自分から書くのはとても恥ずかしいのだが、幼いころから<期待>されていたのだと思う。父は長男、母は長女で、祖父母にとっては小生が初孫であった。偶々、本を読むのが好きで、成績も良かったものだから、期待されていたのだと、自分も両親や祖父母の年齢になってみるとよく分かる。役所や大学に勤務してからは、上司や組織、大学から(多分)期待されていたのだろうナアと思い出すことが増えた。だから、期待を裏切り続けてきたのが小生の人生であった、と。何だか「申し訳ない」と言いたい気持ちになる。自分自身と家族を最優先し過ぎました、というより、単に実力も根気も足りませんでした、と。「私の不徳の至りです」と謝りたい心理が年を追って高まってきている。これも加齢効果の一つかもしれない。
でもネ……と言いたい気持ちもある。
「期待する」とはどういうことであるのだろう?
期待するというのは、つまるところ《我々一同にとってプラスになるはずだ》、そう思うから誰かに期待するのではないか?
成長した後は大仕事をしてみんなを援けてほしい、組織の発展のため大いに活躍してほしい等々、期待するその人の幸福とは別の願望が周囲に先にあって、期待できる誰かが成果を達成して、自分たちもまた幸福になる。それが「期待」というものの本質ではないか?
もちろんそれが悪いはずはなく、人間社会には普通のことである。しかし、一つ言えるのは、誰かに期待するとしても、その人の幸福を希望するというより、期待している自分を含めた我々すべてのプラスになるので、だから期待して、応援するのだ、と。こういうことだと思われるのだ。
つまり、期待するというのは、動機において甚だ《利己的》である。
最近、「期待」という心理についてこんな事を考えていたので、マスコミ報道に不思議さを感じることも時に出てくる。
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日曜朝は、何回か前にも投稿したようにサンモニをみる習慣なのだが、最近はいま開催中のW杯でもちきりである。試合の寸評、優勝の見通しなどを語ったあとは、今回大会の特徴だと思うが、「スポーツと政治との関係」に話しが移る。
競技場建設工事などでみられた外国人労働者の人権侵害など、ワールド・カップの負の側面がとりあげられ、ネガティブな意見がかわされる。そこでは、もっぱら政治的に不適切だと言える事実が指摘される。
そう言えば、オリンピックもそうである。2021年に1年遅れで開催された東京五輪は、そこで行われた競技そのものとは別の多くの問題が非難されている。例えば、招致活動の裏側、競技場等建設工事の裏側で密かに展開されていた様々な《不祥事》が検察の捜査対象になっている。そして日本社会も五輪開催の裏側に隠されていた事柄には、ただただネガティブな反応をしている。
五輪に期待していたこととは正反対の事実が確認されるのは悲しい、というわけだ。ひたすら哀しい、恥ずかしいという世相であると。マスメディアはそう言いたいようだ。
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小生はへそ曲がりだ。だから「五輪汚職」に関して思ってしまうのだが、
自国で開催されたオリンピックの「贈収賄と談合」。当の自国民たる日本社会が何故これほどまで強く憤慨するのだろう?メディアは非難するのだろう?
こんな疑問である。
自国で開催されるオリンピックに期待していた日本人は数多くいたはずだ。他国で開催されるワールドカップに期待する動機は寧ろ単純だ。では、日本で開催されるオリンピックに日本人は何を期待していたのだろう?
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オリンピックは確かに「平和の祭典」で国際的な行事であるのだが、その本質は「民間ビジネス」である。
IOCはそもそも政治とは縁のない領域で発足した(はずの)国際団体である ― この点は、サッカーのW杯を主宰しているFIFAもまた同じである。政治から独立している、というのはどの国の政府からも影響されない、つまり資金的にも政府から独立している。《民間主導》は五輪が五輪であるための必要条件であろう。メディアが中継放送をしたりするなら、格好のプロモーション・チャネルにもなるので巨額の資金が動く。そして、このこと自体は、運営主体であるIOCが各国政府から独立するには、必要不可欠の努力である。
確かに、最近年の五輪にはナショナリズムがつきまとう。招致には公費が投入される。特に、五輪開催地決定を契機に競技場を新設したりすると経費は当初予算を大きく超えたりもする。五輪招致の前提に、公共の競技場を新規建設すれば、五輪開催自体がどこか「公共事業」めいて見えるが、それはそうしなければ招致に成功しないという見込みがあるからだ。招致を争う競合国がそうしているから自国もするというメカニズムが働いている。
そこまでして、五輪開催に何を期待するのかを考える時、ハイレベルの競技を自分の国で観たいという消費者の期待もあるが、国内で開催されるが故にもたらされる企業側の利益もやはり日本人の利益の一部には違いない。
要するに、自国で開催される五輪に日本人が期待するものは、五輪開催で引き起こされる活動全体を含む。つまり《五輪効果》の全体が日本にとってプラスになる。社会が充実する。豊かになる。故に期待する。これが五輪招致の基本的ロジックであろう。
ところが、コロナ禍の襲来により、《東京五輪2020》に多くの日本人が寄せていた「期待」は裏切られてしまった。
この厳しい事実とジンワリと広がる失望が全ての出発点である。そう思われるのだ、な。
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いま日本社会では東京オリンピックは果たして《公正》に行われたのか、と。もっぱらそんな話題で世論が終始しているが、
そもそも何のために五輪を日本に招致したのですか?
と、動機を聞き直したいくらいである。一体、何を期待して五輪を招致したのだろう?
五輪については、ずっと以前にも投稿したことがある。その後の進展をみていると、どうやら「黒い噂?」が立ち昇った森・元首相や竹田・JOC前会長に司直の手が伸びることはなくなったようで、その代わりというわけではないのだろうが、電通、博報堂など五輪開催の裏側で経済的支援にあたっていた広告代理企業が数々の《談合》を主導したという疑惑で摘発されている。
日本経済の業(ゴウ)とか、宿痾(シュクア)などという表現は好きではない。が、そうかと言って経済学のテキスト通りの完全競争メカニズムを信頼して日本の政策を遂行するべきだと言われれば決して賛成はできない。経済政策は経済政策でやはり《国益》を求めるものであるべきだ。いま現在の人々にとって最適であっても、日本国の《成長》や《安全》という点では望ましくない経済状況はありうる。
国益とは消費者としての日本人と生産者としての日本人全体の利益の合計であると言っても大きな間違いではない。
いくら「公正」を求めるからと言っても、
五輪関係ビジネスは公共性をもつので発注はすべて透明な「国際公開入札」にする
という基本方針にすれば、大半の工事受注は欧米、中国、その他の海外企業に落札される可能性もある。
そうすれば、日本政府や東京都が支払う公費も安くてすむかもしれない。が、日本人はそんな五輪を<期待>するだろうか?むしろ日本人の期待を裏切る結果になったのではないか?だとすると、五輪に寄せる期待は<公正>そのものではないということになる。
もちろん国民の期待を裏切ってでも《フェア》であること、《正義に適う》こと、《世界に向けて恥ずかしくない》ということを最優先する立場もある。
しかし、そんなことを世界にアピールするために日本は五輪開催に立候補するだろうか?
五輪開催の自国民として日本人は全体としてオリンピックに色々な期待をもつのである。期待するからこそ、立候補する。五輪に寄せる「期待」に応えたいという「意図」はそもそもハナからあるはずで、綺麗ごとだけを発言するのは不誠実というものだろう。
自国には自国の立場がある
正直になるところから、真っ当な考察が出来るというものだ。
であるにも関わらず、(外国メディアなら理解できるが)日本国内の民間ビジネスの利害に寄り添うはずの民間TV局までが、五輪開催の談合や贈収賄に非常に厳しい姿勢をとっているのは何故か?・・・これが不思議でならないのであります。
海外メディアが批判するなら容易に理解できる。理由は明確だ。しかし日本国内のメディア各社の動機、思考回路がいま一つピンと来ない。
どうも解せないネエ……、日本が日本で開催された五輪に関して、不公正があったと強く非難するとして、どんな意味合いでそれを非難しているのでござんしょう?
そういうことであります。
”昔、誰かが言ってましたが”
資本主義経済というのは、泥の中にあって咲く睡蓮の花のようなものです。
実に本質をついた名言だと思う。この伝でいうと、公正を求める世界観は
何の混じりけもなく生命を育むこともない清らかな湖のようなものです。
こうなるか。
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日本の製造業メガ企業が部品を調達するのに最も低価格で高品質な業者に納入させるのは当たり前のことである。ところが、メガ企業の購買担当重役が納入業者と結託して、資材を高値で調達、自社に支払わせ、その一部をリベートとして自分の息がかかっているペーパー・カンパニーに入金させる……、これは明らかな背任行為である。取締役であるにも関わらず、自社に損害を与えており刑事告発されるのが当然だ。
しかし、ペーパー・カンパニーに入金させた資金を、社内で合意のとれないニュービジネス研究に密かに流用していればどうか?「私欲」ではない。「自社利益」を考えてやむなく行ったことである、と。もちろん法令に違反しているのは事実だ。が、同情するべき情状はあるであろう。
もし調達先が自社が支援している関係企業であればどうか。調達価格は高めである。しかし、経験曲線に沿った将来の低価格、経費節減が見込める。このような動機であれば、自社の長期的利益に資するかもしれず、社内を説得できる余地が出てくるだろう。
つまり核心的論点は、
- どの規則にどう違反していたかという手続き上の問題
- 違反していたとして、不公正な資金がどのような使途に充てられていたかという実質的問題。
この二つがあるわけだ。
外部の人間なら外形的な規則違反に関心が集まるのは仕方がない。が、社内に勤務している内部の人間なら、規則に違反していたという形式的事実と同時に、どのような動機で、どのような行為が行われていたかという実質的内容に強い関心を持つに違いなく、その実質的内容に基づいて行為の悪質性を判断するに違いない。
東京五輪に寄せた期待がコロナ禍で裏切られ何のプラスにもならなかった人々が確かに多数いる。実に分かりやすい事実だ。東京オリンピックが期待に反して何のプラスにもならなかった日本人が多数いるというこの事実が、その後の展開を決定づけた。もしコロナ禍なかりせば、日本の談合や贈収賄によって本当に損をしたのは誰か、日本人はどんな損害を受けたのか。これらの問題を日本人はより熱心に議論していたはずである。
今回の五輪スキャンダルは、コロナ禍による敗戦処理の中で俄かに舞台化された「コロナとオリンピック・第2幕」と言うべきものだろう。
話を最初に戻そう……
そもそも日本のマスコミは、なぜ《価値》なるものについて頻繁に熱心に語るのだろう。日本文化の根底になっている価値とは何だろうか?しいて言えば《和》ではないかと小生は勝手に結論を出している。欧米が強調する"Justice"という価値は外来文化である。"Democracy"もそう、"Liberty"もそうだ。
「東京オリンピック」に日本人が期待していたのは「価値の向上」でも「価値の実現」でもなかったのではないか。もっと生活の中でプラスになる実質ある中身であったはずだ。消費者としても、生産者としても……だ。
報道もニュース解説も、牧師の説法、僧侶の法話ではない。アメリカが外交政略上、価値の共有を強調するのは、分かる。これも旧・西側陣営をまとめる一つの戦略だ。だからと言って、日本の民間メディア企業が提灯持ちのように「価値」を主張するのは可笑しいではないか。
普通の日本人は、検察官でも裁判官でもないし、警察官でもない。法令に違反しているという事実があると言われれば、関心は確かにあろうが、どんな動機で、どんな悪質な行為をして、国民全体にどんな損害を与えたのかについて、より強い関心を抱くのではないか。
外国人の対外的観点に日本のメディアも寄り添って、まるで外国人であるかのように、日本国内の談合をあげつらう姿勢は、滑稽としか言えない。
【加筆】2022‐12‐13