2018年12月29日土曜日

「反論はこうでないといけない」という一例

アメリカ金融市場で長短金利が逆イールドになったというので、景気後退が近いという警戒感が高まったことは記憶に新しい。

小生もFREDが提供しているデータサービスで長短金利のスプレッドを定期的に確認するのが習慣になっている。

ところが、この「常識」に対して最近になって異論・疑問・反論が結構多く投稿されている。これはなにも経済関係の話題に限ったことではない。

ではあるが、そのほとんど全ては「僕はそうは思いません」という式の主張であり、演繹的な証明も観察事実の指摘もないままに、「そうは思われないのです」という結論が述べられているだけの投稿が多い。

「思いません≒わかりません」かもしれないし、「思いません≒思いたくありません」かもしれない。もしそうなら率直に「・・・については研究したことがなくわかりません」、「そうなっては困るので、そうは思いたくありません」とシンプルに書けばよいだけである。そんな風に思ってしまうことがママあるのだ、な。

ただまあ、ブログというのは覚え書きや文章修行には格好のツールでもあるので批判するつもりはまったくないのだ。人さまざまである。

★ ★ ★

ロイターに以下のような文章(=報道?)がある:
[ロンドン 21日 ロイター] - 国債の利回り曲線で長短金利差が逆転する「逆イールド」は、米国では景気後退の予兆として極めて高い信頼性を誇る。しかしドイツや日本など米国以外の主要経済国ではそれほどでもない。 
米国債は先に2年物と10年物の利回り差がわずか9ベーシスポイント(bp)と、2007年以来の水準に縮小した。経済指標が弱いにもかかわらず、米連邦準備理事会(FRB)が利上げに傾いているとの懸念が広がったためだ。 
米市場の影響力の強さもあり、米国以外の国でも利回り曲線はフラット化が進み、ドイツでは2年ぶりの水準近くまでフラット化した。
米国では景気後退前にはほぼ必ず逆イールドが発生しており、この例から外れたのは過去50年間で1回しかない。 
一方、米国以外の状況は異なる。例えばオーストラリアは1990年以降、逆イールドが4回起きたが、その後景気後退に陥ったのは1回だけ。他の3回は成長鈍化にとどまった。 
日本は1991年以降、一度も逆イールドが起きていないが、その間に何度も景気後退に見舞われ、2014年には消費税率引き上げを受けて景気が大幅に悪化した。実際のところ、日本では利回り曲線と景気後退の間に相関を見出すのは難しい。 
英国では利回り曲線と景気後退に相関はあるが、米国ほど強くはない。1985年と1997年に逆イールドが発生したが、その後1年以内に景気後退は起きなかった。 
ドイツDE2DE10=RRでは2000年代半ばと2009年に逆イールドが起きた際、景気後退に陥った。一方、2012年の欧州債務危機の際には、景気後退には陥ったが逆イールドは発生しなかった。 
欧州最大の債券市場を持つイタリアは今年、政治危機などを受けイールドIT2IT10=RR が2011年以降で最もフラット化した。ただ2000年以降をみると逆イールド後に景気後退となったのは5回のうち1回だけだった。

(出所)Reuters、2018年12月29日 08:17配信

逆イールドはアメリカ経済に関する限り経験的に安定して確認されている景気後退の予兆であるが、その他の先進国では必ずしもそうは言えない、と。具体的な観察事実が淡々と示されている。

であれば、アメリカ以外の国に住んでいる人が自国の傾向を念頭に置きながら『逆イールドが景気後退の予兆であるとは思わない』と言うとしても、そのことは極く自然なことである。「私の国に関する限りでは」という枕詞があれば、もっと正確になる。

国が違えば、生産性上昇率も違うし、高齢化の進展度合いもまた違う。経済常識は国ごとに別々で、一律には言えないものだ。

ただ反証を示せば、決定的な反論になる。それで足りる。反証が重なれば常識は覆る。こうでないといけない。

2018年12月27日木曜日

待ってくれないのは親ばかりにあらず

いわき市勿来に住まいする弟の妻が突然の病気で身罷ったのは2016年1月31日の夜のことであった。

2月1日の朝、弟から電話があり、その声音から何かが起こったと予感したその矢先、亡くなったのだと電話の向こうから伝えてきた。

こんな場合、現実の世界は日常を脱して舞台であるかのように感じられるものである。来月末で丸三年か・・・。

この10年余弟たちがずっと暮らしてきた勿来に移る前、最初に何年か暮らした秦野市から気候の厳しい信州木曽の大桑村に強引に転職し引っ越したとき、さすがに心配になり、北海道からフェリーで新潟にわたりそこから金沢、飛騨高山を通り、妻籠、大桑村へと車で走ったことがある。その時に撮った写真が、弟家族一同が映っている写真としては、唯一小生の手元にある写真である。

ずっと年若であったので油断をしたのだろうか、義兄らしい話はほとんどしたことがない。信州に旅した時も弟達は仕事で宿に来るのが遅れあまりゆっくりと話すことができなかった。話すことがあまりないままに先立たれてしまった。

得てして浮世と言うのはこんな塩梅である。人生の味は相当塩味がきいているとは言うが、ききすぎであると思うことも多い。

妻籠にて 宿ともにせる はらからの
     妻にてありし ひとぞなつかし

その弟宅の長男は音楽教師を志していたが、この秋、茨城県内の某高等学校の臨採講師に採用され、職業生活のスタートをきることになった。
僕の前に道はない
僕の後ろに道はできる
まだ若い時分に高村光太郎がこの詩句を創ることができたのは小生にとっては奇跡に思える。

メモ: 戦前期の日本語の現代性と軍人文化の退行性

高村光太郎の詩作品は以前から気に入ってはいたが、それほど頂上を形成するほどの作品であるようには感じられなかった。ところが、口語による単純な表現が最近になって分かるようになったのは不思議なことだ。

同じことをずっと言いづけている友人の真意がある時点にさしかかって突然にわかる経験は誰にもあると思うのだが、それに似ているかもしれない。

『智恵子抄』は現代の相聞と称されているが、その中の例えば冒頭の作品から最初の2行を引用すると
いやなんです
あなたのいってしまうのが―
この感性は21世紀の現在でも通じるのじゃあないか。

かと思うと、
僕はあなたを思うたびに
一ばんぢかに永遠を感じる
僕があり、あなたがある
自分はこれに尽きてゐる
これも平仮名字体の旧さを除外すれば、来年の朝ドラ台本に登場してもよいレベルの現代的な日本語表現だと思う。

前者は明治45年7月。後者は大正2年12月の作品である。西暦にすればそれぞれ1912年、1913年だから100年以上も昔になる。

ところが、これに対していま北岡伸一『政党から軍部へ』(中公文庫『日本の歴史』第5巻)を再読しているのだが、ちょうど昭和恐慌で民政党内閣が退陣し、犬養毅内閣が発足した際に陸軍省の永田鉄山が政友会の政治家・小川平吉に出した書簡が引用されている:
満蒙問題、部内革新運動の横たわりある今日、同氏(=宇垣一成系の阿部信行)は絶対に適任ではありませぬ。此点御含置を願います。荒木中将、林中将辺りならば衆望の点は大丈夫に候。此辺の消息は森恪氏も承知しある筈です。
出所:同書、184頁

そう言えば亡くなった祖父からは戦前期の公文書は毛筆で書き、それも候文だったと聞いたことがある。 上に引用したのは1931年のことだから、高村光太郎の詩句から約20年も後である。

大正3年(1914年)に夏目漱石は学習院大学で講演「私の個人主義」を依頼された返信として次のように書いている:
・・・承知いたしました。私はどちらでも構ひませんが早い方が便利で御座いますから11月25日に出る事に致します。然し時間について一寸申上げますが3時からだと4時か4時過ぎになる事と存じます。・・・
(出所)夏目漱石全集第15巻(昭和42年版)、409頁

多少古風さが残っているが極めて現代的で率直である。

1930年代の軍部で当たり前のように使われていた日本語表現がいかに古く、この間の(当時からみれば)「現代化」といかに無縁であったかがわかる。その人の言葉はその人のスピリットを伝えるものだ。夏目漱石や高村光太郎よりは一世代若い世代ではあるものの、昭和の軍人は狭い専門家の社会で夜郎自大となり教養面の相対的劣化が顕著に進んでいたのだろう。

これはもうエリート意識と言うより、一般社会から隔絶された中で無自覚の化石化現象、退行性の高まりが内部で進行していた現れだと言うべきだ。

はやい話しが、戦前期の権力機構の内部は最後はバカばかりになってしまっていた、というのが厳しい現実であったに違いないと、そう推察できるのだが、そのことがリアルタイムでは「まさか」という感覚で誰にも分からなかった。様々な参考書を読む限り、そう想像するのが、仮説から確信へと変わってくる。

今日にも関連する問題意識は、それは何故か、という問いだ。

2018年12月23日日曜日

一言メモ: 何かを提案するときの鉄則

色々な提案をしてきた。説得に声をあげたこともあるし、説得されてしまったこともある。相手が慎重で納得してくれないときに大声をあげて怒鳴ってしまったこともある。声をあげるのは自分の無能を示す証拠でしかなく、年を経るごとにその記憶がよみがえり、汗が出るほどに恥ずかしい思いがつのる。

今になって、何かを提案・説得する時の三つの鉄則が心にしみてくる。

第1はロジック。
第2はモラル。
第3はマネー。

まず理に適うことを提案するのでなければ、はなから相手にされないものである。「なぜそうするのか?」という問いかけは所謂「戦略的合理性」のことであり「目的」を問うものだ。「そうするのが賢明だ」という論理は万国共通の根拠である。

しかし、理に適ってはいても「それは正しいやり方とは言えないだろう」という指摘に耐えられないような非倫理的な選択をすると、やがて自分にはね返ってくるものだ。ロジックだけで行動する人は時に危険でもある。

「それは決して得にはならないよな?」というダメ出しも強烈である。いかに理に適い、モラルにも沿っているとしても、自分の利益、つまりはカネにならないことを永遠に続けるのは無理である。協力者が必要なら、協力者にとって利益になること、損にはならないことを持ち掛けるべきである。

Logic+Moral+Moneyの三つを最近は<LMM>と略して意識の中心におくようにしている。実際の現場では<M➡M➡L>のように逆向きで検討されるのだと思う。

2018年12月20日木曜日

覚え書: 「国民性」についての思い出話し

ずっと昔、父と母がまだ元気で毎日夕方5時には工場で生産管理をしていた父が帰宅して、家族そろって夕食を囲むことができていた頃である。その頃、小生は何かの本で国民性の違いに関する寓話を読んで、さっそく自転車操業よろしく食事時にその話をしたのだ:

イギリス人とフランス人とドイツ人の性格の違いを伝える面白い話があるんだよ。どこかの大学の最終レポートで先生が動物の「象」に関するレポートを書いて出すように言ったんだって。教室にはイギリス人もフランス人もドイツ人もいたんだけど、イギリスから来た学生は『インドの象狩りの現状』っていうレポートを出したそうだよ。で、フランス人は『象の恋愛と生殖行為に関して』ってテーマで書いた。ドイツ人は『象の体内諸器官の構造に関する哲学的論考序説』という標題の大論文を提出したって言うんだよ。

東京オリンピックが開催された昭和39年の当時、父はまだ30台であったが、社の上層部に何かの縁で気に入られたのだろうか、新規事業調査を名目にヨーロッパからアメリカを回ってきたことがある。まだ外貨持ち出し制限があった頃の話だ。ドイツのウィースバーデンに所在する名称は忘れたが、父の一行が訪問した企業は、その後も再訪する機会があったらしく、しばらくの間、家の中にはドイツから買って帰った土産品が幾つか飾られていた。そんな趣味を持っていたので、小生が話した上の寓話は父も非常に気に入ったらしく、『うん、そんなところは確かにあるナア、ある、ある』などとご満悦だった。多分、ドイツ人と意見交換をするときに、先方の粘っこい、話しが遅いうえに理屈っぽい気質に辟易とさせられていたのかもしれない。よく言えば、理路一貫して話に矛盾がないというところでもあったのだろうが、事業化できるのか、儲かるのか、どうも要領を得ないという感覚もあったのかもしれない。ま、その事業調査がどの程度まで有効であったのか、子供であった小生には今は知りようがない。

いま思い出してみると、イギリス人の発想は基本的に具体的であり、いかにも経験に基づく知識を重視する英国流帰納主義を伝えている。それに対して、フランス人のレポートには意表をつく着目によってそれまで見過ごされてきた本質を明晰な形で露わにするフランス流のエスプリが窺われる。そしてドイツ人のレポートからは何よりも論理的一貫性を重視し断片的な観察よりはシステマティックかつアプリオリ(先験的)な形而上学を好むドイツ人の潔癖さが見てとれる。いま両親がまだ健在で、上の寓話を覚えているかとまた話すことが出来れば、実は簡単な話に案外に深いメッセージがこめられていたことにも話が及ぶのではないかと。そう思ったりするわけだ。

そして、その当時は何か下らないとまでは言わないにしても、レベルが低いなあと感じた英国流のファクトファインディングが実は最も健全で、堅実な知識である、と。小生はイギリス人学生のレポートに最も高い点をつける、こんな点にも触れることができただろう。

日本でもブログが花盛りで、たとえばBLOGOSなどを見ると、色々な視点から多事争論的な場が形成されていることがわかる。ただ、概観して思うのだが、そこに公開されている優に過半数の意見は『自分はこう思う』という式の判断なり、判定であって、こんな事実が観察されるというファクト・ファインディングは少数である。

このケースについては自分はこう思うという意見をブログで公開するという行為は、それ自体としては「主張」であるのだが、それには正当性の根拠なり証明がいる。それには数多くの具体例に基づく帰納主義的な、もしくは統計的な発想をとるか、でなければ一般的に認められる大前提から演繹的に結論を導くか、そのどちらかの方法がありうるわけだが、どうも日本国内では「こんな似たケースがあり、その時にはこんな結論を得ていた、その結論を変更するかどうか」という議論よりは、「民主主義は善である」とか「パワハラは悪である」といった大前提を無条件に認めて、あとはロジカルに議論をする、と。そんな構成が非常に多い。

現実の世界では無条件に認められる大前提は本当にあるのかが正に問題の本質のはずなのだが、大前提自体の考察がなされている投稿はネット上にも実は少ないように小生は感じている。ここが徹底的に掘り下げられていれば、ドイツ流の『哲学的論考序説』になるのにネエ・・・と。そう感じることは多い。

2018年12月15日土曜日

余計な一言: 極端な「得点主義」、「学力主義」は戦前の陸海軍と同じ

本日の投稿の主旨は標題に尽きている。

戦前の帝国陸海軍は極端な試験重視主義、得点主義で知られていた。

海軍兵学校の入学試験は1科目終わるごとに得点が公表され、基準に達しない者から順に脱落していく仕組みだった。この話題は小生の亡くなった父の何よりの好みでもあって、『最初の科目は数学だったんだ、数学は出来不出来がハッキリ出るからな、1点でも足らないと駄目だ。明らかに失敗した連中は試験が終わった直後にもう諦めて帰っていったもんだ』などと夕食時によく痛快そうにワッハッハと呵々大笑しながら話していたものだ ― 海兵卒でもなかった父がなぜそれほど海軍の入試に関心を持っていたかは分からずじまいであったが。

陸軍の方の得点主義も相当なものであったそうで、陸軍大学の卒業席次は在学中の試験の得点で決まり、その得点は課題に対して本質を探るというより正解パターンにどれほど沿っているかで決まっていたそうだ。これまた父の好んだ話題であり『陸軍で上にいって参謀にでもなろうとすりゃあ、そりゃ目から鼻に抜けるような頭がないと駄目だったそうだ』と。

『目から鼻に抜ける』ような才能は、創造力や発想力ではなく、問題を見た瞬時のうちに速やかに正解に至る才能を指していたことは現代の日本人の感性にも通じるのではないかと思っている。

***

東京医大の「不適切入試(それとも不正入試?)」を埋め合わせるための再判定で、再び不合格となった人たちに同情が集まる中、得点が足らなかったにもかかわらず、幸運にも入学を許可され在学している人たちへの反感(?)やらヤッカミ(?)もネットには書かれているとのこと。

不思議なのは、ただひたすら「得点」に執着する多くの人の感覚に対して、「得点だけで合否を決めちゃあいかんのじゃないですか?」という意見がさっぱり出てこないところだ。

敗戦への道をたどった戦前の軍国主義を批判する時には「軍内部の極端な得点主義」を問題視する人が、現在の医科大学には「あくまでも得点によって判定せよ」と主張する、もしそうなら矛盾しているではないか。

筆記試験の得点に過度にこだわるのは決して賢明ではない。いや、「賢明ではない」というより「選抜方式として実質的な効果がない」と言うともっと正確かもしれない。それは直感からも経験からも分かることだ。

大体、1日か2日程度の筆記試験などはそれほど安定的でロバストな評価方法ではない。よく言われるのは「もう一度試験を行えば、合格者の下半分は入れ替わる」というもので、これはほとんど経験則でもある。実際に複数回の試験を行って授業の成績評価をした経験のある人であれば、これはもう自明の事実である。

「合否は総合評価によって行う」という文言はあまりに漠然としていて、不親切であるが、8割程度の要点はこの文言の中に含まれている。

極端なことを言えば、100点満点中、90点以上の得点を得た受験生は即合格、それで募集定員の3割を確保する(もし不足があれば80点以上に広げる)。残り7割のうち5割は、70点以上の得点を得た受験者から  ― ハードルが高すぎれば60点以上でもよい、要するに得点分布上のマス部分はすべて抽選対象とするという意味合いだ  ―  クジ引き抽選で選ぶ。特別の考慮事由をもつ受験者は合格のための最低基準点を設けこれを上回れば自動的に合格(ただし、特別枠は2割までとする)。こんな方式でも入学者の学力管理上、何も問題は起きないだろうと小生は確信する。

1点にこだわる性癖は、1円にこだわる金銭感覚にどこか通じるものがあり、几帳面さが窺えるものの、実質は不毛であると小生は感じている。

2018年12月12日水曜日

メモ: 米中対立の「分析」になっているのだろうか

カナダ当局が中国の通信機器大手「華為技術(=ファーウェイ)」の副社長を拘束し、アメリカが身柄引き渡しをカナダに要請しているかと思えば、今度は中国がカナダ国籍の元外交官を拘束した。

これについては国内紙で次のような見方がある:
こうした中国の姿勢について、北京の外交筋は「力でかなわない米国ではなく、その同盟国を攻撃するのが常とう手段だ」と指摘する。在韓米軍が2016年、北朝鮮のミサイルを迎撃する防衛システム「最終段階高高度地域防衛」(THAAD)の韓国配備を決定した際も、中国は韓国系スーパーの営業停止措置を取るなど韓国たたきを展開した。 
 ロイター通信が報じたカナダの元外交官の拘束も、カナダへの報復との見方が出ており、両国の関係悪化は避けられない。
(出所)YOMIURI ONLINE, 2018-12-12, 00時03分配信

正面の主敵がアメリカであると認識していながら、そのアメリカが怖いのでアメリカの同盟国に対して報復する・・・と。

こんな下手な戦略を中国が採っているという見方は「分析」の名に値しないのではないか。

誰が発案しているのかサッパリ分からないが、カナダとの関係悪化を誘発すれば、喜ぶのはアメリカである。中国に分からないはずはない。

それともアメリカが中国を圧迫すれば、中国はこのような行動を選ぶだろうと予測したうえでのアメリカの戦略であったとみれば、これはアメリカによる絵にかいたような「間接アプローチ」になるが、これ自体はまるでエクササイズのような簡単な問題だ。

マア、あれやこれやと中国側の深慮遠謀を解説したくなる向きもあるだろう。が、最初の感想としては、中国は敵対する超大国を相手にパワーバランス外交を展開できるだけの戦略的理論や覚悟、経験など、必要な国家的成熟度が十分なレベルに達していないのではないだろうか。そんな印象が先に立つ。

だとすれば、何をしでかすか分からないネエ・・・

そんな印象だ。

2018年12月10日月曜日

メモ: これも新語のはず「芸能人」、「公人」

『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズのファンである。最終巻も発売直後に既に読んでしまった。先日、実写版映画が公開されたのだが、地元のシネマフロンティアでは上映されておらず隣のS市まで行かなければならない。雪が降り始めるとそれが億劫だ。まだ観ていない。

ところが昨日、書店の中を歩いていると、読んでいない巻が出ている。パラパラめくってみると、主人公夫婦に娘が出来ているようだ。それで、早速買って読んでいるのだが、その第2話はゲーム本をめぐる話しだ。読んでいくと「スファミ版」などという単語が出てくる。「アアッ、スーパーファミコンね!」と気がつくのに一瞬かかってしまう。小生の家族たちもファンであり、ファイナルファンタジーも一日中やっていたが、その当時「スファミ」なる言葉は子供たちの間でも、TVでも使われてはなかったと思う。

これは新語じゃないかと思うのだ、な。

「新語」といえば「芸能人」。この「芸能人」という単語も、小生の幼少年期にはそれほど使われてはいなかったような気がする。もちろん雑誌『アサヒ芸能』が昭和20年代からあったわけで、「芸能」という言葉自体は存在していた。しかし、「芸能界」も「芸能人」も極々狭い意味付けで使われていた言葉であったように記憶している。

「文化人」でも「文人」でもなく、「芸能人」・・・。確かに昔はなかったと思う。

***

ずっと以前に東大生の「芸能人化」について投稿したことがある。確かに芸能業界の社会への浸透ぶりは甚だしいものがある。知り合いの▲▲さんが、何か役に立つ提案をしたというのでニュースになり、いつの間にか「芸能界入り」をする、本人もその気になっている、というケースも珍しくなくなった。

でもネエ・・・

小生の感覚では映画俳優や女優は芸能人だが、ピアニストや日本画家は芸能人には入れない。まして「芸能界」という単語は広く使われる言葉ではなかったと思う。

一体、この「芸能界」というのは、いかなる「界」なのか?昔からあったのか?

ある日のワイドショーでは「芸能人も公人ですからネ、身を慎まなければなりません」などと吃驚仰天するような言葉も出てくるようになった。

小生の感覚では、絶対にこんな発言はできない、原理的に不可能だと思ってきたのである。

***

俳優や女優なら不倫、離婚、失恋等々、人生のあらゆる悲哀や冒険を経験した方が深い人間表現ができるというものだ。分からない事は表現しようがない。だから人間の表現を生業にしている人は人間修行を名目に諸々の不道徳に挑戦したものである。「これも芸の肥やし」というわけだ。この種のモチベーションは、作家、詩人にも共通する部分がある。特に日本の小説は私小説だから何を書くにも自らの経験の裏打ちが求められていた。リアリティが重要であったわけだ。なので作家と愛人は縁が深い。文豪による不倫もあった。心中事件も何度かある。想像するだけでは当事者の心理描写などできるわけがないのである。

三島由紀夫が『不道徳教育講座』を作品化したのもムベなるかな、である。「教師をバカにすべし」、「人に迷惑をかけて死ぬべし」、「弱いものをいじめるべし」等々、真の意味でこの現世を生きるというのはどういうことなのか。真剣に考える立場に立てば、浮世を無事に生きることを第一の願いとする凡人たちを縛る倫理・道徳は、それ自体に価値があるかどうかを疑ってもよいのである。いや、何事も疑わなければ本質には迫れない。

なので『芸能人も公人ですからネ、身を慎まなければなりません』という発想は、小生の感覚では<あり得ない>というわけである。

***

この世界の本質を理解しようとすれば、非日常に正面から向き合うことが不可欠だ。本質に迫るという点では、音楽、美術も同じである。やはり平凡なモラルを杓子定規に当てはめて理解しきれない人物が多い。

ノーベル賞級の科学者には凡人にはついていきかねる個性をもった天才が多いが、この道理は、真理を探究する人に限らず、美を追求する人、人間存在の本質を極めようとする表現者など、超日常世界に従事する人には共通してみられることではないだろうか。

こういう人たちは世間でニュースになりやすい。ニュース舞台に登場する人は全て「芸能人」。そう呼びたいなら呼べばいい。

しかし芸能界が日常世界に浸透すればするほど、芸能界にもまた日常世界が浸透した。芸能界もまた日常世界の一部になり、芸能人も普通の平凡な人、常識を弁え、人を気遣うデリケートな心をもって、自己を主張しすぎず、他人に流されない、バランスのとれた人。そうあるべし、ということになってしまうのだよ・・・と。これが小生の少年期から初老の今までに起こった変化だ。

かつて俳優や女優が平々凡々たる庶民と同じように見られていたことはなかった。私生活を知る人は極々少数だった。文豪や天才詩人は凡人には理解し難い存在であり、ただその作品に感動するという存在だった。なので、凡人を縛る倫理道徳で彼らを縛ろうなどとは発想もしなかった。天才科学者がいる場所も毎日のライフスタイルもほとんど誰も知らなかった。

いくら一人当たりの実質GDPが世界の中位程度でしかなくとも、日本の社会は一色ではなく、現実と夢、あちらとこちら、平凡と非凡、表と裏、光と影、昼と夜・・・住む世界は幾つもに分かれていた感覚を記憶している。その後、日本社会は一億総中流社会になった。その残像が消えぬ間に、格差が拡大した。拡大しても元には戻らなかった。

***

まったくネエ・・・

本来は非常識を旨として生き様を見せるべき人間集団が、芸能事務所と契約し、芸能界に入り、「芸能人」となることで、その実は「普通の人達」と同じ平面に立ち始めて以来、「世間でも通用する人物であれ」などと言われるようになった。

芸能人も公人ですからとは・・・。品行方正な人間たちが増えすぎたのが近年の日本ドラマが人畜無害で、全然面白くなくなった原因か・・・

公人とは「公務員」から「務」の字をとった言葉だ。要するに、業務には従事していないが、公務員のような存在。そんなニュアンスをつけた言葉だと察しがつく。

この「公人」という言葉もなかったネエ、昔は。あるにはあったかもしれないが、少なくとも小生は記憶がない。

2018年12月9日日曜日

また余計な一言: 医大の「不正入試」について

文科省が全国の医大の入試について調査をしていたところ、新たに「不正」と目される例が数件確認されたというので、ニュースになっている。

読めば、「卒業生OBに特別な計らいを加えた」、「地域に残ってくれそうなので加点した」等々、小生の目線からすると「悪意って訳じゃないよネ」というものばかりだ。

違法な天下り幹部や収賄局長を続々と輩出しながら「この医大入試は不正であった」などと、文科省もよく言うわとも感じる。まあ、文科省が「不正」だと言明しているのではないかもしれないが・・・

それはさておき・・・

哲学者カントは『この世界で無条件で善なる存在は善意志をおいて他には考えられない』という意味のことを『道徳形而上学言論』の冒頭に書いている。

アングロサクソン流の功利主義とは真っ向から対立するドイツ流の観念論が明確に打ち出されている。

つまり、倫理的に最も価値ある行為は善を追及する意思自体にあるのであって、偶々そうなるかもしれない結果の良しあしではない、という哲学である。

医大の「入試不正」は、募集要項にあらかじめ合否に係る重要事項を記載していないという点で、受験者に対する情報提供が不十分であった。アンフェアである。マネジメントが不誠実であり良くなかった。その点では非難されるべきである。しかし、当該大学は悪なる行為を隠ぺいしたのだろうか。その動機をみると、報道されている限りは「特に問題ではない」と、小生はそう感じる。

地域にとどまってほしいという念願は地域の大学ならば当たり前のことである。卒業生OBの子弟だから優遇したい。私立大学ならば、OB達の協力があって大学の存続が可能になっている面もあるので、これまた小生は共感できるのだ ― 共感できない人たちの多くは、おそらく当該大学とは無関係ではあるまいか。もしそうなら無関心であればよいのであって敵意を持つべき理由はない。関係者で、なおかつ卒業生OBの優遇に反感を持つのであれば、その理由を色々なところで語ってほしいと願う。それこそ大学を良くすることにつながるだろう。

最近において「コンプライアンス」という用語が乱用されているが、この考え方は(ともすれば)結果が法規に合致していれば、動機や意志が何であっても構わない。形式が合法であればそれでよい。合法で結果が出ていればそれでよい。答えが合っていればそれでよい。こんな発想にも繋がっていきかねないので、小生は本当のところ、この言葉は嫌いである。

本当にあってほしいのは、親切であって、偽善ではない。

2018年12月8日土曜日

余計な一言: スポーツマンの「2トラック生活」は無理かも

韓国・文在寅大統領の対日外交はツー・トラック戦略を基本とする(と報道されている)。即ち、歴史は歴史、未来は未来。従軍慰安婦や徴用工ではアグレッシブに対日批判を繰り返すが、未来に向けては協力したいので、仲良く協議を進めていきましょうという基本姿勢をさす(ようだ)。

ところが、いざ実行してみると相手側(=日本側)からは虫のよいイイトコ取りに見えて、どうやら継続不可能な状態に陥りつつある。

やはり単一の国家の外交理念は一つであるほうが理解が容易であるし、相反した理念を使い分けることなど、最初から出来るはずはないわけである。時に矛盾した言動をとれば、どちらを信用していいかわからないというのは当たり前である。

エンプティな言葉は、どう細かな修飾をほどこしても空虚である事実は隠せないものだ。

綺麗な言葉が独り歩きしても現実の問題解決にはならない。この点は、国家でなく、一人一人の人間であっても同じことである。

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昨年の暮れから今年の春先にかけて世間の井戸端会議はとにかく「貴乃花親方マター」をしゃべってさえいれば放送局の視聴率はかせげたものである。

先日、一年前の日馬富士事件の「被害者」である貴ノ岩関が今度は暴行の「加害者」となって、ついに引退を決めてしまった。

日本古来の格闘技である相撲を健全な「スポーツ」として今後も育成していこうというのが社会の合意であるようだ。そのスポーツの日常風景から一切の暴力を排除していこうというのは、社会全般から暴力組織を排除していこうという努力にも似て、既に社会的合意が得られているようにも見える。

ただ、どうなのだろうねえ・・・これまでに何度も本ブログで投稿したのだが、暴力とは無縁の近代スポーツとして相撲が今後将来にかけて継承可能なのかといえば、小生は非常に困難ではないかと思っている。

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相撲という格闘技は、近代以前、少なくとも江戸時代以前にまで遡った日本社会の慣習や趣味志向を反映しながら、段々と技や動作、舞台が整えられ、現在の姿になった。

大体、日本相撲の発祥を伝える伝説においては当麻蹴早と野見宿禰という二人の神が対戦し、蹴早は宿禰の腰の骨を折って相手を殺してしまっている。こんな伝説をスポーツ誕生の逸話に持っている競技が他にあるだろうか?

肘打ちはタブーだが、張り手やカチ上ゲは可、蹴ってはダメだが、流れの中で蹴りながら足技をかけるのは仕方がない。頭突きも禁止どころか、立ち合いにはガチンコで突進するのが良しとされている。

一般社会においては殴ってはいけない。しかし、相撲では平手で打つのもアリである。ブチカマシなどは社会でやれば暴行だが、相撲ではそうするのが善いのである。

つまり、相撲という競技は、命の危険を減じる方向で様々なルールを取り入れながら、それでも「土俵の充実」という大義名分の下で、ギリギリのバランスをとりながら完成させてきた格闘技である。格闘技という一面をみればスポーツだが、継承されてきた興行という一面をみれば闘牛や闘鶏、鷹狩と同じく伝統文化であるとも言える。柔術は「柔道」となって国際的にも受け入れられやすい近代スポーツに衣替えをした。一方、相撲はまだ丁髷を結い、青龍・朱雀・白虎・玄武の四神を象徴する房の下で闘技を繰り広げている。

相撲は非近代的である。暴力的体質はそこに由来する。しかしながら、何よりも要点になるのは相撲が伝えているこうした荒々しい格闘が日本では「荒ブル神技」としてファンには支持され、多くの人が足を運んで高い入場料を払って観ていることである。相撲を観る人が何よりも嫌うのは、荒事を避けて身をかばう八百長相撲なのである。

★ ★ ★

本割、巡業、稽古が終わって、日常生活を送るときは暴力は絶対不可。しかし、相撲の稽古・修行に励んでいるときは相撲道に従う。いわば「土俵内モード」と「土俵外モード」を峻別して使い分ける「ツー・トラック力士生活」を現代社会は求め始めている。

昔はこんな野暮なことは言われなかった。マア、言わんとしている理念はわかる。

しかし、稽古をしているとき、ニヤニヤ、ダラダラしながら見ている若い衆に先輩が張り手を食らわせるのは、これは相撲道の一環であって、土俵外にいる以上は「日常生活」を送っているのだとは言えないだろう。

力士として相撲部屋で共同生活を行い、毎日を送るその生活全体が「常住坐臥これ修行なり」。そういう哲学すらありうるかもしれない。力士に日本人が求める「品格」とは、土俵内モードにおいてはシッカリしてよね、土俵外では自由にしていいからサ、と。そんな事ではないはずだ。

もちろん、真に実力のある力士は年下の付け人を折檻するにしても、殴りはしないはずであるし、優しいはずである。『戦う時には勇猛なるも、土俵を下りれば仁優の人』というのは、日本人が古来理想とする英雄像だが、実際に仁と勇を兼備した人は稀であろう。

『一般社会でも通用する人間であれ』と力士を指導するのは一見分かりやすい。しかし、具体的に、力士はどうあれ、と言うのだろう。相撲部屋の中であっても平手打ちはいけないのだろうか?稽古を見ているときに叱るときも一切の暴力はいけないのか?しかし、勝負となると張り手が飛んできますよネ・・・。矛盾していないか。

こんな「相撲のツートラック化」を押し付けるより、もう割り切って現代社会の日常感覚にそろえて、相撲のあらゆる場面から暴力を完全追放する。この路線の方がシンプルになるはずだ。とすれば、張り手は禁止、頭突きになりうる低い立ち合いは禁止。韓国相撲のように、制限時間がくればやおら立ち上がり、一歩土俵中央に進んで、組み合って回しを引き合い。行司・11代式守勘太夫が「はっけよい!」と叫んでから格闘に入る。ツッパリが顔面に入れば、反則負け。のど輪も危険であるので禁止・・・こんな柔弱なパターンになるなら、サムライよろしく丁髷を結うのもおかしい、この伝統も廃止・・・。となれば、行事の烏帽子も可笑しいよね、廃止。・・・

力士生活のツートラック化は力士を戸惑わせるだけである。あくまでも社会常識と相撲とのすり合わせを是とするなら、ルール自体を改変するしかないのではないだろうか?

小生は現在の相撲界は現状でよいと思っている。相撲界内部の統制は相撲界で継承されてきた道徳尺度で治める方がよいと考える。それは慣習であり、故に今さら成文法に書き起こす必要はない。小生の本音は多様性に積極的に価値を置くローカリズムなのだから、どうしてもこう考える。が、どうしてもその現状が反社会的であると思うなら、徹底的にやればよい。そう提案する方が一貫している。



小生はそう感じてしまうナア・・・今日はこんな一言で。

2018年12月5日水曜日

北海道: 電力については現状変更を迫らないマスメディアの本心は?

マスメディアがいくら非難しても攻撃しても安倍現政権の支持基盤はほとんど変わらない。

野党がなにを言っても、支持率が僅かな数字では無力である。

ということは、逆転の発想をして、メディアが何を言っても、何を語ってもよいはずである。言いたいことを言えばよい。もし言わないのであれば、それは言うつもりがない。そういう推察が出来る。

傍からみていても、マスメディアの本心について様々な仮説が思い浮かぶのが、北海道の電力問題だ。特に電力問題については、報道ぶりに<へっぴり腰>が目に余る。地元読者層の生活に直結するにもかかわらず、どこをみて報道をしているのかと不審に思う程だ。

先日の投稿では次のように述べた:

北海道新聞の現況判断は 

冬の電力安定供給にめど 北電、火発再稼働で上積み見込む 
という見出しに表れている。 

データはどうなっている?ヤレヤレ・・・地元紙がこうだからネエ・・・
本当に大丈夫か?新聞社に命の責任はとれるのか? 

いま朝ドラ『まんぷく』では、米軍による空襲(≒空襲被害?)が増えてきた昭和19年から20年にさしかかっている。街角には「欲しがりません、勝つまでは」、「進め一億、火の玉だ」のポスターがベタベタと貼られている。 

国家的目標もよし、崇高な理念もよし、ただ原理主義者は常に非人間的である。

上でいう<へっぴり腰>というのは、政権ではなく、反原発派に対してであると、小生は仮説をたてているのだ。

★ ★ ★

世間には<反原発派=正義>という受け止め方が通用している。<反原発派=公益代表>であり、<原発推進派=企業経営者代表>。こんな通念が世間では案外広く支持されている印象がある。

しかし、反原発が正しく、原発推進が誤りであるというのは、合理的検証を経て得られた結論ではない。そもそも福一事故の総括はまだなお不十分である。原発に限らず、火力発電、水力発電、再エネ発電それぞれのコスト・ベネフィットは広く十分な情報が共有されておらず、社会が望むエネルギー戦略については未決着のままになっている。

まして<脱原発>を進めていくとして、その先に予想される日本の経済・社会・生活・環境について、責任ある機関なり学界から信頼できるシミュレーション結果が公表されたとは、勉強不足かもしれないが、聞いたことがない。聞くのはスローガンであって国内政治やビジネスチャンスに関連する言葉ばかりである。

どこから見ても、日本のエネルギー戦略は大震災から7年たってもまだ未決着である。

未決着であるからと言って、とりあえず世間で声の大きい<原発=失敗>を仮の想定として電力問題を論じる態度は、商業ベースに立てば合理的ではあるが、メディア産業の果たすべき役割とは矛盾している。

単なる未決着なら合理的な解に時間はかかるだろうが収束するかもしれないが、偏ったノイズが選挙運動中の拡声機のように議論を壟断すれば、結論が非科学的になろう。メディアがその片棒をかつぐかもしれないし、片棒をかつぐ役回りとしてはメディアはいつだって最有力な候補である。

ズバリ書いておく:

原発再稼働で九州では太陽光発電買取抑制に追い込まれるような状況が十分予測でき、逆に電力供給状況にリスクがあった北海道でブラックアウトが発生することを予測するべきであったにもかかわらず、なぜ西日本の原発施設が先行して再稼働されたのか?

北海道の地元紙であれば、その背景を取材し、経緯を調査し、安全審査を含めた行政プロセス全般に瑕疵はなかったのか?それを検証をするべきである。

★ ★ ★

本日午後のTV某局も
この厳冬期に万が一ブラックアウトが再び発生したとして、実はまだ何も変わってはいないんですよね・・・
その通りだ。珍しく客観的事実をそのまま率直に言っているではないか。

内閣支持率の数字をさえ動かすことのできるマスメディアが、電力政策に何も影響力を発揮できないという情けない現状は、メディアは詰まるところ何もできないということの証拠かもしれない。最初に書いたように・・・。

しかし別の仮説化も考えられる。「いまの現状でよい」と地元マスメディア自身がそう考えている。だから踏み込んだことは言わない。こう推察しても観察事実と矛盾はない。

『正義を主張する党派は常に非人間的である』、上で引用した投稿ではそう述べている。見方は今なお変わらない。

★ ★ ★

社会的問題が解決される在り方には二通りがある。

制御された議論と手続きによって解決策を先に実行するか。問題解決が遅れ限界を超えたところで超法規的に、手続きによらず状況に対処するか。いずれかである。 
言うまでもなく、状況に対処する過程で<正しい措置>が選ばれる保証はなく、その時の意思決定者、意思決定者に影響力をもつ人物達の構成によって、成否は分かれることになる。

高橋・北海道知事が来夏の参議院選挙に与党候補として出馬すると報道されたのは、ついにこの2、3日前の事である。

確かに北海道地域にエネルギー問題はリスクとしてそのまま潜在している。文字通り"vulnerable in terms of power"である。

9月6日のブラックアウトに至る北海道エネルギー政策の楽屋裏は今もまだ闇の中である。

上で触れたTVでは

私たちの方でもですネ、いざブラックアウトになったら、手回し発電機を用意しておくとか、そういったネ、一人一人が備えておく。そんな心の準備が求められていますネ・・・

こんなセリフが公共の電波にのって大真面目に放送されるとは・・・絶句する。ブラックアウトを「空襲」、手回し発電機を「竹槍」とリプレイスすれば、そのまま戦時中のラジオ放送に使えるであろう。

いま政策現場とそれを取り巻くマスメディアには退廃のムードが漂っているのではないか。

危ないネエ・・・

2018年12月4日火曜日

随想: 記憶が正しいからと言って、それが真実とは限らない

小生の職業生活を回顧したエッセーを寄稿してくれと頼まれた。

「回顧」とはいえ、逐一編年体で書いていけば幾ら書いても書ききれない。何しろこの間ずっと書き続けていた覚え書きはA4で何百ページになるのか分からないほどだ。縮尺5万分の1程度で思い出をまとめるしか書きようがない。

書いたその下りの中に次の一文がある:
岐路だった。北海道に移住し研究・教育をライフワークにしていくことを考えた。母の死を受け止めきれない中で再出発したいとも思った。
母が病気で亡くなったちょうどその年に小生は北海道に移住して大学生活を始めることを決めたのだ。 上の一文はちょうどその頃の心境を書いたものだ。

***

ところが、書きながら分からなくなった。

今までは、母の死をきっかけに東京の役所には戻らず、北海道に移ったと考えていた。聞かれると人にもそう話していた。

が、そうなんだろうか・・・分からなくなった。

「かくかくしかじかでそうなった」という説明は事実をただ並べているだけである。先にあったことが後にあったことの原因であるとは限らない。"post hoc ergo propter hoc"の誤謬は歴史家が常に自戒しなければならない。

たとえ母が病気にならず、一度は東京へ戻ったところで、小生は役所を辞めると言っては母を驚かせ、カミさんを不安にさせていたであろう。それはほぼ間違いがない。とすれば、母の死によって小生が人生の転機を決意したという言い方は実は嘘であることになる。小役人の生活に鬱々とし、母の健康状態に細かな配慮をすることに欠けた小生の側に事の進展の主因があったとも考えられるのである。

そうなんだろうか・・・

***

ずいぶん昔のことになってしまった。

夏目漱石の小説『三四郎』の中に次の下りがある。"Pity is akin to love"を日本語にどう訳するかという議論をする場面だ。『日本にもありそうな句ですな』と三四郎がいうと、そばに居る与次郎が『少し無理ですがね、こう云ふなどうでしょう。可哀想だた惚れたって事よ』。入ってきた野々宮さんが『へえ、一体そりゃ何ですか。僕にゃ意味が分からない』、すると広田先生が『誰にだって分からんさ』。

直訳すると、『哀れみは恋愛と同種である』といった風になる。WEB辞書には『憐みは恋の始まり』という表現もある。

それぞれニュアンスが違う。厳密には、意味も違う。が、同じ英文を日本語に直すとき、元の意味は「誰にだって分からんさ」というのが、正解と言えば一番の正解であることは、少しでも翻訳作業をしたことがある人ならば納得のできることだ。

そういえば、漱石の作品だったと思うが、「それはどういう意味でしょう」と聞かれて、「どういう意味かって・・・そんな事は言った本人にも分からんさ」と(いう風に)応えるところがあったと記憶している。

小生はこの箇所が大変好きなのだが、どの作品であったか確認できない。






2018年11月28日水曜日

また余計な一言: 戦前と戦後の日本人の似ているところ

今日の「毎日新聞ニュースメール」にこんな下りがあった。「NHK連ドラ『まんぷく』暴行シーンは史実か 過酷だった憲兵の弾圧」というタイトルだ:

 NHKの連ドラ「まんぷく」。旧日本軍の憲兵がヒロインの夫になる男性に暴行する場面について「優しい日本兵が出てこない。日本人をおとしめるのか」といった批判があがり、論争になっている。専門家に話を聞き、資料を調べ、憲兵と「歴史の忘却」について考えてみた。
▽特集ワイド:NHK連ドラ「まんぷく」暴行シーンは史実か 過酷だった憲兵の弾圧
https://l.mainichi.jp/lHRYQtS 

以下は担当記者による後記:
 「まんぷく」に登場する憲兵の論争を切り口に、日本の「負の過去」を考えてみた。心ない言動でだれかを傷つけた、あるいは迷惑をかけた。だれにもそんな経験はある。過去を「なかった」ことにしても、傷つけられた相手は決して忘れない。国と国との間でも同じだろう。負の過去に触れない、あるいは「なかった」とする「歴史」本が売れる時代である。負の過去と向き合い、それでもこの国に愛着が持てる。そんな歴史本こそ読んでみたい。

朝ドラ「まんぷく」は小生も視ている。日清食品の創業者・安藤百福がモデルである立花萬平が憲兵に拘束され暴行を受ける場面も視た。連想したのは漫画『Jin‐仁‐』の主人公・南方仁が無実の容疑で小伝馬町の大牢に入ったシーンである。まさか、あの位のことで『日本人を貶めるのか』という批判が出るとはナア・・・時代も変わったものである。

亡くなった両親は10代後半に戦時中を送った。当時の軍人・憲兵が国民に対していかに暴力的であったかを何度も話題にした。小生が小学校高学年を送った伊豆の三島市北方にある小学校は旧陸軍が使用していた兵舎を校舎に転用していたのだが、その建物の暗い廊下の片隅に「開かずの間」という一室があった。そこでは「問題のある兵」に制裁や拷問が加えられたと教えられた。児童たちはその部屋には入らないように言われていた。言われなくとも鍵がかかったままのその部屋はどこか陰惨で誰も近づきはしなかった。『日本は負けてかえって良かったのよ、軍がなくなっただけでもネ』という母の言葉は大多数の戦争世代に共通した正直な感情ではないかと思われるのだ。

観念で戦前のことを話しても駄目である。経験が何よりも貴重である。

召集された下級兵士は職業軍人ではない。召集解除になれば元の仕事に戻る。権力を行使したのは職業軍人集団である。戦前の軍部が、組織全体として極めて非人間的であったという事実は、もう国民共通の知識として確定させてもよいのではないだろうか。これはもう、疑いようがないと思われるのだ、な。

***

だから、相当の保守派である小生も、今回ばかりは『負の過去と向き合い、それでもこの国に愛着が持てる。そんな歴史本こそ読んでみたい』という意見に賛成する。

進歩の基礎となるのは失敗経験である。失敗を直視し改善につなげていく態度が成功をもたらす。逆に、成功について語り、成功体験を誇る姿勢からもたらされるのは堕落と退廃だけである。

***

朝ドラ『まんぷく』の暴力シーン程度で「貶められた」と感じるようでは、良い記憶だけを伝えようとしていた戦前の軍部と現代日本人の感性は、あまり異なるところがない。

好きで暴力を加える権力はないものだ。暴力を行使する権力の根底には正義の感覚がある。不正義を憎む気持ちから暴力が生まれるものだ。

だとすれば、現代日本人も大体同じような事はやっている。「許せない」と思う人物に社会的制裁を加えているのはその一例である。正義の怒りを直情的に噴出させて、それが正しいと思い込んでいる様相は、大衆が違法行為を監視する現代社会であれ、違反を摘発しようとして憲兵が監視する戦前社会であれ、どちらも同じではないか。

<過剰制裁>を恥じないという点では、戦前の憲兵も現代の大衆も変わらない。身体を物理的に殴るか、精神的に圧迫するかの違いはあるかもしれないが、どちらも苦痛をもたらすという点では同じである。

テレビドラマの暴力シーンをみる程度で「日本人が貶められた」と感じるなら、幼少の児童の虐待や自殺が相次ぐ現代日本のありようは、既に日本人を貶めている。その事実を直視して、状況の改善に貢献するような行動なり提案を行うのが本筋だろう。

2018年11月26日月曜日

余計な一言: ゴーン・ショック

日産会長カルロス・ゴーン氏を襲ったシェークスピア劇を地で行く騒動については、これまでにも多数の見方や見解が公表されている一方で、事実については今後明らかになるのを待つところが多い。なので、今の段階で喧々諤々の争論をしても、多くが得られる見込みはない。

が、今の段階で明確に批判/反論するべき見方はある。

先日どこかのTVのワイドショーであろう、こんな見方が大真面目に出てくるとすれば、大体以下のようなことであった。
フォードやクライスラーに比べればゴーン会長の報酬は少ないとか言っていますけど、これは世界が間違っているの! 社長や会長なんて何もしていませんよ!! 働いているのはエンジニアであり、社員なんですから!!!
「失われた20年」を経て既に2018年も終わろうとしているいま、今もなお典型的な日本主義丸出しのこのような見解を堂々と開陳するとは吃驚したゼヨ、まだ夜は明けチャア、おらんぜヨ。こんな思いであった。

大体、それほど日産のエンジニアや社員が優秀なのであれば、なぜ倒産寸前になり、ルノーに救済を乞い、先方からゴーン氏を迎える危機に陥ってしまったのか。さっぱり合点がいかぬ。社員は優秀だったんでしょ?トップは何もしないんでしょ?失敗するわけないでしょうが、というわけだ。

ゴーン氏がトップになって何もしていなかったなら、なぜ日産の回復とその後の成長はあり得たのか? おかしいではないか、というわけである。

***

「狼の群れを羊が率いる集団」と「羊の群れをオオカミが率いる集団」が争えば勝利はオオカミをトップとする羊軍団にあがる

勝負の天才ナポレオンの格言である。

才能のあるエンジニア達は彼らだけでは評価される仕事ができない。彼らを手持ちの資源として役割を与え、縦横に組み合わせ、それまでとは別の次元に属する強力な人間集団に再組織化できる才能は実に稀有である。故に、有能な経営者は世界的にも稀少であるのであり、有能な社員よりも遥かに高い価値を持つのである。こんな簡単なことはビジネススクールではイロハのイである。基本科目で最初に教わるトップマネジメントの役割を理解できない御仁には単位が認められない ー もちろん頭でわかっていても、それだけでは失敗するものだが。

単に勤勉で、そこそこ優秀なエンジニアや営業マンならば、数多いるのである。ただ彼らは使ってくれるトップに恵まれなければ、そこにいるだけの存在となる。

民間企業に限らず、国家、自治体、大学、競技団体等、あらゆる分野を通して、誰もが知っているはずの観察事実であると思うのだが、まだなお働いているのは身を粉にして汗を流して動いている人間たちだけ、とはネエ。

この傾向は、知識や科学というレベルを超えて、日本人のDNAに刻み込まれ、日本人がもはやそこから逃げることができないような遺伝的性向なのだろうか。とすれば「体質」という言葉が文字通り当てはまるというものだが・・・

2018年11月24日土曜日

随想: <天才>についてまた思う事

本ブログでも何度も書いているように、小生が大変好きで、よく使っている言葉は
秀才はなしうる事を為すが、天才はなすべき事を為す
「なすべき事」とは、現に生きている国なり、社会なりが直面している課題を解決して、新たな時代に進むことである。

こう考えると、小生がこれまで生きてきた中で、文字通りの「天才」にお目にかかったことは、一人もいない。

何も「物足りない」とか、人物のレベルが低かったとか、そのような事を言おうとしているわけではない。むしろその方が有難いと思う位だ。

自分にも理解可能な人というのは、何より安心できる、というものだ。

★ ★ ★

経済学界というか統計畑でメシを食ってきたが、小生が仕事をしてきた畑には、天才は一人もいないのではないか、と。そう感じる。日本国内を振り返ってみても、「あの人は天才である/だった」と思う人はいないと思う。戦前・戦後を通して、どの人も、才能の範囲で、最も聡明に自分にとって解決可能な問題を選択して業績を重ねた人のように思われるのだ。

国を問わず、時代を遡ってみても、経済学の分野でただ一人だけ「天才」という表現をしてもよいとすれば、ケインズしか思いつかない。

小生が昔学んだ大学では、ちょうど一般均衡型計量モデルを研究グループを挙げて共同開発しつつあったさ中であったためか、ケインズ流マクロ経済理論には極めて冷淡だったことを記憶している。専門家であればあるほど、経済学者としてのケインズに批判的な人は相当数いたことが想像される。後の時代の視点から前の時代の人を批判するというキライがあったのだが・・・。ではあるが、曲がりにも当時直面した経済問題に対する解答を提供し、学問的パラダイムを変え、その行動が後世の新たな学問的発展の契機となり、政府の経済政策の在り方までを変えたという点では、やはりケインズは真の天才だったと言わざるを得ないと思っている。

他にはいない。ケインズしか思い付かない、「天才」という名を与えうる経済学者は。つまり、経済学の世界で活躍した人々は、その学問的水準において、超秀才、大秀才、秀才の名に値する人たちであった、と。そう感じるのだな、どの人も。

統計畑では、これはロナルド・フィッシャーの決め打ちでもよいのではないか。

★ ★ ★

「天才的将軍」という概念は世間では明確である。戦術、戦略の革新を断行し、世界を変えるという事例は、年表の中から特定しやすいのだ。

それに比べると「天才的政治家」というのは存在するはずなのだが、輪郭が曖昧である。マックス・ウェーバーが言ったように、政治家とは固い岩盤に鑿を何年も打ち続けても決してヘコタレルことのない性格でなければならない職業である。つまり、天才的将軍が短期的に颯爽として栄光に包まれるのに対して、天才的政治家は何年もかけて上り坂をゆっくりと上っていく、そんな姿になる。

天才的政治家は天才であるとしても、まったく天才的な印象を与えない。なので、事後的に「あの人は天才的な政治家であった」と振り返って、はじめて天才であった事実がわかる。それが天才的政治家だろう、もしいればの話だが。

天才的政治家は、その時には周囲からそうは見られないはずなのだが、誰もが回避する時代の問題を見事に解決し、新しい時代をもたらすという点では他の分野における天才たちと同じである。まあ、その「新しい時代」が魅力ある時代であるかどうかは、人による。ともかくも、直面していた難問に対する一つの合理的解決策を提示したということである。その一つの解決をきっかけにして、歴史が前向きに歩み始めるのである。

つまり、天才的政治家は歴史家によって発掘される対象である。

が、日本の近現代史を通して、というか日本の全歴史を通して、天才的政治家の名に値する人はほとんど特定されていない。

まあ、世俗的にして歴史小説のレベルから名を挙げるとすれば、せいぜいが織田信長と豊臣秀吉くらいだろう。この二人にしても、本当に時代を超越した革新的政策を断行した人物であったのか、最近になって様々な批判が加えられているようだ。歴史の古層に忘れられた天才的政治家が日本にもいるのかもしれない。政治の分野でも100年か200年に一人くらいは日本にも政治的天才が登場していたのだと思われる。他に多くの「天才的政治家」をもっと発掘し、いかなる点において「天才」」であったのか、どのような難問を解決し、時代を進展させていったのか。この辺りを国民向けに解説してほしいものである。

2018年11月22日木曜日

最近のSNSたたきの背景の一つとして

標題から分かるように前稿の続編である。

大手マスメディアによる最近のFBやTWTRなどのSNS企業叩き、特にFBバッシングは目に余るものがある。

なるほど、NYTなどの老舗新聞からみれば、フェイスブックはメディア企業として極めて無責任に有害な情報を社会に垂れ流しているということなのだろう。

フェイスブックは、それに対して『わが社はメディア企業ではない、IT企業である』と自社のポジションを主張しているが、世間の中では旗色が悪い。やはり米大統領選挙におけるロシアンゲートで重要な役回りを演じてしまったことが響いている。

要するに、印象が悪化したのだ。数年前の「アラブの春」では社会の進歩の先導者であると称賛されたのが嘘のようである。

実際には、いずれのケースもSNS企業の功績ではなく、SNSを利用する利用者の意図が為したことなのだが、世間はそうは見てはくれない。

包丁で人を刺したからと言って、包丁メーカーが悪いわけではない。考えてみればすぐに分かることだ。

ここが問題だ。が、よく考えてみると、旧メディア側が憤る背景も分からないではない。

★ ★ ★

雑誌"Forbes"にこんな文章がある。

Facebook may have initially led the charge in connecting people, but Jacob Weisberg wrote in the New York Review of Books, “Zuckerberg and his company’s leadership seem incapable of imagining that their relentless pursuit of ‘openness and connection’ has been socially destructive.”

Source: Forbes, 19-Nov-2018

先日の投稿はあくまでも人と人をつなぐ"Social Network"を念頭に置いていた。

しかし、フェイスブックの利用者は「人々」ばかりではない。権力を行使する政府、公的機関、影響力の大きい言論機関、民間企業、その他団体もFBという空間で意図をもって行動している。

リアルな社会で力を行使している組織が、ネット空間でも言葉や映像、音声を通して影響力を広げている、そう言える状態が既にある。力を行使するチャンネルの一つとしてフェイスブックが利用されている。これも「人と人の繋がり」であると強弁するのか。要するに、こういう批判である。

★ ★ ★

経済学には確かに完全競争の下で社会的厚生は極大化されるという「パレート最適」が命題として証明されている。しかし、この命題が成立するには非常に困難な前提が満たされていることが必要である。むしろ、経済学の基本定理で主張されている結論をリアライズするには、どのようなことが必要であるかという視点に立って定理の意義を理解することが大事だ。こう話してくれたのは、小生が学生時代に授業を担当してくれた福岡先生である。経済学の純粋理論で仕事をする人にはそれなりの現実認識の裏打ちがあったことがわかる ― 小生の恩師である小尾先生と計量経済学グループはまた違った感覚で純粋理論畑の人たちを観ていたようだが。

経済的厚生を破壊する主要因は、一つには「独占的支配力」を有する巨大企業の誕生である。アメリカで市場経済の成果を評価する産業組織論が大型トラストが相次いだ1920年代に発展したのは偶然ではない。

自由な経済活動は企業の成長と社会的厚生を両立させる近道であるが、全てを自由化し放任しておくと、強者が弱者を支配する「ジャングルの経済」が到来し、多数の経済的厚生が損なわれることになる。米国FTC(Federal Trade Commission:公正取引委員会)は、経済的自由を抑制することが目的ではなく、社会の経済的厚生を守るために必要な行政機関である(建前としては)。ただ、もちろん、一時のマイクロソフトや現在のGoogleのような巨大企業に対して、具体的にどう立ち向かうか、学派によって左翼もあれば、右翼もいるのが現実だ。

★ ★ ★

フェイスブックの利用者がフェイスブックを利用する目的は「社会的つながり」を求めて自分自身のプロファイルや「近況」を発信することばかりではない。

巨大な組織もまたフェイスブックを利用しており、それらの加入者はフェイスブックに集積されている人と人との繋がりを「調査する」のである。

場合によっては、フェイスブックからマイクロデータを(所要の契約手続きの下ではあるが)入手して、それを分析し、自社利益拡大のための行動につなげていくのである。このようなプロセスの中で、英国の選挙コンサルタント企業「ケンブリッジ・アナリティカ」による個人情報流出事件が発生し、ロシアの選挙介入の片棒をかついだという疑惑の標的にいまフェイスブックがなってしまっている、というわけだ。

Forbes誌の言う"their relentless pursuit of ‘openness and connection’ has been socially destructive"は、経済学分野における「市場原理主義」への懸念と大変似ていることに気がつく。さすがは"The New York Times"である、と書いたところ、上の引用記事は"Forbes"からだった。"Forbes"までがネエ・・・。確かに潮目は変わってきたと感じる。

市場原理主義者が唱えたグローバリズムは、結局は多国籍企業やメガ金融機関に利益拡大のための自由を保証したものだった、と言えば公平性を欠くかもしれない。しかし、いまフェイスブックが唱えている「開放的かつ自由な繋がりの場」は、結果として悪意と意図をもった力ある組織が社会に影響力を行使するための格好の場となっている。いずれはジャングルのような社会がやって来るに違いない。社会の利器が凶器と化す。そんな非難も決して的外れではない・・・ウ~ン、確かに一理も二理もある。そう思われてくる。

★ ★ ★


どうすればいいか?

SNS企業の裁量で「良い利用者」と「悪い利用者」を選別するか? 一社にそんな選別をする権利を与えるなどトンデモナイとみな考えるはずだ。が、いま進めているのはそんな方向だ。社会の現実をSNS企業で問題解決せよと非難している。では、公的機関が一定の判断基準に立って、「サイバーパトロール」のような事を担当するのか? そんな権限を「お上」に与えてしまえば、「アラブの春」のような進展は二度と期待できないだろう。自由な発信を規制できる権限を公的機関に委ねるべきではない。多くの人はそう考えるのではないか。

結局は、偏った投稿なり動画なり不適切なデジタル資源がネット空間に現れても、圧倒的に放出される多数の異論の洪水の中で埋没・消失していくという状態が理想であるには違いない。"Natural Selection"に委ねればよいという観方だ。SNS企業はインフラを提供する役割にとどまる ― どんなインフラを設計するかというのが問題の本質だが。

ただ、現在のフェイスブックは社会で目立ったポジションを占めたいと考える人が活発に発信し、平穏に日常を送っている人たちは必ずしも社会的により広い繋がりを求めてはいない・・・実際、小生の旧い友人たちでフェイスブックのアカウントをもっているのは極々少数である。SNSというツールは、まだビジネスとしては序の口の段階であり、耐久消費財の普及率でいえば、せいぜいが15パーセント位かというのが実感である。

日本ではLINEが優勢で、FBとLINEは相互参照はできない。カミさんが最近になってLINEを始めたが、それでも友人たち全体の半分はLINEをやっていないという。世代格差も大きい。

フェイスブックの創業者ザッカーバーグが主張するように、SNSが真に社会的インフラとなって、そのプラス面を発揮するようになるには、もっと遥かに多数の人がSNSを利用することが必要であるし、何よりも多数に分立しているSNS企業間で相互参照できるチャンネルをつくることが欠かせないのではないだろうか ― もちろんビジネス戦略として選択可能かどうかという問題がある。

★ ★ ★

ただ、上のような理想のSNSが形成された後であっても、テンポラリーに核となるような陣営が形成され、その陣営が社会に大きな影響力を、時に破壊的なほどに発揮するかもしれない ― 1990年代から2000年代にかけてマイクロソフト社も過剰な支配力を持っていると批判されたものである。強制分割への恐怖は大きくなりすぎた主体には常にあるものだ。

大きな影響力をもつに至った党派を「過大」であるとして抑制するのか、そのような党派もまた社会の「自然」の流れであり、進化であると考えるのか。どちらの立場に立つかは社会哲学によるのであって、正解を見つけるのは困難だろう。





2018年11月19日月曜日

大手マスメディアによるSNSたたきの見苦しさ

今日の投稿はソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)企業に対する最近の社会的な批判をどう考えるかがテーマである。

テーマとしては大きいので、まずは第1回ということにしておこう。

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数年前にフェイスブックのアカウントを新規作成した。国際関係論を専門にしている友人がメールで書いてきたのだが、『日本でフェイスブックとかツイッターとか、ソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)がイマイチ普及しないのは、どうしてか?』、『それだけ民度が低いってことなのか?』等々。そんな指摘があって「自分でまず使ってみるか」と思ったのがきっかけだった。特にフェイスブックについては『本名でアカウントを作るからネエ、それが日本人の肌合いに合わんのかもしれんネ』とまあそんなコメントをした記憶がある。

友人が「日本でSNSが普及しないのは民度が低いからじゃないのか」と指摘したのは、チュニジアやエジプト、リビアなど北アフリカで急速に進んだ「アラブの春」が念頭にあったからだ。革命的な民主化の進展をインフラとして支えたツールがフェイスブックなどSNSであったのは今ではよく知られている。

要するに、フェイスブック(ツイッターも)は、社会の現状を構造的に変えてしまう程の威力を発揮することがある。それを知って世界は震撼したものであった。

★ ★ ★

ところが、アメリカ社会だけではなく、全世界的にSNSをとりまく潮の流れは、アラブの春を歓迎した当時と比べると、一変した。文字通り逆転したと言ってもよい。

フェイスブックが巻き込まれた「ロシアンゲート騒動」、「個人情報漏洩事件」、更には一部の社会的勢力がヘイトスピーチを繰り返す、セクハラ・パワハラ発言を繰り返すユーザーを放置している、これらすべての不祥事に対してフェイスブックには責任がある、と。NYT、WPなど有力メディアの紙上ではそんな論調になってきた。

社会的バッシングを被り、フェイスブック社内の士気も非常に低下しているという報道もある。株価も今年初めのピークから3割程度は下落した。

今もなお、創業者ザッカーバーグ氏と新ロシア勢力との繋がりを疑ったり、ザ氏と経営陣との確執について噂が流れるなど、ここにきてメディア全般は反ザッカーバーグ運動の様相を呈し始めている。

一つの「社会運動」であると思われ、こうした風潮形成は既存メディアの得意技とも感じられ、小生、勝つか負けるかの権力闘争の一変種であるとも見ているのだ。

だからこそ、フェイスブックについて言えば、創業以来最大の危機にある。

★ ★ ★

ただ、どうなのだろうなあ、とは思う。小生は、フェイスブックのヘビーユーザーではない。3か月に一度くらいの頻度でタイムラインを更新する程度だ。

それでも、既存マスメディア企業が新興のSNS企業をいま非難しているのは、奪われた影響力を奪還するためのマーケティングであると感じる。

窮極の可能性に立って想像してみよう。フェイスブックがユーザー数を増やし続ければ、最後にはニュース源からニュース需要者に情報を直接つなぐパイプとして機能し始めることが出来るだろう。知るに値する全ての社会的情報は何もメディア企業に勤務する編集者に一枚噛んでもらう必要はない。そこでいったんフィルタリングをしてもらう必要性はない。ニュース源がその「事実」をダイレクトに発信してくれればそれが最も良い。SNS企業が全てのオリジナルな情報をカテゴリー別に見やすく整理して、需要者のニーズに応じて配信してくれれば、それが個々人にとってはベストであろう。情報のP2Pサービスすら可能かもしれない。

大手マスメディア企業は、P2PどころかB2CとB2B、その切り分け、つまり顧客セグメント別の紙面編集すら出来ていない。編集局で取捨選択した記事を一斉に紙面に載せるだけである。故に、満足度は平均的に低位に留まるのである。メディア企業としての経営戦略が陳腐化し、一部はほぼ破綻しているのだ。

繰り返すが、SNS企業はメディア企業として創業したのではない。

情報利用者が本当に必要としているのは、原情報であるはずだ。メディア企業が果たしてきた社会的役割を、SNS企業が結果的に果たしてしまうのであれば、メディア企業がSNS企業をライバル企業として敵視するのは理の当然である。

しかし、メディア企業の<社益>と社会の<公益>とは別のものである。

★ ★ ★

たとえば・・・もしも電子レンジが更に一層進化し続け、やがて一定のレシピに沿って食材、調味料等を鍋やフライパンに入れてレンジ内に置きさえすれば、あとは人工知能(AI)が温度や水準を調節し、理想的なレベルで見事な料理を作ってくれるのであれば、究極的には厨房を差配するトップシェフのやるべきことは大いに減ってしまうだろう。要らなくなるかもしれない。

AIの進化によって侵食される職業は多々ある。人の手が入っていることに価値があるのでなければ、やがてはなくなると言っても過言ではないだろう。そんな仕事はいくらでもある。「効率的にやりたい」と意識する仕事はすべてそれに該当する。

AIで作動する電子レンジがトップシェフの存在意義を消失させ、就業機会を奪い、彼らの経済的基盤を侵食するとしても、その電子レンジを開発するメーカーはエンドユーザーの利便のために商品を開発するのであって、シェフの経済基盤を奪うこと自体に目的があるわけではない。電子レンジ自体は調理器具であってシェフではない。エンドユーザーがAI付き電子レンジを選択するから、人間のトップシェフが不要になるのである。これは技術進歩によるロジカルな結果であって、人為的な不当行為ではない。

社会が豊かになる新商品や新サービスは社会的に無くてはならないものであり、そのために消え去っていく商品やサービスがあれば、それはなくともよいものなのだ。こう考えるのが、まずはロジックだろう。

新聞、TVとSNSの関係も同じことだ。SNSはデジタル資源をアップしたり相互参照できるネット上の場であって、事実報道やオピニオン掲載を目的とするメディア企業ではない。ただSNSは極めて多機能である。

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確かに、悪意をもっている人物や組織は社会に常に存在する。その悪意がSNSの場で目に見える形で公開されるならば、それはそれでよい、と小生は思う。

というか、そもそもトランプ大統領がツイッターにアップしている投稿。ある立場の人から見れば、悪意に満ちた意見だろう。とはいえ、傷つく人がいるという理由で、SNSにそうした意見を投稿するべきではないと言い出せば、何をいえば許されるのか不安で仕方がない社会になるだろう。そんな社会で暮らしたくはない。「公開」ではなく「友人にのみ公開」と設定しておいて、仲間内では言いたい放題のことを述べ合い、社会には隠蔽すれば善いのかといえば、これもまた陰湿な社会状況であると思う。

「悪意を見える化」できるのであれば、社会から悪意を隠蔽し、悪意を潜在化させるよりも遥かに善い状態であると小生は思う。善悪をともに含んでいる現実があれば、誰もがその現実を知るところに社会的価値がある。リアリティの理解に勝る価値はない、というのが、時代や国を超えた原理・原則である。大手マスメディア企業に情報伝達を委ねておいても問題がない、とは言えないだろう。

自由に投稿してよいなら、フェイクニュースが流通するのも当たり前である。しかし、その情報がフェイクであることを指摘可能なユーザーも存在しているのが、フェイスブックの立場に立てば望ましいのだろう。本名を明示したアカウントという原則を徹底することにより、フェイクニュースを流し続けている人物なり団体をも浮かび上がらせることが可能である(理論的、技術的には)。

大体、(たとえば)フェイスブックをスタートさせたときに最初に表示されるニュースフィードに「見るのも嫌な品のないメッセージ」は自動的には出て来ない。ヘイトスピーチや社会的に許されないような発言は、求めて探さなければ見つからない。自分のタイムラインに嫌悪するべきコメントが仮につけば、ブロックしたり、更にはユーザーをブロックしたり、色々な設定をすることができる。通報も可能である。そもそも友人でもない人からコメントがつけられるようにしている人はいないはずだ。毎日約15億人が利用する広大なFB空間のある限られた空間には眉をひそめる発言もあるだろう。が、それこそが社会の現実ではないだろうか。

SNSがパワハラやネグレクトなどハラスメントのツールに使われている点が批判されることも多い。だからSNS企業が責任を問われることもある。もう言葉もない。SNSがなければ陰口や意地悪になるだけだろう。ヒトの問題をツールの適否と混同するべきではない。これは観察力の問題だ。

・・・もうキリがないが、個別にとりあげてみると最近のようなヒステリックなSNSたたきには理解できるロジックが含まれてはいないと思う。

なので、ビジネスとして、その成長性について、SNS企業をネガティブな方向で考えるべき要素はいささかもないと思っている。SNSというツールは社会的に価値のあるインフラたりうると、そうみているし、見方は変わっていない。

★ ★ ★

であるのに、企業としてはいま創業以来の逆風が吹いている。事業につきものの運や巡りあわせかもしれないが、人為的な意図が背後で働いているのかもしれない。

いずれにしても、人間は悪意をもったり、計略をもったり、何かを企てたりする。だから「アラブの春」も起こりえた。

「アラブの春」のような民主化なら認めるが、同じツールを使って「善くない事」が起こるなら許せない。そう考えるのは「結果論」に過ぎない。

アメリカの大統領選挙にロシアが介入したいという意思を持っているのであれば(当然ながら、そんな意思は持っているだろう)、フェイスブックというツールがあろうがなかろうが、何らかのツールを活用して選挙に介入したに違いないと考えるべきだ。SNSの投稿状況から選挙への介入という事実をマイニングできるとすれば、それはむしろ素晴らしいことではないか。

小生はどうしてもそう思うがねえ・・・。

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フェイスブックやツイッターの場を無害な投稿一色にするために有害な投稿は削除する、「沈香も焚かず屁もひらず」という状態に抑え込んで得をするのは、大手マスメディアが発行する新聞とTVである。

不適切な投稿があれば、メディア企業自らがそれが不適切であることをSNSの場で堂々と指摘すればよい。多数の賛同・異論・反論がネット上で見える化されるだろう。不適切な投稿を放置しているという非難を自らの紙面に掲載し、あるいはインフォーマルに発言し、フェイスブックやツイッターなどのSNS企業に対していわゆる「筆誅」を加えるのは、ライバル企業を拡販のネタに使っているわけで、文字通りのネガティブ・キャンペーン。SNS企業は大手メディア企業に対してそのような行為をしていない。どうにも見苦しい。職を奪われそうになったトップシェフが「多機能電子レンジは健康に害がある」と非難するのと似ている。そう感じるのだ、な。

まあ、「敵失に乗じる好機」とみて、小躍りしながら反撃するというのも分からないでもないが・・・。見苦しいネエ。

2018年11月17日土曜日

断想: 政治学の現状と水準は?「民主主義」は本当に善いのか?

英国ではEU離脱交渉をめぐってメイ首相が苦境にあるという。離脱派、残留派双方から閣僚が任命されたものの、最近になって離脱派、残留派双方から閣僚の一部が辞任している。

一口に「離脱」と言っても、どのように離脱するのかで英国が直面する運命が異なる以上、どんな政治的選択をするにせよ反対者が閣内から出てくる事態は防ぎようがない。

とはいえ、国の運命を左右するほどの重要案件になるほど、多数の意見を反映した民主主義的意思決定が大事になる(はずだ)。

ところが、最近の英国内の世論調査では安定的に「EUからの離脱に反対する」という意見が過半数を占めているそうだ。

英国で現在、欧州連合(EU)離脱の是非を問う国民投票が再実施された場合、過半数が残留を選ぶと見られることが、5日公表の世論調査で明らかになった。2016年の国民投票以降で、残留支持率は最高となっている。
調査は調査機関ナットセンと「変わる欧州における英国」が実施し、学者が中心となって分析。残留支持率は59%と、離脱支持率の41%を引き離した。16年の実際の投票では残留支持が48.1%、離脱支持が51.9%だった。
(出所)ロイター、2018年9月6日

本当に「民主主義」は重要問題に関して適切な意思決定を行えるのだろうか?

「民主主義の失敗」という事態は起こりえないのだろうか?

こんな問題提起がありうるのだが、社会科学内の「所管」を言うなら、これは政治学の問題だろう。

民主主義=多数決と割り切れば経済学の純粋理論の中に「アローの不可能性定理」が既にある。定理によれば、多数決に基づいて合理的な選択を一貫して続けることは不可能である。

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経済学では、上に述べたアローの不可能性定理の他にも、市場における完全競争が全ての商品の需給を均衡させる一般均衡価格が必ず存在するという「存在定理」、更には完全競争市場が社会的厚生を最大化するという「パレート最適」が証明済みである。そして、そのような市場経済が資源配分において失敗するとすれば、それはどのような場合か。「市場の失敗」についても理論的回答を既に与えている。また、時間的な経過の中で合理的意思決定を行う経済主体が、動学的な不合理性を犯すとすればそれは何故なのかという問題も既に解明済みである。

政治学が科学であるとすれば、政治の現状分析も重要だが、政治の純粋理論が土台になければならないはずだ。とすれば、民主主義による政治的意思決定は常にその社会にとって最適な意思決定でありうるのか?民主主義が失敗するとすれば、それはどのような性質の問題にとりくむときなのか?これらの事柄に関して、確立された定理が発見されていなければならない、と。そう思うのだ。

そもそも「民主主義」という言葉の学問的な概念定義は厳密になされているのだろうか?政治学の素人である小生にとっては当然の思いだ。

たとえばミルグロム・ロバーツの『組織の経済学』では、多数の経済主体による集計的意思決定過程ともいえる市場経済が失敗する場合があるとすれば、それは特定された分量の組み合わせである諸資源を特定地点に特定時点において集中投入することが求められる場合である。この種の課題には市場による資源配分ではなく上意下達の組織的解決、つまりは軍隊のような生産管理がより適切となる・・・。そんな議論が展開されている。

つまり解決しようとしている課題の性質に応じて、市場システムが適切な場合もあれば、上意下達の組織的管理システムが適切な場合もある。

たとえば、ある国との戦争を決意する場合、それは社会にとって窮極の重要事項であるはずだ。ということは、開戦の決意もまた民主主義によることになるが、そうなのだろうか?多数決で戦争を始めてもよいのだろうか?少数者にも配慮して、全員一致で初めて開戦できるのだろうか?

政治学はこんな問題にも理論的に回答するべきだろう。

アメリカが第2次世界大戦に参戦したのは日本による先制攻撃が契機になったのだが、それはルーズベルト大統領が開戦を決意し、上院において日本への宣戦布告を求める演説を行い、議会が大統領の決意を承認し、議会がその権限を行使して宣戦したからである。以後の具体的施策は米軍を含めた上意下達の行政システムに委ねた。『いまがその時である』という決断を民主的な多数決に求めるとしても、数理的な詳細を詰める以前に、直観的にそれは無理なことだと推測がつく。キャスティングボートを握る最後の一人に議決が委ねられるからだ。結果的にであるにせよ、一人の判断で重要事項が決まってしまうほどに非民主的な状態は考えられないだろう。

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民主主義が本当に他の社会システムに優越しているのかという点については、このブログでも投稿したことがある。

民主主義に関する証明された基本定理はあるのだろうか?

民主主義が善いのは分かり切ったことだ、と。善いものは善いから善いのだ、と。ただそれだけの理由で日本は民主主義国になっているのであれば、ただそう信じているだけのことである。目の前の現実にいつでも惑わされる。株価の乱高下に一喜一憂する素人のようなものだ。旧世代の「根拠なき信念」に疑いをもつ新世代が育って来れば、いつでも世の中の「時代の流れ」は逆転する。そんな可能性もある。

民主主義による意思決定が望ましい課題と失敗する場合があるはずだ。それは政治学の使命だろう。

宇宙人がいるとして友好関係を築くべきでしょうか?
宇宙人の存在は分かりませんが、いずれにしても民主主義で決める必要がありますヨネ

民主主義の高い理念も使いようによっては漫才に堕してしまうのだ。


2018年11月15日木曜日

一言メモ: 北方領土のこと

安倍‐プーチン会談では1856年の日ソ共同宣言の主旨を踏まえながら領土問題解決について議論を「加速」させようという話になったようだ。これは結構ビッグニュースであるから、TVでも「専門家」を呼んで突つき始めている。

そこで『北方領土をめぐるこれまでの歴史を簡単に振り返っておきましょう』ということになる。大変若い、まだ20代だろうか、都会風の好青年のアナウンサーが太平洋戦争後の経緯を要約したりする。

ただ、おそらく北海道とは縁がなさそうだネエ・・・親戚もほとんど首都圏か、関西圏か、まあ内地の大都市圏に暮らしている、そんな人なのじゃないかなあ。そもそも「北方領土問題」ってどんな問題だったか知ってた?・・・そんな風に感じながら画面を観ていたりする。

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聴いていると
太平洋戦争後(=昭和20年8月15日以後)の混乱に乗じて、ソ連が<不当にも>占領したまま、今日に至っています。国後島、択捉島、歯舞・色丹群島はいずれも日本固有の領土なんですね(投稿者追加:ポツダム宣言においては「本州、北海道、九州及び四国、ならびに我々(=連合軍)の決定する諸小島」の主権(=領有権)は担保されていた)。なので、まず領土返還のあと平和条約を結ぶというのがこれまでの日本の方針でした・・・
そんな解説である。

ここではソ連軍参戦後の千島列島侵攻作戦については詳細を省く(Wikipediaに詳しい)。

当然のことながら、ロシア側からみた北方領土問題、更にはロシアにとっての第2次世界大戦の「歴史的」位置づけなどは、日本国内のTV報道ではまったく考慮の外におかれている ― 日本国内で放送用周波数帯域を割り当てられている以上、日本政府が採用している公式の見解と矛盾する放送をするには極めてハイレベルの見識が要る。

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思うのだが、韓国、中国においても戦後日本と全く相似した国情というのがあるに違いないのだな。
19世紀末から20世紀初めの混乱した東アジア情勢を己が好機として日本は<不当にも>朝鮮半島を併合した。太平洋戦争後にその領有権は国際的に否定され、アジアは解放されたが、今日に至るまで日本はまだなお併合自体は合法的なものであったと主張している・・・
国際的なリーガリティの観点からいくら問題がないとしても、併合された朝鮮半島側は納得はしていないのだろう。不当だと思えばそう思った側にとってはいつでも不当である。いくら連合軍側の密約があり、降伏調印日より以前の既成事実であったとしても、国後島や択捉島の領有権は日本にあると日本人は思うはずだ。その領有権は幕府がロシアと結んだ日露和親条約にまで遡ることを知れば、北方領土は日本固有の領土だと日本人は考える。しかし、日本人ならそう主張したいと同じように、ロシア人の方もまた主張したいこともあるわけである。「外交交渉」では相手の話すことも聴いて理解する必要がある。外交は内政の延長だが、相手にとっても外交は内政の延長である。

上の北方領土もそうだが、これがすべての「歴史問題」の核である。特に戦争や占領は現状変更の最たる行為だが、変えられた現状を当事国がどう理解するかで未解決のまま残る事は多い。特に戦争は、当事国が互いに相手国を「不当」だと考える怒りや脅威、恐怖から始まる。故に、勝った側が負けた側に新たな現状を押し付けても根本的原因が消えてなくなるわけではない。

***

亡くなった父も話していたが『戦争に負けて日本は領土を獲られた、戦争とはそういうもの』なのだ。小生も同感だ。日本が他国から領土を獲って喜んだ時代があった以上、とられて諦める時代もある。歴史はそんな風に歴史になるものだろう。国が丸ごとなくなっていないのは敗れた側にしては幸運だったのだ ― この点こそ旧世代の英知だったのかもしれないが。

外交交渉や法的関係においては複雑極まりない議論の積み重ねがある場合でも、認めるべき事実そのものは実に単純明解であることは世の中に多い。「戦いに負けて土地を獲られた」という現実がある。その他の現実はない。

つまり「現状」をどう理解するかに帰着するのであって、この点で「合意」に至れば「平和」が戻る。

今日は、まあ、この辺でいいか。


2018年11月11日日曜日

井戸端会議:旭日旗やら、東京医大やら

今週は金曜日に授業があった。今年度から非常勤になって楽になるはずと思いきや、日ごろのサボリ癖がついてしまうと、これまで以上に授業で疲労する。

ずっと以前は、昼まで近くのスキー場で一滑りして、午後イチで学部の統計学を講義して、引き続きゼミ。それが終わって研究室に戻り、静かな一日が戻ったところで研究を続ける・・・。平気だったけどネエ。週末には例外なく家族で遠出をして、一日ドライブをしていたものだった。

というわけで、今朝も朝食をとりながらカミさんと井戸端会議をした。

***

小生: それにしても東京医大の件ももめるネエ、うん?101人に意向調査をして、入学を認めるのは63人。何だかよく分からない方式だねえ。入れなかった人には、スイマセンってことになるのかな?

カミさん: 東京医大って私立なんでしょ?

小生: そうだよ。私立御三家(慶応、日医大、慈恵会医大)とは別にネ、戦前からあった老舗〇大学というのがあるんだよ。東京医大と、東邦かな、それから・・・

カミさん: 東京女子医大というのもなかった?よくタレントさんが入院するじゃない?

小生: そうそう、それも入っていると思うよ。ちょっと待って。いま調べるから・・・「医学部」で検索してト・・「旧6医専」。あっ、これは国立か。私立はト、戦後にGHQからA級判定された医学専門学校だから・・・まず岩手医大、それから東邦大学。これは戦前の帝国女子医専だね。おふくろが行きたいって思っていたところだよ。それと順天堂、昭和、東京医大、東京女子医大、大阪医大、関西医大。ここも戦前は女子医専だね。それから久留米。これだけが私立だね。

カミさん: それにしても入学してもいいよって言われる人、入学するのかなあ?

小生: 土台、101人が救済対象者だと言っておきながら、63名までは認めます。定員がありますからって言うのは、理屈の通らない話さ。

カミさん: 全員は入れないのかな?

小生: 全員は無理だろ?教員の数や教室、実習室の数は変わらないんだから、あぶれちまうよ。もし僕だったら、これは慰謝料ですますね。そもそも誰を合格とするかは、私立大学の裁量にまかせるべきだよ。だからこそ医師国家試験もある。ただ、今回のケースは、募集要項に記載していなかった方式でこっそり、闇でやっていた合否判断だからね。アンフェアと言われても仕方がない。ただ、いまからその合否判断を覆して「大学に入れろ」と言われて、「分かりました入れます」、というのは無理な話しだと思うよ、現実的には。まあ、ざっと示談金50万円か・・・それで合計5050万円。1年間の予備校代にはなるんじゃないかなあ・・・世間の評判は悪いと思うけど、お金で納得してもらうしか仕方がないのじゃないか。そう思うんだよね。だって101名とは別の人がもう入ってるんだから。「出ていけ」とは言えないだろ。才能と入試の得点は正比例するものでもないしネ。大体、出来る人なら何校か医学部を受験した中で他に合格しているよね?結果的には、それが良かったと言えるかもしれないしネ、「不正」のあった東京医大を含めて全部落ちていた人なら、たとえ東京医大に入っていても留年したかもしれないし、国家試験にうからないかもしれないし、将来の逸失利益なんて計算不能だよ。僕はそう思うけどネエ・・・

カミさん: でもあなたの言うようにはしなかったよね。

小生: まあ、評判悪くなるからねえ、カネで済ませるのかってね。でも大人数を入学させて、劣悪な医学部教育をその学年だけ押し付けるよりは、よほど現実的な解決策だと思うよ。

***

小生: ん? 徴用工ももめてるし、かと思うと韓国でマスカットを無断で栽培か・・・また紛糾しそうだねえ。

カミさん: この夏には、自衛隊の旭日旗も何だかもめていたわねえ。

小生: マスカットもさ、経緯はなにも報道してないけど、種(挿し木その他もありうるが、ここではタネということで割り切っておく)を分けてくれとかさ、色々あったんじゃないの?向こうが頼んできても『これは当地の特産品ですからお分けはできません』ってさ、断ってきたから、じゃあ無断でとってくるかと。それを「盗んだ」とこちらがいえば、「泥棒呼ばわりするとは無礼な!」って、そうなるさね。

カミさん: でも許可なく取っていったんなら、盗んだことになるんじゃない。

小生: 簡単に盗まれる状態にしていた側にも責任はあるさ。大体、種が手に入ったからって、それだけで簡単にコピーされる品種なんて、大した価値はないよ。育成技術、栽培技術が核心なんじゃないの?技術はなかなか真似できないよ。だけど、これで友好関係はもうありえないなあ、度量を広く持って「おわけしましょう、技術指導もしましょう」って言っておけばさ、それこそ『情けは味方、仇は敵なり』を地でいく例になっていたんだけどね。

カミさん: それにしても韓国の「反日」も限界がないわね。

小生: 外交は内政の延長って言葉があってね。韓国の反日は、韓国の国内政治の延長なんだよ。日本人は、韓国が反日的なことを言うと「その反日主義が怪しからん」ってね、すぐに主義や理念の話にもっていくけど、「それがどうして得になると向こうは考えるのか」という方向で分析しないとダメさ。大体、理念とか、主義とかさ、どうでもいいって言うとアレだけどさ、実際の政治では意味ないだろ?

カミさん: そうなの?

小生: 大体、僕たちが普通の生活をしているのだって、いつも損得を考えてるだろ?韓国が旭日旗を掲げた海上自衛隊の軍艦を嫌がるのは、旭日旗を掲げた日本軍艦の入港が脅威に感じる人たちがいるからだよ。脅威に感じるということは、立場が危ういことを意味するよね。つまり、旭日旗に影響されてしまう韓国人の一部が怖いってことさ。

カミさん: そうなのかなあ?

小生: 大体、旭日旗が本来的に許されない旗であれば、戦後になって海上自衛隊の軍艦旗のデザインを決めるときにアメリカが認めるはずがないさ。アメリカは旭日旗をみても平気だ。平気というより、自分たちが完膚なきまでに叩いた敵国の旗だから、「また使うの?」くらいの気持ちだろうね。旭日旗に苦しんだ中国だって「使うな」なんて言ってないだろ?言ってるのは韓国だ。要するに、旭日旗を眼前で使われると恐怖を感じる階層が韓国ではいま支配的地位に多いってことさ。まあ、戦後の歴史をみれば、当たり前の事だね。朝鮮半島は、1910年の併合で一度ひっくり返って、戦後にまたひっくり返ったからネ。まあ、ちょっと入ってみると、複雑なんだよ。

カミさん: なんだかねじ曲がってるよ、その見方!

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井戸端会議も文章に書き直すと、なかなか水準の高いことを話していたんだなあ、と。そんな気持ちになることも多い。

2018年11月8日木曜日

一言メモ: 一貫した「自己責任論」とは?

内戦の続くシリアに入り3年余りの軟禁を経てこのたび解放され帰国したフリージャーナリスト・安田純平氏に対しては、激しい毀誉褒貶があるようで、特に「自己責任ではないか」という非難は多く見受けられる。

拘束されたこと自体は「(誰のせいでもなく自分のせいであり)自己責任です」とご本人が認めている。結果として、どこかが身代金を負担したからには、日本社会がその金額に相応するコストを負担することになるので、今回のことで社会に迷惑をかけたことは間違いない。この点についても、既にご本人は謝罪し、関係者には感謝の意を表している。

それでも「政府が入国しないように」と注意を促している「危険な国」に入るからには、何があっても自己責任だろうと厳しく指摘する人はまだなお多い。

★ ★ ★

英語に"Monday Quarterback"という表現がある。要するに、試合が終わってからプレー中のエラーを色々と批評しては、敗因をつくった選手を非難する人たちのことをいう。簡単に言えば「結果論を言うな」という意味合いだ。

「結果論」という言葉を使ったのは、<仮に>安田純平氏が予定通りの取材を終えて、無事日本に帰国していれば、大手マスメディアは勇敢なジャーナリストとして安田氏を称え、持ち帰った現地レポートを争うように高値で買っていたに違いないという事だ。その「高値」は、情報自体が稀少であるからであり、何より取材したフリージャーナリスト本人が自ら負担したリスクへのプレミアムが加算されるからだ。

本来なら、インドへの西回り航路を開拓しようと出帆したコロンブスをスペインのイサベラ女王が支援したように、冒険的ビジネスは事前にリスクプレミアムに見合う報酬が払われるか、約束され、それと同時に失敗した時には落命の不運をも甘んじて受ける。そんな合理的枠組みがなければならない。安田氏は、冒険的フリージャーナリストであるが、取材に伴うコストは(原則としては)個人が先行負担していたのだと想像する。まるでカネを借りて金鉱を掘り当てるようなものだ・・・いやいや、シリア情報はゴールドラッシュとは違う。強欲ではなく、人類愛が発端にはなっているに違いない。

つまり、意図としては日本社会も(国際社会も)望んでいる情報、報道価値のある情報を取材するために、危険を冒して行動したということである。そもそも価値が認められないことに対して命を賭ける愚か者はいないわけである。そして、「報道価値」というものは、国を問わずヒューマンな価値であり、普遍的に評価されると言ってよいだろう。だから、日本人でなくとも、色々な国籍のジャーナリストが生命の危険をおかして入り、不運な人は犠牲になったりする。

問題は失敗して結果を出せずに終わった冒険的ビジネスマンを、何度も失敗したコロンブスを支援し続けたイサベラ女王のように、自国の社会が支援するかどうかである。支援しなければ、アドベンチャーはどこかで失敗して終わる運命にある。それでもいいと考える社会もあるだろうし、15世紀のスペインのような国もあるだろう。土台、危険を顧みない冒険的山師というのは、いかがわしく、面の皮が厚く、鈍感で、常識は持ち合わせていない人が多いものだ。それでも、危険なプランは魅力的であることが多い。

結果として、貴重な現地レポートを持ち帰ったフリー・ジャーナリストに対して、それでもなお『政府が入国を控えるように注意を促していたにもかかわらず、危険を冒して入国し、今回の現地レポートを高額な金銭で販売している。これは一種のギャンブルであり、日本社会としては容認できないルール違反だ!!』と強く非難できる人は、まさに「本物」である。

しかし、ここまで強く言える人は日本には少ないだろう。何故なら、シリア国内のリアルな情報が喉から手が出るほどに欲しい。そう願っている人、会社、公的機関が日本には多いからだ。インドへの西回り航路が本当にあれば助かると思っていた人は15世紀のスペインに多かった。発見できれば大きな価値となった。故に、コロンブスは冒険をした。繰り返すが、何の見返りもない無意味な冒険をする人はいない。人間は誰しも集団生活をしている以上、誰かが危ない行為をすれば、何らかの社会的関連性をもっているものなのだ。そこを見ない人は不誠実だろう。
成功すれば皆さんのお陰、失敗したら自己責任
これは流石に虫のいい話だと笑う人は多かろう。そのおかしな話を安田氏は(多分)それでいいというはずだ(後半部分は既にハッキリそうだと言っている)。

★ ★ ★

上で「本物」といったのは、いかにハイレベルの目的があろうとも、「政府が危険である」と注意をした国には絶対に渡航するべきではないという一貫した理屈になるという意味だ。ということは、政府職員もまた(本当は)滞在するべきではない、少なくとも人命のリスクを冒しても職員を彼地に派遣するべきではないという結論にはならないのだろうか? おそらく、(本当は)なるのだろう、現代日本社会では。

「一定の度合いを超えた危険は全て回避するべきだ」という命題を一般通則にしてもよいのだが、そうすると戦闘に巻き込まれるリスクは回避できるが、いよいよ日本の国土が危なくなってきたときに、公務員(=自衛官、警察官等々)は人命リスクを負担して職務にあたる義務がある、しかし一般人はいかなる目的があろうと、危険からは身を避けるべきである、と。そんな風な話になるのではないか?というより、これが現代日本社会の合意であるような気がしているのだが、だとすればどこかが奇妙なモラルであると思う。

そう簡単な話にはならないのではないか?

所詮、リスクとはコスト概念に含まれるものであり、ベネフィットとの数量的バランスの下で、そのリスクを負担するかしないかを判断する、というのが基本的なロジックである。大きなリスクは全て避けるべきであるというロジックは成り立たない。

人命リスクのある公務につく公務員の存在に現代日本人が異和感をもたないのは、大きなリスクの裏側に公益という大きなベネフィットがあるためだ。であれば、巨大な私益が期待できる場合には、巨大なリスクを引き受ける人がいても、それは合理的な行動と言えるだろう。そして、巨大な私益はそのまま国益だと考えてもよいのだと小生は考える。この点を考慮する人が多いか少ないかによって、その国の社会的雰囲気は大いに異なるだろう。

標題の「自己責任論」からは脱線してしまったが、要するに冒険的ビジネスに身を投じる人を社会がどこまで支えるかであり、これには正解はない。社会的選択の問題だ。

***

最後に一つだけ加筆したくなったのだが、いま使われている「自己責任」という言葉。アサド政権と反政府派との内戦に苦しむシリアという国のことだ。確かに、シリアから逃げ出すこともせず国内に留まっている人たちは気の毒だ。が、もしここで真の「自己責任論者」がいれば、『シリアは気の毒だけど、所詮はシリア人たちの自己責任なんじゃない?』と他人事として言い放つのではないだろうか?

ということは、危険を冒してシリアに行って取材しようとした安田氏は、その行動を見るだけでも100パーセントの自己責任論者ではないような気がするのだ。別のモチベーションが働く人物なのだろう。安田氏は、自分自身に関連するところで、自己責任という言葉を使っている。その逆のケース、つまり他人には自己責任を言いながらも、自分の事になると社会的責任という言葉を使う輩もいる。そんな人物に比べれば、安田氏の方がまだしも品格のある「紳士」ではないか、と。そんな印象も小生は持っている。

2018年11月3日土曜日

電力問題: 「日本的政治風土」イコール「ご都合主義」の一例

日本人は韓国流の政治をよく「情緒主義」であると言って批判する。もし韓流政治が情緒主義であるとするなら、日本的政治は「ご都合主義」だろう。つまり「自らに都合の悪いデータを都合がいいように隠蔽する」という意味合いである。情緒にはまだ人間の実存というものが含まれる。それがいかに夢想的で、客観的なデータを無視するものだとしてもだ。そこには一部でも共感可能な感情がある。しかし「日本的ご都合主義」はデータを無視するのではなく、隠蔽するのである。「頭がいい」という向きもあるかもしれないが、小生にはこちらのほうが陰湿であり、決して人好きのするものではない、と。そう感じられる。

★ ★ ★

2、3日前の北海道新聞だったか、9月のブラックアウトの原因は「京極の水力発電所が稼働していなかった」ことにあった、と。北海道電力の副社長がそう語ったという記事が載っていた。引用するとこんな記事だ:

苫東厚真3基が停止しただけでは全域停電はおきなかった。京極発電所が結果として動いていればよかった。

(出所)北海道新聞、2018年11月2日

副社長がこう語った由。

技術的検証委員会でもそんな見解をとっているとも述べられていた。
10月23日にまとめた中間報告で、京極水力発電所が稼働していれば、防げた可能性が高いと指摘。
とある。

(出所)上と同じ。

京極発電所(1,2号機総出力40万KW)が稼働していなかったのは定期点検中だったためだ。

★ ★ ★

電力需給の供給側の数字は保有発電能力ではなく、定期点検による遊休化を織り込んだ平常時稼働率を前提とするべきだ。

また今年の厳冬期を乗り切るうえで十分な発電能力が確保されたとしているが、それは石狩に新設中で来春に運用開始予定のLNG発電所の試運転を供給側の数字に加えている点が大きい。

試運転は、安全管理のために行うものであるから、それを電力供給量に上乗せするのはデータ・クッキング、というか電力データの隠蔽に極めて近い行為だ。

★ ★ ★

アメリカを相手に太平洋戦争開戦を日本が決断する根拠として物資動員計画という数字の裏付けがあった。

しかし、その数字は極めて楽観的な輸送船損耗率の大前提があってのものだった。

実際には、米海軍の潜水艦によって想定を上回る隻数の輸送船が撃沈され、特に南方最前線では補給が困難になり、飢餓、病気による死者が膨大な数に上った。こんな惨状は、近代化された軍隊同士が戦った戦争では見られなかった。

日本人は、一度決めた方針を変更することを非常に嫌う傾向がずっとある。それは時に「信念」となり長所として働くことがある。特に、研究者や芸術家など個人として活動する分野では長所として作用することが多いのだろう。しかし、同じ傾向が組織の中で働くと、方針変更を促すデータが数字に現れても、その事実を認めることを嫌い、都合の良い数字に作り替える意志として働くことが多い。

データを頭から無視する夢想家ではない。日本人は、本質はリアリストである、と。小生は感じることが多い。しかし、人間集団が組織となるに伴って、どういうメカニズムかは詳細に調べたことはないが、データ分析が従属的な位置に置かれ始め、大事な真相が隠蔽され、問題解決への道を自らふさいでしまう・・・。そんな国民性がいまなお認められる。

このプロセスでいわゆる「忖度」が働いているのであれば、面白い研究テーマを提供するだろう。

日本人の国民性は、戦争以来、いや明治維新以来、というか幕末、歴史全体を通してずっと変わってはいない。同じである。そう思うようになった。



2018年11月2日金曜日

これは「丁寧」ではなく「バカ丁寧」だ

上の愚息は小生と同じ市内で、「地道に」といえば聞こえはいいが、あまり収入にならない雇用形態の下で独立して生計を営んでいる。マア、合格ではあるのだが、物足りないのも事実だ。

その上の愚息が勧誘(?)されたというのでNHKの放送受信料を払うつもりになった。それで、金融機関からの自動振込みと併せて所定の用紙に記入して郵送したのである。すると、新しい用紙とともに返送されてきたというのだ、な。

小生はそれを見ていないのだが、カミさんによると、金融機関に回付する自動振り込み申請欄で、支店名を「奥沢口」と書くところを、奥の字を書き損じてしまい、二重線で消し、その上にハッキリと「奥」と書き直したところ、修正印が押されていないという理由で差し戻しになったらしいのだ。

きけば、書き損じたという「奥」の字は、みれば「奥」と読めるという。ただ、正しい字体にはなっていないので、清書の意味をこめて二重線で消して、奥の字を書いたという。

それが金融機関の手続きではねられたのだろうと、そうカミさんは推測しているのだ。

★ ★ ★

小生、思わず絶句したのだ、な。

確かに記載事項を修正するときは、申請者本人が修正印を押して、本人が修正したことを証明(になるかどうかは微妙だが)しておく規定になっているのだろう。

しかし、汚く書いた「奥」の字のうえに綺麗に「奥」と書き足した個所が「修正」に該当するかは、愚息にはまったく想定外であったらしい。

というか、その用紙をみた銀行の担当者は、「奥」の字の上にもう一度「奥」の字が書かれているのが分かるわけであるし、支店名を間違って記載したり、書き直したわけではないことは、自明である。

★ ★ ★

明らかな事であるにもかかわらず、規定上は修正印がいるからという理由で、わざわざコストと時間をかけて、返送し、もう一度提出してもらう。

「丁寧」といえば、通りはよいが、これでは「バカ丁寧」だと指摘されても不思議ではない。不効率であり、無駄である。担当者に何の裁量も与えられていないのだろうが、そんな機械的作業を人間にさせているのも人出不足の時代に大変な不効率である。

この間、何の価値も生産されていない。丁寧に物事を進めれば間違いは予防できる。しかし、間違いがないことが明らかな状況で、なおかつ間違いをなくそうとするのは無駄である。銀行の一人相撲につきあわされたようである。

こんな非効率を残しているから日本の金融機関は今一つ成長せず、株価もさえないままなのだ。そう感じた今日のことであった。

2018年10月31日水曜日

一言メモ: JTのプルームテック初使用の感想

申し込んでおいたプルームテック・スターターキットが本日JTから届いた。早速近所のタバコ屋(というのはもうないので、イオンのタバコ売り場だが)で、メビウスのブラウンとミックス・グリーンを買って帰った。

試してみる。充電が必要なところが電子タバコである所以だ。

1時間半ほどで充電が終わり、使用可能になる。

モカの香りがするブラウンから試す。

ゆっくりと深く吸う。

う~ん、これは確かにタバコである。煙も出る。が、タバコ葉を燃やしているわけではないので、タールなど肺がんを誘発する物質はほぼ除去されている(そうだ)。

科学の進歩には感謝するばかりだ。また喫煙の習慣が再開できた初日となった。

電子タバコでも健康被害はゼロではないという。しかし、小生は1日でも長く生きていたいという気持ちはそれほど強くない。毎日を楽しく、愉快に、幸福にやりたいものである。アレルギーならば仕方がないが、そうでないなら食べたいものを食べ、飲みたいものを飲み、行きたいところに行き、読みたいものを読む。誰でもそうすればいいと思う。もちろん人様々ではあるが。幸福は生きた日数には比例しないものである。

★ ★ ★

若いころには官庁で小役人をやっていた。調査分析もやったし、統計業務もやった、性格的にはマッチしないことテキメンであったが記者クラブを相手にする広報室も経験した。その他いろいろだ。

思うのだが、もしあのストレスに満ちた毎日、オフィスで喫煙が禁止されており、電話折衝や会議室で延々と続く部内検討の場で一切タバコを吸ってはいけないという状況であったなら、気持ちはどうであったろうというのは、想像もつかない。

当時、小生が愛用したのはキャビンとプロムナードであった。どちらかと言えば、濃厚なテイストが好みだった。

イライラとしたとき、相手も自分も黙々と煙草をふかすものだ。5分もそうやっていると、何か落としどころがないか、また頭脳が回転を始める。そんな感覚は、もうそれは日常茶飯事であり、「あの頃」の「仕事」はそんなものだった。

それでもストレスは溜まった。そんなときは、勤務時間が終わってから同僚と夕食がてら呑みに行った。8時頃、また戻って、仕事をした。

そんな毎日だった。

禁煙できたのは、子供が小さかったのと、大学に戻ってストレスが減少したからだ。

★ ★ ★

今様のオフィスはずっと清潔なのに違いない。

清潔にはなったのだろうが、ずいぶん、ハラスメントは増えているのかもしれない。

こういうと、『昔だってハラスメントはあったでしょ、なかったなんて信じられません、人間なんだから・・・』という指摘もあるかもしれない。

しかし、小生は運が良かったかもしれないが、上役や先輩、同僚などからハラスメントをされた、意地悪をされた等々、そんな気持ちを抱いたことはない。というか、一度もない。厳しい(時に過酷な?)要求をされたことは随分あり、無茶をいってくれるものだと腹が立つことも再三であったが、そんなストレスを解消するための工夫が、まずはタバコ、それから週に一度くらいの飲み会だった ― 宴会は嫌いだったが、仲間内の飲み会は大好きだった。

ストレスは蓄積しないことが第一だと言われるが、長年の経験知がまだ日本の組織にはあったのかもしれない。

「仕事」というのは、外部(=市場、競争、国際関係、政策課題、etc.)の現実から決まってくるもので、組織内部の人間が何を仕事にするかを自由に決められるわけではない。人が現実に対応するのであり、現実が人に合わせてくれると理解するのは非現実的だ、と。思い出してみると、ずっとこんな考え方をしてきたようであり、今もまだそうである。

オフィスを清潔に、マナー正しくするのは大賛成だ。小生が若かった時分はどの人の机もチャンガラで、灰皿には吸い殻が積もっていた。しかし、いくら乱雑で、タバコ臭くても、ハラスメントの被害者や加害者になるよりはマシだ。我慢、というより慣れればそれが自然になる。周囲との人間関係で不愉快な事ばかりが頻発するのは真っ平御免だ。そんなトラブルに陥らずにすんだのが幸いだ。

上で「慣れれば自然」だと書いた。自動車が走っていない明治期の日本人が現代の都心を歩けば、その喧騒と危険に我慢できないだろう。東京タワーと東京プリンスホテルがそそり立つ増上寺境内の様変わりに涙をこぼすことだろう。現代日本が美しく、清らかだと思う人は現代の日本人だけに違いない。そう思われるのだ、な。

タバコ臭く、マナーレスなオフィスではあったものの、その頃は幸福な時代だったかもしれない。

2018年10月28日日曜日

難問: 現時点の景気予測

本年初めの期待は株式市場の格言『戌わらう』だった。実際、年初には株価も急騰し、大いに笑ったものだった。ところが、現時点から来年にかけて、経済動向は不透明。文字通り五里霧中だと言っても言い過ぎではない。

小生が関心あるのは株価動向である。株価は先行指標の代表だ。故に、経済実態に概ね半年から1年程度は先行して変動する。つまり、現時点において予想される将来景気の予想に基づいて、株価はいま変動しているといえる。

その株価は、中期的に近々ピークアウトするだろうという判断が形成されつつある。NYダウ平均は三尊型ピークを形成しつつあるように見える。


2000年初頭のITバブル崩壊時にはピーク比で35%程度の下落、2008年のリーマン危機では同じく50%程度の下落を示している。NY株価はどうみても下落局面直前だと思われるが、石油価格や国際商品市況の水準をみると、リーマン危機後に匹敵するほどの暴落にはならないと予想するが、こればかりは分からない。

FRED(St. Louis FED)が提供しているLeading Indexはもっと明瞭に先行き下降の兆候を示している。


先行指数の水準は既にピーク比で1ポイント下方にスライドしており、拡大局面の持続期間を考慮しても、間もなく急低下の局面に入る可能性が暗示されている。

ただ金利の長短スプレッドはまだ下がりきってはおらず、予想が難しい。


これをみると、実態経済の下方転換点は2019年の秋口辺りか、あるいはもっと遅いか、という風にも思われる。とすれば、先行性のある指標には来年前半からその兆しが現れてくるだろう。いずれにしても、来年10月に「予定」されている、消費税率引き上げには暗雲が立ち込め始めていると観ている(この点は、ずっと前から分かっていることで投稿もしているが)。

★ ★ ★

専門家の意見もそろそろネガティブな指摘が増えてきているようだ。米企業の利益も頭打ちになりつつある。たとえば最近の報道では:
米株市場のファンダメンタルズは概ね堅調を維持している。昨年の法人税減税に後押しされた利益の増加には割高な株価収益率(PER)を正当化する効果があった。売上高の伸びも年初に記録した急激なペースから比べると減速しているが、前年比プラスは堅持している。

 アナリストの多くが焦点を当てているのは、来年の数字がどうなるかだ。売上高成長の減速が数四半期続けば利益成長の維持が難しくなり、市場を支えている重要な柱が弱まるとアナリストはみている。
 (出所)WSJ、2018-10-28

日銀の早川元理事も次のように述べている:
早川氏は16日のインタビューで、来年10月の消費増税や2020年夏の東京オリンピック終了に伴い、「来年か再来年のどこかが景気転換期と考えるのが自然だ」と語った。設備投資計画は「近年まれに見る強さ」だが、景気後退期直前の強い設備投資は、過剰設備となるため失敗することはほぼ間違いないと説明した。
(出所)Bloomberg、2018-10-17

実体経済の景気転換点が、もしも来年から再来年にかけて訪れるとすれば、これは小生の予測なのだが、仮に株価が11月から歳末にかけてもう一度上昇を試みることがあるにせよ、その場合は年明け後の大発会で急落を演じるという可能性もあるのではないか、と。そう思ったりして、今は対応を急ぎつつある。

かつてリーマン危機の到来を予測したNOURIEL ROUBINIとBRUNELLO ROSAは、本年9月の時点で2020年景気後退説をProject Syndicateに投稿している。
As we mark the decennial of the collapse of Lehman Brothers, there are still ongoing debates about the causes and consequences of the financial crisis, and whether the lessons needed to prepare for the next one have been absorbed. But looking ahead, the more relevant question is what actually will trigger the next global recession and crisis, and when. 
The current global expansion will likely continue into next year, given that the US is running large fiscal deficits, China is pursuing loose fiscal and credit policies, and Europe remains on a recovery path. But by 2020, the conditions will be ripe for a financial crisis, followed by a global recession.
Source:
Roubini, N., Rosa, B. "The Makings of a 2020 Recession and Financial Crisis"

ただFRBのパウエル議長は少し違った見方をとっているのかもしれない。
 米連邦準備制度理事会(FRB)のパウエル議長は2日、マサチューセッツ州ボストンで講演し、米景気の見通しについて「非常に良い」と述べ、先行きに改めて自信を示した。
 米議会予算局(CBO)は2020年末まで失業率が4%を下回り、個人消費支出(PCE)物価指数の上昇率もFRBが目標とする2%近辺で推移すると予測。パウエル氏はこの予測に触れ「多くの予想によると、好ましい状態が続くようだ」と語った。(中略)
 またパウエル氏は、米景気のリスク要因として、米国外の景気動向や中国などとの貿易紛争を挙げ、注視していく考えを示した。
(出所)The Sankei News, 2018-10-03

進行中の米中貿易戦争による世界貿易減少を考慮に入れれば、景気転換点の予測時点はずっと前の方に修正されるかもしれない。ただ、今回の拡大局面が終了するとすれば、資源制約やインフレ率上昇ではなく、労働市場逼迫による成長率低下、利益率低下、過剰設備の顕在化が招くストック調整というクラシックな類型の景気後退であるとみてきた。とすれば、現在の貿易戦争がマクロ経済に対してどのような効果をもつのか?2019年に入って以降の金利上昇テンポを加速させるのか、減速させるのか?そこがどうもハッキリと見えない。なので、本日の表題となった。

***

日本の株価については、国内景気には独自の底堅さがあるとか、日本の強みがあるとか、これから1980年代末バブル高値にチャレンジするなどと、色々な修飾が語られているが、無責任でありまったく信頼はできない。東京市場はニューヨーク市場のミラー相場であり、かつ東京のほうがずっとボラタイル(Volatile)である。

日本国内の景気、株価を予測するには、アメリカと中国の経済動向をフォローしておけば、本筋を外すことはない。日本経済はもう独立変数ではなく、従属変数である。なので、本日は主に米株式市場に関する見通しについてまとめておいた。 

2018年10月26日金曜日

断想: 月参りで配布される冊子から

毎月一度、下の愚息もお世話になった寺の住職が読経に宅を訪れる。月参りである。一通り読経が終わると、『はちす』という名のパンフレットを畳の上に置いて帰る。時に茶一服分、休んでから帰ることもある。

『はちす』とは何の意味か調べたことはない。遠方にあるもう一か所の寺と共同編集しており、今月号で200号になると書かれてあった。長く続いたものである。

今月のテーマは「お十夜」だった。小生が親から継承している他力本願の宗派からみれば重要だとされている行事である。その主旨は「せめて僅かな善根功徳を為そう」というところにある。というのは、他力思想の根幹には『人は自らの意志で善い行為を行えるわけではない』という人間認識があるからだ。・・・更に敷衍すれば、人は善いことを為そうと考えつつ、その実は悪行を重ねるということもママある。

多くの人々の常識は「慈善なり修行なり、良い(と考えられる)行為を積み重ねていけば、その人の魂(なるものに無関心であれば、本日の話題もまた無意味であるが)は、救済に至る」というものだろう。

他力思想においては『善悪と簡単にいいますが、実は難しいことであり、善悪は人間の都合で変わるのが常である』と、そんな主旨のことが書かれてあるのが今月号の『はちす』だった。いわゆる『小さな親切、おおきなお世話』というもので、自分自身が善いと考えた行為であっても、それが悪いと考える立場にたっている人も世界には多いわけである。「親切の押し売り」が実に嫌なものであるのは誰しも経験することであろう。この辺の儚さは映画化もされた浅田次郎の佳作『柘榴坂の仇討』を思い出すまでもないことだ。

「お十夜」というのは、これだけは善いことであるという確信をもって参加できる場の一つである。そんな認識をしている。


2018年10月24日水曜日

電気版: 欲しがりません、勝つまでは

地元紙・北海道新聞の朝刊に以下の記事が載った:
胆振東部地震後に起きた道内の全域停電(ブラックアウト)を検証する電力広域的運営推進機関の第三者委員会(委員長・横山明彦東大大学院教授)は23日、東京都内で第3回会合を開き、再発防止策を盛り込んだ中間報告をまとめた。
結論は『停電は苫東厚真火力発電所(胆振管内厚真町)の停止や送電線事故など複合的要因で起きたと結論づけ、北海道電力の対応は「不適切だったとは言えない」と指摘。北海道と本州をつなぐ北本連系線増強の是非を検討することも提言した。』というものだった(上記記事から引用)。

『北電の対応に問題なし』ということは「構いなし」。経営責任は追及しないという判断が下されたことになる。

これに対して、道新は『中立性欠く人選 北電擁護に終始 停電検証委』というヘッダーをつけて批判的な評価をしている。

中立性を欠く人選というのは、委員長以下、電力システムに詳しい大学教授が何人か含まれており、それらの人々は(当然ながら)電力会社と近しい関係にあり、故に「中立性を欠く」ということのようだ。(電力の?)専門家から寄せられた一言コメントも「北電に経営責任あり」、「デンマークなどでは風力発電など電源を分散化しており停電は起きていない」等々、再エネ率上昇に消極的であった北電の責任を追及する意見を新聞社としては選んでいる。

常日頃から脱原発論者であることが明らかな(メディアが●●論者であること自体が奇妙なのだが)道新であるから、こうした評価をするのは不思議ではないが、思わず連想してしまったのが、上の表題である。

***

素朴な疑問。

北電の経営責任を追及するなら、なぜ行政責任を追及しないのか?日頃から行政の責任を追及するのに躊躇しない道新にしては、エネルギー政策・エネルギー規制・環境規制を所管している行政全体をチェックする姿勢が甘い。

小生は、今回のブラックアウトの原因の過半は、東日本大震災以降のエネルギー戦略を進める中で起きた戦術的失敗にあるとみている。行政の失敗が7割、北電の怠慢による失敗が3割。こんなところではないかなあと、日ごろの報道やら経験を思い出すと、そうした印象をもっている。だから、半分以上の責任は行政機関にあり、この数年間のエネルギー・環境・国土管理行政を全面的に検証しなくてはならない、と道新が主張しないのは小生には非常に不思議である。

北海道新聞の現況判断は

冬の電力安定供給にめど 北電、火発再稼働で上積み見込む


という見出しに表れている。

データはどうなっている?ヤレヤレ・・・地元紙がこうだからネエ・・・

本当に大丈夫か?新聞社に命の責任はとれるのか?

いま朝ドラ『まんぷく』では、米軍による空襲(≒空襲被害?)が増えてきた昭和19年から20年にさしかかっている。街角には「欲しがりません、勝つまでは」、「進め一億、火の玉だ」のポスターがベタベタと貼られている。

国家的目標もよし、崇高な理念もよし、ただ原理主義者は常に非人間的である。

多分、主観的には良心に忠実なのだろう。が、選択肢が唯一であると信じるドグマに陥った独善主義者は、政府であれ、マスメディアであれ、非人間的であらざるを得ない。必然的に、だ。

そこにはデリカシーがない。柔軟性がない。生命のリスクに配慮をしなくなる。嫌でござんす、な。そんな御仁は社会の発展に寄与できるとは思わない。ただ声が大きいだけの存在に堕する。余計ものである。

こんな風に思われる今朝のことであった。



2018年10月23日火曜日

一言メモ: 「弁証法」なるものが分かった気がした

夢の中でエラく難しいことを考えていた。覚めると、具体的内容のほとんどを忘れてしまったが、「弁証法とはこういうものを言うのか」という妙な納得感だけが頭に残った。

***

自然について、あるいは社会について、ある認識のしかたがある。これを「命題」とか、「仮説」という事が多い。

同じ現象について、二つの異なった認識があるとき、どちらかが正しく、どちらかが間違いであると考えるのが普通である。

もちろん、上のような議論を進めるときは、提示されている二つの仮説(あるいは命題)のどちらかが真であることが明らかである根拠がなければならない。つまり、両方が誤りであるという可能性は排除されていることが必要である。

さて、二つの仮説は互いに矛盾しており、いずれか一方だけが真である(というロジックになる)。こんなとき、弁証法は一方を「テーゼ」、他方を「アンチテーゼ」と呼ぶ。この言い方は小生が大学生の頃に非常に流行していた言葉だ。が、正直なところ、小生にはよくわからなかった。まして、生じている矛盾を「アウフヘーベン」した結果である「ジンテーゼ」とは何が何だかわからないものだった。どちらか一方だけが真であるなら、正しいのはどちらであるかが問題となるのは明らかだ。それは「実験」によって識別するべきだ。小生にとって、弁証法は屁理屈にもならない、クズのような議論に思われたのだ、な。

なので、弁証法を盛んに重宝がるマルクス経済理論を研究する人たちも、とてもリスペクトしようという心境になれない、これは自分の方が頭が悪いのじゃあないか、そんな気になることもママあったのだ。

***

夢の中で考える、というかイメージしたのはこうだ。テーゼ(A)とアンチテーゼ(B)は時間的にか、空間的にか、限定されたレベルで獲得される認識である。より一般的でハイレベルな観点に立てば、AもBもより一般的な概念についての理解に至る具体例に過ぎない。Aが正しいともいえるし、Bが正しいともいえる。AとBのいずれをも包含する真の存在の現れ方として、一見矛盾するように見える二つの認識がある・・・

言葉にするのは中々苦労するが、まあ、上のような納得感が目覚めると残っていたのだ。

こんな風な理解の仕方というのがあるのか・・・。よくは分からないが、若い時分から気になっていた点が「氷解」したような感覚だ。

とはいえ、なぜ今になって・・・最近は考えたこともないのに。まったく人間の頭の働き方というのはよく分からないところがある。

▼ ▼ ▼

であるとすれば、上へ上へという認識がここから出てくる。

正邪善悪もまた一般的存在がこの世界に立ち現れるときの千変万化する姿の一部にすぎず、正しいことは善く、邪なことは悪いという認識のしかたそのものに意味がないというロジックになる。どちらも同一の一般的存在の複数の側面にすぎないからだ。

人間世界では正義と悪が対立しているのではなく、どちらもより次元の高い同一の存在が持つ属性の一部である・・・。このような世界観から「全ては合理的である」という酔っ払い哲学まではほんの一歩である。

ただ経済発展プロセスを弁証法的に理解するというマルクシズムは理解しきれない。「上へ上へ」ではなく、「下へ下へ」と人間の生存の物質的基盤にまで下降すれば、古代的生産様式から封建制的生産様式、更には資本主義的生産様式へと進む、経済発展史が紡ぎだされる。どれも正しいとか誤りという価値判断とは別の、より一般的な力の現れである、と。まあ、こんな議論だったのだろう。今更ながら、そう思い出したりしている。

2018年10月22日月曜日

一言メモ: 「世界の潮流に逆行する」と言うのは批判、それとも諦め?

米政権が性別を生まれつきの性別に限定する、つまりトランスジェンダーという位置づけを行政手続きから排除するという報道がある。

その報道は『少数者の権利を保護する世界の潮流に逆行する』という一言で締めくくられている。

「世界の潮流に逆行する」という表現の真意は何なのだろう?

***

世界の潮流はいつでも正しい、故に今回の米政権の決定は間違っている、と。つまり、これは正邪善悪の話なのか?

あるいは・・・世界の潮流に逆行する決定をアメリカ政府がしようとしている。潮流が変わるかもしれない、しかしアメリカが決定するのなら、それは止めようがなく、仕方のないことだ、と。そんな諦めの気持ちを表明しようとしているのだろうか?

世界の潮流はいつでも正しいと考えるなら、その潮流が変わっても、今度は新しい潮流についていくのが正しいことになる。そんなことを言いたいのだろうか?軍拡と冷戦が新たな時代になれば、その潮流に沿って、今度は自由主義圏の絆を強調するのだろうか?価値観の共有を主張するのだろうか?

アメリカが世界の潮流と逆行することを決めようとしている。世界の潮流は変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。変わってほしいのか、変わらないでいてほしいのか?変わらないでいてほしいと願うなら、米政府の決定は間違っていると正面から非難しないと理屈が通らない。

自分の意見が不明である。

***

『▲▲は世界の潮流に逆行している』という文章表現を、小生、使ったことはない。どんな意味をこめているのだろう?

2018年10月19日金曜日

『〇〇は健康に悪い』という医学的指摘と異論

夏の終わりにJTの電子タバコ「プルームテック」を申し込んだのだがまだ到着しない。実に待ち遠しい。

30歳台終わりまで喫煙していた。大体一日一箱ペースだったので人並みのレベルだ。健康に悪いという理由ではなく、喫煙者に対する世間の視線が厳しくなり、タバコを吸うのも気づまりになったから止めた。小生は酒も嗜むので、夜になってから晩酌をすれば、昼日中のタバコ位はいいかという、まあ逃げ場もあったわけだ。

いまの世の中は、仕事をしていると実にストレスが多い。車で走っていると、車中でタバコを吸っているドライバーをよくみる。ポイ捨ては良くないが、喫煙している姿をみると、「吸いたくもなるよねえ・・・」と声をかけたくなるのが、小生自身の気持ちであり、これは人情であるとも思っている。

電子タバコは、タバコの葉を燃やすわけではない。タールは発生しないので、肺がんを誘発するリスクは無視できるほどに小さい。それでも、医学分野の学会は『電子タバコは有害であり、従来型のタバコと同様、使用禁止とするのが適切である』と、まあ、こんな主旨の見解を発表しているようだ。

そりゃあ、元はタバコでござんすから、悪いっていやあ、悪いでしょう。

そんなところだ。

★ ★ ★

ただ、どうなのだろうなあ・・・とも感じる。

飲酒は健康にどの程度悪いのだろう?そう質問すると、やはり『酒も飲まないにこしたことはない』。これが公式の医学的見解であるそうだ。

1合の清酒を三日に1回(だったかな?)、あるいは一晩呑めば、48時間は時間をあける。そんなルールを目にしたことがある。

故に、電子タバコで喫煙を再開するなどは、もっての外であり、晩酌も止めるべきだというのが、小生の健康維持を考えれば正論になる。

だけど、あれもこれも止めちまったら、楽しみってやつがなくなりまさあネ。タバコは絶対ダメ、酒もよくない。じゃあパチンコでもまた始めますかい・・エッ、ギャンブルはダメ。ゴルフかね?ゴルフコースは土砂災害の原因になってる?そうなのかい? じゃあ、釣りでも・・・環境破壊になるってか??それでなくっても、釣り師には世間の目が厳しい、釣られた魚はPTSDになる? 魚がPTSDになるってのかい?動物虐待になる・・・ちょっと待っておくんなせえ、じゃあ、オイラの心はどうやって明るくしたらようござんす? エッ、自己責任でなんとかしろ?冷たいネエ・・・そこでホッポラかされたら、アッシは行き場がないじゃあござんせんか。エッ、海外旅行に行けばいい?外国はもっと自由だ。まったく、なんかこの国も住みにくくなってきたねえ。

まあ、どこかの町でこんな会話がされてなければ幸いだ。

最近になって、小生は果物アレルギーが出てきて、リンゴもメロンも食べると喉がイガイガしたり、下痢をするようになった。ネットで調べると、食べない方がいいと書いている。スイートは糖分過剰、ステーキは悪玉コレステロールが増える、・・・サバやイワシを食べなさいってネ、まったく余計なお節介というものだ。

小生の母は、子供の頃、サバを食べて蕁麻疹が出たそうだ。小生の祖父は酒もたばこも愛したが、何の体調不良もなく、天寿を全うした。そばで煙を吸っていた祖母は祖父よりも長生きをした。医療専門家は、それでも「酒もタバコも止めてれば、10年は長生きできたでしょう」とは言うだろうが。あまり意味のない言い草ではあるにしても。

★ ★ ★

確かに、健康被害が生じれば寿命が縮むだろう。90歳生きられるところが80歳で死ぬかもしれない。立証は難しかろうが、理屈としてはありうる。死ぬっていうのは単純に考えれば悲しいことだ。

しかし、80歳から90歳まで10年長く伸びたところで、生まれてよかったという人生の喜びの総量が何パーセント増えると予測できるのだろうか? 可能性の問題なのだというが、10年間寿命が延びた末に、交通事故に遭っても、大地震で家が倒壊して仮設住宅で寝たっきりになっても、誰が責任をとってくれるのか?後期高齢者になってから最後に10年間人生が長くなっても、幸福の可能性は半分、不幸の可能性が半分、確率半々、期待値はゼロ。こう考えるのが合理的ではあるまいか。不幸のほうがより鋭く心を刺すのであれば、期待値はマイナスだと計算するべきかもしれない。何しろ最後の10年間に想定外の不幸を経験しても、自分の力で乗り越えるのはもやは難しいだろうからだ。

「人生長ければ長いほど良いことである」というのは仮説としても、価値判断としても信ぴょう性が乏しいと小生は思っている。

なので、前にも投稿したことがあるのだが、この点については小生はヨハン・シュトラウスのワルツ「酒、女、歌(Wein, Weib und Gesang)」が大好きなのであり、兼好法師の『徒然草』にあるように、平均寿命には達しない寿命で何の心配も残すことなく極楽往生できれば、それが最良・最上の人生であると信じているのだ。
命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。そのほど過ぎぬれば、かたちを恥ずる心もなく、人に出で交らはん事を思ひ、夕の陽に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。
(元記事)本ブログ「高齢化社会、その光と影を考える」、2011年7月12日

 シュトラウスの「酒、女、歌」の発想(=作曲)の源となったのは、宗教改革で有名なマルチン・ルターの言葉「酒と女と歌を愛さぬものは、生涯馬鹿で終わる」を基にしてジョセフ・ベルが作った詩であると、Wikipediaには説明がある。

健康は確かに大事だが、「あれは健康に悪いから止めなさい、これも禁止にした方がいいね・・・」という専門家は、バカとは言わないが、野暮くらいにはなるかもしれない。少なくとも、自分はやらないからといって、人の楽しみを片っ端から禁止して得意がるのは、小人物であるのは間違いない。というか、この程度のアドバイスであれば、ビッグデータを活用したIBMのドクター・ワトソンのほうが得意でござんしょう。人工知能の助言くらいにしておいたほうが、世の中波風がたたなくて暮らしやすいのではなかろうか。

2018年10月16日火曜日

覚え書: 辟易するネットメディアの頻出単語

本日もまた井戸端会議風の雑論。

ネットで国内外の動向を知るのは、もうニュースチャネルとしては主流になっている。とはいえ、無数にある投稿記事には執筆者の主観や思い入れが濃厚ににじみ出すぎていて、辟易するものも多い。

客観的にして高精度、淡々とした事実報道は、大手マスメディアの得意とするところだ。これ、やはり、人海戦術が効果的なビジネスということだろう。その長所を忘れているメディア大手が増えているのは残念なことだ。

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『・・・善の勝利』云々という文章表現。類似例として『正しい側が苦境に立つなどという事態は理解不能・・・』とか、『不正義を容認する現代社会』云々とか、いろいろなバリエーションがある。

思うのだが、人間社会もまた自然史の一部であるのは自明の事柄である。アリの世界でも闘争はある。同じ巣穴に生息する集団にも内部では働いている個体もいれば、怠けている個体もいる。役割も分担されているそうだ。いじめもあるというし、ひょっとするとパワハラもあるのかもしれない。しかし、アリの社会でどのような「不正義」があろうと、それはアリという生物特有の事柄であり、人間社会にはどうでもよいことだろう。善、正義、価値といっても、所詮はローカルなものだと小生はホンネでは考えている。全地球的な普遍的な価値が客観的に存在するなどと、素朴に考えている人は、なんと幼稚であるのか、と。

辟易してしまう一例だ。

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本日の道新のコラム記事は医療の世界をとりあげていた。その中に『世の中は男性と女性がほぼ半々だ。医師も半々が普通だろう』という下りがある。

そんな事をいえば、世の中は男性と女性がほぼ半々、だから数学者も男女半々、将棋や碁のプロ棋士も男女半々が自然状態。営業現場はもちろん男女半々、経営企画部も男女半々、建築士・弁護士・公認会計士などの士業も男女半々。そうでないのは性差別を示唆している。警察官・自衛官・消防士もそう・・・というロジックにあいなる。

そう言いたいの??・・・と喫茶店での雑談なら聞き返すところだ。


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前の投稿でも何度か述べたのだが、特定の職業で成功するには才能も必要だが、それ以上に性格がマッチしていることが決め手になる。

それで、小生の経験則なのだが、男性と女性は才能はともかく ― 概略、才能という次元では差異はないと思うが ― 性格には明らかな性差があると確信している。

正邪善悪とは無関係だ。観察事実として男性と女性は傾向として性格に違いがあるという意味だ。

性格の男女差は、幼少期から遊び方の違い、喧嘩をする時の行動パターンの違い、話し方の違い等々、様々な違いとして観察できる。子供を育てた経験のある親なら、男女両方を育てた親であれば猶更のこと、この明らかな事実は認めるのではないかと思う。

才能の分布に違いがなくとも、性格に違いがあれば、志向する職業の分布に性差が出てくるのは、理屈として当たり前のことであると小生は思う。

どんな人生を歩みたいと考えるか?その選択は、どんな才能を持っているかも大事だが、やはり性格にあった生き方を選ぶ。この要素もあるだろう。さらにいえば、その時代時代の社会の通念。当然であると考える常識。他にも生き方を決めるときに影響を与えうる要素は多々あるに違いない。

社会の通念や文化的習慣には改善を必要とするものもあるだろう。しかし、どんな国、時代であっても、男女の行動パターンには違いがずっとあり続けたのではないだろうか?その違いをもたらす要因として、最後に残るのはやはり「性格」としか言いようがないだろう。

男女は同数、才能は平等。だから、どのような職業、分野でも男女は同数であるはずだ。この仮説は、「仮説」というには余りに思慮浅はかな考察でござんしょう。世の中、もっと複雑ですぜ。

2018年10月14日日曜日

メモ: ネットメディア批判への一つの疑問

景気見通しを整理しておきたいと思っているが、メモにしておきたい(しておかないと忘れてしまうので)ことが頭に浮かんで、中々まとめるに至らない。

フェースブックがヘイトスピーチなど悪質なコンテンツ配信の責任を追及されている。最近は、ハッカー被害をうけて千万人単位の個人情報が漏出したというので、甘い管理体制が批判されている。

どうもその世間による集中バッシング、というか非難振りにへそ曲がりの小生はマタマタ疑問を感じ始めたのだ、な。

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確かに悪質なデマや中傷、フェイクニュース、政治的プロパガンダがネットで流通すれば社会にとっては害悪になる。

しかし、だからといって、配信メディア企業に害毒を流している責任があると言い出せば、では非合法取引の利益を預金として受け入れた金融機関は、その預金の源泉が犯罪であることが事後的に判明した時点で、責任を追及され有罪となる可能性があるのか?あるいは、患者を治療したつもりの医者や歯医者は、その患者が非合法取引に従事していることが事後的に明らかになった時点で、犯罪者を幇助したという責任を追及されるのか?

極端なケースを考えれば、犯罪計画を電話で相談したから電話会社に責任があるのか?犯罪者が利用したから鉄道、バス会社、高速道路株式会社に責任があるのか?電気を使ったから電力会社に責任はあるのか?水道が犯罪に利用されるかもしれないから公営企業はモニターしなければならないのか?公園で麻薬が取引されるかもしれないから公園管理者は利用者を取り締まらなければならないか?

まったく・・・キリがない。というか馬鹿々々しい問いかけだ。包丁が凶器に使われたからといって、その包丁のメーカーを責める道理は現代社会ではもはや通用しない ― 包丁なるものが世に普及した初めの事情はわからないが。

SNSは既に社会のインフラである。そのように認知されている。正しく利用するユーザーもいるし、悪質な使い方をするユーザーもいる。社会の現実だから仕方のない話だ。便利な道具も悪用すれば害悪をなすツールとなる。しかし、悪いのは悪用している人間であり、道具が悪いわけではない。

要は、悪質なユーザーが確認された時点で、できるだけ速やかに悪質な行為を止める。これが社会のルールであるわけで、ネット企業はその取り組みに協力しなければならない。

これが基本的なロジックである。

ヘイトスピーチを流通させたこと自体に基づき、フェースブックなどSNS企業を非難するのは、非論理的であり、非難の対象を取り違えている。その種の人は、電話会社、金融機関、交通機関等々、すべての社会インフラを非難しなければならない。トヨタや日産といった自動車企業も、犯罪に関係した角で責任追及、カネを使っているからという理由で日本銀行も非難・・・とまあ、ここまで行かないと理屈が通らないってものでござんす。

2018年10月10日水曜日

内閣支持率を視聴率のように使うメディア企業の阿保らしさ

マスコミ、というか近年の体たらくをみていると、もはや「新聞業界」、「テレビ業界」という言葉を使いたくなるのだが、日常的に販売部数、視聴率の動向に気を使いながら経営しているせいか、報道対象(マスコミにとっては素材というべきか)のコアをなす内閣、この内閣支持率調査の結果を定期的に報道するのが、社員たちにとっては、一種のカタルシス(≒気晴らし)になっている、というのは小生も共感できる。

最近の世論調査によれば安倍改造内閣の支持率も不支持率も40パーセント程度で拮抗しているということだ。

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ただ、どうなのだろう?

回答者は電話番号からランダムに抽出する方式だが、つまりは普通の人たちである。

支持率というのは「総理大臣に対する支持率」ではなく「内閣に対する支持率」である。

普通の人は安倍内閣を構成する大臣のうち何人を知っているのだろう?麻生財務相、河野外相くらいは知っているだろうが、今度の防衛大臣は誰だったか、法務大臣は誰だったか。評価していいのか、悪いのか。個人的に知っているのだろうか?当然のこと、知らないはずである。

そもそも自分の勤務している会社の中ですら、〇〇専務や△△常務を冷静かつ客観的根拠を以て評価できる平社員など、どの程度いるのだろうか?現執行部を評価できる社員などいるのだろうか?噂話や社内世論の何となくの空気、たまに放映される動画などに基づいて、それぞれイメージを作っている人がほぼ全てであろう。大企業なら特にそうだ。官僚だって、総理の顔を近距離からみたことがない人は多い。

自分の勤める会社でもそんな事情ではないのだろうか?

小生、内閣支持率の数字などはまったく評価の基礎を欠いた、その意味では統計データではなく、情報産業の生産物であると受けとるようになった。

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社長はじめ現執行部が社員から支持されるかどうかは、ただただその企業の経営実績が左右する。要するに、給与、賞与、市場シェアが好調なら個人的人柄が分からないままに支持するのが当たり前である。まして株を買う株主にとって、ナニナニ銀行の頭取がどんな思想で、どんな人柄で、どんな経営戦略を持っている人かどうかなどは考えないし、まして支持するかどうか質問されればプッと吹き出すに違いない。『頭取で決まるわけじゃないですからネ』くらいは、素人投資家でもよくご存じだ。

放言をしようが、軽口を言おうが、部下の前でイライラと机をたたいたり、罵声を浴びせようが、会社を成長させれば、その限りにおいて社員は社長に変わってほしいとは思わないはずである。

社長は、平社員の友達ではない。嫌々、つき合う必要はない。普通の人は、自分たちに利益をもたらしてくれれば、反対する必要などはないのだ。

内閣支持率も事情は同じである。

支持率、不支持率が拮抗しているというのは、安倍政権下で利益が拡大している人たちと拡大してはいない人たちが、ほぼ同数程度いるという現実の反映だろう。即ち、「格差拡大」(単なる給与格差拡大ではなく、全年齢層を含めた経済状況格差の拡大という意味である)が、なお進行している。これからも同じ方向が期待される。それが、この結果をもたらしていると考えれば、仮説としては面白いだろう。

ただ、全体のパイの拡大を優先するか、分配平等化を優先するかの議論は、価値観の対立が最も先鋭化する点であり、学問的に解決のつく問題ではない。一つの立場にたった政治というのは、選挙の結果であるとも言えるのだ、な。

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その選挙の結果と情報産業のイメージ作り(=報道傾向)はパラレルではない。各社各社特有のバイアスが混じり、それゆえに内閣支持率は「支持率」というよりは、各社の「宣伝効果インデックス」と理解したほうが一層正しい。内閣支持率を上げたいと考えている新聞社も、反対に内閣支持率を下げたいと考えている新聞社も、実はどちらも新聞業界にはある(はずだ)。テレビ業界にも双方の側の会社がある(はずだ)。これが現実描写としてはより当てはまっていると思う。

言い換えると、内閣支持率調査とは「世論調査」では実はなく、新聞社を経営する執行部が展開するプロモーション戦略の影響力を測定するための自社調査である、と。小生はこう見るようになったのだ。

この認識から以下の段落が導かれる。

『内閣支持率をもっと上げなければいけませんヨネ』と言うのは、政治とドラマを同じようにとった言いぐさであり、考察力不足を伝える、というか(より以上に)不誠実な言葉である。

であるので、毎回毎回の「内閣支持率」の変動を視聴率よろしく伝えるテレビを観ていると、小生、はからずも失笑し、プロデューサーの指示通りに話しているキャスターに哀れを感じてしまうのだ、な。救いがたい阿保にどうしても見えてしまうのだ。自分自身もそう思っているわけではなく、ただ上司のプロデューサーに指示されて話しているだけであろうから、実に気の毒である。



2018年10月9日火曜日

北海道ブラックアウト損害賠償請求の後日談

今朝のニュースによれば、標題の損賠賠償に関してコープさっぽろは北海道電力に対して法的措置はとらないとのこと。

そうか、そうか・・・決行すれば類似の訴訟が殺到していただろうから、止めてよかった。インタビューをうけた道内事業者も『今度のことは地震ですから・・・仕方ないんじゃないかと思っていました。(認メラレタラ、ドウスルカト聞カレ)そうですね・・・認められたら、やっぱり人間ですから、請求は検討はするでしょうね』、マア、こんなところが多数の回答だった。

訴訟は止めたそうだが、今回の道新報道は道内では結構な反響であった。『北海道内のエネルギーの在り方を考えてもらうきっかけにしたかった』というコープさっぽろの希望は実現できたと言えるだろう。

こんな内容をTVで視ながらカミさんと話した:

小生: これは圧力だな・・・ 
カミさん:圧力って、どこの? 
小生: そうさな、道庁あたりじゃない?もし裁判になればサ、今度のブラックアウトは北海道電力だけの責任なのかってサ、証人尋問を入れながら、洗いざらい事実関係を証言させられるだろ?絶対嫌だって人は、道庁、官庁、いっぱいいるやないか。 
カミさん: ホント、性格悪いよねえ・・・そんなんで毎日面白い。 
小生: 人間関係のサ、ドロドロした保身とか、出世欲とかさ、そんなの大好きでさ、ワクワクするんだよね。

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2011年の福一原発事故の事故原因については4通り(3通り?それとも5通り?)の調査が行われて、4通りの結論が書かれていると聞いている。

一つ言えることは、東日本大震災の広い被災地に多数あった原発関連施設の中で大事故を起こしたのは福島第一原発だけであったという事実だ。その福一原発も地震そのものに対しては、設計通り運転が自動停止している。そもそも福一原発は震源地の最近接地点にあったわけではない。あれほどの大規模事故に進んだのは、津波による電源喪失である。緊急用発電機、外部電源と繋がる送電線が被災し、やってきた緊急電源車のプラグが合わなかった ― というよりそれ以前に、自衛隊機で東京の現場に戻ろうとする社長を越権行為のかどで離陸地に戻らせた当時の菅直人内閣の迷走ぶりも要因として見落とせないだろう。

要するに、一見したところやむを得ない天災による大事故であっても、詳しく見ると天災から直接に引き起こされた損害はそれほどのものではなく、大事故に至った要因(近因と遠因)は、人災的なものであり、関係者の判断ミスが主たる原因であるというケースは実は多いのだ、な。

小生は、今日に至るまでの福一原発事故による災害は、人災的側面が半分以上の割合を占めているのではないかと推測しているのだ。

こんな見方を整理すれば、優に400ページ程度の書籍になるだろう。誰かまとめてくれないだろうか・・・(アタシャ、もう年でござんす)。調査委員会の分析は委員会ごとに構成員の違いもあって相当バラバラであり、見方によってどうとでも言えるような部分もあると耳にしている。が、確定された事実は共通認識として知識化したいものである。

東電、経産省、内閣、その他関係者それぞれの責任割合を秤量することが最も大事であるはずなのだが、あまり聞いたことはない。世間は「東電が悪い」の一点張りであり、今回の北海道ブラックアウトもまた「北電が悪い」の一点張りになりそうだ。

ほんとうに毎度、頭の悪いなりゆきで、困ったことだと思う。

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そもそも福島第一という退役予定の原発施設を運転していたのは何故かという疑問に直接回答してくれる人はこれまで見かけたことがない。

背景として、2003年だったか(?)、その福島第一に加えて、新潟柏崎原発など複数の原発施設で発生した微細トラブルの隠蔽、データ改竄が発覚したところから、東京電力が保有する全原発施設の運転が停止させられたことは、まったく関連がなかったわけではないだろう。

それから2007年だったか、新潟県で発生した中越大地震。その時も、柏崎原発は設計通りに停止したが、その地震強度が設計基準を超えていたというので東電は再稼働までにかなり苦労した(と聞いている)。

電力需給のバランスと電力の安定供給を至上命題とする東京電力にとって、運転許可/稼働停止のいずれかで揺れる行政リスクの高まりが、退役予定の福一原発を継続使用する動機の一つになったという見方は、証言をえたわけではないが仮説としては理屈にあっている。

上の段落において、東京電力を北海道電力に置き換えることはできない。なぜなら、北電は泊原発に替わる老朽原発施設をもっていないからだ。原発施設ではなく一極集中体制で電力発送電を行った。そこにはやはりリスクが潜在していた。これが基本ロジックである。

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社会的リスクとは、個々の市民から見ればババ抜きのババのようなものだ。行政機関がリスクの発生源となりながら、そのババを民間経済に押し付ければ、民間の経済主体はババを自分以外の他者にパスしようと考え、損失回避のための合理的行動をとるだろう。

現在は、エネルギー産業においてすら競争圧力にさらされている。企業経営合理化への規律なりディシプリンが働いていないはずはない。大局的にいって、東日本大震災後の北海道電力の行動に非合理性はないと小生はみている ― まあ、重箱の隅をつつくように見れば、何らかのミスは見つかるだろうが。

非合理性があるとすれば、競争にさらされていない行政機関の側に隠れているはずであり、エネルギー分野であればエネルギー関係機関の行政プロセスが全体として妥当であったのか?ここをまず検証するべきだ。

まあ、ロジックはこうなるが、最近の政治結社化したマスコミ大手はあてにはできないねえ・・・やはり信頼するべきオピニオンはネット経由で公開されるだろう。

小生: それにしてもあれだネ、運転を認めるべきでなかった福島第一は運転を認め、そこを津波に襲われて大事故になった。稼働を認めておくべき原発は止めつづけ、今度は供給力不足でブラックアウトを招く。 
カミさん: でも冬でなくて良かったよ・・・もし外が吹雪だったら、水も凍るし、ストーブも止まるし、どうしたらいいんだろうね。 
小生: ホント、大失敗ばかりサ。責任もとれないくせに権限だ、認可だって言い張ってさ、それで何かあると責任はとらずに(今の世では切腹も出来ずとりようがないので)、業者が悪いって開き直るしかないのは、みていても不愉快になるネエ。形式的な安全チェックだけにして、自由化したらいいんじゃないのかなあ・・・自由には責任がともなうから、そのほうが企業も最先端の知識をつかって、管理するはずだよ。なまじお上がシャシャリ出てきて、「我々が審査しましょう」なんて言い出すから、ミスが起きて、それだけではなく無責任社会にもなる。
カミさん: まあ、まあ、カッカしないこと! 

2018年10月8日月曜日

行政は常にシクジルものであると思っておくとよい

地元の道新では既に報道されているが、胆振東部大地震時のブラックアウトで生じた損害の賠償請求をコープさっぽろが北電に請求するということだ。裁判になるだろう。

電力契約では地震等天災による停電に関しては北電は賠償を免責されることになっている(はずだ)。にもかかわらず、賠償請求しているのは(道内全体では発電設備が十分であるにもかかわらず)電力の安定供給を果たすことができなかった点を指摘したものであり、すなわち今回のブラックアウトは<人災>であるというロジックである。

コープさっぽろは、北海道内のエネルギー供給の在り方について問題提起をしたいと説明しているよし。

企業たるもの結果責任を負うべし、というのは成程そのとおりである。が、結果責任を負うべき主体は企業だけではない。官公庁も同じ立場にあるはずだ。

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このところ、非常に不思議、というより義憤を感じるのは、今回のブラックアウトの大きな責任が北海道電力にあるという論調が主流になってきていることである。

発電設備を十分に保有しながら、ブラックアウトの大半の責任が電力会社にあるというのは、非常に一方的な議論であって、この辺のことは最近1か月内に何度か覚え書きを投稿している。

高橋道知事がまず北電の責任に言及して以降、段々と電力会社責任論が強まっており、今回のコープさっぽろの賠償請求もその流れにあるようだが、冷静に考えれば、東日本大震災以降の日本の電力政策、エネルギー政策に誤りはなかったのか?この点を再度検討しなおす契機になるとすれば、大きな第1歩だ。

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その昔、1980年代末から90年代末にかけて、バブルの発生とバブル退治、その後のバブル崩壊と金融パニックが進む中、<官僚組織の無謬神話>は完全に崩壊したはずであった。そして2011年の東日本大震災時で露わになった原子力安全管理体制もまた<エリート達の無責任>を露見させるものだった。

<官僚の誤り>は日常茶飯事である。何度も露呈されるたびに、人の再配置と中央官庁の看板の付け替えが繰り返されてきた。

行政は常にシクジルものなのだ。そう考えると経験には合致するのだ。

今回の北海道全域ブラックアウトは戦後日本では最大規模の停電事故である。これだけの電力事故において最近数年間の電力行政に責任がないはずがない。責任は経済産業省にもあるとみるべきであるし、もう6年近くも全国の原発施設の安全審査を担当してきた原子力規制委員会、それを所管する環境省にもある。当然のこと北海道庁にもあると考えなければ理屈に合わない。とすれば、責任はこの5年間余り行政を総覧してきた安倍内閣にもあるわけだ。そう考えておくのが当然ではないか。

にもかかわらず、日常的には行政は間違いなく行われていると日本人はなお信じたいかのようである。理屈に合致しないことが政府内にないかどうか、モニターすることが本来のマスメディアの仕事であるはずだ。権限を得た<官僚システム>は常に自己を正当化するものである。

しかし、マスメディアはこの件に、つまり電力問題に触れることに非常に臆病であるようにみえる。その理由は、東日本大震災勃発時から全国の原発施設を超法規的措置により停止させ、その後の原発審査体制を構築した民主党政権の直接的責任にも話しが及ぶと考えているからだと憶測されるのだ、な。
あのうるさいマスコミが何で言わはらしませんのんやろか? 
決まっとるがな・・・言うたら自分の身に返ってくるからヤ。あれを止めろ、これを止めろいうて、せっかく動いとった電気をやなあ、台無しにしたんは民主党もそうやけど、マスコミや。藪蛇になるんが怖いんやろ・・・誰か何か言いだすのを待っとるんやろな。
こんな会話が関西地方でもかわされていなければ幸いだ。

上のような架空の会話は空想だ。とはいえ、当たっているかもしれない。もしあたっているなら、マスメディアは党派的であるという非難を通り越して、そもそも<メディア>という呼称にも値しない政治結社であるとすら言いたくなるだろう。

マ、今回のブラックアウトの技術的検証が今月内にもまとまるだろうから、まあまあバランスのとれた方向が出てくるのではないか、と予想している。

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確率的に考えれば、この厳冬期に再びブラックアウトが発生し、多数の凍死者が出る可能性はそれほど高いものではないと予想はするが、仮に現実にそうなった場合、<行政の不作為>による多数の死者発生の責任を問う、今度は本物の行政訴訟が殺到することはまず間違いのないところだ、と。

北海道の電力問題が全国規模の大炎上に拡大するかもしれない。その根っこには、またもや「官僚の無謬性信仰」がある。そこがまた非常に危うい状況になってきたネエ・・・と。そう思っているところだ。

奇しくも今度の冬が過ぎて春がくればやがて夏の参議院選挙がある。

運命はどう出るか?何かの予想と何かの決断をするべきリスクがここにある。

(来年のことを語ると鬼が笑うというが)来年に待ち構えている大きなリスクは「電力と北海道の冬」ばかりではない。が、もう一つの方は長くなるので、また改めて。

2018年10月5日金曜日

雑感:『新潮45』の表現の自由をめぐって

LGBT問題で『新潮45』が右翼論陣に肩入れしすぎて、一部世間の虎の尾を踏んでしまった。猛烈な反発が巻き起こり、遂に廃刊となった。すると、これが契機になって、これは表現の自由の侵害にならないのかというので、またまた論争が起きているというのが現在の世相である。

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「表現の自由」という基本的人権をめぐってはこれまでにも投稿したことがある。たとえばこんなことを書いている。

表現は(基本的に)自由だが、それを聞いて怒る人も怒る自由はあるわけだ。決まっていることは、紛争の決着は腕力によって私的につけるのではなく、裁判で決着させる。公権力以外に力の支配に頼るべからず。これだけである。

元少年Aが出版した『絶歌』が世を騒がせている。

中年以上の人は「よくない」と反応し、若年層は「こうしたことを伝えていくという意味では必要かもしれない」という風に、世代間でかなり違いがあるようだ。

結論的にいえば、小生、元少年Aが非難されるのは当たり前だと思う。
(元記事)2015年6月12日「この数日の雑感―告白本の出版、表現の自由」

表現にせよ、結社にせよ、思想・信条にせよ、日本では憲法によって自由が認められている。 特定の思想や信条が、行政によって、法律によって、禁止されることはない。

しかし、自由であることは、イコールその人が責任を負担するというのがロジックだ。

全て行動というのは、自由意志の上に責任が発生する。誰か他者の命令に服従する立場にあるならば、その人の行動によって生じる結果は命令を下した者が責任を負うべきだ。命令を下した者に意志の自由があるならば。自由意志と責任が表裏一体と考えるところに近代法の基礎がある ― 決して普遍的な考え方ではない。必然と自由、神の意志と人間の意志との関係はキリスト教思想においても深い対立がある(と聞いている)。

何を言っても構わないが、言えば傷つく人がいれば、傷ついた人は怒りを感じるだろう。そのようなことを言うなとも主張するはずである。言うのを止めなければ実力行使にでるかもしれないが、これも言う側は予想しておくべきだ。これらをすべて含めて憲法が定める裁判所で公の判決を仰ぐ。これが現代社会の基本ルールである。

雑誌「新潮45」には、廃刊を選ばせるほどの社会的バッシングが集中したが、おそらく継続をしていれば販売部数は伸びたのではないだろうか?そうすれば、反対勢力は不買運動を展開したであろう。これが営業妨害であると同誌の編集部が判断すれば訴訟を起こして争えばよい。ロジックはこうなる、と。小生はそう思うのだな。

激高したリベラル派による「社会的制裁」は、「ひょっとすると出版の自由、表現の自由を侵害しているのではないか」とも思われるが、別に実力行使をしたわけでもない(と聞いている)。極端な内容の記事に対して、これまた極端な反論が続出しても、これ自体は当たり前である。自らの意志で書き、それを出版したことへの責任は執筆し出版した側にある。

その責任を廃刊という形で負担したのは、「俺なら違うなあ」という形の結末であった。

2018年10月3日水曜日

社会の舵とりはルールや法律が行うのではない?

現代社会に自己増殖している法匪(<=法律専門家)については先日も小生の見方を書いておいた。

最近、TVのニュース、というよりはワイドショーの方であるが、頻繁に『これは法律的にはどうなんでしょうね?』、『規定はどうなっているんでしょう?』という言い方をよく耳にする。

言うまでもなく『法律に違反している以上、一刻も早く摘発して、相応の処罰を課するべきではないか』という主張をしたいわけである。その裏側には『正直者が馬鹿をみる世の中は最低である』という感情があるのだと思われる。

小生は相当のへそ曲がりだ。この点は何度も断っている。だからここに書くのだが、『規定に違反しているとしても、だから何ですか?』、『あっ、法律に違反してますか?』と、いつも反論したくなるのだ、な。

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法律に違反しているからと言って、一人残らず摘発して処罰するような社会が良い社会だとは実は思っていない。

たとえスピード違反が見過ごされ、あおり運転で不快な思いをするにしても、路上で(何に腹を立てたのかわからないが)暴言を浴びせられ、「殺すぞ」とののしられたとしても、だから直ちに相手を警察に引き渡したいという気持ちに駆られたことはない。なぜなら、自分もまた若いころ、殺人的な満員電車の中で足を踏まれたら踏み返したし、もたれかかられて不愉快な思いをすれば故意に肩透かしをして相手を転倒させたりしたことも何度かあったからである。

微罪を凡人の愚かさとして互いに許しあうのは、車のハンドルに遊びがあるようなものだと思っている。

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こんなことは誰でも分かっているのに、法律なる条文に違反している者がいないかどうかを常に監視する人がいるとすれば、その理由は自分が「馬鹿な正直者」になりたくはないからである。だから他人を監視するのだ。

社会で合意できるルールとは、本来は誰にとってもプラスになるからルールになるものだ。社会の同調圧力で守らせなくとも、ルールを守る方が自分も得をすると分かっているから自発的に守るのがルールである。法律も同じである、というか同じでなければ、その法律は守られないだろう。

互いを監視するのは、自分たちが守ろうとしているルールが良いルールであるか無茶なルールであるかに、実は自信がないためである。

社会的には無理な合意であり、法律であると誰もが分かっているときに、違反者に対して社会は過酷になるものだ。違反者にペナルティを求める底には怒りがある。「自分はきちんと守っているのに、お前は抜け駆けをしやがって・・・」という憤慨に非常に近いのではないだろうか。良いルールが浸透した社会では「ルールを知らないなんて、愚かだねえ、教えてやれよ・・・」という憐憫が支配的になるはずだ。

人間を大事にしない社会は法律を大事にする。規定を大事にする。条文を大事にする。しかし、現実の社会は軍隊でも会社でもない。社会にはまず文章で定めた法律がある・・・という考え方そのものに小生は異論をもつのだ、な。
そりゃあ、違うでしょう。一晩あけて明日になったら、突然サ、日本って国が消えていたとしなせえ。それでも我々、多分、生きてまさあ。法律があってアッシ達があるなら、法律が消えたらアッシ達も消える理屈でござんしょう。法律なんてものは、あったほうが世間の役に立つから、作っているだけでござんすヨ。世間の暮らしの役に立つってんなら自然に守られましょうし、邪魔になりゃあ止めちまえばいい。それが民主主義ってもんじゃござんせんか。
まあ、この辺で十分か・・・以上をまとめると、本日の標題のような文句になる。

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戦前期日本にも「贅沢は敵だ」と書かれた標語の「敵」の前に「ス」の字を落書きした人が多数いたそうだ。現代社会であれば、隠れて「ス」の字を入れるのではなく、堂々と名乗って入れられる社会になっていなければならないだろう。

弱い軍隊は軍律だけは厳しく過酷である、というのは古来の戦訓である。作家・永井荷風は『断腸亭日乗』の中で戦時中の臆病で神経質な国民総動員精神なるものを揶揄している。非常に面白くて小生が一番気に入っている個所である。

まあ、総動員でなくとも、<脱***>や<***化>は現代の国民運動であるし、<***時代>などという日本語も総動員精神に類似した使われ方をしている。そうそう、<**主義>という言葉も「おにぎり社会」の日本ではすぐに国民運動と化してしまう。まったく「物いえば、唇寒し」の今日この頃でござんす、というのは案外多数の日本人で共有された思いではないだろうか。堂々と揶揄され、反論されるだけの器の大きさがなければ、これらの言葉はからかわれ、疎んじられ、いずれは近い将来に消えていくだろう、と。人間の小さな脳髄が作り出す「意見」などというものは、現実という歴史の碾き臼でひかれて、永く使えるものだけが生き残っていくものである。そう予測している。

2018年10月2日火曜日

最も難しく人材を得にくい職業とは何だと思う?

司馬遼太郎は、最も得難い人材として「名将」を挙げている。つまりリーダーである。リーダーの役割の重要性については日本人も大変関心があり、歴史小説の多くは著名な人物のリーダーシップを語るものである。特に経営者は好きなようだ。

が、いくら座右の書を再読三読しても凡人が名将になることは稀である。リーダーになるには、多分にその人の才能、というより性格が関係する。これも周知の事実になっているはずなのだが、最近はパワハラ云々もあって、統率力や指導力の形について混迷状態に陥っているのが日本社会であるような気がする。

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本庶佑博士がノーベル医学生理学賞を受賞した。「オプジーボ」と聞いて納得した。母が肺がんで亡くなったのは1990年だったから、とうてい間に合わなかったが、医学の進歩には驚異を感じるばかりだ。

研究者として成功するには、才能も必要だが、性格がマッチしていなければならないというのも、よく聞く言葉である。

小生は、営業マンだけは向いていない、と。若いころからずっとそう感じていた。何より酒席の立ち回り、持ちまわしが極端に下手だ。酒は好きだが、献酬が、というよりその雰囲気が嫌いなのだ、な。立席パーティも苦手だ。人の波を泳ぐようにして人から人へと談笑に興じるのが非常に苦手だ。まったく・・・これでは接待も無理である。故に、営業はできない。

研究は好きだった。一つの疑問に答えを出すために1年、2年を費やするのは何ともなかった。たとえ一人でやっても孤独などは感じなかった。ある程度の結果を出せたのはある程度の才能が、というより性格が向いていたのだろうし、それ以上の結果に到達できなかったのは地頭が悪かったからだ。

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大学という場で研究をやっていると、同時に教育にも携わる必要がある。

その教育が苦手だった。学生と心を開いてコミュニケーションをとることに面白みが感じられなかったのだ。

研究仲間と会話をすることには非常な面白みを感じるのに、レベルのまだ幼い若い人たちと話をするのに面倒くささを感じたのは、若い人たちへの愛情に欠けていたからだと思っている。

研究につかれると、家に帰ってカミさんや子供たちと一緒に過ごすことを何よりも愛した。

つまり家族以外の第三者に対して、愛情を感じられなかった、連絡や調整はあっても、深い交流をしようという気にならない。とすれば、学生を教育し、育てることにはならないのは当たり前だ。

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長期間、大学という場で過ごしていると、大体の傾向が分かってくる。学生を愛し、学生の成長に強い喜びを感じ、うるさがられても若い人の面倒を見る人は少数である。

「教師」に適している性格を持っている人は大学では少数である。おそらく(これは想像だが)まずは学力で選抜される小中学校の教師もまた「教える」ことに本当に性格がマッチしている人は案外少ないのではないだろうか?

人に信頼してもらって、できないことが出来るようになるまで教え、迷っているときには何時間でもつきあい、人が成長する姿が自分のことであるように嬉しいというのは、才能の仕事ではなく、形はどうあれ愛情のなせることである。そんな愛情を持てるのは、そういう性格であるからだ、としか言いようがない。

その愛情は、おそらく博愛ではない。気に入った弟子を愛するのである。であっても良い教師というのは得難い存在には違いない。たとえ疎んじられた少数の弟子からは批判的に話されるとしても、多数の人を育てるというのはそれだけで素晴らしいものだ。

それほどまで良い先生というのは得難い。「学校」という場においてすら、良い先生は少ないものである。

2018年9月30日日曜日

メモ: 顧客の代替わりが進まない背景の一つか?

今朝カミさんがチラシをみながら話しかけた:

カミさん: ランチブッフェだけどね、65歳以上のシニアは1700円のところをね、その日は1500円に割り引いてくれるんだって・・・

小生: へえ~っ、値下げすればシニアは行くって思っているのかねえ?

カミさん: そうなんだろうね

小生: だけど、シニアって大体は夫婦二人、かなりの人は一人だよ。それとも息子家族がやってきて孫も一緒に一族郎党そろって行くってか?

カミさん: Kさんはそれが多いみたい。でもランチブッフェは考えにくいわねえ、自分たちだけならサ。一人でも行かないだろうし。年をとると、あまり食べないからブッフェには足が向かないわねえ・・・

小生: 思うんだけどさ、ランチブッフェに客を呼ぶなら、若い人、若夫婦やカップル、家族に割引してサ、店のファンを増やすのが正解じゃないのか?シルバー世代にファンをつくっても、その内にいなくなるぜ。

カミさん: そんなに急にはいなくならないヨ。

小生: 老舗デパートもさ、カネをもっているシルバー世代を大事にするのもいいけどね、ヤンガー割引をして店に来てもらう努力をしないと、顧客の代替わりが進まないさ。でも、若い世代に割り引くなんて、あまり聞いたことがないねえ。思いつかないのかな。

カミさん: 若い人はもうデパートからは心が離れてるよ。

小生: まあね。親の世代が馴染みの店にいって、自分たちに買ってくれる場所くらいに思ってるんだろうけどさ。そのためのシルバー割引なんて商売としては本筋を外してるんじゃないかネエ・・・割引してなくとも、買う人は買うよ。

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青少年には学割、シルバー世代にはシニア割引。勤労世代はコア顧客。理屈では分かるが、学費、家賃・ローン返済に汲々しているのがその勤労世代だ。時には割り引いてあげれば効果あると思うがねえ・・・そう感じることしきり。

割引を有難がるシルバー世代は、最初からホテルのランチブッフェには行かないのではないか、と。そうも感じるのだ、な。来店客数が増えるとすれば生活に余裕はあるが「バーゲンハンター」で安値を待っている人たちばかりではないか。来る気のない人はそもそも来ないだろう。有難いのはロイヤリティの高い本当のファンだ。とすれば、攻撃的価格戦略を講じてみても単なる減収にしかならない、というのが小生の見込みだ。

顧客の代替わりが最大の課題であることはずっと一貫している。

2018年9月28日金曜日

メモ: 器の小さいこと、旧軍も現・自衛隊も同質?

先日、投稿した軍艦旗の話し:

こんな風に決着したようである。
韓国側は参加国に対し、海上パレード中は艦艇に自国国旗と開催国である韓国国旗だけを掲げるよう要請。韓国国内では旭日旗への批判的な声が強く、掲揚自粛を間接的に呼び掛けた形だが、日本側は拒否する構えだ。
出所:Livedoor News, 2018-9-28
元記事: 産経新聞、2018年9月28日 13時33分

旧軍と海上自衛隊は、行動も異ならなければならないし、国におけるポジションにも明確な違いがなければならない。

「筋が通らぬ!」というのはその通りだが、国際政治に国内法の事情を押し付けてばかりいても、相手は「それはそちらの事情でしょ、こちらにはこちらの事情がある。歩み寄りはしてくれないんですね」と言うだろう。

日本は超法規的措置を得意とし、複数の前例がある。要するに、今回の場合はヤル気がないのだろう。

何か戦略的目的があってのコミットメントなのだろうか?

2018年9月26日水曜日

「貴乃花劇場」を演出する法匪たち?

退職届ではなく引退届では受理できない・・・というのは規則上そうなっているからだ。弟子の受け入れ先の千賀ノ浦親方の署名捺印がないので、これも保留だと言うのもそういう規則になっているからだ。

規則の細目と照合して、有効なアクションを選んでいくのは、法律専門家の日常そのものである。しかし、人間関係の現実は、必ずしも規則を連想しながら機能しているわけではない。世間に迷惑をかけないならご自由に、というのは現代社会の最もありがたいところだ。

文章にしておくのは、現場の当事者では解決不能となり、暴力を含めた実力勝負になる事態を避けるためであって、その意味において法律や規則は社会のツールなのである。目的ではない。ツールである。法律や規則自体に価値があるわけではない、と。

小生は古い慣習が好みなので、成文法は嫌いだというのが本音である。

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『引退届では受理できない』というなら、要するに慰留をすればいい。

弟子の受け入れ先の署名捺印がないなら、『相手先は了承しているのか?了承も得られていないのに、いきなり弟子もろとも部屋を放り出すっていうのは無責任だぞ』と、ストレートに言えばいい。

日常発生しうる中身のある現実的問題は、ホンネに沿った話し合い(=昔ながらの所謂寄り合い)でほとんど全て解決可能である。要するに、妥協だ。足して2で割ればよいのである。それで丸くおさめてやってきたことは日本社会には多い。日本の社会システムを古層として規定している慣行を拙速にリセットして、法律的論理だけでやって行こうとすると、日本社会は「深層崩壊」をひきおこす可能性がある。そう思うのだ、な。

相撲協会も中央官庁が一枚噛んだ公益法人に衣替えをしたので、慣習よりも規定というベクトルが働いているのだろう。しかし、伝統と慣習とは表裏一体である。慣習を解体しながら、伝統を維持することはほとんど不可能であると小生は思っている。

【加筆:2018/9/30】例えば、関取の髪型である大銀杏(≒丁髷)。まわしをつける取り組み時の風体と挙措動作。横綱の土俵入り。横綱引退時の断髪式。これらは全て伝統と言われるが、要するに慣習である。力士の生き方を規定する慣習を解体しながら、その外観である土俵入りや大銀杏だけは伝統という名で残すことが本当に可能だろうか?もしそうなら、力士はチンドン屋や芸人とどこが違うだろう・・・と、小生にはそう思われるのだな。大事なのはエスプリ(=精神、心意気)の継承であって、行動パターンのコピーではない。・・・

大体、古い慣行が容認できないなら、謝罪する際の土下座などは日本古来の無意味な悪習だ。土下座を要求する行為は法的に禁止するのがロジックだろう。

話しが脱線してしまった・・・。ともかく話題を戻す。

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公益法人を運営するにはコンプライアンスが求められる。他方で、相撲という伝統興行は成文規定で細目を規定しておこうと考える西洋文化が日本に根付く以前から続いてきた。

あらゆる局面で、二つの文化が衝突している印象である。

歌舞伎に男女雇用均等原則を当てはめれば歌舞伎という伝統芸術は変質する。茶道の組織運営に民主的かつ透明性ある組織運営を求めれば裏千家や表千家といった家元の伝統は途絶えるだろう。能も同じ、狂言も同じ、華道も同じ、日本舞踊も同じだ。どれも「和の文化の粋」として今やカネの生る木ではないか。尊重するのが上策だ。

規則の条文を操作する「法匪」のごとく外部弁護士が組織運営で重要な役割を果たすという現状はもう限界ではないか。

純粋スポーツ路線からは方向転換して、継承されてきたありのままの現実で相撲という闘技をファンにアピールすることを第一目的とするのが望ましい戦略だと思われる。

大体、引退届なんてえものを代理人(弁護士?)に頼んで届けてもらうなんて、土台、おかしいヨ。で、本人は行かずに瓦版に口上を述べるってんだから、男じゃねえ。サッパリしねえよ。気に入らないネエ。そう思いませんかい?エッ、あなたそう思わない?本人が提出する義務があるとは規則に定められていない?まったく・・・だから、嫌だってんだヨ!よくそれで相撲が好きになれたねえ・・・エッ、普段はみない?あんな古いもの、みるわけない?なくなっちまっても構わねえと思ってる御仁が、相撲のあれがどうの、これがどうのってサ、言えた義理じゃあないんじゃござんせんか?関心ないなら、口つぐんでサ、別に世間様に迷惑かけてるわけじゃなし、何も言わずに見てりゃあ、それでいいんじゃあござんせんか?エッ、口は出したい、自分は民主主義者だ・・・、ホントにまあ困った人だネエ、あなたも。
ま、こんな心境である、な。

伝統芸能は、行う人と楽しむ人とが直接にかかわって、その在り方を決めていけばそれでいい話である、本来は。楽しんでいる人たちを外野から邪魔する権利などは誰にもないわけだ。別に日本経済とも、国の未来とも関係のない話である。分裂するのもよし、まとまるもよし、である。

【加筆:2018/9/30】まあ、平々凡々たる力士もいれば、傑出した名力士がいるのも事実だ。ボンクラ力士の俗っぽさが偉大な名力士のスピリットを押しつぶしているなら、極めて残念であるのも事実である。

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『新聞を読んだのなら分かるようにキチンと署名捺印しておいてヨネ!』、間違って朝刊をカミさんに廃棄されたのに腹を立てて文句を言ったら、こんな風にやり返された。これもまた現代日本社会で法匪がのさばる現状を象徴する出来事か・・・(もちろん嘘でござる)。


2018年9月25日火曜日

予想: エネルギー政策の方向転換 or 迷走

産経新聞辺りは早くも「脱原発・再エネ依存は国を危うくする」という論陣を張ってきた。社内で統一見解が出たのだろう。今後、年単位で日本のエネルギー政策は(再び)迷走することになるだろう。

再エネ重視戦略が、農地転用、森林面積減少と(印象的に)関連付けられ、ひいては土砂災害多発の原因の一つだなどと指弾されることがないよう祈るのみだ。

〇〇〇予想〇〇〇

脱原発への歩みは、今回の北海道ブラックアウト発生で少なく見積もって20年は遅れる。


福一事故の後遺症が残る中、確かに脱原発は望ましい理想には違いない。しかし、いかなる理想も事実には勝てない。沈黙を余儀なくされる ― まあ、狂信者は少なからずいるだろうが。

仮に脱原発の方向を是とするとしても、東日本大震災後の政策転換は拙速にすぎた。戦略的には正しいにせよ、この数年間とってきた戦術は間違いであった、と。原子力規制委員会の手順・進行方式をも含めて。こう考える。

おそらくこんな風な議論が巻き起こってくるだろう。小生は、脱原発という方向には究極的には賛同するものの、「脱原発原理主義」は愚かな夢想だとみている。

ドイツに一途に憧れるのは、1930年代半ば以降にドイツに心酔して国を誤った戦前期の革新官僚、軍官僚を思い起こさせられて不快である。

戦略的変更を完了するには入念な準備が必要である。拙速は全体的崩壊を招く可能性がある。故に、政治は科学ではなくマネジメント、もっとよく言えばアートだと言われるのだ。

理論は事実によって修正を迫られる。珍しいことではない。

2018年9月24日月曜日

大地震のあと「諸般の事情あり」・・・となるのか

昨日は月参りに来る住職が住いしている寺で彼岸法要があった。法要が終わると境内で地蔵菩薩の例大祭があるのが習慣なのだが、「諸般の事情」で昨日は取りやめになった。

「諸般の事情」という言い方は、政界・官界・財界で日常的によく使う言い回しだ。

東日本大震災で全国の原発が全て政治的に停止要請され稼働を止めた中、北海道では特に電力需給のバランスが綱渡りであったので、道議会でも「ブラックアウトが発生するリスクがあるのではないか?」という質問があったと報道されている。要するに『大丈夫か?』という確認である。それに対して、道庁は(言葉通りではないが)『まあ、大丈夫である』と答弁してきたよし。

ところが現実にブラックアウトが発生してしまい、道民の生活の安定に直接的責任を有している北海道庁は偽り、といっては気の毒か、甘い見通しをもってきた姿勢が露見してしまった。

この世界に抵抗できないものがある。一つは論理であり、一つは事実である。どんな高尚な理想も、固い信念も、論理で負ければ誤りと判定され、事実によって否定されれば間違いであったことになる。

そんな場合、上層部の方々はよく「諸般の事情により方針を変更いたします」と言うものだ。

この何日かの地元紙、TV報道の言い方・論調は、滑稽なばかりに口ごもり調子であり、逃げの姿勢が露わになっている。具体的なエグザンプルを引用するのも馬鹿々々しいと感じるほどに、情けない調子になってきている。

「諸般の事情」というのは"because of various reasons"と英訳されるのだろうか。英語はロジカルだから、こう言うと"what are the reasons?"と聞かれそうだ。

「諸般の事情あり」とはヤッパリ英語にはなりにくい表現だ。論理的にツッコムと「お察し下され」といって平身低頭するといった情景が、この先待っているのだろうか・・・。

まわる~まわる~よ、時代はまわる~
喜び悲しみくり~かえし~

いま経済産業省の資源エネルギー庁に在籍している官僚達は、にわかに訪れた修羅場が30年に一度の出世の好機であることを悟り、部内は湧きたっているものと想像する。どこまで遠方まで見えるか、その人の力量にもよるが、小生も『もっと若けりゃ参陣するものを・・無念じゃ』と思うことしきり。

道庁の方は・・・どこか意気消沈しているようにみえる。

まあ、時に勝敗あり、人事をつくして天命をまつ、である。何事も。