2024年12月20日金曜日

ホンノ一言: 103万円の壁より、もっと大きな絵を描く政治が求められているのかもしれない

空前の人出不足の時代だ。

移民政策について何らかの抜本的改革を講じない限り、男性労働力、女性労働力とも、労働参加率は歴史的高みに達しており、これ以上の労働供給は困難であると観ている。視聴率の高い人気ワイドショーでは、『働ける人はずっと働く、いや働かなければいけない、そんな時代なンだと思います・・・』などと、まるで昔の「国家総動員」のような暴論を展開しては、愚かさを自ら証明しているのが、今という時代なのだろう。


そんな情況であるにも関わらず、たとえば北九州市小倉区で起きた中学生殺傷事件の容疑者として逮捕されたのは、無職の40代男性である由。

いま40代であるとすれば、2000年当時は20代であったので、いわゆる「氷河期世代」の一人である。「巡り合わせ」とはいえ、1990年のバブル崩壊から1997~8年の金融パニックを切っ掛けに、日本では就業機会が激減し「就職氷河時代」へと入った。運よく入社はしても事業が停滞する中で、スキルを高める経験にも恵まれず、相当数の若者は、非正規労働市場で何とか生活だけはしてきたのが、これまでの歩みだ。「これも人生だ」と言えば簡単だが、当人たちは釈然としないだろう。

こうした不運な世代は、近代日本史においても時に生まれる。

明治末年に生まれた世代は、昭和初年の頃に成年を迎えたが、丁度その頃は昭和2年の「金融恐慌」、昭和5年の「昭和恐慌」と、とてもじゃないが就職できない。その頃の青年は、『大学は出たけれど』と嘆きの渕に沈んだ世代である ― ただ、昭和初年に20代ということは、太平洋戦争敗戦時には40代になっていたから、上の世代が戦争責任で一斉に追放された後、今度は戦後復興を(運よく)主導する立場にたてた。これまた運命による「埋め合わせ」とも言える想いであったろう。

人生とは不可解。何がどうなるか、分からないものでござる。

結局はここに行きつくのかもしれない。

メディア企業は、犯罪を好んで報道するが、逮捕された犯人の多くは無職である。

凶悪犯、知能犯を含め「犯罪」という行為は、社会の中で競争が激化し、しくじった人が浮かび上がるのが難しい時代において、増加するものだ。これは経験則であると言える。

社会が混乱した昭和20年代に凶悪事件が多かったことは、<昭和20年代 凶悪事件>とGoogle検索すれば簡単に分かる。戦前の大規模殺人事件として有名な「津山三十人殺し事件」が起きたのは、昭和13年(1938年)だ。軍律違反が明白であった「満州事変」が昭和6年、犬養首相が暗殺されたのが昭和7年、陸軍省の永田鉄山軍務局長が本省内執務室で惨殺されたのが昭和10年、クーデター未遂となった2.26事件は昭和11年。そんな時代背景の中で起きたのが津山三十人殺しであった。

時代背景と生活困窮とが重なるとき、往々にして、犯罪は主観的に肯定されてしまうことが多い。

国民の生活保障に国が(ある程度まで)責任をもつのが近代国家である ― その背景には国民が国家を防衛する国防軍の存在が大きいが。雇用保険、医療保険、年金保険などの社会政策と生活保護政策は、素のままの資本主義を修正するための理念の現れである。が、これにはコストがかかる。資本主義は小さい政府を志向するが、社会政策を組み込んだ資本主義は大きい政府を受け入れるのがロジックだ。

大規模な生活保障を推進するのは、そもそも社会主義的な国家運営だが、これには政府が租税及び税外収入を確保する必要がある。基幹産業を国営化するのは、税率を容認可能なレベルにとどめながら、国家の収入を確保するためである。

社会主義でなくとも十分な税収があれば、生活保障はできる。

例えば、日本で消費税率を3パーセント引き上げれば、現行と同じ定額の国民年金を100パーセント税負担として、支給できる。国民年金保険料支払いは廃止できる ― 支払い済みの人には支払い分還付に相当するだけの付加年金が必要になろうが ― ……という、そんな議論があることは、多くの人はもう知りつつある。にもかかわらず、意思決定ができず、政治家もまた問題解決から逃げている。

これを含めて「日本病」という人が多いが、名前を付けたからといって、何もしない人間であることに変わりはない。

国が解決できないならば、実は《特効薬》がある。ただ、極端に乱暴な方法である。


生活が困窮した人々を「手伝い」として私人が私的に雇った場合、従来では就労とみなして、支給する手当は「賃金」になるのだが、今後は雇い主から生活困窮者に贈られる「贈与」とみなし、年間110万円までは非課税とする。加えて、その贈与を雇い主の税務申告で全額控除とする。

そうすれば、夫婦で220万円までは非課税。その220万円の原資である雇い主の収入に対しても非課税となる。3人家族なら330万円までは納税義務がなくなる。

つまり、困窮している人たちを「手伝い」として私的に雇う富裕層は、私的に必要なことをやってもらう限りにおいて、雇った人も雇われた人も国に税を納めない。自治体は応益課税であるからサービスの対価は支払う。但し、支払うのは生活支援を受けている被用者ではなく、支援をしている雇い主である。そして地方税支払いもまた損金として扱われる。

確かに、これは極めてラディカルな制度改革と言える(はずだ)。

国の税収の中で、消費税は影響を受けないだろうが、所得税は大減収、高額役員報酬で所得税が実質ゼロに出来る方法があるなら内部留保にする必要もない。企業利益は会計上ゼロとされるだろうから法人税収もほぼゼロになるだろう。

その一方で、国家が富裕な私人に生活困窮者の支援を丸投げ(?)するのであるから、財政負担は大いに軽減されるはずである。そもそも年金支給が開始される65歳まで定年後の再雇用を企業に義務付けているのは、国が為すべき生活保障の一部丸投げだと言われても仕方がない。

さて、上に述べたように、富裕層が私費で生活困窮者を救済する仕組みが制度的に容認されてしまうなら、これは民間による国家の代行であり、《国家の崩塊》ではないかと危惧する人がいるかもしれない。が、心配ご無用だ。前例がある。そうなっても日本が崩壊するわけではない。政府が弱体化するだけの話しである。

そもそも日本は奈良時代より前は公地公民制。土地も人民も国家の所有で、土地は国から分与されるもの、かつ国民皆兵であった。しかし、この律令体制は短期間のうちに形骸化した。

自ら開発した農地を都に居住する貴族に寄進して名義だけを譲るのが「寄進荘園」であった。大貴族に与えられた「不輸不入」の特権によって貴族は納税を免除される。一方、地元の開拓農民は、貴族の被官、つまり扶養者に似た存在であるから自らは国の徴税対象にはならない。税よりは安い年貢を貴族に納めれば事足りる。

国は減収になる。が、貴族は荘園からの年貢で豊かな生活ができる。国からもらう俸給が低くとも公務は担当できる。国の財政が貴族の家計内に奪われるわけである。もちろん地元の開拓農民は名義だけ寄進して所有権が担保されるので喜ぶ。泣くのは国だけだ。さすがに地方の治安は、国が担当するには税収不足となり、田舎は田舎にまかせる。かくして武士と呼ばれる階層が成長した。地方は自存自衛で行けというわけだ。

これが、奈良時代から戦国時代が到来するまで、崩れそうで崩れなかった日本の慣習的土地制度「荘園制」である。田舎に「荘園」を有する貴族・寺社が、何の官職もなくとも生活だけはできたのは、いずれかの地に荘園を認められていたからだ。荘園に居住する「平民」は、日本国民というより、その荘園の「領主」に従う従僕として振る舞ったわけである。

いままた政府にカネはなく、国債の信用にも危険信号がともるかもしれないご時世だ。とはいえ、日本は対外的には債権国である。国にはカネはないが、カネを持っている人は多いのが日本である。

それでいて、生活困窮者がいて、政府が十分に救済するには財源が要る。ところが、増税がままならない。ヨーロッパは付加価値税率をテキパキと引き上げているが、日本では同じことに四苦八苦している。

だとすれば、

私人が困窮している人を私的に救済する。国はこれを受け入れる。

こうするのが効率的だ。というより財源がないので国の出来ることには限界がある。

私人であっても行うことは公的業務である。国に代わって実行しているだけだ(とみなす)。故に、その経費は損金算入を認め、非課税とするのが理屈である。そして、私人が行った生活支援事業を通して所得を得る人々から、政府がピンハネする筋合いはない。これまた非課税とする。

それで、上のような《民活による生活保障》となるわけである。

・・・ま、これまた一場のお話しであります。


玉木さんの103万円の壁も、前原さんの教育無償化もいいが、今は《大きな絵》を描く政治が求められる時代に入ってきているのかもしれない。

2024年12月18日水曜日

断想: 冤罪を防ぐ第一歩が何であるかは明らかだと思うが

カミさんと簡単な朝食を ― ヨーグルトとバナナ、珈琲だけの簡単なメニューだが ― 摂りながら、いつものワイドショーを視ていると、

冤罪はなぜなくせないのか?

こんな話題があった。

ワイドショーにしては真っ当な話題だ。が、専門家の意見はいかにも専門家然としていて、これでは世論になんの影響力ももたないだろうナア……と感じました。具体的内容は、いま書いているこの瞬間においても、もう『何だったかな?』と、『忘れてしまいました』と、そんな内容であった(と思われる)。


思うに、冤罪を恒常的にゼロに抑えるのは困難だと考えるが、出来る限り冤罪の被害者をなくすには、一つの原則を徹底するのが第一歩であろうと思っている。但し、実に簡単なことではあるが、国民の意識改革が求められるので、徹底するのは難しいかもしれない。

それは

△△が〇〇の容疑で逮捕されました。動機、犯行など詳細は取り調べが進むにつれて明らかになる。そんな状況です。

という報道が現在は多いのだが、これを

△△が〇〇の容疑で逮捕されました。これが不当逮捕でないという詳細な説明が捜査並びに司法当局には求められます。

文章で書くと極めて簡単だが、報道方針を上のように180度逆転するだけで、冤罪防止には極めて効果的であろうと確信する。

当然、検察に対しても

〇〇の容疑で逮捕され送検されていた△△が本日起訴されました。これが不当な起訴ではないという根拠が切に求められています。

こうした報道方針が厳守されるだけで《冤罪を生む不当な裁判》を防ぐ第一歩になることだろう。

要するに、

人を逮捕したり、起訴したりする以上は、その具体的根拠を明示する義務は当局の側にあり、容疑者自らがシロであることを証明する義務はない。

あらゆる場面において、いわゆる《推定無罪》の原則を、最初の報道段階から徹底して意識するだけで済む。これだけで情況は大いに改善されるはずだ。

もちろん第一歩であって、必要な二歩目、三歩目はある。が、これはまた別の機会に。

 

コントロール不能なSNSはともかく、マスメディア企業が申し合わせれば、上のように方針転換するのは簡単に実行できる(はずだ)。

しかし、日本人の、というより日本という国の歴史を通して染みついた強固な《お上意識》と《お国第一》というか、強固な《帰属意識》をかなぐり捨てて、ハナから

警察・検察当局のやることを疑いの眼差しでみる

日本人たる個人ゞの自尊心にかけて(?)、常にこんな感覚をもつというのは、果たして日本人に出来るのかどうか、定かでない。

が、ともかく

冤罪を防ぐ第一歩が何であるかは明らかだ

とは思っている。


大体、(必要もない)戦争が起きる根本的原因は、国民が政府を信じることである。政府が弱体で、信頼されていない国は、戦争をするのも困難である。無能か有能かは問わず、警戒されていれば、サイズも権限も大きくは出来ない。自動的に小さい政府のメリットが得られる ― もちろん(こういう仮定を置く具体的根拠を示すことが大事だが)一方的に「侵略」された場合に、有効に反撃することもまた困難になるが。

【加筆修正:20524-12-19】




2024年12月16日月曜日

ホンノ一言: クルーグマン、最後の寄稿に関して

日本の新聞には見切りをつけて、ここ近年はThe New York TimesのWEB版を購読していたのだが、NYTに定期的に寄稿するコラムニストをしていたPaul Krugmanが、どうやらコラムニストを辞めるようだ。

最後の寄稿はこんな書き出しだ:

This is my final column for The New York Times, where I began publishing my opinions in January 2000. I’m retiring from The Times, not the world, so I’ll still be expressing my views in other places. But this does seem like a good occasion to reflect on what has changed over these past 25 years.

Source: The New York Times

Date:  Dec. 9, 2024

Author: Paul Krugman

URL: https://www.nytimes.com/2024/12/09/opinion/elites-euro-social-media.html


経済問題の理論的解明と提案には余人にはない鋭さを感じる一方、その価値観や政治的理念には辟易したり抵抗感を覚えることが多かった。そんな複雑な読後感が多かったが、そもそもKrugmanの書くコラムがなければ、NYTを購読することはなかった。

それが今後はなくなるわけだから、はりあいがないわけで、関心がなくなった。早速ながら購読を停止した。

購読料金はNYTの毎月約400円から2000円少々に上がるが、それでも日本経済新聞の4000円余りよりは余程イイ、そう思って英誌The Economistを2年まとめてサブスクライブしたところだ。

Krugmanの寄稿の最後はこんな感じだ:

We may never recover the kind of faith in our leaders — belief that people in power generally tell the truth and know what they’re doing — that we used to have. Nor should we. But if we stand up to the kakistocracy — rule by the worst — that’s emerging as we speak, we may eventually find our way back to a better world.
Google翻訳ではこんな邦文になる:
かつて私たちが持っていたような指導者への信頼、つまり権力を持つ人々は一般的に真実を語り、何をしているかわかっているという信念を、私たちは二度と取り戻せないかもしれない。また、そうすべきでもない。しかし、今まさに出現しつつあるカキストクラシー、つまり最悪の人々による支配に立ち向かえば、私たちは最終的により良い世界への道を見つけるかもしれない。

単なる言葉の表現だが、機械翻訳はやはり淡白になる。 

かつて私たちがもっていた『権力にある人は、嘘でなく真実を語るはずで、何を自分がしようとしているか分かっているはずだ』という、「指導者がもつべき信頼感」というものを、再び感じることは、もう決してないかもしれない。
これでもいい訳ではないが、せめてこの位の感情をこめれば訣別の辞としては相応しい。

ただ次の"Nor should we"(=「またそうすべきでもない」)の箇所は、もう一つ言いたいことが伝わらない。多分、
指導者を信じられる時代は終わったのだ
「信じてはいけない」。こう言いたいのだろう。
何故なら最悪の人物による統治がこれから始まるからだ
まあ、この位、国民から選ばれた次期大統領を真っ向から否定し、明確に自己の政治的立場を述べれば、どんな読者であっても「偽善」を感じることはない。何しろAmazonのベゾフ氏、Metaのザッカーバーグ氏、OpenAIのアルトマン氏などBigTechの大物たちが巨額の寄付を行い、トランプ氏の軍門に下っている。いまこうして批判すれば何らかの不利益が予想されこそすれ、クルーグマン氏の得になることはほとんどなく、これが偽善である理屈はない。従来と同じ政治的主張をただ貫いているだけである。ただ、今回は最終稿となった点が違う。

多分、ジャーナリズムの(真面目な)読者が(本当に)求めているのは率直な意見だ。

真っ当なジャーナリズムが、真剣に相手にするべき顧客ターゲットは真っ当な読者であるべきなのだろう ― ここでもまた小生は能力分布という言葉を連想するが。

ジャーナリズムによらず、学問を含めた知的活動に少しでも関係する人にとって率直であることは不可欠な資質である。礼儀も不必要だし、マナーも要らない。優しさも有害無益だ。自分の言葉でただ「誠」を語ればよい。全ての知的活動において小生はこの一言に尽きると思うのだ、な。


亡くなった父が好きだった言葉は
己、信じて直ければ、敵百万人ありとても、我ゆかん
という言葉だった。
それには雑念、邪念を消して、純粋でなければならない
と。これが口癖だった。

しかし、息子であった小生の目からは
だから、困難な新規事業をやり遂げる責任感に押しつぶされて負けたのじゃないか。家族がどれだけ苦労したか分からない。
こんな風に思われるばかりで、父の好きだった上の言葉は最も嫌いな言葉だった。

意外にも最近になって、父が言いたかったこと、というか父の世代が信じていた理念の正当性を見直したくなる自分がいる。

上に引用したKrugmanの最後の寄稿は、法廷を去るソクラテスの姿を描いたプラトン作『ソクラテスの弁明』の最後の情景を、何だか思い出させるものがある。

2024年12月13日金曜日

断想: 凡夫だなあ私は、と感じる朝

清水寺、というか今年の漢字を公募した結果は、(5度目であったか?)「金」となった由。さすがに「黄金の国ジパング」だ。

個人的には「騒」としたいところなのだ、な。「騒がしい」、「お家騒動」、「騒乱」等々の《騒》である。

政治と民主主義、物価と生活、エンタメ、スポーツ・・・。思い出すだけでも《安》とは真逆の年であった。

選挙でこれだけ騒いだ年は稀である。

大谷選手からオリンピック・パラリンピック、大相撲からバスケット。イヤイヤ、スポーツ界がこれほど騒がしかった年も稀である。

海外では、ロシア=ウクライナ戦争にいまだ終わりが見えず、ハマスのテロとイスラエルの過剰報復(?)が悲惨な情況を招いている。

正月の能登大地震で明け、韓国の尹大統領による戒厳令宣言とそれが不発に終わった後の大統領弾劾訴追騒動で年が暮れる・・・

加えて、カミさんが初夏には胃カメラの帰りに買い物をして気を失いかけた。盛夏から晩秋にかけて、かなり厄介な眼病に罹り、通院に付き添うなどしてバタバタとした。年の初めには、郷里である愛媛・松山で暮らしていた次叔父が他界した。

いやはや、何だか世間も、身の回りも騒然とした一年でありました・・・・

来年は安定の「安」を象徴する一年になってほしい。心より祈願する。

基礎年金の「第3号被保険者」制度の廃止については、今回見直しでは検討しないと決まったそうだ。

概ね、経済学者は妥当な結論、と。法学部や法律畑の諸先生方は不公平は是正するべし、と。

同じ公平でも、 実質的公平と法律上の公平とで、理解の仕方が違う。小生は、経済学の視点から社会をみる習慣がついているので、滑り台を上から滑っても、下から昇っても、危険の度合いはほぼ同じであり、子供がそれぞれ同じように楽しければヨイではないかと、機能本位で考えてしまう。そんなとき、滑り台は上から滑る遊具として設計されている以上、下から昇るのは危険であり、それを放置するのは安全管理義務に違反していると、そんな法律家の発想が論じられると、「自由を抑えつけておいて法は守られているとタカをくくる。そんな風だから、みんな楽しくなくなり、不幸になるのだ」と、どうしても「法匪」呼ばわりをして苛々としてしまう。

ま、例え話である。

これがまさに煩悩。「貪・瞋・癡(トン・ジン・チ)」の「三毒」の中の「瞋」が、苛々とする心なのであるが、毎朝6時に起きて読経する習慣になったといっても、人間は中々悔い改められない生き物だと、つくづく己の凡夫ぶりに気がつく。


2024年12月10日火曜日

ホンノ一言: 主婦年金廃止を提案する前に、基礎研究はしっかりやっているのだろうか?

 基礎年金の「第3号被保険者」という制度は、確かに「専業主婦優遇政策」だと思う。うちのカミさんも、この政策によって心強い気持ちを持てているのだと思う。


そもそも明治に始まった軍人恩給など、国の「恩給制度」では、奉職した本人にのみ恩給が支給されたわけであり、妻は対象外であった ― 但し、受給者本人が亡くなった後は、未亡人等に「普通扶助料」(だったかな?)が支給されたはずである(が、詳しくは承知していない)。

戦後、恩給から年金保険制度に衣替えしてからも事情は変わらなかったが、仮に夫婦が離婚すると妻は無年金になってしまう。その非条理を改善するために、専業主婦であっても基礎年金受給権や離婚時の年金分割などの措置が為されてきた。大雑把だが、そう理解している。


ところが、専業主婦世帯の減少にともない、主婦年金廃止の提言が経団連からされているようだ。多分、

専業主婦優遇政策を今後もずっと続ける必要はないヨネ

と、まあ、こんな了解が日本社会の中で形成されつつあるのだろう。

ただ、思うのだが、このような意見の基礎部分に

専業主婦は生産活動に寄与していないし、GDPへの貢献もゼロだヨネ

こんな認識があるとすれば、それは明らかな間違いである。この点については、前にも投稿したことがあるので、再述しておきたい。

考え方は、持ち家の「帰属家賃」の扱い方に近い。即ち、「家賃」というカネの流れが発生していないにも拘わらず、持家の持ち主が自ら所有する持家に家賃を支払っていると擬制してGDPを推計するのは何故か、という問題だ。

なぜこんな現実と異なる計算法を採っているかといえば、仮にいま2軒の持家があるとする。ある時、何かの事情があって、2軒の家の持ち主が家を交換して互いに転居するとする。そして、他人の家を借りる以上は、賃貸料を払う必要があるので家賃が設定されるとする。そうすると、転居の後は家賃というカネの流れが発生する。家の持ち主には家賃収入が発生するし、その家賃は相手方への家賃支払いにそのまま充当されるわけだ。これらの家賃は、当然ながら、GDPにも計上される。双方の世帯が自分の家に住んでいる時は家賃がゼロで、互いに転居した後は家賃が発生してGDPが増える・・・実質的な変化はないのに、GDPが増えるという推計はマクロ的にはおかしいだろう、というのが「帰属家賃」を評価・計上する理由である。

主婦の家事労働も同じである。

いま、隣り合った2軒の専業主婦世帯がある。仮に、それぞれの主婦が互いに隣の家の家事労働を担当するとしよう。他人の家の家事労働をするからには、家政婦(?)サービス料金を受けとる。つまり、ここでカネの流れが発生する。それぞれの世帯は、隣の家の家事を担うサービス料金を受け取るので収入が増えるが、それはそのまま自宅の家事をしてくれた隣の主婦への支払いとして消えて行く。実質的には何も変わらないが、カネの流れが増えた分だけ、GDPは増えるわけである。

これはおかしいでしょう、という問題はちょうど「帰属家賃」の計上と同じなのである。

故に、本来は「主婦の家事労働」を帰属評価した《拡大GDP》を参考数値として公表するというのが、ロジカルな対応である。

・・・とまあ、こんな投稿を前にもしたことがあるわけだ。


このような、いわゆる「自家生産」、「自家消費」の扱いはマクロ統計の肝でもあり、面白い所でもあるわけで、ほかにも例えば農家が生産する農産物の半分が農家で自家消費されるときも同じだ。自家消費(=自家生産)される農産物の価値を、きちんと実質GDPに計上しておかなければ、農産物生産量と原材料投入量との整合性もとれなくなり、マクロ的生産力を測る指標としても役に立たなくなるわけである。

この30年程の間、進行してきたのは

男性労働者が不足してきたので、女性の(主として非正規)労働市場への参入で、生産現場を回してきた

一言でいえば、このような経済政策を選んできた(というのが個人的見方である)。当然の理屈として、男女賃金格差が残っている状態の下では、それまでのコア労働力であった男性の賃金には抑制がかかり、共稼ぎ世帯の割合が上がる。

この流れは、法制面でもモラル面でも、また世論によっても後押しされた。1972年の「勤労婦人福祉法」以降、1985年の「男女雇用機会均等法(通称)」を経て、2007年の同法改正に至るまで、法改正が繰り返された。女性の社会進出と性差別解消は、文字通りの「善」であり、「進歩」の象徴であったわけだ。

マア、上部構造としてはこういう流れであるのだが、下部構造はあくまでも企業の営業現場の要請であったと小生は観ている。

もし家事労働を担ってきた女性が、他世帯の家事労働を担当するだけであれば、家事労働はマクロ的には不変であるため「実質拡大GDP」は変化しない ― 家事労働を帰属評価しない通常の実質GDPは増える。

この30年に進行してきたのは、主婦の家事労働の減少と市場における労働の増加である。確かにゼロであったカネの流れが発生するから、労働市場に参入した女性がGDP成長に寄与してきた、とは言える。しかし、それは通常の実質GDPである。家事労働にあてる時間は削減されてきたので、帰属評価される主婦サービスは減少してきた。故に、社会の付加価値全体がどう増減したかは「実質拡大GDP」を推計するまでは分からない、という理屈になる。


それでも、多分、以前なら6時間かかった家事労働が、色々な耐久消費財の普及によって、今では3時間しかかからない。毎日余った3時間を家庭外労働に活用して、エクスプリシットな賃金収入を得ている。そう観ることが出来るかもしれない。こんな実態があれば、主婦が家庭外の仕事に従事することで、マクロの付加価値は増えるので、家庭外で有給の仕事をするかしないかで、社会保障上の処遇に違いをつけるのは理に適っていると言う人もいるだろう。

他方、もしも主婦の労働は効率化されておらず、単に家庭外労働が増えた分だけ家事労働時間が削減されたのだとすれば、(誰かがしわ寄せを蒙っているはずの)家庭の犠牲があって、企業の営業現場が助かっている。そんな状態かもしれない。もしそうなら、家庭内で働こうが、家庭外の労働市場で働こうが、マクロの付加価値合計には中立的なのだから、どちらの働き方を選ぶかで「公的年金」という社会保障上の処遇に差を生じさせてはならない。こんなロジックもあるかもしれない。

更に、考えてみると、基礎年金は文字通り「基礎的レベルの老後保障」であるから、送った人生とは関わりなく、(育児への貢献だけは別として?)無条件に同額の年金を全ての人に支給するべきだという理念をもつ人もいるかもしれない。そもそも「公的年金」というのは、社会全体への永年の貢献に対するリターンである。保険料支払いがあってこそ保険金(=年金)給付があるという保険会計に忠実でありたいなら、公的年金は民間ビジネスに衣替えするべきだ。公的△△を詠うなら、国の理念を基礎とするのが筋というものだろう。確かに、こんな言い分もあるかもしれない。


小生は、主婦労働の生産性向上が、労働市場への女性参入を支えてきたのだと思っているが、この両面を総合評価して、日本全体としてはどの程度まで付加価値が増えているのかを知りたい時がある。

それには、総務省統計局の『社会生活基本調査』等に基づいて、家事労働を帰属評価した《拡大GDP》を時系列として推計する必要があるのだが、残念ながらこうした問題意識は今のところ皆無であり、平成25年の内閣府による試算を最後に研究が途絶えているというのは、

労働力人口が先細りの中、現場が人繰りでバタバタしながら、基礎的な研究意欲そのものが萎えて来てますヨネ

何だかそんな「貧すれば鈍す」というか、退廃的な気分が、日本社会に蔓延しているのではないだろうかと、暗い気分になることがある。


そして、いま主婦年金の廃止が議論されようとしているのだが、専業主婦が担っている家庭内労働を評価する位の準備作業はしてもよいのではないだろうか? 確かに、経済的な価値の生産をしているのは事実なのだから。

【加筆修正:2024-12-13】





2024年12月8日日曜日

断想: 良寛の感覚と現代日本のハラスメントの感覚は衝突する?

何回か前の投稿で良寛禅師を話題にしたことがあるが、良寛と言えば漢詩人、歌人としても人をひきつけるものがある。特に下の作品は胸をうつ:

• この宮の 森の木(こ)したに 子供等と 遊ぶ夕日は 暮れずともよし

• いにしへを 思へば夢か うつつかも 夜はしぐれの 雨を聞きつつ

• 世の中に まじらぬとには あらねども ひとり遊びぞ 我はまされる

それだけではなく、書簡類にも中々の名句があって、中でも

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候

死ぬる時節には死ぬがよく候

は、比較的よく知られているかもしれない。

現代風にいえば

災害で被災する時は被災するのがよい

死ぬときが来れば死ぬがよろしかろう

こういう趣旨になるから、戦後より前の伝統的日本でならまだしも、同じことを現代日本で口にしたり、文章に書いたりすれば、いくら親しくとも、その人は一発でレッドカード、「酷い人」として認定されるのは確実だろう。そのくらい、戦後日本では

何より大切なのは人の命。とにかく死なない、死なせない。 

これが最優先の目標である。これを大前提に、防災は完璧に、人には寄り添うように、誰も死なないように。

まあ、そんな感覚で(表向きは)社会は動いている、というか指示されている(?) 。それを『死ぬる時節には死ぬがよく候』だから、世間の反応は容易に想像がつくというものだ。

しかし、良寛という人は、このような手紙を地震で子を亡くした友人に出している。そして、この言葉が名句となって、今は色紙になって販売もされている ― 例えばここ

この「名句」について述べた記事がネットにはある。

良寛さんのこの言葉、災難や死は人の力ではどうすることもできないだけでなく、どんな事があってもそれをスタートとして頑張っていけよという、戒めもあるのではないでしょうか。

良寛という人は、ただ、子供好きで優しいだけの人物ではなかった。人が生きるというのは何故かという問題に、自分なりの考えに到達していたので、自分にも、他人にも、嘘で包むことなく、誠実な心で友人に手紙を出して思いを伝えられたのだろう(と憶測している)。自らが友人と同じ境遇にあれば、同じ言葉を読みたかった、という意味では上の手紙は至誠に裏打ちされている。

嘘をつかない。友人に対して偽善の言動をするのは最も不誠実である。とすれば、自分にも、他人にも、同じ境遇に対して、同じ言葉をかけるのが「善」というものだろう。

会者定離

必得往生

会えば必ず別れ離れる

必ず往生を得む

ま、こういうことだと思う ― 戦後日本のマナー感覚とは距離があるような気がするが。

良寛という人、知性や感性とはまた違う(後から生まれた人を引き合いに出すのもおかしいが)鈴木大拙のいう「霊性」が豊かであったのだろう。

【加筆修正:2024-12-09】




2024年12月5日木曜日

断想: これは乱暴すぎる読書指導かも? 『善の研究』と『歎異抄』

小生はPayPayユーザーで、Softbankユーザーでもあるので、どうしてもYahoo!ショッピングを利用することも多く、自然と"Yahoo! JAPAN"は頻繁に訪れるサイトになる。

となると、「Yahoo! JAPANニュース」がニュース情報源の一つにもなるのだが、実はYahooニュースでは、既存のマスメディア企業(=オールドメディア)が発信するニュースが大半を占めている。個別に検索をかければ、マイナーな発信を見出すことが出来るが、それは面倒な手間である。

そこで「Googleニュース」に移って転載元をみると、やはり「Yahoo!ニュース」が多い。だから同じニュースをみる。Googleでは、日経やReuterなど発信元を「お気に入り」で指定できるので、Yahooよりはマシだ。が、みるニュースが既存のオールドメディア主体であることに変わりはない。"Rakuten Infoseek News"や"Smart News"など他のニュースサイトも似たような状況だ。

最近の選挙結果から刺激されたのだろう、《ネット vs オールドメディア》という対立図式が、まだなお世間の話題になっているが、こんな対立図式はありません。

インターネットの主なニュースサイトは、その大半がオールドメディアの転載で占められている

この事実に触れる解説を見聞することは(オールドメディアでは)ほとんどない。

だから、個人を含めたあらゆる発信者から情報を集めるには、YoutubeやSNSというチャネルしかない ― もちろんチャネルは複数あるのだが。実はそこでも新聞社やTV局などオールドメディアは情報発信している。ただ、非常に多数の情報発信者の中に、埋没しているだけなのである。

メディア企業の発信する情報と、他の様々な企業、団体、個人ゝが発信する情報とが、文字通りに平等に比較され、取捨選択されて、受け取られているのであるが、この拡大された情報空間自体が悪いものだとはとうてい思われない。

この拡大された情報空間が、社会的進歩でなければ、「社会的進歩」とは何を指しているとお考えか?……、逆に聞きたい、というのが小生のごく最近の疑問の一つであります。

進歩に一時的混乱はつきものである。新しい技術は上手に活用するしか道はない。


★ ★ ★


それはともかく、本日の標題。

最近になって(恥ずかしながら)西田幾多郎の『善の研究』を初めて読んでいるのだが、なぜもっと早く読まなかったかと後悔している。

要するに、日本の哲学者を軽く見ていたのだろうナア、と反省している。


思うに、高校生(中学生にも?)の必読図書によくプラトンの『ソクラテスの弁明』が指定されているが、『善の研究』と『ソクラテスの弁明』を併読すれば、(併読できる)高校生には他には得られない充実感が感じ取れるだろう。更に、唯円の『歎異抄』を読むと深い人間理解につながると感じる。少なくともドストエフスキーの長編小説『カラマーゾフの兄弟』を読むために長い時間をかけるよりは、日本人にはおススメではないか。そう思う次第。

こんな読書プランを誰かが示唆してくれていれば、また違った人生を歩んだことだろうナアと、恨みたい気持ちすらあるのだ、な。

よく夏目漱石の『こころ』が読書リストにあるが、『こころ』だけを読んでも漱石の頭の中が伝わるわけではない。あの作品の中で何を言いたいのか、洞察できる高校生はまずいないと、(自分自身のその当時の感想を思い出すにつけても)個人的には感じている。

★ ★ ★

西田幾多郎が『善の研究』の中で言っていることは

世界は、いかにしてこうであるかという実在の真理(=真実在)を理解することと、なぜこのような目的をもって、このような行為をするべきなのかという善の本質は、二つとも自己自身という同じ存在の意識現象にあることで、文字通り表裏一体の関係にある。故に、自己の本性に沿って、自己の完成という理想に向けて、意志的な努力をする行為は、善そのものであると同時に、それは世界の真理へと向かう努力と同じでもある。それだけではなく、そのような行為は美しいのだ。

(今のところ)こんな概括をもって理解しているところだ。たとえば、中核を占める第3篇『善』の中で、こんな風に述べている。

至誠の善なるのは、これより生ずる結果のために善なるのでない、それ自身において善なるのである。・・・

真の善行というのは客観を主観に従えるのでもなく、また主観が客観に従うのでもない。主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみなるに至って、甫めて善行の極致に達するのである。・・・

これに関して、章末の解説ではこんなことが書かれている:

 「各自の客観的世界は各自の人格の反影」であり、「各自の真の自己は各自の前に現われたる独立自全なる実在の体系そのもの」である、と西田はいっている。それだから、各自の真摯な要求は客観的世界の理想とつねに一致したものでなければならない。そして、この点から見て、善なる行為は必ず愛であるといえる。

分かりやすく言い換えると、どんな人もその人の意識において自分という存在があるわけだ。その人にとっての理想の世界がある。理想を思うとき、現実との矛盾を感じ、人は心の中に内面的欲求を感じる。その欲求を満たすことが幸福につながると思う。その幸福を求めて、人は意志をもち、行動するのだというのが、西田幾多郎の行為論だ。つまり「理想」に向かって、自分を偽ることなく、誠実に行動するのが「善」である、と。その理想は、その人が共同体意識を持っている以上、世界にとっても理想なのだ、故に善である。こういうロジックだ(と理解した)。

世界を理想に近づけることが行動の動機であるとすれば、それは自己愛というより、他者愛であって、善は愛に通じるというわけだ。なので、例えば英国流の「功利主義」のように、たとえ利己主義による行為であっても、結果が社会の幸福につながるなら、それは「善」なのだという、利己主義肯定論にはネガティブである。そもそも動機が、没理想的な私利私欲の追求であるなら、結果としてそれが他者を喜ばすことになるとしても、それは他者の幸福ではなく、利益をもたらしたわけで、その利益がどのような目的に使われるか分からないだろう、だから動機が悪であれば、(一見)望ましい結果が得られたとしても、それは善ではない。

功利主義的価値観の否定である、な。

これまでの投稿でも書いたが、小生は功利主義にかなり共感を覚えていた。しかし、う~~~む、中々、説得的であるナアと。そう感じた。 

要するに、現代風の言葉で言い直すと

正しい世界観をもとうと知識を重ねながら、自分にとっての理想は何かと考え、その理想に向かって、自分の個性を花開かせようと、固い意志をもって誠実に努力を続ける。そんな生き方は世の中全体にとっても絶対に「善い」と言えるのじゃないかナア。それに、そんな人は「善い人」であるだけじゃなく、そういう生き方こそ「美しい」。そう思わない?

ま、こんな言い方になるかもしれない。

善という「価値」と、真理という「知識」とを、表裏一体的に理解しているところは、かなりプラトンの道徳観に近い。実際、プラトンは

悪を為すものは、大事なことが分かっていない。要するに、知識が足らないのだ。

こんな人間観と重なる部分は確かにあるようだ。


ただ、思うのだが、善の本質は「理想的な自己に向けての意志的な努力」であるとするなら、ほとんどの人間はハナから出来ない相談でしょう、ということだ。西田が言う「自己の完成に向けての努力」とはいかなる努力なのか、自己の本性とは何なのか、それすら分からないのが《煩悩具足の凡夫》である。

凡夫は善を為せないのか?だとすれば悪人である。そんな悪人も「他力」という超越的観点から救済が約束されている、というのが浄土系仏教の人間観である。即ち、親鸞の悪人正機説がその典型だが、一般に浄土系信仰では

いかなる悪人も含めて、すべての凡夫は、称名念仏によって救済が約束されている。そのままで良いのだ。阿弥陀仏国では、現世の善人も悪人も平等である。

こんな世界観をもつ。

なので、意識の高い系(?)高校生なら、西田幾多郎『善の研究』と唯円『歎異抄』を併せて読了すると、その後何年かの激しい葛藤のすえ、深い人間観、社会観に達することが出来るのは確実である ― 少々、過激で乱暴な「読書指導」ではありますが。

【加筆修正:2024-12-06】

2024年12月1日日曜日

断想: 日本の上層部の心理には「民意に対する警戒感」がある?

多分、というより「ほぼ確実」なところ、兵庫県知事選も名古屋市長選も、更には今夏の東京都知事選で石丸氏が予想を覆して躍進した事も、《民意の現れ》であって、選挙運動で何らかの大きな不正行為があって、投票結果が歪められたのだとは、どうしても思われないのだ、な。

大体、大きな不正行為があれば、有権者も怪しいと感じるし、不正な接触に関与した関係者、有権者は自らの不正を知っているわけだ。それがバレずにいるというのも変だろう。メディアの批判を待たずとも、投票後に直ちに告発、内部通報があるだろうと思われる。

だから、SNSやその他インターネット媒体を駆使して支持者を掘り起こした候補者が当選したり、善戦したりした結果を、このところ既存のマスメディアがずっと非難がましく報道しているのは、要するに

不都合な結果を認めたくない

と。こんな利己的動機の表出ではないか、と。今はそう感じている。


この

民意に疑いを抱く

こんなとても口外できない潜在心理が、実は日本国の上層部には共有されているのではないか?そんな疑念、というか憶測を小生はもっているのだ ― スポーツ新聞記事に目立つ閲覧収入狙いの「コタツ記事」は取りあえず無視するとして。

たとえば、今秋の米大統領選挙でトランプ大統領が圧勝したという事実に、日本の大手マスメディアは今なお批判的である。

トランプ次期大統領が、閣僚予定者を人選しているが、これに対しても例えばテレビのワイドショーでは厳しい批判が相次いでいるのだが、アメリカ国民は(どちらかと言えば)人選を支持しているようだ。例えば、ジェトロ(JETRO)ではこう書いている:

米国のドナルド・トランプ次期大統領は次々と新政権の人事を発表している。最近の世論調査では、大方の要職人事への支持が反対を上回っていることがわかった。

・・・

また、トランプ次期政権に期待することとして、「インフレ・価格上昇を収束させる」が68%と最も支持率が高く、「米国経済の再活性化」(43%)、「米国の価値観の復活」(42%)、「世界中で強く、安全で、恐れられる米国の再構築」(41%)が続いた。

Source:JETRO

URL: https://www.jetro.go.jp/biznews/2024/11/20e93b8803a91368.html

物議をかもしていると「伝えられている」国務長官、国防長官、ロバート・ケネディ・ジュニア氏の保健福祉長官への指名人事も、上の引用元をみると、確かに支持と不支持が拮抗しているが、少なくとも米国民が忌避している人事ではないという事実がある。

なお、JETRO記事の文中にある「エコノミスト」は、日本の毎日新聞社が発行している『週刊エコノミスト』ではなく、英誌"The Economist"のようだ。念のため。

これらのいわゆる「トランプ人事」は、日本国内の主流派メディアはケチョン、ケチョンに叩いているのであるが、ではなぜアメリカ国民の過半数は認めているのだろう?

やはり

トランプ大統領再任も、トランプ人事も、アメリカ国民の民意である

そう理解するしか理解のしようがなく、そればかりではなく、そう理解しなければならないし、そう理解するべきである。こんな風に、小生は勝手に思っている。

つまり

アメリカの民主主義とはこういう社会的意思決定を指す

この原点に戻るのだと思う。

実は、太平洋戦争末期に、というかそもそも太平洋戦争開戦時においても、日本が(絶対に)認めようとしなかった社会のありようは、《民意》で物事が決まるという、アメリカ的民主主義であった。これは当時の日本側の指導層の発言から歴然としている。

日本の指導層が敗戦を決定づけるポツダム宣言を受け入れた第一の理由は

国体護持への見通しがたったからである

その「国体」というのは、

天皇があって、日本があるのであって、逆ではない

という日本の根本原理のことで、正に大和朝廷が発足して以来、権力としては浮沈を繰り返しながら、1945年の敗戦まで(少なくとも)1300年を超える歴史を経てきたと言っても可である。

ちなみに、上の「天皇があって云々」の語句は、つまりは「天皇と天皇が任命する大臣、更に大臣が任命する官僚、以下任命権に基づいて広がる統治機構全体」という意味となる。故に理屈としては

天皇を原点とする統治機構があり、日本という国があるのであって、逆ではない

こう言い換えても理は通る。いわゆる(大分意識は薄まっては来たが)日本の《官尊民卑》の感覚は、日本という国の成立と一体化され、継承されてきた固有の文化でもある……、その時代、時代の社会の実質はともかく、日本の伝統はこうだったと、何だか賛同する自分がいることを自覚する。

この認識に立つことで可能となることに目を向けるのも重要だ。

百済、高句麗滅亡の後、当時としては巨大とも言える1万人以上(数万人に達する可能性も?)の数の移民が朝鮮半島から「渡来人」として日本列島に流入しても、官僚・技術者として多人数の渡来人が朝廷で優遇されるとしても、「皇統」が守られる限り、日本は日本であるというアイデンティティが揺らぐ事態はなかったわけである。

その他の具体的議論もあるが、概略的に考えると、明治維新の後、統治権は天皇にあると規定しなければならなかったのは、権力闘争というより、むしろ、こう考えなければ「日本」という国自体が、蜃気楼のような「空中楼閣」となる。天皇が統治する限り、どれほど西洋化を進めても、日本は日本である、と。そんな理解があったのではないかナと、小生は勝手に想像しているのだ。

だから、太平洋戦争敗戦後に、GHQが日本の国家改造を断行しようと考えたとき、戦前の明治憲法を戦後の憲法に書き換える、すなわち上の順序を逆にして

日本があって、天皇がある

と。つまり、民意主導の国家に作り換えようとしたわけである。これが戦後日本の民主主義の出発点である ― この認識が、歴史的事実に即して、真相なのかどうか、疑問なしとしないが、要するにアメリカ的民主主義のイデオロギーに基づいて、憲法を書き換えたわけである。

しかし、これを受け入れた日本の側の意識と押しつけた(?)アメリカの側の意識には大きな意識のズレがあった。

所詮、憲法と言っても、単なる文章に過ぎない。しかも日本語で書かれているから、アメリカ人にはまず感覚が伝わらない。特に、

民意が他の全てに優先する

という民主主義の原理を、当時の日本の上層部がそのまま受け入れたとは小生にはとうてい想像できないのだ、な。「神聖なる皇位」に代わる「神聖なる民意」という観念に対して、本能的な拒絶感が胸中に内在していたことは歴然としている。


例えば、その現れの一つとして、日本の法令の大半が、官僚組織の内部で検討され、政権(≒保守政党)との調整を経てから、内閣から国会に法案が上程され、(保守政党主導で)可決され施行される。戦後日本のこんな立法システムを挙げてもよいかもしれない。確かに民意が反映される方式ではあるが、では民意に基づいて法が制定され、運用されているかと言えば、現時点でも違和感をもつ日本人は多いだろう。

日本の統治機構は、今でも、肝心要のところで民主主義精神の血肉化に失敗している、というのが小生の社会観である。

弱い政府権力が、必ずしも民主主義的であるとは限らず、政府の強い権限が必ずしも独裁的であるとは言えない。ロジカルに考えると、民主主義的な政府は、本来なら、強力な実行力をもつ強い政府になるはずなのである。



日本国憲法は、憲法改正へのハードルが極めて高い「硬性憲法」であるのだが、その理由の一つは、

「民意」によって天皇制(≒国のかたち)が改廃される事態を出来る限り避けるためである

小生は勝手にそう理解している ― 武力不行使の徹底もあるのだとは思うが。

こう考えると、古代から続く天皇制を現に続けている日本が、成文憲法で天皇を規定するという現在の基本法制自体に、天皇制との相性の悪さがある。

むしろ国の形を成文憲法として条文で定める方法を敢えてとらず、国の「伝統」として王制を維持するというイギリス人の知恵(というか狡知)に学ぶところは大きい ― 成文化すると成文によって王制が廃止される可能性がある、それは王制と言えないであろう 。

―  ―  ―  それでも、貴族以外の平民との通婚が当然のように繰り返されるとすれば、5世代(=約100年余)もたてば、「王族」といっても

王の家系の血は $$ 0.5^{5} = 0.03125 $$ だから、体内に3パーセント少々しか流れていないという計算になる。王の直系だから王位継承資格者ではあるが、実質はもはや平民との「雑種」、いやほとんど「平民」と言うべきだろう。王位の世襲は血筋の尊貴さに本質がある。そうなれば、法の前の平等という観点からも、その時の王位継承資格者は誰も国王としては認め難いという雰囲気になるのは、確実に予想できる推移である。

この理屈は日本の皇室にも当てはまる。

やはり民主主義の理念と天皇制・王制との相性は極めて悪い。それだけは言えそうだ。


それはともかく、

多分、戦後日本の発足当時の上のような心理は、政治家、官僚、大手メディア上層部にも共有されていたに違いなく、最近において何となく伝わってくるのが

民意の爆発的表出に対する警戒感と怖れ 

である。「驚き」ではなく「怖れ」が混じっている所に日米の違いがあると感じたりする。

SNSなどのネット世論が大手マスメディアを超える影響力を示し、予想もしない選挙結果になったとき、三権(立法・行政・司法)に席を占める人たち(=及び直接・間接に依存する上級国民?)の胸をよぎった思いは、おそらく、明治末期の「日比谷焼き討ち事件」や護憲運動の熱狂の前に退陣を余儀なくされた第三次桂太郎内閣(=大正政変)をみた時の指導層の怖れに、通じるところがあったに違いない。

最近の衝撃に過剰反応して、「SNS条例」や「集会条例」、令和版・治安維持法などの「検討」が始まらないことを祈るばかりだ。


予想せざる民意に戸惑う上層階層(≒政治的・経済的・知的エリート層)の心理の根底にあるのは、必ずしも「民意はコントロールできない」という焦りだけではない。特に日本においては、遠く遡る

終戦直後にあった左翼革命(=天皇制廃止)への恐怖と民意に対する警戒感

この感覚が、時代を越えて継承されているかもしれず、わきおこる民意への不安が色々な場面でいま表面化しているのではないか? だとすれば、この不安は、そもそも敗戦当初から警戒心として実は初めからあった。というより、そもそも明治維新の(民意に反する)国造り以来、ずっと日本のエリート層が持ち続けてきた潜在心理であった……

そういうことではないかナアと観ております。

【加筆修正:2024-12-02、12-04】



2024年11月30日土曜日

ホンノ一言: ヨ党でもない、ヤ党でもない、ユ党に頼らざるを得ない日本政治のいまを知れ……、ということか?

野党である国民民主党が、与党である自民党、公明党との政策協議を進め、同党の目標である基礎控除引き上げに向けて努力しているところである。

その様子は、メディア報道で出ない日はないほど、毎日報道されているわけだが、中には

国民民主党は与党なのか、野党なのか?

と、こんな批判を加える御仁もいるようで……。

マア、実に日本的な文化の古層に残る《大義名分》という奴だと思うのだが、このような超越的な観点にわが身をおいた批判は、目にする人、批判の的にされた人等々、多いのではないだろうか?


そうでなくとも、日本人は《そもそも論》が大好きだ。「そもそも論」のどこが便利であるかといえば、

時間をかけて現実を詳細に自分の目で調べることなく、自分一個の思想に基づいて、すぐさま是非を論じることができる

つまり、当人にとっては最も簡単で、かつ相手は最も反論しづらい(と感じさせる)ディベート戦術 ― ディベートが日本ではいま一つ普及しないのもここに根因があると思っているほどなのだが ― それが大義名分論だと小生は思っている。

西洋風にいえば"Armchair Detective"ならぬ、"Armchair Criticism" と言えそうで、今様で言うと「コタツ評論」、「コタツ記事」という言葉になるが、要するに、日本(だけではなく中国、韓国を含めた儒教文化圏)では非常に愛されるのが「大義名分論」である。実際、欧米の新聞報道を読んでいて、

これは西洋の大義名分論だナア

と感じることはない ― バイデン政権辺りは民主主義の大義を語るのが好きであったが、ケース・バイ・ケースで使い分けているのは明瞭であり、本気で聞いている国はほとんどないだろう。

患者に問診したり、診察したりすることなく、

病気は気の病だと言いましてナ、人間には自然な治癒力がありますから、心配はいりません

と。これで終始する医者が完全な藪医者であるのは誰もが分かるはずで、これと同じく、政治や経済について、大義名分論を展開して終わる御仁は、問題解決には「無用の人」と言うべきであろう。

大義を語るときは、語ることが善であることの根拠を語らなければならないが、ほとんどの場合、それが善である論理は示しえず、そう思うから思うのだと、その程度のことに終わるものである。


~*~*~



簡単な図で日本政治の現在は表せる。

青の与党と赤の野党は、その中心点においては支持基盤、基本政策が対立しており、挙国一致連立政権などハナから無理な相談である。

しかし、個々の政策では重なる部分もあり、本当はその重なる個々の政策部分こそ、与野党が一致している政策で、真っ先に実行するべき政策なのである。

ところが、現在は少数与党であるから、野党が基本的対立構造に忠実に従って、政権を打倒する目標を最優先するという大義名分に基づき、本来は与野党ともに賛成するはずの政策にも反対して実行不可能とする。野党の戦術によってはこんな状況も大いに考えられるわけだ。


本来は、過半数を制している全野党が政策協議をしてマニフェストをまとめれば、連立政権が構築できる。そうすれば、野党連立政権によって、与野党共有の政策を直ちに可決、実行できる。しかし、それが出来ないのだ。何故かと言えば、野党集団の内部で、上と相似形の、というより重なる部分をもたない真正の(?)対立構造が包含されており、一致点が見出せないからだ。つまり野党の中心点が図にはプロットされているが、現実にはないのである。故に、野党として行動できず、野党連立政権を構築できない。


こんな中で、野党の一部である国民民主党が、個別政策について与党と協議を進めている。この行動を批判する人がいたりするのだが、もし国民民主党が与党と対立する野党として大義に沿って行動すれば、そもそも与党は過半数を得ていないのだから、野党の反対する政策は実現できない。が、その野党も内部対立のため、与党が反対する政策を実行する見通しはない。上図の赤と青が重なる部分、つまり与野党で重なる部分の政策なら実行可能だが、実行可能だから実行されるとは限らないのが国会の現実だ。

以上の議論をまとめると

与党は本来求めている与党の政策を実行できず、野党もまた内部で対立しているが故にどの野党も自党の政策を実行できない。

つまり、与党である自民・公明党も野党の各政党も政策実行力をもたない  


これが日本政治の現状ではないだろうか?

与野党とも政策実行力をもたないにも関わらず、基礎控除引き上げが、いま実行されようとしている。それは野党の一部である国民民主党が与党と協議しているからである。そして、基礎控除引き上げには国民の大半が賛成していると、(信頼性はさておき)最近の世論調査は示している。

これは悪いことなのか?

逆に、問いたいところだ。

2024年11月27日水曜日

ホンノ一言: マイナ保険証一本化の裏側の事情はこれか?

健康保険証の新規発行がこの12月で(ついに?)停止され、今後はマイナ保険証に一本化されるというので、何だか日本中が騒然としているのかもしれない。テレビのワイドショー界隈では

いや、いや、大混乱ですヨ

と、火事場をみてきた野次馬のような感じで、連日報道している。

小生は、元々デジタル化進めるべしという立場だから、マイナカード自体はもうすぐ2回目発行で、保険証、金融機関とも紐づけをしている。確定申告もe-Taxで、ここでも本人確認にマイナカードを使っている。なので便利さは実感しており、テレビで煽られるという感覚はない。

ただ一つ疑問があるのだ。

健康保険証の新規発行停止だが、なぜ政府はこれほどまで執着するのだろう?

その強い動機、というか『保険証制度をマイナ制度に統合してデジタル化するのだ』という断固とした目的。その目的は譲れないと考える背景は何であるのか?……こんな疑問である。

これが足元の報道ではいま一つ伝わっていない。

~*~*~

「これかな?」という記事が日経にあったので抜粋引用させてもらいたい:

日本国内に居をかまえ、国内で活動する企業に雇われる外国人は日本人と同様に遇するのが原則である。一方で母国に残した家族の高額な医療費を日本の健康保険で賄う事例が報告されている。 

まずは厚生労働省が悪質な事例の実態をつかむ必要がある。健康保険へのただ乗りが横行しているなら、それを防ぐ仕組みを政府を挙げてつくらねばならない。 

外国人の健康保険加入者のあいだでは母国に住む家族を被扶養者にし、その医療費を保険で賄う事例が増えている。病院・薬局が、診療費について正確さを欠く領収証を出す国もある。 

会社員などが入る協会けんぽや健康保険組合の適用範囲は、本人が扶養する3親等内の親族だ。居住地が日本か海外かは問わない。現状、健康保険の運営者が海外での扶養関係や診療内容を正しく把握するのは難しい面がある。 

・・・

医療機関が初診時などに本人確認を徹底すれば悪質な事例は防げる。だが保険証には顔写真さえ載せていない場合が多く、十分な確認ができていないのが実情だ。 

保険証の使い回しなどの不正使用は外国人に限らない。それを防ぐ決め手はマイナンバーカードと保険証の一体化だ。医療機関の受付でかざしたカードから本人情報を読み取れば、不正使用はあぶり出せる。厚労省は2021年春からカードによる確認を順次始めるというが、悠長に過ぎる。 

移民の社会保障制度へのただ乗りは英国が欧州連合(EU)離脱を決めた要因にもなった。日本も外国人受け入れを増やす以上、保険証の不正使用などを許さぬ方策を完備しておかなければ、のちのち大問題になるだろう。 

Source:日本経済新聞

Date: 2018年12月13日 0:47

URL:https://www.nikkei.com/article/DGXKZO38866580T11C18A2EA1000/

~*~*~

ただ、保険証の不正使用による医療費保険金詐取(?)はマイナカードと保険証との紐付けミスよりは余程少ない。それでマイナ保険証への一本化を断行する必要はあるのかと言われてもいる。

とはいえ、マイナ保険証の紐付けミスは初期トラブルであり、いずれ安定するとも予想できる。一方、(保険証の代わりに)「資格確認書」を発行し続けることで、従来型の「保険証犯罪」が増える可能性も懸念されているようだ。

単に国民が嫌がることを無理に強行しているわけではない。政府がそうせざるを得ない背景がある。

これがありのままの実相のようにも思われます。

上の記事は6年も前の日経記事だが、この辺の事情がテレビで取り上げられることはほとんどない(と記憶している)。


大体、理由もないのに、ただ「便利ですから」と国民の嫌がることを強行して、支持率を下げるなど政治家のオウンゴールである。(これとは違って真っ当な理由がある)消費税率引き上げも実行できない弱い与党が、ただ嫌われるだけの政策を推進するはずはないわけで、こう考える方がロジカルというものでしょう。


これまた無視できない一面なのだから、この件に関しては、特にテレビ報道はもう少し正確に説明するべきではないか、と。

特に、最近の民放TV報道の劣化。心配してます。「信じられない」という人々が増えるはずですテ。これじゃあ、「情報ジャングル」とも形容できるネット空間とドチコチない……

【加筆修正:2024-11-28】

 

2024年11月25日月曜日

ホンノ一言: 兵庫県知事、日本でいちばん有名な知事になったかも……異常です

今日の標題自体は、(小生にとって)さして重要な事柄ではない。所詮は、兵庫県という縁も所縁もない ― カミさんの実家は三田市に代々居住していたが今は近親者は一人もいない ― ローカルな地域での出来事なのである。

しかしながら、普遍的な問題として公共のテレビがとりあげているので、日本全体にかかわる問題として何があるのか、と。考えざるを得なくなった。

ホント、時間の無駄であるような気がする。


いま現時点で、最も有名な都道府県知事は誰かという問いかけに対して、多くの人は兵庫県知事の斎藤さんを挙げるかもしれない。

もはや東京都知事の小池さん、大阪府知事の吉村さんより、真っ先に名前が思い浮かぶのは斎藤さんではないか、と。まして、東京、大阪以外の普通の県知事においてをや、である。これはもう、異常な状態だと思う。

そんな風に思案していると、兵庫県内の(多分マイナーな)広告会社が選挙プランナーとして斎藤さんの選挙運動を取り仕切り、斎藤さん当選にまでこぎつけた、と。当の広告会社の社長さんご自身が、その内情をネットで公開したというので、

これは公職選挙法違反ではないか

そんな疑惑に(斎藤さんまでが?)包まれている。これまた異常な状態だ。

なぜこんなことになってしまうかネエ?

そんな疑問が当事者である兵庫県民にもあるのじゃあないかと推測される。

まあ、公職選挙法自体の条文が、現代においては時代遅れであり、公正な選挙を実現するという当初の目的から乖離しつつある。特にインターネット、SNSやYoutubeが広く浸透してきた現状ではそうだと思っている。

それはともかくとして、本日のワイドショーでも、ごく最近の失敗にこりてか、恐る恐るという様子ではあるが、

疑惑は疑惑として放送せざるをえません

と、こんな言い訳をしながら、

ネットで炎上している《疑惑》に乗っかる

という戦術を(相も変わらず)単純反復している。

今回の件で小生が最初に疑問に思った点は

これは業者の側の守秘義務違反ではないか

ということだった。内々の事情をネットでオープンにすることについては、斎藤さん側の許可を得る必要があったはずだし、そんな許可を斎藤さんが与えるとは考えにくいからだ。

何しろ《守秘義務》というのはビジネスパーソンなら誰もが徹底的に意識する事柄で、ビジネススクールの最終発表会で自社に関係するビジネスプランをプレゼンする時には、教職員、学生一同で《守秘義務誓約書》に署名するほどである。

まして広告会社の社長なら《守秘義務》について無知であったはずはない。

しかし、広告会社の社長さんは、何の隠し立てもせず、堂々とオープンにした。

ということは、小生が推測するに、契約ベースで受託した事ではなく、故に

何のしばりもないワネ

社長さんが、勝手にそう解釈して、内幕を堂々と公開したのではないかナア……、というのが小生の推測だ。目的は、自己顕示欲や承認欲求などなど、色々と取り沙汰されているようで。

それが結果として、大炎上となったのは、「可燃性ガス」が充満している今の兵庫県の県内政情を配慮できなかった、ある意味で《世間知らず》であったのだろう、と。これが小生の見立てであります ― 2チャンネルのヒロユキ氏辺りは別の観方のようでありますが。

いま上の社長さんにメディアから面談要望が殺到しているそうだが、すべて断っている由 ― ま、当たり前である。

結果として、疑惑が生じた以上、ポイントとなるのは選挙管理委員会の判断、警察・検察の判断になるのが理屈だ。

今朝、小生がカミさんと視ていたワイドショーでは

発覚した以上、厳しく捜査をするべきです。交通違反も発覚したヤツが処罰されるわけですから ― という言葉だったかな?ま、主旨はこんな主旨だったと思う

と語っていた。

どうも、今のTV局は

人が処罰されて、皆さん、スカッとした気持ちになるのをお手伝いします

まさか、こんな気持ち、というか目的で放送プランを立てていないヨネ?……と、そんな疑問が時々胸にわいて参ります。

何しろ日本社会の閉塞的状態、何とかしたいですからネエ。誰か悪い奴が処罰されるのは、真面目な人にとっては、一服の清涼剤でしょうからネエ……、個人的には一番嫌いな社会だが、マスコミも需要には応える必要がある。動機が善であるだけ始末が悪いのだが、小生も頭では理解しているつもりだ(_ _)

今回の混乱の要点だが、

全体として、公正な選挙が実現されていたか?

斎藤さんが当選したという結果は、兵庫県民全体の自由な意志の発現として、尊重するべきだと判断できるか?

正にこの点だけであって、ワイドショーの威勢のいいコメンテーター辺りは

疑惑は疑惑として解明し、もし違法な行為があったのであれば、処罰し、失職させるのが当然の論理です。

と。こんな風に考える御仁も現代日本には多い(?)ようだが、 仮にこれが正しいなら

速度違反をしたドライバーは、平等の観点からも一人残らず、すべて摘発し、処罰するべきです。それが出来るだけの機器を道路には設置しておくべきです。

という理屈になってくるのではないか?

たしかに「法」は厳格に適用されるだろうが、一体、そんな日本にしたいと、本気で願っている日本人がどこにいるって言うのでしょう?

そうなって喜ぶのは、権限が強化される警察、検察と、報道ネタを探しているテレビ局、新聞社だけでござんしょう。

思うのだが、テレビや新聞社とも、取材できる人間は(いくらでも?)いるのだから、断られても事の発端となった投稿をした女性社長の声をまず拾うことくらい、したらどうなのでしょうネエ? 社長に会えずとも、社屋のたたずまい、社長の評判くらいは、取材できるでしょうに。それをしない理由が分からヌ。


そもそも法律というのは、《立法目的》があるわけで、刑罰や処分自体が目的ではない。道路交通の安全が実現されていると行政当局が判断すれば、速度違反をしてもお目こぼしになることが多いのも、そのためだと小生は勝手に理解している。

刑罰や処罰には、目的があり、違反者を一人残らず処罰すること自体が目的ではない。

小生の思考回路はこんな風なので、従って

今回の兵庫県知事の選挙において、兵庫県民の意志は公正に現れていたか?

この一点の判断が重要で、重要なのはこの点だけである。そう考えますがネエ。


であるので、選挙管理委員会(及び所管する総務省?)の判断がキーポイントで、いきなり警察や検察が首をつっこんでくる話しじゃあ、本来はない。

選挙は民主主義の要であり、選挙が全体として公正であったなら、その結果を尊重するべきだ。選挙が公正であったかどうかは、上級担当機関が先ず判断するべきこと。告発するべき個別的事実があれば、警察、検察の強制捜査に委ねる。最終的には裁判所が黒白を決する。

これが民主主義の原理・原則だと思うのだが、別に違った意見を持つ人が多いのかな? そもそもの話し、普通の日本人の国民投票で、憲法改正すら出来るし、与党が出してきた憲法改正案を否決して政権を葬り去ることも出来るのである。

その位、有権者の投票結果は神聖であるのが、民主主義国家の根本原則で、選挙結果を覆すというのは、総務省であれ、警察・検察であれ、並大抵の覚悟じゃあ出来るものではない。それとも、意外とクールに要件が満たされれば、(日本はかなりの官僚国家だから?)オートマティックに「選挙無効」の判定を出してしまうのだろうか? そこまでは専門外のため分かりません。ただ、結論は早く出さないと、万が一「選挙無効」なら「知事就任」も無効であったことになり、就任後に斎藤さんが決裁した全てが無効となる理屈になるのではないか。ただ、この辺の法技術的な点は詳しく知らない。


・・・ということで、今回の件で小生が関心がある点は(今のところ)

とにかくも民主主義的な選挙を行い、現知事を県民は選んだ。この事実を、事後になって覆す、というか、今回の知事選の結果は、県民の自由意思の表われとはみなし難い、と。そう判定するのに十分な事実が出て来るのか否か?

これだけです。 

野球で、資格ある審判が一度セーフの判定を下したあと、その判定にチャレンジされることは多い。当初の判定をくつがえす程の明確な映像があるのか否か? これがチャレンジで行われている審査だ。例えとしては悪いが、これと結構近しいロジックを今回もとるべきだ、と。そう思います。

(何度目になるか)マ、違反を摘発するのは担当機関に任せるとして、こんなところです。


それにしても、嫌味は言いたくはないが、

ネットの疑惑を切り取って、それをそのまま材料に使うなんて、テレビ情報は《加工情報》にもなっておらず、まるでコピペで作った《学生レポート》のレベルである。

しっかり考えて、要点をおさえてから、パブリックに放送してほしいものだ。

このままじゃあ、テレビ、またやられますゼ

心配してます。


【2024-11-26】



2024年11月23日土曜日

ホンノ一言: 玉木さんの不倫よりは貧困問題の方が重要だと思うのだが……

本日は母の祥月命日の23日なので寺から月参りに来る。今日みえたのは若住職の方である。読経は、『願我身浄如香炉……』の「香偈」から始まり、メインの『仏説阿弥陀経』のあとは「別回向」で「……追福増進菩提」とやり、最後は『請仏随縁還本国…』の「送仏偈」で終わる。大体30分ほどだ。以前は、来るのが10時頃であったので、終わると茶話をしたのだが、最近はわが家が高齢化しつつあるためか、前倒しになってきた。他にも回る先があるので御布施を渡すとそそくさと帰って行く。

帰りしなに近隣の寺と共同で発行している『はちす』というパンフレットと今月の『浄土宗新聞』を置いていく。

先日の兵庫県知事選ではないが、これらの印刷物もまた宗教法人にとっては「メディア」であり、伝えたい事柄があっても大手マスコミには頼れないわけなのだろう。

今日、若住職が置いて帰った『はちす』の中に以下のような下りがあった。東京で路上生活者を支援をしている浄土宗僧侶の集まりにいる一人の談である:

上野や浅草、隅田公園、山谷地区などで夜、路上生活者の寝床に行き、食料などを無料で配っていますが、東京五輪前は一晩で150人分ほどだったのが、今は250人を超えています。

私たちが弁当を配るルート上に、行列ができるようになりました。アパートやネットカフェで暮らす人も、来るようになったのです。高齢の人が、板橋から上野まで、たった一つの弁当のため歩いてきています。異常事態です。

要するに、最近年の大きな社会問題である(はずの)『貧困問題』をとりあげている。そして、いわゆる「マスメディア」が報道することはほとんどない中で、貧困問題に苦しむ人の数が増えているのじゃあないか、と。貧困の深まりと広がりに関する《現場の体感》が記事になっている。

有名人の不倫や、大谷選手がメジャーリーグでみせている活躍、政治資金にまつわる裏金問題、都知事選や兵庫県知事選(それからアメリカ大統領選)、さらには石破首相のネクタイが曲がっているとか……、こんなタイプの話題には、どのメディアも熱心だが、

貧困問題を真面目に報道することはほとんどない

小生が見落としているとは思えないのだ。

この原因は、理屈上、二つしか考えられない。

  • マスメディアがターゲットにしている人々は、貧困とは無縁で、かつ彼らが嫌がる(か無関心な?)話題であることを、メディア企業が分かっているので、あえて報道しない。
  • 実は、貧困の広がりと深まりに関心をもっていて、経済的支援、人的支援にやぶさかではない人が多いのだが、その心情にメディア企業経営者が気がついていないか、報道する価値がないと考えている。

どちらか一方だけが正しく、他方は間違いという風には、なっていないだろう。が、現代日本の傾向としては、どちらかが多いはずだ。どちらが大勢なのだろう?

少なくとも「報道しない自由」という言葉で片付けられる「つまらない問題」ではない。

実際、貧困解消のための「クラウド・ファンディング」やNPO法人は、少し検索するだけで、多数出てくる(例えばここ)。

国民民主党の玉木さんの不倫をつつくよりは、よほど大事な問題じゃあないかと思うが、そうではないと考える人が意外と多いのかな? 結局は「主観」の決めることだから。

ただ正直、小生は個人的に感じるのだが、

一体、日本のマスメディア企業は、何をやりたくて造った会社なのだろう?

要るのか? 半分以上は要らないンじゃないのか?

残念ながら、やはり衆愚化への道を不退転で、日本は歩みつつあるのか? 

分からなくなってくる今日この頃でございます。

2024年11月20日水曜日

断想: 高齢化と少子化は、当然、シンクロするはずのもので・・・

本ブログ内を<幼稚化>というキーワードで検索すれば、無数といっても可であるほど多くの投稿がかかってくる。

つまり、

日本人は、以前に比べて、幼稚化している

と、そんな感想を小生はずっと持っているのだろう、という証拠である。

実際、ワイドショーで出演者が見せる色々な挙措や振りをみていると、

何だか幼稚園にいるみたいだナア

と感じることが多い。実際に視ているのは(時刻からいっても)三十も過ぎた大人達であろうのに。

ただ、視ていて思ったことがあって、カミさんとこんな話をした。

小生: 子供をつくらず、自らが子供のままでいるのが、いまの日本だネエ・・・なんでかな?

カミさん: さあ・・・(笑)

小生:一人っ子なら、お母さんがお姉ちゃんになってあげないといけないヨネ。お母さんが大人であっちゃあ、一人っ子は淋しいからネエ。

カミさん:一人っ子にも同じ年くらいの友達がいるんじゃない? 

小生: そりゃ、そうだ。ン? いるかなあ?……でも何だか、最近の人は幼いと感じない?高齢の親がいつまでも元気だからじゃないかな?

カミさん: そうなの?

小生: いや、自分でも思うんだけど、人ってサ、親や家族を亡くして、「死」というのを痛切に知って、初めて独立精神が身につくと思わない?「無常」を知ると、人は成熟するものだからサ……

カミさん: それはそうかもね。

小生: 子供を持たない今様の夫婦なら、そもそも大人になろうとか、大人であろうとか、感覚そのものがないンじゃないかなあ。親がピンピンしてればネ。

カミさん: う~~~ん、ちょっと、それ分かんない・・・

小生: マ、僕もわかんないけどネ(^^。。_ _

高齢化と少子化は、シンクロして進行してきたが、ミクロ的にもマクロ的にも経済的に極めて合理的な行動をしている。

仮に、高度成長期並みの出生率を今でも維持していれば、日本社会は老人と子供と、被扶養者比率の極端な上昇から、家計は破産寸前になっていたかもしれない。

過去50年間、日本社会はどの程度の出生率(と平均寿命)を維持していれば、結果として理想的人口構造をいま実現できていたのか? ……、確かにこんな数値実験も面白そうだ。


実際、小生が中学生であった時分、一緒に塾に行っていた友人の家庭は、三人姉妹に世帯主の母親を加えた6人家族であった ― それでも当時の習慣というか、専業主婦家庭であったが。1人の稼ぎ手に、5人の被扶養者・・・、正に"good old days"である。1人が5人を食わせることが出来るだけの労働生産性を発揮して、家庭は回っていたわけだから。

父などは『△△さんチも大変だろうと思うヨ』と、何が大変なのか小生にはピンと来なかったが、とにかく何かが大変なんだろうと思って聞いていたことを覚えている。


現在は、夫婦の両親4人がそろって90歳を超えることもザラである。文字通りの長寿社会である。4人の高齢者を最後まで見守るとすれば、高齢者の年金収入、保有資産にもよるが、よほどの余裕が子の家計になければ、更に子供を育てるのは難しい。

以前は、親が子を助けながら子育てをした ― 結婚年齢も若かったし、親もまだ元気が残っていた。近年は、親と子といっても、独立世帯で、かつ遠方に離れていることが多い。晩婚で親も健康寿命を過ぎている。近隣社会は他人の寄せ集めで互いに信用できない。それでいて、高齢になれば子は親を介護したり、扶養したりする。

確かに、これでは子は育てられんワナ

なので、日本人の幼稚化はこれからも進行するのであろう、と。 

ちょっと思いついたのでメモしておく。


2024年11月18日月曜日

ホンノ一言: 兵庫県知事選は「情報仲介産業」の衰退を示唆しているか?

兵庫県知事選といえば、それ自体は関西の一つの県の出来事、つまりはローカルな話題にすぎないのだが、県議会から満場一致(?)で不信任決議をされた斎藤・前知事が、失職後に再立候補するという珍しい選択をしたところ、昨日の選挙で当選(再選)した。今朝はこの結果についてワイドショーでコメンテーター達が色々な意見を述べている。

この結果は、今春以来のTV放送の大勢とは真逆である。「なんで?」という奴だ。トランプ大統領が予想を覆して圧勝したこの秋の米大統領選でもメディア企業は間違えた。「二度も!」という奴である。日本の既存メディアは

痛恨の連敗だヨ

と、こんな心理かもしれない。

当選の最大のカギは、斎藤氏がYoutubeやXなどSNSを巧みに、最大限、活用したことにある(と報道されている)。この点は、先ごろの東京都知事選で大躍進をとげた石丸伸二氏に重なるところも多い。

そこでTVが力説したいように見えるのは

(民主主義国の?)選挙でSNSが活用されるという社会状況をどう評価するか?

これをクローズアップしたいようである。

SNSに有権者が踊らされるのはイケナイ

聴いていると、どうやらこんな批判を既存メディアはしたいようである。

であれば、本当にこれはイケナイ変化なのだろうか?


***


既存メディアは全体としては

有権者はSNSに踊らされた

という指摘が多いようだ。が、思うのだが、

SNSに踊らされる人は確かに多いが、同様にTV、新聞、週刊誌など既存メディアに踊らされている人も多い。

要するに、誰であれ、この民主主義社会で暮らしている人は、世間で流通している《情報》に踊らされているわけであって、おそらく年齢層によって、自分が選ぶ《情報元》が異なると。こんな事実があるだけなのだろう。そう思っている。

某TV局の人気コメンテーターは

公職選挙法(や放送法?)の制約もあって、選挙期間中は特定の候補を支援する(と受け取られる)放送はできないのです。一方、SNSは自由です。それでいいのか?今後、検討するべきだと思います。

などと、見解を開陳している。 しかし、こういうことを主張するのであれば

企業・団体が特定の政党を支援するために献金をするのは禁止するべきです

こんな意見もおかしいわけで、(巨大?)メディア企業が放送・出版を通して特定の政党を支持するのと、ビジネス界が言葉ではなく資金を寄付して特定の政党を支持するのと、企業・団体が政治に影響力を行使しようと意図する行為としては同じではないか?・・・この疑問に明解に回答する必要がある。

禁止をするなら両方を禁止する。認めるなら両方を認める。このどちらかであると言うならロジックは一貫する。

日本国内の大手TV局、新聞社は、電波許認可、再販価格制度によって寡占が認められているという点で、公共性をもつ。だから、特定の政治的立場を標榜することは禁止されている。これが基本的なロジックだと小生は理解しているが、理解の仕方が違うのかな?


***


今回の選挙結果について小生が感じたことは、

情報産業でも、仲介サービスは衰退し、今後は直接取引が主体になる。

こういう見通しである。

実は、ずいぶん以前の投稿でこんなことを書き残している ― すぐに過去の覚え書きを検索できるところがWebLogの利点だ。正に「航海日誌」であり「ログ」である。

偽装商品が経済犯罪であるのはどうしてだろうか?不当表示が処罰されるべき企業行動であるのは何故だろうか?それは、当該商品に関する正確な知識・情報が欠如している場合、市場による資源配分は適切なものではなくなる。これが経済学の大事な結論であるからだ。不正確な情報の流通が、社会経済の正常なメカニズムに対する障害になるからだ。・・・マスメディアが販売する商品は、文字通りの情報であり、知識であり、見方である。<情報>の伝達と<流言>の伝達は識別困難であることが多い。<情報>と<洗脳>も外見は類似している。正確な情報を得るには取材コストを要するが、流言の取得は低コストである。創作は更にコストが低い。社内統治が必須である理屈だ。

一定の労働と資本を投入すれば、何らかのアウトプットは必ず生産される。しかし、労働価値説は適用できないわけであり、頑張ったから出来たものに必ず価値があるわけではない。価値は<価値>として市場が受け入れることによって、初めて価値になる。価値の生産に市場規律は不可欠なのだな。マスメディア企業は、販売する文章に含まれている事実的要素と虚構的要素を自由にミックスしてよい。そんなことが言えるはずはない。日本語という壁と様々な保護行政に守られ、なすべき社内統治を怠っているという事は本当にないのだろうか?再販売価格制度によって価格が規制され(=保護され)、事業としての存立に国民的負担が投入されている以上は、報道活動、報道内容について、定期的に市場外の審査を受けるべきではあるまいか?

既存のメディア企業は、社会で毎日発生している事件や出来事を、情報の需要者の関心に最もマッチするように編集したうえで、提供している。その意味では、情報の小売り、卸売りを行っており、情報の仲介サービス機能を果たしている。 情報を提供する場を多数の視聴者が視ると期待されるからこそ、コストを負担して宣伝を委託するスポンサーが現れ、一般視聴者は無料で情報にアクセスできるわけである。

20世紀ならば、個人個人が自ら必要とする情報を収集するには取得コストが高く、まずはマスメディアが提供している報道を利用するのが、最も効率的だった。社会共通の情報の基礎レベルを構築するうえで、メディア企業のインフラ性、公益性は多分に担保されていた。

しかし、インターネットが(完全に?)に普及した現代においては、情報収集コストが格段に低くなった。情報コストの破壊的低下、情報商品の価格破壊、知識ベースの拡大こそが、Googleの創立者たちが夢見た最終ゴールなのである。その夢が見事に結実したのが現代世界である。これが小生の基本的認識である。


***


たとえば兵庫県知事選の立候補者は、メディア企業を経由せずとも、有権者に直接メッセージを伝えることができた。

既存マスコミは、「TVも新聞もメディア、ネットも同じメディアです、しかしネットは自由でTV、新聞は公選法の平等原則にしばられてしまう」と言うが、これは乱暴(というか低級)な「語呂合わせ」であって、為にする表現であると思う。

そもそも厳密に考えれば、「インターネット」は(典型的には)分散的なHTTPサーバー上の仮想空間を指しているわけで、その空間に多数の情報発信者と受信者が自由にアクセスし、その結果としてインターネットをメディア(=媒体)とする情報取引が行われるわけである。ネットと言う仮想空間には、あらゆる情報が流通しており、利用者は自ら情報を取捨選択するわけだ。

利用者が、あらゆる情報から自らが求める情報を取捨選択することは悪い事なのか?

ネットは(それ自体)情報を販売するわけではない。他方、TV、新聞は情報を販売する。ネットでは発信者の情報を素のままで入手するが、TVや新聞ではエディター(=編集者)やプロデューサー(=制作者)が介在する。その分、メディア情報は間接的で、「情報クッキング」が必然的に混在する。ネット情報は、(基本的には)オープンで仲介者がいない分、ダイレクトに情報が入るのである。

情報の直接入手と間接入手と、確かに一長一短ではあるが、このような違いが、情報の品質を評価する際に、かなり致命的に重要となるケースがある。

その一つが「選挙」だと小生は思う。今回の知事選のように(境界付けられた)一定の地域、(あまり長くない)一定の期間の中で(比較的少数の)候補者と有権者が向き合う「選挙」という場においては、SNS、Youtubeなどを主な舞台としたネット経由の直接情報がマスコミ経由の間接情報をはるかに上回る情報価値をもつ(と有権者に認識される)。これは当然のロジックだと思うが、別の考え方をする人もいるのかな? 今後予定される選挙でも、このロジックがますます顕在化するに違いないと予想する。

たとえば「大選挙区・比例代表制」といった全く異質の選挙なら、メディア企業による間接情報が有用で高い情報価値をもつと有権者は判断すると思うが、まだ印象的な段階なので、この辺りの考察はまた別にした方が良さそうだ。



***


いずれにしても・・・

投票する際に参考とするべき情報の取捨選択は、メディアの編集者に委任するのではなく、有権者自らが情報を選ぶ権利がある。編集されない元のままの見解を候補者から聞く方が情報の品質としては高い。これが基本だろうと小生は思うが、意見が違う人が多いのかな?

一言で言えば、

SNSが選挙運動に活用されることは、それ自体、イノベーションであり、社会の進歩である。

基本的には、こう認識するべきだと小生には思われるのだ、な。

もちろんフェイクニュースやデマの流通もまた懸念される。しかし、立候補者と有権者がダイレクトに繋がっている場が形成されていれば、というか形成できているならば、誤った情報は政治家個人と有権者が直接に触れる中で、スクリーニングできるはずであるというロジックになる。このロジックが、現実にどの程度働いているかは、検証が必要である。

有権者、つまり大衆と政治家がダイレクトにつながることが、「衆愚政治」を招くきっかけになるのかどうか、これまた今後の検証が必要だ。

とはいえ、政治家(によらない)が、有権者に直接に語りかける場が提供されれば、TV・新聞が「価値」を提供できる機会は減る。故に多くの有権者がメディア企業から離れる。その分、影響力が低下する。これがロジカルで一般的な結論だと思う。


***


有権者、マスコミ企業、候補者の関係は、経済学の"PrincipalーAgent"理論が当てはまるだろう。

マスコミ企業は、"Mass Communication"の名称のとおり、情報の「大量伝達」を担う会社であるわけで、選挙の時の候補者はマスコミ企業を有権者全体だと解釈して、発言する、つまりマスコミ企業は《有権者の代理者》として振る舞うわけだ。

「前ネット時代」においては、有権者は候補者本人について十分な情報を持たない。だからメディア企業が提供する報道を信用する。

メディア企業は、有権者の代理となって、有権者の利益を誠実に追及することが原則である。しかしながら、プリンシパルである有権者は、エージェントであるマスコミ企業が自分たち(=有権者)の利益を誠実に求めているかどうかが分からない。

そんな場合、エージェントはプリンシパルの《無知》に乗じて、自己利益を最大化する誘因が形成される。

つまり、候補者が、どんな構想をもつ、どんな人物で、信頼できる人物なのかどうかを誠実に有権者に伝達するよりは、マスコミ企業の自己利益が最大化されるような情報伝達の仕方を選ぶ。エージェントであるメディア企業が、不誠実な報道をしたとしても、プリンシパルである有権者はメディア情報を信じざるを得ない。なぜなら候補者に関する情報をダイレクトに収集するには取得コストが高すぎるからである。

これが「前ネット時代」の報道のロジックである。

ちょうど、間接金融方式が主であった以前の日本で、リスクの高い融資を行い、結果として不良債権を累積させた銀行と類似した構造の下で「報道の失敗」が発生する可能性が高いわけだ。


***


考えてみれば、戦後日本の小売り産業の覇権は、個人商店からスーパーへ、スーパーからコンビニへ、そして今はネットと宅配へと、支配的な業態は激しく進化した。

良質な農家にダイレクトにアクセスできる小売り店舗が登場すれば、中売り業者から野菜を仕入れる個人商店は競争優位を失うし、そもそも中売り業者は淘汰されるだろう。

生産者と消費者が直接取引できる場が形成されれば、卸売り・小売りの中間流通部門は、必然的にスリム化される。これが経済の論理である。

情報市場でも同じだ。情報産業もコストと便益が伴う経済取引なのだから同じロジックが当てはまる。

もちろん情報の需要者は、一流の情報を欲している。一流の情報は一流の専門家が提供できる。しかし、(小生が視るところ)メディア企業は一流の専門家に意見を求めないことが多い。多分、それは一流の専門家は、何を書くか、何を言うかについて、メディア企業経営者側の編集権を認めたがらないからであろう。実際、一流の専門家はYoutube上に独自のチャネルを開設している例が目立つ。そこでも情報はダイレクトに取引されている。

いま情報の品質の選別が、情報市場において進行している。大規模メディア企業は、規模がもたらす高コスト体質に耐えきれなくなりつつある。価格破壊現象の中で退場しつつある。これが進行中のプロセスなのだろうと観ている ― 情報とは別にエンターテインメント産業としてみる場合はまた別である。

多くの産業で、激しい技術革新と産業組織の再編成が進行してきている中、メディア業界が、伝統的枠組みを維持しながら、保守的な企業活動を続けるのは困難だ。ましてインターネットとAI(人工知能)の時代においてをや、ではないか。別稿でも書いたが、TV、新聞、出版業界は全体として、最近では珍しい《人員過剰》あるいは《ワーク・シェアリング》が蔓延している状態ではないかと、小生は観ているのだ。アウトプットのレベルダウンは、メディア企業内部で編集規律が弛緩しているからではないかと憶測している。保護政策は保護されている産業内部でモラルの崩壊を必ず招くのである。

マ、TV業界や新聞業界の大手企業が、ネットに脅威を感じているならば、電波や紙メディアだけではなく、インターネット・メディアも活用して、自社の情報商品を販売すればよいだけのことだ。新規市場開拓は日本国内の普通の企業ならやっている。The New York Timesあたりは、ネット・メディアでWEB版を販売しているが、購読者数が1千万人を突破したようですゼ。定期寄稿者の面々も(政治的立場はリベラルな傾向があるが)一流だ。新規事業としてもうじき花が咲きます。NYTならネットを敵視するなんてコタア、なさりますまいテ。


その意味で、今回の兵庫県知事選は、ローカルな事柄ではあったが、経済現象としてみると、技術革新を通して情報産業でも流通合理化と再編成が進むという一般的問題の具体例としてとらえられる。そう思うのだ、な。

【加筆修正:2024-11-19、11-20、11-22】


 


2024年11月15日金曜日

断想: 戦後日本の人間観はどこか奇妙かもしれません

若い時分は、無味乾燥とした統計分析の合間に、三好達治の文庫本を開いては、気分転換をしていたものだ。その頃、小説は読み終えるのに時間がかかるので、もっぱら高木彬光や鮎川哲也のミステリーを短時間集中で読んでいた。なので、このブログで頻繁にとりあげている永井荷風や三島由紀夫、谷崎潤一郎といった日本の作家の作品を愛読するようになったのは、大学に戻ってから、それも時間が惜しいとは思わなくなってからの事である。

確かに「文学」という趣味は、タイパが非常に悪い。

人が何かを書くとき、書きたいことがある。その書きたいことを全て書き尽くすのは、非常に難しく、ひょっとすると本質的に不可能ではないかと思っている。作品を書いた作家が何を伝えたくて小説などを書いているのかを知りたいなら、まずは全集ベースで全てを読むしかないと気がついた時は、もうそれほど若くはなかった。

だから、小生の好きな本といっても、それほど多くない。読書家ではないわけだ。

三島由紀夫の『潮騒』の次に読んだのが『葉隠入門』である ― 本ブログでも何度か話題にしている。リアルに身近で接していたわけではないが、書いていることに嘘はあまり混じっていない気がする。

中でも記憶鮮明な箇所は『葉隠』でも有名な箇所に関するところで

「武士道というは、死ぬ事と見つけたり。二つ二つの場にて、早く死ぬほうに片付くばかりなり。別に仔細なし……我人、生くる方が好きなり。多分すきの方に理が付くべし。…(それでも、という逆接になるが)毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落ち度なく、家職を仕果すべきなり。」

常住死身になることによって自由を得るというのは、『葉隠』の発見した哲学であった。

こんな一節があるのだが、このページの上に、いつ書いたか完全に忘れたが、鉛筆書きのメモを書き入れている。 

反知性主義?

合理性の追求は「理性の奴隷」になること?

こんな字句を書いている。

確かに、毎朝毎夕、《死の練習》をして覚悟を決めている人など、現代日本社会にはもう稀な存在であるに違いない。特に戦後日本は、合理性こそ正しく、反知性主義は否定すべき邪念であると決めている。

合理的に考えれば、『葉隠』の著者も述べているように、死ぬより生きる方がイイに決まっている。人生の目的は、まず生きることであり、命を何よりも大切にすることである。と。そんな価値観になるのは極めてロジカルで、ロジックと命を関連付けると、生きることこそ何よりも大事ですと、結論せざるを得ないのだ。

ただ、生きることが何より大事だとは、例えば古代アテネの哲学者・ソクラテスは考えていなかったし、そのことはプラトンが書き残している。田中美知太郎訳の『クリトン』の中に次の一節がある:

しかし、まあ、ソクラテス、…子供たちのことも、生きるということも、他のいかなることも、正というものをさしおいて、それ以上に重く見るようなことをしてはいけない。……おまえはすっかり不正な目にあわされた人間として去ってゆくことになるけれども、しかしそれは、私たち国法による被害ではなくて、世間の人間から加えられた不正にとどまるのだ。……醜い仕方で不正や加害の仕返しをして、ここから逃げていくとするならば、あの世の法が、…好意的におまえを受け入れてはくれないだろう。

「国法」のイデア、というか擬人化された亡霊が、死刑執行を待つソクラテスに語りかけている形で書かれている。

有名な『悪法もまた法なり』という箇所にあたるのだが、人生の目的は《善く生きる》ということにあって、《ただ生きること》、言い換えると《ただ命を大切にすること》とは書かれていない。死の意義が生の意義を超える状況はありうる、と。プラトンはそう考えていたことが分かる。

だからこそ、『パイドン』の中で

真の哲学者は、死ぬことを心がけている者であり、彼らが誰よりも死を恐れない者であるということは、ほんとうなのだ。

と述べ、哲学は『死の練習』であると考えたわけである。何と『葉隠』の精神的態度と似ているのだろう。

プラトンが現代日本に現れたら、前稿の続きではないが

生活があるんです。生きて行かなくちゃいけないんです。背に腹はかえられません。仕方がないじゃないですか?

という悲痛な訴えに対して 

それが何か?

と応えるかもしれない。

しかし、現代日本より前の時代にあっては、ほとんど全ての日本人は、プラトンのような「不正に生きるよりは死を選ぶ」といった警句、というか価値観を、理解していたような気がする — 理解と、身についているというのは、別であるが。

小生は、ごく最近になって「四誓偈」、「一紙小消息」、「一枚起請文」を日替わりで読み上げた後、「相伝」の際に誓った回数の日課念仏を称えるという習慣に入ったのだが、「勤行式」の中にある「発願文」には注釈が記されてあって

死の縁は無量なり。いつも臨終の思いになって唱えよ。

と書かれてある。これは正に「死の練習」であるな…と思った。

浄土系仏教では

人生の目的は、阿弥陀仏の支配する「極楽」という名の「浄土」へ往くことである。

これがスタートだ。

つまり、

幸福は、この世で生きる上での願いであって、生きる目的ではない。

そういうロジックになる。

(何度か投稿してきたとおり)幸福は善の本質であると、小生は考えてきたが、ごく最近になって、変わりました。政府が追求するべき目的は「幸福」である(かもしれない)が、人が生きる目的は「幸福」ではない。幸福は生きている人の「願い」である。が、「願い」に過ぎないとも言えそうだ。

人の生き方を決めているのは、(当たり前だが)その人の「意志」である。が、この辺についてはまた改めて。

人生の意味づけは、東洋も西洋も、古代からずっと大きなテーマだった。ところが、どうも本質的なところで発想に共通部分がある。時代によって、国によって、まったく別の考え方をしてきたわけではない。似ている面がある。

現代世界では全てとは言わないが、少なくとも戦後日本社会の人間観は、文化的伝統から切り離されて、奇妙な偏見がある。

何だかそう思う昨今であります。



2024年11月12日火曜日

ホンノ一言: 日本はいま「末法」なのか?ミッテラン元・仏大統領が懐かしいネエ

フランスの元大統領であるフランソワ・ミッテラン氏は歴史に残る左翼政治家で、小生の好みには合わなかったが、同氏が醸し出すフランス的薫りには、なぜだか魅かれざるを得なかった。

実際、本ブログ内を「ミッテラン」で検索すると複数の投稿がかかってくる。2023年11月9日付だから丁度1年前になるが、こんな事を書いている:

日本人はいまだに個人主義を消化しきっていない。そもそも個人主義という理念そのものがキリスト教を精神的土台とするヨーロッパで育ってきた価値観である。アジアの島国・日本に移植しようとしても、そうそう同じに育つはずはない。どうしてもそう思われるのだ、な。故に、民主主義もまたその精神の上で未消化のままであるのだ。それを裏付けるものではないか。そう考えることにしている。

人の役に立ちたい、仕える人 ― 顧客志向なら客を主とする姿勢になる ― に喜んでほしいという願望が、現代日本社会で尊重される価値観として支持され、評価され、社会で共有されているという正にその状況の下で、多くの<人権侵害>が隠れて進行してきているのである。多分、そういうメカニズムがある。

利他主義が堕落すれば常に上目をつかう「奴隷の態度」になってしまう。

フランスの故ミッテラン大統領に隠し子がいる事実が発覚したとき、女性記者からそれを指摘された元大統領は"Et alors?"(それが何か?)と答えたそうだ。

小生が円借款を担当している時分、仕事で比国を訪れると空港外には多数の低所得階層の人たちが集まっていて、いわゆる「施し」を求めていたのを「忘れられぬ風景」として記憶している。その様子は、行ったことはまだないが、当時のインドでも、インドネシアでも似たようなものであったろうと推測する。

そして、同じヨーロッパでも(粗雑にまとめてしまうと)カトリック国(そしてラテン・アメリカでも?)では、「持たざる人」は神からの「福音」、というか「施し」を期待するのだと、何かの本で読んだことがある。人間は神ほど完全ではない。故に、すべて人はおのが職分を果たせば足りる。そんな感性があるのだ、と。他方、プロテスタント国では、それこそ

天は自ら扶くる者を扶く

Heaven helps those who help themselves.

こんな気風の方が強いのだ、と。個人はすべて独立している、と。

とすれば、いずれにしても、大方どこでも

それが何か?

と応える人たちが、政治を行っているわけだ ― 政治に限った事でもないが。

日本では上に引用した投稿のテーマにもなっているが《利他主義》が強い。政治家にも「利他主義」を求める。政治家の利他とは公への奉仕のことだ。「公」とは戦後日本では「私たち国民」である理屈だ。なので、私たちは誰でも政治家の利他行為を望む。政治家の利己行為を憎む。どうやらそんな気風が戦後日本社会にはあるのかもしれない。故に、日本では政治家がミッテラン氏のように国民一般に

それが何か?

とは応えられない。常々思うのだが、政治家が低レベルの利他主義にはしって有権者に上目使いで迎合するようであれば、もうおしまいである。


だから、国民民主党の玉木代表には何の思い入れもないが、突然、ふって沸いたような不倫問題で苦境に立たされているのは、

この責められ方は日本独特なんじゃないかネエ・・・

と、そう感じます。好き嫌いは別として・・・

不倫どころか、隠し子があったとしても、

それが何か?

小生は、そんな社会に健全な強さと合理的社会観、更には自信を感じる。強い社会は強い個人の集合のことである。弱い個人が組織プレーをして対抗するとしても、持久力には限界があり、長期戦は無理なものだ。小生思うに、日本流の「利他主義」は、《もたれ合い》につながりやすく、実は《たすけ合い》になっていかない。そう観ているのだ。

そもそも論でいうと、モラルは本来「守るべきルール」というより「強い個人」を作るためにあるのではないだろうか?それが出来るようになるための修養、鍛錬だと思ってきたが、違うのかな?

で、今回の不倫騒動。小生はまったくの外野。野次馬にすぎないが、今回のTさん、弱い夫と強い妻の組み合わせであったのだナアと、感じる。ただ、世間はTさんとは他人なのだから、家族関係で何かを言う立場にはない。件の女性も、

かくすれば かくなるものと 知りながら ・・・

つまりは『身から出た錆び』ですヨ。不公平だろうと、不平等だろうと、世間はいろいろ言ってますが、身を切って何かしてくれるわけじゃあない。世間はこんなものです。後でも書くが、今の世相をみてごらんなセエ。こちらも「強き女性」であってほしいものだ。ただ、Tさんも女性の身の振り方くらいは心配してさし上げればとは、思いますがネエ・・・感想はこんなところです。で、後日談をもしメディアがきいたら

それが何か?

そう答えればイイと思います。ついでに

この世は凡夫ばかりなり。あなたも私も一緒でしょ?

これがありのままの真実というものだ。マ、TVドラマにもなりませんワナ・・・

***

(再び)マア(で恐縮です)、これは明らかに財務省(か警察)辺りの情報リークだと観ている。

連想してしまうのが、(不倫よりはよほどスケールが巨大だが)民主党政権発足前後の「陸山会事件」である。クロニクルに時系列を追ってみると

2007年7月 参院選で民主党大勝。第一次安倍内閣退陣。「ねじれ国会」へ。

   この期間、民主党支持率の上昇が続く

2009年3月 小沢一郎議員の公設第一秘書が東京地検特捜部に逮捕される

2009年7月 麻生首相、衆議院を解散

2009年8月 民主党、衆院選で大勝。民主党政権発足。鳩山由紀夫首相。小沢一郎幹事長。

   「政権交代」が流行語大賞をとる

2010年1月 東京地検、小沢一郎議員の資金管理団体「陸山会」、秘書、ゼネコン鹿島建設を一斉捜査。

2010年6月 小沢一郎議員、民主党幹事長を辞任。

2011年3月 東日本大震災

大体、こんな風に進んでいた。

さすがに《国策捜査》という言葉が云々されたものである ― というか、なぜ鳩山政権は幹事長が直接関係する捜査に対して指揮権を発動しなかったか、と。今でも分からない。少なくとも、政治に密接に関連する事案の捜査活動には、内閣、国会の承認が要るという理屈だ。司法が認めるとしても、国会の判断が上位になければならないと思うが、違うかな?

それはともかく・・・、今回は、《不倫報道》である。もしも玉木氏が男女関係において清廉潔白であったなら、政治資金収支報告書の何らかの不記載があったと報道されていたかもしれず、不記載もなければ地元有権者に何らかの物品が配布されていたと報道されていた可能性がある。これもなければ、宗教団体との親密な関係、過去に遡った発言等々、何らかの報道がされていたのではないかと推測する。

何故なら、財政膨張を危惧する財務省には動機があり、政権にある少数与党にもあるからだ。他にも動機をもつ者がいるが、それはここで記すまでもあるまい。

単なる「疑惑」で十分なのだ、報道するのは。真実かどうかなど現代日本の世間は問題にはしない。

何ごとによらず「なぜいまこのタイミングで?」と不思議に思うなら、「得した者を探せ」という格言は常に当てはまる。

マ(何度目だろう?)、ただ全ては「状況証拠」に過ぎない・・・

***

今でも残念に思うのだが、当時の民主党政権の公約の中で

  • 中学卒業まで子ども手当2万6千円を毎月支給
  • 月7万円の最低保障年金
  • 後期高齢者医療制度の廃止

この三つはまだ記憶に、ボンヤリではあるが、残っている。

しかしながら、鳩山由紀夫首相が消費税率引き上げと一体化して進める決断を避けたために、結局、撤回されるか、減額されるかした。そして、今また、同じような政策課題が検討課題になりつつある。

どうやらこの日本国では、昨日まで野党であった一政党がエッジのたった政策を主張すると、何かの捜査が始まるか、スキャンダルが暴露され、《にわか出頭人》は排除され、後になってから(戦後日本では)自民党政権か、もしくはメジャーだと認められた勢力が、自民党に代わって実行する。何だかこんな経験則が日本にはあるのかもしれない。

全体の進行が極めて保守的なのである。特に登場人物は滅多に入れ替わらない。「初もの」は排除される。非常に保守的な傾向が日本社会にはある。島国であるからなのか。

それでもって、行ける所まで行く、と。

***

ネガティブ・キャンペーンは、政党間競争で勝つには、最もコスパが良い戦術である。

しかし、政治家の不倫が許せないと放送しながら、若者は闇バイトに応募して強盗殺人を行い、高齢ドライバーは生活に不便だと車を運転して、案の定、事故を起こす。

全部をまとめると、

何という、マア、素晴らしい世相でございましょう・・・

死刑の継続を望みながら、体罰禁止に賛同する世の中も似たようなものでございます。

これは義務 あれはルールと 自らを

  しばるが人の 生きる道なり

ドイツの哲学者・カントを手本とする普遍的モラルを追い求めていた戦前のエリート達が始めたのが太平洋戦争であります。ガリ勉の一知半解とはこの事でござんしょう。

カントの道徳哲学は(当然ながら)ヨーロッパ的な個人主義を前提している。個人主義の理解が未熟な日本で西洋流の道徳を追求すると、相互監視に熱心になるばかりで、生きづらい社会をもたらすだけだ、というのが小生の社会観だ。

中国が、G7を代表とするような欧米民主主義国、いわゆる「西側陣営」で是とされる価値観や社会哲学を拒否しているのは、この辺りを直観的に理解しているからだろうと推察している。この点だけは、さすがに賢明なもので、肝が据わっている ― 明治以来の慣れもあって、日本人にはとても無理な行き方であるが。


世に名高き《衆愚政治》がいま正に眼前にあり。昔の人はこんな世相を《末法》と言ったもので御座いましょう。

やはり今は

Vox Populi, Vox Diaboli

人々の声は悪魔の声

になっている、そんな時代なので御座いましょう。

【加筆修正:2024-11-13、11-14】


2024年11月10日日曜日

ホンノ一言: アメリカと比べて絶望するより、ヨーロッパとまず比べては?

ネットに可視化されている様々な意見は、たとえ邪見、偏見が混じる玉石混交の「闇鍋」状態であるとしても、それはそれで《世論》という何モノかの一断面であると思う。

今日あたりは

米国はなぜ日本より豊かなのか?

こんなヘッドラインを見かけた ― 書かれている内容は大体想像できるので読みはしないが。

これには思わずクスクスと笑ってしまいました (^^。

いまどき日本の生活水準をアメリカと比較する人がまだ残っているとはネエ・・・

「不適切にもほどがある」とまでは言わないが、何だか「あなた自身を知れ」というか、ソクラテスを連想してしまいました。

世銀で提供している"GNI per capita ranking"(=一人当たり国民総所得の国際比較)をみると、

2023年時点でアメリカは第6位で80300ドル、日本は第32位で39030ドル、故に日本はアメリカの半分未満である。

GNIは"Gross National Income"を表す。但し、これは世銀のATLAS法による換算値だ。つまり、毎年の対ドル為替レートに3年後方移動平均を施した修正為替レートでドル換算するのだが、その際に世界インフレ率と当該国インフレ率との乖離率をウェイトとする加重移動平均にしている。基本的には為替レートで換算しているから、観光でアメリカを訪れた日本人には実感できる数値かもしれない。

購買力平価で換算された数値も公表されている。それによれば同じ2023年でアメリカは第10位で82190ドル、日本は第38位で52640ドルになっているから、日本はアメリカの概ね64%のレベルになる。

為替レートによる換算よりは、こちらの方が日常的な生活感覚により近い数値になっているかもしれない。なお、購買力平価ベースの一人当たり国民所得でみると、日本はG7グループの中の最下位、第34位の韓国よりも低い。この後は、ATLAS法による数値(=修正為替レートでドル換算した値)で話を進めよう。

要するに、日本とアメリカの生活水準には大きな違いがある。日本から見て「アメリカは豊かだ」と感じるのは、確かに数字としての根拠があるわけだ。


これから直ちに頑張って、日本がアメリカに追いつく可能性があるとしても、20年(いや30年?)はかかる程の大差である。次の世代に頑張ってもらうしかないが、今や「絶望的」と言ってもよい程の違いである。箱根駅伝でいえば、二日目の復路スタート時点で先行する大学と10分の差がついている状況に近いかもしれない。1区間で2分ずつ縮めればイイという理屈はあるが、そんなことが出来るのか、という程の大きな差がついている。

G7で日本より下位にある国は、日本のすぐ下にあるイタリアで38200ドルである。文化的ストックはともかく、フローの生活レベルだけを比べれば、日本とイタリアには実感できるほどの違いはないとも言える。

他の英、独、仏、加は全て日本より上位にある。中でも相対的に低いフランスをとってみると45070ドル。イギリスはフランスより僅かに高く47800ドルである。アメリカよりはずっと低いが、それでも

フランスは日本より15%以上、イギリスは日本を20%以上も上回っているのだ。

これから日本の一人当たり国民所得を20%以上引き上げて、それは一人当たり労働生産性を上げるということでもあるのだが、イギリス、フランス並みの高さにまで到達すること自体、相当頑張らないといけないのは、最近20年間の日本経済をみれば納得がいくだろう。単に名目賃金を上げるのとは意味が違う。実質的なアウトプットを上げることが生産性の向上だ。

現場を(IT投資などをするなりして)効率化するか、同じ賃金でもっと頑張るか、さもなければ効率的な産業を拡大し、非効率的な産業は縮小して産業構造そのものを変えるとかしなければ、日本全体の生産性は上がらないわけである。

一人当たり国民所得を20%上げて先行する国に追いつくのが大変であることは容易に分かるはずだ。

仮にフランスを抜き、イギリスのレベルにまで追いついたとしても、その時はイギリスも更に先行しているであろう。イギリスに追いつくこともまた困難なのである。フランスに追いつくのも大変だ。とはいえ、フランスやイギリスはアメリカよりははるかに手前を走っているのである。

日本とアメリカを比べるのは「身の程知らずが!」と言われそうだが、イギリス、フランスと比べるなら、現在時点でまだしも現実的な計画を立案できそうだ。

何も太平洋戦争開戦前のように

世界の中の日本を知れ

と言うつもりはない。島国日本で暮らしていると隣国の(本当の)生活水準には無知になりやすい。まして世界に関してはをや、である。

とはいえ、いくら日本国に自信があるとはいえ、

いまの状況で、日本とアメリカを比較して、日本人はアメリカに学ぶ覚悟ができているのか?

この問いかけをしたい。経済だけではなく、社会的進歩には犠牲が伴うのである。


移民やイノベーション、制度変更など色々な激変に対して免疫がある、というか頑健なスピリットをもっている資源大国・軍事大国・農業大国・知財大国アメリカと日本を比較することで、なにか日本にとって有益な示唆が得られるのだろうか?

むしろ資源、歴史など所与の条件がアメリカよりは近いヨーロッパと比べてはどうか?

まずはG7内の例えばイギリス、フランスに追いつくように頑張るか、と。英仏が悩んでいる問題と、その解決に向けて2国がそれぞれどんな風に取り組んできたか、と。フランスは大統領制だが、イギリスには王制と議院内閣制が併存している。どちらにしても、歴史的、資源賦存状況等々の面で日本との比較に親和性があるのではないだろうか。宗教や個人主義、文化的伝統はともかく、少なくとも日本が真似しようと思えばマネできる範囲にいる。そこがアメリカとは違う。


海外に後れをとるのが嫌なら、はるか先を走り、地力の違いがあるアメリカを目指すよりは、より近いところを走っていて国の大きさもアメリカよりは似通っているイギリス、フランス辺りを先ずは目標とする。この方が現実的だと思いますが、いかに? アメリカを手本にして無理をすると日本社会が空中分解して墓穴を掘りますゼ。

【加筆修正:2024-11-11】


2024年11月9日土曜日

断想: 浄土系仏教には確かに「国家」というものがない

地域によって日程の違いはあるが近くの寺で十夜法要があったので行ってきた。

今日は法話から出席したが、若い人であるにもかかわらず、中々イイ話をしていた。慣れるに従って、どんどん上手になって行くだろう。

聖徳太子の

我、必ずしも善ならず、彼、必ずしも悪ならず。我、彼、凡夫にほかならず。

この名句を引いて浄土思想の人間観から入っていた。一つの社会観になっている。

テーマは《凡夫》である。凡夫が、安心して死ぬためにはどうすればよいか、である。

なにもプラトンや三島由紀夫を引き合いに出すまでもない。人間が常に直面している課題は「いかにして死ぬか」だろう。いわば「死の練習」は誰もがしなければならない課題である。こればかりは、武士がいた昔から兵役の義務のあった明治・大正・昭和、そして今は義務と言えば「税金」くらいしか思いつかない現代日本に至っても、逃れようのない普遍的な課題である。

ちなみに気になって調べると、上の名句のオリジナルは

我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫ならくのみ。

という字句である様だ。

URL: https://gakuen.koka.ac.jp/archives/775

凡夫と煩悩は表裏一体の関係にある。凡夫は、煩悩にまみれ、煩悩に負ける弱い人間である。欲が深く、詰まらないことで直ぐに我をわすれて怒り、道理はそっちのけで迷ってばかりいる。文字通りのダメな人間である。己をよく見つめれば、大半の人はダメな人間じゃないですか、という人間観、社会観である。

煩悩という言葉の意味するのは、究極的には

綺麗ごとでは終わらない

という認識をもつべきだ、ということだろう(と勝手に理解している)。

会者定離を悟っていた身であるにもかかわらず、病身の良寛を見舞った貞心尼をみると

いついつと 待ちにし人は 来たりけり                                        今は 相見て 何か思はむ

と詠うのも独りの凡夫であるからだろう。

そんな話の流れで良寛禅師が今わの際で

裏をみせ 表をみせて ちる紅葉

と発したこの言葉でまとめたのは、話しの終わり方として上手だと思った。

Reference:https://ryoukan-w.info/

最近、投稿することが増えてきたが、浄土系の宗教思想は個人の救済にあるが、少し調べれば、そこに《国家》という概念がないことに思い至る。つまり統治者側からみる「国家の安寧秩序」という概念が(ほとんど)窺われないのだ、な。

それもそのはずの理屈で、浄土思想では現世を濁世と観る。なので徳川家康の旗印にもなっていた

厭離穢土、欣求浄土

が基本思想なのである。

他方、日本に最初に入って来た奈良仏教は「ぶつりがく」は「ぶつりがく」でも物理学ではなく仏理学の色彩が強い。その教理を基盤に聖武天皇が建てたのが東大寺という官立寺院であった。京都に遷都されてからは天台、真言の平安仏教が主となった。これらもまた「国家鎮護」を役割の一つとしていた。東大寺だけではなく、奈良時代の国分寺、平安時代初めに空海が拝領した教王護国寺(=東寺)は統治機構の一環を為していたわけだ。統治する側にとっては、この世において解脱をして、悟りの境地に達して、仏となる、というか「なれる」ことが最も重要だった。故に、密教が標榜する「即身成仏」は、統治の哲学でもあったわけだ。

つまり奈良仏教、平安仏教には、国家を支える要素が含まれていた。この世界を清浄化できる、そんな境地にまで修行によって到達できるという志である。安倍晋三元首相の『美しい国・日本』という言葉は、極めて平安仏教的な志である。

これに対して、浄土系仏教は

凡夫は現世で仏にはなれない。煩悩に勝てず厳しい修行を全うできないからだ。ただ、それでも阿弥陀仏の国に往くことは出来る。浄土三部経という根本経典にそう明記してある。即ち「弥陀の本願」である。たとえ大罪を犯した悪人であっても、本願を信じて一念、十念でも念仏すれば、そこに往生できる。そして阿弥陀如来の国、つまり「極楽」において「不退転」の位を得て、仏になるべく修行を続けることが可能になる。そうすれば、再び現世に「菩薩」として降り来たって、人々を迷いから救い、正覚を得て仏に達し、永劫輪廻の労苦から解放される。そう約束されている・・・

とまあ、こんな宇宙観を示すわけだ。

つまり、この世はもはや救い難いと観ている。だから弱い個人を救う。この意味では、法然上人の浄土宗は旧教に対する新教であり、文字通り、(日本流の?)「宗教改革」だったと言える(と、今のところ理解しています)。

こうしてみると、前期・鎌倉仏教の中心人物であった法然(そして親鸞など)は、相当のラディカル左派だったと言える。法然上人の晩年から死後にかけて、主流派側から激しい弾圧が加えられたのは、ヨーロッパの宗教改革以後の混乱と共通している。

さしづめ後期・鎌倉仏教に位置づけられる日蓮は、個人救済はあっても国家が脱落した浄土思想に対する保守反動であったのかもしれない。日蓮の『立正安国論』は余りに増え過ぎた浄土系信徒への反撃であったのかもしれない。西洋で言えば、宗教改革後に生まれたカトリック系の過激派・イエズス会にも相応するようなポジションに似た位置を志したのかもしれない。昭和初年の陸軍部内、民間言論界に日蓮宗を信仰する人物が多く現れたのも、ムベなるかな、である。

ま、現時点の小生の理解である。

鎌倉仏教で無視できない禅宗のことはよく知らない。

この辺を整理するには、もう少し勉強が必要だ。また改めて。今日は後で役だつよう思いついたことをメモする次第。



2024年11月7日木曜日

ホンノ一言: 大接戦のはずだった米大統領選だが・・・

昨日も投稿した米大統領選だが、おそらく数日はこのテーマで投稿するのだろうナア、と予想していた。多分、日本のマスメディアも同じだったろう。

ところが、蓋を開けるとトランプ氏の圧勝となった。

おかしいネエ・・・

今朝になってから専門家は「信じられないですね」と言うのかと思いきや、今度はどこでもトランプ氏圧勝の原因分析を語り始めている。

ちょっと滑稽だが、マ、与えられた事実が発生した原因を分析する姿勢は、「こんな結果は間違っています」と言い募る専門家よりは、よほど好ましいと言える。

***

ただ、このところアメリカ国内の有権者の傾向について報道される内容を聴いてきて、「こんな状況って本当にいまあるのか?」と、そういう違和感がなかったわけではない。

それは、

今回の大統領選では、男性がトランプ支持、女性はハリス支持と、男女間で明確な違いがある。

女性は投票率が高いので、この点からもハリス優位である。

こんな見方が事前には語られていたと記憶している。


しかしネエ・・・

うちのカミさんは(当然)女性であるから、何かの社会問題で「女性はこう考えるのヨ」と、男性である小生からみるとかなり「超越的視点」から異論を投げかけることは、たまにある。しかし、電気料金引き下げとか、原発再稼働とか、消費税率変更とか、いろいろとありうる政策をめぐって、

あなたは男性だからそう考えるかもしれないけど、女性は違うわよ!

こんな風に政治的問題で男女のギャップというのを痛感した経験はほとんどないのだ。

実際、人工妊娠中絶をどう考えるかという問題で議論が盛り上がっていたようだが、確かに女性の身体は女性のものであるかもしれない。しかし、胎児を中絶するのは、権利なき憐れな命を殺す行為ではないか、そんな見方も確かにありうるわけであって、どちらの立場をとるかで男女が正反対になっていて、政治的立場を性別で明瞭にクラスター化できるのだろうか?

こんな疑問もあって、男性ならト氏、女性ならハ氏。ちょっと眉唾だネエ、と。そう感じてきたわけだ。

結果はトランプ氏の圧勝である。


世間では「ガラスの天井を今回も打ち破れなかった」と評している向きもある。が、小生思うのだが、

いやいや、ガラスの天井に手が届かなかっただけじゃあないですか? 

打ち破る云々じゃあないと思いますけど・・・

こんな風に観ています。

というより、前に投稿したように、「ガラスの天井」というのは、アメリカの政界には(日本の政界にも?)、実在はしていないと思う。

***

それにしても、もし男女間で支持率ギャップがあったなら、予想通りの大接戦を演じていたはずである。

結果が予想と異なっていれば、予想の前提になっていた仮説が誤っていたからである。


有力な解釈が一つある。

それは、世論調査の対象になった女性が嘘をついていた、これは十分あり得る。

トランプ候補と、ハリス候補と、あなたはどちらを支持しますか?

そうね、やっぱりハリス候補を支持しています。

やはりそうですか。ご回答、有難うございます。

マア、例えばこんな風な回答をしていた女性が多数いたのではないか。何故なら、女性であるにも関わらず「私は、ハリスさんではなく、トランプの方を支持していますよ」とは、回答しにくいではないか。というより、調査されること自体が不愉快である可能性が高い。

何かの記事にあったのだが、

世論調査にウソを回答したことがありますか?

こんな世論調査をしたところ、4人に1人が「ウソを回答する」と回答したそうである(^o^)。

===後日追加部分===

気になって調べて見ると、こんな記事があった:

…… 米国の新興ニュースサイト「アクシオス」がハリス世論調査会社(副大統領とは無関係)に委託して調査した結果を10月30日の記事で伝えたが、有権者の約4分の1、最若年層の約半数が「誰に投票するか」を問われれば「ウソをつく」と回答したからだ。

Source: Yahoo! JAPAN ニュース

Date: 11/5(火) 11:54配信

Original: FNNプライムオンライン

URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/8e78cb32f15f6644f7750dcdaf9138f7c551a11a

======

政治的立場に《男女差》というのは、データが伝えていたほどには、なかった。とすれば、男性が「トランプを支持するサ」と嘘をつく動機はないと思われるので、男女を含めてトランプが圧勝したのも理屈が通っている。これが真相だろう。

即ち、今回の米大統領選で、大接戦になるとの事前予想を覆して、ト氏圧勝になった理由としては、世論調査にウソを答えた人が多数いた。そういうことでしょう・・・データにバイアスがかかっていたらワールドシリーズにも勝てません。


***


というより、世論調査は最も安易なデータ収集手法だと小生は思っている。

経済学の一分野に「産業組織論」があって、Jean Tiroleといえばその分野への学術的貢献が評価されノーベル経済学賞を授与された大家である。2014年のことである。

Tiroleが著した"The Theory of Industrial Organization"(=「産業組織論」)は、1988年の刊行だが、今でもこの分野の標準的テキストであり続けていると思う。小生も、ずっと以前にひもといたことがあるが、

データに基づく計量経済分析よりは、企業経営者に対するインタビューを含めた《ケーススタディ》の方が、産業組織分析にはより有益である。

Tiroleがとっているこんな基本的スタンスを知って、当初は驚いたものだ、というより計量経済学を専攻してきた小生としては、やや不愉快に感じたものである。しかしながら、ずっと後になって新たに設置されたビジネススクールに移籍してから、Tiroleの立場が理解できるようになったのだ、な。確かに社会経済、企業経営について集めている数量データは、人間ドックで集めている数字のようなものだ。その人の健康状態は数字で表現可能であるというのは極端すぎるだろう。何が測定されているかに無知ならばミスリードされる可能性すらある。


選挙結果を事前に予想するなら、機械的な支持率調査などに依存するのではなく、もっと丁寧に時間をかけて有権者の心情を聴きとることにマンパワーを投入するべきだと思うのは、上のTiroleの指摘とも重なっている所がある。

要するに、メディアの情報収集力は本質的な意味合いで低下している ― 考察力も、思うに「並み」のレベルだ。数値データは効率的かつ科学的で(一見?)カッコいいが、しばしば人を騙すものである。何によらず、知的活動の結果の価値は、《労働価値説》がシンプルに当てはまっていると、小生は今でも思っている。《科学的手法》が《手抜き》の免罪符になっているとすれば必ず失敗する。

【加筆修正:2024-11-09】

2024年11月6日水曜日

ホンノ一言: 米大統領選の開票が始まったそうで

世界が注目している米大統領選挙の開票が始まったそうだ。

今回は史上稀にみる(あるいは最高の?)大接戦で、決着がつくまでに数日かかるだろうと言われている。余りの僅差で再集計が求められ、それでも両陣営が納得せず、決まるのは年明けではないかとか、内戦に陥るのではないかとか、マア、日本のメディアも様々に語っては興じている(?)様子である。マスコミには格好のネタであるには違いない。

ただ足元ではトランプ勝利の確率の方が高いのではないか、主要紙のワシントン・ポストやロサンゼルス・タイムズがハリス候補支持を社説で公表するのを控えたのは、内々でトランプ勝利の可能性が高いと観ているためではないか等々、ハリス候補当選の見通しは不透明である模様だ。


今回の大統領選挙は前にも投稿したことがある。日本人である小生が言っては悪いが

無法なヒト vs 無能なヒト

この二人の戦いだネエ、と。

トランプ氏は、経験があり仕事は果たすだろうが、粗暴で予測困難、世界がどうなるか分からない。一方、ハリス氏は、初の女性大統領へと期待が集まり、かつ現副大統領で従来路線が維持されるという安心感もある。が、その反面、実績なく、能力なく(らしい)、加えて(最近伝わって来た噂によれば)性格も実は悪いらしい。

どうやらアメリカ人も選択に迷っているのだろう。事前の支持率は横一線である。


《お試し2年間》があればイイと思うし、日本人なら人間性によらず4年の任期をハナから保証するなど、マア、やらないヨナアと感じる。任期は、マア、3年にして、再選は2回までにして最長9年とするか。日本で大統領制が導入されるにしても、せいぜいこの位ではないかナアと思ったりする。最初の任期が3年というのも長すぎるかもしれない。

初任2年+再任3年×2回=計8年

これを上限とするか、4選まで認めて最長11年までとするか、日本人なら用心深くこうするのではないかなあと思ったりもする。

フランクリン・ルーズベルトは、第二次世界大戦もあって4選12年余という長期間、大統領をつとめたが、最後の1年間は老齢と疲弊から職務に耐えられない状態であったそうだ。それもあってか現在は大統領3選は認められていない。

アメリカは憲法改正に慎重であると言われている(そうだ)。が、それでもこれまで27回の改憲を行っている。日本とはお国柄が違う。米大統領選挙は、一風変わった選挙制度でもあるし、(たまたま人を得ず)「危なっかしい候補」が当選して4年の任期を全うする事態も、国益にとっては大きなリスクになろう。

今回の選挙が(本当に)大きな混乱を招くようなら、選挙制度改正に向けて本格的な議論が始まるかもしれない。

2024年11月4日月曜日

断想: 「何かの必然」とみるか、「何かの意図」とみるか、「単なる偶然」とみるかだろうネエという話し

 「振り返ってみると」と言っても、人は学齢年齢未満の事を明瞭に記憶しているものではない。だから、その頃に奇跡のような経験をしたとしても、ずっとそれを覚えているのは無理だ。覚えているとすれば、幼少期に周囲の大人からまるでそれが伝説であるかのように、繰り返し繰り返し、聴かされるからであるに違いない。

そんな「拡張された記憶」まで含めるとすれば、小生には「命の危険」、というか「身の危険」を少なくとも三度は潜り抜けたようである。

一度目は誕生時のことである(そうだ)。

夏目漱石の『門』では宗助の妻であるお米は流産をしたあと、次に生まれてきた赤子は一週間で夭折し、それでも三度目の懐妊に希望をもったが死産に終わった。それで自分たちは子を持つことができない宿業であるのだと思い定めて、いまは崖下の家で侘しく暮らしているのだが、三回目の死産の原因は(現代用語で言えば)「臍帯巻絡」である。臍の緒が胎児の首に巻き付いて出産時に赤子が窒息するのである。きけば小生も同じ状態であったようで、祖母の話しによれば、傍らにいた産婦人科の医師が意識のない小生の尻を何度も叩いている内に意識を取り戻して泣き始めたそうだ。何もしなければ、どうやらその場で死んでいたらしい ― 後になってこの話しを聴かされた時は、ただ「へぇ~っ」と感じただけであるが。

二度目は、命にかかわる事件ではないが、小学2年か3年であったか、その日は雨が降っていて、それでも荒っぽい遊びをしたい男児たちは学校の廊下で騎馬戦をして遊び興じていた。小生も友人二人が作る馬に「騎乗」して、夢中で他の子と戦っていたのだが、どうした拍子かバランスを崩し、そのまま側の窓に頭をぶつけ、ガラス窓を割ってしまった。割れたガラスの破片で小生は額を切った、というのは何か暖かい湯のようなものが顔をタラタラと流れ落ちるので手で拭ったところ、赤い血であったから何ごとかが起こったと知れたのだ。ただ、その時はどんな怪我をしたのか、自分が分かるはずもなく、ただ血を見て驚いただけである。周囲は何だか騒然として、小生は保健室へ行かされ、それから父の勤務していた工場の中にある附属病院へと移動した。母が間もなく病院へ到着して医師と何かを話したのだろう、小生が覚えているのは、その後の縫合手術がとても痛かったということだけだ。

今から思うと、三針か四針縫っただけだから「軽傷」であったのだろうが、顔からガラス窓に突っ込んでいたので、破片が目に刺さり失明していた可能性もそれなりに高かったとも思える。母はそれで気が動転したのかもしれず、病院に到着した母はとても気が高ぶっていたような記憶がある。だから何も後を残さなかったのは実に幸運であったのだろうと今では思っている。

三度めは、大学に入って登山サークルに入っていた時のことだ。その日は、数名で丹沢に山行をして沢登りをしていた。草鞋の方が良かったのだろうが、小生はキャラバンを履いていた。水が枯れて急勾配のガレ場を攀じ登っていたところ、不図小生が足を乗せた岩がグラリとした。バランスを崩した小生は後方へ落ちて行って当然だったが、たまたますぐ後ろに友人がいて、「オオオッ!」と叫びながら手を伸ばして支えてくれたので、落ちずにすんだのだ。

山を登っていると、これに劣らず、ヒヤッとしたり、ハッとしたりすることは無数にある。それでもケガをしないのが経験と技術なのだといえば「おっしゃる通り!」と言うしかないが、丹沢の沢登りのとき、後ろにいた友人と少しでも距離があれば、そのまま落下していたはずの所を、何の偶然か無事であったのは、ずっと後になって思い出しても何だか不思議な感覚を覚えるのだ。

いま暮らしている北海道の港町に来てから遭遇した交通事故についてはもう書くまでもあるまい。


いずれにせよ、戦争の最前線では、人望のある快男児から真っ先に死んで、役には立たない卑怯で臆病な人物ほど生きて帰るのだという。合理的ではあるが、実に不条理であろう。

してみれば、この齢に至るまで「死んでいてもおかしくはなかった事故」に何度も遭遇しては、「運よく」無事に切り抜け、次々に同僚が大病を患い休職したりする中でも、小生だけは(生来頑健ではないにもかかわらず)健康で入院すら一度もなく、カミさんや愚息たちに心配をかけずに来られたことは、何ら名誉なことではない。むしろ慚愧の至り。その分ほかの善意溢れる同僚が、不便に耐え、負担を引き受けてくれていたお陰なのだろうと、いま思いが至る。

こんな事も「他力」という力の存在に目が向くようになった契機かもしれない。


こうしていることが奇跡であると感じる人もいれば、予定通りと思う人、こんなはずではなかったと思う人、人生は色々だが、どんな人生であれ、その時々でそこに生きていること自体が奇跡的な偶然である、と。こんな成り行きを偶然とは片付けず、「因果関係」の視点から調べ直したいと欲する人もいれば、何か最初から目的をもって決まっていたプログラムが実現して来る過程であったのではないかと思う人もいる。分からないことは全て偶然だと割り切って確率論的に世界を解釈する人もいる。

空高く飛翔する鳥のように俯瞰的に眺めるのが好きな人もいれば、犬のように嗅ぎまわる方法を好む人もいる。そうかと思えば、一寸先は闇でござろうと達観している御仁もいる。そういうことだ。

要するに世界観とはこういう感覚のことだろう。人生観と世界観とは表裏一体というわけだ。

2024年10月31日木曜日

ホンノ一言: 皇位の男系継承に国連が批判的眼差しを向けているとか・・・

国連の機関が日本の皇位継承システムに口をはさんできたというので政府は国連に抗議したそうである。

例えばこんな報道になっている:

女性差別撤廃条約の実施状況を審査する国連の女性差別撤廃委員会(CEDAW)は29日、日本政府に対する勧告を含む「最終見解」を公表した。選択的夫婦別姓の導入や、個人通報制度を定めた選択議定書の批准を求めたほか、「男系男子」が皇位を継承することを定める皇室典範の改正を勧告した。

Source: 朝日新聞DIGITAL

Date: 2024年10月29日

林官房長官は30日の記者会見で、男系男子による皇位継承を定めている皇室典範の改正を求めた国連女子差別撤廃委員会の勧告について、「大変遺憾だ」と述べ、委員会側に強く抗議した上で記述の削除を申し入れたことを明らかにした。

Source: 読売新聞オンライン

Date: 2024年10月30日

ちょうどいま、愛子内親王を女性天皇に「推そう」という一部の強い願望があることもあって、国連ともあろう機関が日本国内の意見対立を煽動し、紛争へと誘導するつもりなのか、と。そういえば、現在のロシア=ウクライナ戦争も、元来は旧ソ連圏の内紛であったのを、欧米が口をはさみ、ウクライナに軍事支援までも行って、戦争状態へと誘導したわけである(ように見える)。マア、最近目立って増えてきた「人権」という大義の下の「内政干渉」にこれも該当するようにも観える。もし「侵略的人権外交」というのがあれば、ですけど……。



ただ、どうなのだろうナア、とは思う。

例えば、イギリスの王室は、現国王・チャールズ3世その人が女系の継承であるし、19世紀にはビクトリア女王のときにも女系継承をしている。そもそもハノーバー朝(=ウィンザー朝)初代のジョージ1世は、ドイツの貧乏貴族であったが、スチュアート朝最後の女王・アンと女系でつながっていた縁で、英王位に就いた人である。その一方で、フランス王家は初代のパリ伯ユーグ・カペーが王位に就いてから以降、ずっと男系で継承した点がイギリスとは違う。ただそれは諸々の政治上の事情もあったが故であり、原理・原則として男系継承を定めていたわけではなかったようだ。そのフランスもブルボン朝が廃されてから200年余りが過ぎた ― 家門としては今も続いている。前にも投稿したことがあるが、中欧の大国・オーストリアも男系で王位を継承していたが、マリー・アントワネットの母にあたるマリア・テレジアのあとは女系継承になった。ただし王朝名が「ハプスブルグ朝」から「ハプスブルグ=ロートリンゲン朝」へ変わった。

今も残っている世界の王制の全てに精通しているわけではないが、日本のように《男系世襲》を法で定めている国は、現代にあっては極めて少数派であるのかもしれない。そんな世界の中で日本の天皇制をみると、いかにも「旧い」、というか「道理に合わない」と。そんな感覚をもって受け止められる。そういう事かもしれない。



天皇と朝廷が日本に誕生してから、今年で1700年以上は経過したのだろうか?

とにかく皇室というのは古い血統である。大貴族である藤原氏よりもずっと古い。大伴氏や物部氏、葛城氏、蘇我氏といった古代の豪族で、現代日本まで続いている一門が他にあるのかどうか、不勉強のせいか、小生の知る所ではない。

古代の大貴族が消えてしまった背景には公地公民を原則とする律令体制の発足があるとみているが、これはまた日本史に関係する論点。

今年の大河ドラマ『光る君へ』は藤原氏の摂関政治華やかなりし時代設定だが、これをみていると、平安時代にあってはつくづく皇位継承は恣意的であったと感じる。

皇太子が天皇よりも年長であったりする。その背景として、そもそも《兄弟継承》が頻繁に行われていて、皇統が複数並存(=両統迭立の状態)することもあったことがある。

というより、そもそもの初期においては、兄の後は弟が継承する兄弟継承が基本であったということも、何かで読んだ記憶がある。

大体、直系の男系世襲にこだわれば、徳川幕府の将軍も4代・家綱で絶えていた。遠縁の傍流から8代・吉宗が将軍に就いたが、それも15代目に水戸家の慶喜が血筋ではなく、能力を評価されて将軍職に就いた。血筋に基づいて男系継承を行うなら、田安亀之助(=徳川家達)が将軍職を継承するところだったにもかかわらず、だ。

日本国憲法で「皇位は世襲」と規定しているのは、能力ではなく、血筋によって継承するという主旨だと理解しているから、15代将軍・慶喜のようなケースは採らないということだろう。しかし、これを過剰に厳密に解釈すると、自縄自縛になる可能性が高い。適任者がいれば、15代・慶喜のように皇位を継承することもありうると、理解しておくべきだと思うが、違うのかナ?



「皇族」と言っても、要するに、「親族一同」である。

だから、皇位継承にあたっては、親子継承に加えて、兄弟継承、伯甥継承、叔甥継承、従兄弟継承、再従兄弟継承などなど、あらゆるパターンがありうるとあらかじめ予想し、多くのパターンを容認しておくのが自然な措置である。明文規定のように単純に「世襲」の一言で定義するのは迷走の元であると思われる。

大体、皇位継承の可能性がある皇族と言っても、個人的な出来不出来は様々である。適性もある。持病など健康もある、精神的安定もある。身障者かもしれない ― 障害があれば天皇が果たすべき職務に支障がある可能性は高い。要するに、想像を超える様々な状況があり得るということだ。

近代以前の昔であれば「天皇になりたい」と思うのが普通の皇族の人情であったろうが、それでもなお自由に好きな芸術の道を歩みたいと願う人がいたはずである。煩わしい天皇に就いても数年で譲位して、あとは「上皇」として優雅に過ごす人も多かった。

現行法制下では、生前退位もままならない。余りに硬直的ではないか。これは明治以降の天皇制の欠陥であると小生は思っている。


せいぜい「家元」くらいの感覚でよい。それで(多くの?)日本人にとっては「象徴」として十分である。

なので、思うに男系だ、女系だ、長子だ、傍流だ、何だかんだに関わらず、皇室の(≒現天皇)の裁量で好きに内閣に諮問すればよいと思う。好きに決めるとしても、その時代の自然な慣習に任せれば国民は納得する。何なら皇位継承を宮内庁と内閣で定期的に審議しても可だ。最後は国会で承諾すればそれで決まりだ。

もちろん天皇の意志がそのままで通るとは限らない。それは近代以前であっても同じだった。次の天皇、つまり皇太子だが、新天皇が践祚する直後に皇太子を誰にするかで、その時々の権力者の意向が重要だった。今なら内閣と国会が代表する国民の「総意」だろう。


これではお家騒動になると心配する人がいるかもしれないが、心配ご無用だ。そんな事になるとは到底思われない。

近代以前の体制なら、朝廷に徴税権があった時代もあるし、近世・江戸期であれば禁裏御料(3万石)、公家領が徳川幕府から認められていた。

しかし敗戦と占領を経て、明治体制は瓦解し、天皇にはもはや統治権がなく、収入を保障する固有の領地もない。資産は、皇室の私有財産なのか、国有財産なのかが曖昧だが、つまりは微々たるものである。

それどころか、国事行為の義務に加えて関係者が色々な雑用を押し付け、人生の自由を奪っている。人権上の問題があるとすら小生には思える。「皇族」とは、職業選択の自由も定年もない境遇を代々身分として相続する「永代終身公僕」とも言える特殊な家に生まれた人たちのことである、と。こちらの方が問題だろう。「国体護持」を信念に戦い降伏した陸海軍の武人たちは、いま皇室が置かれている現状をみれば、涙を流し伏して詫びるであろうと、そんな風にも思われるのだ、な。



日本国民と皇室一門とに今でも実質的な関係があるとすれば、宮中と宮家には公費が使われているという点で、割り切って言えば、その一点だけである。

つまりは皇室関連の実質的問題として国民が意識するべき論点は財政である。これ以外にはない、というより口出しをするべき立場にはないだろう、というのが小生の感想だ。

「皇族」全体の財政状態には日本国民は目をひからせるべきだ。しかし、芸能人一家じゃああるまいし、後継ぎや家庭内情況にまで関心をもつのは、「デバガメ」って奴ですぜ。余計なお世話だ。

厳格に皇嗣を決定していても、それでもなお愛子内親王の皇位継承を願望する人たちが、言論は自由だとばかり、公開の場で意見を開陳している。法律で決めるから、逆に「皇位継承に誰でも口出しをしてもいいのだ」となる。小生の好みには合いませんネエ、こんなのは。そう思うがいかに?


法律の明文規定として

男女を問わず皇位は長子継承とする

このように法改正を行えば国連は喜ぶのだろう。が、ここまで強く《長子親子継承》を強制すれば、いずれ困ったことが起きるのは必至である。困る理由などは両手に余る。喜ぶのは外国だけだろう。

誰が天皇になるかで国民生活は変わらず、つまりは誰でもよいのだから、後継ぎは天皇ご自身、皇族ご一同でお好きに選べばよい。

徳川時代の将軍継承とは現実的重みが全然異なるのだ。誰でもよいのだから、皇位継承、皇太子の決定は、それ自体として「政治」ではない。純粋に皇室内部の「家政」である。故に、天皇が内意を伝えても可であると小生は考える。

ただ、官庁、企業の人事部ではないが、大体の将来路線は予想しておいた上で、常に2人ないし3人の若い皇族に帝王教育を施しておくのは不可欠だ。

要注意点はこの位だと思うがいかに?

 

マア、普通の感覚で判断するなら、親王がいれば年長の息子が皇太子になる。しかし、どんな皇太子になるか分かるまい。困ったことになるかもしれない。なので、英王室のヘンリー王子ではないが、《スペア》は必要なのだ。

娘、つまり内親王がいれば娘に継がせたいと願う天皇が出てくるかもしれない。それは娘しかいないか、あるいは息子、娘双方の個人的資質をみての判断かもしれない。

しかし、それでも天皇として果たすべき職務の多さと多忙、(将来の)配偶者の地位と処遇、子に与えられる自由と束縛、践祚後に決めるべき皇太子について政治サイドから口出しされるのではないかという懸念などから、内親王は皇位継承を嫌がる可能性が高い(と推測する)。それはそれで自然な感情であろう。皇位継承に懸念がなければ、内親王は民間に降下して、自由な人生を送る方がよほど幸福であるに違いない。その事情は親王、宮家家族にも当てはまる。

故に、予断を持って決められないのだ。皇室の存在が国民的課題である体制を続けるなら、余裕をもって、備えておくべきだろう。皇統を守りたいと考える皇族及び親族は、必ず世代ごとにいるはずである。

【加筆修正:2024-11-01】

2024年10月30日水曜日

要旨: 大峯顕『科学技術時代と浄土の教え』(上・下)

ここ近年、関心があるのは、近代の科学と伝統的な信仰との関連だ。

科学は経験的根拠に裏付けられた知の体系として発展してきた。科学技術は物質的な豊かさをもたらした。しかし、科学は現象の説明にとどまり、宇宙や生命の存在の本質には至っていない。生の意味、死の意味といった心の問題に解答を与えてくれるものではない。

伝統的な信仰は、直観的な宇宙観、生命観を示しているが、しかしその個々の表現は大昔の知識レベルを前提にしているので、一見すると荒唐無稽な内容を含んでいる。

マア、どちらも人間の《知》としては、どっちもどっち、一長一短、というのが小生の最近の認識だ。

そんな中、大峯顕『科学技術時代と浄土の教え』(上・下)が面白かったので、例によって(必ずしも脈絡がつながっているとは限らないが)傍線を引いた箇所を列挙する形で、各章の要旨をまとめておきたい―但し、原文をそのままコピーしてはいるが、一部で括弧を加えたり、文字を加えたりなど、細かな加筆をしているので、この点、ご容赦頂ければ幸いです。

本書は大峯顕の著作リストに含まれていないので講演をまとめたものと推察される。小生はKindleで読んだ。

本投稿の一部をどこかで引用することがあると思う。


~*~*~*~


第1章


デカルトは、神の存在と魂の不死ということは、キリスト教信者たちは信仰によって信じるだけで充分だけれども、それ以外の人々は、人間の本性に与えられている理性(自然的理性)によらなければ、説得されえないと言っています。

現代の進歩的文化人がたよりにしている理性は、真の理性と呼べるものではありません。彼らは自分の我を理性と混同していますから、理性自身を疑うような強くてしなやかな理性ではないのです。

自分でものを考えるという精神こそ哲学なのです。

やはり自然科学の力は大きかっただろうと思います。自然科学とそれに伴った技術というものが、世界に対する人間の見方を変えていくわけですね。神がこの世界万物を創ったという説教が、一般の人々の実感に訴えなくなってしまったのです。

浄土真宗の教学や説教が、もし現代人に信仰を喚起させる力を持たないとしたら、教学が江戸時代からほとんど変わっていないからです。


第2章


自然科学は世界や人間をすべてを物質の現象に還元して捉えるいとなみです。

科学はすべてを物質に還元して考えるといっても、その物質とは何かということが(実は)はっきりしないのです。

宗教というのは、世界を人間中心に見ない精神のあり方のことです。

私たちは、あるがままの真理を知ることによって救われるのであって、自分の思いこみによって救われるのではありません。


人間と動物との本質的な違いは、(抽象的な)観念を持てるかどうかというところにあります。現実以上のもの、目に見えないものを感じる(そして認識する)力を持つのが人間です。

解脱知とは、束縛された状態からの救済を知る能力です。

科学知と解脱知の他にもう一つの知があります。これは「本質知」といって、物の本質を知る知識です。これが哲学にあたります。

シェーラーは科学知、本質知、解脱知の三つをあげましたが、このうち科学知(実証知)は、原始的な形では動物でも持つことが出来ます。

オーギュスト・コントなどは、時代的には一番古いのが解脱知で、時代が進むと哲学知になり、最後に科学が発達して実証知になるのだと言いましたが、シェーラーはこの考え方に反対しています。


現代社会を支配しているのは、神学的世界観ではなく科学的世界観です。これは、ヨーロッパでもアジアでも同じことです。若者も老人も同じです。最近はお年寄りでも科学的世界観に汚染されています。阿弥陀さまの本願なんてもう古いんだと、口には出しませんがそう言いたそうな顔をしています。それでも、何とかの神さまに現世利益を頼んだりするのは依然としてやっているわけですが、阿弥陀さまに救われるということを真面目に考えなくなりました。宗教を説く人も、聞く人も、科学的世界観という科学主義に汚染された中に住んでいるというのが、今日の私たちが抱えている深刻な問題です。


《自覚》(=自分という存在の意識?)こそ、私というものの本質なのです。

信仰というのは、この自覚のいとなみです。

自覚といっても、自分の力で起こるのではなく、自己よりも大きな真理である如来(=浄土思想においては阿弥陀如来)が現れて自分に教えてくれたことをいうのです。

如来に照らされて、罪悪深重の自己の自覚が起こるのです。私は極楽などとうてい行くことのできない生死流転の凡夫だという、自分の正体が知らされるのです。

浄土へ行くことが約束されているとは、浄土から今ここに光がとどいているということであります。「信心の定まるとき往生また定まるなり」というのが浄土真宗(及び浄土系信仰)の《信心》(≒これは信じるという直観的認識)であり、臨終の時に迎えに来てくださるだろうというような心は疑いだと、聖人(=親鸞)ははっきり言っておられます。浄土は、どこか遠くにある他界ではなく、今ここを支えている頼もしい基礎なのだということを発見されたのが親鸞聖人の不朽の功績です。 この親鸞聖人の思想の素晴らしさは、長い伝統の中で忘れられがちだったのですが、清沢満之という明治の仏教改革者によって再発見されました。

西田幾多郎はその点を強調して次のように言っています。

「宗教は科学とは相反するかに考えられるが、かえって科学的精神は宗教によって基礎づけられるということができる。真の宗教の立場は、どこまでも自己の独断を棄てて、真に物そのものとなって考え、物そのものとなって行うことでなければならない。そこには、己を尽くすということが含まれていなければならない。無限の思惟が含まれていなければならない。東洋的無の宗教は神秘的ではない、かえって正法に不思議なしということを旨とするものである」。 

 

第3章


宗教に関する哲学には、ヨーロッパでは数百年の伝統があります。宗教哲学は、宗教の本質を解明する学問です。これに少し遅れて、宗教学という学問が生まれましたが、これは宗教の科学的研究(Science of Religion)です。

科学としての宗教学は宗教の現象面を研究しますが、宗教哲学はそうではなくて、宗教とは一体何かという宗教の本質を研究するのです。

宗教哲学のきざしはデカルトにあると言ってよいと思います。前にも述べましたとおり、『省察』には、神の存在と魂の不滅の問題が提起されています。神学者が語る神の存在や魂の不滅の議論は、信者だけを相手にします。しかし、信者だけが信じている内容は、すべての人が納得できるものではありません。信者は、神の存在などを信仰によって信じているのですが、そうではなく、あらゆる人間に与えられた自然理性によって、神の存在が証明されなければならないとデカルトは考えたのです。


我々の世界は、文明の集合から成り立っているのではなく、それを支える根拠があるのです。別の言い方をすれば、我々が生きている世界には意味があるということです。

人間存在はただの肉体ではないというのは宗教の根底であり、これはキリスト教であれ仏教であれ変わりません。

宗教とは、今ここに自分が存在しているということの不思議に驚くことです。…宗教は宇宙の直観なのです。


私たちの生きている時間よりも死んでいる時間の方が長いでしょう。生きているのはほんのしばらくのことで、あとほとんどは死んでいます。生まれる前は死んでいたわけです。そして、浄土のない人は命が終わると(単純に?)死ぬわけです。せいぜい百年生きているだけですね。私たちが生きたり死んだりしているのは本質的に宇宙的事件であり、このことを感じるのが宗教なのだ、とシュライエルマッハーは言ったのです。

シュライエルマッハーが言う宇宙とは、浄土真宗で言えば阿弥陀如来の本願にあたります。私たちが生きることも死ぬことも、すべて如来の本願の中の出来事です。私たちがどれだけ忘れていようと、私たちは如来の本願によって支えられているのです。そのことに気づいたことが信心を獲たということでしょう。


ヘーゲルは、宗教は大衆の哲学であり、哲学はエリートの宗教だとも言っていますが、そうすると宗教は大衆のものでなくなり、一部の教養人の独占物になってしまいます。

ヘーゲルが死ぬと、それに対する反動が起こって、カール・マルクスの弁証法的唯物論を筆頭とする反ヘーゲル主義が出て来ます。先に述べたオーギュスト・コントの実証主義もその一つで、宗教は過去の時代のものであり、これからは科学が真理を握るという考え方です。ヘーゲルによって完成した宗教哲学は、十九世紀の終わりごろから崩壊しはじめるのです。いわゆる「ドイツ観念論の崩壊」と呼ばれる現象です。


第4章


ソクラテスが言ったように、人間はただ生きていることが大事なのではなく、よく生きることが大事なのです。プラトンによれば、哲学的思索というものは、簡単にいえば死ぬことの練習です。

……「いよいよ君たちとお別れだ。私は死ぬために、君たちは生きるために。君たちは私を殺される憐れな人間だと思っているかもしれないが、いったい君たちは死ぬことが悪いことだと、どうして知っているのだ、まだ死んだこともないのに」。(出典:プラトン「ソクラテスの弁明」)

まったくその通りですね。まだ誰も死んだことがないのに、死ぬことが悪いことだとどうして知っているのでしょう。それは、知らないことを知ったかぶりしているだけではないのか。ソクラテスに言わせれば、自分も含めて我々は、死が良いことなのか悪いことなのか知らない。なぜならまだ死んだことがないからです。そうですね。死ぬことが良いか悪いかは人間にはわかりません。

人間は、知ったかぶりをします。「あの人は若くて死んでしまって可哀想に」と言うわけです。知らないことを知ったかぶりをするのは自分が無知だとは思っていないからです。知ったかぶりをするのは高慢です。

阿弥陀さまの本願が信じられないのは、凡夫が無知だからではありません。自分は智者だと思っているからです。阿弥陀さまなんかに助けてもらわなくていいんだというのは、自分の無知に気付かないということでしょう。「邪見憍慢の悪衆生」というのは、根性が曲がっているということではなく、自分が賢いと思っていることです。

だから自分が本当に無智だということを知る、無智の知が大事なのです。


哲学というものは死を超えていく道だということです。哲学は物知りになることではありません。哲学を理屈をこねることだと思っているから、哲学なんて要らないと言ってしまうのでしょうが、それは哲学の何たるかを知らない物言いです。

ヨーロッパの宗教と哲学の関係は、大まかに見ると、宗教が哲学化する方向と哲学が宗教化する方向の二つを持っています。そしてヘーゲルにおいて宗教は完全に哲学化されたのです。他方で哲学化された宗教であるこのヘーゲル哲学に対する反動として、マルクスや実証主義者が出て来ました。これは世界の非宗教化を促進することになりました。だから十九世紀の終わりごろから宗教はずいぶんと下火になって、科学とか実証主義とか共産主義革命といったことが起こり、人間存在に対する宗教的信仰の重要性はだんだんと薄れてきました。そして二十世紀になだれ込んでくる……


理由づけをして納得できるものは宗教と呼べません。

このことを西田幾多郎ははっきりと言っています。

宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せなければならない。(『場所的論理と宗教的世界観』 『西田幾多郎哲学論集 Ⅲ』 二九九頁)

宗教は心霊上の事実であって、救われるということは哲学的思惟の結論ではなく、この自分が阿弥陀さまに救われていくことの明白な経験のことです。哲学者にこの宗教体験の真理を弁護してもらう必要はさらにありません。


……大勢集まって賑やかにやることが繁昌なのではないということを肝に銘じなければなりません。それ以外に浄土真宗の復権などあるはずがありません。あると思っているのは、如来さまを信じていない人でしょう。その人は阿弥陀さまではなく、人間の力を信じているのです。何人人が集まろうと、信心がなければみんなで地獄行きです(笑)。だいたい、宗教に限らず、人が大勢集まったらだめになるのが人間というもののようです。

日本にはいろんな宗教がありますが、どの宗教も純粋性を失って、大衆運動になっています。


池田晶子は死ぬけれども、私は死なない」と。これは真理です。

世間が見ている池田晶子は死んでも、いま池田晶子をやっている「この私」は死なないということです。それが池田晶子の自己です。これは仏教の言わんとする普遍的真理です。池田さんは、別にお寺でお説教を聞いたわけでもないのに、どういうわけかそういうことを感じる力があったのです。

私たちは、阿弥陀さまの本願に出逢わなかったら、本当に死ぬことができないのです。これが本当に怖いことです。


質疑


この世のことは何でもわかっているが、浄土だけは不思議だと言っている方がおかしいのです。

そうではありませんか。ここはどこかということは誰もわかっていません。私たちはそれを仮に人生と呼んでいるだけのことです。

自己という観念は科学が扱える次元ではないのですね。…これを「個人」と言ってしまうと、もう外在化されてしまっています。個人は社会に相対する存在者の名ですから、もう自己ではないんですね。……


第5章


浄土真宗は、真言宗や天台宗といった仏教よりも禅宗に近いということは言えると思います。信心というのは禅宗の悟り、見性体験と似ています。

阿弥陀如来から私の方へ来て下さっているものが真の至心なのだ。だから私は往生間違いないのだ。(親鸞は)このように経典の従来の読み方を大きく転換されたのです。

浄土に行くのは信心以外にありません。信心が、浄土に行くただ一つの道です。それではその信心がどうやって起こるのかという問題が残ります。起こそうと思って起こるものではありません。私より先に、私にはたらいている力に気づくしかないのです。


第6章


宗教家も含めて多くの人は、お金をたくさん集めて生きることが良く生きることだと思っているのではないでしょうか。

ソクラテスはアテネの人々との対話を通じて、ほんとうの人間の生き方はどういうものかを追求したのです。それは、世間一般には災いだと思われている死というものを超えていくような生き方でした。この世の生存が生きる最高目的ではないのです。

…浄土真宗だったら、浄土に生まれ仏になるということですね。仏教はこの世の長生きを善として説いてはいません。どれだけ長生きをしても、この世の命は必ず終わりますから、最後は地獄・絶望しかありません。この世しかないと思っている人には、死んで地獄があるのではなく、この世自身がまっ暗やみなのです。死んだら何もないと思っている人は、生きているときから地獄を持っています。現世の他には何もないという地獄です。これはニヒリズムです。

ローマもアテネも滅んだ理由は精神が腐ったからです。ローマ帝国が滅んだように、人間は正しいものの考え方ができなくなったときに滅びるのです。


この、私自身は死をもって終わらないという思想が真の宗教の原点です。この自覚がないのは、宗教心のない、肉体の奴隷のような人です。…人間の個体の生存をどこまでも存続させるなどというのは、硬直し、老化し、衰弱した生命観です。

真実信心の人は、行方不明になりません。浄土へ往って還ってくるからです。

信ずることができるものを持っていない人、人間に生まれても本当に信じられるものを知らずに死んでいく人は不幸です。…本当の自分とは、世間の人に見られている私ではなく、如来さまに見られている私のことです。…どうにもならない私に出会うことを、教学用語では「機の深信」といいます。


大きな命がこの私を生きているのです。


質疑


化仏というのは、阿弥陀さまの光の中には、無数の化仏がいらっしゃるのです。…方便不思議によって、いろいろな形をとり、十方衆生を摂取して一人も捨てないという慈悲を知らせてくださるのです。…私は私自身に対しては死にません。社会や、遺族や、友人に対して死ぬだけで、その人自身に対しては死にません。これが私は死なないということの意味です。

この次元をフィヒテは「対自性」と言ったのですが、この対自性の自己こそ本当の自己です。世界はいたるところに命があって、死はないのです。

私は肉体を持って生きていますが、私は肉体とともに発生したわけではありません。


現代人は、物質主義に汚染されてしまって、精神が病的になっているのではのではないかと思います。これは言葉を換えたら、多くの人が、世の中には役に立つものしか存在しないと深く思い込んでいるということです。今までいたお父さんは、私にとって何の役にも立たなくなったから、消えてしまったと思ってしまう。…存在する人は、宇宙から送られてきたのですから、必ず宇宙のどこかにいるものです。この考え方のほうが健康ですから、そこに戻ればいいのです。

モニュメントとしてのお墓はあっていいのですけれども、お墓の中にいるということを本気で信じているとしたら、それは精神というものが信じられない人でしょうね。

お金に限らず、自分の身につけたものは必ず自分を堕落させます。


キリスト教でも同じで、宗教というものは自覚の次元の出来事です。これが人間にとって一番の大事です。…デカルト哲学では、その自覚性がはっきりしなくて、思惟する自己を実体と定義してしまいました。…そこを後にフィヒテが鋭く批判して、実体的な自己などはなくて、自覚としての自己があるだけだと言ったのです。  そういう意味で、自覚というのは西洋哲学にも仏教にも通じる次元です。フィヒテと仏教はそこが非常によく似ているのです。


第7章


生物的な自己、社会的な自己…これは、生きている間だけのことです。

如来の本願に救われる自己こそが真の自己なのです。如来に救われなければならない自己が、本当の自己です。

心とは何かは依然として大きな謎です。これまでは物質の世界を研究してきたから、これからは心に目を向けようという程度の反省ではなく、目の向け方を根本的に変えなければ心の時代にはなりません。『正法眼蔵』の生死の巻が言うように、仏教とは、自己とは何かを問う生き方であり、仏は何かという問いは、自己とは何かという問いと同じです。

ドストエフスキーは、人間の心は、神と悪魔とのたたかいの戦場だと言っています。神と悪魔とが、人間という場所で戦っているというのです。これはまだヨーロッパ的な言い方ですが、人間存在の不気味さをよく表しています。我々はまだ人間とは何かがよくわかっていません。

最近の状況を見ると、わかったつもりであった人間が、何もわからない存在だったということが、はっきりしてきた時代であると言ってもいいと思います。人間の解体の時代というのは、そういうことです。

……ハイデガーは、これは危機の一部にすぎないと言います。それよりもっと大きな危機は何かというと、人間の現象形態としての生存ではなく、人間の本質が、技術によって直撃されているという危険です。


第8章


宗教で問題になる「私」は、宇宙の自然的な生成で生まれたのではありません。私は初めからあるのです。

阿弥陀如来が生まれたのと、私が生まれたのとは同時です。キェルケゴールはこのことを「同時性」という言葉で表現しています。これが宗教の世界であって、弥陀成仏が時間軸での過去の話だと思っていたらまったく見当ちがいなことになります。 キェルケゴールは、イエスの十字架が二千年前の話だと思っている人は、キリスト教徒ではないと言っています。


我々が抱えている問題は、死んだぐらいでは終わらないということです。自分がなぜこういう人間であるのかということは、現生だけで説明できないから、前生とか後生の因縁を言わなければならないのです。…人間が経験することは、この世だけでは説明がつかない部分があるわけで、それを納得するためには、前生を持ち出さざるを得ないこともあるのだということです。

現代人は、前生とか後生とかの観念を笑うかもしれませんが、これは、神話的な説明によって人生そのものへの覚醒を促すためです。哲学的な言葉で言うならば、私たちの現在には底がないということです。人間の理性ではとどかない現実存在の深みのことを言っているわけです。


仏さまというものはどこかに実体としておられるのではなく、法性法身つまり「空」です。

名を喚ぶ以外に、阿弥陀さまとお遇いする道はありません。名を喚ばずに尊敬していてもだめです。

人間の真の生は、私は何のために生きているのかという問いのあるところにのみあります。…宗教も哲学もその問いから生まれるのであって、人間の幸福を目的とするものではありません。幸福を追求し始めると、宗教は堕落します。西田幾多郎は、宗教は自分の安心立命を得るためのものだという考えすら、宗教の純粋性を失うと言っています。


第9章


誰もが死をただ遠ざけているばかりで、避けられない現実を受け止めることをしていません。なぜ私は死ぬのか、死の不安から解放されるにはどうすればいいのかということが、どうしても真面目な問題にならないのです。

死ぬのは社会が悪いからだという考え方になってしまう場合すらあるようです。子どもが自殺すると今の社会が悪い、学校が悪い、病人が死ぬと医師が悪い、制度が悪いということになって、どうしても死というものに直面していないのです。 ギリシャ人は、人間のことを「死すべきもの」といいました。

世間では、ガンで死んだとか交通事故で死んだと言いますが、それらは死の縁であって、因ではありません。死の原因は、生まれたことにあるのです。

こういった死の忘却が、科学技術時代の人間の基本的な特徴ですが、このことを最初に指摘したのは、マックス・シェーラーという哲学者です。…彼が「現代西ヨーロッパ人」と呼ぶ新しい人間類型は、死という明白な事実から目をそむけて、人生とは仕事と金もうけだと考えている人間のことです。


















2024年10月28日月曜日

ホンノ一言: 与党大敗はそもそも「当たり前」の帰結であったはず

 「案の定」ということなのだろう。

自民党が石破茂・新総裁を選んでも、今回の衆院選の大敗を免れることはやはり出来なかった。

大体、自民党が勝つはずがなかった、公明党も一蓮托生……、にも拘らず、メディアは与党が過半数を割った後のことを本気では話題にしていなかった — マッ、それも「立場」ということなのでしょう、分かりますケド。


メディアでは、石破新総裁がいわゆる「裏金議員」を早々に公認したこととか、世間の批判をみて手のひらを返したように非公認にしたり、裏金議員の比例重複立候補を許さないなど急に強硬になったとか、非公認議員がいる選挙区に活動費を支給したりとか、まあ、色々な具体的敗因を挙げているが、それは奇妙な解説だ。

本質的な敗因が、政治資金パーティー収入のキャッシュバックを不記載にしていたというルーズな金銭感覚にあったことを思い出すと、新総裁がどう取り繕っていたとしても、裏金作りに手を染めていた議員の《大量落選》を防ぐことは、ホボゝ不可能であったに違いない。

これが第一の要点だと思われるがいかに?

――旧・統一教会との関係も主因であったと指摘する向きがあるが ― これは安倍派によらず自民党全体に関係性が窺われた ―、これも与党大敗の主因なのだろうか?思うのだが、安倍元首相暗殺事件後の旧・統一教会騒動は、銃撃犯が恨んでいたと伝えられる宗教法人の強欲さに犯人を不憫に感じた日本人のヒステリー現象だった(と小生は観ていた)。今も変わらない。議員とその宗教法人が親しい中にあるからといって「許せヌ」とまで思うだろうか?そんな疑問がヤッパリあるのだ、な。

「あの宗教団体と…」というより、「腹が立つのは汚いカネの作り方だ」と。そう思いますがネエ、あたしは、というところだ。

「・・・となるに違いない」事が現実に実現したわけだ。故に、大敗の責任はこれまでの主流派であり、金銭感覚が余りにルーズであった安倍派の議員面々にある。長い期間、アンチ安倍で冷や飯を食ってきた石破首相には責任は(ほとんど?)ない。

よくある《盛者必衰》の交代劇が今回再び演じられたというわけだ。

政治的スキャンダルを起こしたにもかかわらず、石破茂氏を新総裁に選べば、国民に人気があるので、自民党議員も人気のおこぼれをもらって落選せずにすむかも・・・と。

何だか

善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや

親鸞の「悪人正機説」じゃあるまいし、旧・安倍派の金銭欲にまみれた自民党議員たちを、だからこそ救うのだという大悲は国政選挙では期待できませんて……、有権者は阿弥陀如来とは違います。そんな阿弥陀様の役割を石破首相に期待していたとすれば、そもそもが実に非常識な期待であった。

そういうことであったと思う。

足元の問題は、

石破茂は、悪行(?)を重ねた議員を救う阿弥陀様ではなかった。だから負けた今は「用済みだ」となるのか?……何だか不合格になった受験生に捨てられる御守のようだが。でもお守りを捨てても低脳は低脳のままですゼ……実質を変えんとネ。

石破茂はアンチ安倍だ。今回は安倍派の汚れた議員に鉄槌が下った。これから「石破政治」をやってもらおう、となるのか?……マア、ルサンチマンである。源平合戦さながらの復讐劇が進む。侮られてきた「窓際族」がどういう拍子か権力を握ると得てしてこうなりがちだ……国民の共感が要りますワナ。

この岐路のどちらの道を歩むのか、ということだろう。

これからどうなるのだろう?

イギリスのBBC辺りは、政治的安定を失った挙句に極右の高市早苗政権が(旧・安倍派を中心に?)誕生するかもしれないと、「一抹の不安?」を伝えているようだ。

もしそうなれば、日本政治の極端なドタバタ喜劇ぶりに世界中がアッと驚くのは必至だ。しかし、そうなったらそうなったで、

こりゃあ「瓢箪から駒」って奴だネエ

と、庶民は喝采するのが日本社会かもしれない。戦後日本の民主主義って奴でしょう。

小生は、何度も書いてきたように、自民党の分裂、立憲民主党の分裂、共産党が共産主義の旗を降ろすことの三つを願望する立場にいる。

そして国政選挙は、小選挙区が主、比例代表は従という現行方式は止めて、全体の得票率が議席数に反映される比例代表が主、小選挙区は従とするドイツ的な「比例代表併用制」に移行していくのが好みである。もちろん泡沫政党には議席を与えず得票率には下限を設ける。

どこも過半数をとれないだろうから、選挙後に政党間の協議と相互の妥協によって連立政権を構築すればよい。

首相による議会解散は一定の年限は極力自主規制する。

内閣成立まで時間を要するかもしれないが、必ずしも不安定ならず、だ。強力なカリスマ宰相が誕生する可能性はメルケル長期政権を思うと十分にある。

それには、1955年以来のいわゆる「55年体制」が跡形もなく瓦解することが必要だ。

当面は「力勝負」ということで、徹底的に政敵を迫害(?)する「権力闘争」を展開してほしいものだ。それでこそ、日本政治がダイナミズムを取り戻し、そうすれば日本経済も、「政治」などには期待せず、アニマル・スピリットを取り戻してダイナミックになるはずである。

そして、中央政府をスリム化して、地方分権を進め、税源を地方の生産現場に分散化し、地方、地方が比較優位性を生かして「生産性の向上」に頑張る。頑張った地域こそ豊かな地域になる。大したことはしていない首都の本社・本部より身体を動かしている現場。そんな国になって行ってほしいものだ。

 

2024年10月27日日曜日

断想: 抽象概念は実在する・・・?

本稿は前稿の続編である。

 

小生はずっと

この世界に実在するのはモノである。この世を支配しているのは物理法則と化学的性質である。生命現象も特別な化学プロセスである。

と、マア、こんな風に考えていたので、例えば「善悪」、「美醜」とか、ましてや「民主主義」、「人権」などという曖昧な概念は、自然界にそんなラベルが貼られていることはないので、実際には存在しない。そう考えてきたわけで、これは前稿でも触れている。

とはいえ、引っ掛かりは以前からあって、例えば経済学では「生産の境界(Boundary of Production)という問題がある。

18世紀フランスで活躍したケネー、チュルゴ―らの重農主義思想では、自然に対して直接に働きかけて得られる第一次産業の生産物のみが「生産物」である。製造業が提供する「パン」、「菓子」、あるいは「机」とか「自動車」などは単なる加工品で、真の生産物ではない。こう考える。

フランスで重農主義経済学に触れたアダム・スミスは、これを発展させて「国富」とは金、銀などのマネーではなく、「価値」を生む「生産資源」である、つまりは「労働力」である、と。こう考えた。だから、労働者の労働によって生まれる製造業の生産物も真の「生産物」として把握された。生産の境界が拡大されたのだ、な。

現在では、有形物に加えて、更に諸々のサービスも生産の境界の中に繰り入れられるようになった。人々の満足度が向上し、多くの人が喜んで対価を支払う以上、形に残らなくともサービス業従事者も生産に参加している。こんなロジックだ。

なので、よくこんな話をした:

目の前に「机」がある。しかし、重農主義思想の下では、これを机とは観ず、木材と考える。真の生産物である木材が、机という形をいまとっている。机を二つに切ってしまうとする。机があったと観ていれば、机がなくなったと理解するが、そもそも生産物として机があるわけではなかった。切り分けても木材である以上、経済的価値の次元では何も失われていない。

よく屁理屈をこねては周囲を煙にまいていたものだ。

いま振り返ると、上の屁理屈をもう少し掘り下げて考えていればよかったのだと思う。

あそこに人がいる。しかし、あれが人だというのはどういう意味だろう?そこに在るのは、個々の細胞の集合体であると観てもよい。というより、主に蛋白質が集積した物質でも間違いではなく、もっと要素に還元して「炭素とその他ミネラルを含む集合体」と把握してもよい。実際、そこに在るのは数種の元素の集合体なのだ。これが実在しているモノである。いや、いや、要素還元論的に世界を眺めれば、全てのモノは元素の集合であり、現象はすべて原子の運動であるのだ。

その元素の集合体を「一人の人間」と認識するのは、何層もレベルの上がったマクロ的概念を通してそう認識しているわけだ。つまり「人間」というのは、実在する原子の(あるいは個々の細胞の)集合が、知性までも備える多細胞生物として振る舞うその在り方全体を指す抽象概念である。

人間の行動は、確かに人間を構成する原子の集合が物理化学法則に沿って運動することで実在化するものだが、そう認識するよりは人間ならもっているはずの人間性に着目するほうが、人間を良く説明できる。この「人間性」もまた抽象概念である。


似たような問題は、以前にも言及したことのあるドイッチュ『無限の始まり』でも述べられているわけで、例えば第5章「抽象概念とは何か」では

知識はそれぞれが、自らの複製のために生物や脳を「使う」(したがって、それらに「影響を与える」)抽象的な自己複製子……

という風に、「知」というのは抽象概念から構成されているものだと述べている。

その後にチェスをさすコンピューターが人間に勝つ情況を例に挙げてこう書いている:

実際にあなたに勝つのはプログラムであって、(半導体の素材である)シリコン原子でもコンピューター自体でもない。その抽象的なプログラムは、無数の原子の高レベルの振る舞いとして物理的に実在化されているが、プログラムがあなたに勝った理由の説明は、プログラム自体に言及せずに表現することはできない。…そうした抽象概念は、その説明に必要とされる形で存在し、実際に物理的対象に影響を与えているのだ。

こう述べている。つまり、目の前に観察される現象を理解するのに、因果関係に基づいて個々の原子の振る舞いを物理化学的に分析するより、コンピューターがそう振舞うように最初からプログラムされていたのだ、と。そう説明する方が、物事の本質をついているだろうという一例である。

因果関係という枠組みから物理化学的に理解する見方も一方にはあるが、人間に勝つためにプログラムされているという「意図」と「計画」があると、つまり目的論的に世界を観る立場もある。

そういうことだ。

 以前の投稿で、モーツアルトの音楽について何度か投稿している。が、モーツアルトの音楽はどこにあるのだろう?

部屋でそれを聴くとき、それはCDとCDプレーヤーが演奏しているのだろうか?そうではない。それは何十年も昔に、小生が好きな演奏家が演奏した時の「音」を録音したものだ。プレーヤーという再生装置はそれを音に戻しているだけだ。では、音がモーツアルトの音楽なのか?そうではない。各音程の音が、モーツアルトが書いた楽譜どおりに響くので、その音の流れが音楽になるわけだ。即ち、モーツアルトの音楽は、有形物として存在するのではなく、モーツアルトの音楽的才能、つまりは「知」が創造した高レベルの抽象的な存在である。それが自己複製をしながら、物理的な音に具象化され、最後に我々の耳に届いているわけである。

抽象的実在である音楽に、我々はしばしば「美」を感じる。それは「美」という抽象的な価値が実在しているからだ。音楽を聴いて、そこに美を感じとり、感動の涙を流すのは、抽象レベルで起きていることが、生身の身体という物理的存在に影響を与えるわけだ。なぜ涙を流すのかについて、物理化学的、生理学的分析を行うよりは、音楽を聴いたためだと理解する方が、良い理解であろう。

ここまで書くと、正にプラトン哲学を連想するのは、小生にとどまらない(はずだ)―実際、ドイッチュも第10章で「ソクラテスの見た夢」を置いている。


プラトンの思想の根本は「イデア」である。要するに、ラディカルな唯心論者としてプラトン(それからソクラテス)を(今のところ)理解している。

「他力」、「浄土」、「信仰」という人間の行為を考えるとすれば、こんな視点からだろう。




2024年10月24日木曜日

断想: これが世界観の深化になっていればイイが・・・

ちょっと大きな主題に触れたいので前処理作業として投稿済みの原稿から要点を抜粋しておきたい。

1

2011年9月19日付けの『経済発展と民主主義』ではこんな事を書いている:

アジアと西洋が歴史を通してシーソーゲームを繰り返しているというが、いずれかより民主主義的であった側が他方を凌駕した。そんな法則はないようである…

小生自身は、その社会が民主主義であるかどうかは、経済成長にそれほど関係ないのじゃないかと思っている - 思っているというだけのことだが…

社会の産業構造、職業構造。その時代を主導するリーディング産業にとって最適である生産システムが、強い共同体を作ってしまうのかどうか、これらが民主主義思想のポジションに反映しているような気はする。だから、小生はこの問題については、マルクスと全く同一の目線をとっているわけであり、正に「下部構造が上部構造を決める」。そう思っている…

子孫は子孫で、一番やりやすいように社会を変えていくだろう。それは民主主義の廃棄、王政の復活、帝政の復活ですらも十分ありうる。そう思うのだな。


相当の唯物論的な見方だと思うし、基本的には以前のままの歴史観、社会観、人間観を持ち続けている。

ところが、段々と深化、であれば好いのだが、単なる変化かもしれない。がともかく、理解の仕方が変わって来たのだ、な。


ごく最近になって投稿することが増えている「浄土思想」だが、2016年7月27日に『浄土思想・他力本願』を標題にこんな事を書いている:

他力本願の最大のハードルは『阿弥陀如来はどこにいるのか?存在していないことは歴然としているではないか』、そんな疑問をどう解決するかだろう ― もちろん仏教思想を大学で専攻すれば、この辺は、当然のこと、講義も聴き、自分でも勉強して消化しているに違いない。が、そんな時間は持ってこなかったし、統計学が専門の小生にはこれからも持てない時間である。…

最近になって、だんだん理解できて来たので覚書にしておきたいのは、心の救済を願う阿弥陀如来は自分の心の中に潜在している特定の意識を指すのだろうという点である。
 
意識の中に存在すると考えれば、他力本願という思想は理路一貫する。要するに、救いとは病気を治してもらうという外面的な治療ではなく、悩みや不安からいかに解放されて平穏な心の状態にいられるかというそんな問題なのだろう。…

…心の救済を議論する場合は有効でも、人間の意識の外には、つまり客観的実在を対象として、阿弥陀如来やら観世音菩薩、勢至菩薩を思い浮かべても、もともとそれは自然科学的には無意味なことである。意味があるのは人間の意識の中においてのみである。そういう結論になってしまう…
 
…しかし、どうやらそうでないのかもしれない、と。
 
人間の意識をいまある状態に進化させたのは、他ならぬ客観的に存在する「世界」そのものである。だとすれば、人間の意識という一つの内的世界に存在するものは、すべて外側に源をもっていると考えるのがロジカルであろう。
このところ書いている内容の芽が8年も前にもうあったのかと我ながら驚いている。


もともと『万物は流転する』というギリシア哲学の名句が好きだったし、それは『平家物語』の「諸行無常」に相対応するものだとも思ってきた。

2016年12月26日には『時間と存在、プラス流転』という標題でこんな風に書いた。
物事は変化して初めて知覚に触れるものである。「存在」といえば、一定不変の物と考えがちだが、周囲の世界が一定不変で、全てのものが一定の場所にとどまり、同じ状態を維持するなら、私たちはそれらを認識することはできないだろう、と小生は思うのだ。
 
そもそも「生命」は、変化の相に存在することは明らかだ。生は変化であり、一定の状態への復帰は死を、いや死後の解体プロセスの行きつく先を意味している。
全ての物質が一定であれば、電子の運動も分子の運動もなく、我々自身の感覚器官も機能を停止するという理屈である。つまり「命」というのは、そこに在るものというより、実際にそこに存在しているものが変化する現象だ、と。命が現象なら、命の上にあるはずの自分という存在も自覚という意識もまた現象だろう、と。本当はないのだ、と。デカルトの「われ思う、故に我あり」というのは少しおかしいのではないか、と。こんな風に考えていた自分を思い出す。

やはり唯物論である。物理学でいう「要素還元論」に他ならない。


2018年9月23日には『心の世界と唯物論』を標題に投稿している。

西洋哲学では、物質と精神とを二分する思考を繰り広げてきた。

小生は、ずっと以前にも投稿したように、下部構造が上部構造をすべて決めていくと基本的には考えている。この点では、唯物論者であり、やはりマルクスと同じであるともう一度反復して言うことができる。

家族のあり方、地域社会のあり方、国家の役割、男女や上司部下といった人間関係のあり方(=セクハラ・パワハラ等の認識のしかた)、何が正しい社会かという思想・常識などは、すべて人間社会の生産プロセスの構造が決めてしまうと考えている。「生産」とは、人間社会が生きていくための現実そのものである。要するに、生きていくために都合のよい社会をつくり、国をつくり、法をつくり、人間関係をつくっていく、と。そう考えている立場に変わりはない。
 
人は自分たちが生きていくのに都合のよい思想を選ぶか、選べないときは発明する。  
こういうことだと思っている。倫理や常識はもちろんその時点で是とされる思想を反映するものである。

変わってないネエ…。そう確認することが出来る。


 2020年代に入ると、2021年6月6日付けで『新実在論と普遍的価値の存在?』を投稿した。

ドイツの哲学者であるマルクス・ガブリエルを読んだのが刺激になったようだ。この時点ではまだこう考えていた:

何度も投稿しているが、現実世界のどこを観察しても、善い・悪い(Good vs Evil)を識別できる客観的なラベルは確認不能なのである。善いか、悪いかという識別は、その人が生きている時代に生きていた他の人物集団がどう判断しているかに基づくしかない。

マルクス・ガブリエルは『なぜ世界は存在しないのか』でこうも言っているわけだ。

自然科学によって研究できるもの、メス・顕微鏡・脳スキャンによって解剖・分析・可視化できるものだけが存在するのだというような主張は、明らかに行き過ぎでしょう。もしそのようなものしか存在しないのだとすれば、ドイツ連邦共和国も、未来も、数も、わたしの見るさまざまな夢も、どれも存在しないことになってしまうからです。しかし、これらはどれも存在している以上・・・

これに対して、小生は次のように考えていた。

人間社会における倫理的価値を論じるなら、蜂の社会、蟻の社会に存在している倫理的価値を考えてもよい。おそらく、(人類とは無縁だが)そんなものがあるのだろう。ひょっとすると、蟻や蜂という種族に埋め込まれた遺伝的特性かもしれない。だとすれば、何かが存在していて、そんな行動特性が現象として現れている。こう考えられる。もしそうなら、蟻の倫理、蜂の倫理という言葉で指示される客観的存在があることになる。が、それは蟻の特徴、蜂の特徴であって、人間の特徴ではない。また反対に、人間社会の倫理的価値は蜂や蟻という生物には意味のない事柄である。時空を超えた普遍的価値としてあるのではない。

 今でも、上の議論を無意味なことと全面的に棄却してよいのかと言われると、やはり主張したい気持ちはある。

世界に存在しているのは、物言わぬモノだけである。こう考えている。それ以外の人間的な思考の結果は、人間にとってだけ意味がある。そういう思考回路である。

2022年9月22日には『生命と非生命、唯物論で決まったわけじゃないか……逆もある』と投稿したが、ここで新しい芽が出てきているのが確認される。

よく物質と精神の二つに分ける議論をするが、同じ程度に意味のある問題は生命と非生命との区分だと思う。その生命だが、明らかに非生命の物質から生まれたものであることは自明である。はるか昔には、生命の根源には「生気」があると考える「生気論」が主流を占めていたが、現在は生命現象も特定の化学反応サイクルに帰着できる化学現象であると理解されている。大雑把に言えば、生命も非生命と同じ<物性物理学>の研究対象であると言っても言い過ぎではなくなってきた。

精神も生命ある生物に宿ると考えれば、精神もまた物質の中に存在する理屈だ。生命活動を生む性質が、モノの世界に最初から潜在しているとすれば、実際に生まれ出た生命に宿る精神活動もまた最初からモノの中に可能性として潜在していたことになる。とすれば、正に<両部不二>、金剛界と胎蔵界は所詮は一つと喝破した空海に通じる。というか、物質と精神を分けて考えてきた哲学は大前提からして的が外れていたことになるではないか、と。そう考えてきたのだ、な。文字通りの<唯物論>になるのじゃあないかというのは、こんな意味合いでである。

これは徹底した唯物論になる。ところが、その後では見方を反転させて、以下のようなことを書いている:

……モノの世界から単細胞生物が自然に発生し、それが多細胞生物に自然に進化し、更に多種の動植物が分岐し複雑化してきた。そして現時点においては、その最終段階として知的生物としての人類がある。そうなるべくしてそうなった性質が、最初から物質の属性として存在していたということだ。が、これを逆向きに考えると、そんな進化プロセスが実現する可能性が最初からあったことになる。つまり、人類という知的精神を備えた生物がこの世界に登場する可能性がそもそも最初の時点においてモノの世界にはモノの特性として潜在していたという理屈になる。

こう考えると、人間がもっている知性の働き、たとえば<論理>という推論の道具、<美>や<善>といった価値概念も、様々の抽象概念も、それが人間知性によって抱かれる前から可能性として存在していたという理屈になるのではないか。

となると、長い進化の歴史も、モノの属性が順々に現れてきたと理解するよりは、最初から存在していた抽象的概念が可能性から現実へと具象化される過程そのものであった、と。そう理解してもよいというロジックになる。そもそも不可能な事は不可能であり、可能なものはいつかは現実の事になる。こうなると、正にヘーゲルである。

というか、《神》という概念ですら、その概念に対応する何かが最初から《モノ自体》の中に潜在しており、いま地球上に現れた人類がそんな概念をもつに至っているのは、知るべくして知った、と。決して根拠のないことではない、とすら言えそうだ。

ヘーゲルは宗教を哲学化したと言われるが、正にその通り。唯物論を逆向きに考えると、神の実在を含めた宇宙論になってしまったわけである。

唯物論に立てば永遠の過去から現在に至る因果論で世界を観ることになる。反対に、逆向きに考えると、宇宙創成時点で実在した神が人間知性の神という概念に具象化され、これから永遠の未来にわたり、当初から潜在していた全ての可能性が宇宙を作って行く。最初の目的が成就される過程として時間を認識する。こんな目的論で世界をみることになる。

こういう発想が(小生にとっては)新しい理解の仕方になったのは明らかだ。

上の投稿が基礎になって、昨年3月2日の投稿『西洋的な二項対立の思考パターンを一度捨ててみてはどうか?』になった。

精神も生命ある生物に宿ると考えれば、精神もまた物質の中に存在する理屈だ。生命活動を生む性質が、モノの世界に最初から潜在しているとすれば、実際に生まれ出た生命に宿る精神活動もまた最初からモノの中に可能性として潜在していたことになる。とすれば、正に<両部不二>、金剛界と胎蔵界は所詮は一つと喝破した空海に通じる。というか、物質と精神を分けて考えてきた哲学は大前提からして的が外れていたことになるではないか、と。そう考えてきたのだ、な。文字通りの<唯物論>になるのじゃあないかというのは、こんな意味合いでである。

再度、上の6番の投稿を引用している。
前の投稿は、唯物論のようでもあるし、逆に考えると唯心論のようでもある、と。要するに、西洋的な二項対立思考では見えなくなる面がある。そういうことだ。

西洋流に「物質と精神」を分けて考えるより、両方を一体のものとして理解する方が真実に近い。そんな世界観が出てきている。

まあ、

その後、現在に至る

と言ってもイイ。

最近になって<宗教>が話題になることが多いが、西洋的な自然科学的思考に頭から足まで染まってしか世界を見れなくなると、宗教とか、信仰という人間行動を的確に理解できないはずだ。

世間には、自分自身は科学の専門家ではないが、科学を盲目的に信頼する《科学主義者》が多い。

科学主義者は、多分、唯物論的な世界観をもっている(に違いない)。全ての現象は因果関係の枠組みで理解する。つまり結果にはすべて原因があると考える。物質界のある原因が先にあって、観察可能なある結果がメカニックに生起するのであるから、そこに理念や価値は不要である。過去から未来へ物事は自動的に、法則に沿って、進行する。人間もそのはずである。社会もそのはずである。科学主義はまず第一に《没理想的》にならざるを得ないのだ。

仮に、こういう理解の仕方で解答が得られない事柄があるとすれば、それはその事柄が「非科学的」であるからだ、と。そんな仕分けになる。しかし、人が道路を横断するのは、信号が青になったことが原因ではない。ケガをしたくないという目的が先にあり、だから信号が青になってから渡るのだ。因果関係ではない。受験勉強、経営努力、全てそうである。だからと言って、人間の行為が非科学的であるとは言えない。

これでは本質に迫れない。 因果関係ではなく、目的論的に世界を観る方が理解が深くなる問題もあると考えるようになった。

そんな場合、科学ではなく、哲学が助けになるし、でなければ宗教的直観に基づく議論をする。これもまた、そもそもそんな議論をする属性が人間知性には最初から織り込まれていたからである。理屈はそうなる、というのが現在時点の小生の立場だ。