという点は、年金や医療の社会保障のあり方で現代日本が混乱しているのは周知だが、それでも本来は枝葉末節の事柄(の一つ)に過ぎない。

三番目の国防だが、これも従属変数であって、国防の具体的内容はその国の外交に依存する。外交に失敗すれば国防はより困難になる。逆は逆だ。

財政と国防を満足すべきレベルで進めるのが有能な政府であるのは理の当然で、これが最初の《統治組織の能力》になるのだが、統治組織は大きく民主主義的統治と権威主義的統治に二分される。「権威主義的統治」が君主制や独裁制と言われなくなったのは、例えば共産党の一党独裁のようないわゆる「人民独裁」もありうるからだろう。

民主制、君主制と、いずれにしても財政と国防を巧みに行えば、国民は安心して暮らせるというのは、たぶん永遠の真理だと小生は思う。前にも投稿したことがあるが、先験的に、つまりそれ自体として民主主義が善いとか、君主制はよいとか、そのような議論は虚妄である。

つまり民主制と君主制という区別は、世間でよく語られているように善か悪かではなく、目的合理的な《選択》である、と。そして、どう選択するかは、その時代の環境、科学技術、価値観等々、色々な因子が働いて社会的に決まってくる。そう思っているのだナ。

政府の進める財政(金融も)政策、国防方針が、その国の経済状況、安全保障環境や外交環境といった《政治目標》の達成にどのように寄与するか?その時代、その時代で、民主的な統治組織が成功するための十分条件なり必要条件はあるし、立憲君主制的な、あるいは専制的帝政といった統治組織にもやはりそれがうまく行く条件がある。その条件を探求することが、本来は政治学に期待される問題なのであると思う。

残念ながら、経済学における「比較経済体制論」のような専門分野は政治学にはないように見える ― 政治学には門外漢の小生の勉強不足かもしれない。

高校の世界史の授業を思い出すと、歴史上の王朝国家、帝国や王国が破綻する契機として、しばしば戦争での敗北が挙げられる。対外戦争や内戦など軍事上の敗北によって国が消滅するのは、高校生にとっても実にわかりやすいが、それが外交上の失策によってもたらされたことを理解するのは、少々高級な問題意識である。まして、その前に財政事情が悪化していた事に意識を向けることが出来たのは、クラスの中でも少数であった。

そして、このような「統治上の失敗」は、いわゆる権威主義的国家でも、民主主義的国家でも、どちらでも起こりうる失敗なのである。歴史の授業に意義があるとすれば、このことを10代のうちに理解することではないだろうか?実際、現代世界においても不安定な統治状況はその国の社会体制が民主主義か権威主義かという単純な二分論とは関係なく発生している。民主主義か権威主義かによらず腐敗する政府は実際に腐敗している。

カギは、どちらの国家が統治上の失敗を起こしにくいか?この一点につきる。会社が発展していくかどうかは、常に現状を評価しながら社内体制を変革していくことが欠かせないし、プロ・スポーツのチームを編成するときには「どんな体制にすれば勝てるチームになるのか?」。有能なオーナーならこれを考えるはずだ。人間集団には《目的》があるものだ。その目的を社会全体の視点から探してみると、結局は「平和」と「豊かな暮らし」の二点に落ち着くはずである。目的を意識しない社会は漂流している。目的を意識できない政府は無責任であって無能である。これだけは言えるのではないか。

世界観、宇宙観が変わってきたことは何度かに分けて投稿してきたが、上のように書いてみると、社会観は相変わらず同じであるとつくづくと思う。社会の在り方は、与えられたものではなく、人が選択して変えていくものであり、その意味では本質的に不確定で、私たちの前に実在するものではないということだ。文字通りに《有為転変》にして《諸行無常》。社会は要するに《空》である。こればかりは、ずっとわかっていたような気がする。

もちろん上でいう「選択」とは、社会的選択であって集団的選択である。故に、誰一人として自分が選択したという自覚を持つことはない。それでも特定の結果として社会が変わっていく以上、それはその時に生きている人間集団が全体として選んだという理屈にはなるのである ― ほかに議論のしようもあるが、今日は一応ここまでで。

2025年11月12日水曜日

ホンノ一言: 日米の相場観、マネー感の違いなのか?

本日はつまらない感想だけ。

SmartNewsに載っていた東スポ記事のヘッドラインが目を引いた:

大谷翔平 WSオークションで第6、7戦ロッカータグが568万円!最高値は歴史的お宝で1598万円

「ナニナニ?」と思って検索すると、Yahoo Japan!ニュースにも掲載されていた:

MLB公式サイトが行っていたドジャースがブルージェイズを4勝3敗で下して球団初の連覇を達成したワールドシリーズ(WS)の実使用グッズのオークションが9日午後8時(日本時間10日午前10時)に締め切られた。第6戦と第7戦にロジャーズ・センターのクラブハウスで使用された大谷翔平投手(31)のロッカータグは3万6970ドル(約568万円)で落札された。

こんな説明がある。更に、

最高値は第7戦で7回から延長11回まで使用された一塁ベースで10万3930ドル(1598万円)だった。11回一死一、三塁でカークの遊ゴロをさばいたムーキー・ベッツ内野手(33)が二塁を踏んで一塁へ転送して併殺を完成。フレディ・フリーマン内野手(36)が両手を挙げて万歳したシーンはWS連覇を象徴する名場面の一つだ。

ということで、落札金額にも少々驚いたが、実使用グッズのオークションがMLBの公式サイトで開催されていたことにも興味を覚えた。

ちなみに<NPB オークション>で検索すると、「SMBC日本シリーズ2024チャリティーオークション」や「マイナビオールスターゲーム2025チャリティーオークション」などの開催例が挙がってきた。

ふ~~ん、日本のプロ野球でもやっていたんだネエ・・・知らなんだ

見直しました。得られた収益は「緑の募金」、「日本赤十字社」へ寄付して公益に寄与するとのこと   ―   植樹、能登半島被災地支援などだ。

但し、マイナビの方の収益が2600万円弱であるようで、この間のWorld SeriesのGame Sevenの9回裏に山本投手がブルージェイズのバーショ選手をセカンドゴロに打ち取った時のボールに1246万円の値が付けられたそうだから、MLBオークションでは1塁ベースと2ゴロ球の二つだけで、日本のオールスター・オークションの収益総額を超える。

ビジネスの規模が違うと言えばそれまでだが、

相場観、マネー感が日米でこれ程まで違うなら、MLBが実施する試合の放送権を日本がとれないとしても、当然であるナア。

と、そう感じました。

利益重視の民間が自由に行う経済活動や技術開発、商品開発を変化を嫌う日本政府が抑えてきた30年。

今や、司法当局、捜査当局に取り調べを受けたり、目をつけられたりする事が最大のリスクとなった。日本では「やりすぎる人」は排除されるが、「やらない人」は地位を守れるのである。そんな国民性を民主主義の政府が支援し、公権をもって代行している。だから、人々の味方であるメディアも、誰かが逮捕されれば被拘束者ではなく、拘束した側の警察を応援する。検察を励ます。阿呆に見えて仕方ありませぬ。

ついにここに来て

そして日本からはアニマル・スピリットを有する人物が誰もいなくなった

会社や役所で指示に従う人、前例に従う人を除けば、おしゃべりをする人と、駄文を書く人くらいになった、世間で目立つ人は。こう言うと言いすぎか?


2025年11月10日月曜日

断想: ファイル整理をしていると「瓦全」という言葉が見つかって・・・

前稿で書いたPC更新で古いOneNoteファイルを整理していると、偶々、安井息軒の≪瓦全がぜん≫を解説したページを見かけた。

そういえば、現代日本ではこの≪瓦全≫という言葉、学習指導要領ベースの授業内容としても、普通に期待される教養としても、完全に死語になってしまったネエ・・・そんな風に思いつつ「そういえば、この瓦全という言葉、出典は何だったかいナ?」と疑問に思った次第。

それで検索してみると、≪玉砕瓦全≫という四文字熟語の半分であることが分かった。更に調べると、西郷隆盛が作った漢詩に

幾歴辛酸志始堅
丈夫玉碎恥甎全
我家遺事人知否
不爲兒孫買美田
があることが分かった。読み下すと

幾たびか辛酸を歴て 志始めて堅し
丈夫は玉砕するも 甎全を愧ず
吾が家の遺法 人知るや否や
児孫の為に 美田を買わず
になる。

第四句の『美田を買わず』は有名だが、作品全体はこれまで知らなんだ。そうか、この中に「玉砕、瓦全」という句があったのか・・・そう思った次第。しかし、安井息軒と西郷隆盛、互いに同じ漢句を使うというのも変だ。そう思って更に調べてみた。すると

「瓦全」の出典は、中国の正史『北斉書・元景安伝』です。この書の中の「大丈夫寧可玉砕、不能瓦全」(立派な男子というものは、玉のまま砕けるべきであって、瓦のまま生きながらえるものではない)という言葉に由来します。
こんな解説がすぐに出てきた。ここがネット普及の素晴らしいところで、以前の世界とは最も大きく違う、というか進んだところだ。

なるほど、元々の「瓦全」は「玉砕」に対立する言葉であったのか。「大丈夫」たるもの「玉砕」を志すべきであって、「瓦全」を願うなどは恥である、と。ふ~~む、なるほど100年少し遡れば、日本社会にも男子の本懐、男子の覚悟というものがあったンだなあ、と。こんな風にも思いました。

しかし、安井息軒は玉砕ではなく、瓦全の人生を全うした、と。そんな風に自己認識をしていたようである。とすれば、これは自虐の思いを込めて「瓦全」と言っていたのか?

宮崎の安井息軒記念館のホームページにはこんな説明文がある:

明治5年(1872)元旦、息軒は書き初めで「瓦全」と書きました。あまり聞き慣れない言葉ですが、さてその意味はいったい何でしょうか?

「瓦全」とは「玉砕」の対義語です。「何もせず、無駄に保身し、生き長らえること。 失敗を恐れ、あえて挑戦せず平凡な結果に満足すること」という意味です。息軒はいったいどういった心境で、この二文字を選んだのでしょうか?

しかし、説明はここで終わっている。文字通り
The question remains open
である。
 

ただ思うのだが、現代日本社会では「玉砕」は否定され、誰しも「瓦全」の人生が良しとされているのではないだろうか?

こう書くと、女性蔑視であると批判されるかもしれないが、特に母親なら我が息子には長生きしてほしい。いくら有意義な仕事があるからといって死んでほしくない。生きてほしい。人間、死ねばそれきりだ。親に先立って死ぬなどあってはならない、と。母親ならそう願うのではないかなあ、と。カミさんに確認したことはないが、上の愚息に毎晩電話している姿をみると、そう思わざるを得ない。ちなみに、小生は男性であるせいか、自分の命は有意義に使いたいと思っている。息子には「玉砕」は寂しいが、「瓦全」を真っ先に志すような、そんな情けない(?)人生観は持ってほしくない。少なくとも、そんな感情に共感する気持ちがある。『山高きを以て貴っとからず。人生長きを以て貴からず』と、確かに共感する自分がいる。女性はどうなンだろう?… … …、残念ながらわかりません。

上の安井息軒にしても、西郷隆盛にしても、元々の人物・元景安にしても、すべて男性である   ―   元景安はむしろ瓦全の方であったが。善悪の基準である倫理・道徳・モラルは、まず例外なく男性が唱え、男性が書き著してきた古典に基づいていると言ってよい。男性同士が異論をぶつけあって、時には形而上学的な激論を交わしながら、モラルは形成されてきた。そこには男性の感情、男性の感覚が色濃く反映されている(と理解するべきだろう)。だから、いまは善しとされている「男女共同参画社会」においては、特に女性の感覚からみれば、

こんなモラルはおかしい。押し付けないで。
いま流行のキャンセル・カルチャーの根底にはこんな潜在的なドロドロとした社会心理があって、男性と女性を隔てる潜在意識上の溝を構成しつつあるのではないか?ほんと、どうなんでしょうネエ?、と。こんな疑問がないわけではない。

しかし、ラディカルなキャンセリズムにも道理があると肯定してしまうと、結局訪れるのは、"anti-moralism"、"anti-religion"となって、何もかもいま生きている人間が決めていってイイんだ、と。生きている間だけに意味があるンだ、と。何だか、こんな風に唯物論的に社会は進んでいくのじゃあないかと≪懸念≫しているわけであります。完璧な唯物論的世界観に立てば、一切の「価値」なるものは、空なる観念、実質的意味を有さない言葉遊びになる理屈である。どんな世の中になるか、目に見えるようではゴザラヌか。「地獄」は空想であると断ずるタイプの人間が現実の地獄をこの世でしばしば経験するのである。

いや、いや、安井息軒の瓦全から、今日は大げさな話になってしまった。これも覚書きということで。

2025年11月8日土曜日

断想: 「生体認証」、「本人確認」、「パスキー」、「認証コード」の嵐。それより英語が一択です。

ずっとWindows10で愛用していたMicrosoft Surfaceを諦めてHPのLaptopを買った。セットアップを終わって、使い心地を点検している段階だが、ディスプレイの色合いといい、キーボード打鍵感、キーのサイズといい、Surfaceが都会育ちのレトリーバーとすれば、HPはまるで田舎で働いている牛である。確かに、CPUもRAMも一段階上がって、タフで動作は早いが、ただそれだけになる可能性が高い、第一印象としてはというところだ。

ただ思うのだが、電子計算機(電算機)、というかコンピューターというのは、ハードウェアの能力がいくら飛躍的に進歩しても、ちっとも使い勝手が良くならない。

振り返ると、この事実に愕然とするくらいだ。その昔のメインフレームはマンション1戸分ほどの床面積を占めながら、能力はいまのスマホ並み、使いにくさはマニュアル式の自動車のほうが遥かに使いやすい代物であった。オペレーターの資格をもった人々は、恐れ多くも電子計算機を管理・運用できる専門家であったわけで、下々の一般ユーザーは自動開閉扉の内部には侵入できない規則であった。そんな不便な時代が何年続いたろうか・・・。

そのうち、Personal Computerなるものが出てきて様変わりした。その前に、確か≪ワープロ≫なる製品が一世を風靡して、誰もが富士通製"Oasys"の親指シフトをほめちぎるようになった ― あっという間に市場から淘汰されたが。そんな思い出は以前の投稿にも記してある。

小生の愛用機は、メインフレームからPC98機、それからAppleのMacintosh Plus、SE/30へ急速に小型化した。ちょうどその頃は、VaxやSunがIBMを駆逐し始めた時期に当たるのだが、結局、仕事ではWindowsで落ち着いた。一体、何台のPCを使っては廃棄してきたのだろう。いい論文につながった縁起のよいマシンもあったし、鳴かず飛ばずのまま更新された機械もあった。一時、Windows Serverに道草をしたが、今はWindows11 Homeで十分だ。ブラウザとエディタ―の他はとりあえずRstudioとAnacondaを入れておけば、やりたい事はほぼ全てやってくれる。前のSurfaceには多数のソフトがいつの間にか増えていたが、本来は、これで充分なのだ。そうそう、EvernoteとOne Noteには溜めたデータがあるので必要だ。あと不可欠なのは・・・マ、その時になってから決めよう。

それにしても"Pre-Internet Age"の間のパソコン世界というのは、音響カプラーやらモデムやらを繋いで公衆電話回線経由でデータ通信していたわけで、実にのどかなものであった。いまから思うと小さなサイズでしかなかった"Rogue"の圧縮ファイルを無事にダウンロードできるか心配しながら進捗状況を見つめていた夜の何時間かが懐かしい。

その頃のメインフレームを遥かに凌駕するHP Laptopの512GBもある内臓ディスクはまだスカスカである。こんなにいらなかったネエ・・・ずっと前は640MBのMOでもビッグデータと思ったものだが、いつの間にか「容量感覚麻痺」になっていたようだ。

しかし、100GB超の真正ビッグデータを使って初めてわかるような真理なんてあるのだろうか?ハッキリした真理ならスモールサイズのサンプルから推定、検定できるだろうに。1000万人も調べて初めて分かることなど、些細な事実じゃあないのか。意味ないネエ・・・だけど、進化したハードウェアだけがこなせる、ビッグスケールの仕事を創出しないといけないんだよネ、と。そんな風に思うこともしきり。

メインフレームは大空間を占拠した。今の高速PCは拡大したデータ空間を占拠して疲れもせずに動いている。何だかタコが自分の足を食っているようだ・・・

いや、これはまた別の話題であった。



HPのセットアップをしているとき、スマホとの連携を聞いてきた。

そうかあ、スマホと連携できるようになったのか・・・リモートでスマホからPCを操作できるのだネ・・・これは技術革新だ
と思うが、実はもう陳腐な技術なのだろう。

一体、これで助かったと思う人は、現代社会にそれほど多くいるのだろうか?便利なことは便利だが、その便利さが社会をどれほど効率的にしているのか、小生にはわからない。何だか作る側の自己満足だったりして・・・と思わないことはない。

でもマア、試しにやってみるかと。そう思ったが、何か「ネットワークが設定されていない」と。こんな内容のメッセージがスマホ側に表示されて、うまく行かない。何度か試みたが、マア、その過程でいわゆる≪本人確認≫を何度強制されたことか・・・わかりますけどネ。
ほんと、わかりますけどネ。犯罪が進行中じゃないのか?その心配は分かりますけどネ。それにしても、マア、使いにくいネエ・・・ログインするだけで生体認証やらパスキーやら入口が面倒化している。一度最初にやっておけばイイ、そうなの?でも、昨日と同じことをまた聞かれたよ、「お前、本人かってサ、それでいて指紋読んでくれない時もあるし、無理してナニやってるんだヨ。何をしたいんだ?」
正直、こんなやり取りが出来たらナア、と感じます。


ハードの技術革新は、社会の側の悪用可能性と必要な対応で相殺されて、ネットではほとんど技術革新の恩恵がピンと来ない。やることは単純な分析と文章作成だけなのだが・・・。こんな感想もあるようで。

作業日誌の断片をコピペして覚書としよう:

2025-11-07 HP Laptopスタート時: SONY Experiaではうまく行かず、Google Pixel Tabletで本人確認。PC画面のQRコードをExperiaでは読めず、Pixel Tabletで読む。Googleのパスキーを生成。Yahoo Japanにログイン成功! 但し、どこまでがYahoo、どこまでがGoogle上での出来事なのか、詳細にはフォローできず。
2025-11-08: Yahoo Japanにログイン時、再び本人確認。Google TabletでQRコードを読み、次いで生体認証。更に、Yahoo Japanに移行して「パスキーを作るか?」と確認される。作ると回答。また生体認証で本人確認。「これでいいか?クソめ!」とつぶやく。

ログインできること自体が有難い時代である。

多くの人にとって、上手にログインできるように知識を吸収するよりは、まずは英語で意思疎通できるようになる方が、現代世界ではよほど有益だ。その意味で、日本人にとっては英語一択の事情に変わりはない。

【加筆修正:2025-11-09】

 

2025年11月4日火曜日

断想: MLBのワールドシリーズもやっと終局に至って

MLBのワールドシリーズが終わった。毎日、多数者の予想を知りたいので賭けのオッズを見ていたが、事前予想は圧倒的にドジャース優勢と観られていた。それが最終的に紙一重の死闘が展開されたのだから、勝負事はやってみないと分からないものである。ドジャースがホームのLAで1勝2敗と負け越し、王手をかけられた時点では、さすがにこのままブルージェイズが押し切ると観る人が増えたようで、オッズも逆転したのだが、それでもドジャースは敵地で連勝した。今回のシリーズの特徴は事前予想がステージごとに裏切られ続けた点にあった。その意味で

サプライズに満ちたシリーズであった

こんな風に勝手にまとめているところだ。

時には、説明不可能な《天祐》の様なものが作用しているのかと思う事もあった。本当に《天運》というものがあって、天運がドジャースに味方しているなら、ブルージェイズが勝てないのもムベなるかな、である。

古代ギリシア人たちは、戦争の勝敗や国家の衰退は神々の争いが人間世界に映し出された結果であると理解していた。

ホメロスの『イリアス』を読むと、それがよく分かる。人間個人ゝの生涯を貫く道理と道筋は、人間には人間の解釈があるのだが、その背後には神々の対立抗争とそこから派生した因果が縁となってその人の人生を決めていくのだ、と。悲劇『オイディプス』は、あらかじめ定められた運命のとおりに生きるしかなかった人間の無力さを描写している。

人間は神の思いのままに生きるしかない、と言われればその通りであるが、現代科学主義の立場にたって世の中をみれば、人間社会の出来事はすべて人間が決めることが出来る。不幸は、人間社会の指導者の責任である、と。こういう議論になるから、古代から現代にかけて、人間が世界を観る目は180度真逆に転換してしまったと言える。

仏教では、ギリシア人が《運命》と呼んだ人生航路を《業》と言っている。ただ、永遠の過去から続く輪廻転生を通じて生まれる時に定まった《業》が、後天的に100パーセントの確度でその人の人生を決定づけるわけではなく、たまたま起きる出来事が《縁》となって、本来の《業》が現実化する。こんな世界観である。

前期までの実現値と今期のランダム要素とが、互いに絡まり合いながら、今期の値が決まっていくという意味では、統計の$\textrm{VAR}$モデルを連想させるところがある。$\textrm{VAR}$モデルでは、他の全ての変数の前期までの実績が今期の各変数に影響を及ぼすが、今期の他変数の変動からは影響されない。その意味で同時決定的ではない。この同時決定的ではないという所で、仏教の《依他起性》とは異なっているのかもしれない。

いずれにせよ

過去の出来事が現在および将来の値を決める

因果分析と言うのは、過去から将来への時間の流れに沿った議論になるのだが、しかし全ての変数の変動は、ある目的を達成するために目的合理的決定から定められた経路をたどっているだけなのだ、と。こんな正反対の見方も当然あるというのは何度も投稿した通りだ。たとえば、現在から将来への消費から得られる満足を最大化しようと考えるなら、いまこれだけの消費しかしない原因は、過去にあるのではなく、現在から将来にかけての収入、それも予想された収入の低さにある。楽観的に将来をみれば現在の行動は楽観的になり、逆は逆。昨日までがこうであったからと言って、それが今日の行動を決める理屈にはならない、と・・・

・・・マア、色々と議論はできる。

それはともかく、何となく

こんな結果になるのは、前から決まっていたような気がするし、もう一回やっても同じ結果になるような気がする。

こんな思いは、誰でも一度は感じたことがあるのではないだろうか?

人間には知性があるので、単純反復はしない。歴史は単純には繰り返さない。しかし、韻を踏む。形を変えながら、結局は同じ結果になり、状況は必然的に定められたとおりに変わって行く。それが《法》、つまりは《法則》というものだ。それが事前に予想できなかったのは、他でもない《人間の無知》による。

ソクラテスも言ったではないか。

人間は本来何も知らない。しかし自分は自分が無知であることを知っている。

と。

思うのだが、デカルトが発見した《考える我》とソクラテスの《無知な我》とを対立させるとき、小生はソクラテスの(というよりプラトンの)人間観にずっと共感を覚えるようになった。

今回のワールドシリーズでは事前の予想が裏切られ続けた。しかし、終わってみると、何だかドジャースが最後には勝利するべく定まっていたように思える感覚もある。

小生だけでしょうか?こんな感覚を覚えるのは?




2025年10月31日金曜日

ホンノ一言: コメ政策。これもお目出度いのはメディアで、政府はリアリティが分かっているパターン

高市内閣で任命された新農水相が、前内閣のコメ増産方針への転換を(部分的に?)否定して、

米は需要に見あうように生産する

聞きようによれば、従来の減反政策に復帰するとも解される発言をしたというので、非常に不評である。

今年初来の米価暴騰を受けて、

米は増産する。余れば輸出すればよい。

こんな路線が日本米作農業の「最適解」(?)であると、メディア業界はこぞって賛同していたから、なおさらの事、需要に見合った米作は不評なのである。

確かに、二つの路線は真逆の方向を向いている、かのようにみえる。しかし、某ワイドショーに出演した時の新農水相の発言をよく聞いていれば分かるように、

「増産転換」は、言うは易く、行うは難し、である。

実際、ChatGPTにデータを確認してもらえば、誰もが知っているはずの事実が指摘される。

例えば

日本が国内産米を輸出できる国際競争力はありますか?

という質問に戻った回答の要旨は以下のような内容だ:

  1. コスト高・生産効率の課題
    • 日本の米生産コストは、輸出を念頭に置いた競争力ラインに比して高いとされており、例えば輸出用米の生産コストを「60kgあたり約9,500円」まで下げる必要があるという指摘がある一方、現状では16,000円前後とも報じられています。
    • また、農地の分散、兼業・高齢化、機械化・省力化の遅れなどが生産効率向上のボトルネックとなっています。
  2. 輸出量・シェアの小ささ
    • 日本の米の輸出量は増えてきてはいるものの、国内生産量に比して極めて小さい規模にとどまっており、2021年には22,833トン(国内生産量に対して“0.5%未満”)と報じられています。
    • 2023年のデータでは、輸出額が約6900万ドル程度という報告があります。
    • このように、「量を競う」市場では競争力が非常に限定されており、規模の経済を活かしづらいという構造上のハンディがあります。
  3. 価格競争力の制約・保護政策の影響
    • 多くの国の米輸出産業と比して日本の農業政策・流通構造・価格水準は保護的で、高価格設定が続いてきました。結果として「やや割高=量を取る国際市場ではハンディ」という評価があります。
    • また、輸出向けに生産を切り替えたとしても、農地転換や機械化・加工・梱包・物流などの新たな投資が必要となるためハードルが高いという指摘もあります。
  4. 市場・流通・規制の課題
    • 輸出対象国・地域の需要を開拓し、安定した物流・パッケージング・ブランド戦略を構築する必要がありますが、これがまだ十分整っているとは言えません。
    • また、国内では消費量の減少・人口減少・農業従事者の高齢化など構造的な課題もあり、輸出を本格化させる“余力”に疑問が残るという分析もあります。

要するに、割高な生産コストをかけたコメが日本国内で余ったからと言って、海外で売れるのか?販売価格がコスト割れになるだけではないか?日本米はプレミアム商品であるとしても、海外市場で認知されているのか?・・・こんな当然の点が指摘されてくる。

トヨタ自動車がブランドイメージを築くだけでも長い年月を必要とした。海外で売るには、売るだけのマーケティング努力が要るということだ。いまでも高コスト体質の日本農業である。どこから規模拡大投資、農業労働者の雇用拡大、国際プロモーションのためのカネをねん出するのか?JA(農協)など、ノウハウも人材も、何ももっていませんゼ・・・

なので、米作に関する限り、お目出度いのはメディアの側、リアリティがどこにあるか(それも初歩的認識の範囲だが)を知っているのは新農水相であると感じた次第。

ただ新農水相の発言に非常に不誠実な部分もあった。それは

政府は米価に介入するべきではない。価格は市場にまかせるべきである。

この部分だ。

この「米価は市場にまかせる」という発言は現行の米価政策の現実に反している。いまガソリン税の暫定税率廃止で激論が交わされているが、コメも高い関税がアメリカなど輸入米に加算されているのだ。だから、国産米が競争力をもてている。その関税は日本政府が課しているのだから、関税を若干でも引き下げれば、日本国内の米価はたちまちの間に急落するはずである。この理屈は、ガソリン価格と同じである。

ただ売れなくなるのは割高な日本米。売れるのは安価なカルローズ米などだ。これが許せないと日本人が思うなら、高い米価は自らの意思決定の結果なのだから、これを嘆くべきではない。

ガソリン税は議論するが、コメ関税は口に蓋をして一言もふれない・・・触れずにおいて「米が高すぎる」という。しかし「高すぎる」ことの原因は追求しない。メディアの報道方針はそのようである    ―    さすがにコメが高いのは「円安」が原因だと、そうノタマウ阿呆な御仁は見かけないが、現代日本のこと、そんな人物が現われていた可能性はあった。

トラック運賃の上昇に困る財界からの苦情は受け付けても、エンゲル係数の上昇に困っている一般消費者の苦情は聞こえない振りを政府はしている。メディアもそんな政府の思惑に協力する。何かの見返りがあるのだろう・・・

だから日本の報道機関は不誠実・不正直だと思われて、信用されないのである。

以上、覚え書きまで。

【加筆修正:2025ー11ー01】

2025年10月27日月曜日

ホンノ一言: 「行政ミス」はあってもミスの責任を感じる人はいないであろう

小生が暮らしている北海道の海辺の小都市でも熊の目撃が市役所のホームページで公開されている。昨日は歩いて行ける程の地点で熊が複数回確認された。こんな状況では散歩するのも心配だ。カミさんは今は外出しないでと言っている。

こんな年は当地に移住してから初めてだ。

「まだ高すぎる」と世間で騒ぎがおさまらないコメは、Costcoで米国産カルローズ米が3000円/5Kgほどで買えるので心配はないが、熊にはホトホトまいっている。

思うのだが、「昨秋来の米価高騰」と「今秋の熊被害急増」。この二つは明らかに《行政ミス》であろう。地震は予知困難な天災だが、米価や熊被害は近年の構造変化、トレンド変化から予測可能であった(はずだ)。

一口に言えば、不作為の責めを負う。不作為とまでは言えなくとも、行政判断に見落としがあったことは否定できない。


判断ミスといえば、東日本大震災と福一原発事故ではどうであったかという議論はまだあるようだ。要約すると、大震災自体は事前予測困難。また津波による福一原発事故は、確かに社内の一部から注意喚起があったものの、大多数の情報は防災の十分性を示唆していた(と聞いている)ので、経営判断ミスがあったかどうかは断定が難しかろうと(小生も)思う。

コロナ禍への対応はどうであったか?防疫措置は十分であったのだろうか、自粛は効果的であった(のだろう)が、その反面で学童・学生へのしわ寄せが非常に過酷なものになった。「行政ミス」はなかったのか?

更なる検証が望ましいと思うのだが、必要性を指摘する意見は(少なくともメディアでは)ほとんど聞かない   ―   もし詳細に検証すると、メディアの報道ミス、解説ミスもまた検討の俎上にのぼるのは確実であるから、この辺を心配しての姿勢かもしれない。

もっと遡れば、1990年代のバブル抑制と不良債権への対応が適切であったかどうか、これもまた検証が不十分なまま残されていると思う。そこに行政判断ミスはなかったか?報道ミスはなかったか?国民の側の誤解はなかったか?

このように"further analysis"が必要であるにも関わらず、今は過ぎ去った過去の出来事だと忘れられている"disaster"は多い。

そのうち、誰か関心を持った人がゼロから調べて、本か何かにまとめるのだろうか?誰かが書評を書いて、何千部か売れるのだろうか?ひょっとすると、何かで受賞するかもしれない。しかし、社会的レベルでは小石が1個、池に投げられる時に出来る波紋のようなものであろう。

そのうち、そんな事は覚えていない世代が成長して、日本社会はリセットされ、リアルな大事件も歴史の中の一コマとなる・・・


日本という国は、そうやって大災害や大事件をやり過ごしてきた。しかし、自分が判断ミスをしたかどうかは、責任者当人は感じているはずである。自分の判断が適切であれば防止できていた(かもしれない)犠牲者の生命、犠牲者の遺族たちに、ずっと後年になってから痛切に思いをはせるのは、その人にとってとても辛い(はずだ)。

ただ「熊」にしても、「米価」にしても、関係機関、関係部署、関係者の数が多く、分担する責任も蜘蛛の巣のように絡み合っているため、実際には「自分の責任ではない」と。そう思う人が実は大半を占めているに違いない。


総理大臣もその権限は法で規定されていて万能ではない。多分、アメリカのトランプ大統領の10分の1ほどの権限もあるまい。県知事や市町村長に命令を下すことは不可。せいぜい「要請」だ。任命権者ですらないのである。

いま日本国に最高の統治者は存在していない   ―   この点は、日本だけではなく、アメリカ、欧州など全ての民主主義国でも同じで、権力は分立されている。三権分立はその一例だ。

なので、統治ミス、行政ミスがあるとしても、全てを引き受ける「統治者」がいない以上、ミスの責任を明確化できる理屈はない。

民主主義国は、全て《有限責任国家》である。一人の人間が権限として分担する責任は、実は小さなものなのだ。乗客の命を預かる航空機の機長の方が(機上では)万能だ。戦後日本では兵役の義務もなく、総理大臣は、理屈として日本人の命を預かっているわけではないのだ。


熊被害にあった人々には気の毒だが、地震や水害による死とどれほどの違いがあるだろうと思うと、暗澹とした気分になる。

日本とアメリカの大きな違いは、「自分たちを守るのは自分たちである」と、覚悟を決めて行動する当事者たちの意志を尊重する社会の気風にある。明治以後の日本は、「地方自治」が全くないか、もしくは不徹底で、全国一律の法で統治されるのが基本だ。そして日本人はそんな「国のあり方」にプライドを感じているはずだ   ―   小生はもっとも辟易するところだが。

そもそも熊もいない地域と大半の熊が生息している地域で、全国統一的な動物保護精神など運用されるはずもないわけである。

残念ながら、戦前、戦中だけではなく、個人の権利が重視されるはずの戦後においても、日本という国は日本人一人一人の生命をそれほど大切にする国ではない。自らを守る権利や、行動や選択の自由を社会全体でリスペクトする気風、感情がある国とは言えない。

尊いのは「国」であり、(日本人の?)「社会」である。尊重するべきは(日本人の?)「社会の意思」であって「当事者の意思」ではない。これが小生の日本観である。

だから、大切なのは、《国の法》であって、《社会の掟》であり、《地域》ではなく、まして、そこにいる《日本人》の命ではない。

建て前はともかく、現実はそうでありませんか?

【加筆修正:2025-11-06、11-10】



2025年10月25日土曜日

断想: 社会が深みをなくし浅くなる感覚?

ずっと以前、「新聞は世相を映す鏡」とまでは言えなかった。週刊誌もまた「世間の似顔絵」とは言えなかった。

今日のネットはどうだろう?

ネットは「世間を映し出す鏡」になっているのだろうか?

今日、何気なくネットを眺めていると、

暴力団関係者、半グレは世間の敵。根絶するように国に頑張ってもらいたいです。

こんな主旨のコメントが目に入った。

同様のコメントは星の数ほど寄せられているはずだ。


思ったのだが、作用には反作用がある。

世間に対して敵対的行為をとる人物がいる。反社会的組織がある。しかし、二つの側が対立しているなら、反社から眺めれば世間は反・反社という存在に見えるだろう。

世間に敵対する側が反社会的だと判断されるのは法律は絶対的に正しいという大前提に立つからだ。しかし、その法律は世間が決めている。世間が決めた判断を善として、それに従わない側を悪として、故に反社会的だと呼ぶ。これが人間社会の永遠の、というより現代社会のルールである   ―   法の論理を貫徹すればこれ以外の立場をとりようがない。

社会的な側は反社会的な側を「根絶」しようとする。根絶やしにしようとする。しかし、作用には反作用がある。根絶される側は、自らを根絶しようとする側を根絶しようとするだろう。互いにそれは正しいと認識するだろう。存在を認めないとはそういうことだ。

しかし、観察するに反社会的人間/組織は、世間を攻撃はするが、根絶しようとはしていない。敵対者を根絶しようと考えているのは世間の側である。部屋の清掃が行き届けば行き届くほど、わずかな塵も気に入らない。蚊一匹いても許せない。同じ心理である。

ここに非対称的な不毛を感じる。

今日は、北村薫『空飛ぶ馬』を読んだ。初めの『織部の霊』にこんな下りがあった:

手放しの愛情、己をむなしゅうするようなそれは、渇仰かつぎょうされるべき一つの境地のような気がする。

己が空しくなっていない状態で考える事には必ず《自我》に由来する煩悩が混じる。これは何回となく投稿してきたところだ。 

唯識論で想定する人間存在では、考える根拠である末那識そのものに《我》という仮想的存在が前提される。実在しない存在を実在するかのように考える。故に、煩悩から免れ得ないものとして、人間を描写する。

しかし「手放しの愛情」、己が混じらない愛は、確かにあるような気がする。西田幾多郎の《主客未分の純粋経験》を連想してしまった。

「我を忘れて」という境地で下す判断は、というよりそんな時の判断だけが、普遍性をもつ真の判断である。あとは個々の人間の考える判断で、自我に汚れている思考によるものだ。

「正しい自分たち」と「悪い反社会的人間」という分別にも、世間で共有される我執、我愛が染みついている。

随分以前にこんな投稿をしたことがある:

左衛門: あなたがたは善いことしかなさらないそうだでな。わしは悪いことしかしませんでな。どうも肌が合いませんよ。 

親鸞: いいえ悪いことしかしないのは私の事です。 

左衛門: どうせのがれられぬ悪人なら、ほかの悪人どもに侮辱されるのはいやですからね。また自分を善い人間らしく思いたくありませんからね。私は悪人だと言って名乗って世間を荒れ回りたいような気がするのです。・・・ 

親鸞: 私は地獄がなければならないと思います。その時に、同時に必ずその地獄から免れる道が無くてはならぬと思うのです。それでなくてはこの世界がうそだという気がするのです。この存在が成り立たないという気がするのです。私たちは生まれている。そしてこの世界は存在している。それならこの世界は調和したものでなくてはならない。どこかで救われているものでなくてはならない。という気がするのです・・・ 

倉田百三『出家とその弟子』の中の一節である。

どうも戦後民主主義に染まった現代日本からは、《深み》というのが消えてしまったような感じがする。 いま生きている世の中はどこか調和していない感じがする。だから《閉塞感》なる社会心理に覆われているのではないか?もし調和しているなら、成長率は低くとも、自足、満足、幸福感に支配されているはずだ。

こんな風に思ったりする最近です。


マア、河には泥や砂がたまって浅くなる。人間社会も油断をしていると、あるタイプの人間集団だけが生息可能で、非正規で非標準的な人間は棲めなくなってしまうのだろう。

「彼らは根絶するべき人たちだ」と発言する人が堂々としていて、世間に忖度しているのかわからないが、異論も反論も出てこない。それが正しいと思い込んでいるのでありましょう。それこそ仏教でいう煩悩三毒の筆頭である《痴》。即ち、無知である故の迷いであります。迷いの自覚がない凡夫の信念ほど始末のおえない厄介者はない。

多くの人が、そんな風である時、社会は四分五裂するのだと思う。「戦国時代」とはそんな時代の(一つの現象的な)帰結であったに違いない。


近世の英国人・哲学者ホッブズが洞察したように

本来、人間社会は万人の万人に対する戦いである。

敵と味方の二つに分ける態度は愚かさを映す鏡である。二つには分けられない。味方と思う世間の人々もまた《私》にとっては敵であることを知る。人間社会に敵と味方はない。敵といい、味方と言い、そんな観念自体が一つの虚妄である。これを《遍計所執》と言うことは最近勉強した。

【加筆修正:2025-10-26】

2025年10月21日火曜日

ホンノ一言: 国債の需要創出へ「家計が吸収する仕組みを」・・・ついに出てきましたか

 <財政破綻>をキーにしてブログ内検索をかけると、夥しい数の投稿がかかって来る。繰り返しになるが

思うに、王朝が宮廷の華美によって次第に退廃し、財政が破綻するのと同様に、民主主義国家も自らの過大な要求から財政肥大化を免れることはできず、結局は破綻する。

もっとも最近ではこんな下りを書いたのが、本年6月の投稿だ。そうでなくとも、高校の世界史の授業では「朝廷の財政は破綻し、地方では内乱や暴動が頻繁に発生した」という説明を何度聴いたことか。財政が破綻すると、内乱が起きるのは、軍事費が捻出できず、兵士の給料すら未払いになるからである。そんな状態では正規軍も出動出来ないよねと  ―  世界史の先生、こんな風に分かりやすく説明してくれていたかナ・・・?

江戸幕府の瓦解も遠因は《財政破綻》と《財政健全化の失敗》である。これに成功したのが西南の雄藩、即ち薩摩と長州であったことも日本史の授業で習ったはずである。

《財政破綻》は、民主主義国、社会主義国、帝国・王国を問わず、一つの国が衰退する共通の兆候である。

難しい理屈は専門家に任せ、《財政破綻=崩壊への前兆》ということ位は知っておくべきですぜ・・・というのが経済学の初歩中の初歩という所だ。日本のメディア業界にこの認識が薄いのは、シンプルに大学で真面目に勉強した人材が入社していないということだろう。

財政が破綻への方向を辿り始めると、中央政府(及び地方政府)の債務が膨張する。破綻とは赤字拡大が制御不能になるということだ。

財政赤字は、当初の段階では制御可能だとみな考える。国債を引き受ける金融機関や家計が見つかるのも政府が(ある意味)信用されているからだ。信用されていない政府の公債なら金利を30%にしても誰も買いやしません   ―   いまアルゼンチンがそうなっています。

さて、今日の日経にこんな記事が載っていた:

政府が発行する国債を巡っては、買い入れを減らし始めた日銀の穴をどう埋めていくかが課題だ。財務省理財局長を務めた野村資本市場研究所の斎藤通雄研究理事は日銀以外の国債保有額が年50兆〜60兆円増えていくとの見方だ。市場の安定には家計を含めた民間需要を高める方策が必要と指摘する。

Source: 日本経済新聞

Date: 2025年10月21日 

財務省元理財局長がこんな発言をしているそうだ。

日銀が国債を引き受け続けて、その果てに金利引き上げを迫られ、国債相場が値崩れすると、日銀の経営が不安定化し、円安が進行し、国内のインフレに歯止めがかからなくなる。これが《通貨の崩壊》という現象だ。《円の敗北》とも言える。

だから日銀は保有している国債を徐々に整理していく方向である。しかし、いまの日本社会では《国への依存心》が高まるばかりで、誰も財政破綻と社会の崩壊を心配しない。国債の引き受け手を見つける必要がある、と。そればかりを言うのは、一言で言えば、(どこか)安心しているからである。

そこで日本の家計に国債を買ってもらう。上の発言の主旨はこういうことである。

これを読んで、小生は太平洋戦争開戦を可能にした《臨時軍事費》という言葉を思い出しました。

戦争状態が継続する限り、陸海軍はいくらでも予算を確保できる。その制度的裏付けが整ったところで、戦前期日本の陸海軍は対英米開戦までも決意することができた。また、議会にはそれを停める手段がなかった。

このエピソードを思い出したわけだ。

仮に、本当に日本の財政が破綻しても損をするのは国債を買った日本人である。「なくしたものはしゃんめえ!」とばかりに日本人が我慢すれば、アジア危機のときの韓国や、財政危機の時のギリシアのように、海外に利払いを継続するために、強烈な緊縮生活をおくることにはならない。どちらにしても、国債を多く保有するのは日本の富裕層であるに違いない。富裕層が資産をなくしても、庶民はかえって愉快であろう。格差は是正された!こんな感覚もあろう。

・・・しかし、富裕層が資産を失くすというのは、日本人全体の資産がなくなるということでもある。

財政赤字を国債で補填し、その挙句に財政が破綻するという事は、その間ずっと、国内の資産を食いつぶしてきたということと、同じ意味である。

つまり、財産税こそ実施はしなかったが、国債を買わせることで政府が合法的に富裕層から資産を強奪したわけである、ナ。食いつぶす資産がなくなった時点で、財政赤字は継続不能となり、そこで財政が現象的にも破綻する。

富裕な日本人と貧困な日本人が混じっているよりは、日本人は全て平等に貧乏人ばかりである方がまだマシであると、その時になって思うかどうかは微妙であろう。

上の元財務省理財局長だったかナ(?)、この発言は要するにこういう方向に行くしかないということでしょう。いよいよ現代日本社会も最終的崩塊が見えてきた感じだネエ・・・そう感じました。

しかし、救いもある。

いま日本で暮らす富裕層に国債を買ってもらおうとすれば、インフレ率が不透明ないま、5年物で金利5%がほしいと小生なら思う。

日本では新規購入は出来なくなってしまったが、例えばアメリカの"Ares Capital”(ARCC)を買えば利回りは9.84%に達する。これは極端としても、最も安全な米国債10年物なら利回りは本日現在で4.25%である。こんな国際的投資環境の中で、日本の国債は10年物で1.70%である   ―   そりゃあ、日銀が引き受けてきましたから・・・

政府が買ってくださいという国債を買うか?・・・買いませんよ。こんな低い利回りの債券など。それに10年たつうちに日本政府の国債自体、紙くずになるかもしれません。インフレと円安はリンクしてますから。日銀に引き受けさせるのは危ないから家計に買わせようなあんてネエ⋯⋯、江戸時代の勘定奉行だってここまで冷酷じゃあありませんよ。

つまり、財政が破綻する危険性は、今のままではアメリカよりも日本の方が高い、と。そう観ているのだ。上の財務省元理財局長の発言だが

日本の家計を深堀りするとともに、国際金融市場でも広く、増発される国債を消化していきたい

もしこんな提言なら、小生は大賛成である。「大賛成」というと語弊があるが。

日本の国債を海外諸国も広く保有してくれれば、「非常識な財政政策」に対して、国債の売り浴びせという形で日本政府に警告を出すことが出来る。日本人が求めても、資本市場がその非合理性を指摘する道が開ける。

愚かな日本人の独善を国際資本市場が指摘してくれるとすれば、実に、実に有難いではないか。戦前期日本もオープンにしておけば日本国民にも良かったのである。そうすれば「臨時軍事費」などという愚策が議会で通った直後に円は暴落していたに違いない。

無知な日本人を騙して、挙句の果てに国債が紙きれになるような失敗例は、昭和10年代、20年代だけにしてほしいものであります。


民主主義を健全に運営するには、しっかりとした庶民層がまず存在していなければならない。そんな庶民を形成するには、しっかりとした義務教育・公教育があって、人的資本への投資を安くしておかなければならない。現代は、(アメリカも似たような状況だが)社会のマス層が(自壊というわけではないが)崩れ始めている。

そんな社会状況で民主主義を健全に運営するのは無理である、と。小生はそう観ております。

政策の基礎は財政である。国際資本市場とつながっていれば、いくら民主的決定であっても、愚かな財政は市場がチェックして、実行はできないのである。

真理は民意に勝る

これは救いだ。



 


2025年10月18日土曜日

断想: 不確実な混乱の時代にどう生きて行けばいいのかという問いかけ

年内には新政権の骨格が決まるかネエ、と期待(?)していたのだが、維新の会が立民・国民、更には公明(?)など野党各党のまとまりの無さに嫌気がさしたか、敵対する自民側に抜け駆け(?)をしたようで、どうやら来週には高市首相が首班指名で選ばれそうな状況になって来た。

「抜け駆け」と上では書いてしまったが、維新の会の立場から言えば

立民と国民と、二党が合意できるようであれば、維新の会も合流する

基本方針はそもそもこうだと語っていたわけで、二党合意が覚束ないとなれば、思い切った譲歩を提案してきた自民側を助太刀するとしても、何も不義理をしたわけじゃあない……自らを高く売るのは当たり前の「合理的行為」である。


この位の理屈は誰でも理解していると思うが、日本ではこれを

洞ヶ峠を決めこむ

と言う。秀吉と光秀が戦った山崎の合戦で洞ヶ峠まで出陣したもののそのまま様子見を決め込んだ筒井順慶を諷していうのだが、賢いようでいて、それ以後は信用を失い、常に疑惑の目で見られたことの犠牲は大きかった。順慶は苦労の多い戦後の人生を生きた果てに若くして死に、家はゴタゴタが相次ぎ、豊臣派と徳川派に分かれ、結局、大坂夏の陣を待たずに断絶してしまった・・・と思ったが、確認すると夏の陣が5月、順慶の養嗣子・定次の切腹と筒井家断絶が3月であった。豊臣と徳川の間で曖昧な態度をとる筒井家に疑惑をもった幕府が、夏の陣を前に禍根を断ったのであろう。

山崎の合戦を前にした順慶の小賢しい行動が、筒井家の印象を決定づけ、それがずっと後になって支配者の疑惑を招き、御家断絶へと至ったわけである。

混乱の時代には、単勝ではなく複勝で賭けたい、保険をかけておくのが賢い作戦ではあるはずなのだが、競馬では通用しても現実世界の修羅の道では

定石、必ずしも正解ならず

である。慎重に両賭けすることで、かえって墓穴を掘る結果になる例は史上に多い。


カネが資産ならいわゆる「合理的行動」で正解だが、それはカネがヒトではないからだ。ヒトの心に育てる信頼が資産なら、自分の「合理的行動」が資産喪失の原因になることがある。

敗北の原因は色々とあるのである。

それは自らの行動が合理的だと判断したその思考回路が、そのときの状況(=ゲームのルール)を支配している戦略的ロジックに当てはまっていないという、その事実を見過ごすこと、ここに敗北の原因があるわけだ。

とはいえ、

いずれが勝つかを見極めるのは非常に困難だ

混乱期とはこんな時代のことを言う。つまり見通しには不確実性がある。今もそうなのだろう。


不確実性の下で(定石であるはずの)二股を賭けると、これまたリスクとなりうる。困ってしまう……。そうであるならリスクから身を遠ざけるしかない。つまり

そもそもリスクを回避したいなら、勝負の場には身をおかず、何もせず傍観に徹し、事後的に勝者への忠誠を誓う。

これが《ハト戦略》であって、混迷の時代で身を全うするなら唯一の選択肢であるかもしれない。「長いものには巻かれる」戦略でもある。よく言えば「明哲保身の道」にもなる。

才能はあっても(あるいはホドホドでも)安全な人物は、使える人物でもあり、平和な時代には必ず需要される。ほとんどの人は、こんな方針で人生を送っているはずだ。単に才能がないだけなら人目を引かず警戒もされないので安心してよい。身を滅ぼす危険があるのは、才能がなくて、欲がある人物だ。目標のある人物、野心(≒向上心)がある人物も危険である。そんな人物は自ら修羅の道を選ぶ。同レベルの人物と結託しているうちは大した結果も出ないのでまだよい。しかし、才能あるリーダーと競うときがやってくる。その時になって協調の意志を示しても遅いのである。才能あるリーダーは才能ある配下を見分ける。故に、危険だけがある才能不十分な人材は排除されるのである。


自分の鑑識眼に自信があるなら

自分の眼を信じる

これも可である。そうすれば、リスクへの恐怖、リスク回避願望が、自らの心の中で高まることはないのである。自信をもってオールインを敢えてとることが出来るはずだ。

今回の維新の会の選択が、上に述べたどのケースに該当するかは、追々、分かって来るだろう。


2025年10月14日火曜日

覚え書き: 「国民」とか「民意」などと耳にする時の感想

小生が若かった時分にはそれほど耳にしなかった言い方で、最近になって呆れるほど頻繁に耳に入る言葉に《国民》や《民意》がある。


メディア業界に従事する人のボキャブラリーが貧困化していて、何から何まで「民意」、「国民」と言って済ませてしまう傾向があるのかもしれない。あるいは、真の意味で日本社会が非民主化していて、「言論・表現の自由」や「人権の尊重」が色々な理由で損なわれている、そんなリアリティがTV、新聞、SNSの場に反映して、いま「国民」とか「民意」という観念が大事になっているのかもしれない。

要するに、おしゃべりの短期的流行か、流行ではなく実体的原因のあることなのか、いま一つ識別できないでいる。

ただ思うのだが、

国民の意志や民意という意志はそもそも実在しない。民主的社会に「合理的意志」というものは存在しえない。これは既に証明済みの定理である。

これが小生の社会観である。

大体、考えても見なセエ・・・

数名の家族に限定しても

家族の意志というのはありますか?

ないでしょう、そんな「意志」は。お父さんの意志、お母さんの意志、子供の意志、それぞれ別々にある。いや、「子供の意志」と言うのは不可だ。お姉ちゃんの意志、男の子の意志、それぞれが違った意志である。

そもそも

あの家は・・・、男は・・・、女は・・・

という言い方は、ハラスメントに該当する。

ここで集団意思の決定方式に議論を落とし込んで

そんなときは、多数決によるべきですネ

この経路が標準的な手筋なのだと思う。

エッ、多数決!?

経済学者や社会学者は集団意思を決定する方式に何かといえば「多数決」を口にするが、家族ですら多数決で物事を決めてはいけない。そんな当たり前のことは熟知している人が多いはずだが、なぜだか言論や論説になると、当たり前の認識がスッポリと抜け落ちてしまう。

家族ですらそうだ。町全体ならどうか?小生が暮らしている北海道の海辺の小都市ですら「市民の意志」なる意志はありません。まして「北海道民の意志」なる意志があると本気で考えている人は

この人が言っていることが北海道民の意志なンです

と、その存在を指し示すことが出来るのか。現実にはありそうもない情景だろう   ―   まさか道知事という一人の人物を指す人はおりますまい。もしそんな人がいれば、余りの精神的幼さに絶句するくらいだ。

「日本国民の意志」なる意志が実在しないことは、本当は誰もが知っている事実だ。それでも報道業界に従事する人々は「国民」とか「民意」という言葉を使用している。ないものをあるかのように説明するのは、端的にいって「欺瞞」である。


何が言いたいかといえば

経済学者が「市場に任せるべきです」という時の「市場」と、社会学者や政治学者が「国民の意志によるべきです」というときの「国民」は、学問では不可欠の術語だが、実際には実在しない抽象概念だということだ。

これが本日投稿の主旨である。

報道やニュースの現場では抽象概念は口にしない方がよい

これが最近の感想です。(現実世界には存在しない)抽象概念という点では、「国民」や「民意」と口にする時の認識状態は、浄土系仏教の念仏やキリスト教系の懺悔をするときの思い、つまり《宗教感情》と全く異なる所がない。


社会や人間集団においては、集団の《意志》ではなく、問題解決の筋道、筋道が正しいということのロジック。その普遍性。ギリシア風にいえば《ロゴス》の普遍性に信頼を置くことによって、問題は現実に解決されうるのである。

問題解決への筋道が「国民の意志」に適っているかは実は重要ではない。そんな意志はそもそも存在しない。敢えて言えば、《快・不快》の社会的心理状態くらいは確かにある。ではあるが、というより猶更のこと、普遍的なロジックに従って導かれた結論なのか、重要なのはこの一点だけである。

小生は、世間で共有(?)される心理的な快・不快の感情こそ最も重視するべき政治的要素だ、と。こんな風に指導者層が考え始める時が、民主主義が劣化し、堕落する時である。こう思っております。


・・・なので、「こりゃあ、あかんわ」と感じながら、将来の生活環境を予想しているところだ。

本日投稿で残った論点は、

(唯一か、最適かはさておき)「正しい」、というより最悪ではないベターな解決方法が、現実に選択可能な唯一の決定方法である「多数決」によって選ばれる論理的根拠はあるか?

こんな現実的な疑問だが、これは相当に難しい理論的問題だ(と思う)。宿題にして、おいおい調べることにしよう。既投稿の中では以前のこれと関係があるかもしれない。

以上、覚え書きまで。

【加筆修正:2025-10-15、2025-10-17】

2025年10月11日土曜日

ホンノ一言: 老舗・自民党という政党も終わりが見えてきたか?

自民党という老舗の保守政党も、議員個人単位の政治献金を死守したいばかりに、最終的に消滅していく可能性が出てきた。


(表向きには)今回の自公連立解消の主たる理由が政治献金の透明化への自民党の抵抗であると伝えられている。

公明党の案は国民民主党と共同で(?)まとめたもので、この8月には立憲民主党までが公明・国民民主案を叩き台にしながら、合意に向けて協議を始めようと石破現首相にもちかけたこともあったそうな・・・

ところが現段階においては高市新総裁が公明党の要求を(事実上)「拒否」したと報道されている。マア、少なくとも「連立」をとにかく続けてもらえば、後から「党内的にあれは難しい」と、そんな線を狙っていたのかもしれない。

公明・国民民主の案と言うのは

企業・団体献金を存続させた上で、献金を受け取れるのを、政党の本部と都道府県単位の組織に限定するものだ。国会議員や地方議員らが代表を務める政党支部は受領を認めない。

こんな概要だ。

要するに、議員個人単位の政治献金は認めず、献金は「政党」を単位とする。ここが改革と言えば、確かに「大きな改革」になっていると思う。小生は大賛成である。


ついこの間、本ブログにこんな事を書いて投稿した:

政党を「政治結社」にするわけだ。言葉の定義上、「政党」として当たり前の事柄だと思う。「総合的ヴィジョンと政策」を公開しない政党は、たとえ一定数の得票、国会議員数を確保しても「政党交付金の不交付団体」であることを公示の際に明記させる。

自民党は、「懐の深い党なンです」と、あたかもそれが自民党の長所であるかのように解説する「政治評論家」が多い。しかし、言葉を変えれば、政党としての「政治路線」がない、「理念」がない。実際、現在の自民党の理念と言えば、せいぜいが「反共」と「天皇制維持」、「日米安保体制維持」この三つくらいであろう。有権者にとって最も重要な経済政策はと言えば、実は何の定見もない、というのが「偽らざる真相」であろう。

そう言えば、ずっと前に、戦後日本を支える三本柱は

アメリカ、皇室、自民党

の三つであると投稿したことがある。


その自民党を、ざっと大括りにして形容すると、「政党」というよりは議員個人単位の活動を全国ベースで助け合う「選挙互助会」に似ている。こうした日本的状況は、日本の政党が誕生した歴史的背景に由来するものだ。西欧先進国のようにまず社会的対立構造が先にあって、後から政党が支持基盤ごとに自然発生するという順序ではなく、日本では明治初め、まだ社会経済的な対立構造が成熟する以前に、薩長藩閥政府に対立する自由民権勢力という集団があって、それらの反主流派が政党を結成した。

自由民権運動の中で誕生した当時の「自由党」や「立憲改進党」は、日本経済の中からというより、思想、人縁、地縁によって生まれた人的集まりでしかなかった。西洋社会の政党とは発生の由来が逆であったわけだ。ずっと後になってから、地方豪農層が支持する政党と、都市の新興階層に人気のある政党と、何となく二つに分かれてきたのは、人のつながりを辿ればそう分かれて行ったということで、多分に偶然である。戦前期・日本の「二大政党制」は、支持基盤が社会の中に実在する本物の二大政党制とは言えなかった、というのが小生の戦前観だ。

日本の政党が、「政治結社」というより「互助会」のようにみえるのは、経済的利害ではなく、地縁・人縁から助けあう人たちの集合であるためだ、と。こう思って観てきた。


ま、これはともかく、

現代的政党に再編成できないなら、自民党はもう終わりだ

いまこんな風に観ている所であります。そして

野党にも上のトレンドは当てはまる。

今日はこんなところです。


本日投稿で書いたのは、政党の現代化が求められるということだ。選挙制度の現代化とは別の話しである。政党政治と選挙は表裏一体、密接不可分であるわけではない。特に、オープンな選挙が、敵対する複数の外国勢力のターゲットになりやすい時代なら猶更だ。議員の選出は、また別の観点から現代化するべきであろうが、それは政党組織の現代化とは別の問題であると思う。以上、念のため。



2025年10月10日金曜日

ホンノ一言: クリントンの"It's the economy, stupid."、日本にだけは当てはまってないのかも

選挙がある度に日本人が最も関心があるのは「暮らしと物価」であるという事実は誰もがもう知っていることだ。つまり、経済問題こそ仕事をして暮らしを立てている有権者なら最も強い関心をもっている分野なのである(はずだ)。

これはアメリカも同じで、ビル・クリントンが1992年の米大統領選に打って出た時

"It's the economy, stupid"

要は経済なんだヨ! 愚か者が!!

オバマ大統領の

Change! Yes, We can!!

変えよう! ああ、できるとも!!

も有名だが、クリントン候補のこのスローガンは中身があるだけに非常な迫力があった。選挙必勝の戦略は、いつでも「経済政策」なのである。

フランスのマクロン大統領が信頼を失っているのも、インフレなど経済問題が根底にある。ドイツの政情不安がずっと続いているのも、確かに移民政策の失敗もあるが、エネルギー不安、生活不安、要は経済問題である。メルケル首相が16年間の長きにわたって宰相の座にあったのも、独ロ関係を安定させて、ノルドストリームを毅然として建設し、ドイツ経済の繁栄を導いたからである。その当時、一体ドイツ人の誰が、

ロシアと親密な関係を築いて、何か不都合が起きるのではないか・・・

こんな漠然とした不安を訴えていたか?

余程の変人だと言われるだけであったろう。

共産主義を放棄したロシアとの融和に不安を覚えたのはドイツ人ではない。英国と米国である。その果てに、今回のロシア-ウクライナ戦争がある。そして、ドイツはいま混乱しているが、これが米英のそもそもの世界戦略ではなかったかと小生は邪推している。

ことほどさように国を問わず、時代を問わず、最重要なはずの経済問題。日本人はどれほど自分の頭で考えようとしているのだろう。少しでも自分で考えようとしているなら、理にさといメディア業界がほおってはおかないはずだ。ところが、ワイドショーも情報番組も、ニュース番組も、経済分野の報道、解説にはあまり時間を割いていない。

「わかるだけの頭がないんだよネ」と心配なら、「経済戦略臨時調査会」なり、「経済審議会」なりを設置して、一流の専門家を集めて、公開で検討すればよいではないか。これなら中継報道できる。しかし、こんな提案をする政治家、ジャーナリストは一人としていない。

ということは、経済問題にはそもそも(ホンネでは)大した関心をもっていないのである。暮らしのことは、政治家におまかせだ。まかせているはずの政治家が、生活を楽にしてくれないので、腹が立つ。現時点の国民心理は、多分、こんなところではないだろうか?

大体、自民党と公明党の連立協議が不調に終わり、自公連立が崩壊したとして、それがどれほどの意味を持つのだろう?・・・日本人の暮らしには影響しませんよ。

日本経済において解決を要請されている問題は、自公連立とか、野党統一とか、そんな下らない些事とは関係なく、特定の形をとって現実に存在している。

  • 総需要が超過している時に需要を刺激すればインフレが激化する。
  • 労働生産性を上げずに、賃金を上げると、企業経営が不安定化するだけだ。
  • 政策目標の数と同じ数の政策手段は常に確保しておかなければならない。

等々、等々。

  • 医学の水準が低ければ、治る病気も治らない。医学の発達と水準次第。
  • 経済学のレベルが高まれば、経済政策のレベルも高まる。
  • 医師が治そうとしなければ病気は治らないし、政治家が必要な政策を実行しなければ経済問題は解決しない。市場だけではダメである。

ロジックは簡単で何も複雑な迷路に落ち込んでいるわけではない。


現在の経済問題への正しい取り組み方というのは、経済学の知識から大体のところは分かっていて、政治家が腹をくくって実行すればよいだけである   ―   それが中々難しいわけなのでございましょう。

それが出来ないでいる・・・確かにこれは一つの「政治問題」だが、将棋と同じで

もし手を付けなければ、〇〇〇〇となる確率が高い。

こんな予測なら現在の計量経済学の技術でも可能だ。というより、以前は結構そんな数字を政府は出していたし、メディアも数字を報道していた。数字を報道するあまり、数字だけが独り歩きすることが問題であったのだ。

4年、5年という長さの中期予測になれば、あらゆる与件が変化するので、経済予測の精度は大きく落ちる。しかし、1年程度の予測なら大いに参考に出来る程度の政策シミュレーションは今も可能である(はずだ)。

なぜ予測計算をグラフにして報道しないのだろう?政府内にそれが出来るスタッフはいるはずだ。

これが小生には《日本メディアの七不思議》になっております。多分、経済では視聴率がとれない、新聞が売れない、雑誌が売れないという、そんなマーケティングの事情があるのでござんしょう。

どの政党がどこと組むかなど、高級なエンターテインメントとしか思えない。端的に言って、下らない。実在する問題と問題解決の可能性に注意を集中するべきだ。

エッ、それが出来ない。出来るはずのことができない、と。政治家と日本のマスメディア業界は、ホント、似た者同士なんだネエ・・・そう思います。


「物価だ、減税だ、最低賃金だ、エンゲル係数だ」と騒ぐ割には、日本だけは

Stupid! It's the economy....,   except for Japan.

クリントン候補の選挙スローガンも効果が出にくい国、それがどうやら日本であるようで。

2025年10月7日火曜日

ホンノ一言: もう「総裁後見役」を正式に設置してはどうか?

自民党新総裁に高市早苗氏が選出されたというので、少なくともその瞬間には、驚きが日本社会に広がったように観られる。

しかしながら、「初の女性首相」という言い方自体、もう時代からずれているというのは、以前の投稿でも触れたことがある。

もう日本人の誰も、女性首相の実現に驚きゃしませんテ・・・

驚くのはマスメディアのスタジオ出演者くらいでござんしょう。

まあ、そんなところです。

早速、党役員人事が情報番組を賑わせている。麻生元首相が副総裁、その義弟である鈴木氏が幹事長などなど・・・

思うのだが、

もう副総裁じゃなくて《総裁後見役》を正式に設置すればよいのではないか

そう感じます。

何だか、徳川家茂将軍を支えた将軍後見職・一橋慶喜を連想させて、いかにも「頼もしい」ではないか   ―  かたや江戸幕府の将軍後見職は就任当時25歳、現代の総裁後見役は85歳の高齢者であるが、どことなく(経済大国が変じた)「老大国・日本」を象徴しているようで、これまた自然に感ずる。

どちらにしても、幕末の江戸幕府と同様、高市自民党総裁も熱い志はあれど、実行は困難であろう。一強と言われた安倍晋三元首相ですら、最終的目標である憲法改正はかなわなかった。ここ日本では、思うことが実行できる政治家は出現不可能なのである。

それでも「天皇の男系継承維持」、「憲法改正」にかける想いには共感を感じる自分がいる。しばらくは安心である。何か手を打ってほしいものだ。反面、経済政策の方は今からもう不安であります。自爆しなければイイですがねえ・・・というところだ。

日本の政治構造の特徴は、頻繁に《権力の二重構造》が現われる所にある。

平安時代の摂関政治も、その後の院政もそうだ。徳川幕府の将軍-幕閣の関係もそれに近い。明治天皇が成人しても天皇は思う事の半分も通らず実権は元老に握られていた。昭和になっても天皇の主張でなにか通ったことがあったか?東条英機首相ですら意図したことは陸軍内部の反対にあって実行はできなかった。

日本政治は決定権者が決定できない。故に、実質的決定権者が可視化されていないという点に特徴がある。


だから、公式の党総裁選挙といっても、選ばれたトップが何かを決めるわけではない。トップにそんな力を与える国ではない。

アメリカのトランプ大統領をあやつる裏の権力者がいるとは誰も報道しない。フランスのマクロン大統領が頼る裏の最高実力者が誰かいるとは誰も言わない。中国の習近平もロシアのプーチンもそう。海外の執政責任者は、文字通り、定義通りの責任者である。

ここ日本では、そうではない。

日本の政治権力は、多くの場合、二重構造をしている。実権がトップにはない国なのである(と観ております)。

トップが文字通りの「トップ」であると信じているのは、素朴で善意に満ちた「有権者」なる人たちだけであろう。信じているからか、話題にしてはいけないのか

私たちが選んだのはトップではなかったの?

こんな疑問を正面切って問う人はどこにもいない。真の権力者は人目につかない。(知る人は知っているが)静かに権力を行使する。これも「日本風」の一つか。

2025年10月4日土曜日

断想: 夢で見た不思議な四文字熟語

昨年の秋の今頃は寺で相伝を受けるために毎日歩いて通っていた。その最後の日は毎日三百遍の念仏を誓うかと問われ「誓う」と応えるという儀式で終わった。それから、色々と試行錯誤をしてきたが、結局、日常勤行式に従って「香偈」

願我身浄如香炉 (がんがしんじょうにょこうろう) 

願我心如智慧火 (がんがしんにょちえか)

念念焚焼戒定香 (ねんねんぼんじょうかいじょうこう)

供養十方三世仏 (くようじっぽうさんぜぶ)

から始めて、「送仏偈」
請仏随縁還本国 (しょうぶつずいえんげんぽんごく) 
普散香華心送仏 (ふさんこうけしんそうぶつ) 
願仏慈心遙護念 (がんぶつじしんようごねん) 
同生相勧尽須来 (どうしょうそうかんじんしゅらい)
で終わるパターンを、この半年以上は続けてきた。

ところが、最近寝坊をしたことをきっかけに、法然がすすめる「専修念仏」でやってみようとやり方を変えてみた所、これが至極心境にマッチして、いまは月曜は日常勤行式に沿って、それ以外の日は専修念仏で四百遍を称える習慣に変わった。今朝は五百遍の念仏をした   ―   「した」とは言えない程に僅かであるが、「一念十念に足りぬべし」と法然も書簡に書き残している。続けることに意味があるのかもしれないし、三万遍に段々と近付いていくのかもしれない。三万遍となると、15時間ほどはかかる計算だから、起きている時間の大半は念仏をしていることになる。この辺も含めてすべて主体的動機に任されている点が「進んでいる」と小生は感じている。

余計なことは全て阿弥陀仏からみれば「雑業」であると割り切り、念仏こそが浄土三部経に明記されているとおり「本願」であり、大事なことは阿弥陀、というより仏になる前の法蔵の本願を信じ、それに沿う事であると論じた法然は、ある意味で《信》は《宗教的儀式》に勝るとした宗教改革者・ルターと相似形の役割を日本仏教において果たした、と。そう理解してもよい。親鸞は法然が見出した他力本願念仏を精緻化して継承したわけだ。

藤原定家は『明月記』の中で、上司・九条兼実が念仏という新興宗教にのめりこんでいると、非難がましく述べているが、結局、当時の異端が江戸時代には最大の信徒数を抱え、その状態が現代にまで至っている。何か本質的なことが長い時間の中で現れたのだと思う。


専修念仏をしていると心が定まるのは、800年も前に生きた法然や親鸞、鎌倉武士の熊谷次郎直実や宇都宮頼綱、歌人・式子内親王が、なんだか近しく感じられるという事もあるのだが、法然の師・善導も法然よりは550年程も昔に生きた中国僧である。法然が夢の中で師・善導に会う場面は画に描かれている。

同じ道を歩く人が、同じ時代、目に見える場所にいれば、確かに心強くはあるかもしれないが、人というのは無常である。生きた人間同士の人間関係ほど儚いものはない。

師友・知友・心友は時間を超えて成り立ちうるものである。


今朝、夢の中で、ストーリーは忘れたが、
奉事能応
という四文字が紙に書かれていて、それが妙に明瞭に起きた後も記憶に残った。

こんな熟語(?)はこれまでに見たこともないし、考えたこともない。ChatGPTで調べてみても、こんな熟語はないという。

しかし、意味はある。読み下すとすれば
事を奉じて、応え能わん
あるいは
事を奉ずれば、能く応えん
仏教では事理という熟語をよく使うが、「事」は個々の現象や出来事、「理」は普遍的に働く根本法則だ。「奉じる」の「奉」は「奉行」の「奉」でいわば管理する・処理するという意味に近い。

であるから、「奉事能応」という文字は

(色々な)物事を処理して、(期待に)応えましょう

という意味になるだろうし、あるいは第二の読み方をすれば

(小生が)物事に向き合えば、(仏は)応えることが出来るであろう

マ、こんな風にも解釈できるかもしれず、何の前触れもなく、こんな四文字が夢の中に現れて目が覚めるというのは、不思議に感じた。

この点で、本日の投稿は、先日投稿の補足をなすかもしれない。

世界観や、生命観というのは、現代社会では主として科学分野から説明されるものと決まっているが、何度も書いているように、現代科学は《唯物論》という特定の思想を(当然のように)是としている。そう言っても(まず)間違いはない(と最近はみるようになった)。測定可能な対象を考察するというのは、どこかしらで観察可能なモノが実在するという前提に立っている、と。そう思われるのだ、な。

昔、恩師に「効用関数が特定の形をしているかは観察できないと思いますが・・・」と質問したことがある。これに対して「それは分析概念」だよ」と応えられたものである。その時は、ピンと来なかったが、直接的に観察可能でなくとも、観察可能な数値の変動を説明できる抽象概念は実在している(かのように)と理解する。まあ、そんな意味だろうと後になってから(ある程度)分かるようになった。

「効用指標」という形で目には見えないが、数値化はできる因子が、消費者の心の中に実在して、経済行動に影響を与え、これを決定している、と。こういう見方は、効用関数は実在しているという立場と同じである。

自然科学、社会科学を問わず、科学が説明しようする世界は、目には見えなくとも、測定可能で、数値によって表現できる範囲に限られている。つまり、経験されるこの世界以外に、いかなる世界(=色々な要素が存在する空間)も存在しないという大前提にたつのが科学的世界観である。

この世界観は明らかにおかしいよネというのは、最近何度も投稿している通りである。

世界をどう考えるか、人間存在をどう考えるか、生命をどう考えるか等々に関することは、自分自身の経験や思想を科学的思考にぶつけて、両者の衝突の結果として形成される(はずの)ものである。いくら論理を構築しても、つまりは主観である。

鵜のみにしない方がよいのは、何も流言飛語や自己宣伝ばかりではない。客観的真理だと信じられている科学者の言もまた、自分が納得した上で信じるべきものである。

数学と物理学の両面で「大学者」と評価されたワイルは、短編『人間と科学の基礎』の序論に中世の哲学者・クザーヌスの言を引用している:

私たちの知識の中で数学の外に真なものはない

こんな言葉を議論の発端にしている。科学における数学はモデルであって、モデルは真理とは合致しないものである。単に観察した事実は、事実であるかどうかさえ怪しいものである。

なるほど数学的議論そのものに「自我」や「偏見」が混じるはずがない。しかし、モデルには人間の思い込みや価値観が混じる。更に、西田幾多郎ではないが、主客未分の「純粋経験」もまた真理性を有すると言えるだろう。

【加筆修正:2025-10-09】

2025年10月1日水曜日

断想: 「生死を出る」という表現は確かに「科学的」ではないネエ

統計分析を専門としてきたせいか、ずっと観察可能な現象で世界は説明できると考えてきた。典型的な《科学主義者》である。最近流行のエビデンスを何よりも重視する立場にいたともいえる。

科学の特徴は、世界の出来事はつまるところ観察可能である、観察可能ということは、大雑把に言えば、モノとして理解するということだ。つまり《物質的世界観》が根底にある。唯物論的世界観と言っても可であろう。

デカルトは宇宙については機械論で説明しようとしたが、哲学としては物質的存在と精神的存在を区別する二元論的立場をとった。

この点では小生はデカルトに共感する。科学主義では本質的な説明が不可能な対象もありうることに気がつくに至った。その辺のことは何度かに分けて投稿してきた。


例えば、自動車の自動運転技術が更に進化して、ほぼ完璧に公道を走行できるような時代になったとしよう。事情を知らない人が観察すれば、自動車は道路状況を観察しながら、最適な走行について考えながら走っているものと理解するだろう。

それをみた科学主義者は、自動車を1台に手に入れて、徹底的に分析する。

部品と部品との関係性、つながりから、発進、加速、方向転換、停止についてのメカニズムを理解する。エネルギー源と適切な供給についても理解する。それから人工知能の中枢を占める半導体回路を徹底的に分析する。回路における電荷と電荷の運動状態に応じて、自動車が特定の動作をすることまで突き止める。

このようにして、観察可能なエビデンスを徹底的に、かつ合理的に整理して、《真理》に迫ろうとする。


では、この科学主義者はまったく同じ自動車を複製して、その自動車にまったく同じ人工知能を搭載させることが出来るだろうか?

不可能である。

半導体内部のあらゆる状態に応じて、自動車が特定の動作をすることは観察可能だが、なぜ道路状況に応じて、電子回路網がその状態に変化し、なぜ自動車がそのような動作をするのか?この疑問全体に答える《知能システム》の基本設計が分からないからである。

その知能システムは、型式の異なった自動車であっても、転送可能であり、むしろより高度の運動能力を発揮させ得るということなどは、科学データからは補足できない。

つまるところ、

自動運転で走る自動車は、自動車自体が考えているわけではなく、自動車に考えることを可能にさせている《知的実在》が先にある。

こう考えなければ、話しが終わらない。つまり、《第一原因》であるのだが、カントはこの問題は人間の純粋理性が解答できる領域を超えた問題であるとした。

いま阿満利麿『法然の手紙を読む』を読んでいる途中なのだが、

ここでも「生死を出る」という表現が出てくるが、すでにふれたように、現代の私たちには理解が難しい言葉遣いであろう。私たちは、人の一生は生まれて死ぬまでの間であり、その前後には言及しない、というのが常識になっているからだ。

こんな下りがある。法然上人と『新古今和歌集』で著名な歌人・式子内親王との交流に触れている個所である。

現代技術文明の基盤は「科学主義」で、それが「常識」になっているのは仕方のない事だ。しかし、科学が人の知性を制覇する以前の時代においては、科学者が仕事をするときの作業仮説が、科学者ではない普通の人の常識でもあったというわけではなかった。

科学はこの300年から400年の間に、人間の知的営みからおよそ《非科学的想像》を追放してしまった。「非科学的空想」には意味がないというわけだ。

しかし、思うのだが、水と一緒に赤子も捨ててしまったような気がするのだ、な。

人間に観察可能な(=測定可能な)事実が、宇宙の全ての真理を教えるとは限らない。どちらに考えても、それは一つの認識論的立場に過ぎない。

輪廻転生論をどう考えればいいか、科学で結論が出るまでは100年間では足りるまい。物質的身体の世代継承は科学で捕捉可能だが、「識」や「種子」の相続は半導体回路の電荷の分布を分析する作業にも似て、実証的には解明不能だろう。

結局のところ

人間の知性は「人間の知性」自体の所在を外側から確認することが出来ない。ここが人間の造った人工知能とは決定的に違う。

この一点にかかってくる。今はこう考えているわけであります。

結局、本日投稿の主旨は

知性(と生命は?)は自然発生的に物質の中に生まれて成長するものではない。

小生は「ない」と思うが、「あった」と考える人もいるだろう   ―   小生の目には過激派・科学主義者で完璧な唯物論者に見えてしまうが。

こういうことであります。

空海が云ったという《両部不二》、つまり物質界と精神界とは究極的には一つの実在に統合されている・・・確かに、物質と非物質とを二つに区分できるのかどうかさえ、物理学の今後の発展による話題なのだろう。これは忘れないための付け足し。

読書中に思いついたので、メモしておく次第。


2025年9月27日土曜日

ホンノ一言: 「最も下らない」政情は継続中のようで・・・

今夏の参院選は小生の経験している中で最も下らない国政選挙であったことは投稿済みである。その下らなさをもたらした主因は、足元の問題を解決すると各政党が「のたまう」提案が、どれも非現実的で、(事実上)実行不可能であるにもかかわらず、それがまるで《選択肢》であるかのように、メディアが争点設定をして放送をし続けたことである。

思い出したのは、大学入試センター試験のことだ。試験当日の解答開始後に、時々、問題修正を板書することがある。これが結構面倒くさいのであるが、放置していると選択肢の中に正解がないということになるので、修正は絶対に必要だ。それでも、試験終了後に出題の誤りが発覚し、その場合は「全員正解」になったりする   —   実は正しい選択肢はなく、全受験生は誤答なのであるが、正解が含まれていない以上、全員を誤答とするわけにはいかず、正答として扱うわけだ。ま、グダグダ対応ではあるが、そうしないと当該科目を選んだ受験生は100点満点ではなかったことになるので、不公平になる。仕方がないわけであるな、とまあ思いをめぐらしながら、現場で試験監督をやるのも独特な面白味があるというものだろう。

今夏の参院選はそんな感じで、どの政党の提案も誤答で、それをメディアは指摘するべきであったにもかかわらず、それが有効な選択肢であるかのように報道したのは、稀に見る不誠実さであったと、いまも益々憤りを感じる今日この頃であります。


ところが、その不誠実な姿勢を、自民党総裁選挙でも続けている。

世も末だネエ

と、慨嘆に堪えないとはこのことだが、逆に番組編成側にはそれなりの戦略があって、あえて欺瞞的な放送を続けているのではないか? こう思うこともある。

財源もなく消費税を減税したり、ガソリン暫定税を廃止したりすると、当たり前の理屈だが国債を増発して財源とするわけであるが、仮にそうなるとその後一年間にどんな経済問題が新たに発生すると予測されるか?

予測可能であるにもかかわらず、マイナス面には触れず、減税が《選択肢》であるかのように報道をし続けているのは、

崖から落ちれば、落ちた後にまた皆で知恵を寄せ合って這い上がればイイ

確かに、これもまた政治哲学、立派な報道理念と言えるわけである   ―   日本発の金融危機は世界にとっては大迷惑なのであるが、もしそこに目が向いていないとすれば、「国際的信頼性」が日本の貴重な国富であることを認識できない島国根性とも言えるわけだ。

しかし、小生が知っている報道理念とは

真の報道は大衆の一歩前から有益な情報を提供することである。

誰が言ったかは忘れたが、「一歩前から」というのが記憶に残っているのだ。これに反して、近年の報道は、一歩前からではなく、「一歩遅れて」だろうと感じる。

大衆から一歩遅れて、大衆が聴きたい報道をするのが報道ビジネスなのである。

感心できないが、これまた選択可能な一つのメディア企業経営理念ではある、と。そう思うようになった。

話しは変わるが、上の議論とも少し関係があるような気がするので、書いておきたい。

アメリカの経済学者・クルーグマンはThe New York Timesのコラムニストから身を引いた後、substack.comから精力的に意見を発信している。

基本はトランプ政権批判で一貫しているのは分かり切っているが、最近ではこんな調子になっている:

Can we blame Trump for rising electricity prices? Not yet. The AI boom began well before Trump won the election, and the grid just wasn’t ready. Trump is, however, doing all he can to make the problem worse — boosting crypto and AI while blocking the expansion of renewable energy, which has accounted for the bulk of recent growth in electric generating capacity ...

Many people, myself included, have drawn parallels between the current AI frenzy and the telecoms boom and bust of the late 1990s — an alarming parallel, because the telecom bust led to years of elevated unemployment. But as Peter Oppenheimer of Goldman Sachs has pointed out, there have been many such boom-bust cycles over the centuries, going back to Britain’s canal mania in the 1790s. And here’s one analogy that has occurred to me: What would have happened if, midway through the 1790s canal-building boom, investors had realized that there wasn’t enough water to fill all those new canals?

So the electricity crisis is serious, adding significantly to the risk of stagflation. Unfortunately, it would be hard to find policymakers I’d trust less to deal with this crisis than the Trump administration, whose energy policy is driven by petty prejudices (Trump is still mad about the windmills he thinks ruin the view from his Scottish golf course), macho posturing (real men burn stuff), and hallucinations (the imaginary windmills of New Jersey.)

・・・

It also endangers America’s future. The Fed’s perceived independence is a major source of economic stability — more about that in this week’s primer. We’re already worried about stagflation. The risk will be far greater if Trump can dictate monetary policy by bullying individual Fed officials and creating a servile Federal Reserve Board. Just look at what happened in Turkey.

Author : Paul Krugman

Date : Aug 22, 2025

URL : https://paulkrugman.substack.com/p/kilowatt-madness

Googleで和訳させると

電気料金の上昇をトランプ大統領のせいにできるでしょうか?まだ無理です。AIブームはトランプ大統領が選挙に勝利するずっと前から始まっており、電力網はまだ整備されていませんでした。しかしトランプ大統領は、暗号通貨とAIを推進する一方で、近年の発電能力の伸びの大部分を占めてきた再生可能エネルギーの拡大を阻止することで、問題を悪化させようと躍起になっています。

私を含め、多くの人が現在のAIブームと1990年代後半の通信ブームと不況を比較しています。これは憂慮すべき類似点です。通信バブルの崩壊は長年にわたる失業率の上昇につながったからです。しかし、ゴールドマン・サックスのピーター・オッペンハイマー氏が指摘するように、1790年代のイギリスの運河ブームに遡り、過去数世紀にわたり、このような好況と不況のサイクルは数多くありました。そして、私が思いついた一つの例え話があります。1790年代の運河建設ブームの中頃に、投資家たちが新しい運河を満たすのに十分な水がないことに気づいていたら、どうなっていたでしょうか?

電力危機は深刻であり、スタグフレーションのリスクを著しく高めています。残念ながら、この危機への対応において、トランプ政権ほど信頼できない政策立案者を見つけるのは難しいでしょう。トランプ政権のエネルギー政策は、つまらない偏見(トランプ氏は、スコットランドのゴルフコースからの景観を台無しにしていると考えている風車に未だに憤慨しています)、マッチョな姿勢(男は物を燃やす)、そして幻覚(ニュージャージー州の空想上の風車)によって動かされています。

・・・ 

これはアメリカの将来をも脅かします。FRBの独立性は経済の安定の大きな源泉です。この点については、今週の入門書で詳しく説明します。私たちはすでにスタグフレーションを懸念しています。トランプ氏が個々のFRB職員を脅迫し、従属的な連邦準備制度理事会(FRB)を創設することで金融政策を主導できるようになれば、そのリスクはさらに大きくなります。トルコで何が起こったかを見れば一目瞭然です。

たとえ主観的には気に食わなくても、ト大統領は(曲がりなりにも?)民主的選挙で選ばれた(それなりの?)正統性がある米・大統領だ。しかし、そんなことには遠慮も頓着(≒忖度)も一切することなく、電気料金暴騰の背景とトランプ政権の無策から中央銀行に相当するFRBへの人事介入へと、当たるを幸いとばかり、斬りまくっている・・・とにかく毎投稿、そのたびにこんな調子である。さすがにThe New York Timesの紙上でここまでズケズケ言うと、会社に迷惑が及んだでありましょう。そして、クルーグマン先生とは価値観を異にする自分を確認することが多いのだが、小生の目にもKrugmanの指摘はとても正しい。 

本来、民主主義社会の運営はこうでなくてはなりますまい。上ばかりではなく、下の方にも期待されることは多く、覚悟も必要であるのが、民主主義である。

今夏の日本の参院選から現在の自民党総裁選にかけて論議されている政策案は、具体性、実行可能性に欠けており、どれも下らない。

これを《下らない》と指摘して批判したり、理論的妥当性を疑ったりするメディア企業が日本国内に1社としていないのは、日本のメディア産業が保護産業であり、スキャンダル発生時を除けば、政治にはなにも逆らえない体質が染みついているからであろう。

日本の政治家に何も忖度しない外資系企業がメディア産業大手として1社でもあれば、いまの情況はまったく違っていたと思う。そう思うと、本当に情けないのが今日この頃であります。この意味でも、小生は移民大歓迎、外資導入大賛成であります。国立大学法人の一つや二つ、海外の大手私立大学に買ってほしいくらいだ。政府には臨時収入が入り、運営交付金支出の国庫債務が減り、加えて大学経営の合理性が日本に導入できることにもなる。正に一石三鳥である。

人の構成は変われど、日本列島で暮らす人たちが豊かな生活を送れるなら、それがベストである。文化の継承、文化の創造は、未来の人に任せるべきである。これがいま持っている社会哲学である。唐様で「売り家」としか書けない凡々の三代目は、継承だの、伝統などとはいわずに、黙って家を売るのが合理的行動なのである。

苦い薬を飲むべきときもある

敢えてこう報道するのもメディアの役割であろうと思うのだが、ここ日本では誰も傷つけたくはないという感情の方が優先されるようだ。

政治家は数多おれども政治なし

「下らない政情」、これもムベなるかな、ではないか。

仁は人の心なり、義は人の路なり

孟子の言である。なるほど全ての人にやさしくありたいという思いは、報道業界(?)だけではなく、政治家も(ヒョッとすると?)共有しているのかもしれない。しかしながら、現代日本社会は

心はあれども路はなし

いまの日本社会で、仁は求められているのだろうが、義は無視されて誰も省みない。

【加筆修正:2025-09-28、29】

2025年9月24日水曜日

断想: 「懐疑主義」は近代を生んだが「怠慢」をも生む

昨日の彼岸は母の祥月命日でもあるので、いつもの経に加えて、小生の好きな無量寿経「往覲偈」を「四誓偈」の後に追加し、別回向文で戒名を読んだ。そのため起床時間はいつもより早くセットした。その後、午前11時には寺で彼岸会があるので歩いて往復した。疲れたのか、目覚ましを寝る前にかけ直すのを失念し、今朝は予定より30分ほど遅く、カミさんの目覚ましで起きた。

昨日は、拙宅と寺で二度も読経をしたので、今日の読経はもういいかとも思った。が、これを機会に日常勤行式ではなく、専修念仏でやってみようかと思いついた。但し、三万遍とか六万遍などという本式の念仏ではない。毎朝の時間に入れるなら僅かに三百遍でしかない。鴨長明が『方丈記』の最後で書いた「不請の念仏」はこんなのかナア・・・と思いつつも、それでもやってみると、妙に心が定まったので不思議な感じがした。

法然上人の『一枚起請文』は

唐土我朝にもろもろの智者たちのさたし申さるゝ観念のねんにもあらず。又、学問をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。唯往生極楽の為には、なむあみだ佛と申してうたがひなく往生するぞと思ひ取りて申す外には別の仔細候はず。
こんな書き出しで始まっているが、しばらくの間、小生は「智者の観念」や「学問による理解」を踏まえて行う念仏にはなぜ意義が小さいのか、これが不思議だった。学問的基礎は要るだろう、と。そう思われたのだ。それをスキップして、「これをやればイイ」とするのは、物事を単純化する日本文化の特色、というか悪癖がこんな所にも表れているかとも思ったものだ。

しかし、こう思ったのは全くの間違いだった。


最初に思い至ったのは、観念にせよ、学問にせよ、どちらも「私はこう思う」であり、そこには「自己」という存在が前提されている。「自分はこう理解する」というその理解には、必然的に《自我》が根底にあり、従って《我執》、《我愛》が混じっている。しかし、仏道ではすべて「我」という実在は「空」であって虚妄であると考える。だから、そんな「自己の理解」には意味がないのだ、と。

しばらくの間は、こう考えてきたが、今でも全くの間違いではないと思う。とはいえ、もって回った理屈である。これよりは実に単純明快な根拠があることを知った。


それは、極楽浄土を(智のみが捕捉可能な叡智界において)建設した阿弥陀如来は、その「本願」(=誓い)に「念仏」のみを云っており、学問をせよとか、最高の智慧を備えよとか、善い事をしたかどうかとか、男性か女性かとか、民族的な出自とか、往生極楽がかなうかどうかの一点において、一切の条件をつけていない。ただ仏名を称える行為のみを求めている。そう明確に『無量寿経』には(釈迦が弟子に伝える「教え」として)記されている。『浄土三部経』を読めばこの辺は明らかである。

往生極楽を願うなら、人が勉強して色々と考えるよりは、阿弥陀如来の本願に従うことが必須であるのは、当然の理屈である。故に、大事であるのは《学理》ではなく、阿弥陀如来の本願をあくまで信じようとする《信》である。その本願は、サンスクリット語でいう<アミターユス>、つまり漢訳の「阿弥陀」の名を念じることだけだ、と。古代インドで「ナーマス・アミターユス」と発声されていた仏名が漢訳では「南無阿弥陀仏」になった。これが日本に輸入されて今に至るわけだ。この事実そのものが阿弥陀の本願が成就された証拠であるというのが、浄土系仏教の骨子である。

こう考えると、『一枚起請文』の最後が

念仏を信ぜん人はたとひ一代の法を能々学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同うして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。
と、こう結ばれているのは、書き出しの内容を改めて反復しているわけで、
余計なことで議論せず、阿弥陀仏の「本願」を信じよ。阿弥陀は念仏だけを求めており、他のことは求めていない。
こういうことだろうと勝手に理解している。念仏を観想から称名に具体化したのは唐僧・善導である。法然上人は「偏依善導」の人である。だから法然上人の専修念仏は称名念仏である。故に他の行為は求めず、ただ一つ称名念仏だけが重要であるとした。

「宗教」としては実に本質的なロジックではないか。「学理」が大事なのではない。「信仰」が核心なのである。「専修念仏」という発想が単純なのではない。そもそも本質が単純なのである。簡単に証明できる定理をあえて複雑に証明するのは手筋が悪い。むしろ定理の本質を見失う。これに似ているかとも感じる。

 

現代世界では、何事によらず「真理」(とされているもの)に対して懐疑を表明し、単純明快な真理を覆すことが知的であると喝采する現象がよくみられる。いわゆる「キャンセル・カルチャー」は同じ流れに属するかもしれない。

他方、唯識論で論じる心の作用(=心所しんじょ)の中には《善》と《煩悩》が含まれている。煩悩が悪であるのは当然なのだが、各種の煩悩がある中に《不信》がある。つまり物事の道理に疑いを抱き、真理を認めない姿勢を指すのだが、実はこんな「不信」の心性は、結果として懈怠けたいの原因になると論じられている。つまり《怠慢》、《さぼり》につながるその原因は真理や道理を疑う「不信」でありがちだ、と。

逆に言うと、一生懸命さやひたむきに努力する生き方は誰がみても美しいものである。この裏側には《信》という心の働きがある。一度信じたことは真理として疑わず自らの柱とする。これが大事だ、と。こうも言われている。


確かに《懐疑》は精神として大切だ。しかし、尊重し、敬意を表するべき真理を、理解できず、疑いをもち、道理に反した言動をとるのは、一口にいえば(大概の場合)「怠け者」である・・・「ひねくれ者」とも言われるだろう。この認識は、現代世界にも結構当てはまるような気がする。実際、そんな人の数例を知らないわけではない   ―   ただ、小生自身がまた、相当のヒネクレ者であったから、同僚はすべてバランスのとれた優秀な人だと感じていた。そんな小生が本日のような投稿をするのは「何とした事か」と言われる喜劇なのである。

懐疑主義の元祖・デカルトも、全てを疑った後にたった一つだけ疑い得ない存在を見出して、絶対的真理の実在に気づいた。精神的柱が確立される好例である。

2025年9月22日月曜日

前の補足: 人間のありかたをどう見るかは、時代や国を問わず、同じであるようで

前の投稿は前の前の投稿の補足だった。本日の投稿は、そのまた補足になるから、事後的には前の前の前の投稿への補足にもなる・・・ややこしいが、ややこしい事が大好きだ。

日本文化はシンプルを愛し複雑を排するのだが、とすれば純日本風の美意識に小生はどこかで疑問を感じているのかもしれない。いや、また、これは別の機会に書くことにする。



前の投稿の最後でこんな下りを書いた:

間断なく人にささやき続けるのは、実践理性(≒良心?)とみるか、無意識下の煩悩であるとみるか、この人間観の違いは大きい。
前者はカント的、というか西洋的な道徳観だ。後者は、仏教的な人間観。

この両者の違いは大きいと書いているが、よくよく考えれば、実質的には同じだと言ってもよいのである。というのは

人間は、自然の傾向に従えば快を求め、不快を避け、満足を求めるものだ。それが幸福だと誤認しているのだが、真の幸福とは実践理性が己に命ずる道徳法則に従ってはじめて実現するものである。故に、真に幸福でありたいと願うなら実践理性の声に耳を傾けて従うべきであり、そもそも最初から快・不快を問わずそうするべきなのだ。こう考えるのが、西洋流。
これに反して、
人間の心は煩悩に塗れており、快に執着する貪欲(=とん)を常とし、不愉快に怒りをぶちまける瞋恚(=じん)、そして物事の正否善悪を間違えてばかりいる迷妄とそれに気がつかない無知(=)この三毒煩悩に汚れているのが現実の人間である。故に、真の幸福を願うなら、先ずはこれらの煩悩をすべて止滅し、悟りを求める心すなわち菩提心を発しなければならない。最高の智慧を獲得し涅槃に達すれば真の幸福が得られる。従って、菩提心を発する、あるいは浄土系の回向発願心こそが、人が生きる上で最も大事なことである。こう議論するのが仏教流。
自然に任せておくと、人は(自己)満足ばかりを追って、不愉快な対象は満足するまで叩き続けるものなのだ、と指摘されれば、まさに現代社会にも当てはまる認識である。あろうことか、自己からみて不愉快な対象は正義に反していると言い、自分が正しい側にいるとも主張しているから、人間社会は仏教誕生以来、なにも変わってはいないわけでもある。

このような人間理解だけは、洋の東西を問わず、時代を問わず、一貫して同じであるように思われる。もちろん、いま使った「人間」という言葉は、「理性/知性」とは区別された、丸ごとの意味での具体的な「人間存在」のことを指していっている。一言で言えば、

良薬は口に苦し
この一言につきるというものだろう。
善い政治家とは、そもそも、国民には不愉快なことを求めるものなのだ。
そんな示唆にもなるが、とてもじゃないが、そんな余裕は現代社会にはないようだネエ・・・アナ、おそろしや、なさけなや。


省みると、いわゆる《末法》という世が始まったのは、西暦1052年からであると日本では理解されている。藤原道長は既に世を去り、息子・頼通の時代だ。頼通は父・道長の宇治別荘を改修して阿弥陀如来を本尊とする平等院鳳凰堂を遺した。その頃から鎌倉時代にかけて浄土系信仰が非常に高まったのは末法思想が理由である。もし「末法千年」と仮置きすれば、西暦2052年以降は「教え」が完全に消滅する《法滅》の世となる。対して「末法万年」とするのが多くの説であるようだ。この場合は、法滅までにまだ長い時間がある。いずれにしても、現代風にいえば「都市伝説」、「言い伝え」の類である。

現代日本だけではなく、世界では人類を救うのは《科学》であると確信されているが、科学が解決できるのは物質的な、というか「客観世界」を基礎づける物理学で(最終的には)アプローチ可能な問題に限定される  ―  数学ではない。物理学の対象は、その内部で思考することはない。物質は考えることをしないのだ。モノがそれ自体として意志や目的をもつことはあり得ない ― でなければ、宇宙は自ら考え、自らの意志と目的に沿って発展するという過激な(素っ頓狂な?)唯物論を認めなければならない。こんな空想は「科学的社会主義」以外に候補はない―いかなマルクス経済学でもここまでは議論していないはずだ。考えたり、理想を追求しようと意志をもつ人の「意識」、つまり理想や意志そのものは、身体器官の内部には存在しない。それとは違う非物質的存在である。考える「知性」は「知性自らの所在」を確認することはできないのだ。とすれば、「意識」の中で生じる問題は科学によって解くことはできない。こんな理屈になる。(最近の投稿でも述べているように)これが(現時点の)小生の生命観・世界観である。

クラークの名作にして名画でもある「2001年宇宙の旅」。作中の(実質的な)主人公は人工知能"HAL"であった。そのHALは最後に暴走した。しかし、いかに偉大な知能であっても、その知能自らが自己の論理の暴走を認識することは不可能である。真はあくまでも真。偽はあくまでも偽。知能がよって立つ数学的論理では真であり同時に偽である命題は存在しない ― というより、実際上そうあらねば困る。即ち《排中律》である。なので、科学だけではなく、知能がよってたつ論理も大前提のうえに造られている。そんなことも考えたりする今日この頃であります。

2025年9月19日金曜日

覚え書き: 中島義道『カントの「悪」論』を読んで

この数日は中島義道の『カントの「悪」論』を読んでいた。ドイツ発祥の観念論哲学は、気にはなれども、専攻も違うので、研究する暇もなく、言い訳代わりに「実証科学の精神に逆行して古ぼけた屁理屈を並べているだけサ」と。そんな目線でほおって来た。それにカントにしろ、ヘーゲルにしろ、長い。文章も(日本語訳で読むと)極めて難解かつ錯綜しており、丸ごと読んで理解するだけで相当の時間資源を投入しなければならない。一方で、最新のマクロ経済理論を理解するには、変分法やポントリャーギンが確立した最適制御理論が必要になるが、その基礎にある「最大値原理」を理解するには偏微分方程式論まで勉強しないといけない。どちらも「いきたしと思えども」そんな時間はない。小生にとってドイツ観念論哲学と最大値原理は(方向は南北正反対だが)同じような位置、同じような距離に立っていた的であったわけだ。

人間存在を理解する上で唯識論という世界に馴染んでしまったいま、カントは倫理や道徳、善と悪について、そもそもどう考えていたのかを展望してみたくなった。

というのは、唯物論的な科学主義を信じている間は、善と悪の判断基準はどうしても結果を重視しがちであり、イギリス流の功利主義に共感をもつものである。実際、アダム・スミスは一人一人が自己利益を追求して自由に行動する結果として、社会的には善い結果がもたらされる道筋を示した。これが《経済学》の始まりである。

しかし、自己利益の追求から社会的善が生まれるというのは、よく考えてみればやはり奇妙であるわけだ。この辺は、日本の哲学者・西田幾多郎『善の研究』でも力説しているが、小生自身の最近の《転向》については本ブログでも時系列順に投稿してきているところだ。

上にあげた『カントの「悪」論』は、特に『道徳形而上学原論』と「実践理性批判」を対象にしてカントの哲学を概説しているが、特に面白いのは(やはり)第4章である。Kindle本に(ページ丸ごと)ブックマークを付けている個所も第4章に集まっている。

例によって、引用しながら書き入れたコメントを並べて書評としたい。

まず

自然因果性を攪乱することなく、「みずから何ごとかを始める能力」としての超越論的自由を認めることができるか否かが問われているのである。
こんな下りに黄色く色をつけて保存している。「自然因果性」というのは、人間を自然科学的にみれば物理化学的プロセスそのものであるから、ある状態から次の状態へ遷移するのは因果必然的である、という意味合いだ。しかるに、人間には意志の自由がある。これは因果必然的な物質的人間存在に矛盾していないか、というのがカントが考察した問題である。

これに対して、こんなコメントを付けている:

意志の自由を議論するのであれば、あらゆる生命体に共通する「意志」と「目的」とをまず議論するべきだ。物理化学的プロセスである生命現象が他の現象とどう区分されるのかが重要である。
このあとカントは(というよりこの本の筆者が?)
・・・私が(椅子に腰掛け続けるのではなく)椅子から立ち上がることを、そのとき私は「自由に選んだ」ということになる。
とあるのだが、ここでも
因果束縛性と目的束縛性の両面から議論を整理するべきだ。椅子から立ち上がるとき、その人は立ち上がる動機に従って行為したのであって、ただランダムに何の意味もなく、立ち上がろうと意志したわけではないはずだ。
こうコメントしている。カント倫理学においては「自由」が主題になっているのは知っているが、「意志」の前には「目的」があり、「目的」の前には「欲求」がある。そして「欲」には善なる欲もあり、悪なる欲もある。自由を主題にすると、この辺に焦点が定まらなくなる。

次のブックマークに行こう。こんな下りだ。

もしわれわれが自然因果性によって文字通り未来永劫にわたるまで完全に決定されているのだとすれば、実践的自由は成立しないように思われる。
カントがいう《実践的自由》とは《実践理性》が「・・・するべきである」とその人に道徳的な命令を下す自由のことだと理解している。要するに、人は誰かに命令される「他律」にあるのではなく、自分の道徳的価値に従う「自律」にある、そんな意味合いで述べられている。

これに対して、

唯識論でいう阿頼耶識あらやしきが蔵する種子しゅうじ業縁ごうえんに束縛される凡夫に実践的自由はないと言える。親鸞が唯円に語ったように、一人の人も決して殺すまいと意識では決意していても、因と縁によって人は人を殺すことがある。ひとえに業縁ごうえんによって「煩悩具足の凡夫」は支配されている。浄土信仰が前提する人間像とカントが考える人間存在には大きな違いがある様だ。
こんなコメントを付けているのだが、統計分析が万能であると考えていた以前の小生なら、科学主義者でもあったからカントが考えるように実践的自由について考えていたものと想像する。

次はこんな文章だ。

もし人間が実践的意味で自由でないとすると、どういうことになるか考えてみよう。・・・すると人間はからくり機械の最高の親方によって組み立てられ、ゼンマイを巻かれたマリオネットかヴォカンソンの自動機械となるであろう。・・・自発性の意識はそれが自由とみなされるならば、ただの錯覚に過ぎないであろう。
非常に面白い思考実験ではないか。このカントの(物質的ないし精神的な)「人間機械論」について、小生はこんな風にコメントしている。
人間機械論に限定するのは一面的だ。国家が定めた目標を達成するための最適行動をとり続ける場合も、その人に実践的自由はない。

自由は、目的を設定できる主体にのみあり得る。もし目的を人が自ら設定するのであれば、その後にその人が採るべき行動は制限されてしまうが、その人は自らを自由であると思うはずだ。
こんな風にコメントしている。人は、一面では因果合理的で一つの自然現象であるが、同時に意志をもった目的合理的な存在でもある。目的合理的な存在が辿る軌道は、選択可能な無数の軌跡の中の唯一の最適解であるが故に、それ以外の軌道ではあり得ず、したがって因果合理的な必然的プロセスとしても説明ができるのである。

第4章も次第にクライマックスに向かっている。次にこんな箇所に色を付けている:

われわれ人間が自由であるとは、善へ向かう自由に悪に向かう自由がぴったり張り付いているということである。われわれは悪への自由があるからこそ、善への自由がある。われわれは、悪を自由に選びうるからこそ、善を自由に選びうるのだ。
なかなか深い。カントは、選ぼうと思えば悪を選べたにもかかわらず、それでも善を選ぶからこそ、その人の行為には道徳的価値があるのだと断言している。善行を行うことが、その人の名声を高め、人から尊敬され、その人の自己利益になるなら、放っておいてもその人は善行をなすであろう。しかし、そんな善行には自己利益の動機が混ざっているはずで、道徳的価値はないのだと、カントは一刀の下に切り捨てている。この辺は極めてラディカルというか、気持ちがいい。

小生はこんなコメントをつけている。
繰り返しコメントするが、人間は過去からの因果と自らが意識する目的に束縛されており、決して自由ではない。・・・

「自由ではない」・・・カントの論理に従えば、故に善を為すことは不可能である、という帰結になる。と同時に、悪を為しうるとも言えない。

実践的自由がないならば、その行為の、法的はともかく、実質的な責任がない、という理屈になる。

さすがにこれはおかしい・・・と感じる人は多いはずだ。ということは、目的束縛性という条件から外すか   ―   理性、即ち「考える我」にあらゆる目的や動機から解放された「自由」を認める・・・最近になって何度か投稿している唯識論的人間理解においては、「我」は仮構であり、色々に条件づけられた依他起性を本質とする。カント的思考とは相当な違いがある。

自己に対してある目的を課すことには実践的自由がある。こう考えなければ責任を問えない。一連の行為に先立つ目的、言い換えれば最初の動機において、理性が求める道徳法則に耳を傾けていたかが問われる。こういう解釈になるであろう。国家が(あるいは組織が)定めた目的を拒否する自由はあったはずだ。こういう議論にもなる。いま何度きいている言葉だろう?

カントの倫理学は時に残酷である。

最後にこの箇所である。

・・・こうしてカントは道徳法則の背後に神を「認識する」という構図を峻拒しながらも、ここで感性的(肉体を有する)理性的存在者である人間の「自然」がみずからのあり方にみあった道徳的善さを実現するように、自然の創造者(すなわち神)が、人間を(その精神もその肉体も)創造した、という物語を導入するのである。
多くの人は、この辺でカント(あるいは上の本の著者が理解するカント?)にはついていけなくなるのかナア、とも思われる。が、小生はこの箇所を読みつつ、
結局、ソクラテスの口を借りてプラトンが展開した《道徳》と《幸福》との統一にカントも戻ったか・・・
そう解釈した次第。

カントが一貫して述べているのは、人間が自らの幸福を求めるのは当たり前である。つまり、そこに道徳的な価値はない。誰でも従うはずの「幸福の原理」よりも優先して実践理性の命ずる道徳法則を心から尊重して誠実に守るという「誠実の原理」を貫く。それ以外に、善が善である根拠はない、と。これがカント倫理学の主軸である。

とすれば、人が善く生きるには自らの幸福を犠牲にしなければならないという意味になるが、決してそうではない、と。人が真の意味で幸福になるためにこそ道徳が法則としてあるのであって、実践理性は常に「・・・こうするべきである」と人間にささやく。その道徳法則に逆らうことも出来るのであるが、多分それは自己の利益、自己の幸福を目指してのことだろう。しかし、そのような行動から人は幸福に至ることはできないのだ、と。

概略、こういうことだが、まったく同じことをプラトンは『ゴルギアス』(だけではなく一貫して)ソクラテスに語らせている。

いずれにせよ、人間が《悪》を為すのは、善を命令する理性の声に耳を傾けず、自己の「幸福」というか「満足」を優先する時である。言い換えると、その人の内部に《善》はあるのだが、利益や満足を優先して善を欠如させてしまう状況。それが《悪》である、と。こうした人間理解がカント倫理学の底にはあるようだ。

他方、仏教的理解では、人は自らがどれほど善人であろうと意識しようとも、心の最深部に潜在する業が、不図した偶然の縁から現勢化して、自分も驚くような悪行を為してしまう。それをもたらすのは、煩悩と言えば煩悩であるが、貪欲(=貪)と怒り(=瞋)、無知ゆえの迷い(=痴)という三毒に苦しむのが、現実の人間存在であると理解する。

間断なく人にささやき続けるのは、実践理性(≒良心?)とみるか、無意識下の煩悩であるとみるか、この人間観の違いは大きい。
 

本日は先日の投稿の補足にあたる。

2025年9月17日水曜日

断想: 日本人は決して「リスク嫌い」ではない。しかし・・・

「貯蓄から投資へ」という標語を拡散させたのは岸田内閣ではなかったかと記憶している(違ったかな)。日本限定か世界の課題としてかは分からなかったが、「新しい資本主義」という呼びかけもしていたはずである。

しかしながら、最近になって、「投資なんてリスクがあるでしょ?リスクは避ける方が賢いですから」と言いつつ、投資に背を向けて、(何と)家賃収入が得られるからと貸家を買ったり、直近で相場が急騰している金をわざわざ高値で買おうとする若年世代が増えつつあると、どこかのメディアで視たか、読んだかした覚えがある。

不動産など土地にしても住宅にしても流動性に欠けるし、メンテナンスにも資金がいる。金など唯々値上がりを待つのみという非運用系のゼロ配当資産である。それでも消費財ではない以上、これらを買えば資本支出。つまり投資である。

このほかにも

リスクって言葉の意味、理解していないヨネ

と、思わず突っ込みを入れたくなるような記事が結構目につくわけである。

それでも

日本人のリスク回避や安全志向が成長を妨げる最大の理由なんですヨネ

と。こう断定してしまう訳には、実はいかない。事実は、逆である(と思ったりする)。

実際には、日本人は結構ギャンブルが好きである。

公認カジノこそまだ開業していないが、競馬、競輪、競艇は公的に認められた賭博であるし、パチンコだって実質はギャンブルである。

こんな投稿もネットにはみられる  ―  数字の裏はとったほうがイイかもしれない:

【データ】日本のギャンブル依存症率

➡ 成人の約3.6%(約280万人)がギャンブル依存症(2017年 厚生労働省調査)

➡ 他の国と比べても異常に高い(アメリカ1.0%、フランス1.2%)

この原因として、日本にはパチンコが全国に多く存在する ことが影響しています。

パチンコは「ギャンブルではなく遊戯」として扱われているため、実質的に規制が緩い のが現状です。

URL:  https://note.com/misa_matsuzawa/n/n52866dd75655 

年末が来れば「歳末宝くじ」を必ず買う人は普通にいる。「賭け麻雀」、「賭けゴルフ」はご法度であるが、実際には厳守されているわけではないだろう。

ことほど左様に、元来、日本人は《丁か、半か》の声が飛び交う鉄火場を決して嫌っているわけではない。

ギャンブルの好きな国民がリスク嫌いである理屈はない。どこかに勘違いがあるのだ。

小生思うに、「リスクは避けるべきだ」という注意/助言が、メディアを通じて、過剰に日本国内で発信されている。

何だかメディアが注意している通りに日本人は慎重にリスクを避けているかのように思ってしまうではないか。

しかし、事実は違っている。最近のメディアに目立つのは独演・一人踊りである。

現実には、日常生活の中で日本人は高リスクの遊びに相当のカネを支出している。但し、それらの支出は、遊び、つまり《消費》として観念されているので、《投資》とは言わないだけである。しかし、「払いっぱなし」ではなく明らかにリターンを求めてパチンコで遊ぶ心理は、値上がりと配当を求めてお気に入りの銘柄の株式を買う投資家の心理と、当事者の感覚としてはホボゝ同一である。その支出を楽しんでいる心理に変わりはないのだ。

競馬の馬券を買うときの「リスク」は、米株AMZN(=アマゾン)を買うときのリスクよりは、余程大きいであろう。公開された経営情報や随時の換金性を考えると、株式投資は極めて透明かつ合理的なカネの使い方である。

違いがあるとすれば、JRAに払われたリスクマネーが次はどのような使途に振り向けられるか。Amazon.comに流れたリスクマネーがどのような目的に使われるか。ここが違う。近年の結果から確認されるように、JRAに払われるリスクマネーは日本経済にはほとんど何の役にも立っていない。他方、Amazon.comが受け取ったリスクマネーは、同社の事業効率化やAWS拡充など生産性向上のために使われている。

本来はリスクを恐れていないにもかかわらず、日本人が支払うリスクマネーが(まったく?)生かされないのは、払う先がマネーを生産的に使わないからだ。そもそも生産的に使おうという意志すらもないためだ・・・こう考えるのが理屈というものだろう。

つまり、

日本人はリスクが嫌いなのではなく、むしろギャンブル好きな方なのであるが、自分が引き受けるリスクを客観的に認識・評価できていない。リスクとリスクをカバーするリスク・プレミアムとのバランスに無頓着である   ―   この根底には確率的な思考が苦手である点が挙げられるが、これはまた別に。

だからこそ、カネをドブに捨てて省みない金持ちもいれば、無駄遣いを無駄と認識できない経営者が数多いるわけである。

こういう事が、マクロ的には日本経済の足を引っ張っているのではないかと思いついた次第。

「株式や債券(!)といった金融投資にはリスクがあります」と、(たとえばTV番組が)資金の運用を話題にする時に必ずと言ってよいほど断りを入れる。それもムベなるかな、である。そもそも、メディア企業自体がリスクについてよく分かっていないのである   ―   保護産業にリスクが理解できないのは自然な結果ではあるが・・・

たとえば(株や馬券ではなく)土地や貸家などの実物資産を買う時にも、必ず(より巨額の?)リスクを負っているのであるが、そういう資金運用の仕方を(ここ日本では?)株式ほどには不健康視しない。これも不思議な感性である。

リスクという概念の定義、リスクの大小を評価する方法。消費の感覚と投資の感覚、投機の感覚。これらの経済的センスは、自動車を運転するための交通ルールと同程度の常識とするべき知識である。せっかく新聞、TVというオールドメディアが(まだ?)あるのだから、もっと頻繁に登場してもよい話題だと思う・・・ちょっと日本のメディア企業には無理な期待かな?

【加筆修正:20250918】

2025年9月14日日曜日

ホンノ一言: それほど外国資本に買収されるのが怖いですか?

記者会見の発言にしろ、ネットにアップされている投稿記事にしろ、切り抜きはよくないとは思う。切り抜きは全体の趣旨を伝えないからである。

しかし、その部分が記事全体の論調を凝縮している核心的部分であるとしか思えない箇所もある。そんな場合は、切り抜くことで概要をシンプルに伝えられるであろう。

こんな投稿がある:

こうしたなか、永谷園や大正製薬などはMBO(経営陣による自社の買収、Management Buyout)を行い、株式上場を止めている。もはや敵対的買収を防ぎ、中長期的に日本型経営を行おうとするならば、株式上場を止める以外にない、というのが現状だ。

 日本文化に根差した日本型経営が否定され、欧米型経営に法律で無理やり改造され、日本のサラリーマンの給料は上がらなくなり、株主配当は増えている。

 日本型経営では、一部の事業が不採算であっても会社全体でカバーすればよいとされたが、欧米型経営に転向した日本企業では、選択と集中の名のもとに、事業所閉鎖と首切りが横行している。リストラにあった技術者のなかには、生きるために外国の企業へ転職し日本の技術を教える者もいて、結果として、日本の競争優位を下げている。

Source:PRESIDENT Online

Date:9/14(日) 7:16配信 

URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/6ea3b4d116816d1b82af39db82353bddeab8b72d?page=3

岸田内閣による対内直接投資(対日直接投資)推進政策がきっかけとなって、今や日本的経営の良い所を継承する老舗企業が続々と非上場化を迫られたり、買収された後で社内リソースをしゃぶりつくされている。そんな懸念を伝えているのである。


単純に思うのだが、

日本文化に根差した日本型経営が否定され、欧米型経営に法律で無理やり改造され、日本のサラリーマンの給料は上がらなくなり、株主配当は増えている。

ここの下りなのだが、サラリーマンの給料がずっと上がらなかったのは、日本企業の方であり、上がり続けていたのは日本型経営とは縁のない欧米企業だったのではないだろうか?

実にシンプルなファクトチェックをすれば十分だ。


今後も日本型経営を続ければ給料は上がる。欧米資本が日本企業を経営管理すると、上がるはずの給料も上がらなくなるという意味なのだろうか?

そりゃ、本当なのだろうか?

概して外資系企業は給料が低く、日本型企業は給料が高かったのか?逆だろう。


短期的利益のみに関心があり、長期的な再生には興味がないから、期待が持てないということなのだろうか? だとすれば、日本企業の買い手に問題があるのであって、相互にウィンウィンの関係になれる欧米企業に日本の側からアプローチするべきだという結論になるのではないか?

確かに非上場化をすれば買収される心配はなくなる。しかし、広く資本(=出資・リスクマネー)を求めることを諦めるという事は、これ以上の事業拡大、新規立ち上げは積極的に求めないという意思表示であるとも邪推される。これまで通りの会社経営を続けられるというものだ。しかし、日本全体でこんな姿勢を続けたことが、失われた30年の根源的な背景であったのではないか?


一口に買収といっても、悪質なものもあるし、良質なものもある。日本だって海外企業を買収している。日本型経営を強要して失敗した例も多いし、うまく行ったところもある  ―  ちなみにサントリーが新浪社長の下で買収した米国・ビーム社は日本企業との経営統合が成功した事例としてよく知られている。経営統合は、買われる側と買う側との共同事業である。海外資本が入ってくれば、必ず食い物になるというのも、「じゃあ、そもそも何を期待していたンですか?」と。逆に問いたいところであります。


1945年に日本に「進駐」してきた「連合軍総司令部」を目の当たりにした時の恐怖心がその人の原風景になったというならまだ分かる。そうでもないのに、「貿易立国」だとのたまいながら、一度は「輸出大国・経済大国」になって、今度は形勢不利と見るや「日本型経営」や「非上場化」を国家防衛政策よろしく語るというのは、「鎖国」でもしたいのか、と。水際で防衛したいのか、と。

本気でそう思ってるのかもしれないネエ・・・という感想です。


つまるところ、この世はお互い様である。相互主義である。既に日本は国としてグローバル世界で売買をしながら食っている。故に、グローバル世界の中で、お互い様を原理としてやっていかずばなりますまい。いつまでも我を張っていれば、取引困難の相手とされるだけである。

国内で日本文化や日本趣味をいつまでも大事に守るのは、感性の世界のことである。日本人が日本文化を心から本気で守りたいと思っているなら、経済活動がどうであろうと必ず守られていくはずである。



2025年9月12日金曜日

断想: コンプラいでて、創造ほろぶ?

朝起きる前にこんな事を考えた:

法律は「守る」ものであり、「守らせる」ものである。

創造は、従来の理解を修正させるものであり、変更させるものである。

起きる直前には、人間、何だかえらく難しい事を考えるものかもしれない。

ずっと以前になるが、コンプライアンスについて投稿したことが何度かある(たとえばこれ)。そこでも書いているが、どんな言葉にも表の意味と裏の意味がある。しばしば徳を表す《勇気》や《大胆》も、裏側から見ると《侮蔑》や《鈍感》と一体になっていることが多い。完全な善というのは、プラトンと同じく思考の世界にのみ存在する観念で、この世において実際に達成するのは人間には不可能だというのが、小生の世界観である。

明治の文明開化が落ち着いて、憲法制定、法律整備へと向かっていた時代、

民法いでて、忠孝滅ぶ

と訴えたのは、東大法学部で教授をしていた穂積八束である。

確かに戦後日本で価値転換が激しく進んだと同様、明治前半もあらゆる真偽善悪が前時代とは逆転した時代であった。しかし、実際には成人した明治天皇や側近たちの主導で、教育勅語や道徳教育の復活が実現し、文字通りに「忠孝」が滅んでしまう状況にはならなかった。これが日本社会にとってよかったのか、悪かったのか、戦前期民法を含め、戦前期・日本をどう評価すればよいのか、まだ国民的な理解は形成されていないと思う。

話しは別だが、いま思い出しているのは、2004年に起きた《Winny事件》である。最後には、(当時としては)時代の先を行く新たなソフトウェアを開発したエンジニアまでもが警察に逮捕され、強制的家宅捜索と厳しい取り調べを経て、起訴され、最終的に2011年に最高裁で無罪が確定するまで、長い時間を要した。

バブル崩壊からごく最近までに至る日本経済の長期停滞に関しては、バブルの後処理に失敗したとか、1997年のアジア危機が痛かったとか、小泉改革の生煮えさが原因であるとか、東日本大震災によって原発施設が全面停止し、以後、不安定なエネルギー供給が続いてきたためであるとか、多くの原因が指摘されている。

しかし、これほどまで日本経済の活力が奪われた出発点として、最先端ソフトウェアの不適切な使用の事後責任までをソフトウェア開発者に負わせようとした捜査・司法当局の厳しいコンプライアンス重視主義を挙げてもよい。小生は、そう観ております。

科学と技術で生じた問題は、科学と技術の進展によって解決するべきであり、法律で解決してはならない。「ならない」というより、とにかく法律関係に落とし込んでから、関係者を処罰、処罰でもって「解決」とするのは、余りにも単細胞で、かつ後ろ向き。とてもじゃないが、感心できない姿勢である。

《Winny事件》は、日本の研究者、開発者を(というより経営管理層を?)強く委縮させるものとなった。そして日本社会は、捜査当局のそうした抑圧的姿勢が《公益》に寄与するものとして、これを是とした。これが日本経済の停滞の根源的要因(の一つ)として働いた。そう観るわけであります。

まさに

コンプラいでて、創造ほろぶ

所詮、法は促進させるものではなく、守らせるものである。法律で出来る事には限界がある。それは日銀の金利政策で出来る事には限界がある。それと同じである。

一度、ゼロ金利にまで下げてしまうと、金融政策で成長軌道に戻らせることは極めて困難になるのと同じように、司法で創造への意欲を委縮させてしまえば、再びフロンティア精神を活性化させるのは難しい。

法は安定を守らせるもので、創造は安定を破壊するものだ。

両者のバランスが最も重要だ。火を消せば灰が残るのみ。その灰の中から再び火を起こす義務は火を消した司法当局にはないのである。その責任を免れるところから、過剰なコンプライアンス重視主義が世を跋扈してやまない。

研究開発の火が消えれば、人は人が集まっている都市に集住し、互いに何かをしあって報酬を得る。地方には生産現場が残る。食えることは食える。共生空間、互助経済と言えば気持ちは和むが、「花見酒の経済」である。生産性向上とは縁なく、ただ面白いだけである。大都市への人口移動が進みながら、高度成長時代とは異なり、生産性向上、生活水準向上が伴わないのは、これが背景だと観ている。

「いやはや何とも・・・」としか言う言葉を知らない。


以上、朝起きる前に考えていたことを文字起こししてみたまで。

2025年9月9日火曜日

ホンノ一言: 早速、前倒し自民党総裁選挙に期待するネット記事をみつけた

漫画『ハレンチ学園』というと天才・永井豪の代表作である。小生、ずっと以前は永井作品の結構なファンであり、連載されていた『キッカイ君』だったと記憶しているが、ドクター・ポチとその助手であるアルフォンヌ・ルイ・シュタインベック3世がお気に入りのキャラクターだった。加えて、まったく関係なく現れる寄席の師匠・炎天下冷奴もまだハッキリと覚えているから、よほど気に入っていたのだろう。

確か最後は地球最後の日がやって来るという話しだったと覚えているのだが、まあ、とにかく全人類が滅亡するのだから、大変な話だ。そんな騒動を描いた横で、というか後ろで、羽織姿、手には扇子の冷奴師匠が

〽エ~ライコッチャ、エ~ライコッチャ、ヨイヨイヨイヨイ・・・

満面の笑い顔で踊っている。そのコマがとても好きであった。

まあ、無責任といえば無責任の極みである。とはいえ、どうせ地球が滅びるなら、その最後の瞬間まで楽しく踊りまくるのが、最も合理的で賢い生き方なのであると、ずいぶん後になって、何かの経済学関連書で読んだ記憶がある。

自民党の総裁選挙が前倒しされることになって、ネットにはこんな記事がある:

自民・公明両党は衆参両院で過半数割れの少数与党となっており、次期総裁には難しい国会の舵取りが求められる。“進次郎構文”の「小泉総裁」か、“右過ぎる”「高市総裁」か──日本の未来はどこへ向かっていくのだろうか。

Source:YAHOO! JAPAN ニュース

Original:NEWSポストセブン

Date:2025-09-09 7:14配信

URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/ab503a565e878486a85f68b7edcd31a9a2c19746

解決困難な問題に次期総理(?)は直面する。ところが、一方の小泉候補は「中身が薄くて」、理解困難な言葉を発する。他方の高市候補は「靖国神社への参拝がライフワーク」で、「(極右である)参政党との連立なんてことも言いかねない」というお人柄だ。

「小泉総裁」か、「高市総裁」か ― 日本の未来はどこへ向かっていくのだろうか?

これを読みながら、なぜこの記事の最後に、

〽エ~ライコッチャ、エ~ライコッチャ、ヨイヨイヨイヨイ・・・

という一文を付け加えなかったのかと、そう感じた次第。

そうすれば、この記者は天才ではないかと思った事でありましょう。

振り返るにつけ、日本のメディア文化からいわゆる「風刺画」と呼ばれるヒトコマ漫画がすっかり廃れてしまったのが、とても残念だ。おりしもNHKの大河ドラマ『べらぼう』では天明・寛政期に普及した狂歌が素材になっている。江戸の町人には道徳至上主義者の老中・松平定信を笑い飛ばす根性があったが、いま現代日本の大衆はえらくクソ真面目で、すっかり大人しくなっちまったンだネエ、大人しい割にはストーカー犯罪とか通り魔殺人とか、現代型犯罪は結構出てるようでもあるがナア・・・・・・と、そんな感想です。

ちなみに、上の

〽エ~ライコッチャ、エ~ライコッチャ ・・・

についてだが、気になってオリジナルは何だったのか調べてみると、「エ~ライコッチャ」でなくて「エ~ライヤッチャ」。あとに続くのは

〽踊る阿呆に 見る阿呆 おなじアホなら踊らにゃ損々

であった。阿波おどりは少年期に何度も近所の悪ガキたちと歌いながら真似したものだ。なぜ思い出さなかったかナア・・・

となれば、最近の世相、世を嘆く記事をネットにあげては、エ~ライヤッチャ、エ~ライヤッチャと、付け加えてほしい。何度も何度も、手を舞い、足を踏んで、踊り歩ける。

同じアホなら 踊らにゃソンソン

ではないか・・・

【加筆修正:20250910】


2025年9月5日金曜日

ホンノ一言: プロスポーツ応援にも現代日本社会の空気が現われてきたか?

 Yahoo Japan!ニュースをみていると、

今シーズンの大谷翔平にどのような期待を寄せていますか?

という問いに対するネットアンケートの結果が掲載されていた。

結果が面白い、というか本当に「情けない」ので下に切り貼りしておき、最近年の日本社会をよく映し出す事例とし、併せて自戒と致したい。




Date:2025年9月5日
URL:https://news.yahoo.co.jp/polls/55031

プロスポーツの選手に何を期待するかという思いに、そもそもなっていないように感じた次第。

何だか、現代日本社会を覆っているドンヨリとした気分が、ここにも表れているような感覚を覚えた。

この空気は、一体、日本社会のどこから発しているのだろう?
それをこそ、情報発信してほしいネエ。

以上、ホンノ一言。


2025年9月3日水曜日

補足一言: 「国益」と「私益」の区別についてだが

前稿でこんなことを書いた:

国益の計算としては、微細な違法性でつまらぬ家宅捜索を警察がしでかしたと感じるものの、グローバル企業・サントリーを代表する会長としてみると、不道徳な買い物をしていたと受け取られるのはやむを得ない。

この箇所、見る人がみれば、こんな見方自体に厳しいクレームがあるに違いない。いわく・・・

  • 地位を失うのは私益。違法薬物取締は国益。この二つを天秤にかけることは許されない。警察は国益に随って行動するべきだ。
  • サ社の元(!)会長が地位を辞したのは当然。そもそも高い地位にあって利益を会社から得るばかりで、社員、日本社会に何も還元してこなかった。今回の責任の取り方は当然。

他にもあるだろうが、まあ、まあ、こんな反応は当然予想される。

小生の立場は本ブログで何度も投稿しているが、また繰り返しておくと、

誰の私益とも関係しない、純粋な意味での《国益》という概念を小生は認めない。

共同利益という意味での公益はある。が、日本全体の国益は私益を合計したものである。故に、ある人の私益が増えることは、(略奪のようなゼロサムゲームでない限り)日本の国益が増えることを意味する。

逆に言えば、国益を増したと主張するには、私益の増減が差し引きプラスであると言えなければならない。誰の私益も増えないのに、国益だけが増えるという可能性は認めない。 

なので、小生の目には、警察にとっての益は警察にとっての個別利益、捜査される人の損はその人の個人的な損。この二つを合計したものが、日本全体の公益の増減である  ―  さらにサントリー社の個別的損失、経済同友会の個別的損失、内閣府経済財政諮問会議の個別的損失も計上するべきかもしれない。

ずっと以前からこう考えているし、今も変わらない。

なぜこんな風に考えるかって?

純粋な意味での国益を主張すると、その延長線上で

国益は私益に勝る

こう主張してやまなくなる。この思想から

日本国のために、人間一人の命を捧げるのは当たり前

という極右の国家主義が現われるのは、あと一歩である。仮構を実在と思い込む典型的な煩悩のなせる所で、極めて愚かな思想だ。

純粋な意味での国益の存在を認めないのは、そのためである。

しばしば、警察にとっての個別利益が、イコール公益であると、こう認識され、あろうことか社会全体で公益は私益に勝ると大合唱になることがある。

戦前期・日本の最大の軍律違反である「満州事変」も、(理屈としては)陸軍の(というより一部数名の軍人の?)私益であったのが、何ということか国益とされ、国益はあらゆる私益に勝ると強引に主張されたところから、日本の統治機構は崩壊し、その後の孤立・破滅へと至って行ったのである。

国の危機は「国益」を大義として僭称する一部勢力の「私益追及」によってもたらされるのだ、という歴史的な経験を日本社会は忘れるべきではないだろう。


純粋な意味での「国益」なるものを最初からキッパリと否定すれば、その心配はない。江戸時代以前の日本では、天皇をお上とする朝廷が弱いながらも「公」であり、幕府は形式上は「私」であった。しかるに明治維新を境目に、強い公が復活し、この国で猛威を振るった。敗戦を機にその感覚は一時消失したが、長期の停滞の果てに、また「公私の公」と「国益」が肩で風を切って世間を支配し始めるかもしれない。

いつの時も、「公」を僭称する勢力の目的が「私益」にあったことを忘れるべきではない。金銭欲、物欲、出世欲、歴史に名を残したいという欲、自己を正当化したいという欲、すべて自己愛と我執に由来する欲で、私益を欲しているのである。

純粋の「公」や純粋の「国益」なるものは、仮構であって実在はしない。「ある」と思いこむのは、「ある」と思い込んで執着するからであって、虚妄である。実在しているのは「私益」あるいは「共同私益」のみである。経済学から入ったせいか、この社会観は変わらない。

まとめると、私益に動機づけられるべきではない公的機関が自ら純粋の「公」や「国益」を意識するとすれば、それは虚妄であるというロジックだ。

何というパラドックス! 何という矛盾だろう!!


政府の公的機関に出来ることがあるとすれば、結局のところ(これも困難な課題だが)貧困を減らし、豊かさを向上させること位である。少なくとも経済面の不安は少なくなる。国益は確実に増すに違いない。しかしながら、仮にこの課題を解決できたとしても、人々の心の中に残る(はずの)「生きる不安」、「老後の不安」、「死ぬ不安」を解消することは、政府には無理である。そもそも公務員の仕事ではないでしょう。

人生は《苦》であります・・・そこから出発するしかありませヌ。生きるための「不安と悩み」は、《我執、我愛》から生まれる。即ち、煩悩がある限り不安はなくならない。人々の幸福を実現することこそ究極的な《公益》であるなどと語る人もいる。その人は夢をみている。語っていることは妄言である。こんな仕事は役所には無理である。無理なことを引き受ける体裁はつくらないほうが良い。予算要求の理由になるだけだ。

苦悩は人の心の煩悩に由来する。菩提心を発して煩悩を止滅し、涅槃に至るのは自利、つまりは私益に属する。一切衆生を度するのは公益そのものだ。しかし、公務員には無理である。(仏教においては)菩薩の仕事となる  ―  「度する」(=救済)が具体的に何を意味するかは、それなりの知識がいるが。キリスト教社会、イスラム教社会のロジックはよく知らない。


・・・以上、昨日稿の補足までと思っていたが、内容がどうにも拡散してしまった。本日はこの辺で。


【加筆修正:2025-09-06、    09-07

2025年9月2日火曜日

ホンノ一言: 代表的経済人が犯したエラーと守るべきモラル

日本の代表的経済人で現サントリー会長の新浪剛史氏が会長職を辞任した件で、政財界に激震が走っている由。

これに関しては以下のような報道がネットには上がっている:

サントリーホールディングス(HD)会長を辞任した新浪剛史氏は、自身で購入したサプリメントは、合法の「CBD(カンナビジオール)」だと説明した。CBDは大麻草由来だが、有害だとされておらず、厚生労働省の大麻規制に関する小委員会による2022年のまとめによると、欧米を中心に、リラックス効果をうたう食品やサプリメントの市場が急拡大している。国内でも販売されている。

一方、同じ大麻草由来のTHC(テトラヒドロカンナビノール)は幻覚などを引き起こし、依存性もあるなど健康被害の恐れがある。厚労省の監視指導・麻薬対策課によると、CBDもTHCも、油分に溶けやすいなど性質が似ている。CBDの抽出が目的でも、その過程でTHCが微量に残ってしまう可能性がある。大麻由来の成分の規制は国によって違いもあり、米国の一部の州では合法で購入できる場合もあるが、日本では、定められた残留限度値を上回るTHCが製品に含まれていれば、違法になるという。

Source: 朝日新聞、2025年9月2日 20時45分

捜査した福岡県警は(ちょっとした?)《お手柄》だが、もし上の説明が事実なら、極めて微細な違法を犯している(のではないか)というのが、正直な印象だ。

警察の「小さなお手柄」は確かに国益の向上に資する。しかし、「小さな手柄」を警察に立てさせるために、有能な経済人が地位を失うのはそれ自体として「国益の損失」にあたる。

故に、国益の損得計算としては、今回の件は、捜査当局の行動がヤボ、というか粗忽、というか強引、マア、そんな感想である。

ただ・・・

国益の計算としては、微細な違法性でつまらぬ家宅捜索を警察がしでかしたと感じるものの、グローバル企業・サントリーを代表する会長としてみると、不道徳な買い物をしていたと受け取られるのはやむを得ない。

高い地位にいる者は、高い道徳性を体現しなければならない。

この大原則を身をもって示したことは、今回の件で、最も重要な側面(の一つ)であるに違いない。

2025年8月30日土曜日

ホンノ一言: 日本社会の保守性は何度書いてもどうにもならないか・・・

プロ野球の国際的祭典として定着した(かに見える)《WBC》が来春に開催される予定だが、その全試合の独占放送権をNetflixが獲得した、つまり日本の地上波でWBCの試合中継が流れることはない、と。これでもって、日本国内はちょっとした大騒動になっている  ―  おそらく大騒動になっているのは、この事態に陥った直接関係者である日本だけではないかと推量するのだが。

状況はどう変化していくのか、小生にはよく分からない。視聴したければ、開催期間中だけ、Netflixのアカウントを約千円で買えばすむ。たとえ広告付きスタンダードでも地上波より画質は良いし、生中継、録画を含めて全試合をいつでも(何度でも?)視れると思えば、大して高い買い物ではない  ―  ブルーレイへのダビングは出来ないと思われるが。

しかし、CMが流れないアカウントで視るとすると、日本企業が広告宣伝費を支出する動機はそれだけ弱まる。スポンサーとなる日本企業が減れば、主催者であるMLBにとっては損失だろう。今後は、日本企業が広告を出すモチベーションをいかにして維持するかがポイントになる。

どちらにしても、アメリカが儲ける話である、WBCは。

***

こんな騒動を見ながら思うのだが、ネット配信ビジネスが日本で立ち上がっていれば、何もNetflixに日本で開催される試合の独占放送権まで奪われる羽目にはならなかったはずである。Netflixの競合企業が日本でも生まれ、グローバル企業に育っていれば、高騰する放送権料も払えたであろう。

これが出来なかったのは、日本のメディア業界の閉鎖性、つまりは保守的体質のためである。

話しは変わるが、成田空港、羽田空港では、いま来日するインバウンド観光客を客待ちする外国人の《白タク業》が増えていて、その違法運転者をいかにして取り締まるかが大問題だと、よくTVのワイドショーでとりあげられている。

これを見ると、何だか外国人による犯罪が増えているという印象が拡散しそうなのだが、しかし「白タク」という言葉自体が、タクシー業界の独占的利権を肯定した上での言語表現であって、日本でもUberやLyft、Grabなどの現代的な配車サービス企業が既に立ち上がっていれば、何の問題も発生していないはずである  ―  もちろん、その時はその時で、新しいタイプの問題は生じる。要は、『まず、やってみなセエ』、ということなのだ。

これも日本国内の運送業界がひきずっている保守的体質がもたらした混乱だと言える。

明日は、上の愚息の誕生日で、祝ってやるような年齢ではないが、エスコンフィールドでファイターズ対イーグルスを観戦する予定だ。そのエスコンフィールド、今でこそ大人気だが、2023年の開業を控えた22年の秋だったか、記憶によればバックネットまでの距離が短すぎて規則に違反しているとの指摘があったよし。造りなおすかという極論もあったそうだが、野球の発祥国・アメリカのスタジアム設計の実態調査でもしたのだろうか、結局、ファイターズが罰金を支払うことで手打ちとなり、改造なしでOKになった(ようだ)。そして、蓋をあけてみれば、客席とグラウンドとの距離が短いというのが観客に高く評価される一因になっている。

この騒動も、日本のプロスポーツ界の保守的体質がもたらしたと言える。

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アメリカ人は変えるのが好きである。にわかなポット出のバラク・オバマ大統領候補が、"Change!"を標語にしつつ、"Yes, We Can"と連呼して大統領に当選した国である。

他方、日本は《変えない》姿勢こそ《ブレない》と評価されるお国柄である。"We Can"ではなく《リスク》を先ず心配する国民性である。

少し以前はいまほど酷くはなかったが、ごく最近の日本では「変える」イコール「先輩を貶めている」と解釈されたり、「何様のつもりだ」と非難されたり・・・そんな「リスク」がある。また、「リスクを引き受ける」イコール「独裁者だ」と攻撃されたり、「自分独りでやれ」と罵られる、そんな心配がある。

1980年代末に日本経済は世界に追いつき、追い越そうとしていたが、その後の30年余ですっかり遅れてしまったのは、「海図なき航海」を日本のお国柄と国民性で乗り切ろうとした基本姿勢がその根底にあった。

経済戦略は、お国柄や国民性に寄り添って選択するものではない。ときに為すべき事は、(その時代の)お国柄や国民性に逆らうものである。

客観的に必要な政策の必要性を、政治家が国民の感性に逆らってでも説得しようと努力するその在り方そのものが、民主主義社会が正に民主的である証拠である。君主制社会であれば、政治家が国民の理解を得ようと最後まで努力する義務はない。究極的には武断的に措置することも可能である  ―  もちろん理屈としては逆のパターンもあるから、先験的にどちらが良いとは言えない。

戦後日本の諸改革が見事に成功したのは最高権力が占領軍にあったからだ。この事実を忘れるべきではない。

歴史を通して、日本で起きる変革には、多くは流血や内戦を伴っている。漸進的な路線変更を試行するのが、日本人は極めて苦手である。保守性はムベなるかな、である。

それにしても、日本社会の保守性、閉鎖性について何度投稿すればいいのだろう?ネットには、多数の同趣旨の記事を見かける。しかし、現代日本社会の大勢は変わらないだろう。

日本のお国柄と国民性が変わらないとすれば、戦後日本の民主主義のままで、世界の潮流に遅れることなく変化し、成長し、進化していくのは、もう難しいのじゃあないか、と。何だか、先祖から継承した老舗が屋号もろとも倒れていくような危惧を感じるのであります。「経済大国」に一度なったことが、その後の衰退への始まりであったとすれば、これまた現代日本を舞台にした『平家物語』とでも言うべきでありましょう。