2022年12月31日土曜日

感想: 最悪の一年の大晦日を迎えて

今年は本当に「最悪の一年」だった。「コロナ禍、いまだ終わらず」に加えて、ロシアがしないでもすんだはずの戦争を友邦であるはずのウクライナを相手に始めたかと思えば、アメリカ(といわゆる西側陣営)もしないですんだはずの経済制裁に踏み切って、世界はインフレになった。金利は急上昇し、年明け後は景気後退が本格化、生活水準は低下するだろう。阿呆な我慢比べをして、多くの人命を犠牲にし続けている。これに中国のコロナ規制撤廃による感染大爆発が新たに加われば世界は大混乱である。

What silly guys! You stupid!!

為政者になるべきではない三流の人物が為政者として権限をふるっている。

これを「悲劇」と言わずして何と呼ぶか。いやあまりにテンポの速い悲劇は喜劇に変ずるというから、後の歴史家は<戦争喜劇>とでも呼ぶかもしれない。そんな状況でもなお、西側陣営はロシアを「戦争犯罪国」などと呼んでいる。おのれは無罪と言いたいのだろうが、今から「アリバイ」を気にしてどういうつもりかと呆れ果てる。

"Black! Black!! The Blackest Year!!! Get out, you, get out!!!!". まあ大部分の人にとってはこんな感想ではないだろうか ― 話題に困らなかったマスコミ業界はホクホクだったかもしれないが・・・、イヤイヤ、これは嫌味が過ぎた。申し訳ござらぬ。

先日の投稿にも書いたが、

株価は今年の春以降ずいぶん下がった。今年は寅年で「千里をかける」はずだったのだが、どうやら下り坂を疾風のように駆け下ったのが「虎は千里を走る」の意味であったようだ。

大体、《戦争とインフレ》は、古来、典型的な経済問題のワンペアである。これに財政破綻が加わると《悪魔のトライアングル 》になる。案外、日本辺りはまったく意識せずして、こんな状況に近づきつつあるのかも・・・イヤイヤ、日本は憲法9条で戦争行為は禁止しているので、そうなる理屈はない(はずだ)。


とはいえ、ともかくも

真っ白に 降りつもりたる 雪をかく

     ひとの声して としは過ぎゆく

尺雪や むかし思うて 朝寝坊

神棚と 仏ゆかしき 小つごもり 

この街に住んでもう永い年月が過ぎた。北海道に移住してきた時から歳も大分とった。来た当座は、昼まで家族連れで近くのスキー場で一滑りしてから、昼食を自宅でとり、午後の講義に合わせて登校し、授業後はまたPCを叩いて研究に没頭した。まるで<馬車馬>のようであった。いまは「やれ」と言われてもお断りだ。


下らないおのれの主義や主張を強弁する三流政治家を早く"Kick Out"して、和平と経済再生を成し遂げられる人物に登壇してほしいものだ。中国の習さん、世界中の期待を集めていたが、どうやら馬脚が見えちまったようだネエ・・・そして、誰もいなくなったか。情けない大晦日にござります。


2022年12月30日金曜日

断想: 「運命論」と「責任論」

 技術進歩や経済成長の加速・減速についても「人為的コントロールは不可能であり、なるべくしてなるもの」と考える「運命論」の観方があるくらいだ。歴史全体がどのように進んでいくかなど、一介の政治家や国民が望みどおりに決められるものではないという観方があって当然だろう。歴史はHow-Toで割り切れるものではない。「運命論」がなくならないのは正に当たり前である。

もし世界を運命論的に解釈するなら、人間社会のあらゆる結果は歴史の必然によるもの、個々人の立場に立てば「業(ごう)」が然らしめたもの、という観方になるので、当事者個々人に結果の責任を負わせるという思考にはなるはずがないわけだ。全ては「神のはからい」となり、人間に大事な行為は「責めること」ではなく、「許すこと」になる。日本の鎌倉仏教を開いた一人である親鸞が『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』と言ったのは、悪行を重ねる業(ごう)を負った悪人こそ憐れむべきであり、救済されるべきであるという主旨であり、この意味で「他力本願」の思想は「運命論」に分類される。

ずっと昔から《戦争》は戦われるべくして起きる避けがたい悲劇である、そう観られていたものだ。というより、すべて《悲劇》というのはそんなものである。誰でも悲劇の主人公にはなりたくはない。それでも悲劇が起きてしまうのは、それが避けがたいからであろう。戦争が人類にとって悲劇であるとすれば、やはり当事者には避けがたいからであるに違いない。実に、人間社会の行く末は神のみぞ知る。人智を超えた超越的存在を信じる立場に身を置けば、どうしてもこんな世界観になるはずだ。

もう何年も前になるが東京に住む一人の叔父が

〇〇君、本当に何事も思う通りにはいかないものだネエ・・・

と電話の向こうで話していたが、これが人の生きるこの世界の本質ではないだろうか?


正反対の世界観もある。例えば、中国の儒学は『怪力乱神を語らず』を鉄則にしている。理屈で説明できない現象、人間の普通の頭で理解できない存在は相手にしない。そんな世界観である。人間の感覚でとらえられない存在を否定するのは、自然科学が発展する中でにわかに18世紀・西欧で影響力をました《啓蒙主義》とも似通っていて、どちらも人間中心のヒューマニズムにつながる見方である。

啓蒙的な世界観に立てば、人間世界のことは人間本位で決めるべき事になる。真理や善悪の判別、何が美しいか醜いかといった「守るべき価値」も神が定めた規範というより人間が生み出すもの、人間が決めるものというロジックになる。

その果てに科学的社会主義が誕生し、毎日の生活や富の分配も自然に任せるのではなく、人間が最良の形で計画すれば理想的な社会を築くことが出来る、と。そんな思考にまで発展していくのは、啓蒙主義的に世界を考えているからである。

この啓蒙主義的世界観、これに加えて超越的存在に否定的な儒教的世界観もそうだが、その時に生きて活動している人間を中心に社会の出来事を観るが故に、戦争は必然的に発生したものではなく、誰かが主体的に選択した人間の行為であると解釈することになる。更に、全て社会的な現象は避けがたい結果ではなく、賢明な政策によって改善されうるものである、と。こんな風に思考することになる。そして、こんな世界観によれば、戦争には「戦犯」が必ず存在することになり、その戦犯が戦争を決意したと解釈するのであり、ロジックとしては戦争犯罪の認定から刑罰の確定、こんな手順に沿うべきである、と。マア、こういう《責任論》が盛んに論じられるという帰結になるわけだ。


少なくとも現代世界で支配的な世界観は、17世紀以降の西欧市民革命の精神をそのまま継承するような、科学と理性に信頼を置く啓蒙主義の潮流にあるのだろうと思っているのだが、実はこう考える立場は一方の極端を占めるもので、正反対の世界観から出発して物事を判断している人たちは、今でも現代世界において予想以上に多くいるのではないか。そう思うのだ、な。

多くの人たちがもっている思考や価値を下らないものとして軽視するのは傲慢というものだ。


《人類の知》は、(バートランド・ラッセルが整理したように)科学の反対側に宗教があり、両者を介在するポジションに哲学がある。西欧と北米では(あるいは日本も?)啓蒙的な思想が濃厚であるが、その基盤には科学がある。科学はなるほど人類に《豊かな社会》をもたらしてきた。厳しい肉体労働から人間を解放し、長寿社会をもたらした。しかし、長寿は必ずしも幸福を約束しないだろう。科学は必ずしも《幸福》をもたらすわけではない。

人類社会に最も重要な価値は《豊かさ》というより《幸福》であるのは自明だと思っている。

いま、ロシア=ウクライナ戦争をめぐって、ロシアの「戦争犯罪」を追及する欧米の姿勢がよく伝えられているが、これまた極端な観点に立った見方だと小生は考えているし、これが極端な見方であることを意識しないことはもっと恐ろしい、というのは最初から本ブログにも投稿している観点でもあるのでこれ以上書く必要はない。

2022年12月29日木曜日

メモ: 景気先行き警戒高まる? そんなことは前から分かっていたことだ

 日経にアンケート調査結果が載っていた:

アンケートは国内主要企業の社長(会長などを含む)を対象にほぼ3カ月に1回実施。今回は12月2~16日に行い、145社から回答を得た。

世界景気の現状認識は「悪化」「緩やかに悪化」の合計が36.5%と9月の前回調査(31.1%)から約5ポイント増えた。一方「拡大」「緩やかに拡大」の合計は11.7%で同約4ポイント減った。

Source:2022年12月28日 0:00 (2022年12月28日 5:46更新)

世界景気が「悪化するだろう」、あるいは「悪化している」というのは(多くの人が知っているはずの?)当たり前の事実で、この程度のことは経済データをフォローしていれば、ずっと前から明瞭になっていた。

例えば、OECDが毎月公表しているLeadding Economic Indicatorを各国別にみると下図のようになっている:

URL:https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/get_draw_oecd_lei/

図は、OECDが公表している先行指数から英米独仏日の5か国についてプロットしたものだ。

これをみると、昨年秋をピークにして先行指数は各国共通で下降している。データは先行性をもつから、半年ないし1年以内の景気悪化の可能性を告げている。本年2月に始まった「ウクライナ戦争」と経済制裁による混乱は経済状況悪化をより酷いものにしたにすぎない。

2022年の年末にさしかって「世界景気は現に悪化してきた」と経営者が判断しているのは、既に予見されていたことであり、驚くには当たらない。

ただ、図の中で日本だけは景気悪化の度合いが緩やかである。もちろんこれは本年春以降に急速に進んだ《円安》のプラス効果によるものだ。

米・FRBは《インフレとの戦い》を止めないと明言している。

いい加減にしないとドン・キホーテの対インフレ戦争版になりますゼ

と。そろそろこんなことを言われ始めているようだ。

経済政策にも確固たる戦略と、その戦略の最終目的は何かという理念が大切ということだ。

2022年12月25日日曜日

断想: ずっとある変わらない問題といま流行している問題と

ちょうど100年前になる1922年の日本を『現代日本経済史年表』で確かめてみると、2月6日にワシントン条約が調印されている。

第一次世界大戦後の国際外交関係を方向付けたいわゆる《ワシントン体制》は、ここから始まるのだが、主たる潮流は《軍縮》であった。特に海軍軍縮は各国の財政再建にもつながる最重要な国際的課題だった。国際連盟の常任理事国となった日本が「協調外交」を進めたのもこの「ワシントン体制」の枠組みを尊重したからだ。ただ、ワシントン条約の影響で日本国内の造船業は大打撃を蒙ることになり、上の『年表』にも「造船業界、海軍軍縮により大打撃を受ける。以後1932年まで不況』と説明が付記されている。また、英米に比べて相対的劣位を強いられるようになった帝国海軍に不満を残した点も後々の火種になった。その意味では、1922年という年は日本の針路を決める歴史的分岐点でもあったのだ。

その5日前の2月1日には明治初めから一貫して「帝国日本」のあり方を設計してきた山縣有朋が死去している。また前年、1921年11月4日には明治末期から大正にかけて日本の政治を主導した政友会の原敬首相が東京駅頭で暗殺されている ― 本年7月の安倍晋三元首相の暗殺事件といい、この辺り何だか非常に重要な歴史的分岐点にさしかかるタイミングで、悲劇的な暗殺事件によって中心的政治家を失うという日本の悲運を感じる。原といい、山縣といい、日本国の針路を決める船長を失い、その1ランク下の部下が指導者になって、難しい時代を漂流するように進む感覚がそのまま昭和時代にまで受け継がれていったのかもしれない。

1922年7月15日には「日本共産党」が結成され、それに対抗したのかもしれないが、8月1日には「日本経済連盟」が設立されている。「ブルジョア vs プロレタリアート」、つまり「財界と左翼」というべき、今に至る左右対立構造がちょうど100年前の日本で視覚化され、庶民の目にも明らかになったわけだ。いわゆる《大正デモクラシー》を象徴する出来事である。

そして、1922年の翌年、1923年は関東大震災が首都を襲った年である。明治維新で戦火を免れた東京の街は焼亡し、時代は明治・大正から昭和へと一気に変容する区切りとなった。

前の投稿で江藤淳『漱石とその時代』から一つ引用したのだが、パラパラとページをめくると興味を魅かれた箇所には傍線を引いていて、どことなく自分史を振り返るような思いがする。

そんな中で忘れていた一か所(―句読点、送り仮名など、適宜、書き換えている):

国運の進歩の財源にあるは申すまでもこれなく候へば、お申し越しの如く、財政整理と外国貿易とは目下の急務と存じ候(そうろう)。同時に、国運の進歩は、この財源をいかに使用するかに帰着致し候。

ただ己のみを考ふる数多の人間に万金を与へ候とも、ただ財産の不平均より国歩の艱難を生ずる虞(おそれ)あるのみと存じ候。

欧州今日文明の失敗は、明らかに貧富の懸隔甚だしきに基因致し候。この不平均は幾多有為の人材を年々餓死せしめ、凍死せしめ、もしくは無教育に終わらしめ、却って平凡なる金持ちをして愚なる主張を実行せしめる傾きなくやと存じ候。

明治35年3月15日付け、岳父・中根重一宛ての書簡でこう書いている。西暦なら1902年。日英同盟が締結された年にあたる。

この時代、大蔵省でも内務省勤務でもない一介の英文学専攻の研究者である夏目金之助(漱石)が、この専攻、この年齢で、財政整理(=財政健全化)と外国貿易(=おそらく外貨蓄積を指す)とが国家運営の勘所であることを理解し、限られた財源から毎年の歳出をどうするかが最重要だと認識できているのは驚きだ。やはり(同時代の人には周知のことだったろうが)漱石なる人物は単なる「小説作家」とは言えない。

「財産の不平均」は、所得・資産分配の不平等を指しており、この分配不平等が生活困窮、教育の遅れなどを通じて、高級な問題を担当するべき有能な人材の枯渇をもたらし、結果として富裕階層出身の平凡な子弟が大事な仕事を担当する。そういうシステムが社会に定着してしまう……こんなことまで指摘している ― 本当にこのような因果関係があったのかどうかはデータに基づいたキチンとした実証的検証が必要だが、その可能性を指摘できているのは単なる英文学者には出来ない話だ。それにしても

結局、日本社会の問題というのは、明治の昔から、というより江戸の昔から変わらないんだネエ

と改めて確かめられる次第。それと、夏目金之助は、小説作家・漱石というよりは、海外事情にも通じた有識者・夏目金之助であった、ということだ。

そんな夏目漱石であっても、「ジェンダーフリー」という言葉や「LGBTQ」などという言葉は、現実にあった人間の行為はともかく、こんな単語を目にすることはなかったに違いない。

その逆にあたるが、明治の人・漱石が現代日本人は聞いたことがないような明治という時代に特有の感覚で言葉を尽くすことは多かった。例えば、現代日本では消滅してしまった「家」の濃密さやその面倒臭さなどはその好例だろう。晩年の傑作『道草』などは全編そんな類の悩みで作品が成り立ってしまっている。

そういう時代の違いを意識させる点が多々あるものの、漱石の作品が現代日本人にも(比較的)分かりやすいのは、島崎藤村のように明治時代に特有の問題を作品で扱ったわけではなく、今でもあるような普遍的な問題をテーマとしているためだ。それでも、『それから』から『門』にかけての主人公夫婦が、<たかが不倫くらいで?>何故あれ程まで世間から隠れるように生きなければならないのか、現代日本人には(正直)ピンと来ない所がある、そう感じる人も多いのではないだろうか。漱石の倫理観と言えばそれまでだが、彼の生きた時代には妾(=愛人)を複数もつ大物も珍しくはなかったのである。明治という時代に特有の生活感情を自分にとってのリアリティだと理解しながら、なおかつ漱石の倫理観を共有するのは考える以上に難しいものだ。

つまり、問題意識とは時代とともに変わっていくものだ。何が大事な問題であるかは、そもそも世代によって異なる。

話しは戻るが、漱石が言ったのと同じ問題が現代日本にも観られるとすれば、それはずっと解決できていないからである。でなければ、敗戦と高度成長で一度はリセットされたものの再び同じような社会状況が現れてきたからだ。それは「そうなってもよい」と日本人が実は思っているからだ。そうでなければ、所得や資産に関係なく才能のある人材が公費に支えられて教育を受け、有能な人材となり、海外にも公費で派遣されて、経験を積み重ねてからは国会議員に選ばれたり、官公庁、民間企業、その他でも大きな仕事を担当しているはずである。そんな社会であるべきだと、与野党を問わず、実現のために努力をしているはずであるし、マスコミも取り上げ続けるはずである。

それが今になっても出来ていないとすれば、カネがないからでも、資源がないからでもない。日本人にその気がないからだ。そう考えざるを得ないではないか。

もう何度も指摘されたことながら、結局は「ヒトの問題」である。つまり「われわれ自身の問題」だというわけだ。

ジェンダーフリーという問題は漱石が生きた時代にはなかった問題意識である。ということは、少なくとも時代を超えた普遍的な問題ではなかったと言える。

古い問題は解決するのが難しい。人類がいくら考えても回答が得られないという点で解決困難なのだ。

こういう問題と上にあげた「ジェンダーフリー」や「LGBTQ」といった問題とは性質が違う。これらは新しく意識されてきた問題である。人の外見に基づいて判断する「ルッキズム」からの脱却などもそうだ。

どれも100年前の漱石が聞けば、問題の存在自体に驚くだろう。

100年後の世間じゃ、そんな話になっているんで……、やっぱりあれだネエ、100年もたてば世の中変わるってことですネエ。想像もできない。

とでも言うだろうか。

上のどれもが、人類始まって以来、初めて問題化されている。

ただ、どうなのだろう・・・と、(小生、へそ曲がりなもので)疑わしい気持ちにもなる。

男性と女性は人類発祥以来、というより多くの生物種の誕生以来、ずっと存在してきた個体差である。その中で、人間社会における両性の処遇が同じではないという、その《同じではない》ということ自体が、人間社会にとって極めて大きな問題なのだというのは考察の自由に属するが、本当にそれが人類にとっての問題であれば、人類史を通して既に性差に基づく役割の違いはあったのだから、とっくの昔から同じ問題について議論され続けてきたはずだ。しかし、文字が発明され、文芸が始まってから残されてきた人文的資料に基づく限り、ジェンダーフリーという問題意識は具体的な形をとって残されていないと、小生は理解している。これが実証的観点というものだろう。

つまり純粋に新しい問題提起だと思うのだ、な。純粋に新しいということに着目すると「問題」というより、現代という時代を彩る服装や料理、味付けといった「流行」、固く言うと「風俗」により近いのではないかと観ているのだ。


統計分析の世界では、<ビッグデータ>を分析することによって<新しい知>が獲得できると、よく言われるのだが、膨大なデータを観察して初めて確認できるような細かな違いが、実は極めて重要であるということはあるのだろうか?

確かに<ビッグデータ>は流行の真っ盛りだが、こんな問題意識はそもそもの最初からある。

それほど大きな意味がある、重要な発見であるなら、今になって初めて気がつくってことがあるんでしょうか?検証はともかく、予想なり、仮説なりの形で人間は気が付いていたはずではないか。これまでの人間は、まったくのお馬鹿さんだったわけですか?

そういうことであって、最近になって登場した新しい問題提起もこれと似た面がある。


ごく最近になってから初めて気が付いた問題点は、そもそも大した問題ではないのではないか、と。

もちろん科学技術知識は単調に増大するので、自然界については真の意味で《発見》というものがある。しかし、人間社会はずっと昔からあるわけで(マア、ずっとあるのは自然界もおなじであるが)、社会があるなら愛憎や財産相続、強者と弱者の違い、更には政治や経済、宗教や迷信、伝説もあったはずだ。人間社会に<発見>などという「いま初めて分かる事」など残っているのだろうか?何しろ、自分たちに関する事だ。自分たちの傾向など、とっくに気が付いているはずではないか ― 世間に疎い専門家は別として(?)。

やはりどうせ考えるなら、解明は難しくとも、古くからずっと人間が考え続けてきた問題に取り組みたいものだ。

【加筆】2022-12-27、12-28






2022年12月21日水曜日

一言メモ: アメリカFRBの金利引き上げは続くのだろうか?

アメリカの金融当局であるFRBが《インフレと戦う騎士》よろしく、今春以降果敢に進めてきた《攻撃的金利引上げ政策》、12月には引き上げ幅を縮小するものの、より高い金利ピーク値に向けて今後も「上げスタンス」は(断固として)継続する姿勢を鮮明化してきている。


この点に関連して、少し前にこんな投稿をしている。タイトルは『ホンノ一言: 景気後退が見えてきたのは政策的には明るい兆しかも』。

株価は半年程度の先行性をもつ。景気上昇のピークが見えず、金利が上がり始めれば株価は現実に下がり始める。逆に、景気後退が予見され、金利低下局面が見えて来れば株価は上がり始める。

株価は今年の春以降ずいぶん下がった。今年は寅年で「千里をかける」はずだったのだが、どうやら下り坂を疾風のように駆け下ったのが「虎は千里を走る」の意味であったようだ。

ところがまだ株価は上がり始めない。金利ピーク感が中々見えてこないからだ。

先日のWall Street Journalにはこんな記事があった:

 米連邦準備制度理事会(FRB)が信頼性の問題を抱えている。FRBは「利上げの継続」、「5%超までの利上げ」、「少なくとも来年末まではその水準で維持」という三つのことを市場に信じさせようとしているが、投資家は三つ目を完全に拒絶している。

URL: https://jp.wsj.com/articles/the-markets-dont-believe-the-fed-11671177198

Source: WSJ, 2022 年 12 月 16 日 16:54 JST

具体的には、FRB当局とNY市場に集まる投資家の見通しに乖離している:

インフレ抑制を目指すFRBにとってはさらに悪いことに、投資家が利下げについて、開始時期は政策当局の見解よりも早く、スピードはそれよりもずっと速くなると考えている。市場が正しければ、政策金利は2023年夏のピークから24年末までに約2ポイント低下することになる。

 FRBは14日、政策金利のピーク水準の見通しを引き上げ、ピーク後の引き下げ幅をより緩やかにすることを示唆した。これを受けて株価は下落し、米国債利回りは一時的に上昇した。それでもまだ市場が政策当局に同意しているとは言い難い。

URL: 同上


FRBが親共和党のスタンスをとれば傾向としてWall Streetと親和的になる。反対に、親民主党のスタンスをとればFRBは投資家の期待よりは一般勤労者世帯の経済に配慮する傾向が出てくる。一般勤労者世帯の経済とは「暮らし向き」のことである。従って、親民主党的な金融政策は、基本目標として雇用重視、賃金重視になる理屈である。故に、親民主党的なスタンスをとれば「景気後退」は最も忌むべきリスクとなる。これが基本的なロジックだった。


いま現在のFRBは投資家の思惑と溝を深めつつある。しかし、民主党に近いと目される経済学者達とも何だか見解を異にしつつあるようだ。

たとえば、クルーグマンはThe New York Timesにこんな見方を伝えている:

 So where are we on the inflation fight? Until recently it was clear that overall spending was rising too fast to be consistent with low inflation, and my superdupercore measure suggests that this may still be true. I certainly understand why the Fed isn’t ready to declare victory yet.

But given the absence of evidence that inflation is getting entrenched, victory may be a lot closer than many people imagine.

FRBはインフレとの戦いに勝利することを最優先の目標に掲げている ― インフレが庶民の暮らしを直撃する点は間違いない。このこと自体に反対してはいないが、しかし、予想よりも早いタイミングで現在のインフレ・ファイター姿勢から方針転換するのではないかと期待している。そんなモヤモヤした心情が伝わってくる書きぶりではないか。

KrugmanはBlanchardと同様、<インフレ2%目標>にも疑念を明らかにしており、むしろ物価上昇率が4%まで低下すれば、その状態が望ましいとも(別のNYTコラム記事で)述べている。

スティグリッツはもっと過激で、金融引き締め(=金利引き上げ)に軸足を置いた経済政策自体を批判している。

Let us return to the big policy question at hand. Will higher interest rates increase the supply of chips for cars, or the supply of oil (somehow persuading MBS to supply more)? Will they lower the price of food, other than by reducing global incomes so much that people pare their diets? Of course not. On the contrary, higher interest rates make it even more difficult to mobilise investments that could alleviate supply shortages. And as the Roosevelt report and my earlier Brookings Institution report with Anton Korinek show, there are many other ways that higher interest rates may exacerbate inflationary pressures.

Well-directed fiscal policies and other, more finely tuned measures have a better chance of taming today’s inflation than do blunt, potentially counterproductive monetary policies. The appropriate response to high food prices, for example, is to reverse a decades-old agricultural price-support policy that pays farmers not to produce, when they should be encouraged to produce more.

URL:  https://www.theguardian.com/business/2022/dec/09/raising-interest-rates-inflation-central-banks-recession

Source:  The Gurardian, Project Syndicate

Date:  Fri 9 Dec 2022 14.02 GMT

このように、足元のインフレーションの発生原因がサプライ側にある点を考えると、金利引き上げによってインフレ抑制を図るのは愚策であり、コロナ禍に対応した大盤振る舞いの後の収拾段階として財政を引き締める方策が最良であった、と。金融政策ではなく財政政策が現在のインフレ抑制には効果的である、と。<攻撃的金利引き上げ>は即刻止めるのが正解だ、と。こんな風に論じている ― 「正論」という点ではこちらが正論であると、小生も同感だ。

最初に引用した投稿の最後に

どちらにしても、来年になってまだ金利を上げるようなら「バカじゃないか」という声が増えそうである。

こう書き足しているのだが、どうも現状をみると、果たしてこんな風に展開しそうになって来た。


財政政策はバイデン政権の判断を待つしかない。大盤振る舞いが好きなのは民主党政権の傾向でもある。その民主党に親和的なスティグリッツが財政引き締めを提案しているのは、非常に興味深いところだ。

・・・となると、現在のFRB当局は基本的にどんなスタンスをとっているということなのか?

親共和党的ではない。かといって、親民主党的とも言えないようだ。アカデミック・サイドの経済学者の見方ともずれて来ているようだ。誰の影響を一番受けているのだろう?FRB部内で共有されている《経験知》、誰の見解とも言えない《集合知》が働いている、ということなのだろうか?




2022年12月15日木曜日

一言メモ: 防衛費倍増論議と日露戦争前の夏目漱石宅の家計について

国際公約、というより対米公約にも近いような「防衛費倍増方針」。案の定、年末にさしかかり大揺れに揺れている。

小生は何度も書いているが、相当のへそ曲がりなので、「防衛費」という呼称そのものに臭気紛々たる「偽善者臭」を覚え、ずっと前から嫌悪感を感じている。

防衛費で調達する中身は、つまりは「軍事費」である。防衛費ではなく「軍事費」でしょ、と。「正直にそう呼んだらイイのに」と昔からずっと感じている。

マ、そう呼べない理由は分かっている。憲法上、日本には「軍」がいないからだ。軍がないので「軍事費」も言葉の定義上、計上できない。まったく理屈をこねるのもホドホドにしたほうがイイ。「プーチンの戦争」がロシアでは「特別軍事作戦」と呼ばれているのとドチコチである。

『わかるこの理屈?』と誰かに聞いたみたいのだが、余りに露骨で場を白けさせてしまいそうで一度も話題にしたことがない。が、小中学生に話しても訳が分からんだろうナアと思っている。「軍事費」と「防衛費」は違うんだよ、これ大事なんだよ、と言ってもネエ・・・ということだ。

「戦争」を「戦争」と率直に呼ぶのは良心の第一歩であろう。「軍事費」を「軍事費」だと認識し、そう呼ぶのも良心の第一歩だ。交通事故を起こせば「事故」であって「運転ミス」だと胡麻化してはいけない。


軍事費が倍増されるとする。他の歳出を削減して予算総額では概ね同規模であれば、それはそれで既にビルトインされた歳出があるので調整は困難を極めるだろうが、それが出来るとと仮定すればマクロのバランスはとれる。ここでは、調整ができず軍事費増加分だけ予算が増える結果になると前提して、その経済的波及をどのように見込むかをメモしておこう:

  1. 総供給と総需要のマクロ・バランスを考えると、総需要は軍事費が増加する分、増加する。故に、総供給が同額だけ増えなければならない。総供給は国内生産(=GDP)と海外生産物の輸入の二つから構成される。
  2. ところで、現在の日本経済は一部で人出不足が顕著ではあるが、名目GDP比で0.5%ないし2.5%程度のGDPギャップがある。金額にすると、4兆円から15兆円といったオーダーである ― 数字の差は政府と日銀と推計主体の違いによる。
  3. GDPギャップ内であれば国内供給を増やして軍事費増額に対応できる。が、これを超える分は需要超過になる。その超過分は輸入増加で調達するか、インフレで吸収されるかだ。というより、そもそも日本の防衛産業は弱体なので防衛関連品目の多くを(主にアメリカから)輸入している ― 高額なミサイル、航空機などはその典型である。
  4. 軍事費増額で完全雇用の壁に突き当たり、国内需要を圧迫すると、インフレを招くのに加えて、国内金利を上昇させ、民間設備投資を抑え、結果として経済成長を阻害する。他方、輸入が増加すれば、供給は確保されるが、貿易収支・経常収支を悪化させる。経常収支悪化は円安要因であるが、国内金利上昇は円高要因であるので、最終結果として円安に振れるか、円高になるかは不確定だ。
  5. いずれにせよ、軍事費増加は日本全体の貯蓄投資差額を投資超過の方向へ悪化させる。これ自体は貯蓄超過体質の日本にとっては悪くはない。が、経常収支は悪化する。今の日本の防衛産業の現状をみれば、ほぼ確実に国際収支を悪化させるはずだ。
  6. 最近、国際商品市況の高騰などから経常収支の赤字月が時折発生している。更にそれが悪化すると、日本の経常収支は概ね均衡圏内に止まるようになるのではないかと予想する。<経常黒字日本>は過去の話になる可能性が高い。
  7. 他方、日本では今後にかけて多額のIT投資、DX投資など生産性向上へ向けて民間投資を増やさなければならない。足元の民間投資増加はその兆しであるかもしれない。とすると、経常収支赤字が定着する可能性がある。高齢化の進行と家計貯蓄の減少も経常収支赤字拡大の要因だ。それでなくとも軍備拡大と国際収支赤字は経済危機に至る王道なのである。
  8. 国際収支赤字に悩んでいた頃の記憶は日本人から薄れている。それが現実に再び赤字傾向になると、英米と同じ道とはいえ、日本社会はアタフタするに違いない。『いつまでも あると思うな 親とカネ』。念頭に置いておくべきだ。
  9. 経常赤字下でマクロ・バランスをとるためには、対外資産を取り崩すか、海外の対日投資を増やすかの二つの道があるだけだ。しかし、対外資産には残高の限界がある。なので、経常赤字体質を可能にするのは資本収支黒字を定着させる道が唯一の選択肢だ。
  10. 経常赤字・資本黒字を長期的に続けるのは一つの戦略ではある。日本も目指すべきだと(個人的に)考えているが、国際通貨ドルを持っているアメリカなら可能だが、今日のイギリスが同じことをしようとして酷い失敗を演じた事も忘れてはならない。何も変えたくない国民心理が原因になっている「日本病」を本気で治療する切所に直面するであろう。戦時でもなく、平時において、財政危機、為替危機、国際収支危機に陥れば『無能な日本政府』という評価、というより事実「無能」であるわけなのだが、そんな評価が世界に定着するに違いない。いわゆる<日本のギリシア化>である。
  11. 故に、軍事費倍増の負担に日本経済が耐えられるかどうかについては、あまり甘く考えない方がよい。最悪の場合、生産性が向上しない中で、経常収支赤字が定着し、円暴落、国債相場暴落、株価暴落という悪夢がひき起こされる可能性もゼロではない。
  12. その悪夢を避けるには、軍事費倍増の一方で増税を断行し、財政規律の維持に目を配る姿勢を見せるのは、手堅い定石であるとも言える。増税によって消費が抑制されるが対外赤字を抑えるには仕方がない。と言って、その姿勢を過剰に示すと、マクロ経済バランスは保たれるものの、民間投資までをも圧迫してしまい、経済成長が停滞、民間部門の生産性向上が停滞する。そうなると、ソ連末期のように過大な軍備費の重みに耐えかねて国民経済が潰れてしまうことになる。
  13. 以上を考えると、民間部門をなるべく圧迫しない方策を併せて実施しながら、増税を進め健全財政にも配慮するという政策が最も穏当なところだ。企業部門の内部留保が巨額に膨らんでいることに目を向け、対家計増税を最小限にとどめる一方で、企業負担を高めるのと同時に投資減税も並行して進めることが必要だ。
  14. 軍備拡大と国内産業の成長戦略とが両立するように、日本版軍産複合体を育成する政策も不可欠だ。最も下手な政策は、増税で消費を抑えつつ、調達はほとんどアメリカからの輸入となり、結果として経済成長どころか国際収支は悪化、かつマイナス成長になるというケースだ。これでは『日本国の政治家としては失格』と言われても仕方がないというものだ。こうならないことを祈るばかりだ。
まあ、こんな大筋で物事が進んでいくのではないかと予測している。

軍事費増額の経済的帰結は経済学を勉強した者にとってはそれほど難しい設問ではない。みな似たような見通しをしているに違いない。


それにしても、こんな報道を聞いていると、江藤淳『漱石とその時代』のある下りを思い出してしまう。第2部。旧制・五高の教頭心得に昇進していた夏目漱石が文部省から英国留学を命じられ留守を守る家族のやりくりが述べられている第3章の中の一部である:
年額300円の留守宅手当は月割りにすると25円にしかならず、さらにそこから1割の建艦費2円50銭を差っ引かれると手取りは22円50銭にとどまった。これに加えて、年額3円の所得税があるので、実際の月収は22円25銭にすぎぬことになる。

わざわざ年収を月割りで計算しているが、年収300円に対して、所得税が3円、 建艦費が所得税の10倍である30円というわけである。現代日本の常識からみると、かなりの驚きではないだろうか?

所得税3円、建艦費30円!

夏目漱石まで軍艦建造に協力していたのだ。

上で「建艦費」というのは「製艦費」のことである。ネットで調べてみると、

製艦費は軍備保持のために明治天皇が内延費と官僚らの俸給の一部を軍艦製造費に充てるという勅命に使われた言葉です。

というもので、具体的には

〇『議会制度百年史 資料編』 衆議院 参議院/編集 大蔵省印刷局 1990年

  p.578 「第4回帝国議会(通常会)」の項あり
  明治二十六年(一八九三)2・10
  「天皇、軍備の充実を国家の急務とし、六年間内廷費を節約し、文武官僚の俸給の十分の一を納付させ、製艦費に充てる旨の詔勅を賜う」との記載あり。

という解説がある。

URL:https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000305313

Source:  レファレンス協同データベース

日清戦争から日露戦争にかけて日本が達成するべき政策課題は《海軍力増強》であった。そのために、明治天皇は皇室から資金を提供すると同時に、官僚に支給する俸給から10%を軍艦建造協力金として天引きするよう指示したのである。

もちろん、いざ日露戦争が勃発した後の《戦費》を外債によったことは、高橋是清やユダヤ系金融資本家ジェイコブ・シフの名とともに有名な歴史の一コマになっている。

明治政府は権威的で、現代の日本人の目には非民主主義的ではあったろうが、選択した政策は雄々しく、立派で、王道を行っていたと、改めて思う。


それにしても所得税支払額の10倍の金額を軍艦建造協力金として差し出すとは…といっても、所得税は明治20年になって導入されたばかりの新税であり、漱石が英国に留学した明治33年(1900年)当時、課税対象は年収300円以上の所得がある世帯のみであり、漱石は辛うじて最低限に引っかかり税率1%が適用されたわけだった。ちなみにその当時の所得税も累進税率とはいえ、最高税率3%が適用されるのは年収3万円以上世帯であり、納税世帯は全世帯の内の1.5%であるから、所得税を納めていること自体が「エリートの証明」でもあった。今流の言葉で言えば

夏目漱石は「上級国民」であった

と言われる社会的地位にいたのかもしれない ― 境遇はとてもそう思うものではなかったが。それにつけてもこう書いてみると、やはり「品がなくて、下らないナ」と思ってしまう語法である。

所得税云々はメモ代わりに付け加えておいたのだが、江藤淳の記述を読む限り、地方税もなく、年金・医療の社会保険料もない。社会保険料がないのは制度自体がないので当然だが、地方税は納めなくともよかったのか?まあ、中央集権で地方自治ではなかったので地方税はなくともよいのだということかもしれないが、財政史が専門ではないので、詳細は調べてみないと不明である。

それにつけても思うのは、

日本の上層部は、ホント、憲法の条文を守ろうという姿勢が希薄なんだネエ

改めてそんな印象をもちます。与党も野党も《護憲》なんてスピリットはない。

このことは今月初めに投稿したことがある:

気分としては自分もまったく同じですけど、今の憲法でそれが出来るんですか?やるならやるで、先に憲法を書き直しておかないと、全体がウソになりますゼ・・・

それがいつの間にか『反撃する権利?そんなのあるに決まってるでしょ!』と言わんばかりの論調になってきた。メディアは何も言わない。「集団的自衛権」ではあれほどまで大揉めにもめて大層な論議になったのである。2014年のことである。まだ8年しか経っていない。その時の「集団的自衛権」こそ小生は当たり前のことだと思っていた。それが今は「敵基地を先制攻撃しても憲法上認められるのだ」と、それは「反撃」なのだと、反撃は「自衛」なのだと。小生には「自衛」ではあるが、普通の意味で「戦争」であるように思われる。『そうなんですか!日本国憲法は普通に戦争をすることを禁じていたわけではなかったのか。いやあ法学部を出たわけではないので知りませんでした』、と。それで、マスコミも野党も憲法学者も静まり返っているのか、と。

日本社会は異様である。そう感じる。

まあ、アメリカはウェルカムだろう。アメリカの国益には適うからだ。

アメリカが認める日本の軍事行動は、戦争ではなく、日本国憲法とは矛盾しないのだ。

そんな戦後日本体制の本質中の本質がかいまみえるような気がするネエ ― まあ、現行憲法はアメリカが作ったようなものであるから、自然なあり方でもあるわけだ。日本の最高裁でも国会でもなく、アメリカが「合憲」だと言えば「合憲だ」ということか・・・これも仕方がないナア。これが《戦後日本体制》と言われればそうなのかもしれない。『かもしれない、じゃあない、そうなんだ』と言われそうだが。

しかし

そうしたいってのは分かるけどネ、やっぱり理屈が通らないと思うけどナア

と、首をかしげる小生は根っからの《KY》であるのだろう。

が、いまの世間をみていると逆に『こんな時代になっても何も言わないのが賢いってことなら、イヤイヤ、まだKYの方がスッキリすらあ・・・』と斜交いに構えたくなります。

いよいよ偏屈になって来たのかもしれない。これまた《ジェネレーション・ギャップ》というべきか。

【加筆】2022-12-16、12‐17




2022年12月14日水曜日

雑感二つ: 同性婚とWEBスキルについて

 1 同性婚

アメリカでは同性婚を選ぶ人の権利保護が制度化された。

【ワシントン=芦塚智子】バイデン米大統領は13日、同性婚の権利を保障する法案に署名し、同法が成立した。バイデン氏はホワイトハウス南庭で開いた署名式で「愛は愛、権利は権利、正義は正義、というのが米国の基本的な理念だ」と強調した。

バイデン氏は「結婚できても、同性愛者であることを理由にレストランを追い出されれば、それは間違っている」と指摘し、職場や公共の場、学校などでのLGBTQ(性的少数者)への差別を禁止する「平等法案」の可決を議会に訴えた。

Source:日本経済新聞、 2022年12月14日 7:37 

リベラルな民主党政権の面目躍如だ。確かに、すべてがダメなわけじゃあない。

日本においても、選ぶ人生がどんな人生であっても、他の人の迷惑にならないのであれば、権利を保護する、差別を禁じる、そんな社会であってほしいと願う。少数者が少数であるが故に、肩身の狭い思いをしながら生きるよう圧力をかけられる。どうみても、こんな社会は改善されなくちゃダメでしょう、と。そう全面的に賛成する。

あとは言葉の定義だと思っている。「婚姻」を人生の伴侶の選択と解釈すれば、どんな人と一緒に生きていくかは、個人個人の自由意志に任せるべきであって、男女一人が「夫婦」となって家庭を設け、生きていかなければならないと、人の生き方を「政府」や「法律」が決める筋合いはない。

一方、「婚姻」を生殖・出産・育児という生物学的な世代交代を促す「社会的安定化システム」と解釈するなら、同性婚を「婚姻」と呼ぶのは正しい言葉づかいではない。

同性婚の権利保護という背後には、一夫一婦という従来型の人生モデルが変容しつつある流れがあるのだと思っている。『人間、そもそもどう生きるかは、当人たちの自由でしょ』という感覚がこのレベルにまで浸透すると、社会の在り方は相当変わっていくと予想される。

将来にかけて、このことがどう社会を変えていくかは、コントロールできまい。戦争と平和もそうだ。望む通りにはコントロールできない。同様に、家庭のあり方、文化のあり方、宗教のあり方は、人、政府、社会の意志を超えて変化していくものである ― 「変化」というより「進化」と呼ぶべきだというのが本来のリベラル的世界観であろう。

そうそう・・・思いついたので将来予測、というより危惧される可能性を一つ:

生物学的世代交代から切り離して婚姻を認めるなら、なにも同性2人に限定する必要はないのではないか。同性3人が婚姻をして家族になることも可能ではないか。一夫多妻制を認める国が現在もある中で、同性3人の婚姻は不可能だという「先験的根拠」はあるのだろうか?あるいは、3人の場合は一人が「夫」、一人が「妻」、3人目は「長子」という風にあくまでも従来型の「核家族」を模したポジションを決めさせて「婚姻」と「子」を同時申請させるのだろうか?…いや、いや、21世紀というのは中々面白い時代になってきたものである。


2 IT技術

カミさんが大手小売り企業のWEBアプリをスマホにインストールし、アカウントを開こうとしたところ、パスワードを設定する段階で1文字打つと

このパスワードは使えません

こんなメッセージが出て、小生に「ちょっと見て」と。

みると、パスワードは半角英数字で、大文字、小文字、数字のすべてを混ぜることと、普通の注意が書かれてある。そこで半角モードにして大文字の"Y"を打つと、果たして

このパスワードは使えません

と出る。

こんなメッセージはあまり見ないネエ。普通は、パスワードは全て半角にしてくださいとか、全角文字は使えませんとか、具体的にユーザーのミスを指摘するんだよね・・・こう言いながら、何度か反復しても、やはり駄目である。パスワードの1文字も受け付けないのは、珍しい。理由も不明だ。

駄目だな、このサイトは。これ以上、つきあう必要はないな。これまでもナシでやって来たんだから、無理に始める必要もないんじゃない?

これで終わりとなった。

この大手企業ばかりではなく、デパート業界、製造業の通販サイトなども含めて、日本国内のWEBサイトは、一般的にセンスが悪くて、作り込みが低レベル、かつ視覚的にも映えないサイトが多い ― この点は多くの人が同感してくれると思う。

どこもかしこもAmazon.comや楽天市場のように使いやすく、かゆい所まで配慮の行き届いたサイトを設計してほしいとは思わない。が、アカウントを開く段階で『駄目だな、このサイトは』と言われてしまうようでは、お先真っ暗と言うべきかもしれない。

理由はただ一つ。ITエンジニアの不足。人材不足にある。ビジネスにおいて目指す成果が得られない場合、その失敗の原因は《四つのM》にある、というのは品質管理の鉄則だ。それはMan(ヒト)、Machine(設備)、Material(資機材)、Method(方法)である。IT化の潮流がグローバル化して既に20年余。ヒト以外に失敗の原因があるならリカバーできる時間が与えられている。今でもダメなのは、ひとえにMan、つまりヒトに原因があるとしか言えない。

話しは変わるが、インドの太陽光発電スタートアップ(より少し成長した後?)に投資してみた。従業員は500人位である。グロース株に投資する時は少額、将来の成長に期待するのが定石だ。高利回り配当株とは採るべき戦略が違う。それでも、やはり投資先の企業は調べた方がよい。それでその企業のWEBページを見てみた。そうすると、結構感性がイイ。まとまっている。

数百人規模の企業でこの出来か

そう感じました。日本企業の現状とは比較にならないのではないか — 名誉のために補足しておくと、日本国内のインフラ投資法人などはどの社も相当いい感性でWEBページを設計していて、垢抜けしている。駄目なのは、日本の従来型の企業である。デパートも低水準、電力会社、ガス会社などは最低だ。鉄道もパッとしない。銀行も総じてパッとしない……。情けないネエ。

ネットというチャネルには期待してこなかったンだねえ・・・20年以上もたってるのに。

「これじゃあ、ダメだ」、そう思います。そんな「タカをくくる」、というか「日本(世界に?)に冠たる」といった傲慢さが災いして、今日の日本経済の迷走を招いたか・・・改めてそう思った次第。

何だか日露戦争でロシア(倒壊寸前のロシア帝国ではあったが)を倒したことに慢心して、その後は劣化につぐ劣化。ついに1940年代には世界の3流に落ちてしまっていた旧・帝国陸軍を連想してしまいます。こりゃ、負けるはずだワ、1990年代末期『第二の敗戦』という言葉には反発を覚えたものだが、その正しかったことをいま気付かされている。


2022年12月12日月曜日

一言メモ: 「五輪汚職」って、日本人まで一斉に非難しているのがよく分かりません

自分から書くのはとても恥ずかしいのだが、幼いころから<期待>されていたのだと思う。父は長男、母は長女で、祖父母にとっては小生が初孫であった。偶々、本を読むのが好きで、成績も良かったものだから、期待されていたのだと、自分も両親や祖父母の年齢になってみるとよく分かる。役所や大学に勤務してからは、上司や組織、大学から(多分)期待されていたのだろうナアと思い出すことが増えた。だから、期待を裏切り続けてきたのが小生の人生であった、と。何だか「申し訳ない」と言いたい気持ちになる。自分自身と家族を最優先し過ぎました、というより、単に実力も根気も足りませんでした、と。「私の不徳の至りです」と謝りたい心理が年を追って高まってきている。これも加齢効果の一つかもしれない。

でもネ……と言いたい気持ちもある。

「期待する」とはどういうことであるのだろう?

期待するというのは、つまるところ《我々一同にとってプラスになるはずだ》、そう思うから誰かに期待するのではないか?

成長した後は大仕事をしてみんなを援けてほしい、組織の発展のため大いに活躍してほしい等々、期待するその人の幸福とは別の願望が周囲に先にあって、期待できる誰かが成果を達成して、自分たちもまた幸福になる。それが「期待」というものの本質ではないか?

もちろんそれが悪いはずはなく、人間社会には普通のことである。しかし、一つ言えるのは、誰かに期待するとしても、その人の幸福を希望するというより、期待している自分を含めた我々すべてのプラスになるので、だから期待して、応援するのだ、と。こういうことだと思われるのだ。

つまり、期待するというのは、動機において甚だ《利己的》である。

最近、「期待」という心理についてこんな事を考えていたので、マスコミ報道に不思議さを感じることも時に出てくる。

日曜朝は、何回か前にも投稿したようにサンモニをみる習慣なのだが、最近はいま開催中のW杯でもちきりである。試合の寸評、優勝の見通しなどを語ったあとは、今回大会の特徴だと思うが、「スポーツと政治との関係」に話しが移る。

競技場建設工事などでみられた外国人労働者の人権侵害など、ワールド・カップの負の側面がとりあげられ、ネガティブな意見がかわされる。そこでは、もっぱら政治的に不適切だと言える事実が指摘される。

そう言えば、オリンピックもそうである。2021年に1年遅れで開催された東京五輪は、そこで行われた競技そのものとは別の多くの問題が非難されている。例えば、招致活動の裏側、競技場等建設工事の裏側で密かに展開されていた様々な《不祥事》が検察の捜査対象になっている。そして日本社会も五輪開催の裏側に隠されていた事柄には、ただただネガティブな反応をしている。

五輪に期待していたこととは正反対の事実が確認されるのは悲しい、というわけだ。ひたすら哀しい、恥ずかしいという世相であると。マスメディアはそう言いたいようだ。

小生はへそ曲がりだ。だから「五輪汚職」に関して思ってしまうのだが、

自国で開催されたオリンピックの「贈収賄と談合」。当の自国民たる日本社会が何故これほどまで強く憤慨するのだろう?メディアは非難するのだろう?

こんな疑問である。

自国で開催されるオリンピックに期待していた日本人は数多くいたはずだ。他国で開催されるワールドカップに期待する動機は寧ろ単純だ。では、日本で開催されるオリンピックに日本人は何を期待していたのだろう?

【ここから最終セクションにジャンプしても可】

★ 

オリンピックは確かに「平和の祭典」で国際的な行事であるのだが、その本質は「民間ビジネス」である。

IOCはそもそも政治とは縁のない領域で発足した(はずの)国際団体である ― この点は、サッカーのW杯を主宰しているFIFAもまた同じである。政治から独立している、というのはどの国の政府からも影響されない、つまり資金的にも政府から独立している。《民間主導》は五輪が五輪であるための必要条件であろう。メディアが中継放送をしたりするなら、格好のプロモーション・チャネルにもなるので巨額の資金が動く。そして、このこと自体は、運営主体であるIOCが各国政府から独立するには、必要不可欠の努力である。

確かに、最近年の五輪にはナショナリズムがつきまとう。招致には公費が投入される。特に、五輪開催地決定を契機に競技場を新設したりすると経費は当初予算を大きく超えたりもする。五輪招致の前提に、公共の競技場を新規建設すれば、五輪開催自体がどこか「公共事業」めいて見えるが、それはそうしなければ招致に成功しないという見込みがあるからだ。招致を争う競合国がそうしているから自国もするというメカニズムが働いている。

そこまでして、五輪開催に何を期待するのかを考える時、ハイレベルの競技を自分の国で観たいという消費者の期待もあるが、国内で開催されるが故にもたらされる企業側の利益もやはり日本人の利益の一部には違いない。

要するに、自国で開催される五輪に日本人が期待するものは、五輪開催で引き起こされる活動全体を含む。つまり《五輪効果》の全体が日本にとってプラスになる。社会が充実する。豊かになる。故に期待する。これが五輪招致の基本的ロジックであろう。

ところが、コロナ禍の襲来により、《東京五輪2020》に多くの日本人が寄せていた「期待」は裏切られてしまった。

この厳しい事実とジンワリと広がる失望が全ての出発点である。そう思われるのだ、な。

いま日本社会では東京オリンピックは果たして《公正》に行われたのか、と。もっぱらそんな話題で世論が終始しているが、

そもそも何のために五輪を日本に招致したのですか?

と、動機を聞き直したいくらいである。一体、何を期待して五輪を招致したのだろう?


五輪については、ずっと以前にも投稿したことがある。その後の進展をみていると、どうやら「黒い噂?」が立ち昇った森・元首相や竹田・JOC前会長に司直の手が伸びることはなくなったようで、その代わりというわけではないのだろうが、電通、博報堂など五輪開催の裏側で経済的支援にあたっていた広告代理企業が数々の《談合》を主導したという疑惑で摘発されている。

日本経済の業(ゴウ)とか、宿痾(シュクア)などという表現は好きではない。が、そうかと言って経済学のテキスト通りの完全競争メカニズムを信頼して日本の政策を遂行するべきだと言われれば決して賛成はできない。経済政策は経済政策でやはり《国益》を求めるものであるべきだ。いま現在の人々にとって最適であっても、日本国の《成長》や《安全》という点では望ましくない経済状況はありうる。


国益とは消費者としての日本人と生産者としての日本人全体の利益の合計であると言っても大きな間違いではない。

いくら「公正」を求めるからと言っても、

五輪関係ビジネスは公共性をもつので発注はすべて透明な「国際公開入札」にする

という基本方針にすれば、大半の工事受注は欧米、中国、その他の海外企業に落札される可能性もある。

そうすれば、日本政府や東京都が支払う公費も安くてすむかもしれない。が、日本人はそんな五輪を<期待>するだろうか?むしろ日本人の期待を裏切る結果になったのではないか?だとすると、五輪に寄せる期待は<公正>そのものではないということになる。

もちろん国民の期待を裏切ってでも《フェア》であること、《正義に適う》こと、《世界に向けて恥ずかしくない》ということを最優先する立場もある。

しかし、そんなことを世界にアピールするために日本は五輪開催に立候補するだろうか?

五輪開催の自国民として日本人は全体としてオリンピックに色々な期待をもつのである。期待するからこそ、立候補する。五輪に寄せる「期待」に応えたいという「意図」はそもそもハナからあるはずで、綺麗ごとだけを発言するのは不誠実というものだろう。

自国には自国の立場がある

正直になるところから、真っ当な考察が出来るというものだ。

であるにも関わらず、(外国メディアなら理解できるが)日本国内の民間ビジネスの利害に寄り添うはずの民間TV局までが、五輪開催の談合や贈収賄に非常に厳しい姿勢をとっているのは何故か?・・・これが不思議でならないのであります。


海外メディアが批判するなら容易に理解できる。理由は明確だ。しかし日本国内のメディア各社の動機、思考回路がいま一つピンと来ない。

どうも解せないネエ……、日本が日本で開催された五輪に関して、不公正があったと強く非難するとして、どんな意味合いでそれを非難しているのでござんしょう?

そういうことであります。

”昔、誰かが言ってましたが”

資本主義経済というのは、泥の中にあって咲く睡蓮の花のようなものです。

実に本質をついた名言だと思う。この伝でいうと、公正を求める世界観は

何の混じりけもなく生命を育むこともない清らかな湖のようなものです。

こうなるか。

日本の製造業メガ企業が部品を調達するのに最も低価格で高品質な業者に納入させるのは当たり前のことである。ところが、メガ企業の購買担当重役が納入業者と結託して、資材を高値で調達、自社に支払わせ、その一部をリベートとして自分の息がかかっているペーパー・カンパニーに入金させる……、これは明らかな背任行為である。取締役であるにも関わらず、自社に損害を与えており刑事告発されるのが当然だ。

しかし、ペーパー・カンパニーに入金させた資金を、社内で合意のとれないニュービジネス研究に密かに流用していればどうか?「私欲」ではない。「自社利益」を考えてやむなく行ったことである、と。もちろん法令に違反しているのは事実だ。が、同情するべき情状はあるであろう。

もし調達先が自社が支援している関係企業であればどうか。調達価格は高めである。しかし、経験曲線に沿った将来の低価格、経費節減が見込める。このような動機であれば、自社の長期的利益に資するかもしれず、社内を説得できる余地が出てくるだろう。

つまり核心的論点は、

  1. どの規則にどう違反していたかという手続き上の問題
  2. 違反していたとして、不公正な資金がどのような使途に充てられていたかという実質的問題。

この二つがあるわけだ。

外部の人間なら外形的な規則違反に関心が集まるのは仕方がない。が、社内に勤務している内部の人間なら、規則に違反していたという形式的事実と同時に、どのような動機で、どのような行為が行われていたかという実質的内容に強い関心を持つに違いなく、その実質的内容に基づいて行為の悪質性を判断するに違いない。

東京五輪に寄せた期待がコロナ禍で裏切られ何のプラスにもならなかった人々が確かに多数いる。実に分かりやすい事実だ。東京オリンピックが期待に反して何のプラスにもならなかった日本人が多数いるというこの事実が、その後の展開を決定づけた。もしコロナ禍なかりせば、日本の談合や贈収賄によって本当に損をしたのは誰か、日本人はどんな損害を受けたのか。これらの問題を日本人はより熱心に議論していたはずである。

今回の五輪スキャンダルは、コロナ禍による敗戦処理の中で俄かに舞台化された「コロナとオリンピック・第2幕」と言うべきものだろう。


話を最初に戻そう……

そもそも日本のマスコミは、なぜ《価値》なるものについて頻繁に熱心に語るのだろう。日本文化の根底になっている価値とは何だろうか?しいて言えば《和》ではないかと小生は勝手に結論を出している。欧米が強調する"Justice"という価値は外来文化である。"Democracy"もそう、"Liberty"もそうだ。

「東京オリンピック」に日本人が期待していたのは「価値の向上」でも「価値の実現」でもなかったのではないか。もっと生活の中でプラスになる実質ある中身であったはずだ。消費者としても、生産者としても……だ。

報道もニュース解説も、牧師の説法、僧侶の法話ではない。アメリカが外交政略上、価値の共有を強調するのは、分かる。これも旧・西側陣営をまとめる一つの戦略だ。だからと言って、日本の民間メディア企業が提灯持ちのように「価値」を主張するのは可笑しいではないか。

普通の日本人は、検察官でも裁判官でもないし、警察官でもない。法令に違反しているという事実があると言われれば、関心は確かにあろうが、どんな動機で、どんな悪質な行為をして、国民全体にどんな損害を与えたのかについて、より強い関心を抱くのではないか。

外国人の対外的観点に日本のメディアも寄り添って、まるで外国人であるかのように、日本国内の談合をあげつらう姿勢は、滑稽としか言えない。


【加筆】2022‐12‐13

2022年12月9日金曜日

ホンノ一言: この辺が「リベラル派経済政策」の最もいかがわしい所か

 こんな記事がある。

【ヒューストン=花房良祐】米石油大手エクソンモービルは8日、2024年までの3年間で500億ドル(約6兆8000億円)の自社株買いを実施すると発表した。脱炭素の潮流で化石燃料への風当たりが強まるなか、好業績を背景に株主還元を一段と拡充する。増産を急がず株主還元を続ける石油業界に対する米バイデン政権の圧力が高まる可能性もある。

(中略)

空前の好業績を受けて株主還元を強化する動きは石油業界で広がっており、バイデン米政権は「自社株買いや配当よりも増産投資をすべきだ」と批判を繰り返している。こうした意向に沿わないエクソンへの風当たりが強まる可能性もある。

 一方、エクソンは23年に、設備投資に230億~250億ドルを投じる計画で、22年の220億ドルからの増加幅は限られる。27年までは毎年200億~250億ドルを計画している。上流部門への投資の約7割は①南部テキサス州などのシェール開発②南米の深海油田③世界各地の液化天然ガス(LNG)プロジェクト――にあてる。収益性の高い事業に集中し、純利益を27年までに19年の2倍にする計画だ。

低炭素事業への投資も進める。27年までに従来計画比15%増の170億ドルを投資し、水素や二酸化炭素の回収・貯留(CCS)などを事業の柱に育てる。

従業員の待遇も改善する見込み。ブルームバーグ通信は7日、エクソンが従業員の給与を平均9%引き上げると報じた。足元の物価上昇率を上回る増加率で従業員に報いる。

URL: https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN08EH90Y2A201C2000000/

Source:日本経済新聞、2022年12月9日 6:44 (2022年12月9日 9:19更新)

石油企業の増産投資が不十分だと憤慨するのは米・民主党政権の脱炭素方針に矛盾している。なぜ矛盾していることを今は言っているかといえば、足元のエネルギー不安が政権基盤を揺るがしているからだ。だから増産投資をもっとしてほしい、というわけだが、全体が矛盾した話しだ。

そもそもアメリカは《自由・民主主義・法に基づく支配》という価値を共有しているかどうかで世界を2分類するという外交を進めている。自由であれば、経済システムは市場メカニズムを信頼するという原則を選ぶはずだ。とすれば、企業の設備投資、消費者の購入選択も各主体が自由に意思決定するというのが原則になる理屈だ。

それが《一民間企業の資本計画・投資計画》にまで口を出すとはネエ……、この辺が、自由社会を志向しているのか、政府主導の計画経済を志向しているのか、いわゆるリベラル派経済政策の基本姿勢がよく分からないところで、何だか独善的でいかがわしい、と。

若い頃は、知的誠実さに共感を感じていたものだが、年齢を重ねるに従って化粧の魅力が剥がれ落ちるように失望してきた、というのが「リベラル」という言葉をどう思うかという点に関する自分史である。


2022年12月7日水曜日

断想: バタイユ流の御恩奉公は現代日本で実効性をもつだろうか?

日本は概ね全ての分野において学問は輸入学問で、それでも数物系、生化系など自然科学では独自の実績を日本も残してきたが、社会科学系の学問では、実務の平均水準は決して恥ずかしくはないし、なるほど森嶋通夫氏や宇沢弘文氏などが日本にはいた、宇野弘蔵のマルクス経済学の影響力は大したものだとか、色々と云々されたりもしていたのだが、独自の世界的影響力という尺度ではほとんど何もと言ってよいほどの貧困たる実績しか世界に提供できていない・・・、小生自身が経済学から入ったから自虐的に視ているのかもしれないが、事実においてこんな自己認識はあまり間違ってはいないと思う。

そんな環境もあって、学生時代から小生の周囲で注目の的になっていたのは、一人の例外もなく海外のビッグネームであった。Samuelson、Solow、Arrow、あるいはイギリスのHarrodやRobinson、Kaldorなどその対抗勢力が、はたまた実証畑ではLeontiefやKuznetzあるいはKleinなどのスーパースターたちが、学生ギャラリーを大いに賑わしていたものだ。この辺の熱気は、どうも憶測するに、今は大分冷めてしまったのじゃないかと感じているが……。

そんな中で、大陸系というか、フランスの文芸はその当時から一部で人気が高く、中でもデリダの脱構造主義とか、ブローデル達のアナール学派とか、数学ではその一時代も昔のブルバキがそれに当たるのだろうが、進んだ意識系の若手研究者には大層な人気を集めていたものである。バタイユなどはその流れの中にいる。

最近もまたバタイユが注目を集めているようで、例えばこんな意見もある:

バタイユは、古典派経済学のような生産と交換にもとづく限定エコノミーの概念に対して、浪費と贈与にもとづく一般エコノミーを提唱した。前者は、たかだかこの300年ぐらいの西欧圏にしか通じない経済学だが、後者は石器時代からの人類の経済行動を説明するものだ。

限定エコノミーで人々が求めるのは有用性(utilité)だが、一般エコノミーでは栄光(gloire)である。共同体の首長が村中の人を集めて宴会を開き、全財産を浪費するとき、彼は栄光を得て、人々に貸しをつくる。宗教的な儀礼にも有用性はないが、それに協力する人々は共同体のメンバーであることを確認する。

それは進化ゲーム理論でいうと、コミュニケーションで味方と協力し、敵とは戦う秘密の合言葉(secret handshake)と呼ばれる戦略である。この戦略は強力で、囚人のジレンマやチキンゲームを一般化した共通利益ゲームでは、つねに贈与で最適解が実現できる。贈り物は、この合言葉である。贈られた人は返礼の義務を負い、返さないと村から追放される。

URL: https://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/52072461.html

この《一般エコノミー》は日本人なら馴染みの《御恩奉公》という武家の倫理を思い起こさせるもので、バタイユを通読したことはないが、おそらく原理的にはこの憶測に大した間違いはないと思っている。


ただ、どうなのだろうネエ……と。

鎌倉以来の武家政治700年間にあった間なら、例えば鎌倉幕府が滅亡するその瀬戸際で、金沢貞将が北条高時から最後まで従ったその忠節を賞され『両探題(=執権・連署両職を指すか)任命』を約束する書付を手渡されたのに対して、

棄我百年命報公一日恩」(我が百年の命を棄てて公が一日の恩に報ず)

渡された紙の裏にこう書き、それを胸に抱いて敵の新田軍に突進して討ち死を遂げた。確かに多くの日本人はこのような忠義に激しく感動したはずだ。

しかし、武士ならいざ知らず、現代日本人は様々の外来哲学に染まってしまった。これを忘れるべきではない。

金沢貞将のように「有難くも御恩を忝くする」という認識の反対側には「そもそも当然受けるべき報酬をいま受け取ったのだ」と、そんな共産主義イデオロギーからバタイユ流の大盤振る舞いをみる人もいるはずである。

そんな左翼的価値観を支持する人からみれば、

大盤振る舞い=御恩

ではなく

大盤振る舞い=当然受けるべき権利 

になる訳であり、何も感謝する言われはない。むしろ「御恩」などと言いつくろう殿様こそ現場で働いて来た私たち国人衆から搾取し余剰を奪ってきたわけであり、その一部をいま私に給わるなどと恩を着せるなど偽善の極みである。「恩」ではなく「返還」である。不平等そのものである。よって打倒するべきだ、と。こんな主張をする筋道になる。

もし金沢貞将がこんな風に考えていれば「一日の恩」を感じることはない。過ぎた縁に束縛されることもなく、もっと「合理的に」行動していたに違いない ― もちろん裏切った足利高氏がより合理的であったという主旨ではない。が、ともかく、左翼風に、というかリベラルにこう考える日本人は、現代日本社会では案外なほどに多くの人数を占めるのではないだろうか?

そして、有用性に着目する「限定エコノミー」とコミュニケーションに着目する「一般エコノミー」との区分は、核家族を基盤とする個人主義の社会的メンタリティと親族・ムラ社会を基盤とする共同体主義のメンタリティとの区分とパラレルであるのかもしれない。日本社会の古層にはどちらの家族構造がより強く残存しているのだろうか?こうなると、エマニュエル・トッドの問題意識とも重なってくる……、ま、色々と問題意識をかきたてられるわけだ。


モノの価値は投入した労働量に比例して決まるものである、という労働価値説が正しい。この見方を徹底すると、マルクスのように利潤は労働者から搾取することでもたらされる剰余価値に当たることになる。であれば、生産過程に参加した人間すべてに平等に分配することが絶対的に正しい。最初から分配平等を前提できるなら、誰かが他の全員に大盤振る舞いをするなど、「もてなす余裕」もなければ、される側も「もてなされる理由」がないというものだろう。

こうした左翼イデオロギーが無視できないほどの支持を得てしまっている現代日本社会においては、せっかくのバタイユ理論も実効性はもたないのではないだろうか?もし小生がまだ学生であったら、こんな意見を発言して、周囲を困惑させるに違いない。ずっと昔から、小生は典型的な<KY>である。というよりKYの補集合に属するようでは新しい仕事は出来ないと確信していたので、KY化は最適化選択の結果でもあったのだ。

2022年12月4日日曜日

断想: 社会と個人、トラブルと信仰、法律と自由の関係について

経済学の成長理論においてさえ生産性が上昇したり低迷したりする時代が発生する現象の説明に「そういう時代だった。人がどうこう出来るものではない」という意味で運命論を使うことがあるくらいだ。

まして、その人、その家庭がどんな人生を歩むかには運命という要素が深く関係してくるだろうという観方はそれなりの説得力がある。

困っている人がいるからと言って、親切な人の善意に期待するのではなく、社会がその人を救済する責務があるという思想は、よ~~く考えるべきだと思っている。「社会の責務」は必ず「公的権限の強化」につながり「個人の自由の制限」に帰着するからだ。

***

前回の投稿で書いた下り:

家族には理解されていない信仰に没頭するとき、だからと言って、他の家族は信仰に熱心な家族の一員の判断能力が不十分であると医師や公的機関の決定を求めてもよいだろうか?

まあ、求めることは出来るのだろうが、信仰に熱心だから正常な判断能力を持たないと医学的判断が下される可能性はとても低いと小生は思う。またそんな判断を第3者が行うべきでもない。

つまるところ、家族の理解が得られないままに巨額の寄付行為が為されてしまうのは、その家族自体に何らかの問題があるのではないかと思われてしまうのだ、な。

『これって自己責任論ですよね』と指摘されれば、そうなのだろうナア、と我ながら思ってしまう。

ただ、一つ言えると思うのだが、一人残らず順風満帆で、かつ幸せに満ち満ちた家族の中で、一体、誰が自分一人信仰に没頭し、大枚の喜捨(≒寄付)を行い、 家族から非難されても、それでもなお教会に出かけて礼拝し続けるだろうか?それこそ『その人の性格もあるのかもネ』というコメントしか出せないのではないか。こうなると運命論に近づく。

何か悩みや苦しみがあるが故に、人は神を信じ、祈り、慰藉を感じるものである。これはもう時代や国を超えて、人類共通に言えることだと思うのだ、な。

つまり、一言で言えば、お目出たいノー天気の人が、信仰ある毎日を送りたいと願うはずはない、と。そう思われるわけで、実際にこの命題は誰もが思いつくようでもあり、だからこそマルクス主義者であれば

あらゆる宗教は(心の苦しみを和らげる)心のアヘンである

こんな見解を持つようにもなってくる。 

肉体の苦痛を和らげるのがモルヒネ(アヘン)、同じような働きを心に及ぼす施療として宗教がある・・・実態はそう思われるわけで、故に弱者の救済は宗教ではなく、(社会科学をも含めた)科学だけが実現できる。そこが空想的社会主義から科学的社会主義への前進である・・・とマア、一時代昔にはこんな思想がまだまだ世間で影響力を持っていたものである。

このような科学的観点からみれば、巨額の寄付行為を行う一員によって生計が破壊された家族は、いわば「心のアヘン」の蔓延がもたらした《宗教の犠牲者》という理解の仕方になり、故にその原因となった宗教団体には「アヘンの提供者」としての社会的責任を負わせるべきである、と。こんな図式に沿った主張になるのは、よく分かる。とらえ方が科学的であり、唯物論的であり、極めて社会主義的である。

しかし、それなら全ての国民は科学知識に精通した専門家の指示に従って毎日を送ればよいのだ、という体制に喜んで移っていくかと言えば、

人間には自由という基本的人権があるのだ

と言って、個々人の自由な意思決定が何よりも重要だと考えるわけである。科学的社会主義は、ロジックとして自由な市場メカニズムを信頼せず、専門家による計画経済を選ぶものだが、その帰結は共産主義圏の崩壊、冷戦の終結という形で、30年以上も前に既に決着がついていることである。

***

とはいうものの、以前にこんな投稿をした事がある:

しかし、いかなるものからも完全に独立した人間は存在しない。何らかの神、何らかの思想、誰かに受けた影響等々があって、人は成長し、人格を形成し、生きているものである。全ての人は社会の産物である。人が犯した罪の責任にはその人間を育てた社会が負うべき一面がある。100パーセントの自由意志など実は現実には存在しているはずがないことは誰もが知っている。にも拘わらず、法は自由意志を措定したうえで被告人を裁いている。裁かれる人が社会を裁くことはない。社会は決して裁かれない。ここに<非条理>を感じる人は多いであろう。

一人一人の人間が自由に意思決定して、自由に職業を選び、暮らす場所を決めれば、その人なりの幸福な人生を実現できないはずがない、というのが「旧・西側陣営」の理念で、日本もこんな社会観に立って政治を行っている。

それでもなお、いま生きている一人一人の個人は、その人が生きている社会の産物である。人は社会生活をおくる動物である以上、個々人の自由意志で自らの人生を100%決めるなどと言うのは不可能である。これもまた普遍的な真理である。


そして、犯罪や離散、紛争等々は社会の中で発生するものだ。個々人が自由に行動をしていれば、猶更のこと、トラブルは生じる。人間社会は決して完全な組織ではないのだ。

そのトラブル処理に際して、どこまでが個人間の和解に期待し、どこから社会的な管理に任せるかは、国ごとに、時代ごとに違う。

いま発生している旧・統一教会に関連した「被害者救済」は宗教活動に起因して家族生活が崩壊したとされる人たちを社会の責任としてどんな対応をするかという問題だ。

宗教活動に関連して発生するトラブルは、暴行、障害、窃盗、更には詐欺とも異なる。各方面の当事者それぞれに「悪意」という要素は(理屈として)ないはずである。

全ての宗教に言えることだが、その宗教を信仰していない部外者の立場からみれば、どの宗教も詐欺に見えるのではないだろうか?しかし、信仰とは科学的研究と本質的に異なる活動だ。そこには科学的真理とは別の直観的真理が関係する。なので、宗教に関連して発生するトラブルを解決するには、理解や覚醒、更生などと言った発想をとるべきではない。

***

上に引用した投稿にはこうも書いている:

話しは変わるが、福沢諭吉が『文明論の概略』の中で統計的な社会法則に着目した記述をしている。その時代の日本の知性の遥か上を行っているところだ。

要するに、詐欺も窃盗も殺人も毎月、毎年、ほぼ一定の頻度で発生する ― 一定でなければ非定常の状態であって、それには何らかの社会的原因がある。その国の治安状況を反映して、犯罪ごとの平均的な水準には国ごとの違いがあるが、発生率としては非常に安定している。統計的な社会法則の安定性に着目して、例えば社会科学としての「経済学」の有用性にも目を向けている。福沢が非常に先進的であったところだ。

その国ごとのリアルな社会状況を反映して犯罪の発生確率がパラメーターとして決まっている。その確率が実際の犯罪発生頻度となって現れてくるのは統計的な「大数の法則」そのものである。ま、こんなロジックである。

つまり犯罪もまた、社会現象。個人個人の自由意志による行動というよりも、その社会の属性として犯罪をみる観点である。

宗教と信仰の自由を保障する社会であっても、一定頻度で宗教上のトラブルが生じ、中には生計が崩壊してしまう家庭が発生するのは、当然予想される事象である。

もちろん窃盗がないにこしたことはないが、社会は完全ではない。盗みやスリという犯罪は一定数、ほぼ必然的に毎年発生するものである。交通事故も同じである。ゼロにこしたことはないが、ゼロに抑える政策を真面目に実行すれば、むしろ住みにくい社会になるだけで、幸福を求める国民には本末転倒になる。

犯罪抑止は、正義論ではなく、マネジメント論に属する課題なのだというのは、前にも書いた記憶がある。

宗教活動は犯罪とはまったく違う、善意の活動なのであるが、それでも宗教団体は玉石混交で、色々な団体がある。トラブルも毎年発生するのは当たり前のことだと認識するべきだ。

***

いま審議されている「被害者救済新法」では宗教団体の行為をモニターしながら、必要が生じれば勧告や指導ができ、教団が従わない場合には処罰も可能になると報道されている。

野党は「マインドコントロール」されている信者による一定金額以上の寄付を無効にする考えすらもっているようだ。

どちらにしても、宗教活動の具体的中身に入る行政活動であって、もし法案が可決されても、その実行段階で「次なる紛争」が生じ、おそらく「政府の規制は違憲」とする最高裁判決が何年かあとには出てきそうである。

教団、信者、家族など当事者のそれぞれに悪意がなく、それでも発生する経済的トラブルには、《事後的な損害賠償責任》を明確にすれば、それで十分のはずだ。

家計が破綻した信者以外の家族は、蒙った経済的損害を非常識な寄付を行った家族に賠償請求すればよい。すべての財産を寄付して賠償能力がないなら、寄付を受け取った教団を相手にして賠償請求をすればよい。

もちろん、そこには<時効>という法概念も関係してくるだろう。例えは悪いが、交際中にプレゼントした数多くの宝飾品を、哀しくも別れた後になってから「返してくれ」と元フィアンセに迫ったところで、返す義務はあるのかないのか?そんな問題にも通じる話である。

いずれにせよ、その賠償請求が裁判所に認められる状況になれば、宗教団体の布教活動においても、訴訟リスクが考慮されるだろう。

要するに、

どの人も、どの団体も普段は自由な意思決定によって自分の活動にベストを尽くす。発生するべきトラブルについては、事前の行動規制ではなく、事後的なルールをあらかじめ明確にしておく

というのが、その国が「先進国」であるかどうかの分岐点である。

「お上の指導」ではなく客観的な「法」がないという批判は、明治の初め、「憲法もない」、「民法もない」、「商法もない」、「中でも、訴訟法がない」と、だから日本は後進国であると、西洋列強から指摘されて焦りまくった明治新政府が置かれていた環境と似ているように見えてしまうのだが、いかに。


無能な行政府に新規の武器を与えて、この武器を使って、「得体のしれない教団」、「怖い教団」を抑え込んでくれとお目出たい期待を抱くような国民は、そのうち、国民自体がその武器によって自由を制限されてしまうだろう。

宗教にも政治にも興味をもたず、上司に指示されるとおり黙々と元気で働いて、税金をキチンと納めてくれさえすれば、政府にとっては理想的な国民なのである。民主主義のミの字もないのはこのことだ。

実に愚かだと感じる。

教会に奪われた家族の一員を昔に戻して取り戻すのは少なくとも行政の責任ではなく、家族が取り組むべき課題だ。

人間社会は、実に複雑で、入り組んでいる。だからこそ、自由が大切なのだと思っている。


【加筆】

2022/12/05、2022/12/06

 

2022年12月3日土曜日

覚え書: 一度リセットした方がいいと感じる世論は……

「敵基地先制攻撃」とか「反撃能力」とか、そんな勇ましい言葉が頻繁にメディアに登場するようになった。やはり「北朝鮮」と「ウクライナ戦争」が大いに関係していると見える。

そんな中、

「反撃能力」を持った方がよいという点については国民の間でも理解が深まっていると思うのです。

そんな「指摘」が(いつの間にか)増えてきた。『ロシアから軍事攻撃されても徹底抗戦しているからこそアメリカが支援してくれるんだよね』とか、『半月か、一カ月か、反撃できる位の弾薬備蓄は要るよね』とか、極めて自然な気持ちの変化であるとは思う。これ自体は、当たり前の理屈であって、非現実的な批判を乗り越えてドンドン進めてほしいと思う。

しかしネエ・・・

何だか(いつの間にか)日本は普通に戦争が出来る国だと・・・、国民は(いつの間にか)このこと自体は理解しているのだと・・・、こんな風に言いたげな紙面づくり、番組作りが目立つようになったのには、大いに「問題あり」だと感じる。


小生はへそ曲がりだから、

気分としては自分もまったく同じですけど、今の憲法でそれが出来るんですか?やるならやるで、先に憲法を書き直しておかないと、全体がウソになりますゼ・・・

こんな風に思ってしまうのだ、な。たかが条文、されど条文。憲法というのは国の基本でしょ、という理屈は絶対に軽んじるべきではない。

誰もが知っている憲法9条だが

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

武力による威嚇、武力の行使は、「国際紛争を解決する手段としては」…放棄する、と。こうハッキリ書いている。「交戦権」を認めないとも書いている。なるほど「交戦権」という言葉を狭く解釈すれば「海上封鎖」や「臨検」を行う権利を指すそうだが、より広く解釈して「戦争を行う権利」と解釈する見解もあると聞く。もし「反撃」すれば、「先制攻撃」すれば猶更のこと、攻撃をしかけた国は「対日戦争」と認識する。これはもう立派な(?)「戦争」だ。それともロシア政府と同じで「戦争」ではなく「軍事的反撃」であると説明するおつもりで?しかし、交戦権を広く解釈するなら日本政府は一切の戦争行為ができないという理屈だ。公式見解があろうとなかろうと、こんな曖昧さが残っているのは問題だ。

いくら「専守防衛」の範囲内だからと言って、反撃したり、敵基地を先制攻撃するというのは、こうすることが必要な危険な情勢が先に目の前にあるわけだから、日本による「反撃」は「国際紛争を解決するために武力を行使する」実例になる。こんなことは、小学生でも分かる。

なので

やりたいことがあれば、先に憲法を修正しておく。

この程度の努力は独裁者のはずの習近平やプーチンでもやっている。普通に憲法を読めば出来ないが、実は出来るのだという「専門的議論」は、全て《屁理屈》で大嘘だと思われるだけである。

ところが、こんな(小生には当たり前に感じる)意見を表明する専門家が一人もいない、メディアにも登場しない、という現在の日本社会は異様である。

国会という狭い場所で話が進み、マスコミは考えることなく話を伝えている。

そもそも足が地についていない。

そんな風に感じますネエ。口先だけで空回りしている。そこが姑息である。

明らかに現代日本の政党政治は問題解決力をなくしつつある。


修正するべき修正をせず、やりたいことだけを先に決めて、最後に憲法の条文をみて

こう書いてあるのだが、こう解釈すれば、いま決めた事は出来る

最後にこう言う。こんな思考回路は、いかにも憲法を尊重する護憲主義に見えて、実は憲法などは神棚に祭り上げて機能させない《反・法治主義》だと小生には観える。

実際、日本(の上層部?)は《憲法》や《法》を必ずしも守らないところがある。戦前期、天皇が統治するという君主制をとりながら、天皇自身の意志が通ることは稀であった。明治時代早々に《軍人勅諭》が公布され、軍人が政治に関与することを禁止していながら、結局は軍が政党を超えるほどの政治的影響力を持つに至った。

ま、戦前は戦前、戦後は戦後だが、よくもまあ《自由・民主主義・法に基づく支配》という価値観を共有するなどと平気で言えるナア、と。お気楽なものだよネエ、と。そう思うことがママある。

危ないネエ・・・

マインドコントロールされている状態で行った寄付は無効にするという法的扱い。これもいま旧・統一教会に関連して、国会で議論されている、というか野党が主張してやまないと報道されている。

上と同じで、これまた気分はとても分かる。

というか、左翼勢力は保守基盤である宗教団体(の一つ)を解体して自党の利益としたいのだろうが、こんな党利党略はさしあたってどうでもよい話しだ。

しかし・・・寄付行為を規制するという考え方自体が、ヤッパリ危ないなあ、と思う。


大体、認知能力に問題があるわけでもなく、成年後見人がいるわけでもなく、普通に自分名義の財産処分として寄付行為を選択したとき、

「その方」はマインドコントロールされている故、先月の寄付行為を無効としたいという申し出がその方の親族〇〇から出されておる。

当裁判所で審議した結果、申し出は正当であると認められたが故、その方の寄付行為を無効とする。 

返還の手続きはカクカク、シカジカ、本通知の主旨に沿い速やかに進めるように。

相続争いが盛んだった鎌倉時代ならいざ知らず、この現代日本の世でこんな通知がやってきたりしたら、たまりませんぜ。


明治以来、というか旧幕時代を含めて、財産権の神聖は(天皇神聖を上回るほどに)日本では最も尊重されてきた法概念である。

家族、親族、被扶養者などの生計を崩壊させるほどの非常識な寄付が行われた時は確かに経済的な問題が発生する。家族、親族の信頼関係も崩れるだろう。しかし、これらは家族の問題である。親族同士で解決するべき筋合いだ。家族にとっては損失だが、寄付を受けた別の主体にとっては利益である。テロや破壊活動とは違う。その寄付行為が社会的損失だとハナから決まっているというロジックはない。寄付行為が社会の問題であるというには、(数で言うのは適切ではないが)数万件という事例が現に発生して、日本経済を毀損しつつあるという事実認識が先になければならないと思うのだ、な。どれほど目立とうが、点として発生している家族問題を、社会問題に拡大して、新規立法をして、国民全体を束縛する新たな規制を設けるというのは、おかしいと最初から感じている。筋悪だ。住みにくい日本社会がますます住みにくくなるではないか。


話しは別になるが、両親が経営する零細企業が資金繰りに苦しみ、サラ金から高利のカネを借りて、結果的に両親は離婚、家族は離散して、子は施設に預けられる。そんな事態が多数発生したからと言って、借主の経済的苦境を知りながら高い金利で融資する行為は不道徳であり、よって無効とする、と。そんな政策を仮に実行すれば、アメリカのジャンク債市場は全ておかしいという理屈になる。金融にはリスクという要素があり、リスクが高ければ資金コストも高くなるというのは、経済的ロジックなのである。

巨額な寄付行為が原因になって家族が崩壊する瀬戸際に置かれた時、その寄付行為を無効にするという理屈と、経営の苦しさを知りながら高い金利で融資して苦境にある企業の破綻を招くような行為を無効にするという理屈と、本質的にどこが違うのだろうか?寄付ではなく、競馬や競輪にはまってカネを使い、そのために会社を潰してしまったからと言って、家族は競馬や競輪の主催者からカネを返してもらうことが条理にかなうとは思わない。


その人の認知能力に問題がなければ寄付行為は自由であり成立する。認知能力に問題があるのであれば後見人を立てなければならない。その場合、当人に契約能力はなくなる。

家族には理解されていない信仰に没頭するとき、だからと言って、他の家族は信仰に熱心な家族の一員の判断能力が不十分であると医師や公的機関の決定を求めてもよいだろうか?

まあ、求めることは出来るのだろうが、信仰に熱心だから正常な判断能力を持たないと医学的判断が下される可能性はとても低いと小生は思う。またそんな判断を第3者が行うべきでもない。

つまるところ、家族の理解が得られないままに巨額の寄付行為が為されてしまうのは、その家族自体に何らかの問題があるのではないかと思われてしまうのだ、な。

ただ、不安に感じた家族が、一定割合以上の資産を「生計のため共有されるべき資産」としてあらかじめ保護を申請するという法制度はあってよいかもしれない。これならまだ分かる ― 実際に具体的にどう書き起こすかは関連法との整合性もあって面倒だろうが。しかし、マインドコントロールが契約無効の理由になるという思考回路は極めて危険だと思いますネエ。



2022年11月27日日曜日

読後感想: 小林秀雄~民主主義~目の前の生活について

いま日本にいる《知識人》の間でどんな問題意識に関心が集まっていて、人気のあるテーマになっているかと言えば、ヤッパリ「民主主義」と「経済政策」の二つだろうと思っている ― 実際に「知識人」と自覚して、同時に「知識人」と国民から認知されているような人がいるかどうかが分からないところだが。

小生も「民主主義」というテーマは書くのが大好きだ。その昔、職場で大きなショックを受けてから、何度も投稿してきたように、ずっと持ち続けてきた問題意識である。

いま読んでいる本の序盤のところにこんな下りがある(段落など多少変えた箇所がある):

日本に生まれたという事は、僕等の運命だ。誰だって運命に関する智慧は持っている。… 自分一身上の問題では無力なような社会道徳が意味がない様に、自国民の団結を顧みない様な国際正義は無意味である。

僕は、国家や民族を盲信するのではないが、歴史的必然病患者には間違ってもなりたくはないのだ。日本主義が神秘主義だとか非合理主義だとかいう議論は、暇人が永遠に繰り返していればいいだろう。いろんな主義を食い過ぎて腹を壊し、すっかり無気力になってしまったのでは未だ足らず、戦争が始まっても歴史の合理的解釈論で揚げ足の取りっこをする楽しみが捨てられず、時来れば喜んで銃をとるという言葉さえ、反動家と見られやしないかと恐れて、はっきり発音出来ないようなインテリゲンチャから、僕はもう何物も期待することは出来ないのである。

実は、この下りは小林秀雄の『戦争について』(中公文庫)の1節であるのだが、元の原稿は日中戦争が始まった昭和12年に書かれ、当時の雑誌『改造』に発表されている。読みながら三島由紀夫を連想してしまいました。それほど言おうとしている(内容ではなく)調子が(この部分だけを読むと)重なって見えるし、そもそも文章の流れが似ていると感じたのだ。親子ほどの年齢差がある二人だが、「同時代性」というのは、ヤッパリあるのだろうか?

そのあと

歴史的弁証法がどうの、現実の合理性がどうのと口ばかりが達者になって、たった今の生活にどう処するかについては全く無力である。

 こんな内容になると、三島由紀夫を通り越して、石原慎太郎の風貌を思い出したりしてしまう ―  村上春樹や東野圭吾を連想することはない。

どうやら兵役の義務が定められた社会で育ったらしく、作家といえども社会的関心は現代作家と比べるべくもなかった、と。そう言えるのかもしれない。

しかし、小林の言う

たった今の生活にどう処するか

という問題こそ、正に昭和初年から10年代にかけての時代に、日本の陸軍がその頃の支配階層であった(はずの)政党政治家よりも痛切に感じていた「政治的課題」であったはずで、確かに「今の生活」が世界の中で最重要な問題だとみなす立場もあるわけだ。

これこそ《民主主義》だと言えばその通りかもしれない。

が、これだけで終わりになると、「危険な民主主義」という結果が待っていそうだ。社会を不安定にして、多くの人たちの幸福を奪う民主主義には価値がない ― 実際、「幸福」以外の政治的大義はありうるのか?あると言う人からは、それは何かと聞いてみたいものだ。

一口に民主主義と言っても、アメリカの民主主義、イギリスの民主主義、インドの民主主義、中国の民主主義(?)―共産主義は民主主義の1類型だと見なされる―そして、日本の民主主義と、決して一色ではなく様々で、まさに国は色々、ヒトは色々といったところだ。

愚息と話すとき、小生は日本の民主主義を支えている3本の柱を話すときがある。その三つは

アメリカ、皇室、自民党

の三つで、この3要素が相互依存的に政治的支配力として働いているのが、即ち「日本の民主主義」だと思っている。つまり、それぞれが他の二つを必要としており、どの一つを欠いても、「戦後日本」の民主社会は危機を迎える。本質はこうだろうと観ているのだ、な。

アメリカは皇室(=天皇制)を日本のソリダリティ(≒社会的統一性)を支えるものとして必要としている。これはかつてイランのパーレビ王朝を支えたのと同じロジックである。日本の皇室は(露骨に言えば)アメリカ(及びイギリス)を必要としている。同時に、出来れば保守政党(≒自民党)を必要としている。アメリカ、皇室から必要とされていることこそ自民党と言う政党が存続しつづける存在理由(=レゾンデテール)になっている。

日本の民主主義を議論したり、批判することは自由だが、実際にこの基盤を変革しようとする勢力が登場すれば、誰でもなくアメリカ政府がその動きを潰そうと行動する。

であるが故に、戦後日本という「体制」は、部分的には朽ち果てつつあるように見えて、現実的には強固なのである。

強固、即ち「シッカリしている」。そう理解して、あとは個人、個人が自分の可能性を実現しようと、何を心配することもなく、努力を続ければよい。そう割り切れる幸福な時代をいま日本人は生きているというのが、小生の歴史観、というか個人的立場なのだが、残念ながら多くの人と共有できているわけではない。

それにしても、世間ではいま

民主主義国=先進国

非民主主義国=後進国

こんな風に、まるで国教と邪教、というより善と悪とでもあるかのように、こんな2分類がまかり通っているが、ただ一言「阿呆の象徴」だと思っているわけだ。大体、善と悪の判別など、50年もたてば世間の大勢が変わっているのが現実の歴史だ。

上に述べたように、民主主義といっても国は色々である。

民主主義という先進性、非民主主義という後進性

言いたいことはこうであるのだろう。そして先進性が後進性より勝っていれば、その国は民主主義国である、と。そんな思考法なのである。

しかし、歴史を振り返れば、古代から中世、中世から近世、そして現代と、民主性と絶対権威性の度合いは一つの方向に変わるわけではなく、行ったり来たり、上がったり下がったりしながら、国ごとに異なりながら、進展してきたのが現実だ。だから、過去は非民主的で、現代は民主的であると一概にいう事は出来ない。そこには進化などはなく、単なる変化があるのみだ。

先進的~後進的という尺度を適用可能な対象は、例えば科学技術水準である。確かに、《知識の蓄積》は単調増大的である。なので、知識の成果である《生産性》の高低には先進的~後進的という言葉を使用しても可という理屈はある。しかし、〇〇主義の先進性いかんについて論じても、異なった価値観から異なった結論が複数出てくるだけで意味はまったくない。

本当は、順序を逆転して

先進性とは民主主義のことをいう。後進性とは非民主主義のことをいう。

いわば「特定の政治体制」を採用しているグループが自陣営を善しとするための政治的主張として聞くべき発言だと思って聞いている。


こんな風に考えているものだから

日本は確かに民主主義的であるが、一体、これのどこが先進的であるのか?知っている人がいれば教えてほしい。

正直なところ、そう感じているのだ。



2022年11月23日水曜日

断想: スポーツと政治の関係は変わるのか?変わった方がイイのか?

サッカーW杯が始まり今日はいよいよ日本対ドイツ戦がある。これから暫くはW杯一色になるだろう。

それはともかく、今回のカタール大会では《人権問題》がクローズアップされていて、「旧・西側陣営」は始まる前から敵対的であるし、一方でイラン代表選手が国歌斉唱に応じず国内政治への抗議の意を表現するなど、色々と紛糾しそうな動きが見られている。こうした動きに対して、主催者であるFIFAは選手による政治的行動を禁止するという旧来の伝統を守ろうとしているようだ。

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スポーツと政治は切り離すべきなのだろうか?それとも、スポーツと政治は関係づけられるべきなのだろうか?

小生は(これまでの投稿から窺えるように)全ての《ベキ論》に耳を傾ける程の関心を持たないことにしている。そもそも価値観は各自が自由に独立して持っていればよいものと思うわけで、故に他者の価値観には関心がないのだ。世間には民主主義者もいれば、君主制が善いと考える御仁もいる。ごくごく自然なことではないか。とはいえ、この《ベキ論》の行方によっては魅力あるスポーツ大会が円滑に開催できるのかどうかさえもが左右されてしまう。そう思えば、やはり無関心ではいられなく、ごく最近の「政治主導」の論調をみると、ここでもまた政治主導なのかと、つくづくと世相の行く末が心配されるわけである。多くの人が楽しみにしているスポーツ大会が何だか得体のしれない「ベキ論」で楽しめなくなるとなれば、それは世界の損失であろう。そんな世の中にはなってほしくない。

日本のTV番組では(例によって)

社会を改善したいという願いは人であれば誰でも持てるわけですから、大会の場で代表選手たちがそんな思いを表現しようと思えば、それを禁止するのはあってはならないと思います。

まあ、具体的な言葉は違うが、こんな趣旨の発言をするコメンテーターが多い。

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確かに、「民主主義」や「基本的人権」を尊しとなし、「戦後日本体制」が「最良な社会」であるとの大前提を置いてから発言するなら、専制的指導者による政治体制に抗議する行動を支持するというロジックになるのは分かる。

しかし、小生はへそ曲がりなもので、果たしてどうなんだろうネエ・・・とも思う。これはロジックになっているのか?


例えば、日本の代表選手が海外記者に対して

日本の皇室ほど下らない存在はありませんヨ!それと、日本の国会議員、アイツら何だろ?金の亡者、権力亡者。もう消えていなくなってしまえばいいと思います。早く民主的な大統領制に移行してほしい・・・

例えば、こんな風な主旨の発言を(普段使っている外国語で)するとして、この発言が日本でも報道されたとする。それでも「政治的にどんな信条を持つかは自由であるし、それをスポーツ大会の場で表現しても、それはそれで当然持つべき権利ではないですか」と、日本社会は反応するだろうか?

要するに、足元でカタール大会に寄せられている声は

人権を尊重する我々の価値観は正しい。だから、我々の声を封じる姿勢は間違いだ。私たちの言うことを聞け!

と主張しているわけで、つまりは

私たちが正しい!

言いたいことはこの一点である。しかし、イスラム教にはイスラム教の教義があり、信仰を原理とすれば、容認できない思想もあるわけで、そうした立場から何か発言するとすれば

私たちが正しい!

こんな主張になるのは当たり前で、こんな簡単な理屈は小学生でも分かるだろう。

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だから、スポーツ大会と政治は関連しあっていて当然ですと主張するなら、

大会の場で選手たちが互いの政治的価値観や宗教的価値観をぶつけあっても、それは互いの権利です。

こんな結論にならざるを得ない。

主張をぶつけあうのは自由だが、科学とは異なり、決着がつくはずもなく、結論が出る可能性などないのである。

自分の価値観は主張してもよいが、対立する価値観を敵方が主張すれば、そんな主張は不適切であると言うのは、それこそ韓国でいう《ネロナンブル》

私がすればロマンス、他人がすれば不倫

清々しいほどの《ダブル・スタンダード》になる。

本当にこんな論争をしながら、ゲームが続行できるのだろうか?スポーツ大会ではなく、国際会議など論争を展開するのに適当な場が他にあるのではないか?

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そもそも価値観とは共有できないものである。全人類が一つの宗教に統一される日は(おそらく)来ることはないし、一つの価値観で統合される日も来ることはないだろう。

古代ギリシアで4年ごとに開催され続けた「古代オリンピック」では、現に戦争中である敵対国同士であっても大会期間中は休戦し、代表選手を送りあったものであるという。この一点だけは価値観を共有しあったわけである。根底にあったのは、同一民族から発祥したという「神話」、「伝説」、というか「記憶」であったに違いない ― マア、何年振りかの「法事」に集まる「親族」の感覚に似ているかもしれない。

この古代ギリシアのひそみに倣うと、スポーツ大会と政治を切り離す姿勢は、例えば《全人類はそもそも一つ》といった根底的理念の共有がなければ、貫徹すること自体が難しいだろう。

難しいが、それでも小生は《一つの世界》を信じて、祭りに人が集まるようにして、政治とスポーツを分離できていた時代を《古き良き時代》であったと信じる立場をとる。

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実際には、いま生きている現代世界で人類を統一する程の高邁な理念はない。思い起こす程の「記憶」も薄れてきた。人類の祖先は元々同じという感覚が共有されてはいない。今後も世界は決して一つにならないだろう。だからこそ、戦争も起これば、テロもある。そんな中、「民主的に選ばれた政治家」や「指導力のある政治家」がいつの間にか権威を高め、何にでも口を出してもよいと思い込むようになっている …。「政治」にそんな役割は元々許されてはいなかったはずなのに …。

どう贔屓目にみても、欲とカネに塗れた政治家の説教よりは、伝統的な信仰がよほど深く人の心を動かす、という人が残っていても決しておかしくはないだろう。

人間社会の発展に、政治家を自称する人物達による《政治》という行為がどれほど多くの遺産を残してきたかと問えば、多分、よく見積もってプラスマイナス・ゼロである。世界を発展させた政治的決断もあったろうが、忌まわしいほどの政治的失敗も犯してきた。いま私たちがおくっている豊かな社会は、優れた政治家がいたお陰で実現できたわけではない。現在の豊かな世界は《知識の増大》によって得られたものだ。そこに政治家なる人々は参画していない。これだけは明確に正しいと言える認識だ、と。そう考えているわけだ。政治家や政治的主張など、所詮はその程度のレベルだと言えば、どんな人たちが怒るのだろう?

なので

そもそも自ら信ずる「政治的価値」を主張するなど幼稚であるし、政治主導などというのは、政治家だけが(自らの都合から) 主張している、とんでもない妄言だ。

この点だけは、自信をもって確信しているのだ、な。

故に、スポーツ大会の運営に政治を持ち込むべきではないし、政治家は政治的発言を一切するべきではない。出場する選手たちも同様にするべきだ。この《分離原則》は対立している両側に公平に適用されるべきである。そう思っている。




2022年11月20日日曜日

断想: トランプ、石原慎太郎、サンデーモーニングについて思う

毎週日曜になるとサンモニを視る習慣がずっと続いている。具体的な点では、流石に感覚の古さに辟易して異論を感じる時が増えているのだが、全体としては(まだなお)大いに気に入っている。

今日は姜尚中氏がコメンテーターとして登場していた。

氏を視ていると、小生がずっと若い時分、昭和もまだ50年代から60年にかけての頃には数多く残っていた《進歩派知識人》を思い出してしまうのだ。現代日本人の間からはとっくに死滅(?)したと思われるその種の人達の佇まいが、韓国系の学者の発言や風貌には濃厚に残っているのを目にするのは、どこか淋しく、寂寥感が胸に迫るのを感じる。

漠然とした言い方だが、同僚などをみていて感じるのだが、韓国人は「変わらない」ところがある。というより、「変わるまい」という気骨が日本人よりは強い芯として通っている。悪く言えば「頑固」で「気難しい」のであるが、フワフワとしたところがない。日本人は、反対に(韓国人に比べると)「変われる」ところが長所かもしれない。変われるというのは、原理・原則がないからなのであるが、利益にならない原理などは空理空論だと割り切れるところが長所と言えば長所である。

韓国を相手にすると「ゴールポストが動く」などとボヤく向きがあるが、それは政府を相手にしているからで、政権交代に伴って政策が左右に激しく振れるのは韓国だけではない。むしろ、変われる日本人が変わろうとしても変われない政権を(意に反して?)保ち続けている方が異様だと小生は思っている。

それはともかく、姜氏が話していた中に

トランプが出てきたのがアメリカの問題なのではなく、アメリカに問題があるからトランプが出てきたのです。

という主旨の指摘があったが、感覚をロジックで包んで語るありようは、その昔の「進歩派知識人」の語り口そのままである。

よくアメリカ社会を分断する問題点として「妊娠中絶」を認めるか、認めないかがとりあげられる。日本人は条件反射的に

妊娠中絶は基本的人権の一つだ

こんな風な結論を条件反射的に出すのだがキリスト教では中絶を容認できる余地はない。普通の人が先祖伝来の宗教感情から完全に卒業するのは難しい。これは「変われない」ところの一例だ。つまり「妊娠中絶」は権利の問題と言うより宗教対立が本質だ。だからこそ「議論」が社会の安定のためには必要だ。「価値観を共有できるか出来ないか」の問題にしてはならない。

日本の「進歩派知識人」が退潮して、エゴを包むことなく露骨に出し始めたのは、やはり石原慎太郎が政界に進出して様々の意見を口にするようになってから以降のことだろうと思う。論敵と論争するのではなく、相手を罵倒したり、ヤジったり、黙らせる手口を敢えてとることで、議論のルールを変えていったところがある。

石原都知事が

尖閣諸島を東京都で買い取る

と正に行動をしかけようとしたタイミングで時の野田内閣は国有化を断行したのである。確かに、日本政府は稚拙な対応をしたものだと今になれば悔やむ人も多いのだろうが、

石原氏のような人物が日本で喝采を得たのが問題なのではなく、日本社会に問題があったから石原氏のような人物が力を持てたのです。

こう言えば、姜氏と同じく、その昔の《進歩派知識人》の語り口に近くなるだろう。

結論には価値観が関係するので姜氏の主張に賛成することは多くはないが、論争するとすれば多分面白い論争が出来そうだという人物類型が、ずっと以前の日本には確かに数多くいたような気がする。

ものいえば くちびる寒し 秋の風

最近の世相が良いと感じる日本人は少ないのではないか。世相を形成するのは、政治家もそうだが、マスコミも関係している。政治とメディアの関係性に問題が生じているという認識は(日本については)正しい(はずだ)。力量が劣化しているというのは簡単だが、これまた

政治とメディアに問題があるから日本社会に問題が生じているのではなく、日本社会に問題があるから、政治とメディアの関係性にも問題が出てきている。

社会現象は、社会のメカニズムとして理解するのが、科学的思考である。そのメカニズムを語れる人は(多分)いま日本の中にはいないのだろうネエ・・・

2022年11月17日木曜日

ホンノ一言: 今7~9月期GDP速報がマイナス成長となった点について

今7~9月期のGDP速報が先日公表され、意外にも(!?)対前期比でマイナス成長となったことが、多くのエコノミストの驚きを誘ったようだ。

実際、ロイターでは次のように報道している。

[東京 15日 ロイター] - 内閣府が15日発表した実質国内総生産(GDP)1次速報によると、2022年7―9月期の成長率は前期比0.3%減、年率換算で1.2%のマイナス成長となった。4四半期ぶりのマイナス。内需に底堅さがみられる一方、対外サービスの一時的な支払いで輸入が増加したことが影響した。

ロイターが民間調査機関18社を対象にまとめた予測中央値は前期比0.3%増、年率換算で1.1%のプラスが見込まれていたが、結果は予想外のマイナスとなった。

GDPの多くを占める個人消費は前期比0.3%増。衣服や外食などが増加した。4四半期連続でプラスとなったが、前期の1.2%に比べて伸び幅は縮小した。

個人消費とともに内需の柱となる企業の設備投資は同1.5%増と、2四半期連続プラス。内閣府によると、半導体製造装置などが増加した。コロナ禍で先送りしていた企業の設備投資はそれなりに多いとされる。

民間住宅投資は0.4%減で5四半期連続マイナス。公共投資は1.2%増で2四半期連続プラスとなた。

輸出は1.9%増、輸入は5.2%増。外需寄与度は0.7%のマイナスとなった。「専門・経営コンサルティングサービス」部門で海外企業に対する広告費用の大口の支払いが7─9月期にあった。輸入の増加は一時的とみられるという。

Source:ロイター、 2022年11月15日9:53

プラス成長を予想していたところがマイナスの前期比成長率になったのだから、それは驚くはず ― ただ、数字そのものを見ると、4乗した年率では▲1.2%だが、生の前期比ではゼロ前後の▲0.3%。ほとんど統計的誤差の範囲ではないかと言われればその通りでもある。

そもそも前にも書いたことがあるが、GDPという統計は先ず暦年値が確報段階でトータルとして確定し、それを補助系列を利用して四半期分割している。速報は確定した数値を補助系列(=支出側データ)で延長した数字だ。故に、季節調整をかけて基調を算定するにしても、四半期分割の不自然が影響するシステムになっている。7~9月期は、加えて、貿易取引上の特殊要因があったとも言われている。輸入は控除項目だから何かの理由で増加するとGDPの下振れ要因になる。

こんな時は(普通は)前年同期比を見るものだが、最近は前年比を参考情報としても言及しないようだ — マア、記者レクでは担当部局が語っているのだろうが、クラブ所属の記者たちが機械的に、分からないながらも「実質季調済前期比」を文章にして送っているのだろう(と憶測される)。

なので、小生は景気動向指数を最近は観るようにしている。こちらは多数の月次データを総合した指標であるから、無理な四半期分割の影響はなく、個々に生じる季節調整の問題も相互に相殺されるので、マアマア、体感にマッチした動きになることが多い。実質GDPと対応するのは景気動向指数の中の一致系列である。

この統計はマスコミはほとんど触れないし、役所が公表する資料は使いづらい。なので、自分でこれに特化した簡単なアプリを作って定期的に確認するようにしている。

Source: https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/getdrawci/

明らかに、7~9月期は4~6月期に比べて景況が改善されている。

マ、こんな調子なので、足元の経済動向を把握するには、昔の定番であったGDP速報(QE)より、今は景気動向指数(CI)の方が使いやすい。そう感じているところだ。


2022年11月16日水曜日

断想: 合理的な生き方は幸福を約束するものではない

先週末、久しぶりに船橋にある両親の墓にカミさんと一緒に墓参りし、そのついでに津田沼で暮らしている若夫婦とちゃんこ鍋を囲んだ。

両国界隈には詳しくないので一目で分かる『霧島』にしたのだが、3年前に昼食をとった時に比べると、今回は大味に流れ、別の店にした方がシッポリとしてよかったかと、やや悔いもある。

いずれにしても下の愚息と話すのも久しぶりだ。この春先から秋までタップリと働かされたようで疲れがたまっている様子でもあった:

小生:仕事は気に入っているのかい?

愚息:まあネ・・・

小生:前にさ、ヒトの人生を左右するかもしれない仕事を、楽しんでやるなんて、そんな姿勢はダメだろと言ったのは覚えているか?

愚息:うん、覚えてるよ。

小生:だけどネ、自分が生まれながらに持っている素質とか、適性とか、才能と仕事の内容がピッタリと合ってると、何と言われようと仕事が楽しいという思いが自然にわいて来るもんだ。これ正に「天職」って奴だな。そんな仕事は他にはないかもしれないよ。大事にするんだな・・・

小生は小役人から出発したが、役所在勤時代を通して、仕事が楽しいと思ったことは一度もなかった。やりがい、達成感、等々、色々とプラスの思いを持つことはできたが、出勤する平日よりは休める週末の方が遥かに楽しかったものだ。役人仕事は小生には向いてなかった証拠である。

亡くなった父は一生を現場のエンジニアとして生きたが、自らの職業人生に満足していたのだろうか、と 思う時がある。

父はあるニュービジネス起ち上げの現場責任者となって事業提携先に出向して、3、4年間は苦闘したのだろうか、もう何年も前に投稿したように、体調を崩して心身を病み、挙句の果てに癌を患って人生を終えることになった。だから、父はビジネス戦士の最前線で討ち死にしたのだと思ってきた。

ただ、最近になってから、父はそのこと自体を悔いるような心情ではなかったかもしれないと思うようになった。

前にも引用したことがあるが、

人生、意気に感ず

功名、誰かまた論ぜん

父は、この初唐の政治家・魏徴の詩「述懐」の最後の一句が大好きだった。また、父の座右の銘は

己信じて直ければ、敵百万人ありとても我ゆかん

という「日蓮」の名句だった。

そういえば、日本史の方向を変えた暴走劇「満州事変」を主導した参謀・石原莞爾は熱心な日蓮宗信徒であったそうだ。大正から昭和初期のある時期、日蓮宗の思想が日本国内で影響力を広めていたのだろう。

ただ、確かに父は「日蓮の・・・」と話していた記憶があるが、どうやら上の句は吉田松陰が発した言葉として広まったらしくもあり、更にその原典を問うと松陰による孟子解題とも言える『講孟箚記』がベースとする孟子であるわけだ。

孟子から日蓮にどうつながっていたかはもう分からない。

どちらにしても、父の、というより父の世代は《行動主義》を信じていた。父が好きだった『人生、意気に感ず』も言葉を変えれば

理屈はどうでもいい!

という意味で、議論よりも行動を賛美する言葉だ。そこには道理とか、理屈が入る余地はない。まさに《志》あるのみ。そもそも幕末に活動したのは「志士」であって、「演説家」ではなかったわけだ。

だからという訳ではないが、父は家庭を顧みない所が濃厚にあった。父の世代の多くの人はそんな価値観をもっていたように思う。第一、そんな父の考え方を肯定している母がそこにはいたのだから、男性が横暴で、女性が抑圧下にあった、という情況でもなかったのだ。

小生は父に比べると、行動ではなく、理に走った人生を歩いて来たように思う。

遺された母や、母も亡くなってから家族だけで過ごしてきた小生の家族や、「守りたいモノ」を意識すると、行動主義ではなく、理性主義をとってしまうのではないだろうか。不合理なことは避けながら、健康には留意しながら、無理は避けながら、安全に無難に仕事と家庭との両立を求めてきた。これが小生の人生の主動機であった。こう総括できる。

頻繁に引用しているように、最も合理的に生きようとすれば、命を大事に、死を怖れ、危ないことからは身を避ける、そんな人生を選ぶものである。

人生、意気に感ず

とは真逆の生き方である。

そして、いま下の愚息に向かいあう時、自分が歩いたような人生をそのまま単純反復はしてほしくない、そんな気持ちを感じている自分がいる。

前にも投稿したように

要するに、死ぬか生きるかになれば、ほとんどの人は生きたいと願う以上、生き延びる方策のほうが正しく、死に急ぐほうは間違いだということになる。だから生き延びたほうが正しかったという理論がつくられ、事後的に死んだ方は間違っていたということになってしまうのだ。それは仕方がないことだが、真の意味でいずれが正しいかということは別にある。

こう考えると、担当した仕事が結果的にうまく行かず、それが一つの原因になって寿命を縮めたからと言って、父は必ずしもそのことで後悔していたわけではない。遺された母も、だから父を恨んでいた、というわけでもない。そう思うようになった。むしろ、「理に適ったこと」ばかりをしようとする小生に言いようのない不満を感じていた。こちらが真相であったのかもしれない。 




2022年11月11日金曜日

ホンノ一言: 法務大臣の突然の失言禍・・・何かの前兆か??

葉梨法相が自民党内のパーティーで「許せない失言」をしたというので大炎上している。

小生個人としては、自民党内の集まりで乱暴な言葉使いをしたからと言って、それを野党議員が問題視するのは、政治家たち自身にとっても自分たちの首を絞めるような行為であろうと、反対に野党議員たちの今後の身の上を心配するという気持ちに近いのだが、マア、言葉だけを聞けば、なるほど法務大臣には向かない人だネエ、と。そんな三流政治家であるのは分かる気がする。

それより懸念される点もある。前に、捜査中の《東京五輪汚職事件》に関連して、こんな投稿をしたことがある。

多分、元皇族である竹田さんだけは絶対に守る、と。高橋氏の首でフランスには納得してもらおうか。

森・元首相にとっての<Dデー>があるのかどうか、巷では色々な噂が飛び交った時期があったが、最近はめっきり聞かなくなった。やはり、安倍派議員を真っ向から敵に回すような政治家逮捕劇は法務・検察当局にも実行困難だと推測される。

それに比較して、竹田・JOC前委員長は旧皇族とはいえ、現在は皇族ではない。民間人である。大した権力は持っていない。マア、<丸腰>である。こちらを逮捕するか、という前兆のようにも感じられる。

ライオンを狙うつもりが余りにも強い。ここは綺麗な大物であるキリンを標的にするか、目的を変更したのか、と ・・・。ただ、皇位継承の危機を脱する切り札として、いま旧・宮家の皇籍復帰が議論されている(最中だと聞く)。それが本決まりになる前に・・・ということかもしれない。色々と思いめぐらすわけである。

となると、心配されるのは法務大臣の《指揮権発動》である。 現法相の舌禍事件を突然のタイミングで社会問題化することで、法務大臣の手足を縛ったか、政治からの干渉に先手を打ったか・・・と。そんな一抹の疑念を感じるのだ、な。

マア、天下の法務・検察官僚がそんな姑息な陰謀をめぐらすはずはあるまい。余りに露骨でミエミエで低級な策略だ。典型的な策略を実行するのは逆に困難なのである。なので、逆説的な理由から、こんな筋書きはないな、と思うわけである。

が、翻って考えると、こんな風に陰謀の可能性を憶測されるところが、アメリカのFBIとは異なって、どうも明朗でも剛直でもない、そんな組織的な弱みが日本の法務・検察当局にはある、ということかもしれない。


2022年11月8日火曜日

ホンノ一言: 「J‐アラート」をめぐる世間の(メディアの?)空騒ぎについて

先日、J‐アラートが(事後的に)誤報を出し、後で修正したというのが、メディアでは結構な素材になると意識されているらしく、予想外に盛り上がっているように見える。

「警報がなったからといって、私たちには何が出来るのでしょうか?」とか、「日本人には危機感がないと思います」とか、マアとにかく、色々な人たちが色々と思いつくことを発言している。

ただ、少しだけでも考えてみたらいいと思う。北朝鮮かもしれないが、あるいはその他の敵国から日本に向けて本当に弾頭付きのミサイル(弾頭を搭載していればもはやロケットではなくミサイルだ)が発射されたと仮定する。

当然、J‐アラートが出るだろう。

迎撃に成功すれば日本領土内には着弾しない。失敗すれば、どこかに着弾して犠牲が出る可能性が高い。

一つ言えることがある。

迎撃成功にせよ、失敗にせよ、ミサイルがこの1発のみであるなら、ほぼ確実にこの事態は何らかのアクシデントであると小生は思う。故に、不慮の、かつ不幸なアクシデントについて、発射国との間でどんな外交を進めるのかが問題になる。防衛省ではなく外務省の仕事になるはずだが、何かシミュレーションはしているのだろうか。これが問われるべき問題だ。そんな時、J‐アラートは機能したのかどうかという問題が、何をさておいても最重要な問題になるだろうか?

次に、アクシデントではなく、文字通りの戦争行為として日本にミサイルを発射したのだとしよう。その場合は、ミサイルは1発だけではないはずだ。数多くのミサイルが複数の国内都市を目標として発射されるはずだ。数10発のミサイルが短く考えても1週間ないし2週間の間は高い頻度で発射され続けるはずだ。平和な状況で設計した「J‐アラート」が本当の戦争状態の中で機能するのだろうか?本当にこんな戦争事態になれば、役に立たないと思うのだが、どうだろう?こんなケースで話すべき事は、日本は反撃するのか?どう反撃するのか?日本の交戦権についてどう認識するのか?現行憲法を停止するのか?こんな問いかけになるに違いない。

要するに、メディアが面白がって(?)話している「J‐アラート」という話題は、何だか極めて恥ずかしいレベルに感じてしまうのだ、な。

呑気も度を超せば不真面目になる。国防上の事柄を公共の電波を使って不真面目に語るべきではないだろう。

そもそもこの半年余りの間、戦争状態の中の一般住民のありようは、ウクライナ報道を通してほぼ全ての日本人に向けて、《視覚化》されて来ている。戦争の現実を丸ごとではないにしろ、平和な日本人に堪えられる範囲内で、映像は何度も放送されているし、ネットで動画を見ることもできる。ミサイルが着弾した大きな穴も、建築物に命中した際の破壊の度合い、壊された外観も見た人は多いはずだ。

そうした中でも、ロシア軍のミサイル攻撃が毎日続いている中で、ウクライナの首都・キエフや大都市・ハリコフの住民は、買い物に出かけたり、近隣を自転車で走行したりしている。外国人特派員によるインタビューに応えていると、近くにミサイルが轟音と共に着弾して、首をすくめたりしている。もちろん恐怖はあるのだろうが、生きていくには食事も必要だ。そんな「戦時の市民生活」の風景が淡々と流されていたのを多くの人はまだ覚えているはずだ。他国との戦争が始まってミサイル攻撃を受ければ受ければで、あれが日常となるのである。そんな日常化した毎日の中で役に立つJ‐アラートこそ(あるとしたら)あるべき「警戒警報」というものだろう。

確かに不幸である。しかし、ヒトは環境に順応する。ウクライナの人が順応したように、万が一、日本国内で戦争状態が現実になったとしても、日本人は順応するだろう。

ほろび行く 国の日永や 藤の花

戦いに 国おとろえて 牡丹かな

終戦後の昭和21年5月、永井荷風が詠じた俳句である。平和を守ることが鉄則である。しかし、戦時には戦時に日本人は順応する。敗戦の中でも人は俳句を作るのだ。J‐アラートのあるべき姿がどれほど大事な問題か。正直なところ、

今はあんまり関心ねえなあ

こんなところだ。敗戦直後の日本には強烈な敗北感、喪失感が蔓延していたであろう。しかし、小生の両親は20代前半をそんな「戦犯国」で過ごしながら、その当時のことを思い出したくもない過去の時代として記憶していた様子でもなかった。思い出話しを聴いた限りでは、役にも立たない「空襲警報」に振り回され続けた毎日がこれで終わったという安堵感のほうが、より強く心に残ったのかもしれない。

上の荷風の句は、詩的心象の表現というより、

それでも人生は続いた

こんな当たり前である事実をそのまま写生したものとして読む方がよい。

そんな、こんなで(地震速報と類似の政府サービスの意図なのだろうが)「J‐アラート」を話題にしても、「お疲れさん」という程度のことで、どうもサッパリ入っていけない自分がいたりするわけだ。


北朝鮮がミサイルを発射しようが何だろうが、

日本は平和である

平和を大前提とする。故に、飛んで来たミサイルは平和な日本への闖入者である、こう認識する。戦争手段であるミサイル攻撃にどう対応すればよいのかではなく、アラートをどう流せばよいかを考える。こんな問いに頭を使う。アラートの次のことは考えない。実に呑気で、矛盾に満ちているではないか。これまた《平和ボケ》の典型だと思う。


結局のところ、<戦争状態=交戦状態>を前提することが理屈として出来ないところが現行憲法の本質的欠陥であると思うのだが、この問題はもう国会で解決済みなのだろうか?どう解決しているのだろう?日本は他国と交戦できる、自衛戦争なら普通に戦争が出来るという解釈で決着しているのだろうか?そうは思っていない日本人は多いと思うのだが。

J‐アラートを話すなら、こちらの問題の方が遥かに大事だと思うのだが、いかに?


【加筆】2022‐11‐10

2022年11月7日月曜日

断想:「国内派」、「国際派」は昔から対立するものだが・・・

夢の内容を書き留めるのはバカバカしい。が、昨晩の大河ドラマでは源実朝が夢日記のことを語っていたし、というか、古来、世紀の難問を解決した証明や大発見など、夢がヒントになった例は数えきれない。湯川秀樹が昭和24年にノーベル物理学賞を受賞したが、その時に評価された中間子理論も夢がきっかけであったと伝えられている。研究業績などさして誇れるものを持っていない小生であるが、それでも夢の中で証明を思いついたり、新しいプランを着想したりした経験は多く、いい夢をみると、忘れないうちにメモしておいたものである。

今朝、起きる前に見ていた夢も、大した内容ではないが、面白いやりとりであった。誰かと雑談をしていた(ように思う):

友人:「戦略」という言葉は嫌いだな。なんだか右往左往しているイメージしか伝わってこないからネ。

小生:最近10年かその位かなあ、戦略、戦略と言い出したのは。

友人:普通に「政策」と言えばいいんだヨ。ロクな「政策」を決められないから、「戦略」などと言って、政策以上のことをしようとしている印象を作りたいんだろう・・・「戦略」、即ちアリバイ造りだな。素直に「こうしたい」って、簡単直截に、言えばいいのにね。戦略よりは目的が本質だろ?

小生:戦略的な政策形成ってことなら、先ずは《国際外交戦略》ってことになるのが、今の世間の常識だろう?

友人:浅はかだよナア・・・全く!憂慮に堪えんとはこのことさ。

小生:何だか老人のボヤキだな(笑)。じゃあ、何が最重要なんだ?

友人:自分が暮らしている社会を「国」として意識するなら、先ず《人口政策》がある。人口政策を前提にして《経済政策》がある、その上に《社会政策》その他の《国内政策》があって、これらの国内政策を実現していくための《外交政策》が決まる。これ以外の理屈があるかい?この理屈は、日本だけじゃあなくて、ドイツやフランス、韓国やベトナム、アメリカや中国といった超大国にも言えると思うけどな。

小生:なるほど・・・、つまり、人口を増やしていくのか、減らしていくのか、平均寿命をどう予測するか、出生率・死亡率をどう見込むか、先ずこれからスタートするわけだな?で、見通された人口が、食っていくためには、何をすればいいか?食料をどう供給するか?労働生産性をどの位に見込むか?食料を輸入するなら、どの位、輸入するのか?外貨は調達できるのか?どんな産業にどのように国内資源を充てていくか?そんな経済政策が必要だ。経済政策が前提になって、教育、科学振興、文化が来る。それで日本の未来社会が展望されてくるから、最後にその理想をどう実現するかを考える。そのための外交をどう進めるのかを考える・・・そう言いたいわけだな?

友人:マ、そういうことサ。こんな原理原則は『三国史』の時代から変わらないヨ。ところが、いまはどうなんだ?まず「外交」が来ているじゃないか。阿呆らしい。対アメリカ外交をどうするか、対中外交をどうするかで、残りの政策を決めているみたいだ。決まった外交を続けるために日本国内で何をするかを決める。そんな順序になっているとしか見えないネエ。アタフタ感、オロオロ感、漂流観があるのはそのためサ。《逆転の発想》は大事だけれど、そんな洒落たものじゃあない。とにかく「外交ありき」だ。じゃあ日本の外交の目的とは何だ?問題を起さない。アメリカにとってプラスの事をする。「価値観の共有」とは言いえて妙だよ。俺にはそうとしか見えないがネエ・・・

ここで、どう言えばいいのかを考えている内に、目が覚めた。ただ、夢の中の正体不明の友人が最後に言った次の台詞

友人:だから、今のロシア=ウクライナ戦争でドイツが苦難に陥ってるけど、ドイツのこれまでの外交方針は間違ってはいなかった。ドイツが今度の紛争にどう対応しようと考えていたか。それも誤りではなかった。そう思ってるヨ。ドイツをここまで追い詰めたのは、ドイツに対するイギリスの「永年の嫉妬」っていう奴さ・・・。ジョンソン首相も辞任したから、これから流れは変わると思うけどネ。

夢とは言え自分が考えているわけだから、なんだか気になっていて前にも一度投稿したことが、何カ月もたったあとで胸の奥からまた表面に浮かび上がってきたということかもしれない。


確かに家族が幸福に暮らすなら、家族のことを真っ先に考えなければならない。隣人との良好な関係は家族が幸福に暮らすためのツールで、隣人と良い関係を続けること自体が目的ではない。隣人関係を守るために家族が大事な事で我慢をするのは本末転倒である。

マ、それはそうなのだが、それにしても何を考えて、こんな夢を見るに至ったか、その理由がよく分からない。


2022年11月3日木曜日

断想: 「無法な民主主義」、「無能な民主主義」、「呑気な民主主義」、他にも色々とありそうで・・・

北朝鮮が多数発の「ミサイル発射実験」を繰り返している ― 弾頭のないミサイルはミサイルではなくロケットだという人もいて、「ミサイル実験」ではなく、「ロケット実験」というのが正しい、と。確かにそれが正論ではあるが、ミサイルという言葉をここでも使うことにしよう。

今朝も東北地方の一部では<J‐アラート>が鳴ったという報道だ。

ただ鳴るには鳴ったが、ミサイルは日本列島越えで太平洋には達せず、日本海上空でどうやら消失したということだ。多分、発射失敗で爆発したのではないか等々と自衛隊OBがTV画面の中で説明していた。

一度は日本列島越しに太平洋に達すると軌道予測しながら、消失したと修正した点が、ワイドショーのMCには気になるらしく、なぜ修正するに至ったかという点を細かく追及していたのは、

話しは細かく、中身は薄く

の典型であった。文字として出来栄えがずっと残る新聞とは異なり、時間内に尺を埋めればよい電波メディアには、こんな作り方でお茶を濁すことも出来るのだろう。

(多分)発射失敗ではないかと思われます。

との自衛隊OBの憶測に対して

まさか

なぜ失敗したのでしょうか?

なんて、ワイドショーのMC、聞かないヨナと、ちょっと心配になりました。

打ち上げているのは北朝鮮で日本ではありませんから、詳しいことは北朝鮮政府に聞いてください。

と、まあそんな回答になるしかないが、実際にこんなやりとりを聴いてみたくもあったネエ・・・。


ある人は、

日本領土に損害が及ぶ可能性があるときは迎撃、破壊するのでしょうが、それでも着弾してしまった場合の行動マニュアルはあるのでしょうか?

と質問していた ― 憲法上、そんなマニュアルの作成は「交戦権」を認めることにもなりかねず、作成不可能が理屈だと思われるが。もし破壊した時に、国内に飛散するミサイル破片が民家の屋根を壊してしまった際には、政府は損害賠償するのだろうか。そんな「皆さんからの質問」もテレビ画面の中でいかにも出てきそうである。

あるいは

飽和攻撃を受けた場合にはどうするのでしょう?

と疑問を提出している人もいるようだが、それを言うなら、北海道利尻島にロシアの上陸部隊が奇襲してきた場合はどう反撃するのかと聞いてほしいところだ。5千人弱の島民を人質に取った露軍を駆逐するために、人命の犠牲は一定程度覚悟して、自衛隊が空爆をするか、強攻上陸するかして反撃するのだろうか?するなら早ければ早いほど効果的だが出来るのだろうか?イヤ、質問してほしかったネエ・・・


どうも全体として俯瞰すると、北朝鮮がミサイルを発射した時の日本国内の反応振りは、いかにも一昔もふた昔も前に団地の奥さん達で盛り上がっていた「井戸端会議」を思い出させるものであった。

民主主義といえば民主主義ではあるが、あまり役に立つ民主主義ではない、実益はほとんどないおしゃべりに堕している印象だが、番組編成側はどんな考え方でシナリオを作っているのだろう。


いずれにしても、アメリカでバイデン政権となり、韓国で尹政権に代わってからは、北朝鮮の姿勢は一変したかに観える。

小生: ト大統領ならこんな風な状態にはならなかったんじゃないかネエ・・・

カミさん: そうかなあ・・・

小生: マ、「無法」なところはあるけど、「結果」は出せる所があったからネ。

カミさん: いまのバイデンさんはどうなの?

小生: う~ん、結果は出せてないんじゃない?観方によるけどね。印象は悪いナア。コロナ対策はしっかりやったって言う人が多いようだけど、アフガニスタン撤退と、ロシア=ウクライナ紛争への対応振りはどうかネエ?世界経済はもうメチャクチャだからなあ、トランプさんなら戦争は食い止めたって言う人は多いみたいだよ。落としどころを探すには性格が向いているかもしれないね。

カミさん: それにしてもウクライナの人、頑張るね。

小生: 頑張っている間は絶対応援するって、バイデンさん、言ってるからね。イイ人なんだろうな。ま、<無法>と<無能>の違いってことかネエ・・・

今朝もカミさんとこんな話をした。そのバイデン政権も中間選挙の結果によっては手足を縛られそうだ。ト大統領は<ロシア疑惑>で足元が揺らいだが、今後はバ大統領が<ウクライナ疑惑>で追求される可能性も高まって来そうな塩梅だ。

今年の3月時点で「ウクライナ戦争」に思う所を書いておいたが、いま改めて読み返すと、ますます最初の感覚が当たっている、そう思う今である。

要するに、政治の失敗の責任をとるべきところが、開き直って「正義の戦い」を外に拡大している

こういう事でしょう、と小生には思われる。つまりは、プーチン大統領、バイデン大統領、お二人とも次の選挙のことが心配なのである。

これが物事の本質だろう。

この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

2022年11月1日火曜日

ホンノ一言: 主要国のビジネス心理と消費者心理について

 《国民心理》というのは、政治家やエコノミストにとっては切実だが、非常にとらえどころのないモノである。

メディア、例えば新聞報道やTVのワイドショーの話しぶりに国民心理は表れるものだと言う向きもあるが、だからと言って真面目に聞いていると、細かい話をしている割にはデータの裏付けもなく、的外れでバカバカしい説明があったりする。

この数日間めっきり目立つ「国民心理」に

とにかく物価を下げてほしい。インフレを何とかしてほしい。

というのがある。気持ちはとてもよく分かる。が、ここで

やっぱりデフレの方が価格が下がるからイイでしょう?

と聞くと、多分、

デフレだと賃金が上がりませんよね。それは困るって言ってるでしょ!

と、逆に叱られたりするンだろうなあ、と。そう思ったりするわけだ。

まったく理屈の通らない不満、というかフラストレーションを抱えているのが現状だと思う。一口にいえば

どうすればいいんダヨ。泣きたい毎日だよ。

と、ある意味、足元の国民心理を表現すると、こんなところではないだろうか。

しかし、経済の現実から言えば、二桁インフレ率が進行中のイギリスなどの方が、よほど厳しい生活を余儀なくされているし、今冬は何とか過ごせそうだが次の冬を予想すると、これまでの経済モデルが完全に破綻したドイツは文字通り<お先真っ暗>である。何しろBBCの報道にあるとおり

イギリスのエネルギー規制当局は26日、家庭の電気・ガス料金の上限について、80%の引き上げを発表した。国内の専門家や慈善団体は、人命が危険にさらされる恐れもあると警告している。

Source:  BBC、 2022年8月29日

これは8月末時点だが

  イギリスでも値上がりが続き、10月から電気・ガス料金が80%値上げされた。在住日本人女性は「すべての物が高騰したので節約のしようがない」と話す。1カ月の電気料金は192ポンド(3万1000円ほど)で、東電のモデル価格の3倍という。セントラルヒーティングを切り、家の中でコートを着て、1階にあった仕事場を日当たりのよい2階にうつした。

URL: https://www.j-cast.com/tv/2022/10/13447937.html?p=all

Source:  JCASTテレビウォッチ、 2022年10月13日11時54分

これは10月13日時点。 

ヨーロッパでは人命の危険すら云々されている経済危機が進行中なのである。それに比べると・・・という目線は絶対に必要な意識だと思う。

確かに円安で日本国丸ごとのバーゲンセール状態になっているのは苛立たしい。インフレの原因の一つでもある。円安を放置している日銀には怒りを感じるだろう。

とはいえ、国内の生産活動を拡大し、海外に安売りすれば利益は出る。日本人には馴染みの深い《輸出立国》である。競合品は入って来づらくなるので、安い輸入品による値下げ圧力は弱まる。長い目で見れば決して悪い話ではない

 ― マア、昭和の昔に逆戻りするようで「日本人のプライド」は傷つくだろうが、翻って考えると、いわゆる「経済大国日本」を造り上げたのは、終戦後に大学を卒業した「戦後第1世代」、今では80台後半から90代の年齢層に差し掛かっている人たちで、彼らこそ真の意味での「経済戦士」、「往年の勇者」、「敬うべき老兵たち」なのである。

その後に続いた世代は、(小生も含めて)何の発展も成し遂げられなかった「不肖の世代」である。結局、今になってみると「外国の後追い」から脱することが出来ず、かつ革新を起せず、新しいモノを産み出せず、(要するに)遅れてしまった。いま、世界第一の公的債務を積み上げ、ロクな政治をしていないにも関わらず、日本に余裕が残っているのは昔のツワモノ達が形成した莫大な資産が残っているからだ。小生が属する世代は、親が建てた旧くて雨漏りがし始めた屋敷に住み、親が築いた会社で名ばかりの取締役をしながら、会社の将来には何の貢献もできないまま、それでも不平を呟きながら、苛々と毎日を過ごしている馬鹿な子供達のようなものである。だから、そもそもプライドなどは持てる資格がない、というのが小生の感覚である。

プライドを持てる根拠は実績のみ。先祖の実績ではない。自分自身の実績である。

これは時代を問わず、国を問わず、当てはまる鉄則ではないだろうか。

OECDはBusiness Confidence Index(BCI:日本語でいえば「企業マインド指数」に語感が近いだろうか)とConsumer Confidence Index(CCI≒消費者マインド指数)を毎月公表している。

そこで主要国の最近の両者の動きをみると、BCIの方は



このように特にイギリスの急激な悪化が目立っている。が、全体として観ると、主要国のビジネス心理は概ねシンクロしながら変化してきていることが分かる。レベル差をみた場合、日本企業よりは苦難に陥っているドイツ企業のほうが寧ろ高めに出ている点は大いに疑問なのではあるが、これも日本企業の《慢性悲観症》の表れだと解釈すれば、情けないながらも『そうかもしれないネエ』ということかもしれない・・・。

上図は企業マインドである。下図は消費者マインドの動きだ。


これまた英国民の極端な悪化が目立っている ― マ、当たり前だと言える。足元の消費者心理は、極端に悪い英国民とその他の国民、という風に二極化しているのが現状だ。ただ、全体としてみると、マクロ経済の動きに従って主要国の間で概ねシンクロしながら変化している企業マインドに比較すると、消費者マインドの方は各国マチマチの変動パターンを示している。この事実は、国民心理なるものは客観的な経済指標に沿って変動しているというよりは、国ごとの国情や政治的安定性など数字以外の国ごとの違いが国民心理に強く影響している。そう考えることができそうだ。

面白いのは、日本の消費者マインドが足元で悪化しているのは各国と共通だが、悪化の度合いが小さくて済んでいる。もともと日本の消費者心理は外国に比べると「低調」だったのだが、更に大きく悪化しているわけではない。これは、今のところ「ウクライナ戦争」や「世界的インフレ」の影響から日本は相当程度免れて海外よりは平穏な毎日を送れているという事の表れだろう。テレビなどではイギリスが大変だと叫んでいるが、逆に日本社会の「相対的安定性」を確認して一先ず安心している、そんな国民像が浮かんでくる・・・。


それでも日本人はフラストレーションを抱えている(ように見える)。それはもう足元の経済動向を超える根底的な背景があるからだ。たとえば<日本病>でブログ内検索をかければ幾つもかかってくるように、日本の経済、社会が「日本病」に罹っているという意識も持たされず、率直にその事実を(日本語で)指摘してくれる経済専門家にも恵まれず、ただ何とか頑張ってほしいとのみ言われ続け、先行き望みがないという不安をのみ感じさせられている。こんな日本人の不幸はどこか前にもあったようで、デジャブ感を催させるものではないか。





2022年10月29日土曜日

メモ: 日本経済の最大の問題を解決する・・・いま絶好のチャンスが来たのにネエ

 野球で1死満塁といえば絶好のチャンスだ。しかし、それでも確実に得点できるとは限らない。スクイズが失敗すれば、最悪の場合、ゲッツーで無得点。打ってもショートゴロ併殺でゲッツーかもしれない。安全なのは四球押し出し狙いが最も安全だが消極的に過ぎる。ここはリスクを覚悟して、強攻かスクイズか、指示を出すのが監督の役割である。野球は点をとって勝敗を競うゲームなのだ。点を取りに行くのを怖がってどうする・・・という理屈は最初からある。

いま日本が置かれている現状で日本国民の意見が分かれているわけではない。

  1. 海外では上がっている賃金が、日本では20年間ずっと上がらない ― 韓国にも抜かれてしまった。上げるべきだという点で国民の意見は一致している。
  2. 海外では金利を上げてインフレを抑えようとしているが、日本ではゼロ金利をずっと続け、金利を上げられないでいる。それが急激な円安を招いている。物価上昇の原因にもなっている。日銀は金利を上げるべきだ。この点でも、国民の意見は概ね一致しているかに見える。

賃金が上がらない。金利が上がらない。この二つが日本で大きな問題であるのは、ほぼすべての日本人で共有されている問題意識だと言ってもよい。

いま世界はインフレに悩んでいる。海外は例外なくインフレを止めようとしている。日本の国会でも『なぜ金利を上げないのか』、『お辞めになったらどうか』などと日銀総裁が責められている。TVのワイドショーなどでは『上がらない賃金、どうすれば上がるでしょうか?』などと連日のように話題になっている。

日銀が決断すれば金利は上げられる。実質金利は日本経済全体から決まってくるが、名目金利の引き上げなら日銀には可能だ。

それから賃金だが、これも名目賃金である。実質賃金ではない。実質賃金は一人一人がどれだけ効率的に仕事をしているかに依存しているので政府がコントロールするのは難しい。しかし、名目賃金なら上げられる。いま多くの企業では初任給が最低賃金スレスレになっている。だから最低賃金を上げればよいのだ。それにどう対応するかは民間企業側の創意工夫に任せるべき事柄だ。政府が命令したり、指導したり、配慮したりするべき筋合いではない。政府は政策実行の結果をみて、次の政策を考えるべきだ。

マクロ経済政策において、政府・日銀に出来ることは幾つかある。昨日「総合経済対策」で29兆円の財政出動(財政投融資分を含む)が決定されたが、確かに「財政」は政府に出来ることである。

しかし、賃金が上がらない、金利が上がらないという最優先の経済問題にどの程度効果的かといえば、所詮は電気料金、生活支援など小手先の対処策だと批判されても仕方がない。

行政府の長である総理大臣は、高校野球で言えば、監督に当たる。いま、金利を上げるように日銀と協議をする。最低賃金を今後引き上げていく方針を発表してそれにコミットする。これに反対する国民の声はまず(?)出ては来ないだろう。

インフレと円安を心配する国民の声が社会に満ちている今は、《賃金引上げ》、《金利引き上げ》を強行する《絶好のチャンス》ではないか。

最優先の課題をまず解決する。それに伴って派生する次の問題は、次のステージで解決する。

これがアメリカ生まれの品質管理(QE)の鉄則《重点志向の原則》の考え方である。

全ての問題を同時解決できる《名案》があったり、神速のスピードで全ての問題を瞬時に解決できる《天才》がいれば、それらに頼ればよい。しかし、名案も天才もないのである。

絶好のチャンスに打つべき手を打たないとすれば、

賃金引上げも、金利引き上げも、ヤル気がないってことですネ

と思わずにはいられない。

為すべき政策を既に20年余りも先送りしてきた。今回のイギリスが直面したような危機に現実に直面して初めて決断するという選択肢もあるが、英語を武器に世界のどこにでも移住して働ける英国人とは異なり、狭い国土で生活している大部分の日本人には国家的危機に陥ったときの惨めさがより痛切に感じられる。打つ手があるうちに手は打つべきだ、というのは何もプーチン・ロシア大統領のような脅しではない。真っ当なエコノミスト、経済学者がそう力説しないのは、世間の嫌われ者にはなりたくないという単純な理由からだろう。

日本に残された時間は長くはない。今回の世界的インフレは千載一遇のチャンスだ ― ひょっとすると、最後のチャンスかもしれない。

こう考えるのが本筋だろう。

ただ、実際に賃金、金利を引き上げれば、そのコスト増に堪えられない脆弱な企業は非効率な所から順番に倒産していくはずだ。

倒産した企業にいた従業員が人出不足の分野に移動していく。失業手当と職業斡旋システムを分厚く準備しておくことが大事だ。

このような《産業効率化》を日本は(追い詰められてか、政争の果てにか)何度かやったことがある。最初は大隈重信蔵相による放漫財政を否定して思い切ったインフレ抑制へと舵を切った「松方財政」。これは憲法草案をめぐる伊藤・岩倉と大隈との政争もあったし、西南戦争後の混乱に対応するという大義名分もあった。2回目は先日の投稿でも引用したが、浜口雄幸内閣による「金解禁」だ。そして3回目が昭和20年代のGHQ主導下で断行した「ドッジライン」である。その直後の朝鮮戦争による特需に生産面で対応できた背景としてドッジラインの中で進んだ産業再編を見逃すべきではない。

数は少ないが、これらの「荒療治」によって、日本の国内産業は苦難に満ちた再生を遂げることができたという前例は、現時点の日本人にとっての教訓でもあり、慰めでもあるのではないだろうか。要は

所得を増やしたいなら、何をすればいいか、自らが食える道を探していく

他にどういう言い方があるだろうか?同じ目的を達成するためのソフト・ランディング戦略が存在して、実行可能ならとっくに実行しているはずだと思うが、いかに?

さて、足元の話しになるが、コロナ禍で表面化した大きな問題は、日本の倒産件数が異常に減少しているという事実だ。大量のゾンビ企業が、大量の潜在的失業者を抱えて、一方では観光、運輸などの分野では厳しい人出不足に悩んでいる。同じ事実は広く認められる。

資源のミス・アロケーションとこれを調整できない日本経済システムの(ガチガチともいえる程の)硬直性は、コロナ禍が始まって以来、露わになっている。望まれる方策はもう明らかである。経済専門家の意見も(ホンネ部分では)一致しているはずだ。要するに「日本病」だ。最近も関連する投稿をしたが、同じ内容を繰り返すまでもない。

日本は社会主義ではないので企業、家計に細かい指示を出す計画経済は採っていない。政府は(法律で認められた)政策変数を操作するだけで、後は市場規律に期待する。自由経済体制である以上は、このやり方にシンパシーをもって、経済的成果を出していく。これが戦後日本の建て前である。ある意味、(どの国もそうだが)政府の政策が効果を発揮するためには、その国が前提としている<精神的基盤>、というか<気風>とも<エートス>とも言えるが、そうしたものに国民の多くがシンパシーを感じて、というか多数の人が社会を肯定して、自信をもって行動していくことが最大のキーになると思うのだ、な。そんな条件の下で政府の政策が有効に機能する。

反対に、国民心理が法制的枠組みの前提になっている価値観にシンパシーを感ぜず、疑問ばかりを感じてしまうと、政府が法の枠組みの下でいくら政策を実行しても、それが善い政策とは国民が感じない。不満をもつばかりになる。これでは政策の効果が出て来ないばかりか、不祥事やトラブルも続出してしまう。

英国のサッチャー元首相が「サッチャー改革」を開始する前後に言ったという

... they are casting their problems on society and who is society? There is no such thing! There are individual men and women and there are families  ... (出所はここ

これは結構好きで、本ブログでも何度も引用しているのだが、「自由主義」や「民主主義」を徹底的に突き詰めていくと、個人よりも先に社会という存在を前提しようとする精神的態度はどうも相応しくない。こう考えざるを得ないと思っている。 だから、主権をもっている国民と政府との関係は、

オーナーである国民と事務局である政府

つまり、ゴルフクラブの正会員と事務局の関係に近いものであるべきだというのが小生の立場である。ということは、何かコースが荒れて困っているとして、『事務局が何とかしてヨ」という姿勢はありえない。コース整備費の不足を補填する臨時会費のとりまとめを事務局が担当する。そんな仕事が政府の役割である。

そもそも政府は必要最小限の小さいサイズでいい。大体、弱くて小さい政府は巨額の国債など発行できない。強い政府だからこそ国債の大量発行が出来るのだ。日本もそうである。毎日ナンダ、カンダと悪口を言ってはいるが、それは好きだから言っているのであって、日本人は(心の底では)日本政府を信用している、身近の仲間、市民、同業者よりは政府を信用している・・・としか見えないのだ、な。だから巨額の借金をしてもそれを許している。しかし、強い政府を求める国民心理はなるべく早く治した方がいい。小生は本当にそう思っています。

マ、そういうことであります。


春夏の甲子園大会で、ベンチ入り可能な選手数を18名ではなく、30名に増やせば(やはり)喜ぶ選手は多いはずだ。しかし、実際に試合の中で起用されるのは30名全員ではない(はずだ)。ベンチに入るとしても実質的には外れている部員は多いだろう。そこで、もしも文科省が『学校教育の部活動ではなるべく多くの生徒にチャンスを与えるべきである』と、そんなコメントを出せば、現場の監督は実力に関係なく30名の中から順に打席やマウンドに送る部員を選ばなければならなくなる。確かに<公平>といえば公平、<良い教育>といえば良い教育だが、<日本の野球>を考えたときに失うものは大きいだろう。全ての目的を同時達成できる方法というのは、求めても得られないものである。

同じ論理構造は、色々な問題に当てはまる。

※ 初稿後加筆:2022‐10‐30、31


2022年10月26日水曜日

断想: これ、社会的スケールの「知的能力」衰退の原因の一つ?

 『とにかく新聞を読め』という台詞は小生が若い時分に年長世代から何度となく強く奨められたことである。今でもテレ東のWBSのCMでは、商談を終えた後のビジネスマンを演じる俳優・長谷川某が『日経を読んでいたから助かったあ』などと話しているから、昔とナ~ンモ変わってないネエと、笑いたくもなる。

言う側はそう信じて言っていたのだろうが、言われる側は「自分がやってきて良かったと思うから、だから、お前もやれ!」と言っているとしか聞こえず、かつまた新聞社のマーケティングがここにあり、という感じもして、あまりいい気がせず、へそ曲がりの小生は馬耳東風で聞き流していたものだ・・・が、しかし、最近になって考え直すようになった。

~*~*~

知識を身につけるには《耳学問》が最も効率的である。

特に、数理的なことは本を読むのがしんどいし、新しくて、しかも基礎的な概念を理解するのには時間がかかる。時には何年もかかったりする。一言で言えば、文字情報で新しい知識を習得するのは、非常に難しい。分かっている人から先ず話を聴くのが最も良い入門法だ。

但し、話を聴いてから、次に良いテキストを最低限1冊は始めから最後まで読み通す。必ず文字情報で読む。これが不可欠である。

話しを聴くだけでは実力にならない。耳学問が有効なのは入門段階、あとは何か壁にぶつかったタイミングだろうか。この辺の事情は知識、学問、芸術、スポーツ、すべて同じだと思う。

話しは単なる情報なのである。たかが情報、されど情報ではあるが、情報は知識と同じではない。耳で聴いた話を考えて、できれば早めに文字情報で補って、頭を使い理解し定着させて、知識として身につけることが出来るかどうかが決定的に大事だ。身につけて初めて問題解決にも使えるし、意見も言える、提案もできる。

この《知識形成のルーティン》がスキップされているのじゃあないか、新聞の衰退が関係しているのじゃあないか、というのが本日投稿のポイント。後は付け足しかもしれない。

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近年、新聞の発行部数が急減する一方で、YoutubeやPodcastなど配信メディアが情報源として急成長している。その理由は

その方が楽である。時間が節約できる。

この一点が理由のほぼ全体を占める(はずだ)。要するに

私、忙しいんですケド・・・

こんな社会背景が本質的であるわけだ。情報収集にばかり時間をかけられないという社会事情がある(はずだ)。

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祖父母や両親の世代は、確かにラジオはあったし、戦後にはテレビも放送を開始したのだが、やはり<新聞世代>であった。新聞と音声メディアとの違いは熟知していたし、音声メディアがラジオで何かを解説しても頭にはよく入らなかったに違いなく、自ずから限界があった。

亡くなった父は「朝日新聞」と「日本経済新聞」を購読していて、毎日、記事全体を精読していたものである ― ということは、毎日通勤する生活の中で、新聞を精読する時間を持てていたわけでもある。

祖父母の宅を訪れると、テーブルの上には「朝日新聞」と「愛媛新聞」が置かれていた。

少し以前の家庭ではありふれた風景である(はずだ)。


拙宅も今は新聞購読はバカバカしいので止めてしまったが、愚息が大きくなるまでは「日本経済新聞」と「北海道新聞」、それに加えて「朝日新聞」か「読売新聞」が入ることもあったが、複数の新聞が毎朝届けられていた。

両親の世代とは違って、小生はすべての新聞の全紙面を丁寧に読むようなことはなかった。

とはいうものの、新聞を読むという行為は、話を聴くという行為に比べると、遥かに主体的であって、例えば小生が尊敬する大先輩は<3行広告>や<求人広告>、<尋ね人>欄を丁寧にチェックするのが大好きだった。そこには時代時代の経済活動や世相が映し出されているというのだ。

世間の井戸端会議で盛り上がっている大事件について「あらまし」を知っておくにも、目の前にある複数の新聞の書きぶりを読んでおくのは、自分の認識を形作るうえで非常に効果的であるし、大事な事でもある。新聞社によって同じ問題を報じるにも予想以上に大きな違いがあったものだ。何をトップ記事にするかにも、編集側の観点が反映されるが、その違いは紙面の違いから誰でも簡単に見てとれるのが「新聞」という媒体だ。


Youtubeであれば、多くの人が同じ問題について、関係者の思惑や価値判断に影響されることなく、(おそらく)自由に話しているので、何人かの専門家(?マークがつくのではあるが)の話しを再生して聴けば、かなり有益であると思う。そして、これに要する時間は複数の新聞を読むのに比べると、ずっと短くてすむ。

新聞は、文字になるので、アカラサマな虚言は書けない。それでも書き手の主観は入る。しかし、その主観の違いは、複数紙を読み比べることで、誰でも簡単に読みとれるのである。その昔、産経は右翼、朝日は左翼と、誰でも簡単に見てとれた違いを、いま各TV局の各報道番組から、簡単に聴きとれるだろうか?最近もワイドショーのコメンテーターの虚言やMCの暴言をめぐって、電波に乗った発言で世間で騒ぎになることがあったが、発言の間違いと書かれた文章の間違いでは、明瞭性が違う。責任もまったく違う。この違いが情報としての確度、価値へどうつながっていくかは結構大きな問題だと思う。

人は、読むときには頭を使って読むものだが、話を聴くときは相手の話をそのまま聴くものだ ― 相手が一方的に話すのを考えながら聴くという動作は難しいものだ。

新しい知識を身につけるには、先ず分かっている人から話を聴くのが最も簡単だと、上に述べたが、それは一方的に聴くのではなく、疑問や不審な箇所を質問しながら、対話するのだ。

聴くという動作と、対話するという動作では、頭をつかう度合いが違う

極めて残念ながら、今の電波メディアで放送している情報番組では、ほぼシナリオ通りなのだろう、最初から予定された(かに見える)会話があるだけである。そこには対話性がなく、一方的で、従って「井戸端会議」ですらないわけだ。 

これなら最初から虚構だと知れているドラマの方に客観性がある。外観と中味が乖離していないからだ。実にひどいパラドックスではないか。

~*~*~

ミステリーの古典『シャーロック・ホームズ』を読むと、19世紀から20世紀初頭のロンドンという舞台で、新聞が果たしていた役割がよく伝わってくる。依頼される事件の捜査の前に、新聞各紙ではどんな情報が公表されているかを全新聞を(隅から隅まで)チェックして把握しておく。それから現場に足を運ぶ。こんな情景が繰り返し出てくる。

戦後日本の新聞全盛期において、大手新聞の発行部数は概ね600万~800万部といったオーダーであったろう。朝・毎・読・産経・日経を合計すると3千万部というところか。更に各地方紙がそれぞれの地方で読まれていたので、その頃はほぼ全ての日本人が、毎日、(何種類かの)新聞なる情報源に接していただろうという推測になる。

文字情報を読むというのは「頭を使う」動作の第1歩である。

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Youtubeなどの動画情報の拡大と文字情報の減少は、「読む」から「聴く」へのシフトになる。

これがご時世といえばご時世だが、そもそも書くよりは話すほうが遥かに簡単だ。中身のある事をしっかりと書こうとすれば、書くことをしっかり理解しておかないと文章にならない。それでも話しは適当に出来るものである。書かれた原稿なしの<語り>は低コストで出来る。誰でも知っていることだ。だから、人の話しを聴いて情報を集めるのは、話すほうも低コスト、聴く方も低コスト、時間的にも低コスト。ノリが軽くてすみ楽チンである。何だか現代という時代を象徴しているところがある。

例えば大学でどんな学科科目を履修するにしても、講義だけを耳で聴いて、その学科科目の内容を理解し、知識として身につけて、自ら使うレベルにまで定着させるのは、(多分)不可能だ。解説を耳で聴くだけでは、情報が耳に入っただけで、知識は形成されていない。知識になっていないから、認識も形成されていない。認識がないから考察できない。だから、(間違いであれ、正論であれ)自分の意見が形成されることもない。

つまり情報がその人の実力として定着していない。この辺の事は誰でも分かる側面だと思う。学問に限らず、芸術でも、スポーツでも同じことだろう。

何であれ出来ないことの理由は知識が身についていない所にある

というのは古代ギリシア哲学以来の基本命題だ。情報と知識を混同するのは、高校以降の教育が機能していない証拠である。

~*~*~

(全盛期には広く読まれていた)新聞は、ともかくも「読ませる」媒体だった。頭を使うという動作を読者に強いた。この一点だけは、メディアとして改めて評価するべきだと思うようになった。

新聞が流行らなくなって、<効率的>な情報アクセスが<評価>されるようになる中、むしろ、個々人のマイクロなレベルで、社会的問題の認識レベルが劣化し、意見が幼稚化するとすれば、因果関係としてはこれもまた当たり前じゃあないか、と。そう思うようになったのだ、な。

そんな社会プロセスがいま進行しつつある。そう思っているのだ。

エッ、学校があるじゃないかって?

学校ですか。マ、先生たちは国が決める「学習指導要領」にそって賢明にやってくれているんでしょうけど、どうなんでしょうネエ・・・

ナニナニ、ビジネススクールがある?リスキリングが大事だ?

小生もビジネススクールでデータ解析の授業を担当していたが、半期2単位の授業量で効果ありますか?90分×15回で22.5時間。午前3時間、午後3時間の速習コースに置き換えると、22.5時間÷6時間になり「3日間&ワークショップ」と同じ分量だ。3日ちょっとで1分野1科目。新人研修と同程度かも。むしろ既に持っているスキルの錆をとる、だからつまり《リスキリング》なのだと思って聞いている。

「時代の流れ」というのは、学校でどうする、親のしつけでどうする、という問題を超えていると考えるのだが、いかに?


これでは、ニュービジネスと言っても、イノベーションと言っても、限られた少数の人材にしか期待できないナア・・・と。「生産性向上」が求められると指摘しても、それが出来る人的資源は育ってきていない。育てるシステムが整っていない。インフラの未整備を自覚できるほんの一部の人たちだけが、《知価社会》に適応し、豊かになれる理屈か。不平等が進むわけだ。何だか怖くもなる今日この頃でございます。



2022年10月24日月曜日

ホンノ一言: 景気後退が見えてきたのは政策的には明るい兆しかも

アメリカ経済は2023年の年明け後から実態面では景気後退入りするとの予想が広まっている。とにかくも、1970年代末期のインフレ心理蔓延を完全に抑え込むのにいかに苦労をしたか、そのための犠牲がいかに大きいものであったか、その記憶がまだ消えていないと見える。

現在時点の《インフレ心理》を「期待インフレ率」と見るなら、その代理指標であるブレークイーブン・インフレ率(=長期固定名目金利-物価連動国債利回り)は既に2パーセント近辺にまで低下している。



これまでの金利引き上げの効果発現まではまだ時間がかかる。一時引き上げを休止しても、上のグラフはやがて2パーセントラインを割り込むだろう。

ところがロイターは以下の報道をしている。

[21日 ロイター] - 米連邦準備理事会(FRB)は11月1━2日に開く連邦公開市場委員会(FOMC)で0.75%ポイントの追加利上げを実施し、12月会合で利上げペースを緩める可能性性を巡りどのようにシグナルを発するべきかを討議する公算が大きいと、米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)が21日報じた。

 

Source:REUTERS、2022年10月22日2:03 午前

ヤッパリ、米国金利はもっと上がるのかネエ・・・

株価は半年程度の先行性をもつ。景気上昇のピークが見えず、金利が上がり始めれば株価は現実に下がり始める。逆に、景気後退が予見され、金利低下局面が見えて来れば株価は上がり始める。

景気後退が予見されてからアメリカ株価の腰が強まってきているのは(世間の常識とは逆だが)そんな側面もある。

長短金利スプレッドを10年物利回りと3カ月物短期金利との差で見れば、これも既にマイナスになるかどうかという辺りまで下がっている。



Source:上図と同じ

どちらにしても、来年になってまだ金利を上げるようなら「バカじゃないか」という声が増えそうである。





2022年10月19日水曜日

断想: いまの経済状況・・・詰んでいるのだろうか?

国会審議が続いているが、日銀の黒田総裁に《円安》の責任を求め、「お辞めになったらいかがか」と言う風な攻撃的な批判を繰り返す野党には一言で言えばガッカリ、を通り越して、唖然とする。国際常識からも外れていて、だからこそバカにされるのだろう。岸田首相(も安倍元首相も同じだが)の経済オンチも明らかであるが、野党議員は総じて経済には無学であることが歴然としている。

ただ円安がインフレを招いているのは確かなので、「物価の番人」たる日本銀行も為替レートは所管外であると突っぱねるには無理がある。

さて・・・というわけで議論が進めばいいが、少なくとも「国会審議」には全く期待できまい。

下手な考え休むに似たり

というところか。エコノミストを国会に招待して公聴会を開くか、あるいはディスカッションをさせるなどすれば、社会の理解も進むだろう。


現在の円安を止めるには、日本も欧米に着いて行って攻撃的な金利引き上げを展開しなければならない。しかし、安倍政権8年間で定着してきた超低金利政策を転換して、金利引き上げを開始すれば、低金利で延命してきた中小企業は経営が行き詰るのは必至である。それを支えるのは政府の責任だと野党は主張するだろうが、経営不安を救済するには財源がいる。そこで金利引き上げプロセス下で国債を増発するなら金利負担が財政を圧迫する。その分は財政支出を削減しなければ計算が合わない。

大体、こんな財政運営は日本国民は望んでいないだろう?簡単にいえば、《現状維持》を望んでいるのではないか。だとすれば、低金利を続けざるを得ない理屈だ。とすれば、黒田日銀総裁の政策路線を変更するわけにはいかない・・・

このような経済状況を俗に《袋小路》という。つまり、

日本経済は(ある意味で)詰んでしまっている。

これが一つだ。

ただ本当の《詰み》ではなく打開策はある。但し、《荒療治》しか残っていない。

本ブログでも幾つか投稿してきたので《日本病》で検索すれば多数かかってくる。

これらをまとめると、むしろ野党の主張に沿って、本当にいま金利を上げて行ってインフレ抑え込みに乗り出すほうが、寧ろ日本経済は覚醒するのではないか、と。こんな風にも思ったりする。

思い切ってやったらどうだろうナア・・・

但し、本当にそうするなら、大規模な投資減税、法人税制見直しなど税制のアップデート、更には人材開発・教育投資減税、営業規制・開業規制の緩和、各種資格の柔軟化など、成長機会を顕在化させられるにもかかわらず自民党が避けてきた新規政策が不可欠だろう。

マ、昭和初年の《金解禁》も、当時の日本人がこぞって熱望したそうだから、日本の大衆社会には底知れない怖さがある。

ホント、いまの世相が過去のいつの時代に似ているかといって、昭和初年にソックリなところがある。

そう言えば、昭和初年の当時、日本は「国際連盟」の常任理事国で「世界の5大国」でございますと夜郎自大的に浮かれていた所まで今とソックリだ。

第一次世界大戦中のブームが去り、関東大震災という大打撃まで加わって、長期不況がずっと続く1920年代、政府はヌルマ湯的な金融緩和(=低金利政策)で企業を支援し続け、そのために国内はいいが国際金融システム再構築の流れには乗り遅れてしまった。マネー増発から円安となり、そのため輸入物価が上がり、緩やかなデフレ基調を続けながらも物価全体としては高止まりを続けた。金融緩和にもかかわらず企業経営は脆弱で不況を解決できなかった。そこでついに「これではイカン」と日本経済再生を目指す金解禁が「ライオン宰相」浜口雄幸内閣によって断行された。明治以来の金本位制で定められた旧平価の物価水準に戻すために強烈な金融引き締めが行われた。ハードランディング政策である。案の上、金利は急上昇し、物価は急落、延命措置されていた中小企業はバタバタと倒産し、「昭和恐慌」という未曽有の苦難がもたらされた。昭和経済史・戦前期のメイン・イベントである。

確かにこれは荒療治で、政策は失敗だと非難する人が多い。時の浜口首相は狙撃され、井上蔵相は後で暗殺されたが、しかしこれによってゾンビ企業が淘汰され、産業全体が効率化し、1930年代の高成長につながっていったと観れば、失敗とも断言できない。

つくづく、歴史に学ぶことはあるのにネエと思う今日この頃でございます・・・

ただ、いくら金利を上げていくとは言え、アメリカFRBのアグレッシブな姿勢は、いかにもやり方が荒っぽい。そう感じるのは小生だけだろうか。まるで副反応が激しく出るモデルナ製コロナワクチンの1st versionである。

ここに来て、エコノミストの半数はどうやら景気後退を予測し始めているという。

ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)が実施した最新のエコノミスト調査によると、今後12カ月以内に米国が景気後退入りする確率は平均63%と、7月調査の49%から上昇した。50%を上回るのは、短期ながらも大幅な景気後退に陥った後の2020年7月以来となった。 

 エコノミストらは、米連邦準備制度理事会(FRB)が持続的なインフレを抑えようとする中、景気が縮小し、企業の人員削減が進むとの見方を示した。 

 米国内総生産(GDP)については、2023年上半期に縮小すると予想。前回調査では小幅な成長を見込んでいたが、今回は1-3月期に年率0.2%、4-6月期に同0.1%のマイナス成長を記録するとみている。 

URL: https://jp.wsj.com/articles/economists-now-expect-a-recession-job-losses-by-next-year-11665958105

Source: Wall Street Journal, 2022 年 10 月 17 日 07:09 JST

景気の先行きをみる先行指標としては長期金利から短期金利を引いた<長短金利スプレッド>が有用だが、これをみると、既にアメリカ経済の現況は景気後退の入り口にある。


Source: FRED, St. Louis Fed

最近、仮に昨年2021年末時点に立っていた時に、年明け後の8カ月をどのように予測していただろうかについて、予測計算をしてみた。

年明け後は波乱に満ちた展開になり、一気に景気後退色を強めてきたわけだが、それらはコロナ・パンデミック後の一次産品価格の急騰、ロシアによるウクライナ侵攻、予想を超えた労働市場の引き締まりなどの要因が重なったもので、確かにこれらは想定外の要因ではあった。

しかし・・・

日本国内の景気全体を観る指標としては、今は実質GDPより景気動向指数の方が有益である。そもそも実質GDPは推計方法上の理由から四半期系列が不自然な動きを示しがちで、そのため季節調整がうまくかからず、加えて低成長期のいま、四半期別の実質GDP前期比は生の値で0.3とか0.4パーセント、年率で1パーセントか2パーセント。要するにゼロ近辺の僅かな動きを続けているだけである。この程度の動きは統計の誤差の範囲であるとすら言えるようになっている。そう考えているので、最近はGDP速報を見ることはほとんどなくなったのだ、な。

その景気動向指数の中の先行系列を昨年末の時点からARIMAモデルで8か月間予測してみたのが下のグラフだ。


赤い線が1月から8月までの事後的な実績である。上の図を見ると、昨年末の時点で予想されていたラインを大きく下回っていることが一目で分かるが、それでも濃い青で示されている80パーセント予測区間の中には(辛うじて)収まっている。

この程度の下振れは考慮の中に入れておくべきだった

とも言える。その位、現実の変動は不規則で予測不能なファクターで動いている。過去の動きに学ぶ限りは慎重に将来予測をしておくべきだ、と。こんな結論になるか。

浮足立ってヒステリーになるのは、外国の目もあることだから、恥ずかしい。




2022年10月15日土曜日

断想: 究極の選択というのはこれか?

夢をみた。何かあることで一人の人と論争していた。若い人であったかもしれないが、小生よりかなり年上の高齢者であったかもしれない。夢の登場人物はそもそも年齢不詳である。

小生: その価値観はあなた一人のものでしょう。

相手: これは守るという価値観を一つ決めなければ社会の体を為さんだろう。守るべき大事なものは守るんだよ!

小生: 相手の価値観はまた違うんだから仕方がないでしょう。戦争を止めることが大事ではないんですか?

相手: 妥協を目指す姿勢を敗北主義というのを知らないかい?

小生: 止めないともっとたくさんの人が死にますぜ。

相手: 崇高な目的の犠牲者だなあ・・・

小生: じゃあ、あなた、その大事な価値観のために率先して死んだらいかがです?率先垂範って言葉もあるじゃないですか。

ここで目が覚めた。

覚めてからもストーリーを覚えている夢は珍しい。

だけどなあ・・・と更に思った。

相手が『要するに、お前が最も大事に思っているのは人の命だというわけだな?』と駄目を詰めるように迫られたら、きっと返答に窮したろう。

人の命を最も大事にするなら、敵軍が上陸した時点で、いやいや、相手が日本に向けてミサイルを発射しようという姿勢を明らかにした時点で、直ちに降伏を宣言し、無血占領を容認して、犠牲者をゼロにするのが最も理に適うからだ。

しかし、そんな国民を世界の誰も尊敬はしないだろう。ただただ命を惜しむ人間ほど信用してはならない人はいない。信じては駄目だ。当たり前である。基本的人権などという美辞麗句は世界の現実の中では言葉だけの慰めであるに違いない―実際、現時点のリアリティはそれを伝えている。

死にたくない家畜と人も根っこは同じだと、そう割り切って軽蔑の眼差しの中で生きながらえるか、名誉を守るために命を賭けるかというのは、 古典古代の時代から何も変わっていない究極の選択肢である。


19世紀の幕末の日本人が「独立」を志した道と、21世紀の現代日本人が選ぶ道は、ひょっとすると違う道になるのかもしれない。

人間が人間であることの核心は

いやしくも「価値」と言うならそれは命を超えて大事である。そう認識できる点に人間が人間たる根源がある。

(何だかんだ議論するとしても)これが論理的な帰結になるだろう。ただひたすら「自分の命が何より一番大事です」と全員が考えるなら、人間は他の動物と同じになる。

だからこそ「究極の選択」というものに時に直面するわけだ。


2022年10月13日木曜日

メモ: アメリカの攻撃的金利引き上げ政策について

米国・FRBが金融引き締めに転じたのは今年の春3月からだった。日本のコールレートに相当するFederal Funds Rateの推移をみると、特に5月以降は果敢な利上げに舵を切ったことが見てとれる。

Source:https://tradingeconomics.com/united-states/interest-rate

この理由は、ただ一つ、インフレ心理の抑え込みにある。

1970年代の二度に渡るオイルショックに対して、アメリカのインフレ抑え込みが生ぬるかったことから、70年代末のインフレ率(消費者物価上昇率)は15%にせまる程にまで高まった。

Source:FRED、The St. Louis Fed

これほどのインフレが継続すると、市場価格を通した資源配分効率化メカニズムが毀損されるのは明らかで、インフレ抑圧が最優先の政策課題になったのは仕方がない。実際、70年代末にFRB議長に就任したポール・ボルカーは<インフレ・ファイター>として歴史に名を残し、その当時の20%に迫るFFレートには小生も吃驚したものである。

Source:上と同じ

ただ、現時点のアメリカのインフレが1970年代末のような惨憺たる状況に達しているわけではない。それでも現在のFRB議長が<インフレ・ファイター>の役回りを再演しようとしているのは、このインフレは多分数年は続くに違いないという《インフレ心理》がアメリカ国内に蔓延するのを(完全に?)くい止めるためである(に違いない)。


ただ、どうなのだろうナア・・・とは思う。

家計や企業が困る経済問題は、置かれている立場によって微妙に違うものだ。

例えば、企業は仕入れ価格が上昇しても、販売価格にそのまま同率だけ転嫁して相対価格を維持すれば、同じ数量の取引をしていても金額ベースでは利益が増える計算だ。インフレは確かに消費者にとっては負担であるが、企業利益が増えれば賃金引上げが(最終的には)出来る。インフレを抑え込むための金利引き上げによって景気が悪化し、それが1年半程度は回復しないリセッションとなり、労働市場まで悪化すれば、現役世代の大半の家計は困ることになる。

概して言えば、富裕な金利生活者は高金利を喜ぶものだ。反対に、事業のために負債でカネを調達する事業者や住宅着工家庭は金利負担が増えるのを嫌がるものだ。また、現金や分配金、金利収入が安定している債券や投資信託を多く保有している富裕階層、それに賃貸料が長期固定的な地主、家主層にとってはインフレは損失だ。が、借金で資金を調達した債務者にとっては実質負担が減るのでインフレは寧ろウェルカムだ ― 日本政府もそう。

こう考えると、現に経済活動に従事している企業経営者や経営状況に暮らし向きが左右される雇用者にとってはインフレはそれほど困った問題ではなく、むしろ高金利を早く止めてほしい。そう考えるのが普通の理屈である。逆に、資産運用収入で生活している人たちは高金利が有難く、かつ資産収入の実質価値がインフレで下がらないように物価対策をしっかりとやってほしい。そう考えるのが自然である・・・正にこれと同じようなことを、戦前期の大恐慌時代、マクロ経済学の創始者であるケインズは語っていたわけだ。

そしていま、インフレ加速を未然に防止するために高金利政策をとっているのがアメリカのFRBとヨーロッパのECB、そしてイギリスのBOEである ― 日本銀行はまだ金利引き上げには転じていない。

これまでと同じ流れで発想すれば、中流以下のマス層の経済的利害を重視する傾向にあるリベラル派エコノミストはインフレには寛大、高金利には厳しい。そうなる理屈だ。逆に、富裕な資産階層(≒エリート?)の利害に目を向けがちな保守派エコノミストは高金利による物価安定には好意的である傾向をもつ。こう観るのが自然である。


こう考えると、ここに来て、リベラル派と目されるPaul KrugmanやJoseph Stiglitzが急激な金利引き上げに警告を発しているのは、極めて分かりやすい。

例えばクルーグマンはNYT紙に寄せた"Tracking the Coming Economic Storm"の中でこう書いている:
I’d argue that these indicators tell us that the Fed has already done enough to ensure a big decline in inflation — but also, all too possibly, a recession.

Am I completely sure about this? No, of course not. But policy always involves a trade-off between risks. And the risk that the Fed is doing too little seems to be rapidly receding, while the risk that it’s doing too much is rising.

URL: https://www.nytimes.com/2022/10/06/opinion/fed-inflation-interest-rates.html

Source:The New York Times, Oct. 6, 2022

要するに、FRBは<やり足りない>というリスクから、<やり過ぎ>というリスクに目を向けるべきだと言っている ― 小生もまったく同感だ。高金利による抑圧効果は、今後1年程度の時間をかけて、次第に表面化するものと見られる。そうすればインフレ率は自動的に低下するのはほぼ確実だ。

スティグリッツも(自然な事だが)同じ主旨のことを書いている。

The US Federal Reserve Board will meet again on 20-21 September, and while most analysts expect another big interest-rate rise, there is a strong argument for the Fed to take a break from its aggressive monetary-policy tightening. While its rate increases so far have slowed the economy – most obviously the housing sector – their impact on inflation is far less certain.

Monetary policy typically affects economic performance with long and variable lags, especially in times of upheaval. Given the depth of geopolitical, financial and economic uncertainty – not least about the future course of inflation – the Fed would be wise to pause its rate rises until a more reliable assessment of the situation is possible.

URL:https://www.theguardian.com/business/2022/sep/12/the-fed-interest-rate-rises-us-inflation-unemployment-recession

Source:The Guardian, Mon 12 Sep 2022 11.55 BST

Author:Joseph Stiglitz and Dean Baker

FRBの(攻撃的)高金利政策は既に住宅投資需要を抑え始めているが、インフレに対する効果はそれほどハッキリしたものではない、と。足元の地政学的、金融、経済両面の不確実性は、今後のインフレ率の足取りがどうなるかということより、もっと深刻であるという点を考慮するなら、もっと確かな状況判断が出来るまでは(ここで一度)金利引き上げを休むのは賢明であると言うべきだろう、と。この意見にも小生は賛成だ。何をおいても、西側陣営は(日本を含めて)実質的には《準・戦争状態》にあるわけで、そんなとき、物価が上がるのが心配だから、金利を上げて(とにかく)総需要を下げるのだという発想でいいのか。議論の余地はあると思う。本当に「戦争」をするなら「戦争経済計画」によるわけでマクロの総需要管理政策でOKという平時の考え方では不十分だ。

実は、今回のFRBの《攻撃的金利引き上げ》開始の前後、先々代の議長であるバーナンキ氏が金融政策の展開を批判していたことがある。

 - Former Fed Chair Ben Bernanke said the central bank erred in waiting to address inflation.

- “One of the reasons was that they wanted not to shock the market,” he told CNBC’s Andrew Ross Sorkin.

URL: https://www.cnbc.com/2022/05/16/bernanke-says-the-feds-slow-response-to-inflation-was-a-mistake.html

Source:CNBC、MAY 16 2022

昨年秋から今年春先までのインフレはコロナ・パンデミックから回復するまでの「一時的(transitionary)」な現象である、と。そう観ていたことはほぼ確実で、この点は上に引用していたクルーグマンも同じ判断をしていた。

案に相違して労働市場の引き締まりから一部価格の上昇が賃金上昇を誘発しつつある。それが次第に分かって来たのが初夏にかけての頃だったのだろう。市場を驚かせないように緩やかに金利を上げるつもりだったのが、これはイカン、とばかりに駆け足調になってしまった。

そういう意味では

読み違いをしてしまいました

そう謝ってしまえば話が速いのだが、金融当局が一度謝れば、同じ失敗は二度も、三度も犯すだろうと。議長は退任しろと。そうなるのは必至で、もしそうなればそうなればで、大混乱になって社会的には大損失を招く。

この辺にアメリカ社会の最近流行りの《レジリエンス(resilience)》、一言で言えば「打たれ強さ」というか、「立ち直りの速さ」というかが垣間見えるような気がする。いまの日本社会にはそんな太々しい強さが欠けつつあるという点が、昔と今とで、一番変わったところではないかと感じる・・・というより、日本銀行がFRBのような激しい攻撃的金利引き上げを始めたいと考えても、(シルバー世代が世論を左右する日本では理屈に合わないことだが)世間がそれを許さないのではないか、と。そんな予感もするのだ、な。